title 滋賀縣高島郡中部地質槪報 地球 (1931), 16(6): …...地 球 節十六容 蟹 ハ...

13
Title 滋賀縣高島郡中部地質報 Author(s) 井上, 重一 Citation 地球 (1931), 16(6): 409-420 Issue Date 1931-12-01 URL http://hdl.handle.net/2433/183983 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

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Page 1: Title 滋賀縣高島郡中部地質槪報 地球 (1931), 16(6): …...地 球 節十六容 蟹 ハ 鍵 田70 30 得 る に 至 ら な か っ た。し か し 乙の 小報 告

Title 滋賀縣高島郡中部地質194794報

Author(s) 井上 重一

Citation 地球 (1931) 16(6) 409-420

Issue Date 1931-12-01

URL httphdlhandlenet2433183983

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

滋賀願高島都中部地質概報

(固版第八版付)

LL

一緒

日本列島は若狭滞伊勢海を連ねる線でその層曲の中心を換

へると

いふ部は故大森博廿が言ばれた

即ちそれ以来に於では弧の中心LJ日本梅中に以西に於

では太平洋中に置

いて居るJの術屈曲孤

の接触瓢ほては地形地勢が鈷難し伊勢海琵琶湖若狭潤の陥落を珪じ誓

その他乙の賜所に放

ては

数多の構造線がある弗は必然的は考

へらるべ

き事であるその中澱も面白-しかも地形閲を開けば

匿ちに断層谷と諏め得るものは京都の束から北北東は走る

1線の横谷である中村先生は之お花折

断層と名付けられた(地球第十怨)

0

断層線と心はれるものは多-は山と平地又は丘陵の頃はあるから地質尊的ほその機構を明らか

にする事は困難である然るに乙の花折断層は山と山との間はある渓谷の連鎖であるから之が精査

は必ず興味あるものとS3はれねrJの意味は於で発生はrJの断暦を中心とする北西江州の閑登をな

す事を

お鋤

め下

rJつ1J我は昭和五年三月よ-全年十月迄前後豹宜十日の貸地踏査むしその結果得

られた資料を以てこrJの暦序構造の説明むなruうと試みねが何分にも潜序の擾乱甚だしく且古建

物は至っては石奮

石中に極めて不完含

仏る勧健也科が少量出たのみほて私白身も満足すべき結論を

磁幻櫛試砧郷中部北部拙戦

相克

節十六容

ハ鍵

田70

30

得るに

至らなか

った

しかし乙

小報

告が賂衆多

-の大問題を

決する

I

階梯と怒らば

である

研究をする

に替

って常に指導望

日を賜はった中村先

生その

他渚先

生諸先輩の御厚志

梶-戚謝

する次

第である

二地

乙の地方は升些掛原の東ほっヾ-山塊にLLtJ新し

い時代に生じたる断暦線上に出来た断層線谷が

クツキダニ

アド

至る所に見られる即ち朽

作れる安

川の上流は朽木村市場に至るまでは南南西1牝北兼に

流れその支流北川

肝掛川及

び北方望

は注ぐ石田川並に小演習は流入する北川の諸州の本支流

は多少の屈曲はあるが大磯に於で関南閣1北北東

西北閥-東南衆の二方向に流れⅤ字形峡谷を各

所に作って屠る即ち乙の地方は前記二方向の構造線を持つ数多の地塊の基倉である革が地形から

へビ少)]

へられる之等断層線に滑った河流の浸蝕に威されたる高所が即ち蛇

峰阿摘陀山南

峰山

箱館山

武泰ケ岳等の誰峯である之等は主として古生静の摺曲にょって生じた山地であって

一皮

唯串原時代を経

て今日は若返かむなしで屠るものである従って之等の諮峯の頂上には各所に准平

原の痕跡を魂して屠る

安曇州が朽木谷から出て末流する部分の両側ほは饗鹿野泰山寺野の開析犬扇状地がある練達部

には若

い浸蝕谷が多-A-乙人で地形がやゝ錯難しで居るが蟹座野の中央部ほては南方やJ嵩-

泰山寺野の中央部ほでは北方がやし高-二百米飴の摸高を持った表面の平坦な蔓地をなして居る

安曇川が朽木谷よ-TL肺は出入とする所の薯

梓(朽木村官尊

坊痛

の兼方)即ち高島改装泉田む

前記のやりょ-

し小さいが同様を成因で出水ねと胤はれるものである之等と小払地帯との境界

は等高曲線の明瞭在る塵化にょつて指摘出来る

川上村三谷旗醐村奥山高島村中溝の蓮かその他至る所は小扇状地が畿達しで居る又安曇

川p鴨川はその両側所々は河岸段丘を持って居る

三暦

Ⅰ古

古生圏の走向は大鰭は於

で北東-南西であるそれが天野川ソジヨク谷奥山の線で各-匿角

に北酉-南東に鼻化する乙の線以東の7gのを保坂暦と名付けるO保坂厨以西の菅生暦も封比に最

79韮要在る化石はほとAどを-すべて岩石のみを以て暦序を論ずるの止むな

きほ至ったしかし

好都合にも

一本のやJ特長を持った厚

い角岩があ-之を状櫨にして封此を進めたこの角岩以下の

地健監

石漸層それ以上(角岩を含まず)を熊川暦と名付けたしかし乙の両者の間には何等の不鷹

合もな

a保坂暦

大部分頁岩と角岩とよ-成わ極めて少且芸

砂岩がその間に挟まる北東よ-の衝上

にょつて熊川暦の上に乗ったものである乙の樹は大

きい搾仙ををして居るがそれの軸が術上向に

略平行をして居る所から見て乙の摺曲を典

へたるカと街上運動を起したものとは同じものでな

いと

繊封墜内応耶中部地貿相和

hlL

ltprimeprimeJ

節六雛

は三

一こ

して79同じ方向に働

いたものである角

岩は禍青色ほて明瞭は暦両をあらはしい

一二寸の厚さに分離するものである貫

岩は崩壊せる朗多きも黙らざる朗は黒色

数量する之等の岩男から見て乙の適-

は岩瀬暦下部に相昏するものではなから

うかと考

へられるしかし之には確認が

あるわけでは覆

い大杉の東方には少し

の石灰岩があるがその中には全然化石が

含まれて居な

b岩瀬暦

朽木付大字岩瀬以南蛇谷

ケ峰阿揮陀山の地域を占むその北朽

ヂシ

木柑地

原に於で

一皮向斜散在して熊川

暦の下に隠れるも朽木村大字

三谷

村尊下自在坊の所に

て背斜をなす虐め帯

び由

はれる岩石は大部分頁岩と角岩と

月か成

-少最の薄

い砂岩がその間に八つ

て屠る角岩は上部と下軸ほてその性質むやJ異はして居る即ち下軸は禍骨色

一寸位の厚

さに

層面をあらはすものであるが上部に至るに従以衣白色塊状にして暦面不明瞭なものになる之が乙

の層の下部と保坂暦との同圏序であらうかと考

へられる唯

一の理由であるrJ

上部岩瀬暦の粘板岩は常軌色を量し硯材に適するものがあってその産地は高島村武骨横山仝村

税石谷廉湘村長尾の捕閣約

一粁牛の所等の阿甜陀山を構成する地層は多-出るその最良のもの

は虎斑石と析し黄色の斑桁が粘板岩中は入-異聞からず歌かJ

らず磯蓮良好であると

いふ轟である

岩瀬熊川二圏を分ける政準に取った角岩の特長はその色赤味を帯び五分

-1寸位の薄

い暦が釆な

-合って屠る部である

fJの地方

一機には来る朗に溝俺が出るO常では小規模に所々にて採掘した事もあったが採算執れ

ざる篤め止めてしまった之は貴色又は藍青色む量し局桃状の厚薄不定の層状をなして屠る常に

動岩の上部に乗-又はその間に介在し母岩と同時期の珪威物在る密接を

不して居る前串

耶準角岩

及びその近-の角岩の附近ほは特に多最に粗る即ち多-は敢上部岩瀬暦と敢下部熊川層の生成と

共に沈積したものらし

い山

下俸音氏はこの溝俺は恐ら-密教輝石の酸化珪成物であらうと言って

屠られる

朽木村小伏東方には心衣岩が出るやゝ貴ザルだ次白色むしで属で常結晶の皮が進んで居る蔑

め化石の痕跡は灸-な

C熊川暦

三谷相称川以北熊川の速-ほ敬連する和木村地手原及び荒川に於では前に79逃

散到暇叶回托邦申郷地鮮枇部

四三

二ニ

El柑

べた様に向斜をなしLtJ岩瀬瀞の上に乗って屠る

熊川骨を叉上中下部は介つ革が出来る

下部熊川圏

主は頁岩砂岩及び角岩から成つy屠る頁岩は何度のものと慣別のつか夜

5貴色の

ものであるがここでは溝俺鋸が第二次的ほしみrJAで藍青色を量する所が多

い砂岩は目の粗い歌

いもので相督多畳に出る角岩は暦面の明瞭な禍春色のものである

中部熊川暦

砂岩質岩が主で之に角岩布衣岩を仲人砂岩は非常に倒-や

淡純色を帯びた

もので圏面は金-不明瞭である唯僅かに他の岩石との境界面ほてをの走向傾斜がわかるのみであ

る角岩は下部熊川厨のものによ-似て屠る

上部熊川樹

上部は主に貢岩から成-薄

い角岩砂岩石衣岩が中に入って居る乙の角岩も亦

衣白色塊状のものであるrJの漫-の石衣岩には多-輝練凝灰岩が件ふ現今は産机しな

いが常で

は悪風石と宿し覗石材として採掘したさうである

熊川層の岩瀬暦に封する著し

い鼎滝は厚い砂岩が噂して角岩が少な-夜か小

ruい屈桃状石衣岩が

所期に介在する事である石衣岩はかく多量に存すといヘビも大抵再結晶し化石ほとんどを-辛う

じて魔をさめ得る塞鹿の紡錘虫科化石の少亀を見受けて乙の暦の二塵石炭紀に鷹する罫を確かめ得

たのみである即ち熊川村河内北方千三百米の石衣岩中よ-

Schellwieniaspを河内東方入官米

のものに

Scheltwieniaspを大杉西方四百米の79のゝ中に蘇鹿hl見た

しかし乙の櫨に不完全在る

化石hl以でしては無論時代

恕PJめる事は不能である

三谷村大字梯川宰聡谷の画商西方約六宵米の所に磯岩がある磯は主に角岩頁岩及び荘園岩よゎ

成る最も巾の頗

い所で約三米横は追跡すれば数十光にて尖滅するこれはよって見れば或僅か

を期間唯

一小部分のみ或は陸相に在

った時があったかも知れ泊が乙の磯岩の上下に大在る時の距

わがあったとは考

へられ在

い唯乙の髄苗

厨沈積の時代金鰻を通じて乙の避-は

l鰭に隆起し三

瀬圏の時代よりも浅海に在って居た事は砂岩の多

い轟からも恕像閏凍る

Ht洪

洪積層は宙期洪積層と新期洪積暦の二つに分つ事が出凍る古期洪積暦は磯砂及び粘土よら成る

が新期洪積層はほとんど粘土を合せな

いしかし岩種のみからほては国別困難であるがその地形を

異にし

て居る馬容易に分つ革が出凍る即ち有期洪積層は浸蝕著し-進んで小谷多-標高も主に

二百米以上であるほ引

きか

へ新期洪積層は浸蝕の碍放伐-塵高甘八十米以下である

乱有期洪積暦

有期洪積層地の主在るものは饗鹿野泰山寺野及び高島炭附である

饗鹿野は現今陸軍演習場になって居て標高北部約二百米南部約二官五十米西部約三背光の基

地むなしp中央部は平面在れど縁退部は浸蝕著し-進んで小浜谷が多-作られて居るその底部に

古生圏が現はれる所がある之にょって見れば乙の暦の厚さは最厚部ほて宵乃至官五十来任であら

うと皿はれる下部は主として粘土及び砂よ-成-腐植物質叉

巧みやJ黒色敬呈する上部は砂

及び灘多-戟覇色をなす之は近畿地方の多-の宙期洪積層が然る如-大束の酸化を受けをがら沈

積した馬であると皿はれるすべて古生暦岩石の碑層物質から成-楽部は行-ほ従以磯の丸味を増

す化石は凝見され在かつねが岩質躍蝕帯皮から見て有期洪積暦に入れたものであるO

磁教収縮抱郡中部地斑縦軸

E

IW

i尤

六懲

節六雛

四品

l大

束山寺野の有期洪積暦の岩質は略饗鹿野と同じであるしかし南部に至るほ従以花園岩の砕層物

質が多-在る腰高は凡そ二甘米飴にして北部がや上向い

乙の饗鹿野泰山寺野の二基地は嘗で

山つの大扇状地とし

て庄成しその揮層物堆積の中心箇所を今の安曇川の流れの所に持つLJのであ

るがその後土地が隆起して安曇川の浸蝕若返-蓬は二分されたのであらうと瓜はれる

ムソ

高島村武

永尾村横山に並数の露頭がある之は饗鹿野の腐植物質圏に相皆するものであらう

と胤はれる

泰山等野と鴨川をへだて1高島村大字邦所の笛は79有期洪積層がある下部には僻物の幹が含ま

れるが炭化の春慶は低

い岩質は花樹岩及びi鎮静岩石の砕層物質から成

って居る

高島離数々田は前記二つの古捌洪積闇と同時の堆積物であらうと思はれるが淡肇は幾分柵遺して

居る即ち下部は亜炭暦粘土層磯暦の外に白土暦が入って凍る白土厨は最も厚

い朗ほて三米

の厚さを持ち白色の極めて糾

い砂は三

河島鋸業所長望

Ftによれば九十パーセントの珪酸を合力との

罫である土仇は小規模に之を採取し糖米砂膳砂に使用して屠る茄炭は白土谷出口の朗ほて灘

今採炭中である政も厚い79のは約二米採炭吋能のものは四枚ある

白土層は主として亜炭暦の上に乗る白土層の下の並数桟白土暦以外の地層下にあるものは此し

て炭化の庶高-その貿良好であるを見れば乙の白土は亜炭生成に何か密接なる関係があるの七

は夜

からうかと考

へられる

上部に至るに捉以磯砂の畳を増すしかし多少の粘土は称する最上部は浸蝕の絡基除かれて饗

鹿野泰山寺野の如き中州蔀

は狭

b

新期洪積層

新期洪積層は川上村三谷燐潮柑奥山高島村中溝その他車る朗で小扇状地と

って存在する又安曇川鴨川の両側には河岸段丘が磯達しで居るその岩贋は主とし

て砂と磯

とよ-成って屠る安曇川に於でも鴨川に於でも段丘は三段に在って屠る即ちfJの蓮-ほでは近

さ時代に三度の隆起があって河流が若返った事堅

不して居るD

四火

花尚岩

荘園岩は高島村南方比良山脈の撹

さに出て居る多少自形を持った斜長石の大き

い斑晶が多-ある韻雲母花園岩であるが周遊の所は漸次花掃斑岩に移化して屠る高島村南方及び

畑東方の古庄暦岩石に接胸壁贋を輿

へ非常に堅牢なるホルンフ

ルスに頻化せしめて居る而して

高島村附近の泰山寺野及び獄山北方の有期洪積暦はその沈積物を

-1部載尚岩の揮層物質に負うで屠

る0触

輝線岩

岩脈むなす輝紋岩にはソ

ク谷の口より北六十度酉の方向大杉熊川を迫って西方

に延びるものと熊川柑新道よ-南に向ふものとがある共に

一本の太

い岩脈を中心はそれの両側に

い脈が無数に入って居る

「秩父有壁暦中は多-ある輝線岩は輝練凝灰岩と件ふ事が多

い之は

恐ら-その皆時の噴出岩であって輝練耗悉

石はその揮層が水中に洗濯堆積しわるものJ棟であるか

ら輝紋岩の生成は之を挿入せる育成暦と同時代のものである事は疑以計入れざる所であらう」と山

桃ampT最

前島

部地

批軸

1七

節大紋

四六

一八

下博吉氏は言って屠られるしかし乙の岩脈が多円文男氏の言はれ聖

二方断暦の延長とm心はれるも

の及び熊川断簡にその方向が粂-

一致して居る罫は偶然としては飲みに偶然過ぎる減が起るのであ

るか-も薄

い輝撒岩が頁岩の圏を切ってあらゆる割日は押し入つy居る様子から見てFJの輝激岩

はもつと後世のものであらうと恩はれるOしかし長石の分解状態その他どらして最近の沈入物質で

い事は明ら

かである輝線岩には断層の蔑め滑面の出水ね朋が各所に見られる

五地

構造線はその方向によ少南北線北東-南西線兼村税及び北西-

南東線の同種に分ける蔀が出

氷る

at花折断層

南北線に含まれるものにして地形的興味を有する為めよ-知られて居た79のであ

市場以南は安曇川ほよりそれ以北は石田川安曇川の小支流によって明瞭なる断層谷が作られ

て屠るその性質は来落ちにして断層練以東は北は移動して居るものと考

へられる乙の大断層も

北方は至るほ従以漸次その移動が小3-を-h保坂暦の衝上面を切ら熊川断層と交はる朗よ-北方に

於ではその垂直的水平的の移動はほとんど夜-在っ

てしまって屠る

飴知内川断層

多田文男氏が知内川断層と名付けられたものは三岡山の東亜よ-知内川は沿っ

て走るもので南するは従以南南西1南西1西南西と次第に走向を噛じ三谷村追分に至る迄琵琶湖に

凸面を向け

て連つで居るものである私の調査したのはその中最南の

一小部分であって北東-福間

ほ走って居る南落ちにして水平移動はほとんどな

い様であるその甫石

関川に沿以之と平行に走

る断簡は饗鹿野開析扇状地に三

部蔽はるJ篤めその水平移動の方向は不明であるが矢張南落ちで

ダ1ホシ

あらうO

rJの断層は饗鷹野の洪積層沈積後も活動した事はをの南西端

ケ谷はて砂利暦が南東

に五十皮の傾斜を有って屠る事からわかる

g熊川断層

熊川断層は

涌井豚小藩町よ-末南東に文字池上

直線に走-地形的にも明らか

に断層崖を

祁すもので三宅熊川む通-水坂峠の北に

七光折断層を切-角川南方に終るものである

私は熊川柑大字新道以来を調査したo地形的に見ても北が落ちて居る事は明らかである断層以南

の熊川暦の走向が断層に些つ-に捉

以著しprime走向の塾化する事及び輝線岩中の掻痕線はよら北側が

西下方に移動して居る事がわかる

亜p新道南方の南北断瀞

之は三方断層の延長と恩れるrJJほても輝線岩中の滑両の掻痕跡ほ

より西側が落ちて南に移動して屠る事がわかるOrJの断簡や端折断層等ほよって乙の蓮-の南北線ヒラ牛

によっ七分たれたる地川芸

きは西側が南Ugt移動したものtJある事がわかるしかし自在坊打

の東方む通る断層とその西方を走る南北線間の示準角岩その他の岩層の走向の塾化は乙の

一般運

動から見

て解梓のつかな

い状態を農してゐる

之等構造線成立の順序は高島野

次炭田東方の砿東1南西緑薫79溝-次は兼酉線が出水然る後

保坂圏の術上があったしかし開析断層はその後79活躍をつゞけたものであらうと考

へられる北

莱-

西

北酉-南東線は戯79新し

いものゝ棟である而して石四川に滑ふ断層及び高島村井月

依袈嚇向島郡中部他部枇印

i九

六客

筋六統

望0

二〇

滴方のもりは各々古期洪積層を切っ

てそれに傾斜HLJ持たせて屠る即ち之等は洪積層沈積後も活動

せる事を示して居る

之等の順序は唯

一般の侭向のみであって

生成後も幾度か活躍しねと恩はれる断簡の生成順序を

正確にきめる事は甚だ国難な罫である唯前述の石田川及び揮月の二断暦は最近に至る迄生動しっ

ヾけて居た覇は断言出来るのである(完)

