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TRANSCRIPT
父
徳孝
母
はや
根本正は、
一八五
二嘉永 4)
那珂郡乗木倉村
(現在の茨城県 午
那珂町東木倉 )の農家の
次男に生まれ、父は徳孝、おむこさんでした。
母は、はやといいました。
祖父は庄屋をつとめました。
勉強しました
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一生懸命
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の本をつくる役所の総裁にまでなった
いう歴史
根本正少年は、豊田大功のよう
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県北の山村で生まれましたが '大変勉強がで
ので武士に取り立てられ、『大日本史』
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という歴史
根本正少年は、豊田大功のよ
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立派な人になり、
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うに勉強して
豊田天功
、
。
、、 l妄 ' 行ヽ き 、、守 二
''、影響を与えた豊田大功ががが亡なりり江戸時代終わ明治始まるころ-
正に
豊田家の墓参りに行く
日本中が大騒ぎになりました
豊田家の人はゲタを
時'
水戸でも天狗党党と諸生に分かれて争いた
ささんの人が殺れました。-
下男は、ゲタ
はきましたが
天功のの長男小太郎ははじじめ藩主や多人と同よ-
うに外国の船は追い
刀で切り殺
・たびをはいたら
べきだと主張ししていまたが藩の命
令でオランダの学学問をぶようになっ
されても
った。
えがかわ
しかたない時代だ
、、。
'
う'払、
考 て、
、。ければと主張ししまたそのたため裏切り者扱いされされて京都で暗殺ましo
り、外国と交わっていかな
「オランダの学
い出たのは
豊田天功でし
問を水戸藩の若いすぐれたたれれ人ちに学ばばせなけ取り残さまう」と願
、たO当時水戸ではほとんど
の人が「外国は追い払うべ
きだ」と考えてい
ました。
急
ぐべ
からず」
ほ
要 望に ぱ 豊 吉し !軍 な て
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豊田家は天狗党でしたD
てし
ひんしょう「何事をなす
にも敏捷にし、鮮呼青年たる者は就職に
小ク
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4
根本正は ,文久 3年 (1863)12才の とき水戸に出て父の従兄弟である豊田天功の家僕 (めしっか
い)となった。幕末水戸
を売 藩の屈指の学者であった豊田天功は文化 2年 (1805年)久慈郡坂上 (里見)村のに生まれ名
.号を松国といった。幼時から学問にすぐれて神童といわれ,幽谷の塾青
日本史の最も困難とした志 藍社に学んで才を伸ばし,藩士に列せられて大
頬数編を完成して, (彰考館)総裁に進んだ。また,西洋列強の侵略を憂え斉
彰考館は.光園が開設した 昭を助け国防に尽力し00才で没した。
明暦 3年 ( 5 「大日本史編纂所」としてその名が知られている。7年),当時まだ世嗣であった光閏は.江戸16
神田にあった別邸 (農学 のち駒込邸 ,現在の文京区本郷の東京大学の
部に移す)に編纂所を開いて修史事業に着手した。光Igが藩
主となった寛文12年 (の本郷に移し, 年)にこの編纂所小石川
秋左氏伝序」 彰考館と命名した。館名は中国普代の社預の 「春
である。 にある「彰従考来」の一節から名付けられたもの
「歴史を彰 (あき
ら)かにして未来をひらく」という意味の通り光園は彰考館での修史事
7216
いくこととした。引こ 業によって我国の未来を考えて光園が西山ヌ 隠居した 8年後の元禄11年 ( 9816年)に
江戸にあった彰考館の一部を水戸市内に移したL,これ は,
と称し,江戸の方を 「江邸」と称して区別した。 を 「水邸」
後年 「
に全国に広水戸学」と呼ばれた尊王思想は,この彰考館を中心
ているO まり,,明治維新の大きな原動力となったといわれ明治維新後は 水戸徳川家が個人
午 6年)全90(1 4 事業として続け,明治39
正は
、
中
村
敬
芋
の
訳
し
「西国
立
志
編
」を
読んで
感
動
し
ま
し
た
。
西洋で
生
貧
し
い
家
庭
に
努力して
なり、
立
派
な
人
に
社会の
た人達の
/存
た
め
に
尽
く
し
伝記です。
むく
「努力すれば報
われる」
このことに '多-の青年が
勇気づけられました。
室長に任命されました。
根本正もその一人でした。
年下の同窓生に、の姑始貴族院の議長になり、
根本正を助けた徳川家達がおりました。
そして
「同人社」中村の門下生に
なりました。
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高橋是清 ----政治家o大蔵大臣 .政友会総裁 .首相を務めた 軍備拡大に反対したため、2 2事件 ( o.6 昭和 11で暗殺さ 年)
れたo大村益次郎--明治時代の E j本軍隊の近代化に貢
益臼 孝 .--三井財閥を率いた日本財 献した.
