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e 幕末村方指 導者の法意識 村方出入と名主越訴一件 1近世から近代ヘー さきに代官在陣と天保改革の一端について述べ(年 中止後の代官大貫の死が、出羽国村山地方に与えた影響 た。それは天保二年就任以来代官として忠実に幕政の先駆を遂 能吏大貫が、改革中止後の混乱の中で死亡したのは結末を飾るに わしいものであった。すなわち中止にあたって大貫が、享保、寛政改 革に準じた路線上に引戻し、中止は手数のかかる調査、諸帳の提出を 取りやめるという「御慈悲の御趣意」と弁明しても正鵠を得ない。か れの死因がいかなるものであったかは不明だが、死以外にこの終幕を 演出するものはなかったからである。 天保五年廻米強化をもくろんだ幕府の基本方針に対して、決死で対 処した大貫の行為は、出羽、越後での実施を嘉永六年まで延期する結 (1) 果をもたらしたといえる。そしてその代官の死と前後して端を発した 谷地郷新町村村方出入も、勘定奉行所の裁許にそって国元で一件の処 理が終ったのは、嘉永六年一二月である。 谷地郷が直接天保改革の影響をうけたのは、天保一三年前小路村な 佳寿子 どが山形藩秋元領へ支配替となったことか 山は当然山形藩へ移管される。しかし入会権を 示し、とくに西里村はその主張を譲らず、未解決の えたという。また新町村で天保五、六年から惣名中嶋新開 隣村荒町村との間で地盤帰属をめぐる問題が解決したのは、 である。しかしなお大町上下組、前小路村との入会関係は未解決の まであった。翌一〇年さらに新町村は字中野船渡の川瀬変更による、 海老鶴見取畑願を提出する。これまた大町、前小路村、北口町との間 に、地盤帰属をめぐる問題があった。天保一四年五月新町村は代官添 田一郎次の在陣により、大貫支配から添田へ移るが、八月には添田は 転任してしまった。これによって谷地幕府領は、ふたたび代官大貫の 支配下に置かれたのである。 天保改革の中止は幕閣内部、幕藩間にひずみを生じただけではな く、国、郡(郷)、村あるいは仲間、講など種々の集団内部に、価値判 断をめぐって亀裂を生ぜしめた。とくに谷地郷は、耕地や大堰等の灌 概用水を中心とした共同体として、自然発生した聚落である。近世に 入ってからもこの用水懸りの地域を総称して、谷地郷(領)と呼び、 一37一

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Page 1: Meiji Repository: ホーム - 導者の法意識...e 三幕末村方指 村方出入と名主越訴一件導者の法意識 1近世から近代ヘー 谷地郷が直接天保改革の影響をうけたのは、天保一三年前小路村な理が終ったのは、嘉永六年一二月である。谷地郷新町村村方出入も、勘定奉行所

e幕末村方指

      三

導者の法意識

村方出入と名主越訴一件

1近世から近代ヘー

 さきに代官在陣と天保改革の一端について述べ(年報10)、天保改革

中止後の代官大貫の死が、出羽国村山地方に与えた影響は大きいとし

た。それは天保二年就任以来代官として忠実に幕政の先駆を遂行した

能吏大貫が、改革中止後の混乱の中で死亡したのは結末を飾るにふさ

わしいものであった。すなわち中止にあたって大貫が、享保、寛政改

革に準じた路線上に引戻し、中止は手数のかかる調査、諸帳の提出を

取りやめるという「御慈悲の御趣意」と弁明しても正鵠を得ない。か

れの死因がいかなるものであったかは不明だが、死以外にこの終幕を

演出するものはなかったからである。

 天保五年廻米強化をもくろんだ幕府の基本方針に対して、決死で対

処した大貫の行為は、出羽、越後での実施を嘉永六年まで延期する結

         (1)

果をもたらしたといえる。そしてその代官の死と前後して端を発した

谷地郷新町村村方出入も、勘定奉行所の裁許にそって国元で一件の処

理が終ったのは、嘉永六年一二月である。

 谷地郷が直接天保改革の影響をうけたのは、天保一三年前小路村な

佳寿子

どが山形藩秋元領へ支配替となったことからである。前小路村内根際

山は当然山形藩へ移管される。しかし入会権をもつ周辺村落は反応を

示し、とくに西里村はその主張を譲らず、未解決のまま幕府瓦解を迎

えたという。また新町村で天保五、六年から惣名中嶋新開に着手し、

隣村荒町村との間で地盤帰属をめぐる問題が解決したのは、天保九年

である。しかしなお大町上下組、前小路村との入会関係は未解決のま

まであった。翌一〇年さらに新町村は字中野船渡の川瀬変更による、

海老鶴見取畑願を提出する。これまた大町、前小路村、北口町との間

に、地盤帰属をめぐる問題があった。天保一四年五月新町村は代官添

田一郎次の在陣により、大貫支配から添田へ移るが、八月には添田は

転任してしまった。これによって谷地幕府領は、ふたたび代官大貫の

支配下に置かれたのである。

 天保改革の中止は幕閣内部、幕藩間にひずみを生じただけではな

く、国、郡(郷)、村あるいは仲間、講など種々の集団内部に、価値判

断をめぐって亀裂を生ぜしめた。とくに谷地郷は、耕地や大堰等の灌

概用水を中心とした共同体として、自然発生した聚落である。近世に

入ってからもこの用水懸りの地域を総称して、谷地郷(領)と呼び、

一37一

Page 2: Meiji Repository: ホーム - 導者の法意識...e 三幕末村方指 村方出入と名主越訴一件導者の法意識 1近世から近代ヘー 谷地郷が直接天保改革の影響をうけたのは、天保一三年前小路村な理が終ったのは、嘉永六年一二月である。谷地郷新町村村方出入も、勘定奉行所

政治区画を一定区域内に限定することはできない(『河北町の歴史』上三

〇八頁)。郷内有力者層は村を超えて治水、開墾に私財を投じ、労働力

は開墾世話役によってまとめられている。結果地主・小作関係は接点

に世話役、差配を置いた、よリクールな関係として意識されている。

 新町村村方出入は開墾地の帰属をめぐる問題から端を発し、訴答い

ずれもが越訴という形をとりつつ、幕府の正しい判断基準の提示を求

めるのである。裁判の場を一つは国元に求め、他は江戸へ求める。一

つは「理」による現状に則した解決ー具体的妥当性を求め、他は「法」

による筋の正しさー法的安定性を求める。国元代官役所では名主退役

運動が効を奏しながら、江戸勘定奉行所では代官手代の収賄事件とし

て受理された。

             (2)

 百姓側は村落自治組織ー村契約-惣百姓による、名主退役運動に結

集したが、隣村あるいは隣村地主の微妙な利害関係をはらみ、その結

託関係は姻戚関係を通して切りくずされる。結果開墾地の帰属をめぐ

る、富農、貧農層との対立は霧散し、富農層間の対立として判断され

たのである。

 裁許は元名主の越訴一件として処理され、問題の新開地は掻散によ

って一応村有に帰し、あらためて村内談合の上新開の申立をすること

となったが、結局は貧農の手には渡らなかったのである。不安定な居

住区に住む貧農層にとっては、富農層の助力-治水普請を仰がねぽな

らなかったのである。元名主としても退役とともに、出府滞在諸経

費、代官所、勘定奉行所周辺に流出した金員のつけは、帰村後に山積

したのである。

 さらにはこの出入の扱人、引合人として参加した郡内指導者層も、

共通の問題をかかえているのであって、他山の石ではない。この一件

は新町村の特異な事情ではなく、郡内あるいは日本国中に席捲した、

天保改革中止後-幕末の共通の問題といえるであろう。

 谷地郷、新町村一般については『河北町の歴史』上巻に譲り、つぎ

に新町村の天保一四、五年の人的構成の概要を略記しておこう。

 天保一四年五月代官添田一郎次への引渡明細帳によると、新町村高

一四九〇石余(七〇町一反余)のうち、高一〇一〇石余が名主内蔵介

組、残る四七九石余が枝郷高関組名主七郎兵衛組である。内蔵介組11

            (3)

本村には枝郷として船渡一〇戸が含まれている。正確にいうとこの一

件は、船渡を含む内蔵介組内の騒動である。

 天保一五年宗門帳によると、内蔵介組家数五五戸、内名主一、百姓

二四、水呑七、借地七、同居二、他村居住二、船渡一〇戸と寺二であ

る。同年五人組帳では家数七八戸、内百姓三六、水呑=一、借地七、

同居二、他村居住二、船渡一〇戸と、潰前、郷御蔵、五人組支配と記

されたもの九戸である。借地、同居、他村居住、船渡の戸数に変化は

ないから、潰前他を除けぽ百姓水呑数は宗門帳三二戸に対して五人組

帳の四八戸となり、富農層は三ヵ所以上に記載されている。

 宗門帳による高持百姓は三四戸、内一〇〇石以上二戸、六〇石以上

三戸、二〇石以上三戸(寺一)、一〇石以上三戸、一石以上一二 (寺

一)一石以下一二戸である。水呑のうち七戸はわずかながらも高持で

一38一

Page 3: Meiji Repository: ホーム - 導者の法意識...e 三幕末村方指 村方出入と名主越訴一件導者の法意識 1近世から近代ヘー 谷地郷が直接天保改革の影響をうけたのは、天保一三年前小路村な理が終ったのは、嘉永六年一二月である。谷地郷新町村村方出入も、勘定奉行所

