title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯)...

23
Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対比 Author(s) 蔵田, 伸雄 Citation 近世哲学研究 = Studies in modern philosophy (1995), 1: 49- 68 Issue Date 1995-03-25 URL https://doi.org/10.14989/189777 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

Upload: others

Post on 11-Feb-2020

0 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対比

Author(s) 蔵田, 伸雄

Citation 近世哲学研究 = Studies in modern philosophy (1995), 1: 49-68

Issue Date 1995-03-25

URL https://doi.org/10.14989/189777

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

Page 2: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

1

「義

務論

者」

のカ

ント

現代

の規

範倫

理学

の主

な立

場と

て、

功利

主義

(1

)

「帰

(8コ。・①』器口琶

厨ヨ)」と

ント

に代

「義

務論

(α8三〇δ町q矯)」等

「非帰結主義」

の立

場があ

る。

「帰結主義

」と

は行為

の道徳的価値

その行

の結

によ

って決定

され

ると

る立

であり

、ま

一般

「義務

論」

の非帰

結主義

は功利主義

の帰

結主義

に対立す

る立場

(2

)

る。

「義務論

」と

は、

行為

の道

徳的価値

を最終

に決

定す

のは行為

の目的

や結果

の価値

では

なく、

「そ

の行為

は義務

果たし

いるか」ある

いは

「そ

の行為は何

らか

の規

ってな

され

ているか」と

った

ことだと考

る立

であ

る。こ

「義

務論

にも様

々な立場

があ

るが、本稿

ではあ

る行為が何

らか

の規

に従

ってな

され

ているかどう

かに

って、

の行為

の道徳的価値

が決定

され

ると

る立

のこ

だとし

ておき

い。

このよう

「義

務論」

の立場

では、

「規

に従う

こと

(ho=〇三コαq⇔己o)」が行為

が道徳

的に善き

(3

)

であ

ため

の必

要条

件だ

いう

にな

る。

「義

論」的な

立場は基

本的

に非

帰結主義

であ

り、そ

して後

49/義 務論 と しての カン ト倫理学

Page 3: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

るよう

に、

ント自身

も自

らは非帰結

主義

な立

に立

つことを明

言し

ている

(くσq=<.ω逡

)。

一般

にカ

ント

「義務

論」

の立

場を代表す

る倫

理学者

ると言わ

れており、

また

「義務

論」

はカ

ント主義

の名

呼ば

れる

こともあ

る。

ント

が義務

の立場

に立

つ倫理学

であると言わ

いる

のは、

「嘘を

ついては

ならな

い」

つた

「道徳法

」と呼

ばれ

「規

範」

に従

って行

為がな

れて

いるかによ

って、行

の道

徳的価値

が決定

され

ると

ントが考え

いる

から

であ

る。カ

ント

にと

って

「義務」

とは

「道徳

法に従う

こと」(<。。=<.台い)であり、善

き行為と

「道徳

」(正確

には

「道徳法

「致す

る格率

」)に従

てな

されるよう

な行為

である。

たカ

ントは

理性

が道徳

に従

つて

「純粋

に」行

為と意

志を規定

ること

が、行為

を道徳

に善

いと

いう

る条件

だと考え

ている。そし

てカ

ント

にと

っては

「道徳法

に対す

て行

(くσq=ζム8りく.。。Oh'暴≦.)。行為

と結果

の関係よりも行

(ま

は意志

)と規範

の関係を重

視す

ることは

「義務

論」

特徴

であ

る。こう

った点

でも

、カ

ント

の主

は典

型的な

「義務論

の立場

を示し

いると言

こと

でき

るであ

、つ。し

しカ

ント

の義務論的

な主張

に関し

て、

そも

そも

従う

べき規

であ

「道徳法

」、

つまり

「客観

(す

ての

理性的存

に普

遍的

)」妥

当す

る原則

はど

のよう

原則な

のか、あ

いはあ

る原則

(格

率)

「道徳法

でも

あるかど

うかを判

定する

にはどうす

ればよ

いのか、と

こと

が問題

にな

る。そ

のような問

に答え

るため

に、

カン

トは

『道

徳形而

上学

の基礎

づけ』(以

『基礎

づけ』

と略

)

の第

二章

で定

言命

の五

つの方

(聞o「ヨo一)、

即ち

「定

言命

の根本方式

」(<。q=<ム巴)と呼

ばれ

る方式

「自然法

式」(〈。q=玄O.)「目的

それ自体

の方式」(〈⑳=<台O)「自律

の方

式」(〈Gq=<.お

一)及

「目

の国

の方

式」(〈σq=<.ホ◎。)

(4

)

と呼ば

れる方式を

提示し

いる。

そし

てこの中

でも本

稿

に問題

にす

るのは

「自然法

の方

式」と呼

ばれ

る方

ある。

ント

によれば

、これら

の定言命法

の諸方

式は

・ブ

リな

原理

であり

「道

徳性

の真

の最高

原則

」(く。。=<・おO

50/学理倫トンカのてしと論務義

Page 4: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

島≦.)である。そし

てカ

ントは行為

の最終的な規定

根拠と

ては幸福

など

のア

・ポ

ステリオ

リな原理を

否定し

いる。

のよう

・プ

リオ

リな原理

にも

とつく

ことをめざ

ント

の倫

理思想

は、幸福な

のア

・ポ

ステリオリな

原理

もとつく

功利主義

とは明ら

かに異な

るも

のである。ま

た功

利主義

が最

大化

原理

(幸福

や効

の最大

化を

る原

理)を用

いる

のに対

て、

ントは

それを用

いな

いと

いう

でも両者

は明ら

かに異な

って

いる。さら

にカ

ントは

「自

の人格を単

なる手段

とし

てのみ用

いてはな

らな

い」と

人格

の立場

に立

って

いる

が、

利主義

の立

では

「誰

の人格

を効用

の最

大化

のため

の手

段とし

て用

いよ」

いう

結論

が下さ

れる場

合もあ

り、

のような点

でも両

(5

>

の主張

は鋭く対立す

る。

かし実際

には

カント

的義務論

者と功

利主義者

が同じ行

(6)

為を善

き行為

であ

るとす

こと

が多

い。ま

カントと功

主義者

は十

八世紀

のイギ

ス道徳

哲学と

いう

共通

した源

を持ち、

さら

にカ

ント

はミ

ルやシジ

ウイ

ックと

った功

主義者

たち

に大

きな影響を

与え

いる。ま

カント

は行為

の道徳

的価値

の最終的な根

拠とし

ては幸福

のア

・ボ

ステ

リオ

リな

原理を確

に否定

ているが、

その場合

にカ

ント

が否定す

のは自

の幸福

や快

であ

って他者

の幸福

や快

はなく、他

の幸福

を促進す

こと

はカ

ント

にと

つてむし

ろ義務

であ

る。

しかし

ント

の主張

と功利

主義

的主張

の間

に表面的

類似点

はあ

るも

のの、カ

ント

は帰結主義

の立場

をとらず行

の動

機を重視

るのに対し

て功利主義

者は帰

結主義

の立

(7

)

場をと

ると

いう

で、

両者は根本

に異

って

いる。本稿

の目標

は、

このような

両者

の相違

を確認す

ことを

通じ

ント的義

務論

の基本性格

を明確

にす

ること

であ

る。そ

でまず最初

「行

為功

利主義」と

「規則功

利主義」

の区別

に対応す

る形

で、

カントの倫理思想

と功

利主義と

の類似点

を確

認し

ておきた

い。

2

行為功利主義と規則功利主義

ントと

の類似

1

功利主義

には

「行

為功利

主義」と呼

ばれ

る立場と

「規

(8)

