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日本の民営化政策と労働関係 I.はじめに 1.民営化の過程 �.スト権スト時の労働関係 IV.むすび I 『労働運動白書』(平成9年-1997年)の最新版によると,現在の我が国 労働運動の主潮流は「連合」(765万人),「全労連」(86万人),「全労協」 (28万人)のように区分されている.これを1970年代始めの労働戦線統一 の動きと挫折の報告となった『社会政策学会年報第18集』(1974年版)で の「同盟」,「総評」,「中立労連」,「新産別」の潮流区分と比較すると,ナ ショナルセンター全ての名称が変更されており,およそ4半世紀の間に労 働界に大変動かあったことがわかる. もちろんこれは,何も労働運動の動きだけではなく日本経済(世界経済) や世界政治の変化がそれ以上であったのだから,別段,驚くに値しないと いってしまえば話はそこまでである. では,本稿では労働運動大変動の何を問題にするのかといえば,今述べ -56-

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日本の民営化政策と労働関係

    目   次

I.はじめに

1.民営化の過程

�.スト権スト時の労働関係

IV.むすび

I

森 島

は じ め に

 『労働運動白書』(平成9年-1997年)の最新版によると,現在の我が国

労働運動の主潮流は「連合」(765万人),「全労連」(86万人),「全労協」

(28万人)のように区分されている.これを1970年代始めの労働戦線統一

の動きと挫折の報告となった『社会政策学会年報第18集』(1974年版)で

の「同盟」,「総評」,「中立労連」,「新産別」の潮流区分と比較すると,ナ

ショナルセンター全ての名称が変更されており,およそ4半世紀の間に労

働界に大変動かあったことがわかる.

 もちろんこれは,何も労働運動の動きだけではなく日本経済(世界経済)

や世界政治の変化がそれ以上であったのだから,別段,驚くに値しないと

いってしまえば話はそこまでである.

 では,本稿では労働運動大変動の何を問題にするのかといえば,今述べ

                -56-

日本の民営化政策と労働関係

たことに当然影響を受けるが,当時では考えられない組合方針や組合指導

者の姿勢とこんにちの結果(したがって現状認識が含まれる)に焦点をあて,

かつタイトルに示したごとく現在の潮流を完成させる最終ハードルが民営

化であり,その合意は1975年にあった「スト権スト」の結末がそれを強

いたのだ,ということを示す.

H。民営化の過程

 1.民営化の背景

 日本経済は,その成長率が1974年にはマイナスを記録したものの, 76

年に4%台, 77年には5%台を回復した.インフレ率も77年までは8%

を越えていたが, 78年には3%台となった.同時期,失業率は2%を前

後するところであった.要するに我が国は, 80年代を待たずにOECD先

進諸国いうところのスタグフレーションからは,脱出していた.

 したがって,主要諸国のミクロ経済改革を通した(多くは民営化などの手

法をとる)マクロ指標の良好化という課題は達成されていたことになる.

あえて課題はというなら財政再建であり,それは次のことを指摘すること

により,より明らかとなる.

 国家財政の国債依存度は1974年まで10%台であったが,75年以降に

25%と激増しピークとなる77年には34.7%となった.これは対GNP比

からでは5~6%の間を推移していたことになる.したがって,いち早い

スタグフレーションからの脱出は財政出動も根拠の一つではあるが,特効

薬と劇薬が隣り合わせとなるようなものであった.

 つまり,我が国の民営化の課題は劇薬の役割を減らすことであると共に,

戦後ここまでの労働組合に新しい労使関係を再確認させる意味を持つこと

になった.

 なぜならば,民営化の対象である我が国の公企業(その中心的存在として

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            日本の民営化政策と労働関係

                     1)旧3公社があった)の日本の産業の中での位置は,総資本形成におけるシェ

アでは10.5%,旧西ドイツでは15.2%,いうまでもなくもともと国有企業

が多いイギリス,フランス,イタリアよりも低い.雇用者総数に占める公

企業の割合は5%,旧西ドイツでは9%であった.また,工業部門につい

ては我が国はなかったといえる.つまり,他の先進諸国よりも民営化のも

たらすマクロ面への効果は,資産売却局面での財政への補填と各企業内に

おける労使関係においてといった限りでの意義しか見い出世ないことにな

る(といって,消費者にとってのサービスの増大があった或は消費そのものの拡大

が生み出された,ということを否定するものではない).

 2.「電電公社」を中心とした民営化の推移

 我が国の民営化は1981年3月16日に「行政改革・臨時行政調査会」

                      2)(以下「第二臨調」とする)の第1回会議が発足されることにより始まる.

にこではその先駆となった旧電電公社(NTT)の民営化答申の動きを追っておく

ことにする).

 発足した「第二臨調」は同年の臨時行政調査会法の施行により,土光敏

夫会長を始めとする9人の委員により構成される.

 そこでの総括的な目的は,肥大化した行財政の洗い直し,時代の変化に

対応し,簡素化・効率化を図るため,行財政全般についての改革提言をす

ることであった.

 そして,第1次答申が1981年7月に行われ旧電電公社に関しては「公

社制度の在り方,民営化等も含め経営形態について抜本的見直しを行う」

とされた.また同時期,「第二臨調」内部で組織された第4部会(部会長

1)加藤栄一「第5章 公企業の‘民営化’」,武田隆夫他編『現代日本の財政

 金融』東京大学出版会, 1986年, 253~254頁.

2)『りんちょう』臨時行政調査会, 1981年5月.

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日本の民営化政策と労働関係

加藤寛慶応大学教授)が設置され, 81年10月に公社へのヒアリングを行っ

た.さらに, 82年2月の第2次答申でデータ通信回線問題に関七て,大

幅な自由化提言がなされた.

 この期間には,論議の中心は第4部会に移っていたので,そこでの論議

 3)経過をみよう.公社の姿勢としては,当初「企業基盤,その財務体質を強

固なものとして,始めて公共の要請を満たしうる」そして経営形態は研究

中で11月中に報告するとした.

 その報告は郵政省及び自民党部会との調整がっかないこともあり,82

年2月,独自案として,「現行公社改善案」「特殊会社案」「民営会社案」

の3案を提出した(力寸基本的には,分割せず現行企業形態を生かす案であった).

 それに対して,郵政省は現行制度内改善を優先し,民営化には「公共

性」の保持に疑問が残るとした.また自民党部会も株式会社化に反対した.

 その過程を経て,第4部会としては2月以降集中審議を行い,民営化路

線を基本に競争原理を導入する抜本的改革案にまとめ上げ, 7月に「基本

答申」を行った.

 なお,電電公社の場合はもともと黒字企業であったので,巨額の赤字を

抱えていた国鉄とは理由づけが異なり,主要には「時代の変化に対応する

体質をつくるため」とされた.以後, 83年3月「最終答申」が同趣旨で

だされるところまでが前段部といえる.