ある。村役人層の持高は名主内蔵介八七石余、組頭源七の一一石、

同利右衛門三石余、百姓代平太郎六〇石余である。源七は高持だが水

呑であり、利右衛門は百姓だが高は少ない。一方重立百姓あるいは村

方指導者としては、蔵方役藤左衛門一〇六石余、久右衛門一〇四石

余、伝兵衛八五石余、源次郎三四石弱、平吉二五石余がある。このほ

か二斗余の百姓忠蔵、三石余の水呑善太郎、二石余の水呑五郎兵衛

     (4)

が、開発世話役として指導的地位にある。

 このような身分階層の混乱が騒動の一因であり、宗門帳では朱字で

高持と地借無高とに整理されてもいる。

 年齢をみると長老の百姓代平太郎七四歳、組頭利右衛門六三歳に、

中堅四、五〇代は、蔵方役藤左衛門五〇歳、名主内蔵介四九歳を中心

に、世話役善太郎五〇歳、五郎兵衛五一歳と忠蔵四六歳、源次郎四四

歳がつづく。いずれも寛政期生れである。二、三〇代は組頭源七三五

歳、平吉三〇歳、つづいて伝兵衛二四歳、久右衛門一四歳である。

 寺は前小路村禅宗東林寺末長谷寺と、山形浄土真宗専称寺末長楽寺

がある。檀家は長谷寺二六戸、長楽寺三戸で、他は組外寺院の檀家で

ある。宗派別にみると名主とその借地一戸が長谷寺の本寺東林寺檀

家、組頭利右衛門が東林寺末高関組高林寺。残る一戸が松橋村慈眼寺

檀家である。長谷寺二六戸を中心とした禅宗檀家二九戸が、檀家集団

としての力をもつ。このほか船渡を中心とする時宗=一戸、浄土真宗

六戸、浄土宗三戸、真言宗三戸であり、禅宗に匹敵するだけの数では

ない。しかも名主および組頭利右衛門を除いて前記指導者は、いずれ

も長谷寺檀家である。

 この出入は一面長谷寺檀家が長谷寺を集合場所として、本寺東林寺

檀家名主の権威に対決した}面を呈し、村契約の寄合場長楽寺は争い

の前面にはあらわれていない。しかし名主非法の一箇条に、長楽寺法

談中止をあげているから、惣百姓の結束には村契約が働いていたとい

える。

 名主退役運動は惣百姓の総意としておこなわれる。だがある時は船

渡地区を除く本村百姓三九名(ゴニ箇条連名)であり、また本村高持

百姓だけ(名主役入札)であったり、しかも村の総意に反対したもの

を、排除した上での総意でもある。しかし具体的な行動は借地、船渡

を含むものであり、裁許による処断は、その成員全員が対象となるの

である。

 資料は断らない限り名主の側、すなわち新町村高橋家文書(刑事博

                   (5)

物館目録17)である。必要に応じて実名を用いた。また用語はなるべく

資料に従った。とくに「出入物」と「吟味物」との大別の中で、各役

所取調に対して審理を「糺」といい、審問を「吟味」と区別する(滝

           (6)

川政次郎『公事宿の研究』九頁)ことが一般である。しかし一般百姓に

とっては白洲呼込があり、そこで質問されることは、それが審理であ

れ、審問であれ、吟味であることに変りはない。役人も事実の糺から

いつの間にか、威嚇する吟味に移っていることもしぽしばである。そ

こで本稿は資料に従い広義の意味での「吟味」の用語を用いたところ

が多い。また訴と願、届とが混乱している場合も多い(小早川欣吾『近

一39一

Page 4: Meiji Repository: ホーム - 導者の法意識...e 三幕末村方指 村方出入と名主越訴一件導者の法意識 1近世から近代ヘー 谷地郷が直接天保改革の影響をうけたのは、天保一三年前小路村な理が終ったのは、嘉永六年一二月である。谷地郷新町村村方出入も、勘定奉行所

世民事訴訟法の研究』一=頁)o

 公事訴訟、公事宿の概括的、基本的研究は前掲両書にゆだね、ここ

ではまさに裁かれる方の側に立って(滝川『前掲書』一二頁)眺めた報告

である。これらの訴訟を通して、幕末村方指導者が訴訟技術、法廷技

術を体得していく、一つの過程の報告である。

  なおこの資料は一〇数年前に原稿化したものだが、ぽう大な資料

  のため活字化できなかったものである。機会をみて公刊したいと

  おもっているので、資料を付さなかった。諒とされたい。

注ω 『続徳川実紀』第三編。藤田覚「幕末期年貢収取状況と農民層の動向」

 (『日本歴史』三二六号)。地方に立脚した代官の施策を幕府も承認せざる

 を得なかったのであり、むしろその力量に期待したのである。「方地方に

 対する幕府の政策変更の責めは、代官が負わなければならないが、死をも

 って償うことによって免責されたといえる。結果その責めは代官の下で実

 務を担当した手附、手代にむけられ、さらには郡中惣代、郷惣代、村方指

 導者間相互の葛藤を生んだのである。

②東北地方の「村契約」については桜井徳太郎『講集団成立過程の研究』

 第一編、第三章。谷地郷の村契約については今田信一氏を中心とする『河

 北町の歴史』上巻とその町誌編纂資料。近くはこれらの諸業績の上に農民

 と情報という新たな視角から、今田洋三氏が一連の発表を続けられている

 (「農民における情報と記録」『地方史研究』一三一号他)。また大藤修「近

 世中期~幕末維新期における農民層の政治・社会・経済認識の展開に関す

 る一考察(『史料館研究紀要』91012)もある。なお嘉永四年「村契約覚

 帳」には、上・中・下三組に分け各組七、八名の世話役衆を記載している。

 上組には源七、藤左衛門、伝兵衛、中組には内蔵介、平吉、下組には平太

 郎の名がみえ、ここでもまたその指導性をもっていたものと思われる。

㈲中野船渡と呼ばれ枝郷として理解されている(『河北町の歴史』)が、高

 関組のような名主以下村方三役をもつ枝郷としては独立してはいない。文

 政七年議定書によると、百姓、水呑、借地のうち、村総作地借として借地

 の中に含まれているが、なお船渡という地区名が、本村の借地、同居とは

 別の、或る種の身分として理解されている(本稿二参照)。

                     ヘ  ヘ  へ

ω勘定奉行所吟味で留役は、この役柄を町方の男だてと対比して理解して

 いる。新町村では従来から田方は組頭扱、畑方は重立百姓扱で開発が進め

 られたという(明治五年海老鶴畑一件書)。また寛文、宝永高入地書上に、

 藤左衛門扱、伝兵衛扱などと記載されているのがこれであろう。開発世話

 役は開墾の労働力をたばねる役として、地主は小作料の一部を郷蔵納とし、

 その中から世話料として世話役に渡されているのである(本稿三頁照)。

㈲筆者の責めを免れるためにA家あるいはB家と記号化した方が賢明であ

 る。しかし「般者にとっては実名も記号にすぎないが、地元にとっては記

 号も具体的実像として把握され、現在と重なりあって理解されることはた

 しかである。だがこれらの歴史を超えて、新しい地方の時代が形成される

 ことを期待しつつ、あえて実名とした。諒とされたい。

⑥  『早稲田大学比較法研究所紀要』第8号。

一40一

Page 5: Meiji Repository: ホーム - 導者の法意識...e 三幕末村方指 村方出入と名主越訴一件導者の法意識 1近世から近代ヘー 谷地郷が直接天保改革の影響をうけたのは、天保一三年前小路村な理が終ったのは、嘉永六年一二月である。谷地郷新町村村方出入も、勘定奉行所

 天保「五年正月「七日夜、村内長谷寺に集合した惣百姓は、百姓惣

代平吉、伝兵衛、藤左衛門、久右衛門、源次郎、百姓代平太郎の重立

百姓の手にょって、名主退役要求を病気中の代官在陣尾花沢役所へ提

             (1)

出した。出訴に抗議したため除外されたのは組頭利右衛門だけであ

る。百姓側から提出した三一箇条の申立ては、次の通りである。

1 隠地など不忠、不義、私慾をむさぼる。

2 仮免状をみせない。

3年貢皆済目録をみせない。

4 「存で年貢を割賦した。

5 金納諸夫銭の割賦も一存でおこない百姓にみせない。

6 拝借米の返納は二五力年賦なのに全部取立てた。

                    (2)

7 名主給として百姓一軒に三日の人足を申付け、外廻りの草取り、

 植附、実取り、味噌、菜大根の漬込みまでやらせる。

8 下男F女に難題をいって無給金でひまを出す。

9 御役人通行のとき勤め終ったあとも用事を捲え、断ると旦雇銭一

 日分をとる。

10

@他村へ引越した者へ村払を出さない。

11

@長い槍で犬を殺し去年は七疋、今年も二、三疋殺した。

12

@屋敷続ぎの作場道に土手を築き、道を狭くした。

13

@百姓勘兵衛の村備金返済について、蔵方藤左衛門へ返済しないよ

 う申付け、取りこんだ。

14@小走り勤めのものを私用に使う。

15

@年貢取立ての請取を出さない。

16

@御用状の使者を夜中は戸内に入れず、不仁の至りであり言語につ

 くし難い。

17

@権威一通りで慈悲憐慰を知らない。

18@長谷寺持田水損普請場にわざと魚梁を作った。

19

@代銭請求は七月一五日、一二月二〇日以前に持参しなけれぽ、半

 年後廻しとなる。

20@当正月一七日夜、村内を大音にて騒しく歩行し、脇差を帯び権威

 をもって悪口をいい、名主に不似合な仕方である。

21

@同夜藤左衛門の召使が久右衛門方へ、医者を呼びにいく途中を取

              (3)

