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Title <論説>ノルマン朝シチリア王国に関する一考察 : 財務組 織を中心として Author(s) 山邉, 規子 Citation 史林 (1981), 64(6): 850-883 Issue Date 1981-11-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_64_850 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Page 1: Title ノルマン朝シチリア王国に関する一考察 : 財務組 …...ノ ルマン朝シチリア王国に関する一考察 84 (850) 1一財務組織を中心としてーー

Title <論説>ノルマン朝シチリア王国に関する一考察 : 財務組織を中心として

Author(s) 山邉, 規子

Citation 史林 (1981), 64(6): 850-883

Issue Date 1981-11-01

URL https://doi.org/10.14989/shirin_64_850

Right

Type Journal Article

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Kyoto University

Page 2: Title ノルマン朝シチリア王国に関する一考察 : 財務組 …...ノ ルマン朝シチリア王国に関する一考察 84 (850) 1一財務組織を中心としてーー

ルマン朝シチリア王国に関する一考察

84 (850)

1一財務組織を中心としてーー

【要約) シチリア史の中でも黄金晴代の一つに数えられるノルマン朝シチリア王国は、種々の要素を内包しているが故に、その性

格づけに関して多くの見解が提示されてきた。本稿は、財務機構の変遷を通してそのあり方を検討すると共に、國王を中心とする

統治の理念酌側面を探ろうとするものである。その結果として、以下のことが明らかになった。少数老たるノルマソ人支配老は、

現実的必要性から現地人の助力を求めるため、それまでの慣習、伝統を保持した。そこで、ギリシア、ラテン、アラブという三要

素が並存する多元的国家体制が生まれ、その上に位置づけられる王は、神政君主思想によって権威の高揚を図る一方で、実際的権

力を得るために、既存の組織を利用しながら行政機構を整備し、独自の中央集権的専門機構を生みだした。その王権理念と中央集

権的な志向は、この後のイタリア南部の王國に継承されていくことになる。       史林六四巻六号 一九八一年牽一月

  ’vvvvv)

は じ め に

                                          ①

 一一三〇年、ノルマン系のアルタヴィッラ(オートヴィル)家のルヅジェーロ(ロジェ:ル)二世が戴冠したことによ

                                                    ②

り、シチリア王国が成立した。ノルマン人騎土が南イタリアに入って以来一世紀余を経て、南イタリアとシチリアとに跨

って建てられたこの王国は、この地方を初めて統一した国家であった。

 ノルマソ以前、この地方は、種々の文明、宗教、権力が錯綜しており、四分五裂の状態にあった。比較的まとまってい

たといえるシチリアにおいてすら十一世紀にはいってからはイスラム教徒の内紛が続いていたし、本土にいたっては、ラ

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ノルマソ朝シチリアヨ三国に関する一考察(山邉)

ソゴバルド系のべネヴェソト公国、カブア侯国、サレルノ侯国、名目上だけはビザンツの宗主権を承認しているナポリ、

アマルフィ、ガエタ、ソレント等都市勢力がある一方、プーリャ、カラブリア地方はビザソツの支配下にあるといった具

合だった。しかも、プーリャ地方では土着勢力がビザンツからの独立を図ろうとしており、常にどこかで戦争が起こって

いると書っても過慮ではない状態にあった。ノルマン人たちは、最初は抗争を続ける諸侯やビザンツ軍に傭兵として仕え

ていたが、 やがて自立して南イタリアの統一を推進することになる。 その中で卓越した存在として拾頭したのが、 カプ

ァ幸手を手に入れたりシャール・ドゥルゴと、プーリャ公に叙任されたオートヴィル家の兄弟であった。特に、オ…トヴ

ィル家のロベール・ギスカールは無敵を誇り、その軍事力をもって南イタリア地方の大半をその掌中に収めた。他方、彼

の末弟ロジェール一世は、一〇六〇年代からシチリアに入り、シチリア征服事業をほとんど一手にひきうけた。シチリア

大伯爵の称号を得た彼は、兄ギスカールの死後再び混乱の渦中に陥ったこの地方で勢力を伸ばし、シチリア、カラブリア

を支配領域とする最強勢力にのしあがった。そして、その子ルッジェーロニ世の代になって、シチリア伯が南イタリアの

他の諸地域をその版図に加え、ついに王称を得ることに成功した。ここに、以後七百年にわたって存続するシチリア王国

の最初の王朝が誕生したわけである。ノルマソ朝は十二世紀末までしか続かなかったが、シチリア史の中でも黄金時代の

                            ③

一つに数えられ、また、当時最も繁栄していた圏の一つであった。

 このように、ノルマソ朝シチリア王国は、宗教も慣習も伝統も異なる諸地域を少しずつ加えて新来者によって創建され

た国であるが故に、その基本的性格ーノルマソ朝シチリア王国を特徴づける主たる潮流を何に求めるか一をめぐって、

幾つかの見解が提出されてきた。それを大別するならば、アラブ、ビザソツ、西方という地中海を囲む三大文明が全て主

要な流れとして挙げられる。アラブ的要素については、イスラム教徒が相変らず文化面・財政面で活躍したことがM・ア

              ④

マーリらによって強調されてきた。一方、長い間通説化していたのは、ビザソツ約要素中心説である。すなわち、国王が

「東方的専制主義」を志向し、かつ、その行政的文化的支柱を構成したのがビザンツ系の人々であったと主張されたので

85 (851)

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 ⑤

ある。

 このような伝統的東方的要素の強調に対して、西方的要素を主張することは、いわば、ノルマン征服をシチリアにおけ

る大きな画期として捉えた「断絶説」と見倣すことができる。この「断絶説」は、次の二つの視点から説かれる。一つは、

                                                     ⑥

ノルマソ人の領主がローマ・カトリック教会に属したことから、宗教面におけるラテン勢力の伸長を認めるものである。

もう一つは、 「典型的封建制度」の発達したノルマンディからやってきたノルマン人が、この地方に封建制度を導入した。

          ・ 。・                 ⑦

そのため、この地方は封建的な社会となったとする説である。

 そこで、本稿においては、ノルマン朝シチリア王国の性格をどう捉えるか、また、この王朝がイタリア史の中でどのよ

うに位置づけられるか、について一つの解答をひきだしてみたい。

 ところで、 門王国」の性格を考察の対象とするといっても、実際の考察には何らかの指標が必要である。本稿では、そ

の指標として行政組織を考えてみたい。これは以下のような理由による。第一には、一般にこの王国が当時としては進ん

だ中央行政機構を有していたとされているその内実を探ることとなる。また、中央集権的であるという前提を受け入れる

ならば、行政組織にこの王国の支配者層の状況が反映されると考えられるからである。まず、本稿においては、行政組織

の中でもとりわけ国家権力の一つの柱とみなされる財務官に焦点を当てていく。その後、行政組織のあり方に即して、国

王を中心として生みだされてきた君主理念的側面についても下口及したい。

 ① 本稿においては、原則として征服瞳代のノルマン人についてはフラ     諺aO7鉱鴛山。戸ミ吻“。勘馬§ミ織§§ミ叫§謡。§§§§寄ミこ“

 ソス語読みに、王圏肩代(第二百代以降)のノルマソ人についてはイ

 タリァ語読みにする。

② 木稿において南イタリアと蓑記する場合は、イタリア半鵬南部諸地

 方を指し、シチリア島を含まないことにする。

③ 国ユ90p巷貧冒陶£ミ自(N楓ON一楓賊届“)§ミ蝕馬Oミ9き§偽亀ミゆ§、-

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ノルマソ朗シチリアヨ三圏に関する一考察(山邉)

 のシチリア」『東洋史と西洋史とのあいだ』岩波書店、一九六三年。今

 野國雄『醤洋中世世界の発展』岩波書店、一九七九年、第五章を参照。

④ 鑑三おげ〉諺舞♂憩ミ~&§ご㌧§恥ミミ§欺鈍篤敦ミミ”蒙お嚢ρ戸Q。Gn賢

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財務官をめぐる諸研究と問題点

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 迷昏。b。噛℃℃■b。9。刈もG。讐X〆図H<一露。。”℃や。。卜。ふ伊

⑦この場合、ノルマン入が全く封建鯛の伝統のないところに封建制を

 持ち込んだとする考えと、既に存在したラソゴバルドの調度を改良し

 たとする考えがある。oh・鉗ρ瓢oOρ諺く巴ρ、、いp溶零露潔帥昌。=p

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 b。H蒔野 なお、少数意見であるがラソゴパルドの伝統を強調する研究

 者もいる。9ピ①o早図。げΦ冨罵曾餌αq㊦吋り..い.写ω訟9賦。旨ヨ。昌鴛。窯ぬ賃。

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 財務組織の検討に入る前に、史料上の聞題点と、これまで財務官をめぐって出されてきた諸説を整理しておこう。

 史料上の問題としては、次の四点を挙げることができる。第一に、史料の絶対量が少ないことである。シチリア王国の

                              ①                           ②

行政組織については、ビザソツ帝国における入塾是。ま寄ミやイングランドにおける象鋒○σq器物①ω$8p鼠。のように、

組織の全体像を伝える史料が欠如しているために、われわれは分散している諸文書に現れる官庁、官吏から可能な範囲内

で再構築を試みることになる。従って、諸関係について等級が分かれることになる上に、われわれが描き出す像は、実際

の組織全体を把握したとは言い難いものでしかない。第二に、現在われわれが用いることができる史料は、主として教会

87 (853)

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関係の文書であるため、殊にイスラム教徒に関する部分は精確なものとは言えない。第三に、言語の多様性が研究上の障

壁として挙げられる。ノルマソ朝シチリア王国においては、公用語がギリシア語・ラテン語・アラビア語と三つも存在す

る。そのため、同一文書が二つ以上の雷語で書かれている揚合はそれぞれ対応するものが開らかとなるが、現実には必ず

しも史料はそのような形で残っておらず、各言語において対応するものは何か、そして、どの言語を起源としているか、

その解答を得ることが誠に困難である。第四に、史料にみられる官吏はしばしば複数の役職を帯びており、どの立場で職

務を遂行したのかがはっきりしていない場合がある。このように、行政組織・官吏についての考察には、ある程度制約が

あることに留意しておかねばならない。

 以上のような史料上の制約があるが故に、この行政機構iとりわけ、財務官一をめぐる問題は、シチリア王国の研

究の中でも、最も論争を生む論題の一つとなった。まず、この論争は、制度自体の起源を問うことに始まる。すなわち、

                                  ③

十九世紀後半に、0・ハルトヴィヒがイングランドの機構を移したと主張したのに対し、アマーリはアラブ起源説を唱え

④た。二十世紀にはいると、C・A・ガルフィがヘラクレイオス朝以降のビザンツ帝国の官舗からの継続を主張し、ノルマ

ン朝に関する概説書はほぼ彼の説に拠っていると言ってよい。

 他方、ガルフィは行政機構の構造面を総合的に捉えた最初の研究者でもある。彼が構想した機構は図1のようになる。

国庫にあたるディーワーン・アル・マムール臼≦習門口騨、津賃(以下、ディーワーンMと略記)は徴税台帳を有し、あ

らゆる土地収入を扱った。 これに対し、監督局にあたるのが、マグナ・セクレジアヨ㊤αq銘。。①。お既ρ需尊きハq藻烹8り

で、この官庁は土地台帳を保有し確認の業務に従事した。その中で、王孫に関する業務及び財務関係の裁凋等を行ったの

が、ディーワーソ・アト・タフキーク・アル・マムール目塗習小侍9)8団ρ巴玉出.ヨ臼(以下、ディ…ワーソTMと略記)す

なわち、デュアーナ・デ・セクレティス身p囲多鳥。。・ooお怠ωであり、封建領についてはデェアーナ・バロ…ヌム八事昌9

               ⑥                 ⑥         ⑦

げ碧9嵜ヨが存在したとしたのである。 ガルフィの後、E・マイヤ:、旦・ジェミソンらによって、いくらか異なる像が

88 (854)