世界金銀産額の消長

枇邪諮問に於ける物情の標準は金若-は鎚で

あるから金銀の健脚は放ける産鶴と其櫓減の

磯勢が寓枝物概は影響し延で

山鹿綴蹄界の景

気に韮大なる結果を招致すべきrJとは論講を侯

たずして明瞭である

過去十数年間に於ける世非金産額の滑長を

1

幣するに金塵籾の垂向は

-i九

一五年でp約二

億ポンドに蓮した敢砥堀は一九三

一年で

一九

心五年の敢高街に此し約三割二分の減産を不L

LJ其前年即ち

一九二7年は約三割の減産で

一九二三年は二割二分の減産であった其筏

産額は年々漸次噂卸した即ち

一九二七年

(昭

和二)には四億〇二育苗弗

-i九二八年には四

億〇六宵寓弗

一九二九年には四億〇三百常弗

で昭和四年には復ね減産した

聴牌大戦後貨幣として金の流通高は非常に埼

加したが産額は其割合は槍加しな

いのみなら

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滋賀願高島都中部地質概報

(固版第八版付)

LL

一緒

日本列島は若狭滞伊勢海を連ねる線でその層曲の中心を換

へると

いふ部は故大森博廿が言ばれた

即ちそれ以来に於では弧の中心LJ日本梅中に以西に於

では太平洋中に置

いて居るJの術屈曲孤

の接触瓢ほては地形地勢が鈷難し伊勢海琵琶湖若狭潤の陥落を珪じ誓

その他乙の賜所に放

ては

数多の構造線がある弗は必然的は考

へらるべ

き事であるその中澱も面白-しかも地形閲を開けば

匿ちに断層谷と諏め得るものは京都の束から北北東は走る

1線の横谷である中村先生は之お花折

断層と名付けられた(地球第十怨)

0

断層線と心はれるものは多-は山と平地又は丘陵の頃はあるから地質尊的ほその機構を明らか

にする事は困難である然るに乙の花折断層は山と山との間はある渓谷の連鎖であるから之が精査

は必ず興味あるものとS3はれねrJの意味は於で発生はrJの断暦を中心とする北西江州の閑登をな

す事を

お鋤

め下

rJつ1J我は昭和五年三月よ-全年十月迄前後豹宜十日の貸地踏査むしその結果得

られた資料を以てこrJの暦序構造の説明むなruうと試みねが何分にも潜序の擾乱甚だしく且古建

物は至っては石奮

石中に極めて不完含

仏る勧健也科が少量出たのみほて私白身も満足すべき結論を

磁幻櫛試砧郷中部北部拙戦

相克

節十六容

ハ鍵

田70

30

得るに

至らなか

った

しかし乙

小報

告が賂衆多

-の大問題を

決する

I

階梯と怒らば

である

研究をする

に替

って常に指導望

日を賜はった中村先

生その

他渚先

生諸先輩の御厚志

梶-戚謝

する次

第である

二地

乙の地方は升些掛原の東ほっヾ-山塊にLLtJ新し

い時代に生じたる断暦線上に出来た断層線谷が

クツキダニ

アド

至る所に見られる即ち朽

作れる安

川の上流は朽木村市場に至るまでは南南西1牝北兼に

流れその支流北川

肝掛川及

び北方望

は注ぐ石田川並に小演習は流入する北川の諸州の本支流

は多少の屈曲はあるが大磯に於で関南閣1北北東

西北閥-東南衆の二方向に流れⅤ字形峡谷を各

所に作って屠る即ち乙の地方は前記二方向の構造線を持つ数多の地塊の基倉である革が地形から

へビ少)]

へられる之等断層線に滑った河流の浸蝕に威されたる高所が即ち蛇

峰阿摘陀山南

峰山

箱館山

武泰ケ岳等の誰峯である之等は主として古生静の摺曲にょって生じた山地であって

一皮

唯串原時代を経

て今日は若返かむなしで屠るものである従って之等の諮峯の頂上には各所に准平

原の痕跡を魂して屠る

安曇州が朽木谷から出て末流する部分の両側ほは饗鹿野泰山寺野の開析犬扇状地がある練達部

には若

い浸蝕谷が多-A-乙人で地形がやゝ錯難しで居るが蟹座野の中央部ほては南方やJ嵩-

泰山寺野の中央部ほでは北方がやし高-二百米飴の摸高を持った表面の平坦な蔓地をなして居る

安曇川が朽木谷よ-TL肺は出入とする所の薯

梓(朽木村官尊

坊痛

の兼方)即ち高島改装泉田む

前記のやりょ-

し小さいが同様を成因で出水ねと胤はれるものである之等と小払地帯との境界

は等高曲線の明瞭在る塵化にょつて指摘出来る

川上村三谷旗醐村奥山高島村中溝の蓮かその他至る所は小扇状地が畿達しで居る又安曇

川p鴨川はその両側所々は河岸段丘を持って居る

三暦

Ⅰ古

古生圏の走向は大鰭は於

で北東-南西であるそれが天野川ソジヨク谷奥山の線で各-匿角

に北酉-南東に鼻化する乙の線以東の7gのを保坂暦と名付けるO保坂厨以西の菅生暦も封比に最

79韮要在る化石はほとAどを-すべて岩石のみを以て暦序を論ずるの止むな

きほ至ったしかし

好都合にも

一本のやJ特長を持った厚

い角岩があ-之を状櫨にして封此を進めたこの角岩以下の

地健監

石漸層それ以上(角岩を含まず)を熊川暦と名付けたしかし乙の両者の間には何等の不鷹

合もな

a保坂暦

大部分頁岩と角岩とよ-成わ極めて少且芸

砂岩がその間に挟まる北東よ-の衝上

にょつて熊川暦の上に乗ったものである乙の樹は大

きい搾仙ををして居るがそれの軸が術上向に

略平行をして居る所から見て乙の摺曲を典

へたるカと街上運動を起したものとは同じものでな

いと

繊封墜内応耶中部地貿相和

hlL

ltprimeprimeJ

節六雛

は三

一こ

して79同じ方向に働

いたものである角

岩は禍青色ほて明瞭は暦両をあらはしい

一二寸の厚さに分離するものである貫

岩は崩壊せる朗多きも黙らざる朗は黒色

数量する之等の岩男から見て乙の適-

は岩瀬暦下部に相昏するものではなから

うかと考

へられるしかし之には確認が

あるわけでは覆

い大杉の東方には少し

の石灰岩があるがその中には全然化石が

含まれて居な

b岩瀬暦

朽木付大字岩瀬以南蛇谷

ケ峰阿揮陀山の地域を占むその北朽

ヂシ

木柑地

原に於で

一皮向斜散在して熊川

暦の下に隠れるも朽木村大字

三谷

村尊下自在坊の所に

て背斜をなす虐め帯

び由

はれる岩石は大部分頁岩と角岩と

月か成

-少最の薄

い砂岩がその間に八つ

て屠る角岩は上部と下軸ほてその性質むやJ異はして居る即ち下軸は禍骨色

一寸位の厚

さに

層面をあらはすものであるが上部に至るに従以衣白色塊状にして暦面不明瞭なものになる之が乙

の層の下部と保坂暦との同圏序であらうかと考

へられる唯

一の理由であるrJ

上部岩瀬暦の粘板岩は常軌色を量し硯材に適するものがあってその産地は高島村武骨横山仝村

税石谷廉湘村長尾の捕閣約

一粁牛の所等の阿甜陀山を構成する地層は多-出るその最良のもの

は虎斑石と析し黄色の斑桁が粘板岩中は入-異聞からず歌かJ

らず磯蓮良好であると

いふ轟である

岩瀬熊川二圏を分ける政準に取った角岩の特長はその色赤味を帯び五分

-1寸位の薄

い暦が釆な

-合って屠る部である

fJの地方

一機には来る朗に溝俺が出るO常では小規模に所々にて採掘した事もあったが採算執れ

ざる篤め止めてしまった之は貴色又は藍青色む量し局桃状の厚薄不定の層状をなして屠る常に

動岩の上部に乗-又はその間に介在し母岩と同時期の珪威物在る密接を

不して居る前串

耶準角岩

及びその近-の角岩の附近ほは特に多最に粗る即ち多-は敢上部岩瀬暦と敢下部熊川層の生成と

共に沈積したものらし

い山

下俸音氏はこの溝俺は恐ら-密教輝石の酸化珪成物であらうと言って

屠られる

朽木村小伏東方には心衣岩が出るやゝ貴ザルだ次白色むしで属で常結晶の皮が進んで居る蔑

め化石の痕跡は灸-な

C熊川暦

三谷相称川以北熊川の速-ほ敬連する和木村地手原及び荒川に於では前に79逃

散到暇叶回托邦申郷地鮮枇部

四三

二ニ

El柑

べた様に向斜をなしLtJ岩瀬瀞の上に乗って屠る

熊川骨を叉上中下部は介つ革が出来る

下部熊川圏

主は頁岩砂岩及び角岩から成つy屠る頁岩は何度のものと慣別のつか夜

5貴色の

ものであるがここでは溝俺鋸が第二次的ほしみrJAで藍青色を量する所が多

い砂岩は目の粗い歌

いもので相督多畳に出る角岩は暦面の明瞭な禍春色のものである

中部熊川暦

砂岩質岩が主で之に角岩布衣岩を仲人砂岩は非常に倒-や

淡純色を帯びた

もので圏面は金-不明瞭である唯僅かに他の岩石との境界面ほてをの走向傾斜がわかるのみであ

る角岩は下部熊川厨のものによ-似て屠る

上部熊川樹

上部は主に貢岩から成-薄

い角岩砂岩石衣岩が中に入って居る乙の角岩も亦

衣白色塊状のものであるrJの漫-の石衣岩には多-輝練凝灰岩が件ふ現今は産机しな

いが常で

は悪風石と宿し覗石材として採掘したさうである

熊川層の岩瀬暦に封する著し

い鼎滝は厚い砂岩が噂して角岩が少な-夜か小

ruい屈桃状石衣岩が

所期に介在する事である石衣岩はかく多量に存すといヘビも大抵再結晶し化石ほとんどを-辛う

じて魔をさめ得る塞鹿の紡錘虫科化石の少亀を見受けて乙の暦の二塵石炭紀に鷹する罫を確かめ得

たのみである即ち熊川村河内北方千三百米の石衣岩中よ-

Schellwieniaspを河内東方入官米

のものに

Scheltwieniaspを大杉西方四百米の79のゝ中に蘇鹿hl見た

しかし乙の櫨に不完全在る

化石hl以でしては無論時代

恕PJめる事は不能である

三谷村大字梯川宰聡谷の画商西方約六宵米の所に磯岩がある磯は主に角岩頁岩及び荘園岩よゎ

成る最も巾の頗

い所で約三米横は追跡すれば数十光にて尖滅するこれはよって見れば或僅か

を期間唯

一小部分のみ或は陸相に在

った時があったかも知れ泊が乙の磯岩の上下に大在る時の距

わがあったとは考

へられ在

い唯乙の髄苗

厨沈積の時代金鰻を通じて乙の避-は

l鰭に隆起し三

瀬圏の時代よりも浅海に在って居た事は砂岩の多

い轟からも恕像閏凍る

Ht洪

洪積層は宙期洪積層と新期洪積暦の二つに分つ事が出凍る古期洪積暦は磯砂及び粘土よら成る

が新期洪積層はほとんど粘土を合せな

いしかし岩種のみからほては国別困難であるがその地形を

異にし

て居る馬容易に分つ革が出凍る即ち有期洪積層は浸蝕著し-進んで小谷多-標高も主に

二百米以上であるほ引

きか

へ新期洪積層は浸蝕の碍放伐-塵高甘八十米以下である

乱有期洪積暦

有期洪積層地の主在るものは饗鹿野泰山寺野及び高島炭附である

饗鹿野は現今陸軍演習場になって居て標高北部約二百米南部約二官五十米西部約三背光の基

地むなしp中央部は平面在れど縁退部は浸蝕著し-進んで小浜谷が多-作られて居るその底部に

古生圏が現はれる所がある之にょって見れば乙の暦の厚さは最厚部ほて宵乃至官五十来任であら

うと皿はれる下部は主として粘土及び砂よ-成-腐植物質叉

巧みやJ黒色敬呈する上部は砂

及び灘多-戟覇色をなす之は近畿地方の多-の宙期洪積層が然る如-大束の酸化を受けをがら沈

積した馬であると皿はれるすべて古生暦岩石の碑層物質から成-楽部は行-ほ従以磯の丸味を増

す化石は凝見され在かつねが岩質躍蝕帯皮から見て有期洪積暦に入れたものであるO

磁教収縮抱郡中部地斑縦軸

E

IW

i尤

六懲

節六雛

四品

l大

束山寺野の有期洪積暦の岩質は略饗鹿野と同じであるしかし南部に至るほ従以花園岩の砕層物

質が多-在る腰高は凡そ二甘米飴にして北部がや上向い

乙の饗鹿野泰山寺野の二基地は嘗で

山つの大扇状地とし

て庄成しその揮層物堆積の中心箇所を今の安曇川の流れの所に持つLJのであ

るがその後土地が隆起して安曇川の浸蝕若返-蓬は二分されたのであらうと瓜はれる

ムソ

高島村武

永尾村横山に並数の露頭がある之は饗鹿野の腐植物質圏に相皆するものであらう

と胤はれる

泰山等野と鴨川をへだて1高島村大字邦所の笛は79有期洪積層がある下部には僻物の幹が含ま

れるが炭化の春慶は低

い岩質は花樹岩及びi鎮静岩石の砕層物質から成

って居る

高島離数々田は前記二つの古捌洪積闇と同時の堆積物であらうと思はれるが淡肇は幾分柵遺して

居る即ち下部は亜炭暦粘土層磯暦の外に白土暦が入って凍る白土厨は最も厚

い朗ほて三米

の厚さを持ち白色の極めて糾

い砂は三

河島鋸業所長望

Ftによれば九十パーセントの珪酸を合力との

罫である土仇は小規模に之を採取し糖米砂膳砂に使用して屠る茄炭は白土谷出口の朗ほて灘

今採炭中である政も厚い79のは約二米採炭吋能のものは四枚ある

白土層は主として亜炭暦の上に乗る白土層の下の並数桟白土暦以外の地層下にあるものは此し

て炭化の庶高-その貿良好であるを見れば乙の白土は亜炭生成に何か密接なる関係があるの七

は夜

からうかと考

へられる

上部に至るに捉以磯砂の畳を増すしかし多少の粘土は称する最上部は浸蝕の絡基除かれて饗

鹿野泰山寺野の如き中州蔀

は狭

b

新期洪積層

新期洪積層は川上村三谷燐潮柑奥山高島村中溝その他車る朗で小扇状地と

って存在する又安曇川鴨川の両側には河岸段丘が磯達しで居るその岩贋は主とし

て砂と磯

とよ-成って屠る安曇川に於でも鴨川に於でも段丘は三段に在って屠る即ちfJの蓮-ほでは近

さ時代に三度の隆起があって河流が若返った事堅

不して居るD

四火

花尚岩

荘園岩は高島村南方比良山脈の撹

さに出て居る多少自形を持った斜長石の大き

い斑晶が多-ある韻雲母花園岩であるが周遊の所は漸次花掃斑岩に移化して屠る高島村南方及び

畑東方の古庄暦岩石に接胸壁贋を輿

へ非常に堅牢なるホルンフ

ルスに頻化せしめて居る而して

高島村附近の泰山寺野及び獄山北方の有期洪積暦はその沈積物を

-1部載尚岩の揮層物質に負うで屠

る0触

輝線岩

岩脈むなす輝紋岩にはソ

ク谷の口より北六十度酉の方向大杉熊川を迫って西方

に延びるものと熊川柑新道よ-南に向ふものとがある共に

一本の太

い岩脈を中心はそれの両側に

い脈が無数に入って居る

「秩父有壁暦中は多-ある輝線岩は輝練凝灰岩と件ふ事が多

い之は

恐ら-その皆時の噴出岩であって輝練耗悉

石はその揮層が水中に洗濯堆積しわるものJ棟であるか

ら輝紋岩の生成は之を挿入せる育成暦と同時代のものである事は疑以計入れざる所であらう」と山

桃ampT最

前島

部地

批軸

1七

節大紋

四六

一八

下博吉氏は言って屠られるしかし乙の岩脈が多円文男氏の言はれ聖

二方断暦の延長とm心はれるも

の及び熊川断簡にその方向が粂-

一致して居る罫は偶然としては飲みに偶然過ぎる減が起るのであ

るか-も薄

い輝撒岩が頁岩の圏を切ってあらゆる割日は押し入つy居る様子から見てFJの輝激岩

はもつと後世のものであらうと恩はれるOしかし長石の分解状態その他どらして最近の沈入物質で

い事は明ら

かである輝線岩には断層の蔑め滑面の出水ね朋が各所に見られる

五地

構造線はその方向によ少南北線北東-南西線兼村税及び北西-

南東線の同種に分ける蔀が出

氷る

at花折断層

南北線に含まれるものにして地形的興味を有する為めよ-知られて居た79のであ

市場以南は安曇川ほよりそれ以北は石田川安曇川の小支流によって明瞭なる断層谷が作られ

て屠るその性質は来落ちにして断層練以東は北は移動して居るものと考

へられる乙の大断層も

北方は至るほ従以漸次その移動が小3-を-h保坂暦の衝上面を切ら熊川断層と交はる朗よ-北方に

於ではその垂直的水平的の移動はほとんど夜-在っ

てしまって屠る

飴知内川断層

多田文男氏が知内川断層と名付けられたものは三岡山の東亜よ-知内川は沿っ

て走るもので南するは従以南南西1南西1西南西と次第に走向を噛じ三谷村追分に至る迄琵琶湖に

凸面を向け

て連つで居るものである私の調査したのはその中最南の

一小部分であって北東-福間

ほ走って居る南落ちにして水平移動はほとんどな

い様であるその甫石

関川に沿以之と平行に走

る断簡は饗鹿野開析扇状地に三

部蔽はるJ篤めその水平移動の方向は不明であるが矢張南落ちで

ダ1ホシ

あらうO

rJの断層は饗鷹野の洪積層沈積後も活動した事はをの南西端

ケ谷はて砂利暦が南東

に五十皮の傾斜を有って屠る事からわかる

g熊川断層

熊川断層は

涌井豚小藩町よ-末南東に文字池上

直線に走-地形的にも明らか

に断層崖を

祁すもので三宅熊川む通-水坂峠の北に

七光折断層を切-角川南方に終るものである

私は熊川柑大字新道以来を調査したo地形的に見ても北が落ちて居る事は明らかである断層以南

の熊川暦の走向が断層に些つ-に捉

以著しprime走向の塾化する事及び輝線岩中の掻痕線はよら北側が

西下方に移動して居る事がわかる

亜p新道南方の南北断瀞

之は三方断層の延長と恩れるrJJほても輝線岩中の滑両の掻痕跡ほ

より西側が落ちて南に移動して屠る事がわかるOrJの断簡や端折断層等ほよって乙の蓮-の南北線ヒラ牛

によっ七分たれたる地川芸

きは西側が南Ugt移動したものtJある事がわかるしかし自在坊打

の東方む通る断層とその西方を走る南北線間の示準角岩その他の岩層の走向の塾化は乙の

一般運

動から見

て解梓のつかな

い状態を農してゐる

之等構造線成立の順序は高島野

次炭田東方の砿東1南西緑薫79溝-次は兼酉線が出水然る後

保坂圏の術上があったしかし開析断層はその後79活躍をつゞけたものであらうと考

へられる北

莱-

西

北酉-南東線は戯79新し

いものゝ棟である而して石四川に滑ふ断層及び高島村井月

依袈嚇向島郡中部他部枇印

i九

六客

筋六統

望0

二〇

滴方のもりは各々古期洪積層を切っ

てそれに傾斜HLJ持たせて屠る即ち之等は洪積層沈積後も活動

せる事を示して居る

之等の順序は唯

一般の侭向のみであって

生成後も幾度か活躍しねと恩はれる断簡の生成順序を

正確にきめる事は甚だ国難な罫である唯前述の石田川及び揮月の二断暦は最近に至る迄生動しっ

ヾけて居た覇は断言出来るのである(完)