 押えられたので、長楽寺法談参詣も取止めねぽならなかった。

22@組頭、百姓代の印形を終始取上げて置き、私用の印形にも書面を

 持参しなけれぽ渡してくれない。

23@人別改めのとき横帳を仕立て、村払の人別改日も定日がなく、し

 かも改日でなけれぽ請印をしない。

24@年貢過納分返還日を一日しか認めない。

25@郷蔵村廻加番が少しおくれると門を閉めてしまう。

26

@五常の掛物を床に掛けながら五常の道を守らず、名声第一で世上

 の人をたぶらかす。

27@平吉方の手習の子供を十手で打郷した。

一41一

Page 6: Meiji Repository: ホーム - 導者の法意識...e 三幕末村方指 村方出入と名主越訴一件導者の法意識 1近世から近代ヘー 谷地郷が直接天保改革の影響をうけたのは、天保一三年前小路村な理が終ったのは、嘉永六年一二月である。谷地郷新町村村方出入も、勘定奉行所

28@郷蔵へ自分手作りの籾を入れ、不足したとして郷蔵詰のものへ弁

 済を強要した。

29@組頭利右衛門とともに無灯燈で家毎に立聞きをした。

30@伝兵衛、久右衛門の母を呼びつけ、色々申しおどした。

31

@川欠、起返取調も不審の点があり、不当の大作徳であることも疑

 わしい。

 訴えをうけた尾花沢役所元〆伊東仲右衛門は、いずれも海老鶴寄洲

一件に係わる問題であると断定した。二月八日元〆は四力条だけを内

蔵介に提示L、寄洲一件の扱人工藤小路村庄次郎に命じ、この事件を

名主退役の線で解決するよう指示した。すなわち村方手当金として内

蔵介が出金し、その上で名主役を病身を理由に辞任し、埣に名主職を

譲ることであった(この時点では名主世襲制を否定していない)。

 これを不服とした内蔵介は二月一七日、尾花沢郷宿11公事宿に書置

を残し、夜中宿を立ち出府した。村では二}日に内蔵介の欠落届を提

出し、翌二二日直ちに名主役改めの入札をおこなった。

  この欠落届について内蔵介は、その筆者を大町下組名主利兵衛で

  あると断定している。

                         (4)

入札の結果百姓代平太郎は仮名主を命ぜられたが、商人渡世で不在が

ちであることを理由に平吉を仮名主に推挙し、平太郎は百姓代のまま

名主後見役となった。内蔵介の欠落届提出に反対した組頭利右衛門

は、入牢を命ぜられ退役した。

  この月大山領の庄内藩再預けが発表され、いわゆる「大山騒動」

  がぽっ発した。村山郡内でも最寄替の影響をうけることになる。

内蔵介のあとを追って出府した北口町与左衛門は、三月一六日江戸へ

着き、内蔵介に帰国をすすめ、百姓側の尾花沢役所訴えに対して、東

根役所へ訴えることを提案した。内蔵介はこれに同意し、折かえし一

同は帰国した。

  北口町与左衛門も寄洲一件の関係者である。内蔵介が江戸浅草に

  着いた三月}二日、国元で代官大貫が死亡したことになる。与左

  衛門は出府途中であり、代官死亡の情報は得ていなかったと思わ

  れる。

帰国した内蔵介は、ひとまず妻の実家山形藩秋元家中樋山十郎宅(年

報10)へ帰着し、種々の情報を得た上、四月一九日利右衛門を差添と

して東根役所へ出頭した。

 東根役所元〆長谷川岱助は、内蔵介に手鎖を命じた。尾花沢役所を

無断で抜け出した罪を問うという手続をとったのである。翌日から東

根役所は百姓側を呼出し双方吟味を始める。しかも同月二八日には新

町村を柴橋附当分預所から、東根附支配へ最寄替するという、法の適

正な手続をふんで一件解決の主導権を握った。その上で内蔵介を手鎖

から解放し、百姓の提示した三一箇条の答書提出を命じたのである。

代官手附三大助の一人、長谷川岱助(年報10)の面目躍如というところ

である。

 五月一〇日内蔵介の答書が提出され、あらましの逐条吟味を終えた

元〆は、郡中惣代原方村寿助、山口村名主儀左衛門を立合として、年

一42一

Page 7: Meiji Repository: ホーム - 導者の法意識...e 三幕末村方指 村方出入と名主越訴一件導者の法意識 1近世から近代ヘー 谷地郷が直接天保改革の影響をうけたのは、天保一三年前小路村な理が終ったのは、嘉永六年一二月である。谷地郷新町村村方出入も、勘定奉行所

貢割清勘定を命じた。これによって内蔵介は五月一三日九六日振りで

帰村した。

  五月二四日儀左衛門は改名、改印してこの局にあたることになる

  (年報-o)。代官、巡見役人が白衣をまとう意識と同じである。だ

  が公正の立場に立つ立合人も、寿助が百姓側-大町利兵衛ー尾花

  沢役所、義左衛門は内蔵介側ー北口町与左衛門-東根役所という

  色わけをされることになる。

  この月利兵衛は谷地郷二ニカ村組合惣代として、藤助新田惣次郎

  の入会地開発に反対する訴状を、東根役所へ提出している(刑事

  博物館目録17「北口村文書」乙S1)。別の角度から新田開発と土地

  帰属の是非を問うことになり、幕府11陣屋は一貫した姿勢で判断

  を示さねぽならないのである。

 六月一〇日天保期大貫時代の年貢割清勘定ができ、一二日から百姓

披見算当が始まる。披見を要求した百姓側にとって複雑な勘定帳の算

定は、手習所を経営している仮名主平吉といえども専門的な知識はな

い。百姓側は直ちに同盟者利兵衛に援助を求めたのである。同盟関係

が表面化することを恐れた利兵衛は当惑したようである。しかし結局

新町村枝郷高関組名主七郎兵衛とともに、この算定にあたることにな

った。

  利兵衛、平吉は師弟関係にあり、同盟関係を推測されても止むを

  得ないが、これを前面に出すことは決して得策ではない。百姓側

  が利兵衛の知識を援軍として求めたけれぽ、利兵衛を常に中立の

  立場に温存すべきであった。一方七郎兵衛は内蔵介から借りてい

  た一〇両を返済し、立合算定に立つ「公正」な立場を表明した。

 内蔵介の帰村あるいは清勘定、百姓算定と前後して、村内百姓の結

束に動揺があらわれる。まず開墾地世話役水呑行商善太郎の離脱、つ

いで蔵方役藤左衛門が脱落、両角が切りくずされたのである。とくに

藤左衛門にとって年貢取立勘定の吟味が始まれぽ、自分自身がその当

事者となるという、微妙な立場に立つことになるからである。これを

うけて東根役所は、逆に開墾地世話役水呑五郎兵衛を、内蔵介不在中

    (5)

に同家へ不法を働いたかどで宿預けとした。結果同質者間の対立を誘

発し、吟味も尾花沢役所と真向から対立したのである。

  幕府では印旛沼開墾を中止した。

 これに対して百姓側は六月二五日、東根役所の吟味を片吟味である

として、尾花沢役所へ欠(駈)込訴をおこなった。参加したの百姓二

〇余人の貧農層と、大町村下組利兵衛である。寄合場所は長谷寺だ

が、新町村惣百姓でも、長谷寺檀家の結集でもない。ここで重立百姓

対貧農層の対立が明確化し、知識人としての利兵衛がその思想の代弁

者として理解されることになる。同時にその行動は尖鋭化し、態度の

不鮮明な百姓は仲間はずしをうけることになる。とくに開墾を主たる

業としない小商人層は脱落していくことになる。結果はますます惣百

姓という名分を失うことになった。一方内蔵介側は、与左衛門、義左

衛門を通して、神町村半十郎に訴訟技術の指導をうけることになる。

 七月東根役所は、郡中惣代山家村名主三右衛門に内済を命じた。し

一43一

Page 8: Meiji Repository: ホーム - 導者の法意識...e 三幕末村方指 村方出入と名主越訴一件導者の法意識 1近世から近代ヘー 谷地郷が直接天保改革の影響をうけたのは、天保一三年前小路村な理が終ったのは、嘉永六年一二月である。谷地郷新町村村方出入も、勘定奉行所

かし内蔵介は三右衛門の扱いは公正ではないー寿助11百姓側寄りであ

る、としてこれに応ぜず、江戸表差出方を願い出た。これに対して東

根役所は盆帰村を命じ吟味を中止した。

  この頃大貫江戸屋敷閉門の辱が郡内に立った。八月には代官代検

  および大山騒動裁断がおこなわれた。各陣屋役所は村方出入どこ

  ろではなかったようである。進展をみないまま、一二月一〇日代

  官死亡が公表された。

 弘化二年正月東根役所元〆は「此度之一件ハ御代官様跡目相続願方

に相掛」る問題であるとして、内蔵介へ尾花沢役所の扱いをうけるよ

う説得し、屋花沢役所元〆へも内済を交渉した。しかし攻勢に出た尾

花沢元〆は、名主退役を主張して譲らず、一三日内蔵介へ出頭を命じ

た。しかし内蔵介は出頭しなかった。そこで尾花沢元〆は一八日欠込

訴をおこした百姓を引連れ、東根役所へ出張し、二六日東根役所へ双

方を呼出した。二陣屋合同の吟味という変則的な形になったのであ

る。 

 山口村義左衛門が入湯願を提出したのが同じく二六日であり、湯

  治場から江戸へ出立した。この日郡中惣代山家村三右衛門、前後

  して神町村半十郎も出府した。

 翌二七日こんどは百姓側の平吉と伝兵衛が、次期当分預代官嶋田帯

刀の桑折役所へ行き、郷宿11公事宿の手引きで手代高木長平に接触し

(6)

