title 臨安の陸游 : 都城の孤獨 citation (2015), 86: 39 …...都城の孤獨 西 岡 淳...

19
Title 臨安の陸游 : 都城の孤獨 Author(s) 西岡, 淳 Citation 中國文學報 = JOURNAL OF CHINESE LITERATURE (2015), 86: 39-56 Issue Date 2015-10 URL https://doi.org/10.14989/241580 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

Upload: others

Post on 13-Jul-2020

0 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

  • Title 臨安の陸游 : 都城の孤獨

    Author(s) 西岡, 淳

    Citation 中國文學報 = JOURNAL OF CHINESE LITERATURE(2015), 86: 39-56

    Issue Date 2015-10

    URL https://doi.org/10.14989/241580

    Right

    Type Departmental Bulletin Paper

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • ─ 39 ─

    臨安の陸游(西岡)

    序  

     

    南宋の陸游は、その八十五歲の生涯の多くを故鄕山陰に

    在って送り、現存する詩の數にして凡そ三分の二以上がそ

    の山陰で作られたものである。また、自らの詩集に『劍南

    詩稿』(以下、『詩稿』と略す)と命名したことが象徴するよ

    うに、入蜀の旅と蜀中での體驗は彼の創作に決定的な影響

    を与えた。それらに比べれば、南宋の首府臨安において彼

    が詠じた詩は特に數が多いわけでもなく、また彼自身が都

    會を好んでいたとは思われないこともあって、「臨安に春

    雨初めて霽はる」(『詩稿』巻十七)のような一部の例外を除

    けば、廣く知られているものは比較的少ないように思われ

    る。

     

    もっとも、彼は西湖の山水など一顧だにしなかったとい

    うわけではない。「湖中、微かすかに雨ふる。戲れに作る」は

    嘉泰三年(一二〇三)の春、最後に出仕した時の作である。

    搓罷靑梅指爪香  

    靑梅を搓きり罷わりて指し爪そう香る

    一杯聊復答年光  

    一杯 

    聊か復た年光に答う

    莫言老子無人顧  

    言う莫かれ 

    老子 

    人の顧みる無

    しと

    猶得西施作淡粧  

    猶お西施の淡粧を作すを得たり

    (「湖中微雨戲作」巻五十三)

     

    このとき陸游は七十九歲、同世代の知己をほとんど失っ

    た孤獨が三句の背景にある。そして四句は蘇軾の「西湖を

    把りて西子に比せんと欲すれば、濃抹 

    淡粧 

    總て相宜

    し」(「飮湖上初晴後雨二首」その二)を用い、空濛たる西湖

    が自分のために粧ってくれることをうたう。詩人と山水と

    は、穩やかな好意によって結びついているかのようである。

     

    こうしたうたいぶりは、必ずしも陸游に初めからそなわ

    臨安の陸游

    ───都城の孤獨──

    西 

    岡   

    淳南山大学

  • 中国文学報 

    第八十六册

    ─ 40 ─

    っていたものではない。都城という場とそれを取りまくさ

    まざまな事物について、彼の態度は最初からあまり好意的

    ではなかった。彼にとって詩興が盛んに涌き出てくる場と

    いうのは、あるいは蜀であり、あるいは山陰であっただろ

    う。それに比べれば臨安での諸作には、「世味 

    年來 

    よりも薄し、誰か馬に騎って京華に客たらしめし、……素

    衣 

    風塵の歎を起こすこと莫かれ、猶お淸明に及んで家に

    歸る可けん」(「臨安に春雨初めて霽る」)というように、「都

    に滯在するあいだに深まった孤獨感」が通奏低音として響

    いているように感じられる。先に揭げた西湖の詩について

    も同斷であろう。それらを詠じた本人にとって、かかる情

    況は決して愉快なものではなかっただろうが、一方から見

    ればそうした諸作というのは、世に對する彼の認識の仕方

    を陰畫のようなかたちで語っているともいえる。また更に

    仔細に見てみると、都に在ったその時々に応じて、その認

    識自體も微妙に變化していったように見える。その軌跡を

    辿ることにより、彼の創作の在り方に關わるなにがしかを

    明らかにできるのではないかと思う。

     

    陸游が科擧に備えるため初めて都に上ったのは紹興十年

    (一一四〇)、十六歲のときであった。その後、彼は落第を

    繰り返しているから、都には何度も來ていることになるが、

    その前後の詩は少なくとも現在では遺されていない。いま

    我々が『詩稿』において確認しうる都における最初の作は、

    「李德遠寺丞の祠を奉じて臨川に歸るを送る」(巻一)で

    ある。時に陸游は三十六歲(紹興三十年)、その二年前に初

    めて出仕して主簿として赴いた福州寧德縣より都に歸り、

    勅令所刪定官に除せられていた。以後、鎭江府通判に任命

    されるまでのおよそ四年ほどを都に過ごすことになる。こ

    の間に作られた詩で現存するのは二十首(うち四首は一時的

    に歸った山陰での作)。同世代の周必大をはじめとする樣々

    な人物と知りあってやりとりした詩が多く、その中には對

    金主戰論者であった彼の主張が反映しているものも少なく

    ない。いま兄の陸濬が揚州の成閔の幕下に行くを送った

    「七兄の揚州が帥の幕に赴くを送る」を見てみよう。

  • ─ 41 ─

    臨安の陸游(西岡)

    初報邊烽照石頭  

    初めて報ず 

    邊烽 

    石頭を照らす

    旋聞胡馬集瓜州  

    旋ち聞く 

    胡馬 

    瓜州に集まるを

    諸公誰聽芻蕘策  

    諸公 

    誰か聽かん 

    芻蕘の策

    吾輩空懷畎畝憂  

    吾輩 

    空しく懷いだく 

    畎畝の憂

    急雪打窗心共碎  

    急雪 

    窗を打ちて心共に碎け

    危樓望遠涕倶流  

    危樓 

    遠きを望んで涕倶に流る

    豈知今日淮南路  

    豈に知らん 

    今日 

    淮南の路

    亂絮飛花送客舟  

    亂絮 

    飛花 

    客舟を送らんとは

    (「送七兄赴揚州帥幕」巻一)

