master's thesis : a tea-ceremony house or a prison

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包囲の観点から観る空間認識の研究 「数寄」の空間について思索 指導教員 主査 澤岡 清秀 教授 副査 後藤 治  教授 副査 木下 庸子 教授 澤岡研究室 DM08067 村口 勇太

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包囲の観点から観る空間認識の研究   「数寄」の空間について思索

指導教員 主査 澤岡 清秀 教授 副査 後藤 治  教授 副査 木下 庸子 教授

澤岡研究室DM08067 村口 勇太

_ 目次

Ⅰ_序  . 始めに . 研究の背景 . 研究の目的 . 研究対象と研究方法についてⅡ_事例 ・茶室  Ⅲ_考察  ・内部と外部  ・認識について  ・スカルパと数奇屋   ・まとめ  Ⅳ_project      

はじめに

私は、まず単純に「作る」という行為が大変好きな人間である。だから「建築」について考える時、建築が都市がどうあるか、どうなくちゃいけないか。という事を考えるよりも前に、頭の中では「どう作るか」を考えてしまう人間である。 そんな私が、建築を学び、色んな建築を見に・感じに行くようになって、そして今。私は、まだ世界のほんの、ほんの一部しか見てないけれど、その中から出てきた「所感」を改めて見直し、建築を設計するという「手段」をどんな「目的」のために用いるのか、熟考したい。例え、答えなんていうものが見えなくても、再度「空間が人を如何に満たすか?」を考えるのが、この修士研究の大きな目的としたい。 まず、大きなきっかけとして、私が体験した空間の中でイタリアのヴェネチアにあるカルロ・スカルパ設計のクエリーニ・スタンパリアの庭での体験を挙げたい。そこは、本当に小さな庭で特別な何かが「在る」いう空間ではない。けれども私は、そこで特別な空間に包まれる「高揚感」に襲われた。その時も、今も私はその高揚感が生まれた理由を他人に伝える言葉は思いつかない。ただひとつ言えることは、その空間は、カルロ・スカルパというイタリアの建築によって隅々まで設えられていたのである。つまり、私はその特に何もない庭の真ん中で、満たされたのだ。

そのように人を満たす、空間性とは一体なんなのだろうか。

研究背景

建築は、まず「必要」という概念の基に生まれる。と言って問題ないと思われる。その場合まず、どこからが建築か?という正解のない議論を抜きにすれば、シェルターとしての建築は、それが洞窟であろうと、木の下であろうと、人間の体を包囲する何かがあれば、自然の中で人間が命を守るための必要性は満たされたと言える。現代において言えば、その「必要性」とは、何か行為をするための建築という箱と言えるだろう。住むために必要な部屋であり、働くために必要な箱であり、はたまた何か特別な行為をするために必要な箱であるのだ。一つの建築の内部での話しも同じロジックが成立する。住宅の内部は、「nLDK」という部屋数と機能の数のみでその価値が測られる。それが、仕事するための建築内部であろうと同じである。部屋名=その部屋内で想定される行為名である。そんな状況の中、私は「空間」という ものを「機能のため」ではなく、純粋に空間として考えてみたい。とは、言っても実際に建築を建てようという時というのは、施主が何かしらの行為・面積・体積における空間の必要性を感じ、その上で建築家に依頼する訳であるから新しく生まれる空間が、何の行為も想定されていないということは有り得ない。なので、私がここで考えたいのは空間を計る尺度を機能性を超えた所で見出す試みである。 しかし、機能というのはというのは時代とともに変化する。1000 年前の人間と現代の人間とでは、食事という最も基本的な行為でさえも、その食べ物から具体的な食べ方まで全く違う。100 年前と比較したって全く違うのである。ましてやこれからの未来、人間生活がどう変わっていくかわからない。もしかしたら、機能は科学の進歩と共により物理的制約から自由になり「部屋」を出て行ってしまったら。その時人間は「部屋」を何と呼ぶのか。20世紀、機能主義の建築がその機能を果たせなくなった時、多くの建築が壊されるしかなかった。だから、今21世紀の建築への、空間への、新たな評価または空間認識の仕方が必要なのではないだろうか。それは「囲い」と「人間」の関係を再考することで見出されるのではないだろうか。

研究目的

以上に挙げた私の背景と問題意識に基づいて、人間 ( 私 )という主体を包囲する所=空間と、その空間における認識の仕方について研究したい。

空間とは、辞書を引くと ①物体が存在しないで空いている所。また、あらゆる 方向への広がり。 ②哲学で、時間とともにあらゆる事象の根本的な存在形式。それ自体は全方向へ無限の延長として表象される。 ③数学で、理論で考える前提として一つの定まった集合。その要素(元)を点と呼ぶ。普通は三次元のユークリッド空間をいう。 ④物理的で、物体が存在し、現象の起こる場所。古典物理学では三次元のユークリッド空間をさしたが、相対性理論により空間と時間との不可分な相関性が知られてからは四次元のリーマン空間も導入された。本論文では、①の意味を主として「空間」という言葉を用いるのだが、ここで再度考えたいのは評価の対象として扱いたいものは、物体が存在しない空いている所であるという事。しかし、この主体は全方向性のベクトルを有しているということである。そこに着目し、「空っぽ」である主体を包囲するモノ=建築として考える。そこに、空間という実体が見えないものの新たな見方、評価の仕方、認識の仕方があるのではないか考える。

そして、その先に私は「人」と「人間」の距離を近づけたい。それがもっと密接に、人間が空間と関わる方法の発見へと、繋がるように。

研究手法人間にとって必要な囲い。それを機能性ではない、建築の意匠性で獲得するために、過去に私が体験した建築空間にヒントを求めた。基本的にはイタリアと日本の建築にそのヒントを追い求めた。時代性にも縛れることなく選定した。主に、日本の戦国時代~江戸時代の意匠性を参考にし、人間と空間の関係を再考し、現代人にこそ必要な一つの部屋を設計した。

- 茶室茶室とは、すなわち茶を飲むための部屋。これができたのは、室町時代、8代将軍足利義政のときで、当時義政に仕えていた、村田珠光によるところが大きいです。義政といえば銀閣。銀閣といえば、書院造。というのは、単語として小学校の日本史で習ったと思います。この書院造というのは、トコタナ書院の3点セットが揃った、いわゆる和室のことで、今でこそ床の間も棚も書院も飾りですが、当時はちゃんと使用していたため、寸法も実用的でした。

 本研究において、プロジェクトで手法として「茶室の建築作法」を用いているため、参考事例としてここで茶室について触れておきたい。 また、茶室という建築の一つの形式はもちろん茶室に込められた設計者の配慮・志向性、その時代背景も含めて参考対象としたため、「実際に体験した茶室」を中心に取り扱う。