利主義」

と呼ば

れる立場

がある。

「行為功

利主義」

とは

51/義 務論 としての カン ト倫 理学

Page 5: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

の選択

の際に個

々の行為

に対

して功

利原理

(「最大多

の最大

幸福

」あ

いは

「選好

の満

の最大

化」

)を用

いる立場

のこと

であ

る。

一方

「規

則功利主義

」と

は、従う

べき規則

の選択

の際

に功

利原理を

いる立場

であ

る。

つま

「行為

功利主義

者」

は個

々の行為

に対し

て功利

原理を適

用し、

関係者

の最

大多数

の最大幸福

等を実

現す

る行

為を善

き行為

であ

るとす

のに対し

て、

「規則功

利主義者

」は何

らか

の原則

に対

て功利

原理を適

用す

る。

つまり

「規則功

利主義者

」は

「同様

の状況

にあ

る人が皆

その原則

に従

つた

場合

の結果はど

のようなも

のになる

のか」と

いう思

考実験

を行

って、そ

の場合

の結

果が

「最大多

の最

大幸福

」等

功利原

理を満足す

(ま

たは他

のど

の選択

可能な

原則を採

用し

た場合より

もよ

い結

果が生

じる)と思

われ

る場

にそ

の原則

に道徳的価

値を認

め、そ

の原則を従う

べき規

範とす

る。そ

この

「行

為功

利主義」と

「規則功

利主義」

の区別

に対応す

る形

でカ

ントと

功利主義

の間

に二

つの類似

点を指

摘す

ること

でき

る。

まず

一に

「行為功

利主義」

の立場

でも

、ま

たカ

ント

立場

でも

「他者

の幸福

の促

進」

は基

本的

に善

き行為だ

と考

られ

いる。先

に述

べたよう

「行為功

利主義」

の立場

では行

の道

的価

はそ

の行

「最

大多

の最

大幸

」等を実

現す

るかどう

かによ

って決定

されると考え

られ

いる。功

利主

義と

は仁愛

(σ①昌O〈O一〇50⑦)に基づ

く立場

であ

り、何

より

も社会全体

の幸福

を重視

し、社会

全体

の幸福

ため

には自

己犠牲

も厭

い立場

である。

そし

て行為

功利

主義

「社会全体

の幸福

」とま

では

いか

なくとも、

自己

の行

に関わり

のあるす

べて

の人

の幸福等を

最大化す

るよ

な行為を善

き行為

であ

るとす

る。

このよう

な基本姿勢

る行

功利

主義

にと

って

「他者

の幸

を促

進す

る行

(9)

」は基本

的に善

き行

であ

ると言え

るだ

ろう

一方

トにと

っても

「他

の幸福

の促進」

「他者

に対す

る不完

一つ

であ

(<。q=<.おO)。

また第

二に、

ントは規

則功利主義

者と同様

「も

しも

同様

の状

にあ

るす

べて

の人

が、あ

る原則

(カ

ント

の場

には

「格

率」)に従う

どうな

か」と

いう

思考

実験

によ

ってそ

の原則

(格

率)

の道徳

的価値

を判断

ている場

合が

義務 論 と しての カ ン ト倫理学/52

Page 6: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

る。

に述

べたよう

「規

則功

利主義

の立場

では

「皆

がそ

の原則

に従

つた場合

に最大

多数

の最大幸福

は実

現され

るの

か」と

った思考

実験

が行

れ、それ

によ

ってそ

の原則

価値

が判

定さ

れる。例えば

規則

功利主義

の立場

では、

「自

の利益

のため

に嘘を

ついては

ならな

い」

いう

原則

にす

べての人

が従う場

合と

「自

の利益

のため

に嘘を

つい

ても

い」と

いう原則

にす

べて

の人

が従

う場合

では、後者

の場

の方

が効

(呂一ξ

)の損

が大き

く、

前者

の場合

の方

より多

の人がより

大きな効

用を享受

ることが

でき

で、道徳

的な価値

が認めら

れる

のは前

の原

の方だ

こと

になる。

このよう

に規

則功利

主義

の立

場では、す

の人が

その原則

に従

った場合

に享受

され

る効

の総和

最大

であ

るよう

な原

則が正

い道徳的

原則だ

いうこと

(ただ

しす

べて

の人があ

る原則

に従

つた

結果とし

て、

実際

にど

の程

の効

用が享受

される

ことにな

のかは蓋然

にしか知

ること

ができず、

功利主義

者は限

られた情報

もとつ

いて功

利計算を行

なければ

ならな

い。そ

のよう

困難

が常

に功利

主義

に行

為功利主義

つきまと

っていることは付言し

ておかねばな

らな

いだろう)

一方

ントも

「自然法

の方式」

を用

いて、

「他

に対

る義務

」が

「義

務」

であ

ることを

示す場合

に、

「もしも

皆が

そのような格

に従

って行為す

るとどう

るか」と

った思考

実験を行

こと

によ

つてそ

の格率

の価値を

判定し

いる。

のよう

に行為原

の価値

を判定す

るため

「も

しも皆が

の原則

に従うと

どうな

るか」と考え

ること

によ

ってそ

の原則

の価値

を判定す

ると

いう点

で、

ント

が用

(-o

)

る方

法と規

則功利主義

者が

いる方法

とは類似

いる。

そのため

にカ

ントを規

則功

利主義

であるとす

るよう

な主

(11

)

や、ま

た規

則功

利主義

ント

の定言

命法

の諸方式

から

(12

)

導き出

ると

った主張

や、あ

いは

一見カ

ントは規

則功

(13

)

利主義

であ

るが本当

はそう

ではな

い、

った主張

がな

され

ること

になる。

し筆

の考え

ると

ろでは、

行為

や規

の価

「行為

の結果

の価

値」

「人

が皆

の規

則に従う

結果

の価

値」

に依存す

ると

考え

るかどう

かと

いう点

で、

つま

「帰

結主義

」的な立場

を取

るかどう

かと

いう点

で、

カント

の立

場と功

利主義

の立

場と

は根本的

に異

って

いる。

「行為

53/義 務論 と して のカ ン ト倫理学

Page 7: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

利主義

者」

は行為

の結果と

して実現

される幸福

など

の自然

的価

に行

の価値

をもとづ

けるが、

それ

に対し

てカント

「帰結

主義」的

な立場を取

らず、行

の価値

はそ

の行

「道徳

に従

って」(正

には

「普

遍的道

徳法

とも

なり

る格

に従

って」)な

され

いるか、さ

にど

のよう

によ

ってなされ

ているか、

によ

って決定

され

ると

考え

ている。そし

「規則功

利主義者」

は同様

の状況

にあ

るす

べての人が

の原則

に従

った場合

の結果と

て実

現され

幸福等

にそ

の原則

の価値

は基づ

くと

いう

一種

帰結

主義

立場

を取

るが、

一方

ントは格

の価値

はそ

の格

率が

「自

矛盾

」を含

まな

いか、あ

いは

「意志

の自己

矛盾」を

いかと

った

ことによ

って決定

されると考え

ており

やはり帰結主義的

な立場は取ら

い。

以下

の考

では

のよう

な点

でカ

ントと功

利主義者

の両

者は根本

に異な

ることを示

こと

によ

ってカ

ント的義

の特徴

を明確化

する

こと

を試

みる。そ

こで行為功

利主義

の帰

結主義

的な立場と

ント

の義

務論的

で動機を重

視す

る立場

とを

比較

した上

で、カ

ントが非帰結

主義的

な立場を

って

いる

ことを瞥

見してみた

い。

3

ントと

為功

利主

「他者

の幸福

の促進

」は

ントにと

って

「他

者に対す

不完全義務

一つであ

(<。q=<・おO)。

一方、功利主義

にと

っても

「他者

の幸

の促

進」は

それが

「最大多

の最

(14

)

大幸

福」等

を実現す

る限り

やはり善

き行為

であ

る。

のよ

うに

カントも功利

主義者も

「他者

の幸福

の促

進」を基

本的

に善き行為

だとす

る点

で、

両者

の立

場は

一致

ている。し

かし

「行

為功利主

義者」

が行為

の道

徳的価値

に関し

て帰結

主義的な

立場をと

のに対し

て、

ント

は帰

結主義

的な立

場をと

らず、行為

の動機

を重視す

る立場

から帰結主義

立場を批

して

いる。

本節

ではそ

のよう

な点

ついて確

てみた

い。

ントは行為

の道徳

的価値

はそ

の行為

「普

遍的道徳

とも

なりう

る格

率」

に従

ってなされ

いるか

、と

いう

こと

によ

ってのみ決定

され、行為

の道徳的

価値は行

の結

は直接依存

しな

いと

考え

いた。例え

カントは

『基礎

け』

にお

いて、

「行

の道

徳的価値

はそ

の行

の格率

の中

義務 論 と しての カン ト倫理学/54

Page 8: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

にあ

り」(一く'ω$)、

「そ

の行

の格

は普

遍的

道徳法

とも

なりう

るか」と

いう

こと

は行為

の道徳的価値

の判定

のため

の規

(円き8

)であ

ると述

べ(く。。=<・占轟)、

さら

「行

道徳

的価

行為

ら期

る結

はな

い」

(署

.合

一)とも

、ま

「義

から

なさ

れる行

の価

はそ

い」

(一く.ω迄

.)と

(Q①。qo霧§

ρ090寮)、

行為

の結

(を冥

旨。q㌔o茜o)、行為

意図

(〉σψ8葺)、

意志

の目的

(N≦8δと

ったも

のは行

無条

な価

いと

(〈σ。「署\δO

話≦9)。

のよう

なカ

ント

の主張

は明らか

に帰結

主義

的なも

(15

)

