日本住宅公団初代総裁...

使25 10 29 30 10 42 16 30 12 10 宿宿宿使19 38 鹿10 12 <加納久朗・連載余話> 公団総裁時代の加納久朗 午前 8 時 45 分、スピーカーから流れる社歌 のメロディーに合わせ、皆で歌う

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Page 1: 日本住宅公団初代総裁 ~その精神と実績~その①は著作『高蔵寺ニュータウン夫妻物語』 (妻の津端 英ひで 子 こ と共著)中で、発足時の日本住

序:「頭の上だけは、いつでもポッカリ青空

がのぞいていた」

 

戦後の日本建築界を代表する一人である津つ

端ばた

修しゅう

一いち

は著作『高蔵寺ニュータウン夫妻物語』

(妻の津端英ひ

子こ

と共著)中で、発足時の日本住

宅公団と初代総裁加納久朗について回顧して

いる。津端は東京大学第一工学部建築学科卒

で、住宅公団発足時の住宅設計の責任者であっ

た。(以下原則として原文のまま、一部修正)

「私は当時、アントニン・レイモンドのアトリ

エで建築家修業をしていた。彼は1920年

にフランク・ロイド・ライトの旧帝国ホテル

の設計スタッフとして来日、翌年日本に事務

所を開設した。(中略)。私は幸運にも、彼の

仕事が最高に油の乗り切った1951年から、

レイモンド・スクールで働いていた。たった

3年間だったが、彼を慕って集まった多くの

俊才たちと一緒に、彼の口癖だった〈シンプル・

イズ・ベスト〉の哲学を心と身体に深く刻み

込まれた。私が住まいへのこだわりを持つこ

とになったのは、この時代だ」

「私は、このレイモンドと出会って手にした〈住

まいへのこだわり〉を、戦後の住宅難のなか

で、社会システムとして市民たち共有の財産

にしたかった。それには、レイモンドのアト

リエを出て日本住宅公団の創設に参加するし

かない。思い立つと、もう止まらない。公団

は特殊法人、役人主導の体質に問題はあった

若い組織の隅々まで徹底させる不思議な能力

を持っていたから、誰にも総裁と二人で公団

を背負っていると、独特の使命感を錯覚させ

た。だから、若い組織は、生命力に溢れていた。

私は公団の創設に参加した」

 「彼の頭の上だけは、いつでもポッカリ青空

がのぞいていた」。何と「自由人」加納の柔軟

な構想力や天性の資質を的確にとらえている

ことだろう。感受性豊かな建築家ならではの、

みごとな人物評である。

〈公団誕生まで、住宅不足280万戸〉

 

戦時中の米軍機による空襲や強制疎開、そ

れに続く海外からの引き揚げなどによって、

戦後日本の住宅事情は最悪の状況に陥った。

政府は、応急簡易住宅建設、非戦災建物の強

制開放、都市への人口流入制限、地代家賃統

制令の発令などの緊急措置に追われた。25年

には住宅金融公庫(国民の住宅建設資金の融

通を目的とする)の創立に、翌年からは公営

住宅法の制定に踏み切った。だがドッジ・ラ

インによる緊縮財政下では、公営住宅、公庫

融資住宅を合わせて、年間10万戸にも満たな

いペースの供給がやっとの状況だった。29年

になっても全国で約280万戸の住宅が不足

されているとされた。

 

30年2月、吉田内閣崩壊の後の総選挙では、

各党とも住宅問題を大きく取り上げた。選挙

後成立した鳩山内閣は、10年間で不足住宅を

解消する年42万戸建設の計画を発表し、その

うち16万戸を政府の施策で建設するとした。

その一環として日本住宅公団が7月に創設さ

れた。公団を創設する理由には、公営住宅の

供給が地方自治体の事業としてその行政区域

内に限定され、しかも国庫補助が必要で、大

量建設を進めるには財政上制約があること、

また公営は低所得者向けで「中堅勤労者」の

需要には対応できない。一方、住宅金融公庫

の融資は、個人が対象で広範な住宅難には対

応できないし、その用地取得難のために地価

高騰を生み出していることなどをあげ、既存

の対策ではこれに対応しきれないとし、民間

資金を導入し広域的な住宅需要に対応する「住

宅公団」が構想された。

 

資金としては、国及び地方自治体の公的資

金の他、生保・信託銀行からの借入れ、政府

保証の住宅債券発行によってまかなわれ、行

政区域にとらわれず住宅不足圏域に大規模な

宅地開発を行い、不燃集合住宅を建設する特

殊法人「日本住宅公団」がスタートした。そ

の発足に際して、交通機関の開発までも併せ

て行い、大都市圏の発展の先導的役割を果た

せるようその業務範囲を大きく設定する構想

もあったが、これは実現しなかった。政府は

これによって、公営・公団・公庫の3本立て

の「階層別」住宅対策の体制がうち建てられ

たとした。

〈加納総裁・誕生〉 

 『百万戸への道』(非売品)の「鳩山内閣の

金看板、選挙の目玉商品」でも住宅公団誕生

の秘話を伝える。昭和30年2月の総選挙のと

きほど住宅問題が最大焦点になったことはな

かった。民主党(当時、以下同じ)、自由党、

左派社会党、右派社会党のいずれも住宅難の

解決を公約のトップに掲げていた。なかでも

一番熱心だったのが、前年の12月に吉田茂か

ら政権を引き継いだばかりの鳩山一郎率いる

民主党だった。「10年間で住宅問題を解決して

みせる」というのが最大の公約となっていた。

 

総選挙の結果は、鳩山民主党の勝利となっ

たのだ。総選挙の政治ドラマの中から、日本

住宅公団が誕生するのである。発端は、第一

次鳩山内閣がスタートする日にさかのぼる。

鳩山に呼ばれた竹山祐太郎(鳩山内閣で建設

大臣に就任、後に静岡県知事)は「来年早々、

吉田自由党と一戦を交える。ついては鳩山内

閣にふさわしい旗印をつくってくれ。どんな

内容でもいい。いくら金がかかってもいいか

ら」という大きな宿題を与えられた。

 

鳩山は、戦後長らく政権の座にあった宿敵

の「ワンマン」吉田を、国会内の政争によっ

て倒したばかりだった。政権の長期安定化を

はかって行くためには、どうしても解散―総

選挙のプロセスを踏んで、国民の正式な信任

を得ることが不可欠だった。竹山らの受けた

宿題は、そのための勝利の秘策をつくれ、と

いうことなのである。

 

竹山は、日銀総裁から大蔵大臣となった

一いち

万まん

田だ

尚ひさ

登と

に相談すると、「旗印なら、何といっ

ても住宅だな」という答えだった。もちろん

竹山も同感だった。腹を決めた竹山は、さっ

そく建設官僚に抜本的な住宅政策を策定する

よう指示した。

 

加納久朗がなぜ初代総裁に任命されたのだ

ろうか。それは日本住宅公団法が成立して間

もなくのことだった。建設大臣竹山が大臣室で

一息入れていると、鳩山首相の懐刀だった党

総務会長三木武吉がやって来た。「そう言えば、

初代総裁を誰にするつもりなんだ。重要なポ

ストだと思うが」と三木が聞いた。竹山は「い

や、だれにするか、まだ何も考えていない」と

答えた。案に相違して、この時点まで自薦も

他薦も一つとしてなかった。三木は「それでは、

加納久朗ではどうだ」と言い出した。

 

竹山も加納をよく知っていた。人格・識見

といい、役所の事情にも通じている点といい

申し分ない。竹山が特に面白いと思ったのは、

多彩な交遊ぶりだ。名家の人間だけに交際範

囲は広く、ロンドン時代には、駐英大使をし

ていた吉田元首相と親交があったはずだし、

確か姻戚関係もあったと思っていたのだが、

政敵である鳩山家とも交流があった。それで

竹山は、この話はきっと鳩山首相から推薦が

あったのだろうと思った。だがそうではなかっ

た。三木武吉が、この大人物を起用すればきっ

と鳩山も喜ぶだろうと一人勝手に読んでのこ

とらしかった。加納はためらうことなく就任

を了承した。

〈国際人加納久朗の略歴〉

 

久朗(明治19年(1886)―昭和38年

(1963))の略歴を記す。彼は子爵加納久ひ

宜よし

の次男で、長男が夭よ

折せつ

したため実質的には

嫡ちゃく

男なん

であった。加納家は江戸時代中期以降、

将軍側近を務めた直参旗本であり、上か

総さ

一宮

藩(1万3000石)の藩主でもあった。久

宜は最後の一宮藩主で、鹿児島県知事などを

歴任し晩年は請われて一宮町長を務めた。久

朗は学習院高等科を経て東京帝国大学法科大

学政治学科を卒業し、横浜正金銀行(東京銀

行を経て現三菱東京UFJ銀行)に入社した。

久朗は学生時代にキリスト教指導者内村鑑三

の教えに導かれて無教会主義クリスチャンと

なり、生涯信仰の道を離れることはなかった。

 

同行は国際為替銀行としてロンドンと

ニューヨークに肩を並べる国策銀行であり、

国内的には日本銀行に次ぐ地位を与えられて

いた。加納の勤務地は語学力が評価されて海

外支店が大半であり、ニューヨーク、カル

カッタなどの支店に勤務した後、大正10年

(1921)12月にロンドン支店支店長代理を

務め、昭和9年(1934)7月1日、ロン

<加納久朗・連載余話>

日本住宅公団初代総裁加か

納のう

久ひさ

朗あきらの

1500日

~その精神と実績~その①

作家 高崎哲郎

が、前例のない新しいライフスタイルと住宅

システムの想像を担当して、組織は柄にもな

く戸惑いと恥じらいを見せた。そして、手に

余ると感じたのだろう、民間に有能な人材を

広く募集した」

「天下り総裁で済む時代ではなかった。初代総

裁は、民間人・加納久朗。彼は、長く横浜正

金銀行ロンドン支店長も務めた国際人で、お

しゃれでスマートだった。吉田元首相に似て

いて、もっと洒脱で、『彼の頭の上だけは、い

つでもポッカリ青空がのぞいていた』と追想

される愛すべきリーダーだった。彼は公団総

裁に就任すると、公団文書をカタカナ・横書

きと決めて、たちまち、建設省(当時、以下

同じ)の文書管理を困惑させた。公団総裁を

辞した後の千葉県知事時代にも、週休二日制

を早々と実施して自治省をあわてさせた。と

もかくも、時代を先取りできる自由人だっ

た。彼は、公団に働く者の生き甲斐を、その

公団総裁時代の加納久朗午前 8時 45分、スピーカーから流れる社歌のメロディーに合わせ、皆で歌う

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われがどういう方針で仕事を進めておるかと

いうことは、掲示板を設けて全員に知らせる

様にいたします。そして、職員諸君のやって

いる仕事は公団の仕事の全体のどの部分に属

するのかということが自覚できるようにして

いきたいと思います。また私は職員諸君の意

見を聞きたいのであります。鉛筆書きでもな

んでもいいから、建設的な意見をどんどん書

いて出していただいて、よいことは即日実行

していくというふうにしたいと思います」

 

戦後、銀行を離れた久朗は、求められるまま

に多く民間企業などの役職に就いた。経営難

の再建を託された会社もあった。列記すると、

昭和22年4月、不二越鋼材工業㈱取締役(30

年7月辞任)、同年10月、太平洋文化協会会長

(27年10月辞任)、24年10月、三興製紙㈱監査

役(30年7月辞任)、25年12月、函館ドック㈱

取締役会長(30年7月辞任)、26年1月、日産

汽船㈱監査役(30年7月辞任)、26年4月、日

本レミントンランドタイプライター㈱取締役

社長(昭和30年7月辞任)、26年10月、真珠貝

採取㈱取締役(30年7月辞任)、26年11月、国

際電気㈱取締役(30年7月辞任)、28年日本商

工会議所国際委員長(30年7月辞任)、同年10

月、日本軽金属㈱取締役(30年7月辞任)、30

年7月、日本住宅公団総裁(34年7月任期満

了)。久朗の国際的金融マンとしての経歴や高

潔な人格が高く評価されての役職就任の要請

であった。彼は住宅公団初代総裁に就任する

に当たって民間企業の役職をすべて返上した。

 

