title 西晋の詩人張協について 中國文學報 (1957), 7: …...中国文早朝 第七か...

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Title 西晋の詩人張協について Author(s) 一海, 知義 Citation 中國文學報 (1957), 7: 92-133 Issue Date 1957-10 URL https://doi.org/10.14989/176667 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

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Title 西晋の詩人張協について

Author(s) 一海, 知義

Citation 中國文學報 (1957), 7: 92-133

Issue Date 1957-10

URL https://doi.org/10.14989/176667

Right

Type Departmental Bulletin Paper

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Kyoto University

中国文早朝

第七か

西晋の詩人張協について一

陶淵明の詩は、彼の生きた時代、東晋から采

へかけての

文拳の主流から、はなれた朗で生み出されたもの、とされ

ている.さらに置くは彼の生きた時代をもふくめて、鋭晋

南北朝とよばれる時代の文単の主流からもはずれたもの、

それ故にこそ、また彼の詩が、その猫特の光輝をはなちえ

たし、そして以後千数百年もの間ー各時代のひとびとの胸

にうつたえる力を、その詩的形象の中にもちえた、とする

のが、

一際普遍的に認められた許債のようである。そして

それは、基本的には正しいであろう。たしかに彼の詩は、

そしてまたそれのもつ思想は、常時の、修辞を至上のもの

とする'いわば形式主義的な文拳の主流とは無縁な要素を

多くもち、それが彼の詩に、嘱目の性格を輿えているとい

ってよいであろう。しかしながら、そうした評債は、いき

おいその猫目性の強調

へと傾きやすく1枚の詩を'文畢史

上に、ひとりそびえたつ金字塔のごとくに、孤立させて考

え'彼が過去の大小の詩人から吸収し肇展させたものに眼

をむけることを忘れ、そうすることにょつて、かえってそ

の展債を見失う危険性が、ないではない。

したがって、陶詩の中に見出される、常時の文革と異質

なものと同時に、同質なもの、いいかえれば、彼の既

望息

味での周速の詩人たちの作品と、彼の.詩が共有するさまざ

まな要素、あるいは異なる共有でなく、そこに淵明にょる

畿巌のあとがあるとすれば、そうした鮎、すなわち具慣的

には、その思想、蔑憩の仕方、形式の面でいえばー句法、

さらには用語等々、の解明が行われねばなるまい。陶開明

の詩を、ひと且尚Lとすることにょつて、かえってその展

債を見失う傾きは、こうした研究のつみかさねによって、

是正されるであろう。

梁の鐘崎が

「その源は謄頂に出ず」とした陶詩の源流に

92

つい

ての指摘は、論詮を伴わぬ異なる指摘にとどまったけ

れども、早い時代のそうしたこころみの1つであった.そ

れが充分に正しかつたかどうかは別として、それ以後先人

たちが、この仕事を充分に深めて来たとはいいがたい。そ

して近来それは日本の単著たちにょつてもなお採りあげら

れている。

橋川時雄氏による癒頂の研究

(「陶淵明文嬰の源

流を探る」人文研究五巻六既、1九五四年六月)、悌教との親近

性を説いた富岡義聖氏の

「蹄去来の辞について」(本誌第六

研'一九五七年四月)、また、異に陶詩の源流としてでなく、

いままで正面から探りあげられなかった詩人際強の作品を、

可能なかぎり復原することによって分析許債を加えた富川

幸次郎氏の「慮頂の盲

l詩について」(京都大畢文学部五十周

年記念論文集'一九五六年十一月)などが、それである。

ところで、鍾喋の詩品が、中品にクラシファイした陶淵

明の債で、その源は厳頂にいずといいつつも'さらに左恩

にも言及しているように、陶詩の源流は、複数の詩人たち

に擬せられねぼならぬであろう。左恩の詩は、そうした複

数の詩人たちの作品の中で、ある比重をもち、多くの問題

西晋の詩人張協にいてつ(1海)

をふくんで

3,るようであるひしかしながら、ここでは、陶

詩の源流を探るわたくしなりの最初のこころみとして、左

恩と同時代の詩人張協を、探りあげてみたいと思うO

西晋の詩人たちの作品を謹んでいく中で、わたくLが、

特に張協という詩人に注意を惹かれたのはーその詩の中に

用いられたいくつかのことばの、陶詩のそれとの類似tと

いう単純なことからであった。たとえば、淵明がしばしば

用い、彼の思想を知る上で重要な意味をも

つと思われる

「異」ということば、長池

・粂溺という軸明の理想とした

苗代の人物の物語に典濠をもつ

「稿耕」ー

これもまた頻用

される

「固窮」という語、そのほか、至人

・達人

・前惰

遺勝、そしてまた、流俗

・離群といったことばづかいなど、

張協の現存するわずか十敷首の詩に、そうした用語の類似

は、あまりにも多く見出される。

しかしながら、詩仝鰭から感じとれるものは、陶詩との

問に、しかく濃厚な開聯聖不すものではない、というのが、

最初のわたくしの印象であった。ところがその後、彼の作

品を今度はすこしく詳密に謹む横倉を得、さらに停記その

93

中国文学報

第七筋

他をもしらべてみて、この詩人と淵明との間に見られる顛

似が、異にその用語の上にだけ示されるものでないことを

知った。たとえば衆にあげる詩のごときは、淵明の詩とそ

の思想がもつ、ある

一面の原型を示しているように思われ

る。

桔字窮岡曲

縞耕幽薮陰

荒庭寂以閑

幽地階且深

凄風起東谷

有徐興南写

経無筆畢期

膚寸日成霧

揮碓登墾難

塞猿擁候吟

渓整無人跡

荒楚欝帯森

哉束循岸垂

いえ

くま

かま

窮岡の

おくぶか

幽き薮の陰に稿耕す

くきふか

しず

き庭は寂として以て閑かなり

しず

みね

けわ

なる

くして且つ深し

凄風は東の谷よ-起こり

えん

みね

して-もの南の

こる有り

ひつ

はしの期

うことなしと雄も

たちまち

たかあめ

して白

のずから

成す

あぜ

津の経は

登りて解

ふゆ

えた

かき猿は

擁して吟

たにま

渓塁には人の跡なく

おいしけくさ

しようしん

荒る楚は欝として蒲森たり

すき

投じ岸に楯

うていと垂るれば

時間樵宋音

重基可擬志

廻淵可比心

萎虞何無寄

道勝貴陸沈

遊思竹素園

寄断翰墨林

そまぴと

時に聞こゆるは稚采の音

おお

やま

なそら

重いなる基は志に擬うべく

めぐ

廻る淵は心に比すべし

とちノと

展を養うは無賃を

椅び

JIl

道に勝るるは陸洗を貴ぶ

ふみ

思いを竹素の園に遊ばしめ

ことほ

あず

酢を翰墨の林に寄く

(錐詩第九首)

なお、この文章を書きすすめていくなかで、かたわら若

干の文献にあたってみたところ、張協と淵明とを無縁の詩

人でないとする詮の、皆無でないことを、わたくLは知っ

た。すなわち、清の何樽は、協の雑詩を許して、

胸次の高-、言語の妙なることよりして、

景陽

(協の

字)と元亮

(淵明の字)の両晋に在るは、蓋し狗お長庚

そら

かざ

啓明の

がごとし

(義門讃書記).

あけ

と、二人の詩人を、智の明星と

明星にたとえている。

群星のいまだ現われぬ、あるいはすでにその光を浸した時

刻に、ただひとつ車基に輝く星、とする此職はーはなはだ

94

暗示的であり、かつ深い寓意をもつように思われるー

陽の輝く光の世界を、詩が本来の機能を牽揮した時代、と

おきかえ、その光のうすれおとろえた時に、なおかすかな

光を放っている詩人、また、やがて乗たるべき光の時代を

約束するかのように、時代に先んじて現われた孤猫な星、

とまでその寓意をさぐるのは、穿撃にすぎるとしても。

また、虫なじく清の随所明は、淵明の耗詩に注して、

稚詩の諸第もまた擬古の飴樺、その整調を味わうに、

や梢

預孟陽兄弟の一流に近し

(宋叔堂古詩選晋六陶淵明二)0

という。これは、直裁な指摘である.

しかし、両者は直ちに結びつけて考えうるほど、その関

係が濃厚なわけではなく、わたくしの最初の印象に、いさ

さかの訂正を要する程度のもの、と考えてよいであろう。

この詩人の、あるいは作品のもつ.問題を、すべて早急に淵

明に結びつけて説くのは、危険である。むしろそれは第二

の問題としつつ、従来の文畢史家にょつて、二三行の叙述

をしか輿えられなかった詩人、ことに西晋の詩人たちの中

の一人を、

l癒正面から探-あげてみる、そうしたこころ

西晋の詩人張協について

(1梅)

みの1つとして、わたくLはこの論文を書

いた。陶詩との

閲聯の問題は、テーマではなく、あくまでも、モチーフと

してあらわれるにすぎないことを、あらかじめことわつて

おきたい.

晋書本侍にょれぼ、輩協には、

一人の兄と、

一人の弟が

あった。載

(字は孟陽)と克

(字は季陽)が、

それである。

人人は、かれらを、陸磯

・陸雲兄弟に封する呼稀、二陸に

ならつて、三強とよんだという。それは、すぐれた文人に

封する

一種の禽稀でもあったようである。しかしながら、

晋書の記事にも見えるように、弟の充は、その才藻、二見

およ

すなわち二人の兄に逮ぼなかった、といわれ、その作品も、

註一

北堂書砂

(巻

一百四垂文部紙)

に五言詩の断片が見えるの

で、それらは既に膚初においてもはや顧みられなかったこ

とがわかる。こうしたことから、彼は一二張の中からはずさ

れ、かわりに、常時、張という姓をもつもう

l人のすぐれ

た文人、張華

(字は茂先)をこれにふくめる、という詮が、

95

中国文革報

第七放

従来行われて来たようであり、近人では、鄭振鐸'季長之

註こ

らがこれに従っている。この詮は、詩晶に見える飽照につ

いての次のような評語にょつて、更にその基礎を得たので

はないか、と思われる。すなわち

その源は二張に弥ず-・・-・真

陽の願託を得、茂先の節

婦を含む。

しかしながら七の呼稀は、必ずしもただち・UJl義

という呼

稀とは結びつ費えないのであって、二張

・三張という呼稀

は、それぞれにふくむ内容を異にしていると考えた方が、

より蛮首であろう.しかも、あ垂らかに1#氏兄弟を指して

三張とよぶ呼稲を、われわれは'はかの文献にも見出すこ

とが出来る。すなわち、時代は大分降るけれども、采の契

史の撰した太平窯字記聾

ハ十三の記事がそれである。

信都願望

l張の宅あり、晋の文士張協兄弟三人、文を

この

ことを善む。みな郡の人なり.語にいわく、

「二陸

入洛して、三張その債を減ず」と。

ここでわれわれは'棄載兄弟に封する三強という呼稀をた

しかめうると同時に'更に次の三つの鮎に留意すべきであ

ろうbすなわち'三人の兄弟は、まん中の協をもって代表

させられていること、

「二陸入洛、三MB:r.i,減債」という俗間

の語、そして、彼らの原籍。前二鮎については、のちにま

たふれるとして、ここでは、その原籍について考えてみた

rJ硬載、字は孟陽、安平の人なり。

というのが、晋吉本侍の記事であるが、文選に見える張載

七哀詩の李注が引く戚典緒晋書は、

「武邑の人なり」とす

る。また活の厳可均は、何にもとづいたのか'

「安平藤津

の人」としている。ところで、晋苦地理志には、巽州に屠

する郡の一つに安平の名が見え、同じく職官志に、恵帝の

叔父にあたる司馬年がここに封ぜられた、とある。すなわ

ち、晋では安平固とよばれ、地理志には、これに屠する願

として、信都

・武邑

・観

(港)津などの名があげられてい

註三

(活の洪亮害補三園変域志の記事もほぼこれに等しい)O

さき

にあげた太平実字記、またのちの畿輔通志などにょれば、

これら郡解の名は、たびたびの王朝交替、それに伴う戦乱

にょつて、互いに錯綜しており、張家の原索についVr諸

96

詮のあるのも、そのためであろうが、常時の安牛郡武邑豚

は、今もそのままの願名でのこつており、河北省の北端'

