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Title 戰國時代の府・庫について Author(s) 佐原, 康夫 Citation 東洋史研究 (1984), 43(1): 31-59 Issue Date 1984-06-30 URL https://doi.org/10.14989/153938 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title 戰國時代の府・庫について

Author(s) 佐原, 康夫

Citation 東洋史研究 (1984), 43(1): 31-59

Issue Date 1984-06-30

URL https://doi.org/10.14989/153938

Right

Type Journal Article

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Kyoto University

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戦闘時代の府・庫について

‘に

第一章府系統の機構

第二章庫系統の機構

第三章府・庫の歴史的位置

- 31ー

』主

中園古代史において、強大な秦漢統一二帝園がどのように形成されたのか、という問題は常に大きな研究課題であり繍け

ている。特に秦漢の様々な制度の構造と襲還については、多くのに貰誼的研究が積み重ねられてきた。そして多くの場合、

秦漢の制度の淵源が戦闘時代に湖ることが考えられている。停統的な評債において観れきった悪しき時代としかみなされ

なかっ・た戦園時代は、現在では古代専制帝閣の形成過程として重視されているのである。

しかしこの時代は『漢書』の主うな陸系的歴史記述を持たないため、

秦漢の制度を糊って調べようとしても、

多くの場

合は蕪雑な史料の中に立ち消えてしまう、という研究上の困難を伴っている。また、戦園時代の列園の官制などを復元す

31

る試みは明の董説『七園考』以来様々な業績があるが、それらは文献中に偶然残された零細な資料を羅列するのみに終

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り、官制の鐙系を復元するには程遠い。

これを補うのが考古率的護掘による出土文字資料である。すでに統一以前の秦については雲夢秦簡の護見によ

って新た

(1)

な事賓が次々に明らかになりつつあるし、他の固についても金文資料などを利用した研究がなされつつある。

本稿では近年充質してきた出土文字資料とその研究成果を手がかりに、

主として戟園時代の各園の財庫として府・

庫を

とりあげ、各園の制度を比較しながらその制度的な沿革と歴史的意義について初歩的な分析を行うことを目的とする。

また「府」は役所

一般の意味としても用いられる

が、原義においては「府は賓臓貨賄の慮を謂うなり。

庫は車馬兵甲の慮を調うなり。」(『薩記』曲躍下、郷注〉と言われるよ

うに、府は財貨の臓を、庫は武器庫をそれぞれ指している。本稿では金文などに見られる府や庫をこの原義に印した観粘

から整理し、財庫のシステムを通じて戦闘時代の財政機構の特色を窺う方法をとる。また各種の財庫の職掌等につ

いては

なるべく同時代資料から鮪納して考察し、『漢書』百官公卿表など漢代の記述を自明の前提とは見倣さない。このような

さて、「府庫」はしばしば二字で熟して財庫の綿稽として用いられ、

史料は前漢一代を通じて設展した官制を完成された形態において記述しており、安易に用いれば却って時代による饗化を

- 32ー

見失うことになるからである。なお、本文中に引用する金文は出土品を優先し、停世品は補助的に用いるにとどめる。四梓

字は印刷上の制約により、特に問題のない限り遁行の字瞳をもってし、必要な場合にはその根嬢を註記する。

第一一章一

府系統の機構

しばしばその器を製造あるいは管理した官名が刻されている。その中に

「貿」

なる官名があり、研究者の注目を集めてきた。これは言うまでもなく「府」の繁文であり、

各固にその例が見られる。

戦園時代の鼎、鍾など青銅製躍器には、

まず、各圏の「府」のうち研究の進んでいる楚について整理してみよう。

楚の最後の都蕎春の置かれた安徽省蕎豚周遊

からは数多くの有銘青銅躍器が護見され、「大府」なる官名を刻したものが見られる。数例をあげれば、

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(1)

秦客王子宵之歳、大腐篤王倍晋錯。集匝

ハ錦、

白欝豚朱家集出土、文物一九八Of八)

(2)

大虞之器

(銅牛、同F

文物一九五九|四〉

(量、鳳牽勝出土、文物一九七八l五)

(

2)

のように、楚の大府は青銅躍器を管理するとともに、附属する工房で青銅薩器を製造していたことがわかる。さらに、

(3)

部大演之口口

九五七年に護見された「郭君啓節」にも大府が登場じ、楚の封君である郡君啓の「府」に劃して車

・舶それぞれに各地の

(3)

闘の菟税通行誼として節を交付したことが記銀されている。このことから見て、楚の大府は関市の税の枚取にも闘興して

(

4

)

いたことが窺える。つまり、楚の大府は楚の宮廷で王め起居に供される箸修的青銅器を製造、管理するとともに関税など

を牧めた財庫だったと考えられる。

このような「府」は他の諸園にも見出せるだろうか。

一九七九年、内蒙古準格爾旗西溝昨で護見された戦園晩期の旬奴墓から、「少腐、二雨十四朱」「口工、二雨十ニ朱」な

- 33ー

どの刻銘を伴った銀製の虎頭が出土した

m文物一九八O|七三字瞳は秦蒙と共通するものを持っているが、「府」を繁文で

表す貼で秦の例と異っている。報告者が指摘するように、この銀器は三菅の最北端に位置した越で作られたと考えられ

る。したがってこの銘文から、越に「少府」があり、貴金属製馬具を製造する工房を具えていたことがわかる。

一九七四年から七八年にかけて護掘された河北卒山豚の中山圏墓葬、

る「兆域園」が出土した(文物一九七九|一〉。青銅板に金銀で記された文字の中に中山王の詔とみられる文があり、

また、

一一旗墓主室からは、墓域の卒面設計固であ

その

末尾にはこの設計固について「其の一は従い、其の一一は旗に醸せよ。」と記されていた。「兆域園」は二つ作られ、

王陵の造営と開連を持つような王の財庫が

「府」

一つは

墓に副葬され、

一つは「腐」に納められたのである。中山園において、

.33

と呼ばれたことがわかる。また陳西鳳朔鯨高荘で護掘された秦墓から、明らかに中山園で作られた鼎がー出土し、

銘文の末

5〉

尾に「骨演儲」と記されていたハ文物一九人Ol九)。「兆域圃」に見える

「府」は

「侍府」であったかもしれない。

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中山園と郷接する燕の遺物の中に、河北易豚の燕の下都遣社から出土した数多くの青銅器がある。その中には象の形を

模した傘があり、「右腐罪」と刻されていたハ『河北省出土文物選集』固二ニ三、以後『河北』と略稀〉。「右府予」がこの器を作

った責任者なのか、それとも完成した器の管理責任者を示すのかは不明である。しかしこのような装飾的な青銅酒器を製

造あるいは管理した「右府」は、宮廷で王に供される器物の納められた財庫であったと考えられる。

(

6

)

この他、文献によれば韓の

「少府」は強力な湾を作ることで有名だ

ったと言われている。精巧な武器を作り得る工房を

具えた少府が韓にも存在したことを示している。

以上紹介した各園の府は、

いずれも宮廷で王の起居に供される財賓等を管理する財庫であり、多くは青銅器などを作る

工房をも具えていたことがわかる。さらに、韓、越と並ぶ三菅の一つ、

貌では他園に比べて豊富な資料が得られる。

一九六六年、戚陽搭見披で一基の戟園墓が設見され、

二十数件の青銅器が出土した

(文物

一九七五|六〉。

このうち鍾に

- 34ー

は次のような銘文があった。

ω安巴下官鍾十年九月、腐沓夫栽、冶吏雀敏之。大刷所斗、

この器は戦園前期親の園都であった安邑の「下官」所誠、

十年(何王かは不明〉九月に府の立国夫の栽なる官吏の責任の下で

(7)

一盆少牢盆。

冶吏の餐なる工人が製造したものである。こ

の銘文は、所臓者あるいは製造命令者、紀年、製造責任者、直接製造者、容

量、重量の六項目を構成要素としており、戦園競の青銅瞳器刻銘の典型的なパターンを示している。

さて、この銘文に表れた「府」、

「下官」といった官暑はどのようなものだったのか。貌の金文をもう少し見てみよう。

(5) 停世の金文

(

8

)

梁上官、容三分。宜信家子、容三分。

(鼎、『三代士ロ金文存』

三|二四。以下『三代』

と略稽)

(6)

朝歌下官鍾

(『中日欧美襖紐所見所拓所募金文隆編』

六三O〉

とあり、「下官」と劃をなす官署として「上官」のあ

ったことがわかる。

ωの「宜信家子」という官名については後述す

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る。また、

(司

廿八年、卒安邦口客財。四分輔、六盆字新之家。

(蓋)

八Ol九〉

ハ9〉

というように、卒安君所臓の鼎が単文の

「上官家子」に移管された例が見られる。同様の例としては、

信安君私官、覗事敬、冶舎。容字。

十二年、得二盆六析。下官。容字。

(8)