林 薫 --外交官とし 界の指導者
宮宅 秀 て活躍したo--有名な医学者\ヘボンの
安藤 太郎...-E 助手も務めたoj本禁テ酉同盟会長′副会長の正と
推進したo軍隊 . 外交 . 一緒に禁酒運動を政治 . 経済 . 医学の分野で、明
にかけて日本をリードした多くの人材がヘ 治時代から昭和時代
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国会で未成年者飲
酒禁止法案の説明をすると、
ものすごい野次と噸笑で演説
議場
が聞き取れな
いほどでした。
それは根本正
の演説が終ったと
きでした。
が静かにな
ったと思
ったら、
明治胡年 3
がありました。
月2
千葉両県
1日、茨城
・
の沖合を突然暴風雪がおそいました。
鹿島灘の海岸や九十九里海の海岸は
河口を利用した銚子
・波崎港ぐらい
しかありませんでした。
原因は船
の構造が弱
いこと、
千葉県
・茨城県の両県で
一〇〇〇名近い尊い
人命が失われました
避難港がありません O
第27回帝国議会で高層気象観測所の設置を提案
第 3回議会でも政府を追及している。
ようやく大正 8年
に予算が認められ、設置場所が
茨城県筑波郡
小野川村、現在
のつくば市長峰原に
決まり、今でも自然災害
の防止に役立
っています。
このあと漁船
の動力化が急速に進みました。
船が大型化して那珂港漁港の改築が必要になり、
根本正はそのための努力をしています。
那珂湊漁港の建設(ひたちなか市)
海難事故を防ぐために高
動力が風であること、近 -に
避難港がなか
ったこと、もう
一つは天気を知るのに大切な
高層気象観測の未発達
の問題
一〇〇年前 '根本生は 'すべての人が大切にされ '平等に扱われる社会になるためには '
子供がみな学校へ行けるようにすることが第
一と考え、義務教育の授業料をとらないようにさせました。
そして、人びとに酒を飲まず 'まじめに働き、借金せず自立するよう期待しました。
しかし、苦労を重ね '社会の裏も表も '人のつらさ '悲しさもよ -知っていた彼は、
どんなに努力しても不幸になる人がいることをよく知っていました。
この人たちを支えていくのが国であり、政治家のつとめであると考え、このような人たちのために努力しました。
戦後日本は民主主義の国になり、経済は大発展して明治
・大正の時代とは大きく変
りました。
しかし、子供たちにとって 'いま大人の社会は 'そして未来の社会は信頼し '
安心できる社会なのでしょうか、
子供の社会は楽しく希望が持てる状況なのでしょうか。
このような中で二十
一世紀には、
日本に良質の市民社会をつくっていかなければと考える人が
増えてきました。
根本正の精神と業績は私たちに多くのことを語りかけています。
おわり37
平成 9年と10年の 2年間,那珂町立横堀小学校は,那珂郡の研究指定校となり,山本
「児童一人一人の思いや瞭いが生きる授業の創造」をテーマとする国語の授業で 昌美先生は,
本正''を取り上げられました ,地域の偉人 "梶
6年生全員が共同で調査,研究を行い,。 その成果を那珂郡の小学校の先生方300人が参観される
で展示発表しました。 0 1 " 中根本正顕彰会では,この横堀小学校児童の作品を,平成1年1 月に那珂町主催の な
フェスタ98"に協賛参加 した 「根本正展示会」で展示発表させてい かいきいき