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ノルマン朝シチリア王国に関する一考察(山邊)

  magna secrezla  (ptsrdeZog aszpEreg)

土地台帳保有,確認の業務

duana baronum  (oezp6rog Tdiv

  凌πozoπのソ)

封建領に関する業務7nagister clttane

      ・

saliib (ffszperezo’g)

      J

     katib

duana de secretis(diwan atも鱒(liqa1 ma‘m“r)

旧領についての業務,関税の取扱い,財務関係の裁判magister duane

  e    ,   sa.hib

    Yl   加琵δ

      diwan al ma‘mUr

徴税台帳保有,土地収入について         tesorierius

              J

  mctbcrister aa7na’”a-ritts Palatii

             s

        ca‘ia (gaik{s)

             .1

       saitib (secretus)

              」

        んα励(scriba)

             (u’xpe’Baig)

diwan al ia‘waid

イタリヅクは,官吏を示す。

図! ガルフ1による財務機構

提示された。だが、彼らの描くところの像には共通した間題点があった。そ

れは、この財務組織を極めて静態的なものとして把握している点である。無

論、制度というものに静態的性格が強いことは認めなくてはならないが、こ

の王国の成立の事情から言っても、ノルマソ支配の初期と末期とを同列に扱

うことは問題であるし、まして次代のシュワーベソ朝やアソジュー朝の組織

からの類推を過度に行うことはなおさらである。

 このような難点を克服したのが、M・カラヴァーレである。一九六四年に

発表された論説の中で、彼は次のような組織の発展を主張した。ノルマン人

が支配し始めてから王国成立までの時期、財務に携わったのはカメラ8ヨ争

茜だった。 王国成立後の一一四〇年代にはいって、 シチリアではデュアー

ナ・デ・セクレティスが創設された。その官庁の中にはディ…ワーンTMと

ディーワーソMがあったが権能の区別はまだなく、その相違が現れるのは第

三代グリエルモニ世の万代である。グリエルモニ世の時代にはまた、大陸部

にデュアーナ・バローヌムが出来て、王国金体がデェアーナの管轄下に入る。

この二つのデュアーナの統轄はマグナ・セクレジアの権限に属した、と考え

⑧たのである。

 カラヴァ…レ説に対しては、既にE・マッツァレーゼ・ファルデッラによ

            ⑨

って批判が加えられているが、まだその後カラヴァーレ説に代わる全体像の

構想は提示されていない。カラヴァーレ説に関しては後で時代を追って検討

89 (855)

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するとして、ここでは、特に後期におけるカメラの取扱いに問題があること及び、ルヅジェーロニ世時代に玉国の領域に

含まれていたイフリキや地方が無視されていることを指摘するに留め、次に具体的な財務組織の変遷の考察に移りたい。

① oh}oげpb⇔.cd脅}、”8奮穿愚里民誌§§“帆影養§6の鴇馬§斡§馬曹

 ミミ為O§ミ藁”い。盆8℃δは(壱壁上。宅鴎。鱒噂お凱3

② 鈴木利章「イギリスにおけるグレゴリウス改革と国家観の世俗化」

 『史林』四九一五 一九六穴年 七七五一七八頁参照。

③ ノルマソ人は、イングランドでウィリアム征服王が作成したドゥー

 ムズディ・ブックに範をとり、上級二つの官庁からなる機構を移した

 と考え、十二世紀前半にイングランドとシチリア双方で活動したトー

 マス・ブラウンの存在を璽視した。 oや、.ω二冨O簿pαoσq嵩ω矧。誹鑓一

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  なおα舞欝はα。冨欝とも衷記される。

⑥円ヨωけ霞孚。畜き寄ミ噛§誌“濤忘誉受口§睦魂禽昏ミ。ミ馬§醤繕ミOoきミ§欺

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 マイヤーは、カメラリウス・レギスO餌ヨ。同p増貯ω器αq貯の統轄下、デュ

 アーナはシチリアとカラブリアを、カメラリウスはブーリャ公領とカ

 プァ要領を管轄領域としていたとする。そして、デュア…ナはさらに

 二分され、デュアーナ・デ・セクレティスが記鶴辮薄を持ち租税、関ハ税等

 を扱い、デュアーナ・バローヌムが特権賦与の職責を有すると考えた。

⑦閃く①蔓昌冒零話g暫込§ミミ攣誌馬ミ誠ミ的ミ§い。注。戸お㎝N℃や

 q。G。i瞬.彼女の構想を閣示すると、次の如くなる。

(856)90

amiratusのちにはmagister camerarius palatiiによる統轄                 1

1 1

dlwan at taljqig al ma‘mitT(duana de secre七is ノ       ノPtεγat σεltρeτOレ)

アラブ的官庁

 記録簿の保有,税の評価,境界{書影鱗畦.約10人の官田によって統轄される

 ↓

人的結合

 ↑

duana baronum

 1172年までに派生してできる

 封建的な問題を取扱う

       理

    庁 管進

皿謝羅購

謂鞍籔

ーギーーー

ジェミソソによる財’務機構図2

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③累9二〇〇霧雪、巴p.、O出自岳9訪雷言N罫臨αo臨。円Φ碧。象ω三目9

 含峯茸。嬬需ユ90岩同二塁蓉、.、昏§ミ篤蝕無ミミ繕ミ織帖唖ミP<H囲目

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 鋤ミき。“Nミご無ミ。壽。§ミ§S帖魯§o.寓話p嵩ρお①9℃やωb。-。。ω9彼の

 批判は、主としてデュアーナ・バローヌムについての検討に向けられ

ている。すなわち、バローヌムにあたるギリシア語が恥慧N。踊$℃官

僚である点、大陸が占領されている時にもデュアーナ・バローヌムの

活動が認められる点等である。但し、彼自身が新しい像を提示してい

るわけではない。なお、行政機構についての研究史についてはこの

他、。抽国導ぱ。護9NN鴛。器団p噌αo=p、.ω鉾耳註諺ρヨヨ一巳ω霞馨一く餌

匹。一話σqき昌。搬き露冨。..讐眺ミO嵩の≧唱や鎗Q。も彪噛

二財務官の変遷

ノルマソ朝シチリア王国に関する一考察(山邊)

 まず、シチリア伯の支配領域を手始めに、王国成立以前の各ノルマソ諸侯領における状況をみていこう。

 一〇六〇年代にシチリアに入った後、次々と各地に割拠するイスラム勢力を降したにジェール一世は、征服事業を進め

                                            ①

るかたわらで、国家としての体制を整え始めた。それが端的に示されるのは、各司教管区設置である。彼は、シチリアで

                                    ②           .

の司教管区設置にあたり、前晴代のイスラム教徒の勢力領域の区分を利用している。また、土地の寄進や譲与を行う際に、

                               ③

「イスラム教徒の地割をもとにして」いたことも史料によって知られる。他方、寄進状等に寄進されるべき農罠の名前が

列挙されている例があり、既に住民簿が存在していて、それを新来の支配者が再編集して使用したものと思われる。この

ような施策は、例えば一〇九五年のカターニャ司教への寄進状(ギリシア語及びアラビア語)において、

  「このプラテーア〔アラビア語ではジャリダ〕は、 一〇九五年、私伯爵ロジェールによって、 一〇九三年にマツァ!うにおいて私と

 私の封臣の土地について編纂されたプラテーアに拠って、メッシナにおいて書かれたものである」

                ④

と締括られているところがらも窺える。

 それでは、いったい誰がこのような台帳編纂作業に従事したのであろうか。財務の基礎となるこの作業を行った人から、

財務官の検討を始めよう。

91 (857)

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 ここで浮かんでくる官吏が、ブロー}ノタリオス殺、§ミ。蕊℃Snである。ガルフィによれば一〇九四年のメッシナ司教

の所領及びその法的状況の記載、前述の八口ーニャ司教への寄進状、さらに一〇九七年のロジェール一世数代最後の住民

簿は、いずれもプロートノタリオスのヨハンネスの手になる。また、=〇五年まで同職にあったことが確認されている

               ⑤

ニコラウスも同様の仕事をしている。しかしながら、彼らはこのような財務関係の作業のみならず、裁判等多岐に亙って

     ⑥

活躍しており、 財務薗部官とは温い難い。一方、 財務職を表すとされるサヒーブ・アル・アシュガルωρ露び巴霧。σqげ巴

が冠されているクリストデ・。スは・台帳嚢関係の文書に叢れていなや以上のことは・当時・。ジ・ール一世治下

では、富吏層は存在したが、確たる行政組織は未だ形成されていなかったことを示していると考えてよかろう。

 この状態は、基本的に王国成立までシチリア伯の下で続く。㎡一〇一年のμジェール一世の死後、シチリア儲位は、長

男のシモーネが継いだが、これも四年後天逝し、次男ルッジェーロニ世の手に渡った。ルッジェー豚二世が当時六歳であ

                             ⑧                    弱

ったため、以後約十年はその母アデライデが摂政として政務に与った。この頃には既にシチリアは、豊かさによって知ら

れるようになっていた。一醐一三年、アデライデがエルサレム王から結婚を申し込まれたのも、彼女の持参金に目をつけ

られたが故である。そして、ルッジェーpが成人に達する頃になると、シチリア伯はその富を背景として、プーリャ公を

援助して南イタリアでの勢力伸長を図る一方、アフリカへも手を伸ばし始めていた。

                                           ⑨

 アデライデの摂政期において官吏の中心となったのは、アミラートゥスp臼貯暮口ρ瓢嚢心、働つΦ目貯の称号を得たクリス

トデュロスであり、その他幾人かの官吏の名前を認めることができるが、それぞれの官職の権限については流動的で史料

の状況からいっても明確にするのは困難である。そこで、この時期の行政組織に関しては、次の二点のみ指摘しておく。

第二に、アミラートゥス後にはアミラートゥスの中のアミラートゥス帥ヨ日旨暮葛心算ヨ貯暮。隠遊”細江も為渤り畦9℃へ嘗唱、や

動eド①ヨ副巴鑓昌似舜が首相として、官吏層の頂点にたつようになったことである。第二には、ビザンツにおいて財務の

一端を担っており西方のカメラと同義とされるバシレイコン・サケッリオン葡良ミ計へN曾q黛、お謡“ミの存在が確認される

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ノルマン朝シチリア王国に関する一考察(山邊)