茶室の歴史

 室町時代、中国から伝来した茶は禅宗寺院の僧から公家、武家へと広まっていきました。はじめのうちは輸入品を飲んでいましたが、本場の茶は食前に飲めないくらい強いものだったといいます。そして、そのうちに日本各地でも茶の栽培が始まりました。そこで、大名たちの間で、” 闘茶” という、茶を飲んでその産地を当てるという、利き酒のようなものが流行り始めました。それにみんな自国の名産品を賭けたため、闘茶会場には、各国の名産品がずらりと並んだといいます。そこで大儲けした大名は” 婆沙羅大名と呼ばれたそうです。(婆沙羅とはダイヤモンドという意味らしい。)成金みたいなもんですね。そんなわけで、茶会は、今では考えられないくらい、派手なものでした。当時、茶は自分で点てるものではなく、阿弥衆や同朋衆とよばれる人達によって点てられていて、しかも大名達のいる書院とは別の場所で点てられていました。そして、それらは書院で飲んでいたと言われています。つまり、普通の大広間で飲んでいて、茶を飲むための部屋、茶室という概念はまだありませんでした。これらの茶は書院茶、もしくは大名茶と呼ばれています。書院茶は5代将軍足利義満の頃などがかなり盛んだったと言われています。茶会は社交儀式であり、茶は二次的なものでした。1日がかりで茶会は行われ、プログラムごとに部屋を移動したといわれています。 その後、義政の頃になると武家も弱体化してきます。村田珠光は義政に仕えていた阿弥衆の1人でした。彼は、ここでふと、もっともらしいことを思います。阿弥衆というのは、茶を点てる専門の人なので、茶を点てるのは上手いのですが、茶は高価で滅多に買えないので、他人に出すばかりで、自分のために点てて自分で飲むということがないのです。そこで、茶を自分の為に点てて飲みたいと考えたのです。自分で飲むのですから、別に広い場所である必要はありません。普段、茶は畳 1/4 くらいの台子と呼ばれる台の上で点てられていました。つまり、それとあと主人とあと1人2人入ればいいということです。ここで、茶を飲むための部屋、すなわち茶室が誕生しました。この主人自らが点てる茶というのは、当然ながら主人が茶を点てる技術を身につける必要があります。義政がやりはじめたことから、一気に大名の間に広まって行きました。その後、村野紹鴎という商人が、四畳半の小間を使用するようになります。この頃になると、武家よりも堺や博多の商人の方が力を持ってきます。彼等は世界の名物を買いあさり、落ちぶれた公家から茶を習いました。そして、草庵風茶室というのが誕生します。

草庵とは、平安時代に貴族が洛外に花見などに行く時に、そこで泊まる用に建てられたもの。鎌倉時代、方丈記に出てくる鴨長明が住んでいたところ、あれも草庵ですね。それが戦国期になって、草庵は寝泊まりする場所から茶室へと用途が変わっていきます。その草庵は、庭園に向かって開放的なつくりとなっていました。ただ、あくまでも草庵ではないので、草庵風茶室と言われています。その村野紹鴎の弟子として有名なのは、織田信長、豊臣秀吉に仕えたことで日本一の茶人となった、堺の豪商、千利休です。千利休は、商売で秀吉のために黄金の茶室をつくりますが、彼の本質は別のところにあります。彼は黄金の茶室に見られる派手さとは正反対に位置する、侘びを追求していきます。つまり、書院茶のように、儀式の付加的なものとして茶を飲むのではなく、茶を飲むことをメインとして、それに合った茶室をつくろうと試みます。そして、市中の閑居をめざし、極小茶室を研究します。

鹿苑寺銀閣 東求堂同仁斎 ( 村田珠光 )

茶人と茶室の歴史 珠光 侘び茶を理想とする町衆の茶の湯 紹鴎 四畳半 山上宗二伝 一間床で、出入口は普通の腰障子、窓はなく、 前面に縁を備え、寸庭、露地が設けられた この四畳半は名物を持っている人の茶の湯の場 利休 侘び数寄しかできない茶室 山崎の屋敷 二畳の空間で、客をもてなし、薄茶、濃茶、懐石ができる 妙喜庵待庵 狭さを忘れさせる造形的手法  下地窓、にじり口 大阪城内にも二畳敷きで造る、死後妙喜庵へ移築との説も 国宝 二畳隅切四尺室床(入り隅塗回し) 少庵 千家復興 深三畳台目 宗旦 三畳道安囲い 年若い宗旦がへりくだった気持ちで天下の数寄者を相手に 茶をやる、澱看席の手本 表千家 不審庵 三畳台目  江岑 こうしん 不審庵の名で、少庵が深三畳台目と三畳道安囲い  宗旦が一畳半、江岑が平三畳台目を造り現在に至る 点雪堂 利休像をまつる台目二畳の上段と、四畳半からなる 残月亭 表千家の書院、十畳敷きに上段二畳、 長押はなく、天井は低い 裏千家 又隠 宗旦が隠居屋敷を仙叟に譲り再隠居する際に建てた四畳半 ゆういん 下地窓が2つと突上窓があるだけの求道的な空間   今日庵 一畳台目向切り、床なし、向板、水屋洞庫 寒雲亭 裏千家の書院、八畳一間床、 柱は一本を除き丸太、長押はない 武者小路千家 官休庵 一翁宗守が造立、一畳台目向切り、 下座床、点前座後方に踏込み板間、水屋洞庫 半宝庵 四畳桝床、四畳半の一隅に半間の床 薮内家 燕庵 古田織部好み えんなん 三畳台目、下座床 西翁院 澱看席 三畳向切り、道安囲い、下座床、柱はすべて杉丸太 よどみ 勝手付きの窓が淀見の窓と呼ばれる

大徳寺玉林院 蓑庵 三畳中板入り、台目切り、下座床 さあん 久田家 半床庵 台目二畳を含む四畳中板付き、台目切り 堀内家 長生庵 二畳台目、下座床 遠州茶道宗家 成趣庵 東京の遠州茶道宗家小堀宗慶邸の茶室 三畳台目、下座床、点前座の後方給仕口に鱗板 宗偏流宗家 止観亭 一条昭良が西加茂に造営、 S38年鎌倉の宗家山田邸へ移築 四方庵 一畳台目、向切り、向板、洞庫、床なし 向板は取除いて取替えることができ、その時は隅炉となる 会水庵 三畳台目、下座床 宗偏流の茶人山岸会水が新潟に建てた、 江戸東京建物園に移築公開 江戸千家 蓮華庵 三畳敷き、道安囲い、下座床、利休堂 大日本 知水亭 一畳台目、向切り、向板、水屋洞庫、床なし  茶道学会本部 松尾流宗家 嘉隠堂 三渓園 聴秋閣 徳川家光ゆかりの二階建ての楼閣 春草廬 織田有楽斎ゆかりの茶室 有楽苑 如庵 国宝、二畳半台目、向切り、洞庫、下座床、床脇に鱗板 当初は建仁寺に、東京の三井本家、大磯の別荘と移築 元庵 三畳台目、亭主床、風炉先に洞庫 客座と次の間との境に大きな火灯口

