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Title <論説>参議制の成立 : 大夫制と令制四位 Author(s) 虎尾, 達哉 Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (1982), 65(5): 662-701 Issue Date 1982-09-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_65_662 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Page 1: Title 参議制の成立 : 大夫制と令制四位 …...40 (662) 一…大夫制と令制四位li 虎 尾 達 哉 【要約】 参議任官者の帯位は法制上の開文がないにも拘らず実態上大略四位に限定され、その結果令綱下の議政官組織は令欄議政

Title <論説>参議制の成立 : 大夫制と令制四位

Author(s) 虎尾, 達哉

Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (1982),65(5): 662-701

Issue Date 1982-09-01

URL https://doi.org/10.14989/shirin_65_662

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

Page 2: Title 参議制の成立 : 大夫制と令制四位 …...40 (662) 一…大夫制と令制四位li 虎 尾 達 哉 【要約】 参議任官者の帯位は法制上の開文がないにも拘らず実態上大略四位に限定され、その結果令綱下の議政官組織は令欄議政

参議制の成立

40 (662)

一…大夫制と令制四位li

【要約】 参議任官者の帯位は法制上の開文がないにも拘らず実態上大略四位に限定され、その結果令綱下の議政官組織は令欄議政

官(三位以上)と共に四位以上の官人によって構成されることになる。本稿はかかる帯筋実態の所以を解明するという観点から、

大宝二年(七〇二)の参議制の成立事情について考察を加えた。そして、参議制は、大化前代の大夫(マヘツギミ)層を実質的に

継承する政治的階層としての「四位以上漏の存在を背景に、制度的には唐の兼官宰粗制度を模倣する形で、令制議政官と一体の議

政窟として案出されたものであるとの推定に達した。それ故、大宝二年の参人制を単なる「便法」と看倣すこれまでの通説にはも

はや従いえない。また、右の推定に立てば参議は大宝二年当初よりすでに「直宮」であったと認められよう。かくして、夙に先学

によって指摘されている上代貴族合議制は、参議を含めた四位以上の議政官組織の成立によって、大宝令制下においてもなおその

伝統的機能を保障されるに整ったのである。                      史林 六五巻五号 一九八二年九月

『続日本紀』大宝二年(七〇二)五月二者条には左の如き書名な記事が掲げられている。

勅昌従三位大伴宿禰安麻呂、正四書下粟田男爵真人、従四位上高向野並麻呂、従四位下下毛野朝臣古麻呂、小野朝臣毛野ハ令レ参昌

議朝政嚇

この大伴安麻呂以下五名を「参二議朝政こせしめる形で成立した参議制について竹内理三氏は「新官制に収容し切ること

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参議制の成立(虎尾)

                                                   ①

のできなかった旧氏族を新機構による政治機構に参加させるために案繊された一時的な便法ではなかったか」とされた。

                                                 ②

 竹内馬のこの見解は大方穏当なものとして受容れられ、今日既に定説としての地歩を獲得しているといってよい。しか

し、私は成立当初の参議制を「一時的な便法」であると看賭すことについては疑問の余地が存すると思う。

 竹内茂が「一時的な便法」と言われたのは、大宝二年の六名の参議の転任死没に伴う欠員補充が有資格者の存在にも拘

らず全くなされず、和銅二年(七〇九)末には遂に参議が杜絶するに及んだことを拠とされたのであるが、欠員が生じても

                                                   ③

又後代からみて適任者が存したとしても補充が必ずしもなされるとは限らない点は他の議政官についても同様であったの

であり、この点から直ちに「便法」と看潤すことは妥当ではあるまい。又、抑も旧豪族の不満を招来することが容易に予

想されるような官憲を貴族勢力が相対的に強まりつつある大宝令段階で敢えて創出せねばならなかった理由は殆ど考えに

くいのではないかと思う。竹内説に関する最も根本的な疑問はこの点に存するのである。

 一方、関晃氏は律令貴族を論ぜられた際、この参議制についても言及され「大化前代以来の大和朝廷のいわゆる大夫合

                                   ④

議制の慣行を継承し、貴族層の意向をできるだけ広く反映するためにとられたもの」であるとされた。関氏のこの見解は

竹内氏の見解を特に意識されたものではないが、少くとも参議制が「一時的な便法」などではなくむしろ恒久的な政治制

度であったと看為す方向を示唆していると思われる。蒲して、私は従来余り注意されることのなかった観点を新たに導入

することにより関属の見解を少しく厳密に考定することができるのではないかと考えるに至った。そこで以下にその新し

い観点の一を提起しておきたい。

                ⑤

 周知の如く、参議は職事官ではない。それ故、この官(以下あくまで便宜上「宮」と称する)は官位相当制の碍外に存

するのである。最近黒板伸夫氏は『野原抄』が参議の相当位を「正四位下」と記していることを批判し、参議が厳密な相

                               ⑥

当位を遂に法事上及び実態上獲得するに至らなかった点を論証されたが、固より異論の生ずる余地はない。しかし、黒板

氏も指摘されたように、参議は全く無原測に任官されたのではなく、その任官者の尊位は全て四位以上に限定され、さら

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に四位がその大半を占めるのである。従って、柳か大まかではあるが四位が実態上の参議の柑譲位であったと看併し、そ

れが何故であるのかといった観点から逆に参議制の性格とその成立事情を考えてゆくことが必要ではないかと思う。それ

故、本稿では先ずかかる観点を導入する。

 ところで、参議の実態上の任官副帯位が厳密に従四位下以上の四位であるという原則の存在は、次の二つの点において

特に重要であるといわねばならない。

 その一は大納言以上の令制議政官の相当位が大宝宮位令によって三位以上(厳密には正三位以上)と規定されたことと

の関係という点である。即ち、議政宮構成員が三位以上から四位以上にまで拡大された点である。その二はこの任官難平

位四位の原則が法制上何らの明文をもたぬにも拘らず当初より永く遵守されたという点である。同じく令外に正四嵩上を

                                   ⑦

相当位とする議政官として設けられた中納言の場合は逆に法欄上の明文をもつにも拘らず次第に三位以上宮人の任官が一

                      ⑧

般化し、やがては従三位相当官への法改正に繁るのであり、この点参議と極めて対照的といえよう。

 以上からすれば、ここで解明すべきは何故に参議任官者の帯位が、法制上の明文をもつことなくしかも令欄議政官の相

当位を拡大せしめる形で、実態上原則的に四位に限定されたのかという問題であるが、それを解く秘鍵が四位という位階

そのものに存することは容易に予想されよう。それ故、やや迂遠ではあるが、一先ず参議を離れ令制四位そのものの実態

的検討を行ない、以て参議制を現出せしめたわが古代貴族社会の再造分析を試みつつ、参議制の成立事情について改めて

一考を加えることとしたい。又、先学によって言及されている参議の正字化の問題についても若干ふれる所存である。

① 竹内理三「『参議』糊の成立」・「太政官政治」(同『律令制と貴族政

 無闇第-部所収、昭和三一一年)。

② 例えば野村忠夫「奈良聴代の政治過程」(『岩波講座揖本歴史』三所

 収、昭稲五一年)。

③ 例えば定員二名(慶雲二年以後)の大納言は和銅七年五月から養老

 二年三月まで闘官であったが、当時議政官にも非議政官にも三位以上

官人は実在した。参議及び大納雷のこの時期の杜絶は、台閣の実権を

掌握した藤原不比等の意向によるものとすべきであろう。

④関晃「律令貴族論」(『岩波講座日本歴史』三所収、昭和五一年)。

⑤ 竹内理三「『参議』制の成立」(前掲)、今江広道「『令外官』の一考

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察」 (坂本太郎罐土古稀記念会編『続日本古代史論集』下所収、昭和

 西七年)参照。

⑥ 黒板伸夫「『参日目に関する一考察」(山中裕編『平安時代の歴史と

 文学』歴史繍…所収、昭和ド五山ハ年)。

⑦ 『令集解』職員令大納言条古記所引慶雲二年照月十七日勅旨。

⑧『類聚三代格』所収天平宝字五年二月一日勅。

第一章 令制囚位の検討

参議制の成立(虎尾)

         第【節 原則的位階区分法と四位

 従来、令制四位そのものが検討の対象となったことは殆どなかったといってよい。

 抑も位階は律令官人の身分序列を規定する最も基本的な指標であったが、よく知られているようにこの位階の内部には

幾つかの段階差が設けられていた。通常、位階は五位を境界として原則的には

  三位以上i五位以上-六位以下-初位

の如く区分されるのである。かかる位階区分法については竹内理三氏と曾我部静雄氏の著名な論考がある。

                                                  ①

 先ず竹内氏はわが名題律において三位以上が「貴」、五位以上(四位・五位)が「通貴」と規定されていることを踏ま

え、この「貴」・「通貴」及びそれ以外の非通貴の三者の間に明瞭な差別が存することから位階が内包せる階級性の問題を

         ②

論ぜられたのであった。又、曾我部琉はわが国における初位が唐制流外官品に対応することを明かにして、この位階が八

                         ③

位以上と段階を大きく異にすると論ぜられたのであったが、本稿では五位以上における四位を検討する故、六位以下につ

いては捨象し、従って竹内氏の厨論についてのみ言及することとする。

 さて、竹内氏によって指摘された三位以上脹貴、四位・五位-岡惚なる段階区分は、爾来律令官人社会の階層区分を表

現する際には必ずといってよい程用いられる所となり、この区分に基いて三位以上-上級貴族、四位・五位-中下級貴族

                  ④

とする理解の仕方が一般的となっている。後代、三位以上が「公卿」(但し四位参議も含む)、四位・五位が「大夫」と称

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されるようになる事実もかような理解を援けているといえよう。かくして、動もすれば四位は五位と一括して取扱われ、

四位と五位との段階差は三位と四位との段階差に比べて充分に意識されていないのが現状であり、令制四位そのものが従

来殆ど検討の対象とならなかったということもその限りで至極尤もなことであった。

 しかし乍ら、 「三位以上-五位以上」なる位階区分はあくまで法制上の区分であることに注意を致さねばならぬ。又、

                                                  ⑤

少くとも律令制初期においては「公卿」が三位以上に限らず五位以上宮人に対して用いられた明証も存するのである。確

                                               ⑥

かに、わが律令条文を検すると五位以上に限っては「三位以上-五位以上」とする位階区分法が圧倒的に多い。しかし、

ここで留意すべきはその大半が唐津の継受によるものであるということである。例えば、先のわが歯骨律に規定されたる

                                                   ⑦

「三位以上。貴」・「五位以上”通志」の如きも既に鳥偏に「三品以上口貴」・「五平以上匠通志」として存したのであり、

従ってこれがわが国独自の新制に非ざることは明白であろう。 一体、唐制において三品以上の官と五品以上の官とが各々

特別視されたことは左の如き史料によって端的に確認される。

  『大唐六典』巻二山更部郎中条

  凡応レ入戸三晶五晶一者、皆待昌別制”而進レ之、不〆然則否、

尤も、かく言えばとて、私は日本律令における「三位以上-五位以上」が全て唐律令における「三品以上-五品以上」の

直隠直訳であると考える者ではない。むしろ、わが律令制定者は意識的・積極的に「三位以上一五位以上」を設定したと

          ⑧

考えるべきであると思う。

                                                 ⑨

 しかし、本来わが国における位階が官職を等級づける中国の官長と異なり官人そのものを等級づけるものであり、しか

も大宝令位階制が令前の諸冠位制を継承するものであることを考慮するならば、総勢を継受して「三位以上-五位以上」

なる位階区分が原則的に設定されたことと、わが律令貴族社会が実際にかかる区分で分類しうるものであったか否かとい

うことは全く別の問題であるとせねばならない。それでは、法制上原則的に五位と一括しうる四位は実際の律令貴族社会

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参議制の成立(虎尾)