世界金銀産額の消長

枇邪諮問に於ける物情の標準は金若-は鎚で

あるから金銀の健脚は放ける産鶴と其櫓減の

磯勢が寓枝物概は影響し延で

山鹿綴蹄界の景

気に韮大なる結果を招致すべきrJとは論講を侯

たずして明瞭である

過去十数年間に於ける世非金産額の滑長を

1

幣するに金塵籾の垂向は

-i九

一五年でp約二

億ポンドに蓮した敢砥堀は一九三

一年で

一九

心五年の敢高街に此し約三割二分の減産を不L

LJ其前年即ち

一九二7年は約三割の減産で

一九二三年は二割二分の減産であった其筏

産額は年々漸次噂卸した即ち

一九二七年

(昭

和二)には四億〇二育苗弗

-i九二八年には四

億〇六宵寓弗

一九二九年には四億〇三百常弗

で昭和四年には復ね減産した

聴牌大戦後貨幣として金の流通高は非常に埼

加したが産額は其割合は槍加しな

いのみなら

Page 3: Title 滋賀縣高島郡中部地質槪報 地球 (1931), 16(6): …...地 球 節十六容 蟹 ハ 鍵 田70 30 得 る に 至 ら な か っ た。し か し 乙の 小報 告

節十六容

ハ鍵

田70

30

得るに

至らなか

った

しかし乙

小報

告が賂衆多

-の大問題を

決する

I

階梯と怒らば

である

研究をする

に替

って常に指導望

日を賜はった中村先

生その

他渚先

生諸先輩の御厚志

梶-戚謝

する次

第である

二地

乙の地方は升些掛原の東ほっヾ-山塊にLLtJ新し

い時代に生じたる断暦線上に出来た断層線谷が

クツキダニ

アド

至る所に見られる即ち朽

作れる安

川の上流は朽木村市場に至るまでは南南西1牝北兼に

流れその支流北川

肝掛川及

び北方望

は注ぐ石田川並に小演習は流入する北川の諸州の本支流

は多少の屈曲はあるが大磯に於で関南閣1北北東

西北閥-東南衆の二方向に流れⅤ字形峡谷を各

所に作って屠る即ち乙の地方は前記二方向の構造線を持つ数多の地塊の基倉である革が地形から

へビ少)]

へられる之等断層線に滑った河流の浸蝕に威されたる高所が即ち蛇

峰阿摘陀山南

峰山

箱館山

武泰ケ岳等の誰峯である之等は主として古生静の摺曲にょって生じた山地であって

一皮

唯串原時代を経

て今日は若返かむなしで屠るものである従って之等の諮峯の頂上には各所に准平

原の痕跡を魂して屠る

安曇州が朽木谷から出て末流する部分の両側ほは饗鹿野泰山寺野の開析犬扇状地がある練達部

には若

い浸蝕谷が多-A-乙人で地形がやゝ錯難しで居るが蟹座野の中央部ほては南方やJ嵩-

泰山寺野の中央部ほでは北方がやし高-二百米飴の摸高を持った表面の平坦な蔓地をなして居る

安曇川が朽木谷よ-TL肺は出入とする所の薯

梓(朽木村官尊

坊痛

の兼方)即ち高島改装泉田む

前記のやりょ-

し小さいが同様を成因で出水ねと胤はれるものである之等と小払地帯との境界

は等高曲線の明瞭在る塵化にょつて指摘出来る

川上村三谷旗醐村奥山高島村中溝の蓮かその他至る所は小扇状地が畿達しで居る又安曇

川p鴨川はその両側所々は河岸段丘を持って居る

三暦

Ⅰ古

古生圏の走向は大鰭は於

で北東-南西であるそれが天野川ソジヨク谷奥山の線で各-匿角

に北酉-南東に鼻化する乙の線以東の7gのを保坂暦と名付けるO保坂厨以西の菅生暦も封比に最

79韮要在る化石はほとAどを-すべて岩石のみを以て暦序を論ずるの止むな

きほ至ったしかし

好都合にも

一本のやJ特長を持った厚

い角岩があ-之を状櫨にして封此を進めたこの角岩以下の

地健監

石漸層それ以上(角岩を含まず)を熊川暦と名付けたしかし乙の両者の間には何等の不鷹

合もな

a保坂暦

大部分頁岩と角岩とよ-成わ極めて少且芸

砂岩がその間に挟まる北東よ-の衝上

にょつて熊川暦の上に乗ったものである乙の樹は大

きい搾仙ををして居るがそれの軸が術上向に

略平行をして居る所から見て乙の摺曲を典

へたるカと街上運動を起したものとは同じものでな

いと

繊封墜内応耶中部地貿相和

hlL

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は三

一こ

して79同じ方向に働

いたものである角

岩は禍青色ほて明瞭は暦両をあらはしい

一二寸の厚さに分離するものである貫

岩は崩壊せる朗多きも黙らざる朗は黒色

数量する之等の岩男から見て乙の適-

は岩瀬暦下部に相昏するものではなから

うかと考

へられるしかし之には確認が

あるわけでは覆

い大杉の東方には少し

の石灰岩があるがその中には全然化石が

含まれて居な

b岩瀬暦

朽木付大字岩瀬以南蛇谷

ケ峰阿揮陀山の地域を占むその北朽

ヂシ

木柑地

原に於で

一皮向斜散在して熊川

暦の下に隠れるも朽木村大字

三谷

村尊下自在坊の所に

て背斜をなす虐め帯

び由

はれる岩石は大部分頁岩と角岩と

月か成

-少最の薄

い砂岩がその間に八つ

て屠る角岩は上部と下軸ほてその性質むやJ異はして居る即ち下軸は禍骨色

一寸位の厚

さに

層面をあらはすものであるが上部に至るに従以衣白色塊状にして暦面不明瞭なものになる之が乙

の層の下部と保坂暦との同圏序であらうかと考

へられる唯

一の理由であるrJ

上部岩瀬暦の粘板岩は常軌色を量し硯材に適するものがあってその産地は高島村武骨横山仝村

税石谷廉湘村長尾の捕閣約

一粁牛の所等の阿甜陀山を構成する地層は多-出るその最良のもの

は虎斑石と析し黄色の斑桁が粘板岩中は入-異聞からず歌かJ

らず磯蓮良好であると

いふ轟である

岩瀬熊川二圏を分ける政準に取った角岩の特長はその色赤味を帯び五分

-1寸位の薄

い暦が釆な

-合って屠る部である

fJの地方

一機には来る朗に溝俺が出るO常では小規模に所々にて採掘した事もあったが採算執れ

ざる篤め止めてしまった之は貴色又は藍青色む量し局桃状の厚薄不定の層状をなして屠る常に

動岩の上部に乗-又はその間に介在し母岩と同時期の珪威物在る密接を

不して居る前串

耶準角岩

及びその近-の角岩の附近ほは特に多最に粗る即ち多-は敢上部岩瀬暦と敢下部熊川層の生成と

共に沈積したものらし

い山

下俸音氏はこの溝俺は恐ら-密教輝石の酸化珪成物であらうと言って

屠られる

朽木村小伏東方には心衣岩が出るやゝ貴ザルだ次白色むしで属で常結晶の皮が進んで居る蔑

め化石の痕跡は灸-な

C熊川暦

三谷相称川以北熊川の速-ほ敬連する和木村地手原及び荒川に於では前に79逃

散到暇叶回托邦申郷地鮮枇部

四三

二ニ

El柑

べた様に向斜をなしLtJ岩瀬瀞の上に乗って屠る

熊川骨を叉上中下部は介つ革が出来る

下部熊川圏

主は頁岩砂岩及び角岩から成つy屠る頁岩は何度のものと慣別のつか夜

5貴色の

ものであるがここでは溝俺鋸が第二次的ほしみrJAで藍青色を量する所が多

い砂岩は目の粗い歌

いもので相督多畳に出る角岩は暦面の明瞭な禍春色のものである

中部熊川暦

砂岩質岩が主で之に角岩布衣岩を仲人砂岩は非常に倒-や

淡純色を帯びた

もので圏面は金-不明瞭である唯僅かに他の岩石との境界面ほてをの走向傾斜がわかるのみであ

る角岩は下部熊川厨のものによ-似て屠る

上部熊川樹

上部は主に貢岩から成-薄

い角岩砂岩石衣岩が中に入って居る乙の角岩も亦

衣白色塊状のものであるrJの漫-の石衣岩には多-輝練凝灰岩が件ふ現今は産机しな

いが常で

は悪風石と宿し覗石材として採掘したさうである

熊川層の岩瀬暦に封する著し

い鼎滝は厚い砂岩が噂して角岩が少な-夜か小

ruい屈桃状石衣岩が

所期に介在する事である石衣岩はかく多量に存すといヘビも大抵再結晶し化石ほとんどを-辛う

じて魔をさめ得る塞鹿の紡錘虫科化石の少亀を見受けて乙の暦の二塵石炭紀に鷹する罫を確かめ得

たのみである即ち熊川村河内北方千三百米の石衣岩中よ-

Schellwieniaspを河内東方入官米

のものに

Scheltwieniaspを大杉西方四百米の79のゝ中に蘇鹿hl見た

しかし乙の櫨に不完全在る

化石hl以でしては無論時代

恕PJめる事は不能である

三谷村大字梯川宰聡谷の画商西方約六宵米の所に磯岩がある磯は主に角岩頁岩及び荘園岩よゎ

成る最も巾の頗

い所で約三米横は追跡すれば数十光にて尖滅するこれはよって見れば或僅か

を期間唯

一小部分のみ或は陸相に在

った時があったかも知れ泊が乙の磯岩の上下に大在る時の距

わがあったとは考

へられ在

い唯乙の髄苗

厨沈積の時代金鰻を通じて乙の避-は

l鰭に隆起し三

瀬圏の時代よりも浅海に在って居た事は砂岩の多

い轟からも恕像閏凍る

Ht洪

洪積層は宙期洪積層と新期洪積暦の二つに分つ事が出凍る古期洪積暦は磯砂及び粘土よら成る

が新期洪積層はほとんど粘土を合せな

いしかし岩種のみからほては国別困難であるがその地形を

異にし

て居る馬容易に分つ革が出凍る即ち有期洪積層は浸蝕著し-進んで小谷多-標高も主に

二百米以上であるほ引

きか

へ新期洪積層は浸蝕の碍放伐-塵高甘八十米以下である

乱有期洪積暦

有期洪積層地の主在るものは饗鹿野泰山寺野及び高島炭附である

饗鹿野は現今陸軍演習場になって居て標高北部約二百米南部約二官五十米西部約三背光の基

地むなしp中央部は平面在れど縁退部は浸蝕著し-進んで小浜谷が多-作られて居るその底部に

古生圏が現はれる所がある之にょって見れば乙の暦の厚さは最厚部ほて宵乃至官五十来任であら

うと皿はれる下部は主として粘土及び砂よ-成-腐植物質叉

巧みやJ黒色敬呈する上部は砂

及び灘多-戟覇色をなす之は近畿地方の多-の宙期洪積層が然る如-大束の酸化を受けをがら沈

積した馬であると皿はれるすべて古生暦岩石の碑層物質から成-楽部は行-ほ従以磯の丸味を増

す化石は凝見され在かつねが岩質躍蝕帯皮から見て有期洪積暦に入れたものであるO

磁教収縮抱郡中部地斑縦軸

E

IW

i尤

六懲

節六雛

四品

l大

束山寺野の有期洪積暦の岩質は略饗鹿野と同じであるしかし南部に至るほ従以花園岩の砕層物

質が多-在る腰高は凡そ二甘米飴にして北部がや上向い

乙の饗鹿野泰山寺野の二基地は嘗で

山つの大扇状地とし

て庄成しその揮層物堆積の中心箇所を今の安曇川の流れの所に持つLJのであ

るがその後土地が隆起して安曇川の浸蝕若返-蓬は二分されたのであらうと瓜はれる

ムソ

高島村武

永尾村横山に並数の露頭がある之は饗鹿野の腐植物質圏に相皆するものであらう

と胤はれる

泰山等野と鴨川をへだて1高島村大字邦所の笛は79有期洪積層がある下部には僻物の幹が含ま

れるが炭化の春慶は低

い岩質は花樹岩及びi鎮静岩石の砕層物質から成

って居る

高島離数々田は前記二つの古捌洪積闇と同時の堆積物であらうと思はれるが淡肇は幾分柵遺して

居る即ち下部は亜炭暦粘土層磯暦の外に白土暦が入って凍る白土厨は最も厚

い朗ほて三米

の厚さを持ち白色の極めて糾

い砂は三

河島鋸業所長望

Ftによれば九十パーセントの珪酸を合力との

罫である土仇は小規模に之を採取し糖米砂膳砂に使用して屠る茄炭は白土谷出口の朗ほて灘

今採炭中である政も厚い79のは約二米採炭吋能のものは四枚ある

白土層は主として亜炭暦の上に乗る白土層の下の並数桟白土暦以外の地層下にあるものは此し

て炭化の庶高-その貿良好であるを見れば乙の白土は亜炭生成に何か密接なる関係があるの七

は夜

からうかと考

へられる

上部に至るに捉以磯砂の畳を増すしかし多少の粘土は称する最上部は浸蝕の絡基除かれて饗

鹿野泰山寺野の如き中州蔀

は狭

b

新期洪積層

新期洪積層は川上村三谷燐潮柑奥山高島村中溝その他車る朗で小扇状地と

って存在する又安曇川鴨川の両側には河岸段丘が磯達しで居るその岩贋は主とし

て砂と磯

とよ-成って屠る安曇川に於でも鴨川に於でも段丘は三段に在って屠る即ちfJの蓮-ほでは近

さ時代に三度の隆起があって河流が若返った事堅

不して居るD

四火

花尚岩

荘園岩は高島村南方比良山脈の撹

さに出て居る多少自形を持った斜長石の大き

い斑晶が多-ある韻雲母花園岩であるが周遊の所は漸次花掃斑岩に移化して屠る高島村南方及び

畑東方の古庄暦岩石に接胸壁贋を輿

へ非常に堅牢なるホルンフ

ルスに頻化せしめて居る而して

高島村附近の泰山寺野及び獄山北方の有期洪積暦はその沈積物を

-1部載尚岩の揮層物質に負うで屠

る0触

輝線岩

岩脈むなす輝紋岩にはソ

ク谷の口より北六十度酉の方向大杉熊川を迫って西方

に延びるものと熊川柑新道よ-南に向ふものとがある共に

一本の太

い岩脈を中心はそれの両側に

い脈が無数に入って居る

「秩父有壁暦中は多-ある輝線岩は輝練凝灰岩と件ふ事が多

い之は

恐ら-その皆時の噴出岩であって輝練耗悉

石はその揮層が水中に洗濯堆積しわるものJ棟であるか

ら輝紋岩の生成は之を挿入せる育成暦と同時代のものである事は疑以計入れざる所であらう」と山

桃ampT最

前島

部地

批軸

1七

節大紋

四六

一八

下博吉氏は言って屠られるしかし乙の岩脈が多円文男氏の言はれ聖

二方断暦の延長とm心はれるも

の及び熊川断簡にその方向が粂-

一致して居る罫は偶然としては飲みに偶然過ぎる減が起るのであ

るか-も薄

い輝撒岩が頁岩の圏を切ってあらゆる割日は押し入つy居る様子から見てFJの輝激岩

はもつと後世のものであらうと恩はれるOしかし長石の分解状態その他どらして最近の沈入物質で

い事は明ら

かである輝線岩には断層の蔑め滑面の出水ね朋が各所に見られる

五地

構造線はその方向によ少南北線北東-南西線兼村税及び北西-

南東線の同種に分ける蔀が出

氷る

at花折断層

南北線に含まれるものにして地形的興味を有する為めよ-知られて居た79のであ

市場以南は安曇川ほよりそれ以北は石田川安曇川の小支流によって明瞭なる断層谷が作られ

て屠るその性質は来落ちにして断層練以東は北は移動して居るものと考

へられる乙の大断層も

北方は至るほ従以漸次その移動が小3-を-h保坂暦の衝上面を切ら熊川断層と交はる朗よ-北方に

於ではその垂直的水平的の移動はほとんど夜-在っ

てしまって屠る

飴知内川断層

多田文男氏が知内川断層と名付けられたものは三岡山の東亜よ-知内川は沿っ

て走るもので南するは従以南南西1南西1西南西と次第に走向を噛じ三谷村追分に至る迄琵琶湖に

凸面を向け

て連つで居るものである私の調査したのはその中最南の

一小部分であって北東-福間

ほ走って居る南落ちにして水平移動はほとんどな

い様であるその甫石

関川に沿以之と平行に走

る断簡は饗鹿野開析扇状地に三

部蔽はるJ篤めその水平移動の方向は不明であるが矢張南落ちで

ダ1ホシ

あらうO

rJの断層は饗鷹野の洪積層沈積後も活動した事はをの南西端

ケ谷はて砂利暦が南東

に五十皮の傾斜を有って屠る事からわかる

g熊川断層

熊川断層は

涌井豚小藩町よ-末南東に文字池上

直線に走-地形的にも明らか

に断層崖を

祁すもので三宅熊川む通-水坂峠の北に

七光折断層を切-角川南方に終るものである

私は熊川柑大字新道以来を調査したo地形的に見ても北が落ちて居る事は明らかである断層以南

の熊川暦の走向が断層に些つ-に捉

以著しprime走向の塾化する事及び輝線岩中の掻痕線はよら北側が

西下方に移動して居る事がわかる

亜p新道南方の南北断瀞

之は三方断層の延長と恩れるrJJほても輝線岩中の滑両の掻痕跡ほ

より西側が落ちて南に移動して屠る事がわかるOrJの断簡や端折断層等ほよって乙の蓮-の南北線ヒラ牛

によっ七分たれたる地川芸

きは西側が南Ugt移動したものtJある事がわかるしかし自在坊打

の東方む通る断層とその西方を走る南北線間の示準角岩その他の岩層の走向の塾化は乙の

一般運

動から見

て解梓のつかな

い状態を農してゐる

之等構造線成立の順序は高島野

次炭田東方の砿東1南西緑薫79溝-次は兼酉線が出水然る後

保坂圏の術上があったしかし開析断層はその後79活躍をつゞけたものであらうと考

へられる北

莱-

西

北酉-南東線は戯79新し

いものゝ棟である而して石四川に滑ふ断層及び高島村井月

依袈嚇向島郡中部他部枇印

i九

六客

筋六統

望0

二〇

滴方のもりは各々古期洪積層を切っ

てそれに傾斜HLJ持たせて屠る即ち之等は洪積層沈積後も活動

せる事を示して居る

之等の順序は唯

一般の侭向のみであって

生成後も幾度か活躍しねと恩はれる断簡の生成順序を

正確にきめる事は甚だ国難な罫である唯前述の石田川及び揮月の二断暦は最近に至る迄生動しっ

ヾけて居た覇は断言出来るのである(完)

