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Title マイケル・ジェイムズ 『マイケル・ジェイムズの冒険 - ある空母乗組員の日記』 Author(s) 水野, 尚之 Citation 英文学評論 (2014), 86: [1]-33 Issue Date 2014-02 URL https://doi.org/10.14989/RevEL_86_(1) Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

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Page 1: Title マイケル・ジェイムズ 『マイケル・ジェイムズの冒険 ......Michael James, 1923 ‒ 2013)がいる。小 説家ヘンリー・ジェイムズ( Henry James,

Title マイケル・ジェイムズ 『マイケル・ジェイムズの冒険 -ある空母乗組員の日記』

Author(s) 水野, 尚之

Citation 英文学評論 (2014), 86: [1]-33

Issue Date 2014-02

URL https://doi.org/10.14989/RevEL_86_(1)

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

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『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

訳者解説

 

小説家ヘンリー・ジェイムズ(H

enry Jam

es, 1843

‒1916

)と戦争との関わりについては、これまで研究者から

ほとんど無視されてきたと言っても過言ではない。しかし実際には、アイルランドから新大陸アメリカにかけて

数世紀にわたって広がっているジェイムズ家の人々はそれなりに戦争と関わってきたのであり、彼らの戦争体験

は、現在まで続いているのである。(そしておそらく将来も。)

 

ウィリアム・ジェイムズ(W

illiam Jam

es, 1771

‒1832)は、アイルランドから独立直後のアメリカに渡って以

来、一代でニューヨーク州屈指の財産を築いた。ウィリアムは三度の結婚により十一人の子供をもうけたが、

ジェイムズ家はその後、新大陸アメリカで広範囲に家系を広めていった。現在ではその多くの子孫の生涯につい

て明らかにされている。こうした子孫の一人にマイケル・ジェイムズ(M

ichael Jam

es, 1923

‒2013

)がいる。小

説家ヘンリー・ジェイムズ(H

enry Jam

es, 1843

‒1916

)の兄である哲学者ウィリアム(W

illiam Jam

es, 1842

『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

マイケル・ジェイムズ

水 

野 

尚 

之  

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『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

1910

)の孫である。マイケル・ジェイムズは一九二三年、父親アレクサンダー・ロバートソン・ジェイムズ

(Alexan

der R

obertson

James, 1890

‒1946

)と同じ家の同じベッドで生まれた。父親は、哲学者ウィリアムの四男

であり、小説家ヘンリーの甥である。『マイケル・ジェイムズの冒険』(T

he Adven

tures of M

. Jam

es, 2005

)は、

このような名門の家系の末裔が、第二次大戦中に乗り組んだ空母の中でこっそり書き記した日記をもとに、自ら

の戦争体験を当時の写真や資料を豊富に取り込んで編集したものである。

 

マイケル・ジェイムズは、アメリカ海軍軽空母モンテレー(U

.S.S

. Mon

terey

)に気象担当下士官として乗船

し、軍規に反して密かに日記をつけた。それは実質的に、空母が太平洋を航行した一九四三年九月十五日から四

五年十月十九日までと、大西洋上の四十五年十一月十八日から四十六年一月一日にかけての、アメリカ軍兵士の

生活を生々しく記した記録となった。特に太平洋での記録には、日米の戦闘機や艦船同士の激しい戦闘をアメリ

カ側から撮影した写真も付されており、太平洋戦争という傷をいまだ忘れていない日本の読者にも貴重な資料と

なっている。

 

マイケルが就いた気象担当下士官という任務は、見ることについての絶好の立場であった。空母モンテレーは

しばしば日本軍と激しく交戦するが、そうした戦闘のただ中にありながら、マイケルの任務は機銃や大砲による

射撃ではなかった。ヘリウムを詰めた風船を飛ばし、その日の気象を(必要によっては日に何度も)予報するこ

とであって、日本軍の戦闘機との戦闘が始まれば、皮肉なことに敵味方の戦いぶりをただ見ているだけだった。

実戦に参加していながら、自らは直接戦闘をしない。仲間のさまざまな死や負傷を間近に見ながら、自分はただ

ひたすらそれを克明に記録する。いわば目と筆に徹しているのである。期せずしてマイケルの立場は、大叔父の

小説家ヘンリー・ジェイムズの姿勢を髣髴とさせる。

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『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

 

軽空母モンテレーは、一九四一年十二月にニュージャージー州キャムデンで軽巡洋艦デイトン(D

ayton

)と

して建造された。その後四二年三月二七日に航空母艦に改造され、三一日にモンテレーと改名された。(ちなみ

に、相手側の日本軍も、戦艦やタンカーを空母に改造している。第二次大戦中に航空機の重要性が増していった

ことの反映である。)そして試験航海の後、四三年七月フィラデルフィアから西大西洋に向けて出航した。マイ

ケル・ジェイムズは、一九四三年九月にモンテレーに上船して以来、終戦後の四六年一月に海軍を除隊するまで、

終始この空母に乗っている。

 

『マイケル・ジェイムズの冒険』は、マイケルの日記をもとにしているとはいえ、視覚に訴えるいくつかの資

料も本書を彩っている。もっとも目立つのは、日記の記述に沿って載せられている写真である。特に米艦に突入

する特攻機や炎上する米艦船の写真は、アメリカ側から撮られた生々しい記録として日本の読者に新鮮な驚きを

与える。また『冒険』には他の視覚資料もある。米艦隊の日本侵攻作戦図数枚は、当時の日本軍が知りえぬ重要

な情報だったと思われる。マイケルのユーモラスな挿絵も、日記に添えられている。特に、空母内で発行されて

いた新聞F

lattop F

lashes

に掲載されたマイケルの挿絵は、彼の画才や遊び心をよく示している。

 

奇妙なことに、マイケルの『冒険』には、祖父のウィリアムや大叔父のヘンリーなど、祖先への言及がまった

く見られない。せいぜい両親や兄弟への思いが綴られているだけである。しかし二十代で生命の危険に晒されな

がらこっそりつけていた自らの日記を後年読み返し、出版を決意したマイケルには、偉大な一族の末裔であると

いう意識は確実にあったと思われる。甥のヘンリー・ジェイムズ氏(!)が日記の出版を勧めた際、マイケルは

この日記がジェイムズ家の末裔の筆によるものであるという宣伝文の掲載を許した。そしてこの『冒険』は、

Tu

rn of th

e Screw

Press

社という一族の大小説家の名作から名前を取った出版社から出版されたのである。訳者

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『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

は二〇一二年の暮れにニュージャージー州の片田舎の老人施設に住むマイケルに会い(その約半年後、マイケル

死去)、日本語訳の許可を得た。同席したヘンリー氏によると、社名T

urn

of the S

crew P

ress

は、もちろん名作

にちなんだものであるとともに、マイケルの乗った空母の「スクリューが回転する」意味も込められているとの

ことであった。

 

マイケル・ジェイムズの画才は、すでに『冒険』の中の挿絵に見られる。終戦後に空母モンテレーを離れたマ

イケルは、コロラド・スプリングズの美術学校で三年間学ぶ。その際に、聖書のいくつかの場面を水彩画で描い

た。甥のヘンリー氏の勧めによって、マイケルは、これらの水彩画にユーモラスな自筆を添えて二〇一三年に

The A

dventu

res of God a

nd O

thers

(Bau

han

Pu

blish

ing

; Peterb

oroug

h, N

ew H

ampsh

ire

)として出版している。こ

れが事実上絶筆となった。

著者前書き

 