   ⑩

点である。

 シチリア伯の宮廷にあった官吏は、普通主としてギリシア系の人々であると考えられている。その理由として、F・ジ

ュンタは、ロジェール一世時代に統治の中心がギリシア系住民が多いカラブリアのミレ…トにあり、ギリシア系の人々と

           ⑪

接触を持つ機会が多かったことを挙げている。これは、住昆簿がカラブリアで編纂されていることが多い点、プロートノ

                      ⑫

タリオスのヨハンネスがカラブリア出身であることから頷ける。しかし、アデライデの時代以降については、多少聞題が

                            ⑬

ある。アデライデの時代以降、最も重用されたクリストデュロス、アソティオキアのゲオルギウスはいずれもシチリア伯

の支配領域出身者ではない。彼らは、その経歴からして、イスラム・ビザンツに跨るその知識と才能を見込まれて招聰さ

れたものであると考えられる。従って、シチリア伯の領域に限らず、教養の高い有能な人材が求められたと考えるべきで

ある。但し、この教養の高さという前提条件から、彼らが社会的には相当高い位置にあったものとすることができよう。

 次に、大陸に目を転じてみよう。ロジェール一世がシチリアにおいて体制を整えつつあった頃、南イタリアでは、ロベ

ール・ギスカールの死(一〇八五)後、その子ボエモソドとルッジェ…ロ・ボルサのあいだでプーリャ散位をめぐる争いが

続く一方、カブア侯を始めとして諸侯が半ば独立しており混沌としていた。その中で、ルッジェーロ・ボルサがシチリア

伯の助力を得て辛うじて正統な後継者としてプーリャ公位を保っていたのである。そのプーリャ公領の財務府としての機

能はカメラが果たしていたようである。これは、 一〇八六年、 一〇八七年、 一〇八九年の文書において、罰金や貢納の支

                ⑭                                     ⑮

払い先としてカメラが挙げられているところがら推測される。また、カブア侯領でも、一〇八一年の文書から同様のこと

が考えられる。しかしながら、現存する史料の僅少性から言ってもそれ以上のことはいえないし、加えて、情勢が不安定

で、独立的傾向をたどる諸侯が居たり領域が揺れ動き上級支配権が明確化していなかったりしたことを考慮に入れるなら

ば、どれほどの機能を果たしえたかも疑問である。

 このように、王国成立以前のノルマンの支配領域においては、強力な官吏の存在が明白であるシチリア伯領でも財務組

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織は流動性を帯びていた状態にあり、南イタリアにいたっては、公爵の官吏の活動すら疑わしい状況にあったのである。

               *                    零                    零

 一=一七年プーリャ公グリエルモが死に、ルッジェーρ二世は正統な後継者としてその公害を引き継いだ。これを快く

思わなかった教皇ホノリウス三世からも翌年承認を受け、また翌一一二九年にはカブア侯がルッジェーロニ世を宗主とし

て認めたため、ノルマソ人の南イタリア・シチリアにおける支配領域は全て彼の傘下に入ることとなった。そして、一一

三〇年教皇選挙においてシスマが生じた際に、孤立無援の対立教皇アナクレトゥス挙世に援助を申し出て、ルヅジェーロ

は王への昇格を許された。この後九月にはサレル層ノとパレルモにおいて王への忠誠を諸侯に誓わせ、同年十二月二十五日

に戴冠式が行われた。かくして、ノルマン朝シチリア王国は一応の成立をみたのであるが、ルッジェー揖はなおも十年問、

内外の反対に対処しなければならなかった。まず、他のほとんどの王侯の支持をうけている教皇イソノケンティウスニ世

と対峙することになった。東からは領土團復を目指すビザンツ皇帝が軍隊を送りこもうとしていたし、西の神聖ローマ皇

帝はイタリア全土の支配権を主張し、ルッジェーロを非難した。さらに、カブア侯やプ!リャ地方の諸侯がルッジェーロ

の強大化を恐れ反乱を繰返した。ルッジェーロ理路がこの危機を最終的に乗りきり王国に平和をもたらしたのは、一一三

九年インノケンティウスニ世から正式にシチリア王として認められた後であるといってよい。

 以上の如き状況から、一一三〇年代は王国が成立したといっても、王国全体に亙る改革は望めなかった。とはいうもの

の、一一三二年の寄進状から、アミラートゥス中のアミラートゥスたるゲオルギウスがチェファルー修道院に「ギリシア

                              ⑯

語とアラビア語で書かれたプラテーア」から名前を列挙して寄進したことが知られ、少なくとも前時代程度の活動は存在

していたとすることができる。

 それでは、本格的な改革が始まったと思われる一一四〇年以降に話を移そう。 一一四〇年、ルッジェー戸は、アリャー

ノに封建諸侯や聖職者、高官を集め、シチリア王国の基本法たるアッシーセ》①。。富①を発布し、体制づくりの方針を明ら

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ノルマソ朝シチPア王国に関する一考察(山邉)

   ⑰

かにした。その活動のうちの一つが、土地台帳の再編である。一一四四年の文書では国の安寧をより確固たるものにすべ

                            ⑮                      ⑲

く土地の所有に関する調査を実施するという意向が示されており、同時代の他の文書がこれを裏付けている。ルッジェー

ロニ世にとって、土地台帳の再編は、先立つ内乱の最終的収捨のためにも、王国の実態を把握するためにも是非とも必要

であった。彼自身が科学的実証的精神を有し実情を知ろうと努めたことは、年代記作者ファルコ・ベネヴェントゥスが伝

   ⑳

える逸話や、ちょうどこの時期コルドバから招かれたアラブ人イドリーシーの手になる地理書の序文からも知ることがで

                                                    ⑳

きる。殊に、この地理書-通称『ルヅジェー山王の書』一は王国内外の地誌が述べられていることからも注目される。

 ところで、実際にこの土地台帳再編にあたったのは誰であろうか。ここでまず専門機関として注目されるのが、数々の

研究者によって論議されてきたディーワーソである。この時期初めて史料的に確認できるディーワーソの活動は、次の二

点の文書によって知られる。一一四五年、ディーワーンMの住民簿によって農民のリストがカターニャ教会に再認された。

その四年後、ディーワーンTMは保管してあった土地台帳から境界を定め、チュルクーロ教会に土地と農民を譲渡した。

                                                    ⑫

この譲渡は、ディーワーンMの二人の官吏カイド。p.置のプルーンとカティ!ブ冨菖げのオットマソによって承認された。

 ここにみえるディーワーソMとディーワーンTMについて、L・ジェヌアルディ、C・H・ハスキンズは同一とみなす

べきであると主張したが、通説的には異なる職責を有するものと考えられており、ここでは後の状況も考慮に入れて、基

本的には通説を受入れておきたい。つまり、ディーワーソMは住民について、ディーワ…ソTMは土地についての台帳を

有しており、寄進や譲渡が住民に関する記載を含んでいる場合には、ディーワーンTMの文書をディーワーソMの官吏が

   ⑳

確認したというのである。但し、この二つの部局が台帳保存、確認以上の職務を果たしていたかどうかは推測の域を出な

い問題である。

 このディーワーンについて注志したいことは、その名称からも明らかなようにこれがアラブ的な組織であるということ

である。少なくとも、ディーワーソは官庁名としてプラビア語で表記された最初の存在であり、しかも=四九年の文書

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にアラブ人の官吏名が登場していることから、ルッジェー冒二世によるディーワーン創設にはアラブ的要素が強く働いて

いたと見倣すことができよう。これには、二つの要因が考えられる。 一つは、前述のイドリーシーの影響であり、もう一

つは、当時ルッジェ…ロは北アフリカのイフリキや地方の征服に成功し、その経営のためにアラブ的要素を重視する必要

があったという要因である。彼にとってイフリキや地方を支配下におくことは、アフリカ中央部からの金の流入を確保し

                                                ⑳

地中海航路の要所の制海権を握るという経済的睡的のために不可欠であった。彼が「アフリカ王」を名乗ったことからも、

イフリキャ地方は決して単なる一時的征服地ではなく、その経営にも重きが置かれていたと考えられる。ところで、当然

のことながらイフリキや地方はイスラムの土地であり、経営に当たるとすれば、アンティオキアのゲオルギウスのように

            ⑳

特殊な経歴を持つギリシア人や、アラブ人を重用せざるを得なかったと考えるべきであろう。そして、それがシチリア島

でのアラブ人登用につながったのである。

 しかしながら、シチリアにおけるディーワーソ創設やアラブ人登用が、そのまま王国全体に及んでいたとみなしてよい

のだろうか。現存する史料の状況から確雷は避けるが、それは極めて疑わしいと言わねばならないであろう。なぜならば、

ディーワーソやアラブ人官吏の存在に認められるアラブ的性格がプーリャ等には見出せないからである。むしろ、王国全

体に関しては、ロムアルドゥス・サレルヌスの次の一節を思い起こすべきであろう。

  「王ルッジェーロは、その王国において全き平和の安寧を確かにし平和を保つために、全領土にカメラリウス$ヨ零震一霧とユステ

                                            ⑳

 イキアリウス冒ω江。一錠貯ωの制を敷き、新たに法を発布する旨を宣した。そして、悪しき慣習を取り除いた。」

 ロムアルドゥスに従えば、王の命令によって裁判を司る司法官と共に、財務担当官が全国に置かれたと考えられるわけ

                                             ㊧

である。ところでわれわれは先にプーリャ公領、カブア侯領においてカメラが存在したことを確認しており、王が全国に

カメラの官吏たるカメラリウスを設置したということは、これらの地方で台帳の管理等財務府としてのカメラの活動が続

いていたとみなしてよいのではなかろうか。実際、この時期扇田ラリウスが南イタリアでは土地調査、権利確認等の作業

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ノルマン朝シチリア王国に関する一考察(山邉)

                ⑳

にあたっていることは確認されている。他方、シチリアにおいても前時代と同様にバシレイコン・サケッリオンの存在が

    ⑳

認められる。この場合、これは罰金の支払い先として挙げられており、その性格からいってこの時代に創設されたディー

ワーソと同一視できない。従って、この点で、シチリア・カラヅリアを管轄領域とするディーワーソがルッジェ…ロニ世

時代にカメラにとってかわったとするカラヴァーレ説には賛同しかねる。史料によれば、旧プーリャ公領、漏ヵプァ侯領

においてはカメラが財務一般を取扱い、シチリアにおいては罰金等を取扱っていたと考えるのが妥当であろう。

 ここでルッジェーロニ世時代の特徴をまとめておこう。この時代、全国に王の官吏としての常世ラリウスが置かれたが、

シチリアにおいては、記録簿の保存に当たる専門機関として極めてアラブ色の濃いディーワーンが創設された。これには、

ルヅジェーロニ世の北アフリカ政策の影響が認められる。他方、この時代の組織は、以上の如くある程度専門職分は有し

ていたが・まだマグナ●ク リア暴σq一環施への従属がみられ・独立した機関とは一募難か・た・

 加えて、各地域で財務の構造の差が存在したことは、組織面で一元的支配の確立をみるに到っていなかったことを示し

ている。このような状況は、ルッジェー二戸世の統治が、ルッジェーロニ世という強大な王による権威主義的側面が多分

に強かったことをあらわしているとしてよいのではないか。

               *                 *                 寧

 このように国王の個人的側面が前面に押し出されていたルッジェーβ二世時代に対し、次代のグリエルモ一世時代(一

一五四-六六)は、官吏勢力そのものの伸長がみられた。

 第一に挙げられるのは、グリエルモ一世の即位とほぼ時を同じくして、アミラートゥス中のアミラートゥスと称せられ

るようになったマイオ・デ・バリである。グリエルモ一世はどちらかといえば政治面に無関心であり、王国の統治をほと

んどマイオに任せた。そこで、マイオがとった政策は、内的には中央権力の強化、外的には北アフリカ地域の切捨て、南

イタリア、シチリアを範囲とする王国の確立、教皇庁への積極的接近、神聖ローマ皇帝やビザソツ皇帝とその協力者を分

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断ずることを骨子としていた。本稿の内容と最も関係が深いのは中央権力の強化であり、次の二点の変化が認められる。