において階層として如何なる位置を占めていたであろうか。

         第二節 ㎎位階層の独自性

 先ず、極めて常識的なことであるが、五位・四位・及び三位が各々独自の階層であることを位階昇叙の実態から確認し

ておきたい(一位・二位については実際の帯位老の数が僅少であり{個の階層として把握することは明らかに妥当ではな

い。又本稿で「三位以上」と称する場合、その主体が三位であることを予めお断りしておく)。

 律令官人の位階昇叙は基本的には選叙令(大宝令では選任令)及び考課令(同じく考仕令)に定められた考選法に準拠

して実施されたであろうが、その選士令によれば六位以下宮人が結階数上五位以上に昇叙さるべき場合には「奏聞別叙」

     ⑩

の扱いとなる。そして、実態上もかような場合、被昇叙者は常に五位の末端位階たる従五位下に先ず留めおかれたことも

              ⑪                                          ⑫

先学によって既に指摘されている。

                このことは大方の一般官人にとって五位以上の位階が殆ど無縁のものであったことと

考え併せると、五位と六位との間に容易に越え難い断層が厳存し、従って一位以下五位以上は六位以下と全く別の階層で

あったこと(その意味で五位以上が一体的な階層であることは言うまでもない)及び五位階層に到達しえた官人は新たに

従五位下から出発すべきであるとする原則の存したことを物語っている。然りとすれば、五位から四位・或は四位から三

位へ昇叙される場合は如何であったろうか。

 先述の原則的位階区分法「三位以上-五位以上」からすれば三位との間にもやはり同様の断層の存在が予想されるが、

四位と五位との間については如何か。表1によって検討してみよう。この表は従四位下から正三位までの昇叙の際の被昇

叙者の旧位について調査したものである(但し期聞は大宝元年から延暦十三年までの、大宝令制期及び平安遷都以前の養

老令制期に限った)が、これによって得られる知見は以下の如くである。

 ωF欄によれば、従四位下に昇叙された者の旧位は、一階下の正五位置が最も多いことは当然であるが、正五位野以下

の位階もまた砂くない。即ち、従四位下には五位階層より幅広く昇叙されている。但し、莞位よりの昇叙は全て諸王であ

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                       ⑬                                ⑭

り、これは選叙令蔭皇親等に準拠せるものであった。権外従五位下・六位以下からの昇叙は全て例外と看敬しうる。

                                             ⑮

 ②C・D・E欄によれば、正四位上・正四位記・従四位上に昇叙された者の旧位は、若干の例外を除き全て従四位下以

上である。即ち、正四位上・正四位下・従四位上には五位階層より昇叙されることは殆どなく、従ってここに従四位下に

通常越階されることのない位階であったことが知られる。

 ㈲B欄によれば、従三位に昇叙された者の旧位は、一階下の正四位置が最も多いことは当然であるが、正四位下以下の

                                                ⑮

位階もまた勘くない。倶し、五位の位階も存するが、これらはいずれも例外として看体しうるものである。即ち、従三位

には四位階暦から幅広く昇叙されている。

                            ⑰

 ㈲A欄によれば、正三位に昇叙された老の旧位は若干の例外を除き全て従三位である。即ち、正三位には四位階層より

昇叙されることは殆どなく、従ってここに従三位は通常越階されることのない位階であったことが知られる。

 さて、以上の知見を綜合すると、三位及び四位への昇叙実態における一つの明確な事実を指摘しうる。即ち、五位の者

が四位に、又四位の巻が三位に昇叙される場含、常に各々の末端位階たる従四位下及び従三位に留めおかれたという事実

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参議制の成立(虎尾)

である。先述の如く、三位と四位との閣に}つの断層が存することは予想されたのであるが、ここに四位と五位との間に

もまた一つの断層が明確に存したことを認めえたのであり、四位に昇叙された者は原則として従四位下に留めおかれ、こ

れを新たな出発点とせねばならなかったことが明かになった。

 かくして、五位の老が五位内部での昇進の延長として四位のいずれかに昇叙されることは原則としてなかったという意

味において四位階層と五位階層の非連続性が、又同様の意味において三位階層と四位階層との非連続性が各々確認された

訳であるが、このことは三位・四位・五位が各々独自の階層として存立していたことを端的に物語っているといってよい。

殊に本稿の関心からすれば、四位と五位が階層的に別箇であることをより重視したいが、このことについては次の二つの

史料が傍証としての価値をもつ。

                        (七日)

 その一は『続日本紀』天平勝宝六年(七五四)正月癸三条である。

  天皇御昌東院{宴晶五位蝦上↓有レ勅、召二又五位下多治比真人家主、従五位下大伴宿禰麻呂二人於鍋前納特賜轟四位墨色↓令レ在昌四

  位之列ハ即授昌従四位下ハ

即ち、右によれば正月七日越節会に際し、 正五廊下多治比家主・従五位下大伴麻呂の両名が特に四位の禄物を賜わり、

「四位之列」に労せられたことが知られるが、ここからやはり五位官人にとって四位が甥箇の階層であると認識されてい

ることが推知されるのである。

 傍証の二は天平二年(七三〇)正月十三日、大宰帥大伴旅人の宅で催された梅花の宴での作歌を収録する『万葉集』巻五

である。

 当該歌は八一五番から八四六番までであるが、ここではその各々に脚注の形で付された作者名の記載法を取り上げる。

                                                  ⑱

表2を参照されたい。この中名を記さない④~⑦については川崎庸之氏によって全て表の如く比定されているが、ここで

注鼠されるのは④のみは「卿」を付され、又@~㊦は「大夫」・を付されて㊦・②及び⑪~⑦と区別されている点である。

47 (669)

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蓑2

\番図工職」作者名i比定

人 養良相成

 老  麻

男 馬憶酋大

卿夫夫夫夫夫

 大大大大大

 野玉上伴井

紀小霧砲大戸

大弐小弐小弐筑前守

難後守

筑後守

815

816

817

818

819

820

④@⑳㊥㊧㊦

満開旅人

笠沙弥主  人

821

822㊦⑦

代嶋村原呂呂子二二二二人通二道二上二二人道二足理

額顛騨響鷺轡続赫黙氏傭灘鞭縣

伴本土高山丹張佐優麗野田黒磯志榎田村高高士小門小

大門小 監

小 監

大典小 典

大判事

薬 師

筑前介

壱岐守

神 司

丁令二

心二二

薬 師

陰陽師

算師大隅目

筑前R

壱岐目

対馬圏

薩摩目

筑前二

胡脳謝謝腰山脚川州蹴蹴棚晒鰯㌫蹴㎜脚扇棚脇脳踊躍

①②⑳⑦⑦②③㊥⑫②⑰㊥⑦⑦④◎㊥②⑳②㊥⑦⑦⑦

「卿」にしても「大夫」

にしてもこれを訓ずれ

ばいずれも「マヘツギ

ミ」であり、従ってこ

れらが④~㊦に付され

ていることは言うまで

もなく彼らが六位以下

官人たる⑨~⑦に対し

て五位以上官人たるこ

とによっている(但し僧籍にある㊦、主催者である㊧は別格)のであるが、重要なのは④の「卿」と@~㊦の「大夫」の

匿別が客観的には四位と五位との差によっていると解する外ないことである。天平二年当時、④の紀男人は従四位下、@

の小野老は従五位上、⑳の栗田芳養及び㊦の葛井大成は従五位下であったことは確かであり、㊥の山上難語及び㊧の大伴

                          ⑲

首麻呂もその官職から推して五位官人であったことは疑いを容れない。尤も公式の文書や場面で三位以上のみ「獅」が付

される場合もあるの恥④はその極位によ・て追称されたのではないかとの疑いもあろうが・男人は天平+(七三八)年に

        ⑳

正四位下を以って卒写し、生涯三位に進むを得なかったのである。従って、彼は正しく四位官人であることによって「卿」

          ⑫

を付されたのであったろう。

                                     ⑳

 しかし、例えば威奈真人大村骨蔵器銘文の如く、五位官人に対して「卿」を付する場合もあったのであり、 「卿」が四

 、、                       ⑭

位以上官人に対する開巻でなかったことは勿論である。それ故、ここでの問題は『万葉集』編者が四位官人と五位宮人を

「卿」と門大夫しを以て区別したこと自体にあるといわねばならない。即ち、四位官人と五位官人とは何らかの形で区別

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参議制の成立(虎尾)

さるべき別箇の階層に属していたこと、これが重要である。

 以上の傍証史料によっても、法制上原則的に同類視される四位と五位とが各々の別箇の階層として存立したことは明ら

かであろう。従って、実態的に三位以上とは勿論のこと、さらに五位とも一応別箇の階層として存立する四位が三位以上

と五位とのいずれにより近い階層であったかが次の問題となる。

         第三節  「凶位以上」階層の存在

 ところで本章では、先ず参議の任官時却位が実態上原則的に四位に限定されていることに着目し、この「四位」につい

ての意義を探るために一先ず参議をはなれて令欄四位そのものの検討を行なうこととした。従って、本節においてはこれ

までの検討結果を承けて四位が五位よりも三位以上に相対的に近い階層であること、即ちその限りで「四位以上」が一体

的な階層であることを論証するのであるが、その際、その根拠を参議制成立以後に求めることは慎まねばならない。何と

なれば、参議制成立以後の「四位以上」の一体性は四位で構成される参議を含めた太政官制のあり方に逆に規定されたも

のである可能性が存するからである。それ故、以下には大宝二年置七〇二)五月の参議制成立以前において「四位以上一の

一体性を示す史料を行論の都合上年時を航る形で提示してゆくこととしたいが、藤壷の一点のみは令制初期における「四

位以上」の一体性を如実に示すものとしてやはり看過しがたいので、参議制成立以後にかかるものではあるが敢えて掲げ

ることとする。

 ω『続日本紀』慶雲三年(七〇六)二月庚寅条

  詔日、准レ令、三位以上已三川食封二重↓四位以下塞有昌位禄懸物↓又四位有昌飛蓋二面↓五位無二白玉之重(不レ応三有蓋元蓋同在佐世

       ヤ  う

  禄之列↓故四位宜レ入昌食封之限↓(下略)

 これは蓄うまでもなく位封の支給対象を三位以上から四位にまで引き下げることを伝える詔文である。文中にも述べら

れている如く、 「令偏即ち大宝禄令食同条によれば三位以上には三鷹が、四位・五位には位禄が各々支給されることにな

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っており、これは先述の原則的位階区分法「三位以上一五位以上」の一典型であって、それ故四位と五位とは三位以上の

位封支給に対して位禄支給という点で共通し一括しうるのであった。ところが、周知の如く右の規定は大宝令施行以後も

                                       ㊧

遵守されることなく、現実には四位・五位の宮人にも位置が存する状態であったのである。

 一体、厳封制とは前代における豪族の私地私民所有の否定に淵源し、従って私地私民制に代替する給付欄度であり、そ

の限りでその成立は画期的意義を有する。しかし律令俸給制度史の観点よりすれば中央官司(大蔵省)の手により画一的

に支給される位禄の方が、国司を介在せしめ乍らも中央官司を経ずして一部公訴より収取するを認める食器に比べて、中

           ゐ  ら

央集権国家の体制理念により適合的であったことは明かであろう。さればこそ、それまで怒鼻⊥直冠(-五位)以上の老

          ⑳

に実施されていた食封制の制限が大宝令捌二段階においてなされたのであった。即ち、位封についてはその支給対象を三

位以上に限定したのであり、従って四位・五位は黒々の支給対象より除外され中央宮司より一定数の禄物(位禄)を支給

されることとなった。しかし乍ら、それまで封戸支給対象であった四位・五位官人はその既得権益を拗棄するに忍びず、

政府もまた詳言を令しえずして、遂に現実的対応として位封支給対象を三位以上から四位まで引き下げるに及んだのであ

ろう。

 さて、君の如く考えられるとすれば、本稿の観点からして特に重要なのは律令政府が位封支給対象⊥二位以上の規定を

堅持しえずして敢えて四位にも位封を認めたことであり、従って「四位以上」と五位との間に一線を劃したことである。

                      ⑳

尤もこの措置自体は妥協的なものといってよかろうが、その実態的背景に「四位以上」の一体性を認めることは不当では

あるまい。このことは法制上の階層区分と実態上のそれとの齪鶴を推測せしめるが、大宝令施行後間もない時期のことで

あるだけに殊に重要である。

 ②『続日本紀』大宝元年(七〇一)八月丁未条、

                マ  ヘ  ヘ  へ

  撰令蕨処分、職事富人賜レ禄之日、五位已下皆参昌大蔵}受二其禄皿盛不レ然老、弾正糺察焉、

50 (672)

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参議鯛の成立(虎尾)

