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33
Title 唐朝の對藩鎭政策について : 河南「順地」化のプロセス Author(s) 辻, 正博 Citation 東洋史研究 (1987), 46(2): 326-355 Issue Date 1987-09-30 URL https://doi.org/10.14989/154195 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title 唐朝の對藩鎭政策について : 河南「順地」化のプロセス

Author(s) 辻, 正博

Citation 東洋史研究 (1987), 46(2): 326-355

Issue Date 1987-09-30

URL https://doi.org/10.14989/154195

Right

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Kyoto University

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326

唐靭の封藩鎮政策について

!l河南「順地」化のプロセス|

|

一河南諸落鎮の成立

付各藩銀の成立過程

伺藩銀軍隊の淵源

二河南「順地」化のプロセス

H

河南節度使の解鐙

同建中期の節度使反鋭

日准西・猶青の「順地」化||「中興」の完成||

伺運河嬢黙の回復

|l宣武軍「騎兵」の解僅||

- 96ー

~1

かつて内藤湖南は、唐朝の崩壊について次のように論じた。

唐の崩壊は即ち貴族政治の崩壊であって、これは軍陵の制度から来た。しかしそれは太宗の立てた府兵制度からでは

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なしに、他の原因から来た。府兵制が敗れ、節度使即ち藩鎮がその地方に勢力を有し、租税を満足に政府に納めず、

武人の駿屋を来したのがその素因である。(中略〉つまり節度使制度のために、唐の貴族政治は内部から崩れて行っ

て、貫樺が兵士郎ち庶民出身のものに移るに至った。これは制度の如何に拘らず、事貧貴族政治が崩壊して行った一

(

1

)

つの現象である。

湖南の読の接心は、従来貴族が掌握していた擢力が藩鎮の出現によって兵士郎ち庶民の手に移り、ために六朝以来績い

た貴族政治は移鷲を迎えた、という黙にある。確かに、安史の飽を契機とする内地節度使の出現は、唐朝滅亡の大きな要

かかる朕況が現われてから唐の滅亡までに約一五

O年の年月を要したというのは、いささか長すぎは

因であろう。だが、

しまいか。

唐朝は安史の観を牧東にみちびく過程で、河南道にいくつかの節度使を設置した。反凱軍との戦闘が進む中、これらの

- 97ー

節度使の名稽や領州の数は屡々饗更されたが、反凱卒定時にはそれらはほぼ確定する。唐朝にとって、開中と江准地方と

を結ぶラインの中聞に位置する河南の地は、是非とも確保しておかねばならない地域であった。反乱牧束のための措置と

はいえ、「武人の政塵」する危険性をもっ藩鎮をかかる地域に設置せざるを得なかったことは、唐朝にとってゆゆしき事

態であった。そしてその危倶は程なく現賓のものとなる。にもかかわらず唐朝はすぐには滅びない。それどころか八世紀

後半から九世紀-初めにかけて、徐々にこの地域を自らの手中に奪い返して(「順地」化)いくのである。

従来の藩鎖研究の多くは、唐朝滅亡の直接的な力に藩鎮勢力がなり得なかったことから、藩鎮のタ古さ。H

古代的性格

を強調するに終始していた。本稿は上述の関心から、唐朝の劉藩銭巻き返しのプロセスを、河南に成立した諸藩鎖を中心

に見てゆこうとするものである。河南を考察の針象とする理由は二つある。

一つは先にも述べたように、この地域が唐朝

327

にと一って極めて重要な意味!とりわけ沖河を中心とする江准漕蓮路の確保という黙でーをもつからである。そして今一つ

は、九世紀初めの所謂。憲宗の中興クが河南諸藩鎖に射する唐朝のイニシアティヴの回復によって完成するからである。

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なお、唐朝中央権力の封藩銀政策については、既に大津正昭氏が、主要藩鎮の性格的差異|「地域差」|の覗角から論

(

2

)

及している。氏は針統一権力という翻貼から、

代表的藩鎮類型として、

凶河北三鎮を中心とする類型ハ分立志向型〉、

唐朝権力を否定する類型(権力志向型。朱枇

・李希烈がこの型に属する〉、的唐朝を支えている類型(統

一権力支持型。江南

・四川 (B)

の藩鋲がこの型に属する)の三つを示し

ωに閲しては在地性の強さを、

同に閲しては在地性の希薄さH傭兵的性格の強さ

(流通経済ないしは堕富な財源の把握を必要係件とする〉を

問に閲しては官僚支配の徹底と、江南

・四川の生産力、土地経営

様式に規定される所が大きいことを、それぞれ指摘する。その上で徳宗朝及び憲宗朝の封藩鎮政策の基本的志向を次のよ

うに論じる。すなわち、徳宗朝のそれは、

ω型藩鎮に経済的に依援しつつ倒型藩鎮の出現を抑匪し、凶型藩鎮に劃しては

一権力を否定し得ないという弱黙を利用して徐々に支配下に組み入れようとするものであった。また憲宗の

「中興」達

成の過程において表出した各勢力の志向は、倒型落銭がその志向を明確になし得ない情況になっていた他はほぼ徳宗朝と

- 98ー

同様であるが、財政の強佑と藩鋸に劃する軍事権分散策により「中興」が成し遂げられた、と。藩銭を

一律的・平面的に

理解するのではなく、地域差の視角から、複雑極まりない唐朝と藩鎖との連闘を把え直した氏の見解は評債されるべきで

あろう。

ただ、憲宗「中興」の歴史的役割に言及した氏の所読において、

「中興」の完成の鍵を握っていた河南の諸藩鎖

がほとんど前面に現われてこないのは、

やはり片手落ちの翻をまぬがれまい。本稿が地域を河南に限定して、安史の飽以

降、憲宗の「中興」に至る唐朝の針藩鎮政策を跡づけようと試みる所以である。そのために本稿では、

立した諸藩銀(河南節度使・准西節度使

・悩青節度使)の成立遁程を分析し、

まず河南地域に成

その性格を明らかにする。

そしてこれらの諸藩

銀と唐朝とのかかわりを個々に見てゆくことにより、唐朝が河南の地を「順地」化してゆくプロセスを明らかにし、

その

候件を探ってみたいと思う。

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河南諸藩鎮の成立

ハ円

各藩鎮の成立過程

河南地域は、河北でほとんど抵抗を受けることなく南下してきた安蘇山の反凱軍が唐朝軍と最初に衝突したところであ

(

3

)

ったため、反蹴の勃震直後に節度使(河南節度使〉が設置された(天賓十四載(七五五〉十一月)。

ついで、安史の凱による混

(4〉

凱に乗じて揚州で反旗を翻した永王珠を討伐すべく、准西節度使が置かれた(至徳元載〈七五六〉十二月)。この節度使は永

王の反凱鎮座後も縫績して置かれ、安史の反観軍と載っている。また、山東牟島方面でも安史の反凱軍の南下に針慮すベ

く、青密・

北海・売郡等の節度使が置かれている。だが、これらの節度使は、安史の凱が牧束する贋徳元年(七六三)以前

においては、反凱軍の動きに合わせて河南・河北各地を轄戦しており、その名に冠せられた地域に留まっていることは少

なかった。『新唐書』方銀表に見える諸藩鎮の置底や領州の饗更も、嘗一該節度使の反観軍との戦闘拡況に劉醸していると

見られるのである。したが

って、節度使の置慶・領州の増減が唐朝の地方統治という黙で大きな意味をもってくるのは、

- 99一

安史の観が終結した康徳元年以降と見てよかろう。

康徳元年の時貼で河南に設置されていた節度使のうち主なものは、

河南節度使(領州作・宋

・曹・徐・頴・菟・郡・淡八

州〉、潜青節度使(制佃・育・斉

・祈・密・海

・登・莱・様・沼十州)、

(

5

)

唐十一

州)の三節度使である。はじめにこれらの節度使の成立過程を見ておきたい。

准西節度使(汝・許・橡(奈)・申・光・安

・斬・責・需・随・

〔河南節度使〕

329

(

6

)

賓腰元年(七六二)十月、唐朝は、鯨順してきた史朝義側の陳留節度使張猷誠を、休州刺史・充休州節度使に安堵した。

献誠は、かつて幽州節度使として東北漫境で活躍した張守珪の子で、反飽軍側の部将として河南に南下、丘ハ数首円を率い休

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330

(

7

)

州を守っていたのであった。彼は唐朝蹄順後一年足らずで入朝、代わって田神功が節度使に任ぜられた。この際、醤張献

誠曙下の数高の兵がどのような扱いをされたかは明らかでないが、そのまま沖州に留まり田神功の麿下に入ったものと推

測される。

(

8

)

翼川出身でもと鯨の里脅であった田神功は、安史の凱が勃設すると幽蔚の地で反乱軍との戦いに従事し、至徳二載(七五

七)正月に卒産兵馬使董秦(李忠臣)に瞳って幽州薙奴豚から海路で河北に下り、

ともあったがすぐに唐朝に開順し、上元元年(七六O〉には卒直節度都知兵馬使となっている。その後、

溜青

・売郡雨節度

使を歴任した神功は、贋徳元年、吐蕃の長安侵入で映州に蒙塵していた代宗のもとに馳せ参じる。この時、代宗は彼を中

開戦した。途中

史思明に降伏したこ

央に留めようとするが、一岬功がこれを固僻したため、

翌康徳二年、河南節度使を奔さしめたのであった。以後、神功は大

暦九年(七七四〉に亮ずるまで節帥として作州に鎖する。

-100ー

〔楢青簡度使〕

(9)

卒虚軍節度使侯希逸は

(

)

(

)

凱軍との戦いで孤立し、加えて実族の侵攻を

被ったため、麿下の兵二高齢人を率い溺海湾経由で南下し、翌月には青州に到達した。その後彼は河南での反観軍との戦

いに参加し、賓腰元年五月に唐朝より楢青・卒車節度使に任ぜられている。

侯希逸は卒宜出身の武人である。安旅山幕下で卒宜軍節度使の禅賂をつとめていた彼は、反凱勃瑳後は

一貫して唐朝側

の部賂として反凱軍と戦った。乾元元年(七五八)十二月、卒宜軍節度使王玄志が病浸すると、彼は副賂の李懐玉(正己)