のではなく、

また

一般的

にも

そう解釈さ

れて

いる。

このような

ント

の主張

よれば、行為

の道徳的価

値は

行為

の結

によ

って直接決

定さ

れるわけ

ではな

いので、普

遍的

道徳

とも

りう

る格

に従

つてな

され

「善

為」

はたとえ

の意図す

こと

が実現し

なく

ても

、そ

の価

値を損

なわ

れること

はな

いと

いう

こと

になる。従

つてカ

によれば、溺

いる子供を助

けようと

て川に飛び込

み全力を

尽くした

が間

に合

わず、結

果とし

てそ

の子供

を助

ける

こと

はできな

ったと

ても、

の行為

の価値

(及び

の行

に伴

の価

)

が損

こと

(話=<.ω捏)。

このよう

な場合

に行為

(及び

意志)

の価

値を

右す

るのは基本

的には

「もしも目

の前

に生

の危険

にさ

らされ

いる人間

がおり、

自分

がそ

の人を助

ける

こと

るなら

、そ

の人を

助け

べきだ」

いう

「普遍的道

徳法

でもありう

るよう

な格率」

に従

って行為す

るかどう

かと

こと

であ

る。

そし

「普

遍的道

徳法

でもありう

るような格

率」

に従

て行為し

よう

とす

る意志

はカ

ント

によ

つて

「善

意志」

と呼

れ、

カントにと

って善き

行為とは善

意志

によ

つてな

され

(16)

る行為

であると

いう

こと

になる。し

かし以上

のような

の主張

は必ずしも

行為

の意志さえ

善ければ

行為

の結

果は

(17

)

ても構

わな

いと

いう

ことを意味

ているの

ではな

い。

てカントは善意

によ

ってなさ

る義務

違反も善

き行

であ

る、と

ったことま

で主張し

ているのでもな

い。例

ば、善意志

によ

つて悪徳

商人

から

盗みを行

いそ

れを

貧し

い人

に施す

ことも

「善意志

からなさ

れた行為

」な

ので善き

55/義 務論 としての カ ン ト倫理学

Page 9: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

(18

)

行為

であ

ると

いう

こと

にはなら

い。確

かに

カントは行為

の道徳

的価値

はそ

の行為

の結果

の価値

のみに

って

ではな

く、基

本的

には

「そ

の行

の格

率は普遍

的道徳法と

もなり

るか

いう

こと

って決定

ると主

いる

が、

それ

は行為

の結

果を完全

に無

視す

ると

いう

こと

ではな

いのである。

一方

「行為

功利主義

者」

は行

の価値

はそ

の行為

の結

の価

に直接

依存す

ると考え

いる。例えば

先に述

べたよ

「嘘を

つかな

い」こと

が行

為功

利主義者

にと

って善

行為

であ

ると

ると

、そ

の理由

はそ

の行為

の結果

とし

て自

の効用

が最大化

されるか

らであ

る。よ

って行為

功利主

の立場

では、もしも

自分

が嘘

ついても誰も被

害を被

らな

いのであ

れば嘘を

ついても

かまわな

いと

いう

こと

にな

り、

た嘘を

つく方

がより善

い結果を生

むならむ

ろ嘘を

つく

べきだと

いう

こと

にな

る。

一方

カント

にと

って

「嘘を

つい

はな

らな

い」

いう

道徳

は無

条件

的な

言命

であ

り、たと

え自分

が嘘を

つく

こと

によ

って誰も

被害を被

らな

いよう

な場合

でも、

やはり嘘を

ついてはならな

いと

いう

とにな

る。

同様

「他者

の幸福

の促

進」

がカ

ントと

行為功

利主義者

の双方

にと

って義

であ

ると

っても、

の両者

におけ

意味

は大

きく異

っている。行為功

利主義

の立場

では

「他

の幸福

の促進」

が直接行

の結果

とし

て実現

される

かど

うか

が問題

になる

のに対

し、義務論

者と

てのカント

にと

って重

要な

のは

「他者

の幸

福を実

現しな

ければ

ならな

い」

いう

道徳法

に従

って

(正確

には道徳法

ともなり

うる格

に従

って)

その行

為は

なされ

ている

かと

いう

ことであ

る。

このよう

に行為

功利主義

者は

「帰結主義

的」な

立場をと

が、

一方

カントは帰結主

義的

な立場をと

らな

いと

いう点

(19)

両者

の主張

は大きく異な

って

いる。

らに

カントは

ただ単

に帰結

主義

な立場を

とらな

いだ

でなく、動機

を重視す

る立場

から積極

に帰

結主義

(あ

いは目的論

)を批判

ている。例え

ばカ

ントは

「行為

(ゆ。≦o碧口ぼq。。。q三コ巳を期

待さ

る結果

から

借り

こなけ

れば

らな

いよう

行為

に道

価値

は無

い」(署

.

臥δ一)と述

べて

いる。そし

て功利

原理も

「行為

の動

因を期

される結果

(11

「最大

多数

の最大幸福

」等)

から借り

てく

るような

原理」

一つであ

るから、

のカント

の言葉

義務論 として のカ ン ト倫理 学/56

Page 10: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

のまま功

利主義

に対す

る批判

ともな

る。こ

のよう

にカント

は帰結主義

一種

であ

る功

利主義

も批

判せざ

るを得な

いと

(20V

思われ、ま

たそのように解釈す

る論者

も多

い。

そし

てカ

ントが行

の道徳

的価

「行為

から期待

され

る結果

の中

にあ

のではな

い」

(一⊆二■)と

べるとき

に、

ントが

「結果

の例とし

「自

己の状

の快適

さ」

みならず

「他者

の幸福

の促進」も

あげ

いる

こと

は注

目に

値す

(〈σq=げ葦

)。

カントは

たとえ

る行

為が

他者

の幸福

を促進し

たとし

ても

、そ

の行為

「傾向性

から」

なさ

れて

おり、

「義

務から」

なされ

いる

のではな

いな

ら、そ

のよ

うな行為

は真に善き行

ではな

いと考え

いる。

「他者

幸福

を促進

する

こと

」は結果

の点

から

みれば確

かに善き行

であ

るが、虚栄

や利己心と

いった義務

以外

の他

の動因

って、

ある

いは名誉

を求め

「傾向性

」から

それがなさ

ているなら、そ

のような行為

に対し

てカ

ント

は道徳的価

値を認め

い。そ

のような傾向性

から他

の幸福

を促進す

るような偽

善的行為

「義務

にかな

って

(でコδ三∋湊茜

V」

いるが

「義務

から

(9話ヨ

一。夏)」なさ

れた行

ではな

いの

で、そ

のような行為

は真に善き行

ではな

いと

いう

こと

(〈。q=<'ω導こ

つまり

ント

によれば行

の価値

が決

されるにあ

っては、行

の結

の価値

よりも行為

の動

の方

が重要な

のである。

のよう

な点

でも

ント

の立場

は動機

に関す

る議

論を欠く

こと

の多

い行為功

利主義と

は異

っている。

確か

にカ

ント

が帰

結主義

的な主張を

批判す

るとき

に、行

の結果

とし

て考え

いる

のは基

的に

は自

「幸福

(O冨。訂。=σ。胃。ε

「快適

(〉弓07∋ぎ蒔。こ

「快

(ピ⊆。。こ」

「欲求

(bd§

β

ロコo。。oξoコ)や欲望

(匂ロ茜

Φao)の満足」

など

であり、他者

の幸福

ではな

い。また

ントが

『基

礎づ

け』

『実践

理性

批判』

にお

いて主

な批判

の対象と

ている

は自

の幸

や欲

の満

足を

実現

る行為

善き

行為

し、場合

によ

っては自

の幸福

や欲求

の満足

のため

に自

の不道

な行

為を

許容

るよ

うな

倫理

エゴ

イズ

ムであ

る。そし

てこ

のよう

な倫理的

エゴイズ

ムは明ら

かに帰結

義(または目的論

)の

一種

であ

るが

(〈σq=<\δP)、カ

ント

が帰

結主義的

な主張

を批判す

るとき

に念頭

にお

いて

いた

のはこ

のような倫理

エゴ

イズ

ムだけ

ではな

い。カ

ント

はあ

る行

が結果とし

て他者

の幸

福を促進

いると

いう

それだけ

57/義 務論 と して のカ ン ト倫理学

Page 11: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

の理由

でそ

の行為

を善き行

であ

るとし

て、

の行為

の動

機を問わな

いよう

な帰結主義

的立場も批判す

のであ

る。

このよう

にカントは行為

の動機を

重視す

る立場をと

り、

「義務」

を最も強

い動機

とす

ること

(ま

たは

「道徳法

に対

る尊敬

」を最も

い動機

とす

ること)