     

    冒頭の二句は、この前年に金主完顏亮が南侵したことを

    うたう。瓜州は揚州の近く、鎭江のほぼ對岸に當たる長江

    の北岸で、このときの爭奪激戰の地。續いて、大臣たちは

    下々の者どもの策に耳を傾けようともせず、我々だけがた

    だ在野の憂いを抱くだけだった、と兄と一緒に心が碎け涙

    を流すさまが述べられる。ここでいう「諸公」的な存在に

    対する反發を終生抱き続けた陸游だが、その心象の原型を

    既に見ることができる。

     

    朝廷に職を奉ずるという狀況にある以上、この當時都に

    在って陸游の作った詩というのは、知人と酬唱した右のよ

    うな趣のものがほとんどで、風景を詠じるような作はあま

    り遺されていない。次に揭げる「閏二月二十二日、西湖に

    遊ぶ」はその例外的な一首である。

    西湖二月遊人稠  

    西湖 

    二月 

    遊人稠おおし

    鮮車快馬巷無留  

    鮮車 

    快馬 

    巷に留まる無し

    梨園樂工教坊優  

    梨園の樂工 

    教坊の優

    絲竹悲激雜淸謳  

    絲竹の悲激 

    淸謳を雜まじう

    追逐下上暮始休  

    追逐 

    下上 

    暮れて始めて休む

    外雖狂酲樂則不  

    外は狂酲すと雖も樂しむや則ち不いな

    豈如吾曹淡相求  

    豈に如しかんや 

    吾曹の淡くして相

    求むるに

    酒肴取具非預謀  

    酒肴 

    取具 

    預め謀りしに非ず

    靑梅苦筍助獻酬  

    靑梅 

    苦筍 

    獻酬を助く

    意象簡樸足鎭浮  

    意象は簡樸にして浮を鎭しずむるに足

  • 中国文学報 

    第八十六册

    ─ 42 ─

    尚慚一官自拘囚  

    尚お慚ず 

    一官 

    自ら拘囚せらる

    るを

    未免疋馬從兩騶  

    未だ免れず 

    疋馬 

    兩騶を從うる

    南山老翁亦出遊  

    南山の老翁 

    亦た出遊し

    百錢自挂竹杖頭  

    百錢 

    自ら挂かく 

    竹杖頭

    �(「閏二月二十二日遊西湖」巻一)

     

    たとえば『夢粱錄』(巻一)に二月の臨安の熱鬧が記さ

    れているが、陸游の眼にしたこの紹興三十二年(一一六

    二)春の西湖もそれに類するものであったろうか。都城の

    人々が擧ってそこに繰り出すために街なかに留まるものと

    てなく、梨園の樂師や敎坊のわざおぎ

    0

    0

    0

    0

    たちが音樂を奏で歌

    をうたう。日暮れまで止むことのないその熱狂だが、それ

    が果たして本当に樂しむということなのか、さりげない樂

    しみにしくはないのではないか、と彼はつぶやく。事々し

    く酒宴の支度などせずとも、梅や筍さえあれば杯のやりと

    りは進むもので、思いを簡樸に保てば浮薄に及ぶこともな

    い。そうは言っても玉牒所での務めがある彼は、騎馬のう

    えに二人の從者をしたがえて西湖に来ていた。最後の二句

    は、外を歩くときに百錢を杖の先に掛け、酒屋で獨り氣ま

    まに酒を樂しんだ晉の阮脩の故事。この老翁が現實に眼の

    前を歩いていたのかどうかは分からないが、馬上にあった

    詩人がここで彼を羨望の對象として詠じていることは間違

    いない。自らは簡樸を旨として、都城の繁華や權勢に距離

    を置く態度が見られる例として、ここではこの作に注目し

    ておきたい。

     

    孝宗が卽位した隆興元年(一一六三)、三十九歲の陸游は

    山陰に帰り、鎭江府通判、隆興府通判を經て再び山陰に歸

    った後、四十六歲の時に蜀へ向かう。

     

    臨安における作が次に見えるのは淳煕十三年(一一八六)、

    權知嚴州に任ぜられて都に召された時のことで、陸游は六

    十二歲になっていた。このときは一時的な滯在で、時間に

    してわずかひと春を過ごしただけであった。それでもその

    間には前述の「臨安に春雨初めて霽る」が作られており、

  • ─ 43 ─

    臨安の陸游(西岡)

    また楊萬里と知り合って非常に印象的な交わりをしてもい

    る。遺された詩は十首と少ないが、次に揭げる「夜、西湖

    に泛び、桑そう甥せい世せい昌しょうに示す」には、都に対する當時の陸游

    の見方がかなりはっきりと表れている。

      

    嗟我客上都  

    嗟ああ 

    我れ上都に客たり

      

    忽已見暮春  

    忽ち已に暮春を見る

      

    騎馬出闇門  

    馬に騎のりて闇あん門もんを出づれば

      

    眯眼吹紅塵  

    眼を眯べいして紅塵吹く

      

    西湖商賈區  

    西湖 

    商賈の區

      

    山僧多市人  

    山僧 

    市人多し

      

    誰令汚泉石  

    誰か泉石を汚さしむ

      

    只合加冠巾  

    只だ合まさに冠巾を加うべし

      

    黄冠更可憎  

    黄冠 

    更に憎む可し

      

    狀與屠沽鄰  

    狀は屠と沽こと鄰となりす

      

    齁齁酒肉氣  

    齁こう齁こうたり 

    酒肉の氣

      

    吾輩何由親  

    吾輩 

    何に由りてか親しまん

      

    少須一鬨散  

    少しょう須しゅにして一いっ鬨こう散じ

      

    境寂鷗自馴  

    境 

    寂として鷗は自

    おのずか

    ら馴なる

      

    擧手邀素月  

    手を擧げて素月を邀え

      

    移舟采靑蘋  

    舟を移して靑蘋を采る

      

    鐘從南山來  

    鐘は南山從より來たり

      

    殷殷浮煙津  

    殷殷として煙津に浮かぶ

      