らの推立により簡帥となり、前述の南下に及んだのである。

〔准西節度使〕

至徳元載に設置されて以来頻繁に増減を繰り返した准西節度使の領州が

一躍安定するのは、安史の凱末期の賓慮元年に

なってからのことである。

この年の二月に申州で史朝義の部絡に敗れ囚われの身となった前任者の王仲昇に代わって、李

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(

)

忠臣〈侠西・紳策雨軍節度兵馬使から縛任)が節帥となった。

忠臣は卒直出身(幽州に在住)の軍人で、醇楚玉・張守珪

・安緑山といった歴代の幽州節度使に仕えてきた人物である。

前述のごとく、彼は卒直軍節度使王玄志の命をうけて至徳二載に幽州から兵三千を率いて青州に至り、河北

・河南を轄載

した。途中、作州で史思明に敗れ、

一時期その部下となるが、ほどなく兵五百を率いて唐朝に蹄順し、快西・紳策南軍節

度兵馬使に任ぜられていた。彼は大暦十四年(七七九)、部下の李希烈に逐われるまで節帥として准西の地に留まることに

なる。

いずれも安史の凱によって幽州近退から河南へ南下してきた者と見る

ことができよう。このことは節度使磨下の軍隊の性質を考える上で重要な手がかりとなるのではないだろうか。次簡で

こうして見てみると、河南諸藩鎮の節帥たちは、

は、各節度使磨下の軍隊の淵源について若干の考察を加えてみたいと思う。

仁)

藩鎮軍隊の淵源

-101ー

まず、河南節度使の軍隊について見てみよう。この軍の中該となったのはおそらく、前述した奮張献誠磨下の兵士であ

ろう。彼の率いた数蔦の丘一がどのような人々によって構成されていたかは不明だが、安史の反蹴箪は多くの場合胡漢の混

(

)

成部隊によって形成されていたことから、休州に援ったこの軍も同様であったと思われる。幽州から共に南下した後も回

(

)

神功に随従していた者としては、那君牙・陽恵元の名が知られる。邪君牙は積州繁霧豚の出身で、幽州・卒直雨節度使磨

(玲)

下の軍に在籍し、安史の観前に卒慮兵馬使にまでなっている。南下後は、

田神功に随って揚州の劉展の飽鎖摩に赴き(上

元元年(七六O)〉、また神功が亮郡節度使となると(賓隠元年(七六二〉〉、その防秋兵を領して好時に入鎖している。

一方、

(

)

(

陽恵元は卒州の出身で、卒直節度使劉正巨摩下の軍に在籍した。南下後は那君牙同様、劉展の凱銀座に随っている(のち

遅くとも大暦年開までに紳策京西兵馬使として奉天に赴いている)。また、売郡節度使嘗時の田神功の部下は皆

「偏祷なりし時の

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332

(凶)

部曲」であったという。これらを考え合わせると、

田紳功麿下の河南節度使の軍は、安史の反範軍の投降兵を母鐙とし、

それに田神功の雇従の将士が乗りかかるという形になっていたものと思われる。一神功雇従の兵士がかなり強暴であったこ

(

)

とは、劉展の凱鎮座後の彼らの行動から窺われる。

次に准西節度使の軍隊について見てみよう。准西節度使謄下の将兵のうち、その出身等について明らかにしうるのは、

李希烈・李恵登・李重侍の三名のみである。李希烈は燕州遼西鯨の出身で、わかくより卒庫軍に従軍、安史の蹴に際して

李忠臣らと共に河南に南下した。

のち忠臣が准西節度使になると、希烈はその偏禅に署せられ、大暦十一年(七七六)には

(

)

左府都虞候に昇進、同十四年に李忠臣を逐って節度使の地位を奪っている。また、李恵登は卒直の人で、安史の凱以前は

卒直軍の稗絡であった。組中に李忠臣らと共に南下し、途中反凱軍の手に陥ることもあったが、脱出して山南東道節度使

来瑛の許に身を投じ、軍賂として仕えた。そして李希烈が反乱を起こす建中末には、彼の部下として随州の守備にあたっ

(

)

ている。李重借に閲しては、実族出身だということ以外ほとんど明らかにし得ない。ただ、李忠臣が李彊曜の乱を討伐し

(初)

た際、重情は祷賂としてその幕下にいた。このことから彼も他将同様、安史の凱中に忠臣と共に河南に下り、その後も彼

一 102

に随従して准西節度使曙下の軍隊に在籍することになったものと思われる。

一方、

唐朝側の認識も、准西の将士は安史の

凱の際に「卒直より来たりて困難に赴き、浜海不測の険を渉りて兇賊作範の徒を滅」ぼし、その後「准西に分鎮」するよ

(

)

というものであった。これらのことから、准西節度使塵下の軍隊は、安史の凱の頃の卒直軍の将士をその中

うになった、

一該としていたと考えられる。

溜青節度使の軍陵も、准西と同様に、安史の範時期の卒直軍の将士がその中核を形成していたと思われる。州国主円節度使

となった侯希逸は、前にも述べたように卒宜軍節度使麿下の兵二蔦儀を率いて幽州から青州に移動した。彼に随って南下

希逸を卒庫軍節度使に擁立する際に活躍し、南下後は

兵し馬た使者Uこ tこ抜李擢懐さ玉れ(て正い(己る22>" 0'-ノ刀ミ

し、

高句麗人で管州副将だった彼は、

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いずれもその淵源を安史の凱嘗時の卒宜軍節度使塵下の軍に有している

と言えよう。そしてこの節度使は、天賓元年(七四二〉以来安緑山を節帥に戴いていた。珠山は天賓三載(七四四〉以降、

活陽〈幽州)節度使も乗任しているから、河南諸藩鎮の軍隊の淵源としては、八世紀中頃の沼陽・卒車問節度使麿下の軍

こうしてみてくると、

河南諸藩鎮の軍隊は、

を考えるべきであろう。

さて、天賓初の落陽・卒屋南節度使磨下の兵数は十三高齢にのぼり、兵士に支給する衣糧の線量も開元以前に比べ約六

)

(

)

倍に増大していた。漫境防衛をめぐる情勢は、既に開元二十五年(七三七)に貫施された長征(兵防)健児制によって大き

く饗わっていた。長征健見は、「常例の賜物」を給興される職業軍人であり、任地の軍鎮において田地・屋宅を輿えら

れ、家族と共に居住することが許されていた。また賦役菟除の特権も認められていた(田地の支給は彼らの屯田兵的性格を窺

わせるが、そこからの枚入のみでは不十分だったと推測される〉。長征健児制の賓施により、従来の交代制の鎮兵は正式に底止さ

れ、港境の軍鎮には節度使の統率の下に職業軍人が常駐するようになったのである。このような東北漫境のありさまを、

詩聖杜甫は次のように一詠んでいる。

かちどさ

凱を献ずること日びに腫を縫ぎ、南蕃は静まりて虞れ無し。

-103一

漁陽は豪侠の地、鼓を撃ち笠竿を吹く。

雲帆は遼海に時じ、鞭栢は東呉より来たる。

越の羅と楚の練と、輿蓋の躯に照り耀く。

主将の位は盆ます崇まり、気は騎りて上都を凌ぐ。

(

迭人は敢えて議せず、議する者は路衝に死す。

333

幽州を中心とする東北進境地帯への物資のこのような活滋な流れは、

の存在を前提としてはじめて可能になると考えられる。

この地域における大きな消費人口(非農業人口〉

また嘗時(天資末)の幽州・滋州等に肉行・米行・糧米行などの

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334

(

m

m

)

「行」(ギルド〉組織の存在していたことが、石刻史料によって確認できるが、

家族を主要な顧客とする一商業が行われていたことを示唆するものといえよう。

これなどは漫境の都市において傭兵とその

次に、この時期に東北謹境の軍鋲に職業軍人として駐留していたと思われる人物の例を見てみることにしよう。

一卒州

一代々慮龍軍に従い、樽賂となった家の出身。租・父は豪侠を以て

一沓一四

知られ、彼自身も開元末に卒虚軍使安藤山の前鋒兵馬使となり、

一新一一一

O

戦功により左清道率府率・武術賂軍を授けられた。

朱懐珪

一幽州昌卒照

一天賓初、沼陽節度使義寛に仕えて街前賂となり、折衝賂軍を授け

一奮二

OO下

られた。

一新二二五中

董秦

一卒虚

一代々幽州荷豚に住む。わかくより従軍し、歴代の沼陽節度使(醇

一沓一四五

(李忠臣)一

楚玉・張守珪・安藤山〉に仕える。戟功により折衝郎防柑・将軍同

一新二二四下

正を授けられ、卒虚軍先鋒使となる。

一新二二五中

一燕州遼西豚

-わ

一新一七

O

-勇

一幽州

一わ

陳利貞

一幽州泡陽豚

一卒慮中阜終

一新

一一一一六

邪君牙

一滅州繁華町豚

一わかくより幽繭・卒慮に従軍し、戦功により果毅・折衝郎絡を授

一奮一四四

けられ、卒虚兵馬使に充てらる。

一新一五六

張孝忠

一笑族

一父の代に唐朝に飼順。天賓末、安藤山の奏により偏賂となる。戟

↑奮一四一

一功により瀦源府

(泌州〉折衝を授けらる。

一新一四八

姓田承嗣

-104ー

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向可孤一東部鮮卑字文部の別種一代々松漢の聞に居住。天賓末に濁順し沼陽節度使安稼山につかえ一奮一四四