が行

が真

に善き

行為

であ

るため

の条件

一つであ

ると考え

いる。

一方行

為功

利主義

には動

に関す

る議論

が欠

ていると

言わ

れる

(21)

こと

もあ

る。こ

のよう

に行為

功利主義者

が行為

の動

より

も行

の結

果を重視す

る帰結

主義

の立

場をと

るのに対

して

ントは行

の結果

よりも行

の動機

を重視す

る立場を

り、そ

のような点

で両者

の立場は根本

に異

っている

であ

る。

かにカ

ント

は他者

の幸

福を促進す

ること

を善き行

ると考

る点

では功

利主

に近

いと言え

るも

のの、行為

功利

主義

者と

は異なり

帰結主義

に対し

て批判的な立

に立

ち、

さら

に行為

の動機

を重視す

ると

いう

点で、

ント

の主

は行為功

利主義と

は根本的

に異な

って

いる

。しかし

トは

「も

しも同様

の状況

にあ

るす

べて

の人が

同じような

(格率)

に従うと

どうな

るか」と考

える

ことによ

って格

の道徳的価値

を判

定し

ている場合

がある。先

に述

べたよ

にこ

のよう

な方法

「規則功

利主義

者」が

いる方法

いる。次

の節

では

の点

ついて検討

てみ

い。

4

カントと規則功利主義

4

a

問題

の確認

「規

則功利主義

者」

「もしも

同様

の状

にあ

るす

べて

の人

がある原則

に従

って行為し

た結果と

て最大多数

の最

大幸福

(ま

たは効

の最大化等

)は実

現され

るか」と考え

ること

によ

って、

その原則

の道

徳的価値

を判定

ている。

一方

ントも

「自

法則

の方

」を

いて、あ

る格

「他者

に対す

る義

」を命

じるも

のである

こと

を説明す

に、

「もしす

べて

の人

がそ

の格

率に従

って行為す

ると

どうな

るか」と想像

ると

いう方法

を用

いて

いる。こ

のよ

カントは

「規

則功利主義

者」

が用

いる方

に類似

した

方法を用

いる場合

があ

る。

かしカ

ントは規則功

利主義

者と

は異

なり、

「人が皆

義務論 としての カン ト倫理学/58

Page 12: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

のような

原則

(格率

)

に従

った結果

」生じ

る事

の価値

題にし

いな

い。カ

ント

「人が皆

のよう

な原則

(格

)に従

った結果

」を考え

る場合

にまず問題

にす

るのは、

そこ

「格

の自

己矛盾」

「意志

の自己矛

盾」

は生

じな

いかと

いう

こと

であ

る。

そし

てたとえ

「結果

」が問題

にさ

れるとし

ても、そ

の場合

に問題

にさ

ている

のは実

現され

る結果

の価値

ではなく、

「約束」

など

の行為

はそ

のような

場合

でも

可能

か、

ったこと

であ

る。本節

では

そのよう

な点

ついて確認

ることを通

じて、

カント

の主張

が持

義務論的

な性格

を明ら

かにし

てみ

たい。

カントは

『基礎

け』

の第

二章

にお

いて当時

の慣

に従

って義務

「完全義

務」(例外

を許さな

い義

)と

「不完全

(22

)

義務」(例外を

許す義務

)と

に分

類し、

さらにそ

のそれ

ぞれ

「他

に対す

る義務

「自己

に対

る義務

に分

、義務

を計

四種

に分類

いる

(〈。q=<ムP一)。

つま

カント

によれば、

義務

には

「自

に対す

る完全

義務

(苦

るた

の自

の禁

)」

「他

に対

る完

全義

(虚偽

の約束

の禁

)」

「自己

に対

る不完

全義務

(自

素質を開発す

ること

)」

「他者

に対す

る不完

全義務

(困窮し

た他

者を

助け

こと

・他者

の幸福

の促

)」

の四種

の義

があ

ると

いう

こと

になる。

さらに

カントは、諸

家に

って

「定

言命法

の根本方

式」

と呼

ばれ、

ント自身

「唯

一の定言命

法」と

も呼

ぶ方

(「普遍的

道徳

法と

なる

こと

を同時

に欲

しう

るような格

のみ

に従

って行為

せよ

」(一くム8

))

を提

示し

た後

で、

それ

に続け

「自然法

の方

(3

暮ε

」と呼

れて

いる第

の方

式、即

「汝

の行

の格

率が、

の意志

を通じ

て普遍

的自然法

とも

なる

のよう

に行為

せよ」(一く.轟P一)と

いう

式と、

「目的

それ自

の方

式」と

呼ばれ

いる第

の方

式、

つま

「汝

の人格

にお

いてもあ

らゆ

る他

の人

の人格

いても

、人間性

を常

に同時

に目

的とし

て扱

い、決

して単

なる手段

して

のみ用

いな

いよう

に行為

よ」(【<.恥NO)と

いう方式

を提示

して

いる。

そし

てカ

ント

はこ

の二

つの方式

の道徳

的原理と

して

の妥当

性を示す

ため

に上

にあげ

た四

の義

を例

て用

い、ま

この

つの方式

て、

の四

つの義

のそれぞ

れが義務

であ

る根拠を

示す

とが

でき

ると考え

ている。

ント

「も

しも皆

がそ

のような格率

に従う

とどうな

59/義 務論 と しての カン ト倫理学

Page 13: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

か」

と考え、

の予想

され

る結

果に

って格率

の価値を判

定す

ると

いう

方法を用

いるのは、

「自然法

の方

式」を用

いて、虚偽

の約束

の禁

止等

「他者

に対す

る完全義

務」と

他者

の幸福

の促

の.「他者

に対す

る不完

全義

とが

「義務

」であ

る根拠を示す

場合

であ

る(〈。q=<'台P)。

そこで

カントが

「他

に対す

る完全義

務」と

「他者

に対する

不完

全義

務」

の二

つの義務

に対

して、

この方

法を

のよう

に用

いて

いるかを具体的

に見

てみ

よう

4b

他者に対す

る完全義

の場合

ント

「他者

に対す

る完

全義務

」に違反す

る格率

の例

とし

て、

「自分が金

に困

って

いると

思う

とき

には人か

ら金

を借り

て、

決し

て返せな

いとわか

って

いても

返すと約

束す

(23)