    鶴髪隱者歟  

    鶴髪の隱者か

      

    長歌収釣緡  

    長歌 

    釣ちょう緡びんを収む

      

    畏冷不竟夕  

    冷ややかなるを畏れて夕を竟おえず

      

    恨此老病身  

    此の老病の身を恨む

      

    明發復擾擾  

    明發 

    復た擾擾たらば

      

    吾詩其絶麟  

    吾が詩 

    其れ麟に絶たん

    (「夜泛西湖示桑甥世昌」巻十七)

     

    都に客となったかと思えば過ぎゆく春、西の城門を出る

    と街のほこりが眼に入る。西湖は俗化して商賣人たちが集

    まり、山寺の坊主たちも商人と変わらない(この當時の寺

    院が實際に「長生庫」と稱する質屋を營んでいたことが『老學庵

    筆記』巻六に見える)。いっそのこと還俗させてしまえばよ

    いのであり、これでは佳き山水も台無しだ。道士たちは更

    にひどく、そのなり

    0

    0

    は肉屋や酒屋と同じ。酒肉の臭味を振

  • 中国文学報 

    第八十六册

    ─ 44 ─

    りまく彼らには全く近づく氣にもなれない。闇門は臨安の

    西の城門の名。「冠巾を加う」は、韓愈「僧澄観を送る」

    詩に「風に向かって長嘆 

    見る可からず、我れ收斂して冠

    巾を加えんと欲す」と見える。俗化した僧侶や道士に対す

    る陸游の嫌惡感がストレートに傳わってくる前半部だが、

    二句にすでに「眼を眯して紅塵吹く」というように、彼は

    殷賑をきわめる都城の雰圍氣自體を嫌っていたこと、二十

    數年前に「閏二月二十二日、西湖に遊ぶ」を詠じた時と同

    趣である。

     

    だが、しばらくすると喧騷もおさまり、あたりはひっそ

    りして水際の鷗も自ずと逃げなくなった。月明かりのもと

    で青うき蘋くさを摘む舟、南山から聞こえてくる鐘の音がもや

    0

    0

    の立

    ちこめる渡しに響く。歌いながら釣り糸を收めるのは白髪

    の隱者だろうか。自分は老病の身ゆえ、春の夜寒にいつま

    でも佇んでいられないのが殘念だ。だが一夜明けて再びあ

    の喧騷が戻ったならば、私は詩筆を折るだろう。この些か

    大仰な結末から推察できるように、後半に述べられるこう

    した世界にこそ陸游は詩興を感じている。それは「擧手」、

    「移舟」の二句が、李白「月下獨酌」や、『詩經』召南

    「采蘋」を連想させることからも明らかである。むろん商

    賈らの住まう世界はそれとは対蹠的な場に位置していた。

     

    次に揭げる「小舟にて御園を過よぎる」(二首その一)は、臨

    安の御園を詠じたものである。

      

    聖主憂民罷露臺  

    聖主 

    民を憂えて露臺を罷む

      

    春風別苑晝常開  

    春風 

    別苑 

    晝 

    常に開く

      

    盡除曼衍魚龍戲  

    盡ことごと

    く除く 

    曼まん衍えん魚きょ龍りょうの戲

      

    不禁芻蕘雉兔來  

    禁ぜず 

    芻すう蕘じょう雉ち兔との來たるを

      

    水鳥避人横翠靄  

    水鳥 

    人を避けて翠靄に横たわり

      

    宮花經雨委蒼苔  

    宮花 

    雨を經て蒼苔に委おつ

      

    殘年自喜身強健  

    殘年 

    自ら喜ぶ 

    身の強健なるを

      

    又作淸都夢一回  

    又た作す 

    淸都の夢一回

    (「小舟過御園」巻一七)

     

    露臺は露天の眺望臺。漢の文帝が百金を要するゆえにそ

    の造營を中止したこと(『史記』孝文本紀)から、天子の儉

    約を意味する。曼衍と魚龍はいずれも百戲の類(『漢書』西

    域伝)で、芻蕘と雉兔は草刈り・木こりや獵師(『孟子』梁

  • ─ 45 ─

    臨安の陸游(西岡)

    恵王下)。淸都は天帝の居る都。天子は民草を憂えて露臺

    の造營をおやめになり、晝は御園を開放される。遊藝の類

    は差し止めになさって、下々の者の自由な出入りをお許し

    になった。末尾に「自ら喜ぶ」といい、また「淸都の夢」

    という表現で結んでいることから讀み取れるように、陸游

    にとって一義的に重要なのは、天子が芻蕘雉兔の民を慈し

    むといった構圖であった。ここでいう曼衍魚龍の遊藝の類、

    ひいては都城における商業活動やその周邊のことどもなど

    は、彼にはいわば夾雜物的な存在として認識されていたよ

    うに思える。巨大な人口を擁する大都市の繁華のなかで、

    そうしたいわば素朴な尚古主義がどれだけ顧みらることが

    あったかは疑問だが。

     

    短期間の滯在を終えた陸游は嚴州への赴任を前にいった

    ん山陰に帰る。「眞珠園にて雨中に作る」は、都での今回

    最後の作である。眞珠園は張俊の庭園で、雷峰の北にあっ

    た。眞珠の名はその地に涌いた眞珠泉に因むという。

      

    淸晨得小雨  

    淸晨 

    小雨を得

      

    憑閣意欣然  

    閣に憑りて意は欣然たり

      

    一掃羣兒跡  

    一掃す 

    羣兒の跡

      

    稍稀遊女船  

    稍ようやく稀まれなり 

    遊女の船

      

    煙波蘸山脚  

    煙波 

    山脚を蘸ひたし

      

    濕翠到闌邊  

    濕翠 

    闌邊に到る

      

    坐誦空濛句  

    坐そぞろに誦す 

    空濛の句

      

    予懷玉局仙  

    予 

    玉局の仙を懷う

    (「眞珠園雨中作」巻一七)

     