る。

一新一一

O

張中冬山

一泡陽城傍の実族一沼陽節度使の終・張鎖高の俵子。虚龍府果毅を授けらる。

一奮一四一一

〈李賓臣〉

新一一一一

劉客奴一懐州武捗豚

一征行により幽州昌卒鯨に移住。卒虚軍に従う。関元中(節度使醇

一奮一四五

(劉正臣)一

楚玉のとき)戦功により卒伍の身で左駿衡将軍を授けられ、遊突一新

一五一

使

張蔦一随

一貌州元城将

一曾祖から父までは皆明経科から豚令・州佐となった。高一一隔は儒皐一奮一五二

一を皐んでも出世しないと考えて騎射を皐び、十七、八歳にして王

一新一七

O

斜斯に従って東北逸境に従軍し、終となって舗還。

嘗閏圏

一合州(六胡州の一〉河

一わかくして遊侠となり東北透境に赴き、軍人となる。安史の飢で

一『京畿家墓遺文』巻中

一曲

一は反蹴軍の賂として抜擢され活躍。反飢末期に朝廷に腸順し、奮

の宮口問を安堵される。後、成徳軍節度使麿下の部賂となる。

楊孝直

一幽州

一曾祖・租は共に慮龍軍の軍人であった。父は成徳軍節度征馬野牧

一『裏陽家墓遺文』

使粂中軍都兵馬使にまでなった。孝直も成徳藩鎖下の時間校であっ

た。

※表中、奮は奮唐室日本俸を、新は新唐童百本俸をそれぞれ示す。

以上の諸例からもわかるように、彼らは開元年聞から天賓年聞にかけて、幽州一帯に傭兵として移り住んでいる。ま

た、南北南方向からの人の流れがあり、それが幽州附近で合流していることも確認できる。

335

以上に述べてきたことをまとめると、次のようになろう。河南諸藩銀麿下の軍陵は、その淵源を八世紀中頃の東北進境

開元

・天貫年聞に南北南方向から移動してきた胡漢混合の職業軍人に

の節度使(沼陽・卒虚)の軍に有した。

」の軍は

-105ー

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336

よって構成されていた。彼らは過境防衛のための傭兵として、

家族を伴って軍鎮に駐留していた。そして東北進境におけ

る大規模な職業軍人集圏の出現は、江南から幽州一帯への活溌な物資の流入を招き、都市(軍鋲)での一商業活動をも促進

したのである。

河南「順地」化のプロセス

前一軍でみたように、安史の乱を契機として河南に置かれた諸藩鎮は、その淵源を八世紀中頃の東北過境にもち、その藩

・軍陵はいずれも安史の凱時期にそこから南下してきたものであった。木章では、代宗期から憲宗期、更には穆宗期に

かけての、河南諸藩銭に射する唐朝の政策を検討し、その河南「順地」化のプロセスを跡づけることとしたい。

t→

-106ー

河南節度使の解瞳

安史の乱後、唐朝が最初に解位した藩銀は、沖州に舎府を置く河南節度使であった。安史の飽勃設以後庚徳二年(七六

財務官僚劉長の手で麿念慮置が施され、翌永泰元年には沖河の開通に一臆の目

四)まで途絶していた作河による潜運は、

(

)

途を立て得るに至っていた。漕蓮の再開に伴い、唐朝は、沖河による物資職迭の安全を園るべく、運河沿いの節度使、即

ち河南節度使をその警防に嘗たらせ、それに劃する幾分の財政的措置を講じる。首時、安史の乱による混凱のあとを承け

て休河一帯は「百姓彫残し、地閑人稀にして、多く盗賊有り、漕運一商放は顛虞を兎れず」という朕況にあった。そこで、

永泰元年四月、朝廷は、前年に亮じた李光弼に代わり河南・准西・山南東道の諸行替を都統していた東都留守王繕に命じ

て、河南節度使と計舎一商量の上で、作河南岸に二騨ごとに防援の兵三百人を置き、盗賊の捕捉にあたらせるようにしたの

である。

警防に従事する兵の生活保障としては

「側近の良沃なる田」が支給されることになっていた。唐朝は生命線とも

(mA〉

いうべき沖河経由の漕運を、河南節度使によって確保しようとしたのであった。

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だが、唐朝は河南に展開する軍事勢力に劃する十分な指導力をもっていなかった。安史の凱末期に揚州で起こった劉展

の観の鎮匪に向かった卒宜兵馬使田紳功は、見鎮藍後十日聞にわたって揚州を掠奪し、更にこの地に留まろうとさえした。

また同じ頃、亮州・郡州で史朝義の部勝と戦っていた向衡・股仲卿は、唐朝からの入朝命令を無視していた。神功を河南

の地に還らしめ、向衡らを入朝させたのは、河南副元帥、都統河南・准南東西・山南東・刑南・江南西・新江東西八道行

(

m

U

)

(

ぬ)

営節度として潤州に出鎖していた李光弼の徐州への北上であった。唐朝は、郭子儀と並んで武動赫々たるこの武将の威光

により何とか諸藩帥を制禦し得たのである。李光弼は贋徳二年七月に世を去るまで徐州に駐留する。だが、彼もまた唐朝

(

)

の入朝要請を納れず、江准の糧運を促すためと稿して数蔦の兵を擁して徐州に居座ったのであった。そして、彼の威光も

(MM)

死の直前には衰えており、唐朝は彼の死を契機に、河南把握のための新たな手段を講じなければならなかった。

(

)

田神功、が河南町度使となったのは、徐州で李光弼が亮じた年のことであった。代宗の快州蒙塵に際して河南(究部節度

-107-

禁軍の指揮を取りしきるなどして代宗の信任を厚くしていた神功は、皇帝一の慰留を固辞して、河南節度

使として再び河南の地に舞い戻ったのである。

唐朝は、河南節度使の動きを牽制すベく、徐州の奮李光弼曙下の軍にいた劉昌(休州開封の人)を宋州に婦らせ、牙門将

(

)

とした。彼は、安史の凱の際に史朝義軍の包園攻撃から宋州を守り抜き、のち李光弼の軍で重用されていた人物だった。

一方、田神功は大暦二年に入朝し検校向書右僕射を授けられ、防秋兵の汲遣にも協力するなど、専ら中央との関係維持

に努めていた。そして二度目の入朝(大暦八年J九年〉の折、京師で莞じたのである。

使〉より入朝し、

節帥の死去に伴う軍の動揺は、早くも神功の死の翌月に表面化する。徐州で寧蹴が護生して刺史が逐われ、また防秋兵

(

として西北進境に赴いていた河南節度使曙下の兵千五百人が「庫財を盗んで潰信仰」したのである。唐朝が直ちに神功の弟

で曹州刺史の田神玉を休宋留後に任じ、軍内部での節帥ポストの縫承を認めたのも、沖河防衛に掲わる節度使麿下の軍の

337

動揺を最小限にとどめようとしたからに他ならない。

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338

しかし、陸賛によれば、神玉の統治は「維禦方無く、

経略制を失」うありさまで、その結果「権は豪賂に蹄し、勢は列

(川崎)

放に散ず」という紋況を招いていた。

紳玉の死の直後に休州で起こった李霊曜の凱は

かかる素地を有していたのであ

る李霊曜は、紳玉の死去した大暦十一年五月嘗時、休宋〈H

河南)節度使下の都虞候であった。彼は節帥の死後、兵馬使・撲

州刺史の孟壁を殺し、貌博の田承嗣と手を結ぶことで節度使ポストの縫承を狙った。唐朝はこれに射して、永卒軍(滑事〉

節度使李勉に休宋節度留後を{兼ねさせ、霊曜には楼州刺史の地位を輿えることで事態の解決を園った。だがこれは霊曜に

(

)

拒否され、唐朝はやむなく彼を休宋留後に任命する。留後となった霊曜は更に、自分の息のかかった者を管内八州の刺

(お)

「河朔の奮事」の河南での賀行を試みる。ここに至って唐朝はようやく霊曜討伐を決定したのである。

史・際令とし、

李霊曜討伐には救命を受けた准西節度使李忠臣・永卒軍節度使李勉

・河陽三城使馬爆の他に、准南節度使陳少激と側室円

節度使李正己が出兵したこともあって、反見自鐙はわずか三か月で鎮座された。だが問題は事後庭理であった。まず沖州

の蹄属についてであるが、霊曜が放棄した休州城には既に李忠臣が入城していた。忠臣の暴戻を知る他絡は彼と功を必ずう

(

)

(

)

ことを避けた。唐朝は休州を准西の領州とし、治所をここに徒すことを許ささるを得なかったのである。また、霊曜を檎

(

H

U

)

え京師に械迭した李勉の功により、永卒軍節度使には宋・四二州が領州に加えられた。

そして楢青節度使には莞・都・

(

m

U

)

・濃

・徐五州が領州に加えられた。これらの諸州は李正己が組中に占領し自領化していたもので、唐朝はそれを事後承

-108-

認したわけである。

かくして河南節度使はその領州を三分割され解鐙されたのであるが、このことは唐朝にとっていかな

る一意味をもっていたのであろうか。

そもそも唐朝が李璽曜討伐に及んだ原因は、留後となった霊曜が管内刺史

・鯨令の自署リ「河朔の奮事」を行なったこ

とにあった。休河の警防にあたる藩鎮の「反側」化は、唐朝にとって容認し得ないものだったのである。また、討伐軍の

編成に際しても、唐朝は細心の注意を梯

った。李霊曜の背後には説博節度使田承嗣がいて彼を支援してレたため、討伐に

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は相嘗強力な軍事力が必要であったが、

唐朝はそれを河南随

一の兵力を誇る溜青節度使からではなく、

(

)

調達した。唐朝は、河朔三鎮や山南東道節使度梁崇義と連絡を取りあっていた楢青節度使(李正己)よりも、過去何度か入

(

)

朝している准西節度使(李忠臣〉の方を選んだのである。沖河沿岸地域に河朔三鎮的要素を入れない||

これが唐朝の目指

(

したところなのであった。

准西節度使から

だが、結果は必ずしもこの方針に遁うものではなかった。確かに「反側」化の危機にあった河南節度使は解鐙され、運

河地帯の

。河朔三銀化。は防ぎ得たかのように見えた。しかし、反凱討伐嘗-初から猶青節度使の介入を許し、範後の慮置

で占領地の五州を領州として楢青に輿えてしまったことは、唐朝にとって大きな誤算であった。とりわけ沖河南部の漕運

援貼・涌橋を含む徐州が楢青節度使の領州となり、そこに重兵が置かれたことは、作河による漕運を行なう上での大きな

脅威となった。また、准西節度使は、新たに領州となった沖州に禽府を置いたことで、漕運の要衝への進出を果たした。

(

李忠臣は以前にも領内で一商一税を課していたが、沖州進出はそれとは比較にならぬ程の牧入をもたらしたに違いない。そし

てこのことは、三年後の大麿十四年

m七七九)の李希烈による李忠臣追放事件の遠因となっているのである。

-109一

亡コ

建中期の節度使反範

准西節度使が治所を休州に徒してから三年後の大暦十四年三月、節度使李忠臣は李希烈(蛍時左府都虞候)を中心とする

将校グループによりその位を逐われた。休州での李忠臣は、妹靖の張恵光を節度副使に抜擢して軍政を委ね、恵光の子を

牙絡に取り立ててその横暴を許すなどして、軍の反設を招いていた。軍の信任を得ていた李希烈が張恵光父子を殺し忠臣

(円引〉

を追放するに至った原因はここにあった。

339

唐靭は追放されてきた忠臣に節度使以外の肩書を安堵する一方で、希烈に准西節度留後の地位を輿えて現欣を容認し

た。但し、治所の置かれていた沖州は永卒軍節度使(節帥日李勉)の領州としてその舎府をここに徒し、准西節度使の治所

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340

(

)