マスコミで一郷土の先人を児童達が自主研究 -と報道され,町中にただきましたo
那珂町 大きな反響をよびました。
横堀 で21-23日に 「根本正展示会」
明治 ・ 小児童らの「研究作品」など展示大正期に活躍した那珂町
の政治家根本正を紹介する 「根本正出身
示会」が1 1月21- 展 ㌫;孤軌 〟
中央公民館で 23日に,同町福田の 挙
開かれる。同氏は義務教育の無償化や
者の禁酒 ・ 未成年禁煙法の制定 ,水郡線施設
のなど数多くの業績を残している。こ
のほど生誕地の東木倉では,根本正顕彰会 (柏村一郎会長)
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F根本正」の生涯を個性的に品と子供たちごて 再現した作
那珂町立横堀中歯溌賓
那珂車乗公民館
茨城新聞 (平成10年11月21日)
。
水郡線鉄道建設功労者
水'、た。
根本正の
生涯と業
根本正(111八五九三三)は町東木倉に生まれ明治4年2
して上京し人力車を引くなをつくり啓蒙思想家中村正直に
2歳で渡米して小学学校に入
し'フレデリリック・ビングス氏の支受けてバーモント大学卒業
出の衆議議院員として明治3年年年から大正13まで2当地選
子供が平等に教育が受けられるよ
力を尺、くし
未成年飲制定に全 学校の授業料を全廃させ未成喫煙禁止禁止
8
の 者者酒 小年 う'
1た し だ 費 学でど
歳珂へ那-
法法、 ' 間、 6 。をを 援 ん 学 '0績
18年(大正7年)11月撮影
央右より4人目が白石禎美(福島県
塙町出身の県議会議員)後列右端が
19
150(平成1 3 正量頁彰碑 中 年1 0月 ・那珂町中央公民館向い)
献した
生誕周年を記念しして建立た根本
伝
。生誕百五十周
また郡線建設東海村村
防防林植利根川水工事つ市の高層気象観測所設置などを上し地域のの発展と住民福利向年にあたりべ人間が大切にされる社会を求め命に努力した根本正の精神と業後世に 懸 のて すて、貢 に 砂栽、'松のを績 進 推ば く
前列右より 4人目が根本
稜田田力(袋村長)
あ と が き
根本正生誕 150周年記念事業の一環 といたしまして,マンガを出版する運びとなり
ました。
青少年の健全な成長を願った正の精神を知っていただくために,小学校 ,中学校の
児童や生徒にも理解できるような内容に心甜けました。
この本は,幼稚園や小学校 ,中学校 ,高等学校 ,図書館 ,歴史民族資料館 ,公民館
などの公共施設に備 えさせていただきますので広 く町民のみなさんにご活用いただけ
れば幸いです。
記念事業に対 しましては,多数の方々からご後援 ,ご協賛を賜 りました。
また,マンガ制作に当たりましては,多くの方から資料や写真を提供 していただき
ました。紙上をお借 りして深 く感謝申し上げます。
根本正生誕 150周年記念 根 本 正 物 語
発 行 日 平成 13年 10月6日
編集 ・発行 根本正顕彰会
編 集 委 員 遠藤 和男 ,横地 富子 ,柏村 一郎 ,倉沢 義雄
小針せつ子 ,川上 滴 ,宮田 民子 ,高畑 精一
シナリオ・画 すどう ようこ
事 務 局 〒3 11-0118茨城県那珂郡那珂町福田1819-5那珂町役場社会教育課内 ℡ 029-298-1111●ホームページ htt:/ mbrnfyn.p e t/p/me e.it.ejrnmoo
印 刷 いばらき印刷株式会社