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「部落」の呼称 と問題認識の変化 一身分的呼称、階層的呼称そ して地域的呼称- 大阪市立大学 1.三位一体論的認識の鯛壊 2. 「旧犠多非人、新平民」概念 3. 「貧民部落」概念 4. 「特種部落」概念 5. 「細 民部落」概念 6. 呼称の 「地域」概念 としての連続性 7. 要約 と課題 1 .三位一体論的認識の崩壊 最近 、部落民 とは何 か と、 あ らためて問われ るよ うにな って きた。 今 まで 自明 な もの とされ て きた 「部落民」鹿念が揺 らぎだ して きたのだ。 その背景 には、部落の実態の変化がある。部 落外との通姫が増えてきたこと、部落外への流出が増えていること、市街化の進行により部落 と部落外との地理的な境界が然としなくなってきたことなど、都市化や社会移動の増大があ る。 その結果、部落差 別 を身分 と職 業 と地域 との三位一体 と して と らえ る見方 は、理念型 と し て は意味 を もっ と して も、現実 には成 り立 たな くな って きた。 1960 年代か ら今 日に至 るまで大 きな影響を与えて きた三位一体論的認識 は、井上清の次のよ うな言説 に代表 され る注 1 「こうした差別 され た身分 と職 業 と地域 とが、 たがいに分つ ことがで きない一体 の もの と して、 三 者が相互 に原因 とな り結果 とな りあ って、江戸時代 の中期 まで に、 どうに もな らない部落 ・部 落 民 が つ くりあげられた。明治維新 も、その後の日本資本主義も、ついにこの不幸な三位一体を解消す るこ とがで きないで今 日に至 ってい る。部落 の特徴 はま さに この三位一 体 にあ る」 この三位一体論的認識か らは、部落外に住む系譜的な連続性を もつ人々は抜 け落 ちる。 これ らの人 々は、 まれ な ケースと して考察 の対象か らはず され る. また-,部落 内 に住 む転入者 もま た、部落 の正規 の構成員 と して は扱 われず、考察 の対象か ら除外 され る。だが、 このよ うな人々 は、膨大 に存在す るよ うにな って きた。 職業 とい う点 にお いて も、 すで に60 年代です ら特定 の職種や部落産業 に限定 されてはお らず、 1 井上清 『部落の歴史と解放理論』1969 年、231 頁、田畑書店 -37-