世界金銀産額の消長

枇邪諮問に於ける物情の標準は金若-は鎚で

あるから金銀の健脚は放ける産鶴と其櫓減の

磯勢が寓枝物概は影響し延で

山鹿綴蹄界の景

気に韮大なる結果を招致すべきrJとは論講を侯

たずして明瞭である

過去十数年間に於ける世非金産額の滑長を

1

幣するに金塵籾の垂向は

-i九

一五年でp約二

億ポンドに蓮した敢砥堀は一九三

一年で

一九

心五年の敢高街に此し約三割二分の減産を不L

LJ其前年即ち

一九二7年は約三割の減産で

一九二三年は二割二分の減産であった其筏

産額は年々漸次噂卸した即ち

一九二七年

(昭

和二)には四億〇二育苗弗

-i九二八年には四

億〇六宵寓弗

一九二九年には四億〇三百常弗

で昭和四年には復ね減産した

聴牌大戦後貨幣として金の流通高は非常に埼

加したが産額は其割合は槍加しな

いのみなら

Page 4: Title 滋賀縣高島郡中部地質槪報 地球 (1931), 16(6): …...地 球 節十六容 蟹 ハ 鍵 田70 30 得 る に 至 ら な か っ た。し か し 乙の 小報 告

安曇川が朽木谷よ-TL肺は出入とする所の薯

梓(朽木村官尊

坊痛

の兼方)即ち高島改装泉田む

前記のやりょ-

し小さいが同様を成因で出水ねと胤はれるものである之等と小払地帯との境界

は等高曲線の明瞭在る塵化にょつて指摘出来る

川上村三谷旗醐村奥山高島村中溝の蓮かその他至る所は小扇状地が畿達しで居る又安曇

川p鴨川はその両側所々は河岸段丘を持って居る

三暦

Ⅰ古

古生圏の走向は大鰭は於

で北東-南西であるそれが天野川ソジヨク谷奥山の線で各-匿角

に北酉-南東に鼻化する乙の線以東の7gのを保坂暦と名付けるO保坂厨以西の菅生暦も封比に最

79韮要在る化石はほとAどを-すべて岩石のみを以て暦序を論ずるの止むな

きほ至ったしかし

好都合にも

一本のやJ特長を持った厚

い角岩があ-之を状櫨にして封此を進めたこの角岩以下の

地健監

石漸層それ以上(角岩を含まず)を熊川暦と名付けたしかし乙の両者の間には何等の不鷹

合もな

a保坂暦

大部分頁岩と角岩とよ-成わ極めて少且芸

砂岩がその間に挟まる北東よ-の衝上

にょつて熊川暦の上に乗ったものである乙の樹は大

きい搾仙ををして居るがそれの軸が術上向に

略平行をして居る所から見て乙の摺曲を典

へたるカと街上運動を起したものとは同じものでな

いと

繊封墜内応耶中部地貿相和

hlL

ltprimeprimeJ

節六雛

は三

一こ

して79同じ方向に働

いたものである角

岩は禍青色ほて明瞭は暦両をあらはしい

一二寸の厚さに分離するものである貫

岩は崩壊せる朗多きも黙らざる朗は黒色

数量する之等の岩男から見て乙の適-

は岩瀬暦下部に相昏するものではなから

うかと考

へられるしかし之には確認が

あるわけでは覆

い大杉の東方には少し

の石灰岩があるがその中には全然化石が

含まれて居な

b岩瀬暦

朽木付大字岩瀬以南蛇谷

ケ峰阿揮陀山の地域を占むその北朽

ヂシ

木柑地

原に於で

一皮向斜散在して熊川

暦の下に隠れるも朽木村大字

三谷

村尊下自在坊の所に

て背斜をなす虐め帯

び由

はれる岩石は大部分頁岩と角岩と

月か成

-少最の薄

い砂岩がその間に八つ

て屠る角岩は上部と下軸ほてその性質むやJ異はして居る即ち下軸は禍骨色

一寸位の厚

さに

層面をあらはすものであるが上部に至るに従以衣白色塊状にして暦面不明瞭なものになる之が乙

の層の下部と保坂暦との同圏序であらうかと考

へられる唯

一の理由であるrJ

上部岩瀬暦の粘板岩は常軌色を量し硯材に適するものがあってその産地は高島村武骨横山仝村

税石谷廉湘村長尾の捕閣約

一粁牛の所等の阿甜陀山を構成する地層は多-出るその最良のもの

は虎斑石と析し黄色の斑桁が粘板岩中は入-異聞からず歌かJ

らず磯蓮良好であると

いふ轟である

岩瀬熊川二圏を分ける政準に取った角岩の特長はその色赤味を帯び五分

-1寸位の薄

い暦が釆な

-合って屠る部である

fJの地方

一機には来る朗に溝俺が出るO常では小規模に所々にて採掘した事もあったが採算執れ

ざる篤め止めてしまった之は貴色又は藍青色む量し局桃状の厚薄不定の層状をなして屠る常に

動岩の上部に乗-又はその間に介在し母岩と同時期の珪威物在る密接を

不して居る前串

耶準角岩

及びその近-の角岩の附近ほは特に多最に粗る即ち多-は敢上部岩瀬暦と敢下部熊川層の生成と

共に沈積したものらし

い山

下俸音氏はこの溝俺は恐ら-密教輝石の酸化珪成物であらうと言って

屠られる

朽木村小伏東方には心衣岩が出るやゝ貴ザルだ次白色むしで属で常結晶の皮が進んで居る蔑

め化石の痕跡は灸-な

C熊川暦

三谷相称川以北熊川の速-ほ敬連する和木村地手原及び荒川に於では前に79逃

散到暇叶回托邦申郷地鮮枇部

四三

二ニ

El柑

べた様に向斜をなしLtJ岩瀬瀞の上に乗って屠る

熊川骨を叉上中下部は介つ革が出来る

下部熊川圏

主は頁岩砂岩及び角岩から成つy屠る頁岩は何度のものと慣別のつか夜

5貴色の

ものであるがここでは溝俺鋸が第二次的ほしみrJAで藍青色を量する所が多

い砂岩は目の粗い歌

いもので相督多畳に出る角岩は暦面の明瞭な禍春色のものである

中部熊川暦

砂岩質岩が主で之に角岩布衣岩を仲人砂岩は非常に倒-や

淡純色を帯びた

もので圏面は金-不明瞭である唯僅かに他の岩石との境界面ほてをの走向傾斜がわかるのみであ

る角岩は下部熊川厨のものによ-似て屠る

上部熊川樹

上部は主に貢岩から成-薄

い角岩砂岩石衣岩が中に入って居る乙の角岩も亦

衣白色塊状のものであるrJの漫-の石衣岩には多-輝練凝灰岩が件ふ現今は産机しな

いが常で

は悪風石と宿し覗石材として採掘したさうである

熊川層の岩瀬暦に封する著し

い鼎滝は厚い砂岩が噂して角岩が少な-夜か小

ruい屈桃状石衣岩が

所期に介在する事である石衣岩はかく多量に存すといヘビも大抵再結晶し化石ほとんどを-辛う

じて魔をさめ得る塞鹿の紡錘虫科化石の少亀を見受けて乙の暦の二塵石炭紀に鷹する罫を確かめ得

たのみである即ち熊川村河内北方千三百米の石衣岩中よ-

Schellwieniaspを河内東方入官米

のものに

Scheltwieniaspを大杉西方四百米の79のゝ中に蘇鹿hl見た

しかし乙の櫨に不完全在る

化石hl以でしては無論時代

恕PJめる事は不能である

三谷村大字梯川宰聡谷の画商西方約六宵米の所に磯岩がある磯は主に角岩頁岩及び荘園岩よゎ

成る最も巾の頗

い所で約三米横は追跡すれば数十光にて尖滅するこれはよって見れば或僅か

を期間唯

一小部分のみ或は陸相に在

った時があったかも知れ泊が乙の磯岩の上下に大在る時の距

わがあったとは考

へられ在

い唯乙の髄苗

厨沈積の時代金鰻を通じて乙の避-は

l鰭に隆起し三

瀬圏の時代よりも浅海に在って居た事は砂岩の多

い轟からも恕像閏凍る

Ht洪

洪積層は宙期洪積層と新期洪積暦の二つに分つ事が出凍る古期洪積暦は磯砂及び粘土よら成る

が新期洪積層はほとんど粘土を合せな

いしかし岩種のみからほては国別困難であるがその地形を

異にし

て居る馬容易に分つ革が出凍る即ち有期洪積層は浸蝕著し-進んで小谷多-標高も主に

二百米以上であるほ引

きか

へ新期洪積層は浸蝕の碍放伐-塵高甘八十米以下である

乱有期洪積暦

有期洪積層地の主在るものは饗鹿野泰山寺野及び高島炭附である

饗鹿野は現今陸軍演習場になって居て標高北部約二百米南部約二官五十米西部約三背光の基

地むなしp中央部は平面在れど縁退部は浸蝕著し-進んで小浜谷が多-作られて居るその底部に

古生圏が現はれる所がある之にょって見れば乙の暦の厚さは最厚部ほて宵乃至官五十来任であら

うと皿はれる下部は主として粘土及び砂よ-成-腐植物質叉

巧みやJ黒色敬呈する上部は砂

及び灘多-戟覇色をなす之は近畿地方の多-の宙期洪積層が然る如-大束の酸化を受けをがら沈

積した馬であると皿はれるすべて古生暦岩石の碑層物質から成-楽部は行-ほ従以磯の丸味を増

す化石は凝見され在かつねが岩質躍蝕帯皮から見て有期洪積暦に入れたものであるO

磁教収縮抱郡中部地斑縦軸

E

IW

i尤

六懲

節六雛

四品

l大

束山寺野の有期洪積暦の岩質は略饗鹿野と同じであるしかし南部に至るほ従以花園岩の砕層物

質が多-在る腰高は凡そ二甘米飴にして北部がや上向い

乙の饗鹿野泰山寺野の二基地は嘗で

山つの大扇状地とし

て庄成しその揮層物堆積の中心箇所を今の安曇川の流れの所に持つLJのであ

るがその後土地が隆起して安曇川の浸蝕若返-蓬は二分されたのであらうと瓜はれる

ムソ

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永尾村横山に並数の露頭がある之は饗鹿野の腐植物質圏に相皆するものであらう

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い岩質は花樹岩及びi鎮静岩石の砕層物質から成

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い朗ほて三米

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い砂は三

河島鋸業所長望

Ftによれば九十パーセントの珪酸を合力との

罫である土仇は小規模に之を採取し糖米砂膳砂に使用して屠る茄炭は白土谷出口の朗ほて灘

今採炭中である政も厚い79のは約二米採炭吋能のものは四枚ある

白土層は主として亜炭暦の上に乗る白土層の下の並数桟白土暦以外の地層下にあるものは此し

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へられる

上部に至るに捉以磯砂の畳を増すしかし多少の粘土は称する最上部は浸蝕の絡基除かれて饗

鹿野泰山寺野の如き中州蔀

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新期洪積層

新期洪積層は川上村三谷燐潮柑奥山高島村中溝その他車る朗で小扇状地と

って存在する又安曇川鴨川の両側には河岸段丘が磯達しで居るその岩贋は主とし

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とよ-成って屠る安曇川に於でも鴨川に於でも段丘は三段に在って屠る即ちfJの蓮-ほでは近

さ時代に三度の隆起があって河流が若返った事堅

不して居るD

四火

花尚岩

荘園岩は高島村南方比良山脈の撹

さに出て居る多少自形を持った斜長石の大き

い斑晶が多-ある韻雲母花園岩であるが周遊の所は漸次花掃斑岩に移化して屠る高島村南方及び

畑東方の古庄暦岩石に接胸壁贋を輿

へ非常に堅牢なるホルンフ

ルスに頻化せしめて居る而して

高島村附近の泰山寺野及び獄山北方の有期洪積暦はその沈積物を

-1部載尚岩の揮層物質に負うで屠

る0触

輝線岩

岩脈むなす輝紋岩にはソ

ク谷の口より北六十度酉の方向大杉熊川を迫って西方

に延びるものと熊川柑新道よ-南に向ふものとがある共に

一本の太

い岩脈を中心はそれの両側に

い脈が無数に入って居る

「秩父有壁暦中は多-ある輝線岩は輝練凝灰岩と件ふ事が多

い之は

恐ら-その皆時の噴出岩であって輝練耗悉

石はその揮層が水中に洗濯堆積しわるものJ棟であるか

ら輝紋岩の生成は之を挿入せる育成暦と同時代のものである事は疑以計入れざる所であらう」と山

桃ampT最

前島

部地

批軸

1七

節大紋

四六

一八

下博吉氏は言って屠られるしかし乙の岩脈が多円文男氏の言はれ聖

二方断暦の延長とm心はれるも

の及び熊川断簡にその方向が粂-

一致して居る罫は偶然としては飲みに偶然過ぎる減が起るのであ

るか-も薄

い輝撒岩が頁岩の圏を切ってあらゆる割日は押し入つy居る様子から見てFJの輝激岩

はもつと後世のものであらうと恩はれるOしかし長石の分解状態その他どらして最近の沈入物質で

い事は明ら

かである輝線岩には断層の蔑め滑面の出水ね朋が各所に見られる

五地

構造線はその方向によ少南北線北東-南西線兼村税及び北西-

南東線の同種に分ける蔀が出

氷る

at花折断層

南北線に含まれるものにして地形的興味を有する為めよ-知られて居た79のであ

市場以南は安曇川ほよりそれ以北は石田川安曇川の小支流によって明瞭なる断層谷が作られ

て屠るその性質は来落ちにして断層練以東は北は移動して居るものと考

へられる乙の大断層も

北方は至るほ従以漸次その移動が小3-を-h保坂暦の衝上面を切ら熊川断層と交はる朗よ-北方に

於ではその垂直的水平的の移動はほとんど夜-在っ

てしまって屠る

飴知内川断層

多田文男氏が知内川断層と名付けられたものは三岡山の東亜よ-知内川は沿っ

て走るもので南するは従以南南西1南西1西南西と次第に走向を噛じ三谷村追分に至る迄琵琶湖に

凸面を向け

て連つで居るものである私の調査したのはその中最南の

一小部分であって北東-福間

ほ走って居る南落ちにして水平移動はほとんどな

い様であるその甫石

関川に沿以之と平行に走

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部蔽はるJ篤めその水平移動の方向は不明であるが矢張南落ちで

ダ1ホシ

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ケ谷はて砂利暦が南東

に五十皮の傾斜を有って屠る事からわかる

g熊川断層

熊川断層は

涌井豚小藩町よ-末南東に文字池上

直線に走-地形的にも明らか

に断層崖を

祁すもので三宅熊川む通-水坂峠の北に

七光折断層を切-角川南方に終るものである

私は熊川柑大字新道以来を調査したo地形的に見ても北が落ちて居る事は明らかである断層以南

の熊川暦の走向が断層に些つ-に捉

以著しprime走向の塾化する事及び輝線岩中の掻痕線はよら北側が

西下方に移動して居る事がわかる

亜p新道南方の南北断瀞

之は三方断層の延長と恩れるrJJほても輝線岩中の滑両の掻痕跡ほ

より西側が落ちて南に移動して屠る事がわかるOrJの断簡や端折断層等ほよって乙の蓮-の南北線ヒラ牛

によっ七分たれたる地川芸

きは西側が南Ugt移動したものtJある事がわかるしかし自在坊打

の東方む通る断層とその西方を走る南北線間の示準角岩その他の岩層の走向の塾化は乙の

一般運

動から見

て解梓のつかな

い状態を農してゐる

之等構造線成立の順序は高島野

次炭田東方の砿東1南西緑薫79溝-次は兼酉線が出水然る後

保坂圏の術上があったしかし開析断層はその後79活躍をつゞけたものであらうと考

へられる北

莱-

西

北酉-南東線は戯79新し

いものゝ棟である而して石四川に滑ふ断層及び高島村井月

依袈嚇向島郡中部他部枇印

i九

六客

筋六統

望0

二〇

滴方のもりは各々古期洪積層を切っ

てそれに傾斜HLJ持たせて屠る即ち之等は洪積層沈積後も活動

せる事を示して居る

之等の順序は唯

一般の侭向のみであって

生成後も幾度か活躍しねと恩はれる断簡の生成順序を

正確にきめる事は甚だ国難な罫である唯前述の石田川及び揮月の二断暦は最近に至る迄生動しっ

ヾけて居た覇は断言出来るのである(完)

世界金銀産額の消長

枇邪諮問に於ける物情の標準は金若-は鎚で

あるから金銀の健脚は放ける産鶴と其櫓減の

磯勢が寓枝物概は影響し延で

山鹿綴蹄界の景

気に韮大なる結果を招致すべきrJとは論講を侯

たずして明瞭である

過去十数年間に於ける世非金産額の滑長を

1

幣するに金塵籾の垂向は

-i九

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億ポンドに蓮した敢砥堀は一九三

一年で

一九

心五年の敢高街に此し約三割二分の減産を不L

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一九二7年は約三割の減産で

一九二三年は二割二分の減産であった其筏

産額は年々漸次噂卸した即ち

一九二七年

(昭

和二)には四億〇二育苗弗

-i九二八年には四

億〇六宵寓弗

一九二九年には四億〇三百常弗

で昭和四年には復ね減産した

聴牌大戦後貨幣として金の流通高は非常に埼

加したが産額は其割合は槍加しな

いのみなら

Page 5: Title 滋賀縣高島郡中部地質槪報 地球 (1931), 16(6): …...地 球 節十六容 蟹 ハ 鍵 田70 30 得 る に 至 ら な か っ た。し か し 乙の 小報 告