茶室は、茶事の主催者(主人、亭主)が客を招き、茶を出してもてなすために造られる施設である。日本庭園の中に造り、露地を設けるのが一般的であったが、近年ではホテルや公会堂、商業ビルの一角などに造られることもある。また茶道部があるために、キャンパス内の片隅に茶室を構えている大学も多い。

茶道の稽古をしたり、茶を楽しむために炉が切ってある和室(畳のある部屋)も一般に茶室と呼ばれるが、本項では主に四畳半以下の草庵風茶室について述べる。

草庵茶室草庵風茶室は、田舎屋風の素朴な材料(丸太、竹、土壁など)を使って造られた。縁側からの採光を土壁でさえぎり、そこに必要に応じて「窓(下地窓、連子窓、突き上げ窓など)」をあけることにより光による自在な演出が可能となった。一間を基本としていた床の間も部屋の広狭、構成に応じて四尺、五尺とバリエーションを増し、そのデザインも、「室床」「洞床」「壁床」「踏み込み床」など、多様な展開を見せる。室内には中柱を立て亭主座と客座の結界とした。こうして狭い空間の中に客と亭主が相対する、濃密な空間が生まれた。

高台寺 遺芳庵

利休以前室町時代。足利義政が東山に建てた(慈照寺)東求堂には四畳半の部屋があり、茶室の元祖と言われることがある。また、村田珠光が市中の草庵として四畳半の茶室を造った。それが鹿苑寺銀閣東求堂同仁斎で書院造の始まりである。

村田珠光による東求堂同仁斎

千利休の茶室 茶室を独自の様式として完成させたのが千利休である。利休は侘び茶の精神を突き詰め、それまでは名物を一つも持たぬ侘び茶人の間でしか行われなかった二畳、三畳の小間を採り入れ、にじり口をあけた二畳の茶室を造った。なお、二畳と言うアイデアが秀吉のものなのか、利休のものなのかについては諸説ある。

 茶室待庵(国宝)は千利休の作とも言われるが、侘び茶の境地をよく示している。 にじり口は、千利休が河内枚方の淀川河畔で漁夫が船小屋に入る様子を見てヒントを得た、とされる。しかし、にじり口の原型とみられる入り口は、武野紹鴎の時代の古図にも見られ、また商家の大戸に明けられた潜りなど同類の試みは多種見られることから、利休の発明とは言えない。  利休は一方で、秀吉の依頼で黄金の茶室を造っている。これは解体して持ち運びできるように造られていた。黄金の茶室は秀吉の俗悪趣味として批判されることが多いが、草庵の法に従って三畳の小間であり、それなり洗練されたものも持っている。黄金の茶室も利休の茶の一面を示しているという見方もある。

にじり口 ( 明明庵 )利休後の展開古田織部、小堀遠州らも茶室を造っている。茶室は小さな空間であるが、様々なパターンがあり、多様な展開を見せている。利休の孫宗旦は究極の侘びを追求して、利休が試みてすぐ廃した一畳台目という極小の茶室を生み出した。これに対して、古田織部、小堀遠州、織田有楽斎、金森宗和ら大名茶人は、武家の格式を持つ書院風茶室や小間と言えど三畳前後のゆとりのある茶室を生み出した。千家歴代もそれぞれに新たな茶室を好んでいるが、その試みは必ずしも宗旦が目指した侘びに徹したものとはなっていない。茶室は小規模でもあり、解体して他の場所で再建することも比較的容易である。現に如庵(国宝)は、京都の建仁寺から東京の三井家、大磯の三井家別荘、犬山の名鉄有楽苑、と度々移築されている。また「写し」と称して、名席と評される茶室を模して建てられることもしばしばある。

茶室の概要仮に茶室が単独でポツンと建てられていたら殺風景なものである。茶室に至るまでの空間の演出も大切なのである。 客がいきなり茶室に通されることはなく、まず寄り付きや座敷などへ案内される。庭へ出て小さな門をくぐる。茶室までの通り道は、飛び石を配した露地となっていて亭主の心遣いにより打ち水が打たれている。途中の待合に腰掛があり、ここでしばらく待つ。迎えでた亭主の合図に従い客は茶室へと向かう。茶室の前につくばいがあり、ここで手水を使う。茶室には、にじり口という小さな入口から、頭をかがめて体を入れる。にじり口に入ってまず目に入るのが床の間である。墨蹟窓からの光に照らされた床には、四季に合わせた掛け軸、花があしらわれている。通常床前が上座であり正客席となる。夏には風炉が置かれ、冬には炉が切られ、そこが亭主の座る手前座である。手前のための明り取りとして風炉先には下地窓が開けられている。客が着座すると亭主が勝手口から出てきて挨拶をし茶事が始まる。天井は低く、窓からの光も必要最小限に絞られて、主客ともに茶事に集中する。懐石を戴いた後一旦露地に退出するが、また茶室に戻り、まず濃茶を一同回し飲み、ついで薄茶を味わった後、客はこの一期一会の場から静かに退出する。

にじり口には頭を下げなければ入れないので、貴人を迎える場合のため、にじり口とは別に貴人口(立ったまま入れる普通の障子戸)を設けることも多い。給仕のために勝手口とは別に給仕口をもうける事もある。

松花堂の露地

建築史上の意義・最小の空間の中に豊かな広がりが与えられており、日本建 築の特色あるジャンルになっている。 ・住宅建築に影響を与え、いわゆる数寄屋造りを生んだ。

茶人について

茶人系統図 ( 概略 )

