p-106 干からびても死なない生き物の仕組みを 利用...

1
SATテクノロジー・ショーケース 2019 カラカラに干からびてしまった生物は、死に至り、生き 返ることはない。いたって常識的な話だが、広い生物界に は、常識を越えるものが存在する。アフリカの半乾燥地帯 に生息するネムリユスリカという昆虫の幼虫は、8ヶ月以上 にものぼる長い乾季を、完全に干からびた状態で乗り越 える。再び雨季が到来すると、水分を体内に吸収し、何ら 障害無く成長を再開させる。この驚異的な乾燥耐性は、乾 眠(anhydrobiosis)と呼ばれる。乾眠中の幼虫の代謝は、 呼吸を含めて完全に停止する。そのため、無酸素状態に 放置しても、蘇生可能な状態を維持する。それどころか乾 眠状態の幼虫は、真空、高温(+100℃)、極低温 (-270℃)、有機溶媒(エタノールやアセトン)、果ては放射 線(γ線やHeイオンビーム:7 kGy)などのストレスに完全 な耐性を示す。その能力のおかげで、2年半もの宇宙空 間への暴露した状態でも、乾眠状態の幼虫は蘇生能力を 維持していた。この乾眠の分子機構は、細胞や生体成分 を、安定的に常温乾燥保存する基盤技術となると期待さ れている。 1.ネムリユスリカ幼虫の乾眠の分子機構 2000年に我々の研究グループが、世界で初めてネムリ ユスリカの継代飼育法を確立させた。その後、この乾眠に トレハロースという糖の一種とLEAタンパク質と呼ばれる保 護タンパク質の蓄積が重要である事を突きとめた。2014年 には、ネムリユスリカのドラフトゲノムを解読し、進化の過程 で生体成分の保護や修復に関与する遺伝子群が多重化 し、乾燥帯性能を獲得するに至ったことを明らかにした。 最近、HSF1という転写因子が、乾燥耐性関連遺伝子の発 現を統合的に制御していることも明らかにした。 2.乾眠する能力をもつ培養細胞の作出 2010年、ネムリユスリカからPv11と命名した培養細胞を 樹立した。この細胞は、ネムリユスリカ幼虫のように、乾か しても蘇生可能な状態を維持する。これまでの実験で、最 長、1年程度の常温乾燥保存が可能である。現在、遺伝子 導入系の構築を完了させており、独自の恒常発現ベクタ ーを開発した。また、RNAiやCRISPRによる遺伝子機能の 改変技術も構築しており、Pv11細胞の乾燥耐性機構の解 明を着実に進めている。 3.細胞・生体成分の常温乾燥保存技術の開発 LEAタンパク質は、タンパク質や生体膜の保護機能を 持つことが知られている。ネムリユスリカから同定した PvLEA4タンパク質は、乾燥による酵素の凝集変性を抑え た。トレハロースを混合させると、その保護効果は向上した ことから、生体成分の保護物質としての利用が期待されて いる。また、Pv11細胞の乾燥耐性機構を活用し、哺乳動 物細胞(培養細胞、精子、卵子など)の乾燥保存技術の開 発にも着手している。 我々は、ネムリユスリカの乾眠の分子機構解明という基 礎生物学的な解析と、細胞・生体成分の常温乾燥保存技 術の開発という応用技術の構築を目指し、幅広く研究展 開している。(https://researchmap.jp/kikawada/) 特許第4568034号 : 昆虫の蘇生乾燥方法 特許第4674377号 : 昆虫の乾燥耐性遺伝子とそ の利用 Nakahara Y, et al., Cryobiology (2010) 60:138-146 Cornette R & Kikawada T IUBMB life (2011) 63:419-429 Gusev O, et al., Nat Commun (2014) 5:4784 Kikuta S, et al., Sci Rep (2017) 7:6540 Mazin PV, et al., PNAS (2018) 115:E2477-E2486 ロシア(カザン大)、イタリア(テラモ大)、アメリカ(メ リーランド大)などとの共同研究実施中 乾眠幼虫 (anhydrobiosis) 8 h 16 h 24 h 36 h 2 min 10 min 15 min 30 min WET DRY 48 h 乾眠の仕組みが分かる と 細胞やタ ン パク 質な ど の 常温乾燥保存が出来る 表発表問合せ先 3 0 5 - 0 8 5 1 T E L 0 2 9 - 8 3 8 - 6 1 7 0 F A X 0 2 9 - 8 3 8 - 6 1 7 0 k i k a w a d a @ a f f r c . g o . j p 1乾燥(2)極限乾燥耐性 (3)ゲノム編集 Richard Cornette(農業・食品産業 技術総合研究機構) P-106 108

Upload: others

Post on 31-Aug-2020

7 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: P-106 干からびても死なない生き物の仕組みを 利用 …...2010年、ネムリユスリカからPv11と命名した培養細胞を 樹立した。この細胞は、ネムリユスリカ幼虫のように、乾か