る」(一くムPP)と

いう

格率

をあ

いる

。そし

カント

の格

「自然法

の方式

」を適用

し、

「も

しも私

の格率

が普

的法と

ると

一体どう

るか」と

問う

(一σ己.)。

場合

「普

遍的法

」あ

いは

「普遍

的自然法

則」と

「す

べての人が

それに従う

原則」

のこと

であ

る。よ

ってこ

こで

「あ

る格

が普

遍的自然

法則とな

るとどう

なる

か」

と考え

ると

いう

こと

「す

べての人が

の格率

に従

って行

為す

とどう

なるか」

と考え

ると

いう

こと

であ

る。

そし

てカ

ント

このような想

定を行う

こと

により、

「こ

のよう

な格率

決し

て普

遍的道徳

法とし

ては妥当

せず、自

己自身

一致

ず、

必然

的に自

己矛盾す

ること

はす

にわか

る」(ま己.)と

結論す

る。

この

「格率

が自己矛盾す

る」と

いう表

現は、

「偽り

の約

束を

して金を借

ても

い」と

いう

格率

にす

べて

の人

が従

えば

「約束」

いう行為

のも

のや、

約束

によ

つて何

の目的を達成

ること

が不可能

にな

る、と

いう

ことを意

ている

(〈。q=げ準)。

のよう

にこ

こで

「矛盾」

いう

によ

ってカ

ントが述

べて

いること

「Aか

つ非

A」と

う通常

の意

での

「矛盾」

とは異な

る。

そし

てこの場合

には

「す

べて

の人

がそ

の格

率に従

った結

」が問題

にされ

いるよう

にも思わ

れる。

しかし

この場

に問題

にされ

ているのは人

が皆

のような格

に従

った

場合

に実際

に実現さ

れる

「結果

の価

ではな

い。

ここ

題にさ

れて

いるのは、す

べて

の人

がそ

の格

に従

った場

「約束

」や

「契約

」と

った行為

のも

のが可能

であ

義務論 と しての カン ト倫理学/60

Page 14: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

るか、と

いう

こと

であ

る。従

ってこ

のよう

カント

の主張

はやはり帰

結主義

的なも

のではな

いと言え

るだ

ろう。

た完

全義

務と

は、

の義

を命

る格

「自

盾」しな

いような義

であ

り、

そして完全義

務に対

する違

反を許容す

るよう

な格率

「矛盾な

に普遍

的自然法

則と

こと

い」

ント

は述

いる

(署■

お轟)。

4

c

他者に対す

る不完全

義務

の場合

「他者

に対す

る不完

全義務

の例と

てカントがあげ

いる

のは、

「困窮し

いる他

者に救

いの手を

さし

のべなけ

ればなら

い」と

いう

義務

である。

そし

てカ

ントは

「他

が幸福

ろう

が不幸だ

ろう

が自

には関係

の無

いこと

で、

困窮

いる人が

いて自分

がそ

の人を

助ける

ことが

でき

うと

も、自

分はそ

のよう

な人

を援

助し

い」と

いう

格率

的自

然法

にな

ると

るか

と考

(くαQ=<

台ω)。たとえ

「困窮

ている他人

のため

に自

は何

もし

い」

いう格率

が普遍

的自

然法

則となり

、人

が皆

のよう

な格

率に従うと

ても

社会

は十

分に機能

しう

る。よ

ってそ

のような格

が普

遍的自然法

にな

ること

は十分

「考

えら

れる」

こと

であ

り、そ

のような格

率が

(先に述

べた意

で)

「自

己矛盾

」す

ることはな

い。しか

しす

べての人が

のよ

な格率

に従

つて行

為す

るな

ら、自

分が他人

の援

助を

必要

とす

るよう

な場合

に他人

に助

ても

らえる可能性

が無

くな

ってしまう

。よ

つて、そ

のよう

な格率

が普

遍的自

然法

則に

ることは誰

にも

「意欲

(≦o=9

)できな

い」と

いう

こと

る。

ント

この

ような

事態

「意

が自

己自身

に矛盾

る」(一くムP轟)と

いう

言葉

で表

いる。先

にあげ

た格

が普遍

的自然法

になると、す

べて

の人が困窮

して

いる人

々に何

の関心も持

たな

いと

いう

こと

になる。し

かし

「す

ての人

が困窮

して

いる人

々に無

関心

であ

る」と

いう

ことと

「自分

が困窮

して

いる時

には他

人が自分

に援

助す

る」と

ことを

同時

「意欲」す

こと

できな

い。

「意志

の自

己矛盾」

とは

このような

ことを意味

ている。そ

して

「不

全義務

」と

「意志

の自

己矛盾」

を含ま

い格率

に従

て行為す

ることな

のであ

(<σqr一く'駆N轟)。

なお

ここ

「自

分が困窮

いる時

には、

他人

が自

61/義 務論 としての カ ン ト倫理学

Page 15: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

助す

る」

ことを意

欲す

る場合

には、

「自己

の幸

福」

が願

され

いるよう

にも思わ

れる。し

かし

この場

には自

の幸福

が行

の結果

とし

て実

現され

るかどう

かが直接

問題

にされ

るわけ

ではな

い。従

って、

やはり

この場合

にも

トは帰結

主義的な

立場をと

ってはいな

いと言う

こと

ができ

る。ま

たある格率

「自己

矛盾し

いな

い」

いう規準

(あ

るいはそ

の格

率が普遍的自

然法

則にな

ることが

「考え

られ

る」と

いう

規準

)を満足

ていても

「意志

の自

己矛盾は

い」と

いう規準

(あ

いは

その格

が普

遍的自

然法則

ることが

「意欲

でき

る」と

いう規準

)を満足

して

いな

こと

があ

る。例えば、

に問

題にし

「困窮し

いる他者

に対

て無

関心

であ

っても

い」と

いう

格率

は前

の規準

は満

足し

いる

が、

後者

の規

は満

足し

ていな

いので、

「完全義務

に反す

る行為

ではな

いが、

「不完

全義務

」に

は違

反す

ると

いう

こと

にな

のである

(〈σq一■一く.轟N駆)。

4

d

カントと規

則功利主義

の相違

る原則

が従う

べき規

であ

みかどう

かを判定す

るため

に、

「も

しも皆

がそ

のよう

原則

に従う

とどうな

るか」と

考え

れに

って

の原則

の価値

判定

ると

いう

で、

ント

が用

いる規

準と規則功

利主義

者が用

いる規準

は類

似し

いる。し

かし

「人

が皆

る格

率に従うと

どう

るか」と考え

る場合

にカ

ントが直

接問

にす

ることは、

の場

合に行

の結果

とし

て実

現され

る幸

や快

ではなく

の格率

「普遍的

道徳法

則」にな

ることは

「考えら

れな

い」(一く恥P斜)あ

いは

「意

でき

い」(董

α')のでは

か、

いかえ

「格

の自

」(一く.鼻PP)あ

いは

「意志

の自己

矛盾」(一くム濾

)は生

じな

いか、と

った

一種

論理的な問

題である。

この格

や意志

「自

己矛盾」と

いう表

現は、先

に述

よう

こと以

に自

分自

身を

「普

に妥

る道

法」

の妥

当性

の例外

であるとす

ると矛盾

が生じ

ると

いう

とも意

味し

いる。例え

「嘘を

ついてはならな

い」と

う道徳

「普

遍的

に」

つまり

「あら

ゆる場合

に、

べて

の人に対

して例外な

く妥

当す

る」と

いう

ことと

「今

自分

の妥

の例

であ

いう

こと

矛盾

(〈σQ一・一く髄恥N轟)。

この場合

「矛盾

」とは

「Aか

つ非

A」と

義務論 と しての カン ト倫 理学/62

Page 16: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

通常

の意

での

「矛盾」

である。

ここ

「自

己矛盾す

や意志

の非道

徳性

の根

拠とさ

ている

のは矛盾律

る違

反であり

、また自

分自身

の行

為を

「些細な例外

考え

て、道徳法

の普遍性

一般的妥

当性

に変え

てしま

いる

こと

であ

(〈oq一」σ一α')。

このよう

「格

の自己

矛盾」も

「意志

の自己矛盾

」も

の結

の価値

とは基本

的には無

関係

であ

る。

そして

ント

「格

の自

己矛盾」

いう言

葉を使う

とき

には

「人

が皆

その格

に従

った結果

」が問題

にさ

れて

いるよう

に思

われ

ると

ても、

ント

が実際

に問

にして

いるのは実現

され

る結

の価値

ではなく

「約束」

の行為

のも

のがそ

のような場合

にも可能

かと

いう

こと

であ

る。

このよう

にカ

ント

「も

しも同様

の状況

にあ

るす

べての

人が

その原則

に従

うと

どう

るか」と想像す

ると

いう点

「規則

功利主義

者」

が用

いる方法

に似

た方

法を

いてい

る。

しかしそ

の場合

に規

則功利主義

「同様

の状

にあ

るす

べて

の人

がそ

の原則に従

った結果」

の価値を幸

福な

の形

で問

にす

のに対

て、

ント

はそ

のよう

「結

果」

の価値を直

接問

題にす

ることはな

い。従

ってこ

のよう

な点

で、

カント

の立場と

規則功

利主義

の立場

は根本的

異な

って

いると言う

こと

でき

るのであ

る。

結語

-

今後の課題1

最後

に本稿

で論

じること

ができな

った

いく

つか

の間題

ついてまとめ

ておきた

い。

ントは

「自

然法

の方式

」が道徳

的行

為原

理とし

て妥

当す

ことを

示す

ために、

「人が皆

このような格

に従

(24

)