は察州に畏された(希烈は奈州刺史を拝している)。李勉は『新唐書』巻

一コ二

に「宗室宰相」として立侍されている人物で、

大暦八年(七七三)以来、氷卒軍節度使として滑州に鎖していた。彼は嘗時の河南地域における唯

一の中央直涯の文臣節度使

であり、彼に休州を治めさせる試みは、失敗には移ったものの、田紳玉の卒した時にも行われていた。唐朝は、准西での軍

による節帥交代を認める代わりに、漕運の援黙

・一昨州を中央から波遣した文臣節度使に統治させるようにしたのである。

(

)

この年の五月に代宗が崩じ、

徳宗が即位したこともあって、李希烈の節度使への昇格はあっさり決まった。

加えて同年

(印)

九月には、徳宗から「准寧軍」の軍抗を興えられた。更に建中二年(七八一)には、希烈の再三の要請に答える形で、彼を

漢南漠北兵馬招討使に任じ、河北三鎮

・悩背節度使と結んで不穏な動きを見せていた山南東道節度使梁崇義の討伐を委ね

(

た。山南東道節度使の治所が置かれていた裏州は、江南と開中を漢水経由で結ぶルlトの要衝であり、河北三鎮や溢青節

(

)

度使によって休河による潜運の安全が脅かされていた首時にあっては、唐朝にとって重要な地黙であった。したがってこ

-110ー

の地に譲る節度使の「反側」化は唐朝の容認できぬところであった。それゆえはじめは河北三銭

・猶青の情勢を考え合わ

せて山南東道と事を構えぬよう努めていた唐朝も、希烈の度重なる要請により最終的には彼を信用して梁崇義討伐に踏み

(

)

切り、反射意見をもっ宰相楊炎の護言擢を奪っ

たのである。

希烈は梁崇義を豪州に滅ぼすと、ここに軍を駐屯させ、山南東道の地を手中に牧めようとした。結局このもくろみは、

唐朝が河中苦ノの李承〈建中一初に瓢捗使として准西を訪れ、希烈に梁崇義を討たせることの危険性を指摘した人物)を山南東道節度使

に任じ喪州に汲遣したため寅現を見ず、希烈は大掠奪ののちやむなく奈州に引き揚げた。しかし彼はその後も牙賂を裏州

(

)

に残して掠奪品の管理にあたらせ、これとの連絡を頻繁に行なっていた。かかる希烈の態度にもかかわらず、唐朝はその

(

)

功を録し、彼に検校右僕射

・同卒章事を加え、質封五百戸を輿えた。そして翌建中三年には、節帥の世襲を求めて河北三

(回)

銀と連合して唐朝と針立していた諮青節度使李納の討伐に再び希烈を起用した。唐朝はこの時貼ではまだ准西節度使によ

る河南の「順地」化に固執していたのである。

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だが、李希烈の思惑は遣っていた。彼は秘かに李納と結んで、共に沖州を襲うことを計量していた。溜車円討伐の命を受

けた希烈は麿下の兵三高を率いて察州から許州に移動し、作州進出の機舎を窺った。李納も遊兵を出して沖河を渡り希烈

(

m

を迎える意を示した。そして建中三年十二月に、既に王を自稽し、唐朝との針決姿勢を鮮明にしていた河北三銀・楢青の

(

諸簡帥の勧めもあって、希烈は「天下都元帥・太尉・建輿王」を自稿して作州への準撃を開始したのである。

に沿って兵を進める一方で、周圏に展開する交、逼路(物資輸迭路)の援黙への攻撃も行ない、

前年九月に起こった朱枇の凱で奉天への蒙塵を徐儀なくされていた徳宗は、

建中四年(七八三)十二月、休州は希烈の手に陥ち、翌輿元元年正月に、希烈はここで大楚園皇帝に即位する。彼は運河

(

一時期その遮断に成功する。

一時的にではあるが危機的朕況に追い込まれ

たのであった。

この危機を救ったのが宣武軍節度使であ

った。この節度使は、建中二年に永卒寧節度使の領州の一部(宋・事・頴三州〉

を割いて置かれたもので、簡帥には宋州刺史劉玄佐〈治)が起用された。彼は、李霊曜の飽の時に永卒軍街持として兵を

)

率いて宋州に入城し、節帥李勉の奏箸によりそのまま宋州刺史となっていた。従って、設置嘗初の宣武軍節度使の軍陵

は、永卒軍節度使出身の兵が中心となっていたものと考えられる。既に徐州

・濃州をめぐる潜青の李納との戦いで功を立

興元元年十一月、

-111ー

これを察州に退却させたのである。唐朝は沖州を宣武箪節度使の領州に加え、

〈臼〉

ったのは、貞元元年〈七八五〉六月である)。

劉昌(行管諸軍馬歩都民候)・曲環(隣右

・幽州行管節度使)らと共に希烈を休州に攻め、

(mm)

治所もここに徒した(玄佐が粂休州刺史にな

てていた玄佐は、

だが、宣武軍節度使の出現は新たな問題を生み出していた。言うまでもなくそれは「騎兵」の問題である。沖州の軍隊

は、「財を軽んじ義を重んじ、厚く軍士に賞した」と言われる節帥劉玄佐のもとで急速に増強され、その数は十蔦に上つ

(

)

(

)

たという。准西節度使李忠臣が沖州に鎖していた時に形成されたと言われている宣武軍の「騎兵」の淵源については、既

(応)

に堀敏一氏により指摘されている河南節度使麿下の軍の他に、

341

永卒軍(滑州)節度使磨下の軍も考えねばならない。先に

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342

述べたように、宣武軍節度使曙下の軍は、設置嘗初より永卒軍出身の兵を中心として構成されていた。そしてその、氷卒軍

(前)

上元二年(七六一〉に安史の反鋭軍から蹄順してきた令狐彰を滑州に安堵して置かれた藩鎮であり、その曙下

節度使は

の兵は河南節度使と同様に、安史の乱の際に東北漫境から南下してきたものと考えられる。令狐彰の卒した直後に「滑の

一一一軍」に-彰の子・建を節帥に擁立しようとする動きがおこるが、これなどは同じく北来の兵を主鐙とする河北諸藩銭と共

(

)

通する現象である。その後、永卒軍節度使の治所は大暦十四年に滑川から休州に徒され、それに伴ってその牙軍も沖州に

(同山〉

移動した。そして李希烈の沖州占領(建中四年〉後の混凱の中で、節帥李勉は麿下の丘二高品献を全て劉玄佐に授けてしまう。

玄佐による「騎兵」の増強は、これら様々な過程を鰹て彼の麿下に入ってきた丘一を再編したものではなかろうか。休州の

「騎丘(」もまた、安史の凱の落とし子であった。そして唐朝は運河嬢黙に再び厄介な爆弾を抱え込んでしまったのである。

しかし、ともあれ李希烈の勢力は沖州撤退後徐々に衰えてゆき、希烈は貞元二年(七八六)四月に大将の陳仙奇により暗

(

)

唐朝は彼を准西節度使とする。

-112-

殺される。

仙奇は直ちに唐朝に降伏し

そしてその領州を反範前の十州(察・申

・光・

この時准西を分割・解践しなかったの

安・新・賀・許・

誇・随

・唐州)から四州(奈・申

・光・随州)に削減したのである。

(

は、おそらく建中三年に行なった成徳軍節度使分割の失敗に鑑みてのことであろう。だが結果的には、准西節度使は周園

を所謂「順地」節度使(中央から直接波遣された官人が節帥をつとめる節度使)に包圏されたことになり、

唐朝の准西

「順地」

化はほぼ達成されたかに見えた。

だがそれから僅か三か月後、節度使陳仙奇が兵馬使呉少誠に殺害され、

少誠が自ら留後となったことで事態は饗化し

た。唐朝は度王諒を節度大使(逢領)とした上で、少誠を准西節度留後として認め、その一方で、李希烈討伐で功のあった

(九)

曲環を、新設した陳許節度使の節帥に任じ、北から准西の動きを牽制させた。臭少誠は幽州瀦鯨を本貫とするが、父の朔

は貌博節度使下の都虞候であった。剤南節度使の街門賂だった少誠が准西簡度使麿下の絡校となったのは、李希烈が梁崇

義討伐を行なった時のことで、希烈に策を授けて寵任され重用されるに至ったのであった。留後となった少誠は、塵下の

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(η〉

軍の強佑に努め、朝廷の命に従おうとしなかった。このため唐朝は彼の節度使昇格を泣っていたが、軍内で生じた少誠の

(

η

)

やり方を潔しとしない者たちによる少誠追放の企てが失敗に終わると〈貞元三年五月〉、財政難に苦しむ唐朝にもはや打つ

(

手はなく、彼を節度使とせざるを得なかった(貞元五年〉。

准西節度使は、領州を制られ周圏を「順地」節度使によって園

まれながらも、精兵を擁して時に不穏な動きを見せる、唐朝にとって油断のならぬ節度使であった。この准西節度使の他

「騎兵」で鳴る宣武軍節度使や河南・河北随一の重兵を擁する楢青節度使を抱える河南地域の「順地」化を成し、途げ

たのが、所謂。憲宗の中興。なのであった。

准西・溜青の「順地」化||「中興」の完成||

建中J貞元初の河南・河北の諸藩鎖との戦いに力を使い果たしたかのように、その後の徳宗朝の劉藩鎖政策は妥協的な

ものとなる。その原因の一つは、従来から指摘されている唐朝の深刻な財政難である。だが建中年聞の節度使反凱の主役

-113-

となった河北三鍋・河南二鎮を取りまく環境にもかなりの襲化があったことも考慮に入れねばなるまい。河南について言

えば、前述のように、准西節度使は領州を削減された上、

周囲を

「順地」節度使(陳許・准南・都岳・山南東道)に園まれ

たとえば果少誠は、宣武軍節度使における節帥劉土寧の追放(貞元九年(七九三)

