我がタンゴ人生の自分史を語る autobiografía sobre...

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1 我がタンゴ人生の自分史を語る Autobiografía sobre el tango 齋藤 冨士郎 前書き 人間、年を取ってくると自分の人生を振り返って自分史を纏めてみようかという人が増えてくるらし い。ある人によるとそういう自分史には恨み節や怨念に関わるものが多いそうである。しかしどうせ纏 めるならそんな恨み節や怨念よりも、読んで楽しく面白い方が良い。タンゴ愛好会の一つである Nochero Soy を主宰する宮本政樹氏に依頼されて、2017 9 24 日に同会の例会で表記のタイトルのプログラ ムのレコード・コンサートを、パワーポイントによるプレゼンテーションを併用して、行った。しかしそ れらは所詮一過性で後に残らない。それでその時のプログラムやプレゼンテーション資料をベースに、 改めて我がタンゴ人生の自分史を振り返ってみた。と言っても、我が身一人に関わる話を集めても結局 は自己満足に陥ってしまう。それで私のこれまでの人生と日本のタンゴ界の状況との関わりを中心に話 を纏めてみた。 タンゴとの出会い 私は 1935 年に静岡県沼津市で生まれ、静岡県立沼津東高 校の 1 年終了まで、 18 年間沼津市で過ごした。その後、実家 の事情で京都市に移り、 1952 年、京都府立鴨沂 おうき 高校の 2 年生 に編入学した。右に示したのはかつての鴨沂高校の校舎の正 面である。大変立派な校舎であったが、残念ながらこの校舎 は耐震強度不足ということで改築され、今は残っていない。 新築の校舎はこれに似た設計らしいがまだ実物は見ていな い。当時、私は電気少年で高校の電気クラブに入部して、当時流行ったエーコン管を使 用したトランシーバーの作製などに熱中した。因みにエーコン管とは右の写真に示し たようなどんぐりサイズの UHF 用真空管である。 部活動の PR のための年 1 回の文化祭というのを当時はどの高校でもやっていた。 鴨沂高校の場合は 11 3 日であったように記憶している。 1952 11 3 日の文化祭 で私が所属した電気クラブも部員自作の短波受信機やトランシーバー、真空管アンプ などを展示した。その時、同じ部員で、実はタンゴマニアであった H 君が持ち込んだ 自作のアンプ(42 シングルかプッシュではなかったかと思う)で発売直後のタンゴのレコード(勿論 SPをうやうやしく取り出して聴かせてくれた。それが Adiós pampa mía で、今、考えるとそれはフランシ スコ・カナロ楽団 ()アルベルト・アレナスによる 1951 年録音のものであったと思われる。当時でも La cunmparsita くらいは知っていたが、それらとは全く違う Adiós pampa mía の音色に「こんなタンゴ もあるのか」と魅了され、タンゴマニアの H 君の影響もあって、それ以来すっかりタンゴファンになっ てしまった。