山東省の徳州市にほど近い小都合であるo

ところで、すくなくとも兄の載は、成人ののち'常時の

都洛陽に出ていたものらしく、のちにもふれるように、武

帝泰始の末

(二七三)'あるいは、すくな-とも威寧年間(二

七五-二七九)には、既に文人として名を成していたらしい。

そして、さきにあげた

「二陸入洛、三張減債」という俗間

の語や、本俸に見える官職の名からして、のちには弟たち

もまた、ともに都にいたものと思われる。そして、彼らは

その晩年、おそらくふたたび故郷の地に落着くことはなか

ったであろう。なぜなら、意帝の没後

(三〇七)、といえば

武帝太庚年間の政治的小庶状態がもろくも崩れて、ふたた

びはじまった混乱、いわゆる八三の乱が、ようやく終束を

つげたころ、張兄弟の故郷の地、巽州は、婦人石動の軍隊

にふみ荒され、さらに十数年ののち'

東晋の太興二年

(≡

一九)、石動はこの地変もふまえて

超の図をたてたからで

ある。

西晋の詩人張協について

(一梅)

やま

かこつ

弟の脇が、費門侍郎に召され、疾

てこれを辞し、

以後

l切の官職からはなれる決心をするのが、丁度この掲

族侵入の年とかさなる。政治の場からはなれると同時に、

彼はその故郷の地

へも障れぬ境涯におかれたわけである。

常時の形式主義に流れた女肇の製産者の群れの中の一人で

あった張協の作品から、何ほどかのリアリズムと'異寅の

情感とを、われわれが感じとることが出来るとするのも、

そうした彼の境遇と無関係には論じえないであろう。

彼らの家は、その故郷にあって、名門のうちにはかぞえ

られなかったらしく

(前出大卒賓牢記姓氏の項に張氏の名なし)、

本俸はわずかに牧

(大卒御覧巻五百九十引王隠晋書は牧に作る)

という父の名を書きとどめるにすぎない。そしてその官職・

は、萄郡の太守という。劉備以来の竃が晋の将軍鍾倉にょ

ってほろぼされたのは、二六三年のことであるから、それ

は常時占領恒後の土地であう

たであろう。そこの太守、そ

れは、たとえば沖縄の軍政長官のごと-、あまりおだやか

な職ではあるまい。

彼らの家が文拳の傍流をもたなかったと思われるだけで

- 97-

中国文学帝

第七筋

なく、翼州という地方が、そもそも文化的倦紀とは無縁な

土地であったようである。漠代の畢者茸仲野、時代は降る

が唐代の聾者孔頴達は、共にこの寒川出身であるが、すく

なくとも文学的偉雑にはかけると考えてよく、同時代の

摩名のある文人としては、ただ

一人牽秀という人物が藤津

の人であった、と晋書にしるされるにすぎない。後漠王朝

の絶封権力者であった賓太后が、濯津の人である、と歴史

はしるしているが、それはこの際、かえってあまり名替な

ことではあるまい。この土地が、常時経済的にも未開の地

方であったことは、いうまでもなかろう。文畢者のおおむ

ねが江新から出た清朝でも、その末期には、文人が必ずし

も江衝の出身者にょつて占められなくなった事情と考えあ

わせてみて、政治的混乱が文嬰的風塵に輿える影響の

一端

をうかがわせるように思われる。しかしそうした連境から

生れた文拳が、後

の清朝のそれとはちがつて、この場合、

ただちに支配者

への積極的な批判の文畢とならず、消極的

な姿勢、あるいは逃避

へと傾いていったことについては、

時代的制約を考慮に入れなければならないが、しかしJTyう

した消極的姿勢、あるいは逃避の中にも、その作品を形式

主義的文峯の枠からはみ出させるエネルギーのあることを、

われわれは見落してほならないであろう。抑えられた情感

が、ひそやかではありながら、抑えられたことによって、

かえつ三輿塞なものを秘めているかも知れない、そうした

作品を、われわれは見すごしてはならないし、そのために

も、この時代の作品を、形式主義的女挙として

一概に捨て

さらず、もう

一度詳密に検討してみる必要があるように'

わたくLには思われる。

張協の生涯について、そのくわしいことは、ほとんどこ

れを

知ることが出来ない

、ここでは若干の資料にょりつ

註一

つ、

探ってみたい。

まず晋菩本俸の記事によれば、

わか

ひと

張協、字は景陽、少

して備才ありー載と名を斉しく

す。公府の操

(三公の府の属官)に辞され、秘喜郎に樽ず、

華陰

(連関の西にある嚇)の令、

征北大将軍が従事中邸に

98

うつ

格せられ、中書侍郎に遣り、河問

(河北省)

の内奥に碍

すで

ず、郡

(役所)に在りては清簡寡欲。時に天下

乱れ、

いた

カく

在る所、冠盗あり。協、途て人の事を棄て終り、草津に

しりそ

つす

-た

まう。道を守りて競わず、屠

ことをもって

たの

白ずから娯しむ。諸文士に擬して、七命を作る。その節

たく

にいわく云云。世もつてエみなりとなす。永寡の初、復

やま

かこつ

た徴されて黄門侍郎と寄る。疾いに託けて就かず、家に

終る。

引用された作品をはぶけば、これが、その侍の文章のす

べてである。もちろん生卒の年は'まったくわからない。

しかしここに、ただ

一カ所ではあるが、年数が明記されて

いる。「永茅の初」'それは前章にもふれたように、晋の王

族の内紛に端を牽し、混乱の中で多くの人民の生命と財産

を破壊しっくし、さらに張華、捧岳らすぐれた文人の命を

うぼった、いわゆる八王の乳が、ようやく終りをつげた、

そのあくる年

(三〇七)にあたる。

この年、

西晋の三宝

しはえい

一族郵邪王司

(のちの元帝)は、都督揚州江南諸軍事と

して'建菓

(今の南京)に軍鋲を移し、すでに東晋の基礎

西晋の詩人張協について

(一海)

を築きつつあった。この八三の乳の或る期間、張協はやは

ぎよう

り王族のl人である河間王朝の下で、その地の長官をして

ヽヽヽヽ

いた

いたと考えてよかろう。

「時に天下己に乱れ、在る所冠盗

あり」という記事が、そのこと聖不している。そこでまの

あた-にしたであろう現実、それが彼に'次の官職を固節

させたものと思われる。

その後数年にして

(三二

)、洛陽は西晋支配階級の内乱

に乗じた旬奴の劉聴'掲族の石動ら連合軍の手に格ちた。

西晋の最後の皇帝、憩帝が殺され、さきの司馬春が東晋の

王朝を江南にたてたのは'さらにその数年後、三

一八年の

ことである。永嘉の初から約十年、張脇がその混乱に如何

に虚したかは、全く不明である。しかし、本俸の記事によ

れば、彼の文畢活動は、その間もつづけられたのであろう。

に嘩る作品が、そうした期間のものをも含むかどうかは、

疑問であるとしても。

南渡以後の東晋に関する文献に、協の名が見えないのは、

たとえ彼がその頃まで生きていたとしても、揚子江をわた

って南方に逃げた文人たちの中に'彼が加わっていなかつ

99

中国文革報

第七放

たこと聖不すであろうし'弟克、

「中興の初

(三一七頃)、

わた

江を

」とする本俸の記事が、兄のことにふれないのは'

誰二

このことをたしかめさせるであろ

以上

が、本俸によって知りうるほとんどすべてであり、

張兄弟の行跡について、さら.にいささかの事既を知るため

には、兄の戦の倦、あるいはその他かれらに近い時代の数

すくない資料にたよらねばならないが、考許が煩櫓にわた

るきらいなしとしないので、これを簡保にわけて簡塵にの

べたい。

3:

文選の各.,,ジャンルの中での詩人の排列は、その時代

順に掠ると、昭明太子のL序は明記しているが、

lつには、

ヽヽ

「各以l時代相次」の時代が、詩人の生年を指すのか、ある

いはその活躍した時期なのかは不明であり、二つには、た

とえば巻二十二左思招博詩において、李善

が、雑詩では左

が陸

(磯)の後にあり、ここで前に居-のは誤りである、

と指摘し、また巻二十九何郁雄詩に附せられた李注が、階

答と雑詩にお

ける何

・陸の順の不統

1ないうどとく、前後

錯雑している箇所もあるため、これによ

っ壱

生年

の順を

断定することは、不安なしとしない。しかし今

一膝これに

擦って見れば'張協の詠史詩は、左恩と直話の間に、維詩

は、張翰と底誼の間に患かれているo左恩の生卒は不明で

註三

。底誰は、本俸によれば二八四年

-三五〇年。張翰

もまた不明であるが、本俸の記事から二四六年以後の生れ

であることは、わかる。陸侃如

・唱玩君著

「中開詩史」は、

張協の生卒をしるす唯

lの文拳史であろうが、それが何に

ょる推定であるかは、つまびらかにしない。しかし、二五

五-1

lO-とする推定のうち、没年については云云

するだけの資料をもたぬが、その生年については、文選の

排列にょつても、疑問符を附したまま、数年の幅をもたせ

て、

一魔うけ入れてよいようである。

jI

本俸によれば'兄の我は、太殿の初

(二八〇頃)局

たず

の地に父を

た、とある。文選に見える鋸閣銘は、その

時の作品であるが、その李善注に引く威柴緒の晋書には、

父に随って竃に入った、とあり、いささか記述のちがいな

見せる。それはともかくとして'この.記事は、栽がまだ何

の官職にもつかぬ若い境のことのように謹みとれる。富川

100

教授の教示によれば、重文溺朱雀二十七に見える張載叙行

まさ

賦の、

「歳は大荒の孟夏、金牌に局に在かんとす」の大荒

とは、爾雅程天の

「(太歳)巳に在るを大荒落という」の

にもとづいたものであろうtとのことであるOとすれば、本ヽ

俸の大喪初年とする記事と考えあわせ

て、太庚

六年乙巳

(三八五)を指すのであるかも知れない.この銘は、益州別

註幽

史張

認められ、その上表によって、武帝はこれを石に

刻ませたという

(本俸及び戚菜絹晋書)

しかし、我がその文才を認められたのは、これより

いささかさかのぼる。司隷校尉侍玄

(二一七-二七八)は、

載の濠氾族を見て感歎し、革をもってこれを迎え、目の没

するのも忘れて、大いに語りあい、かくて我はその名を知

られるようになった、と本俸はしるしている.司隷較尉停

玄が、その職を兎ぜられたのは、武帝の伯母献皇后の葬儀

(武帝成寧四年二七八)の席上、席あらそいなしたことにょ

るという

(晋書巻四十七及び撃

二十

l).とすれば、濠氾族は、

二七八年より何年か前の作、より巌箸にいえば、樽玄が

つ前の官、太供の職にあること

l年に充たなかつたとして、

西晋の詩人張協について

(一海)

二六九年

(武帝泰始四年)から二七八年の問の作、であり、

我の文名が中央の文壇に知られるようになったのは、この

間のこととしてよい。

以上に示した記事あるいは考詮と、いささか矛盾を

来たす記述が、同じ晋書の女苑博に見える。

たま

(左思)三部のことを賦せんと欲せLに、禽

ま妹の

芥、官に入り、家を京師に移す。乃ち著作郎張載のもと

いた

、眠邦の事を訪

(毛九十二左恩俸)

眠山邦江

(共に今の四川省すなわち皆時の局の山川の名)のこ

とは張載にきけ、といわれるほどに、彼が局についての権

威者となっているからには、その入局ののち、すなわち太

廉六年

(二八五)以後、離間銘が世に知られてから

のこと

でなければならないoしかるに左恩の妹券が、その文才に

よって武帝の後宮に納れられ、修儀の稀

をうけ

のは、

註五

泰殆八年

(二七二)のことである

(準

二十

1左鴬嬢

)o

「乃

ち」という助字からして'左恩が載を訪れたのは、芥の入

官ののちしばらくしてからであろうが、それにしても'張

載博、左思博の問には十年前後の矛盾がのこる。

101

中国文畢報

第七放

ところで文苑侍の次の.記事は、さらにもう

一つの矛盾を

生むo左恩は張戟を訪ねたのち、構想十年、達に三都族を

完成した。ところがそれの完成される以前に、陸磯が呉の

地から入洛しており、機もまた三都既の構想を繰っていた

矢先であったので、この計蓋をきいて、はじめは北人に何

が出来るものかと笑っていたが、完成された左恩の族を見

はなは

て、縄だ歎伏し、この上に加うるがものなし、と自らの筆

すを頓

てた、というのである。構想十年とすれば、完成した

のは、太東三年

(二八二)の頃、しかるに、晋青陵磯侍は、

その入洛を太庚の末

(二八九頃)とする。この場合は、そ

の入洛を数年さかのぼらせて考えねばならぬことになる.

