「今も働かれる主イエス」 2020年6月21日 主は言われる ...2020/06/21  ·...

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「今も働かれる主イエス」 2020年6月21日 イザヤ書57章14節~19節 主は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。わたしの民の道からつまずきとなる物を除け。高く、 あがめられて、永遠にいまし その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なるところに住 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ 打ち砕かれた心の人に命を 得させる。わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱 り果てることがないように わたしの造った命あるものが。貪欲な彼の罪をわたしは怒り 彼を打ち、怒って姿 を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ。わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ 慰めをも って彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠 くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。 ルカによる福音書 4章38節~44節 イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々 は彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き 上がって一同をもてなした。日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエス のもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」 と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。 悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆 はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。しか し、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わ されたのだ。」そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。 1、シモンのしゅうとめを癒す主イエス 会堂で御言葉を語り、悪霊に取りつかれていた人を癒し、御言葉のもつ権威を示された主イエスは会堂を出られ ました。そこで主は、シモンの家に向かいます。ここから、主イエスとシモンとの初めての出会いがあったのだ と思います。シモンは後にペトロという名で主イエスに呼ばれるシモン・ペトロであります。しかしまだこの時 のシモンは、主イエスの弟子とはなっておりません。のちにシモンは主イエスの一番弟子として主と共に歩みま す。しかしまだここでは漁師として働いていた。何の学もない普通の人でありました。この箇所を読みますと、 シモン・ペトロはすでに結婚していたことがわかります。奥さんはここに登場しませんが、その奥さんの母親。 シモンのしゅうとめにあたる人が登場します。そのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたのです。風邪をこじらせ てしまったのか、何かの病気の結果出ている高熱なのかははっきり書いておりませんが、年を取っているならば、 高い熱が続くとそれだけで命の危険となります。主イエスはそこでしゅうとめの熱を叱ったとあります。単に病 気を癒した、という書き方ではないのです。まるで熱に人格があるかのような独特の描写であります。悪霊とい う存在は、悪い霊ですがいわば人格的な存在でもありますから、出ていけ!とか黙れ!など言うことはわかりま す。しかし主イエスはここでは人間の病気の結果である高熱。また違う箇所では自然現象である嵐に対しても叱 りつけられる。ある人が説明しておりますことに、病気も、その結果の死も、あるいは自然災害なども、深い部 分においては闇の力なのであり、聖書では、死や病気に対しても憤られる主イエスを見ることができる。それは、 神がそのような闇の力の一つ一つ。人間が病気に苦しむ姿。死の恐怖に苦しむ姿を心から憐れんでくださってい るからだということです。神は愛であられる。だからわたしたちが苦しむこと。死の力に苛まれることに対して 私たち以上に憤ってくださる方なのだということです。 主イエスのその不思議な癒しの力によっておそらくたちまちシモンのしゅうとめの熱は癒されました。「すぐ

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Page 1: 「今も働かれる主イエス」 2020年6月21日 主は言われる ...2020/06/21  · 「今も働かれる主イエス」 2020年6月21日 イザヤ書57章14節~19節 主は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。わたしの民の道からつまずきとなる物を除け。高く、

「今も働かれる主イエス」 2020年6月21日

イザヤ書57章14節~19節

主は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。わたしの民の道からつまずきとなる物を除け。高く、

あがめられて、永遠にいまし その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なるところに住

み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ 打ち砕かれた心の人に命を

得させる。わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱

り果てることがないように わたしの造った命あるものが。貪欲な彼の罪をわたしは怒り 彼を打ち、怒って姿

を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ。わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ 慰めをも

って彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠

くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。

ルカによる福音書 4章38節~44節

イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々

は彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き

上がって一同をもてなした。日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエス

のもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」

と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。

悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆

はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。しか

し、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わ

されたのだ。」そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。

1、 シモンのしゅうとめを癒す主イエス

会堂で御言葉を語り、悪霊に取りつかれていた人を癒し、御言葉のもつ権威を示された主イエスは会堂を出られ

ました。そこで主は、シモンの家に向かいます。ここから、主イエスとシモンとの初めての出会いがあったのだ

と思います。シモンは後にペトロという名で主イエスに呼ばれるシモン・ペトロであります。しかしまだこの時

のシモンは、主イエスの弟子とはなっておりません。のちにシモンは主イエスの一番弟子として主と共に歩みま

す。しかしまだここでは漁師として働いていた。何の学もない普通の人でありました。この箇所を読みますと、

シモン・ペトロはすでに結婚していたことがわかります。奥さんはここに登場しませんが、その奥さんの母親。

シモンのしゅうとめにあたる人が登場します。そのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたのです。風邪をこじらせ

てしまったのか、何かの病気の結果出ている高熱なのかははっきり書いておりませんが、年を取っているならば、

高い熱が続くとそれだけで命の危険となります。主イエスはそこでしゅうとめの熱を叱ったとあります。単に病

気を癒した、という書き方ではないのです。まるで熱に人格があるかのような独特の描写であります。悪霊とい

う存在は、悪い霊ですがいわば人格的な存在でもありますから、出ていけ!とか黙れ!など言うことはわかりま

す。しかし主イエスはここでは人間の病気の結果である高熱。また違う箇所では自然現象である嵐に対しても叱

りつけられる。ある人が説明しておりますことに、病気も、その結果の死も、あるいは自然災害なども、深い部

分においては闇の力なのであり、聖書では、死や病気に対しても憤られる主イエスを見ることができる。それは、

神がそのような闇の力の一つ一つ。人間が病気に苦しむ姿。死の恐怖に苦しむ姿を心から憐れんでくださってい

るからだということです。神は愛であられる。だからわたしたちが苦しむこと。死の力に苛まれることに対して

私たち以上に憤ってくださる方なのだということです。

主イエスのその不思議な癒しの力によっておそらくたちまちシモンのしゅうとめの熱は癒されました。「すぐ

Page 2: 「今も働かれる主イエス」 2020年6月21日 主は言われる ...2020/06/21  · 「今も働かれる主イエス」 2020年6月21日 イザヤ書57章14節~19節 主は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。わたしの民の道からつまずきとなる物を除け。高く、

