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Title 盆の芸能 : エイサー、シチグヮチ舞(モーイ)とアンガ マとの比較研究 Author(s) 大城, 學 Citation 琉球アジア文化論集 : 琉球大学法文学部紀要 = RYUKYUAN AND ASIAN STUDIES REVIEW : Bulletin of the Faculty of Law and Letters University of the Ryukyus(4): 13-40 Issue Date 2018-03-31 URL http://hdl.handle.net/20.500.12000/42226 Rights

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  • Title 盆の芸能 : エイサー、シチグヮチ舞(モーイ)とアンガマとの比較研究

    Author(s) 大城, 學

    Citation

    琉球アジア文化論集 : 琉球大学法文学部紀要 =RYUKYUAN AND ASIAN STUDIES REVIEW : Bulletin ofthe Faculty of Law and Letters University of the Ryukyus(4):13-40

    Issue Date 2018-03-31

    URL http://hdl.handle.net/20.500.12000/42226

    Rights

  •   

    盆の芸能

    ~エイサー、シチグヮチ舞(モーイ)とアンガマとの比較研究~

    Performing Art of Bon

    :Comparative Study of Eisa,

    Shichigwachim

    oi and Angama

    大城

    はじめに

    祖先の霊(祖霊)を供養する盂蘭盆(盆)は、沖縄では、旧暦七月十三日から十五日にかけて三日間行われる。

    四日目を送り日とする村落もある。盆のことを沖縄諸島では「シチグヮチ」(七月)といい、宮古諸島では「スト

    ゥガチィ」(七月)とか「カンヌショーガチィ」(神の正月)という。ここでいう神は祖霊のことである。八重山諸

    島では「ソーロン」あるいは「ソーラン」というが、いずれも精霊の意である。

    盆の一週間前の七月七日は「タナバタ」(七夕)といって、この日は墓に詣でて墓前に花、酒、お茶や菓子など

    を供え、線香をともして香炉に立てて合掌して、祖霊に七夕であること、十三日の迎え日には家にお招きする旨を

    述べた後、墓地の清掃をする。タナバタは洗骨の吉日といわれていて、洗骨を行うことがある。

    沖縄では旧暦七月は祖霊や後生に関わることを執り行う月であるので、この世の者の祝い事、例えば婚礼祝い、

    ‒13‒

  • 生年祝い、新築祝いなどはやってはいけないとされている。

    十三日の迎え日には、仏壇の両脇に束をしたサトウキビやパイナップル、バナナ、ミカン、スイカ、木の実など

    の果物や菓子類を供え、提灯を下げる。盆の三日間は三度の食事と間食を供え、祖霊をもてなす。また、期間中に

    中元の品を持って、仏壇のある親戚を訪問し、焼香する。このように盆には供え物と料理で祖霊をもてなす。

    そして、もう一つのもてなしが芸能である。盆踊りに代表される盆の芸能は、盆に訪れる祖霊を慰め、送るため

    の芸能である。盆の芸能は、沖縄諸島ではエイサーとシチグヮチ舞

    モーイ

    (七月舞)、宮古諸島は上野宮国の綱引き、八

    重山諸島ではアンガマと獅子舞である。

    本稿では、エイサーおよびシチグヮチ舞とアンガマについて、音曲と踊りの面から比較考察して、それぞれの特

    徴をみることにする。

    一、エイサーとシチグヮチ舞

    モーイ

    (一)盆行事と盆踊り

    『琉球国由来記』巻四「念仏」の項に「本国念仏者、万暦年間、尚寧王世代、袋中ト云僧(浄土宗、日本人。琉

    球神道記之作者ナリ)渡来シテ、仏経文句ヲ、俗ニヤハラゲテ、始テ那覇ノ人民ニ伝フ、是念仏ノ始也」とある。

    【註①】

    万暦年間は、一五七三~一六一九で、尚寧王の在位は一五八九~一六二〇である。袋中上人は五二歳のときに中

    国行きを志したが目的を達せず、一六〇三(尚寧十五)年に琉球へ来た。尚寧王の帰依を得て、那覇に桂林寺を建

    ‒14‒

  • てて住持となり、袋中は浄土宗の教義を分かりやすく那覇の人民に教えたといわれ、これからニンブチャー(念仏

    者)と称される集団が誕生したともいわれる。袋中上人は三年間の滞在の後、薩摩を経て京都に帰った。

    袋中の教えは、彼が作ったという和讃念仏によってわずかにニンブチャー集団によって伝播した。ニンブチャー

    は、中世的な遊行宗教芸人の典型で、彼らが伝えた念仏歌は盆踊歌として伝わっている。ニンブチャーは、首里の

    郊外のアンニャ村(安仁屋村。行脚村。現在の那覇市首里久場川町の一部)に住み、葬儀や法事があれば頼まれて

    鉦を打ち、念仏歌を歌い、ときには経文も読んだ。僧のいないところではその代わりもつとめた。ニンブチャーの

    活動は、琉球処分以後は次第に衰微したが、戦後間もない頃まで活動していたようである。

    ところで、浄土系の遊行僧たちが、叩き鉦を打ちながら、新仏の家や墓を巡っては踊り念仏を演じ、死霊を鎮め

    てあの世に送るならわしは、日本各地で知られ、全国の盆踊りの源流の一つとなっているという。【註②】さらに、

