paris haussmann 都市計画
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パリの都市計画
1. 産業革命前後のパリ
2. パリ改造計画(オースマン)
3. 都市の再生(デファンス等)
航空写真
河北大次郎氏より借用
www.jalcityguide.com/world/paris/map.htmlに加工
エッフェル塔
ルーブル美術館
コンコルド広場
凱旋門 オペラ座
シテ島アンヴァリッド
パンテオン
ブローニュの森
バスティーユ
パリ全図
デファンス
【中世以前のパリ】(シテ島を囲む城壁とその周辺)面積:約0.5km2
人口:約5000人
【13世紀頃のパリ】(フィリップ・オーギュストの城壁)面積:約2.7km2
人口:約20万人
【15世紀頃のパリ】(シャルル5世の城壁)面積:約4.4km2
人口:約10万人
【17世紀頃のパリ】(ルイ13世時代の城壁)面積:約5.7km2
人口:約40万人
【18世紀末のパリ】(フェルミエー・ジェネローの城壁)面積:約34km2
人口:約55万人
【19世紀末のパリ】(ティエールの城壁)面積:約78km2
人口:約170万人
【20世紀初のパリ】(ティエールの城壁撤去)面積:約86km2
人口:約280万人
【現在のパリ】面積:約105km2
人口:約220万人
www.shinjuku-shobo.co.jp/new5-15/saito_burabura/bb/Chrono/Chrono.html
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1734年パリ高等法院評定官ミシェル=エティエンヌ・トゥルゴの命により,絵画アカデミー透視図法教授ルイ・ド・ブレテが2年の歳月をかけて制作したパリとその郊外の地図.20枚組でパリ全図となり,1739年銅版画化され国王
に献呈された.
パリの地図(トゥルゴ) パリの人口増加
100
200
300
万人
1800 1840 1880 1920ja.wikipedia.org/wiki/パリより作成
鉄道駅
幹線
北駅
東駅
リヨン駅
オーステリッツ駅
サンラザ-ル駅
モンパルナス駅
郊外線ダンフェール駅
アンヴァリッド駅
オルセー駅
左:パリ北駅 右:パリ東駅
河北大次郎氏より借用
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パリ北駅
河北大次郎氏より借用
都市の「門」(入口)としての駅
参考:ロンドン・ユーストン駅
河北大次郎氏より借用
サンラザール駅
ヨーロッパ広場
鉄道整備前後のヨーロッパ広場
河北大次郎氏より借用
都市空間が初めて本格的な絵画の対象となる
マネ,モネ,カイユボット,ムンクらの新たな絵画の対象へ E・マネ「サン・ラザール駅」
(1872-3)
G・カイユボット「ヨーロッパ橋」(1876) G・カイユボット「パリの通り、雨の日」
(1877年)
www2.neweb.ne.jp/wd/tomoworld/From Monet to Manet/maneetmo.htm 等
C・モネ「サン・ラザール駅、汽車の到着」(1877)
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写真:シャルル・マルヴィル「パリ市庁舎,パリコミューン以後」(1871年以後)
現在のパリ市庁舎
web.kyoto-inet.or.jp/org/ gakugei/judi/forum/forum6/ki002.htm
写真:ナダール「気球から見たパリ」(1858)
www5a.biglobe.ne.jp/~tod-mizu/paris_ugan.html
パリ改造計画の2つの背景-1
1. 視線の政治,権力の視線 -軸線の街
①12世紀に建設されたルーブル宮殿から王が庭を眺めたとき,宮殿より高い建物がなく,ざっと一瞥した時,宮殿の目前の状況がすぐにわかるようにまっすぐに伸びた「視線」を持つことは王にとって必要なことだった.
user.ecc.u-tokyo.ac.jp/~g440427/roma.html
②「視線の政治」とも言われるように,帝政というのは民衆の信頼を得る,裏を返せば反乱を抑止する圧力を持たねばならなかった.王の視線が宮殿の中央からまっすぐに限りなく伸びることが.絶対王政時代の美学とされていた.
③これが直線の美学を生み,後のオースマンの改造にも影響を与えた.