た。二月二八日高木は郷村引渡し請取のため東根役所へ着陣した。嶋

田帯刀、福田八郎右衛門立合当分御預東根役所には、大貫時代の手代

第四席吉田鎌五郎が雇手代として残留し、着陣した高木も桑折役所第

四席の席次であった。両名とも立身の気負いがなかったわけでもな

い。三月五日高木長平は、尾花沢元〆の路線で、名主退役を命じた。

ここで事件は新しい局面に向うのである。

 新代官手代によって退役を命ぜられた内蔵介は、弘化二年三月六日

東根公事宿円蔵方を出発、山形花蔵院で出府を準備し、一〇日山形出

                             (7)

発、二一日江戸伝通院山内処静院に神町半十郎をたずね、山内瑞真院

に旅装を解いた。おくれて一七日藤左衛門も出発、二九日瑞真院へ合

流した。

  国元では両名不在中村役人の入札がおこなわれた。反対した利右

  衛門、藤左衛門の弟兵太郎を手鎖宿預けをした上での入札であ

  る。両名の罪は手代の説得を拒否した「役所を軽んじ村内を為及

  騒乱」せたためである。

 四月二日内蔵介は伝通院前公事宿池田屋へ移り、翌日勘定奉行久須

    (8)

美佐渡守祐明へ駕籠訴した。成功した内蔵介は浅草茅町足利屋源左衛

門方へ宿預けとなった。成功を見届けた宿下代が帰宅すると、こんど

は藤左衛門が池田屋へ移る。六日内蔵介は宿預けのまま、代官嶋田帯

刀江戸詰手代へ引渡された。これをみて一〇日藤左衛門も久須美祐明

へ駕籠訴、身柄は馬喰町伊勢屋又兵衛方へ預けられY 一五日嶋田帯刀

手代へ引渡された。

  同月支配は嶋田、福田立合当分預所から代官石井勝之進へ移る。

  両名とも新代官へ引渡された。

一44一

Page 9: Meiji Repository: ホーム - 導者の法意識...e 三幕末村方指 村方出入と名主越訴一件導者の法意識 1近世から近代ヘー 谷地郷が直接天保改革の影響をうけたのは、天保一三年前小路村な理が終ったのは、嘉永六年一二月である。谷地郷新町村村方出入も、勘定奉行所

 五月二日石井勝之進役所は両名に対し、帰国の上国元で内済するよ

う理解した。両名は四日までの日延願、さらに六日までの病気日延願

を提出、八日藤左衛門が、一〇日に内蔵介が池田屋へ戻った。両名引

取りのため出府していた親類は、両名の欠落届と帰村願を提出、代官

役所は三〇日の尋方を命じて、親類の帰村を許可した。計画的な欠落

である。

  山口村義左衛門は大貫嫡男の代官襲職が実現しないまま、内蔵介

  が池田屋へ戻ったその日に江戸をたち帰村した。六月嫡男錠之助

  の小普請組入りが決定し、なお将来代官就職の期待をつないだの

  である。

 池田屋へ戻った両名は、こんどは共同訴訟をおこなうことになる。

七月一四日池田屋詰番日をねらって、勘定奉行牧野大和守成綱へ駕籠

訴を企てた。しかし登城がないので急拠欠込訴に切りかえ成功した。

両名はともに池田屋宿預けとなり、型通り一八日代官石井勝之進役所

へ引渡された。これによって始めて池田屋が前面に出て、訴訟進行を

指導する名分ができたのである。

 二一日池田屋主人利右衛門は、早速代官石井江戸詰首席元〆手代原

与兵衛の自宅をたずね、一件の取計方を依頼した。元〆はこの一件は

奉行所差出が内定していること、代官所吟味は評定所評議の下吟味で

あることを告げ、明日出頭して帰国できない理由を申立てることを示

唆し、また物見遊山などで退屈をまぎらし、これ以上駕籠訴をしない

よう指示した。翌朝池田屋主人はさらに第二席元〆手附田中熊三郎宅

を訪問した。そして内々首席元〆へ一件処理について依頼したことを

伝え、協力方を要請し、その上で両名を出頭させた。席上首席元〆は、

帰国できない理由ー身の危険1を誘導尋問したあと、国元代官へ伺書

を送達することを告げた。そして代官から指示をうけた江戸詰役所は

あらためて八月二六日、両名および下代を出頭させ、正式な本目安を

提出させたのである。

 九月=日両名と池田屋下代は、早朝代官役所へ立寄り、その足で

勘定奉行神田橋役所腰掛へ出頭する。そのあと宿主人と代官手附長谷

川京次郎が到着した。呼込は夕八ツ時である。奉行、留役三名の立合

で、手附から願筋の申立および呼出人名を糺した上、奉行は両名の身

柄を引取った旨を手附へ伝える。手附が退出すると、直ちに奉行直糺

に入る。

 奉行は先支配の吟味をうけないのは理由がある(訴えた手代の直属

代官)としても、新代官の吟味を受けないのは心得違いである。また

身の危険を主張するのは「見通願」であると断じた上、訴状の受理を

告げ、吟味中宿預けを命じて引取る。このあと掛留役が追々吟味をお

こなう旨を告げ、呼出人の人名書上を提出させ初日が終る。これによ

って両名は越訴による先訴権を獲得したことになる。

 勘定奉行所の吟味は、相手方の出府をまって九月二三日、立合留役

豊田栄次郎、星野金吾、掛留役屋代増之助の手によっておこなわれ

る。裁判の開始である。まず訴訟方に対し身分、姓名および一件の発

端を、下吟味に添って尋問している。訴訟方の主張は、相手方指導者

一45一

Page 10: Meiji Repository: ホーム - 導者の法意識...e 三幕末村方指 村方出入と名主越訴一件導者の法意識 1近世から近代ヘー 谷地郷が直接天保改革の影響をうけたのは、天保一三年前小路村な理が終ったのは、嘉永六年一二月である。谷地郷新町村村方出入も、勘定奉行所

が自分の借金を棒引きにするため、村内を混乱させ、藤左衛門の捺印

も、次男藤之助をそそのかせたものである。しかも指導者は代官手代

高木長平に賄賂を贈り、名主退役を強行したとする。自己にむけられ

た非儀、不法の非誘を、そのまま相手方へあてはめたのである。以後

の吟味は、この訴訟方の訴状をもとに進行する。反証醤挙証責任は相

手方百姓側にある。この奉行所の裁判開始によって同盟、結託関係も

さらに変化するのである。

  国元では神町半十郎の江戸での行動を牽制する、野田、嶋大堀、

  蟹沢三力村から呑用水一件が持ちあがっている。

(1) 注

「万場一致」の惣百姓の総意は、反対者を排除した上での総意なのであ

 る。

②文政七年締結された議定書によれば、従来名主は無給であるため、百

 姓、水呑、借地ともそれぞれ役家人足一軒あたり三日の労働奉仕と、高掛

 物の免除等を取極めたとある(『河北町の歴史』上巻三一七頁)。現状維持

 という限りにおいては、名主の行為に違法性はないのである。

③天保一二年村契約議定書によれば、寄合日は一〇月一回であるから村契

 約上の寄合ではない。しかし長楽寺法談参詣という名分によって、長谷寺

 集会に合流したものであろう。

ω主に酒田湊で塩、綿などの札(空)商をおこなっていたという。

㈲ この不法とは尾花沢役所手代の出向指揮による、名主宅捜索時、組頭利

 右衛門との口論を指しているようである。

⑥両名の無断出発に対して平太郎は立腹したという。両名とも若い当主で

 あり、若さがこの挙に出させたといえるが、平太郎の心配通りこれが内蔵

 介の出府を正当化し、一転して贈収賄一件として勘定奉行所へ受理される

 結果を生んだのである。

ω瑞真院住職もまた行誠の弟子であり、出羽出身者であったようである

 (『行誠上人全集』所収「結縁録」)。

⑧久須美祐明は天保一四年の大坂外三ヵ所御用金調達時の大坂西町奉行で

 ある(『幸田成友著作集』第一巻。年報10参照)。なお余談であるが、祐明

 は、宝暦・明和・安永期に評定所留役、勘定組頭、勘定吟味役兼評定所組

 頭を歴任し、評定所の中枢にあり、「科條条類典」編集にたずさわった江

 坂孫三郎正恭の外孫である(『寛政重修諸家譜』)。

 弘化二年一〇月一八日、東根役所から江戸詰郡中惣代山家村三右衛

門止宿先へ、新町村の諸帳面が届いた。翌一九日には相手方平吉、平

太郎が着府、着届を提出した。そして二八日双方呼出の上、相手方五

名が白洲へ呼込まれた。

 留役はまず馬喰町信濃屋に相手方と同宿している扱人庄次郎、大町

下組名主利兵衛に対して、同町庄内屋半兵衛方へ宿替を命じた。両名

は相手方ではなく引合人であり、公正の原則を貫くためである。さら

に相手方の請求によって百姓七名、組頭二名、郡中惣代寿助、北口町

与左衛門他一名へ、呼出差紙が送達された。一一月一日奉行所は訴訟

一46一

Page 11: Meiji Repository: ホーム - 導者の法意識...e 三幕末村方指 村方出入と名主越訴一件導者の法意識 1近世から近代ヘー 谷地郷が直接天保改革の影響をうけたのは、天保一三年前小路村な理が終ったのは、嘉永六年一二月である。谷地郷新町村村方出入も、勘定奉行所