ところで、陸磯入洛の年について、晋書の示す所に疑念を

はさんだ注家が、礎爽なくはない。これも吉川教授の教示

によれば、文選集注に

「砂に日く」として引く詮、及び清

ちよううんこ-

の張雲激の遺草腰言は'それぞれこれを、十年

(呉滅亡の

年'太康元年二八〇)ある

いは五年

(陸機二十四歳の暗、大鹿

五年二八四)さかのぼらせて考えている。二詮また矛盾する

が'陸樺の作品の示す朗では、英滅亡ののち、呉と洛陽の

間を幾度か往復しているようであり、晋啓の示す所は最初

の赴洛ではなく、幾度かの往復ののち洛陽に落着くことに

なったという結論的な叙述と見られぬことはなく、とすれ

ば、後者のくいちがい、すなわち、左思侍と陸横侍の示す

矛盾は、

一膳解決されよう。ところでー前者の矛盾、すな

わち張載博と左思侍の示すくいちがいについては、晋書の

張載入局を太庚の初とする記事が誤りであり、大荒とはも

一つ前の巳の年、すなわち秦始の末

(二七三㌧突巳)と考

えることによってしか解決されない。更にこれをたしかめ

る他の資料を持合わせない現在、かく本俸の記述をあらた

めるについては、不安なしとしないが、左葉壊侍の記事が、

宮廷に関するものであるだけに、より信懲性をもつものと

してこれをそのままうけとれば、左恩が入洛後しばらくし

て張載を訪ねたとして、その事蜜に開す.る矛盾は、

l癒解

決されるわけである。すなわち、我は泰始末年から成筆耕

年の頃

(二七五年前後)、最初の官職である著作郎として、

その文名はすでにあらわれていたーと考えてよ-、いささ

か乱暴ではあるが、二五

〇年頃をその生年として推定して

702

も大過はないであろうb

陸磯のことにふれたついでに、第二章で探りあげた

太平窯牢記の

「二陸入洛、三軍減債」という俗間の語につ

いて、考えてみたいOこれは、采人によって書きしるされ

たことばであるわけだが、唐人もまたこれを書きとどめて

いる.すなわち晋苦本俸の末尾に'

ていがく

景陽'光を王府に捨べ、棟等相い輝らす。二陸入洛す

およ

しら

るに泊んで、三瀬その債を減ず。遺文を考え震ぶるに、

徒語には非ざるなり。

というのがそれであるOとすれば、これは常時俗間にいい

はやされたことばであると考えてよいであろう。

このことばの示す意味を、逆に考えれば、二陸の入洛ま

では'三張が、常時の文壇にあってtのちの二陸の占めた

ような最高の地位を保っていた、としてよいようである。

およ

とすれば'詩晶序では

「有晋太庚申に迄んで、三強二陸南

一左、勃蘭として倶に興る」と集約的にのべているけれ

ども、そしてまた二陸入洛を太東の初とするか、末とする

かは、今しばらくおくとして、張載が博玄に認められた武

西晋の詩人張協について

(一梅)

帝政寧年間から、次の太庚年間にかけての数年、あるい

十数年が、張氏兄弟の中央における文畢活動の最も盛んな

時期であった、と考えられる。しかしそれは、あくまでも

常時の支配階級を中心にして形成された文壇の場での活動

なりそれに封する評債であって、末書謝霞蓮停論に、

「降

りて元廉

(大慶の攻の年競)に及び、港陸、特に秀いで…・・・

遺風飴烈、事は江右に極まる」といわれるごとく、既に三

張はその名を奉げられていないが、かれらの文拳活動は、

註六

太庚以後もつずけられていたと考えてよく、ことに張協の

場合'

「債を減じ」たのちに、かえってすぐれた作品をの

こした、と考えられることについては、章をあらためて、

のべてみたいと思う。

ところで輩氏兄弟は、三軍と併稀されながらも、先人た

ちははやくからこれにいささかの優劣をつけている。末弟

の瓦につS,て'その本俸は、才藻二昆に及ばず、と断定し

ているが、前述のごとく、今にその作品をとどめないため、

103

中国文革帝

第七御

許債のてがかりを得ることが出来ない。兄の二人について

は、人によって、その優劣に関する議論と許債に、若干の

ちがいな見せているようである。

障書経籍志は、載

・協の集を、それぞれ七巻

・三寒と記

録するのに封し、文選が、我については、詩三首、銘

一首、

協については詩十

l首'七命八首と、弟の作品を多く載せ

ているのは、弟の協を秀れたりとする、

一つの評慣聖不す

ものであろう.これをさらにはっきりと示すのが、錘喋の

詩品である。ここでは、協は上品に、戦は下品にクラシフ

ァイされているOその序文に、協を播岳と並べて、臨機と

共に太庶年間の代表的詩人であるとし、また文畢史上代表

的な意義をもつ作品の

lつに、協の苦雨

(重文猫糞#二に引

文選では雑詩第十首)をあげ、また、詩晶の中で最高

許債を輿おられている謝蚕蓬、植照に、張協の憾あり、あ

るいは、その源は協に跡ず、とする記述は、協里見Lとす

る評債を、さらに側面から強めているoそして鐘崎は、孟

はる

(戟)の詩は

に灰

の弟に噺

ず、と断定するのである。

過去の文尊に封する批評的意義警

Pつとされる,u掩難鰐詩

が、その三十首のうちに、協に擬した詩をふくみ'そうし

て我に擬した詩のないこと'さらに協をもつVl二張を代表

させた前出の太平繋牢記の記事などは、こうした評債をう

けついだものといえよう0

しかしながら、詩品が許債の封象として探りあげたのは、

詩、しかも五言詩に限られており、したがって、すべての

.I,bヤンルの文畢作品を封象とした劉漆の女心離寵の議論は、

必ずしもこれと似ない。すなわちここでは'協だけが特に

探りあげられることはなく、むしろ我の方が、弟と重りは

なして論じられている箇所さえある

(銘蔵篇)。そうしてそ

の才略篇にはいう、

ひと

孟陽景陽、才は縛にして相い埼Lo魯衛の政ー兄弟の

文と謂う可きなり。

明の張薄は'この評債をさらにはっきりした形で提出し

ている

(漢貌六朝一百三家集張孟陽集題詞)。すなわち、二張

とも

は斉に詩文の間にその才を馳せたが、互いに長短あり、そ

の文革的才能についていえば、ともに兄たりがたく、弟た

りがたし、と

いい、協は文に虫いては崩

や兄に譲るが、

104

「詩は濁り勤出す」というのが、その議論である。今に造

る張氏兄弟の侠文を見、そして詩晶、女心離寵などの詮を

勘案する時、軍港のこの議論が、もっともおだやかである

ように、わたくLには思われる。文選に採られた西晋の詩

のうち、陸横の五十二首をのぞけば、張協

・左恩の十

一首

が、滞岳の九首とともに、他を塵して多いこと、また明の

鴻惟調の詩紀以下、それぞれの立場からする纏集の選揮許

註一

債も'この詮の正しさ寧うらづけているようであ

詩晶の硬協の項にはいう、

さら

その源は王集に卦ず.文照準浮、病果すくなし。又に

巧みに形似の言を構え'港長よりも雄に、太枠よりも醍

ヰごしと

なり。風流調達、票に暖代の高手なり.詞彩葱膏、音韻

びび

註1

選銘、人のこれを味わえば、空

として倦まざらしむ

ここには、いくつかの重要な指摘がふくまれているよう

に思う。

まず、周知のごとく、鐘崎は、その文畢批評の一つの方

西晋の詩人張協について

(一海)

法として'詩人の系圏を作ることを試みている。評債の封

象となった詩人は、すべて国風

・中経

・楚辞をその源とす

る三つの系圏のどこかにくみ入れられる.彼によれば、張

協をふくむ系圏は、次のごとくである。

楚酔~

李陵

-王粂-

軍協-

飽照

李陵

(上品)については、

文、懐恰多し、怨者の流れなり

という。すなわち、屈原と李陵の運命をもうらにふまえつ

つ、李陵の詩は、楚軒のもつパセティックな感情寧つけつ

いだとするのであろう。この指摘は重要であり、張協がそ

うした流れを汲むとするのは'意味深い示唆をふくんでい

るようである。なぜなら'たとえば張協がその詩に、テー

マとして、あるいは背景として、しばしば凋落の秋をうた

うのは、あ垂らかに楚辞のもつロマンチシズムの流れをう

けついだものとしてよく、また悲傷の感を深めるものとし

て雨を鮎綴した作品の多いことも、そうした傾向の一つと

考えてよいからである。そしてそのロマンチシズムは、秋

105

中国文畢報

第七瀞

の詩人とよぼれる杜南にもうけつがれ、雨の括鳥をふくむ

杜甫の詩'たとえば秋雨歎三首、秦州難詩二十首のうちの

あるものなどが、その作品のすぐれた部分を占めることも、

興味深い。

玉条

(上品)についても、鐘崎は、

働槍の詞を牽す

と指摘する。しかしまた、

よわ

女秀で、質巌L

ともいう。すなわち楚静のもつ悲恰感が、王集においては、

その素朴さ、力づよさを失い、それが粉飾され、やわらげ

られる傾向のうまれたことをーいうのであろう。錘喋によ

れば、王発の系統は、渠協をもふくめて、五人の詩人にう

けつがれる。それぞれの詩人に封する評語から判断するに'

その悲恰感は、劉現と直話に、そしてその粉飾されたきら

びやかさは、播岳と張華にうけつがれた、とするもののよ

うである。張協は、どちらかといえば後者に傾きつつも、

この二つの傾向をあわせもつていた'と考えてよい。左恩

よりも既であるが、番長に-らべれぼ雄であるとする評語

が、そのこと堅不しているbそしてまた、その女膿は華浮、

きよ

すなわち華やかであると同時に、浮らかなものをももつ、

との評語も、そのこと聖不唆するであろう.これらは、ご

く大雑把な議論であること、いうまでもないが、理由のな

い断定でもないようである。

左恩よりも既とする、その既という評語は、六朝の文畢

評論の中でしばしば使われる。たとえば、陸機の文賦には

い、Tt、

-つ

詩は情に縁

うて精願、歓は物を

て別売。

つい

緒とは、質素に封して文掩、と封

される

(文心雛龍書記

ヽヽ

篇)ごとく'模様のちりばめられたきぬ、という意であり、

詩は、人間内部の感情に根ざしつつ、その機能は、給既、

すなわちはなやかな、あるいはきらびやかな美しさを喪散

させることにょつて、最高に牽挿される、とするのが、そ

の説である。給既

ch.i・miとは鼻韻のことばであり、それ

日照すでに

一つの装飾的なひび卓をもつ。これが、常時の

詩の制作者自身の撃言である。したがって、評者が、そう

した態度によって作られた詩を、同じく給、ある

いは雛の

106

語をもって評するのは、嘗番線想しうることであろう.と

ころで女心離龍は、そうした評語の封象を、楚酔にまで遡

らせるoすなわち劉碇は'九歌

・九群を許して、椅配もつ

て情を傷ましむ、という。鍾嘆の詩晶が、パセティックな

感情ときらびやかな表現との混合を、はじめて玉東に見出

すのに封して、これは更に楚鮮にまでさかのぼらせるわけ

で、さきの系圏とくらべあわせて考えると興味深い。劉雄

はさらに、魂晋は溝にして給

(通襲篇)、といい、東晋の詩

人郭環にも'給巧という評語を輿えている

(鉄堅廟)。詩品

によれば、さらに降って采の顔延之、謝意連、またその詩

が給であることを特色としたという。そうして唐人は、こ

れを線指して、建安より乗のかた、給歪、珍とするに足ら

へ李白古風)、とうたう。詩が、きらびやかであることを

特色とするのは魂晋南北朝という時代全鰭を支配した室気

である、とするのである。

しかしながら、なおこれを仔細に見れば、給という評語

は、晋、ことに西晋の文拳に封して、より多くつかわれて

いることに、われわれは束づく。さきにあげた、魂晋は濁

西晋の詩人張協について

(一海)