 右に称する「其禄しとは職事官の禄であり、従って季禄を意味することは明白である。

 ところで禄令給季禄条によれば、季禄は所定の上日数を満たした一位以下初位以上の全ての職事官に支給さる(二月と

う  ヵ

八月)べき俸給であるが、右の撰個所処分によれば五位以下官人は自ら大蔵省に出向いてこれを受取るのに対し、四位以

上官人は直接出向く必要がなかったものの如くである。即ち、季禄の支給方法について門四位以上」と五位(以下)との

間に差別が設定されたと思しく、これもまた当時の舞際の階層区分に関する認識を反映していると考えられるが、時期的

に参議調成立以前にかかるものであることを重視したい。

 猶、四位以上官人の場合、直接某所に出向く必要なしとする優遇措置については次の史料も参考となる。

   『令集解』職貴令式部省条令釈所引太政官処分

        ヘ  ヘ  ヘ  へ

  太政官処分、四位以上失晶礼儀一老、召昌其身主典以上一巻一場糺↓五位、式部召呂其正身一息察、

 この太政官処分の発令時は不明であるが、 『令集解』所引の発令時の知られる太政官処分が神亀二年(七二五)を下限と

していずれも律令欄初期に集中していることから推して、やはり比較的早い時期に発令され、やがては延喜式に継承され

た(式部上・容儀違礼条)と想定される。これによれば、四位以上官人が礼儀を失した場合には本人ではなくその官人の所属

する官司の主典以上の者を式部省に召喚し、これを通じて間接的に教糺するにとどまり、本人を直接式部省に召喚して教

糺する五位官人の場合に対して相対的に優遇する措置をとったことが知られ、従って先の撰令所処分の四位以上官人に対

する優遇措置と揆を一にすると麿倣しうる。

 ㈲大宝儀制令蓋条

                              ヘ  へ           ぬ  ヘ  ヘ  へ        あ  へ

  凡蓋、皇太子紫表、蘇方裏、頂及四角、覆レ錦垂レ総、親王紫大王、一位深緑、三位以上維、四位繰、(中略) 並朱裏、総用昌同色ハ

 右は蓋(キヌガサ)についての規定であり正しくは養老令文であるが、この条文で重要な点、即ち臣下としては四位以

上官人にのみ蓋の使用が認められている点については先掲ωの文中の 「四位有諜飛蓋之貴↓五位無二黒蓋之重一」 の辞句に

51 (673)

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よって大宝令でも同様であったことが確実である。

 ところで、わが律令条文における五位以上の原則的位階区分法は論述の如く「三位以上一五位以上」であり、これは条

                                 ⑳

文によっては更に「一位…三位以上-四位i五位」と分化することもあるが、㈲の如く四位が三位以上と同範疇におかれ

                            ⑳                   ⑳

て五位と区別される「四位以上一五位」の例は極めて稀であり、しかも面諭と内容を異にしていることから推せば、㈲の

位階区分法が日本独自の事情によって成立した可能性は大きいといえよう。そして皇太子・親王らと並んで貴人にのみ認

められ、その意味で鮮明なステータス・シンボルたりうるところの蓋の使用を臣下としてはかように四位以上に許されて

五位之区別された(「四位有二飛蓋之貴↓五位無離三蓋之重二)ことは、先の原則的位階区分法と全く異質なだけに、それ

までの「四位以上」の一体性とその伝統的性格に由来するのではないかとすべき余地があるのである。

 かくして、私は次に「四位以上」が既に大宝令前において一体的に認識されていたことを示す史料を列挙したいと思う。

                  (十六目)

 ω『続日本紀』大宝元年(七〇一)正月庚寅条

            ヘ  へ  あ  ヘ  へ

  宴昌皇親及百寮於朝堂↓直広弐已上者、特賜=御器膳丼衣裳(極レ議案罷、

 ㈲ 『日本書紀』隔狩統五年(六九一)十∴冒月乙巴条

              ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

  詔旨、賜昌右大臣一宅地四町、直広弐以上二町、大参以下一町、勤以下至晶無位ハ随一其戸口↓其上戸一町、中戸半町、下戸四分之一、

  王等亦准レ之、

 ⑥『日本書紀』天武五年(穴七六)正月癸卯条

                              ヘ  ヘ  ヘ  へ

  高市皇子以下、小錦以上大夫等、賜篇衣袴摺、腰帯脚帯及机杖↓唯小錦三階不レ賜レ机、

 右の中、先ずωは正月十六日の踏歌の宴において直広弐以上(魏四位以上)のみが特に御器膳・衣裳を賜わって直大参

以下(-五位以下)と区別されたこと、次に㈲は新造帝都藤原京の宅地班給に際して直広弐以上(睡四位以上)が一個口

グループとして扱われ直大参以下(u五位以下)と区溺されたこと、最後に⑥は賜物について大錦以上(川四位以上)と

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参議制の成立(虎尾)

小錦(-五位)とが区別されたこと、を各々伝えている。

 即ち、これらは、等しく直冠(天武十四年冠位制)にある者でも広弐以上と大参以下が、又等しく錦冠(天智三年冠位

調)にある者でも大錦と小錦とが、いずれも区別され、むしろ大錦以上⊥峰広弐以上(-四位以上)が実際には一体的な

階層として認識されていたことを示駿しているのである。

 そして、奇しくも文武・持続・天武の大宝令前三代に亘って各々一例ずつ四位以上と五位(以下)とが区別された事例

       ⑯

を検出しえたことは「四位以上」が少くとも天終朝にまで潮る歴史的階層であったことを意味しているのであり、従って

先に提示した大宝令制下における「四位以上」の一体性の微罪と相倹って、かかる歴史的な階層としての「四位以上」の

存在こそが大宝二年の参議綱成立の背景であり、又、かかる「四位以上」における「四位」こそが参議任官者の基盤であ

ったと予想されるのである。換言すれば、参議任官者が実態上四位に限定され、これを含めて四位以上官人による議政官

組織が構成されることになるのは、法規上の原測的位階区分に拘らず実態上「四位以上偏が一体的な階層として歴史的に

存在したことに因由するものと考えられるのである。そして如上の任官実態が参議勧を含むわが議政官制度の歴史的性格

によって規定されたものであるならば、任官の対象となった「四位以上」は勝れて政治的な階層であったと想定されよう。

先掲③の史料から「四位以上」が伝統的性格を有する階層と看要しうるとしたこともこのことと関連する。されば、歴史

的かつ政治的階層であったと想定される「四位以上」とは一体如何なる階層であったのであろうか。

 ここに至って吾々は大宝令制四位が令前諸冠位制を湖及して推古十一年(六〇三)冠位綱、即ち冠位十二階中の徳冠に逢

着する(表3参照)ことを単なる偶然とは開演しえぬであろう。何となれば、既に関晃氏によって指摘されている如く、徳

                                     ⑰

冠は大化前代において大臣・大連の下で国政を合議した大夫の冠位であったからである。

 ところで漠然とではあるが、畿内有力氏族の族長によって構成される令制太政宮合議制が大臣・大連を含めた前代大夫

合議欄に系譜することは既に常識に属するといってよい。しかし、私は合議綱構成員の氏族的問題の外にさらに冠位・位

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表3

馨t年冥三主大化葦

大  徳

義  徳

大  仁

小  仁

大  礼

小  礼

大織

小 織

火 繍

小 繍

大 紫

小紫

大錦

小 錦

大 青

大織

小織

小大

繍繍大紫

小紫

大花

小花

上下上下

大山

上下

天智三年一天武茜年

大織

小織

大縫

小 縫

大紫

小紫

  上

大鈴中

 中

   小

   錦

下中上

大山中

上下

正大広 大広弐  壱

鉱参

大広騨

     塗

     隠広大 広大 広大 広大難  参  弐  壱

  勤広大 広大 広大参  弐  壱賢

大宝元年

…品

二品

三品

四品

響位

鷹二位

妊三位

従  正  五  位下上 下上

従  正  四  位下上 下上

正従六位

上下上下

① 々馴例律山ハ謙隅条、同五位以」山妾条。

② 竹内理三「律令官位制に於ける階級性」

(同『律令制と貴族政権』

階の問題についても注目すべきであると考える。そし

て予め見通しを述べると、〈十七ロ大錦(花)⊥阻広弐

-四位〉以上が大化前代より大略一貫して実質的大夫

層(以下、大夫層と称する場合は大駆・大連らも含め

た指導的支配層を指示する)の冠位・位階として実態

上意識・継承され、遂に参議制成立にまで及んだと考

えて差支えないと思う。又、従来、大化以後冠位捌の

累次の変遷に目を奪われ、ともすれば閑却され勝ちで

あるが、わが国最初の冠位制にして施行期間実に四十

蒋余年の永きを閲する冠位十二階制が大化以後の官人

社会を意外に深く規定していたのではないかという観

点は必要かつ重要であると思う。

 そこで次章ではく大錦(花)-直広弐皿四位〉以上が

三冠を継承しつつ、広義の「大失」層(〈小錦-薩広

弐11五位〉以上)の中にあって、狭義の大夫層即ち実

質的大夫層の冠位・位階であった点を論証し、以って

参議制成立事情についての私見を述べることとしたい。

 第-部所収)。

③曾我都静雄「養老の初位制度」

(『

テ代学』八-三、昭和三四年)。

54 (676)

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参議制の成立(虎尾)

④ 例えば嵩置「律令貴族論」 (前掲)参照。

⑤ 例えば『続日本紀』大宝元年七月厳貌条、同養老五年二月甲午条な

 ど。

⑥ 管見では三二例に及ぶ。猶、本稿で「位階区分法」と称する場合の

 「位階」の最少単位は一位・二位などの名数階位とする。

⑦ 『藤野疏議』名湯律八議条、同五品以上妾有犯条。猶、日唐律の比

 較対照に際しては律令研究会編『訳註日本律令』二(昭和五〇年)参

 照のこと。

⑧例えばわが儀制令文武官条は典型的な「三位以上一五位以上」型で

 あるが、仁井田陞『司令拾遺』 (昭和八年)によって復原された唐令

 文は「五品以上一六品以下」型であって「三品以上-五品以上」型で

 はない。又抑も令制五位以上に相当する上級冠位を圭冠と直冠の二つ

 に区分した天武豊囲年冠位制剃定置が既に唐の「三品以上-五品以上」

 を意識した可能性もあり、大宝令制定段階における唐制継承のみに注

 目することも避けるべきであろう。

⑨ 時野谷滋「隠題令における官と位」(『芸林』四-五、昭和二八笹。

⑩選四宝遷代条。

⑪ 野村忠夫『律令官人制の研究』 (昭和四二年)一七八頁。

⑫ 野村患夫「律令位階体系をめぐる断章三題」 (竹内理三博土古稀記

 念畔編『続律令国家と貴族歓会』所収、昭稲五三年)。又、『万葉集』

 巻十六所収の左の歌(三八五八番)は画聖の五位に対する一般的な感

 懐を示していよう。

                    ヘ  ヘ  へ  も

   このころの我が恋力記し集め功に申さぱ五位の冠

⑬ 皇親の叙位については亀田隆之「親望・王の子の叙位」 (同『日本

 古代制度史論』所収、昭和五五年)参照のこと。猶、本稿で対象とす

 る四位官人・四位階層の主体は電工と対比される所の貸族贋である。

 等しく四位といっても如上と貴族とでは少しく階層を異にする。例え

 ば極めて機械的ではあるが、奈良朝における従四位下在位年数の平均

 値を算出すると、貴族の場合は約四・二年、従五位下魚四王の場合は

 約七・二年、従四位下初叙玉の場合は約一一年であり、皇親と費族と

 では約そ二倍から三倍の開きが存するのである。これは若年にして従

 四位下に叙された皇親と一定の年数を経てこの位階に到達した費族と

 が四位以上の昇進において国訴されたことを如実に物語っているとい

 えよう。

⑭ 外従五位下及び六位以下より従五位下を経ずして 挙に従四位下に

 昇叙された総名の者は左表の如くである。

 il                      この中(1)

年  時

(-)黍≡七ゴ 九)、

(2)

(3)

(4)

宝字 元(七五七)

三(七五九)

八(七六四)

旧 位

正八下下

氏  名

藁下繰呂

従八位上τ蘂太都

正六口上

従七位上

正六位上

外従五位下

従六位下

従八位上

外従五位下

岡 口気

牡鹿蛙足

坂上苅田麻呂

粟田道麻呂

中臣伊勢老人

弓剛浄人

高丘比良麻呂

行賞であった。又(3)はその理由を詳かにせぬが、

は大宮垣築造

の労功に対す

るもの(蜜時、

嶋麻呂は造宮

録)、(2)は

橘奈良麻呂の

謀叛密告に対

するもの、そ

して(4)は

仲麻呂の乱後

における論功

後に仲麻呂謀

 籔の週案者となることから推して仲麻呂と近しい関係にあった者であ

 って、仲麻呂の魍人的意向によって特に異例の昇叙がなされたと思し

 い。

⑮五位以下より愛蘭妄動を経ずに(A)従四位上(B)正四位上に昇

 叙された五名の者は左表の如くである。

55 (677)