    遊行僧が踊り先導した盆の門付けの念仏踊りは、いつしかムラ人自身の手で行われるようになったのであ

    る。そ

    の後、エイサー・七月舞は、念仏や門付け歌以外に、沖縄の民謡やその時々の流行歌(野遊び歌を含

    む)、雑踊歌(舞台化した沖縄・八重山・宮古諸島の民謡を含む)などを次々と取り入れて踊りに加えること

    で、芸能としての形を整えてきた。叩き鉦は、太鼓に置き換えられたり、太鼓と混じり合ったりした。さら

    に、〔中略〕三線が多くの地域で用いられるようになった。

    門付けばかりでなく、また、踊りはムラの広場(アサギ庭(まー)や校庭)でも大々的に行われるようにな

    った。おそらく古くからエイサー・七月舞を伝える地域も、明治中期に入ってから現在の姿に近いものとな

    ‒15‒

  • ったであろう。【註③】

    といった変遷をたどって、現在、我々が見ているエイサーになったのである。

    エイサーは時代とともに少しずつ変わりながら、現在まで継承されてきている。変容していくなかでも、冒頭の

    念仏歌はたとえ歌詞を二、三節だけ歌ったにしても必ず歌い踊っている。盆踊りが盆に訪れる祖霊を慰める芸能で

    あることを、演者がしっかり守っていることの証である。

    (二)エイサーとシチグヮチ舞

    エイサーとシチグヮチ舞を隊形的に見ると、円陣の輪踊りと縦隊の行列踊りに分類される。

    (ア)円陣の輪踊り

    沖縄本島北部西海岸(大宜味村や国頭村)では、歌い手と踊り手は女性のみのエイサー・シチグヮチ舞で、手踊

    りを基本にした輪踊りである。十数曲歌い踊る。歌い手数名は、チヂンと称する直径二十数㎝の金鋲止め両面張り

    鼓を打ち鳴らしながら歌う。他の女性は踊りながら囃子を歌う。国頭村宇嘉では、この踊りをヰナグ(女)エイサ

    ーあるいはシチグヮチ舞といい、十数名で緩急テンポの曲を交互に歌う。

    本部半島では男女混成のエイサー・シチグヮチ舞も手踊りを基本にした輪踊りである。本部町伊野波では、この

    踊りをエイサーあるいはシチグヮチ舞と称する。地謡が歌三線一名、太鼓(大太鼓と締め太鼓)一名で、輪の中央

    に位置する。地謡二人は男性。男女混成の踊り手二十数名が輪になる。地謡の歌三線は早弾きの曲を連続して十数

    曲演唱し、太鼓はその曲に合わせてリズミカルに打つ。歌三線と踊り手が掛け合いながら歌う。

    ‒16‒

  • (イ)縦隊の行列踊り

    主に本島中部に分布していて、男女混成で構成される。歌三線の地謡数名は男性がつとめる。大太鼓と締太鼓を

    用いるが、それは主に男性が担当する。踊り手は男女混成であったり、女性だけであったりする。太鼓打ちに踊り

    手が続く。嘉手納町の千原エイサーのように出演者すべてが男性の場合もある。

    うるま市の与勝半島のエイサーは、片面張りの鼓、パーラン鼓クーを担当する男性二十数名に、踊り手二十数名が続

    く。パーラン鼓打ちは男性で、踊り手は男女混成である。滑稽な演技をするチョンダラーと称する男性が十数名加

    わる。

    (ウ)エイサーとシチグヮチ舞の曲順

    エイサーとシチグヮチ舞の曲順については、以下のような分類がある。曲の構成も分かる分類なので引用する。

    【註④】

    ①出羽(出端)

      

    念仏歌になるまでの入場や道行の曲(前狂言を含む)。多くの地域では〈唐船どーい〉の旋律が用いられる。

    ②念仏基

    本の旋律は各地とも同じ。踊り手衆の歌う掛け声や長い後バヤシが付く点などが、家行事の法事歌とは異

    なる。短い〈七月念仏〉句(この部分は、門付け歌でもある)や、長い〈継親念仏〉がもっともポピュラー

    だが、ほかに〈長者流〉〈親ぬ御恩〉〈御譜代念仏〉〈山伏念仏〉〈畑(はる)に咲く花〉〈海ぬふかから(ある

    いは、あまから)〉などがムラによって選ばれている。本島北部・南部では、いくつかの念仏をつらねるとこ

    ‒17‒

  • ろもある。「七月念仏歌」の歌詞の一部を紹介する。

    継親念仏

    〔歌詞〕

    〔歌意〕

    わんどぅみーちにうやうらん

    私は三歳で親に死別して

    いちちよなたくとぅむぬうみてぃ

    五歳には物心がつき

    ななちよなたくとぅうやうむてぃ

    七歳になったので親を慕って

    くにぬさまざまみぐりわん

    村落のあるだけ巡ったけれども

    わうやにるひとぅちゅいんもらん

    私の親に似た人は一人もいない

    〔以下、省略〕

    ③門付け

      

    〈サウエン(二合二合)〉に代表される。今日では、ところにより欠く場合もある。

    さうえん節

    〔歌詞〕

    〔歌意〕

    一、くまぬはんしめーや

    ここのお婆さんは

    うちむゆたさぬ

    心掛けが良い

    ‒18‒

  • いちごーぐゎうたびみせーら

    一合ほど下さるならば

    かみてぃみぐやびら

    感謝して巡りましょう

    サフエンサフエンサーサフエン

    [

    囃子]

    ピーラルラーラーラルラーラー

    [

    囃子]

    にんごどやにんごー

    二合だぞ、二合

    いっすにんごーさきにんごー

    一升二合だ、酒二合だぞ

    〔以下、省略〕

    ④唱えごと

    後ハヤシ以外に歌詞を持たないもの。曲と曲とのつなぎや、踊りの停止を予告する符丁に使われる。ところ

    により欠く場合もある。

    ⑤その他の曲(一般)