SATテクノロジー・ショーケース2019

■ はじめに カラカラに干からびてしまった生物は、死に至り、生き

返ることはない。いたって常識的な話だが、広い生物界には、常識を越えるものが存在する。アフリカの半乾燥地帯に生息するネムリユスリカという昆虫の幼虫は、8ヶ月以上にものぼる長い乾季を、完全に干からびた状態で乗り越える。再び雨季が到来すると、水分を体内に吸収し、何ら障害無く成長を再開させる。この驚異的な乾燥耐性は、乾眠(anhydrobiosis)と呼ばれる。乾眠中の幼虫の代謝は、呼吸を含めて完全に停止する。そのため、無酸素状態に放置しても、蘇生可能な状態を維持する。それどころか乾眠状態の幼虫は、真空、高温(+100℃)、極低温(-270℃)、有機溶媒(エタノールやアセトン)、果ては放射線(γ線やHeイオンビーム:7 kGy)などのストレスに完全な耐性を示す。その能力のおかげで、2年半もの宇宙空間への暴露した状態でも、乾眠状態の幼虫は蘇生能力を維持していた。この乾眠の分子機構は、細胞や生体成分を、安定的に常温乾燥保存する基盤技術となると期待されている。

■ 活動内容 1.ネムリユスリカ幼虫の乾眠の分子機構

2000年に我々の研究グループが、世界で初めてネムリユスリカの継代飼育法を確立させた。その後、この乾眠にトレハロースという糖の一種とLEAタンパク質と呼ばれる保護タンパク質の蓄積が重要である事を突きとめた。2014年には、ネムリユスリカのドラフトゲノムを解読し、進化の過程で生体成分の保護や修復に関与する遺伝子群が多重化し、乾燥帯性能を獲得するに至ったことを明らかにした。最近、HSF1という転写因子が、乾燥耐性関連遺伝子の発現を統合的に制御していることも明らかにした。

2.乾眠する能力をもつ培養細胞の作出

2010年、ネムリユスリカからPv11と命名した培養細胞を樹立した。この細胞は、ネムリユスリカ幼虫のように、乾かしても蘇生可能な状態を維持する。これまでの実験で、最長、1年程度の常温乾燥保存が可能である。現在、遺伝子導入系の構築を完了させており、独自の恒常発現ベクターを開発した。また、RNAiやCRISPRによる遺伝子機能の改変技術も構築しており、Pv11細胞の乾燥耐性機構の解明を着実に進めている。

3.細胞・生体成分の常温乾燥保存技術の開発 LEAタンパク質は、タンパク質や生体膜の保護機能を

持つことが知られている。ネムリユスリカから同定したPvLEA4タンパク質は、乾燥による酵素の凝集変性を抑えた。トレハロースを混合させると、その保護効果は向上したことから、生体成分の保護物質としての利用が期待されている。また、Pv11細胞の乾燥耐性機構を活用し、哺乳動物細胞(培養細胞、精子、卵子など)の乾燥保存技術の開発にも着手している。

■ 関連情報等(代表的な特許、論文、国際活動)

我々は、ネムリユスリカの乾眠の分子機構解明という基礎生物学的な解析と、細胞・生体成分の常温乾燥保存技術の開発という応用技術の構築を目指し、幅広く研究展開している。(https://researchmap.jp/kikawada/) 特許第4568034号 : 昆虫の蘇生乾燥方法 特許第4674377号 : 昆虫の乾燥耐性遺伝子とそ

の利用 Nakahara Y, et al., Cryobiology (2010) 60:138-146 Cornette R & Kikawada T IUBMB life (2011)

63:419-429 Gusev O, et al., Nat Commun (2014) 5:4784 Kikuta S, et al., Sci Rep (2017) 7:6540 Mazin PV, et al., PNAS (2018) 115:E2477-E2486 ロシア(カザン大)、イタリア(テラモ大)、アメリカ(メ

リーランド大)などとの共同研究実施中

生命科学

干からびても死なない生き物の仕組みを 利用した保存技術の開発

活動状態の幼虫

乾眠幼虫(a n h yd r o b io s is )

8 h

16 h

24 h36 h2 min

10 min

15 min

30 minWET

DRY

48 h

乾眠の仕組みが分かると細胞やタ ンパク 質などの常温乾燥保存が出来る

代表発表者 黄川田 隆洋(きかわだ たかひろ)

所 属 農業・食品産業技術総合研究機構 生物機能利用研究部門

問合せ先 〒305-0851 つくば市大わし1−2 TEL:029-838-6170 FAX:029-838-6170 [email protected]

■キーワード: (1)常温乾燥保存技術 (2)極限乾燥耐性 (3)ゲノム編集 ■共同研究者: Richard Cornette(農業・食品産業

技術総合研究機構)

P-106

‒ 108 ‒