パリ改造計画の2つの背景-2パリの偉大なる軸
500m 1000m0m
セーヌ川
オベリスク
ボン・マルシェ
ロン・ボワン
オルセー美術館
エリゼ宮
ガラスのピラミッド
ホテル・クリヨン
バンドーム広場
ホテル・リッツ
オペラ座
グラン・パレ
デファンス
4Km シャンゼリゼ大通り
エトワール広場凱旋門
コンコルド広場 ルーブル宮
凱旋門を中心とした東西に8キロ近いまっすぐな直線は,「パリの偉大なる軸」と呼ばれている.18世紀のルイ15世の時代に完成した.
www.nnc.ne.jp/~miki/kikoubun2.htmより加工
パリ改造計画の2つの背景-3
パリで も華やかなシャンゼリゼ通りは,凱旋門から放射する12本の通りの一つである.
1836年完成の巨大な古代ローマ風凱旋門
ナポレオンのオステルリッツの戦いの戦勝記念
2005年9月撮影
www.francemonthly.com/n/1202/index.php
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パリ改造計画の2つの背景-4
2. 衛生環境の悪化
①18世紀後半,中世の城郭都市の形を保っていたパリでは,小さな路地がいたるところで複雑に入り組んでいた.道路の多くに悪臭が漂い,上下水道の整備と普及の不十分さなどから都市に伝染病が蔓延していた.
user.ecc.u-tokyo.ac.jp/~g440427/roma.html
②当時亡命中だったナポレオン3世は,パリより一足先に産業革命が起こったロンドンでの,生活環境改善のための水と都市を結びつける政策に影響を受けた.
③帰国後,万博を頻繁に開催するとともに,当時のセーヌ県知事オースマンに「パリ改造」を命じた.改造するに際して,市民の生活環境の改善と,主にセーヌ川沿いの都市整備に力を入れた.
パリ改造計画の2つの背景-5
「モニエ街の道路舗装人」1878年www.seinan-gu.ac.jp/~masimo/Manet00.html
「旗で飾られたモニエ街」1878www2.neweb.ne.jp/wd/tomoworld/
From Monet to Manet/maneetmo.htm
この当時までのパリの街路は,道幅が狭く,幅5メートルを越す道路はほとんどなかった.さらに,道の中央が両端より低かったので,雨や汚水で黒く汚れた水溜りができていた.
なぜこの水溜りが黒く汚れていたかというと,この当時下水の設備は整っていなくて,人々は家の窓からゴミや排泄物を投げ捨てていたからなのである.
マネの2つのモニエ街の絵
パリ改造計画の2つの背景-6
マネが現在のレニングラード街に住んでいた頃,彼のアトリエから,このモニエ街の様子が見下ろせていたそうである.この絵が描かれた1878年当時のパリでは,道路を舗装している光景は珍しい光景ではなかった.
上の絵を観察すると,労働者がきれいに石畳を敷き詰めており,また,歩道に街灯が設置されているところが分かる.
また,下の絵は舗装工事が完成し,各戸で旗を出し,お祭りを楽しんでいる様子が描かれている.
このような,悪臭漂う,衣服を汚す道路の汚い水溜りをなくすことの必要性は大いにあった.
オースマンのパリ改造-1
icar.poliba.it/storiacontemporanea/ autori/haussmann/schedauto.htm
Georges-Eugene Haussmann1809-1891
オースマンの改造事業は1852年から1872年の30年間に推進された.オースマンの計画は主に,
街路,建物,公園,公共事業の4つから成る.オースマンの仕事は,近
代的な循環システムを作り上げるという,典型的な都市の近代化事業であった.
user.ecc.u-tokyo.ac.jp/~g440427/roma.html
homepage3.nifty.com/~kick/TEXT/txt_prj.html
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オースマンのパリ改造-2
ブローニュの森計画図(1850年代)
パリ改造計画において1854から1889までに整備された公園と広幅員街路
gc.sfc.keio.ac.jp/class/2006_14150/slides/03/index_bar.html
オースマンのパリ改造-3
バロック都市arch.eng.osaka-cu.ac.jp/~design/.../2004_shuuron/okada_syuuron.pdf
1.街路市内における縦横の街路建
設,大通り化であった.環境整備の意味も含め,都市の核となる建造物や公共施設,要所を相互に結ぶように直線的で利便性の高い街路が出来上がった.