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いたものである角

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は岩瀬暦下部に相昏するものではなから

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三谷

村尊下自在坊の所に

て背斜をなす虐め帯

び由

はれる岩石は大部分頁岩と角岩と

月か成

-少最の薄

い砂岩がその間に八つ

て屠る角岩は上部と下軸ほてその性質むやJ異はして居る即ち下軸は禍骨色

一寸位の厚

さに

層面をあらはすものであるが上部に至るに従以衣白色塊状にして暦面不明瞭なものになる之が乙

の層の下部と保坂暦との同圏序であらうかと考

へられる唯

一の理由であるrJ

上部岩瀬暦の粘板岩は常軌色を量し硯材に適するものがあってその産地は高島村武骨横山仝村

税石谷廉湘村長尾の捕閣約

一粁牛の所等の阿甜陀山を構成する地層は多-出るその最良のもの

は虎斑石と析し黄色の斑桁が粘板岩中は入-異聞からず歌かJ

らず磯蓮良好であると

いふ轟である

岩瀬熊川二圏を分ける政準に取った角岩の特長はその色赤味を帯び五分

-1寸位の薄

い暦が釆な

-合って屠る部である

fJの地方

一機には来る朗に溝俺が出るO常では小規模に所々にて採掘した事もあったが採算執れ

ざる篤め止めてしまった之は貴色又は藍青色む量し局桃状の厚薄不定の層状をなして屠る常に

動岩の上部に乗-又はその間に介在し母岩と同時期の珪威物在る密接を

不して居る前串

耶準角岩

及びその近-の角岩の附近ほは特に多最に粗る即ち多-は敢上部岩瀬暦と敢下部熊川層の生成と

共に沈積したものらし

い山

下俸音氏はこの溝俺は恐ら-密教輝石の酸化珪成物であらうと言って

屠られる

朽木村小伏東方には心衣岩が出るやゝ貴ザルだ次白色むしで属で常結晶の皮が進んで居る蔑

め化石の痕跡は灸-な

C熊川暦

三谷相称川以北熊川の速-ほ敬連する和木村地手原及び荒川に於では前に79逃

散到暇叶回托邦申郷地鮮枇部

四三

二ニ

El柑

べた様に向斜をなしLtJ岩瀬瀞の上に乗って屠る

熊川骨を叉上中下部は介つ革が出来る

下部熊川圏

主は頁岩砂岩及び角岩から成つy屠る頁岩は何度のものと慣別のつか夜

5貴色の

ものであるがここでは溝俺鋸が第二次的ほしみrJAで藍青色を量する所が多

い砂岩は目の粗い歌

いもので相督多畳に出る角岩は暦面の明瞭な禍春色のものである

中部熊川暦

砂岩質岩が主で之に角岩布衣岩を仲人砂岩は非常に倒-や

淡純色を帯びた

もので圏面は金-不明瞭である唯僅かに他の岩石との境界面ほてをの走向傾斜がわかるのみであ

る角岩は下部熊川厨のものによ-似て屠る

上部熊川樹

上部は主に貢岩から成-薄

い角岩砂岩石衣岩が中に入って居る乙の角岩も亦

衣白色塊状のものであるrJの漫-の石衣岩には多-輝練凝灰岩が件ふ現今は産机しな

いが常で

は悪風石と宿し覗石材として採掘したさうである

熊川層の岩瀬暦に封する著し

い鼎滝は厚い砂岩が噂して角岩が少な-夜か小

ruい屈桃状石衣岩が

所期に介在する事である石衣岩はかく多量に存すといヘビも大抵再結晶し化石ほとんどを-辛う

じて魔をさめ得る塞鹿の紡錘虫科化石の少亀を見受けて乙の暦の二塵石炭紀に鷹する罫を確かめ得

たのみである即ち熊川村河内北方千三百米の石衣岩中よ-

Schellwieniaspを河内東方入官米

のものに

Scheltwieniaspを大杉西方四百米の79のゝ中に蘇鹿hl見た

しかし乙の櫨に不完全在る

化石hl以でしては無論時代

恕PJめる事は不能である

三谷村大字梯川宰聡谷の画商西方約六宵米の所に磯岩がある磯は主に角岩頁岩及び荘園岩よゎ

成る最も巾の頗

い所で約三米横は追跡すれば数十光にて尖滅するこれはよって見れば或僅か

を期間唯

一小部分のみ或は陸相に在

った時があったかも知れ泊が乙の磯岩の上下に大在る時の距

わがあったとは考

へられ在

い唯乙の髄苗

厨沈積の時代金鰻を通じて乙の避-は

l鰭に隆起し三

瀬圏の時代よりも浅海に在って居た事は砂岩の多

い轟からも恕像閏凍る

Ht洪

洪積層は宙期洪積層と新期洪積暦の二つに分つ事が出凍る古期洪積暦は磯砂及び粘土よら成る

が新期洪積層はほとんど粘土を合せな

いしかし岩種のみからほては国別困難であるがその地形を

異にし

て居る馬容易に分つ革が出凍る即ち有期洪積層は浸蝕著し-進んで小谷多-標高も主に

二百米以上であるほ引

きか

へ新期洪積層は浸蝕の碍放伐-塵高甘八十米以下である

乱有期洪積暦

有期洪積層地の主在るものは饗鹿野泰山寺野及び高島炭附である

饗鹿野は現今陸軍演習場になって居て標高北部約二百米南部約二官五十米西部約三背光の基

地むなしp中央部は平面在れど縁退部は浸蝕著し-進んで小浜谷が多-作られて居るその底部に

古生圏が現はれる所がある之にょって見れば乙の暦の厚さは最厚部ほて宵乃至官五十来任であら

うと皿はれる下部は主として粘土及び砂よ-成-腐植物質叉

巧みやJ黒色敬呈する上部は砂

及び灘多-戟覇色をなす之は近畿地方の多-の宙期洪積層が然る如-大束の酸化を受けをがら沈

積した馬であると皿はれるすべて古生暦岩石の碑層物質から成-楽部は行-ほ従以磯の丸味を増

す化石は凝見され在かつねが岩質躍蝕帯皮から見て有期洪積暦に入れたものであるO

磁教収縮抱郡中部地斑縦軸

E

IW

i尤

六懲

節六雛

四品

l大

束山寺野の有期洪積暦の岩質は略饗鹿野と同じであるしかし南部に至るほ従以花園岩の砕層物

質が多-在る腰高は凡そ二甘米飴にして北部がや上向い

乙の饗鹿野泰山寺野の二基地は嘗で

山つの大扇状地とし

て庄成しその揮層物堆積の中心箇所を今の安曇川の流れの所に持つLJのであ

るがその後土地が隆起して安曇川の浸蝕若返-蓬は二分されたのであらうと瓜はれる

ムソ

高島村武

永尾村横山に並数の露頭がある之は饗鹿野の腐植物質圏に相皆するものであらう

と胤はれる

泰山等野と鴨川をへだて1高島村大字邦所の笛は79有期洪積層がある下部には僻物の幹が含ま

れるが炭化の春慶は低

い岩質は花樹岩及びi鎮静岩石の砕層物質から成

って居る

高島離数々田は前記二つの古捌洪積闇と同時の堆積物であらうと思はれるが淡肇は幾分柵遺して

居る即ち下部は亜炭暦粘土層磯暦の外に白土暦が入って凍る白土厨は最も厚

い朗ほて三米

の厚さを持ち白色の極めて糾

い砂は三

河島鋸業所長望

Ftによれば九十パーセントの珪酸を合力との

罫である土仇は小規模に之を採取し糖米砂膳砂に使用して屠る茄炭は白土谷出口の朗ほて灘

今採炭中である政も厚い79のは約二米採炭吋能のものは四枚ある

白土層は主として亜炭暦の上に乗る白土層の下の並数桟白土暦以外の地層下にあるものは此し

て炭化の庶高-その貿良好であるを見れば乙の白土は亜炭生成に何か密接なる関係があるの七

は夜

からうかと考

へられる

上部に至るに捉以磯砂の畳を増すしかし多少の粘土は称する最上部は浸蝕の絡基除かれて饗

鹿野泰山寺野の如き中州蔀

は狭

b

新期洪積層

新期洪積層は川上村三谷燐潮柑奥山高島村中溝その他車る朗で小扇状地と

って存在する又安曇川鴨川の両側には河岸段丘が磯達しで居るその岩贋は主とし

て砂と磯

とよ-成って屠る安曇川に於でも鴨川に於でも段丘は三段に在って屠る即ちfJの蓮-ほでは近

さ時代に三度の隆起があって河流が若返った事堅

不して居るD

四火

花尚岩

荘園岩は高島村南方比良山脈の撹

さに出て居る多少自形を持った斜長石の大き

い斑晶が多-ある韻雲母花園岩であるが周遊の所は漸次花掃斑岩に移化して屠る高島村南方及び

畑東方の古庄暦岩石に接胸壁贋を輿

へ非常に堅牢なるホルンフ

ルスに頻化せしめて居る而して

高島村附近の泰山寺野及び獄山北方の有期洪積暦はその沈積物を

-1部載尚岩の揮層物質に負うで屠

る0触

輝線岩

岩脈むなす輝紋岩にはソ

ク谷の口より北六十度酉の方向大杉熊川を迫って西方

に延びるものと熊川柑新道よ-南に向ふものとがある共に

一本の太

い岩脈を中心はそれの両側に

い脈が無数に入って居る

「秩父有壁暦中は多-ある輝線岩は輝練凝灰岩と件ふ事が多

い之は

恐ら-その皆時の噴出岩であって輝練耗悉

石はその揮層が水中に洗濯堆積しわるものJ棟であるか

ら輝紋岩の生成は之を挿入せる育成暦と同時代のものである事は疑以計入れざる所であらう」と山

桃ampT最

前島

部地

批軸

1七

節大紋

四六

一八

下博吉氏は言って屠られるしかし乙の岩脈が多円文男氏の言はれ聖

二方断暦の延長とm心はれるも

の及び熊川断簡にその方向が粂-

一致して居る罫は偶然としては飲みに偶然過ぎる減が起るのであ

るか-も薄

い輝撒岩が頁岩の圏を切ってあらゆる割日は押し入つy居る様子から見てFJの輝激岩

はもつと後世のものであらうと恩はれるOしかし長石の分解状態その他どらして最近の沈入物質で

い事は明ら

かである輝線岩には断層の蔑め滑面の出水ね朋が各所に見られる

五地

構造線はその方向によ少南北線北東-南西線兼村税及び北西-

南東線の同種に分ける蔀が出

氷る

at花折断層

南北線に含まれるものにして地形的興味を有する為めよ-知られて居た79のであ

市場以南は安曇川ほよりそれ以北は石田川安曇川の小支流によって明瞭なる断層谷が作られ

て屠るその性質は来落ちにして断層練以東は北は移動して居るものと考

へられる乙の大断層も

北方は至るほ従以漸次その移動が小3-を-h保坂暦の衝上面を切ら熊川断層と交はる朗よ-北方に

於ではその垂直的水平的の移動はほとんど夜-在っ

てしまって屠る

飴知内川断層

多田文男氏が知内川断層と名付けられたものは三岡山の東亜よ-知内川は沿っ

て走るもので南するは従以南南西1南西1西南西と次第に走向を噛じ三谷村追分に至る迄琵琶湖に

凸面を向け

て連つで居るものである私の調査したのはその中最南の

一小部分であって北東-福間

ほ走って居る南落ちにして水平移動はほとんどな

い様であるその甫石

関川に沿以之と平行に走

る断簡は饗鹿野開析扇状地に三

部蔽はるJ篤めその水平移動の方向は不明であるが矢張南落ちで

ダ1ホシ

あらうO

rJの断層は饗鷹野の洪積層沈積後も活動した事はをの南西端

ケ谷はて砂利暦が南東

に五十皮の傾斜を有って屠る事からわかる

g熊川断層

熊川断層は

涌井豚小藩町よ-末南東に文字池上

直線に走-地形的にも明らか

に断層崖を

祁すもので三宅熊川む通-水坂峠の北に

七光折断層を切-角川南方に終るものである

私は熊川柑大字新道以来を調査したo地形的に見ても北が落ちて居る事は明らかである断層以南

の熊川暦の走向が断層に些つ-に捉

以著しprime走向の塾化する事及び輝線岩中の掻痕線はよら北側が

西下方に移動して居る事がわかる

亜p新道南方の南北断瀞

之は三方断層の延長と恩れるrJJほても輝線岩中の滑両の掻痕跡ほ

より西側が落ちて南に移動して屠る事がわかるOrJの断簡や端折断層等ほよって乙の蓮-の南北線ヒラ牛

によっ七分たれたる地川芸

きは西側が南Ugt移動したものtJある事がわかるしかし自在坊打

の東方む通る断層とその西方を走る南北線間の示準角岩その他の岩層の走向の塾化は乙の

一般運

動から見

て解梓のつかな

い状態を農してゐる

之等構造線成立の順序は高島野

次炭田東方の砿東1南西緑薫79溝-次は兼酉線が出水然る後

保坂圏の術上があったしかし開析断層はその後79活躍をつゞけたものであらうと考

へられる北

莱-

西

北酉-南東線は戯79新し

いものゝ棟である而して石四川に滑ふ断層及び高島村井月

依袈嚇向島郡中部他部枇印

i九

六客

筋六統

望0

二〇

滴方のもりは各々古期洪積層を切っ

てそれに傾斜HLJ持たせて屠る即ち之等は洪積層沈積後も活動

せる事を示して居る

之等の順序は唯

一般の侭向のみであって

生成後も幾度か活躍しねと恩はれる断簡の生成順序を

正確にきめる事は甚だ国難な罫である唯前述の石田川及び揮月の二断暦は最近に至る迄生動しっ

ヾけて居た覇は断言出来るのである(完)

世界金銀産額の消長

枇邪諮問に於ける物情の標準は金若-は鎚で

あるから金銀の健脚は放ける産鶴と其櫓減の

磯勢が寓枝物概は影響し延で

山鹿綴蹄界の景

気に韮大なる結果を招致すべきrJとは論講を侯

たずして明瞭である

過去十数年間に於ける世非金産額の滑長を

1

幣するに金塵籾の垂向は

-i九

一五年でp約二

億ポンドに蓮した敢砥堀は一九三

一年で

一九

心五年の敢高街に此し約三割二分の減産を不L

LJ其前年即ち

一九二7年は約三割の減産で

一九二三年は二割二分の減産であった其筏

産額は年々漸次噂卸した即ち

一九二七年

(昭

和二)には四億〇二育苗弗

-i九二八年には四

億〇六宵寓弗

一九二九年には四億〇三百常弗

で昭和四年には復ね減産した

聴牌大戦後貨幣として金の流通高は非常に埼

加したが産額は其割合は槍加しな

いのみなら

Page 6: Title 滋賀縣高島郡中部地質槪報 地球 (1931), 16(6): …...地 球 節十六容 蟹 ハ 鍵 田70 30 得 る に 至 ら な か っ た。し か し 乙の 小報 告

