日本における gulliver - doshisha日本におけるgulliver 北垣 出示 治 …and 1 only am...

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日本における Gulliver 北垣 出示 and1 onlyamescapedalonetotellthee. TheBookof Job I Gulliver' s Travels (1726) PartIII A Voyage to Laputa Balnibarbi Luggnagg Glubbdubdrib andJapan をめぐる評価は,これまでにいろ いろと発表されてきた.この第 3 篇は第 1 篇,第 2 篇,第 4 篇とくらべて 統ーを欠き,従って見劣りがすると L 寸批判は Samuel Johnson 以来ず っと行われてきた.近年になってこの第 3 篇の芸術的価値を擁護する論文 が出てきたこともまた事実である.しかし,どれほど擁護してみたところ で,それは以前の極端なまでの第 3 篇軽視の傾向を是正するだけであり, この第 3 篇をもって,他の諸篇以上にすぐれたものとするような意見はで てこなかったこともまた事実である.この第 3 篇と作品全体との聞の有機 的な関連が,幾人かの学者によって立証されてきた.中にはこの作品を音 楽にたとえ,第 3 篇をスケルツォと見倣すという興味深い説もあらわれた. そして今後ともこの第 3 篇をどのように扱うかということは Gullivers Travels論の優劣をうらなう要点の一つであり続けるであろう. ところで Swift研究家たちはその第 3 篇のうちの最終章 (Chapter 11) である日本のことを殆ど取上げない. ガリヴァーの訪れた L il1 iput Bl efuscu Brobdingnag Laputa Balnibarbi Luggnagg Glubbdubdrib Japan Houyhnhnmland の中で,地球上に実在する国は日本だけなので ある.そのことだけでも興味深い.なぜ日本が選ばれたのであろうか?

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Page 1: 日本における Gulliver - Doshisha日本におけるGulliver 北垣 出示 治 …and 1 only am escaped alone to tell thee. The Book of Job I Gulliver' s Travels (1726)のPart

日本における Gulliver

北垣 出示 治

…and 1 only am escaped alone to tell thee.

The Book of Job

I

Gulliver' s Travels (1726)のPartIII A Voyage to Laputa, Balnibarbi,

Luggnagg, Glubbdubdrib, and Japan をめぐる評価は,これまでにいろ

いろと発表されてきた.この第3篇は第 1篇,第2篇,第 4篇とくらべて

統ーを欠き,従って見劣りがすると L寸批判は Samuel Johnson 以来ず

っと行われてきた.近年になってこの第 3篇の芸術的価値を擁護する論文

が出てきたこともまた事実である.しかし,どれほど擁護してみたところ

で,それは以前の極端なまでの第 3篇軽視の傾向を是正するだけであり,

この第 3篇をもって,他の諸篇以上にすぐれたものとするような意見はで

てこなかったこともまた事実である.この第3篇と作品全体との聞の有機

的な関連が,幾人かの学者によって立証されてきた.中にはこの作品を音

楽にたとえ,第3篇をスケルツォと見倣すという興味深い説もあらわれた.

そして今後ともこの第 3篇をどのように扱うかということは Gullivers

Travels論の優劣をうらなう要点の一つであり続けるであろう.

ところで Swift研究家たちはその第 3篇のうちの最終章 (Chapter

11) である日本のことを殆ど取上げない. ガリヴァーの訪れた Lil1iput,

Blefuscu, Brobdingnag, Laputaタ Balnibarbi,Luggnagg, Glubbdubdrib,

Japan, Houyhnhnmland の中で,地球上に実在する国は日本だけなので

ある.そのことだけでも興味深い.なぜ日本が選ばれたのであろうか?

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90 日本における Gulliver

さすがに夏目激石は『文学評論』の中で ζ のことに触れている.これにつ

いては後ほど論じる筈である.しかし,この第 3篇の第11章を「まじめにJ

取上げた論文はこれまでになかったようである.そして,それはあながち

不思議なことでもない.

第一に,この章におけるガリヴァーの物語は9 何物をも調刺していない

ように思われる Lagadoの projectors を通して当時の科学者たちの空

想的な抽象主義を調刺しラ Glubbdubdribにおいて歴史家や古典の注釈家

を調刺し,さらに Luggnaggの Struldbrug によって人間の永生への憧

れを調刺しているということからすれば,この日本の章は何一つ誤刺して

いないように見える.

では,調刺文学として一流中の一流といわれる作品の中に,調刺のちっ

ともきいていない一章が置かれていることを,どのように説明したらよい

か? 多くの批評家たちはこの第3篇を,なくもがなの partと考えてき

た.とすれば,この日本におけるガリヴァーの章こそは, なくもがなの

partのヲなくもがなの chapter とでもいうべきものである.しかも,そ

れが全篇中で唯一の実在の国なのであり,それがわれわれの国,日本なの

である.