方へ絵図面提出を命じた。}六日麓絵図が提出され、訴訟方の白洲呼

込がおこなわれた。同日百姓組頭が着府、一二月二日北口町与左衛門

他一名、一〇日に惣代寿助も到着した。一四日からはこの新たに出府

した者の呼出、呼込を開始した。

  弘化三年正月一五日伝通院表門先老中阿部伊勢守屋敷辺から出

  火、神田橋勘定奉行所が類焼、本所に仮奉行所(勘定奉行自宅)

  ができた。

 弘化三年二月五日、本所仮奉行所へ呼込をうけた開墾世話役百姓忠

蔵は、この一件の発端を、北口、大町村地内川欠と新町村地先寄洲に

あり、寄洲の一部を北口、大町村へ移譲したことからだとする。すな

わち原因は三力村寄洲一件内済の方法にあると主張した。ここで訴訟

方藤左衛門、引合人大町下組名主利兵衛がそれぞれ病気届を提出し、

     (1)

代人と交替することになる。そして二月七日から江戸でも、東根役所

              (2)

が指示した年貢割賦清勘定が始まる。場所は郡中惣代寿助の宿小伝馬

町下野屋伊助方であり、訴訟方には池田屋下代、相手方には信濃屋下

代が同伴する。しかしその立合勘定の日限やその方法で意見がわか

れ、幾度か日延願が提出された。

 このような状況の中で、一般百姓にとっては何事もかかわりなく指

導者の掛合で解決すれば、惣百姓連名にも異論はないのだが、一方で

は重立百姓間の起返地所持、商取引上の貸借関係、他方では隣村間の

地盤帰属を争うものとなると、利害関係はほとんどない。しかも当事

者として逐次出府の差紙が出されるとなると、混乱が生じる。

 二月一八日小前惣代伝兵衛借地清蔵と、組頭源七代兼差添人開墾世

話役五郎兵衛は、小前百姓一六名の惣代として池田屋へ着いた。五郎

兵衛はかつて相手方として、積極的に行動した人物であった。それが

訴訟方の宿に到着したのである。開墾世話役とその指揮下にある百姓

が、分裂したことになる。一九日両名は国元役所の添翰をもって江戸

詰役所へ出頭、相手方百姓の名目の削除と、将来の呼出御免願を提出

                            (3)

した。その上で二六日さらに勘定奉行牧野成綱へ駕籠訴を決行した。

 翌日糀町平河屋清兵衛方へ宿預けとなったことの報告をうけた池田

屋下代は、代官役所へ両名の欠落届を提出した。三月六日両名は型通

り代官役所へ引渡され、代官役所はまた池田屋へ宿預けとした。翌日

両名を呼出した元〆は、このような願は無例であり処置に困っていた

ところである。駕籠訴は大いによかった、と池田屋の措置を暗に賞讃

した。そして奉行所も含んでいるから以後呼出はない、早々帰村する

よう指示したのである。

 一方難行した清勘定は四月以降留役の指導介入によって、六月末よ

うやく天保一〇年以降の年貢内訳調帳、割付および諸絵図ができ提出

された。七月からの勘定奉行所吟味は、訴訟方に対する年貢取立、小

作米取立、川欠起返地書上および寄洲絵図、検地帳絵図についての事

実審理である。

 九月一九日からは相手方の吟味に移る。内容は名主退役運動にしぼ

られる。名主に悪事があれば意見すべき立場(重立百姓)であるのに、

旧来の世襲名主を取放し、自ら名主役を勤めたところをみると、「巧

一47一

Page 12: Meiji Repository: ホーム - 導者の法意識...e 三幕末村方指 村方出入と名主越訴一件導者の法意識 1近世から近代ヘー 谷地郷が直接天保改革の影響をうけたのは、天保一三年前小路村な理が終ったのは、嘉永六年一二月である。谷地郷新町村村方出入も、勘定奉行所

二相違なし」という前提から出発する。最高得票者平太郎は辞退し、

百姓代のまま名主後見役に止まり、この運動を正当化したのだが、新

名主、組頭、百姓代間の姻戚関係が、名主役獲得運動として把握され

てしまったのである。

 しかも百姓方惣代の一人が「一旦馴合候得共、以之外不実成義取巧

候二付、異見差加候得共、不相用二付改心」して、名主とともに越訴

した(実際には清勘定の段階でふたたび代人と交替せざるを得ないの

だが)のであるから、奉行所留役に与える心証はますます不利とな

る。いきおい吟味も烈しさを加え、惣代間の結束もゆるまざるを得な

い。以降は具体的な吟味はおこなわれず、当事者および引合人周辺の

同盟関係の変化に期待し、事態を拾収していけばよいのである。前後

して国元郡内各所でも出入があいつぎ、郡中惣代、最寄惣代は当事者

あるいは扱人として参加し、天保改革中止以後を指導しようとしてい

る。その中で同盟関係も微妙に変化する。元大貫代官東根役所元〆長

谷川岱助自身、すでに他代官の元〆として就職していながら江戸詰を

志願し、大貫嫡男の代官襲職運動をはかりつつ、これらの事件を指導

した。そして訴答両陣営からの来訪をうけているのである。手附自身

にとってもまた、地方行政担当者としての、よってたつ支柱にかかわ

         (4)

る問題であったといえる。この相手方吟味が開始した九月以降ほぼ一

力年訴訟方は月代指剃願に出頭しているだけである。

  相手方吟味が始まった九月、浄土宗聖悦、神町村半十郎はともに

  東条一堂塾に寄宿、伝通院山内行誠もまた、この前後に一堂に接

  近している。このほか塾生のなかには手附の名もある。東条一堂

  は老中首座阿部正弘が、天保九年(二〇歳)奏者番就任以来、賓

  師の礼をとった儒者である。「焚書以上の学」を自認する老成の

  儒者に、かれらが求めたものは、その「古義学」 「義」学であっ

  た(『東條一堂伝』年報9)。

  八月~一〇月国元山口村では上組対中下組の山論が惹起する。一

  方尾花沢には大貫三回忌を記念した顕彰碑がたち、人心は大貫時

  代への郷愁を感じ始めたのである。

 弘化四年八月一四日相手方新名主平吉の代理として信濃屋下代佐吉

が池田屋主人をたずねた。下代によると平吉は、

  対内蔵介遺恨等無之、同人右之恩借金柳不実可致心底無之処、彼

  是と平太郎被相欺、風と荷担いたし、今般之次第二相成、今更先

  非後悔申訳無之……右二付一件濫膓之有体御奉行所江可申立、身

  分御慈悲願書可差出候間、是迄之通新町村二永住致方

                        (5)

を願いたいというのである。九月八日平吉の詫書がはいり、名主退役

願書を作成した上、一〇月一日平吉は奉行所へ歎願書を提出した。

 奉行所はこの歎願書をもとに、吟味のわくをさらにしぼつていくこ

とになる。=月一九日新名主平吉の吟味は、まず旧組頭利右衛門に

退役を申付けた手代名-高木長平を確認、さらに諸帳面取調出入は、

取箇改革吟味方改役鈴木莱助の巡回に発することを確認した。その上

で旧名主の私利押領の事実を糺した。これに対して平吉はただ疑惑を

もってしたと答え、また事件の発端は百姓代が、自分の負債八百両を

一48一

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       ヘ   ヘ   サ   へ   も   へ

踏み倒すことにあったらしいと答えている。留役が借金は当然返済し

なければならない筈だが、というのに対して、騒動をおこせぽ勝手に

なると思ったと答え、留役を苦笑させている。

 すべてが事実を確認した上ではなく、当て推量-憶測から出発した

とする。答弁の内容もまた、池田屋の指導によったものとみてさしつ

かえあるまい。若い知識人新名主にとっては師匠大町村利兵衛および

小前百姓の離脱による、上層農問の対立へ変質していく中で、挫折感

              (6)

とともに孤立していったのであろう。

 弘化五年(嘉永元)二月=日から、掛留役は屋代増之助から星野

金吾へ移る。星野の吟味は手代伊東仲右衛門、高木長平の事件の取扱

い、収賄問題にふれていく。七月に入っていよいよ当事者の口書およ

び関係者の仮口書作成となる。以降は訴訟技術として黙認されていた

病気届は、認められない。詰の段階である。ここで相手方惣代の最後

の離反者を出してしまった。弱年の重立百姓久右衛門の親類であり、

久右衛門捺印の責任者でもある中堅百姓源次郎である。七月一九日口

論の末宿替をし、一二日平吉に案内されて、内蔵介に詫書を入れた。

百姓惣代として残ったのは、百姓代と新組頭、最年長と最若年の舅と

婿だけとなってしまったのである。

 }一月一八日ここで手代高木長平の呼出吟味が始まる。名主退役処

分は代官から公儀へ伺い、下知をうけて発令すべきものである。それ

を自分一存でおこなったのは不当であり、賄賂によるものであろうと

いうきめつけから出発する吟味である。高木がこれに反論Lて、「金

子を取る程に候ハ・内蔵介右とり可申」といえば「何二内蔵介は其方

二頼ハシマイ、然ルニ内蔵介βとり可申杯と甚タ不届之申立」と叱責

される。また高木が内蔵介の不正についての処罰を反問すれぽ「内蔵

介不正之否は御奉行所致吟味其方之伺二不及」と指弾され、直ちに吟

味中揚屋入りを命ぜられてしまったのである。

 吟味はもはやきめられた路線で口書を取るためのものであり、手代

高木長平の揚屋入りは相手方の完敗を意味した。この日平吉は公事宿

を出て出奔し、数日後宿からは病気届が出された。一方奉行所へ出頭

した伝兵衛も吟味中入牢を命ぜられ、平太郎は欠落届を提出して駕籠

訴の画策をはかったが失敗し、数日後奉行所へ出頭、これまた入牢し

た。嘉永二年一月}二日手代高木長平が、二月二三日平太郎、三月四

                   (7)

