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鎖‘’。 §話淡彩綱
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1986年 7月 20目
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研さ
土編
郷史
町町
呂呂
常常
オ ン ネ カ ッ チ の 柘 説
大なるひうち石の義である。むかしチギサニカムイ(火の樹の女神
)が天上の神と婚した時、この地の岩の上にたって、火をきり出した
処である。
(註)北見国トコロ郡にある。昔アイヌが火を初めて出しだのは樹
の皮によったのが真実であるらしい。チギサニカムイ(火の樹の神)
の名もこれから出れたものに相違ない(以下略)。
[中田千畝『アイヌ神話』(大正13年報知新聞社出版部)より]
浜 サロマチャ シのりjミ
の町J
□口
合巾
義 経 伝 説
説
-
-
頌 圖
オホーツク海岸下佐呂間にある砦址は、同じオホーツク海岸の湧別
アイヌに攻められたとき立こもったもので、砦の中には攻めよせる湧
別勢に投げつける石もなくなってしまい、乾したポラなどの頭を投げ
つけて抵抗するという苦戦だったが、そこへ常呂の部落の連中が助`勢
に来てくれたので助かった。
同じオホーツク海岸でも湧別アイヌは千島系で、佐呂間や常呂の人
とは仲が悪かった。(紋別市元紋別・野沢和助老伝)
[更科源蔵『アイヌ伝説集』(昭和46年北書房)より]
言 朧
二トシシヨツハウシ(中略) 其名義はミトシシヨツハウシと伝儀
色。ミトシと云は樺にて作りし水仮植の物色。此桶を昔し判官様此処
に忘れ置れしと云義シヨツパは栖置、ウシは有と云義也。
[松浦武四郎「登古呂日誌」『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』(安
政5年1858)より]
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解説 この中に出てくる判冒とは大宇令四等官の第三位検
非違使衛門尉の異称のことで、源義経が検非違使左
衛門小尉に任ぜられていたので判宮様と呼ばれてい
ました。その判官様=源義経がこの地に樺の末で作
った水沢桶を忘れていったのでこの地名がついたと
いっています。常呂町内の義経に関する伝説はこれ
だけのようです。
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使 ヱ コ一フ ツ セ の話
今般の御所置にて多く下向なし玉ふ役人は中すもさらなり、誰も東
西蝦夷組て是迄農作は無事を、今度始めし事と思はれ、さまざま御世
話あり。また厚き仰言等ありけるが、山越内よりしてシヤマニ場所ま
では其村々畑地多く所持し、粟、稗、俎草、暇l巴芋(ジヤリイモ)、白骨
菜、胡瓜、南瓜、麻、苧、蕪、菜、大根、てなし小角豆、隠元豆、白
瓜等府りしが、其作ることを是までは運上屋といへるものにて秘し置
ありけるまヽ、なき事の様に思ひだるなり。其ホロイヅミよりトカ
チ、クスリ、シヤリ、アバシリ、モンベツ、トコロ等も以前は畑多く
ありて作りし由なるが、追々威権運上屋に帰して、山住の者等一々雇
といふに下る様になりてより、其畑荒廃して今誰も昔しよりして、作
らざる事の様に思ひ居るもおかしき事なり。是は北海岸なるトコロの
上川にはク’トイチヤン(三軒)、ウユウシ(五軒)、ヌケヌシ(三軒
)、ノヤサンテマナイ(三軒)゛ハ ムツカフト(四軒)と五個所に分れ
て人家十八軒あり。是へ此度此度厚き仰ごとのありけるを言聞されし
處、当所の小使ヱコラツセといへるは当年六十一歳、妻はトルシヤマ
と云けるが、常に山猟を好みて身頗る壮健の者に府レ之候處、唯一人
此麦を蒔ことをなさで、和語に狸豆といへる物にて枕辺の土人ムニノ
カンといへるものを多く蒔たりしが、不日にして其豆よく生長しぬ。
予此家へ到りて見るに、予に語て日く、麦は冬中に蒔置て春雪の融る
時に生長し其日熟すると聞て、今五月なるに始て山を切墾し畑を作り
蒔なぱ、必らず生ずる事ありとも、如伺で実なるべし、若実のらざる
時は此度御役人の仰られし事は皆偽りなりと疑惑を生じて必らず御所
漑を政府しと思ふまじ。別て番人、支配人等は深く畑を蒔等する事を
忌嫌いて、人間の真似をするを土人の神が怒りて悲き病を受る等言触
し置中にてなり。依て我は麦を蒔かずして先一年畑を作り休ませ、来
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平蒔試むべしと思ふなり。共を皆の者に言聞かせけれども聞人れず、