この日記は、太平洋でアメリカが行なった戦争の正確な記述として意図されたものではない。実際、ここでの

出来事を子細に読めば、歴史家を困らせることになるだろう。もっともこれは、真実が意図的に曲げられたと

言っているわけではない。若さ、不注意、無知、軽率ゆえの誤りという不正確な面が時折顔を出すだけである。

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『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

ここで問題にしているのは、一九四四年九月二一日にコレヒドール湾沖で八隻(九隻だったかもしれない)の船

団が認められたという事実ではなく、その香気4

4

であり雰囲気である。

 

これこそ、その時私が見たことなのだ。

『マイケル・ジェイムズの冒険』

第一航海 

自一九四三年九月十五日 

至一九四五年一月二二日

九月十五日 

ニュージャージー州ケイプ・メイの海軍航空基地(ロードアイランド州ニューポートの新兵訓練

基地を出た後、数か月をそこで過ごした)から、僕は米国空母モンテレーに乗った。午後遅くのことで、仲間の

ジムとジーンと夕食を食べにフィラデルフィアへ行った。深夜帰艦。自分の袋を探すのにひどく時間がかかった。

艦の先端、三つの袋の下にあった。先端のことを艦バ

ウ首と言っている。艦尾だったと分かる。寝棚は下の四デッキ

目だ。僕は三デッキ目にいた。やっと場所が分かり、僕は目を瞠った。その晩はずっと考えた。寝台なんて見つ

からなかった。空き部屋ばかりだった。騒音もひどい。屁、お喋り、いびき、排気ポンプの音。

九月十六日 

一日の大半が手続きだった。現在モンテレーは、船は海上では綺麗で港では汚い、という伝統を

守っていた。今はぐちゃぐちゃだ。午後、ダブリン①に電話するためにフィラデルフィアへ行った。サンディーが

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『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

仕事探しに苦労しているとか、ダニーが良くなっているらしいとか言われた。YMCAで手紙を書いて、深夜に

帰艦した。袖口をまくって乗艦し、こっぴどく叱られた。タラップで揚っていない旗に敬礼するのを忘れ、また

叱られた。ひどい夜だったが、頭を踏まれる(上に三段寝台があるから)のに慣れ、ドックの空気を顔に吹きつ

ける通風孔に慣れ、一晩中ラッパや笛を鳴らすスピーカーに慣れ、発熱中の船で寝るのに慣れるまで、こんな夜

がずっとあるだろう。荷物が詰め込まれた寝棚で一杯の部屋を溶接士が焼却したが、物を運び出すのに四時間近

くかかった。こんなことはどれも安眠に役立つはずがない。ここには郷里を少しでも思わせるものはない。家が

一番。

九月十七日 

今朝は食事省略。今日は弾薬を搬入し、艦を清掃している。まもなく出航だろう。ここでの生活

を楽しんだとは言えない。こんな造船所より海へ出たほうがましだ。何についても諦めている。とはいえトイレ

はひどい。誰もかれもが時々肘をこすり合う蓋のない水槽にすぎない。リラックスするなんて不可能。まだ自分

がどこにいるか理解するのは容易でない。今晩上陸しようと思っている。

九月十八日 

上陸許可が出た。イタリア料理の店で『タイム』を読む。真夜中に艦に戻ると、飛行機を積み込

んでいた。まもなく出航だろう。相変わらず食べ物はひどいが、これからますますひどくなるだろう。もうパン

に虫が入っていた。だが不平を言っているのではなく、胃に入れられないものを胸から吐き出しているだけだ。

九月十九日 

正午、ニューヨークまで乗せてもらいハリー・ジェイムズ夫妻②に会う。楽しかった。午前一時帰

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『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

艦。艦はブラジルへ向かい、その後ハワイそしてニューカレドニアかどこかへ向かうとのこと。

九月二十日 

今朝、出航の準備完了と言われた。昼ごろいかりを揚げた。遠くにケイプ・メイが見えた。いい

景色だ、遠くで見ると。こういうことを望んでいた

4

4

4

4

4

、とこれからずっと自分に言い聞かせることになるのだろう。

海は穏やか。まだゲロは吐いていない。

九月二一日 

凪。十ノットで進む。船酔いはまだない。今晩、日に二回の戦闘配置の一回目があった。笛、

ラッパ、警報でうるさい。最初は艦が沈んでいるのかと思った。生きてチェサピーク湾を出た。

九月二二日 

(艦首部、飛行甲板直下の高層気象室にて)夜半直。左舷でずっと吐いていた。人で一杯だった。

夜にはフロリダ沖数マイルまで来ていた。トビウオを見る。今夜、艦橋からの命令で天気図を作ろうと海図室に

入って、ひどく叱られた。副艦長に文字通り怒鳴られた。嫌な奴。おまけに神経質だ。連中が慌てているという

印象を受けた。士官は下士官に憂さを晴らす。朝からひげを始めよう。

九月二三日 

午後サンサルバドル沖。ちょっとコロンブスのことを考えた。モップを絞っていた奴が船から落

ちた。二隻の駆逐艦のうちの一隻が救助した。高層気象室の気温、華氏九五度。海はマックスフィールド・パッ

リシュ(訳注1)の絵みたいに青い。午前中、食事のために二時間近く列に並ぶ。ちょっとしたジョーク。戦時

中に午前九時半朝食。今日は救命具を支給されるそうだ。四六時中着用しなければならない。水死など考えたこ

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『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

とがなかった。マウントバッテンの言葉。「生き延びる時にどう感じるかなんて妙じゃないか」パナマ運河へ向

かっているそうだ。なるほど。僕の寝台は洗濯物が詰め込まれた狭苦しい部屋にある。暑い。夜間に爆撃するな

ら、僕の右にガス室があり、足元に弾薬集積所があり、ボイラー室が下にあることを知れば、敵もうまくやれる

だろう。新入りの気象観測官ホワイト乗艦。僕より十歳年上。やっと話し相手ができた。ちゃんとした奴だし、

ユーモアのセンスもある。彼の部屋を艦尾から艦首に移そうとしたが、「君たち気象観測官全員を失う危険は冒

せない」と言われた。将校食堂担当下士官さえばらばらだ。まだ艦長にお目にかかっていない。

九月二五日 

八時間かけてパナマ運河を通過。その晩は上陸許可が出た。高層気象の仲間と街に出た。ジン

リッキーで酔っ払った。売春婦たちがいた。何千という兵隊や水兵が街じゅうにいた。ダブリンに十通葉書を投

函。街はカーニバルのようだ。楽しいカーニバルではないが。面白かった。午前の当直までに帰艦。

九月二六日 

今日は寝台を移った。これからは艦尾で寝ることになる。前より地味なところだが、安全だそう

だ。艦首の寝台は危険だ。本艦の任務はせいぜい一年。映画『我が息子』(訳注2)が飛行甲板艦橋で上映され

た。まだパナマにいる。まもなくサンディエゴに向う。

九月二七日 

午前八時十分出港。一日中海岸線に沿って進む。だが美しい山も見た。疲れているが、得意絶頂

の気分。決して十分な睡眠は取れない。食事はまずまず。プライバシーがまったくない。今は一番上の寝台にい

る。空気はましになったが、汚い空気も昇ってくる。理解できない。

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『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