(刊)

(鼎、険西武功県出土〉

がある。この場合はやはり貌の封君である信安君の「私官」で製造された鼎が「下官」に移管されている。

製、造責任者で

ある「親事」は、恐らく前出の「畜夫」や「家子」と同様の職掌を持った官名であろう。

これらの諸例から、貌には各地に「上官」「下官」が置かれ、「家子」なる属官がいたこと、組腕の封君

のもとには

「私

- 35-

官」という、

恐らく「上官」などと同様の職掌を持つ官が置かれ、「規事」なる属官がいたこと、またこれらの官には青

銅器を作る工房があったことがわかる。

これら「某官」と名のる官名は東周や秦にも克られるが、朱徳田川、護錫圭雨氏は、「某官」はすべて宮廷の食官、すなわ

(日)

ち君主の膳食を掌る官であり、

漢代にも例が少なくないとしている。さらに附け加えれば、前引の例で「上官」の属官と

して見えた「家子」について、『左俸』関公二年に

大子は家把、社理の築盛を奉じて以って朝夕に君の膳を腕る者なり。放に家子と日う。

と記されている。『左惇』では君主の太子を指して「家子」と呼んでいるが、これが官名として用いられれば、

「朝夕に君

の膳を親る」ことを職掌としたと考えても不自然ではない。したがって貌における「上官」や

「下官」は君主の食生活に

供される青銅器などを管理する官であっ

たと考えられる。

35

前引

ωの銘文で製造責任者は「府」の畜夫であった。この

「府」は恐らく「安邑下官」に属する財庫であり、「冶吏」

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が置かれたことから明らかなように青銅器製造の工房を伴っていた。これらのことから貌の

「上官」「下官」

などは先に

紹介した各闘の府と似通った職掌を持っていたと考えられよう。以上から、親に濁自な官名である上官、下官など、君主

の宮廷生活に供する財貨を管理する官署を総稿して「府系統の機構」と名づけよう。

さらに貌における府系統の機構の特色として是非あげておかなければならないことがある。それは、上官、下官が地方

の豚令の下にも置かれていたことである。俸世の鼎銘に

(9)

十三年、梁陰令口、上宮家子疾、冶口針。容宇斗。

〈『三代』一一一l四O〉

とあり、上官家子の上紐として梁陰豚令の名が記されている。また、

U1) UO)

品川年、摩令擁、現事鳳、冶巡針。容四分。

二年、

寧家子尋、冶諸魚財。四分蒲。

(鼎、『商周金文録遺』五一一一一。以下

『録遺』)

(鼎、『三代』

三|二四〉

- 36ー

のような例も見られる。これらは上官、下官の官名を記さないが、

家子、規事という官名からみて上官、下官が置かれた

ことが推定できる。このような節略した記載法から考えれば、川則的

ωに見られる「朝歌下官」「車父上官」「下官」

も本来

つまり、上官、下官といった府系統の機構は、首都におけると同様の名稿で地方の

その地の腕令に属した可能性がある。

豚レベルにも置かれていたのである。

以上からこれらの財庫は君主の膳食官に由来してはいるが、それにとどまらない側面を持っていたことが推測できる。

最後に秦の事例を見てみよう。

秦の中央政府に王の私的財政を扱う少府が置かれていたことは、すでに『漢書』百官公卿表の記事からよく知られてい

る。同時代資料としては「少府」銘をもった銀器が臨濫上焦村の始皇陵陪葬墓から出土し(考古典文物一九八Ol一一〉、

河北

(ロ

)

易豚燕下都社からは「少府、二年作」なる刻銘をもった之が出土している。貴金属装飾品を製造あるいは管理している貼

(日)

また兵器の製造にも闘興している貼で韓の少府と通ずる面を持っていたと言えるだろう。

で前述の越の少府と、

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〈日出〉

また、近年出土した雲夢秦備には、大内、少内という財庫官が見える。これらについて工藤元男氏らの研究を参考に整

理してみよう。

まず大内については、出土した秦律の中の金布律に二篠の言及があり、首都戚陽には「大内」なる財庫があり、腰棄慮

(

(

)

分となった官有の器物の管理や官給の衣服の管理にあたっでいたことがわかる。またその手繍-上、大内の業務は戚陽に遠

い各鯨においても行われており、豚単位にもこのような財庫の置かれていたことが推測できる。

鯨における財庫の管理者としては

「少内」があげられる。雲夢秦簡によれば、少内は官吏からの排償金の取りたてを行

(

(

)

ーい、また民聞から奴隷を買上げる際の金銭支出を措首しているから、豚などの金銭出納責任者であったと思われる。そし

(凶)

て鯨の少内は「府」とも呼ばれたらしい。秦律の「内史雑」には

敢えて火を以て減府、書府の中に入るなかれ。吏すでに械に牧むれば、官立国夫及び吏は夜に更ども官に行け。火なけ

れば乃ち門戸を閉じ、令史をして其の廷の府を循らしめよ。もし新たに吏の舎を魚れば、戚府、書府に依るなかれ。

〈『報告』二六四・五、『園版』秦律十人種一

九七・入、『緯文』一

O九頁)

- 37ー

ゃくしよ

と規定されている。各級の「廷」には財庫である「顕府」と文書庫である「書府」が置かれ、

防火などに高全を期してい

(

)

たことがわかる。豚の少内が管理していたのはこのような財庫であろう。さらに秦律には「臓律」なる篇名が含まれてお

り、雲夢秦簡全鐙の特色として官有の器物管理が非常に重視されている。

以上、戦園時代各園の財庫たる「府」について、同時代資料を紹介しつつ論じてきたが、そこから窺える各園の制度に

ついて衡問?にまとめておこう。

燕、中山、超一、親、韓、

秦、楚の各園にはいずれも財庫としての「府」もしくは府系統の機構が認められる。その中で

各園共通に、

王の宮廷の財庫を掌っ

たと思われる府があり、楚では「大府」、越、韓、秦では「少府」と呼ばれた。

37

らの財庫は王の宮廷生活に供される財貨を管理するだけでなく、

附属する工房で青銅躍器や貴金属器の製造をも行ってい

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る例が多い。さらに獲の大府は関税の枚取にも閲興しており、皐に財庫たるのみならず財政機構としても機能している。

(幻)

このような宮廷の府は、あるいは漢代、一一帝室財政を掌った少府の先縦として位置づけられるかもしれない。

他方、

親では上官、下官とい

った君主の膳食官に由来すると思われる府があったが、これらは首都の他、地方の鯨令の

下にも置かれており、膳食官の職掌を超えた役割を果していたと考えられる。

秦においては戚陽の財庫官として大内が、鯨では少内が置かれ、官有の財貨を管理していた。その財庫は戴府などと呼

ばれ、非常に巌密に管理されていたことが、

雲夢秦簡から明らかである。

以上を踏まえて、

次に府とは性格を異にする庫の機構をみてみよう。

第二一章一

庫系統の機構

戦園時代の青銅製兵器には、

- 38ー

しばしばその器を製造した官吏や工人の名が刻され、統轄する機構として様々な「庫」が

(n〉

見出される。特に

一九七一年に河南新鄭の節韓故城から出土した大量の青銅兵器に刻された銘文が護表されて、戦園時代

(お)

の兵器銘の研究は格段の進歩を途げた。

その代表的業績は黄盛嘩氏の

一連の研究である。日本では兵器の器形や使用法の

(

(

)

設展を詳細に論じた林巳奈夫氏と、えの器形と銘文を論じた江村治樹氏の業績があり、兵器銘の資料的債値を高めて

る。これらの業績によりながら、戦園時代の庫の機構を分析してみよう。ただし各園の兵器銘はその記載法や記載事項が

それぞれ異っており、

(お)

的に多く、王のもとにどのような機構が置かれてその器を作っ

たのかを知る術がない。また南方の楚では兵器製造を行な

一概に比較することができない。例えば燕では玉名と兵器の種別だけを鋳型に印記した銘文が匪倒

った官名などを記した銘文がほとんどないため、そのような機構があったか否かもわからない。こういった資料の偏在に

あらかじめ注意した上で、

資料の紹封教とその質において比較検討が可能と思われる韓・

・越の三菅と秦の制度をとり

あげることにする。

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まず韓の事例について。先に鯛れた新鄭出土の資料から代表的な例をあげる。

d内

U

鄭武庫

(文〉

(支)

〈矛)

(文)

(文)

(文〉

- 39-

M

(矛)