どうな

るか」と想像

る方法

を用

いて

いる。

しかし

先に

べたよう

に、カ

ントは

この

「自然法

の方式

に続

けて

「目的

それ自体

の方

式」

(「汝

の人格

にお

いても

あら

ゆる

の人

の人格

にお

いても、

人間性を

常に同時

に目的と

して

い、決

して単な

る手段と

てのみ用

いな

いよう

に行

為せ

よ」署.台O)と

ばれ

る方

式を提

いる

。そ

てこ

「目的

それ自

の方

式」

は、従う

べき道徳法

とはど

のよう

な原則

なのかを決

定す

るため

の規準

ともな

ると思

われる。

ぜな

ら筆

の考え

ると

ろで

は、定

言命

「根

本方

式」

「自

然法則

の方式

」にお

いてそ

の存在

が前提

され

63/義 務論 としての カン ト倫理学

Page 17: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

いる

「普

遍的

に妥

当す

る道徳法」

「自他

の人格を

単な

手段と

ては見

なさな

いような行為

原則」

一致す

るから

であ

る。従

ってカ

ント

の義

務論的

な規準

は最終的

には

この

「目的

それ自体

の方式」

によ

って示さ

れる規準

に基

づくと

思われ

る。

た現代

の生命

倫理学

でカント主義

が功利主義

に対置

させ

られ

る場合

に、

そのカ

ント主

義と

「自他

の人格を単

る手

段と

して

のみ用

いな

い」

人格重視

の立場を意

味す

こと

が多

い。よ

って功

利主義と

ント的義

務論と

の比較を

さら

に進め

るため

には、こ

「目的

それ自

の方

式」

の意

ついて十

分に検討す

る必要

があ

る。

いず

れ稿

を改め

この

「目的

それ自体

の方

式」

の意

に関す

る考察

と、

カン

ト主義

的人格主義と功

利主義と

の比較を

いた

い。

たカ

ント主義

的義

務論

の立場

では、

「嘘

の問題」など

に見

られる

「道徳的葛藤

(義務

の衝突

)」

をう

まく解決

でき

(25

)

こと

「嘘

の問

ント

『人

つく

いわ

(O冨「①ヨ

<9∋虫三①。。ヵ87冨

ζ①蕊o冨呂

①σ①

(26)

N⊆三。q。口)』

いう

で考

で、

に追

てきた友

人を自分

の家

にかくま

って

いる時

にそ

の殺

人者が

入を追

って自分

の家

に来

たとし

たら、そ

の殺人者

に向

つて

「友

人は

いな

い」と嘘

つく

ことは許

され

るか、と

問題

である。

の場合

には

「他

者を助け

る義務」

「嘘

つかな

い義務」

とが衝突

いる

こと

にな

る。

そし

てカ

ント

によれば、

「嘘

つかな

い義務

が例外

を許

さな

い完

義務

である

のに対し

「他者を

助け

る義務

は不完全義

であり

、不完全義

務より

も完全義

務を優

先しな

ければな

らず、ま

た真実を知

る権

利は誰

にでもあ

ので、

この場合

も嘘を

ついてはならな

いと

いう

こと

にな

る。

このよう

にカ

ント

の立

では、完

全義務

よりも

不完全義務

を優先

るべ

きだと思

われ

る場合

にそ

の根拠を

示す

こと

でき

いので

ある。

しか

し行為功

利主義

の立

では、本当

のことを

って友

人が殺

され

るより

も嘘を

ついて友

人を助け

る方

が関係者全

(この場合

は私と友人

と殺人

者)

の効用

の総和

は大きく

るので、私

は嘘

ついた方

がよ

いと

いう

こと

になる。

のよう

に行為功

利主義

の立場

では完全義務

よりも

不完全義

務を優

先す

る根

拠を示す

こと

ができ、

それ

によ

ってカ

ント

義務論 としての カン ト倫理学/64

Page 18: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

が嘘

の問題

に対し

て下した奇

異な結

論を回避

できる。

しか

し逆

にカ

ント的義務論

の立場

をと

ること

によ

って、行為功

利主義

の立場

では正当

化さ

れてしまう

ような奇

異な結論を

(27)

回避

でき

る場合もあ

る。従

って道徳

的葛

藤が生

じる場合

なす

べき

ことを決定す

るた

の理論

とし

て、

ント的義務

論と行為功

利主義

のどちら

が優れ

ているかを

一概に言う

とは

できな

いが、

その点

に関し

ても

の機会

に詳しく論

(28)

い。

また功利主義

の理論

形態と

ては行為

功利主義

よりも規

(29

)

則功利主義

の方が優

ていると

いう指

摘もあり

、そし

て規

則功利主義

は道徳

的な規範を

決定す

るため

の理論であ

るだ

けでなく、法

律を制定

する

ため

の原

理に関す

る理論

でもあ

る。従

ってカ

ント

の主張と功

利主義と

の比較を進

める

ため

には、カ

ント

の法哲学

と規則

功利主義

の比較

を行

う必要

(30

)

があるが、

本稿

では筆

の力

量不足

のため

にそれを行う

とは

できな

った。こ

の点

に関し

て検

討す

る義務

いず

果たした

いと思う

*

カント

の著作

から

の引

用箇

所及

びそれ

への参照

箇所

は慣

に従

い、

ロイ

ンア

カデ

ミー版

の巻数を

ロー

マ数字

で、

その

iジ数

を算

用数

で示

す。

ント

から

の引用

はす

て拙訳

よる

が、本

論文作

にあた

っては

『中

ック

ス世界

の名著

ント』

(中央

公論社

一九七

九年

)所収

『人倫

の形而上学

の基礎

づけ』

の野

田又夫氏

による邦

訳と宇

都宮

芳明氏

によ

「訳

・カ

ント道

形而

上学

の基礎づ

け』

(以文

社、

一九八九年)と

二種

の邦訳

に参

考にし

た。

(1)

帰結

主義

と幸福

主義

(快

主義

げ巴。巳。。ヨ

)

は功

利主

の含

つの原理

であるが、

の二つの原理

は別

のも

のと

て理解

され

ことが多

い。ま

たど

のよう

「結果

を問題

にす

かに

って種

々の帰結主

義を考

ることも

でき

るが

、本稿

では

の典型

的な立

である幸

福論的

な帰

結主義

に限定

て議論

を進

い。

帰結主

と幸

福主

義を功

利主

の含

つの原理と

する点

ついては以

の文

を参考

にし

た。神野

一郎

「功利主義

の射

(『転換

おけ

る人間

8

・倫理

は』

(岩

波書

店、

一九

八九

)一九

ー二

一七頁

所収

)一九

六頁

また功

利主義

の基本

ては帰結

主義

と快楽

主義

に加え

て快楽

計算総

和主

(また

論に

おけ

る個

人主

義)

があ

る。

内井

『自

の法

利害

の論理』

(ミネ

ルヴ

ァ書

房、

一九

八八年

)一六五頁、

川本隆

「正

と平等」

(宇

都宮芳

・熊野

純彦編

「倫

理学を学

ぶ人

のた

に』

(世界思

想社、

一九九

四年

)一五

ニー

一七五頁

所収

)一五七頁。

(2)

カント

自身

「義

務論

「帰

主義

った

用語

は用

いて

いな

い。

なお

「帰結主

」と

いう

がこ

のような意

に用

いられ

のは

ンス

コムの以下

の文献

にお

いてである

る。O

〉霧8ヨ冨

㌦ζaoヨ

ζo邑

℃巨

o。。oで7望

!ぎ

畿8篭

ξ

響一8。。一≦

ω一2ρ

>a。δ

.Oo器o碧〇三巴一。。ヨ

65/義 務論 と して のカ ン ト倫理 学

Page 19: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

穿

6X

ごミミ轟ミ

韓ミ塗

。ら

σ望○

b」8否「知

ロロ9甲

bσ8冨「▼O巴

雪α

国σ冴三昌σ。

ぎoごZo≦<o爵即ぢ巳oP

一$ド

(3)

「義

論」

の定

ついては

W

・K

・フ

ランケ

「倫

理学』

(杖

下隆

英訳

、培風館

)二七頁等

を参

照にし

た。

(4)

「根

本方

以外

の四

つの方式

の呼

いては慣

に従

い、

ベイト

の呼

び方

に従

。=」.国8デ

§

恥Oミ£o§

§

臓竃噂〉巽§

掬§

ミoミ

§

き9

=三〇三585

卸∩oヨ「嘗望

[痒

一峯

響⊂巳くo琶受

oh「。葺ω旨く聾す

。・・。曽一8

一一邦

H

.・J

・ベ

イト

「定言

命法ー

ント倫理学

研究1

』杉

田聡

訳、行

路社、

九八

六年。

(5)

の対

ついては

以下

の文

献等

を参

れた

い。

田孝彦

「イ

フォー

ムド

・コンセ

ント

の哲

学的基

礎づ

け1

主義

カント

主義

(「プ

ラク

ティ

・エ

ック

ス研

(千

一九

)、

一〇

一七

)。

(6

)

』」.0

のヨ壁

卸甲

≡mヨ。。'§

§

隣§、甘

、§

胤禽

亀誠

∩凶ヨ巨

Oo。od巴く9。。ξ

源$・。曽一§

uワ

U.