九月二八日 

四方が海。まあそんなところだ。三十日にこれを書いているが、二八日の真夜中ごろ二隻の駆逐

艦と潜水艦の間で交戦することになる、と言ってもよい。砲声が聞こえた。戦果は語られず。こうした戦線のお

かげで、日に二食だけになるだろう。ワシントンよりひどい。寝室は怖ろしく暑い。口髭が形になってきた。古

臭い髭はやめにした。次の許可は「生存者の許可」になるだろうと言われた。自分でも驚くほど陽気にそれを

待っている。たぶん六か月以内にあるだろう。この艦に乗っていれば、「懲戒処分を受けて」上陸することはと

てもたやすい。

九月三〇日 

便秘。治る見込みなし。艦首は不快そのもので、交戦するどんな徴候があっても、入ることは許

されなくなる。たぶんもう十月。ハリケーンが来ようとしているのだろう。それでも退屈は紛れるというものだ。

みんなが一日中ぼやいている。愛国心なんてお笑いだ。まだ日本人に対して本当に怒りを覚えていない。僕が怖

れ、軽蔑しているのはヒットラーだ。

十月一日 

今日は大して何もない。暑い。一日中脱塩水を飲んでいるが、決して小便が出ないようだ。だが糞

はした。日本海軍を沈められそうなくらい出た。一等気象担当下士官のファスビンダー③や特務兵教育中の下士官

ロングと二時間も社会主義や宗教について喋った。本当に風通しがいい。ロングはバートラム・ラッセル騒動の

間にニューヨーク大学から追い出された。

十月三日 

給料日。四十ドル。サンディエゴ到着。一面霧で涼しい。飛行機を降ろし、小型のものと交換して

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一〇

『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

いる。陸軍の戦闘機タイプ。F6F(訳注3)かそんなところだ。上陸許可。一晩サンディーを探した。住所に

住んでいない。

十月五日 

午後出航。追加の千五百人の水兵が乗艦した。ゲストだ。彼らだけでも、一三三〇人という我々の

過密な乗組定員より多い。やれやれ、ごった返すだろう。真珠湾へ向かっていると思う。五日間の旅だ。艦のす

べての者が、面倒を見る「相棒」をあてがわれた。僕の相棒はジェイコブという奴で、ほんとにうすのろだ。彼

が乗っている間、僕の寝台を使わせてやった。僕としては大見得を切った。反応がない。うすのろめ。その間僕

は、気球室の床で寝ることになる。金属が冷たい。乗務員全員、一日二食。シャワーを使えず。

十月六日 

飛行甲板で長い夜を過ごす。ひどく寒いが、床よりましだ。僕の「相棒」ジェイコブは、込み合い

すぎだと文句を言っている。ひどい状態だ。ハワイで奴を降ろすだろう。ほとんどどんなことにでもユーモアを

見つけようと思う。

十月八日 

へとへとだ。眠れない。ディエゴ以来寝台を見ていない。階級が同じクァンテルと僕は、ヘリウム

のタンクが詰められた気球室④に移るように言われた。四時間寝た。大進歩。飛行甲板の真下で、砲架へと開いて

いる。夜はもっと涼しくなるだろう。クァンテルはニューメキシコ出身。

十月九日 

午後、真珠湾入港。僕が真珠湾攻撃を知ったのは、二年近く前、ポンフレット・スクールでシャ

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『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

一一

ワーに入り、ジョゼフ・バレル⑤とハイキングをしていた時だった。その湾はメイン沖のどこかだと思っていた。

自分がまもなく真珠湾へ行くなんて、ほとんど思ってもみなかった。同じ残骸を見た。ダニーのことが気がかり

だ。ゲストは全員下船した。ウェーク島を五、六隻の空母が爆撃した。言うまでもなくモンテレーはその中に

入っていない。爆撃に参加した連中と話した。航空機二六機を失ったが、ほとんどが燃料切れだった。尾翼のな

い機が空母カウペンに着艦し、ほとんどの砲側員を火傷させた。ウェーク島を練習台と見るべきだろう。現在九

隻の空母が入港しており、任務を待っている。

十月十一日 

午前九時上陸許可。ワイキキ行のバスに飛び乗る。特務兵教育中の下士官と僕は、きれいな青緑

色の海へ泳ぎに行った。三ドルのステーキを食べた。コングレス・ストリートの売春宿へ行った。ピンクの前掛

けをした小柄な「尻黒のカナカ人」が、「二分、二分」と言い続けていた。うまくできなかった。二分以上は許

されない。屈辱的だ。買い物に行った。スエットシャツ、財布付きベルト、メモ帳、葉書数枚を買った。父に糸

玉を買ってやりたい。

十月十五日 

総員配置(訓練)中に、はしごを駆け上がった。昇降口はすでに締められていた。(持ち場に着

くのが遅れたのだ。)鉄柱に頭をぶつけた。ひどく血が出た。八針縫った。最初の出血。

十月十九日 

社会主義者の友人ロング、地上勤務に移された。楽しかった話を懐かしく思うだろう。総司令官

がこのまま乗っていれば本艦が旗艦となる、という噂だ。ありそうもない。本艦は小さすぎる。今朝、ほとんど

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一二

『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

の空母が集まっているパールシティーへ移動した。

十月二四日 

司令官がたった今本艦を離れた。これで問題は片付いたわけだ。良かった。もう十分規律は厳し

いし、おまけに旗艦の高層気象観測官ともなれば、たくさんのことが要求されただろう。たとえば僕はいまだに

ラゾンデ⑥の器械が扱えない。数学も入ってくるし、微積分もだ。代数さえまだ合格していない。示数のいくつか

をごまかさざるをえなかっただろう。このごろはハワイ沖約二百キロのところで演習した。結果は上々。しかし

司令官は、少なくとも戦闘前にもっと上達した方がいいと言った。今は気球室で寝ている。日記はつけてはなら

ない。海軍の規則に反する、とマッケイン司令官は言った。今に分かるだろう。検査の時は、気象略号が入れて

ある小さな金庫に隠せる。その箱は検査の時でも決して開けられない。今はウェザリーのジンのパイント瓶が入

れてある。

十月二七日 

ホノルルに二、三日戻って、現在はさらに演習するために沖へ出ている。もう潜水艦が確認され

た。だが一マイルも先で、逃してしまった。司令官が言った意味が分かった。

十月三十日 

数日真珠湾に戻っている。

十一月三日 

ハワイ諸島へ侵入の演習。三日間。午前四時に飛行機をカタパルトで海へ発射。飛行士は八時間

後に拾い上げられた。空母三隻がともにいるが、その中には新たに改良されたレキシントンがいた。駆逐艦六隻

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『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