幹線道路が交差しているところは交通の要所となり活発な都市活動の中心となるのは明らかであった.パリの現代に続く景観の基礎を形作った役割も大きい.
user.ecc.u-tokyo.ac.jp/~g440427/roma.html
オースマンのパリ改造-4
●ペリフェリックは1845年に整備されたパリ 後の城壁(現在は撤去)に沿って整備された.
●ペリフェリック内部では19世紀後半のパリ大改造により,現在の道路網・町並みが形成された.
www.mlit.go.jp/road/yuryo/arikata/dai3kai/3sanko1.pdf
オースマンのパリ改造-5
2. 建物1852年には,土地収用法が改正され,貫通道路沿い
の宅地の収容が認められた.破壊した沿道の建物を全部新しく作り替え,美観に合致した建物を規制どおりに確実に作れるようになった.
現在も観光地となっている建物の周辺にある一般の家の作り(例えば軒の高さ,窓の形,壁の色など)はこの頃,統一させられたものである.個人住宅でも外観は公共記念物の役割を果たす義務を負った.建築は12世紀から20世紀の800年という年月の隔たりを持つが,違和感を覚えない.
user.ecc.u-tokyo.ac.jp/~g440427/roma.html
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オースマンのパリ改造-6
オペラ通り
一般街路
高さ規制,色規制,形式規制の例
オースマンのパリ改造-7
3. 公園緑地と公園の整備は,パリ市東・西部の森を市民が安
全に利用できる公共の憩いの場とし,当然市内にもそういった場所を設ける目的で進められた.
また技術者であったオースマンは雑踏都市において,公園が伝染病を防ぐ手段として有益であると確信していた.
湖と遊歩道,そしてブロー ニュの森は,現在でもなおパリでもっとも大きく, も人気のある公園として残っているが.都市への統一感のない大通りの両側に並木を充実させることで,都市における通りの存在を際立たせた(マロエニの並木道). user.ecc.u-tokyo.ac.jp/~g440427/roma.html
オースマンのパリ改造-8
ja.wikipedia.org/wiki/パリ
セーヌ川越しのエッフェル塔
コンコルド広場のルクソールのオベリスクから見たシャンゼリゼ通り
街路樹,セーヌ川の緑
オースマンのパリ改造-9
モンソー公園
gc.sfc.keio.ac.jp/class/2006_14150/slides/03/index_bar.html
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オースマンのパリ改造-10
4. 公共事業主に,照明,上水道,下水道設備,墓地の改善が課題
であった.オースマンは技術者としての手腕を発揮し不朽の業績を残した.
照明の問題には,ガス灯を街中に設置し治安を向上させた.上水道供給量を2倍以上に増やし,下水道は市内の道路下を網羅し,かつ維持管理も容易にし,衛生的な都市基盤を作った.
しかし共同墓地は公衆衛生の問題と捉え,人々に与える心理的な影響を十分考慮しなかったため実現に至らなかった. user.ecc.u-tokyo.ac.jp/~g440427/roma.html
オースマンのパリ改造-11
www.wsk.or.jp/work/c/h13-2/11.html
monberu.milkcafe.to/html/travel/egout.htm
パリの下水道
パリの下水道今
パリの景観-1
施設周辺の景観保全制度
フュゾー(紡錘形)規制:パースペクティブ景観の保全
文化財から半径500m以内の建築行為に規制
都市計画関連の規制
文化財関連の規制
パリの景観-2
半径500m以内規制
メトロ14号線建設に伴うオペラ通りの出入口
パリ北駅の近郊線用の駅舎
パリ北駅
河北大次郎氏より借用
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パリの景観-3
フュゾー規制
シャンゼリゼ大通り
河北大次郎氏より借用
パリの景観-4
フュゾー規制
河北大次郎氏より借用
レ・アール(中央市場)の再開発-1
レ・アール地区
レ・アール(中央市場)の再開発-2
テュイルリー公園の東には,パリで 初の中央市場「レアール」があった. 初は,シテ島,そしてグレーヴ広場(現在の市庁舎)と移転し,1110年ころ現在の「レアール」に落ち着いたと言う.
homepage.mac.com/sban/PhotoAlbum71.html
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レ・アール(中央市場)の再開発-3
・レ・アールとは「中央市場」の意味で,12世紀にルイ16世によってパリのマーケットがこの地区に移された.