(

十二月〉や陳許(忠武軍)節度使曲環の死去(同十五年〈七九九V

八月〉を契機として兵を動かし、後者の場合は唐朝と事を構

て容易に身動きのとれぬ状態であった。

えるまでに至る。だが、李希烈の時のように長期にわたって唐朝と戦うことは避け、戦いは一年除りで終結している。ま

た、少誠の後を嗣いで節帥となった呉少陽は、

室時州の茶山を掠し、亡命を匿って麿下の軍の充買を園る一方で、屡々朝廷

(河)

に牧馬を献上して中央との関係にも気を配っていた。

343

沖河南部の要衝である徐州を失っていた。既に建中二年

(七八一)の段階で刺史の李消が唐朝に鯖順し、翌三年に徐海、好都圏練観察使に任ぜられていた。しかし海・肝南州は李納

また楢青節度使は、

河南節度使分割の際に得た五州のうち

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344

(竹川〉

の勢力下にあ

ったため、貫際には李消は徐州

一州に擦っていたにすぎなかった。彼の死後、高承宗

・明麿父子が徐州刺史

(

)

を縫承するが、徐州が側室円の影響下から完全に濁立するのは、貞元四年(七八八〉の徐澗濠節度使の設置を侯つてのことで

(

)

ある。節帥張建封は、安史の観で唐朝側に立って河南で活躍した豪侠・張新の子である。彼は貞元十六年に卒するまでの

(

十三年開徐州に銀し、軍州はその治を稽賛したという。浴室円節度使は休河沿いへの進出をこの節度使によってはばまれた

のであった。

かかる朕況の下で行なわれた憲宗の封藩鎖強硬策が成功を牧め、唐朝の「中興」が成し遂げられたことは、史上絵りに

も有名であり、先行研究も数多い。それゆえ本簡では、憲宗によって討伐された河南二鎮の戦後慮理に注目し、

「反側」

藩鎮の

「順地」化のプロセスを跡

e

つけたいと思う。

(

)

元和十二年(八一七)十月、准西節度使は、畏元済(臭少陽の長子。少陽の死後准西節度留後を自薦)が唐朝に降伏したことで、

-114ー

その「反側」の歴史にピリオドを打った。奈州に入城した李恕は、元演を京師に械迭(のち慮斬〉した以外は、

(

)

吏・帳下・厨廠之卒」を全て復職させる方針をとった。女いで准西節度使として入城した表度は、察州の兵つまり呉元済

の率いていた兵を牙兵とする一方、呉氏の時代に准西の人々に諜せられていた巌しい統制を解除した。また、准西管内の

(

百姓には復二年が給された。同年十二月、襲度に代わって節帥となった馬摺は、数令を設け賞罰を明らかにし、反側時代

(UM)

の痕跡を登く取り除くことに努めた。そして翌年五月、准西節度使の三つの領州は、それぞれ別々の藩銀に属することと

(民山)

なった(奈州↓忠武箪節度使、申州↓郡岳観察使、光州↓准南節度使)。これらの簿鎮は全て「順地」節度使であり、その藩帥は

「元済の官

中央から波遣された官人であった。こうして准西節度使の嘗領は段階的に唐朝の地方統治瞳制下に組み入れられていった

のである。ただ、

かつて「螺子箪」として知られた准西の牙軍の停統は、察州を領州にもった忠武軍節度使磨下の軍隊に

太和八年(八三四〉から開成二年(八三七)にかけて忠武軍節度使をつとめた杜憶に嫁した岐陽

公主の墓誌は、忠武箪麿下の軍を「強雄にして、且つ劇寵を携う。始めより多く武臣を用い、治は各おの己れに出づ。部

受け継がれたようである。

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曲家人の政を庇り法を弛むること、習いて循常と漏る。有司は用て溢障の遠地に比し、部置して問わず、民も亦た甘心た

(

)

(

り」と記しており、そのありさまには、奮准西節度使曙下の軍を努霧させるものがある。また、昭義軍(淳路)節度使劉

(同山)

従諌の死後生じた劉槙の蹴の討伐に赴いた忠武軍の軍隊は「精勇」をもって稽されたという。これらは、准西節度使卒定

時にその牙軍を解睡しなかったことによるものと考えられる。李希烈以来約五十年開にわたり中央と封崎してきた准西の

地を治めるにあたって、唐朝は、中央から汲遣した節帥を通して法の巌正な施行と「賦の偽迩」の除去は行ない得たもの

の、斐度が察州の兵をそのまま自らの牙兵としたことに象徴されるごとく、その淵源を安旅山磨下の卒車・幽州節度使の

軍にもつ准西の牙軍の解鐘には手をつけることができなかったのである。

次に溢車円節度使について見てみよう。溜車円前度使の討伐成功は、憲宗の藩鎮討伐の最後を飾るものであった。そしてそ

れは、准西節度使討伐成功後の河北諸藩鎖及び宣武軍節度使の蹄順という朕況の下で達成されたものであった。元和十四

年(八一九)二月、都知兵馬使劉悟により節度使李師道が討ち取られ、

指圭円卒宜軍十二州が卒定されると、朝廷は直ちに戸

部侍郎楊於陵を宣撫使として涯遣し、人口・土地・軍隊・調達可能な食糧の量などを勘案した上で、その版園を三つに分

割した。そして、秘かに詣青十二州の地をそのまま手に入れようとしていた劉悟に射しては、慎重な手績きを踏んで義成

節度使(滑州)に任じてその野望を砕き、その上で三分した地に各々中央から節帥を涯遣したのである(都商暴等州〔天卒軍〕

(

)

節度使H

馬強、制帽育問円登莱等州〔卒盛寧〕節度使H

醇卒、禿海祈密等州観察使H

王途)。

-115ー

次にこれら三鎮の統治を、蓄制佃青節度使屠下の兵士に劃する封躍を中心に検討してみよう。

まず天卒軍節度使だが、節帥馬摺の俸記には「郡人、摺に附頼す」とのみあって、磨下の兵士に劃する特別な施策はな

では、かつて溢背節度使の曾府の所在地であった都州にいた奮楢青節度使の牙軍は、そのまま

天卒軍磨下の軍として中央から振遣された新しい節帥に仕えたのであろうか。

答えは否である。既に溜青節度使が三分さ

れた時黙で、都州の牙軍は分割されて、売海観察使及び卒宜軍節度使曙下の軍に編入されていた。そして郡州に残った奮

されなかったようである。

345

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346

治虫円牙軍の勝士も、将校のかなりの部分がかつての溢青節度都知兵馬使劉悟の後を追って郭州を去ったと思われるのであ

る。元和十四年二月に義成節度使となって楢青を去った劉悟は、翌十五年正月に入朝したのち、同年十月、昭義軍節度使

(

m

(

)

として調停泌の地に赴いた。この劉悟のもとへ奮楢青節度使の牙軍将校が結集したのである。曾昌三年(八四一二)五月に下さ

(

)

れた「討劉積制」は、嘗時の昭義軍節度使曙下の軍構成を窺い知ることのできる貴重な史料である。それによれば、昭義

軍磨下の賂土は、「昭義軍の嘗将士(李抱園内の創設した軍の系統をひく勝士)」、「昭義軍の奮大将(州兵を統率。前項と同じ系統

をひく〉」、

「劉悟下の郡州の奮将校の子孫」、

の四つに分類でき、

後二者については

一括

「劉従諌の近ごろ招致せし賂土」

して慮分が述べられている。ここで言う「劉悟下の都州の奮将校の子孫」とは、劉悟が溢青で都知兵馬使として統率して

(回〉

「討劉積制」と同じく李徳裕の手になる「論赤頭赤心健児等紋」

いた牙箪の将校の子孫のことである。

(曾畠四年九月)に

も、昭義軍の中核部陵として「都州の父兄子弟及び従諌の慮に招到せし兇悪なる賂健」が翠げられており、都州から奮楢

主円の牙軍将校が津瀦の地に移ってきたことが知られる。また、醤側室円節度使麿下の将校の中には、燕(幽州虚龍軍節度使)・

(川出)

越(銀英成徳軍節度使〉に赴いて従事した者もいた。

-116ー

以上に明らかなように、郡州にいた蓄楢青節度使の牙軍将士は、元和十四年の楢青三分割の時貼で三つに分けられ、残

りの賂校も昭義

・鹿龍

・成徳といった河北の藩銀膳下の軍に移っていった。

つまり、新任節度使馬摺のもとには

かって

唐朝と削創立し干支を交えた屈強な牙軍の将校はさして残っていなかったのである。彼が奮楢圭円節度使曙下の兵士に劃して

何ら特別な庭置を行なわなかったのはこのためだと考えられる。

衣に卒麗軍節度使について検討してみよう。新たに簡帥として汲遣された醇卒は、長慶元年(八一一

一〉十一月、

反凱を起

こした突賂馬廷峯らを珠殺した。廷姿らは、嘗時河北で唐朝に反旗を翻していた幽州節度留後朱克融

・成徳軍節度留後王

庭湊(ともに自稽)を討伐すベく、大将の李叔佐に率いられて様州に向かったのだが、棟州刺史王榎が兵士に食糧を十分

に支給しなかったことが原因で反凱を起こすに至ったのであった。廷峯を主に奉じる反見兵士は青州への引き揚げを開始

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したが、その途上で嘗初は二千絵人ほどだった兵士の数が七千J一高にまで膨れ上がった。これに針し醇卒は、車問州域内

の残留兵の少なさを召募(府庫及び家財による〉によって得た精兵二千人で補い、反凱軍を迎え撃ってこれを破り、

(出山

)