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∠年時

(・)冨莞(七〇四)

(2)養老五(七二一)

(・)冨茜(七五二)

(・量字八(七六四)

旧 位

禿  位

従五位下

正五上上

可五位上

一こ口上

氏 名

長魔王

・腫

藤原麻呂

藤原宇合

BA

大伴古型旦・

丁三浦一・

 は仲麻呂の乱後における論功行賞であった。又(1)

 としての格別の叙位であった(亀田隆之「親王・王の子の叙位につ

 て」 〈前掲〉)。

⑯ 五位より四位を経ずして一挙に従三位に昇叙された三曲の者は左表

 の如くである。

/A2LX宝出予八(七山ハ四)

正五位臣

従五位野

  民  名

言済驚

山村王

藤原蔵下麻昌

  この中(2)

 は藤原四子の

 三月・末弟た

 ることが注意

 され、(3)は

遣唐使派遣に

際しての特叙、

 そして(4)

は高市皇子の子

      い

 この中(1)

は陸奥守在任

中に管下小田

郡より黄金を

貢上したこと

 によるのであり、 (2)は伸麻呂の乱後の論功行賞であった。

⑰ 四位より従三位を経ずして一挙に正三位に昇叙された空名の者は左

 表の如くである。

/(-)

(2)

年  時

大宝苑(七〇一)

慨  位

直大壱

(正響位上)

直広壱

(正四位下)

琉  名

石上麻呂

藤原不比等

天応元(七八三正四位負繋小里{麿

 この中(1)

は天武十四年

冠位翻より大

宝令位階髄へ

の改訂時にお

ける特例であ

 り、(2)は蝦夷征伐の功労に対するものであった。

⑱ 川崎庸之「梅花の歌の作者について」(『和光大学人文学部紀要』一

 一、昭二五{年)。

⑲山上憶良は養老五年正月段階で従五位下在位が確認され、大伴首麻

 呂は神言五年五月に外従五位下に叙されている。

⑳ 公式令過所式条、 『続日本紀』養老五年十月癸未条。

⑳『四日本紀』天平十年十月甲午条。

⑫ 明かに四位宮人に対して「卿」を付した例としては外に「右大弁高

 雄構安麻呂卿」 (『万葉集』巻六、 一〇二七番左注)、「(従四位上佐伯岬宿

 禰)伊太知卿」(『B本霊異記』下巻第三七)などがあり、又「検税使

   へ

 大伴卿」 (『万葉集』巻九、 一七五三番題調)も瀧川政次郎「検税使

 大伴卿」(『国学院法学』七-四、昭和罎五年)の所説(正四位下大伴

 旅人に比定する)に従えば陶様の一例となる。

                へ

⑬ 端的には「小納言正五位天威奈卿墓誌銘井序」 (奈良国立文化財研

 究所飛鳥資料一編『日本古代の墓誌』銘文篇、昭和五三年)。

⑳ さらに岡…の四位官人が「卿」・「大夫」のいずれをも付されたこと

 を示す例として大神高市麻呂の葺合が存する。高帯麻呂は慶雲三年従

 四位上で卒毒するが、既に持統六年には直大弐(健従四位上)であっ

 た。さて『万葉集』巻九、一七七〇~二番の歌の題詞に見える「大神

 大失」は明かに大宝二年以後の高市麻呂を指しており、従って先ず四

 位官人にして「大夫」と称されたことが確認される。ところが昭和五

 五年に藤原宮跡より出土した文書木簡の一つ

   ・「大神卿垂準m・

   。「犬上ホ支田女右x

 に見える「大神卿」も高市麻呂を指すとみられる(奈良国立文化財研

 究所『藤原宮出土木簡』㈲、昭和五六年)故、ここに恐らく四位官人

 にして「卿」とも称されたことが推考されよう。

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参議制の成立(虎尾)

⑳『続臼本紀』慶雲二年十}月庚質屋。

⑯ 『日本書紀』天武五年八月丁露都、 『続日本紀』文武元年八月壬辰

 条。

⑳ 高橋崇『律令{織匠給与制の研究』 (昭和四五年)一漏七〇百ハ。

⑯ 四位位封は大同三年に位封・位禄制が令制に復帰される(『類聚三代

 格』所収大同三年十一月十日太政官奏)まで存続した。それ故、位封

 における「四位以上」の一体性は奈良朝を通じて楡らなかったといえ

 よう。

⑳蓋については瀧川致次郎「華蓋考」(『国学院法学』一-二、昭和三

 九年)参照。

⑳ 典型的な条文としては進薪糊を規定した雑令文武官人条などがある。

⑳ 管見の限りでは本条と次の一例とを措いて外にない。

   『続日本紀』大宝元年三月甲午条

   始依二新令↓改コ制官名位号ハ(中略)外位始一 直黒正五位上階叫終二

   進冠少初位下階{合廿階、(下略)

 右は中略部分を含めて天武十四年冠位澗から大宝令位階制への改訂を

 伝える著名な記事である(坂本太郎「古代位階制二題」 〈同『日本古

 代史の基礎的研究』下年度篇所収、昭葎三九年〉)が、これによって太

 宝官位令の外位規定は五位以下にのみ設けられ四位以上については外

 位は存しなかったことが確認されるのである。ところで外位が実質的

 に地方豪族以下に与えられる位階であり、その点に申央貴族層の地方

 豪族層以下に対する優位性の明確化の意図を見出すことがでぎる(野

 村忠夫『律令融業糊の研究騙 〈前掲〉三=離塁)とすれば、外位の存

 しない「四伎以上」とは中央貴族層における最も支配的な集団として

 一体化しうるようにも思われる。しかし、かつて曾我部静雄「我が位

階制度に於ける初位と外位」(『歴史地理』八九一二、昭和三四年)が

 論証された如くわが国の大宝令制外位は唐の視贔を継承するものであ

 り、その視晶が流内官に限っては五晶以下に規定ざれていた(『旧唐

 書』職官志)こと、及び養老官位令において外位規定が醜除されたこ

 となどからすれば、外位規定をめぐって四位以上と五位以下とが明確

 に区別されたことを過大に評価する訳にはゆかない。唯、既に天武朝

 には外位が存在し、少くとも機能的な面でそれが大宝令制外位に連続

 する(野村忠夫『律令宮人制の研究』 〈前掲〉三二二頁)とすれば、

 痘模直訳的側面が濃厚であるとはいえ、一方で四位以上と五位以下と

 を区溺することが比較的容易であった側顧を想定することは許される

 のではなかろうか。

@ 本条の唐令対応条文は仁井田陞『唐令拾遺』 (前掲)によって左の

 如く復原されている。

   職事五品已上及数官三二已上爵国公已上及県令、並用レ緻、

 猶、叢と緻が等しくキヌガサであることについては瀧用政次郎「華蓋

 考」 (前掲)参照。

⑳ 先にふれた禄令食封条の外に蔭位制を規定した選叙令五位以上条、

 内舎人の任用を規定した軍議令五位子孫条なども「三位以上…五位以

 上」である。

⑭ 『続飯本紀』延暦元年十二月壬子条にも「其四位巳上者、冠蓋既貴」

 とみえている。

㊧ 逆に三代において三位以上と四位以下とが区別された家例は管見に

 よれば次の~例のみである。

   『百日本紀』文武三年六月丁未条

   命二直冠里下一百五十九入山就二日勤王第一会レ喪、

⑳ 冠紘十二階とその後の冠位・位階…制との対応関係については黛弘道

 「冠位十二階考」(『東京大学教養学部入文科学紀要』~七、昭和三四

 年)以後の通説に拠る。猶、武光誠「冠位十二階の再検討」(騨、艮本四

 史』三四六、昭和五三年)は冠位十二階の大徳・小徳が大化三年冠位

57 (679)

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制の大錦・小錦に各々継承された(従って大仁以下は群青以下に継承

された↓六位以下)とする見解を提出ざれたが肯い難い。詳論は控え

させて頂くが、氏自身が自説の根拠の一つとして掲げられた次の二つ

の史料はむしろ大礼以下が大掴以下に継承されたとする所説、即ち大

礼以下陛六位以下なる通説をより強く支持するものと思われるが如何

であろうか。

 ω『日本藩紀臨推古十九年五月五日条

  是臼、諸臣服色、皆蜜蝋冠色心野乗二讐花∩則大徳小磯寮母レ金、大

         へ  う  ヘ  へ

  仁小無用二黒尾↓大礼以下用一鳥尾納

 ㈲『日本書紀臨大化二年三月甲申条

  詔日(中略)夫王以上之墓者、……上臣之識者、……下臣之墓者、

           も  ヘ   へ  う  ヨ  コ  エ  マ

  大仁小仁之墓者……、大礼以下小智以上之墓誌、……(下略)

 ところで通説に従う限り、㈲の讐花の着用における「徳冠-仁冠一

 大礼以下」や㈲のいわゆる大化瀞葬令における「上臣-下臣-仁冠-

 大礼以下」が、本文粟田史料㈲の「大錦以上-小早一(大山以下)」や

 樹の「右大臣一直広弐以上一直大参以下(直広蜂以上)1勤冠以下」

 と構造上大略共通する点は麿過できまい。即ち、いずれも基本的には

 「四僚以上一五位一六位以下」という構造に澱体しうるのであるが、

 このことは㈲ωが㈲㈲などの前提となっていることを示唆すると同時

 に「四位以上」の一体性が冠位十二階欄によって規定されたものであ

 る蓋然…性を高めるものであると考えられる。

⑳関晃「大化前後の大夫について」(『山梨大学学芸学部研究報告』~

 ○、昭恕三四年)。

㊥ 例えば阿部武彦「古代族長継承の問題について」(『北火史学』二、

 昭漁二九年)。

58 (680)

第二章参議制の成立

          第一節 大夫層冠位の継承

                             ①

 大化前代の大夫制については関晃氏や原島礼二氏の論考に譲るが、唯その実態をよく伝えるものとして先学によっても

取り上げられている野饗天皇即位を坐る紛争(『日本書紀』蕾明転墓前紀)から改めて次の二点を確認しておきたい。

 その一は皇位継承という皇室自身にとって重大な問題でさえ皇室を全く無視する形で大臣(蘇我蝦夷)の下、大夫らの

           ②

合議に諮られている点であり、その二はここで知られる者だけでも大夫の数は十二名にも上り、又氏族的にも阿倍・大伴

                                       ③

二筒向・中臣・許勢・佐伯・紀・蘇我などの雄族が名を列ねている点である。

かような機能と規模・内容とを有する大夫制が大化改新後の政治制度上に如何に継承されたかは、遺憾乍ら不明とする

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参議制の成立(虎尾)

                                              ④

外ない。勿論、前代の大臣・大連を継承すると思しき左右大臣にはやはり大夫層の上層の者がこれに任じた訳であるが、

孝徳朝における中国的官調(国政合議体を法上難く)の導入・大化以後の諸冠位制のあり方(徳冠・仁冠を併せて錦冠-

                        ⑤

花冠とする)・及び汎称・敬称としての「大夫」号の成立などから推して大夫制そのものは政治制度としては一応解消され

たと考えるのが穏当であろう。

 その意味で、近年笹山晴生氏によって提出された所論は首肯すべきものといえる。即ち幾は孝徳朝官制を大夫層による

                         ⑥       ⑦       ⑧

国政諸部門分掌の体制と看散し、断片的に知られる「衛部」・「刑部尚書」・「将作大匠」などは諸大夫に付与された中国風

           ⑨

官名であったと推考された。

 少くとも「衛部」・「刑部尚書」の冠位が共に大花上(大化五年冠位制)であり、又後の天智十年(六七一)に任ぜられた

                                        ⑩

左右大臣・御史大夫らの中、冠位の判明する者が金て大錦下(天智三年冠位制)以上であって、いずれも冠位十二階中の

徳冠を継承する冠位であることは笹山説を支持するものであると同時に、改新以後の大夫層が昔日の如く政治制度上に結

集しえずとも、依然確乎たる勢力として指導的立場にあったことを暗示している。議論の多い天智十年官制(左右大臣・

御史大夫)も前代大夫合議綱の一部復活と位置づけることが可能であろう。とまれ、改新以後天智朝までの大夫層が依然

として確乎たる指導勢力であった点は大略疑いない。

 ところが、壬申の乱を経て開始される天武朝においては、その性格規定ともかかわって大夫層の存在や大夫層冠位の継

承の問題は微妙となってくる。それ故、以下天武朝における右の問題について聯か検討を加えることとしたい。

                       ⑪

 天武朝の性格を饒っては種々議論の存する所であるが、私は律令太政官制の成立過程を詳細に跡づけられた早川庄八氏

の所論に以下の限りで従う者である。即ち早川氏は天武篇における太政官が令制下の如き議政官組織ではなく単一宮職納

言によって構成される侍奉奏根張組織であったことを論証し、一方でわが国本来の政治形態が畿内有力氏族が大臣・大連

・大夫として国政を合議するものであったことを踏まえ、天武朝がかかる合議体組織を法上認めなかったことを以て当該

59 (681)