て屠る角岩は上部と下軸ほてその性質むやJ異はして居る即ち下軸は禍骨色

一寸位の厚

さに

層面をあらはすものであるが上部に至るに従以衣白色塊状にして暦面不明瞭なものになる之が乙

の層の下部と保坂暦との同圏序であらうかと考

へられる唯

一の理由であるrJ

上部岩瀬暦の粘板岩は常軌色を量し硯材に適するものがあってその産地は高島村武骨横山仝村

税石谷廉湘村長尾の捕閣約

一粁牛の所等の阿甜陀山を構成する地層は多-出るその最良のもの

は虎斑石と析し黄色の斑桁が粘板岩中は入-異聞からず歌かJ

らず磯蓮良好であると

いふ轟である

岩瀬熊川二圏を分ける政準に取った角岩の特長はその色赤味を帯び五分

-1寸位の薄

い暦が釆な

-合って屠る部である

fJの地方

一機には来る朗に溝俺が出るO常では小規模に所々にて採掘した事もあったが採算執れ

ざる篤め止めてしまった之は貴色又は藍青色む量し局桃状の厚薄不定の層状をなして屠る常に

動岩の上部に乗-又はその間に介在し母岩と同時期の珪威物在る密接を

不して居る前串

耶準角岩

及びその近-の角岩の附近ほは特に多最に粗る即ち多-は敢上部岩瀬暦と敢下部熊川層の生成と

共に沈積したものらし

い山

下俸音氏はこの溝俺は恐ら-密教輝石の酸化珪成物であらうと言って

屠られる

朽木村小伏東方には心衣岩が出るやゝ貴ザルだ次白色むしで属で常結晶の皮が進んで居る蔑

め化石の痕跡は灸-な

C熊川暦

三谷相称川以北熊川の速-ほ敬連する和木村地手原及び荒川に於では前に79逃

散到暇叶回托邦申郷地鮮枇部

四三

二ニ

El柑

べた様に向斜をなしLtJ岩瀬瀞の上に乗って屠る

熊川骨を叉上中下部は介つ革が出来る

下部熊川圏

主は頁岩砂岩及び角岩から成つy屠る頁岩は何度のものと慣別のつか夜

5貴色の

ものであるがここでは溝俺鋸が第二次的ほしみrJAで藍青色を量する所が多

い砂岩は目の粗い歌

いもので相督多畳に出る角岩は暦面の明瞭な禍春色のものである

中部熊川暦

砂岩質岩が主で之に角岩布衣岩を仲人砂岩は非常に倒-や

淡純色を帯びた

もので圏面は金-不明瞭である唯僅かに他の岩石との境界面ほてをの走向傾斜がわかるのみであ

る角岩は下部熊川厨のものによ-似て屠る

上部熊川樹

上部は主に貢岩から成-薄

い角岩砂岩石衣岩が中に入って居る乙の角岩も亦

衣白色塊状のものであるrJの漫-の石衣岩には多-輝練凝灰岩が件ふ現今は産机しな

いが常で

は悪風石と宿し覗石材として採掘したさうである

熊川層の岩瀬暦に封する著し

い鼎滝は厚い砂岩が噂して角岩が少な-夜か小

ruい屈桃状石衣岩が

所期に介在する事である石衣岩はかく多量に存すといヘビも大抵再結晶し化石ほとんどを-辛う

じて魔をさめ得る塞鹿の紡錘虫科化石の少亀を見受けて乙の暦の二塵石炭紀に鷹する罫を確かめ得

たのみである即ち熊川村河内北方千三百米の石衣岩中よ-

Schellwieniaspを河内東方入官米

のものに

Scheltwieniaspを大杉西方四百米の79のゝ中に蘇鹿hl見た

しかし乙の櫨に不完全在る

化石hl以でしては無論時代

恕PJめる事は不能である

三谷村大字梯川宰聡谷の画商西方約六宵米の所に磯岩がある磯は主に角岩頁岩及び荘園岩よゎ

成る最も巾の頗

い所で約三米横は追跡すれば数十光にて尖滅するこれはよって見れば或僅か

を期間唯

一小部分のみ或は陸相に在

った時があったかも知れ泊が乙の磯岩の上下に大在る時の距

わがあったとは考

へられ在

い唯乙の髄苗

厨沈積の時代金鰻を通じて乙の避-は

l鰭に隆起し三

瀬圏の時代よりも浅海に在って居た事は砂岩の多

い轟からも恕像閏凍る

Ht洪

洪積層は宙期洪積層と新期洪積暦の二つに分つ事が出凍る古期洪積暦は磯砂及び粘土よら成る

が新期洪積層はほとんど粘土を合せな

いしかし岩種のみからほては国別困難であるがその地形を

異にし

て居る馬容易に分つ革が出凍る即ち有期洪積層は浸蝕著し-進んで小谷多-標高も主に

二百米以上であるほ引

きか

へ新期洪積層は浸蝕の碍放伐-塵高甘八十米以下である

乱有期洪積暦

有期洪積層地の主在るものは饗鹿野泰山寺野及び高島炭附である

饗鹿野は現今陸軍演習場になって居て標高北部約二百米南部約二官五十米西部約三背光の基

地むなしp中央部は平面在れど縁退部は浸蝕著し-進んで小浜谷が多-作られて居るその底部に

古生圏が現はれる所がある之にょって見れば乙の暦の厚さは最厚部ほて宵乃至官五十来任であら

うと皿はれる下部は主として粘土及び砂よ-成-腐植物質叉

巧みやJ黒色敬呈する上部は砂

及び灘多-戟覇色をなす之は近畿地方の多-の宙期洪積層が然る如-大束の酸化を受けをがら沈

積した馬であると皿はれるすべて古生暦岩石の碑層物質から成-楽部は行-ほ従以磯の丸味を増

す化石は凝見され在かつねが岩質躍蝕帯皮から見て有期洪積暦に入れたものであるO

磁教収縮抱郡中部地斑縦軸

E

IW

i尤

六懲

節六雛

四品

l大

束山寺野の有期洪積暦の岩質は略饗鹿野と同じであるしかし南部に至るほ従以花園岩の砕層物

質が多-在る腰高は凡そ二甘米飴にして北部がや上向い

乙の饗鹿野泰山寺野の二基地は嘗で

山つの大扇状地とし

て庄成しその揮層物堆積の中心箇所を今の安曇川の流れの所に持つLJのであ

るがその後土地が隆起して安曇川の浸蝕若返-蓬は二分されたのであらうと瓜はれる

ムソ

高島村武

永尾村横山に並数の露頭がある之は饗鹿野の腐植物質圏に相皆するものであらう

と胤はれる

泰山等野と鴨川をへだて1高島村大字邦所の笛は79有期洪積層がある下部には僻物の幹が含ま

れるが炭化の春慶は低

い岩質は花樹岩及びi鎮静岩石の砕層物質から成

って居る

高島離数々田は前記二つの古捌洪積闇と同時の堆積物であらうと思はれるが淡肇は幾分柵遺して

居る即ち下部は亜炭暦粘土層磯暦の外に白土暦が入って凍る白土厨は最も厚

い朗ほて三米

の厚さを持ち白色の極めて糾

い砂は三

河島鋸業所長望

Ftによれば九十パーセントの珪酸を合力との

罫である土仇は小規模に之を採取し糖米砂膳砂に使用して屠る茄炭は白土谷出口の朗ほて灘

今採炭中である政も厚い79のは約二米採炭吋能のものは四枚ある

白土層は主として亜炭暦の上に乗る白土層の下の並数桟白土暦以外の地層下にあるものは此し

て炭化の庶高-その貿良好であるを見れば乙の白土は亜炭生成に何か密接なる関係があるの七

は夜

からうかと考

へられる

上部に至るに捉以磯砂の畳を増すしかし多少の粘土は称する最上部は浸蝕の絡基除かれて饗

鹿野泰山寺野の如き中州蔀

は狭

b

新期洪積層

新期洪積層は川上村三谷燐潮柑奥山高島村中溝その他車る朗で小扇状地と

って存在する又安曇川鴨川の両側には河岸段丘が磯達しで居るその岩贋は主とし

て砂と磯

とよ-成って屠る安曇川に於でも鴨川に於でも段丘は三段に在って屠る即ちfJの蓮-ほでは近

さ時代に三度の隆起があって河流が若返った事堅

不して居るD

四火

花尚岩

荘園岩は高島村南方比良山脈の撹

さに出て居る多少自形を持った斜長石の大き

い斑晶が多-ある韻雲母花園岩であるが周遊の所は漸次花掃斑岩に移化して屠る高島村南方及び

畑東方の古庄暦岩石に接胸壁贋を輿

へ非常に堅牢なるホルンフ

ルスに頻化せしめて居る而して

高島村附近の泰山寺野及び獄山北方の有期洪積暦はその沈積物を

-1部載尚岩の揮層物質に負うで屠

る0触

輝線岩

岩脈むなす輝紋岩にはソ

ク谷の口より北六十度酉の方向大杉熊川を迫って西方

に延びるものと熊川柑新道よ-南に向ふものとがある共に

一本の太

い岩脈を中心はそれの両側に

い脈が無数に入って居る

「秩父有壁暦中は多-ある輝線岩は輝練凝灰岩と件ふ事が多

い之は

恐ら-その皆時の噴出岩であって輝練耗悉

石はその揮層が水中に洗濯堆積しわるものJ棟であるか

ら輝紋岩の生成は之を挿入せる育成暦と同時代のものである事は疑以計入れざる所であらう」と山

桃ampT最

前島

部地

批軸

1七

節大紋

四六

一八

下博吉氏は言って屠られるしかし乙の岩脈が多円文男氏の言はれ聖

二方断暦の延長とm心はれるも

の及び熊川断簡にその方向が粂-

一致して居る罫は偶然としては飲みに偶然過ぎる減が起るのであ

るか-も薄

い輝撒岩が頁岩の圏を切ってあらゆる割日は押し入つy居る様子から見てFJの輝激岩

はもつと後世のものであらうと恩はれるOしかし長石の分解状態その他どらして最近の沈入物質で

い事は明ら

かである輝線岩には断層の蔑め滑面の出水ね朋が各所に見られる

五地

構造線はその方向によ少南北線北東-南西線兼村税及び北西-

南東線の同種に分ける蔀が出

氷る

at花折断層

南北線に含まれるものにして地形的興味を有する為めよ-知られて居た79のであ

市場以南は安曇川ほよりそれ以北は石田川安曇川の小支流によって明瞭なる断層谷が作られ

て屠るその性質は来落ちにして断層練以東は北は移動して居るものと考

へられる乙の大断層も

北方は至るほ従以漸次その移動が小3-を-h保坂暦の衝上面を切ら熊川断層と交はる朗よ-北方に

於ではその垂直的水平的の移動はほとんど夜-在っ

てしまって屠る

飴知内川断層

多田文男氏が知内川断層と名付けられたものは三岡山の東亜よ-知内川は沿っ

て走るもので南するは従以南南西1南西1西南西と次第に走向を噛じ三谷村追分に至る迄琵琶湖に

凸面を向け

て連つで居るものである私の調査したのはその中最南の

一小部分であって北東-福間

ほ走って居る南落ちにして水平移動はほとんどな

い様であるその甫石

関川に沿以之と平行に走

る断簡は饗鹿野開析扇状地に三

部蔽はるJ篤めその水平移動の方向は不明であるが矢張南落ちで

ダ1ホシ

あらうO

rJの断層は饗鷹野の洪積層沈積後も活動した事はをの南西端

ケ谷はて砂利暦が南東

に五十皮の傾斜を有って屠る事からわかる

g熊川断層

熊川断層は

涌井豚小藩町よ-末南東に文字池上

直線に走-地形的にも明らか

に断層崖を

祁すもので三宅熊川む通-水坂峠の北に

七光折断層を切-角川南方に終るものである

私は熊川柑大字新道以来を調査したo地形的に見ても北が落ちて居る事は明らかである断層以南

の熊川暦の走向が断層に些つ-に捉

以著しprime走向の塾化する事及び輝線岩中の掻痕線はよら北側が

西下方に移動して居る事がわかる

亜p新道南方の南北断瀞

之は三方断層の延長と恩れるrJJほても輝線岩中の滑両の掻痕跡ほ

より西側が落ちて南に移動して屠る事がわかるOrJの断簡や端折断層等ほよって乙の蓮-の南北線ヒラ牛

によっ七分たれたる地川芸

きは西側が南Ugt移動したものtJある事がわかるしかし自在坊打

の東方む通る断層とその西方を走る南北線間の示準角岩その他の岩層の走向の塾化は乙の

一般運

動から見

て解梓のつかな

い状態を農してゐる

之等構造線成立の順序は高島野

次炭田東方の砿東1南西緑薫79溝-次は兼酉線が出水然る後

保坂圏の術上があったしかし開析断層はその後79活躍をつゞけたものであらうと考

へられる北

莱-

西

北酉-南東線は戯79新し

いものゝ棟である而して石四川に滑ふ断層及び高島村井月

依袈嚇向島郡中部他部枇印

i九

六客

筋六統

望0

二〇

滴方のもりは各々古期洪積層を切っ

てそれに傾斜HLJ持たせて屠る即ち之等は洪積層沈積後も活動

せる事を示して居る

之等の順序は唯

一般の侭向のみであって

生成後も幾度か活躍しねと恩はれる断簡の生成順序を

正確にきめる事は甚だ国難な罫である唯前述の石田川及び揮月の二断暦は最近に至る迄生動しっ

ヾけて居た覇は断言出来るのである(完)

世界金銀産額の消長

枇邪諮問に於ける物情の標準は金若-は鎚で

あるから金銀の健脚は放ける産鶴と其櫓減の

磯勢が寓枝物概は影響し延で

山鹿綴蹄界の景

気に韮大なる結果を招致すべきrJとは論講を侯

たずして明瞭である

過去十数年間に於ける世非金産額の滑長を

1

幣するに金塵籾の垂向は

-i九

一五年でp約二

億ポンドに蓮した敢砥堀は一九三

一年で

一九

心五年の敢高街に此し約三割二分の減産を不L

LJ其前年即ち

一九二7年は約三割の減産で

一九二三年は二割二分の減産であった其筏

産額は年々漸次噂卸した即ち

一九二七年

(昭

和二)には四億〇二育苗弗

-i九二八年には四

億〇六宵寓弗

一九二九年には四億〇三百常弗

で昭和四年には復ね減産した

聴牌大戦後貨幣として金の流通高は非常に埼

加したが産額は其割合は槍加しな

いのみなら

Page 7: Title 滋賀縣高島郡中部地質槪報 地球 (1931), 16(6): …...地 球 節十六容 蟹 ハ 鍵 田70 30 得 る に 至 ら な か っ た。し か し 乙の 小報 告

El柑

べた様に向斜をなしLtJ岩瀬瀞の上に乗って屠る

熊川骨を叉上中下部は介つ革が出来る

下部熊川圏

主は頁岩砂岩及び角岩から成つy屠る頁岩は何度のものと慣別のつか夜

5貴色の

ものであるがここでは溝俺鋸が第二次的ほしみrJAで藍青色を量する所が多

い砂岩は目の粗い歌

いもので相督多畳に出る角岩は暦面の明瞭な禍春色のものである

中部熊川暦

砂岩質岩が主で之に角岩布衣岩を仲人砂岩は非常に倒-や

淡純色を帯びた

もので圏面は金-不明瞭である唯僅かに他の岩石との境界面ほてをの走向傾斜がわかるのみであ

る角岩は下部熊川厨のものによ-似て屠る

上部熊川樹

上部は主に貢岩から成-薄

い角岩砂岩石衣岩が中に入って居る乙の角岩も亦

衣白色塊状のものであるrJの漫-の石衣岩には多-輝練凝灰岩が件ふ現今は産机しな

いが常で

は悪風石と宿し覗石材として採掘したさうである

熊川層の岩瀬暦に封する著し

い鼎滝は厚い砂岩が噂して角岩が少な-夜か小

ruい屈桃状石衣岩が

所期に介在する事である石衣岩はかく多量に存すといヘビも大抵再結晶し化石ほとんどを-辛う

じて魔をさめ得る塞鹿の紡錘虫科化石の少亀を見受けて乙の暦の二塵石炭紀に鷹する罫を確かめ得

たのみである即ち熊川村河内北方千三百米の石衣岩中よ-

Schellwieniaspを河内東方入官米

のものに

Scheltwieniaspを大杉西方四百米の79のゝ中に蘇鹿hl見た

しかし乙の櫨に不完全在る

化石hl以でしては無論時代

恕PJめる事は不能である

三谷村大字梯川宰聡谷の画商西方約六宵米の所に磯岩がある磯は主に角岩頁岩及び荘園岩よゎ

成る最も巾の頗

い所で約三米横は追跡すれば数十光にて尖滅するこれはよって見れば或僅か

を期間唯

一小部分のみ或は陸相に在

った時があったかも知れ泊が乙の磯岩の上下に大在る時の距

わがあったとは考

へられ在

い唯乙の髄苗

厨沈積の時代金鰻を通じて乙の避-は

l鰭に隆起し三

瀬圏の時代よりも浅海に在って居た事は砂岩の多

い轟からも恕像閏凍る

Ht洪

洪積層は宙期洪積層と新期洪積暦の二つに分つ事が出凍る古期洪積暦は磯砂及び粘土よら成る

が新期洪積層はほとんど粘土を合せな

いしかし岩種のみからほては国別困難であるがその地形を

異にし

て居る馬容易に分つ革が出凍る即ち有期洪積層は浸蝕著し-進んで小谷多-標高も主に

二百米以上であるほ引

きか

へ新期洪積層は浸蝕の碍放伐-塵高甘八十米以下である

乱有期洪積暦

有期洪積層地の主在るものは饗鹿野泰山寺野及び高島炭附である

饗鹿野は現今陸軍演習場になって居て標高北部約二百米南部約二官五十米西部約三背光の基

地むなしp中央部は平面在れど縁退部は浸蝕著し-進んで小浜谷が多-作られて居るその底部に

古生圏が現はれる所がある之にょって見れば乙の暦の厚さは最厚部ほて宵乃至官五十来任であら

うと皿はれる下部は主として粘土及び砂よ-成-腐植物質叉

巧みやJ黒色敬呈する上部は砂

及び灘多-戟覇色をなす之は近畿地方の多-の宙期洪積層が然る如-大束の酸化を受けをがら沈

積した馬であると皿はれるすべて古生暦岩石の碑層物質から成-楽部は行-ほ従以磯の丸味を増

す化石は凝見され在かつねが岩質躍蝕帯皮から見て有期洪積暦に入れたものであるO

磁教収縮抱郡中部地斑縦軸

E

IW

i尤

六懲

節六雛

四品

l大

束山寺野の有期洪積暦の岩質は略饗鹿野と同じであるしかし南部に至るほ従以花園岩の砕層物

質が多-在る腰高は凡そ二甘米飴にして北部がや上向い

乙の饗鹿野泰山寺野の二基地は嘗で

山つの大扇状地とし

て庄成しその揮層物堆積の中心箇所を今の安曇川の流れの所に持つLJのであ

るがその後土地が隆起して安曇川の浸蝕若返-蓬は二分されたのであらうと瓜はれる

ムソ

高島村武

永尾村横山に並数の露頭がある之は饗鹿野の腐植物質圏に相皆するものであらう

と胤はれる

泰山等野と鴨川をへだて1高島村大字邦所の笛は79有期洪積層がある下部には僻物の幹が含ま

れるが炭化の春慶は低

い岩質は花樹岩及びi鎮静岩石の砕層物質から成

って居る

高島離数々田は前記二つの古捌洪積闇と同時の堆積物であらうと思はれるが淡肇は幾分柵遺して

居る即ち下部は亜炭暦粘土層磯暦の外に白土暦が入って凍る白土厨は最も厚

い朗ほて三米

の厚さを持ち白色の極めて糾

い砂は三

河島鋸業所長望

Ftによれば九十パーセントの珪酸を合力との

罫である土仇は小規模に之を採取し糖米砂膳砂に使用して屠る茄炭は白土谷出口の朗ほて灘

今採炭中である政も厚い79のは約二米採炭吋能のものは四枚ある

白土層は主として亜炭暦の上に乗る白土層の下の並数桟白土暦以外の地層下にあるものは此し

て炭化の庶高-その貿良好であるを見れば乙の白土は亜炭生成に何か密接なる関係があるの七

は夜

からうかと考

へられる

上部に至るに捉以磯砂の畳を増すしかし多少の粘土は称する最上部は浸蝕の絡基除かれて饗

鹿野泰山寺野の如き中州蔀

は狭

b

新期洪積層

新期洪積層は川上村三谷燐潮柑奥山高島村中溝その他車る朗で小扇状地と

って存在する又安曇川鴨川の両側には河岸段丘が磯達しで居るその岩贋は主とし

て砂と磯

とよ-成って屠る安曇川に於でも鴨川に於でも段丘は三段に在って屠る即ちfJの蓮-ほでは近

さ時代に三度の隆起があって河流が若返った事堅

不して居るD

四火

花尚岩

荘園岩は高島村南方比良山脈の撹

さに出て居る多少自形を持った斜長石の大き

い斑晶が多-ある韻雲母花園岩であるが周遊の所は漸次花掃斑岩に移化して屠る高島村南方及び

畑東方の古庄暦岩石に接胸壁贋を輿

へ非常に堅牢なるホルンフ

ルスに頻化せしめて居る而して

高島村附近の泰山寺野及び獄山北方の有期洪積暦はその沈積物を

-1部載尚岩の揮層物質に負うで屠

る0触

輝線岩

岩脈むなす輝紋岩にはソ

ク谷の口より北六十度酉の方向大杉熊川を迫って西方

に延びるものと熊川柑新道よ-南に向ふものとがある共に

一本の太

い岩脈を中心はそれの両側に

い脈が無数に入って居る

「秩父有壁暦中は多-ある輝線岩は輝練凝灰岩と件ふ事が多

い之は

恐ら-その皆時の噴出岩であって輝練耗悉

石はその揮層が水中に洗濯堆積しわるものJ棟であるか

ら輝紋岩の生成は之を挿入せる育成暦と同時代のものである事は疑以計入れざる所であらう」と山

桃ampT最

前島

部地

批軸

1七

節大紋

四六

一八

下博吉氏は言って屠られるしかし乙の岩脈が多円文男氏の言はれ聖

二方断暦の延長とm心はれるも

の及び熊川断簡にその方向が粂-

一致して居る罫は偶然としては飲みに偶然過ぎる減が起るのであ

るか-も薄

い輝撒岩が頁岩の圏を切ってあらゆる割日は押し入つy居る様子から見てFJの輝激岩

はもつと後世のものであらうと恩はれるOしかし長石の分解状態その他どらして最近の沈入物質で

い事は明ら

かである輝線岩には断層の蔑め滑面の出水ね朋が各所に見られる

五地

構造線はその方向によ少南北線北東-南西線兼村税及び北西-

南東線の同種に分ける蔀が出

氷る

at花折断層

南北線に含まれるものにして地形的興味を有する為めよ-知られて居た79のであ

市場以南は安曇川ほよりそれ以北は石田川安曇川の小支流によって明瞭なる断層谷が作られ

て屠るその性質は来落ちにして断層練以東は北は移動して居るものと考

へられる乙の大断層も

北方は至るほ従以漸次その移動が小3-を-h保坂暦の衝上面を切ら熊川断層と交はる朗よ-北方に

於ではその垂直的水平的の移動はほとんど夜-在っ

てしまって屠る

飴知内川断層

多田文男氏が知内川断層と名付けられたものは三岡山の東亜よ-知内川は沿っ

て走るもので南するは従以南南西1南西1西南西と次第に走向を噛じ三谷村追分に至る迄琵琶湖に

凸面を向け

て連つで居るものである私の調査したのはその中最南の

一小部分であって北東-福間

ほ走って居る南落ちにして水平移動はほとんどな

い様であるその甫石

関川に沿以之と平行に走

る断簡は饗鹿野開析扇状地に三

部蔽はるJ篤めその水平移動の方向は不明であるが矢張南落ちで

ダ1ホシ

あらうO

rJの断層は饗鷹野の洪積層沈積後も活動した事はをの南西端

ケ谷はて砂利暦が南東

に五十皮の傾斜を有って屠る事からわかる

g熊川断層

熊川断層は

涌井豚小藩町よ-末南東に文字池上

直線に走-地形的にも明らか

に断層崖を

祁すもので三宅熊川む通-水坂峠の北に

七光折断層を切-角川南方に終るものである

私は熊川柑大字新道以来を調査したo地形的に見ても北が落ちて居る事は明らかである断層以南

の熊川暦の走向が断層に些つ-に捉

以著しprime走向の塾化する事及び輝線岩中の掻痕線はよら北側が

西下方に移動して居る事がわかる

亜p新道南方の南北断瀞

之は三方断層の延長と恩れるrJJほても輝線岩中の滑両の掻痕跡ほ

より西側が落ちて南に移動して屠る事がわかるOrJの断簡や端折断層等ほよって乙の蓮-の南北線ヒラ牛

によっ七分たれたる地川芸

きは西側が南Ugt移動したものtJある事がわかるしかし自在坊打

の東方む通る断層とその西方を走る南北線間の示準角岩その他の岩層の走向の塾化は乙の

一般運

動から見

て解梓のつかな

い状態を農してゐる

之等構造線成立の順序は高島野

次炭田東方の砿東1南西緑薫79溝-次は兼酉線が出水然る後

保坂圏の術上があったしかし開析断層はその後79活躍をつゞけたものであらうと考

へられる北

莱-

西

北酉-南東線は戯79新し

いものゝ棟である而して石四川に滑ふ断層及び高島村井月

依袈嚇向島郡中部他部枇印

i九

六客

筋六統

望0

二〇

滴方のもりは各々古期洪積層を切っ

てそれに傾斜HLJ持たせて屠る即ち之等は洪積層沈積後も活動

せる事を示して居る

之等の順序は唯

一般の侭向のみであって

生成後も幾度か活躍しねと恩はれる断簡の生成順序を

正確にきめる事は甚だ国難な罫である唯前述の石田川及び揮月の二断暦は最近に至る迄生動しっ

ヾけて居た覇は断言出来るのである(完)