 このあとは,民営化の中身を実際に確定していくという意味から本論部

分になる.

 第3次答申から「最終答申」までの期間の1982年11月27日に鈴木首

相から中曽根首相へと内閣の交替があったが,それ自体は民営化の過程で

の転換点ではなく,むしろ政府・自民党の調整期間と指摘できる.当初,

3)加藤寛他著『国鉄・電電・専売再生の構図』東洋経済新報社, 1983年,

 162~181頁.

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日本の民営化政策と労働関係

民営化に対しては(電電ファミリーと称される立場の利益擁護ということもあ

り)自民党幹部などによる反対論が強かった.党としては,最終的には

83年9月13日,橋本龍太郎(自民党行財政調査会長)の電電公社改革私案

(11項目からなる分離再編案)が報告されることにより決着をつけ,具体的

関連諸法案をまとめていくこととなった.

 転換への理由として,産業構造の変化に対応し国際競争力をつけること,

財政改革を意図する民営化の先兵とすること,対米関係における貿易摩擦

を解消すること,労働界の再編に一段のインパクトを与えることの4点が

  4)あった.

 政府の対応は,それよりも早く1983年5月に入って当時の中曽根首相

が最終的判断を下し「新行政改革大綱」を閣議決定した.

 同時期,電電公社自身も内部での検討をしており, 83年2月に経営形

態委員会で,つぎのような方針に沿ってまとめていくことが確認された.

 ①組織法,事業法の検討

 ②分離,再編成,参入問題についての勉強

 ③株式などへの対処方針

 また,郵政省のレベルでも各種研究会が結成された.列挙すると,以下

のようである.

 「電気通信政策懇談会」「端末機問題調査研究会」「電電公社経営問題等

調査研究会」「電通信問題研究会」「電気通信システムの将来像に関する調

査研究会」「電気通信審議会」「総合データ通信ネットワーク化構想懇談

会」「高度情報社会に関する懇談会」

 また,郵政省と通産省がVANの管轄権について,郵政省と大蔵省が株

式売却を巡っての議論を繰り広げた.

4)下田博次「電電民営化の狙いは何か(上)」「同(下)」,『経済評論』1985年

  5, 6月号.

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日本の民営化政策と労働関係

 以上の経過を通して,「分離・分割」問題はタナ上げされ法案の付則的

形で5年以内に見直すとして進められていく.電電改革三法,つまり「事

業法案」「会社法案」は1984年4月10日,「整備法案」は同16日に第

101国会に上程された.

 6月20日より専門委員会で審議が始められ,「スト権」については3年

以内に結論をだすことなど一部修正し, 7月20日には衆議院本会議にお

いて可決された.ただ,国会会期が8月8日までであったので「85年4

月に改革が前提」ということで,参議院で継続審議となった.

 そして,第102国会においては,参議院逓信委員会で12月13日に可決,

つづく14日の本会議で可決され,再び衆議院に送られ12月20日の本会

議で可決,成立した.

 「事業法」においては,国と電気通信事業者との関係を律することによ

り利用者保護を図る,電気通信分野への競争の導入の手続きを定めること.

「会社法」では,公社を株式会社に改組,国内電気通信事業を(全国ネット

で)営む,発行済株式総数の3分の1を保有する義務が政府にあり,事業

計画は認可制であること.「整備法」では経過措置を主に定め,また労使

関係では公労法から労働三法への適用となることが特徴としてある.

 国会の審議過程は先に述べた順であるが,その議論の中身としてはつぎ

のようなことがある(カッコ内は答弁など).

 競争の導入について(→自然独占状態から競争への条件は成熟している),

公共性との調和について(→多様なニーズに応えることがまた公共性でもある),

特殊会社化の趣旨(→効率的経営と自主性さらに競争の適正化),通信の秘密

保持について(→役務の提供義務や検閲の禁止さらに所要の規定を設けている),

料金値上げや地域格差が生じないか(→競争により安くならないか,全国一

律料金体系維持),についてなどである.

 法文修正として,「整備法」におけるスト制限特例措置3年後見直しを

3年後に廃止する方向で検討となり,さらに衆・参両院ともに「我が国の

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日本の民営化政策と労働関係

通信主権を守り国際競争に対応すること」を始めとした, 10項目以上に

わたる付帯決議がつけられることとなった.また,株式売却益は国債整理

基金特別会計に帰属させ,国債の償還に充当となった.

 そして,最終的な手続きとして政省令が1985年3月15日に公布され,

4月1日より民営化され,新会社NTTとして再発足した.

3.「電電公社」民営化における全電通の対応

 電電公社民営化の推移を前段部,本論部分と分けたが,組合の運動の力

点の置き方は第1段階として国会法制化までの働きかけ,第2段階として

民営化切り替えへの働きかけとされている,内容は前半部臨調答申への働

きかけ後半部国会法制化への働きかけとなるので,ここでもそう区分する。

 まずその山場ごとの主張をみていくことにするが,その前に「第二臨

調」が設置される1981年を前後して,電電公社も含めた公共企業体・労

                         5)働組合への批判はマスメディアを通して大合唱される,という社会状況が

あったことを指摘しておこう。

 もっとも激しく行われたのは,いうまでもなく国鉄へのそれであった。

曰く「単年度一兆円赤字」,「職場の人民管理」……と。それに劣らず電電

公社へも「ヤミ給与カラ手当て」「不正経理」「電電事業は倒産寸前」と指

弾されていた。

                                6) そのような状況の中,全電通は既に1978年に「春闘方式の見直し」と

して,①自主交渉重視の賃上げ ②欧米なみの生活実現をめざす ③労

働界の全体の統一,を基本に提唱,さらに79年8月の第32回全国大会に

おいて,下真に価値ある労働運動の推進」ということから,従来の運動路

線の転換をはかり「春闘方式」を批判,その対案として「電電事業にふさ

5)

6)

山岸章『是は是 非は非』日本評論社, 1985年.

山岸章『NTTに明日はあるか』日本評論社, 1989年.

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日本の民営化政策と労働関係

わしい賃金体系の確立」要求がすえられていた.

 そして, 80年8月の第33回全国大会において自ら「公社制度の改革」

として,①公社の経営形態 ②スト権 ③当事者能力の拡大 ④予算制

度,給与決定制度,賃金決定方式,を目標課題とした.

 さらに, 81年3月第83回中央委員会で国民のための電気通信事業を目

指すため「公開,分権,参加」をスローガンとして具体的「改革運動」を

進めていくこととした.それは,こんにちからみれば80年代の労働運動

や民営化における対応への準備的役割を果たしたといえよう.

 1981年3月,組合自身が運動路線の転換を図りつつあるとき,「第二臨

調」が設置され,すぐさま7月に臨調第1次答申がだされた.全電通は

「公社における労使関係等の経緯を無視,あまねく公平なサービス提供の

原則をそこなう」という理由から,今回の民営化に当初反対の意思を示し

た(分割についてはそれ以上に反対であった).それは,第33回大会の運動路

線の延長上でのことである.