(7)

「功利

にも

々な

でき

が、

本稿

はベ

ンサム

やシジ

ウイ

ックと

った

特定

の過去

の功利

主義

とカ

ントを

比較す

のではな

く、

いわば

典型的

な功

利主義

ント

の比較

を行う

ことを

みる。筆

「典型

的な功

利主

者」

とし

てイ

メージし

ている

のは、J

・J

・C

・ス

マ!トな

であ

る。

(8∀

為功利

主義

規則功

利主

の区別

ついては、

。。ヨ畳

簿≦

一一雷日。・b㌻

.も

.O等を参考

にし

た。

(9)

「他者

の幸

の促

」を

善き

行為

する

立場

は正

「利他主

義」

であ

って、

のような立

と功利主

とが

一致

るわ

ではな

いQ

(-o)

ントと

功利

主義

の類似

をま

める

にあ

っては以

の文

献を

にし

た。Z

=o。邑。「㌦困聲誘冨冨o。o冴島。q

需冨薯

巴の門og。ε

器o『臼

。。蓬87昌

878ロ."ぎ勾簿&§

驚ミ§②。魯、、葵

鳳旨9

§

亀象

ミ馬じロ碧二N

ζ.匹巴。一(=閉oqシ<。「冨o。カo目957響聞孟

σ霞α。曽

一8轟.(

11)ω目き

無≦≡冨巨。。b㌻9ひ,「b・

(12)Q

ロ8

3

1∩8冨

畠互

8

5

9。≦

『」昌肉§こ

、§

§

qひ響

一拐いもワ一い。。-一い「

ただ

しド

ーアは

カント

の諸

方式

を解

釈し

たも

のに可能

世界論

を組

み合

せて

いる

ので、

ゥー

の議

はカ

ント

の議論

よりも精

密なも

のと

って

いる。

(13)Z

出8匿oさ

戸鼻9

(14)

本稿

では功

利主

の立

では

「他

の幸福

の促進

本的

に善き

行為だ

とし

たが、

利主義

とはあ

くま

でも

「最大

の最大

幸福

」等

に価値

を置

く立

であ

る。

そし

てそ

「最大

には自

分も含

まれ

ので、自

の幸福

や効

の増大

が他

の人

の幸福

や効

の減少

よりも大

ければ自

の幸福

や効用

の増大

を優先

てもよ

い、と

いう

こと

になる。

紙数

の都合

もあ

り本

稿

はそ

の点

に関し

て詳し

く論

じる

こと

はできな

いが、

この点

に関し

はさら

に詳

い考察

が必

であ

る。

(15)

国δρ

o㌻

ご㌻鴇

一邦

ヵo・。9

肉§

田ミoミ冨

壱-Ω碧o巳8

国o・。。。ΨOx8a冒一〇蜜

も」Pgp

(16)

志概

の意味

いては以

の文献

を参

れた

い。久保元彦

「道徳的な善

さについてー

「道徳形而上学の

基礎

づけ』第

一章、第

一段

落及

び第

二段落

の検討

」(同著

『カ

ント

究』

(創

一九

入七年

)、

ー八

入頁

)、

田義

「カ

ント

〈善

意志

〉と

何か」

(浜

田義

・牧野

二篇

「近

ツ哲学

論考

t

ント

へーゲ

ルー

(法

大学

版局

一九

三年

)、

一二三

一五

六頁

所収

)、

稿

「善意

の自

義務 論 と して の カン ト倫理学/66

Page 20: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

(『実

践哲学

研究

一四

(京

都大

学文

学部倫

学研

究室

内、

実践

哲学

研究会、

一九九

一年

)、

一ー四九頁

所収

)。

(17)

の点

いては宇

都宮

明氏

の指

ある

。宇

都宮

芳明

『訳

・カント

道徳

形而

上学

の基礎

け』

二九頁。

(18)

≧=。。oロ

=

団〉=冨o野

肉§

§q

ミ蒙

偽§ミh

げま

oQoご巳くo閉ξ

即。。。・,」08

も.=P.

(19)

"。ω・。'選

.ミ

・も

」P

自p

.内塁

・,三。暮

ξ

三87。

<。旦置oヨoヨ。己品

西目目即87虜9

。。且9

00。・Σ87窪

くo窃只。90霧

.」冨

9§ミ轟

§。。Nミミミ§ξ

隔罫

魯、』ミ§

、衷測ぎ

oミ

量ミさ

ミミ§

、§

O

(=冨o。9y

≦琴き

昏o。。8§

壁5"霊

5昏

山旨

ζ既デ

一拐ρ

00bQり'

(20)

国δ戸

o㌻

6軌野

08.な

ント

ベンサ

によ

る功

利主

の定

式化

ついては知

らな

った

と思

われ

ので、

このカ

ント

の言

功利主

に対

る批

意図

いる

は考え

られ

い。し

かし

、こ

のような

ント

の帰

結主

(また

は目的論

)批

は功利

主義

の源流

であ

る十

八世紀

イギ

スの倫

思想

に向

けら

ているとも

考え

られる。

また

「基礎

け』

は当

ルヴ

ェの

「キ

ケロ論

に対す

る論駁

の書

とし

て構

され

いた

こと

から、

よう

な批判

の対象

され

いる

のはガ

ルヴ

ェ等

の十八

世紀ドイ

の啓蒙

思想

家であ

るとも考

えら

れる。

(21)

尚武

「倫

理学

の基礎

(放

送大

教材

一九九

年)、四

八頁等。

(22)

完全義務

(<o穿

oヨヨoコo

言7ご

は、

「厳し

い(旨oお

)義

「よ

(昌oq臼)義

「ゆ

い(召〒

冨。巨諺。。ぎ7

)義務

」(一くム里

)、

「必然的

(ぎヨ。昌島o。)義

務」

「責務

(87巳島o。)義

務」

(署

.鳶O)な

とも呼

れ、

一方不

完全

義務

「より広

(蓄

冨こ

義務

「功績

(〈臼島窪。。P=07

)義

務」(署ムNε

「偶然的

(N三匿茜

)義務」

(署.お

O)などとも呼

れて

いる。

(23)

ント

にと

って虚

の約

をす

るも

のは

「人

の権

の侵害

者」

(一く.轟ωO)であ

り、

ント

「他者

に対す

る完全義

いう概

に対

「権

("9誓)」と

いう

概念

を前提

して

いるよ

に思

われ

る。

の点

つい

ては以

下の文献

から示

唆を得

。菅

沢龍文

「カ

ント

『道徳

形而

上学』

における虚

の禁

止」(「哲学

誌』第

二四号

(法

政大学

学院

人文科

学研

究科

哲学

専攻

一九

二年

)、

一〇

一一八頁所

)。

(24)

やや異

った表

いら

れて

いる

が、

「実践

判』

「範

の部

にも

る箇

があ

(くo。r<」8

)。

(25)

「嘘論

に言及

た文

は前掲

の菅沢

論文

じめ

とし

て枚挙

いとま

がな

いが、

「嘘論文

のカント

の主張

と功

利主

の関

を論

た文

は以

のも

のが

ある

谷田

「、義

の衝突

"

ついて」

(「倫

理学

年報

第三

七集

(日本倫

理学会

編、

一九

八八年

)、

三九

ー五六頁所

)。ま

「嘘

論文

内容

いて詳

しく論

じた

のとし

て同

じ筆

による

以下

の文献

があ

る。谷

田信

「カ

ント

の実質

的義務

の枠組

みと

「嘘」

の問

題」

(

「現代

ント

研究

H

・批

判的形

上学と

はな

にか』

(カ

ント

研究

会編、

理想社

一九

九〇年

)、

二二八

ー二七

二頁

所収

)。

(26)

理想

カント

全集

一六

に尾渡

達雄

よる

邦訳

「人間愛

から

の虚言」

いう

タイ

トル

で収め

られて

いる。

(27)

のよう

は以

の文献

にあ

れて

いる

。黒

「行

範』

(勤

一九九

二年

)、

一五

頁、

。。3鎚

=雷§のb㍗

q鳳・も.ひO『層

(28)

お本

稿

で扱

つた

問題

と直

の関

はな

いが

、筆

の所

「道

徳的葛

藤」

いて論

じた

こと

がある

。拙稿

「道

67/義 務 論 と して のカ ン ト倫 理学

Page 21: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

的葛藤と道徳判断の普遍化可能性ー

ウィンチの

「道徳判断の普

遍化可能性」に関する

一考察1

」(『哲学論叢』二〇号

(京都大

学哲学

論叢刊行

会、

一九九三年)、

六三

ー七三頁

所収

)。

(29)