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1

我がタンゴ人生の自分史を語る

Autobiografía sobre el tango

齋藤 冨士郎

前書き

人間、年を取ってくると自分の人生を振り返って自分史を纏めてみようかという人が増えてくるらし

い。ある人によるとそういう自分史には恨み節や怨念に関わるものが多いそうである。しかしどうせ纏

めるならそんな恨み節や怨念よりも、読んで楽しく面白い方が良い。タンゴ愛好会の一つであるNochero

Soy を主宰する宮本政樹氏に依頼されて、2017 年 9 月 24 日に同会の例会で表記のタイトルのプログラ

ムのレコード・コンサートを、パワーポイントによるプレゼンテーションを併用して、行った。しかしそ

れらは所詮一過性で後に残らない。それでその時のプログラムやプレゼンテーション資料をベースに、

改めて我がタンゴ人生の自分史を振り返ってみた。と言っても、我が身一人に関わる話を集めても結局

は自己満足に陥ってしまう。それで私のこれまでの人生と日本のタンゴ界の状況との関わりを中心に話

を纏めてみた。

タンゴとの出会い

私は 1935 年に静岡県沼津市で生まれ、静岡県立沼津東高

校の 1 年終了まで、18年間沼津市で過ごした。その後、実家

の事情で京都市に移り、1952 年、京都府立鴨沂お う き

高校の 2 年生

に編入学した。右に示したのはかつての鴨沂高校の校舎の正

面である。大変立派な校舎であったが、残念ながらこの校舎

は耐震強度不足ということで改築され、今は残っていない。

新築の校舎はこれに似た設計らしいがまだ実物は見ていな

い。当時、私は電気少年で高校の電気クラブに入部して、当時流行ったエーコン管を使

用したトランシーバーの作製などに熱中した。因みにエーコン管とは右の写真に示し

たようなどんぐりサイズの UHF 用真空管である。

部活動の PR のための年 1 回の文化祭というのを当時はどの高校でもやっていた。

鴨沂高校の場合は 11月 3日であったように記憶している。1952 年 11 月 3日の文化祭

で私が所属した電気クラブも部員自作の短波受信機やトランシーバー、真空管アンプ

などを展示した。その時、同じ部員で、実はタンゴマニアであった H 君が持ち込んだ

自作のアンプ(42シングルかプッシュではなかったかと思う)で発売直後のタンゴのレコード(勿論 SP)

をうやうやしく取り出して聴かせてくれた。それが Adiós pampa mía で、今、考えるとそれはフランシ

スコ・カナロ楽団 (歌)アルベルト・アレナスによる 1951 年録音のものであったと思われる。当時でも

La cunmparsitaくらいは知っていたが、それらとは全く違う Adiós pampa míaの音色に「こんなタンゴ

もあるのか」と魅了され、タンゴマニアの H 君の影響もあって、それ以来すっかりタンゴファンになっ

てしまった。

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最近のベテランのタンゴファンの間では「Adiós pampa míaは嫌いだ」と言う人が多い。趣味の世界で