    最後の二句は蘇軾に關わる。空濛の句は「水光 

    瀲灩と

    して 

    晴れて方に好し、山色 

    空濛として 

    雨も亦た奇な

    り」(「飮湖上初晴後雨二首」その二)の、雨景を詠じた後の

    句。玉局の仙は晩年に提擧成都府玉局觀となった蘇軾のこ

    と。ここで陸游はその人を慕いつつ雨中の風景を靜かに樂

    しんでいるのだが、それも騷がしい小人らが姿を消し、行

    樂の女たちの船が見えなくなってからのことである。この

    詩が先の「夜、西湖に泛び、桑甥世昌に示す」の後半と結

    構を同じくすることに注意すべきだろう。古くから風光明

    媚をうたわれた杭州の山水それ自体を陸游が好まなかった

    わけではなく、彼がそれを愛でるためには除かねばならぬ

  • 中国文学報 

    第八十六册

    ─ 46 ─

    ものが存在したのである。

     

    淳煕十五年(一一八八)、六十四歲の陸游は知嚴州の任を

    終えて山陰に帰ったが、この歲の冬には軍器少監に任じら

    れて都に到った。前章のような一時的な滯在を除けば、二

    十七年ぶりに都に居住したことになる。その間の都の變貌

    ぶりについての感慨が、「都に還る」に述べられている。

      

    平生薄名宦  

    平生 

    名・宦に薄し

      

    所願得早休  

    願う所 

    早すみやかに休むを得ん

      

    奔走三十年  

    奔走す 

    三十年

      

    鏡中霜鬢秋  

    鏡中 

    霜鬢 

    秋なり

      

    歸踏長安道  

    歸りて長安の道を踏む

      

    恍然皆舊遊  

    恍然 

    皆な舊遊たり

      

    處處見題名  

    處處 

    題名を見る

      

    始驚歳月遒  

    始めて驚く 

    歳月の遒せまるを

      

    西湖隔城門  

    西湖 

    城門を隔て

      

    放浪輸白鷗  

    放浪 

    白鷗に輸いたす

      

    當時見種柳  

    當時 

    柳を種ううるを見る

      

    已足繫巨舟  

    已に巨舟を繫ぐに足れり

      

    挂冠當自決  

    挂冠 

    當に自ら決すべし

      

    安用從人謀  

    安くんぞ人の謀るに從うを用いん

      

    勿以有限身  

    有限の身を以て

      

    常供無盡愁  

    常に無盡の愁いに供する勿かれ

    (「還都」巻二十)

     

    『老學庵筆記』(巻一)に、久しぶりに都に職を奉じた

    この時の感慨を記したと思しい一節があり、「予 

    國を去

    って二十七年にして復た來たり、周丞相子し充じゅう一人自より外、

    皆な復た舊人無し。吏胥と雖も復た無し。惟だ賣卜の洞微

    山人のみ恙亡なく、亦た甚だしくは老いず、舊を話して愴然

    たり」と、周必大以外に旧知がほとんど居なくなっていた

    ことを歎いている。詩の冒頭に「三十年」とあるのは、お

    そらくこの「二十七年」のことをいうであろう。老いて再

    び都の道を踏む彼の眼には、以前に遊んで名を題した懷か

    しい場所が次々と現れては過ぎてゆく。そしてそれまでの

    長い「放浪」について、西湖の鷗に傳える彼の前には、そ

  • ─ 47 ─

    臨安の陸游(西岡)

    のむかし湖畔に植えられるのを見た柳の木が、大船を繫げ

    るほどに成長した姿があった。最後には老境を迎えて過ぎ

    去った歲月を思い、一刻も早く歸鄕したい旨が再び述べら

    れる。

     

    これと同趣の悲嘆を詩の中でしばしば繰り返しながら、

    凡そ一年のあいだ彼は都にとどまる。今に遺る作はすべて

    四十一首と決して多くはないのだが、そのなかには從前の

    作には見られなかった趣を感じさせるものも見られる。當

    時の彼の寓居は城内北部の甎せん街がい巷こうという一角にあった。次

    に揭げる「夜歸」は、その住まいに歸ったときのことを詠

    じたものである。

      

    飮酒不盡觴  

    酒を飮んで觴を盡つくさず

      

    觀棋不竟局  

    棋を觀て局を竟えず

      

    索馬踏街鼓  

    馬を索とりて街鼓を踏み

      

    仰視月挂木  

    仰ぎて月の木に挂かくるを視る

      

    疾馳沿河堤  

    疾馳す 

    沿河の堤

      

    不記幾坊曲  

    記せず 

    幾いく坊ぼう曲きょくなるかを

      

    到家四鄰寂  

    家に到れば四鄰寂せきたり

      

    往往睡已熟  

    往往 

    睡ること已に熟す

      

    天香餘裊裊  

    天香 

    裊じょう裊じょうたるを餘あまし

      

    佛燈猶煜煜  

    佛燈 

    猶お煜いく煜いくたり

      

    中庭雖一席  

    中庭 

    一席たりと雖も

      

    緩步意亦足  

    步を緩ゆるくせば意も亦た足れり

      

    寒犬吠荊籬  

    寒犬 

    荊籬に吠え

      

    棲鵲起叢竹  

    棲鵲 

    叢竹より起たつ

      

    市聲從北來  

    市聲 

    北從より來たり

      

    始覺非林谷  

    始めて覺ゆ 

    林谷に非ざるを

      

    却尋西窗書  

    却って西窗の書を尋ね

      

    開巻剪殘燭  

    巻を開いて殘燭を剪きる

      

    官閑居更遠  

    官は閑にして居は更に遠し

      

    一笑謝羈束  

    一笑 

    羈束を謝す

    (「夜歸」巻二十)

     

    酒も碁も最後までは付きあわず、街鼓が夜を告げるなか、

    馬に乘って月を見上げつつ歸路につく詩人は、幾つの街坊

    を過ぎたとも覺えず、河沿いの堤に馬を馳せる。歸り着い

    た頃には近所中がすでに寢靜まっていた。「天香」の句は

  • 中国文学報 

    第八十六册

    ─ 48 ─

    寺院で仏に手向けられた香の殘り香をうたい、視覺に訴え

    る次の「佛燈」の句と相まって夜の靜けさを際立たせる。

    手狹な庭だがゆったりと步を進めれば、犬は籬に吠え鵲が

    竹叢に飛びたつ。北方から街のざわめきが聞こえてきては

    じめて、いま自分が山谷に身を置いているのではないこと

    に氣づいた。まだ休まずに燈火の下で讀書するひととき、

    官に在りながら束縛されぬ者の愉しみがあった。

     