一三

も。十

一月十日 

二つの任務の部隊の一つとして真珠湾を出航。我が隊は、空母四、駆逐艦八、巡洋艦三、戦艦一、

油槽艦数隻から成る。先発隊はもっと大きい。ギルバート諸島へ向かっている、と艦長。軍用輸送船は前の部隊

にいる。ひどい食料。小麦粉に虫がいた。乗組員の様子に、心理的な変化はほとんどない。この前の水曜、また

別の隊がラバウル攻撃、と今朝(十一月十二日)副長が報告。日本軍は三隻の艦と航空機五八機を失った。米軍

は十五機失う。操縦士十名不明、十名負傷。空母あやうく被弾。結局今回は楽勝だったかも。

十一月十九日 

午前三時総員配置。二時起床。終日マキン(訳注4)攻撃。絶えず総員配置。ひどいサンド

イッチ。トーストの間にスパム。まだ敵機から攻撃されていないが、艦側から一機失った。操縦士救助。島から

の対空砲火わずか。日本軍は飛行機が足りないらしい。我が軍は十マイル沖にいる。

十一月二十日 

母の誕生日。できればマキンをあげたいところだ。終日攻撃した。さらに優勢になり、上陸。

抵抗なし。午後、島が見えた。平らだ。日本軍全滅。飛行場建設のため、一週間島を旋回するだろう。

十一月二一日 

午前三時非常警報。現在その十分後。不明機⑦接近中。我々の目の前で、今一機が撃墜された。

もう一機は引き返した。僕の戦闘部署はここだ。こんな風に

4

4

4

4

4

戦闘の多くは分からないだろう。気球室に報告しよ

う。戦争をしているなら、見るのも悪くない。

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一四

『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

十一月二五日 

感謝祭。いろいろ飾り付けた。食事は良い。マキン奪取。タラワも。昨日我が司令官旗下の空

母一隻(モンテレー級)が撃沈された。被害も甚大。我々の目の前で炎上。これには目が覚めた。晩に日本軍は

我々のまわりに照明弾を投下。本当にきれいな光景だ。空中に小さな火が浮かんでいる。一機撃墜。爆弾は投下

されず。総員配置に備え、気球室に戻った。(戦争は続くだろう!)彼らの任務は我々を撮影することだった、

と思う。位置を知られないように、空母は夜間砲撃しないことになっている。(もし明らかに神風特攻機が向っ

てきたら、砲撃するだろうが。)接近してくる敵機が爆撃する意図を持っていない時、僕は妙にがっかりする。

空母インディペンデンスは魚雷攻撃を受け、修理のため現在フィジーにいる。まもなくこの地域を離れ、マー

シャル諸島に向かうだろう。(三週間前、二等気象担当下士官となった。)海上勤務が好きになってきた。ケイ

プ・メイの時のようにただ想像4

4

していたのとは違う。もちろん僕は、本当は平和主義者だ。他の連中が僕の絵に

興味を持つようになってきた。たいていはヌードの絵だ。ジョー・バレルが『アメリカン・ストーリーズ』と

『ポーエトリー』を送ってくれた。大成功。

十一月二六日 

今夜八時から十時にかけて三度目の夜襲があった。これまでより大規模。一機は艦の扇形船尾

の真上を通った。魚雷を投下した。数インチで免れた。こんな運では、絶対国へ戻れないだろう。他の飛行機も

頭上を飛んだが、損害はなかった。ただ、攻撃されれば、家に帰れるかもしれない。飛行甲板に立って戦艦や巡

洋艦が日本軍に砲撃するのを見ていたら、突然曳光弾が頭上に降ってくるのが見えた。味方の艦から発射された

のかと思っていたが、近づいてきたのを見て、我々が機関砲攻撃を受けているのが分かった。ちびりそうだった。

甲板に伏せた。飛行甲板じゅうで、身を隠す場所を求めて皆が這いずり回っていた。良く見える場所を探してい

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『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

一五

た連中もいた。独特のアメリカの風景だ、と僕は思った。ゼロ戦七/七型を撃墜。他の型だったかもしれないが、

問題ではない。去年ルーズヴェルト大統領から勲章を受けたオハラ少佐、戦死。

十一月二九日 

昨夜ふたたび日本軍来襲。いつも同じ時刻。その日のうちに我々は艦隊を離れ、別の艦隊に加

わった。戦艦三隻、駆逐艦六隻、空母バンカーヒルの艦隊だ。日本機二機撃墜。美しい火の玉が海に落ちていっ

た。飛行甲板上から見ると、まるでフットボールの試合のようだった。戦闘をよく見ようと、砲門から右舷へ見

物人が押し寄せた。海上で、長い間油が燃えていた。飛行士が死んでいるのか生きているのか、誰も考えていな

いようだ。ジュネーブ協定(訳注5)の約定によって考えなければいけないと思ったが。飛行甲板上で乾湿計を

吊り下げていた。曳光弾の下でだ。奴らは今晩もやってくるだろう。だが、まあ楽しい。かわいそうなサン

ディー。

十二月四日 

映画上映中に総員配置が鳴った。五編隊が接近。だが我々はタワラを爆撃するために進んだ。

十二月八日 

午前三時起床。ニューヘブリディーズ(訳注6)へと向かっている。ニミッツ指揮下のマキン哨

戒から離れ、ハルゼー指揮下の南西太平洋艦隊に向う。ラウル島爆撃。我が艦の一機が海に不時着せざるをえな

かった。着艦フックを引っかけられなかった。艦首から海へ真っ逆さま。飛行士と二名の乗組員を救助。他の艦

は二機を失った。島からの射撃により駆逐艦の二七名戦死。赤道を越えたが「赤道越え」祭りはなかった。忙し

すぎる。後でやるんだろう。熟練兵は新兵に厳しい。ニューヘブリディーズ一帯は中部太平洋よりずっと暑くな

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一六

『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

るだろう。クリスマスの劇の練習をしている。

十二月十日 

サンディーの誕生日。ダニーから何も言ってこない。戦闘もない。

十二月十二日 

ニューヘブリディーズのエスピリトゥサント(訳注7)に進入。まったくそっけない島。上陸

許可時間はココナッツ採りをした。他に食べ物はない。ここに長居はしないだろう。ダニー、母、ベッツィ・レ

ファーツ⑧から手紙。レファーツの奥さんはH・H・マンローの『サキの物語』(訳注8)を送ってくれるそうだ。

十二月十五日 

上陸許可! 

全員切符を三枚もらった。ビールかアイスクリームと交換できる。ビールはまず

い。島はココナッツと放棄された農場だらけ。たっぷり泳いだ。捕鯨船が転覆し、六十人溺死。テニスコートが

あった! 

まるでフォレストヒルズだ! 

ナイフを取り上げられた。

十二月二二日 

父の誕生日。出航特別命令。クリスマスまでここにいると約束されていたのに、今朝早く出航。

この特別命令の意味は、ラバウルで日本艦隊を迎撃することだと思う。きっと面白いだろう。二六ノットで進む。

十二月二五日 

午前三時起床。ニューアイルランド(訳注9)のカビエン港攻撃のため飛行機は五時までに発

艦した。飛行機の損失なし。今では重要な港だ。貨物船二隻撃沈。午後、着艦のために艦の周りを飛んでいた飛

行機と飛行士を失った。晩には二、三十機に攻撃された。ベティー⑨一機撃墜。本艦最初の撃墜機だ! 

だが、簡

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『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