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「部落」の呼称と問題認識の変化

一身分的呼称、階層的呼称そして地域的呼称-

野 口 道 彦

大阪市立大学

目 次

1.三位一体論的認識の鯛壊

2.「旧犠多非人、新平民」概念

3.「貧民部落」概念

4.「特種部落」概念

5.「細民部落」概念

6.呼称の 「地域」概念としての連続性

7.要約と課題

1.三位一体論的認識の崩壊

最近、部落民とは何かと、あらためて問われるようになってきた。今まで自明なものとされ

てきた 「部落民」鹿念が揺 らぎだしてきたのだ。その背景には、部落の実態の変化がある。部

落外との通姫が増えてきたこと、部落外への流出が増えていること、市街化の進行により部落

と部落外との地理的な境界が判然としなくなってきたことなど、都市化や社会移動の増大があ

る。その結果、部落差別を身分と職業と地域との三位一体としてとらえる見方は、理念型とし

ては意味をもっとしても、現実には成り立たなくなってきた。

1960年代から今日に至るまで大きな影響を与えてきた三位一体論的認識は、井上清の次のよ

うな言説に代表される注1。

「こうした差別された身分と職業と地域とが、たがいに分つことができない一体のものとして、三

者が相互に原因となり結果となりあって、江戸時代の中期までに、どうにもならない部落 ・部落民が

つくりあげられた。明治維新も、その後の日本資本主義も、ついにこの不幸な三位一体を解消するこ

とができないで今日に至っている。部落の特徴はまさにこの三位一体にある」

この三位一体論的認識からは、部落外に住む系譜的な連続性をもつ人々は抜け落ちる。これ

らの人々は、まれなケースとして考察の対象からはずされる.また-,部落内に住む転入者もま

た、部落の正規の構成員としては扱われず、考察の対象から除外される。だが、このような人々

は、膨大に存在するようになってきた。

職業という点においても、すでに60年代ですら特定の職種や部落産業に限定されてはおらず、

注 1 井上清 『部落の歴史と解放理論』1969年、231頁、田畑書店

-37-

朝田理論でいうところの 「主要な生産関係から除外された」注2という意味においてその特質が

とらえられた。それとても、今日大阪府の同和地区では、「官公庁」勤務 18%、「従業員 300

人以上の事業所」勤務11%、「正規の職員 ・従業員」75%、賃金形態が 「月給」のもの63%

という状況になっている実態からみれば、職業においても三位一体論は成り立たなくなってい

る注3。分かち難 く結ばれていると思われていた身分、職業、地域は、次第に分離 しはじめ、

気がついてみるとおよそ三位一体とは言えない状態になっていた。

考えてみれば、「部落問題」というとらえ方は、差別を受ける人々を地域を単位とした集合

体としてとらえものであり、三位一体論を背後仮説としてなりたってきたものだともいえよう。

ところが今や、三位一体論的実態が分解してきたとなると、「部落問題」という問題の認識の

仕方も怪 しくなってくる。だからといって、この事態をすぐに部落差別の解消とみるのは、性

急過ぎる。三位一体を構成 してきた三つの要素が、それぞれを分離 しつつ、差別が変容過程を

たどっているとみたほうがよいであろう。これは、差別する側が、差別の対象をどのようにと

らえているのかということと密接に関連 している。ありもしない三位一体的幻像を旧態依然と

してもち差別の対象のイメージを膨らませているものもいる一方、「地域」から離れ、ミドル・

クラスの職業をもっている人を、なおかつ 「身分」、つまり系譜的連続性だけをとらえて差別

するものも現れる。

他方、差別される側が何にアイデンティティをもつのかという点にも関連する。 ある場合

(ある地域では)、部落出身であるか否かよりも、「地域」的生活共同体としての一体感を強 く

もち、「街づくり」の理念を共有することに重きを置く 「地域」もある。また、混住化が進行

し、「地域」的連帯感が喪失 しつつも、系譜的連続性の記憶 ・意識、ないしそれに基づ くネッ

トワークが残存 している場合もある。被差別という要因を媒介にしつつも、差別される側のア

イデンティティのありようも一律のものではなくなってきている。一旦、従来の三位一体的認

識の枠組みを取り払ってみたとき、どのような風景が現れてくるのだろうか。

部落問題といい、部落差別といい、今まで 「部落」という言葉にあまりにも慣れ親 しんでき

た。差別を 「地域」と密接に関連づけてとらえてきた。低位性という 「実態的差別」ですら、

「地域」を単位に測定 してきた。この両者の結びっさを前提にするから 「部落問題」 という表

現に今まで疑問を抱かなかった。 しかし、「部落」という言葉を使わないで、 この差別問題を

表現するとすれば、どのように言えばよいのか。戸惑ってしまう。

そう考えてみたときに、「部落問題」という社会問題の認識のしかたが、 どのように生み出

されてきたのか、そのプロセスをあらためてとらえ直してみる必要にあることに気付 く。これ

は、社会問題の構築主義者の表現を借りれば、「この (差別)問題」が社会問題として異議申

注 2 いわゆる朝田理論の3つの命題のうちの一つ、「部落差別の本質」規定。朝田善之助 r新版 差別と闘いっづけてJ

1979年、朝日新聞社

注 3 数字は、1990年の大阪村内同和地区48地区の平均.大阪肘 r同和対策事業対象地域住民生活実態調査報告書J)

1991年

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し立てられ、それが人々の関心をよび、「解決すべき問題」として顕在化されていくプロセス