起き上がって」とあります。普通ならば、熱が下がったとしても病み上がりにはすぐには動けないものでありま

す。そのような疲れさえも取り除かれるほどの回復が与えられたのでしょう。また癒された喜びと共に、主イエ

スへの感謝が彼女を、そこにいた人々への奉仕に向かわせたのでしょう。喜んで一同をもてなします。そして、

喜びがその家に拡がって行きます。主イエスは単に病気を癒しただけではなく、その家に神の確かな祝福を注が

れたのであります。そこに、神の御業が働き、神の御支配による幸福感がそこにいる人々を包んだのだと私は想

像します。恐らく、ここでしゅうとめの心に。そしてシモンの家の人々に、すでに主イエスへの信仰が生まれて

いったのでしょう。癒されて、感謝。そこにとどまるものではなかったと思います。主イエスの真の目的は、神

の国の宣教であります。病気の癒しは、その一つのしるしにすぎなかったのです。

2、一人一人に手を置いて

しかし、主イエスがシモンの姑の熱を癒した!その噂は瞬く間にその町の一角に噂として広まったのでしょう。

日が暮れると、たくさんの人々がシモンの家に押し寄せます。このナザレのイエスならば、私の病気も癒してく

ださるに違いない!そのような思いで病気を抱えた人々が詰め寄ってきました。そして主イエスはその信頼に応

えます。主イエスは、「一人一人に手を置いて」病気を癒されたとあります。丁寧に一人一人に手を置く。主イ

エスには、一気に全員癒すとかそういうこともできたかもしれませんが、主イエスは丁寧に一人一人の顔を見て、

話しかけ、そして手を置いたのであります。そのように人格的な関係がありました。現代でも、神による体の癒

しはあると私は信じております。しかしこれまでの教会の伝道は、体の癒しを売り物にしては為されませんでし

た。なぜか。救いの本質は、罪の赦しであり、十字架の福音を通して、罪人の罪が赦されて神の御国に招き入れ

られることであるからです。たとえ、病気でない健全な心身の人々であっても、神の御前に罪人ではない人間な

ど存在しない。この罪において実は誰もが病んでいる。魂の死に向かっている。その私たち一人一人に今も手を

置いて癒してくださる。そのような主イエスとの人格的な交わりが教会にはあるのです。今日も皆さんは御言葉

を通して主イエスに手を置いていただいている。その罪を告白し、赦され、その傷を癒してくださる方の御前に

立つのです。

悪霊に取りつかれた人々も、ここでも「お前は神の子だ!」と叫びながら出ていきました。しかし主は悪霊に

物言うことをお許しにならなかったとあります。悪霊の叫ぶ言葉は汚れた声であり、決して主イエスへの信仰告

白ではないからでありましょう。

3、 主イエスを捜し求める群衆

主イエスは、この時、恐らく夜を徹して人々を癒して行かれたのでしょう。聖書の他の箇所で、主イエスに触れ

た長血の女性が瞬時に癒されたとき、主イエスの体から力が抜けるのを感じた、という物語があります。ですか

ら主イエスは人を癒すとき、御自身の力をうんと使い果たされたのだと思います。霊的な衰えを感じられた。そ

してとても疲れたのだと思います。そして人里離れた所へ出て行かれた。恐らく一人で祈り、天の父からの力を

与えられるためであったのだと思います。しかし、カファルナウムの人々は主イエスが一人になるのを許しませ

ん。わざわざ主イエスを捜し回り、自分たちから離れていかないでくれと懇願します。無理に引き留めようとす

る人々に主イエスは言われます。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのた

めに遣わされたのだ。」そして主イエスは他の町へと移って行きます。主イエスはここからナザレへと。そして

ナザレから追い出されても、次の町へと主の霊に導かれて行かれます。最後に、主イエスはどうなったか。その

神の国の福音を告げ知らせる道の最後、御自身がどうなるのか。すでに主イエスはその時ご存じであったでしょ

う。最後には、主イエスはエルサレムに赴き、そこで十字架にかけられて死なれるのです。そしてそれこそが人

間の罪を取り除く、神の救いの御業なのであります。そのことが成し遂げられなければならない。そうしなけれ

ば、神の国は来ない。御国の支配。それは、十字架の福音。罪の赦し。そして永遠の命であるのですから。カフ

ァルナウムとナザレ。この町での主イエスへの対応は両極端でありました。カファルナウムでは、どうか行かな

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いでくださいと言って無理に引き止められ、ナザレでは、怒りと憎しみをもって崖から突き落とされようとしま