はじめとする反蹴軍士数千人を斬刑壬隠した。反観軍の首領となった馬廷墨は、もと卒直軍の突絡であった。胡三省によ

(

%

)

れば、

突将とは「騒勇馳突の士を領す」る賂校であるから、彼と共に様州に赴き反観を起こした賂士は卒慮軍の牙軍に相

(巾引)

嘗すると考えられよう。醇卒が「兵甲完利、井賦均ごという治績を牧め得たのは、節帥就任後聞もない時期に、奮楢車円

廷峯を

節度使磨下の牙軍将土を彼らの反凱を機に粛清し得たことによると思われる。

売海一計密等州観察使も、結果的には卒鹿箪節度使同様、奮詣主円節度使磨下の牙軍将土の粛清を経て、統治の安定を見て

いる。諮青討伐の際の糧料使としての功を認められて観察使となった王建は、興利の才に長けた人物ではあったが、これ

まで「反側」の地であった地域を統治する力量は持ち合わせていなかった。彼は、諮主円節度使時代からの賂吏を「反虜」

(

)

と罵っ

て彼らの念怒を買い、牙賂の王弁らによって殺害される(元和十四年七月)。この地が再び

「反側」化するのを恐れた

-117ー

唐朝は、首謀者の王弁を開州刺史(山南西道〉に任じ、彼を軍から引き離してしまう(途中、徐州で捕え京師に械迭して庭刑

(ω〉

する)。

そしてその一方で、

もと宣武軍の牙校で橡州刺史の曹牽を後任の観察使に任命する。様州の丘(を率い

て肝州に到

着した曹華は次の要領で奮楢青節度使の牙軍将士を粛清する。藩帥到着を祝う宴席において、彼は、都州からの兵の「轄

徒の第」に劃する天子からの特賜のロ聞を頒給するためと稽し、将士を肝州丘(と郡州丘(とに分けた。そして、折州兵を退席さ

(川〉

せた後に、伏兵を渡して郡州兵千二百人を皆殺しにしたのであるハ元和十四年九月)。

「これより海

・祈の人、

重足股傑た

り。敢て盗を粛す者無し」という史書の記述は、逆に言えば、奮浴室円牙軍将土の粛清なしでは「反側」藩鎮の順地化が困

難だったことを窺わせるであろう。

347

以上に述べてきたことをまとめると次のようになろう。八世紀中頃の幽州・卒屋南節度使に淵源をもっ河南二銭は、と

もに憲宗の針藩鎖強硬策の前に敗れ去り(元和「中興」の完成)、その版園は分割され、藩銀は解健されてしまう。ただ、奮

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348

河南二鎖磨下の牙軍に射する慮遇については、准西と溢青とで異なっていた。すなわち、奈州(奮准西)の牙軍将士が忠武

軍節度使に受け縫がれたと考えられるのに射し、都州(替、指青〉の牙軍は藩鎮の分割と同時に三分され、分割後更に天卒箪

を除く他の二藩鎮では、中央から波遣された藩帥によって奮楢青牙軍将士に射する粛清が行なわれた。これらの藩鎮では、

それを経てはじめて統治の安定を見ることができたのである。ここに「反側」藩鋲の完全なる「順地」化の傑件が見い出

されるのではなかろうか。そしてこの一意味において、元和「中興」は、運河擦貼・休州に鎖する宣武軍節度使の完全なる

「順地」化を達成し得なかった。それが貫現するのは、憲宗の暴崩の後を承けて立った穆宗の時代である。衣節では、元

和「中興」の流れの上に達成された宣武軍節度使の「順地」化

(U

「騎兵」の解鎧)について見てゆきたいと思う。

運河嬢黙の回復||宣武軍「騎兵」の解鐙|

|

本一章第二節で述べたように、建中期に河南・河北の「反側」節度使に射すべきものとして置かれた宣武軍節度使は、節

-118-

帥劉玄佐のもとで急速に兵力を機大した(「騎丘ハ」の出現〉。彼ら騎兵は財物さえ十分に輿えておけば手なずけ得る存在であ

ったが、それだけに唐朝にとっては不気味な勢力でもあった。ましてや彼らは、大運河の援貼・沖州に擦っていたのであ

る。そのため唐朝は、憲宗の「中興」によって河南

・河北の諸藩鋲に劃するイニシアティヴを回復するまでは、宣武軍の

(川)

ほとんど積極的な介入を行なわなかったのであった。

節帥縫承をめぐる度重なる軍凱に射し、

だが、元和十三年の准西節度使に績いて、翌十四年二月に楢青節度使が卒定されたことで、情勢は大きく蟹化した。貞

元十五年(七九九)に宣武軍の節帥となって以来二十齢年間一度も入朝したことのなかった韓弘が、同年七月に馬三千・絹

五十蔦・錦紙三蔦を献上口聞とし「休の牙校千絵人」をひきつれて入朝してきたことは、このことが宣武軍節度使に輿えた

衝撃の大きさを物語っている。

しかも彼は「三たび上一章して竪く戎務を僻し、京師に留まり朝請を奉らんことを願」レ出

たという。憲宗は早速、韓弘の代わりに張弘靖を節帥として休州に涯遣し、宣武軍は第せずして「順地」節度使となった

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(

m山

)

かに見えた。

新たに節帥となった張弘靖の統治は、

「虐政」と言われた韓弘のそれとは正反射のもので、

(附〉

し、厚賞によって軍士の歓心を買うというものであった。韓弘が簡帥となって聞もない貞元十六年(八O-O)三月に「軍中

(山川〉

つまり「騎兵」の中該部分を牙門にて斬殺して以来しばらくの開鳴りをひそめていた沖州

「巌猛」

「寛緩」を旨と

の素より恋横なる者三百人」、

の「騎兵」は、この張弘靖の統治下で復活したものと思われる。

弘靖の大盤振舞いの結果、李患が後任の節度使として沖州に到着した時には、府庫の財物はすっかり使い果たされてい

た。したがって彼が将士に封して十分な賞賛を輿えず、それに不満をもっ兵士に威刑で臨み、更に妻弟にあたる資環に帳

(

)

臣則らが中心となって反凱を起こし賞獲を斬殺、李恩は鄭州へと逃げ落ちた。反凱兵士は都押牙の李芥を留後に推し、朝

ハ問)

廷にこれを認めるよう上奏した(長慶二年(八一一一一〉七月)。

無理からぬことであった。

宣武軍凱の知らせを受けた朝廷の議論は二つに分かれた。嘗時穆宗は、幽州・成徳軍雨簡度使に射し「河朔の奮事」の

(

)

(

)

復活を容認し、更に、前任節帥を逐った王智輿の武寧軍(徐州)節度使就任を許していた。これを承けて三省官や宰相の

ほとんどは、李芥に節鉱を輿える方向に傾いていた。これに射し李逢士ロは、沖州の占める位置の重要性を強調してこれに

-119ー

反射した。雨者の針立により朝議は結論を見ず、穆宗は、作州を除く宣武軍節度使の領州(宋・

事・頴三州)の刺史に一意見

を徴することにした。彼らが一様に別帥の涯遣を要請したことは、軍観が沖州のみにとどまっていたことを示している。

結局、穆宗は李逢士口の意見を採り、宣武軍節度使には韓充(韓弘の弟。かつて宣武軍の親軍を統率)を起用し、李芥は中央に

徴して右金吾賂軍とすることにした。そして李芥がこれを拒否すると、靭廷はその討伐を決定し、武寧軍・忠武寧南節度

(川間)

使を沖州に進撃させた。

349

一方、作州内部では、

李芥に射する朝廷の命令を受諾するか否かで、李芥とその腹心で都知兵馬使の李質との聞で封立

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350

が生じていた。討伐軍が休州に迫るなかで李質は李芥を檎えて殺し、

また芥の命令で官軍と戦っていた李臣則らも謀殺し

(問)

た。そして牙兵に針する毎日の酒食の給興を罷め、新任の節帥・

韓充に劃する受け入れ態勢を整えた。

休州に入城した韓充に劃する将士の評判は、朝廷の思惑通り良いものであった。彼が覗事したことで人心はほぼ定まっ

たのである。その上で韓充は「騎兵」を根絶すベく最後の仕上げを行なう。

(

)

し」、

家族ともども宣武軍から追放したのである。

つまり「密かに軍中の悪を馬す者千絵人を籍

休州の騎兵は史乗から委を消す。そして韓充の後を承けて

(川〉

節帥となった令狐楚の時代(長慶四年(八二四)J太和二年(八二八〉)には早くも

「善地」と稽されるに至ったのであった。

これ以後、

かくして宣武軍節度使も「順地」となった。その過程においてみられた「騎兵」の遁放は、前節で見た卒慶節度使・売

海観察使における奮簡背節度使牙軍将士に劃する粛清と同じ意味をもっと言えよう。安史の飢を契機に成立した河南諸藩

鎮の反中央的傾向を断ち切り、その完全なる「順地」化を達成するには、

それら藩鋲の牙軍

(中核部隊〉

を粛清する必要

-120ー

があったのである。

fこ

本稿では、八世紀後半から九世紀初めにかけての唐朝の劉藩鎖政策を、河南に成立した諸藩銀を針象として考察してき

た。安史の凱を契機に河南地域に設置された河南・准西・楢青の三節度使は、麿下の軍隊の淵源を、八世紀中頃の東北港

境(幽州

・卒虚軍)に有していた。これらの藩鎖は反組中でこそ唐朝のために戦ったが、反凱が終わると、江准地方と開中

の聞に介在し、唐朝の生命線とも言うべき休河を中心とする漕運に脅威を興えるようになる。代宗朝末期から憲宗の「中

興」に至る政治史の大きな流れの

一つは、これらの藩鎖をいかにして唐朝が服従させるか(河南の

「順地」化)であった。

代宗朝末期における河南節度使の解鰻に績き、准西

・楢車阿南節度使も、徳宗朝の領州削減を鰹て、憲宗の針藩銀強硬策の

前に敗れ去り、解鰻を除儀なくされる。また、この過程で休州に現われた宣武軍節度使の「騎兵」も、先の三節度使と同

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じく安史の凱によって東北謹境から南下した軍陵と深く関わっていたが、元和「中興」を承けた穆宗朝に解瞳され、河南