この章に関する第二の疑問は,日本におけるガリヴァーの旅のあまりに

簡単なことである.彼は Xarnoschi という小さな港に上陸する. (この

Xarnoschiがいったいどこであるかという問題はあとで論じる.)日本の

地名はこれ以外にエド CYedo) とナガサキ CNangasaゆが出てくるだけ

である.ガリヴァーはェドにいる「皇帝」からの親切なとりはからいによ

り,一部隊とともにナガサキに向かう.ところが,この旅の道中のことは

何一つ書かれていないのである.東海道五十三次にガリヴァーほどの気i立

の高い,そして好奇心の強いイギリス人が昂奮を感じなかった筈はあるま

い. 日本ーの富士の山とか,数々の川の渡し場,さらに宿屋のもようなど

はどうであったのか,またミヤコ(京都〉の状況はどうであったろうか?

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日本における Gulliver 91

その道中の記述はまったくの空白であり, ただ抽象的に“1 arrived at 8

Nangasac, after a very long and troublesom邑 journey"(3. 11. 5.) と

あるだけである. 1726年当時では,まだ日本に関する資料は極度に不足し

ていたためであろうか? スウィフトは日本に関して特に調刺すべき対

象ラ現象を見出さなかったのか? それとも何か他の理由によるのであろ

うか?

以上,私は二つの問題を提起した.一つは,なぜ、調刺作品中に調刺のき

いてない章があるのか,といラ問題であり,今ーはガリヴァーの日本滞在

がなぜあのようにあっけないものであるのか,という問題である.この小

論はそのような問題へのアプローチの試みである.しかしながら,それは

決して第3篇の優位を主張したりラいわんや日本の章の重要さを,針小棒

大式に,作品全体の調和を破ってまでも強調しようとする試みではないつ

もりである.ζ の第3篇の11章は,十八世紀初頭の西洋の日本に関するイ

メージという観点、からすれば,また別の歴史上の興味深い材料となること

は疑いの余地がない.私はこの小論の中でラ補足的じその点にも触れる

つもりである.

II

夏目激石は『文学評論Jの中で,この第3篇第11章に言及して,次のよ

うに述べている.少し長いが,引用してみたい.

「・・・ガ「リグァは此第三編に於てラピ L ータのみならず,他にいろい

ろの国を巡回して居る.遠くわが日本にまで来て居るのだから偉い. {旦

し彼はラピュータへ渡る前に既に日本の海賊船に出逢って居るからジャ

パソ(Japan) なる文字の出るのは第三編の始めからである. さうして

終ひにとうとう日本へ乗り込むから面白い.尤も作全体の上から云うて

面白いのではない.又文学的に面白いのでもない,又司風刺が面白いと云

うのでもない.実は文学上から云うと,有っても無くても差支ない位な

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92 日本における Gulliver

場所ではあるが,兎に角スヰフトが日本を『ガザグァ旅行記Jの中へ書

き入れたと ζ ろが,日本人たる吾々から見れば頗る興味を惹くのである.

妙なことにガリグァ君が日本の皇帝に紹介状を貰って居る.それで最初

上陸した地はクサモシ (Xamoschi)と云ふ日本の東南の極とあるから,

或は鹿児島の ζ とかも知れない.それから江戸へ来た.その後嘆願して

長崎へ下る.長崎では絵踏と云ふことを遺るさうだが,これL丈は御免蒙

りたいと嘆願して冒る.時に皇帝頗る驚き給ひて,今迄和蘭人の中で、そ

んな頑固を云ひ張った者は一人も無いのにと云はれたとある.際どい所

ので,他国人から云へば極めて平平a凡なものだらう.J

ここには激石の卒直さが躍如としている.殊lこに日本人としての激石が

反応していることが面白いのである.国籍不明の英文学論でないというこ

とは,激石にとっては当然すぎることであったろうけれども.

しかし,激石もここでいくつかの思いちがいを犯している.まことに小

さいことではあるが Japanなる文字が出てくるのは第 3篇の始めからで

はない.すでに第 1篇に “The vessel was an English merchantman,

returning from Japan by the North and South Seas" (1. 8. 9.) とL、

う表現がある.つまりガリヴァーがB1efuscuから単身帰国する途中に,

幸運にも出くわした船が日本から帰る途中の英国の商船だったのである.

次に Xamoschiという地名であるが,これを激石が「日本の東南の極j

と言っているのは明らかに誤りである.原文では

百九Te landed at a small port・towncalled Xamoschi, situated on the

south・eastpart of Japan. Th日 townli巴son the western part, where

-there is a narrow strait,巴adingnorthward into a long arm of the

sea, upon the north-west part of which Yedo the metropolis stands.

(3. 11. 4.)