す。しかし、実は、二つの町の人々は同じ間違いを主イエスに対して犯しているのです。それは、自分のことし

か考えていない、ということです。自分の都合のことしか考えていないカファルナウムの人々。自分たちの病気

が癒されてほしいから主イエスを引き止めるのです。そして自分のために癒してくれないから、怒って追い出す

ナザレの人々であります。しかし、体の癒しは、救いそのものではありません。たとえ、癒されても、いつかま

た病気で死にます。人間はいつか、病気か老衰になるかで死ぬことは誰でも決まっているのです。神が私たちの

地上での生活を憐れみ、病気を癒してくださるということは確かにあると思います。そういうことがもしあるな

らば感謝すべきことであります。しかし、たとえそういうことがなくとも、わたしたちは病気になる、その真っ

ただ中で主イエスに感謝し、主の十字架の福音のゆえに、死に直面しながらも、なお喜ぶ者とされるのです。罪

が赦されて、新しい命に生かされているからです。死の力が打ち砕かれ、死が全ての終わりではなくなったから

です。新しい命の始まりとなったからです。

4、 主イエスは今も生きておられる

主イエスは十字架におかかりになったあと、三日後に復活され、その後弟子たち一人一人に現われてくださいま

した。一人一人と出会い、顔を見て語りかけ、わたしだ。イエスだ、と優しく語りかけてくださったのだと思い

ます。そのような人格的な交わりは、この時の弟子たちにだけの特権であったのでしょうか。わたしはそうは思

いません。この、福音書の時代には生前の主イエスと出会うことのなかった人物。使徒パウロ。彼は復活の主イ

エスとの出会い。霊的な出会いの中で、十分に主イエスを愛し、使徒ペトロよりも霊性の高い、いわば使徒の中

でも最大の人物となりました。生前の主イエスとは出会っていないにもかかわらずです。私たちも、パウロも同

じところに立っているのです。ある人がこのように語ります。主イエスが天に昇られたのは、人間として生き続

けたならば、人間としての制限があり、主イエスはイスラエルで細々と伝道していくほかなかった。しかし天に

昇られ、聖霊を教会に注いでくださったがゆえに、全ての時代のあらゆる国々の人々と共に生きることができる

ようになったのだと。だから、今も、主イエスは聖霊において、私たちと共に生きてくださっているのです。目

には見えなくとも、主イエスを知り、主イエスの語りかけを聞き、主イエスを喜ぶことができるのです。御言葉

を通して、主イエスは今も、わたしたち一人一人に手を置いてくださる。わたしたちの傷を癒してくださる。今

日も、わたしが共にいる。心配するな、と語りかけてくださるのです。主イエスの一番弟子でありますペトロの

書いた手紙の中でペトロは、教会の人々にこのように語りかけています。「あなたがたは、キリストを見たこと

がないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。そ

れは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(ペトロの手紙一1章8-9)ペトロが

語りかけているのはこの当時の小アジアと呼ばれる地方の国々。現在のトルコ周辺の国々。ポントス、ガラテヤ、

カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人々、とあります。しかしその

聖書の中に入れられたこの手紙は、ペトロやパウロがその当時の人々にだけ語りかけた手紙ではなくなりました。

時代を越えて、全ての教会の人々に語りかける御言葉であり、わたしたち諏訪教会に今語りかけてくださる言葉

なのであります。私たちもそうなのです。私たちもまた、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても、

信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちあふれている。わたしたち諏訪教会もまた、信仰の

実りとして、魂の救いを受けているからです。今も主イエスは私たちと共に生きてくださいます。キリスト教会

に連なる私たち一人一人と共に。聖霊を通して一人一人に日々、手を置き、癒し、語りかけてくださるのです。

今、求道者の方と一緒に読んでおります教会の学びの本に皆さんに紹介したいエピソードがあります。「教会

に生きる喜び」という信徒向けの教会入門の本であります。その書物を書いた朝岡勝牧師の少年時代のエピソー

ドです。朝岡牧師のお父さんもまた牧師であり、子供の頃から牧師館兼教会であった住まいで育たれました。子

供の頃、信徒の方が二十名足らずで、決して豊かな生活ではなかった。牧師であった父親は若き頃に結核を患い、

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死の恐怖と絶望の中で主イエス・キリストに出会った人で、救われた時から与えられた人生は神様のためにささ