日伝兵衛が、それぞれ牢内で死亡したのである。

  嘉永元年(弘化五)八月、代官石井勝之進から石原清左衛門、嶋

  田帯刀立合当分預所となり、=月には村山郡は一代官支配から

  ふたたび吉田条太郎、戸田嘉十郎の分割支配となり、一二月引渡

  された。新町、野田、嶋大堀村などは吉田条太郎、神町、山口村

  などは戸田嘉十郎の支配下に置かれた。尾花沢、東根附の街道筋

  村々が、より政治的なものへの傾斜をみせていくのに対し、最上

  川筋柴橋、寒河江附村々は、経済的なものへの傾斜が顕著とな

  る。

 嘉永二年四月二一日、手代高木の存命中の口書によって、郡中惣代

寿助と桑折村公事宿治郎右衛門が呼出(留役職権による)された。寿

一49一

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助は高木長平へ名主の不正を申立てたかど、治郎右衛門は手代へ百姓

惣代を紹介したかどによる。寿助は入牢をくいとめたが、治郎右衛門

は入牢となった。

  この月神町村は奉行所へ小作滞出入の訴状を提出、相手方三力村

  は呑用水一件で出訴を企てている。

さらに閏四月二六日元代官大貫尾花沢役所元〆手代伊東仲右衛門事百

姓清兵衛が呼出された。掛留役も星野金吾から今井太郎九郎へ移る。

この吟味と前後して、相手方はほとんど代人あるいは出奔という形で

顔ぶれが変った。従来の経過はすべて「不知不存」で逃れることとな

る。とくに出奔ー1欠落は、吟味、裁許からも逃れ、しかも村内居住権

を承認して貰える唯一のものであり、村方の探索も密告もうけないも

のである。

 九月七日最後に、東根役所雇手代(大貫、嶋田、石井各代官)吉田

鎌五郎と、東根村名主伝之助を吟味し、一件の発端を再確認した上、

それぞれ関係者の本口書の捺印がおこなわれ、結審した。九月晦日内

蔵介は関係者の帰国を見届けたのち江戸を出発、一〇月一三日に帰宅

した。

  一〇月=ハ日こんどは山口村山論一件が、内済不整届を提出、奉

  行所差出が予定された。

 =月二一日新町村へ差紙が到着、それぞれ出府した。裁許は=一

月二七日である。内蔵介他一名の「御支配御役所之御吟味相拒候」越

訴一件の裁許である。

 訴訟方内蔵介が越訴につき過料一〇貫文と手鎖(宿預け、不定期

刑)、村内組頭源七、開墾地世話役忠蔵は、名主入札に参加したかど

により各過料三貫文。他は急度叱りで終った。一方郡中惣代寿助は、

手代へ内蔵介を悪様に申立てたことにより過料一〇貫文、扱人工藤小

路村庄次郎、東根村名主伝之助は国元役所で処分することとされた。

さらに桑折村公事宿次郎右衛門は、相手方を手代に取次いだかどによ

り、公事宿渡世取放の上過料五貫文の処分をうけた。内蔵介につぐ重

い処罰である。行政処分ともいうべきものであろう。ついで元手代百

姓清兵衛(伊東仲右衛門)は中追放、但し御構場所俳徊禁止。また文

面にはあらわれていないが、現職東根附手代吉田鎌五郎も、国元役所

で逼塞処分をうけた。なお吟味の途中で欠落あるいは死亡した者は、

いずれも御構なしとなった。

 これについて内蔵介は国元北口町与左衛門への書簡で、「先々之先

祖之汚名相雪、大二得勝理候、しかし相手井引合人重キ御仕置二相成

候間、拙者も手鎖被仰付候」と伝えている。内蔵介は自分の手鎖は形

式的なものであり、三〇日手鎖と考えていたようであるが、五〇日の

手鎖となり、手鎖御免は嘉永三年二月一七日である。めでたく帰宅と

記帳を止めたのは三月一二日である。実に五年三ヵ月を要したのであ

る。 

 正月晦日山口村には東根役所から、奉行所へ山論一件差出につい

  ての差紙が到着、翌二月一日請書を提出した。

 裁許では問題の内蔵介の切開畑は掻散し、村方示談によってあらた

一50一

Page 15: Meiji Repository: ホーム - 導者の法意識...e 三幕末村方指 村方出入と名主越訴一件導者の法意識 1近世から近代ヘー 谷地郷が直接天保改革の影響をうけたのは、天保一三年前小路村な理が終ったのは、嘉永六年一二月である。谷地郷新町村村方出入も、勘定奉行所

めて新開の申立てをすること、その荒引米四石は村民に割戻すことと

なった。しかし裁許による執行はふたたび国元で処理されなけれぽな

らない。

 五月まず奉行所の判断に添って当該地外延惣名中嶋起返地地主藤左

衛門、久右衛門、内蔵介は、小作米一八俵二斗のうち、七俵三升二合

を村方助成の名目で郷蔵附とし、一部を忠蔵他世話役の世話料、他を

諸普請入用および村契約入用に提供することを取りきめた。

 一〇月には北口村百姓および村内長楽寺(村契約寄合場)の扱いで、

大町下組から新町村へ中嶋地先の一部が返還される。その上で始めて

裁許文面の荒引米の割返しがはかられる。しかし裁許の文面が、天保

三年分のみをさすか、以来嘉永二年分までをさすかで論議されること

になるのである。この問題が大町村上組および高関組名主の扱いで一

八年分の代金二六両二朱余の割返しが決定したのは一年後の=一月で

ある。また同月村方の諸書帳面類の引渡しが完了し、内蔵介家の名主

世襲は終りをつげた。さらに夫食代金などの割返しが完了したのは、

嘉永六年一二月のことであった。

 内蔵介の帰宅を待ちうけたものは、名主としての復権ではなく、多

       (8)

大の借金であった。寛政期生れの当主はもっぼら先祖の汚名をそそ

ぐ、黒白の筋論に傾注したが、次の世代はむしろ公的責任から解放さ

れ、もっぱら経済的優位を求めることになる。安政四年の出水で被害

をうけた船渡地区の修復に、私財を投じ労働力の確保を試みる(『河北

町の歴史』三七八頁)のも、地主小作関係の確保を意図したものであ

る。明治五年には再度海老鶴一件は、

である。

そのままの形で再燃してくるの

注ω国元で藤左衛門が百姓側から名主側に変った同じ理由である。利兵衛も

 またこの事件が三力村寄洲一件に真因があったとなれば、私利私欲による

 他村出入の腰押し行為として非難されることになる。

②判断の基礎資料としての事実の提供であるが、従来の仕法と現実とのギ

 ャップを論点とする相手方百姓は、この勘定帳の提出を拒むことになる。

③具体的に日時を追って説明すると、二月一八日池田屋着。翌日代官石井

 江戸詰役所へ国元の添翰持参の上出頭、御免願を提出した。そして二五日

 牧野成綱へ駕籠訴を企てたが、牧野が早朝出勤のため失敗、翌二六日駕籠

 訴に成功し、宿預けとなった。成功を確認した池田屋は翌二七日、代官役

 所へ欠落届を提出する。奉行所は三月六日両名を代官役所へ引渡し、代官

 役所はこれをもとの池田屋へ宿預けとした。そして七日帰国を命じ、両名

 は九日江戸を出立した、ということになる。

ω代官大貫の借入金村方備金三百両のうち、五〇両を預金として郡中へ残

 し、また末子卓定を僧籍に入れて残したという(楯岡本覚寺故住職談)。

 長谷川袋助もまた、代官大貫嫡男とともに来陣を期待したのである。

⑤相手方の宿は信濃屋であったが、信濃屋の取扱いに不満があったのか、

 平吉一人を除いて同二〇日津島屋善兵衛方へ宿替してしまった。平吉は三

 両の借金を申込み、池田屋が貸主、加判に信濃屋下代佐助と内蔵介とがな

 っている。

一51一

Page 16: Meiji Repository: ホーム - 導者の法意識...e 三幕末村方指 村方出入と名主越訴一件導者の法意識 1近世から近代ヘー 谷地郷が直接天保改革の影響をうけたのは、天保一三年前小路村な理が終ったのは、嘉永六年一二月である。谷地郷新町村村方出入も、勘定奉行所