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日本における Gulliv巴r 93

となっている.これは東京湾のうちの東側,つまり房総半島の西岸を想定

すると大体一致すナると考えられるのであってフ鹿児島という推定は全く的

を外れている. もし鹿児島だとすれば,それは島津家の城下町であって,

単なる「小さい港町」などではないし,おまけにガリヴァーはヲ鹿児島→

江戸→長崎という大旅行をしたことになるわけであり,それだけ一層旅の

記述が空白であることが怪しまれてくるからである.

さらに今一つの点を挙げるならば, 1救石が「際どい所で調刺を遣ったも

のである」と述べていることである.ガリヴァーが日本国皇帝に向かつて,

踏絵は勘弁願いたい,と申し出たことが,なぜきわどい調刺となるのであ

ろうか? それはまた,何に対する調刺なのであろうか? こζ で日本史

に関する知識が必要になる.すなわち, 1628年(寛永5年〉ごろにはじま

った踏絵は,長崎にいたオランダ人たちにも適用されたかどうかという問

題である. 司本に漂着した異国人に対してはどうであったのか? このこ

とを先ず明らかにした上で,調刺の問題を論じてみたい.

r長崎市史風俗編』に次のような記事がある.少し長いが91!?言;こ興味

深い文献であるので引用してみたい.

漂着唐船の唐人はもとより絵板を括むことになってゐた.

本邦に最も接近せる朝鮮国の民は在々我が海岸に漂着するのであった.

その場合には,漂着朝鮮人は長崎に送越され,概ね長崎奉行所白洲に於

て,長崎語宗対島守家来,対州の朝鮮語通事など立あひて,絵板を拓、ま

せらる Lζ とになってゐた.

Crasset はその著 Histoirede l' Eglise du J,ゅon こ1冷て異邦の尚買

上陸の際には絵揺することを命ぜられたと記してゐる.そして斯う

てゐる.それは全く羅馬旧教徒に対して門戸を閉づるためであった.紅

毛人は絵路、したのであった.それでも彼等は絵掘を好まなかった.絵揺

は貿易額を減少するに至った.それで老中はこの法令を撤回して了った.

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94 日本における Gulliver

と云ふのである.要するに9 紅毛人が絵指したことは事実と認めて差支

はあるまい.併しその絵蹟は廃止さる L ことになった.

紅毛船が入津すると人別改を行ひ何蘭陀人の姓名年齢等を記したる書

付を長崎奉行所に差出すことになってゐた

長崎御用書物には宝永七寅年 (1710年〉八月二日入津之阿蘭陀人名議

之書付が記載してある.それは唐人の人別書付と略々趣をーにしてゐる

のである.s

Kampferや Thunbergなどは紅毛人の絵話、に一言も及んでゐない.

た父 Thunbergは紅毛人のうちで絵揺を目撃した者は太た稀である事,

或紅毛人が江戸拝礼準備の事に就いて甲比丹の使者として長崎奉行を訪

ねるために市中を通った際に偶南絵揺式を瞥見した事ーなどを記してゐる

のに過ぎぬ.これは正月四日より八日迄市中の町々にて行はる L絵路、の

式を瞥見したものと考へたい.

なほ,先是,宝永元年 (1704年コ八月薩摩より漂着の紅毛人を長崎へ

送届けた際に古甲比丹 GideonTant新甲比丹 Ferdinandde Groot及

び negotie-boekhouderの役を勤むる ChristiaanBoonen などが漂着

紅毛人の絵踏に立会ふたことがあった.

その絵踏の絵板に就いて Velentijnは

Dit is de eerstemaal geweest, dat eenig

Nederlander die plaat heeft gezien.

紅毛人が絵板を見たのはこれが初めであった.

など L述べてゐる.

長崎に来舶する紅毛人は,絵揺することなし唯人別改を受くる位に

過ぎなかった.併し漂着異邦人は紅毛人たると自余の外国人たるとを問

はずもとより絵揺をしなければ、ならなかっ主f.

さてIf長崎市史』の教えるところでは,要するに,踏絵に関する限り,

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日:本における Gulliver 95

漂着の外国人は必ずこれを行った,ということである.そして,これを裏

書きする出来事の一つは9 語、)11幕府の通訳になりたいという念願から渡来9

して捕えられ,長崎に送られた RonaldMacdonaldの例である. :f,皮は

. .・最初の取調べを受けるために奉行の前に引出されることになりラ

奉行所の入口に来ると 9 敷石の上に十字架と聖母璃刊亜の像や少年の耶

蘇の像を彫った真鏡板の画像を見た.役人によって此等の真鎗製踏絵の

画偉を踏むことを命ぜられると,彼は新教徒であるので少しも障蕗しな

いで踏みつけた.これは寛永から安政に至る切支丹宗門の剃減の約二百

年の間切支丹信者iこ非ざることを試めすために用ひた宗門改めの一つの

形式である絵踏である.

ちなみに「漂着異邦人Jである Macdonaldが踏絵をさせられたのは嘉

永元年 (1848年〉のことであった.