(支〉

(矛〉(文〉

(文〉

これらはすべて韓の首都新鄭で作られたものである。銘文の形式は四種類ある。

ωJωは庫名のみを記す簡単な形式で、

武庫、左・右庫がある。二番めは回の例で、紀年、令名、庫工師名、冶名が記される。三番めは

mwlωで、さらに詳しく

紀年、令、司冠、庫工師、冶の名を記す。最後は帥J帥で、末尾の冶名が

「冶罪某」と記され、「造」字でしめくくる。

また、武・左・右庫に加えて「圭庫」が現れる。このような銘文の繁衡の差は、庫の機構が整備されるとともに次第に記

載事項が増えていったためであると思われ、

39

鄭左庫

0.4) J

(

王三年、鄭令韓田川、右庫工師史獄、冶口

九年、鄭令向彊、司窟審一商、武庫工師第一章一、冶洞

十五年、鄭令宵臣、司冠影嘩、右庫工師盟主、冶積

十六年、鄭令宵臣、司窟夢嘩、圭庫工師皇佳、冶簿

廿一年、鄭令縦口、司冠果裕、左庫工師士ロ忘、冶繰

品川一年、鄭令福活、司冠省官、圭庫工師皮札、

冶弔ア啓

三年、郷令椙語、司寵芋慶、左庫工師口折、冶芦口造

四年、

鄭令韓日、司謹長朱、武庫工師弗口、

冶罪厳造

五年、鄭令韓日、司寵張朱、右庫工師宅高、冶罪増造

o.~ 0.6? qヵClD Cl~ o.~ M Cl~ Cl~ を示している。

一緒に出土した兵器の中にも様々な時期に製作されたものが混っていること

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40

これらの事例からは、韓の庫が兵器庫であるとともに一大兵器工場でもあり、銘文に記される官名が次第に増加するこ

とから、この機構が時を追って大規模化したことが窺われる。最も護展した段階での韓の庫の官制は左のように表わせ

鄭令||司寵||各庫工師||冶

(冶苦ノ)

郷令はいうまでもなく首都新郷の行政責任者であるが、韓の場合首都の長官を鯨令と同様の呼稿で記している貼が興味深

ぃ。司寵は首都の四庫の官営手工業を統轄する官であろう。工師は技術者のリーダーなのか単なる下級の役人なのか剣然

としないが、その下にある

「冶」は鋳物工であると見て間違いない。「冶否ノ」

とも記されるから、

庫に所属する官工だっ

たと思われる。

韓ではこの他地方の豚にも庫が置かれていたようである。停世の兵器銘に

八年、新城令韓定、工師宋費、冶持

(文、『録澄』五八一〉

- 40一

(2$

王三年、陽人令卒止、左庫工師口、冶口

(文、『小校経閣金文拓本』十|五三。以下

『小校』〉

(26)

六年、安陽令韓墓、司冠口口、右庫工師若父、冶口口口刺

十七年、歳令解朝、

司寵鄭害、

左庫工師口口、

冶口口

(矛、『陶務士ロ金園録』一一|二五〉

E司

(文、『小校』十|五九〉

などがあり、豚にも左、右の庫が置かれている。銘文にはやはり繁簡の差があるが、時代的な差か地域的な差かは資料不

足のため不明である。しかし韓の鯨にも首都と同様に

豚令1i(司竃〉||左・右庫工師||冶

という機構を持った庫があったことはほぼ推測できよう。

次に越の庫について見ょう。越の有銘兵器は韓のそれと比較して出土例は少ないが、庫の機構の一端を窺うに足る。

都百家村職園墓群の三競墓からは

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æ~

甘丹上

〈考古一九六二|一一一〉

という銘をもつえが出土した。俸世のえ銘に

a9)

甘丹上庫

〈『痴倉競金』五九)

という例があるから、仰の「上」は明らかに「上庫」を指している。時代の降る出土ロ聞では、

M

四年、相邦春卒侯、邦左庫工師身、冶旬口執斉

~n

大攻弔ア宵開

七年、相邦陽安君、邦右庫工師吏口朝、冶吏抱執膏

ハ背面〉

(剣、遼寧妊河出土、考古一九七三|六〉

大攻弔ア韓口

(背面〉

(剣、士口林集安出土、考古一九八二|六〉

~?)

十五年、守相口波、邦左庫ヱ師釆湾、冶句執斉

大攻予公孫将

(幻)

といった例がある。この他停世品にも「相邦春卒侯」「相邦建信君」銘をもっ兵器が多数あるが、銘文の記載法と記載事

項は一致している。百官の長である相邦が命令者として表わされ、庫名に「邦」字を冠することから見て、これらは越の

(背面)

(剣、河北承徳出土、『河北』二一二ハ〉

- 41-

都町都で製造されたものである。また銘の末尾に「執斉」の二字を置き、背面に大工罪名を刻することは越の兵器銘の

特色である。官名から考えて、越の大工予は韓の司冠と同様、官営手工業の統轄者であろう。したがって榔郡の庫の機構

相邦||大工予||邦左・右庫工師||冶

と整理できる。韓と同様、榔郁の庫は兵器庫であるとともに兵器工場でもあり、相邦以下官僚機構を通じて運営されてい

たのである。このような庫は郁郁以外の地にも置かれていた。

41

M

王立事、口令宵世、上庫工師築星、冶胡執再

(剣、河北磁豚白陽城出土、『河北』一

O一〉

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42

(34)

六年、麻令省官、下庫工師天口、冶句執斉

ハ文、河北部郡出土、『河北』一

O二〉

雨者ともに「執斉」で銘を結んでおり、越に腐する鯨に上、下庫が置かれていたことがわかる。間部の例と異り、命令者

は牒令で、大工予のような中級の官名は記されていない。俸世品で越のものとされる兵器銘でも同様であるから、越の豚

では豚令に庫が直属したと考えてよいだろう。恐らく鯨レベルの庫は首都に比べて規模が小さかっ

たのではないだろう

か。越の豚における庫の機構は次のとおり。

豚令||上・下庫工師1

l冶

この機構は基本的に韓の儒レベルの庫と一致している。

次に説の場合。貌については青銅躍器とは掛照的に兵器銘の事例が少ない。

一九七

O年湖南衡陽白沙洲二時抗戦園墓から

次のような銘を槽びた文が出土した。

M

品川三年、大梁左庫工師丑、冶口

(考古一九七七!五〉

- 42ー

この銘文から貌の首都大梁に左庫がおかれ、兵器を製造していたことがわかる。この器は恐らく戟利口問として楚にもたら

され、楚人の墓に副葬されたのだろう。俸世品では

的 M

七年、邦司冠富元、上庫工師成問、冶口

ハ矛、『三代』二

Ol四O)

十二年、邦司冠野山弗、上庫工師司馬療、冶口

(矛、『三代』

二Ol四一〉

という例がある。「邦司冠」なる官名は韓や越では見出されず、字鐙は三菅のものと見られるから、これらの器は貌の首

都で作られたものと考えられる。わずかの例ではあるが、ここから窺われる貌の大梁の庫の機構を示せば、

邦司冠|

|庫工師||冶

となろう。韓、越と異り、邦司窟の上級が記されていないが、邦司冠が視の最高官とも思えない。官制としてはこの上に

梁の長官か貌の相邦が位置すると考えられるが、確かめることができなレ。

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現の地方の鯨に置かれた庫の例としては

M

舟四年、都丘令口、左工師昔、冶夢

(文、湖北江陵拍馬山五貌墓出土、考古一九七三

l一二〉

がある。「左工師」が「左庫工師」の省略であろうことは、惇世品に

倒十二年、寧右庫、

-品川五

朝歌右庫工師口

M

ハ剣、『銭遺』五九

OV

(文、『三代』一ー九|四六〉

ω品川二年、都令口口、右庫工師E、冶山

などがあり、貌に属する臓に左、右の庫が置かれていることから明らかである。また

ω、帥の例は省略したタイプの銘文

であり、韓や越の整った記載に比べてバラエティに富んでいる。しかし銘文から讃みとれる庫の機構は

鯨令

11左、右庫工師||冶

(文、『一一一代』二

Ol一一一二〉

であり、韓や避と共通である。

- 43-

以上紹介してきた三菅諸園の庫は、見られるように首都における統轄者の官名こそ相違するものの、庫自瞳の機構はよ

く似ており、兵器庫粂兵器工場という性格を持っている。また首都のみならず地方の鯨にも同様の庫が置かれ、

豚令が命

令者として表わされる貼も共通である。注目すべきことは、親において前一章で検討した府系統の機構と庫の機構が裁然と

異っていることである。このことは、戦園競において財庫と兵器庫が官制上明確に分れ、その機構を異にしていたことを

示している。現の庫は府に比べてより大規模かつ官僚的な機様であるのに射し、府は宮廷の財庫のおもかげを強くとどめ

ている。またそれぞれに附属する工房で作られるものについては、府では青銅躍器や貴金属製品に偏り、庫ではほとんど

(お)

兵器ばかりである。わずかに例外もあるので、府・庫に附属する工房は基本的には膿器、兵器の隻方を製造し得る施設だ

しかし、質的に同様な工房の製品の種類が偏る傾向を見せることは、工房の附属する府・庫の機能の分

ったはずである。

43

化を示しているように思われる。

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44

最後に秦における庫の機構をとりあげよう。

(4?)