 上記の系統図でお分かることが、茶道の祖と言われるのは、千利休ではなく、村田珠光です。茶道は禅宗の僧侶のたしなみであったものが一般に広まったもので、珠光も大徳寺で学んだ禅宗の僧侶です。その孫弟子に武野紹鴎が現れます。堺の商人であった紹鴎は茶道を千利休や紹智・宗久・宗達らに伝えました。その後、利休が侘び茶を大成する事になります。道安は実子ですが若くして亡くなりましたので、妻の連れ子であった少庵が、利休の切腹の後も、侘び茶の系譜を伝える事になりました。氏郷~宗二は利休の弟子で、特に氏郷~有楽の7人を利休七哲と呼びます。少庵は七哲の一人である氏郷(会津を治めていた)の庇護のもとで苦難の時期を耐え、その子宗旦に侘び茶を伝えます。七哲の中でも武士としての地位もあった織部らは侘び茶だけでなく、大名茶と呼ばれる広間で行なう茶も開拓していきました。宗旦は侘び茶中興の祖で、その子宗守は武者小路千家、宗左は表千家、宗室は裏千家(以上を三千家と呼びます)と、その後の茶道を決定付ける流れを作り出します。光悦・遠州は織部の弟子で、大名茶も受け継いでいます。宗和はその流れを汲みます。宗偏~亡羊の4人は宗旦四天王と呼ばれ、侘び茶をつたえました。石州~不昧は道安から宗仙へ続く流れを汲んでいます。この中でも石州や遠州は、徳川将軍家の茶道指南役としても知られています。

- 茶室事例 ここからは、実際に私が体験した茶室を、参考事例として紹介する。数ある茶室の中で、選定した基準を以下にまとめる。 

 ①まず、体験可能であること。茶室とは、そもそもプライヴェートな空間であるため公に公開されていないものも多くある。その中から、見学可能であり、かつ茶室内に入れるものを優先した。  ②茶室は千利休によって、戦国時代の動乱の中確立された空間であるがゆえ、時代の色というものも色濃く反映される。戦国時代という死と隣り合わせの時代と、江戸時代という平和な時代とでは、空間の性格というものも変化してくるのである。そこで、今回は茶室という特殊な空間を構成する建築言語を幅広く吟味したかったために、利休の時代の禁欲的な質素な空間よりも、小堀遠州の時代のより垢抜けた空間を優先的に体験した。  ③幾つか見学した中でも、本論文で取り上げるものは、比較的歴史的考察が加えられているものとしている。それは、体験したものの中には、作者・建設時代が不明確もしくは不明というものもあり、それは私の空間体験としては一つの引き出しに収められるが、論文としてまとめるには見識が浅いため、論文中では抜粋させて頂く。

- 茶室巡り -

□芬陀院 ( 雪舟寺 ) 火災後 1899 年改築 茶室:図南亭 1969 年復元 茶関白一条恵観公

□高台寺 桃山時代 1606 年北政所により開創 茶室:傘亭、時雨亭 ・利休好み

□慈照寺銀閣 文明 18年 (1486 年 ) 足利義政 茶室:東求堂同仁斎 ・小間 ( 四畳半 ) の原型 ・書院づくり

□興臨院 1533 年頃 室町時代 大徳寺塔頭 茶室: 涵虚亭 ( かんきょてい ) ・古田織部好み ・四畳台目

□曼殊院門跡 1656 年 江戸時代初期 茶室:八窓軒 ・三畳台目 ・重要文化財建造物

□金地院 1596 年 江戸時代 茶室:八窓席 ・重要文化財 ・小堀遠州作

□茶室 皆如庵 江戸時代 ・高山右近作 ・三畳台目

□茶室 如庵 江戸時代 ・織田有楽斎作 ・国宝 ・二畳半台目

高台寺傘亭・時雨亭高台寺 桃山時代 1606 年北政所により開創 茶室:傘亭、時雨亭 ・利休好み

北の政所による建立当初の姿を残す

 高台寺は豊臣秀吉の正妻北政所が、夫の冥福を祈るために建立した寺である。建立にあたって太閤と高台院の「宮殿」を移築したと伝える。つまり伏見城や寺町康徳寺の遺構だという。しかし、創建以来いくたびか火災、兵火にあい、当初のものは霊屋、表門、観月台、開山堂そしてこの両亭を残すに過ぎない。 料亭の名称は、いうまでもなく対語で、形状から来た傘亭に合わせたものだろう。だが、当初からの命名ではない。傘亭はもと安閑窟、時雨亭は単に亭と呼ばれていた。なお料亭は、「利休好み」とも伝える。 

自然を肌身で感じる①開放的な独特の構成。②時雨亭からの眺望。③両亭および土間廊下とも栗・くぬぎまたは赤 松の丸太で、面皮付きあるいは皮付で組み立 てられている。

上段のある両亭を吹き放しの土間廊下がつなぐ。 両亭は境内の東、山腹にあり、いずれも茅葺で、単層宝形造りの傘亭と、重層入母屋造りの時雨亭とが土間廊下でつながれている。 傘亭内部は、隅に一畳敷きの上段とその土間、そしてこれと矩に6畳敷きから成る。また、上段の反対側にくどをもつ下屋を付け下ろしている。 時雨亭に至る土間廊下は吹き放しで、瓦・切石・自然石組み合わせの飛び石がのび、木階で時雨亭の階上に昇る。 時雨亭は、傘亭にもまして開放的で、突き上げ戸からの眺望を欲しいままにした、いわば涼み台である。なお西半分を上段、東を下段にし、下段の隅に丸窓の付いた床を設け、その隣にくどを置き茶立所としている。下層は、いわば上層の腰組といってもよいが、くどを築き、勝手の機能を備えている。

如庵茶室 如庵 江戸時代 ・織田有楽斎作 ・国宝 ・二畳半台目  

庵江戸初期の大名茶人・織田有楽の草庵

 武将というよりは、むしろ茶匠としての力量を発揮した織田有楽は、晩年京都に住み、建仁寺塔頭正伝院を再興して、そこに隠居所を設けた。そしてその中に茶室如庵を建てた。元和四年(一六一八)前後のことである。この茶室は、明治になって正伝院の合併などから転々とずることになった。東京の三井邸から大磯の別荘へ、そして現在は愛知県の犬山城ドに移築されている。「都林泉名勝図会』には、正伝院当時の姿が描かれている。 なお、いま如庵の北に建つ元庵は、有楽の犬坂天満屋敷にあった元の如庵の復原である。いま如庵に掛かっている慶長四年銘の板額は、ここに掲げられてあったものである。

有楽窓などの創意に注目①壁而を斜行させて三角の地板 ( 鱗板)を入れた「有楽囲」が、室を広く兄せる。②竹を話打ちした「有楽窓」の珍しい手法。③腰張に占暦を使っている(このために 「暦張席」ともいう。 