後年、総裁を退任し、千葉県知事に推薦さ

れた時、反対する側近に答えている。「住宅公

団総裁にと要請された時も、たくさんの友人

から『馬鹿らしいからやめなさい』と忠告さ

れた。しかし、お国のためにわが身がお役に

たてるならと、お引き受けした。今度も同じだ。

ふるさと千葉県のために、私がお役に立てる

のなら、大変とわかっていても、やらなけれ

ドン支店長に抜擢された。同時にスイスの国際

決済銀行理事会副会長に就任した。国際決済銀

行BIS(Bank for International Settlem

ents

は、第一次世界大戦後、ドイツの賠償金支払

い問題に当たって、1930年に資本金5億

スイス・フランで設立された特殊銀行で、ス

イスのバーゼルに所在する。日本は当初市中

銀行がBISに出資し、第二次世界大戦終了

に至るまで理事を派遣していた。横浜正金銀

行のロンドン支店長が理事として派遣される

のが慣例であった。ロンドン支店長時代、駐

英大使吉田茂(後に総理大臣)と親交を結び、

日米開戦の回避に向けて日英政府要人に極秘

裏に働きかけをした。合わせて10年を超える

ロンドンでの生活で、彼は「田園都市」構想

を知る。ロンドン高級住宅街(Princess Gate

Court, 

London

)のケンシントン公園南にある

加納家私邸跡(80年前当時のままのマンショ

ン、8階建てレンガ造り)を訪ねると、彼が公

団住宅に導入した水洗トイレ、室内バス、ス

テンレス流しが備えつけてある。ここに公団

の新技術導入のヒントがある。

 

日英米開戦の後、17年6月18日ロンドン支

店一時閉鎖のためリバープールから交換船に

乗船し帰国した。中国に派遣され同行北支最

高責任者として経済情勢の分析を行い、同時

に知友・内大臣木戸幸一に蒋介石の真意や国

民党と共産党の意図など現地情勢(「重慶情

報」)を報告した。終戦は北京で迎えた。20年

6月9日、横浜正金銀行の7人の常勤取締役

の一人となる(北京、新京担当)。海外生活は

30年に及び、英仏独語の読み書き会話に不自

由しなかった。

 

終戦後中国から引き揚げた後は終戦連絡中

央事務局、食糧対策審議会、賠償協議会など

に関わった。一時公職追放となった。ドッジ・

ライン実施に際し、アメリカ政府から派遣さ

れたジョゼフ・ドッジに意見表明と助言を行っ

ばなりません」

 

住宅公団は外務省の裏手にあった旧恩給局

の二階建て木造家屋を借りてスタートした。

開所式の際、加納がポケットから取り出した

のは日の丸の旗だった。ある幹部は追想する。

「この英国紳士が!?と一瞬びっくりしました。

加納さんとしては、皆に、国家的な大事業を

するんだぞ、と気持を引き締めてもらいたかっ

たのでしょうね。当時、役所でもめったに日

の丸を見ることはありませんでしたから何だ

か感動しました」

 

久朗には知性や教養のみでなく人格から発

する「オーラ」があった、とかつての部下は

語る。「世界を舞台に活躍しなさい」。初代総

裁加納の口ぐせだった。

〈公団の使命〉

 

公団の事業開始にあたり総裁加納は「日本

住宅公団の使命」(原文『職員執務ノ手引』(昭

和30年11月)、横書き・カタカナ)を職員向け

に発表した。

1、現在日本の住宅事情

(1)

住宅は国民生活の本拠であり、健康で

文化的な国民生活を営むためには、住宅

に困窮する国民のすべてが住みよい住宅

を供給されることが必要である。敗戦後

既に10年を経、その間日本経済の復興

と国民の努力により、次頁表の通り約

387万戸の住宅が建設され、住宅事情

も幾分かよくなっているように感ぜられ

る。しかし衣食の問題がおおむね戦前に

復している現状に比べると、住宅の問題

は依然として困難な状態に置かれている。

(2)

昭和27年7月現在において、住宅の不足

数は315万6900戸と推計されてい

た。この住宅不足に対応し、昭和27年度

から第1期公営住宅3か年計画が推進さ

れ、昭和29年3月までに約85万戸の住宅

た。その後函館ドックなどの代表取締役に就

き、同時に民間経済人の立場で東京湾埋立構

想や群馬県の巨大な沼田ダムの建設計画など

を提言し関連図書を刊行する。首都圏の水資

源開発計画にはことのほか情熱を注いだ。彼

は読書家であり、絵画やクラッシク音楽を愛

し、乗馬を好み、海外旅行によく出かけ、無

類の愛犬家であった。

〈すべての職をなげうって〉

 