(面〉

ハ背〉

(矛、

河北易豚西沈村出土、

『河北』一四七)

武庫受属邦

この矛は少府が管理あるいは製造し、「武庫」から「属邦」に移管されたものである。

少府と武庫がどのような関係にあ

少府

ったのかはわからないが、この武庫は首都戚陽の武庫であろう。秦末の反観を鎮座するため一章怖が脇山陵の刑徒たちを武

(mU)

装させた際には、このような武庫に大量に貯えられていた兵器を用いたのだろう。

さて、秦における兵器の製造がどのように行われていたのかについては、すでに李皐勤氏、角谷定俊氏らの詳細な研究

(ω)

があり、二、三の-新たな資料を除いて附け加える黙はほとんどないと言っ

てよい。他園との比較のため典型的な例をあげ

て簡単に整理しよう。

ω 倒的(4~ (4S (4~帥

口年、大良造秩之造文

(文、『三代』二01一一一一〉

- 44一

四年、相邦穆持之造、楳陽工上造問、吾

(文、『三代』二O|二六

・二七)

十三年、相邦義之造、属陽工師団、

工類

ハ戟、『録遺』五八四)

〈幻

)

(犬、湖南岳陽城出土)

工大入者、

廿年、相邦由什造、西工師口口鬼薪口

廿一年、相邦再造、臨工師策。

壊得、

(戦、『繁剣診士ロ金闘録』

下一一一一一)

二年、相邦臣不掌造、寺工詔、丞義、工罵

(文、臨濫

一一統兵馬備坑出土、文物一九人二l一ニ)

元年、丞相斯造、

楳陽左工去疾、工上口

石邑

(文、遼寧覚旬豚出土、考古輿文物一九八三一|一ニ)

武庫

これらはいずれも相邦や丞相が命令して作られた兵器である。帥の大良造鞍は一商鞍を、

闘の相邦義は張儀を、酬は貌再

を、闘は李斯を指すとされており、文献と相侠って作器の紹劉年代を定めることが可能である。

作器の場所は楳陽、戚

陽、濯、寺工である。前三者は地名、寺工は恐らく宮廷附属の工房名であろう。

ω、師、酬の末尾に記されるのは兵器の

配備された場所を示している。以上から秦の中央における兵器製造機構を整理すれば、

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-45

相邦(丞相)」1首都及び周漫諸鯨工師||丞1

1工

「寺

||丞||工

となる。これを三膏の例と比較すると、

まず秦では三菅と異っ

て庫が直接兵器製造に閥興していないことが自につく1

庫は完成した兵器の牧積場所として記される。また秦の中央では避と同様相邦が兵器製造の命令者

'であるが、越と異って

首都戚陽のみならず周漫の諸問問にも命令を下している。製造の現場では、監督者の工師の職名は三晋と共通だが、その副

として「丞」が記され、需物工は「工」と呼ばれている。これらが三菅との相違貼である。

次に秦の地方の兵器の製造、管理について整理してみよう。

品川W

かhw

-nu

洛都

匿桁

ハ文、内蒙古秦廉街故放出土‘文物一九七七|五)

十二年、上郡守蕎造、漆垣工師口、工更長稿、

サ五年、上郡守廟造、高奴工師寵、丞甲、

ー工鬼薪哉ー

(戦、朝鮮卒壌出土、一『祭浪郡時代の遺蹟』上一O一〉

-45-

(52)

二年、上郡守沫造、高工丞体口、工隷臣徒、

上郡武庫

r‘、文

内事長古準格爾旗納林,で、£λ

吐出土

女物

九人

、._.,

(53)

廿六年、臨栖守口造、西工宰聞、工口

〈戟、欧西賓難豚出土、文物

一九八Ol九〉

、武庫

(5~

廿六年、萄守武造、東工師宜、丞業、

(戟、四川池山陵小田渓三競墓出土、文物

一九七四l五)

工口

(55)

廿二年、臨治守曜、庫係工敏造

四年、司令轄、康長工師野、口口口実

(文、『奇飢室士口金文述』一O|一一七〉

(戟、江西途川豚出土、考古一九七八|一)

(56) ωJ倒は上郡の郡守が郡内の漆垣や高一蚊、の工師に命じて作ったもの。

ωの「高工丞」は恐らく「高奴工師丞」の省略であ

ろう。また闘に「上郡武庫」が見えることは、郡守の管轄する兵器が郡の武庫に牧議されたことを示している。上部関係

の兵器は惇世ロ聞にも数例ある。倒帥はそれぞれ臨西郡守、萄郡守の命令によって作られた兵器である。上部と相違するこ

工師や工宰の肩書に東、西がつけられている貼である。これが何らかの地名の省略であるのか、それとも郡守のも

とに東西に分れた工房があったのか明トりかでない。以上五例の郡はいずれも遁境地帯であり、軍事的に特殊な地域である

とは、

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46

が、制帥の例は内郡にあたる地域で作られた兵器である。

mwの臨扮は河東郡の豚名だが、「守」

と記される貼がおかしい。

側は河内郡の刊〈漢の野王豚〉の鯨令が命令したものだが、秦の兵器銘で鯨令の記されるのはこの一例だけである。また工

の肩書が

「庫係工」とある貼も他と比べて異質である。秦の内郡では、上郡など溢郡に比べて制度が整っ

ていないような

印象を受ける。単なる臆測だが、秦が奮三膏の地を占領した場合、その地に以前からあった兵器生産施設を接牧すること

(mM)

もあり、法郡のように統制のとれた官制を施行しにくかったのではないだろうか。

ともあれ、これら諸例から秦の過郡では三音と異っ

て郡守がその地域の兵器製造に責任をもち、その権限は郡内の諸鯨

に及ぶものだ

ったことは明らかである。

そして郡皐位に武庫が置かれ、兵器を牧醸していたことも十分推測できよう。

では秦の鯨ではどうだろうか。わずかながら雲夢秦簡に資料が散見する。

「秦律雑抄」に

-卒に丘ハを菓するに、完釜固ならざれば、丞、庫沓夫、吏は賞すること二甲、巌す。

(『報告』

三四三、

『闘版』秦律雑抄一

五、

『稗文』一

一一一回頁〉

- 46ー

とあり、兵士に支給する兵器に依陥があると、

関係する官吏は賞二甲を科せられた上菟職という巌しい罰を下されたこと

がわかる。ここに現れる庫沓夫は鯨の庫の役人と考えられるから、秦では豚思位に兵器庫が置かれていたことになる。

の他「工律」に

(記)

公の甲兵は各おの其の官名を以てこれに刻久せよ。其の刻久すべからざるものは、丹もしくは臣識を以てこれを書せ。

其れ百姓に甲兵を医するには、必ず其の久を書し、これを受くるにも久を以てせよ。

(以下略〉

(『報告』二ハ九、

一七O、『園版』秦律十八種一O二、一O三、

『穆文』

七一一良〉

とあり、兵器の管理の詳細が記されている。この俊文は工律に属するが、

工律の他の様々な規定から、鯨には鯨令のもと

(お

)

に工師、丞、工があって器物の製作にあたっていたことが明らかにされている。

廊の場合も、三音と異って工師などが直

接庫に属していない貼、金文から考えられることを裏書きしている。しかし公の甲兵の管理規定が工律に含まれること

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は、南者の閥係が近かったことを同時に考えさせる。豚の工師などが、庫に納める兵器の新造や修繕にかなりの力をさい

たことは十分考えられよう。「秦律雑抄」に

丸岡に非ず、及び命書なくして敢えて官器を震れば、工師及び丞は賞すること各二甲。

ハ『報告』三四六、『園版』秦律雑抄』八、『穆文』

一三七頁〉

とあり、

工師には歳功(年間ノルマ〉の他、上紐からの命令書による特別な仕事も課せられていたことがわかる。相邦や郡

守の命令による兵器製造はこの「命書」によるのではないかとも思われる、が、確誼はない。

これらの事例から、秦では首都成陽を始め各郡鯨に庫が置かれて兵器を管理していたこと、

しかし三音と異り、

兵器の

製造は直接庫で行われたのではないと思われることが明らかになった。さらに三菅との相違で重要なことは、

秦において

郡の機構が鯨の上級として見出されることである。このことは首都についても言える。越の相邦と異り、秦の相邦は首都

周謹の諸鯨に樺限を及ぼすことができた。秦の鯨は中央、地方を問わず何らかの上級機構の統制を受けていたのである。

さらに、前引

ωの例は、少くとも兵器の製造管理については始皇帝の統

一後にもそれ以前と同じ方式がとられたことを示

している。戦闘秦で護達した庫の機構も、恐らく秦の崩壊まで存績したと考えられる。

- 47ー

第三章

府・庫の歴史的位置

第一、二章において、各園に財庫たる府と兵器庫たる庫が存在し、それぞれに異った機能を果しつつその機携を護展さ

せていたことが明らかになったが、このような機構は歴史的にどのような過程を経て生まれたのだろうか。

一口に「くら」といっても、納める物によって性質が異るという自明の事質で

まず前提として考えておくべきことは、

47

ある。穀物、兵器、財賓などがそれぞれの物理的、社舎的性格に麿じて管理されなければならない以上、納める場所や管

理方法が異るのは嘗然である。府や庫、あるいは穀物倉などは、名稿は別としてそれぞれに非常に古い歴史を持っている

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と考えられる。しかし本稿で扱ってきたような府や庫が史料的に確かめられるのは春秋時代からである。各園の事例を