あるから何が好きで何が嫌いであろうとその人の自由である。しかし「Adiós pampa míaは嫌いだ」とい

うことを「タンゴがわかっている」こととを等値する意見には私は反対する。Adiós pampa míaは名曲で

あり、「Adiós pampa míaが好きで何が悪い」と言いたいのである。

Kiss of Fireの大ヒット

やはり 1952 年頃ではなかったかと思うが、ジョージア・ギブ

スが歌った Kiss of Fire が米国はもとより日本でも大ヒットした。

しかし当時の私の実家の経済事情ではレコードを買うことなど

あり得なかったので、ラジオで聴くだけであった。最近になって

神保町の富士レコード社でこのレコードを見つけ、早速手に入れ

た。そのレーベル画像を左に示した。

ところが当時は私を含めて多くの人が Kiss of Fireが El choclo

の替え歌であることを知らなかったと思う。というより当時は El

choclo という曲自体がまだそれほど知られていなかったのでは

ないだろうか。やがて 1953年になって、美空ひばりが El choclo

を「エル・チョクロ」という日本語タイトルで歌ったレコードが

発売され、それで Kiss of Fireの原曲が El chocloであるということが広く知られるようになったと思う。

因みにこの美空ひばりの録音は YouTubeにアップロードされている。

並 3ラジオに噛り付いて聴いた高山正彦氏担当の「ポルテニア音楽の時間」

レコードを買うことなど思いもよらなかったので、タンゴを聴くのはラジオに限られた。その頃、最も

安価なラジオは検波管-電圧増幅管-電力増幅管-整流管から構成される並 4 と呼ばれたものであった

が、実家にあったラジオはそれをさらに下回る検波管-電力増幅管-整流管からなる「並 3」で、しかも

トランスレスであった。トランスレスとは戦時中の物資不足の産物で、鉄材を使う電源トランスを省き、

整流管とコンデンサーの組み合わせだけの倍電圧整流回路により 100V から 200V の直流電圧を作り出

す方式である。100V電源の一方をそのままアースとしてシャシーにつないであったから、動作中にシャ

シーにお触ると「ビリッ」と感電する恐ろしい代物であった。真空管のヒーター電圧は 12Vと 24Vでそ

れと抵抗器を直列にして、いきなり 100Vにつないであった。更に、当時一般的であった出力信号の一部

を入力側にポジティブ・フィードバックする再生方式で、可変抵抗器でフィードバック量を調節して最

高感度に設定した。フィードバックが多すぎると「ピー」と発振するもので、その直前に設定するのが腕

であった。スピーカーは勿論マグネティック・スピーカーであった。

「ポルテニア音楽の時間」は週日の午後であったので、高校の授業と重なることが多く、毎週聴けるわ

けではなかった。それでも機会を作って聴いていた。これで「高山正彦」という名前も初めて知った。フ

ランシスコ・カナロやカルロス・ガルデルの名前を覚えたのもこの頃である。今から思えば噴飯ものであ

るが、当時、私はガルデルが存命中と思っていた。彼が(その時から)20 年前に事故死していたという

ことを知ったのはそれから数年後である。

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タンゴに関しては鳴かず飛ばずの大学 4 年間

私は 1954年に大学に進学した。大学在学中はタンゴに入れ込むことは無かった。それでも近くに住ん

できた従兄の家で、たまたま持っていカラベリの Feliciaやクリストバル・エレロのOrganito de la tarde

(レコード・レーベルの邦訳タイトルは「辻音楽師は行く」であったと思う)を聴かせてもらったことは

ある。当時、大学にはにはタンゴやラテン音楽の同好会があったはずだが、それらの情報も入手できず、

従って入会することもなかった。また、現日本タンゴ・アカデミー会員の角田 昭氏や泉谷隆雄氏も同じ

大学に同じ頃在学中であったはずだが、顔を合わせることも無かった。

ヤマハ・タンゴ・コンサートとポルテニヤ音楽同好会

1958 年に大学を卒業し、あるエレクトロニクス企業に入社し、その会社の独身寮に入寮した。寮に自

作のジャンク品で固めた全波ラジオを持ち込み、相変わらずタンゴを聴いていた。当時は残業が当たり

前であったので、タンゴを聴くのは夜遅く寝床に入ってからレシーバーで聴くのが常であった。放送時

刻はよく憶えてはいないけれども、10:30 頃や 11:30頃に始まる番組ではなかったろうか。それでも前者

のテーマ音楽がMadreselva、後者のテーマ音楽はUnoであったことは憶えている。但し、曲名がわかっ

たのは後になってからである。レシーバーで聴きながらそのまま寝てしまうこともしばしばあった。

その頃、新聞広告でヤマハ・タンゴ・コンサートというものがあることを知り、早速、聴きに行った。

会場は銀座のヤマハ・ホールであった。このコンサートでは毎回 3 楽団くらいが出演していた。最初に

行った時の最初の楽団は西塔辰之助がマエストロ兼第 1 バンドネオン奏者のオルケスタ・ティピカ・パ

ンパであった。タンゴの生演奏を聴いたのはこれが初めてあった。最初に聴いた曲は El internadoで、バ

ンドネオンという楽器を実見したのもこれが初めてであった。「なるほど、こういう楽器」かと思った。

その後、ヤマハ・タンゴ・コンサートにはしばしば足を運び、オルケスタ・ティピカ・パンパ以外に、

小澤 泰とオルケスタ・ティピカ・コリエンテス、伊吾田勇三とオルケスタ・ティピカ・ブエノス・アイ

レス、藤岡敬郎とキンテート・ロス・ミロンゲーロス、中田 修とオルケスタ・ティピカ・アルヘンティ

ーナ、相馬昭三とオルケスタ・ティピカ・オルガニート、その他の諸楽団の演奏をよく聴いた。当時は「タ

ンゴ花やかなりし頃」で多くのタンゴ楽団が腕を競い合っていた。早川真平率いるオルケスタ・ティピカ

東京はどういうわけかヤマハ・タンゴ・コンサートには出演せず、毎年 7 月 9 日の日比谷野外ステージ

での記念コンサートで聴くくらいであった。同じく坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニヤも聴く