 そのことは, 81年10月16日第84回中央委員会に向けての,電電本社

での団体交渉の席上「民営化絶対反対,現行経営形態を今後も堅持し公社

制度を改革すべきであり,臨調ヒアリングで国鉄・専売両公社総裁とも民

                          7)営化反対を明言したのに傍観者的態度をとったのは無責任」と追及してい

ることにも現れている.

 ところで,その第84回中央委員会においてもう一歩踏み込んだ,「今後

の電気通信事業のおり方についての基本政策・基本要求(公社制度改革の原

要求)」を決定し,単に「反対」だけでは有効なとりくみとならないとい

う判断から,「政策対置」に方針を転換させていくことになる.

 さらに第86回中央委員会で経営形態について「特殊法人化」をもめざ

していくことを決定し, 82年5月の「臨調」第四部会の「分離・分割,

7)飯田隆介『マンモス集団全電通』さんちょう, 1982年, 244~247頁.

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日本の民営化政策と労働関係

競争の導入」提言に対して絶対反対の立場から,「臨調答申」に反映させ

ることで500万人署名活動に取り組んだ.

 そして, 82年7月,第35回大会で「第4部会」に再検討を求め,経営

形態問題としては,“四原則一方針”として「分離・分割,民営化,新規

参入に反対し,政府と加入者による特殊法人」とする姿勢を決めた.

 ここで,全電通と「第4部会」との確執の例をあげておこう.

 まず,再検討を求めるため数度の打診が全電通側からなされていた.し

かし,根本的な認識の違いは「労使関係」にあり,しかもっぎのように妥

協点がないことが明らかとなった.

 第4部会長の加藤寛慶応大学教授(当時)は,そもそも公共企業体制度

そのものに問題かおるとした上で「余剰人員,労働時間の短さ,現場協議

会制」が存在しているから,「労使関係」は好ましくないものであるはず

と規定している.

 他方,全電通は職場交渉委員会(国鉄の現場協議会と混同しており誤解の根

源がここにあるとする)があったからこそ25年間かけた(5回にわたる)5

か年計画により,戦後混乱期からの電信電話拡充計画が達成されたのであ

り,そのことが逆に良好な「労使関係」の証であり基礎でもあったとして,

「第4部会」こそヤブ医者の誤診と反論する.

 このように前提から食い違っており,事前の打診が何度あっても,結果

として第3次答申の中身の変更はありえなかったのである.

 そして事態は, 1982年7月の臨調第3次答申, 83年3月の「最終答申」

と進展し再編・民営化の具体的日程の段階にまで進むことになる.

 そのため全電通は83年8月,第36回大会で“四原則一方針”を再確認

し,法案審議段階で要求実現に向けた取り組みを行う方針を打ち出すこと

になる.これは,取り組む姿勢が「民営化を前提とする」に転換したこと

を示し,結節点と規定できる.そして以降,本論部分としての実際の法案

審議過程(全電通にとってホンネの取り組み)となる.

               -64-

日本の民営化政策と労働関係

 1984年4月から85年1月にかけて,第101国会・第102国会と続き,

より政治レベルの対応が迫られてくる.そのために, 83年末の総選挙で

協力関係にあった社会党を中心とした革新政党への働きかけを通じ,政

府・国会への対応を強める.

 そして全電通は, 1984年3月の第90回中央委員会で再度原則を確認し,

法案審議の過程において革新政党との共同行動をとっていく.その中での

政策調整も柔軟に対処していく.“四原則一方針”をふまえ,世論形成の

視点から800万人請願署名(実数1,065万人の署名が集まった)に取り組み,

両院議長に提出していった.

 ところで署名運動が成功した裏に,組合幹部の内外に対する,つぎのよ

うなしたたかな読みも隠されていた.つまり,署名運動に対する二重の意

味付与である.一般的にこれは民営化反対の署名といわれたが,具体的中

身では「民営化反対」の語句はなく目測民福祉の増進に寄与する電電事業

のために」とされていたことである.即ち,外に対しては1,000万人署名

という世論の圧力効果をつくりだし易くすることと,内に対しては,例え

具体的な「条件闘争」に入ったとしても正当化できる布石(突然に民営化

反対をやめたわけではないという理由がっOが込められていたことである.

 そのしたたかさは,つぎの方針提起の中にも生きている.

 全電通は「電電改革三法」の第101国会における可決の公算が強まると

の判断を前提に, 1984年5月の第91回臨時中央委員会で「絶対反対」か

ら「総論反対」「各論修正」に転換し,また国会において修正もしくは歯

止めがかけられたら,法案成立にあえて反対しないとの提起をした.

 そして, 84年7月の第37回全国大会時点ていよいよ法案成立の動きが

強まり,しかも政府・自民党の無修正通過方針(法案修正に応じない・スト

権も譲らない)が伝えられた.そのため,大会日程も3日間に短縮(15~

17日)され,正念場(民営化全体の取り組みとしても)の認識から,非公式

に様々な戦術がとられた.これは第二段階目の方針と呼べる.

               一65 -

日本の民営化政策と労働関係

 例えば,実際の国会対策は社会党書記長を通じて行ったものの,水面下

工作として,時には社会党を跳び越え直接政府・自民党の要人との接触が

あった. 8月6日夜には,当時の中曽根首相や竹下大蔵大臣と赤坂で席が

設けられもした.水面下の中の話までは定かではないが,つぎの結果をみ

ると全電通幹部の筋書がある意味で通ったと判断できる.一つは7月20

日の衆議院通過(全電通大会以降に議了したこと),二つは8月8日の参議院

での継続審議(中身が変更されないということになるので)という形での法案

処理である.

 そのことにより「分離・分割」問題への一定の歯止めが確保された.こ

こに,正念場をしのぎ,組合が主張するミニマム三目標は確保されていく.

 一見,政府原案としての民営化に賛成であるかのように現象としてはと

れる,じじつそう抑楡された.が,ただではころばなかったのであるに

れがしたたかさである).

 そして,同年10月の第92回中央委員会で,ミニマム三目標は達成した

と再確認し,国会情勢から判断して12月以降の国会審議に向けては,新

制度移行を前提にして労使間の問題に絞っていくこととなった.

 1984年12月20日,電電改革三法が成立した.それをうけ, 85年2月

         8)には第38回全国大会を開き,民間労働組合として「社会的に価値ある労

働運動」の構築「人開尊重と社会の進歩,国民福祉向上に寄与する情報通

信」の実現を基本にした10項目の新綱領を決めた.組合の組織対策とし

ても,ここに民営化への体制は整ったのである.

 ところで,全電通は後半部の民営化の過程をつぎのように総括する.