二、三あげてみよう。

『左停』哀公三年(四九二B・C〉夏五月に魯に火災があり、宮殿に延焼した記事がある。その際のこととして

火を救う者皆な日く、「府を顧みよ。」と。:::百官官ごとに備え、府庫慎守し、官人は粛給す。

(川

(

と記されている。魯の宮殿には府・庫のあったことがわかる。魯の庫は「大庫」あるいは「大庭氏の庫」と呼ばれたらし

ぃ。同じく昭公十八年(五二四B・C〉には宋や衝の火災をこの庫に登って墓んだというから、魯の庫はかなり高い建物

をもっていたことが想像できる。

この時、鄭でも大風にあおられて火災が護生した。

火作る。子産、菅の公子公孫を東門に僻し、司冠をして新客を出さしめ、

奮客を禁じて宮を出ずるなからしむ。.

府人・庫人をして各おの其の事を倣めしむ。

- 48ー

鄭においても火災の際には人々を避難させるとともに府・庫を守ることに一一意を用いている。府人・庫人と分けて記される

ことは、府・庫それぞれに役人が置かれていたことを示していよう。時は前後するが、

魯の嚢公十年

(五六三B・C)、鄭

で公子の暗殺事件が起った時にも、

子西盗を聞き、倣めずして出で、戸して盗を追う。盗北宮に入る。乃ち開りて甲を授く。臣妾多く逃れ、器用多く喪

そな

う。子産盗を聞き、門者を篤し、章司を厄え、府・庫を閉じて閉識を恨み、守備を完うし、列を成して後出ず。

とあるように、子産はバニヴクに陥った宮廷を鎮め、府・庫の守りを固めてから暗殺者を追った。

府・庫は事ある時には

(お)

まず守らねばならぬ場所であった。

『左惇』嚢公九年(五六四B・C〉によれば、来においても魯や鄭と同様の事態が起った。

九年春、宋災あり。繁喜(子寧〉司城と震り、以て政を矯す。伯氏をして里を司らしむ。火の未だ至らざる所は小屋

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っちぬ

を徹し、大屋に塗る。:::皇鄭をして校正に命じて馬を出し、

工正に車を出して甲兵を備え、武守を厄えしむ。西姐

吾をして府守を尼えしむ。

この例では、

魯や鄭で庫にあたる部分が工正の任務となり、車や甲兵を備えている。宋において庫に納めるべき甲兵の管

理が工正、すなわち官営工房の長の職掌に含まれていたことは、宋における庫と兵器生産の親近性を示している。

以上から、春秋時代各園の園都には府・庫が置かれ、それぞれ官司があって管理にあたったことがわかる。しかしその

官司が府人・庫人と呼ばれることは、その職掌が主として倉庫番であり、それ以上に細かく分れていなかったことをも示

しているように思われる。

降って戦園前期には、考古屋'的資料として前引

ωωのように庫名を記した兵器が現れる。江村治樹氏によれば、

これら

(

)

t

庫名のみを記すえは戦園前期に多い。このことは職園前期に主要な都市において庫が左右、上下などに分れ、,次第に大規

撲になっていったことを表している。銘文句からは明らかでないが、三菅では恐らく春秋の宋にみられたような、兵器の製

- 49一

。造と密接に結びついた庫が護達し始めたと思われる。

さらに戦圏中期、後期になると、第て二一一章で紹介したタイプの金文が急増する。兵器については、このころの兵器は

貫用的で大量生産むきの造りになり、『銘文資料の多さは兵器が事貫大量に作られたことを如貧に物語っている。また、銘

文の記載事項が次第に増えていくことは、庫の機構がさらに大規模化して官僚的組織を整えたことを示している。青銅躍

器については、それ以前にはほとんど売られなかった製造、管理搭嘗官名の刻記が銘文の主流となり、車問銅躍器が春秋以

前のように子々孫々に停えるべき記念物としての性絡を失い、官有の器物としての性格を強めたことを示している。この

ことから、

銘文に現れる府が、

宮殿で君主の財賓を管理する財庫から次第に多数の属官を配した官僚的財政機構へと脱皮

したと考えられる。

49

特に貌の事例で見られたように、地方の撫レベルにも府・庫の機構が見られることは重要である。寧

(のちの修武)では

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5()

ωに見られたように府系統の官である家子と、

MWに見られる庫とがと・もに置かれ、靭歌にはゆ、帥のように下官と右摩が

置かれている。この二つ

の都市につ

いては鯨令が銘文に現れないが、庫については鯨令の統轄する庫が三耳目の多数の豚に

置かれたことがすでに明らかである。貌において見られる府

・庫の機構は戟園後期にはかなり官僚的・組織的に配置され

たと考えられる。

同時代資料から窺われるこのような傾向は文献史料にも見出せる。

春秋末の音、活氏・中行氏はすでに滅び、強盛を誇る智氏は韓、説と連合して越秩を攻めた。その際のこととして

『国

宝巴晋語九は次のように記す。越鞍(褒子〉は自らの依るべき地として、城壁の完備した長子や倉

・庫の満ちた郡都では

なく、越氏が歴代善政を布いてきた菅陽を捧んでたてこもり、水攻めにあっ

てかまどが水に漬かるほどになっ

ても民は趨

(叩叫)

嚢子に従った。『園語』はこの後の事情を記さないが、包圏攻撃に耐えた越華子は逆に攻撃軍の離聞に成功し、

・貌と

ともに智氏を滅したとされている。智氏滅亡の故事は縦横家の好んで引用するところとなり、

現在残っている文献中に言

及されている例は枚奉に暇がない。しかし『園語』の例の中で記される大規模な水攻めは春秋時代にはあり得ず、

- 50ー

この読

話が戦園時代の潤色を経ていることは明らかである。このような、

いわば智伯滅亡物語の最もまとまった形が『韓非子』

十過篇に見られる。智氏との戦争が避けられないことを悟った越襲子は、張孟談の勧めで菅陽に奔ることにした。そして

乃ち延陵生を召し、軍車騎を持いて先に菅陽に至らしめ、君ハ越褒子)因りてこれに従う。

君至りて其の城郭及び五

官の識を行るに、城郭治めず、倉に積粟なく、府に儲銭なく、庫に甲兵なく、ロ巴に守具なし。嚢子悟る。:::張孟談

日く、「:::君其れ令を出し、民をして自ら三年の食を遺して齢ある者は、これを倉に入れしめ、三年の用を遺して

徐銭ある者は、これを府に入れしめ、遺(脱文か)、奇人ある者は城郭の繕を治めしめよ。」

と。君タに令を出し、明

目、倉は粟を容れず、府は銭を積むなく、庫は甲兵を受けずゎ居ること五日にして城郭己に治め、守備己に具わる。

君張孟談を召してこれに聞いて日く、「:::吾れに箭なきを如何せん。」と。張孟談日く、「:::公宮の垣は皆な荻・

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高・措・楚を以てこれを措すe

措は高丈に至るありv

君愛してこれを

τ

用いよ。」とか

:::君日く、「吾が箭己に足れ

り。金無きを如何せん。」と。張孟談日く、「:::公宮令舎の堂は皆な錬銅を以て柱・質と篤す。君裂してこれを用い

よ。」と。ここにおいて護してこれを用い、徐金あり。競令己に定まり、守備己に具わる。

このような準備のかいあって、越嚢子は三か月に及ぶ包圏攻撃に耐えることができたのである。この物語は節略した形で

『戟園策』越策一にも採られているが、いずれも『園語』の徳治主義的読話と比較してみると、明らかに大幅な潤色が加

えられている。この潤色は戟園後期の法家や縦横家によ

って、話回時の現貫を踏まえて加えられたと考えられるから、ヨ再

非子』に描かれた青陽は三菅分裂前夜の史貫主Uうよりも、むしろ戦園後期の都市の姿を強く反映していると見てよいだ

ろう。こ

こに描かれるのは、長期の包園に耐えられる軍事的都市の篠件である。堅固な城壁を具えることは勿論だが、域内に

- 51ー

・庫・倉があってあり儀るほどの食料や武器が貯えられていること、のみならず城内に兵器などを生産、補給できる能

(

m出〉

力を持つこと、がその必須の篠件であった。このような軍事的都市において、金銭を納める府、

兵器を納める庫、食料を

ハ必)