機会は少なかった。

ある日のヤマハ・タンゴ・コンサートの終演後にポルテニヤ音楽同好会の入会勧誘のチラシを貰った。

「こういう会があるのか」と早速入会し、それ以後、毎月 1回のレコード・コンサートには熱心に出かけ

て行った。当時は JR 信濃町駅の近くのカトリックの会堂であった真生会館がコンサート会場であった。

コンサート会場はその後お茶の水ホール、東医健保会館と変わり、最後は会長であった大岩祥浩氏のご

自宅の広い応接間が会場となった。

ポルテニヤ音楽同好会のレコード・コンサートの音源は当時はすべて LP であった。最初に新発売の

LPの紹介があり、その後に高山正彦氏の解説によるレコード・コンサートが続いた。その情景を下の写

真に示した。高山氏の解説はさながら大学の講義のようで、ある人はこれを「高山タン大」と表現した。

言い得て妙である。近年と異なり、当時はタンゴに関する情報は非常に乏しかったので、皆、高山氏の解

説を一言も聞き漏らさじと耳を傾けた。出席者は毎回数十人と結構広い会場がいつも一杯であった。最

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近は誰もが「高山正彦氏」とか「高山さん」とか気楽に言うが、その頃は「高山先生」であり、足を向け

て寝られない存在であった。

1958年頃のポルテニヤ音楽同好会のレコード・コンサートの情景。立っているのが

高山正彦氏。中央で顎に手を当てているのが恐らく筆者。

ポルテニヤ音楽同好会と並んで高橋忠雄氏を中心とする中南米音楽研究会(SEMI)というのもあり、こ

ちらにも多くのタンゴファンが参加していたが、タンゴ以外のラテン音楽も含むということで私は

SEMIには顔を出さなかった。

私がポルテニヤ音楽同好会のレコード・コンサートに出席し始たころは、高山氏は「本当は SPを聴

いてもらいたのだが、何分にも音が悪くて…」と言葉を濁していた。しかし会を重ねるうちにとうとう

我慢しきれなくなって、ある日「音は悪いけれども、やはり SPを聴いてください」と 1 枚の SPを聴

かせてもらうことになった。それがオルケスタ・ティピカ・ビクトルの Flor de fangoであった。これを

聴いて私は一遍にこの曲が好きになった。これを機に SPの割合が次第に増えていった。日本の、特に

高齢者の、タンゴファンには SP愛好家が多いが、それには高山氏の影響が大きいと思う。

始めて買った LPは「これがタンゴだ!」(“Este es el Tango Porteño”)