 第一段階の国会決戦(第101,第102国会)で4か所の法案修正,前進的

な付帯決議をつけたことをもって, 4つのミニマム目標を大きく前進させ

政府原案の毒素を排し,歯止めをかけれた.第二段階となる民営化への切

8)『全電通の旗のもとに』第38回臨時全国大会決定集,1985年2月27日.

               -66-

日本の民営化政策と労働関係

り替え闘争も,組合主張を全面否定しえない状況を作ったことなどから,

前進的決着した,という具合に.

 いいかえると,前段部の結論としてある,臨調「最終答申」の民営化提

言は実現させてしまったが,本論部分では,たてまえとしての民営化はの

んだものの,結果(経営形態)として分離・分割は阻止でき,種々の条件

付帯により歯止めをかけたとする.

 かくして,旧電電公社における民営化は一度のストライキもなく「平

穏」に推移し,新会社NTTとなったのである.

 4.労使関係からみた「国鉄」の民営化

 当初,国鉄は政労使の力関係の面からいって電電公社と比較にならない

ほど民営化か困難とされたが,順調に推移し,NTTの後を追う形で1987

年4月に分割・民営化されJR系各社となった.ところで,とりわけ民営

化か困難とされた「労使関係」における理由は,国鉄内には数組合が分立

していてしかも総評内左派系組合が主流であり,意見統一などの前提をつ

くりにくいということであった.

 そのような状況を民営化へ移行可能にしたのは,後に述べる動労の動向

であるが,意外に前節で述べた全電通が間接的に大きな役割を果たしてい

るので指摘しておこう.つぎの二点からである.

 一つは,全電通みずからが「民営化」を選択したことにより,労働界を

全民労協でまとめあげ旧来型の総評の影響力を断ち切ったこと.二つには,

公労協から転出することにより単純計算してもその組織を三分の二(残る

は国鉄・郵政の組合となる,ただ厳密にいえば他の公社,現業部門かおるが割合を

とると非常に少数となるので)としたのであり,組織力弱化を始め公労協と

して統一した方針対応ができなくなり,国鉄の民営化にあたっての「労使

関係」においても実行し易い土壌をつくりあげたことである.

 以上のことが,「民営化推進」へ傾斜させたとする間接的な役割である.

                -67-

日本の民営化政策と労働関係

表l 旧国鉄内の組合員数の推移゜)

獄 郎年遠月 g月 ll月 S了年I月 (S了年d月)

旧国労系IS万S,OOO(人) IS万I,OOO(人)

(組織率)SS%

IO万 (人)

  ztS.S%

S万l,OOO(人)

  SG.G%

S万G,OOO(人)

現JR総連系G万S,OOO(人) g万S,OOO(人)

(組織率)Sg%

II万G,OOO(人)

  仙.了%

IZ万S,OOO(人)

  M,G%

IS万 (人)

 さて,国鉄の民営化時における組合間の動向は次のように展開していく.

 国鉄における民営化を円滑にした役回りは,先に述べたように,最大組

合の国労でなくつぎの鉄労でもなく僅かS万余の組合員の動労であった.

その,ドラスティックな展開の様子は表Iからもわかる.

 そしてその転換点は,I冊G年I月に「労使共同宣言」(安全輸送の確保,

鉄道事業の再生・強化のための労使協力,余剰人員対策の推進と将来の雇用確保)

                                 lO)が勤労・鉄労・全施設労の各委員長と杉浦国鉄総裁が結んだことである.

 それ以来,国鉄内組合の再編が進められ一年をまたずに地殻変動が起き

た.国労組合員が月に約I万人ずつ減少し民営化賛成の組合がその分を増

加させていき,SG年II月の時点で力関係が逆転したのである.

 つまり,国鉄内組合は総評左派系組合から全民労協指向の組合が主導権

を握り転換した.同時に,民営化に向けて困難であるといわれた「労使関

係」についても,逆に順調に推移させる要素となった(国労の「人材活用セ

ンター」「清算事業団」を巡るトラブルなどあり,全く無風ではないが全体として

統一した反対運動は起きなかった意味で).

g)『毎日新聞JlgSG年II月了日付.『朝日新聞JlggO年々月lZ日付などより

 作成.但し,民営化後JR各社における労組はさらに分裂・再編されており,

 現在はJR総連系とそこから分かれたJR連合系となり,一段と複雑な様相を

 呈していることを付言しておく.

IO)ZIシンクタンク・未来派グループ編『鬼の挑んだ賭け 人間・松崎明』

 弘済出版社,lg釘年,ZOI~ZII頁.

-G卜

日本の民営化政策と労働関係

 確かにこのことは劇的であった,またマスメディアなどの通論としては,

動労が「労使共同宣言」に合意したことが「変節」とされる.しかし,こ

こを指摘しただけではことの半分を語ったにすぎない.「労使共同宣言」

の署名については,むしろ動労がそれまでの「タテマエを捨てつつホンネ

の運動を進めていた」ことの分岐点であり,「ホンネをホンネとした運動」

の闘いに完全に転換したというべきであろう.というのは,動労の運動方

針は既に1978年の「貨物安定宣言」を転機(実際86年になって松崎動労委

               11)員長は源はそこにあると明言している,そのことは奇しくも全電通の「公社改革」

のスタートと同年であった)としているからである.

 さらに, 1982年1月の全国戦術委員長会議で「職場と仕事,生活を守

るために」(それは82年1月23日,「第二臨調」第4部会の「国鉄改革案骨子」

に対応したものであった)という職場討議資料がだされ,従来方針の転換を

はかっていた.既得権を守るから,業務量確保(仕事をもっとやる)にさら

に進み, 84年の余剰人員対策に積極的に協力し, 85年列車増発「提言」

とっぎっぎと柔軟化していく.

 いま少し,松崎動労委員長の発言をみよう.

 ①「労働組合の中にもいろんな人がいますから,真面目に働く意思の

  ない人には,この際いいかげんな国鉄幹部とともに去っていただきた

  い.」-『文芸春秋』(1986年4月号)

 ②「…接客態度をしっかりしないと,これはどんな組合だろうと,そ

  こをしっかりしないとダメ……やはり新しい事業体に生きていく上で,

  サービスを否定していいということにはならない.」-『文芸春秋』

  (1986年4月号)

 ③「かつては列車をとめることに熱心で鬼といわれたが,いまは便利

  な鉄道をつくるために闘っている,これが私たちのお詫びである.」

11)『サンデー毎日』1986年8月17日号.

                -69-

日本の民営化政策と労働関係

  -『正論』(1986年10月号)

 以上のように,さらなる柔軟姿勢を示す.

 とりあえずこの発言が以降4年間現実の運動方針と一致しているので,

以下に特徴点を整理しておく.

 かつて総評型労働運動の基本にあった労働観(労働そのものが疎外されて

おり本質的な解決は体制の変革以外にないとする,その背後には資本主義に対する

否定を前提とする社会観がある)を捨て,またストライキそのものも目的と

しないということを表明する.そして,さらに「もはやホンネとタテマエ

を使い分けて事を処する情勢にはない.我々は自信と確信をもって自らの

        12)ホンネの道を進む」と発言して,よりよい鉄道をめざす一方で総評への訣

別を述べる, 80年代初頭全電通が取り組み始めた電電公社「改革運動」

と酷似する.