    都での暮らしにも心安らぐ時がないわけではなかったの

    だが、それは彼が一人になって靜まった夜の街なかを家路

    に就き、「林谷」に在るかの如き心境を得てのことであっ

    た。この詩はそうした孤独感を基調とし、鋭敏な感覺を以

    て靜寂に沈む夜の都會をえがいた印象的な作である。この

    ころ公の場において、河洛を回復すべく兵事に備えんこと

    を盛んに上書していたという姿勢に比すれば、或る意味で

    は對照的な述懷である。

     

    「夜歸」が作られたのが淳煕十五年の冬、明けて十六年

    の春にも同趣の作「夜、甎街巷に歸る。事を書す」がある。

      

    近坊燈火如晝明  

    近坊 

    燈火 

    晝の如く明らかなり

      

    十里東風吹市聲  

    十里 

    東風 

    市聲を吹く

      

    遠坊寂寂門盡閉  

    遠坊 

    寂寂 

    門盡

    ことごと

    く閉ず

      

    只有煙月無人行  

    只だ煙月有りて人の行く無く

      

    誰家小樓歌惱儂  

    誰が家の小樓にか惱のう儂のうを歌う

      

    餘響縹緲縈簾櫳  

    餘響 

    縹緲 

    簾れん櫳ろうを縈めぐる

      

    苦心自古乏眞賞  

    苦心 

    古いにしえ

    自より眞賞に乏し

      

    此恨略與吾曹同  

    此の恨み 

    略ほぼ吾曹と同じ

      

    歸来空齋臥淒冷  

    歸来 

    空齋 

    淒冷に臥す

      

    燈前病骨巉巉影  

    燈前 

    病骨 

    巉ざん巉ざんたる影

    獨吟古調遣誰聽  

    獨り古調を吟ずるも誰をして聽か

    しめん

      

    聊與梅花分夜永  

    聊いささか梅花と夜永を分かつ

    (「夜歸塼街巷書事」巻二十一)

     

    甎街巷は臨安の一街坊である保和坊の俗稱で、都城の中

    心からはやや離れた所に位置した。ここにいう近坊、すな

    わち都の中心に近い街では、夜も燈火が眞晝のように明る

    く、春風が十里にわたって市場の賑やかな聲を運んでくる

    が、住まいのある邊り、すなわち遠坊まで歸って來ると、

  • ─ 49 ─

    臨安の陸游(西岡)

    月の明かりだけが頼りで人の姿もなく、家々は門を閉ざし

    て靜まりかえっている。ふと何處かの樓臺から聞こえてく

    る「惱儂」の歌、そのかすかな餘韻が途切れることなく續

    く。歌い手はさぞかし心を苦くだいて歌うのだろうが、それを

    眞に解して賞美してくれる者の少ないのは昔からのこと、

    その恨みは我々と同じことだ、と彼はうたう。「惱儂」は

    詳しくは分からないが、當時うたわれていた俗謠の類だろ

    うか。ここでは陸游はその歌聲を「餘響 

    縹渺 

    簾櫳を縈

    る」と好意的に評している。

     

    誰もいない書齋に戻って冷たい寢床に橫になると、燈の

    前には病んだ身體のとがった影がさす。ひとり古調の詩を

    吟じても聽かせる相手がいるわけもなく、とりあえずは梅

    花とともに永い夜を分かちあうしかないのだった。孤獨に

    「古調を吟ず」る陸游自身が、先の「惱儂を歌う」者に重

    ねられることは言うまでもないが、「古調」という言い方

    にも、彼の自らの詩に対する認識が垣間みえる。彼の「素

    朴な尚古主義」については先に言及したが、作詩について

    もそれに類した傾向は窺えるのであって、たとえ時流に沿

    わなくとも、彼自身はそれを「正統のもの」と自認してい

    たのであろう。かくして嚴寒に耐えて開く梅花と、夜の永

    きを分かつ他はない詩人であった。

     

    以上の二首は、いずれも夜の街の靜けさと、大都市の只

    中にひとり在る孤獨な感覺を基調としており、陸游はそう

    した情況を自分の生の在り方と重ね、内省的に捉え直して

    詠ずる。そこには老境に入った詩人の思考の深まりと独特

    の苦みとが感じられる。「夜歸」を詠ずる詩は宋人の作に

    散見するが、こうした詩境は他に類を見ないようである。

    大まかに言ってこの當時の都市における詩作というのは、

    作り手が周圍の人々との間に共有する唱和の場を背景とし

    て成立することが多い。もちろん陸游にもかかる場がなか

    ったわけではないけれども、少なくとも右に擧げたような

    作はそうした類のものとは趣を異にしている。それらは周

    圍との奈何ともしがたい隔絶を感じつつ、その自分自身を

    凝視し形象する者ならではの境地を有するように思う。

     

    この歲の冬、諫議大夫何か澹たんの弾劾を受けた陸游は再び山

    陰に帰る。翌年には、その際の問責の語を逆手にとって、

  • 中国文学報 

    第八十六册

    ─ 50 ─

    故鄕の小軒に風月の名を冠する。

     

    嘉泰二年(一二〇二)五月、實錄院同修撰兼同修國史に

    任じられた陸游は再び都に上り、凡そ一年にわたって實錄

    編纂等の務めに当たる。既に七十八歲となっていた彼にと

    って、これが最後の出仕になった。新たに開かれた史局に

    奉職することとなったこの時の思いが、「開局」に述べら

    れている。

      

    八十年光敢自期  

    八十の年光 

    敢えて自ら期せんや

      

    鏡中久已髪成絲  

    鏡中 

    久しく已に髪は絲と成る

      

    誰令歸踏京塵路  

    誰か歸りて京塵の路を踏ましめし

      

    又見新開史局時  

    又た見る 

    新たに史局を開くの時

    舊吏僅存多不識  

    舊吏 

    僅わずかに存するも多くは識しら

    殘編重對只成悲  

    殘編 

    重ねて對すれば只だ悲しみ

    を成すのみ

    免朝愈覺君恩厚  

    朝ちょうを免ぜられて愈いよ覺ゆ 

    恩の厚きを

    閑看中庭木影移  

    閑に看る 

    中庭に木影の移るを

    (「開局」巻五一)

     

    「誰か馬に騎って京華に客たらしめし」(「臨安に春雨初

    めて霽る」)と詠じたのは十六年前だが、今度もここに同樣

    の心境が述べられる。自注に「予 

    三たび史官と作なる。皆

    な初めて開局せらる」とあり、陸游は紹興三十二年に編類

    聖政所檢討官、淳煕十六年に實錄院檢討官に任じられてい

    るから、仕事場として慣れ親しんだ場ではあったが、今回

    は作中に言うが如く知己が在るわけでもない。高齡により

    朝礼を免ぜられた彼は、日の昇るに從って移りゆく中庭の

    木々の影をのんびりと眺めやる。

     

    これを始めとして、このとき都で作られた詩は凡そ二百

    十首。この數は一見すれば多いようだが、晩年の彼の創作

    ペースからみれば、一年間としては目立って少ない。やは

    り彼にとって都會は詩料に富む場所ではなかったのであろ

    う。作中で歸鄕への思いに言及するものが多いのも自然な

    ことのように思われる。この詩にあるように同年代の知人

  • ─ 51 ─

    臨安の陸游(西岡)

    も少なく、「晩窗 

    又た聽く 

    蕭蕭たる雨、一點の昏燈 

    相對して愁う」(「秋雨」巻五一)、「徑ただちに東窗に就きて臥

    す、孤燈 

    愁いを話わせんと欲す」(「東城に出で、江に竝そいて

    帰る」巻五二)など、孤獨な心境をうたった作が多く見ら

    れる。

     

    そうしたなか、臨安の山水をうたう作には、從前に比べ

    て微妙な變化がみられる。

      

    靈隱前 

    天竺後  

    靈れい隱いんの前 

    天てん竺じくの後

      

    鬼削神剜作巖岫  

    鬼削けずり神剜えぐりて巖がん岫しゅうを作る

      

    冷泉亭中一尊酒  

    冷れい泉せん亭てい中 

    一尊の酒

      

    一日可敵千年壽  

    一日 

    敵す可べし 

    千年の壽

      

    淸明後 

    上巳前  

    淸明の後 

    上巳の前

      

    千紅百紫爭妖姸  

    千紅 

    百紫 

    妖姸を爭う

      

    鼕鼕鼓聲鞠場邊  

    鼕とう鼕とうたる鼓聲 

    鞠場の邊

      

    鞦韆一蹴如登仙  

    鞦韆 

    一蹴して登仙するが如し

    人生得意須年少  

    人生 

    意を得るは須らく年少わかかる

    べし

      

    白髪龍鍾空自笑  

    白髪 

    龍鍾 

    空しく自ら笑う

      

    君不見      

    君見ずや    

      

    灞亭耐事故將軍  

    灞は亭てい 

    事に耐うる故將軍

      

    醉尉怒訶如不聞  

    醉尉 

    怒ど訶かするも聞かざるが如し

    (「西湖春遊」巻五三)

     

    蘇軾の詩に「靈隱の前、天竺の後、兩澗の春淙 

    一靈

    鷲」とあるように、冒頭は靈隱・天竺兩寺の間を流れる溪

    谷の奇觀をいう。更に冷泉亭での飮酒に続いて、春の花々

    や遊びの様子が華やかに繰り廣げられる。もっともそれら

    を目の前にした陸游は、老いた我が身を自嘲するばかりで

    はあったが。最後の二句は、「故もとの李將軍」すなわち漢の

    李廣が、霸(灞)陵の亭で醉った當地の尉に呵止された故

    事を用いる。陸游はしばしば自らを「耐事」(困苦に耐えら

    れる)の者と形容しており、ここでも李廣が屈辱を耐え忍

    んだことに因み、物事を輕く受け流せるほどに老いた自分

    を、やはり自嘲氣味にうたうのであろう。つまりは咲きほ

    こる花々や春の遊びに興ずる若者たちを前に、詩人はそれ

    らとの隔絶感を述べるわけだが、しかし以前の作に見られ

    た、都會の熱鬧に対する嫌惡感のような感情は、ここには

  • 中国文学報 

    第八十六册

    ─ 52 ─

    うたわれない。というよりも、話題にのぼせないという方

    が正確なのかもしれない。

     

    「兒輩と舟を泛かべて西湖に遊ぶ。一日の間、晴陰屢しばし

    ば易かわる」も、同じく西湖に遊ぶを詠じた作である。

    逢著園林卽款扉  

    園林に逢ほう著ちゃくすれば卽ち扉を款たたく

    酌泉鬻筍欲忘歸  

    泉を酌み筍を鬻にて歸るを忘れんと

    欲す

    楊花正與人爭路  

    楊花 

    正に人と路を爭い

    鳩語還催雨點衣  

    鳩語 

    還た雨を催うながして衣に點てんぜ

    しむ

    古寺題名那復在  

    古寺 

    名を題せしは那ぞ復た在ら

    後生識面自應稀  

    後生 

    面おもてを識しるは自おのずか

    ら應まさに稀まれ

    なるべし

      

    傷心六十餘年事  

    傷心す 

    六十餘年の事

      

    雙塔依然在翠微  

    雙塔 

    依然として翠微に在り

    (「與兒輩泛舟遊西湖一日間晴陰屢易」巻五三)

     

    園林に出會うと門扉をたたいて入れてもらい、泉を酌み

    筍を煮て宴を開く。柳絮が街路を飛ぶのは晴れ、鳩が雨を

    知らせるのは曇りの風景。その昔、古寺の壁に名を書き付

    けた跡は今はもうない。自分の顔を見知っている年若い人

    もほとんどいないだろう。この六十年餘りを思うと心が傷

    む。雙つの塔は昔と変わらず山腹に立っているのに。

     