にして給、また流嶺結節

(時序篇)、そして、晋の世の群才'

エ-千

梢く給既に入る

(明詩篇)など、す.I(て畝

の晋詩

にあたえ

た許債である。そうして二陸は、天才椅練といわれ

(文選

文賦李注引減発緒晋書)'港岳、

は清給と許され

(世説新語文

筆籍割注引渡文章志)ーまた磯岳併辞して、縛旨、星のごと

あつま

かさ

く調り、繁文'給のごとく合なる、といった評語も、われ

われは見ることが出来る

(末書謝要道俸論)。

さらにまた、

博玄の子成は、その文に

「給」の足らざることによって、

おとしめられている

(晋書本俸)。

そうした中にあって'張

協もまた例外ではなかった。孟陽景陽、才は給にして相い

ひと

均し、という女心離寵の評語が、そのこと寧不しているo

ところで'こうした評語は'何をそのうらにふまえてい

エ-千

るか。それは、さきにあげた、晋の世の群才、稚

給際に

入る、につずく明詩篇の文章に暗示されている。すなわち、

rtち

なら

いろとり

張清陸左、眉を詩の

、その

正始よりも締

く、そのカは建安よ-も柔らかなり。

建安の詩の'ごつごつし

た、洗練されきらぬ要素、また

その故に存していた力強さ、それが失われて、装飾的な、

107

中国丈畢報

第七放

外面的な美しさの追求

へと傾いていつたのが晋詩である、

とするのである。南弊害文革倖論は、晋代の文拳を許した

1.P

中で、若し新奨なくんぼ、代わるがわる堆なる能わざら.ん、

といっているが'二つの時代の文挙が、同じく時の支配者

を中心にしたグループによって制作されたとはいうものの、

魂の時代に存した、文人の撃百のある程度の自由さ、時代

的君国束の新鮮さが、統

一王朝である晋になってからは失

われ、上からの統

一、二十四友というようなゆがんだ形で

の文単著の結集ーそして王族の.内紛や人民∽不満によって

むな

生じた果てしない混乱が、詩人を、虚

い美の追求

へとね

じまげーそれなしも

「新しい撃化」とせざる変えなかった

ことも、うなずけぬではない。

女心離龍は、こうした傾向に封して、

「撲」とよぴ、ま

さか

た、浮

しきものは、給を観て心を躍らす

(知

音篇)tとし

て、否定的許債を輿えている。こうした許慣と、さらに明

人随時姫の、人間の感情は詩によってはぐくまれ、また虞

賓の感情によってこそ詩は生れる、ということばは、晋人

にとってよい薬となるであろう-

語日、

情生於文、

生於情、些

一日可以薬晋人之病

(詩鉱絶論'歴代詩話続編本)

-

とする評語に、わたくLもまた、お

むね賛意を表す

る。しかしながら、そうした風潮の中にあつても、詩人の

情感は、必ずしもまったく堕し殺されていたわけではな

。ことに、そうした詩人の群れの中でも、左恩という人物

はー尿賓の感情を、自己の出身のまずしきとその不遇な環

境に封する反覆や不満として、兵卒に形象化しえた詩人で

かねそ

あるといわれる。詩晶の陶開明の項の、左恩の.風力を

う、とすることばも、このことを側面から示すであろう。

魂の時代の文拳がもちえた風力、背骨のとおったカづよさ、

それを失うことのなかった左恩にくらべれぼ、張協はやは

りいささか

「廉」であった、とすも

のが錘喋の判定であろ

ラ.そして'しかしながらこれを眉目秀麗の詩人捧岳にく

らぶれば、堆旋しい詩的形象を創造しえた人物、とそう呼

んでいるのであろう。

常時、九品中正の制度の飽かれた中で、その政治目的に

そうべくー人物を焼香する、すなわち人物推察のために品

108

定めをすることが、さかんに行われたといわれ、正史の記

事や、世詮新語の多くの挿話が'その間の事情をつたえて

いるが、鍾蝶が詩品を書いた時、そうした風潮から全く影

響寧つけなかったかどうか、わたくLは、いささか疑わし

く思う。すなわち、ここで輿えられた評債が、純粋に詩人

の作品のみを封象としたものであるか、すくなくともある

場合には、その詩人の地位'あるいは人格や俸えられる行

への許債がーたとえいささかなりとも混入されていはし

まいか、という疑いである。陶淵明が、より多くその行雷

にょつてではなく、その詩にょつて異に評慣されるのに、

飴りにも多くの時間をかさねばならなかった、という事責、

詩品もまたその淵明評債において、前者

への傾きを見せて

いるという事実からも、わたくしの疑いは、うまれている。

播岳に封して、さきにわたくLがわざわざ眉目秀麗といぅ

形容詞を冠したのも、そうした心からであ-、左恩がその

容姿は絶醜、世詮文畢篇や、劉注の引く別俺の記事の停え

るその人物もまた、才人汚点とはあま-にも対照的である

ことがわたくしないささか不安にする。とはいえ、この二

田晋の詩人張協について

(1海)

人の詩を比較の封象としての'張協に封する評債は、お

むね愛首であろう。清岳の詩に見える過剰な美的表現は、

協の詩の繊細な叙景とはーその質を異にするものであり、

左恩が、同じジャンル、耗詩において、これまた同じく秋

をテーマとしつつも、そこに示す力強いタッチは、やはり

協には炊けるものだからである。

たとえば、給院と許される詩的表現は、充分に選揮され

たことばを封照的につらねることによって生み出される封

句に、その一つの頂鮎を見出すことが出来るであろうが、

播岳の、

+.1・(

濫泉

龍の隣のごとく

潤だちそ

激波

連ねたる珠のご

とく揮ぐ

(金谷集作詩)

などの句にょつて代表される、きらびやかな表現、したが

つV'封象の美を、置接目にうつたえる比職を通してでな

く、むしろ

l種の減退作用をもつ抽象的な比境をもってす

る表現は、張協にはすくなく、むしろ彼の封句は、

あが

障れる雲は滴-煙に似て

こま密かなる雨は散りたる務の如し

(雄詩第三首)

109

中国文畢帝

第七卿

と、封句としては平凡さを露呈しつつ、その本領は、封象

のこまかな、しかも如実な碓篤において牽揮されるように

思われる。

秋に解牽された妻の死

への悲しみ、また、妻の死が秋と

いう季節に投影されたさびしさ、それをうたった播岳の悼

くず

亡詩のもつ顧れた美、それもまた張協とは無縁であるよう

つよ

に思われる。張協には、もつと勤い

l種の

muscteが通っ

ているようである。自

らの不遇や孤猫を、貫になげ垂とし

て牽するだけでなく、抑えた滑極的な形ではあるけれどもー

・t.▲二

「至人は物に嬰わらず、飴風

時を染むるに足れり」(嫌詩

二首)ーあるいは

「涜俗

多くは昏迷す、此の理

く察せん」(第五首)というふうな自己主張も、その詩

には

見られ、また淵明の

「憶う我れ少壮の時--、猛志

四海

むかし

した

に逢す」

(碓詩第五首)にも似た、「鳴

微志を

、惟

ひそ

に緩し所なり」

(妹詩第七首)の如き詩句が、そう

した張協の

muscteの片鱗を見せているように思われる。

しかしながら

、これを左恩にくらべる時'そうした勤さに

なお軟ける所の多いことを、われわれは認めればなるまい。

たとえば李善が注して、晋充の記宝にめされて就かず、

因って人の年の老いゆくに感じて作る、という左恩の雑詩

の全篇は、次のごと-である。

秋風何例劉

白露薦朝霜

桑保旦夕勤

根葉日夜黄

明月出雲崖

敬敬流素光

披軒臨前庭

赦敢農場邦

高志局四海

塊然守墨堂

粧歯不恒属

歳暮常慨憤

秋風

何ぞ劉劉たる

白露

朝霜となる

えた

つ上

柔らかき候は旦夕に

効く

緑なる葉も日夜黄ばむ

明月

雲崖に出で

きよ-きよ-

しろ

敬として素き光を流す

まとひら

軒を披きて前庭に臨めば

こ太ノこちノ

倣敬として島鴨朔ける

せま

高志

四海を局しとし

塊然

として茎堂を守る

さか

よわいつね

つづ

壮んなる歯も恒

には届かず

歳の暮れなんとして常に慨燥す

110

これと同じテーマをあつかう張協の雑詩第四首を記して

みると、

朝霞迎白日

朝霞

白日を迎え

丹気臨暢谷

繋勢結紫雲

森森散雨足

軽風推勤草

凝霜疎高木

密葉日夜疎

叢林森如束

噂昔歎時遅

晩節悲年促

歳暮懐百憂

牌従季主ー

上JLHJく

丹来

場谷に臨む

えいえい

して紫雲を結び

しんしん

森森として雨足を散ず

くた

軽風

勤草を措き

すく

凝霜

高木を

まば

密葉も日夜疎らに

しん

つか

叢林は

して

たるが如し

むかし

は時の遅卓を歎ぜLに

せま

晩節には年の促るを悲しむ

した

歳の暮れなんとして盲垂を懐き

まさ

-らな

番に季主に従いて卜わんとす

まず、秋という季節を捷示するそのうたい出しにおいて、

協は、准甫子

(説林訓)のことばをふまえつつ、虫だ

やか

であるのに封し、左恩のそれは'

「秋風

何ぞ列劉たる」

と、直線的に、秋のもつきびしさをうたいあげる。そして'

けんか

白露馬霜という詩経秦風

の詩句をそのまま用いつつも、

ヽヽヽ

朝の霜と提示することによって、秋のきびしさを

一鮎に凝

さか

縮させる。そのうたいおさめもまた、左恩が'壮んなる年

西晋の詩人張協について(一海)

のすぎゆくなげ卓を、なげ卓としてくずれさせず'常に慨

懐す、とある力強さを秘めるのに封し、協のそれは、漠代

長安のー者の故事をふまえつつ、暗示的で、よわいo

また、

「噂昔

時の遅卓を歎じ、晩節

年の促がすを悲

しむ」という聾憩は、l石

それぞれに類似した表現を古詩

の中に見出しうるとしても、こうした封句のかたちでうた

われたのは、新しいことであろうが、それもやはり虞寅の

感情の表白としては、平板的とのそしりをまぬがれえぬで

せま

あろうし、左恩の、

「高志

四海を局しとし、塊恭

室堂

を守る」

-厳しい窒素の中で、ぽつねんと自らの姿勢を

くずきぬすがた-

にくらべてみる時、その詩的表現にお

ける優劣は別として'やはり強敵なものに炊けるといわね

ぽなるまい。

これは本題から多少はずれるが、左思雑詩第三句

の、

えたえだ

「柔侯

旦夕に勤し」、すなわち柔らかであった僚俵も、秋

の茎束にふれて、日に日にそのしなやかさを失い、張敵な

しわりを見せるようになる、とする秋の景物の探りあげか

たは、いささか特異な聾憩室不すであろうが、張協もまた、

111

中国史畢報

欝七肝

別の作品

(七命)の中で、これを、「柔候は夕べに効く、密

もし(_J

葉は

稀なり」と、四字句に凝縮してうたっているのを

見ると、この二人の詩人は、その作詩の場で、何らかのか

かわりをもっていたのかも知れない.

さてここで、さらにそうした比較を、

一一の詩句につい

て行うことは、

l麿おいて、張協の詩の示すいくつかの問

題を、最初にかかげた詩晶の評語にもどりつつ、またこの

種詩をてがかりとしながら、章をあらためてのべてみた

い。

巧みに形似の言を構う。

と詩晶にいう、その形似なることばは、女心離龍や末書謝

震違俸論にも見える.