・13世紀にフィリップス・オーギュスト王が「レ・アール」と名付け,常設市用の小屋を建て、賃貸料と取引税を徴収したことが発展の起源となっている.
・そのため,レ・アール地区はパリの中で古い建物が多く残っている地域でもあり,中世の住宅や歴史的遺物が散在している.
・特に,12世紀後半に食料マーケットが移転され、中央卸売市場として発展し,作家のエミール・ゾラは「パリの胃袋」と呼んだ.
planning.arch.kyushu-u.ac.jp/iten_ropponmatu/ kyudai2.htm
レ・アール(中央市場)の再開発-4
・このようにレ・アール地区は庶民文化の中心であったが,1960年から1973年にかけて市場は移転し,取り壊される.
・この理由は,中心市街地に位置したため拡張用地がなく,交通混雑によって卸売機能が低下したためであり,その跡地に現在のフォロム・デ・アール・ショッピング・センターや公園が整備される.
・さらに,1977年にはスラム化していたボーブール地区に現代芸術の殿堂,ポンピドゥー・センターが建設され,伝統的な大衆文化・消費と新しい芸術・文化が共存するエリアとなっている.
planning.arch.kyushu-u.ac.jp/iten_ropponmatu/ kyudai2.htm
レ・アール(中央市場)の再開発-5
planning.arch.kyushu-u.ac.jp/iten_ropponmatu/ kyudai2.htm
中央市場再開発計画:アレッチプラン
パリ中央市場(レアル)の跡地再開発計画のためのエチュード.ラテン系ならではの複合都市計画の顕著な作品.東京の丸の内は住人不在だが,パリは必ず高密度の居住人口が想定され,安定した「ご近所の底力」が生まれる.
ルイアレッチの作品居住空間は黄色で,各種の交通動線は赤線で,緑地帯や公園,人間の動線は緑で,公共施設は赤や黄色の丸で表示される.居住者と流入人口のバランスを重要視している.
www33.ocn.ne.jp/~bktamtam/office/Paris/Paris1.html
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masanao.cocolog-nifty.com/blog
中央市場時代の様子のレリーフ
www5a.biglobe.ne.jp/~tod-mizu/paris_ugan.html
フォラム・デ・アール -1
・地下4階建てのビル(地上は公園風)
・いかにもパリらしい
もと中央市場であった場所が再開発により大きなショッピングセンターとなる.
外光を採り入れた回廊サンクン広場
地上からサンクン広場を中心とするクレーターを望む
地上部分地上の公園
chiikikagaku-k.co.jp/dokuhonn/ dokuhonn1-10.htm
フォラム・デ・アール -2 ポンピドー・センター-1
・美術館,図書館,イベント会場などがある総合文化センター・写真はポンピドー・センター正面,赤く見えてるのはシースルーのエスカレーター・「ピカビア展」の大きな垂れ幕
blog.so-net.ne.jp/taekoParis/2005-08-26-1
内部
外側
www5f.biglobe.ne.jp/~rscafe/page029.html
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ポンピドー・センター-2
www5a.biglobe.ne.jp/~tod-mizu/paris_ugan.html
ポンピドーセンター前の広場で大道芸人が子供と踊る
レアール-1
masanao.cocolog-nifty.com/blog
masanao.cocolog-nifty.com/blog
レアールのメリーゴーランド
レアールの近くのサン=テュスタッシュ教会Egalise St-Eustacheの広場
レアール-2(ある批判)
・レ・アールの再開発は,計画決定にあたっては非常に長期間に渡って様々な議論が繰り広げられたが,実現されたものは残念ながら凡庸で,パリ中心部の都市環境の質を向上させるようなデザインにはなっていない.