    前述したように、陸游が受験のため初めて都に上ったの

    が六十三年前であった。別の詩で「都人百万 

    今誰か在る、

    惟だ西湖の昔年に似たる有るのみ」(「出涌金門」巻五三)と

    述懷するように、すでに舊知の多くを失った陸游にとって、

    都の山水には以前と變わらずに在るものとしての意味があ

    った。それは愛でるべき對象であると同時に、悲哀の念を

    伴ってうたわれる來し方にも通じていた。このとき都の巷

    間に彼の嫌惡した喧騷や俗臭が無かったはずはないが、彼

    はもはやそうした物事に作中で言及することはない。「張

    園に遊ぶ」(巻五二)、「乍ち晴れて出遊す」(同)、「立春後

    十二日、駕を命じて郊外に至り、戲れに目に觸るるを書

    す」(同)など、この期間には都城内外に遊んだおりの作

    が多いが、そのいずれもが穩やかな抒情を以て淡々とうた

  • ─ 53 ─

    臨安の陸游(西岡)

    われている。老いとともに彼の孤獨感は深まったかもしれ

    ないが、その一方で、何かに對する嫌惡を露わにするよう

    な感情からは自由になったかのような印象を、それらの諸

    作からは受ける。

     

    彼が都で七十九歲を迎えたときの「新年七十有九」は、

    こたびの出仕を總括したかの如き觀がある。

      

    中歲抱沈緜  

    中歳 

    沈緜を抱く

      

    詎敢望七十  

    詎なんぞ敢えて七十を望まんや

      

    造物偶脱遺  

    造物 

    偶たま脱だつ遺いし

      

    俯仰耄已及  

    俯仰 

    耄ぼう 

    已に及ぶ

      

    寧知辱弓旌  

    寧くんぞ知らん 

    弓旌を辱

    かたじけな

    くして

      

    扶憊去鄕邑  

    憊はいを扶たすけて鄕邑を去らんとは

      

    受恩不知報  

    受恩 

    報ゆるを知らず

      

    懷抱空怏悒  

    懷抱 

    空しく怏おう悒ゆうたり

      

    天門邈難窺  

    天門 

    邈はるかにして窺うこと難く

      

    地芥亦嬾拾  

    地芥 

    亦た拾うに嬾ものうし

      

    隨身一詩囊  

    身に一詩囊を隨え

      

    副以兩藥笈  

    副そうるに兩藥笈を以てす

      

    何當復得謝  

    何いつか當まさに復た謝するを得て

      

    浩蕩脱維縶  

    浩蕩 

    維いち縶ゆうを脱すべき

      

    擘浪畫楫飛  

    浪を擘さきて畫が楫しゅう飛び

      

    穿雲青鞵溼  

    雲を穿ちて青せい鞵あい溼うるおう

      

    餘年尚有幾  

    餘年 

    尚お幾いくばくか有る

      

    登覽當汲汲  

    登覽 

    當まさに汲汲たるべし

      

    狂吟題寺廊  

    狂吟 

    寺廊に題し

      

    大筆蘸墨汁  

    大筆 

    墨汁に蘸ひたさん

    (「新年七十有九」巻五三)

     

    地芥は『漢書』夏侯勝伝に「士は經術に明らかならざる

    を病む。經術 

    苟くも明らかなれば、其れ靑紫を取ること、

    俛うつむきて地芥を拾うが如きのみ」と見える語。老殘の身で

    招聘に與った陸游だが、高官の位を望む氣などさらさらな

    い。この詩が作られた時點で致仕が決まっていたわけでは

    ないけれども、すでに彼の思いは羈束を脱して故鄕に歸り、

    或いは舟を浮かべ、或いは山を歩いていた。思いのままに

    狂吟して詩筆を揮うその姿を見れば、詩人としての陸游に

    とっては、やはり故鄕こそ詩作にふさわしい場であったの

  • 中国文学報 

    第八十六册

    ─ 54 ─

    だろう。

    結  

     

    いま見ることのできる陸游の臨安における作から、着目

    すべきと思われるものを選んでその變遷をたどってきた。

    古來、その地の風光明媚をうたった詩人は多く、またそこ

    ではさまざまな人々の華やかな交遊や詩の唱和が行われて

    きたけれども、陸游の場合は必ずしも簡單にそうとは言え

    ない。出仕と辭職を繰り返し、また周圍と軋轢を生ずるこ

    とも少なくなかったという個人の事情もあろうが、都にお

    ける彼の詩作には、何らかのかたちで孤獨や寂寥感が關わ

    っていることが多い。それは、世間と離れて在ることを自

    己の存在の前提とするような意識が彼にはある以上、むし

    ろ自然なことなのかもしれない。

     

    嘉泰三年(一二〇三)、都に在って致仕を認められた直後

    に、彼は「感寓」と題する詩を二首作っている。以下はそ

    の一首である。

      

    老氏有至言  

    老氏 

    至し言げん有り

      

    所貴知我稀  

    貴たつとぶ所は我を知るものの稀まれなるなり

      

    鄙夫急自衒  

    鄙ひ夫ふ 

    自ら衒げんするに急に

      

    豈復擇所歸  

    豈に復た歸する所を擇ばんや

      

    君看珠在淵  

    君看みよ 

    珠 

    淵に在りて

      

    草木借光輝  

    草木 

    光輝を借る

      

    所以古達人  

    所ゆ以えに 

    古の達人は

      

    懷玉被褐衣  

    玉を懷いだいて褐かつ衣いを被きる

      

    吾廬大澤中  

    吾が廬は大澤の中

      

    歲苦水半扉  

    歲としどしに水の扉に半なかばするに苦しむ

      

    朱門固自好  

    朱門 

    固より自

    おのずか

    ら好し

      

    我亦未必非  

    我も亦た未だ必ずしも非ならず

    (「感寓」二首その二 

    巻五三)

     