の解明である注4。

ところで、これまで部落の呼称については、すぐれた先行研究がある。 しかしそれらの多く

は、差別表現としての呼称問題という文脈での検討であった注5。そこでは、「この (差別)問

題」が社会問題として顕在化されていくプロセスの解明という視点が弱かったように思う。こ

の小論では、呼称の変化を手がかりに 「この (差別)問題」認識の枠組みの変化を取り出した

い。明治期から大正期の呼称の変化として3つの段階を考えている。「旧蔵多非人」 もしくは

「新平民」が一つ。第二は 「貧民部落」、第三は 「特種 (特殊)部落」である。「旧機多非人」

もしくは 「新平民」と小 う呼称は、いずれも系譜関係にのみ注目した属人的概念である.つぎ

の段階の 「貧民部落」は、社会階層に注目し、なおかつこれを地域として認識した概念である。

さらに、「特種部落」になると、地域として認識することには変わりはないが、社会階層的把

握が後退し、系譜的要素を重視する認識に変わる。ここで属人かっ属地的概念として問題を認

識する枠組みが成立 し、基本的には、これが今日の 「部落民」概念を構成することになったと

考える。これが、大まかなアウトラインである。以下、これを詳 しく検討 したい。

2.「旧稜多非人、新平民」概念

2-1.「旧稜多非人」概念

1871(明治4)年の睦民廃止令が出された直後からしばらくの間は、「旧積多 ・非人」という

言い方がなされていた。その例えとして、京都府勧業課 「明治19年臨時旧磯多非人調書」注6、

明治21年 『滋賀県旧穣多村状景調査』、「旧穣多非人を保護するの議」(『神戸又新日報』明治19

年2月5日)注7などをあげるまでもなく、官庁文書、新聞記事に枚挙にいとまがない。

日常生活 レベルでは、明治維新後 も人を語る時には出自を意識することが強かったために、

旧身分への言及を不自然なこととして自覚的にとらえられなかったのだろう。その点では、購

民廃止令後も身分意識は価値の逆転を経験することなく存続 した。その無自覚さを、自覚的な

知識人は批判した。少数であったそのような知識人が、問題を指摘する場合に、「旧穣多非人」

という表現を用いることは避けがたかった。したがっって、「旧犠多非人」 という呼称は、無

自覚な民衆によって蔑称として使われると同時に、それに批判的な知識人によって用いられた。

旧来の身分意識を引きずる用法は、論 じるまでもないので、ここでは、差別撤廃の観点から

論じた知識人によって、問題がどのようにとらえられていたのか見ておこう。その一つの典型

的事例として 『神戸又新 日報』に連載された 「旧磯多非人を保護するの儀」をとりあげた

注 4 J.I.キツセ、M.B.スペクター 『社会問題の構築J)マルジュ杜、1990年注5 典型的には、灘本昌久 「"差別語〝 といかに向き合うか」『部落の過去、現在そ して-』阿畔社、1991年注 6 京都部落史研究所 F京都の部落史J)第 6巻史料近代 Ⅰに一部収録.

注 7 いずれも 『部落解放教育資料集』第-巻、1983年、明治図書に収録。

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い 注80

時期は、1886(M.19)年である。中江兆民と同時代のものであるが、彼の論考とも勝ると

も劣らない。中江兆民は、平等思想の徹底性と平民主義の欺楠性を鋭 く批判 した。『又新』の

論説もまた、「其所謂穣多非人なる者は如何なる沿革を経たるものなるにもせよ、固 と是れ同

等同一の人物にして、生れながら人間正当の権利を有する」と天賦人権論にたって論 じ、蟻民

廃止令を、明治政府が社会平権主義に立って 「社会権力の不平均」を矯正するために実行した

「一大善事」と評価している。棲民廃止令によって政治的な平等は獲得されたにもかかわらず、

社会的差別は、名称廃止以前とほとんど変わりないとし、問題を指摘 している。その事例とし

て、洗い清めた古い糞桶に盛った酢が食べられるかと言った村役人の話を紹介している。この

話は、解放令後の平等を求める行動に冷や水を注 ぐも.Dとして当時相当流布 していもののよう

であるが、ここでは 「之 (旧積多)を見ること竃も名称廃止以前と事ならぎりしの情と事実を

知るを得べき也」と批判的にとらえ、この世人の態度は明治5-6年の頃だけでなく、16年経っ

た明治19年においても 「尚は一口に穣多と称して軽蔑を極め、決してその地位を得せしめさる

ものの如し」と差別のひどさを指摘している。このように 『又新』の論説は、差別問題として

問題を提起 した。

差別の存続の原因として 「職業の甚だ下等賎劣なる事」、「其の職業の汚積なる」ことに求め、

「下等なる職業に従事するが故に、社会に軽蔑せ らるゝなり」 としている。 ここでいわれる

「下等賎劣なる職業」とは、屠殺、皮細工、履物製造等を指 している。こうした職業か ら脱す

ることができないことを、差別の存続の一つの原因としてとらえている。 しかし、それがすべ

ての根元ではない。「蓋 し尋常人は社会に好事業を発見するを得ば、直に自由に之れに就 くを

得べLと錐も、旧積多非人は仮令ひ之を発見するも、世人の軽蔑の為め、自由に之に従事する

を得ざるに非らずや」と、「機業」に就かざるをえないのは、差別の結果であるとする。

さらに注目すべきことは、単に貧困問題としてとらえていないことである。すでにこの時期

に 「部落」から転出し、社会的上昇をかちとった人 一例えば、学校教員、官吏、県会議員、

7人の全国の代言師が存在することを指摘し、そのように人がいかに成功しても 「一旦旧蔵多

たるの事実の世人に発表する時は、如何なる堂々たる商店も忽ち其客を失い、其名を損して、

又、世間の人に容れられざるが如 し」として社会的に成功 したものが、身元の暴露によって

「唯、其旧穣多たりしの一事は他の善美の点を破壊 し去り、其主人は全く社会に容れ られざる

に至る可 し」と差別の破壊性を指摘している。これはまた、「地域」の問題として認識 してい

ないともいえよう。

それと同時に、「今後、尚数年の間、社会の表面に立て高等なる事業を経営するを得ざる時

は、第-其犠多非人の社会に於て、一層貧困者の数を増加する結果を来さざる無さ乎」と予測

注8 r神戸又新日報』1886(M.19)年2月5日~10日、小林茂 『部落 「解放令」の研究』1979年、183-195貢に掲載。

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し 「自然射利の道に不自由を感ずる時は、全国数十万人の旧穣多共は、世の味気無さに種々の

空像を画き、あるいは愚かにも政府に向て怨意を抱き」、「一種社会の不平党を組織 し、其一挙

一動は政治上に社会上に大いに害毒なる影響」を及ぼすことになる注9。 この事態を避けるた

めには、政府は 「旧穣多非人共に向いて多少の保護を与へ、以て社会に精々高等なる事業を経

営せしめ、以て其生計上に幾分の余裕を生ぜしめざる可からず」とする。名目上の平等を唱え

るだけでは駄目だとし、特別対策の必要性を主張しているのは注目される。

この 『又新』の論説が誰の筆になるのか不明である。 これは、『東雲新聞』に中江兆民の

「新民世界」(1888年)が登場する二年前である。中江兆民の主張が、理念に傾いていたのに対

し、『又新』の論説は、差別の状況を的確にとらえている。また、杉浦重剛の 『契噌夢物語』

(1886年)が南方諸島への移住を提唱しているのと比べて、極めて現実的な差別撤廃の方策の

提案している。旧穣多非人をめぐる問題を、差別問題としてとらえ、そして具体的方策を論 じ

たものとして、当時としては傑出したものであった。

2-2.「新平民」概念

「旧蔵多 ・非人」という表現は、まだ購民廃止令が十分笹意識されている間は使われていた.