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                   ⑫

期の専欄的性格を確認されたのであった。

 ところで、早川氏が天武朝太政官を侍奉奏宣官組織と考定された主要な根拠の一には納言の主位が令制下議政官のそれ

に比べてかなり低いことが掲げられているが、このことに類同することとして、又本章の問題にとって極めて重要な事実

として、私は天武平における冠位昇叙の抑制を挙げることが出来ると思う。尤も、天武装において上級冠位昇叙の抑制が

                      ⑬

行われたことについては森田悌氏の指摘もあるが、私は正しく大夫層としての冠位、即ち大錦-直広弐(四位)以上が昇

叙抑制の対象となったと看敬して差支えないと考える。以下にその論拠を示そう。

 その一は天武朝、就中後半期において遣使・任官された者の帯位が殆ど小錦-直大参(五位)以下である点である。天

武朝における遣使・任官について整理した表4を参照されたい。

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62 (684)

使や官の性格、史料の残存度の問題も当然考慮されねばならないが、 一見して小錦⊥最大参(暗五位)以下官人の圧倒

的に多いことを一つの傾向として認めざるを得ないであろう。又、錦冠-直管以上(翻五位以上)では小錦下・直広黙な

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参議制の成立(虎尾)

ど各々の末端位の者が大半を占めていることも二三的である。即ち、一般にその帯位は低いのである。大錦-直広弐(-

四位)以上に至っては殆ど稀といってよい。

 就中、著名な天武野宮金面記事を整理した鶴・㊥・㈹は天武朝末期の有力官人の多くが列挙されていると思しいが、如

上の傾向が典型的に表われているといえよう。即ち、これらによれば恰かも申し合せたかの如く、その帯位は直大参~直

広難に集中している(但し諸王を除く)のである。これは単なる偶然であろうか。将又ここに名を列ねている者は諸司の

いわば母宮級の官人であり、直広弐以上の長官級官人はまた別に実在したと推測すべきであろうか。しかし乍ら、これに

限らず一般に大錦罰直広弐以上の遣使任官史料が極めて僅少であることは先述の如くであり、雨天武朝末年に少くとも十

数名以上にも上る直広弐以上官人の実在を仮定することは史料上困難であるといわざるをえない。

 然りとすれば、㈹・㈹・㈹の如き史料的事実は偶然や一定クラスの官人に限定されたことなどによるのではなく、当時、

直広弐以上官人の数が実際に僅少であったことによると想定すべきであろう。

                       ⑮

 勿論表4の⑨・㈲・⑳によっても又天斜面鹿卒記事によっても明らかに知られる如く、天亡朝全般において大錦以上官

人が実在したことを過小評価してはならない。先掲史料⑥(第一章第三節)によれば、大錦以上が一体的に優遇されたこ

とも、大錦以上官人の実在を前提とするものに外ならない。

 しかし、この史料の年時が天武朝の比較的初期にかかるものであることや、又表4一㈲の上毛野三千が同年八月には卒

去する恐らくは高齢者であったことなどから推知せられる如く、大錦以上官人の場合は既に天名薬にその冠位を与えられ

ていたと解しうる余地が存するのであって、それ故天武朝における大錦以上官人の実在それ自体はその数が僅少である限

り、該期における大錦-直広弐以上への昇叙抑制の推定にとって、獅かも障碍とはならぬのである。

 而して論拠の二は天智三年冠位制から天武十薦年冠位欄への改訂に際してそれまで大錦冠にあった者が直大参以下に降

位せしめられたケースが僅かに」例乍らも現に存することである。即ち羽田真人八国のケースがそれである。

63 (6S5)

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 彼は表4一⑳・⑪によって明かな如く、 『日本書紀』天武十二年(六八三)十二月丙寅条で大錦下を帯びていたことが確

認され乍ら次で同朱鳥元年(六八六)三月丙午条では直大参として現われるのであり、爾記事に不審の点は毫も存せぬ故天

武十四年(六八五)の冠位制改訂時に降位せしめられたと解する外ない。

                                                    ⑯

 抑も廻国は壬申の乱において近江方の将軍として参戦し途中で吉野方に投降してからも再び将軍として起用される武人

であるが、その地位からして当時既に大錦下を帯びていたことも充分考えられる。かかる壬申年の功臣にして真人姓まで

与えられたる者が冠位制の改訂に際して降位せしめられた理由はその帯する冠位それ自体に存したとみるべきではなかろ

うか。即ち、天智朝において与えられた大錦下を体制上好ましからざるものとして新冠位制施行に際し事実上剥奪された

と推定することが可能であろう。かようなケースを直ちに一般化することは慎まねばなるまいが、天武十四年冠位綱施行

                                          ⑰

以前及び以後を通じて大錦-直広弐以上であった巻を史料上確認することが極めて困難であることはこの際参考になると

思われる。

 さて、如上の二つの論拠に基づき、天武朝における大錦⊥旦広弐以上の冠位への昇叙抑制状況を推定しうるとすれば、

それは吾々に柳か奇異の印象を与えざるをえまい。しかし、かかる状況こそは天型込の専制的性格を如実に示すものであ

るとせねばならぬ。即ち、天武は大錦以上及び従来の諸冠位制における大錦相当以上の冠位に大夫層が位置して合議体を

構成する致治形態(改新以後制度的には一応解消し天馬射において一部復活)の伝統を懸念し、極力大錦匿直広弐以上冠

位への昇叙を抑制して大夫層を自らの尊霊支配を実現する統治機構のための完全な個別官僚(六宮など)として編成した

のである。表41㈹・㈹・㈹に表われた直大参~直広雛を帯する官人の多くは前代大夫層や後代議政叩上と比べて氏族的

                                            ⑱

に何ら遜色ないといってよい。そして、同母によって顕著の如く、臨時の使官に皇親が重用されたこと(皇親政治)から

推して、大夫層による合議体に代えるに恐らくは皇親を以てしたのであろう。

 ところで、早川民が説かれた如く天霊芝において貴族による国政合議体が敢えて設置されなかったことと、如上で推定

64 (686)

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参議制の成立(虎尾)

した大錦-直広弐以上の冠位への昇叙抑制とは表裏一体の政策であったと思われるが、このことは同時に専制君主たる天

武ですらも冠位十二購中の徳冠を継承する大錦⊥置広弐以上の歴史的政治的意義を認めざるをえなかったことを示してい

るのである。先掲史料⑥も、かかる認識に基き大錦以上宮人と小錦官人とを同列に扱いえなかったことを示しているとい

えよう。

 以上の検討からすれば、天武勲において大夫層がその指導的立場を喪い、勢力を削がれたことは明らかであるが、同時

にそのことが大錦-直広弐以上冠位の昇叙抑制を通じてなされたことから知られる如く、言わばネガチヴな形で大夫層の

冠位は一貫して継承されたと思しい。持統朝以降における直広弐以上官人の増加と直広弐以上の議政嘗(中納言以上)の

 ⑲

成立は歴史的冠位に依拠する大夫層の政治的復権の実現を意味すると考えられる。

 かくして参議制の成立は間近に迫るが、これまでの論述から参議制が大夫層を基盤とし、その成立が前代大夫制復活の

一環として位置づけうるものであることは最早明かであろう。

 尤も、参議を含めた議政官組織が前代大夫制を継承するものであることは先述の如く既に常識といってよい。しかし、

私は大夫層の冠位徳冠を継承した「四位以上」の政治的階層が広く大夫制を継承し、議政官となりうる老であったことに

注意すべきであると思う。それ故、この点を令制下において最終的に確認してから、参議謝成立の事清に説き及ぶことと

する。

         第二節 参議制成立事情の考定

 『続日本紀』和銅元年(七〇八)七月乙巳条は左の如き記事を掲載している(便宜上三部に分かち整理して掲げ、又記事

には見えていないが㈲のカッコ内に当時の帯位を記す)。

 ㈲召三一贔      穂積親王

  (正二位)  左大匿 石上朝臣麻呂

65 (687)

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(正二位)

(正三位)

(正四位上)

(従四位上)

(従四位上)

(従四位上)

(従四位上)

於御前↓

右大臣

大納言

中納琶

左大弁

式部卿

藤前朝臣不比等

大伴宿禰安麻呂

小野朝臣毛野

阿倍朝臣宿奈麻呂

中臣朝臣意美麻呂

巨勢朝臣麻呂

下毛野朝臣古麻呂 等

     晶群、下等情工二公平ハ率昌先百寮ハ朕聞レ之喜コ慰子懐↓思由品書等如ツ此、百官為レ本至二天下平民↓垂操開レ衿、長久平好、

 又卿等子々孫々、各保篇栄命噴相継供奉、宜下知晶此意一各自努力卸

⑧又召晶神紙官大副 太政官少弁 八省少輔以上、

   侍従、

   弾正弼以上、

  及武官職事五位ハ

 勅日、汝王臣等、為晶諸司本碗由昌汝等鋤7力、諸司人等須二斉整↓紀聞、忠浄守昌臣子難業↓遂二二栄貴ハ懸濁蕃昌臣子煙道納必被昌罪

 辱ハ是天地書軸理、君臣之明鏡、故汝等知二此意一鶴守二所職↓勿レ有二怠緩↓能堪晶時務一老、必融雪進、乱昌失官事}者、必元昌隠誰↓

◎因授昌従四位上阿倍朝臣宿奈麻呂正四位上↓

   従四位上下毛野朝臣古麻呂、

       中臣朝距意美麻呂、

       巨勢朝臣麻呂、並正四位下、

 文武職事五位已上及女官、賜レ禄各有差、

66 (688)

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参議舗の成立(虎尾)

 右においては㈹と㈲との関係如何が問題となろう。何となれば、㈲において召喚された官人は殆ど全て㈲に含まれてし

まうからであり、従って何故に㈲は㈲に先立ち、或はこれと区別して行われたのかが問題となるのである。

                                 ⑳

 先ず、㈲において召喚された官人が主要な官司の厳密に五位以上であることが注意される。このことは「大夫」と称さ

     ⑳

れる五位以上官人の中で主要な官職に任ずる者が召喚の対象として意識されたことを意昧しているが、彼らには勅意にあ

る如く、 「各守二所職こり、 「勿レ有二三冠こらんことが要請されたのであり、言わば諸司内部における責任者・指導者

(「

博i本」)としての自覚と努力が促されたのであった。

 一方、㈲において召喚された官人は記された官職からみて明かな如くその殆どが太政官構成員、即ち議政官であり、又

表記されてはいないものの穂積親王は当時知太政官事、下毛上古麻呂は同じく参議であった。さらに平文によって窺われ

る如く、彼らは「率鵡先百寮一」し、又「子々孫々」に至るまで「相継供奉」することを要請される者たちであった。従っ

て㈲においては前代大夫合議体を実質的に継承する太政官合議体の構成員が召喚の対象として意識されたとみることが一

応許される。ところが、かような㈱において当時議政官に非ざる者が僅かに一名乍らも名を列ねていることは看過できな

い。即ち、巨勢麻呂がそれであるが、このことは彼がやがて七年後の和銅八年(七一五)に中納言に任官して議政宮入りを

遂げる人物たることを併せ考えると、この巨勢麻呂が当時現任の議政官でないにも拘らず議政官に準ずる立場の人物とし

て認識されていたことを意味するのである。そして㈲において召喚された官人が当時参内可能な四位以上宮入(皇親を除

       ㊧

く)の大半であることを思う時、吾々は大宝令制下においてなお四位以上官人が実質的大夫層としての政治的地位を堅持

していることを認めねばならぬであろう。

 ところで、◎における従四位上官人にして正四位下を授けられた三里の序列を公式令朝参行立条(五位以上の同位者序

            ⑳

列は援位先後による)によるものとすれば、巨勢麻呂は三里の中で最も新しく従四位上を授けられた老ということになる

                         ㊧

が、実際の鴬野.在位記事からもかかる想定は確められる。従って、当時巨勢麻呂が議政官に任じていなかったのは一つ

67 (689)