昭和30年7月25日、住宅公団発足の日の挨

拶の中で初代総裁加納は次のように述べる。

「この大任を果たすためには、第一の心得は、

公団全員の和でございます。目的が一つであ

りますからお互いに仲良くして遠慮なくもの

を話し合い知識を交換していくということで

あります。感情問題というようなことなく、

事実と数字の上に立ってどしどし意見を交換

して、国のために奉ずるという考えでなけれ

ばならない。それには和ということが第一で

あります。

 

第二は、時間を正確にするということであ

ります。われわれの出勤時間と退出の時間を

出来るだけ正確にすることにより、時間をフ

ルに働く、こういうふうにしたい。

 

第三は、仕事を正確にし敏速にする。今日

なし得ることを明日に残さないというふうに

して、一日、一日進歩していくようにしたい。

第四は、すべてに清潔にいたしたい、事務所

を清潔にいたしたい。

 

第五は、用談はすべて事務所で行う。外部

との用談を事務所以外でやる、例えば喫茶店

でやるというような式のことはしない。すべ

て事務所に人を呼んで用談をするということ

にしたい。

 

第六は、私は理事、監事の方々と一緒に毎

日仕事をして行く、が、経営者の側としてど

ういうことを職員全員に望んでおるか、われ

が建設されたが、この間に人口増加、災

害滅失等による住宅需要増があったので、

昭和30年4月現在において、住宅の不足

数は非住宅居住、同居世帯、過密居住、

老朽住宅を合わせなお284万2000

戸と推計されている。

(3)

住宅事情を過密居住の面から1人当りの

畳数についてみると、市部については、

戦前の昭和16年では、3・8畳であったが、

昭和23年は3・4畳、昭和28年で3・3畳

となっており、この面からも住宅事情は

好転していないことが分かる。なお、昭

和23年の住宅統計調査によれば、市部の

住宅中約3割は修理を要する状態にあり、

このうち危険又は修理不能の住宅も相当

数に上り、この面においても住宅事情が

容易でないことを示している。

(4)

建設された住宅を所有関係についてみ

ると、市部について、戦前の昭和16年で

は、持家22・3%、給与住宅1・8%、借

家75・9%、借家の方が遥かに大きい割

合を示していたが、戦後の昭和23年では、

持家46%、給与住宅8%、借家46%で、

持家、借家はほぼ同率となり、昭和28年

の住宅調査においては持家58%、給与住

宅7%、借家35%で、持家より借家が遥

かに少ない状態となっている。このこと

は戦後において、借家建設がふるわない

ことを端的に現わしている。

1、政府の住宅政策

(1)

住宅建設政策は、昭和30年2月に行わ

れた総選挙の時に示されたところから明

らかなように、国の重要施策の一つであ

り、政府が30年度予算の編成にあたって

も国民に対する社会福祉政策の一環とし

て特に重点を置いているものである。全

国の住宅不足は昭和30年4月現在で約

234万戸、年間の新規需要は約25万戸

と推定される。このような住宅事情にか

んがみ、政府は現在の住宅不足を今後約

10年間で解消することを目途として、初

年度の昭和30年度に42万戸の住宅を建設

し、その後は国民経済及び財政の回復、

伸展に応じて漸次その数を増加して住宅

を建設して行くこととしている。この

42万戸住宅建設計画の内訳は次のとおり

である。

  

公営住宅5万戸、公庫住宅7万5000

戸(うち増築等3万戸)、公団住宅2万

戸、その他の住宅3万戸、民間自力建設

23万戸、同増改築等1万5000戸、合

計42万戸(以下略)。」 

 

経済人らしく数字をあげて分析して説明し

ている。新生日本住宅公団は、総裁の大号令

のもとにゴールめがけて驀ば

進しん

した。就任初年

度に目標の2万戸建設を達成する。団地の建

設目標は予定よりも早く実現された。

(参考文献:「千葉県一宮町教育委員会加納家資料」、

『百万戸への道』(非売品)、『総裁日誌』(加納久朗)、

『百の証言』、『日本住宅公団史』など)。

(つづく)。

昭和30年 12月 7日住宅公団の本所と東京支社が「ノートンホール」(元憲兵隊司令部庁舎 千代田区竹平町3)へ移転。鉄筋コンクリート四階建てで皇居の堀に面していた

住宅公団設立当初は外務省の裏手

にあった旧恩給局の二階建て木造

家屋だった