有楽囲による独創的な空間 外観は、柿葺切妻造の前面に庇をつけ、砕屡を打っている。左端に袖壁を付けて上間庇をつくり、にじり口はこの袖壁と向かい合っており、正而からは見えない構えになっている。二枚障子で仕切られた土間庇の奥の小室は、置刀批を据え、供待として使われたようである。 内部は、二畳半台目で、台目の点前座に炉を間切にしている。また、炉先に中柱を立てて板をはめ、そこを火灯形にくりぬいているのはユニークである。さらに床脇に三角の地板(鱗板)を入れて壁而を斜行させているのは、茶道口と客座とを結ぶ動線をスムースにするとともに、室一を広く児せる効果をねらったものであろう。これは「有楽囲」とか「筋違の囲」などと呼ばれるものである。このほか点前座に色紙窓を固定することなく、洞庫をつくるなど、有楽晩年の円熟した則意が随所にみられる。

金地院八窓席金地院 1596 年 江戸時代 茶室:八窓席 ・重要文化財 ・小堀遠州作

崇伝の依頼により小堀遠州が改造

 金地院は南禅寺の塔頭で、もと洛北にあったのを慶長初隼(一五九六)、現在の地に移したものという。その時代の住持は「黒衣の宰相」といわれた以心崇伝であった。記録によると、寛永四年(一六二七)に崇伝は小堀遠州に書状を出して、設寄屋および鎖の間の指図と地形縄張りを依頼している。そして翌年完成したという。しかし近年の修理の際の発見で、書院も茶の建物があり、それを改造したものであした。つまり遠州は改造計画をやったという。

遠州の好みらしき冊口と床回り①にじり口はふつう隅にあけられる。しかしここでは中央寄りにあけられている。②床と点前座を並べている。③床柱の相手柱を独立して立て、床を完結した形で扱っているのもおもしろい。それに蒲天井の竿縁は床指しになっている。

窓は六つの「八窓席」に遠州の工夫を探る 茶室は、書院の北側に付属して建つ、片流れ梳葺の一浦洒な建物である。三畳台目の席で、台目畳と並んで西向きの床がある。にじり口を入ると中央に畳の縁が走っておりちょうどこの位置で、天井は北側が掛込、東側が蒲の平天井になっている。 窓は、西側則口上に連子窓一つ、北側に柱をはさんで連子窓二つ、点前座の背後に下地窓が一つ、それに墨跡窓と袖壁の下地窓を加えて六窓である。なぜ「八窓席」というのかわかりかねる。窓の数が多いという意味なのであろうか。 小堀遠州作の所伝が、実は既存の改造であったことが判明した今、問題は彼の創意と感覚がどこまでまで表されているかということになろう。当時の遠州の書簡によると、彼が全面的に変更したのは床回りとにじり口であったという。

曼殊院八窓軒曼殊院門跡 1656 年 江戸時代初期 茶室:八窓軒 ・三畳台目 ・重要文化財建造物

遠州作の説、桂離宮の余材説は実証されず

 曼殊院は天台宗の名刹で竹内門跡とも称せられる。もと比叡山にあり、のちに内裏の東北に移るなど変転を重ね、明暦二年(一六五六)八条宮良尚法親王のとき現在の地に移された。この茶室は窓が八つあるところから八窓軒と呼ばれ、小堀遠州の作といわれてきた。また、良尚法親工の允智忠親王が桂離宮を増営した頃と、ときを同じくしていることから、桂離宮の余材説もあった。しかし近軍修理の際の調査でも、確証されなかったという。また、遠州説は年代的にも或立しない。遠州は九年前(正保四年/一六四七)に没しているからである。

狭さと八つの窓との調和①三畳台目に八つの明かり窓は、やや繁雑な感じがしないでもないが、それぞれの窓から、室内にこもるように射し込んでくる光は、その繁雑さを忘れさせるほどにすばらしい。

窓や出入口の配置が特徴的 茶室は、小書院の北に東面して建ち、水屋軒下から片流れ屋根を葺き下ろした形になっている。なお、西に二畳の控の間と、五畳半の水屋がつづいている。 内部は、三畳台目、中柱付台目切で、その名のごとく八つの窓(突上窓を含めて)をもつ。また茶道口と給仕口とが一つの壁面に並んでいるのも珍しい、にじり口の正面に床があり、床柱は赤松皮付、相手柱は櫟皮付、框は黒塗で床天井が非常に高い。 天井は、床前が蒲の乎天井、踊口側が化粧屋根裏とほかと変わらないが、平天井がそのまま点前座の上までのびて、いわゆる落天井にはなっていない。中柱は桜の皮付で、すなおな曲がりをみせている。壁面の窓は連子窓のすぐ上にもう一つの下地窓を、ちょうど欄間窓のように組み合わせている。

 

西行庵皆如庵茶室 皆如庵 江戸時代 ・高山右近作 ・三畳台目

久我家の別業を小文法師が移築

西行がかつて庵を結んたところと伝えるこの地は、もと双林寺の境内であった。丙行没後一五〇・隼ほど経た一四Ⅲ紀の中頃、頓阿法師がその跡を慕って堂を建て庵を営んだのが、西行堂・西行庵の起こりといわれる。明治の廃仏毀釈によって荒廃したのを憂えた宮田小文法帥(一八五一~,九一?九)が、明治.一六年(一八九?二J再興したのが現在の西行庵である。 西行庵は母屋(茶室西行庵)と離れ(皆如庵)とから成り、両者は廊Fでつながっている。もっともこれらの建物は、先の小文法帥によって他から移築されたものである。離れは衣等の久我家の別業で、かつて宇喜多秀家の息女が久我家へ輿入れの際に持参したと伝える。ただし両者ともその建立乍代を確定する資料に乏しい。様式的には注戸中期頃と考えられる。

円窓からの明かり①なんといってもこの茶室の特色は床の間である。円窓床と呼ばれることはもちろん、この円窓の障子を通して、一日の陽の移り行きや、ことに夜の茶室では、水屋の灯火が客座をやわらかに照らすのである。

道安囲や円窓床が特色 皆如庵は、少し起りをもった檜皮の大和葺切妻造で、前面にやはり檜皮の庇を付け下ろしている。正面左端に貴人口、その右端に剛口、右隣は道安囲の風炉先窓のつく壁而で、つまり剛口がほぼ中央に位置している。しかしこの構或に疑問をもつ識者もいる。 内部は、火灯口をあけた袖壁を境にして、点前座一畳と客座三畳とから或る。炉は向切で隅に一重棚を吊っている。客座の天井は一面の竿縁天井で、貴人口の二枚の明障子とあいまって、ゆったりとした空間を形づくっている。間じ意匠の西翁院澱看席と異なり点前座の上は落天井で、道安囲のもつ謙譲の姿勢が、より強調されている。床の右にある引違いの給什口も機能的である。 床は板敷きの框床で、入隅を天井まで塗り回した室床で、正面に円窓をあけたユニークな構戊である。