以上のような資料が示すところによると,いったいスウィフトはどうい

うつもりでガリヴァーに踏絵の ζ とを語らせたのであろうか? 実は,問

題の第3篇の第11章を注意深〈読んでみると,この十字架踏み(trampling

upon the crucifix)はガリヴァーの日本旅行の中で最も大きな関心事だっ

たことがわかるのである.先ず披は日本国皇帝に二つのお願いを言上した.

一つは長崎まで自分を無事に送り届けてもらいたいということ,そして今

一つは,オランダ人に課せられているあの十字架踏みを,陛下のご兄弟で

あるラグナグ国王に免じて許して頂きたいタ ということである。そして9

その理由として“because1 had been thrown into his kingdom by my

misfortunes, without any intention 01 trading.ヲ? とある. しカミし9 さき

ほどの『長崎市史』からすると 9 ガリヴァーの becauseは, 乱lthoughで

なくてはならないことになる.しかも,この旅行記が前提としていること

は9 長崎のあらゆるオランダ人はラ貿易のために合法的に来ている連中で

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96 日本における Gulliver

あろうとなかろうと,みな踏絵をさせられていた,ということである固こ

の前提を裏書きする出来事は,長崎でオランダ船 Amboynaにのりこむと

何人かの船員がしつこく踏絵をやったかとガリヴァーに訊いたことである.

彼がお茶をにごしていると,意地の悪い船長が,おせっかいにも日本の役

人のところまで出掛けて,あいつはまだ踏絵をすませていまぜん,と告げ

口したのであった.しかし,罰をうけたのは却って船長の万であってヲ竹

の杖で、肩を二十たび叩かれたというのである.

踏絵にまつわる話はそれだけではないのである.そもそも日本国皇帝自

身が,踏絵に対して絶対的な態度で臨んでいないのである.ガ、リヴァーの

奇珍な申し出が日本語に通訳されたとき,皇帝は

seemed a little surprized; and said, he believed 1 was the :first of

my countrymen who ever made any scruple in this point; and that

he b邑ganto doubt, whether 1 were a r巴alHollander or no; but

rather suspected 1 must be a Christian. (3. 11. 4.)

という風に反応したのである.ここで用いられている Christianという語9

は,まさに「切支丹」と訳すべきところである.そして,切支丹の疑いが

あるならば,ただちに踏絵を執行してもよさそうなものである.しかし,

寛大なこの皇帝は,ガリヴァーの挙げた理由のために,また特にラグナグ

国王を満足させるために,彼の願いをききとどけたのである.しかし,奇

妙なことに,この皇帝はここで絶対君主として振舞っていない.

.. but, the affair must be managed with dexterity, and his 0飴cers

should be commanded to let me pass, as it were, by forgetfulness.

For he assured me, that if the secret should be discov邑redby my

countrymen, the Dutch, they would cut my throat in the voyage.

一thecommanding 0伍cerhad orders to convey me safe thither,

with particular instructions about the busin巴ssof the crucifi.r. (3.

11. 4.)

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日本における Gulliveτ 97

この皇帝がもし絶対君主であったとすれば,自分の意志で,おおっぴらに

「この者踏絵御免の事」といったお墨付ぎを与えることができた筈である.

ところが皇帝は,この「秘密」が他のオランダ人に洩れると,航海中のガ

リヴァーの生命が危い,ということまで心配したのである.つまり皇帝は,

初対面の異邦人の生命にかかわるような「秘密」に敢えて加担したのであ

る.それにしてもヲオランダ人たちは,踏絵をしなかつた同国人をなぜ

すのであろうか? また,日本国皇帝は,なぜそのようなことまで知つて

いたのか?

ガリヴァーはなぜ、踏絵の免除を願い出たのであろうか?踏絵は元来ロー

マ・カトリック教徒でないかどうかを発見する方法であった.では,レミ

ュエル・ガリヴァーの宗派は何であったのか? これも興味深い問題であ

る.彼は自己の宗教上の信条を公然と告白したことは一度もない.しかし,

彼がローマ・カトリック教徒でないことを暗示するようなエピソードは,

作品中に少くとも三つあるように思われる. (1)彼が若い噴 Cambridge大

学の EmanuelCollegeの学生だったという事実(1. 1. 1). 十七・十八

世紀の移り自の頃, Oxford, Cambridgeの両大学は Churchof England

派の子弟に限って入学を許可したのであって AlexanderPope のよう

なカトリック教徒や, Daniel Defoeのような Dissentersの子弟は入学で

きなかったので、ある. (2)海賊船の捕虜となったときに,助かりたい一心か

らガリヴァーがオランダ人に訴えたセリフ.第3篇の冒頭で彼の船は二せ

きの海賊船に襲われ,ついに全員が捕虜にされる.中に一人オランダ人が

いて,船長ではないが相当重きをなしている男に見えた.そこで“Itold

him who we were, and. begged him in consideration of our being

Christians and Protestants, of neighbouring countries, in strict allianceフ

that he would move the ca ptains to take some pity on us.円 (3.1. 5.)ここ

でガリヴァーは同じプロテスタントである点を強調しているが,プロテス

タントにもいろいろある筈である.(3) I全質変化説J(transubstantiation)

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98 日本における Gulliver

に対するガリヴァーの皮肉たっぷりの態度.これは Houyhnhnmの主人

にヨーロッパ世界における戦争の原因を説明するくだりである. “Diffe-

rence of opinions hath cost many ri::ti1lions of lives: for instance,

whethe1' flesh be bread, or bread be flesh: whethe1' the juice of a

ce1'tain beny be blood 01' wine……" (4. 5. 3.)真のカトリッグ教徒な

らば?キリストの肉と血にかかわるカトリゲグ教会の重要なドグマを,こ

うも地人ごとのように説明できなかったであろう.

では,ローマ・カトリゲグ教徒ではないのに,なぜそうと疑われるよう

なことをガリヴァーは言つてのけたのであろう?彼がスウィフト自身のよ

うに英国国教会所属のプロテスタントであったとして,いったい何故踏絵

を器賭したのであろうか? 日本国皇帝が寛大な人物だったからよかった

ものの,もしこれが徳川家光であったらどうなっていたであろうか? 逆

にまた3 踏絵を免れたということが,オランダ人をしてガリヴァーを殺さ

せるほどの出来事会であったとすればヲガリヴァーは日本でタ生命にかかわ

る賭をしたことになるではないか.そして,そのガリヴァーの生命を救っ

たのは日本国皇帝であり,彼の生命をねらったのはオラソダ人であった.

ちょうど第 3篇のはじめにおいて9 彼を海になげこむことを主張したのが

オラン夕、、人,それに対して,四日分の食糧を二倍にした上で,小さなカヌ

ーで漂流することにさせた〈つまり,生命を救って〈れることになった〉

のが日本人の海賊船長だったのである.第 3篇では,このパターンが冒頭、

の第 1章と,終章である第11章に出てくるのである.この事実はラスウィ

フトの日本とオラン夕、、に対する態度を反映しているといえるかもしれない.

近くて関係の深い国に対する憎しみと,遠〈て関係の浅い国に対する漠然

とした好感というのは,考えてみれば普遍的なことがらでもあるが.

結局のところ,ガリヴァーの動機に光を与えてくれるのは, w長崎市史J

が引用している日本における教会の歴史の著者 C1'assetの書いた通り「そ

れでも彼等は絵揺を好まなかった」というところが本音であろう.私はこ

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日本における Gulliver 99

こでガリヴァーに十八世紀人をみる I新教徒でゐるので少しも語路しな

いで踏みつけた」マクドナルドは断然十九世紀人であった.平田禿木もま

た,乙の点について妥当な推諦を下している I聖パトリックの百iJ監留のD

職に在る Swiftは,流石に聖像を踏む事は控へさせたのであらう J. する

と,このでき事は9 ガリヴァーの信仰の表現のたった一つの例といえるか

もしれない.現代の言葉でいうとヲガリグァーはあの時ラ見事に「抵抗J

したのである.

してみると 9 この第11章における調京uは,踏絵を実施している日本に対

してというよりも,その踏絵におどらされフ取りj長かれているオラン夕、、人

に対して向けらわしているラといえるかもしれない.第 3篇の第 1章では,

グリスチャンでありヲしかも同じ新教徒であるオラン夕、、人よりもラ異教徒

である日本人の方がうんと慈悲深い3 という悪態をついてヲオランタ人人の

海賊を慈らす場面がある.

こういうわけで,私は激石の「際どい所で調刺を遣ったものである」と

いう発言のうち I際どい所」というフレーズだけをうけいれようと思う.

たしかにガリヴァーはp 日本国皇帝の面前でラ際どい所で際どい事を言っ

たのであるから.そして,際どいところでの調刺とはフむしろ第 1章のp

海賊にとらえられたときに,オランダ人に向かつて投げつけた言葉にあて

はめてラ激石先生との和解をはかることにしたいのである.

III

スウィフトは Gulliver's Travelsの中で,なぜ、唯一の実在の国日本に

までガリヴァーを派遣したのか?

先ずガリヴァー自身は Glubbdubdrib島で次のように言っている.

1 thought it necessary to disguise my country, and call my self

an Hollander; because my intentions were for Japan, and 1 knew

the Dutch were the only Europeans permitted to enter into that

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100 日本における Gulliver

kingdom. 1 therefore told the 0伍cer,that... 1 was ... now endeav-

ouring to g巴tto Japan, from whence 1 might五nda convenience of

returning to my own country. (3. 9. 2.)

すなわちガリヴァーは各篇の旅が終るごとにラ故国に帰るわけであり,

たまたま第3篇では日本経由で帰国するという方法を選んだだけのことで

ある.また,日本経由で帰るには,オラン夕、、人になりすますのが得策であ

った.そして,鎖国中の日本では,オランダ人だけが長崎にきて通商する

特権をもっていたことを,作者は正確に知っていたのである.のみならず,

入国した者は踏絵をやらされるということをも.

しかしながら,スウィフトは,ガリヴァーの日本入国に当っては,仮空

の国ラグナグラと日本の聞に絶えず交易が行われていたことにしている.

そして,日本行きの船にのり,十五日間かかって日本の小さな港 Xamoschi

に到着している.またラグナグ国王と日本の国王とは兄弟であるという設

定だが,これはむろんスウィフトのねつ造である.わが国の歴史上,いか

なる天皇,またいかなる将軍も,他の国の君主と兄弟関係であったことは

ない.これはあきらかに, ヨーロッパの君主制を東洋に勝手にあてはめて

しまったf列である.

エドにいたのはむろん将軍であって,皇帝ないし天皇ではなかった.し

かし,十七世紀の後半に出た Bouhourの L約 ofSt. Francis Xavier

(1688年に Drydenが英訳した〉を見ても, 日本各地方の藩主は Kingな

いし princeという語であらわされている.どの Gulliver'sTravelsのテ

キストにもついている地図で日本をよく眺めてみると Meaco(ミヤコ〉

と Iedoの両方がはっきりと出ているが,西洋人にはミヤコ即 capitalと

いう風にはとれなかったのである.

長崎がオランダ人のための港であることもまたスウィフトにはわかって

いた.だから,ガリヴァーは江戸から長崎まで下らなくてはならない.彼

が加えてもらって行進した部隊は,江戸から長崎ーまで13日ほどかかってい

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日本における Gulliver 101

る.当時の地図(恐らくスウィフトが参照したであろうと思われる Moll

の地図〉では,江戸と長崎の間は 500マイル以上あるそうであるから,一

日40マイル(約64キロ〉の速度である.現在の鉄道線路による東京・長崎

間は 1337.2キロであるから,ガリヴァーたちの速度は, かけあし程度で

あったと見るほかはない.道理で日本の旅の記述は空白のままなのであろ

つ.

テキストの地図はラ十七世紀の終りから十八世紀のはじめにかけて最も

いきわたっていた HermanMoll (4. 11. 3.)の地図にもとずいているもの

である ArthurE. Caseと FrederickBracherはともに Gullive〆5

Travels (1726) に付された地図に見出される多くのまちがいは,著者の

スウィフトや彼の友人たちの責任ではないと言ってい6. また Bracher

.t~ これらの地図は John Stuartが描き, Robert Sheppardが彫ったも

のと信じている.

第 3篇には合計三つの図版が付されているが,その第一番目に日本の地

図がある.これによると,いびつであるけれども本州,四国,九州,北海

道がちゃんと入っている.四国は Tonsa1 (土佐の島),九州は Bungo1

(豊後の島),北海道は LANDOF IESSO (エゾの国〉であって,北海

道は本弁し四国,九州、iを合わせたよりも大きい.このほか SandoI (佐渡

が島), 1 Tanaxima (種子が島), Sea of Corea (朝鮮海,すなわち日

本海L の文字が見え,地名として Iedo(スウィフト自身はテキストの中

で Yedoと綴っている), Meaco (ミヤコ,すなわち京都), Osacca (大

阪〉などが見える.その他の地名は眼を皿のようにして読んでも,私には

読みとれない.ここに Xamoschi と長崎,すなわちガリヴァーの入国と

出国の地が載っていないのは,いかにも地図製作者の君、穫というべきであ

ろう.

Xamoschiは何と読み,またどこをさすのであろうか? これはまこと

に興味深いヲしかし小さな問題である.激石は「クサモシ」と読み9 平田

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102 a本における Gulliver

禿木氏と中野好夫占とは「ザモスキ」と読んでいる・どうやら語頭にくる

Xは [z]の発音になるようだ、ある (e. g.: Xanadu, Xanthippe, Xav也 r,

xerox,ιXerxes). しかし“-schi"を [ski] と発音する例がほかはあるだ

ろうか? なるほど語頭にくれば [ski-]になる (e.g. schizophrenia). し

かし, ドイツ語では語頭でもやはり [f-]の発音になる. 私は語の終りに

くる -schiを [ski] と読む例を知らない.それ故私は「ザ、モシ」と読みた

いのである.では,ザ、モシとはどこか? これについてラ東京湾のあちら

こちらを,現在の大きな地図で眼を皿のようにして探してみてもフそうい

う地名ば見当らない a 似たものを求めればラ現在横須賀市の一部である鴨

井 (Kamoi)というところがあるくらいのものである. もっと空想をたく

ましくすれば9 伊豆の下回 (Shimoda)を逆読みしてヒントを得 Damoshi

→ Xamoschiが出来た9 ととるのはどうであろうか? 位置からいえば,

下田は東京湾からははるかに西になるのであるが.

しかし, Mollの地図では東京湾はそれほど、定かにはわからないようで

ある Caseは Mol1の地図にもとずいて9 “Gulliverian 託emisphere円

を構成しているヵ{ xam叫 iを Yedo のほぼ南40マイルの地点、に記載

している.問題は, Mollの地図にその Xamoschi が載っているかどう

かである.私には現在 Mollの地図を見る方法がないのであるが,恐ら〈

載っていないと考える.ついでながらラ Caseはガリヴァーの江戸から長

崎への旅を,その一部または殆どの部分を,海路によったろうと想定して

いる.少くとも関門海峡だけは船でわたらなくてはならなかった ζ とはも

ちろんであるが.

日本におけるガリヴァーという問題で,もう一つ不思議な点がある.そ

れは彼があの優秀な語学の才能をもっていて,どうして日本語を覚えよう

としなかったか,という問題である.作品の殆ど冒頭で9 彼は自分の語学

力を誇って次のように言う.

Myhours of leisure 1 spent in r巴adingthe best authors, ancient

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日本における Gulliv巴r 103

and modern; ... and when 1 was ashor巴 inobserving the man立ers

and dispositions of the people, as well且slearning their language;

w herein 1 had 乱 greatfacility by the strength of my -memory.

(1. 1.. 3.)

このガリヴァーの誇る語学力は“Highand Low Dutch, LatinラFrench,

Spanish, Italian, and Lingua Franca" (1. 2. 3.)に及ぶ.このうち High

Dutch はいわゆるドイツ語であり, Low Dutchはオランダ語を指すとみ

てよい.また LingnaFranc在とは地中海沿岸 Le,'叩lt地方で用いられた

ところのイタリア語,フランス語,ギリシア語,スペイン語の混成語を指

す.彼はのちに Li11iput語ー Brobdingnag語, Balnibarbi語,日ouyhnhnm

語を習得する.それも驚くほどのはやさで.作品を注意深く読んでみると,

各篇の第2主主で,ガリヴァーはその国の言語をどのようにして学習したか

を物語るのである.ただし第3篇ではガリヴァーは言語学習の点でいくら

か怠i宥であり, Glubbdubdむn出b と Luggnaggでは一切 B且ιlniゐba訂rbi語でラ

また日本でで、はオランタダ、

ということは9その国の言語を自分で学習する以外には, communication 12)

の手段がない場合 (Lil1iput,Brobdingnag, Laputa,日ouyhnhnmland)

は9 ガリヴァーはそれを懸命に学習する.しかし,自分の既に習得した言

語で,何とか通じる場合 (Glubbdubdrib,Luggnagg,日本〉は,新しい言

語を習わずに強引に押し通そうとするのである.してみると日本国皇帝の

もとに,オランダ語の通訳カ丸、たことは,一寸残念なことであった. もし

いなければ,ガリヴァーはがんばって日本語を学習した筈だからである.

しかしラガリヴァーは日本についてはラはじめから何となく逃げ腰である.

“五在ystay in Japan was so short, and 1 w乱sso eri.tirely a stranger to

the language, that 1 was not qua1ifi.ed to make any enquiries. But 1

hope the Dutch, upon this notice, wi11 be curious and ab1忠告noughto

supply my defects." (3. 11. 2.) ガリヴァーは別に「帰心矢の如LJ と

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104 日本における Gulliver

いうわけでもない. 日本を本気になって探険しようとするならば,時聞は

いくらでもあった筈だし,それに日本国皇帝は彼に対して非常に親切だっ

た.いくらでも園内を旅する便宜をはかつてくれたに相違ない.それにも

まして不思議なことは,この引用文が示す限りで,ガリヴァーが日本に関

する知識ではオラン夕、、人に全く脱幅していることである. もっと疑ぐり深

く言えば?ガリヴァーの日本旅行記は,仮に詳細なものであれば,オラン

夕、、の日本通からは馬鹿にされるようなものになるのではないかという,自

信のなさがここに反映しているように思われる.

とするならば,ごの第3篇におけるガリヴァーのオランダ、に対する態度

は,単純なオランダ嫌いなどではなく,実はオラ γ ダに対する ambivalence

の表明である,ということがL、えるであろう.つまり,ガリヴァーの日本

の旅の空白は,日本とガリヴァーの関係以上にオラン夕、、とガリヴァーの関

係から説明されるのである.オラン夕、、人をどれほどくさしてみたところでラ

ガリヴァーをイギリスに連れて帰ってくれたのはオラン夕、、人だったのであ

る.ガリヴァーはオラン夕、、人をあれほど非難しながら,結局はオラン夕、、人

を利用したという意味で,プラグ、マテイストなのである.