世界金銀産額の消長

枇邪諮問に於ける物情の標準は金若-は鎚で

あるから金銀の健脚は放ける産鶴と其櫓減の

磯勢が寓枝物概は影響し延で

山鹿綴蹄界の景

気に韮大なる結果を招致すべきrJとは論講を侯

たずして明瞭である

過去十数年間に於ける世非金産額の滑長を

1

幣するに金塵籾の垂向は

-i九

一五年でp約二

億ポンドに蓮した敢砥堀は一九三

一年で

一九

心五年の敢高街に此し約三割二分の減産を不L

LJ其前年即ち

一九二7年は約三割の減産で

一九二三年は二割二分の減産であった其筏

産額は年々漸次噂卸した即ち

一九二七年

(昭

和二)には四億〇二育苗弗

-i九二八年には四

億〇六宵寓弗

一九二九年には四億〇三百常弗

で昭和四年には復ね減産した

聴牌大戦後貨幣として金の流通高は非常に埼

加したが産額は其割合は槍加しな

いのみなら

Page 8: Title 滋賀縣高島郡中部地質槪報 地球 (1931), 16(6): …...地 球 節十六容 蟹 ハ 鍵 田70 30 得 る に 至 ら な か っ た。し か し 乙の 小報 告

成る最も巾の頗

い所で約三米横は追跡すれば数十光にて尖滅するこれはよって見れば或僅か

を期間唯

一小部分のみ或は陸相に在

った時があったかも知れ泊が乙の磯岩の上下に大在る時の距

わがあったとは考

へられ在

い唯乙の髄苗

厨沈積の時代金鰻を通じて乙の避-は

l鰭に隆起し三

瀬圏の時代よりも浅海に在って居た事は砂岩の多

い轟からも恕像閏凍る

Ht洪

洪積層は宙期洪積層と新期洪積暦の二つに分つ事が出凍る古期洪積暦は磯砂及び粘土よら成る

が新期洪積層はほとんど粘土を合せな

いしかし岩種のみからほては国別困難であるがその地形を

異にし

て居る馬容易に分つ革が出凍る即ち有期洪積層は浸蝕著し-進んで小谷多-標高も主に

二百米以上であるほ引

きか

へ新期洪積層は浸蝕の碍放伐-塵高甘八十米以下である

乱有期洪積暦

有期洪積層地の主在るものは饗鹿野泰山寺野及び高島炭附である

饗鹿野は現今陸軍演習場になって居て標高北部約二百米南部約二官五十米西部約三背光の基

地むなしp中央部は平面在れど縁退部は浸蝕著し-進んで小浜谷が多-作られて居るその底部に

古生圏が現はれる所がある之にょって見れば乙の暦の厚さは最厚部ほて宵乃至官五十来任であら

うと皿はれる下部は主として粘土及び砂よ-成-腐植物質叉

巧みやJ黒色敬呈する上部は砂

及び灘多-戟覇色をなす之は近畿地方の多-の宙期洪積層が然る如-大束の酸化を受けをがら沈

積した馬であると皿はれるすべて古生暦岩石の碑層物質から成-楽部は行-ほ従以磯の丸味を増

す化石は凝見され在かつねが岩質躍蝕帯皮から見て有期洪積暦に入れたものであるO

磁教収縮抱郡中部地斑縦軸

E

IW

i尤

六懲

節六雛

四品

l大

束山寺野の有期洪積暦の岩質は略饗鹿野と同じであるしかし南部に至るほ従以花園岩の砕層物

質が多-在る腰高は凡そ二甘米飴にして北部がや上向い

乙の饗鹿野泰山寺野の二基地は嘗で

山つの大扇状地とし

て庄成しその揮層物堆積の中心箇所を今の安曇川の流れの所に持つLJのであ

るがその後土地が隆起して安曇川の浸蝕若返-蓬は二分されたのであらうと瓜はれる

ムソ

高島村武

永尾村横山に並数の露頭がある之は饗鹿野の腐植物質圏に相皆するものであらう

と胤はれる

泰山等野と鴨川をへだて1高島村大字邦所の笛は79有期洪積層がある下部には僻物の幹が含ま

れるが炭化の春慶は低

い岩質は花樹岩及びi鎮静岩石の砕層物質から成

って居る

高島離数々田は前記二つの古捌洪積闇と同時の堆積物であらうと思はれるが淡肇は幾分柵遺して

居る即ち下部は亜炭暦粘土層磯暦の外に白土暦が入って凍る白土厨は最も厚

い朗ほて三米

の厚さを持ち白色の極めて糾

い砂は三

河島鋸業所長望

Ftによれば九十パーセントの珪酸を合力との

罫である土仇は小規模に之を採取し糖米砂膳砂に使用して屠る茄炭は白土谷出口の朗ほて灘

今採炭中である政も厚い79のは約二米採炭吋能のものは四枚ある

白土層は主として亜炭暦の上に乗る白土層の下の並数桟白土暦以外の地層下にあるものは此し

て炭化の庶高-その貿良好であるを見れば乙の白土は亜炭生成に何か密接なる関係があるの七

は夜

からうかと考

へられる

上部に至るに捉以磯砂の畳を増すしかし多少の粘土は称する最上部は浸蝕の絡基除かれて饗

鹿野泰山寺野の如き中州蔀

は狭

b

新期洪積層

新期洪積層は川上村三谷燐潮柑奥山高島村中溝その他車る朗で小扇状地と

って存在する又安曇川鴨川の両側には河岸段丘が磯達しで居るその岩贋は主とし

て砂と磯

とよ-成って屠る安曇川に於でも鴨川に於でも段丘は三段に在って屠る即ちfJの蓮-ほでは近

さ時代に三度の隆起があって河流が若返った事堅

不して居るD

四火

花尚岩

荘園岩は高島村南方比良山脈の撹

さに出て居る多少自形を持った斜長石の大き

い斑晶が多-ある韻雲母花園岩であるが周遊の所は漸次花掃斑岩に移化して屠る高島村南方及び

畑東方の古庄暦岩石に接胸壁贋を輿

へ非常に堅牢なるホルンフ

ルスに頻化せしめて居る而して

高島村附近の泰山寺野及び獄山北方の有期洪積暦はその沈積物を

-1部載尚岩の揮層物質に負うで屠

る0触

輝線岩

岩脈むなす輝紋岩にはソ

ク谷の口より北六十度酉の方向大杉熊川を迫って西方

に延びるものと熊川柑新道よ-南に向ふものとがある共に

一本の太

い岩脈を中心はそれの両側に

い脈が無数に入って居る

「秩父有壁暦中は多-ある輝線岩は輝練凝灰岩と件ふ事が多

い之は

恐ら-その皆時の噴出岩であって輝練耗悉

石はその揮層が水中に洗濯堆積しわるものJ棟であるか

ら輝紋岩の生成は之を挿入せる育成暦と同時代のものである事は疑以計入れざる所であらう」と山

桃ampT最

前島

部地

批軸

1七

節大紋

四六

一八

下博吉氏は言って屠られるしかし乙の岩脈が多円文男氏の言はれ聖

二方断暦の延長とm心はれるも

の及び熊川断簡にその方向が粂-

一致して居る罫は偶然としては飲みに偶然過ぎる減が起るのであ

るか-も薄

い輝撒岩が頁岩の圏を切ってあらゆる割日は押し入つy居る様子から見てFJの輝激岩

はもつと後世のものであらうと恩はれるOしかし長石の分解状態その他どらして最近の沈入物質で

い事は明ら

かである輝線岩には断層の蔑め滑面の出水ね朋が各所に見られる

五地

構造線はその方向によ少南北線北東-南西線兼村税及び北西-

南東線の同種に分ける蔀が出

氷る

at花折断層

南北線に含まれるものにして地形的興味を有する為めよ-知られて居た79のであ

市場以南は安曇川ほよりそれ以北は石田川安曇川の小支流によって明瞭なる断層谷が作られ

て屠るその性質は来落ちにして断層練以東は北は移動して居るものと考

へられる乙の大断層も

北方は至るほ従以漸次その移動が小3-を-h保坂暦の衝上面を切ら熊川断層と交はる朗よ-北方に

於ではその垂直的水平的の移動はほとんど夜-在っ

てしまって屠る

飴知内川断層

多田文男氏が知内川断層と名付けられたものは三岡山の東亜よ-知内川は沿っ

て走るもので南するは従以南南西1南西1西南西と次第に走向を噛じ三谷村追分に至る迄琵琶湖に

凸面を向け

て連つで居るものである私の調査したのはその中最南の

一小部分であって北東-福間

ほ走って居る南落ちにして水平移動はほとんどな

い様であるその甫石

関川に沿以之と平行に走

る断簡は饗鹿野開析扇状地に三

部蔽はるJ篤めその水平移動の方向は不明であるが矢張南落ちで

ダ1ホシ

あらうO

rJの断層は饗鷹野の洪積層沈積後も活動した事はをの南西端

ケ谷はて砂利暦が南東

に五十皮の傾斜を有って屠る事からわかる

g熊川断層

熊川断層は

涌井豚小藩町よ-末南東に文字池上

直線に走-地形的にも明らか

に断層崖を

祁すもので三宅熊川む通-水坂峠の北に

七光折断層を切-角川南方に終るものである

私は熊川柑大字新道以来を調査したo地形的に見ても北が落ちて居る事は明らかである断層以南

の熊川暦の走向が断層に些つ-に捉

以著しprime走向の塾化する事及び輝線岩中の掻痕線はよら北側が

西下方に移動して居る事がわかる

亜p新道南方の南北断瀞

之は三方断層の延長と恩れるrJJほても輝線岩中の滑両の掻痕跡ほ

より西側が落ちて南に移動して屠る事がわかるOrJの断簡や端折断層等ほよって乙の蓮-の南北線ヒラ牛

によっ七分たれたる地川芸

きは西側が南Ugt移動したものtJある事がわかるしかし自在坊打

の東方む通る断層とその西方を走る南北線間の示準角岩その他の岩層の走向の塾化は乙の

一般運

動から見

て解梓のつかな

い状態を農してゐる

之等構造線成立の順序は高島野

次炭田東方の砿東1南西緑薫79溝-次は兼酉線が出水然る後

保坂圏の術上があったしかし開析断層はその後79活躍をつゞけたものであらうと考

へられる北

莱-

西

北酉-南東線は戯79新し

いものゝ棟である而して石四川に滑ふ断層及び高島村井月

依袈嚇向島郡中部他部枇印

i九

六客

筋六統

望0

二〇

滴方のもりは各々古期洪積層を切っ

てそれに傾斜HLJ持たせて屠る即ち之等は洪積層沈積後も活動

せる事を示して居る

之等の順序は唯

一般の侭向のみであって

生成後も幾度か活躍しねと恩はれる断簡の生成順序を

正確にきめる事は甚だ国難な罫である唯前述の石田川及び揮月の二断暦は最近に至る迄生動しっ

ヾけて居た覇は断言出来るのである(完)

世界金銀産額の消長

枇邪諮問に於ける物情の標準は金若-は鎚で

あるから金銀の健脚は放ける産鶴と其櫓減の

磯勢が寓枝物概は影響し延で

山鹿綴蹄界の景

気に韮大なる結果を招致すべきrJとは論講を侯

たずして明瞭である

過去十数年間に於ける世非金産額の滑長を

1

幣するに金塵籾の垂向は

-i九

一五年でp約二

億ポンドに蓮した敢砥堀は一九三

一年で

一九

心五年の敢高街に此し約三割二分の減産を不L

LJ其前年即ち

一九二7年は約三割の減産で

一九二三年は二割二分の減産であった其筏

産額は年々漸次噂卸した即ち

一九二七年

(昭

和二)には四億〇二育苗弗

-i九二八年には四

億〇六宵寓弗

一九二九年には四億〇三百常弗

で昭和四年には復ね減産した

聴牌大戦後貨幣として金の流通高は非常に埼

加したが産額は其割合は槍加しな

いのみなら

Page 9: Title 滋賀縣高島郡中部地質槪報 地球 (1931), 16(6): …...地 球 節十六容 蟹 ハ 鍵 田70 30 得 る に 至 ら な か っ た。し か し 乙の 小報 告

六懲

節六雛

四品

l大

束山寺野の有期洪積暦の岩質は略饗鹿野と同じであるしかし南部に至るほ従以花園岩の砕層物

質が多-在る腰高は凡そ二甘米飴にして北部がや上向い

乙の饗鹿野泰山寺野の二基地は嘗で

山つの大扇状地とし

て庄成しその揮層物堆積の中心箇所を今の安曇川の流れの所に持つLJのであ

るがその後土地が隆起して安曇川の浸蝕若返-蓬は二分されたのであらうと瓜はれる

ムソ

高島村武

永尾村横山に並数の露頭がある之は饗鹿野の腐植物質圏に相皆するものであらう

と胤はれる

泰山等野と鴨川をへだて1高島村大字邦所の笛は79有期洪積層がある下部には僻物の幹が含ま

れるが炭化の春慶は低

い岩質は花樹岩及びi鎮静岩石の砕層物質から成

って居る

高島離数々田は前記二つの古捌洪積闇と同時の堆積物であらうと思はれるが淡肇は幾分柵遺して

居る即ち下部は亜炭暦粘土層磯暦の外に白土暦が入って凍る白土厨は最も厚

い朗ほて三米

の厚さを持ち白色の極めて糾

い砂は三

河島鋸業所長望

Ftによれば九十パーセントの珪酸を合力との

罫である土仇は小規模に之を採取し糖米砂膳砂に使用して屠る茄炭は白土谷出口の朗ほて灘

今採炭中である政も厚い79のは約二米採炭吋能のものは四枚ある

白土層は主として亜炭暦の上に乗る白土層の下の並数桟白土暦以外の地層下にあるものは此し

て炭化の庶高-その貿良好であるを見れば乙の白土は亜炭生成に何か密接なる関係があるの七

は夜

からうかと考

へられる

上部に至るに捉以磯砂の畳を増すしかし多少の粘土は称する最上部は浸蝕の絡基除かれて饗

鹿野泰山寺野の如き中州蔀

は狭

b

新期洪積層

新期洪積層は川上村三谷燐潮柑奥山高島村中溝その他車る朗で小扇状地と

って存在する又安曇川鴨川の両側には河岸段丘が磯達しで居るその岩贋は主とし

て砂と磯

とよ-成って屠る安曇川に於でも鴨川に於でも段丘は三段に在って屠る即ちfJの蓮-ほでは近

さ時代に三度の隆起があって河流が若返った事堅

不して居るD

四火

花尚岩

荘園岩は高島村南方比良山脈の撹

さに出て居る多少自形を持った斜長石の大き

い斑晶が多-ある韻雲母花園岩であるが周遊の所は漸次花掃斑岩に移化して屠る高島村南方及び

畑東方の古庄暦岩石に接胸壁贋を輿

へ非常に堅牢なるホルンフ

ルスに頻化せしめて居る而して

高島村附近の泰山寺野及び獄山北方の有期洪積暦はその沈積物を

-1部載尚岩の揮層物質に負うで屠

る0触

輝線岩

岩脈むなす輝紋岩にはソ

ク谷の口より北六十度酉の方向大杉熊川を迫って西方

に延びるものと熊川柑新道よ-南に向ふものとがある共に

一本の太

い岩脈を中心はそれの両側に

い脈が無数に入って居る

「秩父有壁暦中は多-ある輝線岩は輝練凝灰岩と件ふ事が多

い之は

恐ら-その皆時の噴出岩であって輝練耗悉

石はその揮層が水中に洗濯堆積しわるものJ棟であるか

ら輝紋岩の生成は之を挿入せる育成暦と同時代のものである事は疑以計入れざる所であらう」と山

桃ampT最

前島

部地

批軸

1七

節大紋

四六

一八

下博吉氏は言って屠られるしかし乙の岩脈が多円文男氏の言はれ聖

二方断暦の延長とm心はれるも

の及び熊川断簡にその方向が粂-

一致して居る罫は偶然としては飲みに偶然過ぎる減が起るのであ

るか-も薄

い輝撒岩が頁岩の圏を切ってあらゆる割日は押し入つy居る様子から見てFJの輝激岩

はもつと後世のものであらうと恩はれるOしかし長石の分解状態その他どらして最近の沈入物質で

い事は明ら

かである輝線岩には断層の蔑め滑面の出水ね朋が各所に見られる

五地

構造線はその方向によ少南北線北東-南西線兼村税及び北西-

南東線の同種に分ける蔀が出

氷る

at花折断層

南北線に含まれるものにして地形的興味を有する為めよ-知られて居た79のであ

市場以南は安曇川ほよりそれ以北は石田川安曇川の小支流によって明瞭なる断層谷が作られ

て屠るその性質は来落ちにして断層練以東は北は移動して居るものと考

へられる乙の大断層も

北方は至るほ従以漸次その移動が小3-を-h保坂暦の衝上面を切ら熊川断層と交はる朗よ-北方に

於ではその垂直的水平的の移動はほとんど夜-在っ

てしまって屠る

飴知内川断層

多田文男氏が知内川断層と名付けられたものは三岡山の東亜よ-知内川は沿っ

て走るもので南するは従以南南西1南西1西南西と次第に走向を噛じ三谷村追分に至る迄琵琶湖に

凸面を向け

て連つで居るものである私の調査したのはその中最南の

一小部分であって北東-福間

ほ走って居る南落ちにして水平移動はほとんどな

い様であるその甫石

関川に沿以之と平行に走

る断簡は饗鹿野開析扇状地に三

部蔽はるJ篤めその水平移動の方向は不明であるが矢張南落ちで

ダ1ホシ

あらうO

rJの断層は饗鷹野の洪積層沈積後も活動した事はをの南西端

ケ谷はて砂利暦が南東

に五十皮の傾斜を有って屠る事からわかる

g熊川断層

熊川断層は

涌井豚小藩町よ-末南東に文字池上

直線に走-地形的にも明らか

に断層崖を

祁すもので三宅熊川む通-水坂峠の北に

七光折断層を切-角川南方に終るものである

私は熊川柑大字新道以来を調査したo地形的に見ても北が落ちて居る事は明らかである断層以南

の熊川暦の走向が断層に些つ-に捉

以著しprime走向の塾化する事及び輝線岩中の掻痕線はよら北側が

西下方に移動して居る事がわかる

亜p新道南方の南北断瀞

之は三方断層の延長と恩れるrJJほても輝線岩中の滑両の掻痕跡ほ

より西側が落ちて南に移動して屠る事がわかるOrJの断簡や端折断層等ほよって乙の蓮-の南北線ヒラ牛

によっ七分たれたる地川芸

きは西側が南Ugt移動したものtJある事がわかるしかし自在坊打

の東方む通る断層とその西方を走る南北線間の示準角岩その他の岩層の走向の塾化は乙の

一般運

動から見

て解梓のつかな

い状態を農してゐる

之等構造線成立の順序は高島野

次炭田東方の砿東1南西緑薫79溝-次は兼酉線が出水然る後

保坂圏の術上があったしかし開析断層はその後79活躍をつゞけたものであらうと考

へられる北

莱-

西

北酉-南東線は戯79新し

いものゝ棟である而して石四川に滑ふ断層及び高島村井月

依袈嚇向島郡中部他部枇印

i九

六客

筋六統

望0

二〇

滴方のもりは各々古期洪積層を切っ

てそれに傾斜HLJ持たせて屠る即ち之等は洪積層沈積後も活動

せる事を示して居る

之等の順序は唯

一般の侭向のみであって

生成後も幾度か活躍しねと恩はれる断簡の生成順序を

正確にきめる事は甚だ国難な罫である唯前述の石田川及び揮月の二断暦は最近に至る迄生動しっ

ヾけて居た覇は断言出来るのである(完)