・魅力ある都市のオープンスペースとして必要な基本的要件,すなわち,楽しくかつ安心して回遊できる空間認識のしやすさと迷路性とのバランス,周辺の建物や都市空間との機能的・動線的連動性,自分とその場所との対話(コミュニケーション)を喚起する空間的しつらい等々があまり考慮されてない.
・単に空地を緑で埋め,通過交通のための通路を設けたにすぎないのである.そして,周辺街区との関連以前に同じエリア内の商業施設(フォーラム・レ・アール)との繋がりすら,希薄なものとなっている.
www.t3.rim.or.jp/~sfjti/a&u/planning/openspace02.html
ja.wikipedia.org/wiki/パリ凱旋門から眺めたパリ
デファンス-1
デファンス
www.wsk.or.jp/work/c/h11/03.html
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デファンス-2
www.wsk.or.jp/work/c/h11/03.html
・パリにおける再開発の歴史は古く,再開発の計画は1950年代後半から始まった.その先駆けとなったのが,1939年に認可された“パリ地方基本整備計画”である.しかし,この計画は第二次世界大戦によりなかなか進展せず,計画が具体的に検討されるようになったのは戦後10年程たってからのことである.それは,1955年,「ル・ムーラン計画」と呼ばれる第一次パリ新編成計画であった.
・この計画が引き継がれ,具体的に検討され,進展することになった.このなかで も早いものが,デファンス地区の再開発である.当時,フランス政府は,ドゴール将軍通りのセーヌ河より西方の地区で再開発を行い,周辺に広がるナンテール平原整備に着手することを検討していた.これによって,デファンス地区の再開発を同意、整備区域を指定したのを機に,1958年E.P.A.D(デファンス地区開発公社)を設立して,事業が推進されることとなった.
デファンス-3
www.wsk.or.jp/work/c/h11/03.html
ja.wikipedia.org/wiki/パリ
シャンゼリゼ通りから
上空から
デファンス-4
(1)計画の概要デファンス地区はセーヌ河を隔て,パリの中心コンコルド広場から約4km西方,ルーブル宮殿,シャンゼリゼ通りそしてエトワール広場を直線で結ぶ延長上にあり,3つのコミューン(基礎的地方公共団体)にまたがっている.ここは,古くから交通の要所で,かつ産業の中心であったが,パリの広域拡大の影響によりスプロール化,中小工場群や老朽化した住宅群が混在し,環境水準が低下していた.デファンス再開発計画の方針は,地区の状況を改善するとともに,首都圏機能の拡大発展をめざして,この地区にパリの散在する中枢機能を集約することにあった.あわせて,その移転跡地を整備することによって,パリ旧市街地の都市機能を回復・再生させることであった.更に,パリの都市中心軸の延長線上に,国際的レベルの業務地区を創造することによって,’92年欧州共同体(EC)の統合に向け,その
tombi.web.infoseek.co.jp/france/ france04.htm
デファンス-5
主導権確保のための力の誇示の一環としての期待がこめられていた.このような大前提のもと,地区整備がかかえる基本目標は,・都市機能の秩序化・交通事情の改善・業務施設のみならず、商業・文化・教育・行政施設を加えた新し
い活動的な都市の創造といった点である.