IV

多くのまわり道をしながら私は日本におけるガリヴァーの問題を論じて

きた.ガリヴァーと日本の関係を論じていく場合,はからずもスウィフト

とオランダという問題がうかび上ってきたようである.これについては,

さらに研究の上将来発表の機会をもちたいと思う.

第 3篇の第11章は,調刺のない章ではない.明瞭な調刺とはいえないま

でも,そこにはオラン夕、、人が調刺されているのである.そして,調刺の対

象であるオランダ人を平気で利用するガリヴァー,すなわちプラグマテイ

スト・ガリヴァーというイメージがうかび上ってくると,私には,次にガ

リヴァー自身が調刺の対象になるという,あの調刺の二重構造が思い出さ

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日本における Gulliver 105

れてくる.第 4篇で Yahooを通して人間の獣性,残忍性が徹底的にあ

ばかれラ次に,ついに自己を Houyhnhnmと同一視しはじめたガリヴァ

ー自身が調刺の対象になるというノミターンのかすかな予表をここに見るの

は行きすぎであろうか? またこの章でガリヴァーの日本の旅の記述があ

っけないものであることは,オランダとの関係からすでに論じたつもりで

ある.

調刺文学は,調刺という目的のためには何でも利用できるものを利用す

る.殊に,読者の意表に出るようなものを利用したがる.そこに,調刺文

学にプラグマテイズムが侵入する理由がある.スウィフトは日本を利用し

てオランタ人を調刺した. 日本を利用してガリヴァーを帰国させた.スウ

fフトは日本を,あともう一度だけ利用するつもりであったことを指摘し

て,この小説iを終りたい.

スウィフトの未完の作品の一つに“AnAccount of the Court and 1事

Empire of Japan円という八頁程度のものがある.標題と制作年 (1728)

から推してラスウィブトと日本,といったテーマに興味をもっ者がとびっ

きたくなるものである.読んでみるとがっかりである. 日本のことは何一

つ警かれていない.場所を日本に想定しただけで George1 の崩御,

George IIの即位 Walpoleの巧妙な買収政治の ζ とを anagram式に

名前を変えて物語っている.未完のままで,スウィフト生存中に活字にな

ることなく終ったものであるけれども,このようにして,スウィフトはも

う一度だけ日本を利用しようとたくらんでいたのであった.

1) If'十八世紀英文学研究J1(あぼろん社, 1968)の中の常盤弁礼十氏の論文はこ

のことをた〈みに紹介している.

方 (3. 11. 5.) Part III, Chapter 11, 5th Paragraphをさす.以下 GulliτJer's

Travelsからの引用はすべて本文中に三つの数字を用いて示すことにする.

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106 日本における Gulliv巴r

3 ζの Kampferについては,Gulliver's Travelsとの関連で,未見であるが

次のような論文があるので紹介しておく J.Leeds Barroll,“Gulliver in

Luggnagg: A Possible Source." Philological Quarterly, XXXVI (1957), 505-

08.なお J習の書誌の編者はこれについて次のように注釈している.“Suggests

Englebert Kaempfer, The昂 storyof Japan (London, 1727) which could

have b己enavailable in manuscript."

争 長崎市編, IT'長崎市史風俗編~ (1925年), pp.226-228

3 重久篤太郎, u 日本近世英学史~ (1941)にこの Macdonaldのことがくわ

しく記述されている.次の引用文は本書の 233頁から.。中野好夫訳〈新潮文庫〕では「グリスチャン」となっている.この訳語だと

状況を正しく把握したことにならない.

万 平田禿木 rスヰフトl (研究社英米文学評伝叢書ヲ 1937), p. 112.

f9 Arthur E. Case, Four Essays on GulU'ver's Travels (Gloucester, Mass. :

Peter Smith, 1958)による.

9) Frederick Bracher,“百巴 Maps in Gulli-ver's Travels" (Huηtington

Library Quarterly, Vol. III, No. 1 [1944].)

10) 平田禿木,前掲書.中野好夫,官官掲訳書.

11) Arthur E. Case,古iJ掲意 pp.54-55.

1:1} Laputaの国王の命をうけた特別の教師からガリヴァーが習った言葉 Laputo

語であるが,これは同時に Balnibarbi語でもある.

13) H巴rbertDavisラ ed.,Prose Works of Jonathan Swift, V 01. V (Miscellaneous

and Autobiographiιal Pieces. Fragments and Marginalia) (O:x:ford: Basil

Blackwell) pp. 99-107.

付記

この小論の執筆にあたり,京都市立美術大学の重久篤太郎教授と,同志社女子

大学の高山修教授から貴重な示唆を与えられた.ここに記して謝意をあらわす次

第である.しかしこの小論の中に見出されるかもしれない誤りは一切私の責任で

ある.