げ尽くしたいと願って牧師になった人で、子供の目から見ても情熱にあふれた人であった。結核で入退院を繰り

返したせいで中学、高校のいずれも正規に入学できず、学歴のある人ではなかったけれども、信仰の世界におけ

る知性の大切さを良くわきまえている人で、御言葉に立った堅実な教会形成をひたすら目指していました。その

ため、毎週の礼拝での説教に打ち込み、何とか一人でも多くの魂をキリストのもとに導きたいと、できることは

何でもするというタイプの伝道者であったそうです。その願いと情熱を共有し、一緒になって献身的に仕える信

徒の方々があり、教会は目に見えて成長していった。やがて、新しい教会堂を建てるという計画が与えられ、そ

のために千坪ほどの土地を購入し、いよいよ会堂建築に向かって動き出そうかという矢先に、その父が病に倒れ

てしまった。朝岡牧師の、中学生の時に直腸癌。高校生の時には膵臓癌となり、発見された時には手遅れであっ

た。それからの父の入院と闘病生活が始まった。教会がこれから新しい会堂建築に取り組もうとしている時に、

先頭に立って群れを導いていた牧師が病に倒れる。それが思春期の入り口にあった息子にもそれが、教会にとっ

てどれほど大きな影響を及ぼすかはすぐにわかったそうです。 それからは父の癒しと回復のために多くの方々

が祈ってくださった。しかし約半年の膵臓癌との戦いの末にその年の暮れに天に召された。四十八歳という若さ

であった。そこで、母と姉、兄、朝岡牧師、妹の五人の家族が残されたのですが、これから自分たちはどうなっ

ていくのかという心配を抱くことはあっても、教会がこの後どのように進んでいくのか、ということについては

あまり心配はなかったと朝岡牧師は語ります。当時の自分にはわかることは限られていたけれども、それでも一

つの確かな思いがその心に与えられていたというのです。それは「教会というものは、何があったとしても、と

にかく神様の御言葉が語られていれば、なんとか立ち行く」という単純素朴な思いであった、というのです。今

にして思えばあまりに単純素朴。あまりに楽観的であった。けれどもあの十六歳の自分が、信仰の経験、教会の

経験の中で受け取った、確かな確信であったことは間違いない。そしてそれが、決して的外れな確信ではなかっ

たことを、父の死から二年後に新しい会堂が完成し、献堂式を迎えたときに改めて知ることとなった。「神の御

言葉が語られるなら、教会は建つ。」これは今でも揺るがない確信です、と朝岡牧師は語ります。そしてのちに、

教会についての学びを重ねるうちに、この自分の経験した確信は実はプロテスタント教会の基本的な確信である

ことを知るようになったそうです。この、「神の御言葉が語られるならば、教会は建ち続ける」という確信。そ

れは、御言葉の内に主イエスが今も、教会に生きて働いてくださるからであります。私たちが十字架と復活の福

音を受け入れて、イエスこそ私たちの主。私たちの神と告白し仰ぎ続ける。そこに神の恵みの支配が働いてくだ

さっているのです。私たちの礼拝がいつも天と連なっているのであります。私たち諏訪教会も、これからも建ち

続けるのです。神の国の福音。イエス・キリストの十字架の福音を語り続ける限り、新しく信じる人々が興され、

教会の次の世代を担う人々が与えられる。私たちの思いを越えて主が諏訪教会に豊かな計画を立ててくださって

いるのです。主イエスは今も生きておられます。そして、御言葉を通して私たちに語りかけられる。主イエスが

今日も、私たちの生活の真ん中に立ち、御言葉をもって導いてくださる。その御言葉への信頼をもって新しい州

の歩みを進めていきたいと願います。お祈りをいたします。

教会の頭であられる主イエス・キリストの父なる御神様。御言葉を通して今も私たちに語りかけられ、信仰を

興してくださり、教会を建ち続けさせてくださる恵みを心から感謝いたします。主よ。御言葉を聞き続けていくうちに、私たちはこの世ならぬ喜びを知るようにされました。礼拝に集うことなしには本当の心の安らぎを得なくなりました。これからも、私たちと共に生きてくださり、天からの御言葉を真清水のように注いでくださいますように。命の道を歩みとおす者とさせてくださいますように。主の宮で朝を迎える者とさせてくださいますように。私たちの教会の内に主の霊が臨んでくださり、霊的な平安と喜びが増し加えられていきますように。 日々の生活の中で、さまざまな形で、私たちを苛むものがあります。病気も、将来への不安も、人間関係も、

私たち自身の弱さや欠けも、全てあなたにゆだねて歩む信仰を与えてくださいますように。今日の礼拝に集うことのできない兄弟姉妹の上に。施設におられる兄弟姉妹。入院しておられる兄弟姉妹を励ましてください。私たちの家族の上にも主が恵みをもって導いてくださいますように。今週一週間の私たち一人一人の歩みを豊かに導いてください。求道者の方々の上に信仰をお与えくださいますように。言い尽くしません感謝と願いを主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン