「遠さと近さ」...

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Meiji University Title �(�)�(�)Author(s) �,Citation �, 526: 73-88 URL http://hdl.handle.net/10291/19134 Rights Issue Date 2017-09-30 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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Page 1: 「遠さと近さ」 もしくは「アウラの消失」について...明治大学教養論集通巻526号 (2017• 9) pp. 73-88 フェルネ ネーエ 「遠さと近さ」 もしくは「アウラの消失」について

Meiji University

 

Title「遠さ(フェルネ)と近さ(ネーエ)」もしくは「アウラ

の消失」について

Author(s) 田島,正行

Citation 明治大学教養論集, 526: 73-88

URL http://hdl.handle.net/10291/19134

Rights

Issue Date 2017-09-30

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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明治大学教養論集通巻526号

(2017• 9) pp. 73-88

フェルネ ネーエ

「遠さと近さ」

もしくは「アウラの消失」について

田島正行

カフカの作品に,『天井桟敷にて』と題された興味深い掌編がある。わず

か2頁足らずの短いものなので,以下に全文引用しておく。

今にもくずおれそうな肺病やみの曲馬団の少女が,足どりのおぽつか

ない馬に乗り,疲れを知らぬ観客の前で,仮借なく鞭を振う団長に,何

カ月もぶっ通しでぐるぐると駆けずり廻ることを要求され,馬上で回転

し,キスを投げ,腰を振り,そしてこの演技が休みなしに吼えたけるオー

ケストラと換気扇の嘉音のもとで,消えるかと思えばまた高まる蒸気ハ

ンマーさながらの拍手を浴びながら,続けば続くほど,いよいよ大きく

開かれる灰色の未来へ吸いこまれて行く―こういうことが起きるなら

ば,ひょっとすると,天井桟敷で見ていた一人の若者が,長い階段をか

けおり,大衆席から特等席まで突っ切って,演技場に転げだし,伴奏を

続けているオーケストラのファンファーレを貫いて,やめろ! と大声

で叫ぶかもしれない。

だがそんなことは起きないのだ。白と赤の衣装を身につけた美人が,

胸を張ったお仕着せの男たちが引きあける幕のあいだからひらりと躍り

出,団長は献身的な面ざしで彼女を振り仰ぎ,動物めいたそぶりで顔を

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74 明治大学教養論集 通巻526号 (2017•9)

すり寄せ,まるで彼女が危険な旅に出かける最愛の孫娘でもあるかのよ

うに,こわれものをさわる手つきで兼毛の馬に乗せ,鞭の合図をなかな

か下しかね,ようやく腹をきめて鞭を打ち鳴らすと,口をあけたまま馬

に並んで走り,騎手の跳躍を一心に見守り,彼女がこれほど芸達者とは

ほとほと理解に余る様子で,何やら英語を口走っては注意を与え,輪を

かかげている馬丁に,念を入れすぎることはないのだぞといきり立って

どなりつけ,いよいよ見せ場の宙返りとなれば,手を高く上げてオーケ

ストラに,音楽をとめてくれと要請し,ついに演技が終わると,身をふ

るわしている馬から少女を抱き下し,両頬にキスし,観客がどれほど喝

采してもまだまだ足りないという顔を見せ,少女はといえば,団長に支

えられ,思い切り爪先立ちして,埃の舞い立つ中で両手をひろげ,小さ

な頭をそり返らせながら, 自分の幸福をこの場に居合わせた人々全部と

分かち合おうとしている一—ありようはこうなので,天井桟敷の若者は,

顔を手すりに伏せ,辛く切ない夢に沈みこむようにおひらきの行進曲に

ひたりながら,われとも知らず涙にくれる。 (円子修平訳) l)

この掌編の原文は長大な二つの文章で構成されている。しかもその前半は

非現実話法の接続法で,後半は事実の陳述としての直接法で書かれている。

したがって,前半は「曲馬団の少女」に対する「天井桟敷の若者」の想念を,

後半は「曲馬団の少女」の事実上の形姿を描写していると考えられるだろう。

してみれば,この作品は幻想と事実との対比を鮮烈に描いたものと言えるか

もしれない。だが,はたしてそう言い切れるものかどうか。というのも,

「天井桟敷の若者」は「われとも知らず涙にくれる」と締めくくられている

からだ。この涙は,事実のためにその幻想を打ち砕かれた「天井桟敷の若者」

のそれではない。「天井桟敷の若者」はその場を離れてはおらず,「曲馬団の

少女」の事実上のありようを正確に知る由もないのである。それを知ってい

るのは,語り手だけである。「天井桟敷の若者」は「曲馬団の少女」を「肺

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「遠さと近さ」もしくは「アウラの消失」について 75

病やみ」と夢想し,「辛く切ない夢に沈みこむように」その想念に浸り込ん

だまま涙を流している。

ここには二つの現実が存在していると言うべきである。すなわち〈幻想の

現実〉と〈事実の現実〉とが。もちろん, 日常生活において,〈事実の現実〉

が客観的現実とされ,〈幻想の現実〉は主観的現実として貶められる。しか

しカフカが暗に主張しようとしているのは,双方の現実が等価であり,どち

らが〈本来の現実〉であるのか決定不能であるということではないだろうか。

こう考えるのも,カフカが次のようなアフォリズムを遺しているからである。

木々

なぜならぽくたちは雪のなかの木の幹のようなのだから。それは滑ら

かに雪の上に載っているように見える,ほんの一突きで押しのけること

もできるだろう。いや,そうはいかない,木の幹は大地とかたく結びつ

いているのだから。しかし,見たまえ,それすらもそう見えるというに

すぎない。 (円子修平訳)2)

このカフカの言葉にしたがえば,客観的現実としての〈事実の現実〉すら

も「そう見えるというにすぎない」のである。『天井桟敷にて』に話をもど

すなら,「曲馬団の少女」の事実上のありよう,「白と赤の衣装を身につけた

美人」で,団長から「最愛の孫娘」のように丁重に扱われている姿さえも,

「そう見えるというにすぎない」のかもしれないのだ。実際には,団長が

「曲馬団の少女」を酷使し,彼女が「肺病やみ」である可能性もないわけで

はない。こう考えてみれば,〈事実の現実〉と〈幻想の現実〉のどちらが

〈本来の現実〉であるのか,決定できなくなってくるだろう。

ところで,いま問題にしたいのは,『天井桟敷にて』の話者の視点が,前

半では天井桟敷という〈遠い視点〉から,後半では演技場という〈近い視点〉

へと移行していることである。仮に若者が天井桟敷ではなく,演技場に近い

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平土間にいたとするなら,この話は成り立たないであろう。若者は目の前の

〈事実の現実〉に圧倒され,そこに想念の入り込む余地はないからだ。若者

が「曲馬団の少女」を「肺病やみ」と夢想しうるためには,彼はかならず天. . 井桟敷にいなければならない。演技場からは遠い天井桟敷の客であればこそ,

若者には「曲馬団の少女」が「肺病やみ」に思えたのである。ここには〈遠

さの秘密〉がある。カフカはそれを用いてこの掌編を書いている。

II

ところで,カフカの『天井桟敷にて』の話と本質的に似ていると思われる

体験の記憶がわたしにはある。それは,半世紀以上も前に聴いたイタリアの

伝説的ピアニストの演奏会でのことだった。会場に最初の音が鳴り響くやい

なや,一瞬にして,わたしは夢のような陶酔の世界へと拉致された。その異

様な音の美しさをことばで形容することはできない。それはピアノの音とは

とうてい思えない,いままで聴いたこともないような神秘的で玄妙な音であっ

た。実際休憩時間には,何人もの聴衆が何か仕掛けがあるのではないかと

ビアノを覗き込んでいたのを覚えている。そしてこの衝撃的な体験のあと,

かなり年月を経てから,わたしは同じピアニストの演奏をふたたび聴いた。.. はじめてこのピアニストの演奏を耳にしたときは舞台から遠く離れた席であっ

たが,今回は最前列の中央,舞台にかぶりつきの席で聴いたのである。伝説

のピアニストは,文字どおりわたしの目の前でピアノを弾いていた。驚いた

ことに, ピアニストは極度の緊張のあまり顔面は蒼白となり,額には脂汗を

浮かべ,震えながら鍵盤に指を落としていた。その姿は,さながら苦悶の表

情を浮かべながら苦行に励む修行僧に似ていたのである。そしてピアノの音

自体も,かつて聴いた神秘的で玄妙な音ではなく,いかにも美しいピアノの

音にすぎなかった。わたしは眼前のビアニストの光景にとらわれ,ふたたび

陶酔の世界へと誘われることはなかった。

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「遠さと近さ」もしくは「アウラの消失」について 77

同じビアニストの演奏を聴きながら,どうしてこのような相違が生まれた

のであろうか。しかし,ある意味で,これは当然のことであったろう。たと

え同じ演奏家であっても, 日によって演奏が異なることはよくあることだか

ら(件のピアニストはレパートリーや演奏回数,録音が極端に少なく,いつ

でも判で押したように同じ演奏をする完璧主義者として知られていた)。ま

してやわたしの場合,歳月の隔たりはあるし,会場も異なっていた。そして

ビアノ自体もちがっていたのである(また件のピアニストは来日するたびご

とに,異なるピアノを持参すると言われていた)。しかしそうした諸々の要

素を勘案したうえでも,わたしにはそれらが根本的理由であるとはどうして

も思えないのである。いちばんの理由は,聴く場所の位置のちがいが大きかっ. . . . たのではないか。すなわち,舞台から遠く離れた座席と舞台近くの座席とで

は,音の聴こえ方が本質的にちがってくるのではないだろうか。もちろん音

が空気の振動によって伝わる以上,その距離がちがえば,物理上からも当然

その聴こえ方はちがってくるとはいえ,舞台に〈遠い座席〉と〈近い座席〉

とでは,聴こえる音質は,単なる物理的要因に還元できない本質的相違があ

るように思える。端的に言えば,〈遠い座席〉では舞台が〈アウラ〉に包ま

れているのにひきかえ,〈近い座席〉では〈アウラ〉が消えるように感じる

のである。だが,〈アウラ〉とは何か。

m

今日,〈アウラ〉の概念は人口に8會炎されているが,それが一般に知られ

るようになったのはベンヤミンの『複製技術の時代における芸術作品』によっ

てである。ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品において滅びゆくものは

作品のアウラである」として,こう述べている。

いったいアウラとは何か? 時間と空間とが独特に縫れ合ってひとつ

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になったものであって, どんなに近くにあっても遠い一回限りの現象で

ある。ある夏の午後,ゆったりと憩いながら,地平に横たわる山脈なり,

憩う者に影を投げかけてくる木の枝なりを目で追うこと一—これが,

その山脈なり枝なりのアウラを,呼吸することにほかならない。この描

写を手がかりとすれば,アウラの現在の凋落の社会的条件は,たやすく

見てとれよう。この凋落は二つの事情にもとづいている。そしていずれ

の事情も,大衆がしだいに増加してきて,大衆運動が強まってきている

ことと,関連がある。すなわち,現代の大衆は,事物を自分に「近づけ

る」ことをきわめで情熱的な関心事としているとともに,あらゆる事象

の複製を手中にすることをつうじて,事象の一回性を克服しようとする

傾向をもっている。 (野村修訳。一部訳語を変えた。以下も同じ)3)

ベンヤミンによれば,〈アウラ〉とは「時間と空間とが独特に縫れ合って

ひとつになったもの」であり,「どんなに近くにあっても遠い一回限りの現

象」とされる。この説明では〈アウラ〉が何であるのかはっきりしないが,

しかしその具体的描写をみればそれは明らかである。〈アウラ〉とは,われ

われが通常雰囲気と呼びならわしている〈場の空気感〉にほかならない。こ

のことは,〈アウラ〉の原語であるギリシア語 aupaの意味,「息,空気の流

れ」からもわかる。〈場の空気感〉は「時間と空間とが独特に縫れ合ってひ

とつになったもの」であって,時空性を帯びている。そうであるがゆえに,

「どんなに近くにあっても遠い一回限りの現象」なのである。〈場の空気感〉

は過ぎ去ってゆく時間の流れのなかにあり,捉えることができないからだ。

こうした〈アウラ〉=〈場の空気感〉は複製にはまった<欠如している。

ベンヤミンは芸術作品のオリジナルと複製との決定的なちがいをつぎのよ

うに指摘している。

最高の完成度をもつ複製の場合でも,そこには〈ひとつ〉だけ抜け落

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「遠さと近さ」もしくは「アウラの消失」について 79

ちているものがある。芸術作品は,それが存在する場所に,一回限り存

在するものなのだけれども,この特性,いま,ここに在るという特性が,

複製には欠けているのだ。しかも芸術作品は,この一回限りの存在によっ

てこそその歴史をもつのであって,そしてそれが存続するあいだ,歴史

の支配を受けつづける。作品が時間の経過のなかでその物質的構造にこ

うむる変化にしても,また,場合によって起こりうる所有関係の交替に

しても,その歴史の一部分である。……

オリジナルが,いま,ここに在るという事実が,その真正性の概念を

形成する。そして他方,それが真正であるということにもとづいて,そ

れを現在まで同一のものとして伝えてきたとする,伝統の概念が成り立っ

ている。真正性の全領域は複製技術を一ーのみならず,むろん複製の可

能性そのものを—排除している。 (野村修訳)4)

複製には,オリジナルのもつ真正性が欠けている。すなわち,「それが存

在する場所に,一回限り存在する」という特性,「いま,ここに在るという

特性」を欠いているのである。〈いま〉が時間性であり,〈ここ〉が空間性で

ある以上,この特性は〈場の時空性〉にほかならない。芸術作品のオリジナ

ルが「一回限りの存在」であるのは,その時空が時間の流れに浸されている

からであり,またそれゆえにこそオリジナルの芸術作品は「歴史をもつ」の

である。

美術館に展示されている名画のオリジナルは,一種独特の雰囲気に包まれ

ている。この雰囲気は,「オリジナルが,いま, ここに在る」という臨場感

としての〈場の空気感〉にほかならない。これこそまさしく〈アウラ〉であっ

て,この〈アウラ〉が時空性を帯びていることは言うまでもない。こうした

〈アウラ〉が複製に欠如しているのは,複製の本質が〈脱時空化〉にあるか

らであった。

ベンヤミンは,〈手製の複製〉がオリジナルの「偽造品という烙印を押さ

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れるのが通例である」のにひきかえ,〈技術による複製〉は必ずしもオリジ

ナルの偽造品とは言えないとして,二つの理由をあげている。

しかし,偽造品という烙印を押されるのが通例の手製の複製にたいし

ては,真正のものはその権威を完全に保持するとはいえ,技術による複

製にたいしては,そうは問屋が卸さない。その理由は二つある。第一に,

技術による複製はオリジナルにたいして,手製の複製よりも明らかに自

立性をもっている。たとえば写真による複製は,位置を変えて視点を自

由に選択できるレンズにだけは映っても人間の目には映らない眺めを,

オリジナルから抽出して強調することができる。あるいはまた,引き伸

ばしや高速度撮影の特殊な手法の助けを借りて,普通の目では絶対に捉

えられない映像を,定着することもできる。これが第一点。加えて,技

術による複製は第二に,オリジナルの模像を,オリジナル自体にかんし

ては想像も及ばぬ場所へ,運びこむことができる。何よりもそれは,写

真のかたちでであれディスクのかたちでであれ,オリジナルを受け手に. . . . 近づけることができる。大寺院もその場所を離れて,芸術愛好家のアト

リエに受け入れられるようになり,大ホールや野外で歌われた合唱作品

も,室内で聴かれるようになる。 (野村修訳,傍点は引用者)5)

ベンヤミンが挙げている〈技術による複製〉の特性の第一は「自立性」で

ある。すなわち,オリジナルを用途に合わせて修正加工できるということで

ある。写真撮影された美術品の画像を部分的に拡大縮小したり,転写したり

できる。また,録音された音源は録音技師により, ミキシングされ,微調整

される。だが,これよりも重要なのは第二の特性である。〈技術による複製〉

(以下,単に複製と表示する)は,「オリジナルの模像を,オリジナル自体に

かんしては想像も及ばぬ場所へ,運びこむことができる」のだ。これこそ,

複製の特性が〈脱時空化〉にあることを端的に示していよう。美術品のオリ

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「遠さと近さ」もしくは「アウラの消失」について 81

ジナルを見るためには,それが現に置かれている遠い美術館に足を運ばねば

ならない。しかしオリジナルの複製であれば,〈いつ〉でも〈どこ〉でもそ

れを見ることができる。写真撮影した美術品の画集を,われわれは自宅で身

近に, しかも繰り返し見ることができるだろう。

複製のこうした〈脱時空化〉は,音響芸術や舞台芸術においてより鮮明に

なる。というのも,音楽や演劇などは人間の肉体を通じての一回限りの表現

であり,美術品のような物質性を欠いているがゆえに,現象的性質を色濃く

帯びているからだ。たとえば音楽会のライプ演奏と,それを録音したレコー

ドとを比較してみれば,〈脱時空化〉という複製の特性が明瞭に感得できる

だろう。ライブ演奏を生で聴くとき,われわれは舞台の演奏とともに,それ

が鳴り響くホールの〈場の空気感〉を五感全体で呼吸している。つまり,ラ

イプ演奏の音は独特な臨場感としての〈アウラ〉に包まれているのである。

これに対して, 自宅でレコードを再生して聴く場合,その音には〈アウラ〉

がまった<欠如している。すぐれた録音技師によるものであれば,ライプ録

音のレコードにも〈場の空気感〉が録音されており,よい再生装置で聴けば,

それが感じられるとひとは言うかもしれない。しかしそれは,〈脱時空化〉

された音の波形にすぎない,たとえどんなに精緻な波形であるにしても。浮

かんでは消える顔の一瞬の表情を撮影した写真が,〈脱時空化〉された画像

にすぎないのと同じである。レコードも写真も,〈脱時空化〉されて定着さ

れた音の波形や画像,要するに〈脱時空化された情報〉であるがゆえに,そ

れは限りなく複製することができるのだ。

〈アウラ〉とは「どんなに近くにあっても遠い一回限りの現象」であった。

それは,「一回限りの存在」というオリジナルの特性に密接に関係している

のである。そうである以上,複製に〈アウラ〉が欠けているのは当然だろう。

だが,すでに述べたように,わたしは伝説のピアニストのライプ演奏を生で

〈近い座席〉で聴いたとき,〈アウラ〉を感じとることができなかった。少な

くとも私の主観においては,〈アウラ〉は消失していたのである。このこと

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82 明治大学教養論集通巻526号 (2017• 9)

はどう説明できるのだろうか。

IV

ベンヤミンの〈アウラ〉に決定的影響を与えたと言われる思想家クラーゲ

スは,遠近の問題に関して面白いことを指摘している。

エントフレムドゥンク

観想は形象の分 別 化に成立し,感覚は観想された像を定位すると

ころに成立する。なんとなれば,詳細に説明した如く,接触の体験は此

処概念(従って今概念)の出発点をなすからである。此処とは何か?

もともとそれは私が触れることの出来るものである。破亙とは何か?

もともとそれは触れることの出来ないものである。接触の体験がなけれ

ば,此処と彼処との区別も(従って今と曾つてとの区別も)存しないで..

あろう。観想者が出来る限り遠くを「見渡すの」のは,彼は観想者とし... て偏在しているからである。感覚者にはただ現に在るものしか触れない

..... のは,彼は感覚者として常に此処に居るからである。併しながら感覚さ

れたものの此処性があってこそ,はじめて観想されたものの遠隔性が,

無限に推しやられる彼処の性格を獲得する。一一官能器官は専ら「特殊..

に」のみ区別されるのではなく,先ず感覚が観想に比して重きをなす,

その程度に従って区別され,次いで言うまでもなく,すべての官能器官. . . . . . に共通に開放されている形象世界の質的特定の諸側面に対する特殊受容

性に従って区別されるのである。感覚は触,温体験,味覚などの近感覚

で大いに重きをなし,嗅覚などの中間感覚になればもう著しく後退し,

聴視の遠感覚では観想に圧倒されている。触器官は最高度に感覚器官

であり,眼は最高度に観想器官である。

(千谷七郎訳。一部,訳語や表記などを変えた。)6)

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「遠さと近さ」もしくは「アウラの消失」について 83

感覚 (Empfindung)は基本的に「接触の体験」であって,〈いま〉〈ここ〉

という概念の出発点をなすものであり,〈近さの性格〉を帯びている。これ

に対して,観想 (Schauung) は〈かつて〉〈かしこ〉という〈遠さの性格〉

を帯びている。両者が結びついてはじめて遠近感が生じるというのである。

クラーゲスによれば, 肉体 (Leib) の働きとしての感覚によって形体

(Korper) が,心情 (Seele)の働きとしての観想によって形象 (Bild)が

体験される。心情と肉体は緊密に結びついており,われわれが外界から受け

る諸印象の内実はまさしくこの形象と形体が融合したものなのである。また

そうであるがゆえに,われわれは外界の諸印象を定位できる。形体を通じて

〈いま〉〈ここ〉が,形象を通じて〈かつて〉〈かしこ〉が体験され,両者が

結びついて遠近感が生じるからだ。もし形象から形体が切り離されてしまう

ならば,形象は〈いま〉〈ここ〉から解き放たれて,あてどなく浮遊してし

まうだろう。たとえば,夢像はまさにそうしたものであるだろう。深い睡眠

中において,肉体の感覚は眠り込みながらも,心情は目覚めて観想すること

がある。これが夢見ということであって,夢像は「形体を欠いた形象」にほ

かならない。夢像が変幻自在に時空を浮遊できるのは,それが形体を欠いて

いるからであり,〈いま〉〈ここ〉という場所に係留されていないからだとい

うのである。

ところで,われわれにとって注目すべきは, クラーゲスが「感覚は触,温

体験,味覚などの近感覚で大いに重きをなし,嗅覚などの中間感覚になれば

もう著しく後退し,聴,視の遠感覚では観想に圧倒されている。触器官は最

高度に感覚器官であり,眼は最高度に観想器官である」と述べていることで

ある。ここで,先に保留していた問題に戻れば,それはこういうことであっ

た。同じライブ演奏でも,〈遠い座席〉では〈アウラ〉に包まれているよう

に感じるのにひきかえ,〈近い座席〉では〈アウラ〉が消えるように感じる

のはなぜかということである。ベンヤミンによれば,〈アウラ〉とは「どん

なに近くても遠い一回限りの現象」であり,それが「場の空気感」であるこ

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84 明冶大学教養論集通巻526号 (2017• 9)

とは原語のギリシア語の意味(「息,空気の流れ」)からも明白であった。と

すれば,ライブ演奏を〈近い座席〉で聴いても〈アウラ〉は消えないはずで

ある。〈近い座席〉ではなぜ〈アウラ〉が欠如しているように思われるのか。

この問題を考えるうえで, クラーゲスの言葉は大きなヒントを与えてくれる。

すなわち,感覚は〈近感覚〉で,観想は〈遠感覚〉で重きをなすという指摘

である。〈近い座席〉では感覚が観想を圧倒しているがゆえに,〈アウラ〉が

消えるように感じるのではないか。言い換えれば,〈遠い座席〉ではわれわ

れは〈観想者〉となるがゆえに〈アウラ〉を感得できるが,〈近い座席〉で

は〈感覚者〉となってしまうがゆえに〈アウラ〉を感得できないということ

である。たしかに,聴覚,視覚は〈遠感覚〉であり,「眼は最高度に観想器

官である」とされている。しかも生の音楽体験において最も大きな比重を占

めるのが先ず聴覚であり,次いで視覚であることは言うまでもない。だが,

〈近い座席〉では,ほんらい〈遠感覚〉である聴覚は肉体の感覚に圧倒され,じか

音は鼓膜に直に触れてくる。つまり,音は一種の肉体的生々しさを帯びて迫っ

てくるのである。そこに心情の観想の働く余地は限りなく少なくなり,〈ア

ウラ〉が感得できなくなるのではないか。

生の演奏を限りなく〈近い座席〉で鑑賞したいと願う好楽家たちは,舞台

で奏でられる音楽をできるかぎり直に体験したいと考えているのだろう。か

れらからすれば,〈遠い座席〉ではヴェールを通して音を聴くようなもので,

原音の生々しい直接性が著しく減衰すると思われるのだ。しかし,このヴェー

ルこそが〈アウラ〉にほかならない。〈遠い座席〉では,会場全体の時空を

領する〈場の空気感〉としての〈アウラ〉が舞台を包み込んでいる。音楽は

舞台の演奏家の〈かつて〉〈かしこ〉から座席の聴き手の〈いま〉〈ここ〉に,

わずかな時間差で,〈アウラ〉を通して響いてくる。その結果,聴き手は音

楽によって触発された観想に身をゆだねることができる。そこで体験される

〈形象世界〉は〈観想者〉にとって生々しい現実性を帯びている。これに対

して,舞台に近接した〈近い座席〉では,会場全体の〈場の空気感〉は背後

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「遠さと近さ」もしくは「アウラの消失」について 85

に退いており,〈アウラ〉は皆無とは言わないまでも,限りなく希薄になっ

ている。そして舞台の演奏家の〈かつて〉〈かしこ〉と座席の聴き手の〈い

ま〉〈ここ〉はほとんど一致するまでに近接している。その結果,音楽はほ

とんど時間差なく,ホールトーンや聴衆などの介在物もほとんどなく,原音

そのままに直接に聴き手に響いてくる。たとえば,〈遠い座席〉では妙なる

響きとして聴こえるフルートやヴァイオリンの音も,〈近い座席〉では歌口

に吹き付ける息の衝突音や弦を弓でこする擦過音が聞こえてくる。〈近い座

席〉の愛好家は, こうした衝突音や擦過音を含んだ音こそが原音であり,

〈遠い座席〉での盤惑的妙音はホールトーンに媒介された美音にすぎないと

主張する。他方,〈遠い座席〉の愛好家は,盤惑的妙音に陶酔し,衝突音や

擦過音をノイズとして忌避する。したがって,両者はこう定義できるかもしザッヘ

れない。〈近い座席〉の愛好家は,音楽において何よりも〈音の事実〉を重

んじる即物的感覚者であり,〈遠い座席〉の愛好家は陶酔のなかで現象するピルト

〈音の形象〉を重んじる夢想的観想者である, と。

さて,冒頭の『天井桟敷にて』に戻れば, この掌編でカフカが言わんとし

ていたのは,〈事実の現実〉も〈幻想の現実〉も等価であって, どちらが

〈本来の現実〉であるのか決定不能であるということであった。これを敷術

するなら,観想の〈形象世界〉も,感覚の〈事実世界〉も,現実性の点では

等価であり, どちらが〈本来の現実〉であるのか決定することはできないと

いうことになるだろう。だが,時代の趨勢は明らかに,〈形象世界〉を主観

的世界として否定し,〈事実世界〉を客観的世界として重視する方向に向かっ

ている。それは, とりもなおさず,〈アウラ〉の希薄化, さらにはその消失

に向かっていることでもあるのだ。

社会学者アンソニー・ギデンズはモダニティの本質を「時間空間の変容」

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に求め,こう言っている。

モダニティの示すダイナミズムは,《時間と空間の分離》,社会生活を

時間空間面で正確に「帯状区分」するかたちでの時間と空間の再結合,

社会システムの《脱埋め込み》(時間空間の分離にともなう諸要因と密

接に関連している現象),および,知識の絶え間ない投入が個人や集団

の行為に影響を及ぽすという意味での社会関係の《再帰的秩序化と再秩

序化》に由来している。 (松尾精文•小幡正敏訳) 7)

