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ISSN 0288-3092 切絵 後藤伸行作 49 49 平成 9年4月 世田谷区 誌研究

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ISSN 0288-3092

切絵 後藤伸行作

 

ヵ往

49号

第 49 口万

平成 9年 4月

せたがや百景①野毛の善養寺ど六所神社(善養寺)

〓Ⅱ■

世 田谷区誌研究会

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世田谷城を探る

これまでの九枚

の図を通して

―この城

の正体は今も不明

だれもが部分を探るだけ―大

 森 拓 二

一、はじめに

0 室町時代

の吉良氏の居城

これは広く知られている

吉良氏の祖先は清和源氏、室町将軍の足利氏と同族

の出

である。後

に三河の吉良庄を領して吉良氏を名乗

り、その裔が忠臣蔵の吉良義央である。 一方、鎌倉時

代末期に分かれた分家

の吉良氏は、四代目貞家が足利

将軍から奥州探題

に任ぜられる。時あたかも南北朝争

乱期、奥州の南朝方討伐に武名を上げる。その子治家

の代

に戦功によ

って現在の世田谷、大田両区など

二十

三区の南半分を領した。これに対する北半分は豊島氏

を滅ぼして勢力を伸ばした太田道権

である。こうして

治家以後は世田谷吉良氏と称せられ、本拠として世田

谷城を創築したのは応永のころ

(一四〇〇年前後)と

されるが、異説もあ

って正確

には資料がないので不明

である。いずれ

にしても南北朝合

一の

一二九

二年前後

のことである。

やがて明応四年

(一四九五)の北条早雲の小田原進

出以後は、関東南部の大半はその配下に組み込まれる。

その中にあ

って世田谷吉良氏は巧みに北条氏と姻威関

係を結んで、最後までその所顎と名蹟を保

っている。

しかし天正

一八年

(一五九〇)の豊臣秀吉による北条

氏の滅亡

で、世田谷は戦わずして城を明け渡し、間も

なく廃城

にな

った。

このようにこの城は戦国時代

にありながら

一度も戦

わず、また領主の交替もなか

った。戦乱に明け暮れた

この時代

には、築城からわずか二〇年から五〇年

で廃

城という短命な城が多い。そ0中で

一九〇年という長

い栄光を保

った城である。

0 正体不明の城

の形や広さはいまだに不明

戦国時代の城は防衛上の秘密からか、当時の図が残

っていないも

のが多い。世田谷城の古図はあれほど多

く残

っている北条氏関係の古文書

の中にすらないとい

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う。 一方幕末

に描かれた

「江戸名所図会」の

「豪徳寺

伽藍図」には、その隅

に書かれた小丘

に、 〓口良氏城

址」と小さく注記がある。

つまり幕末

にも城跡として

の存在だけは知られていた。しかし何分

にも城の付近

は大藩中の大藩

である彦根井伊家

の所領で、しかも城

域はその菩提寺である豪徳寺に組み込まれている。こ

うした二百数十年と明治以降の百数十年

の間

に、どこ

までが城の旧状のまま、どれが井伊家ないしは豪徳寺

による改変か、全く分からなくな

っているのが実情で

ある。

幸いにして現在は城地の

一部は

「世田谷区立世

田谷

城阻公園」である。土地所有者の東急電鉄から世田谷

区が無償貸与を受けているという。公園である以上は

旧状が保存されている。しかしその

一方では

「公園な

るがゆえの改変」も避けられないものか、城阻と

いう

い字を使

っているくらいなのに、 一向

に城跡らしく

見えない公園である。

二、先行研究のすべてを踏まえる

単行本の部分にも雑誌論文

にも、世田谷城はあまり

登場しない。正体不明の城だからである。中には世田

谷城と

いう標題

にもかかわらず、清和源氏から始まる

「吉良氏の系図」だけを長々と述

べ、城に関してはた

一行

「今は公園にな

っている」だけのものすらある。

世田谷城

の城域

o形態

。縄張り等を述

べたもの、換言

すれば

「図化」したものを私は求め続けてきた。それ

は以下の九とおりの図で、およそ印刷され出版された

全部と思われる。私は

コピーを含めればその全部を所

蔵しているのでここに収録すひ。しかし中には正式な

実測図ではなく、

スケ

ッチないしは略図のようなもの

もある。失礼ながら先行

「研究」には値いしない。し

かしたとえ図

に資料的価値が乏しくとも、 一応紹介す

ることは先学

に対する礼儀であろう。

このような考えから以下作図年代順に取り上げる。

この場合の作図年とは、作図された年または出版され

た年である。図の大きさは図によ

ってかなり異なるの

で、収録しやす

いよう

に縮小した。さらに

一つ

一つに

私なりの

「考察」を加えた。この部分には私の思

い違

い、調査不足、偏

った見方なども考えられる。ご批判

をいただきたい。

一一一́´́´́】」一一」一一́二^」一一一一」」一一」”一〕

-2-

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○図

1《世

田谷城

阻見

取図》

正三年  浜島

信祐作図

鈴木 達著

「世

田谷城名残常盤記」

(昭和三六年

)所収

(注意)

由●ハ凛高線フ示

,メ、準二土地′

”対”翡解辞澤舛″̈依

,同一曲線

断面懇●ロハ、平面口′断面凛示線

,切断クナ●面ヨリ見タル仮定ロト

ス.

本地口作ユニ要セツ埼口四崎ロニク

テ、日橿トン

,ハ腱尺

一夕、俊尺

●′ミナリ

(大正歩年六月四日)

〔考察

正三年

六月、当時

の城郭研究

の第

一人者と思

われ

る大

類 伸

o鳥

羽正雄

の両博士を招

いて、武蔵野会が

田谷城を主題

に豪徳寺

で行われた。

の際

にこの城

の精

細な図面が存在しな

いことが明らか

にされ、

その

直後

に会

一人

の浜島氏が作図したも

のである。

同氏

「器械

ハ磁

一ケ物尺

一個

ノミ」

「曲線

ハ土

ノ高

ヲ示

ニスギズ」と明記し

ているよう

に、測

の技術

や器具が今

ほど普

。発達し

ていなか

った

であ

る。私

「よく

ぞ独力

でここま

で……」と

その

労を多とした

い。

それ

この図が

この城

の平面図

の最

初と思われ

るから

でもあ

る。図は土塁を空堀らし

いも

のを

示すだけ

で、郭

の配置

ついてはほと

んど触れ

いな

い。総門

。山門

。東門と三基

の門

が記載され

てい

るが、

これ

は豪徳寺

の門

であ

って城門

ではな

い。また、

当時

は城

の周辺は田畑

であ

った

こと

が読

み取れ

る。

○図

2《世

田谷城

署図

の写》

昭和

三年 浦部仙橘作図

田谷区教育委員会発行

「世田谷

の中世城塞」所収

尺 ノ ー 分 千 五

0● 5071110. _η 0 3" 4Q0

-3-

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3年 :2 世日谷城

署図の写

聟所曇 丸

桜丸

〔考察〕

作図者は西丸

を方形館ととら

えていると推察

できる。それは

図1でいう

「千

手院跡」も同様

で、場所も同

と思われる。多分方形館と言えると私も考える。その

郭の開口部を、図1では南北両側にみているのに対し

て、図2では南側だけにこれを認めている。また、図

1図2とも

「御所桜」を記載している。この木の存在

は事実かもしれないが、木そのものは後世のものであ

り、位置は不明のはずである。したが

ってこの種の図

には記載すべきではないと思われる。図2は図1をま

ねたものだろうか。また抜穴が書いてあるが伝説を鵜

呑みにしているだけと思われる。さらに図には東丸

西丸

。南丸などと郭の名称が書かれているが、名称に

は根拠があるのだろうか。

○図3

《武州世田谷城復元図》

昭和四九年 西ヶ谷恭弘 作図

雑誌

「歴史と旅」所収

〔考察〕

図1にいう千手院跡、図2でいう西丸と同

一と思わ

れる郭を、この図は館址としている。この部分を方形

館と見ている点でこの三枚の図とも

一致している。ま

た図2にいう南丸をこの図は物見台としているが、こ

れは現在の公園の部分と思われる。中世の城にはこの

ように台地の先端部に物見台を配している例が多い。

武州世田谷城復元図

0西 ヶ谷奉弘

-4-

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,曇燿響〓暑■1

1■

, ■彎■■〓プ‘‘,■.ヽ

1^1ず

ヽ量““

111■一■一

この図の作者は中世城郭の発掘調査を、調査団長とし

てすでに百か所以上も手がけている人

である。日視に

ったものであろうが、公園を物見台と見ている点は

さすがに経験の積み重ねと私は考える。

○図4

《世田谷城址要図》

昭和五二年 大多和晃紀作図

同氏著

「関東百城」所収

(有峰書店新社昭和五二年)

〔考察

図は城址の旧状である土塁や空堀を、ケバ図のよう

な表記法で描いている。そのため高低が判読しにくい。

その上豪徳寺

の建造物や墓地、現在の道路や玉川線の

線路

。駅など、付近の現状ま

で記入されていることが

一そう分かり

にくくしている。

「旧状

。現状とりまぜ

て……」の意味を含めて

「要図」と名付けたものだろ

うか。そしてこの場合ぜひ欲しい郭のことについては、

全く触れていない。

作図者は図だけではなく

この本の著者である。しか

し専門の研究者ではなく、本務のかたわらに多く

の城

を訪ねた人である。著書の

「はじめに」によれば

「こ

れまでに関東地方の山城をふくめて、中世の有名無名

の城約

一九〇を探訪した」とのこと。同書

には百城と

いいながら九〇城が収録され

ている。数えてみるとそ

のうち七

一城

については、この図のような

スケ

ッチ風

の描き方

による図が添えられている。

○図5

《世

田谷城の想像図》

昭和五四年 一一一田義春作図

世田谷城址要図

-5-