たノ・刀・E:

近代以来、文は形似を貴び、情を風景の上に窮い、硯

きわ

を草木の中に

(文心雛龍物色篇)0

iL,

(司馬)相如、エみに形似の言をなす

(謝憂運俸論)o

そしてまた、詩品の謝襲蓬、額延之、鯉照の項には、

と,7と

それぞれ

「巧似を備ぶ」という評語が見える。

すがた

それは、ものの

、そのものに似せてー巧みにうつす、

ということを意味するであろう。そしてこれを、今のこと

ばにおきかえれば、馬貴の'ひろくは行情をもふくめての、

リアルさ、ということになるであろう。今引いた女心離寵

の語とともに、詩品飽照の項に見える

「その源は二張

(蛋

たく

ヽヽヽヽヽヽ

・張葦)に跡ず、善みに形就籍物の詞を製す」という評

語が、そうした解程を許容させるように思われるo

ところで、六朝における詩文評をのぞけば、張協に封す

る後人の批評は、まことに直参たるものであるがーそうし

た中で、清初の単著陳詐明は、協の詩を謝露蓮の

「風塵」

をひらくものとして、特にその

「鳥貴の生動」を、魂以来

いまだこれあらざるもの、とまで稀揚

している

(采叔望古

詩選巻十二晋四)。陳氏の文章には、自らの評文に自らが酔

っているようなふしが見うけられ、わたくLとしては、そ

こに誇輩を感じ、いささかその詮は探りがたいのであるが'

張協の寛景の巧みさは、また何件によっても指摘されてい

(義門讃書記)。

何氏は、前掲雑詩第四首のうち、軽風推

112

早'凍霜疎高木、密菓日夜疎、叢林森如束、の四句を拳

げ、錘記宝のいわゆる巧みに形似の言を構うとはこれであ

る、という。ほんの軽い風、しかしそれは厳しい秋の束を

・:(_I

ふくんでいるために、勤小童をもつ野の草を措

伏せ、冷

ちじ

たく凝結した霜は、そそり立つ孤木

あがらせる、

まは

l日疎らになってゆく木木の葉、叢林はそのために'束

ねた柴のようにささくれ立って見えるー

。たしかに、

つ一つのことばが'秋の風物をリアルに訴えて来る、それ

は詩句である。何氏の指摘は正しいであろう.なあまた、

現代の文挙史家たちも、協の詩の篤景の巧みさにふれるこ

とを忘れていな

(陸侃如

・裾玩君

「中国詩史」中'林庚

「中

国文筆簡史」上)O

詩のもつ-7リズムは、また詩人の微細なものへの鋭い

感覚にょつて'うらづけられるものであろう。ところで樺

詩第

l首は、首詩十九首をふまえつつ、孤閏を守る佳人の

憂いをうたうがうその全詩をあげれば爽のどとくであるo

秋夜涼風起

秋夜

涼風起こり

あら

清束蕩暖濁

清来

れたる濁りを

西晋の詩人張協について

(1梅)

瞭蜘吟階下

飛蛾沸明燭

君子従遠役

佳人守歎猫

離層幾何時

鐙煙忽改木

房稿無行跡

庭草萎以緑

青苔依基揺

蜘妹網四屋

感物多所懐

沈憂結心曲

こ好ちぎ

きざはし

もと

吟じ

飛蛾は明燭を沸う

君子

遠役に礎い

けいとく

佳人

賀猫を守る

いく・j・\

居すること幾何の時ぞ

を賛るに忽ち木を改む

へや

ひと

房槙に行の跡なく

せい

庭草

菱として以て練なり

ひとけなかへ

青苔は塞き瞳に依りそい

いえ

蜘妹は屋の四もに網す

こと

物に感じては懐う斯多く

おも

くま

沈き憂

いは心の曲に結ぼる

113

ここで詩人は、離層のさびしさを深める風物として、次

の二句をうたい込んでいる.青書供宴拾、蜘妹網四屋

-

苔と蜘妹の網、それは詩人の注意が、微細なものに吸い寄

せられていること聖不す。のちの奔梁の時代に入って、詩

人たちが、好んでそれらをうたつたこJUも、その一つの詳

左となろう。苔と昧網のそれぞれは、協以前の詩に見え、

中国文革帝

第七筋

彼と同時代の党聾たち、

けんか

休下に生じ

ちゆば-

四壁に網す

たとえば張葦は、昧網を、

(耗詩)

とうたい、陸機は苔を、

きぎはし

奉書

階除に暗く

おお

秋草

高殿を

薫う

(班健好詩)

とうたうが

、この二つの景

物を、

一聯の句に詠みこんだの

は'協のこの詩をもっては

じめとするであろう。そして、

帝の江掩が、その悼宝詩第五首に、

眉を結んで昧網に向か

そそ

思いを涯3.で青苔を硯

つむ

と、葦に外的な景物としてでなく、詩人の心に、すいこま

れて来るものとして、これらの微細な封象糞詠じて以来、

それは、南朝の詩人たちによって'人間のさみしさやうれ

いな深める景物として、好んで探りあげられるようになっ

た。協の詩は、すくな-ともその

lつの原型であるといえ

よう0またこうしたこまかな寛貴は、のちの山水詩の

lつ

の源でもあるように思われる。

さて次に'この詩のうたい出しの二句に眼をうつしてみ

。秋夜

涼風起こり

あら

清泉

れたる濁りを

秋の気のすがすがしさをうたう第二句は、この詩以前に

はなかった

一つの新鮮なことばづかいであろう。何博は、

rtが

詩家の字を錬

り句を

こと、景陽に始まり明遠

(飽照)

註一

に極まる、とまでいっている

(前掲書

)が

、たとえそれほ

どではないにしても、この句が、梁の劉孝威によって、

掃除

噴濁を蕩す

(望雨詩)

とそのまままねられたことを見ても、

1種の新鮮さをもつ

畿憩であったことは、認められよう.

こうした新しい畿憩は、ほかの詩にもいくつか見出され

註二

たとえば同じ雑詩の第二首、

ひつじさる

大火流坤継

大火のほしは坤経のかたに流れ

r(ち

白日馳西陸

白日は西の陸に馳す

たゆとひかり

浮陽映翠林

翠林に映じ

めぐ

かピ

廻騰扇緑竹

はせ遡る髄は緑竹を扇ぐ

114

飛雨瀬朝蘭

軽露棲叢菊

龍聾噴気凝

天高茜物療

弱保不重緯

芳家宝再較

人生濠海内

忽如鳥過日

川上之歎逝

前借以日展

・r・・・J

飛雨

朝蘭に

軽露

叢菊に棲

ひそ

龍は

聾まりて喧

れたる束も凝り

ちじ

天高くして高物粛まる

やわら

えた

窮かき候も重ねては結ばず

かんは

はな

かお

苛しき

薮も豊に再び彼らんや

涼海の内に生まれて

あわたた

まなこ

忽しきこと鳥のわが目を過ぐる如し

ほとり

川の上に逝

くを歎ぜLは

つと

前借

の以て自ら

厳めしなり

人のいのちの短かさ、時間の経過のすみやかさを、白駒

の隙

(あるいは郁)を過ぐるがどとし、とする比境は、荘子

(知北遊篇)や史記

(留侯世家)などに用いられており、それ

はまた以前の詩人によって'遠行の客に

(古詩十九百)、あ

るいは暮春の草に

(徐幹室思詩)たとえられたが、

「忽如鳥

註三

過日」という句は'猫創によるものであ

のちに淵明が、

すみや

はため

なること流電の

-

が如し、とうたった比職の用い方

と同じく、詩人の新しい着想といってよいであろう。何件

西晋の詩人張協について

(一梅)

は、杜筒の藩秦希魯都尉通院右因寄高三十五書記詩に見え

る、身軽

1鳥過'槍急茜人呼、の句はこれにもとづくとし、

仇兆驚また典嬢として指摘しているが、杜南の句が'ある

いはその猫創によるものであったとしても、協の句それ自

身、常時

一種の新しさをもってうけとられたにちがいない。

時代のもつ不安な雰園束、それにつつまれて沈む詩人の暗

い束特を、雨に託してうたう詩

(たとえば難詩第十首)が、

前述したように、杜詩の中にもいくつか見え、それらが、

二人の詩人の作品のすぐれた部分を占めていることなどか

ら、杜南が、たとえご-かすかなものであれ、この詩人か

ら影響をうけたと考えられぬことはなくtとすれば、何

仇両氏の指摘もまた、意味のないことではないかも知れぬ。

ついでにいえば、この詩の

そそ

飛雨

朝蘭に

ぎす

軽露

叢菊に棲

の第二匂う露が棲む、菊をねぐらとする、という指節もま

た新しいものであろう。

難詩第三首は、次のようにうたわれる、

115

中国文単頚

第七放

金風扇素節

丹霞啓陰期

騰雲似涌煙

密岡如散練

寒花喪章来

秋葺合練滋

閑居玩幕物

離群樺所思

案無蒲氏頗

庭無貢公素

高僻遠王侯

遺積日成基

至人不嬰物

飴風足染時

金風

素節を扇ぎ

ひら

陰期を

厚く

騰がれる実は涌く煙に似て

密なる雨は散ぜし錐の如し

塞花

黄彩を牽し

秋草

繰滋を含む

もてあそ

開店して茜物を

びひと

群れを離れて思う朋を櫛う

つくえ

ふみ

案には葡氏の頗なく

あと

庭には貢公の黄なし

わす

高侍

王侯を

道積もりて白のずから基を成す

■▲・・)

至人は物に嬰われず

飴風

時を染むるに足れり

この詩のうたい出し、

金風

素節を扇ぎ

丹霞

陰期を啓-

これは、常時の詩

l椴が美酌なりとした、こみ入った修

許であろう.しかしながら、方角でいえば西をさす概念で

ある金、それはまた季節でいえば秋を意味する、金の風'

しろ

ヽヽ

すなわち秋風が、素

季節、すなわち秋を、「扇

ぐ」、どこ

しろ

からともなく迭-込んで来たうそしていまやその

清列

な季節が、目の前にある、とする表現ーことに「扇」という

指節は、特異である。同時代の詩人間丘沖の三月三日腐詔

ヽヽヽヽ

(重文類粟生四三月三日引)に、微風扇稜、朝露勢塵

(初筆

記巻四歳時部下三月三日の引く所はこの聯を閲-)、

の句がある

が、協の詩句と封比すべきは、むしろ陶淵明の擬石詩第七

首の次の

一聯であろう。

日暮れて天に雲なく

顔和を扇ぐ

さきにのべた張協と杜南との問に想定したつながりはう

まことに漠番としたものであったけれども、この詩句に見

られる淵明とのそれは、もはやほとんど疑いを容れる飴地

のないものであろうO季節が秋から春

へ、金風、素節とい

う典接をもつ装飾的用語が、春風、敏和、すなわち微妙な

なご

る和やかさ、という平易なことばに特選されることにょつ

116

て、

「扇」という措辞が、如何に生きて来ることか、われ

われは、あらためて開明の詩の、何でもないように見える

表現のもつ味わいの深さに、うたれる。と同時に、陶詩の

こうした表現が、やは-過去の

一人の詩人の登憩に、その

何性どかな負っていることをも、忘れてはならないであろ

らノ○張

協の詩と淵明の詩との表現における親近性が、その多

くの詩語に見られることは、第

l章においてふれたが、こ

こでは、さらに一聯の旬をあげて

きたい。

もと

流れゆく波は

香の浦を樺い

もと

行く雲は故の山を思う

(維持

第八首)

これは、張協が、通城の職に任

(劃履は西北従事中部の

時の作とする)、故郷を想って作った詩の

一聯であるが'

こでわれわれは、直ちに開明の蹄園田属第

l首の有名な句

を思

い出す。

たぴ

もと

覇の鳥は唇の林を櫛

もと

池の魚は故

の淵を思う

あまりにも似た表現であるoところで、協よりもいささ

西晋の詩人張協について

(一海)

か党聾かと思われる同じ西晋の詩人玉東の、謝寮蓬博論に

孫楚の零雨詩と併辞されたことによって有名な朔風詩

(文

選巻二十九薙詩)に、

こころ

おも

人の情

嘗郷を

たび

鳥は故の林を思う

という

一聯があるが、あるいは李善の指摘しない所から見

て、協のそれは、猫創であったのかも知れぬ。それはとも

かく、玉東にくらべれぼ、協の方が、封句としては常套的

でありながらも、よ-究成されたものといえよう。淵明が、

白己に絶望をしか張いぬ官吏生活を幾度か鰐験したのち、

そうした環境から疎外された田園の属にもどった時、ある

いはさらに複数の過去の詩人たちの句を、恩いうかべつつ、

この詩をつくったのであるかも知れぬoそしてそうした複

数の詩人たちの中に、張協もまたかぞえられてよいのであ

註四

。張協のこの一聯の句を、封句としては常套的とよんだよ

うに、たとえば党にあげた

第二首の、

つくえ

ふrt

案に諸氏の頗なく

117

中国文革報

七静

くつのあと

座に貢

の碁なし

(第三首

)