私が始めて買った LPは東芝エンジェルからの“Este es el Tango

Porteño”(HV 1025)である。この話を聞いたある人から「貴方は随

分とタンゴ奥手ですね」と言われたが、たしかにその通りである。

この LPのタイトルは周知のように当時放送されていたラジオ東京

のタンゴ番組のタイトルに因んでいる。この番組の冒頭の「これがタ

ンゴだ!」という掛け声とそれに続く続いてホルヘ・カルダーラ(当時

は誰だかわからなかったが)のレシタード“Este es el Tango

Porteño…”は今でもタンゴファンの思い出となっている。

何しろ持っているタンゴのレコードはこれ 1 枚なので、毎日曜日

(週休 1日制の時代の話である)には必ず聴いていた。エンリケ・ロドリゲスの La cumparsitaやアル

フレド・デ・アンジェリスの Cuando llora la milongaは特に愛聴曲であった。

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フランシスコ・カナロ楽団の来日公演―カナロが歌った!―

1961 年のフランシスコ・カナロ楽団の来日公演ではポルテニヤ音楽同好会の世話でなけなしの小遣

いをはたいてチケットを購入し、新宿コマ劇場での初日の公演を大岩祥浩氏、島﨑長次郎氏、石川浩司

氏、蟹江丈夫氏その他の方々と並んで最前列で聴い

た。幕開けの Sentimiento gaucho、グロリア&エド

ゥアルドのダンス、イサベル・デ・グラナとエルネ

スト・エレラと共にカナロ自身が歌ったMunyinga

は特に印象に残っている。これについては高山氏も

「カナロが歌ったよ」と大感激であった。

このフランシスコ・カナロ楽団の来日公演の大成

功によって、その後は、オスバルド・プグリエーセ

楽団、フロリンド・サッソーネ楽団、キンテート・

レアル、その他のアルゼンチンのタンゴ楽団が次々

と来日公演を果たすことになる。

パリで買ったピサロの LP

1963 年に私はある大きな国際会議での論文発表のためにパリに行

った。初めての海外出張であった。当時、私は 27歳であり、国際会

議の合間に若さに任せてパリ中を見物して回り、ヴェルサイユにま

で足を延ばした。その折、パリのボン・マルシェという老舗のデパ

ートのレコード売り場で見つけたのが右に示したマヌエル・ピサロ

の 25cm LPである(bel air 321054)。後から分かったことだが、こ

れはピサロの恐らく 1950年代の録音で、フランスのバークレイ・レ

ーベルから出ていた EPが元の音源らしい。そうとは知らず、しばら

くの間これをピサロの 1930年代の録音と思っていた。しかし音をよ

く聴いてみればそんな古い時代の録音でないことは明らかである。LPジャケットには「カルロス・ガ

ルデルへのオマージュ」とあるが、収録曲目は特にガルデルと関係があるわけではない。他にも数枚の

ピサロの LPがあったようだが、懐具合を考慮して買ったのはこれ 1 枚である。

モントリオールで見つけた唯 1 枚のタンゴの LP

私は 1968年から 1969年まで 1年間、会社を休職して、カナダ・モ

ントリオールのマッギル(McGill)大学にポスドクとして滞在した。

モントリオールはフランス系の町なのでタンゴのレコードはあるに違

いないと思ってレコード屋に行ったが、案に相違して見つけたのは右

に示した LP 1枚だけであった。珍しく米国キャピトル・レーベルのタ

ンゴの LP(Capitol T10053)であるが、プレスはカナダである。中身

は A面がアルフレド・デ・アンジェリス、B 面がオスバルド・フレセ

Munyinga を歌うフランシスコ・カナロ

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ドの、共に 1950 年代の録音である。特筆するような内容ではないが、米国のタンゴの LPである点が