第一に、従来封建勢力の強かったプーリャ、テッラ・ディ・ラヴォーロ地方を中心にマイオと同じ南イタリア都市層出身

          ⑬

の官吏の活躍がみられた。ルッジェーロ出世時代、中央の官職は主としてギリシア系、アラブ系、又は外国人によって占

められていたのに比し、この時代はアイオの影響下で南イタリア諸都市の市民層の登用が積極化したのである。第二には、

                                                ⑭

中央官制において、マギステル・カメラリウス・パラティイ巳㊤αqδ富弓$旨霞霞貯ω唱鉱暮一一職が初めて登場したことが挙

げられる。マギステル職は窟庁の長官ともいうべき存在であり、その登場は機構の独立化に一歩踏み出したものとするこ

とができよう。

 ところが、マイオが行った施策には抵抗も大きく、爾イタリアの中小諸侯を中心とした陰謀によって、一一六〇年マイ

ォは賭殺され、その一派の人々も傷を負ったり亡命の憂き目にあったりした。グリエルモ一世は、ヘソリクス・アリステ

ィプスをマイオの後任に据えこのような事態に対処させようとした。だが、事態は悪化するばかりで、一一六一年には王

宮が襲撃されるところまで発展することになる。もっとも、結局、この反乱派はイスラム教徒の虐殺を行ったりしたため

にアラブ色の濃い王都パレルモにおいて受け入れられず、翌一一六二年グリエルモ一世自身の手によって一掃された。

 反乱鎮圧後、体制再建にあたったのは、王のクーリアの中で特別顧問団というべきファミリアーレス鍵欝筥鴛①。。であ

った。これは、マイオの片腕だったマッテオ・ダジェロ、マギステル・カメラリウス・パラティイのアラブ人ガイトゥス

・ペトルスといった官莫を含む三人で構成された。そして、このマッテオを中心として、王宮襲撃の際失われた土地台帳

           ⑳

を含む再編事業も行われた。 一方、ペトルス以外にも、デュアーナ(ディーワーンのラテン語形)のガイトゥス・リカル

                                              ⑰

ドゥス、ガイトゥス・マルティヌスら多くのイスラム系の官吏が財務に携わっていたことが伝えられている。

 つまり、この時期、官莫の主流は、確かにギリシア系の人女から南イタリア都市出身者やアラブ系の人々に移っており、

しかも、官吏の力は明らかに伸張しているのである。この官吏勢力の拡大と機構独立化の傾向が続いているという状況は

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ノルマソ朝シチリア王国に関する一考察(山邉)

まさに、マイオ・デ・バリの敷いた中央集権化への路線が、彼の死によっても中断されることなく継承されたことを示し

ているのである。

              *                  寧                  串

 シチリア王国の官吏の独立した専門組織化への傾向は、第三代グリエルモニ世時代(=六六-八九)により一層明白な

ものとなる。グリエルモニ世時代は、その母マルグリット・ド・ナヴァルの摂政期に始まるが、彼女はフランス繊身の親

族を重用したのでその実情にあわぬ統治が王国内に反感を招くことになった。この事態はかえってファミリアーレスの結

束を詰め、彼らの手によって収拾された。そして、グリエルモニ世が親政を開始する頃(二七一)には協調と安定の体制

が現出することになった。では、次に、このグリエルモ時代の行政体制について考察していこう。

 グリエルモニ世時代、ファミリアーレスは一時増員されたものの、やがてパレルモ大司教のグアテリウス、ジルジェソ

ティ司教.ハルト戸メウス、メッシナ大司教リチャード。パルマー、 副大法宮くざ㊦oげ鎗μoo類霞貯ωとなったマッテオ・ダジ

ェロに絞られるようになる。ファミリアーレスの勢力は桐変らず強く、絶対的専制に夢を抱くグリエルモニ世とても無視

できぬ存在だったが、そこには封建色の濃い部分の南イタリアを代表とする者はなく、王国の指導層はシチリアの中央政

府支配強化の方向に固まっていたといえよう。

 それでは、財務官の検討に移る。まず、ルッジェーロニ世時代に創設されたとしたディーワーソから取り上げる。二つ

のディーワーソは、ルッジェーロニ世時代に関して認めた活動を続けていることが史料から知られる。つまり、ディ…ワ

ーソTMは土地の境界を決定しその台帳を作成・保存していたのに対し、ディーワーソMは住民簿に関わる作業をしてい

るのである。これに加えて、一一八三年のモソレアーレ修道院の文書から、ディーワーンの権限が教会領や封建領にまで

                      ⑲

及んでおり、微税権も所有していたことが推測される。他方、ディーワーソTMは、二つのディーワーンを代表する形で、

              ⑳

検証のドゥアーナと呼ばれている例も見出される。これはおそらく、ある一定区域に関する全ての権利を譲与するという

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文面には、当該地域に居住する住民に対する権利、用益権が内包されているためであろう。すなわち」この場合「土地」

を管轄する官庁たるディーワーンTMが中心的存在となるわけで、特に住民に関わる場合のみディーワーソMへの言及が

なされたように思われる。なお、 一一九〇年の文書には、ディーワーソ・アル・ファワイド鳥時習巴壁≦.巴侮という機

                             ⑪

関が姿をみせる。アマーリの説明に依れば、これは収入局となるが、詳細は不明である。一応ここでは通説に従ってディ

            ⑫

ーワーソMの下に位置づける。

 これらのディーワーソを総称すると、ラテン語ではデェアーナ・デ・セクレティス、ギリシア語ではセクレトソとなる

が、一一七四年にこれとは異なるデェアーナが登場する。デュアーナ・バpーヌムである。デェアーナ・バローヌムに関

                             ⑬                   ⑭

しては、アラブの軍事奉仕を司る機関からの発展をみるアマーリ説、特権賦与の機関とするマイヤー説、デュアーナ・デ

                                         ⑮

・セクレティスの付属機関として封建的譲渡を管理する機関であると考えるジェヌアルディ説、また、前章で紹介したよ

                        ⑯

うに封建領を一般的に管理していたとみなすガルフィ説、カラブリアよりも北の地域を管轄していたとするカラヴァ!レ

⑰説等諸説が分かれている。

                                                  ⑱

 実際の史料に当たってみる限り、eデュアーナ・バローヌムの活動範囲は、アラブ的伝統が存在しない地域である。⇔

デュアーナ・バローヌムは=七四年以降しか存在を確認できず、グリエルモ先世時代の改革の一環とみなされる。⇔デ

                                              ⑲

ユアーナ・バローヌムの官吏が果たしている役割には、、通行税に関する措置の伝達というのも含まれており、その権限は

封建的譲渡や封建領に限ったものとはいえない。といった論点から、大筋においては地域による区分を考えるカラヴァー

レ説を受入れることができるだろうが、若干修正を加えておきたい。それは、一一七五年の文書からデュアーナ・パロー

                 ⑳

ヌムも所有していたことが知られる台帳の検討によるものである。

                                    ⑨

 その台帳として考えられるのが、両目ローグス・バローヌムO簿巴。σq霧bd錠。呂営である。これは元来実事奉仕のため

の記録で、その目的のため財産状況等が書き記されている。従って、主流をなすのは封建領に関するものであるが、その

100 (866)

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ノルVン朝シチリア王国に関する一一考察(山邉)

                                                  ⑧

中には自由地保有者に対する規定がみられ、当該地域全般に亙る財政面の統治を目的とした台帳であるとみなされる。そ

          コ    の   の    ロ                                                                          ロ   の    ロ   サ   の

こで、カタローグス・バローヌムを所有する官庁としてデュアーナ・バ舜ーヌムを考えることが可能であろう。換言すれ

ば、カタローグス・バpーヌムで扱われている範囲がデェア:ナ・バローヌムの管轄領域であるとすることができるので

はなかろうか、ということである。

 では、 一九七二年にカタローグス・バローヌムを刊行したジェミソン女史に従って、このカタローグス・バローヌムの

地域性について述べてみよう。第一に、ここにはシチリアやカラブリアに関する記述が全く欠如している。次に、大陸部

に関していえば、アマルフィ、ナポリ、ガエタ、ソレントといった旧都市国家的領域についてもふれられていない。ここ

                           ⑧

で取扱われるのは、旧カプァ侯領、旧プーリャ公領のみである。そこで、カタ戸ーグス・バローヌムを保有していたデュ

アーナ・バローヌムもまた、旧力。フア侯領、旧プーリャ公領を管轄していたとみなされる。

 それではデュアーナ・バローヌムの管轄下にないとすれば、アマルフィ、ナポリ等の地域はどうなるのだろうか。

 一一七八年、マギステル・レギエ・ドゥアーネ・バβーヌム・エト・デ・セクレティス讐9σqδ量目器σqδα○げ蝉昌⑦げ費♀

謹ヨ簿創①。・①9卑冨職にあった官吏二人が、それぞれアマルフィとラヴェッロ間の争いの調停と、ナポリ郊外のサルノに

          ◎

関する裁判を行っている。これらの史料は、同地域の中間的な性格を示している。すなわち、カタローグス・バローヌム

には記載されていない地域である}方、アラブ的性格を有するわけでもないが、二つのデュアーナ双方のマギステルの所

管するところとなっているのである。ここでは、デュアーナ・バローヌム管轄領域の規定として、カタローグス・バロー

ヌムの記載領域たることを前提としているので、一応デュアーナ・デ・セクレティスの管轄地域とみなしておくが、その

中間的性格からデュアーナ・バローヌムとも深い閨係にあったであろうこと、及びおそらくこの地域がデュアーナ・デ・

セクレティスの管轄に入ったとすれば、それはこのあたり出身の官吏がマギステル職等に就きだしてから後のことであろ

うことを指摘しておきたい。

101 (867)

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 ところで、二つのデュア!ナは、記録局としてそれぞれ管轄区域を持ち、当該地域の台帳を保有しながら財産問題やそ

れに付帯する徴税に関わる職責を負っていたわけであるが、それでは、カラヴァーレの主張するように、この時代になる

と財務行政が全てカメラからデェアーナに移管されたと考えてよいだろうか。既に、われわれはルッジェーロ慨世時代に

                                 ㊨

おいてもカメラにあたる官庁が姿を消したわけではないことを確認している。同様のことが、グリエルモ本図時代にもい

えるのであり、カメラは存続していたと考えるべきである。それは、グリエルモニ世時代にも相変らずカメラリゥスの活

      ⑭                                                  @

動が認められる一方、罰金の支払い先としてバシレイコソ・サケッリナソが見出されることから推測される。さらに、一

一九四年、シュワーベソ朝のハインリヒ六世がパレルモの王宮に入って、財務の引継をうけた時の模様を伝えるペトルス

・デ・エボーリは、 「第一の者があらゆる鍵を差し出し、第二の老が如何ほどをカラブリア・アフリカ・プーリャ・シチ

                           ㊥

リアに負っているかを示しながら、第三の老が収入を説明する」と述べており、カメラリウスが財政面でかなりの権限を

持っていたことが想定されよう。

 つまり、カメラリウスとデュアーナの官吏は各財務の一翼を担っており、緊密な関係にあったものと考えられるのであ

る。事実、カメラリウス職とデュアーナの官職との兼任という例も幾つか存在する。例えば、ガイトゥス・マテラリウス

                               ⑲

は、一一七六年にカメラリウスとデュアーナのマギステルを兼ねている。一一八三年から一一八七年にかけて、ガイトゥ

                                          ⑳

ス・リカルドゥスは、カメラリウスであり、デュアーナ・デ・セクレティスのマギステルであった。 一一九〇年の文書で

                                     @

は、ダリウスがカメラリウスとデュアーナ・バローヌムのマギステルを兼任しており、グリエルモ一一世の時代を通じてこ

のような傾向があったとすることができよう。また、地方レベルで特に南イタリア地方においてカメラリウスとデュアー

              ⑧

ナの官吏の共同作業が認められる。これは、当時デュアーナの下部組織が泉熱であったため、以前から存在していたカメ

ラリゥスが利用されたと考えられる。さらに、財務行政を推進していたとされる中央機関マグナ・セクレジアは、デュアー

ナのマギステルとマギステル・カメラリゥス・パラティイと裁判の際の罰金を取扱う関係上司法の高官であるマギステル

102 (868)