 つまり, 86年に至って公労協最左派を自負していた動労も,山岸金電

通委員長が敷いた路線を松崎動労委員長が走ることになる.さらに,全民

労協へ将来的に加盟していく意思も示したので,労働戦線統一の指向につ

いても全電通と同じ立場となったわけである.

 したがって,「国鉄」民営化時における労使関係が平穏なものとなる土

台が形づくられたといえるのである(また,注9で示したごとく民営化後の

90年代に入り,再度の方針転換があるがここでは触れない).

 なお,国鉄改革八法案は1986年10月28日に衆議院で可決され, 11月

28日に参議院で13項目の付帯決議を伴い成立した(国会審議においても意

外に平穏に推移したことを付け加えておく).そして,87年4月1日より分

割・民営化されたJR系各社は,「JR東日本」「JR東海」「JR西日本」

「JR北海道」「JR四国」「JR九州」「JR貨物」と「新幹線保有機構」「国

12)『週刊朝日』1986年8月8日号.

-70-

日本の民営化政策と労働関係

鉄清算事業団」として再発足した。また, 89年5月には鉄道通信を母体

としてJR系7社が過半数の株式を所有する,電気通信企業の新「日本テ

レコム」が改名発足している。

m。スト権スト時の労働関係

 1.スト権ストとは

 前章の民営化の過程が総じて平穏に進んだのは, 1970年代末までに全

電通や国鉄内左派系労働組合に,目立だないが運動路線に変化があったこ

とである.そして,その変化が何によってもたらされたのかは,以下に示

す75年の「スト権スト」の結末ということになるのである.

 そこでとりあえず,「スト権スト」を短く説明しておこう.

 戦後の日本国憲法において保障された「労働基本権」と1947年1月末

のいわゆる「2・1ゼネスト」中止を強いさらに占領下の「政令201号」

を通して公労法のスト禁止条項として規定されたこととの,ミスマッチに

起因する.そしてその「スト権」奪還が急浮上するのは, 1971年に国鉄

当局がそれまで進めてきた生産性向上運動(いわゆるマル生運動)が,国鉄

内左派系労働組合の反対にあい挫折したことにより,「スト権」奪還のた

めのいわゆる「スト権スト」へとなるのである.

 このようにいうと,ストライキに関わるいかにも単純な問題のようであ

るが,その背景や経過には日本における政治・経済の戦後史が凝縮されて

いる.

 まず,政治的な背景からみると.

 我が国ではいわゆる「55年体制」の再編成がなされる過程にあり,国

際政治においては米・中の接近,ベトナム戦争の終結期そして冷戦体制が

終盤に入らんとしていた.要するに,戦後の世界体制の再編期であった.

 経済面では,戦後復興過程を経て20年近い高度成長時代の終末期,或

               -71-

           日本の民営化政策と労働関係

は次への過渡期であった.さらに, 1970年代前半は国際的にイギリスを

始めとして,労働組合の攻勢期となっており,世界経済のインフレ体質の

進行とも複雑に絡み大幅な賃上げが実現した時期であった.そんな中,我

が国では1973年に入り田中内閣の「日本列島改造論」の余韻を一気に吹

き飛ばした,「石油ショック」という一大パニックが日本列島を襲った.

                                 13) このように凝縮された内外の情勢下において,公労協の「スト権奪還」

という課題が先に述べた組合が勝利した「反マル生」運動を媒介として

(但し,郵政においては同様な問題が未だ炳っている状況であったが)急速に浮上

してくるのである.それはさらに, 1974年の春闘において労働組合が大

幅な賃上げに成功し併せて国民の生活改善要求も前進しその中から「スト

権」の問題もテーブルにのることになり, 4半世紀の怨念がかかったかの

ように日本の労働運動史上かつてない規模の闘争となった「スト権スト」

として発展していくのである.しかしながら結果したものは,三木首相が

一定譲歩を示すニュアンスを「スト権スト」直前に醸し出すも,全面否定

され, 8日間192時間以上にわたるストライキが打ち抜かれたものの組合

側の全面敗北と帰した.この一連のストライキの経過がいわゆる「スト権

スト」なのである.

 本節の最初に予め「スト権スト」の結末を民営化過程の平穏化の主たる

理由にあげた.それは,以後の変化の程度の大きさから,「転換点」と呼

べるからである.そこで,転換点となる(する)理由を時系列を追うこと

によって,以下確認しよう.

                  M) 一つは,ナショナルセンターの変遷史における転換点ということである.

二つ目には労働組合が取り組む闘争の課題や内容が変化するという意味で

jj

3 λ~

1 1 公労協編『公労協スト権奪還闘争史』イワ牛出版, 1978年.

藤井昭三『(連合)の誕生』労働旬報社, 1989年, 224~225頁.

             -72-

日本の民営化政策と労働関係

転換点とするにふさわしいということである.

 第一のナショナルセンターについての理由は,次のようである.

 我が国では, 1945年8月15日に第2次世界大戦の敗北が決定し,連合

国が進駐し, 9月に大日本産業報国会・大日本労務報国会が解散した.続

いて,10月に入りGHQの5大改革の一つ「労働組合の組織奨励」のも

と一気に労働改革が進展する.そして,同年12月には「労働組合法」が

公布された.

 そのような状況下の翌1946年8月に「総同盟」と「産別会議」が相次

いで結成される.また,それとは立場を異にする中立系組合も存在した.

1947年には「全労連」, 49年には「新産別」が結成された.しかしながら,

「2・1ゼネスト」中止指令に顕著にみられたように,連合国の要である

アメリカの対日政策の急激な変更が生まれ, 50年にGHQの指令により

「全労連」が解散され,他方で同年7月に「総評」が結成される.

 そして, 1955年に春季賃上げ共闘(いわゆる春闘)が始めてなされるま

でも幾多の曲節かおるものの, 50年から55年にかけて形づくられていっ

たナショナルセンターが, 75年の「スト権スト」まで大きな影響を与え

る.したがって,51年6月に結成された「総同盟」, 56年9月に結成され

た「中立労連」を含め,労働戦線の「55年体制」を支える四本柱がこの

ときできあがったことになる.即ち,「1.はじめに」で紹介した潮流区分

の「同盟」,「総評」,「中立労連」,「新産別」である.

 さらにその区分が,「スト権スト」の結末により80年代労働戦線統一の

動きを促進し日本の民営化過程で新たなナショナルセンター「連合」,「全

労連」,「全労協」とつくりかえられたのであるから,そこに転換点が見い

出せるということである.

 次に,労働組合が取り組んできた闘争の課題や内容をみよう.

 戦後しばらくの間は,当然,「衣」「食」「住」難による貧困や生活環境

改善問題が直接の課題であった.その中心となる賃上げ要求も(もちろん

               -73-

日本の民営化政策と労働関係

こんにちでも最も中心の課題であるが),食料確保などと結び付くような切実

な面をもつのであった.

 この頃はまた,民間大企業といえども経営は脆弱であり当然そこでの労

働組合の闘争も目立った.多くは合理化による人員整理問題や人権問題で

ある.

 その後レッドパージ期を経過し日本の政治体制の確立期に入る.具体的

には,サンフランシスコ講和条約から60年安保改定期の間で,政府に対

する種々の政治選択に関わる反対運動が組織されていく.また,その期は

日本のエネルギー政策の転換期でもあり,それに伴う大争議が頻発した,

その頂点が60年の三池における炭労の合理化反対闘争といえる.

 再編成という視点からみれば,単に生産現場だけではなく「教育の場」

においても日本経済の復興・高度成長が進むにつれて幾多の改編が加えら

れていく.そのつど反対運動が組織され,最も全国的なものとして「勤務

評定」反対闘争かおる.

 我が国の政治の分岐点は60年安保改訂であったことはいうまでもない,

しかし20数次にわたり改訂阻止の統一行動が組織されるも6月23日に新

安保条約が発効し,一つのピリオドが打たれ,ナショナルコンセンサスが

成されたわけではないが国民レベルにおける対立が鎮静されていく.それ

以降, 60年代後半に入りベトナム戦争激化に伴い,戦争反対という政治

的課題が再び盛り上がりをみせる.

 この時期,我が国は高度成長の第二期にあり産業全体が国際競争力を一

段と付けていく,したがってそのための近代化・機械化・合理化が急速に

進められる.それは公共企業体においても無縁なことではなかった.

 したがって,この時期に入ると賃上げ要求が依然第一にあったとしても,

合理化反対あるいは政治的な反戦が主要な課題となる.また, 70年代に

近づくにつれ高度成長のもたらしたものの否定的側面である公害問題など

が新たな課題となる.

               -74-

            日本の民営化政策と労働関係

                             15) そこで,我が国の高度成長を通した社会・経済的変化を要約しておこう.

 寿命が戦前では, 50才にも満たなかったものが70才台後半となった.

それは, 65才以上人口が率において倍増する要因ともなり,その速さが

むしろ問題を生む.逆に,「少子化(1.4人)」をも促しており,高齢化と

併せて変化の速さは歴史上かつてないものとなっており,そこに問題が生

じている.それら現象の誘因としては,実質消費支出が終戦直後の10倍

以上であったこと,それは10%以上の成長が20年近くであったことから

可能であったともいえる.そこでの政策の著しい特徴は,軍事費を最小に

押さえ経済成長を極限化したことにある.

 経済的土台が著しく発展することにより社会の変化をつくりだした.し

たがってこの期を前後して労働組合の課題や内容も変化せざるをえない状

態となる.もちろん「スト権スト」がこのような変化を生み出したわけで

                       16)はないが,以降の闘争戦術も含めて大きく変わるので,契機になったとい

う意味からでの「転換点」といえよう.

15)橋本寿朗『戦後の日本経済』岩波新書, 1995年, 43~54頁.なお,同書

 の論旨の基底は,同『日本経済論 -20世紀システムと日本経済-』ミネル

 ヴァ書房, 1991年.で明らかにされたものによっている.

16)転換点を指摘するのに労使関係上での実証データを説明に用いなかったが,

 補足する意味で示しておく.データからみると,転換点は明らかに1975年前

 後を示している.例えば,〈賃上げ率〉は1974, 75年とはねあがったが, 78

 年以降5%前後となり高度成長期にはゆうに10%であったことからするとな

 おさら明確である.〈労働損失日数〉は74年を100とすると77年ですでに

 15%,それ以降は激減して81年以降は10%を割りこんでいる.〈争議件数〉

 は74年を100として, 81, 82年にはその70%となるがそれ以外の年は急減

 し86年にはついに20%にも満たなくなる.〈労働組合組織率〉は70年の

 35%をピークに90年では25.2%, 96年には23.2%となる.したがって,組

 合方針や指導者の姿勢が先かどちらかとはいえないが,データからも転換点

 となったことは明らかである.『朝日新聞』1989年9月22付.労働省編『平

 成8年版 労働白書』日本労働研究機構.『平成9年版 労働運動白書』日本

 労働研究機構.

                -75-

日本の民営化政策と労働関係

 1974年の春闘は世界的な「石油ショック」と重なることになる.そし

て20年の節目となる我が国の賃上げの基本的パターンの春闘が, 20年間

で最も成果をあげた年ともなった.労働組合側の成果の一端として,政治

的な課題「スト権」奪還が日程に上ることになる.

                          17) 具体的には, 74年春闘で労働側か矛を収める合意事項として明記され

たからである.以下に示したその合意項目③の期限が遅くとも75年(昭

和50年)秋とされ,したがってそれをタイムリミットに設定するスト権奪

還のための「スト権スト」へと労働側は歩を進めるのである.

 「合意5項目」

 ① 政府が内閣官房長官を長とする関係閣僚協議会を設置することとし

  たのは,労働基本問題を真剣に検討する姿勢であることを確認する.

 ② この協議会においては, 3公社5現業等の争議権等及び当事者能力

  強化の問題の解決に努力する.

 ③ この協議会における結論は可及的すみやかに出すものとする. (組

  合側は昭和50年3月末日までに結論を出すべしと主張したが,政府側は, 2

  年を目途とし,昭和50年秋頃までに結論を出すよう努力すると述べた)

 ④ この協議会の運営にあたっては,随時労働側の意見をきく.

 ⑤ 非現業職員の労働基本権については,公務員問題連絡会議で引続き

  検討するものとする.

  特に公制審答申にもとづく団交権については,公務員連絡会議ですみ

  やかに結論を出すよう努力する.

 2.スト権ストの経緯

 「スト権スト」が行われた1975年の春闘の結果は前年度とは違い,ある

意味で「スト権奪還スト」の結末を示していた.つまり,前年30%以上

17)前掲13), 848~849頁.

76 -

日本の民営化政策と労働関係

という賃上げ率の解釈を巡って,我が国では「所得政策」はとられなかっ

たものの社会的に15%のガイドラインなるものが敷かれ,その攻防が勝

利か敗北かの目安となった.労働側からいえばそのラインを突破できな

かったので敗北である.また,スト権奪還を掲げている割にはガイドライ

ンを打ち破る戦術としてのストライキが(秋以降を意識していたにしても,

違法とならない民間組合とも統一した行動を組んでいるのに)中途半端なものに

終始し統一性も欠いていたことと併せて, 75年の春闘は敗北であった.

 とはいうものの,政府・自民党の体制も74年の11月に田中首相が「金

権問題」絡みで退陣し三木首相に変わるなどして万全を期したものではな

く,「スト権」への「決断」も揺れ動いていた.