カルロ・スカルパと数奇屋

 ここで、茶室とは全く違う建築で時代も国も違うがカルロ・スカルパの建築が有している意匠性について言及したい。それはつまり、通常スカルパという建築家について論じられるディテール、材料、材質感、それを支える職人芸ではなく、建築のそれを構成する断片化の許容についてである。

□クエリーニ・スタンパリアの中庭 スカルパの作品の中でも、私はヴェネチアにあるクエリーニ・スタンパリアという小さな美術館とその中庭に大変感銘を覚えた。その時の自分にとっては間違いなく初めての空間体験だったのである。 特にその中でも中庭で感じた心地よさは何とも説明しがたいものであったが、その後茶室という空間を体験した今、やっとあそこでの意匠性について多少は言葉に出来ると考えた。 空間を彩る意匠という言葉は実に広義であり、空間によって、建築によって、時代によって、建築家によって、土地によって意味は変わりうる。ただ、この庭で実現している意匠とは全体をどうするか、という話しではなく部分部分を設えるようにデザインし、その集積として一つの空間を作り出しているのである。端部の欠如、他素材による補完、細部の異化によって、空間体験者の注意は全方向的にひろがり、まるで宝物に囲まれたような、包囲されたような楽しさを有しているのである。

□スカルパと小堀遠州小堀遠州は平和な時代背景を基に、利休が追い求めた精神性ではなく、物質性を高めた。それを私は「建築の物性」を高めたのではないか、と考えている。まさに数奇屋の極地である、そこには「隙」も「数奇」も「好き」も存在するのである。 スカルパの空間も「数奇」という言葉が実に当てはまる。遠州のように家具性を持ち込んだりはしていないが、端部の処理や表現には物質がもつ数奇性が如実に表れている。 機能性という「こうでなきゃいけない」という尺度は介入する余地はなく「数寄」の美学によって包囲された、両者のそのような設えが、人の想像力を刺激し空間と人の距離を近づけるのである。

クエリーニ・スタンパリアの細部写真

「好み」について

お茶の世界で使われる言葉に、好みというのがあるのは良くしられている。そこで、本論ではプロジェクトにおいて手法として、参考事例として茶室を取り扱うため、その背景にある「好みと良さの感覚」について触れておきたい。 お茶という世界にいては、一般的に好みというのは家元の好んだ道具等について言われることが多いが、日常でも「あれは、私の好み」と言ったりする。いったいどういう基準で判断され学問的な位置づけがなされているのだろうか。一般的に好みというのは、主観的で個人差があるのは当然である。かの有名な哲学者カントは「好み」を「良さ」の尺度と同等視し、美的判断の客観性が主張される場合があると述べている。 好みを決める性向には外向性と内向性があり、外向性の人は、形より色で対象の好みを決め、内向性の人は、色より形で対象で対象の好みを決める傾向があると言われている。  お茶会に出されている道具は、形を眺めて楽しんでいる人の場合と、色を楽しんでいる人の場合とがある。どちらを優先して眺めているかによって、自分や相手の性向が解るかもしれない。これは、外向性の人は内向性の人より皮質覚醒水準が低いと言われているので、より多量の感覚刺激を求め、より明るい色で補おうとするからである。アイゼンクは、外向性の人は、現代絵画や明るい写真を好み、内向性の人はどんよりした写真を好む傾向があると述べている。 お茶道具に限らず作品の鑑賞というと、「好き」「嫌い」が先に来る。茶室の好みや道具のデザイン。裂地の模様などの好みは、どのように決められるのであろうか? 作品評価の中心となる「良さ」は一般的妥当性と、客観的尺度であり、「好み」は、個人の選択による主観的尺度である。この二つの尺度は、分化することのできない相互関係にあることが明らかである。 例えば、焼き物には、品、侘、寂、量、力、浄の六つの相があると言われている。言葉では言い表せない表現であるが、その物が持つ六つの相に対する評価が、見る人によって異なり、結果として正面をどこにするかなどで異なってくるというものである。

アイゼンク (Hans Jurgen Eysenck)ドイツ生まれのイギリスの心理学者。パーソナリティに関する因子分析的研究とヨーロッパの性格類型学を結びつけた「自己発見の方法」がある。心理テストや行動療法の開発でも知られている。

 見る人の感じ方というのは、イメージによって随分違ってくる。イメージは視覚的なものであるが、イメージは視覚的なものであるが、イメージ形成には、視覚と同時に内的世界が関与し知性や理性より感情的な反応によるところが大きい。 人にはそれぞれ好みというものがあり、そこには知的、浄的、意識的な判断が混在し、不一致が生じるのである。

稲葉天目

認識から断片化人は空間をどう認識するのか?空間とは、漢字から考えると「空っぽな間」であり「何かの間の空な所」である。そう、言葉が指すところは、あくまで「空」なのである。それを作り出すのは、建築の場合大方6つの面である。壁・天井・床で囲われた「空」なのである。 そこで、私は本論文で囲う要素を増やす方向に一つの空間性を導き出したい。

□茶室の断片化茶室というのは、その狭さのわりに実に多くの要素が込められている。右図にあるのは、茶室の写真・それを線化したもの・壁と天井面における開口操作を塗ったもの。開口と言っても窓だけではない、にじり口・給仕口という出入り口も含んでいる。( 加えて今回は床の間も含む ) この茶室は、江戸時代初期に建てられたものであり、最初の頃の茶室より大分明るく設計されている。名も八窓席と言い開口部が多い部類であるが、その要素の配置がまた独特なのである。いわゆる「そろえ」ではなく「ずらし」によって配置されている。故に、要素と要素が一体的に認識されないのである。言い換えると、ばらばらに散りばめられている、のである。それによって、かべという通常大きな一つの面と認識されるものが、分化されて空間の体験者には断片的に認識されるのである。

□小堀遠州と分化と装飾性千利休の弟子で利休七哲の一人である古田織部。その弟子であるのが小堀遠州である。( 以下遠州と呼ぶ ) 遠州は茶室にさらに要素を追加した上で空間をより多様なものにした。それは具体的に利休の時代にはない光を空間に取り入れ、それまで無かった棚を配置しました。特に棚については収納という本来の機能はもちろん、遠州の棚というのはいわゆる「見せる収納」なので、視覚的にも大変楽しく空間の可能性を広げたという事が出来るのである。しかも引き戸における戸の分割の仕方も数学的秩序を導入し、リズム感を与えました。 このように、遠州が行った要素の追加と面の分化は、もはや、建築の断片化というよりも装飾性の獲得と言える。加えて、遠州のデザインはもっと小さなスケールにも及んでいて欄間、引手など多岐にわたり、空間を彩るという意味での装飾の可能性を茶室において切り開いたと言える。