前掲黒

田書、

一一七頁

(30)

の点

いて

は加

の御

た。

〈謝辞〉

本稿の最終稿を作成するにあた

って、本誌の審査員

から賜

った多くの貴重な助言を参考にすることができた。また薗

田坦先生、倉田隆氏及び京大西洋哲学史近世講座所属の院生、O

D諸氏

には本稿の原形とな

つた筆者

の草稿を検討していただき、

その検討会の場で多くの御意見を述

べていただ

いた。白水士郎氏

は二度

にわたり本稿の草稿を丹念に検討した上

で、筆者と

の議論

にねばり強く応じて下さった。伊勢田哲治氏にも本稿

の草稿に目

を通していただ

いた上、多くの貴重な意見を述

べていただ

いた。

また本稿脱稿後に加藤尚武先生からは本稿の問題設定そのものに

対する厳しい批判を頂戴した。京大倫理学研究室所属の諸氏から

も本稿

の内容に関していくつかの御意見を頂

いた。以上の諸氏に

心から感謝の意を表したい。

義 務論 と してのカ ン ト倫 理学/68

Page 22: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

Perspektiven, die fur die beiden Standpunkte ermoglicht and versichert werden sollen, voneinander grundsatzlich verschieden. Es ist aber eine bekannte Tatsache, daB der junge Fichte sich von der ,Kritik der praktiscen Vemunft" begeistert hinreiBen lieB, daB er sich die letztere aneignete, and noch dazu, daB er sich mit Eifer mit der Darstellung seiner Wissenschaftslehre beschaftigte, um die Kantische Intention zu vollenden. Niemand wurde verleugnen, daB die kritische Philosophic Kants wesentlichen Aspekten im Konzept der Fichteschen Wissenschaftslehre einen wichtigen Impuls gegeben hat. Wenn das so ist, darn ist zu erwarten, daB Kant and Fichte, obwohl deren Systeme grundsatzlich getrennt betrachtet werden mussen, irgendwo einen Beruhrungspunkt haben, in welchem auch eine Differenz der beiden Systeme selbst zum Vorschein kommen muB, and welcher vermutlich in dem Verstandnis der transzendentalen Freiheit selbst zu suchen ist. Die Absicht dieses Aufsatzes ist aufzuldaren, daB die Differenz sich im Begreifen des Dinges an sich bzw. des Noumenon grundet, so daB Fichte nicht die Kantische Intention fortsetzen konnte: die Intention auf das System der transzendentalen Philosophic als die "praktisch-dogmatische" Metaphysik; zugleich die Gleichformigkeit in der Tatigkeit der reinen praktischen Vemunft als den Beruhrungspunkt zwischen den beiden Denkem herauszuheben; and folgendes als den Hintergrund der Differenz der beiden Systeme trotz dieser Gleichformigkeit klarzumachen: wahrend der Erkenntnisgrund bei Kant in zwei gegensatzlichen Richtungen, sowohl in der progressiven als auch in der regressiven funktioniert, weist bei Fichte der Erkenntnisgrund nur in eine, namlich progressive, Richtung.

Kants Ethik als Deontlogie -im Gegensatz zum Utilitarismus-

Nobuo KURATA

Der Utilitarismus begrundet den moralischen Wert der Handlung auf die empirischen Prinzipien wie Gliick u.s.w. Kant erkennt aber solche empirischen Prinzipien als Grund des Wertes der Handlung nicht an. In dieser Hinsicht ist Ethik Kants vom Utilitarismus grundlich verschieden. Auch die deontologische Ethik steht dem Utilitarismus gegenuber, and Kant wird als einer der typischen deontologischen Ethiker betrachtet.

Auf der anderen Seite hat die Ethik Kants auch zwei Eigenschaften mit dem Utilitarismus gemeinsam. Erstens vom Standpunkt des Handlungsutilitarismus aus, nach dem die Handlungen, die das groBtmogliche Gluck der groBtmoglichen Zahl hervorbringen, gut seien, and auch nach der Kantischen Theorie sind die Beforderungen des Gliickes der anderen gute Handlungen. Zweitens beurteilt auch Kant, sowie die meisten Regelutilitaristen, den moralischen Wert einiger Grundsatze (Maximen) durch ein Gedankenexperiment: Wie begibt es sich, wenn alle in gleichen Situationen diesen Grundsatz befolgen ?

Diese zwei Ahnlichkeiten sind aber nicht wesentlich, denn die Utilitaristen nehmen den konsequentialistischen Standpunkt ein, wahrend Kant den nicht-konsequentialistischen Standpunkt einnimmt. In Ansehung der ersten Ahnlichkeit nehmen die Handlungsutilitaristen den konsequentialistischen Standpunkt ein, wobei die moralischen Werte der Handlungen von den naturellen Werten der Handlungsfolgen abhangen. Kant behauptet dagegen, daB gerade die Maximen der Handlungen die Werte der Handlungen entscheiden, and these Werte nicht von

11

Page 23: Title 義務論としてのカント倫理学 : 功利主義との対 …...α8 三 〇 δ 町q 矯) 」 等 の 「 非 帰 結 主 義 」 の 立 場 が あ る。「 帰 結 主

den Handlungsfolgen abhangen. In Bezug auf die zweite Ahnlichkeit kommt es fur die Regelutilitaristen auf das allgemeine Gliick als Konsequenzen der allgemeinen Praxis nach

einem Grundsatz an. Fur Kant kommt es aber darauf an, ob die Maxime oder der Wille selbst

sich selber nicht widerspricht, and nicht darauf, ob das Gluck als Handlungsfolge hervorgebracht

wind. In diesem Artikel mochte ich durch die Betrachtungen aber diese Probleme die Einstellung

Kants als Deontologen aufklaren.

Schein and Reflexion - eine Interpretation eines Kapitels der Wissenschaft der Logik Hegels -

Masao YAMAWAKI

Der Hegelsche Gedanke fiber den Widerspruch wird auch noch heute vielfach diskutiert. Um diesen Gedanken rchtig aufzufassen, mug man die Widerspruchstheorie, die Hegel im

Abschnitt der Reflexionsbestimmungen in der Wesenslogik dargestellt hat, zuerst analysieren.

Da aber Hegel die Reflexionsbestimmungen als "bestimmter Schein" bezeichnet hat, mussen

die Bedeutungskonstituenten "bestimmt" and "Schein" vorerst erlautert werden.

Der Schein kann als wesenloses nichtiges Sein definiert werden. Nach Hegel kommt diese Nichtigkeit aus dem Wesen selbst, weil das Sein erst dadurch als nichtig bestimmt wird,

dab es sich auf das Wesen bezieht. Mit anderen Worten stellt auch die Wesenlosigkeit, die den

Schein charakterisiert, eine Beziehung auf das Wesen dar. In der Nichtigkeit des Scheins

erscheint also das Wesen selbst. Diese Nichtigkeit ist nun die einzige Bestimmung, die am Beginn der Wesenslogik gegeben ist. Das Sein wie auch das Wesen haben auf dieser Stufe

keine andere Inhaltsbestimmung daruber hinaus. Daraus ergibt sich, daB Sein and Wesen auf

der Stufe des Scheins noch nicht verselbstandigt sind, wenngleich sie allerdings unterschieden

werden konnen. Aus dieser Unselbstandigkeit erhellt sich der Stellenwert, den der Schein in

dem Darstellungsgang der Wesenslogik hat. Die andere Bedeutungskonstituente der Reflexionsbestimmung ist die der Wesenslogik

eigentumliche Bestimmtheit, deren Bedeutung durch die Relation von Sein and Wesen

determiniert wird. Die Wesensbestimmung steht immer in dem Korrelationsverhaltnis mit der

ihr korrespondierenden Seinsbestimmung and ihre Bedeutung wird durch dieses Verhaltnis

bestimmt, wie z.B. die Bedeutung der Wesensbestimmung'Grund' durch die Beziehung auf die Seinsbestimmung 'Begrundetes' als ihr Bedeutungskorrelat entschieden ist. Auch die

Reflexionsbestimmungen grunden auf der Relation von Sein and W esen. Aber unsere Uberlegung

fiber den Schein zeigt, daB das Sein and das Wesen am Beginn der Wesenslogik noch nicht verselbstandigt sind. Die Reflexionsbestimmungen rind Bestimmungen sowohl des Seins als

auch des Wesens, wie die Nichtigkeit des Scheins auch die Bestimmung des Wesens war. Dies

gilt auch fur den Widerspruch als eine der Reflexionsbestimmungen.

111