 そのような状況を経て75年の夏が終わりに近づく頃から動きが活発に

なっていく.

 労働側は75年9月中旬に入り,総評,公労協と相次いで「スト権」奪

還についての基本方針を確認していく.10月に入るとさらに動きが活発

となり,関係閣僚専門懇見解を巡り論争される中, 17日に公労協代表が

長谷川労働大臣と交渉を持つ. 20日には,三公社総裁が「条件つきスト

権付与論」を公表, 21日には国会においても三木首相がその内容を追認

する発言を行う.

 そのような事態を追い風に, 11月に入り公労協は「闘争本部」を設置,

政府と直接の交渉に入っていく.さらに, 11月10日に公労協第2回共闘

委において11月26日からのストライキを提起・確認していく.

 なおここで注意しておかなくてはならないのは,公労協内においてスト

権の中身及び闘い方に二つの流れがあったことである.

 一つは公労協の大勢を占める「条件付であってもそれは成果として受け

止め,ストライキ自体は3日間程度で決着していく」との考え,したがっ

て何らかの形でスト権は取れるのではないかというもの.

 他方といっても動労だけが「あくまで無条件奪還でないと意味を持だな

               一77 -

日本の民営化政策と労働関係

い,そんなに簡単にスト権は取れるものではない,したがって無期限のス

                            18)トライ牛を打ち自民党政府を追いつめ倒さなくてはならない」と考え,ス

ト権を取るのは厳しいとするものである.同じ「スト権」問題であるが.

                     19)攻守ところを変えたところの政府・自民党内においてもストライキ自体は

避けられないであろうとの予測が強まると共に,姿勢が「実際にはストラ

イキを3日間でおさめてもらい,条件付きで集約する」と「スト権をスト

で取るというのは政治制度そのものをゆるがすものであり認めるわけには

いかずストをやるなら何日でもどうぞ」という二極となり「決断」への綱

引きが進行した.

 11月半ばを過ぎ状況が一段と緊張していく中で,19日には国会の衆議

院運輸委員会において社会党を中心に政府との論戦が行われるが,この時

点でも政府の見解は明らかにされなかった.同日/公労協代表は海部官房

副長官に「25日までに回答するよう」要求している.

 結局,時阻t?Jれとなる形で22日の14時から持たれた公労協第3回共闘

                     20)委員会において以下のような,統一スト指令が発される.

  「公労協結成以来,九単産統一闘争課題としてのスト権奪還の闘いは,

  いよいよ11月25日の国労,動労の指名ストを皮切りに, 26日以降

  10日間以上の公労協統一ストライキによって,歴史的決戦に突入す

  る.

  われわれは,長年の間あらゆる弾圧と妨害,組織破壊と闘いながら自

  らの力量を高め,いま政府,自民党の反動政策と対決し,自らの力で

  スト権を奪還することを確認した. 27年間の執念をかけたスト権奪

  還は, 86万組合員の総決起と長期強靭なストライキによって実現し

  なければならない.

18)

助帥

l CM

国鉄動力車労働組合東京地方本部『実践と理論』第22号, 1975年.

国鉄動力車労働組合東京地方本部『実践と理論』第23号, 1976年.

前掲13), 901頁.

            -78-

日本の民営化政策と労働関係

情勢はきわめてきびしいものである.しかし,情勢は闘いによっての

み切り開くことが可能であり,いかなる弾圧,妨害にも屈することな

く,断固として闘い抜くことによって,われわれがめざす日本の平和

と民主主義,労働者,勤労国民の生活権と生きる権利の確立が達成さ

れることを確信し,ここに『スト権奪還公労協統一ストライキ突入』

を指令する.

              記

1. 11月25日国労,動労は決定した戦術をもって指令ストに突

  入すること.

2. 11月26日零時以降(始業時を含む)公労協九単産は決定した

  戦術で統一ストに突入すること.

3.各単産はストライキ体制に万全を期すこと.」

 もちろん,当初の思惑として先に述べたように28日に妥協成立という

机上プランがあった.それは新聞紙上での「スト権スト」スケジュール表

でも29日以降ダウンの予定となっていたことからも明らかである.

         2) さらに現実の動きを続けよう.政府は11月25日に関係閣僚協を開き

「スト権ストは違法.即時回答はできない」とする.そして, 25日午後9

時30分過ぎよりの動労,国労の指名ストによりスト権ストが開始された.

 〈11月26日〉公労協は既定通りの長期ストに突入.関係閣僚協専門懇

  意見書発表(基本的にスト権を否定するものとなる).

 〈11月27日〉社会党中執(「三木首相の決断なしではスト収拾できず」と公

  労協支援を再確認).

 〈11月no日〉公労協は三木首相の「決断を迫る」ということから,国

  労,動労を中心に戦術を強化.政府・自民党は「12月1日まで回答

21)前掲13),前掲19).

-79-

日本の民営化政策と労働関係

  も会合もしない」とする. (机上プランでは妥協成立の日であった)

 〈11月29日〉社会党と井出官房長官との会談持たれるも事態は並行線

  を辿る.

 〈11月30日〉公労協全面ストに入る.総評「スト支援行動強化」を確

  認.

 〈12月 1日〉午後6時半より三木首相が声明「ストを止めることを前

  提として,専門懇の意見書を具現化のため検討する」(要するに,政府

  は民主主義を守るためスト権で妥協しない,とする).

 〈12月 2日〉社会党と政府レベルでの交渉.公労協単産委員長会議で

  「ストいったん中止」で意見一致.

 そして, 12月3日に入り第5回公労協拡大闘争委員会で(主体的判断

                             22)により統一スト中止」を決定する.そして,公労協は以下の声明を発表し

た.

  「われわれ公労協及び地公3単産は, 1948年政令201号をもって一方

  的にストライキ権を剥奪されて以来公労協だけでも1016名におよぶ

  解雇者, 105万人にのぼる処分者を出すなど,多くの犠牲を払いつつ

  も,このスト権奪還の課題が,単に労働者の生存権保障にのみあるの

  ではなく,多くの先進国にみられるように,まさに民主主義の根幹を

  なすものであるとの立場にたち,歯をくいしばってたたかってきたと

  ころである.

              ……[|3略……

  また,巷間伝えられるところによれば,今回の公労協,地公のストラ

  イ牛に対して刑事弾圧をもって臨むかのように言われている.もし,

  こうした事態が発生するとするならば,それこそまさに,それが『専

  門懇意見書の具現化』であるとのうけとめにたって,公労協全単産お

22)前掲13), 915~917頁.

-80

日本の民営化政策と労働関係

  よび地公3単産はストライキでもってうけてたつことをあきらかにす

  るものである.

                         1975年12月3日」

と結ばれたが,二度とそのためのストライキは起きなかったのである.