一七

単に落とせた。艦の真上を飛んだ。その晩はさらに二機撃墜。時々自分が平和主義者じゃなければいいのに、と

思う。面白さが半減してしまうのだ。

十二月二九日 

戦艦、巡洋艦、駆逐艦、輸送船から成る日本艦隊を迎撃せよとの命令が来た時、我が艦は港に

戻ろうとしていた。トラック島の西にいる。南に三度下がった、あるいはラバウルの向かい三百マイルに達した

時、引き返せとの命令が来た。がっかりだ。今朝、駆逐艦に給油した。

一九四四年

一月一日 

カビエン攻撃とともに新年を迎えた。空中戦で味方の操縦士二名が撃墜された。抵抗は激しい。友

軍二機、甲板に強行着艦。船外へ押して落とさざるをえなかった。主な損傷はプロペラが曲がっただけだったが、

他の機が着艦せねばならないため、事故機にかまっている時間はなかった。一機十二万五千ドル。F6Fだった。

頭と足に負傷して飛行士たちが戻ってきた。多量の出血。陸軍に入っていなくてよかった。彼らは巡洋艦一隻と

駆逐艦二隻を攻撃した。今夜もきっと攻撃されるだろう。友軍兵士を救おうとニューブリテンに全速力で向って

いた敵機動部隊を攻撃した。ゼロ戦の方が我が軍より三十機ほど数が多かった。空中戦で戦闘機四機と飛行士二

名を失った。バンカーヒルは飛行機四機、飛行士四名を失った。今夜日本機が我々の五マイル以内に入ったが、

雷雨のため彼らは引き返さざるをえなかった。がっかりだ。

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一八

『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

一月二日 

真夜中に我が艦は向きを変えた。エスピリトゥサントへ向かう代わりに、カビエンへ戻れとの命令

を受けた。湾内に敵船がいるという。戻って、巡洋艦二、三隻を撃沈。駆逐艦破壊。午後、艦の戦闘機四機が接

近中のゼロ戦を迎撃、全機を撃墜。本日は飛行士、飛行機とも損失なし。

一月五日 

エスピリトゥサントへ戻る途中。しかしまた、過去に二度あったように、カビエンで敵艦がさらに

見つかるかもしれず、我が艦も劇場に戻るかもしれない。

一月七日 

実にまったく快適な十六日間の航海の後、本日エスピリトゥサントに入港。長くて数日ここにいる

らしい。

一月十日 

劇を上演。僕はパトリック・ヘンリー(訳注10)の演説とルーズヴェルト、エレナー、ガゼ司令官

らの真似をやった。ヨーマン・ウィトキンズが守銭奴の幕(訳注11)をやったが、ブーイングを浴びた。

一月十一日 

今日は陸上でも劇をした。ウィトキンズの駄作はなかったが。音楽や独演等、盛りだくさん。観

客四千人。

一月二十日 

昨日エスピリトゥサント出航。エリス諸島のフナフティ島に入った。小さな砂の島の集まりだ。

「湾」にはたくさんの船がいて、真珠湾からさらに来つつある。戦艦八隻。我が艦はきっとマーシャル諸島へ向

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『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

一九

かうと思う。ここでは上陸許可は出なかった。

一月二二日 

フナフティ島を出てマーシャル諸島へ向かう。艦は七つの艦隊の一つに入った。そのうち船名を

列挙しよう。楽な仕事にはならなさそうだ。

一月二四日 

今日、艦載機一機が燃料切れのため艦から数百フィートのところで墜落。無電技師は脱出できず。

飛行士は無事で、駆逐艦に救助された。墜落のほんの五分前、燃料が切れそうだとの無線を作戦司令室が受けて

いた。本当に艦から合図を受けたかもしれなかったのに。多分だめだったかもしれない。誰にも分からない。と

にかく、そいつは死んだ。

一月二五日 

我が艦隊の船は以下の通り。空母三隻(バンカーヒル、カウペンズ、モンテレー)。戦艦二隻

(アイオワ、ニュージャージー

どちらも最近就役したばかりで、まだ青二才)。巡洋艦ウィチタ。駆逐艦十隻。

戦艦二隻は我が艦隊を離れ、別の艦隊に入った。すでに書いたように、全部で七つの艦隊になるだろう。それら

の艦隊に共通の目的があるとしても、誰も僕に教えてくれない。一月三一日が「真夏日」になるだろう。海兵隊

と陸軍が上陸する日だ。その間に二、三度空襲を行なうだろう。通常の陸軍分遣隊に加え、海兵隊が二、三隊い

る。おそらく共通目的はマーシャル諸島獲得だろう。しかしなぜ七つの

4

4

4

艦隊なんだ。多すぎる。たやすい戦いで

ないということなんだろう。マーシャル諸島は二十五年以上占領されているのだから。タワラで千人失ったこと

が我々の教訓となっている。少なくとも将軍たちには。ハント司令官は病気だ。キャット・フィーバーだそうだ。

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二〇

『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

きのう、我が艦の飛行士を救出した(銃手も生還した)あの駆逐艦が並んだ。太綱で彼らをこちらへ戻した。彼

らは袋に入っていた。

一月二九日 

今日は午前三時起床。シット・オン・ザ・シングルを食べた。クワジャリン島(訳注12)攻撃の

ために飛行機を発艦。一機を失う。乗組員を拾い上げた。反撃はあまりなかった。地上の十五機を破壊した。午

前中ずっと総員配置。午後は状況「平静」。夜間攻撃なし。とはいえ一度に一機ずつ敵機が接近した。きっと型

と位置を報告するためだろう。

一月三十日 

エニウェトク島攻撃。おかしかった。クワジャリン島だと思ったのだ。明日、大群が上陸する。

湾内の四隻、輸送船を撃沈。地上の約十五機破壊。友軍駆逐艦一隻が撃墜された飛行機の乗組員を救助しに行っ

た際、敵の四隻の船団の中に突入し、撃沈した。そんなようなものだ。いずれにせよ提督はそう言った。空の応

戦はほとんどないが、対空砲火⑩は激しい。先日気象担当下士官2/Cに昇進。試験は難しかった。カンニングを

した。せざるをえなかった。

二月一日 

マーシャル諸島進攻継続中。これまでに見た中でもっとも静かな進攻だ。日本の空軍力は弱体化し

ているようだ。まだ攻撃されていない。小さな島はすべて占領中。その後、大きな島だ。飛行機の男から地上の

戦車へと占領の刻々の様子が伝わるのを聞くのは面白い。「戦車を後方へ動かせ」彼は言う。「火炎放射機を一一

二地区に持ってこい。十二番で日本兵が死んでいるのか、ただ死んだふりをしているのか確認せよ。戦艦の一斉

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『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

二一

射撃は、我が軍の四十ヤード前方しか届かない」また後には、「二二半島を取ったと思う。海兵隊が点検してい

るようだ!」陸上では激しい応戦。空の応戦がかくもまったくないのは励みになる。提督が思っているより早く

ここから出られるかもしれない。飛行士一名、下士官三名戦死。着艦時に二機が破損。海に投下。そのうちの一

機は機首から突っ込んできた。

二月三日 

まだ空からの応戦はない。ナンタケット沖にいるかのようだ。沿岸の戦闘は激しいが、我々は前進

している。今日は歯医者に行った。虫歯の大きな穴。

二月四日 

今朝マジュロ(訳注13)に入る。マーシャル諸島のサンゴ島である。晩までに他の二つの任務部隊

も加わった。天地創造以来最大の艦隊となった。驚くべき勢力だ。しかし絶対安心という気分にはなれない。艦

の一覧は以下の通り。

空母

エンタープライズ、エセックス、モンテレー、ベローウッド、カウペンズ、バンカーヒル、ヨークタ

ウン、カボット、イントレピッド、ナッソー、ホワイトプレーンズ、カリーニンベイ

戦艦

アイオワ、ニュージャージー、サウスダコタ、アラバマ、ワシントン、マサチューセッツ、インディ

アナ、ノースカロライナ

巡洋艦

ペンサコラ、ソールトレークシティ、チェスター、ウィチタ、オークランド、サンディエゴ

駆逐艦

五四五、五八八、六七〇、五三八、六六七、五八二、四〇六、六四四、五八九、五八一、六五三、

五六四、六二九、六五一、五四七、二五〇、六五二、四四七、四〇七、五三六、五八七、六六八、五三七

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二二

『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

護衛駆逐艦(訳注14)

Di〇二八、Di二五九、Di〇二六、Di二六二、Di〇三〇、Di二六四

 

任務部隊は以下の通り。

任務部隊五八・一

ヨークタウン、エンタープライズ、ベローウッド、マサチューセッツ、インディアナ、

ワシントン、他に駆逐艦、空母

任務部隊五八・二 ― エセックス、イントレピッド、カボット、サウスダコタ、アラバマ、ノースカロライナ、

他に巡洋艦、駆逐艦

任務部隊五八・三

バンカーヒル、ニュージャージー、アイオワ、ウィチタ、カウペン、モンテレー、他に

巡洋艦、駆逐艦

哨戒中

ラングレー、サラトガ、他に巡洋艦ボストン、ボルティモア

さらに他の艦もあちこちに見られる。我々がここにいるのは、解散するか、移籍等のために真珠湾に戻るため

だ。そうなってもまた、おそらくウェーク島へ前進するだけだろう。その後はカロライナか。湾は火山の中心な

のだが。

二月七日 

哨戒の任務でマジュロを出て、八日に戻った。一日で交代する哨戒だ。あたりは静か。

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『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