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ノルマン朝シチリア三E国に関する一考察(山邊)

                                 ⑧

・ユスティキアリウスを加えて構成されていたと考えられることが挙げられる。財務の専門機関たるマグナ・セクレジア

の形成は、未熱ながらも尊門的機構がマグナ・クーリアからさらに独立する方向にあったことをも示しているといえよう。

 なお、この時代にどのような人材が官吏となったかについて簡単に触れておこう。史料にはこの時期再びギリシア系官

吏が登場する。その中で中心となっているのはエウゲニウスであり、彼は十二世紀初頭に官吏を輩出した家系に属してい

⑭                                                      ⑭

た。一方、一一八五年に王国を訪れたイブソ・ジュバイルは多くのイスラム系の人々を王宮に認めた。また、カメラリウ

                    ⑭

ス等には南イタリアの都市市民層出身者がおり、行政の伝統を持つ全ての現地人をそこにみることができるのである。そ

の意味でグリエルモニ世時代においても、行政体制はこの地域の伝統的要素の上に立脚していたといえよう。

               *                    *・                   *

 以上から、ノルマン朝シチリア王国の財務官の発展について、ここでまとめておく。

 征服の時代、ノルマソ人支配者は既存の台帳や官吏を利用したが、組織としては未熟な段階に留まっていた。南イタリ

アでは一応カメラはあったが、おそらく大した活動もできなかったと思われるのに対し、シチリア罪質では官吏が桐当の

権力を有していたというのが王国成立前後の状況であった。王国成立後、全国に王の財務官としてカメラリウスが設置さ

れ、財務活動にあたる。但し、シチリアにおいては、土地台帳を保有するディーワーソTMと、住民簿を保有するディー

ワーソMが創設され、財務活動の一部を担うようになる。十二世紀後半にはいると、官庁の長官職の創設から中央集権的

組織化が進行し、グリエルモ挙世時代には、なお流動性があるものの次のような組織ができあがる。すなわち、財務官の

統轄は、各長官の集合体たるマグナ・セクレジアがあたる。その下には、カメラ(サケッリオソ)とデュアーナがある。

デュアーナは、旧プーリャ公領及び旧カブア侯領を管轄するデュアーナ・バローヌムと、その他の地域を管轄するデュア

!ナ・デ・セクレティスから成り、いずれも記録簿を保有している。デュア!ナ・デ・セクレティスはさらに土地関係の

事務を販扱うディーワーンTMと、住民簿を有し徴税権を有するディーワーソMに分かれ、ディ!ワーソMの下にはディ103 (869)

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ーワーソ。アル・ファワイドが存在した。 一方、カメラは罰金徴収等の業務に携わったほか、広範な権限を持っていたこ

とが推測される。

 シチリア王国の財務官には、その時々の政策からある要素が強まることもあったが、基本的にいえば現地の伝統を踏ま

えてアラブ人もギリシア人もラテン系の人々も宮吏として包含されていた。組織面からいっても、その機構は、現地に存

在する伝統を生かしながら、王の権威によって中央集権的に整合したものであるといえよう。以上のように、各種の伝統

に立脚した形で中央集権化を進めていくという財務機構の形成は、まさに、ノルマン朝シチリア王国の特徴を明示してい

ると考えられる。それでは、次章において、如何にしてノルマン朝シチリア王国がこのような特徴をもつようになったの

か、また、この体制が形成されていく過程で生み出されてきたノルマン朝シチリア王国の磐主理念とはどのようなもので

あったか、という問題について検討を加えていきたい。

① 一〇a帥戸。特ミ‘℃や鍾Oふb。.パレルモ大司教には、一〇七二年パレ

 ルモ市降伏直後、アラブ支配の中を生きのびたギリシア正教系の司教

 ニコデムスが任命された。しかし、~○八三年以降はローマ・カトリ

 ック系の聖職者がその職に就いた。その他の司教管区設鐙は、一〇八

 一年・トロイナ、 一〇八六年ジルジェンティ(アグリジェソト)、マツァ

 …ラ、シラクサ、メッシナ、 一〇八八年カターニャ。なお、リバーり

 ・パッティ修道院長にも司教格が与えられた。

②〉ヨ母抄愚.ミ‘<9Q。剛℃,ω謡9

③きミ℃.。。舗b.b。.

 φ鵠αo窪巳霞①貯。。℃¢け三〇器箕。。。巴纂Φ帥三日器ヨ㊦騨Φ…9象簿

 ヨ篇も葺薬剤8蛭類甑跨8冨甑Φψ裟oo芭図嘗。・8覧歯釜ω塁器℃

 ○二巴。の鶏808三叉噂ρき鳥象。貯鴛bd暮プ黒身同ご。ヨ巳富巳巳①暮。

 簿鷲纂ぎ窪爵。・。。巳。・防臨偽§§いミ§ミ餐霧ミミ職§跨再再噛§§§ミ野

④ O貧嘔論鴨.Ooβ。。ご昌2齢01.層℃や刈山bΩ.プラテーアは論N袋『へ墓識認証息象

 託ミ弐心託ミへ貫という形で史料に登場する。なお、この引用文は、

 一一四五年の文書の中で引用されている文である。本文九五頁参照。

⑤ 奪ミ℃や醜IN◎。曜℃やも。曽。。刈9補為§輔。ミミミ。のは第一書記官の意。

⑥寓塁Φお魯■ミニく。ドN”ややω。。OlO。ご○ご暮ρ愚。6罫ワ①。。,

⑦誇ヨ鷲押愚.ミ‘〈oド。。”℃。。。㎝ω噂℃,。。O揃O碧ロ鈎..Oo驕凶白窪8..噛や

 ト3伊

⑧。h国目①。・8層。簿δ塁、.いp乾臨慧智お陰湿σqσqo目ol》山¢㌶ω㌶O巴

 く霧88箕。器螢巳ω一〇二一即.、層憾§嫡さ§§§賦遠ミ、蟄ミミミミミご-

 弐濁冥唱。戸お罐り℃℃.合㊤凸8.

⑨○舘出戸、.O窪二塁睾ε、.℃勺や鳶占O㎞い9亭図。げ①戦け鼠9品Φお抵ミ㌢

 菱ミ的-”姐§揚り℃ρ蹴Pおαρ唱ワ挿○。ムO.ρヨ犀ρ9ρあるいはρ旨葭r

 鑓葺ωという形であらわれるこの称号はアラビア語のエミールを語源

 としている。この官【職名は既に一〇七〇年代に見出されるが、特に重

 要な意味を持つようになるのはクリストデュロス以降である。ルッジ

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ノルマン朝シチリア王国に関する一考察(山邊)

  エーロ二世が成人に達すると、数人にこの官名が冠せられるようにな

 る。その中で首伎にあったのがアミラートゥス中のアミラートゥスで

 ある。これが王国最高の顕職であったという点は衆目の一致するとこ

 ろだが、その軍事面の機能については意見がわかれている。また、メ

 ナジェは、王國後期には名誉職化したとみなしている。なおギリシア

  語では海もNe℃という形でも蓑記される。o栖霞Φ同蚕σqo♪等ミこ唱憎,刈。。-

 。。O…鑑畠g。特■ミ‘くg■的もや。。㊤?㊤ご冒ピω書矯号ミニ電.G。ωみり■

⑩O胃魯噂.、O魯甑旨。馨。..もやω?G。メなおq§鶏ミミはqミ.瓢鳶ヘミ璽

 §日韓へ豊とも表記される。

⑪臼呂黄。賢ミこ℃や紹-蕗’

⑫O三日り、、08ω巨Φ暮。..魑℃℃9ωb。凸ω■

⑬クリストデュロスについてはギリシア人説とキリスト教に改宗した

  アラブ人説がある。.。播≧娼げ。葛。図。島ω。髭・.、<o誘σqΦ身跨。欝巴

 8一αU鎖ロ一畠P昌qo一㊤同①σqO類OΦ山Φ円鐸σ一ω闇”句旨袋瞳冶癒馬』肋.馬亀無帖野崎魯㎝o o陰邸同一ρ

 H ド◎Q㎝ω曽℃■ω圃メ轟■H騨罵⑩嵩麟σqOJ」罵職鳩魯W裳偽”℃℃,bσQQI画ρ

⑭一〇八六年の例については、冨曾餌σq⑦さ鼠ミ讐、ミ義”省嵩口α錠Hやb。。

  一〇八七年、一〇九二年については、O㊤著く巴ρ、.○一帥¢田9ゆ呂苧

 N一ρ同一旧嘲「℃■HOQN℃■ド⑩b⊃.

⑮O霞魯”、、O。霧巨。馨。.、層やω9戸鼻.

⑯○霧℃㊦5。》ミ‘話σqし日。。・・謡為舟U月震り冒■≦財坤酔ρトミ§§-

 9§識§§さ§§畑絵ミド9ヨげ島σQ①(鍔ρωG6.)魑δ。。伊やお9

 鑑①津σq⑦5抵§ぎ零b娼℃。民ジ羅も鮮b。b。’

   :。ゲO旨一麺⑦ωゆβ¢噂同OやユO⇔O目坤瓢O一昌℃一ρ汁一回 騨一一窪 OO口6αO凱σ野口け=お:陰

 團ωけ騨日輪凶げP遼自Oα一く一qo9ωh①O諄○①O『σq一蛋ω斜一づ騨㊤雪Hω藺ヨ一戦僧仲O磐嗣ヨ讐臼Φ口◎o①

 3訂舞…」ヨ§ざコ。×、簿く三節巳魯¢弓。。即8。弱凶㊦。・≡諄註

 三冠黛獄&偽も}.脳憾、&ミ匙象、馬硫恥昏乱亀.軸恥恥“恥窺憶、}、勘“恥嵩~恥●

⑰ このアッシーセは、通説に従えば}}四〇年アリャーノで発布され

 たとされるが、その時期を下らせた異説も存在する。ここでは、内容

  ・状況から最も妥当な時期として=四〇年を考えておきたいσO播

 回ビ価Oコー口Oσφ口.け ン自①口ρDσq①お  、軸いP 一〇σq肖①HPけ凶O昌 の質α一一汁即鶴①図回昌O ooO鐸ω 一麟

 伽O旨一5僧け一〇昌”O叩きρ渇αO魑.讐Nぎミ嵩勘扁ミ賦馬N&、O晩O馬恥特&“窮帖O情偽噛§歯噛慢O博&

 噛罵畿い鼠黛O§乱帖OきO噛oD℃O一㊦陣OやHゆ①ρ℃℃■劇①㎝…“①■

⑱9ω℃舘層愚.ミこ器σq』。。・.ミρH。。b。…9茜く巴ρ.、いρ眠。追録縞、.”