納める倉が、いわばセットで財政的中一核をなしていたのである。第一、二一章で検討してきた府や庫の例から見て、『韓非

子』に描かれた菅陽の府・庫は戦園後期の現賓の制度をかなり正確に踏まえていると言えよう。府・庫の機構は、

軍事的

都市に配置されたすぐれて戦園的な財政機構だったのである。府・庫が同一の都市に併在している例は前述の寧と靭歌の

(H

二例にとどまるが、府

・庫・倉がセy

トで設けられた都市は恐らくかなりの数にのぼると考えられる。

いま一つ注意すべきことは、『韓非子』において府が特に金銭を納める蔵

t

として描かれている黙である。これは府の機

構と貨幣流通が深く結びついていることを示している。『宥子』富園篇に

すなわ

今の世は而ち然らず。万・布の散を厚くして以てこれが財を奪い、田野の税を重くして以てこれが食を奪い、

関市の

征を苛にして以て其の事を難くす。

51

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52

と記されるように、戦圏後期、次第に銭納化されたと思われる軍賦、

護達した一商業を背景とした関市の税の徴牧に府の機

構が閥興していたと考えられる。

秦において少内が金銭の出納を専門にしていたこと、楚の大府、が関税徴牧に関係してい

たこともこれを傍謹する。

黄盛時『氏は三菅の兵器銘の研究の中で、庫の置かれた都市と戟園時代の貨幣の護行された都市が大半一致することに注

(位〉

目した。これは庫において貨幣が鋳造されたこと主意味するものではないが、少くとも貨幣流通の中心となるような都市

には庫とともに貨幣を扱う財政機構、すなわち府が置かれたのではないか、という推測が成り立つのではないだろうか。

とすれば、府・

庫がセヴトで置かれた都市は具髄例の得られる説のみならず三耳目全鐙に農がっていたと考えられよう。

換言すれば、三菅の都市の多くは官僚的に運営される財政機構として府・

・倉を具えた軍事的都市であり、これが鯨

という行政単位をなしていたと言うことができる。そして貌において見られたように鯨の府

・庫は首都のそれと規模の大

- 52ー

小以外に質的な差がなく、韓や越の庫についても同様の傾向が認められた。このことは三膏各園の首都が地方の豚と異質

な存在だったのではなく、軍事的都市としての課題を共有していたことを示している。

戦園時代三耳目の首都はしばしば包

(必)

園攻撃を受け、かなり長期の龍城を強いられた。これは三音の兵が弱かったからというよりも、城にたてこもって戦うこ

(必)

とが攻撃を受けた際の基本的な戦術だったからに他ならない。

このことは秦についてより明瞭である。秦の首都や各師に府・庫・

倉があり、官吏によって巌密に管理されていたこと

はすでに明らかになっている。米田賢次郎氏によれば、

一商鞍の蟹法によって造られた鯨は、ロ巴制と兵制を一致させた極め

(必)

て軍事的色影の濃いものであった。秦の郡儒制の基本軍位となる鯨も、官僚的に管理される府・

・倉が財政的中一核をな

す軍事的都市であったと考えて間違いないだろう。この貼で秦の燃と三音の豚は共通する面を持っ

ている。

ところで秦と一一一青の重要な相違は、兵器銘の中に秦では豚の上甑として郡が現れるのに劉し、三晋では郡の機構が見出

されないことである。

戦園時代、郡は園境や占領地の鯨を特別軍政地域として統轄するために設けられたといわれてレ

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)

る。このような郡制における軍事的観貼の重視が秦の兵器銘にも反映していると考えられる。しかしこむことは直ちに秦

における郡豚制の完成を意味するものではない。漢初の段階で郡はまだ行政全般に開興する機構ではなく、その職掌は豚

(門出〉

の監察や軍事に限られていたことから考えれば、秦の郡制を過大に評債することは避けるべ

きかもしれない。

むトしろ、嘗面の課題としては秦と三耳目の鯨が行政皐位をなす軍事的都市として共通の性格を持っていたことを強調すべ

きだろう。すなわち、秦が新たに占領した地域を次々に郡豚として編成し、新たな勢力基盤とすることができた背景に

は、三膏の行政単位となる鯨が官僚的に支配される軍事的都市として秦の鯨と共通する性格を持っていたことがあるので

はないかと考えられるのである。

以上の考察のまとめとして、

‘戦園時代の府・庫について考えられることを整理しよう。

- 53ー

財貨を納める府と兵器を納める庫は、春秋時代には君主の財庫としてすでに存在していたが、そこに置かれた官司の職

掌はまだ倉庫番としてのそれを出るものではなかった。また、

一部には庫と兵器製造とが結び

ついている例も見られる。

戦園前期になると、このような府・庫は中原諸圏で同一の都市に複数の庫が置かれるなど、,次第に褒達し始めた。

さらに戦圏中期ごろには、現の例にみられたように府・庫ともにより大規模な官僚組織を持つようになり、それぞれに

機能と職掌を異にする財政機構として整備されたと思われる。器物の製造に関わる各級の官職と人名を列記する銘文資料

が紀元前回世紀から三世紀にかけて急増することは、この時期に各園で急速に官僚機構の整備が準んだことを物語ってい

る。この時期に府・庫は宮廷の財庫から園家的財政機構へと震展したのである。

この過程で、府の機構は君主の宮廷生活に供する器物の管理とともに貨幣による財政牧入の管理を行うようにな

った。

これは鞍園時代に貨幣経済が顕著に護達したことを背景にしている。またこのような府は漢代の一帝室財政の機構にも結び

53

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54

っく要素を持っているように思われる。

庫の機構については、三菅では兵器庫粂兵器工場という性格を持ち、秦では兵器の製造と管理が匡別される、という固

による差が認められる。しかしいずれも府と比較してより大規模で官僚的な機構を持っていた黙で共通している。特に秦

や越の首都では、百官の長である相邦以下、各級の行政機構を経て兵器製造が命ぜられており、軍備の強化が園家行政の

大きな関心事であったことを窺わせる。府との封比において、庫の機構は漢代の園家財政に結びつく要素を持っていると

言えるかもしれない。

えられる。

このような府・庫の機構は三膏諸園の場合鯨レベル以上の軍事的都市に、

穀物倉である倉とともに設けられていたと考

しかし首都と地方の鯨におい疋質的差違はみられない。

他方秦においては府

・庫

・倉がやはり鯨単位に置かれ

ていたが、三菅と異って郡豚の統属闘係が明瞭である。この差異を含みつつ、秦と三膏は官僚的に支配される軍事的都市

さて、金文資料からみた各園の府・庫が紀元前回世紀から三世紀にかけて念速に官僚的機構を整備していったことは何

- 54一

を行政の基本的皐位である豚として把握しており、その貼で共通する側面を持っていたと言えよう。

に起因するだろうか。楊寛氏は著書

『職圏史』(改訂版〉の中で、紀元前五世紀から四世紀半ばにかけて各園で中央集権的

〈必)

な盟制樹立を目指す饗法が貫行されたことに注目し、この動きを「鑓法運動」と名づけた。府・庫の官僚機構の披犬、整

備がまさにこの時と相前後していることは車なる偶然とは考えられない。文献史料のみからは窺い難い饗法の具瞳的成果

が金文資料に現れていると考えられよう。

さらに、府・庫の機構が春秋から戦園へと受け纏がれながら次第に戦園的軍事都市の性格を強く反映するようにな

った

(的制

ことは、春秋後期に願著にみられる臓の再編、すなわち采邑としての封建的な豚から中央集権的な鯨へ、という動きの延

(印)

長としても把えられる。春秋・職園時代は「都市圏家から領土園家へ」、中園祉舎が饗貌した時代である。この流れの中

で、府・庫の機構の整備は春秩末から犠圏中期にかけて、中原の諸都市が圏の相遣を凋わず官僚的に支配される軍事的都

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市札鯨へと境貌をとげたことを物語っているのではないだろうか。

本稿では戟園時代の府・庫をとりあげたが、資料不足のため具瞳的な事例は秦と三音に限らざるを得なかった。また嘗

時の郡鯨制や財政制度の全瞳に考察を及ぼすこと、さらに漢代の諸制度、特に一帝室財政と園家財政が匿別されるに至る泊

草をたどることなど重要な問題があまた蔑されている。すべては今後の大きな課題である。

55

註(1〉先駆的業績として李拳勤「戦闘題銘概述」,〈文物一九五九|

七l九〉がある。

(2)