二三

二月十二日 

二、三の任務部隊とともに、午後マジェロを出発。トラック諸島へ向かうためだ。僕に分かるの

はそんなところだ。我が任務部隊だけに戦艦が全部で六隻いる。それ以上は増えない。我が隊はトラック諸島の

入口付近を周回し、他の隊は日本艦隊を爆撃する。そしてできれば彼らを外海に出させる。日本兵たちにはたい

して面白くない。彼らを知らなくてよかった。彼らの天皇はひどく落ち込んでいるに違いない。我々の艦隊は、

戦艦六隻、駆逐艦十一隻、空母はカウペンとバンカーヒルだ。今度は両軍の激突になるかもしれない。もう一年

以上もそうなることを目指してきたのだ。レーダー技師のリンゼーは風船室の寝台をやめた。(砲手たちがうる

さすぎるためだ。)F・ホワイトがその寝台をつかんだ。この変更は歓迎したい。戦艦マサチューセッツが一緒

だ。ということはレヌーフ⑪がここにいるわけだ。

二月十六日 

今日、トラック諸島の四十マイル以内に来た。我が艦隊のうち二隻が攻撃に向った。哨戒のため

モンテレーは残った。退屈。奇襲攻撃で島を取ったが、応戦もあった。湾内の駆逐艦や巡洋艦そしてたくさんの

貨物船に命中した。湾から四隻の巡洋艦が逃れようとした時、戦艦二、三隻が追いかけていき、四隻とも撃沈し

た。とても悲しいが、これが戦争の勝ち方だ。友軍機のうち三機は作戦行動中に墜落したが、戦闘中の墜落では

なかった。なぜもっと大きな敵艦隊がいなかったのか、どうしてあれほど応戦がなかったのか、理解できない。

日没後、我が艦隊の一つが攻撃を受けた。我々は明日また攻撃する。

二月十七日 

今朝、飛行士一名を失い、乗組員は救助した。エンジンの不調。終日攻撃した。たくさんの貨物

船、駆逐艦一、二隻、空母一隻を撃沈。応戦はそれほどでなかった。対空砲火はほとんどなかった。理解できな

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二四

『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

い。芝居をしているのか、撤退したのか、どちらかだ。あるいは興味をなくしたのか。もし状況が好転しなけれ

ば、僕もそうなるだろう。しかし展望は明るそうだ。それは良いことだ。実際、花火を見られなくて残念とは思

わない。花火がないということは、この仕事の終わりにそれだけ近づいていることを意味しているからだ。ひと

月以内にトラック諸島に軍を上陸させるだろう。

二月十八日 

昨日、トラック諸島から出た。予想より早かった。とにかく僕の予想より早かった。つまり、こ

れ以上することがなかったことを意味するのだろう。我々が撤退しているわけではない。そんなことはありえな

い。明らかに奴らが船の多くを撤退させたのだ。残念だ。そうでなければもっとやっつけてやれたのに。今日、

無人のいかだを発見した。十七名の日本兵が乗っていたことが、あとで分かった。所持品を放棄するよう命じら

れ、彼らは拒み(拒まない奴がいるだろうか)、そして捕虜になった。駆逐艦バーンズが、数夜前に敵の駆潜艇

を沈めて、先に捕虜にした七名を乗艦させていた。明日、カロライン諸島東端のポナペを攻撃する。

二月十九日 

今朝三時、非常警報が鳴った。敵機六マイル以内。駆逐艦イザードがそのうちの一機を撃墜。美

しい光景。しかし死ぬには特に悲しい時間だ、午前三時。空は大晦日のようだ。曳光弾の間を炎がねじれながら

落ちてくる。すべてがあまりにすばやく起こる。後には燃える油のかたまりが残るだけだ。魚たちはこれをどう

思うだろうか! 

トローア⑫が言うには、朝グアムの南のサイパンに行く。東京から千三百マイルのところだ。ポ

ナペにはさようならだ。

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『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