珍しい。モントリオール滞在中はレコード・プレーヤーもアンプも無かったので、実際に音を聴いたの

は帰国後のことであった。

タンゴファンの SP愛好ムードが高まる

ポルテニヤ音楽同好会のレコード・コンサートのプログラムが LP

中心から SP中心へとシフトが進むと共にポルテニヤ音楽同好会を

中心とするタンゴファンの SP愛好ムードは高まった。それが始ま

ったのは 1960 年代後半からではないかと思う。特に 1970年に大岩

祥浩氏がアルゼンチンを訪問され、貴重な SPや古い資料、情報を

持ち帰られたことでタンゴファンの SP熱は急速に高まったと言う

ことが出来る。と言っても誰もが古い SPを手に入れることは殆ど

不可能で、レコード・コンサートで大岩氏のような大コレクターの

所蔵 SPを聴かせてもらうのが唯一の楽しみであった。そんな時に

日本ビクターから「愛蔵家盤 アルゼンチン・タンゴの歴史」(RA

5386~8)というタイトルの 3枚組の復刻 LPが発売された。1970 年代前半のことではなかったかと思

う。これは有難かった。繰り返し、繰り返し聴いた憶えがある。中でも当時幻の SPと言われていたオ

ルケスタ・ティピカ・ロス・プロビンシアノスの La cachilaが最も印象に残っている。「あの原盤は音が

悪い」などと悪口を言う人もいたが、そんなことは問題外であった。

京都・寺町通の古レコード屋で見つけた ALMA TANGUERA

30年ほど前まで京都市の寺町・丸太町と寺町・二条通の間、恐らく寺町・竹屋町か寺町・夷川通あた

りに民家の一角を改装したような古レコード屋があった。土がむき出しの平土間に足つきの粗末な木箱

があり、そこに古 LPが無造作に並べられていた。片隅に置かれた板には SPが二山(と言っても 20~

30枚程度)積んであり、一方は 1枚 200 円、他方は枚 300 円であった。私は京都の大学にリクルート

活動に行ったついでに(というよりこちらが本当の目的)この古レコード屋に何回か立ち寄った。1980

年のある日、そこでいつものように 1枚 300 円の SPの山を漁っていると、なんと ALMA TANGUERA

という文字が目に飛び込んできた。「まさか」と思ってもう一度見直

すとやはり ALMA TANGUERAである。躊躇なく買うことにした

が、高山正彦氏から SPは 1枚だけでは割れるので、必ず 2~3 枚重

ねて持ち歩きなさいということを聴いていたので、1枚 200 円の山の

中からコンチネンタル・タンゴの SPを 2 枚併せて買い、大切に持ち

帰った。それが右にレーベルを示した SPである(日コロムビア JX

1093)。それまで私は ALMA TANGUERAのレコードが日本で発売

されていたことを知らなかった。この話を大岩祥浩氏に話したら大い

に驚かれ「随分、高かったでしょう」と言われた。高いどころかただ

の 300円である。この店には芝野史郎氏や泉谷隆雄氏も通われたそう

だが、今はもう無い(Café Domínguez 流に言えばQue ya no queda)。

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私家版 SP復刻の嚆矢となった「NUNCA」

1970 年代後半から日本ビクターから SP復刻 LPがシリーズものとして発売され始めた。これも有難

かった。商業ベースではなく、コレクターが私家版として所蔵する SPを LPとして復刻する活動もこ

の頃始まったように思う。しかし何と言ってもタンゴファンに絶大な影響を与えたのは大岩祥浩氏によ

る A.M.P.シリーズ、および馬場明人氏による C.T.A.シリーズ(レー

ベル名は A.V.ALMA)である。その嚆矢となったのが 1982 年にリ

リースされた「NUNCA」(AMP 103~104)である。それまでレコ

ード・コンサートでなければ聴くことのできなかった SP音源が LP

化されたことによって SPコレクターでなくても「古き佳き時代」の

タンゴを楽しむことができるようになったのである。正に革命的で

あったと言える。媒体は時代の推移と共に LPから CDに替わった

が、A.M.P.シリーズは 2008年の大岩氏のご逝去までの約 30 年間、

C.T.A.シリーズも 1983年頃から 2015年までこれも約 30 年間、年

に数点のペースで復刻を続いてきた。正確に数えたことはないが、

両シリーズとも総数はそれぞれ 200点を越えるであろう。両シリーズのお陰で日本のタンゴファンのタ

ンゴ愛好のレベルがぐっと向上したことに疑いの余地は無い。

ブエノス・アイレス・タンゴ・フェスティバル・ツアー