害時限楚器には、ここにあげた大府関係の器の他、「冶師」

の製造に係るもの、寸鍔客」所造のものがあるが、三者の関係

は銘文からは剣断できない。大府附属の工房の製造責任者が

「冶師」であるかもしれない。

「鋳客」について、佐藤武敏氏は

『中園古代工業史の研究』(吉川弘文館、一九六二〉で、他地の

手工業者が楚に雇われたものと解している。なお、蕎豚楚器に

ついては、唐蘭「誇問問所出銅器考略」ハ園祭季刊第四倉一続、

一九三四)、李景腕「蕎鯨楚基調査報告」(田野考古報告第一

般、一九一二六〉参照。

(3〉町明君砕節については多くの業績が設表

f

されているが、船越

昭生「都君啓節について」(東方皐報京都第四三婦、一九七二)

に諸説がまとめられている。

(

4

)

佐藤武敏「先秦時代mN

闘と関税」(甲骨皐第一

O鏡、一九

六回〉

(5U

なお標支は李皐勤一「秦園文物的新認識」(文物一九八

Oー

九〉に従った。

(6)

『史記』巻六九、蘇秦列俸

於是設韓玉目、「:::天下之彊弓動湾、皆従韓出。鈴子、少府

時カ・距来者、皆射六百歩之外。:::」

v

ほぼ同文が『戟園策』韓策一にも見える。

(7〉樗文は黄盛建「司馬成公権的園別、年代輿衡制問題」(中

園歴史博物館館刊ニ、一九八

O〉に従う。また「冶」字の繁濯

については王人聴「関子害時豚楚器銘文中但字解穆」〈孝古一九

七二|六〉参照。

(8〉「家」字の様々な呉鐙については李家浩「戦闘時代的家字」

(語言暴論叢第七輯、一九八一〉参照。

(9Y卒安君鼎は停世品にも銘文のよく似たものがある。李拳勤

註(

5

)

所引論文はこれらを戦園衡の器とするが、責盛薄註(

ω

)

所引論文は反論してこの器を貌器と断じている。

(

ω

)

羅美「武功耐刷出土卒安君鼎」

(考古典文物一九八

一|一一)

はこの鼎銘を「卒安君」と四拝するが、誤りである。李拳勤「論

新設現的貌信安君鼎」(中原文物一九八一

l四〉、裟錫圭

「《武

功勝出土卒安君鼎》讃後記」(考古輿文物一九八二

l一一〉、事貝盛

- 55一

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56

接岸「新出信安君鼎、卒安君鼎的図別、年代奥有開制度問題」

(同〉参照。

(日)朱徳限、夜錫圭「戦園銅器銘文中的余官」(文物一九七三|

一一一〉

(ロ〉『河北』一四六に著録。銘文の革本と稗文は李皐勤・郷紹

宗「論河北近年出土的戦園有銘青銅器」(古文字研究七、

一九

八二〉による。

(悶〉近年出土した雲夢秦館、「秦律雑抄」に

采山重殿、貸笛夫一甲、佐一盾。:::大官・右府・左府・右采

餓・

左采餓謀殿、賀直回夫一盾。(『雲夢陸虎地事情墓』園版三四九

|一一一五一節、『睡虎地秦墓竹筒』

線接本

「秦律雑抄」一一一|二

三筒、『睡虎地秦基竹筒』洋援本稗文二ニλ頁〉

とある。「采山」は山林資源採取を指している。後交の「左・

右府」「大官」「左・右采銭」は、山林資源の採取を通常の「采

山」とは別枠で地方の燃に命じうる中央官署であったと見てよ

い。夙に増淵龍夫氏の指摘した如く、山林薮淳資源は君主の家

産に属すべきものだったと考えられるから、これらの宮署は秦

の少府の嵐官だったかもしれない。なお、以後雲夢秦衡の引用

は設掘報告を『報告』、線装本を『園版』、洋装本を『稗文』と

筒稽する。

(リ凶)子豪亮「雲夢秦閉所見職官述略」(文史第八輯、一九八O〉、

工藤元男「秦の内史||主として腕虎地秦墓竹衡による1||」

(史皐雑誌九O編三鋭、一九八一)、「限虎地秦墓竹衡に見える

大内と少内||秦の少府の成立をめぐって1l」〈史観一O五

加、一九八一)

(間以〉係

・都官以七月糞公器不可繕者。有久識者、隣室之。其金

及鍛器入以気銅。都官職大内、内受買之、室七月而成問。都官遠

大内者職豚、鯨受買之。

(以下略〉〈『報告』一五一一一|一五六、

『園版』秦律十人種八六|八八、

『緯文』六四頁〉

(凶〉受衣者、夏衣以四月室六月菓之、多衣以九月表十

一月菓

之。過時者勿葉。:::己菓衣、有除褐十以上、

職大内、興計借。

都官:::在威陽者、致其衣大内。在官豚者、致衣従事之係。際-

大内皆聴其官致、以律哀衣。金布(『報告』一五七|六O、

『園

版』秦律十八種九O|九一二、

『稗文』

六六頁〉

(げ)

・都官坐数

・計以負償者、己論、車間中大即以其直銭分負其

官長及冗吏、而人奥参緋券、以数少内。少内以政責之。:・金布

〈『報告』一四七|入、『図版』秦律十八種入O|八て

『稗文』

六一一貝)

(同叫)告匡

委書、莱里士五甲縛詣男子丙、告白、「丙、甲臣、

橋惇不回作、不聴甲令。

謁買公、

斬以魚滅且、受買銭。:::」

・令少内某、佐莱以市正賢買丙丞莱前。丙中人、

買若干銭。

(以下略)(『報告』六一七|一一一、

『園版』治獄程式四01四

回、『四梓文』封診式、二五九頁〉

(ω〉府中公金銭私貸用之、輿盗同法。・可謂府中。・唯豚少内

篤府中、其官不信周。ハ『報告』四O二、『園版』法律答間三一一、

『稗文』一六五頁〉

(却〉

・戚皮革豪突、質畜夫一甲、令・丞一質。・戚律(『報告』

三四四、

『園版』秦律穀抄二ハ、

『稗文』一一三ハ頁)

(幻)楊箆「従H

少府u職掌着秦漢封建統治者的経済特権」ハ秦

漢史論叢第一瞬、一九八一〉

- 56-

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57

(詑〉制脚本性「新郷H郷韓故城H

設現一山抗戦園銅兵ー器」〈文物一

九七ニ

l一O〉

!

(お〉

a、賀茂琳「新郷出土戦園兵器中的

一比一問題L

(

考古一

F

七三

l六)、

b、責盛薄「試論三菅兵器中的園別輿年代及其相

関問題」〈考古皐報

一九七四|

一)。このニ論文は賀氏著『歴史

地理奥考古論叢』(斉魯書枇、一九八二〉に新たな註を附して

牧められている。

(川品〉林巳奈夫『殿周時代の武器』(京都大皐人文科皐研究所、

一九七二〉

(お)江村治樹「春秋戦園時代の銅文、載の編年と銘文」(東方

皐報京都第五二剤、一九八

O)

(お)一九七三年、燕下都社から百八件の銅支が一括して出土

し、百七件の器に銘文があったが、ほとんどは玉名と兵種を印

記するタイプの銘文である。

河北省文物管理鹿「燕下都第一一一一一

誠遺社出土一批銅文」ハ文物一九八二|八)参照。

(幻)古典盛獲註(mμ

〉所引論文参照。春卒侯、文信君は『戦園策』

越策などにしばしば登場するが、いずれも戦図末、目不意など

とほぼ同時代の人と考えられる。

〈お)俸世の鼎銘に

「十一年、庫沓夫肖不挙、賜口口命所策。空

二斗。」

(『三代』

一一一|四三、

器影は『貞松堂土ロ金園』上二三〉

という例があロ、明らかに戦園時代三E

日の器である。また中山

園では青銅磁器を左・右使庫で製造している。張守中『中山王

響器文字編』〈中華書局、一九八一〉、西村俊範「中山王墓出土

銅器の鋳'造関係銘文」(『展墓アジアの考古皐』-新潮社一九

八三)参照。また、秦や韓の少府が兵器を製造していたことも

想起すべきである。

(却)『史記』晶竺ハ、秦始皇本紀

(二世「〉二年多、陳渉所遺周章等賂西至戯、兵数十古向。二世大

驚、輿惹臣謀日、「奈何。」少府軍部目、「盗巴至、衆彊。今夜

近豚不及失。郁山徒多、誇赦之、授

i

兵以態之。」二世乃大赦天

下、

使轟平協賂、撃破周章箪而走、

遂殺牽曹陽。

ハω)李摩動「戦園時代的秦園銅器」ハ文物参考資料一九五七|

八)、註(5〉所引論文。角谷定俊「秦における青銅工業の一考

察||工官を中心に||」(駿牽史皐第五五続、一九八二〉

〈引む周世策「湖南楚墓出土古文字叢考」(湖南考古皐輯刊第

穂、一

九八二〉に紹介されているが、愛掘報告は未設表。

(mM)