のごとき、典

嬢の選韓に意をは

らわぬ、ほとんど同義語の

くりかえしにも似た封句、そしてー

おお

やま

なぞら

なる

志に

可-

めぐ廻れる淵は心に比す可し

(葬九首)

の各句下三字に露呈された用意のなさなど、さきには

一例

をあげて滞岳と比較したが、その封句において、たとえば

随磯の詩に見られるような、アンバランスの生む封照、と

いった技巧は示されず、詩の完成度という鮎から、い

かの幼稚さを感じさせる場合が、すくなくはない。しかし

ながら、ひとたびこの時代の詩

一般に眼を韓ずるならば、

そうした断定は、容易に下せないのであって、この頃の封

句は、同じような内容のことを、如何に巧みに二度繰返し

ていいうるか、という

一種の貿験にも似た手法であったと

考えてよ3.。張協もまたその例にもれない。しかし彼が、

その手法を第景に用いた場合、撤密な拓馬と新鮮な表現と

して生かされた鮎に、われわれは注意すべきであろう。

さて以上において引用し、また後章にも引く張協の詩は、

詠史詩

一首をのぞき、すべて雅詩と題して文選の載せるも

のである。しかしこれ以外に彼の作品がないわけではなく、

晋書本俸に見える七命は、また文選の探る所であり、重文

新家以下の新書に書きとどめられたものを拾えば、更に二

首の詩以外に、六首の蹴、八首の銘の断片がある。しかし

これらの断片は、すべて常時の文壇を風腰した過度の美文

註1

のl例聖不すものでしかないようであり、七命もまた、常

時においては、この',,hヤンルにおける出色の作であったの

註二

かも知れない

本俸が、過去の文人たちにまねて作った

と記録するように、その内容も、老荘思想を

一般的な形で

うけとり、帝童に封する讃美をその結びとするといった、

いわば室疎なものである。

いわゆる

「二陸入洛、

三軍減

債」にいう債とは、おそら-こうした美文の才をも指した

のであろうし、これらの作品は、主として彼の前年生にお

いて、つくられたものであろう。

118

彼の詩人としての鼻債が、十全に牽揮されたのは、やは

り粍詩という.,,b

ヤンルにおいでではなかつたか、とわたく

Lには思われる。文選が、古詩十九首にはじまる難詩とい

う類、九十教官のうち、その十首までもをこの詩人に占め

させたこと、それは'次に多い曹棺の六首、曹蚕の二首と

の差を見るまでもなく、そうした評債をはっきりとあらわ

している。

ところでその雑詩とは、詩の如何なるジャンルを指すの

であろうか。のちの李商陣にはじまる無題詩についての定

詮がないように、維詩についても、いわゆる定款といった

ものはないようであるが、われわれはその定義について考

える前に、混乱をさけるため、文選に見える分類の一つと

しての秤詩と'その分塀の中にふくまれる、詩の題として

の雑詩とを、

1鷹わけて考えた方がよいようである。そう

した上で'前者については、文選巻三十耗擬上陸磯擬石詩

に附せられた唐の劉良の注

「経とは

一類に非ざるをいう」

以外に中国の聾者の下した定義はあまり見られないようで

あり、かえって我が国の単著によって論議されている。す

西晋の詩人張協について

(1海)

なわち、帯菓集の歌の分類は文選にもとづくとするのが、

詫三

近来国文単著の間では、定説となっているようである

文選の分額を意識せずに説く江戸以前の圃聾者たちの議論、

たとえば、鹿特殊澄の幕葉首義絶論などは、雑歌の椎の字

をクサグサノと訓じ、春夏秋冬のいずれにも分類出来ぬ種

種の歌と解している。これは、劉良のいう

「l類に非ざる

もの」とする詮と

1致する.そしてこれらの詮に封する異

論は彼我の聾者の問にもあまり見うけられぬようである。

それに封して、後者'すなわち詩の題としての難詩、い

ヽヽ

いかえれば、王仲宣難詩という場合のそれについては、二

詮にわかれる。その一は、唐の王昌齢の詩格からの韓載と

される文鎮秘府論論文意の詮、

盲人の作る所、元と題目あり、選びて文選に入るるに、

つまびら

文選その題目を失し、盲人これを

にせず、名づけて

難詩と酔うO

とするのが'それである。ところで先にわたくLが、文選

の分類としての雑詩、詩題としての雑詩、と分けて考えよ

うとしたのは、単に混乱をさけるための、便宜的な虚置で

119

中国文革報

第七鮒

しかなかった。文選の選者にそうした意識があったかどう

かは全く疑問であり、むしろ両者は統

一して考えられた方

が蛮首であろう。とすればこの論文意の詮は、後者には

腹あてはまつても、前者にあてはめられることは出来ない。

何故なら、雑詩という分類の中にはー四愁詩、朔風詩、思

友人詩など、

「題目のある」詩が多くふくまれているから

である。

では第二の詮を見てみよう。それは王架の稚詩に施され

た李善の注によって代表される。

こたわ

種なる者はー流例に

ず、物に退いて即ち言う、故

に雑というなり。

そして六臣注のうち、李周翰の次の二つの詮は'これを襲

ったものと考えられる。すなわち同じ詩の注に、

興致

一ならず、故に雑詩という。

といい、また同じく種詩の分類の中にふくまれる直話の時

興詩に、

時興とは、時物に感じて、情を興愉するなりO亦た雅

語の類。

と注するのが'それである。これらの詮ならば、詩題とし

ての雑詩にあてはまるばかりでなく、文選

の分類である

「雑詩」に封する定義としても不安はすくないようである。

李善のいう意味は1

1定の範噂を意識することなく、また

定まったモチーフをもたない、というほどのことであろう。

文選の詩の他の分類、たとえば公訴、賂答などのように、

一定の枠にしぼられず、詩人の感興の赴くままにうたわれ

た詩、これ寧音楽にたとえれば、われわれがショパンにそ

の代表的作品を見出す

(mpr

omptuというジャンルが、そ

れにあたるであろう.文選の雑詩という分類の中には、そ

れが雑詩と題されていると香とを問わず、たしかにそうし

た作品が集められているようである。したがって最初にあ

げた劉良の

「1類に非ず」とする詮は、異に経という字の

みの定義であるか、または稚詩というジャンルの消極的な

面を指摘したにすぎないと考えてよいであろう0

以上わたくLは、文鎮秘府論の詮にくらべて、李善の定

証は

義をより適切なものと考え

O

とすれば、文選の同じ分類

の1つである

「詠懐」と、それは重くかわらないジャンル

120

であるといえようし、事案内容からいってもそうである。

LMた文選の醒我をついだといわれる唐文粋以下の絶集では、

難詩の類を立てず、その大部分を述懐という類の中に入れ

ていることも、雑詩と詠懐の内容の類似を側面から示すも

註五

のであろ

文選に詠懐という

l類が別に立てられたのはー

陳箱に同じ題の連作が多くあったからかも知れないが、そ

のことについては別の横合に譲りたい。ところで、陶淵明

雄詩と題して文選に載せる二首の詩は'賃は本集では飲酒

と題されるものの第五首及び第七首である。ここからも若

干の問題が派生して出て来るようであるがーそれはしばら

くあくとして'飲酒の詩かならずLも酒がテー

マではないO

盃をふくみつつ、心に浮びまた滑えるもろもろ

の想念を寛

した、これもまた即興的な詩であると考えてよく、それが

雑詩と題されて文選に入れられたのもー不思議はないよう

である。ところで、張協はこうしたジャンルの詩に'すぐ

れた作品をのこしているわけであり、すくなくとも文選の

選者に従えば、漠魂六朝を通じて、この形式において、最

もすぐれた詩人であった、とされる。このことは、硬協と

西晋の詩人張協について(一海)

いう詩人の性格を、

一つの側面から示しているように、わ

たくLには思われる。形式主義、あるいは形式美至上主義

の支配的であった常時の文壇の中にあって、外物に鯛牽さ

れた心情を、詩の一定の範噂を意識することなく、置傘に

うたいあげることに、最もすぐれた才能を襲揮した詩人、

彼は、やはり

「晋の群才」の中で、いささか異質な存在で

あり、異質な面をもつことによって、常時の形式美に流れ

た風潮の中で、中国の詩の停稀をうけつぎ、それを深め、

次の世代

へ手渡した詩人の一人であるといえるのではある

まいか。陶淵明の潰した十二首の雑詩が、彼の作品の中で

重要な位置を占め、彼もまたこの.,,ジャンルにおいてすぐれ

た才能を示したことは、張協を文具史の流れの中で評慣す

る際に、何らかの示唆をふくむようにも思えるのである。

文選の詩をあつめてこれに注を施した元の劉履の選詩補

注は、その凡例にも3,ぅごとく、詩をその時代背景と開聯

させて説く、という態度をとる、早い時代のこころみの一

121

中囲文革報

第七放

つであろう。

たとえば、漠代の清廉の士二疏

(疏虞

・疏受)を詠じた

張協の詠史詩

(文選挙

1)には、注していう、

やま

景陽'時に既に

に託して犀屈す、故にその事を詠

まも

はじ

じてもって首代の録位を持し位を固る者を試す。且つ首

めに'西漠の朝野、歎娘の盛んなるを言い、もって今の

しめ

燃らざるを見す'その意徴なり.

淵明の詩その他にも見えるように、三良を詠じ、二疏を

うたうことはー常時の一つの風潮であった。しかしそうし

た側面からの考慮をはらうことなしに、この注は'詩と史

寅とな直線的に結びつける。第五章にその全篇を引いた雅

詩第四首に施す劉履の注は、更にくわし-、更に具照的で

ある。まず、この詩は、朝綱の寮乳を日のあたりにした詩

とこし

人が、国幹の

ならざらんことを憂えて詠じたもの、と

断定され、たとえば、うたい出しのl聯、朝霞の日を迎え、

ようこく

けんかん

はしいまま

丹気の暢谷に臨む、とは、晋の恵帝の初、樟

閥を

けんかく

たと

.し、その気勢

るに

てー乳のようやく起こらんと

する撃不す、と指摘するごと-である。以下各句はすべて

寓意をもつとLtそのうらづけとなる史空が指摘されるo

こうした方向での詩の解樺は、かえって詩の正しい理解と

鍔賞を妨げる

l面的な断定へと障りやすい危険性をもつで

あろう。たとえば詠史と題される詩が、その聾生の動機と

して、現実に封する不満を過去の人物に託して饗散させる

という政治的な意味を含んでいたとしても、そうしたテー

マが、多くの詩人たちに探りあげられ、典接や封句の技巧

をためし、それをてらう習作としてつくられていく中で、

虞蟹の感動を伴わぬものへと堕していつたことは、後世の

異音の中に牧められた多くの作品が示している。そうした

ことへの考慮をはらうことなしに、詩と史貿とを直線的に

結びつけることは、詩の正しい理解をゆがめるであろう。

さらにまた、そうした傾向はー詩人の豊富な才能、詩のみの

もつ可能性、3,いかえれば、詩が、その技巧をもふくめて、

ヽヽヽ

複雑な形で示す美、あるいはちからとよんでもよいもの、

への眼をとじさせる危険性をも、ふくむであろう。しかし

ながら、その全く道の方向、詩をー何の附加的な要素もな

しに、それ日照として鑑賞することこそがー正しい評債へ

122

導く唯

1の遣であるとする態度も、また十重なものとはい

えず、われわれと詩人との問によこたわる時峯の隔絶の桂

皮に、その不充分さは比例するであろう。さらにいえば、

そうした時室の隔絶をも超えて、われわれの感性に直接う

ったえて乗るもの、それが詩の示す虞賃であろうしーそれ

こそが不可快のものなのであるが、と同時に、それが詩の

示すすべてではない。そのすべてへ、少しでも近づくため

に、われわれは詩人の生きた時代と、その時代の中での詩

は、われわれに、

lつの見方を提供し七くれている.