    最も分量が多い。現行では比較的狭い地域に分布するものや、〈スーリ東〉〈とぅーたんかに〉〈久高〉のよ

    うにきわめてポピュラーなものを含む。

    久高(久高万寿主節)

    ‒19‒

  • 〔歌詞〕

    〔歌意〕

    一、くだかまんじゅーすーや

    久高万寿主は

    ちゅらゆーべー

    美しい妾を

    とぅめてぃてんどー

    求めたってさ

    ヨータマクガニ

    [

    囃子]

    くゆいぬはなしぬうーむっさ

    今宵の話は面白いだろうな

    スリサーサーエイスリサーサー

    [

    囃子]

    〔以下、省略〕

    (エ)エイサーとシチグヮチ舞の地謡と踊り

    ここでは、男女混成の手踊りエイサー、男性の締太鼓エイサー、男性のパーラン鼓エイサー、女性のみの手踊り

    (シチグヮチ舞)について述べる。【註⑤】

    ①男女混成の手踊りエイサー

    現在では主に本部町、今帰仁村、名護市など本部半島周辺に分布する。男性の三線演唱に合わせて、男女の踊

    り手衆が共通所作で手踊りをする。

    前述したように、本部町伊野波では、地謡が歌三線一名、太鼓(大太鼓と締め太鼓)一名で、踊り手が二十数

    名である。なお、屋取(ヤードゥイ。首里、那覇に定職がなく地方に移住した士族の集落)の中には、戦後し

    ばらくまで女性は参加しない所があった。ここで伊野波のエイサー歌を紹介する。歌三線と踊り手が交互に歌

    ‒20‒

  • う歌唱法である。演唱される曲目の中から歌唱法の事例として「かまやしなー節」を取りあげる。

    かまやしなー節

    〔歌詞〕

    〔歌意〕

    [歌三線]

    サンカマヤシナーカマヤシナー

    [

    囃子]

    [踊り手]

    サンカマヤシナーカマヤシナー

    [

    囃子]

    [歌三線]

    サンカマヤシナーシランシヤー

    [

    囃子]

    シランシヤー[

    囃子]

    ゆてぃくーかんくーわんならさー 寄って来い、私が教えよう

    [踊り手]

    サーサー

    [

    囃子]

    ゆてぃくーかんくーわんならさー

    寄って来い、私が教えよう

    カマヤシナー

    [

    囃子]

    サンカマヤシナーカマヤシナー

    [

    囃子]

    [歌三線]

    ‒21‒

  • くんじゃんぬさちから

    国頭の崎から

    ふにんじゃちーふにんじゃちー

    舟を出して、舟を出して

    うんてぃんみなとぅに

    運天港に

    はいくまち

    走り込ませて

    [踊り手]

    サーサー

    [

    囃子]

    うんてぃんみなとぅに

    運天港に

    はいくまち

    走り込ませて

    カマヤシナー

    [

    囃子]

    サンカマヤシナーカマヤシナー

    [囃子]

    〔以下、省略〕

    ②男性の締太鼓エイサー

    沖縄本島中部各市町村でもっとも盛んに行われる。男性数人の三線演唱に合わせて男性の踊り手衆が締太鼓を

    打ちながら踊る。女子、あるいは男女ペアの手踊り衆が後に続くことが多い(殊に戦後増えた)。

    屋取集落には、嘉手納町(元、北谷村)千原など、今日でも女性が参加しないところがある。

    ③男性のパーラン鼓エイサー

    沖縄本島中部のうち、主に与勝半島で演じられる。特に戦後、与勝以外にも地域をやや拡大してきた。男性

    ‒22‒

  • 数人の三線演唱に合わせて、男性の踊り手衆がパーラン鼓を打ちながら踊る。男女ペアの手踊り衆が後に続

    くことが多いが、概して所作も太鼓衆とは全く別に振付けられており、控え目で、明らかに副次的な位置に

    あることが多い。

    ④ちょんだらー、ちょうーぎなーと称される道化役が付くことがある。

    ⑤女性のみの手踊り(シチグヮチ舞)

    沖縄本島北部西海岸(国頭村、大宜味村)にのみ分布する。女性の金鋲止め両面張り鼓(本来は締め太鼓)の

    叩き歌に合わせて、女性の踊り手衆が右手指に手巾を挟みながら手踊りを行う。男性はもっぱら観客である。

    なお、現在、シチグヮチ舞を踊っている村落はきわめて少ない。

    (オ)エイサーの音曲

    本部町伊野波=「二合小」「念仏」「久高」「いちゅび小」「てんよー」「糸満人」「稲摺り節」「目出度節」「海や

    からー」「遊びぬ清らさや」「かまやしなー節」「国頭船から」「だんく」「果報ぬ島どー」「十七八節」。

    沖縄市諸見里=「七月節」「久高万寿主」「すーり東」「てんよー」「とぅーたんかーに」「いちゅび小」「海やか

    らー」「かたみ節」「安里屋ゆんた」「唐船どーい」

    北谷町謝苅=「北谷村」「仲順流れ」「久高節」「花ぬ風車」「てんよー節」「いちゅび小」「今帰仁ぬ」「だいさ

    なじゃー」「唐船どーい」

    読谷村字楚辺=「久高まんじゅ主」「念仏」「すーりー東」「浜千鳥」「七月ぬー」「とぅーたんがーにー」「越来

    節」「南嶽節」「いちゅび小節」「徳利小」「今帰仁城」「作たる米」「唐船どーい」

    ‒23‒

  • 嘉手納町千原(旧北谷間切)=「久高節」「仲順流れ」「越来よー」「いちゅび小節」「伊集のがまく小節」「収

    納奉行」「唐船どーい」

    ⑥ うるま市平敷屋=「秋の踊り」「七月節」「二合小」「しゅーら節」「南嶽節」「花咲かさ節」「肝がなさ節」

    (カ)シチグヮチ舞の音曲

    国頭村与那=「七月念仏」「黒髻」「高離島」「与那節」「赤田門」「すーり東」「伊集ぬがまく小」「はりこーや

    まこー」「花ぬ風車」「海やからー」「八重山節」「今帰仁ぬ城」「とぅーたんがに」「安波ぬはんたなべ」「伊舎

    堂前」「泊高橋」「小禄豊見城」「てんよー」「久高万寿主」「唐船どーい」(「加那よー節」も歌っていた。)

    二、アンガマ

    (一)四箇字のアンガマ

    盆に後生からやって来る祖霊および祖霊が演じる芸能がアンガマである。このアンガマには二つの系統がある。

    「一つは各離島及び農村各部落、即ち平民部落に行われているものと、又八重山の首邑たる石垣町の治者階級であ

    った士族だけに限られたものである」という。【註⑥】後者は石垣市の四し箇か字あざ(登野城、大川、石垣、新川)で演

    じられるアンガマを指しており、前者は四箇字以外の村落を指していることになる。

    ‒24‒

  • (ア)アンガマの衣裳や仮面

    四箇字は、木彫の仮面を被り、紺地や灰色の上布や芭蕉布の着物を着用したウシュマイ(翁)とンミー(媼)

    が、浴衣姿で手ぬぐいで頬被りをしてクバ(ビロウ)笠を被り、サングラスをかけて仮装した多数の男女の踊り手

    (眷属)を引き連れて、アンガマの来訪を乞われた家々を訪れる。「アンガマの中で重要な役割を果たすのは翁と媼

    である。翁と媼の存在こそが『士族アンガマ』の一大特徴といってよいだろう」ということである。【註⑦】

    なお、登野城の場合、ウシュマイ、ンミー、眷属たちは、かつて竹の葉柄でにわかに作った面を被っていたとも

    いわれる。一説に、芭蕉の葉で作ったともいう。また、眷属はかつては、芭蕉布の着物をミンサー帯で締め、手ぬ

    ぐいで頬被りをしてクバ笠を被り、竹の葉柄に眼・鼻・口を刳り貫いた仮面を被っていたこともあるようだ。【註

    ⑧】一

    九二三年に第二回目の沖縄採訪調査をした折口信夫は、同年八月に登野城でアンガマの調査をしている。その

    ときの覚書には衣裳や仮面について、次のように記されている。当然のことながら、覚書に記されている衣裳や仮

    面の状況は、一九二三年当時のものである。【註⑨】

     

    昔のものは、芭蕉の葉を裂いてびらびらにして顔にあてゝ来たのが、仮面になり、それがつひ近年禁ぜら

    れて顔を出すことになつたが、手拭や木綿で顔を包んで目ばかり出したのや目口鼻を書いたのなどがゐる。

    ウシュマイとンミーが仮面をしていたことや、アンガマの一団が仮装をすることについては、折口が調査をした

    大正年間も現在も同じである。ただ仮装の仕方が現在はサングラスをかけたり、浴衣姿であるといったところが変

    ‒25‒

  • わっているだけである。盆踊りを含めて舞踊や狂言、組踊等々の民俗芸能は、時代の移り変わりによって、その時

    どきの人々の嗜好や感性で衣裳の色やデザイン等が変化していくことがある。これは芸能が生きている証であり、

    宿命でもある。

    なお、四箇字では、仮面のウシュマイとンミーは遠い祖先、仮装した眷属は近い先祖であるともいわれている。

    (イ)アンガマの芸能

    家を訪れると主人の招きにより、ウシュマイとンミーを先頭にして、地謡、踊り手の順に座敷にあがる。一番

    座、二番座の縁側におよそ三十名ほどのアンガマ一団が円陣をつくるようにしてすわる。ウシュマイとンミーは円

    陣の中にいる。主人が仏壇の香炉に線香を立てると、ウシュマイとンミーが仏壇の前で、その家の繁栄などの祝言

    を述べる。

    二〇〇七年に調査した登野城のYさん宅の事例をみてみよう。午後七時。アンガマ一団が「道行歌」の演奏でY

    さん宅を訪れる。当主夫妻と当主の弟、当主の息子(小学校四年生)が玄関でアンガマ一団を迎える。ウシュマイ

    が方言で「お招きがありましたので、今、到着しました。」と唱える。それに対して当主は「ありがとうございま

    す。どうぞお上がりください。」と方言でいって座敷へ案内する。そして地謡(歌三線四名・笛一名・太鼓一名)、

    踊り手(二十一名)の眷属が座敷に上がる。眷属は床の間、仏壇の前を通って左廻りで座敷を一周する。地謡は一

    番座の縁側に座る。

    ウシュマイとンミーは仏壇の前へ進む。ウシュマイが当主に、香炉に線香を立てるように指示し、当主は線香を

    立てる。仏壇に向かって左側にウシュマイ、右側にンミーが並んで座り、二人は合掌する。ウシュマイがこれから

    ‒26‒

  • ショッコー(焼香)を行うという。ここでいうショッコーとはウシュマイの口上のことである。ショッコーは方言

    で唱えられるが、本稿では共通語でまとめることにする。①仏壇のお供えの飾りがとても素晴らしい。②今度、家

    を新築したことを先祖に告げ、新築したこと当主はとても親孝行であるので、子孫に健康と繁栄をもたらしてくだ

    さい、という内容であった。Yさんは、登野城では新築した年はアンガマ一団を招待して、祝福してもらってい

    る、と話していた。

    述べ終わると、地謡(歌三線・笛・太鼓)が念仏歌「無ン蔵ゾー念ニン仏

    ブチィ

    節ブシィ」

    を演唱し、ウシュマイとンミーは念仏歌に

    合わせて踊る。Yさん宅では第二節まで演唱し、踊っていた。踊り終えるとウシュマイとンミーは一番座で、二番

    座に向かって座る。二番座に向かって右側にウシュマイ、左側にンミーが座る。アンガマ一団は全員座布団に座っ

    ている。

    ウシュマイの衣裳は、灰色の芭蕉布の着物、黒帯、手拭いを頭から被り、仮面をつける。腰に手拭いを下げてい

    る。右手にクバ(ビロウ)製団扇(生クバ葉製)を持つ(生クバの団扇は葬式に使用される。)裸足。ンミーの衣

    裳は、白カカン(下裳、裙)に灰色のドゥジン(胴衣)、手拭いを頭から被り、仮面をつける。生クバ葉製の団扇

    を持つ。裸足。眷属の衣裳は、浴衣に襷掛け、手拭いを頬被り、サングラス。紅の作り花を五つ付けたクバ笠を被

    る。白足袋を履く。

    無蔵念仏節

    〔歌詞〕

    〔歌意〕

    一、うやぬヨーうぐぬはふかきむぬ

    親の御恩は深いもの

    ‒27‒

  • ちちぐぬうぐぬはやまたかさ

    父御の御恩は山ほどの高さだ

    ふぁふぁぬうぐぬはうみふかさ

    母御の御恩は海ほどの深さだ

    二、やまぬたかさやさわかりん

    山の高さは測れない

    うみぬふかさんさわかりるん

    海の深さも測れない

    ひるやちちぐぬあしがうい

    昼は父御の膝の上

    〔以下、省略〕

    ウシュマイとンミーが「無蔵念仏節」を踊った後、所定の席に座るとほぼ同時に舞踊が始まる。その後、ウシュ

    マイとンミーは、庭に集まった見物人との間で、あの世について語り合う後生問答が方言で交わされるが、本稿で

    は問答を共通語になおして紹介する。眷属の舞踊と後生問答が交互に行われる。盆は後生の行事であることから、

    ウシュマイとンミー、見物人との問答はすべて裏声で語られる。ウシュマイとンミーに質問する見物人は、手拭い

    で頬被りをして庭先から問いかける。

    ウシュマイとンミーが座ると一番目の舞踊「赤馬節」が踊られる。踊っている間に、Yさんの奥様がウシュマイ

    とンミーに飲み物(泡盛)を出す。両者とも仮面を被っているので飲み物用のコップにはストローが付いている。

    地謡と踊り手にはお茶と黒糖を出した。踊りは複数人数で踊られる。踊り手以外は囃子や掛け声をかけて座を盛り

    あげる。

    Yさん宅における問答と舞踊の番組は以下のとおりであった。問答の際には、見物人からウシュマイへの質問な

    のか、それともンミーへの質問かによってどちらかが立ち上がって解答する。解答を終えるとウシュマイもンミー

    ‒28‒

  • も所定の位置に戻って座る。ショッコーも含めて、舞踊と問答のYさん宅における番組を整理してみる。なお、踊

    り手は男女混成である。

    ①ウシュマイとンミーのショッコー(口上)

    ②舞踊「無蔵念仏節」ウシュマイとンミーの二名で、右手にクバ団扇を持って踊る。

    ③舞踊「赤馬節」二名で、両手に扇子を持って踊る。

    ウシュマイ、ンミーと見物人の問答(以下、問答とする)。事例を紹介しよう。〈見物人〉仏壇に提灯が二つあ

    るが、一つは回転していない。どうしてなのか。〈ウシュマイ〉(提灯の中をのぞいて、照明器具が傾いている

    ことに気付いて)この提灯は寝ている。だから回らないのだ。電気料金を滞納しているのかと思ったよ。

    ⑤舞踊「桃里節」二名で、手踊り。

    問答。〈見物人〉香炉の脚はなぜ三本なのか。〈ンミー〉香炉の脚は元は四本であった。犬は三本足だった。犬

    を不憫に思った神様が、香炉の脚を一本犬にあげた。だから、犬はおしっこをする際に片足をあげて、足にお

    しっこがかからないように大事にしている。

    ⑦舞踊「赤またー節」二名で、両手に扇子を持って踊る。

    問答。〈見物人〉Yさん宅の仏壇は三段だが、我が家の仏壇は二段である。どちらが正しいのか。〈ウシュマ

    イ〉一段目はこの家のご先祖様が座り、二段目はウシュマイとンミーが座る。三段目は閻魔王が座る。よっ

    て、三段が正しい。お前さんの家の二段仏壇を改築して、早く三段仏壇にしなさい。そうしないと天国には行

    けないよ。

    ‒29‒

  • ⑨舞踊「山入らば節」二名で、一名は鍬、もう一名は箆の小道具を持って踊る。

    問答。〈Yさんの息子〉アンガマはどこからやって来たのか。〈ウシュマイ〉あの世からやって来た。三線を弾

    いたり踊ったりしている者は、ウシュマイとンミーの子供たちである。この世で悪いことをしたら地獄へ行

    く。良いことをしたら天国へ行ける。だから君も良いことをするんだよ。そうすると必ず天国に行けるよ。

    ⑪舞踊「かたみ節」二名で、両手に扇子を持って踊る。

    問答。〈見物人〉歌ったり踊ったりしている眷属たちの笠に、五つの紅い花が付いているが、その意味は何

    か。〈ウシュマイ〉後生からこの世に来るときに、暗くなってもはぐれないための目印として紅い花を付けて

    ある。後生に帰るときも皆の目印となっている。

    ⑬舞踊「浜千鳥」四名で、手踊り。

    問答。〈見物人〉ウシュマイとンミーの踊りを見てみたい。「六調節」を踊ってもらえないか。〈ウシュマイ〉

    了解した。

    舞踊「六調節」。ウシュマイとンミー二人で踊る。一節目から三節目までウシュマイが踊りながら囃子を歌

    う。四節目にウシュマイが当主のYさんを誘い出し、一緒に踊る。家族や親戚も一緒に踊って五節目で終了す

    る。

    六調節が終わると、地謡は「道行歌」の演奏を始める。アンガマ一団あ立ち上がって踊り手から先に外へ出る。

    それに太鼓、笛、三線が続き、ウシュマイとンミーは最後に家を出る。訪問したときと逆の順序で家を出るのであ

    る。アンガマ一団は次の家を訪問する。アンガマ一団がいとました後に、登野城青年会の役員が一人残り、当主の

    ‒30‒

  • Yさんから祝儀とソフトドリンクを入れた袋をいただく。Yさんが青年会役員に御礼を申しあげる。午後八時。そ

    の後、Yさんの家族や親戚が集って宴となる。

    石垣市字石垣の事例をみてみよう。二〇〇八年にKさん宅における調査である。午後八時五分にKさん宅を訪

    れ、五十分後の八時五五分においとましている。本稿では口上を含めて問答と舞踊の番組を紹介する。アンガマ一

    団はウシュマイとンミーのほかに、歌三線五名、太鼓一名、踊り手三十名であった。踊り手は男女混成である。

    ①ウシュマイとンミーの口上。

    ②舞踊「無蔵念仏節」ウシュマイとンミーの二名で、右手にクバ団扇を持って踊る。

    ③舞踊「赤馬節」三名で、両手に扇子を持って踊る。

    ④舞踊「赤またー節」二名で、右手に陣笠を持って踊る。

    ⑤問答、ウシュマイが解答する。

    ⑥舞踊「とぅまた松節」三名で、紫長巾を持って踊る。紫長巾は春駒の意。

    ⑦舞踊「あやかり節」二名で、両手に扇子を持って踊る。

    ⑧舞踊「川良山節」三名で、鍬の小道具を持って踊る。

    ⑨問答、ウシュマイとンミーに質問があり、それぞれが解答した。

    ⑩舞踊「殿様節(早弾き)」三名で、手踊り。

    ⑪舞踊「安里屋節(早弾き)」五名で、両手に四ツ竹を持って踊る。

    ⑫問答、ウシュマイが解答する。

    ‒31‒

  • ⑬舞踊「石垣口説」二名で、両手に扇子を持って踊る。

    ⑭舞踊「山崎ぬあぶじゃーま節」ウシュマイとンミー二名で踊る。

    一九二三年八月に八重山の石垣島の登野城でアンガマについて調査をした折口信夫は、ウシュマイとンミーの問

    答について次のように記述している。【註⑩】

     

    かうした神々(筆者注・アカマタやマユンガナシィ)の来ぬ村では、家の神なる祖先の霊が、盂蘭盆のまつ白

    な月光の下を、眷属大勢ひき連れて来て、家々にあがりこむ。此は考

    ヲトコカタ

    位の祖先の代表と謂ふ祖

    オシユメイ

    父と、妣

    ヲンナカタ

    位の代表

    と傳へる祖アツ

    パア母

    と言ふのが、其主になつて居る。大オ人シユ前メイは、家人に色々な教訓を与へ、従来の過ち・手落ちなどを

    咎めたりする。皆顔を包んで仮装してゐるのだから、評判のわるい家などでは、随分恥をかかせる様なことも言

    ふ。其家では、此に心尽しの馳走をする。眷属どもは楽器を奏し、芸尽しなどをする。此行事は「あんがまあ」

    と言ふ。(以下、省略)

    ウシュマイとンミーの口上や問答の解答には、訪れた家や家人をを褒めたり祝福する一方で、折口が「家人に

    色々な教訓を与え」ると記しているように、家人を激励したり諭したりすることがある。上記の事例でみると、登

    野城のYさん宅では、⑩問答でYさんの息子のアンガマはどこからやって来たのか、という質問に対して、ウシュ

    マイがあの世からやって来た。三線を弾いたり踊ったりしている者は、ウシュマイとンミーの子供たちである。こ

    の世で悪いことをしたら地獄へ行く。良いことをしたら天国へ行ける。だから君も良いことをするんだよ。そうす

    ‒32‒

  • ると必ず天国に行けるよ、と諭し、激励している。

    Kさん宅では、⑫問答で見物人が「念仏歌の意味は何か」と問う。それに対してウシュマイは「親が生きている

    孝行しなさい。親孝行しない者は後生には来られないよ。」と諭しているのである。

    各家での演技は約一時間ほどで、アンガマの芸能は盆の三晩とも夕方から深夜まで続く。

    (二)四箇字以外のアンガマ

    四箇字以外のアンガマの事例として、西表祖納のアンガマをみてみよう。二〇一〇年Nさん宅での見学である。

    祖納を含む西表島西部地区では、旧暦九月か十月に行われる節祭に婦人たちが踊る「節アンガマ(節アンガー)」

    があるので、盆行事で踊るアンガマを「盆アンガマ」と称して区別している。

    盆アンガマは座敷で踊られる。踊り手は男女混声で、手拭いで頬被りをして笠を被り、左手を腰に当て、右手に

    クバ団扇を持って踊る。四箇字のように仮面を被ることはない。また、口上を述べることもない。地謡は歌三線、

    太鼓、鉦、三板それぞれ一名、踊り手は九名であった。「無蔵念仏節」の演唱が始まると、踊り手は演唱に合わせ

    て裏声で「フイ、フイ」と囃す。三板奏者は片膝をついて座り、上体を左右に動かしながら打つ。さらに踊り手

    は、各節を歌い終えるたびに「サーヒヤルガユイサー」と囃子を入れる。

    無蔵念仏節は十三節まで歌詞がある。十一節まで演唱し終えると、ひとまず無蔵念仏節の演唱は終わる。次に庭

    で待機していた踊り手たちが座敷に上がって踊る。踊り終えると次の曲目の踊り手と交替し、座敷に上がって踊

    る。曲目は「かぎやで風節」「祖納岳節」「西表口説」「まるま盆山節」「浜千鳥」「六調節」等であった。各舞踊と

    ‒33‒

  • も二~四名で踊り、最後の六調節だけは、踊り手全員と家人も加わって踊っていた。

    舞踊が終わると、地謡は無蔵念仏節の十二節と十三節を続けて演唱する。十三節を演唱し終えると、その家での

    盆アンガマは終了し、次の家を訪れる。

    三、エイサー、シチグヮチ舞とアンガマの比較考察

    以上、エイサー、シチグヮチ舞とアンガマの上演場所、衣裳、楽器、踊り等について述べた。それを整理すると

    次のようになる。

    (一)エイサー、シチグヮチ舞

    ①上演場所は、エイサーおよびシチグヮチ舞は庭や広場など野外である。

    踊り手について、エイサーおよびシチグヮチ舞は、締め太鼓やパーラン鼓を打ちながら踊る男衆と、男性だけ

    あるいは男女ペアの手踊り衆、そして金鋲止め両面張り鼓を打ち鳴らしながら踊る女性だけの踊り衆に分類さ

    れる。エイサーの踊り手は手踊りのほか、四つ竹や扇子、手巾などを持って踊る。シチグヮチ舞の踊り手も手

    踊りのほか、四つ竹や扇子、手巾などを持って踊る。

    エイサーおよびシチグヮチ舞の踊り手は、演技が始まって終了するまで、演唱曲が替わっても踊り手が入れ替

    わることはことはない。

    ④チョンダラー、チョーギナーと称される道化役が登場することがある。

    ‒34‒

  • エイサーの音曲の構成は、冒頭に念仏歌を演唱し、以後、民謡を数曲、そして演舞最後は「唐船どーい」のよ

    うに早弾きで、カチャーシー(乱舞)向けの音曲が用いられる傾向がある。

    ⑥ シチグヮチ舞の音曲の構成は、冒頭に「念仏歌」を歌う。その後はテンポの遅い曲と速い曲とが交互に歌わ

    れ、最後はテンポの速い曲(カチャーシー歌)で「唐船どーい」や「加那よー節」などが歌われる。

    エイサーおよびシチグヮチ舞の歌舞の構成は、テンポの遅い音曲で始まり、テンポの速い音曲で終了すること

    が分かった。

    ⑧地謡が演舞中に入れ替わることはない。

    (二)アンガマ

    ①アンガマの上演場所は座敷(家内)である。

    アンガマには、いわゆる「士族アンガマ」と「平民アンガマ」があり、木彫の仮面を被るウシュマイとンミー

    が登場するのは士族アンガマである。

    ウシュマイとンミーの口上には、訪れた家や家人をを褒めたり祝福する一方で、家人を激励したり諭したりす

    ることがある。

    ④アンガマ一団は、手拭いで頬被りをしたり、笠を被ったり、サングラスをかけたりして変装する。

    アンガマは、男女ペアの踊り手であるが、踊る際には女性のペア、男女のペアに分類される。踊り手は手踊り

    のほかに扇子や鍬・箆・鎌などの農具類、漁具の網などの小道具を持って踊る。

    ⑥アンガマは、一曲ごとに踊り手が入れ替わる。

    ‒35‒

  • ⑦地謡は、演舞中に入れ替わることはない。

    音曲の構成は、冒頭に念仏歌(無蔵念仏節ほか)を演唱し、その後はテンポの遅い曲と速い曲をおりまぜて演

    唱する。以後はテンポの速い曲(モーヤー歌)「六調節」などが演唱される。

    ⑨アンガマの歌舞の構成は、テンポの遅い音曲で始まり、テンポの速い音曲で終了することが分かった。

    以上のことから、エイサー、シチグヮチ舞、アンガマの歌舞の相違点は、①公開(上演)場所がエイサーとシチ