⑥ 色川氏のいう「最下流の人民」を汲みあげることができなかったといえ

 る(色川大吉『新編明治精神史』)。

ω 牢死ということになるが、入牢は刑罰としてではなく、吟味中の拘禁の

 ための入牢中の死である。

⑧国元東根公事宿三ヵ月の経費は五両余であったが、江戸池田屋半年の経

 費は五〇両余である。また一件中自宅および北口与左衛門、義七郎が送金

 した総額は、七二〇両であったという(「北口村文書」刑事博物館目録17

 所収)。村方への手当金五百両と名主退役要求を蹴っての守るべき法益ー

筋論について、次の世代では疑問をもつことになる。

                (1)

 幕府は駕籠訴、欠込訴などの越訴は、不受理制を原則としたが、違

反に対しては「急度叱り」の軽罪を科したに止まる。逆に政務に関連

する重大事件については例外的に受理する道を開き(小早川『前掲書』

第一、第二節)、「地頭非分」「其所之支配人非分私曲」(「公事方御定書」

下第四、六条)については、無断あるいは添状のない場合も受理すると

規定し、地方行政末端機構にまで徹底したのである。

                            (2)

 結果「百姓共自然と其支配之御代官を不恐、諸事軽々敷相心得」る

ようになり、逐次但書規定の厳格な運用を指示する。しかしなお但書

によって「若御代官井手代等へ拘り難捨置品も候は父、其節評議之上

(3)

取計」うことを認めざるを得ないのが法である。原則としての「守る

べき」規定は前提として存在するが、現実には大前提の「公儀の御益

筋」の主張によって「難捨置品」の解釈を拡大し、例外規定を主流に

据える。すなわち、解釈を通して「守らるべき」ものとして越訴行為

を正当化するのである。

 むしろ越訴はその緊急性を示す、重要且つ有効な訴訟技術として用

いられる。それぞれ制限を設けながらも、大名以下旗本、公家、寺社

にいたるまで、独立した法域-裁判管轄権を認めている幕府にとっ

て、地方行政に対するチェヅク、また先例拘束性による法の固定化を

緩和するため、下からの訴の道を開く安全弁として、十分その効用を

認めているのである。越訴裁判は準司法的というより行政的なもので

あり、より政治性の強いものなのである。

 とくにこの地方では天保改革最大の事件として、庄内転封阻止運動

                           (4)

が、幕府の中央、地方各役人、隣藩領主への計画的な波状越訴によっ

て成功した経験をもつ。違法性は越訴そのものではなく、その徒党、

強訴性にある。その違法性を阻却させるためには、慎重な手続-訴訟

技術と政治力が要請される。だが幕領下における新町村一件越訴は、

庄内転封阻止運動がみせたような政治性の強いものではなく、あくま

                        (5)

で幕府法体系に「含まれ」あるいはこれと「矛盾しない」という形式

を取りつつ、法による裁決を求めているところに特徴がある。

 新町村一件は勘定奉行への訴だけではなく、国元での訴もまた手続

を経ないで訴えるという、広義の意味では越訴である。代官大貫支配

は直接支配のうち、代官在陣屋花沢陣屋Aと、実権をもつ元〆手附の

いる東根出張陣屋Bがある。さらに別廉、当分預陣屋寒河江C、柴橋

一52一

Page 17: Meiji Repository: ホーム - 導者の法意識...e 三幕末村方指 村方出入と名主越訴一件導者の法意識 1近世から近代ヘー 谷地郷が直接天保改革の影響をうけたのは、天保一三年前小路村な理が終ったのは、嘉永六年一二月である。谷地郷新町村村方出入も、勘定奉行所

D、大山Eがあった。新町は以前はA支配であったが、事件当時はC

に属する。百姓側は直接Aに訴えた。代官は病床にあり、元〆はやや

経験の浅い手代である。これに対し名主はBに訴える。元〆は老練な

手附である。穏便を旨としAでは村民総意をたてに、名主退役を基調

とする内済を指導したbこれに対してBは村方支配の現状維持を前提

に、支配をCからBへ移し事件を処理しようとした。このBの措置を

不服とした一部百姓は、再度Aへ訴えた。ここで訴の主体に変化が生

じる。結果AB間で調整がはかられ、AB役人合同のB役所での審理

を行うことで決着した。代官交替期の支配地穏便を旨とした苦肉の策

であった。ところがこれに対して青年惣代層が、次期預代官役所手代

へ訴えることになる。先訴権獲得のためである。そのため名主は江戸

への越訴をもって対抗した。

 国元役所の審理は原則として内済をたてまえとする。争点は同一支

配下の各陣屋間での管轄をめぐる争いであり、内済における主導権の

獲得にある。百姓側は元〆手代、名主側は元〆手附の取扱いを求め

た。手代の発想はより地方的、手附の発想は中央的思考である。手代

は現実に則した「理」による解決を求め、手附は適正な手続によった

「法」による解決を図ろうとする。しかし次期代官手代への接近は違

法性をもつ。結果名主は江戸勘定奉行への越訴の名分を得、先訴権を

獲得したのであった。

             (6)

 徳川幕府『県治要略』の著者は、越訴、駕籠訴について、訴訟事件

等により、原被のうち郡代・代官、または当該吏員の審理に対し不服

を懐き、ひそかに逃走して江戸に上り、勘定奉行もしくは老中の登営

の道をさえぎり、書面をささげ、訴願することを越訴または駕籠訴と

いうと規定している。新町村一件の江戸への越訴は、駕籠訴、欠込訴

を数度試みている。いずれも代官支配地の百姓が、代官の直属上司で

ある勘定奉行へ訴えたものであるから、筋違いではない。『県治要略』

の著者が、手代として幕末に体験した越訴の定義に一致する。そして

一つの事件に対して数度の越訴が試みられたということになる。

 一つは訴訟受理を求める越訴、他は受理された訴訟進行中、その進

行に関しての越訴である。前者はこの事件の訴訟主体者-訴訟方の越

訴である。後者は訴訟当事者-正しくは相手方百姓1からの離脱を目

的とする越訴である。訴訟方は最初の駕籠訴を成功させたあと、内

済を命ぜられると欠落の手続を取り、さらに駕籠訴を試み、不能とみ

ると急拠変更して欠込訴をおこなった。欠込訴は二次的な方法であ

                 (7)

り、両者をあわせて訴訟受理を求める越訴である。一方相手方百姓は

まず代官江戸詰役所へ願書を提出、ついで駕籠訴を試みたが登城にお

くれて失敗、翌日再度駕籠訴を試み成功した。成功の後、宿はあらた

めて代官役所へ欠落の手続をとった。越訴の目的は将来の呼出差紙送

達を予想し、その免除を訴願したものである。

 訴訟受理を求める越訴は、当然国元役所の添翰のない越訴である

が、訴訟進行に関しての越訴は、国元代官の添翰をもっての出府であ

り、江戸詰役所へ出願したあと、前例のない訴願の通路を開くための

越訴である。前者は違法性を含むが、なお法の許す範囲内での行為で

一53一

Page 18: Meiji Repository: ホーム - 導者の法意識...e 三幕末村方指 村方出入と名主越訴一件導者の法意識 1近世から近代ヘー 谷地郷が直接天保改革の影響をうけたのは、天保一三年前小路村な理が終ったのは、嘉永六年一二月である。谷地郷新町村村方出入も、勘定奉行所

あることを印象づける、慎重な方法を必要とするが、後者はより適正

な手続を踏んだものである。

 どちらも公事宿の指導をうけているのだが、訴訟受理を求める場合

には極力公事宿との接触を隠弊する。公事馴れた者ではないことを印

象づけるためである。そこで着府後早々に駕籠訴をしたとするため、

旅仕度の姿でおこなう。「方訴訟進行中の場合は隠弊する必要はな

い。むしろ訴答いずれかの公事宿に宿泊して、その立場を鮮明にす

る。この一件の場合は相手方当事者からの離脱ー訴訟方に対して不服

ー異存はないという訴であるから、訴訟方の宿に寄宿したことを明ら

かにした方が、その証明になるのである。

 依頼をうけた公事宿がその訴訟を取扱うためには、その越訴者の身

柄の引受i宿預けをうける必要がある。訴訟受理を求める場合は、偶

然をよそいながらも依頼をうけた公事宿の詰日に、越訴が成功しなけ

れぽならない。そのため駕籠訴が失敗すれば欠込訴に切りかえてで

も、その日のうちに越訴を目論む。これに対して訴訟進行中の場合

は、特別の理由がない限り越訴前の宿に引渡されるのが原則であるか

ら、いつでも駕籠訴ができるのである。勘定奉行所も代官所も、ため

らいなく申出た公事宿へ引渡し、むしろ公事宿の指導を賞讃すること

にもなるのである。

 国元においても当然公事宿を利用しているのだが、とくに江戸にお

いて訴訟進行を指揮しているのは公事宿である。「法」による裁決を

求める上級審としての勘定奉行所の訴訟手続は、公事宿を抜きにして

             (8)

は行いえないほど専門化している。

 原則として宿主人は呼出、白洲呼込には出席することになっている

が、依頼人に対する重要な白洲呼込が予定されていない呼出の場合は、

下代の筆頭が宿代として出席する。普通の呼出、届出などには下代が

依頼人の代理あるいは、差添として同道している。また宿預け中の月

代指剃願には下代だけが出頭することもあり、単に改印届などの場合

は、腰掛で顔みしりの他宿の下代に依頼している場合もある。公事宿

主人はその背後にあって事件および下代を指揮しているのである。審

理は非公開なので相手方の呼込には立合えないが、有力公事宿は種々

の事件を扱っているから、他の事件で白洲入りし、相手方の審理内容

も察知できる。そしてあらかじめ次の呼込の手筈を準備することがで

きる。

 この事件で公事宿主人が直接奉行所へ出向いたのは、まず代官役所

から奉行所への差出のときである。以後の呼出には下代の筆頭が宿代

として出席している。だが百姓惣代新名主との約定(詫書)作成、あ

るいは裁許が大詰に近づくと、ふたたび下代とともに出席し、その進

行を直接指揮している。

 公事宿は単に宿あるいは、幕府の差紙送達という行政面からの存在

理由から、当事者相互の法的生活あるいは、訴訟進行のための技術修

得老としての存在理由をもつ。行政面への参加は、むしろ社会的存在

                 (9)

を公認せざるを得ない附随的な業務となる。「上からの訴裁決の手続」

としての裁判から「下からの訴裁決要請に関する手続」としての訴訟

一54一

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(小早川『前掲書』三六五頁)、「裁判から訴訟へ」の手続の適正化を意

図した享保期以降の展開には、公事宿(主人、下代)の技術的側面に

               (10)

期待せざるを得なかったのである。

 この公事宿とともに訴訟進行にとって重要な役割を果しているもの

に、寺院がある。訴答いずれもが衛符、駄賃帳などを利用して往復し

ている。また有名塾に入門することもある。着府後伝通院山内で起居

していた内蔵介寮、駕籠訴後国元へ宛てた書簡によると「:…・於当地

二御吟味、又ハ国元之御糺二相成候而も差支無之様仕度、去月廿二日

右当月朔日まで数日之間山内二忍居、内持」した上で、駕籠訴に及ん

だという。しかも「山内江忍候儀ハ極内々二而、表向当月三日江戸着

之積り二而、道中之姿、土足之儘二而御駕籠訴仕、道中病気労々二付、

           (11)

漸々右表向之日限二江戸着」したことにしたという。直接の動機が、

幕府諸役人に手づるを求め、また訴訟技術のためのかくれ簑であった

としても、単なる避難所ではない。新しい情報をつかむことができる

のだし、物見遊山にあけくれるよりはるかにましである。

 しかも学問の府に同席し、新しい知識と思想を体得するのだし、そ

                (12)

れにもましてかれらを支援する師友たち自身、自らの基盤、その身分

格式を離れて、自由に新しい息吹を幕府に示唆する、いわゆる一種の

   (13)

法廷闘争への参加となる。また審理を通して接した留役たちも、それ

ぞれ立身し、幕末動乱期の幕政を担うのである。村方指導者にとっ

て、同塾の勤王、佐幕の志士はおろか、幕閣役人さえもさして遠い存

在ではなくなっているのである。これらを通して訴訟関係者もまた、

新しい訴訟技術を習得し、次の訴訟へ反映させるのである。

注ω越訴については百姓一揆の諸研究の中でも、種々に論ぜられるところで

 ある。たとえば近くは深谷克巳『百姓一揆の歴史的構造』で、集団的直訴

 (徒党)と順序を乱した訴(直訴11越訴)、あるいは村役人越訴段階と惣百

 姓一揆段階、などその概念区分規定の基準とされている。だが本稿は百姓

 一揆の報告ではなく、「一村規模の順法的な訴願」である村方騒動(同

 「百姓「揆」『新岩波講座』近世3)の}例である。そこで越訴の違法性に

 視点を置くのではなく、法の枠内におけ適法あるいは違法性の阻却の側面

 に視点を置く。すなわち順序を乱した訴11越訴を対象とし、あくまで一八

 世紀、正徳・享保期以降の幕法を基底とし、しかも世直し一揆段階と規定

 される一九世紀三〇年代以降、とくに天保改革中止後の越訴の事例報告で

 ある。

  『御仕置例類集』(明和八年~天保一〇年の評定所仕置例。古類集、新

類集、続類集、天保類集、)でも、いずれも「強訴徒党門訴之類」と「越

 訴之類」とを分けている。「越訴之類」には箱訴、駕籠訴、欠込訴の例を

 載録している。越訴の不受理制ーその法律論については、なお整理しなけ

 ればならない問題がある。

②㈹明和二西年三月「御勝手方、公事方勤分之事」(『日本財政経済史料』

 四t三四、三五頁)

ω山形県経済部編『出羽百姓一揆録』一七に『旧山形県史』以下の資料を

再録している。

⑤ 川島武宜『科学としての法律学』 一二七頁。

一55一

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⑥幕府代官手代(附)であった安藤博。同書に載録した資料にも村山地方の

 資料が多い。序を寄せた遠藤芳樹、旧蔵資料を口絵に提供し、後記を寄せた

 桑山敏ともども、村山地方にその足跡を残したものであろう。とくに桑山は

 天保二~五年代官大貫尾花沢役所元〆桑山時右衛門の系譜をひくものであ

 ろう。口絵「出羽国寒河江陣屋所管地貢米河岸出図」解説にあたって「当

 時東北地方の実況を将来に伝へんが為に、その河岸出の「部を抄出し、以

 て温故の一端に供すと云爾」とあるのがそれを物語る。また嘉永二~四年

 代官戸田嘉十郎江戸役所に安藤源一郎、東根役所に遠藤芳次郎、同精次郎

 がいる。芳次郎の江戸の住居は小石川小日向綾部坂大竹主膳屋敷内柴田源

 吾同居とある。芳次郎精次郎と芳樹との関係は不明だが、芳樹は大阪商業

 慣習調査書、日本商業史等の著書のある著名な学者である(滝川政次郎

 「県治要略解題」『青蛙選書』6『同書』)。

⑦越訴の成功は裁判の開始を意味しないから、正式に訴訟が受理されるま

 で越訴を行うことになるのである。しかし受理が内定しているのに、なお

 越訴を繰返えすことは、幕府を軽んじた行為として奉行所の心証を悪くす

 る結果となる。そこで公事宿の情報と技術を必要とするのである。

㈹ もちろんイギリス弁護士制度のような法廷弁護士、事務弁護士といった

 厳密な区別(田中和夫『英米法概説』改訂版一四二頁、戒能通孝『法廷技

 術』二七頁)ではないが、未熟ながらも職能的な区分の萌芽がある。下代

 には応々にして巷間の「事件屋」的公事馴れ者に近いものがあったとして

 も、同列に置くべきではない。

⑨内蔵介の書簡によれば、弘化三年六月の関東の水害に際して江戸の旅

 宿、公事宿はその罹災者を引受けている。幕府の手当は一人一日銀壱匁で

 あり、池田屋は三「名を半月以上引受けている。因みに当時の宿飯料は二

 匁八分、米価は百文につぎ五合七勺の高値であったという。株仲間廃止令

 の発効中のでき事なのである。

00

@江戸幕府開府百年を前後して法令、判例集の編纂が試みられた(拙著

 『江戸幕府法の研究』)。江戸幕藩体制下では旗本領はともかく、いわゆる

 三百諸侯、寺社領、公家領など、それぞれ幕府法とは異なる法域を形成し

 ている。各法域の法令、判例は法的拘束力をもたず、相互に抵触している

 ものも存在する。幕府自身百年のぼう大な法令、判例の集積の前に、留役

 は御坐なりな先例抽出をおこない、解釈、適用する弊害が生じた (『折た

 く柴の記』下)からである。

  先例拘束性の原理を支柱とする古法重視の幕藩体制下(服藤弘司『幕府

 法と藩法』第一章第三節)では、法的安定性を求めるためには、幕府とし

 て}つの範例を示す必要がある。法令、判例の整理編集はそのあらわれで

 ある。また公事訴訟の激増に対応するため、一般法の領域においては、当

 事者が幕府権力による救済を求めない限りはこれに介入せず、一方各法域

 を一種の行政下部組織に編成したあとは、それぞれ内済をたてまえとした

 自治的解決を委任する。裁判は審問主義から訴訟主義的な手続に移行す

 る。その上でなお法による解決を求める場合は、手続の適正化が要求され

 る。

  これらの社会的要請をうけとめたのが享保政権の法令、法典編纂事業で

 あり、その積極的姿勢は、幕藩体制完成期の幕府法として、各法域への範

 例としての位置を確保する。しかし内済をたてまえとしながらもなお、法

 にょる裁決を求める公事訴訟の増加という社会的要請(日本社会がなお仲

一56一

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 裁よりも調停を求める風土と同質であるi山崎佐『日本調停制度の歴史』

 一〇九頁)の中で、一部不良公事師の摘発をうけながらも、その職域を獲

 得したのが公事宿である。

⑪実際には相馬中村で銭八百文を支払って手形二枚を手に入れ、主従二人

 駕籠でゆうゆうと出府しているのである。

⑫直接的には長谷川岱助を中心とした手附層である。文久三年寒河江陣屋

 廃止・農兵取立反対訴願運動で出府した山口村義左衛門たちが、手づるを

 求めたのも岱助の実家山崎、娘の婚家只木などの手附である(『道満後藤

 家文書L『天童市史編集資料』第21号)。さらに佐藤聖悦を接点に伝通院福

 田行誠、東條一堂塾に師友を求めていくのである(年報9)。

03

@「法廷闘争」といっても、戒能通孝『法廷技術』(}七頁)でいう、近

 代的な意味ではなく「御白洲的」闘争である。しかし『同書』の中で引用

 された文化五年の裁判実録(中田薫『法制史論集』第三巻所収)の中の、

 最大の法廷技術者11留役に負けずおとらず、数段の成長をみせている訴答

 当事者の姿がある。

一57一