ところで張協の詠史詩は、二疏をその封象として探りあ

げた、最も早い時代の作品の一つであろう。それは次のよ

うにう

たわれる。

昔在

西京時

朝野多歌娯

請謁東都門

群公租二疏

朱軒曜金城

むか

西京の時

朝も野も歓娯多し

あいあい

請謁たる東都の門に

おく

群公

二疏を経る

くるま

かがや

朱ぬりの軒は金城に曜き

供帳臨長衛

蓮人知止足

遠柴忽如無

抽琴解朝衣

散髪掃海隅

行人馬限沸

賢哉此丈夫

揮金奨昔年

歳暮不留偶

顧謂四坐宅

多財馬具愚

清風激高代

名輿天壌倶

咽此蝉盈客

君紳官見書

しっ

とはり

ひろ

rtち

供らえし帳は長き衛に臨む

達人は止む

ことと足らえることとを知り

巣を達てて忽ち無きが如し

管を抽いて朝衣を解き

髪を散じて海隅に蹄る

なみた

みち行く人は馬に沸を唄とす

賢なるかな此の丈夫

ふるま

金を輝いて常年を楽しみ

たくわ

歳暮に備

えを留どめず

顧みて四坐の宅に謂う

おろか

わぎわ

多財は愚なるものに累い

な馬すと

清風

希代

に激し

あめつち

名は天壌と供にあり

とつ咽

たり此の蝉亀の客

よろ

君が紳に宜しく書せらるべし

123

むかし西の長安を都とした漠の御世、朝も野も歓娯にみ

ちでいた、といううたい出しには、劉履もいうように、詩

人の目前にくりひろげられた世界との封此から生まれた、

西晋の詩人張協について

(一海)

中国文革報

第七か

ある感慨がこめられているのかも知れない。しかもそこか

ら去って行った疏贋、疏受という二人の人物、その理由を

詩人は、達人は止足を知る、と簡潔にのべるO達人、それ

しか

は淵明が、達人は其の倉を解す、あるいは、達士は爾らざ

るに似たり

(共に飲酒の詩)ー

とうたった理想の人物であり、

張協がのぞんだのもまたそうした境地、すなわち常面の状

勢に流され、目の色をかえて利欲を追うのでなく、この世

界を支配する法則に封して深い理解に逢した姿、であった

のであろう。

故郷にかえった二疏は、晩年のためのた-わえをかえり

みることなく、皇窒拝領の金子を皆しげもなくつかって郷

寅と歓なつ-す、揮金楽昔年、歳暮不閣僚。金を揮う、こ

の語は淵明の詩にも園田ののちのこととして、金を揮うこ

となしと雄も、濁酒いささか悼むべし、とそのままつかわ

れている

(飲酒第十九首)。

他の詩人にこうした造語は見掌

らぬようであり、とすれば、それは渠協の詠史詩が、二疏

を詠じた代表的な詩として、淵明をもふくめた後世の詩人

に意識されたことを示すのであろう。

ところでこの詩は、そうした新しい詩語をふくみつつも、

詠史詩の通例としてー金

牌から見れば、二疏のことを散文

で記述した漢書疏廉博の記事がそのまま凝縮されている、

といった感を免れえない。しかしながら、

おお

いま

やんことなひと

よの

とよ

おび

上ろ

君が

綿

(二銃の名を)書きとむべL

という結びの句に見えるはげしい瓢刺は'この作品が、晃

に輿えられたテーマを、巧みにうたいこなすための習作で

ないことを示している。そしてこれが、彼の罪居以後のも

のであるかどうかは別として、常時の緑位をむさぼるもの

そし

たち

への剃

、とする劉履の指摘は正しいであろう。

三関のあとをうけて園をたてた西晋の武帝司馬炎は、そ

の政権を固めるために、同族の二十人あまりを郡に封じて、

王と稗させた。しかしそれはかえって国家を混乱に導くた

ヽねをはらんでいた。かれらが、まだその封国にゆかず、王

とは名のみの中央官吏としてすごした時代、それは三関の

永い動乱のあと、その収拾についやされた時期とみてよい。

しかし成寧三年

(二七七)、王たち.はその閲にゆき、自らの

124

額土と軍隊をもち、文武の官僚は、王によって自由にとり

かえられるようになった。太東元年

(二八〇)、呉が滅され

て、晋の軍事は

一腹おさまり、約十年の小庶状態が保たれ

るoしかし恵帝司馬表の即位

(二九〇)後、政治の質権は、

外戚楊駿に操られ、やがて凡愚の帝司馬真の重富后が、権

謀術策を用いて楊な殺し、更に楊に直接手をかけた楚王環

に、汝南王亮を殺させ、衆には韓をも殺してしまう。こう

した中央での混乱をきっかけに、割接しtJ勢力をたくわえ

ていた王族たちが叛乳を起こす。これが、のち外旋によっ

て西晋の王朝のほろぽされる直接の原因ともなった、八三

の乳であり、散乱は約十五年もつづく.さきにもふれたよ

うに、張協が政治の場から身を引くのは、それが終束を見

た後である。すなわち、彼の官吏としての生活は、こうし

た混乱の中で行われた。

中央であれ、

地方であれ、

すべ

ての官吏は、どれかの王族の一派にくみすることを、おそ

らく強いられたであろう。自らの態度の決定は、常に近い

清爽の生命の危険を感ずることなしには、行われなかった

にちがいない.そこから醜い打算や反目がうまれるo小康

西晋の詩人張協について(一海)

を保ったといわれる太東年間の十

一年、それは後世の評象

たちも指摘するように、文人たちの最も活動した時期だと

いわれる。しかしそれも、こうした混乱の時代を前後には

さんでの小康状態であり、ここでも彼らが、派閥の率いの

圏外にいることは、むつかしかつたにちがいない。常時の

宮廷にはー質権者嘗誰のもとに、有名な文人たちの一つの一

グループがあったo彼らは、二十四友とよばれた。外見統

一的に見えるそのグループの中にもまた'昇進と保身のた

めのへつらいと反目とがうずまいていた、と史書の記述に

は見える(晋書要諦俸'劉現俸)。そして彼らの生活は、のち

の唐の詩人によって、次のようにうたわれる.

ほしいまま

晋武

呉を平らげて歓燕を

飴風

廉廉として朝廷轡ず

世を嗣ぐもの衰微せLに誰か肯えで憂えん

二十四友

日日室しく追い遊ぶ

(葦贋物金谷園歌)

陸磯、陸雲、播岳、左思、すべてその仲間であった。し

かしー文人として彼らと併辞された張協は、なぜかこのグ

125

中国文革帝

第七筋

ループに入っていない。としても、彼が、八王の乳の時期

に、河問王のもとで内史をつとめたという事案は、彼もま

た派閥争いの渦の外にいられなかったこと聖不す.そうも

た史実をふまえて、彼の詠史詩は、よみうるであろうし、

またよまれねばならぬであろう。すなわち、混乱のうみ出

した醜い率いへの非難と警官をーこの詩はふくんでいると

考えてよい。

二十四友のうち、有名な文人でその3.のちな全うしえた

ものはすくない。また、この時代の前後'魂晋南北朝とよ

ぼれる時代に、非業の死をとげた有名な文人たちの数は、

あまりにも多い。

哲庶・張華

・石崇

・陸磯

・陸雲

・欧陽

・播岳

・劉現

・郭瑛

・虚話

・汚嘩

・謝宴蓬

・飽照

・王

・謝朕など'すべてひとの手にかかって殺されている。

そうした危険をさけるには、よほどの保身の術と偶然の幸

運にめぐまれるか、あるいは、魂の徐幹がそうであったよ

うに

(異質の貌太子に輿-る牒)、そうしたあらそいの場から

身をひく以外に方法はなかつたであろう。中国の士人階級

にとって、後者の道は自らの政治的融合的生命の抹殺皇

味したけれども。

渠協は後者を選んだ.社食的生命の抹殺をそれが意味す

るとすれば、身をひ-こと日照が、常時にあつては

lつの

抵抗であった、と考えてよい。陶淵明のかたくななまでの

牒遁生活の固持が、やはりいま述べた生命

への危供とつな

がることをにあわせ、ここにも張協との、その姿勢の類似

註一

変、わた-Lは見出す.Qである

詩におけるそのあらわ

れ方には、やはり臭ったものがある。簡単にいえば、それ

は単純なものと複耗なものとのちがいである。同じく二疏

な詠じた詩、それは彼らの共通の関心聖不すものとして興

味があるが'ここにも、そうしたちがいはあらわれている。

協が'

.

むか

西京の時

朝も野も歎娯多し

請謁た

る東都の門

おく

群公

二疏を

観る

と史箕をまっすぐに提示しっつ、さらに二疏α隈退後の生

へとうたいすすむのに封し、淵明はー

126

大象

四時を樽じ

功成る者は自ら去る

しやもん

借間す

衰周より束

のかた

幾人かその趣きを得たる

目を漠延の中に遊れぼ

二疏復た此

の峯あり

と屈折んた接示の仕方を見せるoそして、二疏を宿場する

場合もまた、協は、

清風は高代に激し

名は天壌と供にあり

と常

套的であるのに射し、淵明は、

ほろ

誰か云う

其の人も亡ぶと

いよ

あら

久しくして道は

禰いよ著わる

と屈折させてうたう。こうした表現、あるいは詩の構成に

おける差異は、他の作品からもうかがわれる。協の稚詩は

そのほとんどが、先に景を述べ、後に情をいう構成をとる

のに封し、開明に忠いては、たとえば雑詩十二首、飲酒二

十首など、同じく連作でありながらーその二

の詩の構成

西晋の詩人張協について

(一梅)

は多様であり複雑である。そうした複雑さが、また淵明の

作品に深さと幅を輿える、

一つの大きな要素となっている

ように思われる。

前述のごとく、政治の場から身をひくことは、それ自照

その人の社食に封する

1つの抵抗であったといえようが、

詩人は、身をひくだけでなく、その抵抗を詩にうたう。格

葬の多い配合の中で、その詩は、いきおい陣後に、晦猿に

ならざるをえない。さきにあげた雅詩第四首を、劉虜の示

唆をてがかりとしつつ謹むならば'協の詩もまた、その隠

微さに急いて、しかく罵純でないといえる。しかもそうし

た読み方によって、この詩が、その表現の新鮮さからうつ

たえて乗るもの以外に、あるきびしさ変も含むことを、た

せま

とえば、噂昔は時の遅卓を欺き、晩節には年の

を悲し

む、という詩句からも、よみとれるであろう。しかしなが

ら、劉履の指摘を

一腹容認した上で、これを、同じような

状況のもとでの作と考えられる、淵明の述酒詩とくらべる

ならば、やはり雨着の間に、濃度の差、いわば単純なもの

と複雑なものとのちが3.を見出さざるをえないであろう0

127

中国丈畢報

第七肝

述酒詩は、それの含む意味がいまだ充分に解きつくされて

はいないけれども、先人たちの注に助けられつつこれを謹

めば、同じく隠微とはいうもののーその二

の詩句が、里

に陰惨なものの姿の雰国素描霧としておわらず、屈折して

ひそめられた典接をもつようであり、これにくらべれば、

協の詩は、きびしいものをもちつつも、その底はやはり濁

いといわざるをえまい.しかし、そうしたちがいも、淵明

の詩人としての大きさ'その底の深さを再認識させこそす

れ、渠協という詩人を、はなはだしく虫としめることには、

ならないであろう。

輩協におけるこうした隠微な表現は、

うたいつがれて3,く。

雲根臨八極

雨足潜四冥

震源過二旬

散漫丑九齢

陛下伏泉滴

堂上水衣生

洪療治方割

人懐昏塾情

洗液激除根

緑葉腐秋董

はて

雲の根は八つの極に臨み

うみ

そそ

雨の足は四もの冥に

濯ぐ

ながあめ

霧涯は二旬を過ぎ

とし

漫たることかの九

つの齢のあめに亜ぐ

陛の下には伏

泉の涌き

こけ

堂の上には水衣を生ず

おおあめ

まさわざわい

濠は浩とし

て方に割を患

こし

こんてん

)だ

人びとは昏塾の情を懐く

おも

ふる

そそ

沈き液は隙き根

に淑ぎ

緑葉

秋董

腐る

128

黒板躍重淵

黒坂

商学舞野庭

商学

飛廉露南箕

飛廉

豊隆迎既辞

豊隆

重淵に躍り

野庭に舞う

南箕に歴じ

耽犀を迎う

と、そのうたい出しにおいて、苗代の神話をふまえた重々

しいことばをつらぬつつ、いつやむともない雨の到来をつ

げる'難詩の最後の一首にも、示される。詩は次のように

1つの封象を多方面から観察し為

し取ろうとする

「昧」の

手法に似たものが、ここからは感じとれる。か-、ものみ

なをくさらせつつ降りつづく雨は'次のような場面を詩人

のまのあたりに展開する。

JPと

旦無曲突煙

里には

の燈なく

くるま

路無行輪撃

路には行く輪の整なし

せま

いえ

-ずおこわ

改堵白頭穀

のずから

かき抽

す妨た

垣間不隊形

垣間も形を障きず

わず

・,Qえかすなか

とうと

尺煙重尋桂

尺か

の燈は尋き桂よりも重く

くれない

たま

紅粒骨格擾

紅なるきびの粒は環尊よりも

貸し

おり上-

こうした苦しみの中で、詩人は、いにしえの高士、於陵

けんろうせい

の企望をのべて、うたいおさめる。

君子守固窮

在約不爽貞

雄柴田方階

恵篤溝壁名

取志於陵子

比足新宴生

こきゆう

君子は

守り

たか

約に在りても貞に爽わず

おく

かたじけな

田方の

ものを

すと経も

みぞ

きこえ

にすてらるる

なすを敵

志を於陵子に取り

た足らえるを賢室生に比せん

もと

固窮、それは論語衛整公簾の

「君子も固より窮す」とい

まも

うのにもとづき、開明がそれに

「窮を固る」と、貧窮の中

にあって清潔さなみださない積極的な態度をあらわす意味

をもたせて、しばしば用いたことは、よく知られているが'