この直裁な表現は、まざれのないものであるが、そのような言い方をいっまでも続けること自

体、睦民廃止令の趣旨にも反するものであるから、それに代わる呼称が求められた。そこで登

場したのが 「新平民」という呼称である。

「新平民」という呼称が、急速に広ま.ったのは、「旧犠多 ・非人」であることを差異づけて

表現したいという当時の民衆のもっ衝動にこたえ、しかも新時代の気分を体現 していたためで

あろうか。

この使用例はかなり早くからある。1871(明治4)年9月で、京都府が民籍編入通達の文書

で 「新平民」という言葉を使っている注10。「新」という接頭語がもつ意味については、購民廃

止令に先立っ明治2 (1869)年に政府はすでに身分制度を再編成 し、華族、士族、卒、平民と

し、平民には、農、工、商を編入しており、この時間的ずれを表すものといえるが、単にそれ

だけとはいえない。1872(明治 5)年に平民に編入された卒に対 しては、「新平民」 とは呼ば

れなかったことから、当初より 「新」という語に差別感が込められていたという見方もある。

そうだとしても、露骨な差別的含意は巧妙に隠されていたといってよい。

しかし、差別語として 「新平民」が意識的に用いられるようになるのは、それほど時間をか

からなかった。長尾真砂子の指摘によれば、1880(明治13)年頃から、夫婦喧嘩、親子喧嘩、

賓銭泥棒、ひったくりなど貧しい人々の事件とも言えないものを住所、氏名入り、面白おかし

く書きたて、大衆の好奇心を煽っていく。そのなかで被差別民も標的にされ、一部のものが起

注9 安保則夫は、このところを取 り上げ、治安対策的観点であると批判的に見ているが、同意できない。安保則夫 『ミ

ナ ト頭 コレラ ・ペス ト・スラム』1989年注10 京都部落史研究所 『京都の部落史』第6巻史料近代 Ⅰに収録。

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こす事件を大げさに取 り上げ、「維新の際平民となりたれど祖先以来の峻業は更に抜けず」注目

などと反社会的行動があたかも生来のものかのように書きたてたという。その背景について、

「政治的、社会的意見の発表の手段としての大新聞の時代から、娯楽を中心 とした小新聞の時

代となり、不特定多数の民衆を読者として設定するにつれて、差別記事が何の抵抗 もなく登場

した」という長尾真砂子の指摘は実に興味深い注12。また、安保則夫が紹介 しているように露

骨な差別事件ですら、『又新Jは 「大喧嘩相手は新平」、「年酒の紛転 (新平の立腹)」など記事

自体が差別する側にたって書かれている注13。かくして、大衆受けを狙 った新聞が被差別民に

対するネガティブなイメージを拡散させていったのである。こうした新聞メディアは、一方で、

先に見た 『又新』の論説のような優れた主張を載せながら、他方、差別問題として問題摘出を

無化するような排掩、噸笑する記事を載せていくという矛盾 した紙面づくりである。その使用

言語として 「新平民」、「新平」を使った。文体も明らかに違う。一方は硬い文語調であるが、

他方は、くだけた調子の会話調である。どちらのメッセージの方が、人々に浸透 していったの

か、言 うまでもない。

このような新聞での論調や日常会話での侮辱的表現に業を煮やした人々は、差別表現をやめ

させるべく、早 くも1884(明治17)年3月京都府下では 「新平民」の呼称廃止を要求 して一千

人の被差別部落民が協議 しているという新聞報道があるが 、その詳細はわからない。

京都府船井郡の十数戸の被差別部落の1906(明治37)年に生まれた女性は、登下校のときに、

隣り村の子どもたちから 「テンテンシュ、テンシュ、上がり下がりののボー」と嚇し立てられ、

悔 しくて小学校 も行かなくなったと娘に語っている。「テンテシュ--」は、「シンへ-」のカ

タカナの形を音で表現 したものである。明治の末年の頃、日常的に 「新平民」が差別語として

飛び交っていたのである。

このように、「新平民」は隠微な差別的表現から始まり、次第に差別的な意味あいを強 くも

つようになり、「新平」など略称で使われる至って明確な侮辱語として定着する注15。ともあれ、

「旧穣多 ・非人」にしろ 「新平民」にしろ差別的意味の程度の差はあれ、どちらも身分関係に

のみを表現 した属人概念である。

2-3.「臨時旧穣多非人調書」

京都府勧業課は 「臨時旧穣多非人調書」を作成 した。1886(M.19)年 1月23日に各郡役所

に照会 し、その回答をまとめたものである。この調査は、知事が東京へ出張するさいに何かの

必要のために行ったものということが伝えられるだけで、調査目的は明らかではない注16。

症ll 『日出新聞』明治20年 1月9日 (長尾真砂子論文紹介)