ここで注目すべきは,《脱埋め込み》という概念である。ギデンズは,「脱ローカル

埋め込みという概念で,私は,社会関係を相互行為の局所的な脈絡から〈引

き離し〉,時空間の無数の拡がりのなかに再構築することを意味しようとし

ている」8) と述べている。そして「脱埋め込みメカニズムの一例」9) として貨

幣を挙げている。貨幣が「近代に最も特有な脱埋め込み形態のひとっ」IO)で

ある資本主義市場をもたらしたことは言うまでもない。だが,貨幣に劣らず

近代社会に大きな影響を与えた「脱埋め込みメカニズム」こそ,複製技術で

はなかったろうか。すでに見たように,複製技術の本質は脱時空化にあった。

時空内の局所的場所に埋め込まれていた音楽や絵画などは,複製技術の飛躍

的発達により,局所的場所から解放されたのである。かつては王侯貴族など

一部の特権階級しか享受しえなかった音楽も, レコードや CDなどによって,

いつでも,どこでも,だれでも聴くことができるようになった。美術館に展

示されている絵画も,写真撮影した画集を手にすることで,いつでも,どこ

でも,だれでも見ることができるようになった。音楽や美術などの芸術は,

複製技術により脱時空化されて,大衆に向けて開かれたのである。さらに大

衆的娯楽の真髄とも言うべき映画が複製技術によって誕生した。

ベンヤミンは〈アウラ〉が凋落した社会的条件を大衆社会の出現に認め,

それは大衆の二つの動向に関連しているとした。すなわち,大衆が「事物を

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「遠さと近さ」もしくは「アウラの消失」について 87

自分に〈近づける〉ことをきわめて情熱的な関心事としている」こと,そし

て「あらゆる事象の複製を手中にすることで,事象の一回性を克服しようと

する傾向をもっている」こと,この二つである。この二つの動向は,複製技

術によって実現されたのである。その意味で,複製技術は大衆社会の需要に

応ずるものであったし,大量生産という資本主義生産様式と結びついていた。

複製技術によるどんな複製品も,大量生産されてはじめて大衆の手にとどく

ものとなるからだ。しかし大量生産とは同一物の生産を永遠に反復すること,

つまり同一物の〈永劫回帰〉である。この大量生産方式こそ,「一回限りの

現象」としての〈アウラ〉を決定的に凋落させるものなのだ。

ベンヤミンは『セントラル・パーク』のなかで,「永劫回帰の思想は史的

事件をすら大量生産品にする」II) と述べている。さらに「つねに同ーなもの

は大量生産においてはじめて明白にあらわれる」 12) とし,「複製技術の領域

に迫り来る巨大な諸発明に関するひとつの夢としての永劫回帰の教義」13) と

記している。これらのコメントこそ,ニーチェの永劫回帰の思想の秘められ

た意味を解き明かしているように思われる。

《註)

1) カフカ「天井桟敷にて」円子修平訳,『決定版カフカ全集 1.1, 新潮社 1992年,

102頁。

2) カフカ「木々」円子修平訳,前掲書, 29頁以下。

3) ヴァルター・ベンヤミン「複製技術の時代における芸術作品(第二稿)」野村

修訳,『ポードレール 他五篇』,岩波文庫 1994年, 69頁以下。

4) 同上, 64頁以下。

5) 同上, 65頁以下。

6) L・クラーゲス『意識の本質について』千谷七郎訳,勁草書房 1963年, 105

頁以下。

7) アンソニー・ギデンズ『近代とはいかなる時代か?』松尾精文• 小幡正敏訳,

而立書房 1993年, 30頁以下。

8) 同上, 35頁以下。

9) 同上, 40頁。

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10) 同上, 41頁。

11) ヴァルター・ベンヤミン「セントラル・パーク」円子修平訳,『ヴァルター・

ベンヤミン著作集 6 ボードレール』,晶文社 1971年, 97頁。

12) 同上, 116頁。

13) 同上, 115頁。

(たじま• まさゆき 法学部教授)