2007 年、私は(株)ラティーナ主催によるブエノス・アイレス・タンゴ・フェスティバル・ツアーに参

加して初めてブエノス・アイレスを訪れた。わずか 1週間の滞在であったが、私にとっては非常に実り

の多いツアーであった。通常、ブエノス・アイレス・タンゴ・ツアーと言えばタンゲリーア、シアタ

ー・レストラン、あるいはタンゴ・バーのようなところでタンゴを楽しむことになるのだが、そういう

場所は一般に料金が高価で、観客も観光客が主体で地元の人は余り足を運ばないという。ところがブエ

ノス・アイレス・タンゴ・フェスティバルというのは市が主催するその名の通りの「お祭り」で、市内

各所に臨時の会場を設けて諸楽団が演奏し、しかも入場料は無料である(整理券は必要だった)。だか

ら地元の人たちが大勢集まり、心底タンゴを楽しんでいる様子が良くわかった。

普段は家畜の売買に使われている体育館のよ

うな大きな建物を利用した会場では、広いフロ

アの正面に楽団演奏のために仮設のステージが

あり、両脇にこれも仮設の観客席があった。中

央のフロアには何もなく、人々はそれぞれにダ

ンスを楽しんでいた。私のように踊らない人た

ちは仮設観客席か、ステージのかぶり付きで演

奏を聴いていた。なるほど、本場の人たちはこ

ういう風にタンゴを楽しむのか、と思った。日

本ではタンゴを踊る人とタンゴを聴く人の間に

は何となく「壁」乃至は「谷」を感じるが、そ

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ういうことを全く意識させない雰囲気がここにあった。会場の後方にはいくつかのブースがあり、その

1つが古い SPが多数並べていた。私が熱心に眺めていると、そこの女主人が「これはパチョだ、これ

はカナロだ」といくつかの SPを出してくれた。しかしスペイン語なので、それ以上の会話は出来ず、

結局何も買わないでしまった。後からわかったことだが、彼女(名前はエレナさんというらしい)は実

は米国出身だったのだ。それなら英語で話せたのにと、今になって残念な思いが募る。

別な日のボカの映画館を会場にしたコンサートでのオルケスタ・ティピカ・フェルナンデス・フィエ

ロには度肝を抜かれた。先ず服装が殆どヒッピースタイルで、ステージにペットボトルを持ち込んでい

る。日本の旧制高校生の「弊衣破帽」に通じるものがある。演奏が始まると早いテンポでバンドネオン

を乱暴に上下・開閉する演奏スタイルで、「あれではバンドネオンが壊れてしまうよ」とか「まるでロ

ックのようだ」などと一同呆れ返ったが、演奏そのものは立派であった。演奏終了後の「投げ餅」なら

ぬ「投げ CD」にも驚かされた。

ツアーではイグアスの滝に行くオプションもあった

が、私はそれには参加せず、一人で市内を見物した。止

宿したホテルはコリエンテス通りに面したアバスト地区

にあり、そこから西に数ブロックのところにプグリエー

セが住んでいたアパートがあった。アパートの壁面には

左に示したようなプレートが取り付けられてあった。

ホテルの近くにはエスキーナ・カルロス・ガルデルが

あり、そこから数十メートルのところに古道具屋があっ

た。見ると高さ 1mほどの SPの山が 3~4つあった。早速、飛び込んだがとてもすべては見切れない。

それでもロベルト・フィルポの 1910年代の SPなど、何枚か手に入れた。ホテルの近くにはこれまた小

汚い古レコード屋があり、そこではビルヒニア・ルケ、ネリー・バスケス、リベルタ・ラマルケなどの

LPを手に入れた。LPの値段はどれでも大体数ペソであったが、ラマルケの LPだけは 10 倍の 50ペソ

であった。

オルケスタ・ティピカ・ビクトルは癒しのタンゴ

2015年 10 月 15 日、私はウォーキングの途中で転倒

し、右に示したレンガの構築物に右顔面を強打して、動脈

断裂を含む顔面裂傷、涙小管断裂、頬骨骨折の重傷を負

い、2 回の全身麻酔手術を含んで 18日間の入院生活を送

る羽目になった。と言っても首から下は問題ないので、退

屈しのぎに自宅から CDラジオと CDを持ってきてもら

い、イヤホンでタンゴを聴いていた。そこで思ったのはカ

ナロやフィルポのような大マエストロのタンゴを聴く場合はやはりそれなりの気構えが必要であるが、

一方、オルケスタ・ティピカ・ビクトル(O.T.V.)の、特に 79000 番台の場合はそういう気構えは必要

なく、タンゴの世界にどっぷりと浸かる気持ちで聴けるということである。そういう意味でO.T.V.のタ

ンゴは癒しのタンゴである。私は以前からO.T.V.が好きであったが、病床で聴くことでO.T.V.が一層

好きになった。