御役人の言かせなれば早く蒔かねばならぬと時しほなしに此レ如なす
こと如何にも詮刀なし。依って我は此ム二ノカンを蒔き、多くとり、
衆人へ示し、畑の尊ぶべき事を示さんと兌けるよし語り、北辺も昔は
粟、稗を多く作りし喩なるが、其畑跡今に比喩にありかしこにありと
いふて、いとも懇に我に教え呉たりけるこそ其親切衆人の及ばざる喩
にて、其思慮凡ならざる者なりけるなり。
[松浦武四郎「近世蝦夷人物誌一弐編二十七-」(安政5年1858)よ
り。『日本庶民生活史料集成4』(昭和44年三一書房)所収]
雍 . 詣 義 徒シ ト ス コ一ア め話
北海岸トウフツといへるはモンベツ番屋より十五里南東の方素浜の
上に周囲二十余里の沼あり。其傍に人家十三軒、人別凡五六十人も右
て、皆此沼にすめる餅、鍼、鱒、1免、鮭、チライ、また牡蝸、観等多
きが、是を取りて食料にあつるが、此辺りはモンベツよりアバシリま
で二十六、七里の間と申、番人と云ふものなく、唯番屋はあれども土
人等が番をなし居る斗の事なり。其トウフツにチヤロマウコツとて当
年五十二歳になる小使があり。其弟をシトスコデとて四十五歳になり
けるが頗る義気あり。孤独の者又は極老等を憐みの志ふかく有ける
に、常に兄チヤロマウコツに遣ふるも親に仕ふるが如く、然る喩此度
兄チヤロマウコユ用有て、モンペツに来り居淀留守の時なるに、最早
箱館よりの御奉行様の御廻りも近きよし風聞あるや、シヤリ、アバシ
リの方々は夫々道も普請して右ける岑を聞て言るは、此處は和人も不
レ居喩にて、又土人も皆ソウヤヘ雇に遣はれ少く、兄も留守にて、如
何ともなし妓けれども、我兄比喩の役土人を申附られ居るに、其場喩
内、よし番人は不レ居とも、土人は少くとも、我が残り居て此まヽ棄
て置べき訳には有まじ、左様申とても一粒の米もなし、一酌の消もな
し、とて自ら貯ふる喩の干魚を皆出し、是を女の子々供等の食料に煮
て出し介抱となして、南トコロ境より北モンベツの境の喩、海岸は砂
ぬかりて歩行慈しと陸路を切、二里目二里目に小休所を建て、凡そ其
事な0)か(ロ)りける喩へ兄チヤロマウコツも帰り来て、相互に番屋
の手伝介抱をも不レ受して陸路凡六里に小休所三ケ所、椴の末の皮剥
き釆りて是にて取立しも、いと公法を崇め、御所置を弁え、我が物を
出して番屋の為とし、兄の落度にならざる様になしたるぞ感ずるに余
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りありしが、如レ此共義気有るもの必らずソウヤ、ル・、モッベ・蒔の受
は捗しかりしぞ伺レ政事ども成りけるなり。
[松浦武四郎『近匪蝦夷人物誌一泰編二十二-j(。安政5年1858)よ
り。l’日本庶民生活史料集成4』(昭和44年三一書房)所収]
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説’‥ る闘の仁ヨッテ
私の生れた常呂は美幌の奥でしたが、このトコロ、トープツには始
終米ております。私の平も役場の帳簿に安政3年6月1日生となって
いるから75歳(昭和6年調)になるのです。生れた年月日は明治時代
になってアイヌ人の戸籍法が布かれたが、この6月1日であるために
その時に調べたのは年は違うが、北見中のアイヌ全部が6月1日生れ
なのだ。
昔から幕府でアイヌ人におかり米というものを下されていたが、あ
まり確実に配布されなかった。
明治の御世になってから確実に貰うことが出来て大変喜んだ。その
米の量は大人一人に付4非人1俵、子供はその半分であったと思う。
また着物は夏物1枚冬物1枚ずつ1年中に恵まれた。
それからよく御上から御布令の伝達があったもので時々皆を集めて
は聞かしたり、また一人々々に言って歩いたりして教わったものでし
た。それらの仕事は乙名がやったり又十の帳方の者がやったりしたも
のだ。トー`プツの酋長はイレーイガシがやっていたが、あとでエラツ
ピトが酋長とも代表ともなった。それは後で秋月善助と言って今でも
その子孫がサロマ川に居る。
網走の酋長はノッカというて山の上に居たし、湖酋長はシマカとい
うてポンムイに行く海岸に居た。
その後ノッカは上野広告となり、シマカは山下源次となったが、後
に宮木伊太郎が網走中の代表となった。
[米村喜男衛『北見郷土史話』(昭和18年北見郷土博物館)より]
今回紹介しましたような末町にかかわる伝説、古い史実、開拓
の頃のエピソード等をこれからも気がつき次第収録していきたい
と考えています。古老の話も記録したいと思っております。ごtg
力をお願いいたします。r常呂町史』のほうも執筆が進められて
おります。来年の見頃には脱稿の予定です。ご期待下さい。
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