(2)土地利用計画全体のゾーンをA・Bの2つに分けている.ゾーンAは業務施設を中心にループ状の道路網に囲まれた面積160haの地区である.この地区はほぼ完成し,業務ビル26棟,高層住宅7棟これに鉄道,街路等の構成で,業務施設(事務所)の床面積は155万m2,商業施設は30万m2(欧州 大規模のショッピングセンターがある),住宅戸数
tombi.web.infoseek.co.jp/france/ france04.htm
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デファンス-6
6,300戸である.就業人口は100,000人,居住人口は20,000人である.一方,ゾーンBは住宅主体とした面積600haの地区で,現在事業中である(工事完成は2007年の予定).この地区は,10万本を植樹する25haのアンドレ・マルロー公園を中心に,円筒型の高層住宅,美術館,大学,スポーツセンター,行政施設そして業務ビルの構成となっている.特に,ゾーンAの土地利用の特色を整理すると次のとおりである.・3層の高速道路インターチェンジの設置・R.E.R(地下高速鉄道) やバスなどの交通拠点と巨大な駐車場(ダ
ル内)の設置→ダル:人工地盤・屋内道路と商業施設の連結(ダル内)・地域冷暖房施設等の共同溝の設置・各ビルヘのサービス施設としてのツインデッキ(二重床構造の人
工地盤)の導入
tombi.web.infoseek.co.jp/france/ france04.htm
デファンス-7
・5~10階程度の住居の導入・高層巨大ビル(パリ中心部は凱旋門より高い建物を建てられない) ・ダルの導入による歩車道の完全分離
(3)交通システムこの地区の交通システムは,立体的に構成された鉄道,自動車道路網と,緑地,商店街,あるいはダル上部広場等の歩行者専用道路に分離され,さらに自動車道路網は機能別に3種の道路(高速道路,国道)に区分されている.また,各種施設の利用へ巨大な駐車場が確保されている.これを可能にしたのがダルの導入といえる.ダルの規模は約25ha,延床面積は約70haで,約1,200m×200mの大きさである.面状,5層の形態を成し,下部は高速鉄道等の交通施設や広場,通路,等の歩行者専用空間を, 上部は主に歩行者空間の確保を可能にした.また,上部の一部には中層の商業, tombi.web.infoseek.co.jp/france/ france04.htm
デファンス-8
宿泊施設や業務施設も建設されている.
(4)開発主体この開発主体はデファンス地区開発公社(E.P.A.D)である.区域内の土地は,まず国が収用し,そしてE.P.A.Dに与えた.このE.P.A.Dは公共的な権限を付与された機関であるが,政府直属の機関でないので,商業的,産業的な活動ができるようになっている.これによって,自分の土地を企業に売って資金調達するという独立採算方式で運営されている.この特有な状況は,ショッピングセンターなど人工地盤の上部施設の建設に際して見られる.それは,人工地盤の土地の権限は公社が所有し,上部利用の権利を民間が買うという具合いである.このような方法で,色々な所有形態が混じりながら,開発が進められた.
(5)建築、景観
tombi.web.infoseek.co.jp/france/ france04.htm
デファンス-9
1966年初めて高層ビルが姿を現してから,業務機能を備えた高層建築が相ついで,パリの空にそびえ立った.住宅も,12階から14階建てと高層アパートが建築された.こうした光景は,パリで見られない異様な一つの建築群を成し,パリのスカイライン,景観を損うものだという声が出始めた.この声を反映するかのように,1970年代,経済条件が悪くなり,第一次オイルショックを迎えると,これまで建築されたものに対し,経済効率の追求やエネルギー面で見直されるようになった.建築は多様化の方向となり,高さも低く押さえられるようになった.1980年代になると,パリにおいて新しい建築活動がここだけに認められたために,民間企業が投資して貸すという民間投資活動が活発になっていった.
(6)グランド・プロジェクトフランス革命200周年を迎え,21世紀へ向けた9大プロジェクトと tombi.web.infoseek.co.jp/france/ france04.htm
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デファンス-10
して,1982年,当時のミッテラン大統領により,グランド・プロジェクトが発表された.この中の1つとして,ラ・デファンス地区に「アルシュ」(新凱旋門)を建設した.
tombi.web.infoseek.co.jp/france/ france04.htm
homepage2.nifty.com/~DAVE/ai/09.htmtenplusone.inax.co.jp/archive/paris1/paris022.html
新凱旋門全景
デファンス-11
テント屋根 アーチ内部
tenplusone.inax.co.jp/archive/paris1/paris022.html及びwww.ne.jp/asahi/bamako/world/arc/ paris_main.htm
デファンス-12
デファンス側から見た新凱旋門
www.dogheads.jp/html/defense.html