    グヮチ舞は野外(庭や広場、道路)であり、アンガマは座敷であることがわかった。②踊り方として、エイサーと

    シチグヮチ舞は、演技が始まって終了するまで踊り手が入れ替わることはないが、アンガマは一曲ごとに踊り手が

    入れ替わることが分かった。三者の共通点は、歌曲の構成が「念仏歌」で始まり、テンポの遅い曲とテンポの速い

    曲をおりまぜて演唱され、最後はテンポの速い曲「唐船どーい」や「六調節」で賑やかに踊る、ということであ

    る。こ

    れらの相違点および共通点を含めて、エイサー、シチグヮチ舞、アンガマの歌舞を取りあげて、項目ごとに整

    理して一覧表にすると次のようになる。

    ‒36‒

  • 【一覧表】

    エイサー

    シチグヮチ舞

    アンガマ

    上演時期

    旧暦七月十三日~十五日、

    夕刻から深夜にかけて行

    う。

    旧暦七月十三日~十五日、

    昼間から午後九時頃にかけ

    て行う。※現在、ほとんど

    の地域で上演されていな

    い。

    旧暦七月十三日~十五

    日、夕刻から深夜にかけ

    て行う。

    公開(上演)

    場所

    野外。庭や広場、広い道路

    など。

    野外。庭や広場など。

    座敷。一番座と二番座の

    仕切りを取って、広々と

    使用する。

    踊りの形態

    円陣の輪踊りと縦列の行列

    踊り。

    円陣の輪踊り。

    座敷踊り。

    地謡

    歌三線(数名)。

    鼓打ちが歌唱者となる。三

    線は使用しない。

    歌三線(一~数名)、笛

    (一名)、太鼓(一名)。

    ‒37‒

  • 演者

    ・男性数名の大太鼓と十数

    名の締太鼓、もしくはパー

    ラン鼓打ち。

    ・二十数名の男女ペアの踊

    り手、もしくは男性のみの

    踊り手。

    ・チョンダラー、チョーギ

    ナーと称される道化役が登

    場することがある。。

    女性のみの踊り手である。

    ・四箇字(いわゆる士族)

    アンガマは、木彫の仮面

    を被ったウシュマイとン

    ミー、踊り手二十数名。

    ・いわゆる平民アンガマ

    は、ウシュマイとンミー

    は登場せず、踊り手が十

    数名。

    踊り方

    ・歌三線の演唱に合わせ

    て、太鼓の演技も男女ペア

    および男性の手踊りも踊ら

    れる。

    ・曲目によって手踊り、扇

    子、四つ竹、手巾などを持

    って踊ることがある。

    ・演技が始まって終了する

    まで、踊り手が入れ替わる

    ことはない。

    ・鼓打ちの演唱に合わせて

    踊る。

    ・曲目によって手踊り、扇

    子、四つ竹、手巾などを持

    って踊ることがある。

    ・演技が始まって終了する

    まで、踊り手が入れ替わる

    ことはない。

    ・四箇字のアンガマでは、

    ウシュマイとンミーは口

    上以外に踊りも踊る。

    ・男女ペアの踊りでは、一

    曲ごとに踊り手が入れ替

    わる。

    ・踊り手は手踊りのほかに

    扇子や鍬・箆・鎌などの

    農具類、漁具の網などの

    小道具を持って踊る。

    ‒38‒

  • 曲目の構成

    冒頭で「念仏歌」を演唱

    し、以後、民謡を数曲演

    唱。そして演舞最後は「唐

    船どーい」のように早弾き

    で、カチャーシー(乱舞)

    向けの音曲が用いられ、踊

    られる。

    冒頭で「念仏歌」を歌う。

    その後はテンポの遅い曲と

    テンポの速い曲が交互に歌

    われ、最後はテンポの速い

    曲で「唐船どーい」などが

    歌われ、踊られる。

    冒頭に「念仏歌」演唱す

    る。その後はテンポの遅

    い曲とテンポの速い曲を

    おりまぜて演唱され、最

    後はテンポの速い曲(モ

    ーヤー歌)「六調節」など

    が演唱され、踊られる。

    【註①】横山重編纂『琉球国由来記』巻四、『琉球史料叢書』第一巻所収、一四〇頁、一九七二年、東京美術発行。

    【註②】

    日本放送協会編「エイサー・七月舞」『日本民謡大観(沖縄奄美)沖縄諸島篇』所収、三四三頁、一九九一年、日本放

    送出版協会発行。

    【註③】【註②】に同じ。三四三~三四四頁。

    【註④】【註②】に同じ。三四五~三四六頁。なお、歌謡は筆者が挿入した。

    【註⑤】

    小林幸男「エイサーの分類」『エイサー三六〇度-歴史と現在-』所収、三七~四〇頁、一九九八年、沖縄全島エイサ

    ーまつり実行委員会発行。なお、同書で「男の三線の弾き歌い」の表記を「男性の三線演唱」というように、一部表現

    を変えた箇所がある。なお、歌謡は筆者が挿入した。

    【註⑥】喜舎場永珣著『八重山民俗誌上巻・民俗篇』三八八頁、一九七七年、沖縄タイムス社発行。

    ‒39‒

  • 【註⑦】波照間永吉著『南島祭祀歌謡の研究』七六四頁、一九九九年、砂小屋書房発行。

    【註⑧】拙稿「特集1仮面」『沖縄の祭祀と民俗芸能の研究』所収、一一〇四頁、二〇〇三年、砂小屋書房発行。

    【註⑨】折口博士記念古代研究所編纂「沖縄採訪記」《あんがま》の項『折口信夫全集』第十六巻所収、一四〇頁、一九八四年

    新訂五版発行。

    【註⑩】折口博士記念古代研究所編纂「古代生活の研究」五祖先の来る夜『折口信夫全集』第二巻所収、二七~二八頁、

    一九八四年新訂四版発行。

    ‒40‒