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には未だ宮人としての経験度に不足する所が存したためではなかったかと推考され、㈲の一団において恐らく末席に位置

したものと思われる。

 とまれ、㈲においては現任議政官に非ざる四位官人が実質的大夫層の一員として遇されていることが重要である。そし

て㈲と㈲との関係について約言するならば、㈲は前代における天皇と大夫との関係を最も豊かに継承するものであり、一

方㈲は大夫制の解消と五位以上の「大夫」層の成立によって生起した、天皇と個別官僚としての「大夫」との関係を如実

                ㊧

に表現するものと評価しえるのである。

 以上、大宝令制下においてもなお「四位以上」が前代大夫層を継承する政治的階層であったことを不充分乍らも確認し

た。そこでこれまでの検討結果を踏まえつつ、又さらに新しい観点をも導入して、参議制の成立事清について推考を加え

てみよう。

 大宝元年(七〇一)三月、当時の議政官六名は新制位階において昇叙されると共に大納雷一名は右大臣に、中納言艶名は

大納言に各々昇進し、左大臣一名はそのまま留任した。ところが周知の如く、独り中納事大伴安麻呂のみは昇進すること

                                            ⑳

なく、しかもこの時同時に中納雷は廃止されたので、結局は議政官の地位を失ってしまったのである。又、中納言の廃止

一議政官の三位以上限定化に伴い、四位宮人はその位階にある限り議政官たりえなくなってしまったのである。

 議政官の三位以上限定化については後述するとして、先の安麻呂に対する処遇については全く不可解という外ない。唯、

安麻呂の中納言就任が兄御行(大納言)の麗流した大宝元年正月十五日以後であることは確実であり、従って三月段階で

はいまだ実際には喪に服したままの恐らくは最も新しい中納言であったことを思えば、少くとも議政官から除外すること

が比較的容易な人物であったと想定しえよう。

 しかし乍ら、仮初にも一旦議政官に任じたこの安麻呂は勿論のこと、それまで直広弐以上で議政官に任じえた前例を踏

まえる四位以上官人の間にも、大宝令欄議政宮の成立には紗からず抵抗が存する筈である。早くも大宝二年(七〇二)五月、

68 (690)

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参議欄の成立(虎尾)

従三位大伴安麻呂を含め乍ら四位官人を主体とする参議制が成立するのは基本的にはかかる事情によるものであり、本稿

冒頭に引用した竹内理三氏の見解も右の限りで一応首肯しうるのである。

 しかし乍ら、参議制を令欄議政官成立後において案出された単なる門便法」と看古すことは妥当ではない。何となれば、

これまで縷述した如く「四位以上」は令前より政治的階層として存在し又は認識されて来たのであり、議政官を三位以上

に限定せんとしたその構想の段階で既に四位官人の不満は予測されていたとせねばならぬからである。

 されば敢えて議政官を三位以上に限定せんとしたことが先ず問題となるが、これは閥接的には三晶以上を重視する中国

法の影響であり、より直接的には唐の正宰相が中書・門下両省の三品官(中書令・門下侍中)であったことによっている

とみてよかろう。三位の議政宮たる大筆工の定員購名は中書令二名・門下侍中二名の合計四名に由来すると思われる。即

ち、大宝令制議政官の成立に際して当時の現任議政官らは唐欄に倣ってこれを三位以上と限定し、新位階綱への改訂を機

                                                    ⑳

会に全て三位以上に昇進して(中納言紀麻呂に至っては直広弐-従四位下から一挙に従三位まで実に四階の昇進を遂げた)

調整を行なったのである。

 ところが、当蒔の唐宰相制度は如上の正宰相の外に同中書門下三品(以下、同三子と称する)、同中書門下全章事(以下、同

平要事と称する)と称される不特定数の宰相を擁していたのである。これらは六部長官などの本宮を帯しつつ正宰相と共に

国政を合議する任を与えられていたのであるが、かような宰相(以下便宜上、「兼官宰相」と称する)の存在は当然わが国にお

いても知られていたとすべきである。

 然りとすれば、大宝二年(七〇二)五月成立のわが参議制はその類似性(本官を帯しつつ国政合議の任につく)から推し

て唐の兼官宰網制に敬って案出されたと看倣して大過あるまい。

 これまで参議欄を研究された先学がこの点について言及しておられないのは不審という外なく、或は余りに常識的に過

ぎる故のことかも知れぬが、この唐制継承の側面は頗る重要な観点というべきである。

69 (691)

Page 32: Title 参議制の成立 : 大夫制と令制四位 …...40 (662) 一…大夫制と令制四位li 虎 尾 達 哉 【要約】 参議任官者の帯位は法制上の開文がないにも拘らず実態上大略四位に限定され、その結果令綱下の議政官組織は令欄議政

                          曾                            ⑬

 さて兼官宰相の中、同書思事は永淳元年(六八三)に成立し、同三品は史料上貞観十七年(六四三)以降に現われるが、貞

観十七年以前においてはその前身を擶示するものとして史料上不定の称呼が散見している。即ちこの点について『文献通

           ⑭

考』は左の如く述べている。

              ヘ   ヘ  ヘ  へ

  自昌太宗時↓杜流以[㎜吏部尚書一参昌議朝政ハ野宮以昌秘書監[朗唱預朝政↓其後或日韓参議得失、辱知政事一之類、其名説レ一、皆宰相職

  也、

而して、文中の「参議朝政」はわが国における『続生本紀』大宝二年(七〇二)五月丁亥条などの「参議朝政扁と同一であ

り、この語句そのものは一般的に用いられるものであるとしても、わが国における「参議朝政」が心綱兼官宰相としての

                           ⑯

「参議朝政」を意識して使用されたことは殆ど疑いを容れない。

                                          ⑳

 かくして、わが国における参議制の成立に唐心宮翻心綱度継承の側面の存することは明かである。そして、大納言以上

と参議とで構成される議政官組織が金体として唐制の正宰相(中書令・門下侍中)・兼官宰相(同三品・同懸章事)らに

よって構成される宰相組織と対応するものであることに注目するならば、参議制は大宝令制議政富設定の構想段階で既に

案出されており、換言すれば大納言以上の三位以上令制議政官と四位参議は当初より一体のものとして構想されていたと

考えるべきであろう。即ち、慰事議政宮を三位以上に限定することと四位参議制の案出とは相即的な作業であったと思わ

れる。それ故、最も新任の中納言であったと思しい大伴安麻呂はやがて参議として議政官に復帰することを予め約されて

いたのではあるまいか。その意味で参議は浄御璽令制中納言に代替する議政官であったと評価することが可能である。と

まれ、参議が令制下の議政官として当初より構想されていだとすると、直ちに次の二つの点が問題となろう。

 その一は、それならば何故に参議は大納言以上と同様に令に規定されなかったのかという点であり、その二は大宝元

年(七〇一)三月の令制議政官の成立と翌二年(七〇二)五月の参議制の成立との間の一年有余の期閥を如何に説明するかと

いう点である。

70 (692)

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参議制の成立(虎尾)

 いずれも難問であるが、しかし私は次の如く考える途があると思う。先ず前者については、参議が末来令文に規定さる

べき官ではなかったことによると思われる。本稿では参議を便宜上官として扱ってきたが、正しくは官ではなく一定の任

にすぎない。従って本来官位令や官員令に規定さるべきものではありえないのである。かような性格がその範とした管制

兼官宰相(同三晶・同平章事)を継承しているものであることは言うまでもない。次で後者については、大宝令制議政官

の成立と参議欄の成立との相違に注意すべきであると思われる。即ち、大宝令調議政官の場合はそれまでの浄下原令制議

政宮を大略そのまま格上げせしめればそれで済むが、参議制の場合は全く新たに設定される訳であるから人選・職権・待

遇などの点で現実化に少しく手間取ることは充分考えられるのである。見方にもよろうが、議政官の補充までに一年以上

閲する例も間々存することからすれば、私には大宝令制議政官の成立と参議制の成立との問に費された一年有余の期間を

決して長いものとは考えられない。以上からすれば、大宝令制議政官と参議とが共に大宝令制下の議政官として当初より

一体的に構想されたと考えることに少くとも大きな障碍はないといえよう。

 かくして、これまでの考察を綜合すれば、参議制は大宝令制下の新議政官組織が構想されるに際し、それまでの「四位

以上」の政治的一体性を維持するために唐宰相制度における兼官宰相制に倣って、令制議政官と共に案出されたと考定さ

れるのである。換言すれば、参議制の成立は四位以上(直広弐以上)で構成される旧来の議政官組織(浄御原令制太政官)

の再編成の一環として位置づけることができよう。

 ところで、参議制の成立事情を右の如く考定しうるとすれば、先学によって言及されている参議の正遷化の問題も猶一

考を要するように思われる。そこで最後に聯かこの問題にふれ、以て蕪稿を閉じることとする。

         第三節 「参議正官化」についての私見

 先学の所説に従えば、少くとも大宝二年(七〇二)成立段階の参議は未だ正当ではないという。即ち、竹内理三氏は天平

                      ⑰          、                ⑳

三年(七三一)に至って始めて正極化されると説かれ、又黒板伸夫幾は天平三年以前に徐々に正官化されたと説かれる。正

71 (693)

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言言が黒板氏の言われる如く「官名としての認識の定着化」ということであれば参議の正字化が天平三年以前に肥ること

は轟然である。 『離日本紀』天平元年(七二九)二月壬申条に「権空晶参議一」と見えることは確かに参議が官名として認識

されていることを示している、但し、黒板説の場合、それは徐々になされたものである故、正官栄の時期は特定しえない。

 竹内域が参議の正官化を如何なる意味で書われたのかは不明であるが、その根拠はω天平元年の権参議と②天平三年の

諸司推挙による参議六名の補任及び③天平三年における職封の設定である。この中ω ②は如何なる意味にせよ天平三年正

官化の根拠とはなりえないものであるから、畢魔㈲のみを根拠とすれば正解化とは他の令制外の議政官と職封という待遇

面で同列化したという意味になろう。勿論、この天平三年参議職封設定の意義はそれとして認めねばならないが、しかし

私は天平三年は参議制史上の一つの劃期以上のものではないと思う。何となれば、抑もわが国の参議が継承した唐の同三

                                             ⑲

品・同平潟事などは本官の俸給のみ支給され、宰相としての俸給は通常支給されなかったのであり、成立時の参議に職封

が設定されなかったことはむしろ当然であったといえるからである。そして、さらに参議制史上の劃期は天平三年以前に

も存するのである。

 竹内氏は天平三年の参議職封設定を『公卿補任』天平三年条によられたが、この記事は実は『歴運記』の参議項によっ

ていると思し晦・必要部分を左に摘記する・

 参議五十九人

  

ト臨耀天之真宗羅上天寒冒年大宝二年子二参認諾諺霧鐘一年吾春書目従=書写編喬正四位下

                                                 (翼)

  粟田朝臣真人、従四位上高向朝距麿、従四位下下毛野朝距古暦、小野朝臣毛野等、宜レ参一議朝政ハ本官如レ故者、養老二年始宜鵡論

    (鼠)

  奏ハ天平三年十二月四日勅、始給風食封八十戸碗(下略)

脚ち、この『歴運記』の記老もやはり参議舗の沿革について、へ一)大宝二年の成立・(皿)天平三年の職封設定を劃期とし

て挙げているが、注目すべきはそれらと並んで(丑)養老二年(七一八)の「始宜論奏」を挙げていることである。而して外

72 (694)

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にこの記事に対応する史料を見出しえぬことを遺憾とするが、同時に鼠入・錯簡のもととなる史料も見当らず、又造作さ

れた辞句としては余りに未熟であり敢えて造作されねばならなかった理由も考えられぬ故、極めて断片的な辞句ではある

が・これを以・て養老二年に始めて参議にも単磁に参加することが認められたL事実を想定して差支えあるま噸・即ち・

養老二年、参議制は職権の重要な拡大という意味でやはり一つの劃期を迎えたのである。

 文書への押署という点からすれば、参議の「官名としての認識の定着化」は或はこの養老二年の論奏参加の時期が契機

となった可能性も存する。それ故、黒板説の意味合いからすればこの養老二年こそ参議正官化の時期として適当かも知れ

ない。しかし私は竹内・黒板両氏とは全く別の意味合いにおいて、参議は大宝二年成立当初より既に職官であったと考え

たい。何となれば既述の如く参議は当初より令制議政官と 体の議政官として唐琴兼官宰相を参考に構想され、成立後、

職権の拡大・俸給の設定などの劃期を経ながらも、その本質である「本官を有しつつ国政に参与する性格」についてはこ

れを竪持し遂に職事官たりえなかったからである。即ち、参議は成立当初より一貫して職事官たりえなかったという意味

合いにおいて、又その成立が便宜的なものではなくむしろ計画的なものであったという意味合いにおいて、その正官化の

時点を大宝二年五月の参議制成立時に定めることは決して不当ではないと思うのである。

参議穏の成立(虎尾)