曼殊院八窓軒

 円と線で描いた太陽図のような場合、太陽として見る人が多く、円と線をばらばらにした要素として見る人は、ほとんどいない。こうした配置になっていると、全体として全体として太陽という一つの形を持ったシンボル図形として認められる。視覚によって認識される図形は、提示される形態によって、長さ、大きさが変わって見えることがある。これを「知視覚の曖昧さ」と言い、決して眼球の網膜に映じたとおりに知覚しているのではない。

意図された認識について

人間が空間を認識する時というのは当然、視覚・聴覚・触覚・嗅覚、そして時には味覚で認識する。その中でも、建築空間というのは視覚によって認識される部分が多分にある。目からの視覚的な認識と言っても、その認識・知覚のされ方は様々なのである。 右に示した線と円による図形を例にとっても、これを人は「円1つと線8本」と認識するよりも早く脳で「太陽」というシンボルとして認識してしまう。この例で起きるような事態というのは、建築を見て知覚する場合において大変重要になる。そこで、建築を使うのは人間であると仮定すると、建築空間を人間が目によってどのように認識しているのか。という問いに対して建築家は常に気を配らねばならない。 建築にとって不可避な、空間の寸法。動物の中にも敵に対して毛を逆立て、体位を変え、自分の体を大きく見せる動物が多くいるのと同じように、空間のつくり手である建築家も、実際の大きさよりも大きく相手 ( 他者 ) に認識させたいと古来から考えてきた。ミケランジェロの手によるカンピドーリオ広場の曲がった消失点もその一つであろう。実際の距離、大きさよりも、長く大きく知覚されるように設計し空間の質の向上を図るのである。

日本の建築空間において 日本でも同様に、様々な場合において錯視が起こるように、実際の空間以上の認識を与えるために様々な工夫が建築に施されてきた。その中でも、実際の面積が小さい茶室においては細かい工夫が多く施されてきた。・エッジの処理長さ大きさを捉えるには、始点と終点を認識する必要がある。これは、誰もが無意識に認識しそれによって「広い」「狭い」という感覚に到達していると言える。そこで茶室では、床の間などの壁と壁の接線を、平面図で言うと、直角ではなく曲線に仕上げることで、空間の輪郭をぼやかしている。それは現代の家の明るさでは、効果は望めないかもしれないが、当時の部屋の明るさ、つまり電気ではなく蝋燭の明かりで部屋を明るくしていたと考えると十分に効果を発揮するのである。・借景日本の庭における基本的な造園手法として頻繁にもちいられてきた借景という手法も同様に、説明が可能である。背景にある山の緑と庭の緑を連続させて設計することで、庭という限定的な空間が、果てしないスケールを獲得しているのである。

錯視 上の図の矢印が内向きと外向きの図形において、真ん中の線は   一体どちらの方が大きいのか。実際は同じ長さなのであるが、   私たちの多くはこれを下の図形の方が長いと思い込んでしま    う。これがいわゆる、「錯視」である。

皆如庵

金地院

内部と外部

建築について考えるということは、内部空間と外部空間について考えることでもある。基本的に内部とは、人間が長時間を過ごすための場所であり、自然の猛威から身を守るべく環境が整えられている所で、外部とは自然環境の影響を直接的に受ける所を指す。 そこで、私は建築を、空間を設計する上では、「建築を設計すること」=「新たな内部を作り出すこと」と同意に考えたい。つまり、建築物という物理的に現れてくるボリュームをつくるということは、手段であってそれ自体は最終的な目的にはならないと考える。これは、近年多く叫ばれる街並みや景観についての議論を軽視する考えを言ってるのではなく、それとは全く別の話である。言い換えると、建築について考えなくてはいけない多数の事柄を、何から私自身が考え始めるか、という事である。 そこで、建築空間における包囲性について考えるにあって内部と外部の話は重要な話となる。単純に「包囲」という言葉と結びつくのは建築の内部であるが、それは物理的に考えた時にそうなるのであって、本論ではそこに人間の感覚的な部分を加味したい。感覚的な部分というのはちなみに、視覚、聴覚、嗅覚、触覚などの感覚すべてを含む意味として用いる。 例えば、建築について考える時というのは、実際の敷地というものがまず建築に先立って存在するが、その敷地の気候・風土によっても内部・外部というのは大きく変わる話しである。私が生まれ育った北国の土地では寒さという敵が存在するため、やはり内部・外部の縁が強くなる。壁は分厚く、窓は小さく、そして厚く、他にも具体的な違い・特殊性を挙げると切りがない。そのような建築的な違いではなく、その生い立ちから来る大きな影響として、私は建築の内部にプライオリティーを置いていると言える。  故に、何が言いたいのかというと私は、やはり建築というのは「内部を成立するために、外部が存在する」という状態で良いのではないかと思う。それは、もちろんどこぞのファッションストリートに並び建つ建築の場合は例外で、その例の建築は逆転が起きているのであるが。そうではない、ファッショナブルではない建築では、もう少し内部について語られるべきなのではないか。私たちは建築をまず外観で確認する ( 雑誌でも実際に行った時でも )。そして問題な事に、その後に確認した内部空間を、外部空間の裏側と見ていないだろうか。図面についてもである、立面図・断面図については良く語られるが、内部についてはまず語られることはない。それは、オマケ的に扱われることが多い。

 

□パンテオン的建築の賞賛ここで私が、先に述べた。「内部のための外部」を持つ建築としてイタリア、ローマに建つパンテオンをまず取り上げたい。この 2000 年前に建てられた聖堂の外観は、その巨大さに圧倒され瞬時にはわからないが、壁厚などの外観ではわからない部分も含め、内部に存在する直径43.2mの天使の設計を成立させるためのものである。これは、もっとも分かりやすく私が言わんとしていることの最たる例である。

Giovanni Battista Piranesi

終わりに今回の製作で初めて自分の設計した空間に身を置いた。空間の可能性にドキドキする時もあれば、その凶暴さに背筋が凍る時もあった。ひたすらその連続であったとも言えるかもしれない。 最初から確信があったなど口が裂けても言えない。けれど「迷い」は無かった。今自分に必要なのは、この檻だから。 設計した瞬間には無い「意味」をこの空間がこれから獲得していく事を、願います、切に。