「順地」化の最後を飾る。こうした「順地」化のプロセスを園式化すれば、①反凱節度使の討伐↓②討伐後、中央から節

帥を涯遣↓①藩鎮の分割(解健)↓④新任節帥による奮蕃鎮の牙軍の粛清、となろう。但し、准西・天卒軍雨節度使におい

ては、第四段階の奮牙軍の粛清は行なわれなかった。天卒軍では奮楢青節度使の牙軍賂校が昭義軍節度使に移動しそこで

温存され、准西の奮牙軍は忠武軍節度使麿下で温存された。曾昌年聞の劉積の反凱が前者と、責出来の蹴後の秦宗擢

・孫儒

(

)

の観が後者とそれぞれかかわりをもっているのは興味深い。だがともあれ、九世紀初め以降責巣の凱前夜に至るまで、本

稿で取り上げた河南地域に置かれた藩鎮は、少なくとも表面上は一躍の卒静を保つのである。

河南諸藩鎮の牙軍、それは言わば安史の蹴の落とし子であった。その意味で、九世紀初めの河南「順地」化の完成は、

唐朝にとって、河南における安史の範の

。終鷲。を意味していたとき?えよう。唐朝を崩壊に導いた「武人の岐阜」は、こ

の時船舶で河南では解消されたのであった。

註(1〉

(

2

)

351

全集版『支那近世史』一三ハ二J一一一頁。

「唐末の藩銀と中央権力||徳宗・憲宗朝を中心として

||」(『東洋史研究』三一一|二、一九七三年)。

(3〉『資治通鑑』(以下、一週鑑と略稽〉巻一二七天賓十四載十

一月丙子保。

(

4

)

『通鑑』巻一二九至徳元教十二月係。

(5〉以上の領州は基本的に『新唐書』方銀表によるものであ

る。但し、滋西に関しては、雨唐書

・『通鑑』等によって若

干の補訂を加えた。

-121ー

(

6

)

『遁鑑』巻一一一一一一賓膝元年十月乙亥篠および『奮唐書』各

一二二張献誠俸。

(

7

)

『奮唐書』巻一一一一一、

『新唐書』巻一一一一一一一張献誠停。

(

8

)

以下の田紳功に関する記述は、『奮唐書』巻

一一一四、

『新

唐室百』径

一四四回紳功停及び「宋州官吏八関驚舎報徳記」

(『顔魯公文集』巻

一四)による。

9)

以下の侯希逸に関する記述は、

唐書』巻

一四四侯希逸俸による。

(印〉以下の李忠臣に関する記述は、

『奮唐書』

径一一一四、

<=;)

『奮唐書』径

一四五、

<=;)

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352

唐書』巻二二四下李忠臣俸による。

(日)たとえば「通鑑』各一二八至徳元載八月僚に、「(賊将)十字

庭望終蕃漢二寓徐人東製写陵

・裏邑。」とある。胡漢の混成

で部隊を編成していたのは唐朝軍とて同様であった(『遁鐙』

巻二二二上元二年二月戊辰僚など)。

(ロ)『奮唐室田』径一四四、『新唐書』巻一五六部君牙停。

(日)雨唐書の邪君牙俸は侯希逸と共に南下したとするが、陽惑

元市開(『替唐書』巻一回目、『新唐書』倉一五六)によれば君

牙は李忠臣と共に南下したのであり、彼がのちに田紳功に随

っていることからもそう考えたほうがよいように思う。

(

M

)

雨唐書陽恵元俸を参照。

(お〉

『、7過鑑』

加を二二二上元二年正月丁未傑に、「回一柳功使特進

楊恵元等賂千五百人西撃王階。」とある。

『遁鑑』は巻二二

六建中二年二月乙卯僚で「〈楊)恵元、卒州人也」と記して

いるから、これは雨唐書でいう陽悪元と同一人物と見てよか

ろう。

(お)『唐語林』巻四自新

田紳功自卒虚兵〈馬〉使授櫛背節度、警官皆偏禅時部曲、

神功卒受其拝。

なお、()司内の文字は筆者の剣断で補った。また右引用文

中には「浴青」とあるが、本文の記述は『通鑑』巻一一一一一一賓

膝元年五月僚に従って「究科」と改めた。

(口)たとえば『奮唐書』田紳功俸には「至揚州、大掠百姓一商一人

資産、郡内比屋設掘略編、

一商胡波斯被殺者数千人。」とある。

なお『奮唐書』径一一

O、『新唐書』倉一四一郵景山俸によ

れば殺された一商胡には大食人も含まれていた。

(国)『奮唐室田』巻一四五、『新唐霊園』巻二二五中李希烈停。

(川口)『奮唐書』巻

一八五下、『新唐書』巻

一九七李葱登停。

(初)『通鑑』巻二二五大暦十一年十月丙午係。

(乱)『唐大詔令集』巻一一六「貞元元年慰撫卒虚軍先陥在准西

勝士教」。

(幻)『奮唐書』巻一一一四、『新唐書』巻一一一一一一李正己俸。

(幻)

『逼鑑』各一二五天資元年正月壬子保。

(処〉長征健児制についての記述は、『大唐六典』巻五倫書兵部、

『朋府元勉』倉一二四一帝王部修武備・開元二十五年五月美未

僚に基づいた。なお、これに関しては栗原金男氏の専論があ

る(「長征健児制成立の前提」、『山本博士還暦記念東洋史論

叢』、一九七二年、所牧〉。

(お)『分門集註杜工部詩』巻一五「後出塞」五首のうち第四首。

読み下しは吉川幸次郎氏に従った(『社甫詩注』第三加、筑

陸書房、一九七九年、一

01一一

頁)。

(叩山)曾毅公「北京石刻中所保存的重要史料」(『文物』一九五九

-九)及び佐藤武敏「唐代ギルドの新資料」(『中園史研究』

二、一九六三年〉参照。

(幻〉日野開三郎「粛・代二朝の大漕運と持運使」(『日野開三郎

東洋史皐論集』第三巻、三一書房、一九八一年、所牧)。

(お)

『崩府元亀』巻六回一帝王部設貌令

・永泰元年四月篠および

『奮唐書』巻一一八王繕惇。

『逼鑑』巻二二二上元二年五月僚。

『通鑑』巻二二二賓態元年五月係。

-122ー

(

m

m

)

ハm剖)

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353

『遁鑑』巻一一二三庚徳二年二月僚

上之幸侠也、李光弼寛遷延不至、:::吐蕃退、除光弼東都

留守以察其去就、光弼辞以就江准糧運、引兵腸徐州。

なお彼の率いた兵数は、『新唐書』単位一六一二穆寧俸に「光弼

目、五ロ帥衆数高、震天子討賊」とあるのに援る。

(幻)『通鑑』倉一一二三康徳二年七月己酉僚。

(お)註(8〉参照。

(鈍〉『奮唐書』各一五二、『新唐書』倉一七

O劉昌俸。

(お)『通鑑』巻二二五大暦九年二月辛未候および庚辰係。

(お)『陸宣公集』巻二

O「請不興李高祭休州節度使朕」。

(初出)『遁鏡』巻二二五大磨十一年五月僚。

(お)『通鐙』各二二五大暦十一年八月甲申燦。

(鈎)『通鐙』巻二二五大暦十一年十月丁未僚。

(州制〉『通鑑』各二二五大暦十一年十二月庚成係。

(

H

U

)

『新唐室田』巻六五方銀表・滑衛・大暦十一年の欄。

(必〉『通鑑』袋二二五大磨十二年十二月庚子保。

(日目)註(

m

必)参照。

(必)『通鑑』によれば、李忠臣は、永泰元年(吐蕃入定によ

る)・大暦二年・同六年(防秋丘C

の三度にわたる入朝の他、

大暦十年の田承嗣討伐軍にも加わっている。

ハ必〉前註で言及した田承嗣討伐戟では、李賢臣・李正己の請を

納れ、河東・准西・永卒・休宋・河陽・四停泊の各節度使の他

に成徳・泌青雨節度使も官軍に加えられている(この他に幽

州節度使も加わった〉。代宗期の唐朝の、河南と河北に劃す

る封懸の仕方の遣いを窺い得ょう。

〈担〉

(

)

『奮唐書』巻一五五穆寧停

時准西節度使李忠臣貧暴不奉法、設防成以税一商買、叉縦兵

士剰効、行人殆紹。

(円引)『遁鑑』巻二二五大磨十四年三月丁未僚。

(必)前註に同じ。

(品切)『通鑑』巻二二五大暦十四年閏五月戊子候。

(印)『逼鑑』巻二二六大暦十四年九月甲戊僚および『新唐書』

を六五方銀表・准南西道・大暦十四年の欄。

(日〉『逼鑑』巻二二六建中二年三月僚および巻二二七同年六月

美己保。

(臼)註(幻〉日野論文参照。

(臼)『遁鑑』巻二二七建中二年七月庚申僚。

(臼)『遁鑑』巻二二七建中二年九月壬戊係、甲子保および『奮

唐書』各一一五、『新唐書』巻一四三李承簿。

(お)註〈川崎)参照。

(閃)『逼鑑』巻二二七建中三年七月甲辰係。

(幻)『通鑑』巻二二七建中三年十一月係。

(団〉『、7

週鑑』巻二二七建中三年十二月丁丑僚。

(回〉註(幻〉日野論文参照。

(印〉『奮唐書』巻一四五、『新唐書』巻一一一四劉玄佐俸。

(臼)『新唐書』巻六五方銀表・河南・輿元元年の欄。

(臼)『遜鑑』倉一二三貞元元年六月辛巳係。

(臼)堀敏一「藩鎮親衛箪の権力構造」(『東洋文化研究所紀要』

二O、一九六

O年〉九

O頁参照。

(臼)『奮唐書』劉玄佐停

一 123ー

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354

玄佐性豪修、軽財重義、厚賞軍士、故百姓盆因。是以休之

卒、始於李忠臣、吃於玄佐、而白金属怒、多逐殺賂帥、以

利剰効。

(臼)註(臼〉堀論文八九頁。

(叫山)『通鑑』巻二二二上元二年五月甲午僚および『奮唐書』巻

一二四、『新唐書』各一四八令狐彰俸。

(釘)註(円引)および『奮唐書』巻一一二一、『新庸室田』径二二一李

勉俸。

(回〉『通鑑』巻二二九輿元元年正月戊戊候。

(的〉

『逼鑑』巻二三二貞元二年三月係。

(叩〉『遁鑑』巻二二七建中三年二月戊午係。

(九)