    冒頭および八句「玉を懷いて褐衣を被る」は、『老子』

    第七十章の「我を知る者希まれなれば、則ち我は貴し。是ここを以

    て聖人は、褐を被て玉を懷く」に拠る。毎年のように水が

    つく茅屋に人知れず住む自分も、珠玉の如きものを胸に抱

    いているとの謂であろう。最後に見える朱門とは、陸游の

    粗末ないおり

    0

    0

    0

    に対しての大邸宅をいうのだろうが、思辨性

  • ─ 55 ─

    臨安の陸游(西岡)

    の强いこの詩の在り方から推せば、富貴や高位、ひいては

    朝市といったものに一般化できなくもない。そして、それ

    はそれで好いけれども、私の在り方もまた間違いではない、

    と語る七十九歳の詩人の語には、そうした生き方を擇んだ

    者の覺悟と、外物に對する一種の達觀めいた態度とがみて

    とれる。

     

    唐の陸龜蒙を慕って「笠澤漁隱」と號した陸游だが、そ

    の陸龜蒙の田地もこの詩にいう「吾が廬」と同じく低濕地

    にあり、長雨が續くと江水とつながって水浸しになったと

    いう。故に彼は自ら農具を持って野良に出る毎日であった。

    それを譏る者に對しては、「堯舜や禹といった聖人でさえ

    自ら身を勞した。凡人である自分が勤めずにおられるか」

    と答えたという(『新唐書』陸龜蒙傳)。臨安の寓居の燈火の

    もと、洪水を治めんとした堯や八卦を作った包犧を思い、

    浮文異學を斥けて、「燈を挑かかぐ 

    北窗の下、聊か吾が初を

    遂ぐるを得たり」(「書房雜詠」巻五三)と詠じた陸游の胸中

    にも、この敬慕する先人の姿があったであろう。

     

    彼の志向したかかる生き方は、たとえば當時のいわゆる

    對金主戦論者として政治的な主張をしたことと一見對照的

    なようだが、その實たがいに矛盾することではない。とい

    うよりも、両者はむしろ地續きのものであると見るべきで

    あろう。本稿に關わることでいえば、彼が最後に朝廷に起

    用されたのは、その主張によって要路の者の牽引するとこ

    ろとなったからであった。だが、確かに彼は靑年時より憂

    國の詩を少なからず詠じているけれども、その種の主張が

    社會に受け容れられることに現實味がないことは分かって

    いたし、そうした自分の無力さも自覺していた。右の「感

    寓」において自らを理解する者の不在をいう「貴ぶ所は我

    を知るものの稀なるなり」の句は、そうした彼の世に対す

    る不信とも言うべき心象に通ずるところがある。その一方

    で、彼がその現実社會との接點を最も多く持たざるを得な

    かったのは、やはり都に暮らした時であったことは想像に

    難くない。彼が都について詠ずるときの口吻に、外界に對

    する違和感が感じられることが多いのはそれが一因と思え

    る。既に述べたように、特に若い頃の彼にとって都城の賑

    わいは相容れないものであったようだが、晩年に近づくに

  • 中国文学報 

    第八十六册

    ─ 56 ─

    つれてそうした感情を露わにすることは少なくなる。それ

    は或いは彼が外界に対して寛容になったということを意味

    するのかもしれないが、いずれにせよ、その意に染まぬ街

    なかで作られた諸作が、いわゆる愛國詩や田園詩など、人

    口に膾炙した彼の作品群とはまた別種の趣を湛えているこ

    とは事実であるし、世間からは孤立することの多かった詩

    人の心象とその変化を、それらが獨特のかたちで我々に示

    してくれることもまた認められてよいように思う。

    註① 

    小川環樹『陸游』「靜思・黙想・雨」(『小川環樹著作集』

    第三巻三二三頁)

    ② 『世説新語』任誕篇および『晉書』阮脩伝。

    ③ 

    拙稿「楊誠齋の放翁觀──酬唱詩とその周邊──」(『南山

    大學日本文化学科 

    論集』創刊號 

    二〇〇一)を參照。

    ④ 『韓昌黎集』巻七

    ⑤ 『咸淳臨安志』巻八六

    ⑥ 「跋松陵集」(『渭南文集』巻一七)に「淳煕十六年四月二

    十六日、……時寓甎街巷街南小宅之南樓」とある。

    ⑦ 

    于北山『陸游年譜』三二六頁に指摘がある。

    ⑧ 『咸淳臨安志』巻一九

    ⑨ 

    錢仲聯『劍南詩稿校注』は、『楽府詩集』巻四六に引く

    『古今樂録』を引いて「惱儂」を「儂惱」の誤りとするが、

    劉宰「用韻索清娥丸」詩(『全宋詩』巻二八〇六)に「病餘

    不賦惱儂歌、活計江湖一釣蓑」の例がある。

    ⑩ 『列子』湯問篇に、歌の名手である韓娥の歌聲について

    「既に去れども、餘音 

    梁欐を繞りて三日絶えず。左右 

    の人去らずと以おもえり」という。

    ⑪ 

    陸游に「冩懷・書憤・感事……」など、「詠懷」に類する

    題の作が多いことについては、趙翼『甌北詩話』巻六に指摘

    がある。また、彼が同時代の人々に比べて古題の樂府を多く

    作ることについては、拙稿「陸游蜀中樂府考」(『南山大學日

    本文化学科 

    論集』第八號 

    二〇〇八)を参照。

    ⑫ 「聞林夫當徙靈隱寺寓居戲作靈隱前一首」(『蘇文忠公詩合

    註』巻三五)

    ⑬ 「我を知る者希なれば、則ち我は貴し」の解釋には諸説あ

    るが、ここではかく解する。蘇軾「司馬君實獨樂園」(『蘇文

    忠公詩合註』巻一五)に「才全徳不形、所貴知我寡」とある

    のは、同じ解釋に據るものであろう。

    ⑭ 

    ここでは立ち入らないが、横山伊勢雄「陸游の詩における

    『憤激』と『閑適』」(『宋代文人の詩と詩論』所収)におけ

    る考察がそのことを示唆している。

    ⑮ 

    拙稿「『劍南詩稿』に於ける詩人像──「狂」の詩人 

    放翁──」(『中國文學報』第四十冊)を参照。