 ℃℃。躰01膳ド’

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 αO冠Φ■目自ωω一き煽ω一什斜ρ仁O口伴O日昌一騨℃『一く二Φσq一POOO嵩ω一四門留ヨOけω葺σ一㊦O一

 叶O円qヨ『Φσq昌画 昌O匂ゆ伴層陣 9欝け凶ρq諄露ω OO一昌℃Oロ自犀P ρ 罫Oω梓円㊤ O一〇昌P①口O一ρ

 昌。く岸曾。。・。pΦロ汁。ξo嵐暮雲。叶8σoお出。珍ユ。乱ヨ貯陣。陰ooヨヨロ三$…

⑲9壱聲愚。ミ■㍉①σq』。。・払。。堅。。ρおρお“。層ぢω嚇O貫臨㌔O。〒

 oウーヨゆ郎けO騨噛”喝℃マ。亀ω一①蒔…♂〈}凱叶ρO特。“篭こb℃・同目Q◎一H幽噛〉}σ同㊦Oげけ累O睦げ噂

 偽隔回)一①砂円㊤げ一〇ゆOげΦ瓢一)O需ロヨΦコ叶O劉OσqΦ円HHり.サ 9、神窪壽匙恥躊慧壽恥肉魯ミ婚、馬軌

 宍q嵩帖偽需O偽ミ、恥機卜尊O一騎凡6畿貸馬鵠、ぐO嵩 ○陸戦一円一〇げ9目O切『欝プ一噛 H(O一昌鐸⇒恥

 ♂〈一〇瓢讐H㊤刈◎◎噛唱℃.bo帥一15二㎝,

㊥  男斜一〇〇回WΦ昌¢<Φ昌伴百Go”G}噛.O舞帖もO嵩讐O唖O詮軌白目恥動“唖籍Oや一切馬謡もい、O謡賊尋憾O-

 N急転勲醤鮎 い妹O蘭.軌袋.織恥㍉馬暑 旨§冶a噛、h}弓袋噛 曽O胸■N き噛、}嵩袋躊§斜 ㊦O. ∩甲■H)O一 図O陶

 累巷。罫H。。臨(も鉾}巴。昌魑目礼α)(以下、瀬ρω.ω.と略記)℃や駅ド

 ふb。●王は、ナポリの町に特権を与える際に同市の市壁の周囲をわざ

  わざ測らせ、正確に知っていた。

⑳ イドリーシー(〉σ帥 〉げ鳳 》一一賢げ ンROげ9ヨ同旨拶α H山亀岡Qロリ)については、

 o剛.〉銀着評。賢愚“こく。一■bo噛℃℃.恥①OI刈ρbや①刈?↓O昂この地理書(袋㍗

 ミミ守ミー淘ミ.ミ醐)の正式名称は、『世界を旅することを望むものの慰

  み臨であり、=五臨年のルッジェーロ王の死の直前に完成した。序

105 (871)

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 文では「王ルッジェーμは、王國を広げ、各地が如何なる状態にある

 のか正しく確実に知ることを望まれた」と述べられている。

⑫ O餌ω唱pが。㌧●覧牒こ図,oσq,Hδ幹HQO9鱒一QQ噛Ω勉『β⇔、..Oo昌g。一ヨ⑦=仲。、.句や

 ①○◎噛℃℃.①圃1①QQ嚇緊。α一Uoω.く㊦機αqo『o陰噂..ooρ弓囲①切回一℃δμ昌。も噂pH轡ぴΦ07097

 qo①円く仙ω戯9⇔ω 一〇ω PHOプ一〈①ω.幽O一㊤ω陣O一一①1嗣い⑦脱け同O>・言■AU差口qoω一コαΦ

 ℃o戦oo〈9ひ一、.℃腎Nミ嵩職、 二目窺欺鷺遠讐.蒔。 m①嵩ρ <目 Hc◎戯μ ℃℃・QσQQ刈一ωoQ…

 瓢。夢.o》鼠W鼻翼℃・b。b。b。一込。。。り℃℃。b。鱒?卜⊃Φ。なお、この二番目の文書に

 登場する8.置(σqρ旨器)ブルーソは、ハスキンズ以来イングランド人

 トーマス・ブラウンと同篇侃され、官庁のイングランドとの関連を強

 済する}因となってきた。しかし、王国の官吏の中でガイトゥスとい

 う称号が与えられているのがいずれもアラブ系の人々であることを併

 せ考えれば、問題であろう。oh’Oげ9二窃躍・国器臨質ρ、、閻臨σqご嵩傷

 ρ冨鳥ωざ置団陣昌けげOけ宅巴坤びO①鳥什∬穏団..噂奪榊偽N蹄}ミ無O蕊噺aN需恥q焼馬起い

 O囲囲HHり一押娼℃’心ω㊤一劇浬

曾 U賃一αq一QΦコ自玄同α一画..H畠①剛①け陰言コ。境ヨ斜昌コ一.”℃Oミ職ミ§篭。銚ミN袋蟻ミ㍗

 賦鳳騎丁重ミ“神ミ馬鼠§a註”℃曽ざH暑ρHり一ρ〈o一■ ど ℃9H①O“ H肖ゆωH凱ロ。ウ層

 、、円昌αq5⇔犠pa盟。農団.、・や象Q。。なお、カラヴァーレ説は、通説たる

 相違説と問一説を折衷した説といえよう。O貧p<巴。℃.、O㍑百ぬ。一識暴亭

 N一ρ臥..魑娼℃.一㊤QQI爬OP

⑭ ○帥円自ゆり、.ωg目.oH㎝一子脚ヨ。ロ仲。.”層℃℃.』oQQ①1幽O脚帥鳥⑦導噂、、Oo昌oo凶ヨ㊦Oけ。..”

 ℃℃.①α1①QO.

⑳ 国鳥05¢♂くδ壇ロ。りNo毛ω手押..告げ。駕。曜日p昌囚凶嵩σQαoヨ。囲ω陣9一団㊤昌畠

 けげΦO門qoりpユ島Φω、.婚鼠ミ無O遣ミO悉嵩騎犠馬鉾boぐO冒こ①畠ω¶H(,竃・ωΦけ仲O昌

 ㊦けp一.、♂くδoO類。噂一昌讐ドO①ρぐ。ドトニ層℃℃・b二G◎ート}ρ

⑯ N鯉帖画℃.卜3刈.

⑳ゲオルギウスはルッジェーロに仕える以前、マハディアのジリッド

 朝に仕えていた。oh・蜜9@⑳oお鼠§籍ミ嚇“勲唱や濠凸心■

@ 図Oヨ篇帥白鳥自ωoQ㊤剛Φ門鑑鐸ω”G神黛O㍊勘03ン《Oも自恥“梗画辱なミ砺嘘くO轡)【区回メ

 O鳥・ ♂<.諺溢μ島寸 や.偽boQσ鞠 渇鳥}.隔ミ鳶 皆瀬N苛犠触,触ミ起 砺“憎熊蝦象.三塁 OO. い9諺●

 ン時鐸円露仲O門一層 ン貞岩ρロO「 一刈卜⊃QQl窃ど口■ロゥ.①畠噂 O.Oρ吋急鐸OO凶 ①く.蜀一〇H一=一’

 一80-ω㎝(以下需■トいじ9と略記と円。ヨ。く目噂℃削ぎ目、o鐸 Ωρ暴戸

 ℃’b昌bひ①…鴻●G’的.碕二.唱・日ω陶

  図O翼ρロけ①ヨ図OσQσq①識¢ω一ロHOσq部O㎝鐸O娼O同論ΦOけO℃9ユ9ω仲憎P昌ρロ同質7

 けρ汁O℃O趣けロω噂 ℃触O OOロooΦ同くP口餌P℃ρO① OPヨO門PユOω Oけ 一口6摩凱9PはOo摩

 ℃o巴仲Oけ㊤鵬pげ⑦H『㊤導柳昌ω心配昌律”一⑦σQ㊦ω9臨oo=Oぐ津①同Oo昌O詳ρω℃Hoヨ離一1

 σq9<一辞ヨ勲一節ωOOコQo口Φげ自営一類Φロ。αOヨΦ鳥{O㊤ぴ匂◎触目一撃・

  なお、ここでいう悪しき慣習とは、誤てる微税の意味であると考え

 られる。OhO昌H韓OO一定象暴層鴨乳○・・㎝窪奉賦O艮・。鉦一巴Φσqσq一書コ昌器α⑦

 伽O一国OσQ質Oα一の陣O出一僻.、.這§潮魯馬O無O識もO特ま恥帖Na鮎噌メ<Hドリ①qQ鯖℃℃●①O

 iQ。ら。.

⑳ 本文九三頁参照。

⑳多く。蔓口器邑。・。p、.8ぽ客。曜日磐》α慧巳ω貯三一自。回廊讐冨雪山

 O騨℃簾P ヨO目ΦOo◎℃①O一騨寓矯5昌創①吋園Oσq⑦同 一H ㊤謬伽♂<二一一ゆ麦押一一bσ刈1

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⑳〉雪融O口葭8脚卜騎§融鷺§§砺』§唖ミ§ミ蟹恥§§曽℃巴㊦H日p

 おの。。噂ぎ、。。●なお、この時代に財務府を示す用語として勲魯ミミ?

 曾暑誌喬qド㍗q職ミが用いられている例もある。oh■Ωp罎戸、、Ooデ

 絵ヨO昌沖O噂曽噂℃℃■GO①1もQ刈■

@ マグナ・クーリアには、裁判を専門とする機闊の意味もあるが、こ

 こでいうマグナ・クーリア.は、さまざまな機能を有する王の中央機関

 を意味し、封建諸侯、聖職者、高官から成るものである。この王国

 においては王の指滋}性が強かったとされる。 o剛・O鋼巴p昌αo詳。》ミ外讐

 くO一■bつ曝唱唱.Φさρ㎝1ωb二。

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匂餌日冨Oロ勉..目H日①累O冠ヨ騨話》良ヨ一旨一ωけ『齢鉱Oロ層、’℃℃.NQ◎鱒一㊤P

106 (872)

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ノルマン朝シチリア王国に関する一考察(山邉)

⑪) 国=σqO勺p一〇P口叩二の噛卜aミ無§、~&O卜帖ぴ恥瞳銚馬嚇、鴨h詮Oの画職N弓馬N&導㍗・

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  ①一ω鋤O円P八一〇げβωσq9団伴口ω HOプP周 Φ賃口鐸Oげ口P 旨9σq凶の仲⑦叫 Oρヨ①村診肖一藍Qo

 づP一ρ凱其:「

⑳ き帖糺こ℃。oQQ◎’

  なお、初めてマギステル・カメラリウス・パラティイという職が登

 場して以来、このころまで、その職にあったのは、ガイトゥスと冠さ

 れるアラブ人であった。

  Oh■帖ぴ噛職こ℃。○◎Qゆ・

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 Φ目㊤梓ヨρσQ尻伴O同O勲ヨO噌9ユqω℃帥}餌O跨OO訂ω怠梓鐸嘱目幹

⑳ 王宮襲撃の際に、土地関係の文書が全て失われたのか、それとも一部

 のみだったのかについては意見がわかれている。oh.Op毎沖..O⑦コの7

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⑲ マルグリット・ド・ナヴァルの摂政時代の混乱収拾にあたった時の

 ファミリアーレスは十名から構成されていたが、一一七 年以降はそ

 の申の有力者に限られたようである。Oρ旨沖..O窪ω冨。暮。.、層や『◎。…

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 の妻定めた。一一七八年から一一八三年に至るモンレアーレのサンタ

 ・マリア・ヌオーヴァ修道院の文書においては、同修道院に寄進され

 るべき住民のリスト、所領の範囲についての確認が、それぞれディー

 ワーソMとディ…ワーンTMによってなされたことを示す。また、一

 一八三年の文書には、教会やバロンの土地に見出せるディーワーンM

 の人々はディー.ワーソMの権限に帰せられる、という一節がある。

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⑳ デュアーナ・バ二三ヌムが取扱っているのは、カブア、サレルノ、

 ベネヴェソト、ブリソディシ、テッラ・ディ・ラヴォーロといずれも南

 イタリアの問題である。唯一の例外は、パレルモにある家屋の売却を

 うけた一一七六年の文書である。属三眠昌ρ.、問臣σQ訂滋導αω一華団、.℃

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(873)107

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⑩專ミ.も憲。民詳囲。

⑪ ジエミソソ女史の手によって公刊されている。○ミミ魂義切干ミ嵩§達”

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d ノルマン朝シチリア王国の体制と君主理念

  

アの王国の体欄の基本的なあり方を検討するとすれば、まず、ロジェール一世から話を始めるべきであろう。

  

サ実主義老であったロジェールは、pーマ・カトリヅクの司教を任命しながら、他方では多くのギリシア系修道院を建

                                         ①

出したリギリシア系の宜吏を登用したりしている。かと思えば、イスラム教徒の軍隊を率いて、彼らがキリスト教徒に改

108 (874)

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ノルマン朝シチリア王国に関する一考察(山邊)

        ②                                                 ③

宗するのを禁止する。パレルモは相変らずアラブの町であり、北アフリカのエミールとも平和協定が結ばれる。節操がな

いともいえるこのような実利に基づく現実的施策を生みだしたのは、ロジェール一世の政治的感覚もさりながら、まず支

配者となったノルマソ人の僅少性にその理由が求められよう。

                                            ④

 ノルマソ人がこの地に定着するにいたったきっかけについては、年代記によって多少差があるものの、とにかく傭兵と

して生きていける土地であったことがノルマソ人をひきつけたとすることはできる。南イタリアへやってきたノルマン人

                                          ⑤

たちは、故国ノルマソディでははみだした存在であり、帰る土地を持たぬ者が多かったからである。そして、征服の時代

が終わると、ノルマソディから新たにやってくる者も減り、初期にやってきたノルマン人たちは、故国から離れた形で、

                                        ⑥

南イタリア地方の慣習に同化していった。しかも、彼らはもともとノルマンディの下級騎士層出身であり、かつ、紐織だ

った征服を進めたわけでもないことが、現地罠を尊重させると同時に如何なる要素も強くなりすぎることがないようにと

の配慮をさせることにつながった。彼らは決して大量にこの地域全体にはいりこんでいったわけではなく、いわば一つの

結合の要として支配者層を形成していったのである。このような体制は、多少現地の人々の不満を呼びおこしたが、全体と

してみれば、外国人支配を受入れさせる要因となった。とりわけ、華々しい征服活動に一生を過ごしたロベール・ギスカー

ルに比べ、堅実な統治を目指したロジェール一世の支配領域においてこれはあてはまることである。少なくとも大伯爵ロ

ジェールの支配領域に入った地域では、マルグリット・ド・ナヴァルの摂政時代のフランス的支配や神聖揖ーマ皇帝ハイ

ンリヒ六世支配初期のドイツ的支配のように、外国の慣習による支配への反抗の記録は残っていない。また、彼の支配領

域における平和の確立は、度重なるアラブ人の襲撃や内部抗争から荒廃していたカラブリアにおいても、一世紀にわたっ

てモミールの割拠が続き疲弊していたシチリアの人々にとっても、一面で歓迎されるものであったことは間違いなかろう。

 他方、支配を確固たるものとして維持していくためには、当然単なる軍事的成功や現地の伝統尊重のみでは不十分であ

り、それなりの権威づけが必要である。ところが、前述の如く、プーリャ公やカブア侯となった家系ですら、故国ノルマ

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ソディでは小貴族に過ぎない。オートヴィル兄弟の末弟であったロジェールにいたっては、馬泥棒から始めたという実に

惨櫓たる経歴の持主であった。また、彼は形式上はプーリャ公の封手であり、シチリア伯という称号自体プーリャ公たる

兄ロベール・ギスカ!ルによって与えられた称号で伝統的な権威を持たなかった。かかる状況は、南イタリアやシチリア

に反対勢力が伸びていくのを恐れる教皇庁と結びつくという結果をもたらし、具体的には一〇九八年の教皇ウルバヌスニ

    ⑦

世との協約という形で表れる。ロジェール一世自身が果たしてどれほどの宗教心を持って教皇庁に接近したかは極めて疑

問であるが、東西両皇帝と敵対している状況にあっては教皇に勝る権威はなく、彼が領域的な教皇権力の漫透を避けなが

ら教皇の権威を利用したということは十分考えられる。

 また、征服の時代、ノルマン人諸侯が婚姻政策に心をくだいたのも、地位向上を欲した表れである。ロベール・ギスカー

ルはビザンツ皇帝寡との婚姻まで計画していたし、ロジェール一世もまた、ハンガリー王家や神聖ローマ皇帝家(ザリエ

                                                    ⑧

ル朝)に娘を嫁がせた。さらに、アデライデがエルサレム王に嫁したのも、王称への一つの布石とみることも可能である。

 一方、対内的に現地の伝統を尊重しながら権威を高めるためには、彼自身が現地の諸権利を掌握し臣下に対して承認を

行えなければならない。そこで、土地や住民の台帳が利用され、それらを扱う官吏が配下に置かれるようになったのであ

る。その官吏とは、まさしく土地の事情に詳しくしかも台帳を作成する伝統を持ちそれを使いこなせる者、すなわち、現

地のギリシア人、アラブ人が主体であった。特に中心をなしたのは前者であったようで、その意味でシチリアのヘレニズ

ムの復興を認めることができるが、それは決して全体を覆い尽すものではなかった。 おそらく、 アラブ人の土地につい

てはアラブ人の手が借りられ、 必要な場合にはラテン系の人々の助力が求められるという状態であったのだろう。 これ

には、ロジェールのシチリア征服の際に海外逃亡を図ったアラブ人たちの土地にラテン人の入植が行われたことにも一因

  ⑨

がある。とにかく、このような入植地を除けば、ロジェ…ルの現地民に対する態度は、平和裡に伝統・慣習を維持するこ

とを第一眼目としており、網変らずキリスト教徒の奴隷すら存在したのである。

110 (876)

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ノルマン朝シチリア王国に関する一考察(山遇)

 以上のようなあり方は、王国創建後も本質的に変わりなく、むしろノルマソ人支配者を権威着とみなしその権威によっ

て伝統に立脚した統治を行うという内的側面においては顕著になったといってもよい。なお、対外的側面では、王国成立

                         ⑯

の事情から、ルッジェーロニ世には風動老の烙印がおされ、西欧世界において承認をうけるのは、ずっと後のこととなら

ざるを得なかった。

 では、国内的側面を追ってみょう。王国創立期においては、まず、ルヅジェーロニ世に国王たる資格を認め、その権威

の高揚を図ろうとする動きがある。ルヅジェーロ自身は前述の如く、血統によって王たる資格を得ることができなかった

し、皇帝に承認されるということもこの時点ではあり得なかったから、それ以外の幾つかの方法に頼ることになった。

 第一の道は、王国の人民によって彼が「選ばれた老」であるから、という理由づけによる。ルッジェーロが、シチリア、

カラブリア、プーリャに及ぶ広大な領地を所有しカブア侯を服属させており、その状況は王位に就くのにふさわしいもの

である。このようにみなされて、サレルノ及びパレルモで聖職者や諸侯等の同意を得たが故に、王へ昇格したというわけ

  ⑪

である。

 第二の道は、神の代理人たる教皇が承認し戴冠させることによって、ルッジェーロ警世が王たることは正統づけられる、

        ⑫

と考えるものである。ルッジェーロが、対立教皇アナクレトゥスニ世によって戴冠され、その後も正統教皇の承認を求め

たことは、このような考えの意味の大きさを感じさせる。もっとも、これは、第三の道が、地上において明示されるため

の主たる要素と考える方が適当であろう。

                                               ⑬

 第三の道とは、ルッジェーロが王となることは神によって当然定められた真理であると主張することである。テレーセ

の修道院長アレクサソデルの手になる年代記には、このような考えが明示される。アレクサソデルは、一一三〇年代に近

隣の佐民がみた夢がいずれも「ルッジェーロが玉座に座るのは神の意志であり、その権力は神に由来している」のを暗示

       ⑭

していた、と語る。 一方、マルトラナの聖マリア修道院(アンティオキアのゲオルギウス建立)のモザイクにはキリスト

111 (877)

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がルッジェーロに戴冠している様子が描かれた。おそらく、君主たる資格が神に由来するという考えは、ビザソツやイス

ラムにも存在し、この多元的国家において受容されやすいものであっただろう。第二の道においても教皇は地上における

神の代理人として位置づけられることを考慮に入れるならば、主として権威の高揚を図るために神の意を主張する神政君

主の理念が利用されたとしてよかろう。

                                              ⑮

 このように権威づけられた王は、王の職分として、 「平和」を守り、良き法を守ることを義務づけられる。雷いかえれ

ば、各地方の慣習を尊重させ守らせる権威が王にあるとされるようになったのである。

 既に、一=一九年ルッジェー西語世は、メルフィに南イタリアの諸侯を集め、プーリャ無位を継承したことを明らかに

                                           ⑯

するとともに、南イタリア諸地域に平和と安寧をもたらす意志を表明し、それに関する命令を下した。そして、王となっ

てから後も、南イタリア諸地域綱圧の過程において、封建層、都市の市民層、その他土地所有者に、王による「平和」の

                                     ⑰

維持、私戦の恒久的禁止、聖職者や武器を持たぬ者に対する暴力の禁止を命じている。そして、その意図は何よりも、一

一四〇年のアリャーノにおけるアツシtセに明示される。

 このアッシーセの序文では、これが如何なる目的で発布されるのかが明らかにされている。王は、自らの勝利と平和を

神に負っており、神の慈悲と正義を復しそのために有効な法をもたらす義務を明言する。すなわち、統治を行い法を発布

する権力を神の恩寵によって受けた者は、過度に苛酷な状況を是正し、法を守り改善する職務を果たさねばならない。王

                                         ⑱

は、何よりも良き法を守り、悪しき慣習を捨て輩下を守る存在である、と謳っているのである。

 逆に、平和を破ろうとすることが、聖主、ひいては神に背く大罪と位置づけられた。この大罪に関する裁判については

                             ⑲

常に王が裁判権を有し、さらに霜除の絶対性を強める方向に働いた。 =カ、アッシーセには財務面に関しても強大な王権

を志向する条項がある。例えば、諸侯や聖職者等、王のレガーリアによって何かを所有するに至った者は誰でも、贈与に

せよ売却にせよ勝手に財産を処分することを許されない。即けの財産をなおざりにして、無くしたり減らしたりした渚は

112 (878)

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ノルマソ刺シチリア王国に関する一考察(山邊)

                                    ⑳

罪に問われる。そして、財務府は大罪を犯した老の財産を没収する権利を有していた。

 かくして、強大な王権による平和の確立と潰習の尊重のため、行政組織が整備されることになるわけであり、その発展

は前章で述べたとおりである。

 以上のように、王国成立時の動きやアツシ…セに明らかな体制、つまり、慣習及び伝統の蘇生、平和の確立という原則

が存在し、そのために法を守り良い方向に導くとともに、公正な裁判と適当な徴税を行うのが王であり、神の権威を援用

してその王の権威の高揚を図る体制は、雑多な要素を並存させるこの王国が存続していくためにまさに不可欠であった。

従って、この体制の乱れはそのまま王国の動揺につながった。例えば、マイオ・デ・バリの暗殺に端を発する内乱である。

これは、マイオがそれまでの慣習を無視する形で抑圧策に出たのに対しておこされた反乱であった。また、二十年にわた

って協調と繁栄の時代を享受した王国がノルマン朝の終焉を迎えることになる動乱の時代に突入するのも、国内で揺るぎ

ない権威を誇ったグリエルモニ世が急死し、もはや王の権威に頼ることができなくなったためであるといえよう。グリエ

ルモニ世の死後、ルッジェーロ濁世の孫にあたり王魍内の諸侯らの推挙を受けたレッチェ伯タンクレディと、グリエルモ

今世に嗣子が無い押合に王位継承者となるとされたルッジェーロニ世の娘コンスタンツェが嫁した神聖ローマ皇帝ハイン

リヒ六世との間で王位が争われた。タンクレディは庶子である上に、マッテオ・ダジェロらの力を借りて戴冠したものの

各勢力の懐柔に努めた結果、自差の権力の低下を招いていた。他方、長年敵対してきたドイツ人に対しては国内に根強い

反感が存在し、双方とも、それまでの諸王の伝統を継承できなかったのである。

 結局、この争いは一一九四年ハインリヒ六二の勝利に終わるが、彼にとって重要であったのは、この王国をうまく統治

することよりも、その繁栄の成果をいかに搾取するかということであった。従って、彼がシチリア王となって生みだされ

たのは、新たな反乱とシチリア王権の高揚に役立った財宝をドイツへ運ぶ列のみであった。このようにシチリア王国を利

用する政策は、その後外国に本拠を持つシチリアの征服王朝の政策につながるところがあり、ノルマソ朝及びノルマン朝

113 (879)

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の伝統が一時復活するシュワーベン朝のフリードリヒニ世時代に繁栄を誇ったこの地方が、やがてヨーロッパで最も貧し

い地域といわれるようになる一因になったのである。

 以上の検討から、栄華を謳われたノルマン朝シチリア王国は、伝統的な諸要素の並存の上に、もともと大した伝統も係

累も持たず自己の組織力・指導力によって平和を確立した王を頂いたが故に成立し得たとすることができるであろう。換

言すれば、まさにそのような王の存在こそが、多元的国[家内の諸要素の並存を可能にしたともいえる。王が諸要素の結合

の要たることは、王の権威の高揚をもたらす一方で、その基盤となっている諸要素の差異が大きいためつねにバランスが

失われる可能性を秘めており、この王国の繁栄の源であると共に弱点ともなっていたのである。

114 〈88Q>

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 聖アンセルムスの説激に感動したサラセン人たちが、自分たちは改寮

 を塾むが、伯爵がこれを許さないのだ、と雷つたと伝えられている。

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⑦}o同犠ρP。笹ミ.噛もや叙b。も9いわゆるい。σq畏猷》℃o簿。雛。勲を生

 みだした協約である。

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ノルマン朝シチリア王照に関する一考察(山邊)

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⑯ アレクサソデル・テレジヌスによるこの時の平和令の記事をあげて

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   公爵は、メルフィにおいて、これらのことをすばやくなしてプーリ

 ャの諸侯や伯に集まるように命じた。と岡欝に彼らに次のことを誓う

 ように命じた。  この時よりかつての正義と平和を守るように。ま

 た、守ることを誓うように。また、彼の領土内で略奪・強襲を行った

 ものをかくまわぬように。また、それに同意を与え滋ように。そして

 もしその他のこのような悪業が見出だされたならば、ためらいなく、

 自分のクーリアが開かれているところに、正義が行われべく知らせる

 ように。また、教会人とその所有ゼる物については、大司教であろう

 と、司教であろうと、修道院長であろうと、全ての聖職者について、

 加えて、麗民たち、その支配する領地に住む人々とその所有せるもの

 については、さらに旅人や商人については平蒲を守るように、そして、

 それを遵守するように、彼らを悩ますことがないように、彼らが悩ま

 されることがないように  と。

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115 (8Sl)

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む す び に

 以上、シチリア史において黄金時代の一つとして位澱づけられるノルマン朝について、財務機構の発展を通してその性

格を探ってきた。その結果、次のことが明らかになった。

 十一世紀後半に南イタリア及びシチリアに支配権をうちたてたノルマソ人は、少数でしかもおよそ正統なる権威などと

いうものからは程遠い存在であった。彼らは、現実的必要性から高い文化的背景を持ち事情に詳しい現地の人々に助力を

求めたが、それはまた政公的には急激な変化よりも伝統・慣習を尊重する方向に向かわしめることとなった。内政的にい

えば、ンルマン人の支酎はいわばそれまでの統治手段を入手することにより成立したのである。彼らがその土地の伝統・

慣習を尊重したことは、宗教・慣習・人種の異なる要素が並存する国家体制に不可避的につながった。そこではノルマソ

人の支配者が、各要素のバランスの上に、権力を集中させ平和の鍵を握っていたわけである。国王は「平和」を守るのが

自らの職分であるとして、そのための法なり行政組織なり既存の体舗を利用しながら独自の形で整備していった。その過

程は、台帳や富吏をそのまま利用していく単純な初期の段階から、王の権威が高揚され王の専門官を生みだしたルッジェ

ーロニ世の時代を経て、マイオ・デ・バリが敷いた中央集権化・機構の独立化という路線に沿って、クーリアから独立し

た専門官組織形成に至るものである。そこに生みだされた機構は、なお体舗として強記であるとは言い難いが、とにかく

ビザソツ的であるとかアラブ的であるとかいずれかの要素を強調するのではなく、多種の伝統が生かされたノルマン朝固

有の組織であるとされるべきである。

 ノルマソ朝における行政組織の発展は、それが制度としての固定化にまで至らなかっただけに、王を中心とする中央権

力強化のプロセスと並行したものとみなされる。それは、神の恩寵という理念的支柱以外に、血統や王国としての歴史的

伝統による正統性を持たぬシチ」ア王に実際的な権力を持たせたのが行致組織であったことを示唆する。換雷すれば、内

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ノルマン朝シチリア王国に闘する一考察(山遇)

的現実的側面において、ノルマソ朝シチリア王国が承認を得るためには、それだけの行政組織が不可欠だったのである。

 かくして、王国成立後約半世紀で、下部にはそれぞれの伝統・慣習を保持する社会を残しながら、その存在を尊重し保

証する強力な中央権力が確立されるという国家がこの地方に現出することになった。そして、各要素の共存を図る特徴は

ノルマソ朝滅亡とともに掠れゆくが、その体制を維持するためにうちだされたシチリア王権の理念は、この後の南イタリ

ア・シチリアの君主に継承されていく。従って、ノルマソ征服のイタリア史における画期的意義は、以後七百年にわたっ

て申央集権への志向を持ち続ける南イタリア、シチリア地方の枠組の設定と、その中心に位置づけられる王の権威の成立

に求められるべきものなのである。それは、まさに諸都市が分立を続ける北イタリアと道を分かつものであった。

 他方、伝統的各要素に立脚した多元的国家たることがノルマン朝シチリア王国の最大の特徴であることを考えあわせれ

ば、いわゆる「断絶説」にみられるようにノルマソ征服がそのまま全面的な西欧世界への回帰となったのでもないことは

明らかである。さらに、支配者側が現地の慣習に同化していき、各種の伝統を尊重するという極めて保守約な支配の側面

から、ノルマソ朝は他の外国に本拠をもつ王朝と一線を嘉すべきものであり、外国勢力の支配として括ることは許されな

い。以上のような性格を総括するならば、ノルマソ朝は、一つの過渡期と考えるのが妥当ではなかろうか。

 なお、本稿においては、政治の流れに沿った中で財政組織及び権威の確立について検討したため、ノルマン征服の重要

な一面である封建欄導入あるいは封建的支配の側面について十分な考察をすることができなかった。また、官僚舗を維持

するためには当然それだけの財政的基盤が必要であり、財務窟を検討するにあたっては経済面にも目が向けられるべきで

あるが、本稿ではそこまで及ばなかったので、これらの問題の検討は今後の課題としたい。

                                     (京都大学大学院生 芦屋市松

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Chou dynasdy or the sub-vassals.

  @:a kind of @.

  G) : used by those who had the title of @, when they calied them:

selves against the ChoM dynasfy.

  O:some was the name of the group which was formed by those

who had the title of @. others meant “young men”.

  @ : derivecl from Cl), and used when the king, the lords an{ft the sttb-

jects of the Chou dynasty called themselves modestiy.

  And Yes.∬錦有嗣in C海%一目伽was the general name of the govern.

ment oMce.

  Judging from these facts, 1 should say that the lordsh2p in Hsi-chou

was formed by both the kinship (exempiified by hsiao-tzu) and the

official relation (exemplified by Yas-ssu), ancl that their stratified mecha-

nism was the strttcture of the・ government.

The Nor. man-Sicilian Kingdom

chiefiy from the side of its financial institution

by

Noriko Yamabe

  The period of the Norman dynasty ls one of the golden ages in the

h1story of Sicily. As it had many elements within it, many views have

been.given to how it should be caught. ln this article we examine

the question through transition of the financial institution, as well as

its theorical side of the governance.

  The Norman rulers, who were so few in・ ltaly, kept’ the customs

and the traditions of their predecessors because they actual!y needed

the help of natives. Such policy bore the plural reigme which contained

Greek, Latin and Arabian elements, each of which cannot be said

dominant. On this regime situated the king who functioned as the

pivot and tried to exalt his authorlty as rex gratia dei. On the other

hand, 1n order to get the practicai power, the NormaR government had

comparatively professional and conce#trated institution in view of its

position of twelfth century Europe. lt utilized ‘Lhe preceding system

and o缶cia工s, developing to its own form in the course of founClation of

(916)

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the Kingdom.

  Though the plural regime faded with the end of the Norman ’King-

dom, its tkeory of tlte 1〈ingshlp and centralistic trend were to be suc-

ceeded ln the later kingdoms in Southern ltaly and Sicily.

The First Split of Theノ’apaneSe Fe de ration(ゾ

Lαbour H本労働総同盟and SZtehiroノ>ishio西尾末慶

by

Hideki Chimoto

  In this article, 1 examine・the role of Suehiro Nishio from the time,

w12en the confiict became clear between the right and the left in the

/4Panese Federati(mρプLabouPt, to its first sPlit。 Nishio virtually be-

came its highest leader after the Z3 th Ratlona! Congress (Feb. 1924) of

the Federation. ln the autUMn of 1924, he, who had come back from the

Intenzationel Labour Conference国際労働会議, worked for its unity as a

meditator of the conflict between the right and the left within the

Kanto Federation of Labour関東労働同盟会because the headquaters

such as the president Suzufei鈴木had lost.the ability to solve it. The

idealistic left was aiming at removing the leaders of the right, where一

’as the right persisted in’excluding the left. So with dificulty, Nishio

sttcceeded量n br量nglng about a brief tranqu童1ity by objecting to 亡he

expulsion of the left and by admltting the f6undation of the Kanto

.」Regional Council関東地方評議会. But the星eft still.attacked the「igkt at

the National CoRgress in March 1925 and after that continued factional

ac亡ivities. Therefore Nishio reluctantly struck their names off偽e iist

by himSe!f as the deputy president.

(915)