『通鑑』径二三二貞元二年七月保。なお、慶王諒が節度大

使として領した州は申・光・随・奈の四州だった(『唐舎要』

巻七八親王逢領節度使〉が、『通鑑』によれば翌貞元三年間

五月に随州は山南東道節度使の領州となっている。

(花)『替唐書』巻一四五、『新唐書』得一一一四奥少誠停。

(河)『加府元亀』巻七六二総録部忠義・郷常候。繋年は遁鑑に

ιwhv

(叫)領州は察・申・光の三州である。註(九)参照。

(万)『通鑑』巻二三四貞元九年十二月乙卯篠および巻二三五同

十五年八月丙申係。

(町内)『奮唐書』各一四五、『新唐書』各一二四奥少陽停。

(作)『通鑑』巻二二七建中二年十月傑および同三年三月乙未

係。『沓唐書』巻一一一徳宗本紀も同様の記事を載せる。『奮

唐書』倉一一一四、『新唐書』径一四八李消停および各六五方

銀表は「徐海済密園練観察使」とするが、今は従わない。

(沌)『醤唐書』巻一一一徳宗本紀建中三年九月丁亥僚および輿元

元年五月美酉係。

(河)『遁鑑』巻一一一一一一一一貞元四年十一月像。

(初)『奮唐室百』巻一四

O、

『新唐書』径

一五八張建封停。張建

封の死後、節帥縫承問題をめぐって徐州の「飢丘ハ」が表面化

する。本稿では徐州の

。騎卒ク

の問題に全く燭れることがで

きなかったが、先行研究としてこれに言及したものに谷川道

雄「廃動の鋭について」(『名古屋大皐文且宇部研究論集』一

一、一九五五年)がある。

(凱)『奮唐書』巻一四五、『新唐書』巻一二四呉元済停。

(位)『通鑑』巻二四

O元和十二年十月甲氏候。

(回)『奮庸書』巻一七

O、『新唐書』巻一七三裳度惇および

『通鑑』巻二四

O元和十二年十月甲申係。なお、憲宗は准西

卒定の直前に、監軍梁守謙に剣を授け「牽く元済の奮絡を

謙」するよう命じたが、裳度はこれに従わず、罪状を量って

刑を加えている。

(剖)『奮唐書』巻一五七、『新唐書』径一六一一一馬擦停。

(お)『逼鑑』巻二四

O元和十三年五月丙申僚。

(臥山)『焚川文集』巻八「唐故岐陽公主事誌銘」。

(的町)太和元年に卒した忠武軍節度使王浦の後任に高璃が選ばれ

た理由として、彼がかつて陳・察二州の刺史を経験していて

民がその良政を懐っていたことの他に、彼が「忠武の軍情」

を熟知していたことが奉げられている(『奮唐書』巻

二ハ二

本俸)。

-124-

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(回)『通鑑』巻二四七舎昌三年十二月丁巳僚に、「忠義軍素挽

精勇、王宰治軍鍛整、昭義人甚俸之。」とある。

(回)『通鑑』巻二四一元和十四年二月己己保および同年三月戊

子保。

(卯)『醤唐書』各一五憲宗本紀元和十五年正月丙申燦および各

一六穆宗本紀同年十月乙酉候。

(川出)堀敏一氏は、

『焚川文集』巻

一一「上李司徒相公論用兵

書」に「劉悟卒、従諌求縫、輿扶向者只都州随来中軍二千

耳。」とあるのを引用し

て、劉倍は「卒虚以来の二千人の手

兵をひきいて、

部州より滑州へ、滑州より瀦州へとうつ

た」とする(註(臼)論文一一一一J一一一頁)。だが、劉悟は滑州

から一日-入朝した後で瀦州に移っていることを考え、今はこ

れに従わない。

(但〉『李術公曾昌一品集』径三。緊年については、待攻涼『李

徳裕年譜』(融問魯書位、

一九八四年〉に従った。

(回〉

『李術公舎日日一品集』径

二ハ。

(倒〉『奮唐室田』巻

二二三李恕俸に、「猶青卒、終有事燕

・越。」

とある。

(%)『遁鑑』巻二四二長慶元年十一月辛酉篠およびその僚の通

鑑考異。

(Mm)

『通鑑』巻二二二賓膝元年建卯月乙丑僚胡三省注に

「突

勝、以領時腕勇馳突之士。」とある。

(

m

別〉『靖国唐書』各

一二四醇卒俸。

(mm)

『奮唐書』各一六二、『新唐書』巻一一六王途博。なお

『遁鑑』各二四一元和十四年七月辛卯僚は、王弁を

「役卒」

とする。

(的)『通鑑』各二四

一元和十四年九月戊寅係。

(川川)前註および『沓唐書』巻二ハ二、『新唐書』各一七一一曲目牽

俸。

(川)

『遁鑑』各二三五貞元十六年三月傑およびその僚の胡三省

注。唐朝が中央から源遺した節帥は董E

日と陵長源のみであ

る。葦孟日は

「事、因循に務める」ことで、峻法を以て騎兵に

臨む行軍司馬陸長源に射する箪の不満を抑えた。奮の死後節

帥となった長源は就任直後、軍飢により殺されている(『奮

唐書』倉

一四五、

『新唐書』巻一

五一

堂墨田停、陸長源惇)。

(mM〉『醤唐書』巻

一五六、

『新唐書』巻

一五八韓弘俸。

(附)『奮唐書』巻一一一九、『新唐書』巻一二七張弘靖俸。

(山川)註(印)参照。

(陥)『頼回唐書』径一

一二一二、『新唐書』巻

一五四李百也市博および

『通鑑』袋二四二長慶二年七月壬辰係。

(山川)『通鑑』巻二四二長慶元年十二月乙酉僚および同二年二月

甲子僚。

(附〉『、通鑑』巻二四二長慶二年三月己未係。

(川川〉『逼鑑』巻二四二長慶二年七月乙巳傑および丙午係。

(附〉『奮唐書』各

一五六、『新唐書』巻

一五八韓充停お

よび

『遁鑑』巻二四二長慶二年八月丙子保。

(川)『通鑑』巻二四二長慶二年八月笑未係。

〈川)『奮唐番』各一七二、

『新唐書』巻

一六六令狐楚俸。

(川)『奮唐書』各二

OO下、『新唐書』悠二二五下秦宗権俸お

よび

『新唐書』巻

一八八孫僑俸。

-125ー

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concerns whether the fragment is in factfrom the Department of Water-

ways.

 

The second concerns whether the document actually dates from

Kaiyuan 25。

  

This author, aftera detailed examination of the data behind these

new ideas, has come to the conclusion that the new theories do not stand

up, and that the original popular view is correct. However, the basis

for the popular view needs to be revised in part. In addition,based on

an examination of the original teχt,this author described the characteri-

sties of the style of writing of o伍ciallytranscribed copies of ordinances

of the Department of Waterways, and clarifiedthat the items in the teχt

were of two differentprescribed forms. Furthermore, this author stated

an opinion regarding the reason for the irregularity in the arrangement

of these items. At the same time, he has sorted through and reconciled

the

 

previous

 

theories

 

about

 

the

 

corresponding

 

relation

 

between

 

the

headings of the Tang ordinances and the o伍ces ofthe central govern・

ment.

 

This essay was written with the aim of reeχaminingthe various

questions of form and style of the ぺA'^aterwaysordinances before going

on to research on their contents.

CONCERNING THE TANG POLICY TOWARDS DEFENSE

   

COMMANDS (FAN-・ZHEN藩錫)―theProcessof

          

Subjugationin Henan

Tsuji Masahiro

  

In this essay, I have examined how the Tang dynasty coped with

the various defense commands in Henan circuit,i.e. those of Henan (河

南), Huaixi (淮西), Ziqing (溜青), and Xuanwujun (宣武軍), from the

last half of the eighth century to the beginning of the ninth. The com-

manders and troops of these defense posts maintained a stronghold in the

Northeast border area(Youzhou 幽州and Pinglujun 平盧軍)in the mid-

eighth century, and they fought as part of the Tang army during the

An Lushan rebellion. However, afterwards, the commanders continued to

                  

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lead powerful forces in the area between Jiangnan (江南) and Guanzhong

 

(開中) and they became a threat to the Tang government。

   

From the end of the reign of Dai-zong to the “restoration period”

of χian-20ng, one of the major currents of politicalhistory was how the

Tang

 

court forced these Military Commissioners to submit to central

control. The process can perhaps be described as follows: i)A Military

Commissioner who fomented rebellion was subjugated, ii) New Military

Commissioners were dispatched from the central government; and iii)

The old defense command was partitioned into several new ones, iv)

Any remaining forces of the old Military Commissioner were destroyed

by the new Military Commissioners。

   

By the beginning of the ninth century, the subjugation of the various

defense

 

commands

 

of

 

Henan

 

was

 

complete.

  

The

 

circumstances

 

of

“Rampant De丘anceof Military Men”that Naito Konan pointed to as

bringing about the collapse of the Tang dynasty had disappeared in

Henan. I would suggest that this was one of the reasons why the Tang

dynasty was able to survive for another 150 years after the An Lushan

rebellion.

THE “THREE CARDINAL POLICIES”AND THE

         

WHAMPOA ACADEMY

Hazama Naoki

   

“The Three Cardinal Policies”is the name given to the three poli・

cies of“Alliance with Soviet Russia,”“Co-operationwith the Communist

Party,”and“Assistanceto the Workers and Peasants,”that were linked

to an interpretationof Sun Yat-sen's New Three Principles of the People.

This was the new slogan that the Communist Party members in the

Whampoa

 

Academy thought up in the summer of 1926 against the

background of promoting the Nationalist Revolution. Indeed, thisacademy

itself゛asthe place where the contradictions betweenthe Kuomintang

and the Communist Party under the United Frontwere the most severe,

and in order to counteract Chiang Kai-shek's anti-Communist policies。

                    

-4-