そうした用法が淵明にはじまるのでないことを、われわれ

註二

はここで知

それはともかく、長くふりつづく雨の括某から、固窮と

酉晋の詩人張協について

(1梅)

いう自らの生活態慶を提出する、そうした飛躍から考えて

も、この詩は、明らかに異なる賓景の描需ではなく、配合

の不安

へのおののきと、それを生んだものへの抗議を'そ

のうらに含んでいるであろう。

「里に曲突の煙なく、路に行輪の整なし」、曲突とは、李

の注によれば、傍にある薪に加熱せぬよう、曲げられた

煙突のことであるという

(漢書雷光倦参照)。災害を未然

ふせぐそうした慶置が、あざわらわれででもいるかのよう

に、今は傍に薪さえもなく、曲突は厘もはかずに重しくっ

つ立っている。とーこの旬は読めるのかも知れぬOともあ

れ、この

l聯は、人民たちが極度に追いつめられ、もはや

聾もなくひそまりかえったぶきみな社倉の姿をうつしたも

のであろう.かく人びとを追いつめ苦しめて来たもの'そ

ながあめ

れは

してうたわれ、その性んと.うの姿は隠微にかく

されている。

しかし、このようなゆがんだ社食に封する抗議、そして

また自らの境遇に封する不満は、常にかく隠微なあらわれ

方をするわけではない。すなわち、さきにあげた詠史詩の

129

中国文畢報

第七か

結びの句のごとく、率直な形で提出される場合が、授かの

詩にもなくはない。

高侍

王侯を

道積もりて白

のずL&ら基を成す

(維持第三首)

宮仕えを拒否することによって、自らの純粋さを守りう

るとすることば、あるいはまた別の詩に、南越

へ章博とい

う名の冠を要りに行って、相手にされなかったという荘子

に見える話にたとえて、周囲から孤立した自らの姿奪った

い、しかもそれは、

「流俗

昏迷多き」がためであり、

「此の理

誰か能く案せん」とするうたいぶりなどがーそ

うした率直な表現の例である。

むか

昔我寮費甫

我れ章甫を資れて

瑚以連語越

柳か以て諸越のくにに適

かんとす

行行入幽荒

行く行

く幽荒

に入るに

浴-らく

みじか

まま

欧酪従間髪

歓騎

(

越王の姓

競)のひとは厭き髪の従に

窮年非所用

年を窮うるまで用うる所に非ず

まさ

いず

此貸婿安設

此の貨

牌に安く把か設かん

祝融寄瑛播

魚目笑明月

不見邸中歌

能否居然別

陽春無和者

巴人皆下僚

流俗多昏迷

此理詰能察

かわら

ほこ

は瑛

魚目は明月を笑う

えい

まち

見ずヤ

邸の中

の歌の

能と香と属然として別かるるを

陽春のうたのよろしきには和する者なし

巴人のうたには皆な節を下す

流俗は昏迷多し

此の理詰か能く察せん

(第五百)

そのあらわれ方が障微であれ、あるいは率溝なものであ

れ、彼の詩には、ゆがんだものにたち.むかい、その前にく

ずおれぬ、

1種の勤さがあり、それが彼を、異なる表面の

形式的な美のみを追求し、それをもてあそぶことによって、

逆にそれにふりまわされる、そうした風潮に染まりきらぬ

詩人としたのであろう。

「骨束挺茨」とまではいえぬにし

たた

たく

ても、「徒

造語に

なるのみにあらざるなり」という

何件の指摘

(前掲害)は、正しいであろう。

ころで、詩晶

の飽照に封する評に、

てきき

びまん

且泉陽

の解題を得、茂発の摩

損を含む

130

なる静がある。硯託とiうことばは、呂氏春秋

(移築篇)

にも見えるが、詩品集程の著者菓長青も指摘するごとく、

ここではむしろ荘子を思い起こすべきであろう.すなわち

荘子天下第には、荘周の人物と言動を許していう、

しんし

しか

其の節は参差たりといえども、両も働論観る可し。ヽ

郭象はこれに注を施していないが、依読なる語は、説話

とその文字をかえで、徳充符第にも見える.近人顧賞によ

れば'轡物論第に弔誼なる語あり、弔

・淑

・鱗はその石膏

通用すという

(荘子天下篇講疏)

。徳充符第では、叡山無比

とよばれる不具者が、孔子になげつけるきびしい批判のこ

とばとして、

JII.ヽ)

・I二

彼は

韻語幻怪の名をもって聞こえんことを

と見え、郭象の注、必ずしも明断ではないが、

「非常」の

語をもってこれにかえでいるようであり、晋の李頃は、こ

れに

「奇異なり」と注する。呂覚、准南子、漢書等のこれ

に類した語に施す後人の注も、この範囲を出ないようであ

る。前後勘案するに'それは、ものの平均化された表面か

らはみ出るもの、あるエネルギッシュなカをひめたもの、

西晋の詩人張協について

(1海)

に輿えられたことばのように思われる。そうして、同じく

鯉照に後人が輿えた評語

「俊逸鯉参軍」

(杜博'春日憶李白

請)の俊逸と、

その底達でつらなることばなのであろうD

とすれば、張協に封する批評としては、いささかおだやか

でないようにも思えるが、さきに詩品に封してわたくしの

もつた疑問、すなわち、錘喋の詩に封する許債が、人物評

をもいささかふくんでいるのではないかJJする疑問が、も

し容認されるならば、張協の今

は散供してわれわれの知り

えぬ詩の、あるいは言動についての資料をもち、それにも

とづいて下されたのが、似論という評語であるのかも知れ

ない。そして、そうした要素の微妙なあらわれが、上にの

べた彼の詩のもつ一種の勤い

muscleとしてわれわれに感

じとられ、それがまた播岳などの系統の詩人たちと彼の間

に、異種なものを感じさせるのではあるまいか。更にまた

それが、この詩人と淵明との親近性を肯定させる、

一つの

要素なのであろう。

第二茸

-131-

中国文革報

第七新

一、北堂苦紗は'瓦を抗につくり、昔我好典籍、下椎幕重民'吟

詠倣飴風'染軸常葉紙'とその詩をひく。欝麿書経籍志に張抗

集二名あり'唐書重文志に張抗集三毛あり'同

1人物であろ-0

二'鄭振錘

「中国文学史」第

一研'季長之

「中国文学史略稿」第

二巻。

三、晋書斜注も戚柴絹晋書を引き'地理志の記事にふれて'本俸

は郡名のみ載せたものとしている。

第三章

一'第八茸においてふれるよ-に'元の劉履の選詩補洋は、史賓

をふまえて詩をとく態度につらぬかれた書物であるが、ここで

も張協について'現在われわれの見-る資料以外は、つかわれ

ていない。

二、瓦の健に、

「秘書監苛経'瓦を挙げて佐著作都を徹せしむ」

とあり'晋書巻七十五苛累侍によれば'苛か秘書監となったの

は'三二四年

(明帝大寧二年)以後のこと'すなわち瓦はこの

頃まで生きていたことを示す。

三㌧現代の文学史家は、左恩の生卒を二.九〇?I

三〇五~とし

ている〇

四、張敏については'訊書名八十四張倖俸に'張倖--大原中都

の人'高組の敏は晋の秘書監、とあるのみで'晋書には俸がな

い.帽書経籍志に'備蓄郎張敏集二巻'としるされへ世説新語

灘調篇の割注に'張敏集頭書泰子羽を引くが'時代考讃の手が

かりとはならない。

五'御覧巻

l百四十五引晋起居注は'これを成寧三年

(二七七)

とする。

六'載には元康頚とい-作品の断片が遣っている。文選巻二十七

顔延之宋郊両歌李注引。

第四章

一'唐人で張氏兄弟の作品にふれたものはほどんどないよ-だが'

儲光覇に'孟陽題飯閣'子雲願甘泉tの句があり

(酬李虞士山

中見贈詩)'載の代表作が'詩以外の韻文であること'唐人も

そ-受祝っていたことを示す。

第五章

一、この許については'その各候にわたって論じたつもりである

が、音韻鑓鋪'すなわち'その詩はひびきのよさにおいて特に

秀れていた、とする鮎については、これを充分に分析するだけ

の同意がなく、ここではふれなかった0

第六葦

元の陳鐸骨の詩語にも'協に封する'逐句鍛錬'

辞工製率

(詩紀引)の評語がある〇

二㌧詩以外の作品にも'それは見出される。たとえば登北だ賦

(重文類窯巻七)の「人生の危博を憾む」などほ、それであろ-O

132

卒易なことばによりつつ、それは新しい空想のlつの型を示す。

人のいのちのふたしかさを、

「危漢」の語をもって表現した詩

人は、ほかにすくないよ-であり'別のジャンルにこれをもと

めれば、同時代人としては'わずかに李密の陳情表

(文選巻三

十七)に見出し-るにすぎないよ-である。

三㌧曹石の大増上蕎行に'人生居天座間'忽如飛鳥棲枯枝'なる

句あり'あるいはこれが'張協の意識の底にあったのかも知れ

ぬO

四,陸機の謄従兄革撃甜(文選撃

一十四)に、孤獣思敵襲'離鳥

悲肇林tの句あり'また古直が蹄園田居詩に荘するよ-に、滴

岳の秋興賦

(文選巻十三)の衣の句も'この際思い起しておく

必要があろ-oすなわち、曹櫓池魚寵鳥'有江湖山薮之思o古

詩十九首の'胡馬依北風'越鳥巣南枝、がこれらの襲憩の源に

なるものと思われる。

第七章

一,そ-した葉文中にも'第六葦の琴

lに示したよ-な、平易な

同語による新鮮な表現がないではないが'結論的にいえは'本

論にのべたよ-な意義しか'それらはもたぬであろう。

二,七命については'宋の葛立方の頭語陽秋に'その用語を論じ

た文章があり'ある影響を後世に興えたことが'-かがえる。

三㌧この種の論文は多いが'伊藤博氏の'黄葉集耗歌の典接をめ

ぐって

(高菜創刊競'

一九五

一年十月)によって'概親し-る。

西晋の詩人張協について

(一海)

四,わが国の聾者三浦梅園の詩轍巻六に'このことにふれての議

論があるO

五、帽書経籍志終業の項に'宋明帝撰嫌詩七十九巻等の記録があ

り'これは軍に詩集とい-ほどの意味か。

第八章

一・隠遁生活の中で'あるいは隠遁をあこがれる生活の中で'乱

れた規箕への反教として栴揚するいにしえの資人たち'それに

も二人の詩人は共通した面をもつ。そしてそれは'歯時流行の

神仙ではなく'むしろ儒家の書にあらわれる清廉の士の場合が

多い。

二,高橋和巳氏によれは'その古い用例は戸子の

「道を守り窮を

まも固れは,則ち王公を軽んず」

(文選撃

一十二謝蛋運営石門最高

頂詩李注引)まで遡れるとい-

(吉川幸次都民

「陶淵明俸」百

四頁参照)0

133