二五

二月二二日 

午前一時、敵機から攻撃される。美しい飛行機が一機、炎に包まれて墜落していくのを見た。し

ばらく燃えていた。終日サイパンとグアムを攻撃した。応戦はわずか。まだ日本から千三百マイルのところにい

る。それでも、これまでのどの部隊より断然日本に近づいた。トラックおよびサイパン攻撃の戦果は以下の通り。

トラック ― 空中および地上で約二百機破壊。三十から四十の商船撃沈。(商戦が撃沈される時、いつもダニー

のことを思い出す。)駆逐艦二隻、巡洋艦二隻撃沈。サイパン

貨物船二隻、多数のはしけ撃沈。五機撃墜。

地上の三十機破壊。我が軍の損失

夜間戦闘機一機、戦闘機四機、TBF⑬一機。

二月二三日 

敵機接近中。急いで飛行機を発艦させねばならない。バンカーヒルの艦載機一機が着水するのを

見たばかりだ。ザブンだ。飛行士は救助された。その日の後で。一人の飛行士が油をこぼし、尾翼から煙を出す

などし、脱出しようとした。「もう、どうとでもなれ」と思ったにちがいない。そして無事に着艦した。うまく

やった。クレージー・ガゼ副長が、油漏れを調べようと翼に飛び乗り、落ちて足をくじいた。ざまあみろだ。あ

あそうだ。サイパンでは牛の群れを猛爆撃した。不合理に思える、せいぜい。

二月二六日 

マジュロ到着。

三月四日 

ホノルルのパールシティー(訳注15)到着。

三月五日 

久しぶりに上陸許可。ホノルルはもはや交戦地帯にあるとは考えられていない。その結果、四班の

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二六

『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

一つが上陸許可をもらうのでなく、今では同時に二班がもらっている。左舷と右舷だ。ちっともよくない。混み

すぎるのだ。パールシティーは町から何マイルも離れている。バスの便もよくない。僕がとうとうバスに押し

入った時、ある男が聞いてきた。「このバスはどこへ行くんだ?」「分からない」僕は答えた。「俺もただ乗った

だけだ」みんな酔っ払っている。戦闘が始まれば、また元に戻るだろうが。(「赤道越え」祭りの士官たちは自分

らでやっている。酔っ払った。航海長代理の気象士官トローアも舵輪で酔っ払っていた。奴らは配置部署に閉じ

込められている。ベテランの水兵たちには不満がたまっている。士官たちは本当には祭りの洗礼を受けていない、

と彼らは感じているのだ。本当のことを知れば士官たちは驚くだろう。)今回の航海では移転はなさそうだ。ト

ラック島を取りに行く、とニミッツ(訳注16)は言っている。次の作戦はそうなるのだろう。上陸許可のために、

口座から五十ドル降ろした。父のために大きな糸の玉を買った。艦にはほとんど郵便が来ていない。日本軍が恋

しい。

三月十五日 

ダニーの誕生日。真珠湾を今日出港。昨夜大騒ぎで補給品を艦に積み込んでいたので、予期せぬ

ことではなかった。ヘリウムのタンクを引き上げるために、真夜中まで起きていた。艦はバンカーヒルのように

塗られる(カモフラージュされる)ことになった。石鹸がない。今はマジュロへ向かっている。空母ホーネット

(訳注17)と一緒だ。東京を攻撃するためにドゥーリトル(訳注18)が発艦したホーネットが撃沈されたのを受

け、この艦はホーネットと命名された。マーシャル諸島で魚雷攻撃を受けた空母イントレピッドは、予定までに

帰港できず、今はホノルルで休養中だ。修理が完了すれば、二度目の攻撃に参加するだろう。イントレピッドは

おびただしい数の乗組員を失った。我が艦が出港する前夜、クァンテルは上陸作戦隊に移された。彼がいなく

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ある空母乗組員の日記』

二七

なっても、嘆かれないだろう。僕が喧嘩するまでになった⑭唯一の仲間、気象担当下士官2/Cのコヒーが、クァ

ンテルの寝台を取るだろう。そしてホワイトと僕とともに気球室で寝るだろう。昨夜は砲手たちが非常に騒がし

かった(お喋りだ)ので、我々は扉をしっかり閉めておかねばならなかった。ひどく暑い。

三月二十日 

昼にマジュロ到着。二、三日はゆっくりして、それからさらなるゲームに出かける。今朝、特務

兵教育中の高層気象観測下士官ジョージなんとか、任務に就くとの報告。

三月二二日 

今はパラオに向っている。とにかくそういう噂だ。ヤップの約二マイル向こうの島だ。フィリピ

ンに近くなる。そこからおそらくカビエンとラバウルへ向かうだろう。そこから合衆国へか? 

たぶん六週間陸

を離れる。

三月二八日 

まもなくパラオ攻撃を開始する。二日間。その後は分からない。合衆国へ戻るとの噂をよく聞く。

今ではたいてい敵機がまわりにいる。ニューギニアから遠くないところにいるのだ。今日、一機撃墜。二機目が

一マイル以内に来たが、逃げた。今夜は煩わしくなるだろう。複数の潜水艦が動き回っている。対潜爆雷の破裂

音が時々聞こえる。なぜ本艦がこれまで魚雷攻撃を受けていないか、決して分からないだろう。今日の午後の食

事時間ごろ、ホーネットの艦載機一機が、着艦をしようとして海に落ちた。乗組員全員救助。その約五分後、僕

が飛行甲板に着いた時、バンカーヒルに着艦しようとした機が艦側を超えて落下。いつも面白い光景だ。音も聞

こえる。飛行士救助。そのおよそ一分後、飛行機からの対潜爆雷が破裂した。そんなことはすべきでなかった。

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二八

『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

すでに十分深いところにいた飛行士が、衝撃で死んでしまったかもしれない。彼は首が出ていた。それで救われ

た。我が艦隊は、空母四隻、戦艦二隻、巡洋艦六隻、駆逐艦十六隻から成る。他の二つの艦隊には、合わせて、

巡洋艦七隻、戦艦四隻、空母八隻、駆逐艦三二隻、油槽船三隻、カイザー船三隻、孤立した駆逐艦六隻、総計八

一隻がいる。日没後、一人が艦から落ちた。もちろん、艦隊は止まれない。奴は泳ぎ回り、孤独に死ぬだろう。

三月三十日 

今朝パラオ急襲。終日、そして明日も行なうだろう。昨夜また攻撃を受けた。二機撃墜した。い

つもながら見事なショーであり、すばらしい光景だ。色彩が鮮やか。飛行士はかわいそうだが。次から次へと敵

が波のように押し寄せてきた。一時間も続かなかったが。我が艦隊のどの船にも当たらなかった。僕も喰らわな

い。日本軍はなかなかうまいし、我々の砲手も完璧ではない。どこかの空母にいた奴が、ショーをもっとよく見

ようとして船側から落ちた。彼も溺れるままにされる。彼を探すために停船することは、何隻かの船を失うこと

を意味するからだ。あたりには潜水艦がうようよしている。午後、約四十マイル向こうで日本機を二機撃墜。本

日の攻撃の戦果はまだ分からない。第一次攻撃に参加した機は、全機無事に戻ってきた。数機はひどく銃撃され

ていた。本日の攻撃で、大きな貨物船十二隻を撃沈し、パラオは壊滅した。対空砲火は少しあったが、飛行機の

応戦、迎撃はほとんどなかった。島は重なった崖で囲まれており、我が軍が上陸、進攻などをせねばならないと

すれば、困難が予想された。不可能だ、とさえ言えよう。(依然警戒中の)今夜、攻撃を受けた。艦隊が十五機

を撃墜した。満月だったので、奴らは照明弾を二度しか使わなかった。それも必要なかった。それでも、我が艦

隊のどの船にも命中しなかった。実際非常に明るかったので、我々も奴らを容易に見ることができた。四時間半

の攻撃だ。奴らにも家族がいることを思い出すべきだ。僕は時々それを忘れる。

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『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

二九

三月三一日 

今朝早く、我が軍から見えるところで駆逐艦が日本の貨物船を沈めた。今日、ふたたびパラオを

攻撃するだろう。一つの任務部隊が、ヤップ島を攻撃するために我々の艦隊を離れた。昨日はパラオの近くで飛

行士一名が撃墜された。我が軍の潜水艦が救助した。撃墜された二人目の飛行士は、戦艦から飛び立った水上機

に救助された。飛行機には空いたところがないので、そいつは翼にくくりつけられた! 

二機が海に着水するの

を見た。作戦上の損失だ。乗組員は救助された。海では人は本当に小さく見える。昨夜はほとんどを飛行甲板で

過ごした。右舷から避難所まで、前へ後ろへと、戦況次第で甲板は人で溢れた。戦闘は何度もあった。「ピー

ナッツ、ポップコーン、ソーセージ」という声が上がっても、不自然には聞こえなかっただろう。昨日、また一

人艦から落ちた。救助されたかどうか、分からない。僕が繰り返し見る悪夢は、我が艦が遠くに消えていくのを

見る、というものだ。また違う夢では、飛行甲板を海へと滑り落ちていき、水音さえ立てない。今、日本機が西

から飛んできている。彼らは、我々を攻撃する前に、たぶん迎撃されるだろう。今朝、パラオ上空でゼロ戦十九

機を撃墜し、地上の十機を破壊した。我が隊の飛行機は全機無事に戻ってきた。おそらくこれまででもっとも徹

底した掃討だろう。日本機ははっきりした目的もなくアクロバットのような動きをしていた、と飛行士たちが報

告した。ある時は、あちらに一つこちらに一つと、空いっぱいに五つのパラシュートが落下してきた。我が軍の

飛行士の一人は、彼らを撃つ勇気がなかった。彼の友人たちも撃たなかった。よかった。我々は明日、別の島を

攻撃する。ヤップは別の隊が攻撃するだろう。飛行機は迎撃を受けた。

四月一日 

昨夜は敵機が来なかった。しかし今朝、夜明けに一機を撃墜した。今朝にはまた、十五マイルも離

れていないところで貨物船三隻を撃沈した。トラック・カロライン諸島の西の端にあるウォレアイ(訳注19)を

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三〇

『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

本日攻撃。戦果はまだ分からず。トラックも二、三日中に攻撃されるだろう。明日は給油される。

四月二日 

三一日に撃墜された四十機のうち、モンテレーの飛行士は二五名に上る。今朝二時、かわいそうな

奴が空母ウィチタから落ちた。雨も降っていた。かわいそうすぎる死だ。

四月六日 

マジュロ着。物資を積み込む。ニューギニアへ向かうだろう。艦長は准将になる。お笑いだ。大将

になってもいい人だ。彼が艦を去るのを見るのは悲しい。さらば、と彼は言った。

四月十日 

新しい艦長がやってくる。新しい副長もだ。(いい厄介払いだった。)そして新しい高層気象担当官

もだ。大尉だ。トローアが行ってしまうのは残念だ。一番いい奴だった。僕はこの艦に長くいすぎる。僕の知る

誰よりも長くいる。本艦が真珠湾へ戻るとか、あるいは合衆国へ戻るという噂が飛び交っている。ニューギニア

への攻撃を隠しているのだ。急いで修理する必要がある。(どこかが壊れているとは知らなかったが。)昨晩は爆

弾が撤去された。そこが肝心だ、と思う。真珠湾か合衆国だ。神様、国でありますように。ここには空母が十四

隻いる。

四月十三日 

今朝マジェロ出港。ニューギニアへ向かう。どうやら帰国など問題外のようだ。賢くなった。本

当に緊急修理が必要だ。現在、空母バターンが一緒にいる。新しい艦長がまだ分からない。トローアは依然司令

官代理だ。

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『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