 本稿は労働組合の総括の議論に踏み込むものではないが,公労協内ある

いは政府・自民党内それぞれにおいて「スト権」問題の根幹に関わる確執

に触れた関係上,以下の評価だけを補足しておく.

 「スト権スト」で行使されたストライキ戦術は旧来型の「妥協」への圧

力ということなく打ち抜かれた.その意味では動労が主張したものが実践

されたわけである.しかし,日本を揺るがす本来のゼネラル・ストライキ

とはならなかった.また,戦術は戦略(課題)を実現するために行われる

もので,その点からも成果はなかった.したがって,労働組合のストライ

キ戦術は敗北といえた.前向きにただ一つ「成果」をあげれば,最終的に

本音と本音がぶつかりあい,その時の力関係によって結果が左右されただ

けであるとできる点であろう.つまり,ここまでの方針を前提に次への展

望が開ける方針提起がその後できていれば,労働組合にとって歴史を変え

る闘争がまだ可能であったので評価できた.

 しかし,歴史に残る闘争ではあったが労働組合が自ら「スト権を奪還す

る」という歴史を変える闘争は存在しなかったのである.その宿題は,自

らの方針や姿勢を転換することによって,次の民営化過程において「解

決」されてしまったのであるから.

 3.その結末の意味するもの

 繰り返しになるが, 1975年12月3日のスト中止声明直後に富塚国労書

                                     23)記長(当時)が代表して「国民の理解,共感では一定の成果が得られた」

23)『中日新聞』1975年12月4日付.

                -81

日本の民営化政策と労働関係

或は公労協は「カベは厚く,現象的には後退したが,敗北感はなく長期的

には勝利の展望を切り開いた」と述べた.しかし,いかに弁明しても敗北

であった.それは,その後の当時の最高指導者の発言の変化が明白に示し

ている.

                     24) 10年後の1985年にその結果を踏まえた反省が以下のようになされる.

 富塚国労書記長は(スト権スト当時)「当時の認識としては牛然と勝負す

べき時だと思った,そして何らかの形でスト権回復の約束とれるとおもっ

ていた.しかし全労働者のゼネストにならなかった.それは国民の十分な

理解と協力をえられなかったからで,以後多数派形成のための柔軟路線を

指向した」とする.

 山岸全電通書記長は(スト権スト当時)「下部には怒りが充満しており,

越えなければならない節目であった,しかしあの闘争で官公労攻撃が激化

し戦いは致命的打撃を受けた.奪還など無理との判断をしており終始慎重

論ではあった.本音の要求,本音の運動と多数派形成が大切だという教訓

を生かしきれず変化に対応できなかった」とする.

 また,保坂全逓書記長は(スト権スト当時)「みんなその気になっていて,

やらなければ区切りがっかなかった.しかしながら,公労協は井の中のカ

フスだった.また,産業構造の変化など,世の中の大きな流れについてこ

なかった」というように,「スト権スト」を反省する言葉が次々と出され

ていく.

 さらにその10年後(スト権スト20年後)の1996年1月13日午後7時

30分から8時30分にNHKテレビで放映された, NHKスペシャル「戦

後50年その時日本は⑩一国鉄労使紛争・スト権奪還ストの衝撃」におい

て,民営化をくぐりぬけた労働組合(旧公労協)の当事者は,その敗北の

根拠を次のように述べる.

24)『朝日新聞』1985年11月26日.

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日本の民営化政策と労働関係

 山岸全電通委員長(民営化当時)「スト権はオール・オア・ナッシングで

奪還できるとは思っていなかった.世の中そんなに甘くないと思っていた

が,とことん血へどを吐くくらいやってみてはとも思った」.

 松崎動労委員長(民営化当時)「一週間ストをやれば,内閣が倒れるとい

うことがまことしやかに語られ,自分もそのような可能性はあると思って

いた.世界に冠たる国鉄なのだから社会に影響を持つと思ったが,微動だ

にせず無いことがわかり腰が抜けるほどびっくりした.情勢認識の甘さを

含め,世の中そんなに甘くないと思った」.

 また,それより前の民営化の渦中にあって松崎動労委員長は(社会が見

       25)えてきただけだ」と語っている.

 要するに,全電通,動労の中心的指導者は「スト権スト」からの共通の

教訓として,「世の中の厳しさを認識し,社会の中に根付くため」の労働

運動を指向するため方針転換をした.したがって,企業としての「電電公

社」「国鉄」の在り方を重視し民営化を認めていくことになる.

 つまり,「スト権スト」の結末が民営化の合意を強いたわけである.そ

れはまた, 1970年代前半に挫折した労働戦線統一を復活させる役割をも

果たすことになった.その証拠は,連合の初代会長を山岸全電通委員長が

努めることになったことである.

IV.む  す  び

 本稿の課題は,いうまでもなく「スト権スト」の結末が日本の民営化政

策を実現可能としたことを示すことである。

 ところで,タイトルにおいてスト権の表現がないのは,一般的に流布さ

れる民営化政策の中から日本の労使関係が変化したということに対して,

25)r文芸春秋』1986年4月号.

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日本の民営化政策と労働関係

真の地盤変化はそれ以前にあったことを逆に強調するためである.とはい

え,日本の民営化はある意味で今日の労使関係の総仕上げを成したのであ

るから,平穏に進行したとはいえ,その持つ意味は極めて大きい(なお労

働関係としたのは,いわゆる日本でいう労使関係の枠を越える部分にも触れたから

である).したがって,後者の総仕上げの意味を優先させるため「日本の

民営化政策と労働関係」とした.

 ところで日本の民営化をあらためてまとめると,政府の失敗(財政)と

組合(幹部)の失敗が合体したものであったといえる.つまり,政府側か

らするなら国家財政と公企業の経営形態の転換をはかること,労働組合か

らすると方針転換する,その共通の場が民営化というケースであったとい

うことである.したがって,我が国の民営化のもたらしたものは労使関係

に集中的に現れたということである.

 しかし,その進行過程において全く新たなものが作られたわけではなく,

すでに民間企業では進展し完成の域にあった日本的経営という枠組みに

入っただけなのである.要するに,民営化は極めて日本式に収斂したので

ある.その意味でも,スト権ストの重みはここに発揮されている.

 そして,問題はむしろこれからなのである.民営化後バブル経済を経て

日本経済は一段と国際化を遂げていく.しかしながら, 1990年以降日本

的経済システムは諸外国から日本的経営を始めとしてその弱点を突かれる

こととなり国内経済或いは企業経営においてそのほころびが目立つことと

なる.世界の中での日本の役割を政治・経済・社会あるいは文化の面から,

戦前・戦後を通して一度も真摯に考えてこなかったツケであろう.

 したがって,労働組合が方針転換をしたといっても,せいぜい日本の旧

来の枠内での転換でしかないのである.労働組合にとっても, 21世紀に

おける日本の在り方を検討する義務は課せられるのである.これが本稿の

結論である.

                      (1997年9月30日受理)

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