庚州一二八競西漢前期墓から、「口都成口、工師司馬欲、

丞秋」なる銘をもった文が出土した。器形は残依のため不明と

せざるを得ないが、銘文の形式、字盤は三E

日のものに近い。し

かし工師の下僚が「丞」である黙はむしろ秦のものに近く、一一一

耳目には例がない。これは泰と三菅の中間的な形式を示してい

る。『庚州漢墓』揺園入=一参照。

(お)ー角谷定俊前掲論文。失策曾「秦的官府手工業」(『雲夢秦側

研究』中華書局、一九八一

〉参照

(斜)『左傍』昭公五年

仲(叔孫仲壬〉至自調円。:::南遺使園人助竪牛、以攻諸大庫之

庭。司宮射之、中目而死。

ハお)同、昭公十八年夏五月

戊寅、風甚。壬午、大甚。宋・街・陳・鄭皆火。梓慣登大庭氏

之庫、以墓回、「宋・

衛・陳・鄭也。」数日皆来告火。

- 57ー

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(お〉鄭の庫は「褒庫」と呼ばれた。『左俸』裏公一二十年秋七月に

葵丑、(伯有〉自慕門之渡入、因馬師領、介子衷庫、以伐奮北

門。肥帯率園入、以伐之。

とある。

(釘)江村治樹前掲論文。

(mg『園語』耳目語九

(越)裏子出、日、「五口何走乎。」

従者目、「長子近、且城厚完。」

裏子目、「民罷力以完之、又姥死以守之。其誰輿我。」従者目、

「郎廊之倉庫賞。」褒子日、「淡民之膏津以質之、又因而殺之。

其誰輿我。其菅陽乎。先主之所属也。帝J

鐸之所寛也。民必和

失。」乃走奮陽。耳目師圏而滋之、沈竃産盤、民無叛意。

なお、趨褒子はこれより前、花氏

・中行氏の鋭の際にもE

日間関に

たてこもっている。『左停』定公十三年参照。

(

m

却〉『墨子』七息篇に

故倉無備菜、不可以待凶儀。庫無備兵、雄有義不能征無義。

とある。また雑守篇の末尾に滅が守れない五

つの燦件を記す

が、その一つは

「畜積在外」、すなわち物資の集積が城外にあ

るととである。軍事的観黙から倉

・庫を重視する貼、『韓非子』

と共通する。

(紛〉本稿では直接倉の問題に個別れることができなかったが、近

年工藤元男氏の業績(前掲〉や太田幸男氏

「湖北幌虎地出土秦

律の倉律をめぐって」〈東京準要大皐紀要祉禽科率第三一、

三二集、一九八

O)があり、秦の倉のシステムが明らかになっ

ている。また、古くは木村正雄「支那倉庫制度設遠の基礎篠件」

(史潮第十年第三・四械、一九四二〉があるが、倉の軍事的保

件には燭れていない。

(4)

『呂氏春秋』懐寵篇に「分府庫之金、散倉康之粟、以鎮撫

其衆。不私其財。」『准南子』人開訓に「西門豹治郷。康無積

粟、府無儲銭、庫無甲兵、官無計曾。

人数言其過於文侯。文侯

身行其豚、果若人言。」『戦図策』秦策五に「令庫具車、既具

馬、府具幣、行有日突。」など、府・庫などの財庫を封句的に

用いる修辞は戦園から漢代に多く見られる。これは現賓の制度

において府や庫が劉になっていたからこそ生まれたのだと考え

られる。

(必)章典盛建註(

m

必〉所引論文。

(川町)例えば紀元前二八三年、二七五年に貌の犬梁が秦軍に包囲

され、後者では韓の援軍を得て危地を脱した。また長卒の戦勝

の徐勢を騒って秦が越の郡部を包囲した(二五七B、C〉が、

一年以上の飽城の末に韓・貌・

楚が十来援して秦軍を撤退させた

(いずれも『史記』六園年表、各国世家)。このように長期の包

囲に耐えながら各園に来援要請の使者を出す、という必要が縦

横家に活躍の場を輿えたとも考えられる。

(HH

〉『墨子』末尾の十一篇はすべて包囲攻撃にあった都市の守

備方法にあてられている。与仲勉『塁子城守各篇筒注』(古籍

出版社、一九五人)参照。また

『一商君書』兵守篇、境内篇には

それぞれ守城、攻城の作戦が書かれており、『墨子』の内容と

封臨隠している。戟園後期、攻城戦の激しさを窺わせる。

(必〉米田賢次郎「二四

O歩一一畝制の成立について||商秩襲法

の一側面||」

(東洋史研究第二六巻四械、一九六八〉

(必)鎌田重雄「郡豚制の起源について」(東洋史暴論集て一九

- 58ー

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五三)

(円引)紙屋正和「前漢郡勝統治制度の展開についてーーその基礎

的考察|

|」〈一踊岡大皐人文論叢第一

一一一巻四続、一

四巻一

続、

一九八二〉

(泊叩)楊寛『戦園史』(上海人民出版社、一

九八

O)第五章、戦

園前期各諸侯園的繁法運動

(的制)五井直弘「春秋時代の豚についての究書」〈東洋史研究第

二六巻四貌、一九六人)

(印〉宮崎市定

「中園における一褒落形僅の獲濯について|

|邑

園と郷

・亭と村に劃する考察1l」(『アジア史論考』中巻、朝

日新聞社、一九七六所牧〉

- 59ー

59

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A STUDY OF LAND TRANSFER ON WESTERN

     

ZHOU BRONZE INSCRIPTIONS

              

Matsui Yoshinori

  

Bronze inscriptions of the Western Zhou dealing with land such as

the various vessels by Qiu Wei 委衛, Peng Sheng Gui 儒生m, Da Gui

大篁, San Shi Pan 散氏盤, etc. are basicallydocuments consisting of the

date, the reason for land transfer.the boundaries ofland. the establishment

of them by the enfeofifingside, and the specificrituals and the casting of

the vessel by the feoffee.These inscriptions show the whole organization

of land transfer.

  

The structure of rulership and administration of the enfeoffed territory

can be seen in the organization of the enfeo伍ng side, who undertook the

establishment of the boundaries of land. For example, it is quite clear

in the inscription on the Wu-si-Wei Ding五祀衛鼎thattian田, the land,

was under immediate administrative management of the enfeo伍ng side.

On the other hand. according to the Jiu-nian-Wei Ding 九年衛鼎it is

obvious that li 里was a land with a stratifiedstructure of administra-

tion and rulership.

  

The

 

land

 

described

 

in

 

the

 

inscription of San Shi Pan was a

combination of these two types. The territory mentioned here. Mei-jing-

yi-tian眉井邑田, had possibly suffered a destruction of the cooperative

management system ofが邑and gradually deteriorated toa tian田.

TREASURY府AND ARMOURY 庫IN THE

    

WARRING STATES PERIOD

               

Sahara Yasuo

  

In bronze vessel inscriptions of the Warring States period frequent

mention is made of storehouses under the name of treasury or armoury,

ル府and友紀庫. Basically a fu is a storage place for valuables and com-

modities, while a ku is used for arms, in the Warring States period.

however, these were no longer mere storehouses, but they also acquired

                 

-1-

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a cha】racterof financial organizations managed by bureaucracy。

  

Then the organization o1μ became the o伍ce where the palacial life

of the ruler was administered, as much as it furnished the place where

ritual bronze vessels were cast. Moreover it had some function in the

process of taχcollection. The organization of 友μwas not only the o伍cial

arsenal, but as a workshop for arms became the basic unit for military

production on grand scale。

  

Most of these fu and ku were found in the military cities in the states

of Han 韓, Wei魏, Zhao趙, and Qin 秦. This underlines the fact that

in the Warring States period cities were military centers, equipped with

all the commodities, arms, and provisions necessary to endure a long-

term siege. Moreover, the institutions ofルand ku of Warring States

period can be appreciated as forerunners of the imperial finance and state

finance of Han period.

  

THE VASSAL STATE REGULATIONS AS SEEN IN THE

  

BAMBOO SLIPS OF THE QIN TOMB IN SHUIHUDI 睡虎地

                

Kudo Motoo

  

In the Warring States period, the State of Qin had to integrate a

great many other tribes in the process of unification of the country. How

was this accomplished ? For the first time, this question can now be exa-

mined in the light of newly unearthed bamboo slips in the Qin tomb at

Shuihudi睡虎地. The conclusion of my eχamination are as follows :

  

The ruling system of the Qin was organized in three levels : around

a kernel area of inner ministers there were the territories of the vassals,

around which the territories of the outer retainers were established. The

area of the inner ministers ゛asthe dominion of the Qin themselves, here.

whether ruled according to the administrative or feudal system, all the

people were deeply involved with the rites and laws of Qin. The terri-

tories of the vassals were either those of other tribes who had sworn

allegiance to the Qin or those of different states, also allies, but with

the permission to keep up their own ancestral shrines. 0n this level

generally the ruler would be a scrupulous follower of Qin rites and laws。

                 

-2-