三一

(原注)

① 

ニューハンプシャー州ダブリンの郷里のこと。

② 

伯父ハリーと妻ドロシア。

③ 

一等気象担当下士官ファスビンダーは、のち戦死。

④ 

ヘリウムは気象観測気球を飛ばすため。

⑤ 

ジョーは僕の英語教師だった。

⑥  

ラゾンデ(rason

de

)―

ラジオゾンデ(radioson

de

)の略。ヘリウム気球から大気上層の測定値を電波で地上に送信

する器械。

⑦ 

未確認(通常敵)機。

⑧ 

ベッツィ・レファーツ ― ポムフレット校の校長の妻。

⑨  

七名搭乗可能な日本軍哨戒爆撃機の連合国側の呼び名。(訳注 

一式陸上攻撃機・通称「一式陸攻」のこと。この機

は翼内の燃料タンク容積が大きく、防弾タンクの採用が進まなかったことで被弾に弱かった。一掃射で炎上したことで、

「ワンショットライター」、「フライング・ジッポー」と渾名された。一九四三年四月十八日、ソロモン諸島ブーゲンビ

ル島上空で、連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将が戦死した際の乗機としてもよく知られる。モンテレーがはじめて

日本機を撃墜した時、山本五十六はすでに戦死していたことが分かる。)

⑩ 

高射砲火(ack

ack

)とは対空の砲火のこと。

⑪ 

レヌーフ・ラッセルはニューハンプシャー州ダブリンにいる時からの友人だ。

⑫ 

トローア司令官は気象士官だった。

⑬  

グラムリンTBFアベンジャーとTBMは雷撃機。(訳注 

第二次大戦におけるアメリカ海軍の主力雷撃機。愛称は

アヴェンジャー。日本海軍で言う艦攻にあたる。生産の途中からTBFはグラマン社に代わってゼネラル・モーターズ

(GM)社が量産するようになり、GM社で生産された機体はTBMの制式番号が付けられた。そのため、TBF/T

BMとも表記する。ゼロ戦がアメリカ海軍の新鋭戦闘機F6Fヘルキャットによって劣勢に追い込まれた一九四三年以

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三二

『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

降、TBFは、戦艦大和、武蔵、空母瑞鶴を撃沈するなど、日本艦隊に甚大な損害を与えた。)

⑭ 

彼とは高層気象室でトースターのことで言い争いをした。

(訳注)

1  

Maxfield

Fred

erick P

arrish

(1870

‒1966

)米国のイラストレーター・壁画装飾家。広告・雑誌で活躍したほか、Irvin

g

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ickerbocker’s History of N

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ork

やKen

neth

Grah

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の少年文学D

ream

Da

ys, The G

olden A

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の挿絵を担当。

2 

My S

on, M

y Son

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一九四〇年制作。H

oward

Sprin

g

作の同名の小説に基づく。監督C

harles V

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3  

Gru

mm

an F

6F H

ellcat 

グラマン社が設計しアメリカ海軍が第二次世界大戦中盤以降に使用した艦上戦闘機。直線的

で直角に縁取った主翼は、人力で上方へ折った後、さらに機体に沿って後方へ折りたたむことができた。二千馬力級の

戦闘機としては低速だったが、日本のゼロ戦や隼など千馬力級の戦闘機よりは優速であった。米軍の公式記録によれば、

海軍部隊が空中戦で撃墜した六四七七機のうち、四九四七機がF6Fによって撃墜された。

4 

太平洋中西部キリバスの北端にある環礁。

5 

一八六四

六五年、ジュネーブで決められた捕虜などに関する国際協定。

6 

バヌアツの旧称。

7 

ニューヘブリディーズ諸島最大の島。

8 

Hector H

ug

h M

un

ro

はSak

i

(一八七〇

一九一六)の本名。ビルマ生まれの英国の短篇諷刺作家。

9 

パプアニューギニアのB

ismarck

諸島の島。主要町・港K

avieng

10 

一七三六

九九。独立戦争時の急進派。“g

ive me lib

erty or give m

e death

という言葉で有名。

11 

Scroog

e act 

Scroog

e

はディケンズの『クリスマス・キャロル』の中の人物の名。

12 

マーシャル諸島西部。

13 

マーシャル諸島南東部、ラタック列島の環礁。

14 

主に爆雷を武器とする軽駆逐艦。潜水艦駆逐用。

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『マイケル・ジェイムズの冒険

ある空母乗組員の日記』

三三

15 

真珠湾湾岸の市。一九四一年十二月七日、日本軍の奇襲で大きな被害を受けた。

16  

Ch

ester William

Nim

itz, 1885

‒1966 

大戦中の太平洋艦隊司令官(1941

‒ 45

)。一九四二年六月のミッドウェー海戦以

降の太平洋方面における連合国軍の方針について、マッカーサー大将と、お互いが全作戦が自己の指揮下に置かれるべ

きだと主張しあい対立した。ガダルカナル島を巡る作戦の主導権は、マッカーサーの作戦が時間を食いすぎるとの判断

からニミッツが握ったが、以降マーシャル諸島、マリアナ諸島、硫黄島、沖縄、上海と中部太平洋を真西に直進しつつ

日本本土と南方資源帯を分断して日本の消耗を誘うべしというニミッツ寄りの海軍の主張と、ニューギニア、ミンダナ

オ、フィリピン、台湾を経て日本本土を目指すべしというマッカーサーの主張は平行線を辿った。ニミッツとマッカー

サーは互いの援軍を断り合うこともしばしばで、両者が合流したレイテ沖海戦(一九四四年十月)では、ニミッツ指揮

下でハルゼー大将率いる第三艦隊と、マッカーサー指揮下でキンケイド中将率いる第七艦隊とで連携が取れないという

事態も招いた。

17  

US

S H

ornet 

エセックス級空母の四番艦。当初「キアサージ」という艦名で一九四二年八月に起工されたが、同年

十月にホーネットが南太平洋海戦で沈められたことにより、ホーネットと改名された。四三年八月に進水、同年十一月

就役。四四年二月、マジュロ環礁で第二十空母機動部隊に加わった。四五年四月、ホーネットの艦載機は沖縄上陸への

直接支援を行ない、同月、他の艦載機とともに戦艦大和を撃沈した。

18  

James H

arold D

oolittle, 1896

‒1993 

アメリカの軍人・飛行家。第一次大戦後スピード記録・スピードテストで名をは

せる。一九四二年四月、東京への最初の空襲を指揮。

19  

カロライン諸島の二二の小島の一群。大戦中はメレヨン島と呼ばれた。陸海軍合わせて六四二六名の日本軍基地と

なったが、米軍の激しい爆撃と艦砲射撃に晒されて、日本軍は飢餓に苦しんだ。