世界金銀産額の消長

枇邪諮問に於ける物情の標準は金若-は鎚で

あるから金銀の健脚は放ける産鶴と其櫓減の

磯勢が寓枝物概は影響し延で

山鹿綴蹄界の景

気に韮大なる結果を招致すべきrJとは論講を侯

たずして明瞭である

過去十数年間に於ける世非金産額の滑長を

1

幣するに金塵籾の垂向は

-i九

一五年でp約二

億ポンドに蓮した敢砥堀は一九三

一年で

一九

心五年の敢高街に此し約三割二分の減産を不L

LJ其前年即ち

一九二7年は約三割の減産で

一九二三年は二割二分の減産であった其筏

産額は年々漸次噂卸した即ち

一九二七年

(昭

和二)には四億〇二育苗弗

-i九二八年には四

億〇六宵寓弗

一九二九年には四億〇三百常弗

で昭和四年には復ね減産した

聴牌大戦後貨幣として金の流通高は非常に埼

加したが産額は其割合は槍加しな

いのみなら

Page 10: Title 滋賀縣高島郡中部地質槪報 地球 (1931), 16(6): …...地 球 節十六容 蟹 ハ 鍵 田70 30 得 る に 至 ら な か っ た。し か し 乙の 小報 告

鹿野泰山寺野の如き中州蔀

は狭

b

新期洪積層

新期洪積層は川上村三谷燐潮柑奥山高島村中溝その他車る朗で小扇状地と

って存在する又安曇川鴨川の両側には河岸段丘が磯達しで居るその岩贋は主とし

て砂と磯

とよ-成って屠る安曇川に於でも鴨川に於でも段丘は三段に在って屠る即ちfJの蓮-ほでは近

さ時代に三度の隆起があって河流が若返った事堅

不して居るD

四火

花尚岩

荘園岩は高島村南方比良山脈の撹

さに出て居る多少自形を持った斜長石の大き

い斑晶が多-ある韻雲母花園岩であるが周遊の所は漸次花掃斑岩に移化して屠る高島村南方及び

畑東方の古庄暦岩石に接胸壁贋を輿

へ非常に堅牢なるホルンフ

ルスに頻化せしめて居る而して

高島村附近の泰山寺野及び獄山北方の有期洪積暦はその沈積物を

-1部載尚岩の揮層物質に負うで屠

る0触

輝線岩

岩脈むなす輝紋岩にはソ

ク谷の口より北六十度酉の方向大杉熊川を迫って西方

に延びるものと熊川柑新道よ-南に向ふものとがある共に

一本の太

い岩脈を中心はそれの両側に

い脈が無数に入って居る

「秩父有壁暦中は多-ある輝線岩は輝練凝灰岩と件ふ事が多

い之は

恐ら-その皆時の噴出岩であって輝練耗悉

石はその揮層が水中に洗濯堆積しわるものJ棟であるか

ら輝紋岩の生成は之を挿入せる育成暦と同時代のものである事は疑以計入れざる所であらう」と山

桃ampT最

前島

部地

批軸

1七

節大紋

四六

一八

下博吉氏は言って屠られるしかし乙の岩脈が多円文男氏の言はれ聖

二方断暦の延長とm心はれるも

の及び熊川断簡にその方向が粂-

一致して居る罫は偶然としては飲みに偶然過ぎる減が起るのであ

るか-も薄

い輝撒岩が頁岩の圏を切ってあらゆる割日は押し入つy居る様子から見てFJの輝激岩

はもつと後世のものであらうと恩はれるOしかし長石の分解状態その他どらして最近の沈入物質で

い事は明ら

かである輝線岩には断層の蔑め滑面の出水ね朋が各所に見られる

五地

構造線はその方向によ少南北線北東-南西線兼村税及び北西-

南東線の同種に分ける蔀が出

氷る

at花折断層

南北線に含まれるものにして地形的興味を有する為めよ-知られて居た79のであ

市場以南は安曇川ほよりそれ以北は石田川安曇川の小支流によって明瞭なる断層谷が作られ

て屠るその性質は来落ちにして断層練以東は北は移動して居るものと考

へられる乙の大断層も

北方は至るほ従以漸次その移動が小3-を-h保坂暦の衝上面を切ら熊川断層と交はる朗よ-北方に

於ではその垂直的水平的の移動はほとんど夜-在っ

てしまって屠る

飴知内川断層

多田文男氏が知内川断層と名付けられたものは三岡山の東亜よ-知内川は沿っ

て走るもので南するは従以南南西1南西1西南西と次第に走向を噛じ三谷村追分に至る迄琵琶湖に

凸面を向け

て連つで居るものである私の調査したのはその中最南の

一小部分であって北東-福間

ほ走って居る南落ちにして水平移動はほとんどな

い様であるその甫石

関川に沿以之と平行に走

る断簡は饗鹿野開析扇状地に三

部蔽はるJ篤めその水平移動の方向は不明であるが矢張南落ちで

ダ1ホシ

あらうO

rJの断層は饗鷹野の洪積層沈積後も活動した事はをの南西端

ケ谷はて砂利暦が南東

に五十皮の傾斜を有って屠る事からわかる

g熊川断層

熊川断層は

涌井豚小藩町よ-末南東に文字池上

直線に走-地形的にも明らか

に断層崖を

祁すもので三宅熊川む通-水坂峠の北に

七光折断層を切-角川南方に終るものである

私は熊川柑大字新道以来を調査したo地形的に見ても北が落ちて居る事は明らかである断層以南

の熊川暦の走向が断層に些つ-に捉

以著しprime走向の塾化する事及び輝線岩中の掻痕線はよら北側が

西下方に移動して居る事がわかる

亜p新道南方の南北断瀞

之は三方断層の延長と恩れるrJJほても輝線岩中の滑両の掻痕跡ほ

より西側が落ちて南に移動して屠る事がわかるOrJの断簡や端折断層等ほよって乙の蓮-の南北線ヒラ牛

によっ七分たれたる地川芸

きは西側が南Ugt移動したものtJある事がわかるしかし自在坊打

の東方む通る断層とその西方を走る南北線間の示準角岩その他の岩層の走向の塾化は乙の

一般運

動から見

て解梓のつかな

い状態を農してゐる

之等構造線成立の順序は高島野

次炭田東方の砿東1南西緑薫79溝-次は兼酉線が出水然る後

保坂圏の術上があったしかし開析断層はその後79活躍をつゞけたものであらうと考

へられる北

莱-

西

北酉-南東線は戯79新し

いものゝ棟である而して石四川に滑ふ断層及び高島村井月

依袈嚇向島郡中部他部枇印

i九

六客

筋六統

望0

二〇

滴方のもりは各々古期洪積層を切っ

てそれに傾斜HLJ持たせて屠る即ち之等は洪積層沈積後も活動

せる事を示して居る

之等の順序は唯

一般の侭向のみであって

生成後も幾度か活躍しねと恩はれる断簡の生成順序を

正確にきめる事は甚だ国難な罫である唯前述の石田川及び揮月の二断暦は最近に至る迄生動しっ

ヾけて居た覇は断言出来るのである(完)

世界金銀産額の消長

枇邪諮問に於ける物情の標準は金若-は鎚で

あるから金銀の健脚は放ける産鶴と其櫓減の

磯勢が寓枝物概は影響し延で

山鹿綴蹄界の景

気に韮大なる結果を招致すべきrJとは論講を侯

たずして明瞭である

過去十数年間に於ける世非金産額の滑長を

1

幣するに金塵籾の垂向は

-i九

一五年でp約二

億ポンドに蓮した敢砥堀は一九三

一年で

一九

心五年の敢高街に此し約三割二分の減産を不L

LJ其前年即ち

一九二7年は約三割の減産で

一九二三年は二割二分の減産であった其筏

産額は年々漸次噂卸した即ち

一九二七年

(昭

和二)には四億〇二育苗弗

-i九二八年には四

億〇六宵寓弗

一九二九年には四億〇三百常弗

で昭和四年には復ね減産した

聴牌大戦後貨幣として金の流通高は非常に埼

加したが産額は其割合は槍加しな

いのみなら

Page 11: Title 滋賀縣高島郡中部地質槪報 地球 (1931), 16(6): …...地 球 節十六容 蟹 ハ 鍵 田70 30 得 る に 至 ら な か っ た。し か し 乙の 小報 告

節大紋

四六

一八

下博吉氏は言って屠られるしかし乙の岩脈が多円文男氏の言はれ聖

二方断暦の延長とm心はれるも

の及び熊川断簡にその方向が粂-

一致して居る罫は偶然としては飲みに偶然過ぎる減が起るのであ

るか-も薄

い輝撒岩が頁岩の圏を切ってあらゆる割日は押し入つy居る様子から見てFJの輝激岩

はもつと後世のものであらうと恩はれるOしかし長石の分解状態その他どらして最近の沈入物質で

い事は明ら

かである輝線岩には断層の蔑め滑面の出水ね朋が各所に見られる

五地

構造線はその方向によ少南北線北東-南西線兼村税及び北西-

南東線の同種に分ける蔀が出

氷る

at花折断層

南北線に含まれるものにして地形的興味を有する為めよ-知られて居た79のであ

市場以南は安曇川ほよりそれ以北は石田川安曇川の小支流によって明瞭なる断層谷が作られ

て屠るその性質は来落ちにして断層練以東は北は移動して居るものと考

へられる乙の大断層も

北方は至るほ従以漸次その移動が小3-を-h保坂暦の衝上面を切ら熊川断層と交はる朗よ-北方に

於ではその垂直的水平的の移動はほとんど夜-在っ

てしまって屠る

飴知内川断層

多田文男氏が知内川断層と名付けられたものは三岡山の東亜よ-知内川は沿っ

て走るもので南するは従以南南西1南西1西南西と次第に走向を噛じ三谷村追分に至る迄琵琶湖に

凸面を向け

て連つで居るものである私の調査したのはその中最南の

一小部分であって北東-福間

ほ走って居る南落ちにして水平移動はほとんどな

い様であるその甫石

関川に沿以之と平行に走

る断簡は饗鹿野開析扇状地に三

部蔽はるJ篤めその水平移動の方向は不明であるが矢張南落ちで

ダ1ホシ

あらうO

rJの断層は饗鷹野の洪積層沈積後も活動した事はをの南西端

ケ谷はて砂利暦が南東

に五十皮の傾斜を有って屠る事からわかる

g熊川断層

熊川断層は

涌井豚小藩町よ-末南東に文字池上

直線に走-地形的にも明らか

に断層崖を

祁すもので三宅熊川む通-水坂峠の北に

七光折断層を切-角川南方に終るものである

私は熊川柑大字新道以来を調査したo地形的に見ても北が落ちて居る事は明らかである断層以南

の熊川暦の走向が断層に些つ-に捉

以著しprime走向の塾化する事及び輝線岩中の掻痕線はよら北側が

西下方に移動して居る事がわかる

亜p新道南方の南北断瀞

之は三方断層の延長と恩れるrJJほても輝線岩中の滑両の掻痕跡ほ

より西側が落ちて南に移動して屠る事がわかるOrJの断簡や端折断層等ほよって乙の蓮-の南北線ヒラ牛

によっ七分たれたる地川芸

きは西側が南Ugt移動したものtJある事がわかるしかし自在坊打

の東方む通る断層とその西方を走る南北線間の示準角岩その他の岩層の走向の塾化は乙の

一般運

動から見

て解梓のつかな

い状態を農してゐる

之等構造線成立の順序は高島野

次炭田東方の砿東1南西緑薫79溝-次は兼酉線が出水然る後

保坂圏の術上があったしかし開析断層はその後79活躍をつゞけたものであらうと考

へられる北

莱-

西

北酉-南東線は戯79新し

いものゝ棟である而して石四川に滑ふ断層及び高島村井月

依袈嚇向島郡中部他部枇印

i九

六客

筋六統

望0

二〇

滴方のもりは各々古期洪積層を切っ

てそれに傾斜HLJ持たせて屠る即ち之等は洪積層沈積後も活動

せる事を示して居る

之等の順序は唯

一般の侭向のみであって

生成後も幾度か活躍しねと恩はれる断簡の生成順序を

正確にきめる事は甚だ国難な罫である唯前述の石田川及び揮月の二断暦は最近に至る迄生動しっ

ヾけて居た覇は断言出来るのである(完)

世界金銀産額の消長

枇邪諮問に於ける物情の標準は金若-は鎚で

あるから金銀の健脚は放ける産鶴と其櫓減の

磯勢が寓枝物概は影響し延で

山鹿綴蹄界の景

気に韮大なる結果を招致すべきrJとは論講を侯

たずして明瞭である

過去十数年間に於ける世非金産額の滑長を

1

幣するに金塵籾の垂向は

-i九

一五年でp約二

億ポンドに蓮した敢砥堀は一九三

一年で

一九

心五年の敢高街に此し約三割二分の減産を不L

LJ其前年即ち

一九二7年は約三割の減産で

一九二三年は二割二分の減産であった其筏

産額は年々漸次噂卸した即ち

一九二七年

(昭

和二)には四億〇二育苗弗

-i九二八年には四

億〇六宵寓弗

一九二九年には四億〇三百常弗

で昭和四年には復ね減産した

聴牌大戦後貨幣として金の流通高は非常に埼

加したが産額は其割合は槍加しな

いのみなら

Page 12: Title 滋賀縣高島郡中部地質槪報 地球 (1931), 16(6): …...地 球 節十六容 蟹 ハ 鍵 田70 30 得 る に 至 ら な か っ た。し か し 乙の 小報 告

ほ走って居る南落ちにして水平移動はほとんどな

い様であるその甫石

関川に沿以之と平行に走

る断簡は饗鹿野開析扇状地に三

部蔽はるJ篤めその水平移動の方向は不明であるが矢張南落ちで

ダ1ホシ

あらうO

rJの断層は饗鷹野の洪積層沈積後も活動した事はをの南西端

ケ谷はて砂利暦が南東

に五十皮の傾斜を有って屠る事からわかる

g熊川断層

熊川断層は

涌井豚小藩町よ-末南東に文字池上

直線に走-地形的にも明らか

に断層崖を

祁すもので三宅熊川む通-水坂峠の北に

七光折断層を切-角川南方に終るものである

私は熊川柑大字新道以来を調査したo地形的に見ても北が落ちて居る事は明らかである断層以南

の熊川暦の走向が断層に些つ-に捉

以著しprime走向の塾化する事及び輝線岩中の掻痕線はよら北側が

西下方に移動して居る事がわかる

亜p新道南方の南北断瀞

之は三方断層の延長と恩れるrJJほても輝線岩中の滑両の掻痕跡ほ

より西側が落ちて南に移動して屠る事がわかるOrJの断簡や端折断層等ほよって乙の蓮-の南北線ヒラ牛

によっ七分たれたる地川芸

きは西側が南Ugt移動したものtJある事がわかるしかし自在坊打

の東方む通る断層とその西方を走る南北線間の示準角岩その他の岩層の走向の塾化は乙の

一般運

動から見

て解梓のつかな

い状態を農してゐる

之等構造線成立の順序は高島野

次炭田東方の砿東1南西緑薫79溝-次は兼酉線が出水然る後

保坂圏の術上があったしかし開析断層はその後79活躍をつゞけたものであらうと考

へられる北

莱-

西

北酉-南東線は戯79新し

いものゝ棟である而して石四川に滑ふ断層及び高島村井月

依袈嚇向島郡中部他部枇印

i九

六客

筋六統

望0

二〇

滴方のもりは各々古期洪積層を切っ

てそれに傾斜HLJ持たせて屠る即ち之等は洪積層沈積後も活動

せる事を示して居る

之等の順序は唯

一般の侭向のみであって

生成後も幾度か活躍しねと恩はれる断簡の生成順序を

正確にきめる事は甚だ国難な罫である唯前述の石田川及び揮月の二断暦は最近に至る迄生動しっ

ヾけて居た覇は断言出来るのである(完)

世界金銀産額の消長

枇邪諮問に於ける物情の標準は金若-は鎚で

あるから金銀の健脚は放ける産鶴と其櫓減の

磯勢が寓枝物概は影響し延で

山鹿綴蹄界の景

気に韮大なる結果を招致すべきrJとは論講を侯

たずして明瞭である

過去十数年間に於ける世非金産額の滑長を

1

幣するに金塵籾の垂向は

-i九

一五年でp約二

億ポンドに蓮した敢砥堀は一九三

一年で

一九

心五年の敢高街に此し約三割二分の減産を不L

LJ其前年即ち

一九二7年は約三割の減産で

一九二三年は二割二分の減産であった其筏

産額は年々漸次噂卸した即ち

一九二七年

(昭

和二)には四億〇二育苗弗

-i九二八年には四

億〇六宵寓弗

一九二九年には四億〇三百常弗

で昭和四年には復ね減産した

聴牌大戦後貨幣として金の流通高は非常に埼

加したが産額は其割合は槍加しな

いのみなら

Page 13: Title 滋賀縣高島郡中部地質槪報 地球 (1931), 16(6): …...地 球 節十六容 蟹 ハ 鍵 田70 30 得 る に 至 ら な か っ た。し か し 乙の 小報 告

六客

筋六統

望0

二〇

滴方のもりは各々古期洪積層を切っ

てそれに傾斜HLJ持たせて屠る即ち之等は洪積層沈積後も活動

せる事を示して居る

之等の順序は唯

一般の侭向のみであって

生成後も幾度か活躍しねと恩はれる断簡の生成順序を

正確にきめる事は甚だ国難な罫である唯前述の石田川及び揮月の二断暦は最近に至る迄生動しっ

ヾけて居た覇は断言出来るのである(完)

世界金銀産額の消長

枇邪諮問に於ける物情の標準は金若-は鎚で

あるから金銀の健脚は放ける産鶴と其櫓減の

磯勢が寓枝物概は影響し延で

山鹿綴蹄界の景

気に韮大なる結果を招致すべきrJとは論講を侯

たずして明瞭である

過去十数年間に於ける世非金産額の滑長を

1

幣するに金塵籾の垂向は

-i九

一五年でp約二

億ポンドに蓮した敢砥堀は一九三

一年で

一九

心五年の敢高街に此し約三割二分の減産を不L

LJ其前年即ち

一九二7年は約三割の減産で

一九二三年は二割二分の減産であった其筏

産額は年々漸次噂卸した即ち

一九二七年

(昭

和二)には四億〇二育苗弗

-i九二八年には四

億〇六宵寓弗

一九二九年には四億〇三百常弗

で昭和四年には復ね減産した

聴牌大戦後貨幣として金の流通高は非常に埼

加したが産額は其割合は槍加しな

いのみなら