オマケ製作ブログ http://d.hatena.ne.jp/giraffe21/

2010 年2月17日 村口 勇太

まとめ

□茶室茶室というのは、もちろん名前の通り「お茶するための部屋」である。しかし、普通の人の現代の認識で言えば部屋の機能として「お茶」は弱いといえるのではないか。もちろん茶の湯に基づく「お茶」という伝統文化を否定しているのではない。「空間」と「人」の関わりについて考えると、本来強いパイプとは考えにくい「お茶」という行為が前提である茶室という空間が、あれほどまでに「豊か」であることは大変驚きである。その理由は、一言で言えば「尊敬と配慮」ではないか。主と客という関係を前提に、空間設計上の、意匠上の工夫が多く施されている。その部分は、床の間・飾りだな・窓・入り口 ( にじり口、貴人口など ) すべての部位に。と言って良いぐらいで、その背景には、採光・動線・敷地・信仰・時代・設計者の好みなど様々な理由が隠されている。そのような空間の設えが、「豊かさ」に繋がっていると考えることができる。

□包囲私が、本論で参考事例として上げた茶室やスカルパの作品というのは、通常考えにくいほどに細かいスケールで手が・思いが込められている。それは過剰と言える程である。本来、面として完結する建築の部分が、断片化されているのである。言い方を変えると、見る側・体験する側には、一つの面がもっと小さな部分として認識できる意匠が施されているのである。それによって体験者の注意は、様々な方向に向き、その時、「人は部分によって包囲されている」と言えるのである。 

□結人は、今の時代にこそ心地良く包囲される空間を持つべきではないだろうか。建築の始まりが、自己を囲む囲いであったのと同様に、再度囲う必要があるのではないのだろうか。 それは、先ほど述べた建築の部分にという意味だけではなく、人に囲まれるという意味も含む。茶室は日本建築史上、初めて壁によって間を囲ったのと同時に、主人という主体を客人が囲むことで「豊かさ」を獲得したと言う事は出来ないか。そのような空間体験を再度持つことは、その空間にいない時にも意味を持つ。なぜなら、「囲われた空間」を有しているという感覚は精神的に「余裕」に変換されるからだ。今の時代では、なおさらそのような空間認識が意味を持つのではないだろうか。 そこで私は、その「囲われる空間」を『檻』と呼びたい。つまり、今こそ檻が必要なのではないだろうか。

まとめ

□茶室茶室というのは、もちろん名前の通り「お茶するための部屋」である。しかし、普通の人の現代の認識で言えば部屋の機能として「お茶」は弱いといえるのではないか。もちろん茶の湯に基づく「お茶」という伝統文化を否定しているのではない。「空間」と「人」の関わりについて考えると、本来強いパイプとは考えにくい「お茶」という行為が前提である茶室という空間が、あれほどまでに「豊か」であることは大変驚きである。その理由は、一言で言えば「尊敬と配慮」ではないか。主と客という関係を前提に、空間設計上の、意匠上の工夫が多く施されている。その部分は、床の間・飾りだな・窓・入り口 ( にじり口、貴人口など ) すべての部位に。と言って良いぐらいで、その背景には、採光・動線・敷地・信仰・時代・設計者の好みなど様々な理由が隠されている。そのような空間の設えが、「豊かさ」に繋がっていると考えることができる。

□包囲私が、本論で参考事例として上げた茶室やスカルパの作品というのは、通常考えにくいほどに細かいスケールで手が・思いが込められている。それは過剰と言える程である。本来、面として完結する建築の部分が、断片化されているのである。言い方を変えると、見る側・体験する側には、一つの面がもっと小さな部分として認識できる意匠が施されているのである。それによって体験者の注意は、様々な方向に向き、その時、「人は部分によって包囲されている」と言えるのである。 

□結人は、今の時代にこそ心地良く包囲される空間を持つべきではないだろうか。建築の始まりが、自己を囲む囲いであったのと同様に、再度囲う必要があるのではないのだろうか。 それは、先ほど述べた建築の部分にという意味だけではなく、人に囲まれるという意味も含む。茶室は日本建築史上、初めて壁によって間を囲ったのと同時に、主人という主体を客人が囲むことで「豊かさ」を獲得したと言う事は出来ないか。そのような空間体験を再度持つことは、その空間にいない時にも意味を持つ。なぜなら、「囲われた空間」を有しているという感覚は精神的に「余裕」に変換されるからだ。今の時代では、なおさらそのような空間認識が意味を持つのではないだろうか。 そこで私は、その「囲われる空間」を『檻』と呼びたい。つまり、今こそ檻が必要なのではないだろうか。

project「数奇」屋 /もしくは「檻」

- 考察

 建築空間について考える、空間というものを強く、そして意味あるものにするものは何か。2010 年現在、人々の生活は20世紀のそれとは大きく変化しつつある。モノが消え情報に変換され、人々の生活は多様になり、それによってモノと場所から解放されつつある。それは、科学の進歩である。 そこで、今建築を作る側から今の状況について考える。それはつまり「このまま進んでいいのか?」という問いである。その答えを導く事を本論の目的とする。

 

参考文献

様式の上にあれ 著 村野藤吾茶の湯の心理 著 福良宗弘茶室とインテリア 著 内田繁建築の多様性と対立性 著 R・ヴェンチューリラスベガス 著 R・ヴェンチューリイタリア建築 a+u 建築と都市茶室の見かた 著 前久夫茶室 著 建築資料研究社神殿か獄舎か 著 長谷川尭

- 概要『檻か数奇屋か』

 この建築は、この 2.44 ㎡の小さな部屋は、一言で言うと「茶室の顔を持った檻」である。まず、「なぜ檻なのか?」という当然の問いに答えたい。通常、檻とは「猛獣や罪人などを入れておく堅固な囲い。」である。言い換えると、それは「普通の人間を危険から守るために、必要な囲い」であり、「危険物を入れておく囲い」である。それに対して今回の檻は「安心するために入る囲い」である。

まず、一人でこもる部屋として好きなモノを持ち込み、好きなモノに囲まれる。閉じた気分の自分を満たす檻。

そして開いている時には、客を迎え入れる茶室として。その時私は、心許せる人に囲まれる。人に囲まれ満たされる。そんな、茶室であり檻であり。

人は必ず、囲いの外に出なければならない宿命を持つ。けれど、この空間を離れてもあの檻があることで意識下に存在することで人は前に進めるのではないか。

そんな人と空間のつながりを求めて

私が設計した建築寸法 1220mm×2000mm×2070mmの、檻か数奇屋。

-project『檻か数奇屋か』

「人は空間と、どのように付き合っていくと良いのか?」そんな問いに対して、私は「答え」ではなく、「願望」として「人は、繋がりがある空間を持った方が良いのではないか。」と、思う。

なので、この 2.44 ㎡の建築は、主体である私にとって内向的には、檻であり外向的には、囲いである。言い換えると、個人には、引きこもる部屋で集団には、集会場である。

いや、正直に言うと「秘密基地」なのやも知れん。