① 闘晃「大化前後の大夫について」(前掲)、原島礼二 「大夫小論覚

 書」 (『”歴史評論』一一三、昭和三五年)。

② 門脇禎二『蘇我蝦夷・入鹿』 (昭和五二年)はかような皇位継承問

 題についての大夫合議は「まさに異例中の異例」であるとしてこれを

 当蒔の宮廷における「重臣合議調」の一例として安易に論うことを戒

 めておられる。確かにこの時の大夫合議が皇室を無視する形で行われ

 ていることは異例に属するが、しかし皇位遜承問題について「重臣」

 による合議が行われること自体は決して異例ではない。そのことは例

 えば飛日本書紀』推古天皇即位前開・呪懐塵藻』葛野王低・『続臼本翻醒

 天平宝字元年三月辛丑条などの史料によって容易に確認されよう。猶、

 皇位継承問題に大夫が参与する慣習については原島礼二「大央小論覚

 書」 (前掲)参照のこと。

③より具体的には面出臣麻呂・大伴連鯨・采女臣摩礼志・高向臣宇摩

 ・申臣連悪気・難波吉士階調・許勢臣火麻呂・佐伯連東人・紀臣塩手

 ・蘇我匝倉麻呂・河辺臣某・小墾田臣某の十二名であるが、大臣蘇我

 蝦夷は勿論のこと境部臣心理勢もその雷動から推して大央に準ずるか

 或はそれ以上の政治的発言力を有していたものと思われる。

④ 改新直後の左大臣は陣心内摩呂、右大臣は蘇我倉山田石川麻呂であ

73 (695)

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 るが、前者については臼本古典文学大系『日本書紀』下(昭漁四〇年)

 頭註が註③所掲の大夫阿倍麻呂と岡一人目推定(二一六頁)し、後者

 については『目本古代人名辞典』四(昭和三八年)がやはり註③所掲

 の大夫蘇我倉麻呂の子と推定している。

⑤この点については関晃「大化前後の大炎について」Ω嗣掲)参照。

⑥ 『四日本紀』養老元年三月癸卯条。

⑦『続目本紀』和銅元年閏八月三酉条。

⑧『日本書紀』白難元年十月条。

⑨笹山晴生「『難波田の衛部臨をめぐって」(井上光貞博士還贋記念会

 編『古代史論叢』申所収、昭和五三年)。

⑩左大臣蘇我赤口口大錦上、省大臣中臣金ーー大銘上、御史大夫巨勢人

 翻大錦下(『臼本書紀』天智十年正月庚子条・同癸卯条)。又冠位の判

 明しない御史大夫紀大人も没後正三位を贈られている (『続日本紀険

 慶雲二年七月丙申条など)ことから推して当時大錦下以上であった可

 能は高い。

⑪ 通説的には専制期と考えられているが、例えば関晃「天武朝の氏族

 政策」 (『歴史』五〇、昭和五二年)・熊谷公男「天武政権の律令官人

 化政策」 (関晃教授還暦記念会編『日本古代史研究』所収、昭和五五

 年)などは該期における天皇と貴族との協調的・相互依存無関係を強

 調して通説を疑問視されている。

⑫ 早川庄八「律令太政官制の成立」(前掲)、同「大宝令制太政官の成

 立をめぐって」 (『史学雑誌』八八-一〇、昭和五四年)。

⑬ 森田悌「太政幣制成立の考察」(『政治経済史学』 一五六、昭和五四

 年)。但し、森田氏は抑制の対象を増量としておられる。

⑭ 小野毛人墓誌には「大錦上」と刻まれているが、毛人の実際の極位

 は『皆目本紀』和銅七年四月二二条によって知られる如く「小錦中」

 であったのであり、 『日本古代の墓誌』 (奈良国立文化財研究所飛鳥

資料館図録第三冊、昭和五二年)解説で東野治之氏が述べておられる

ように、 「大錦上」は贈位と認むべきものである。而して念のために

天武朝以降の極位と贈位との関係を『日本書紀』・『続日本紀』により

整理すると左表の如きをうる(大宝令位階制以降は省略)。

74 (696)

位陣位磁極名

13563561

4

4

2

3

♪.

4

3

2

4

直大愚

直大器

正広参

直広参

遣大霜

直広累

石広雄

編広弐

正広参

大錦上

大銘下

小錦下

小錦中

小錦下

小錦下

小錦中

小紫力

直大参

直大参

坂本 財沙宅昭明

手綱秦

星川摩呂

三宅石床舎人糠贔

膳 三音

大伴望事当麻広麻呂

羽田夕照百済善光旺広重力

勤大竃

大山中

直広参

勤大弐

正広参

賀茂蝦夷

文赤麻呂田中足麻呂

山代小田

大伴御行

年(西暦)・月

曜武2(673)・5

・閏6

9 (680) ・ 5

・5

・5

・5

・5

12(68.3)・6

14 (685)・ 5

朱鳥ラ己(686)・3

垂雪…統7(693)・正

9 (695)・ 4

・4

文武2(698)・6

・6

大宝元(70エ〉正

④@⑳旦㊥

㊦㊦㊥⑪

②一

C⑦互⑳②

IEg1県犬養大侶】直広壱

豊⑫

 この表によれぽ、天智三年冠位制下に小当下・小命中を極位とした

者(◎㊥㊨㊦㊦)の贈位は全て大錦下以上であり、小野毛人が「小錦

中」を極位とし「大錦上」を贈位とすることは右の事例と矛盾しない。

又、天武十四年冠位制下に篠冠を極位とした者(⑪③⑳⑫)の贈位が原

則的に極位の四階上であることも注目しておきたい。というのは「采

女氏螢域碑」 (狩谷扱斎『古京遺文』所収)に「飛鳥浄原大朝庭大弁

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参議儲の成立(虎尾)

 官直大弐采女竹良卿」とみえる「直大弐」も極位ではなく贈位と考え

 られるからである。竹良(盤羅)は表41㊥によって知られる如く朱

 鳥元年(六八六)九月段階で未だ直大難であり、大弁官への任官時期

 は不明であるが、少くとも「螢域碑」の製作年鑑「己丑年」即ち持統

 三年(六八九)までに一挙に直大弐まで昇進したとは考えにくい。む

 しろ竹良は直大蜂を極位とし、これより四階上の直大弐を贈位として

 授けられたとすべきであろう。

  猶、天武朝以降の贈位については野村忠夫『律令官人制の研究』(前

 掲)を参照されたい。

⑮ 天武朝における大錦以上の箆巧者は駐⑭二二の褒にみえる④大錦上

 11坂本財・@大錦下目沙宅昭明・④小紫ヵほ大伴望多の外に大錦上闘

 大伴杜屋(『日本書紀』天武八年六月乙亥条)・小紫11当麻豊浜(同天

 武十年二月己巴条)・大錦下11上毛野三千(同天武十年丁丑条)などで

 ある。又、極位は不明であるが小紫位を追贈された百済昌成(同天武

 三年正月庚申条)が沙羅昭明と同じく大錦下であった可能性もある。

⑯『日本書紀』天武元年七月辛卯条。

⑰浄御原令制下において最初の右大臣となる丹比嶋ですら持統三年閏

 八月の時点で未だ直広弐であった。又持統五年正月の重点で正広騨を

 帯していた百済禅広が直広弐以上に昇進した時点は不明であるが、こ

 の時点(持統五年正月)には既に先の丹比嶋が正広参に達しているこ

 とを考慮すれば、丹比嶋と大略同じ頃ではなかったかと思われる。と

 まれ、天武・持統両朝を通じて大錦ほ直広弐以上に達していた可能性

 のある者はこの両名以外にさして多くはあるまい。

⑱ 特に表41ω・個・凶・㈱・鋤・㈱∵㈹に顕著の如く、皇親と小錦

 暖直大参以下官人による使官構成が一つの原則であったと思しい。こ

 れは政治行為が隠江によって領灘されたことを意味しているが、直広

 弐以上官人の漸増する持統朝以降においてもかかる使官構成そのもの

は間々みられるのである。そして黒部令制下に盃ってもなおかかる使

宜構成がとられることにより皇親を除く四位以上官人が全く疎外され

ることがあった。それは持統太上天皇の崩御に伴う葬司の編成におい

てである。即ち、大宝二年十二月に編成された④作残宮司・造大殿垣

名氏階位名士\穂積親王

犬上野

路大人

佐伯百足

黄文本実

刑部三生

広瀬王

引田宿奈麻呂

民比良夫

穗積親王

広瀬陽

石川宮麻呂

猪名大村

政人4人・史2人

志紀親王

息長王

高橋笠間

土師馬手

政人4入・史4人

一      口     ロロ

従四伎上

正五位下

従五位下

着五位下

“      口二    P口

従四位下

従五位上

従五位下

f乍残宮司

造大殿垣司

一      ロ

ー ppt従四位下

唇五位下

津五位下

御装司

圏  主

従四位上

正五位上

正五自己

造御竈司

 司、翌厳年十月に編成された⑧御三司・造御湘総司は右表の如く全て皇

 親と五位(以下)官人のみによって構成されており、これ以後の特に

 奈良朝中期以降の葬司とは全く様籾を異にしている。これは偶然では

 なくして、この時期の皇室と四位以上階届との対抗関係を反映してい

 るのであり、言い得べくんぱ天武朝会親政治の残影を伝えるものであ

 ろう。

⑲今日知られる浄蘇原令綱議政官は左表の如くである。猶、中臣大嶋

 の申納言について早川庄八「律令太政官制の成立」 (前掲)・森田悌

 「太政官綱成立の考察」 (前掲)両者共これを天武朝の納言と理解し

                    ミ  コ  へ

 ておられる。これは『大中臣氏本系帳』に「中納言直大弐中臣朝臣大

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聖典名位

文武4・正・癸亥条

持統4・7・土盛条

持統10・10・庚寅条

持統6・2・乙卯二

丁大中臣氏本系帳』

大宝元・3岬午条

   ク

   ク

   ク

多治比嶋

多治比嶋

阿倍御主人

大伴御行

三輪高市麻呂

中臣大嶋

石上麻呂

藤原一算至

大伴安麻呂

三選呂

官名1冠

左刷・右大91marz正広参

正広黙

正広難

論火面

直大弐

直大壱

直広壱

直大壱

直広弐

雷掌大

言納中

* 「冠伎」欄は任官時冠位,又は在官隣に知られる 最低の冠位による。

*”i 「典拠」欄はr大中臣二本系帳2以外,全てr日本 欝紀』,又は『三日本紀』による。

嶋」とある

ことと『隈

黒藻』に「大

納言直大二

中臣朝臣大

島」とある

こととの矛

盾を解決す

る一案では

あるが、し

かしそれは

あくまでい

ずれの表記

も不正確で

あるとする

前提に導かれたものであって断案ではない。確かに早川氏の言われる

如く『大中臣氏本軽重』と『懐立席』とのいずれが誤りであるかは断

じ難いが、そのことと、いずれも誤りであるとする推測との間には卿

か飛躍があるように思われる。いずれとは断じ難いがいずれかが誤り

である可能性はやはり存するのであり、かかる前提に立ち、 「系図一

般のもつ通弊レを免れ敢えて低位の官を記している『大中臣球心系帳伍

の蓑記を採り、例えば目録と本文とで齪齢を来す例もいくつか晃受け

られる『慎風動』の表記を捨てることは、一案として許されよう。

 ところで早川氏は右の論考において、天武朝太政官のみならず浄御

原爆擶太政窟も議政窟組織ではなく侍奉奏賞官組織であったと説かれ

るが、勧説に対しては森田悌幾の前掲論考における批凋が有効である

と思う。即ち、納言の上に冠せられた大中少(小)が氏族的大小に対

 応ずるとは看倣し難い点や、浄御原令制太政官から大宝令制太政官へ

 の円滑な接続の点がその要である。又、早川氏はその後「研出令舗太

 政官の成立をめぐって」 (前掲)において『続臼本紀』文武四年八月

 丁卯条を掲げ、当時の大納言二名(阿倍御主人・大伴御行)が一定期

 間地方宮として赴任したことを示すものとの解釈に立ち、それが議政

 官としては到底考え難いという点から自説を補強しておられるが、氏

 の筆法に従えば、一定期閥の地方赴任は議政官は勿論のこと仮に侍奉

 奏宣官であったとしてもやはり考え難いのではあるまいか。右の記事

 の解釈については遺憾乍ら私見をもらえないでいるが、大納言二名は

 実際に二疋抽選地方に赴任したのか、この二名については冠位官名を

 記していないのは何故か、などの疑問の余地があり、又この記事で等

 しく冠位を昇叙されたことを含めて両名が久しく昇進・待遇を同時同

 等とするライヴァル的関係にあったことも考慮されねばならぬであろ

 う。とまれ、右の記薬が少くとも浄御原令鱗太政官瞳侍奉奏宣官組織

 説を支持するに足るものであるとは君傲し難いと思う。

⑳間時に主要な官司の大凡次官以上官人であるが、同じく次官であり

 乍ら正六位上の神祇少副・正六藤下の左右兵衛翼などは召喚の対象と

 はならなかった点に注意したい。

② 『令集解』公式令授位任官条古記。

@ 『続霞本紀』霊亀元年五月壬寅条。

@ 当時、帯位四位以上で㈲において召喚されなかった官人(皇親を除

 く)としては、④高向麻呂(従三位)、@粟田真人(従三位)、⑳巨勢

 多釜須(従四位上)、㊥当麻智徳(従四位上)、㊥息長老(従四位下)、

 ㊦石川宜麻呂(従四位下)、⑱多治比池守(従四位下)、⑦布勢耳麻呂

 (従四位下)、⑪佐叢叢麻呂(従四位下)、②上毛野小足(従四位下)、

 ⑳百済南典(従四位下)の十一名が知られる。この申④は元中納雷で

 はあるが現摂津大夫であり、@は現任の中納言であるが同時に大宰帥

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参議制の成立(虎尾)

 を兼ねており、共一7~在京していなかった可能性が高い(尤も、④は翌

 八月には箆去するので、この時身体的に参内不可能であったとも考え

 られよう)。又、◎はこの年三月に式部卿から大宰大弐に左遷された

 人物であり、⑤・③・⑳も各々同月に外官(属守)に補任された者た

 ちであって、当量在京していなかったとみて大過あるまい。以上の六

 名はまず何より物理的に参内不能であった。残る五名の中、㊥・㊥は

 氏族的に議政官たりえぬ者たちであり、その限りで有力な官人とは看

 散し難い。次に氏族的には有力な㊦・㊦・㊧の中で、先ず㊦が召喚さ

 れなかったのは、当山石川氏が紀氏と共に不比等から疎じられていた

 (野村忠炎『律令政治の諸様相』、昭和四三年)ことによると思われ、

 又、⑦については当晴同族の阿倍宿意麻呂が議政宮として召喚された

 ことが不召喚の理由であろう。しかし乍ら、㊦については全く不明と

 する外ない。㊦は養老二年に至って議政官入りを遂げるのであり、そ

 の意味で巨勢麻呂と同様の有力官人であったと思われる。唯、和銅元

 年当時帯位従四位下で巨勢麻呂(従四位上)より一階低く、議政官入

 りも麻呂より三年遅れたこと、そして和銅元年から養老二年までの議

 政官の補任のあり方などから推して、㊦が少くとも㈲において末席

 (本文後述)の巨勢麻呂に一歩を譲る地位にあったことは確かである。

 又、㊦が◎・㊧と共に真人姓を有し、皇親に準ずる地位にあったこと

 が関係しているかも知れない。何故なら㈹においては知太政官察たる

 穂積親王を除き、たとい四位以上の高位であっても皇親は疎外されて

 いるからである。

⑳ 國史の人名排列における同条の遵守如何については黛弘道「律令官

 人の序列」(坂本太郎博±墨黒記念会編『羅本古代史論集』下巻所収、

 昭和ヨ七年)参照。氏によれば『照日本紀』については概ね「出鱈

 目」であるが部分的には遵守されているという。

⑯ 従四位上に叙された時期は、④下毛野古麻呂は大宝三年(七〇三)

 三月から慶雲二年(七〇五)四月までのことであり、⑤中無意美麻呂

 は大宝二年(七〇二)三月から慶雲二年(七〇五)四月までのことで

 あるのに蓋し、⑥・巨勢麻呂は慶雲二年(七〇五)四月から和銅元年(七

 〇八)三月までのことである故、少くとも◎が④⑤より後次であるこ

 とは確認しうる。猶、大宝三年(七〇三)三月段階で⑤が未だ正五位

 上であったのに対し@が既に従四位下であったことから推して④⑤◎

 がこの順序で従四位上に叙されたと想定して大過あるまい。

⑯ 元明天皇による大夫と「大曲」とに対する協力要請は野村忠夫『律

 令政治の諸様相』 (前掲)の説かれる「和鋼元年体制」始動期の挙と

 して洵に時宜をえた方策であった。

⑰ 『続日本紀』大宝元年三月甲午条。

⑱議政官任官の有資格者が原則として同族中一名であることについて

 は阿部武彦「古代族長継承の問題について」 (前掲)参照。

⑳以下、唐の宰相制度については多く周道済『漢学宰相綱度』再版

 (罠國六七年〈昭和五三年〉)に依拠した。猶、本学の谷川道雄先生

 (東洋史)からは種々有益な御教示を賜った。記して感謝の誠を捧げ

 る。

⑳ 本文第一章雪夜表1によって知られる如く、かような例は奈良朝を

 通じて一例のみである。

⑳光宅元年(六八四)より神竜元年(七〇五)までは中書省を鳳閣、

 門下省を鷺台と称したので、正確には同鳳閣鷲台三品・同欝閣鷲台平

 章事である。

⑫ 『隅唐書』高膝本紀温麺元年四月丁亥条。

⑳  『旧唐書』太宗木幽霊観十七年四月己丑条。

⑧  『文献通柱』巻四十九職官考三宰相.

⑳ 後代「宰網」が参議の異名となることと、唐において同三品・同旨

 章事が宰相の主体となることとは無関係ではあるまい。

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⑳ 猶、兼官宰相は既に晴代にも行われている。即ち、 『磯廻』は

  階有二内史納言一御榊幡是為二宰相叫亦有二他官参与一躍、 (巻二十

   一職官三宰相)

 と述べ、さらに兵部尚書櫛述が「参二掌無事一」した例を挙げている。

 ところで階代のかかる兼官宰相の設猛について山本隆義『中国政治制

 度の研究』 (昭和四三年)が「量器天子の私意に基づくもの」と述べ

 ておられる(二~九頁)ように、晴縫代の兼官宰相は皇帝権強化策の

 一環として設置されたと考えるべきである。従って、一方逆に貴族合

 議舗の継承を企図して設置されたわが参議と、かの兼官宰相とが本質

 的には全く異なる官であることに留意しておく必要がある。その意味

 で、わが国における唐宰相零度の継承は外被的継受以上のものではな

 い。

⑰ 竹内理三「『参一談』舗の成立」 (前掲)。

⑱ 黒板伸夫「官職唐名の一考察」 (同『摂関時代史論集』所収、昭和

 五五年)。

⑳  『唐玉器』巻五十ゴ葱ホ奨に

  (遡兀)

   二十年十二月制、宰臣兼レ官者並両給二俸禄嚇

 とみえ、さらに『通論』巻二十一職官コ 宰相に

  (閤元V

   二十二年十一月制、宰相兼ゾ官者並両給二俸禄哨

                          ヘ  ヤ

 とある制の発令はいずれも兼官山根(同三品・同平章事)には通常宰

 相としての俸給が支給されなかったことを逆に物語っている。

⑩ 土筆直鎮「公卿補任の成立」(『国史学』六五、昭和三〇年)参照。

⑪何故に養老二年に至って参議の論奏参加が認められたかは不明とす

 る外ないが、早川庄八「律令制と天皇」(『史学雑誌』八五一三、昭和

 五一年)が明かにされた公式令論棚式の論奏鼻繋を図る大宝・養老両

 令間の異同、即ち養老令における論奏事項の拡大の問題と、或は関連

 するやも知れない。

78 (700)

舞En口

 以上二章六節に亘って述べ来たった事柄を左に簡潔にまとめ、図らずも冗長に及んだ蕉稿の結びとしたい。本稿では何

故に参議任官者の立位が、法綱上明文をもつことなくしかも令制議政官の相当位(三位以上)を拡大する形で、実態上大

略四位に限定されたのかという観点から参議制の成立事情について考察を試みた。その結果、参議制は前代大夫層を実質

                      ①

的に継承する政治的階層としての「四位以上」の存在を背景に、唐の兼官宰相調度を継承する形で、三位以上の令制議政

官に対する四位の議政官として令制下議政宮構想段階当初より案出されたものであると推定するに至ったのである。その

意味で参議を全き「便法」と看敬すことは妥当ではあるまい。そして右の推定に立てば、参議設置当初よりすでに正官

(勿論正しくは官ではないがその点は一貫して不変であった)であったと認められるのである。

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参議翻の成立(虎尾)

 かくして、夙に関晃氏らによって指摘されているわが上代貴族合議制は大宝二年の参議を含めた四位以上の議政官組織

の成立によって、大宝令調下においてもなおその伝統的機能を保障されるに至ったと思われる。尤もかく言うためにはそ

の「伝統的機能」そのものの実証的検討を要するのであるが、それは今後の課題としここではとりあえず大夫層という政

治階層が冠位・位階を拠り所として令欄下に継承され、その政治階層を基盤として議政官組織が成立したという形象的側

面の指摘にとどめたいと思う。

 本稿での私の考察は大略以上に尽きるが、止むを得ざることとはいえ憶説に憶説を累ねる仕儀となった。不敏にして犯

したる初歩的の過誤も砂くはあるまい。偏えに博雅の忌悌なき御斧正を仰ぐ次第である。

 ① 本稿では「四位以上」の一体性を強調したが、しかしこれはあくま     誤解なきことを念ずるが、五位以上の一体性については改めて別稿で

  で五位以上における堀対的な一体性であり、五位以上が六位以下に対     論ずる予定である。

  して有する殆ど絶対的な一体性を否定するものでは毛頭ない。その点          (京都火学長学院生京都市左

 【付 記】

  成稿後、参議制の成立に関する論考として他に高島正人「大宝二年の『参議朝政』について」 (『立正史学』四九、昭和五六年)・

 同「『中納言』・『参議』の新置とその意義」 (『立正史学』五〇、昭和五六年)・及び押部佳周「浄御筆令の成立」(同『日本律令成

 立の研究』所収、昭和五六年)の存することに気付いた。当然関説すべき処であるが、いずれも本稿の論旨に直接の影響を及ぼさな

  いと思われるので敢えて付記するに止めさせて頂く。両氏並びに諸賢の御諒承を賜わりたい。

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The Establishment of Sαngi参議System

by

Tatsuya Torao

  In spite of no provision in the Taihδ一ryδ大宝令一Taih6 code一, most

of the men apPointed Sangi belonged to the Shii四位一the forth rank

一. ・So, the state councilors organization cons2sted of tlie men’ of Shii

and the legal state councilors above the Sα%編三位一the third. rank一.

  Elucidating why the state councllors organization included the men

of the Shii, we considered the establishment of the Sa?zgi system in the

second year of Taihδ大宝. Consequently, we玉nfer as follows.

  1)・ As the’background,・tk’e estabiishment of Sangi’system in the

   second year of Taihb had the existance of the men aboVe tlie Shii

   as a political stratum, who substantially succeeded to the Maetsu-

   gimi大夫stratum before Taiha大化.

  2) This system. imitated the system of the state councilors in T’ang

   唐who held additi6nal posts,

  3)When the TdihOryδwas in preparation, the state counci玉ors

   organization was contrived as a one-set system inciuding the Sangi

   and the group・ above the Savami.

  So, we cannot defer to the traditiona! and popular view which reg-

ards the Sangi system of the second year of TaihO as a ternporary

measure. And the Sangi was already a formal governmerit post from

the second year of Taiho“. The eatablishment of the state couBcilors

organization including the Sangi ensured the traditiona1 faculty of the

anclent mutual ’ モ盾獅唐?nt of the arlstocracy even under the Taiho-ryb

system

(793)