注12 長尾真砂子 「被差別部落をめぐる初期ジャーナリズムの動向」r京都部落史研究所紀要J)創刊号、1981年

注13 安保則夫、1989年、前掲書、95-96貢、『又新Jlの記事は、1891年から93年のもの.

注14 『自由新聞J)明治17年3月30日、京都部落史研究所 r京都の部落史J第6巻史料近代 Ⅰ注15 その背景には、天皇制支配体制の確立による華族、士族、平民という新たな身分序列意識の浸透・定着が指摘され

ている。

注16 『日出新聞』1886(M.19)年 1月29日。

ー42-

この調査では、何が把握されたのであろうか。これは京都府としてはじめての調査であり、

旧小屋と記載した非人系の集落も多く報告されており、後の調査で非人系が脱落 していくプロ

セスを追いかける上で興味深いデータを提供 している注17。 旧身分関係の呼称は郡によって違っ

ており、京都市や宇治郡では、旧穣多、旧小屋と表現しているが、愛宕郡では、新平民、旧小

屋と表現している。愛宕郡役所の官吏からみれば、新平民は旧蔵多のみを指すものと受けとめ

られていたのだろうか。集落によっては、単に戸数と人口だけの簡単なものもあるが、状況を

記述 しているものある。それによって生活状況を知ることができる。

たとえば、愛宕郡柳原圧は戸数 1,111戸、4,369人、すでに巨大な地域を形成 している。こ

の調査では概して職業の記述は簡単なものであるが、 この地域では詳 しく職業を報告 してい

る注18。その大半は商業関係のものである。多いものから順にあげると、履物類商75、果物商2

5戸、菓子小売商16、諸革商16、質商16、青物商13、袋物商10、牛肉商10、湯屋10、工業10、

古書商9、米小売商8、酒小売商6、理髪 6、魚類商 5、飲食商5、古木商4、貸者商4、尿尿

商4、油小売商3、荒物商3、農業3、筆毛商2、水車業 1、陸運店 1となっている。皮革履

物関係もでてくるが、あくまで商業であって、職人関係のものはない。人力車挽や日稼ぎは当

時の都市下層では多く、当然柳原圧でも存在していたはずであるので、雑業の中に含められた

と思われる。雑業は841戸 (76%)と膨大であり、その職業の内訳を知りたいが、それについ

ては何も報告されていない。 しかし、困窮度については、2つに分類 している。

「雑業者、世上一般ノ不景気二拠 り、目下生活二困迫スルモノ七百四拾九戸.右困迫ノ者今日糊口

ノ実況。七百四拾九戸ノ内、四百戸余-僅二所有スル処ノ衣類物品等ヲ売却シテ漸クロヲ糊 スルモノ

ニシテ、又残ル三百四拾九戸余-、所有品モナク近隣ノ援助ヲ受ケ糊ロスルモノニシテ、動モスレバ

飢餓二陥ラントスル等ノ状態ナリ」

これからみると841戸のうち困窮 していない雑業は92戸 (11%)にとどまり、飢餓状態にあ

るものは349戸、総戸数の31%、雑業層の42%にものぼる。

このように、「臨時旧積多非人調書」は、戸数、人口のほか職業と生活状況を記載 しており、

各郡の報告には 「職業不景気二因 り目下生活二困迫スルモノ○○戸」という紋切り型の表現が

散見されるから、松方デフレが直撃した窮迫状況を把握することを目的としていたようである

注19。 しかしながら、住宅の状態についての記述はほとんどないから住居改善は全 く視野にな

かったようである。調書自体が 「臨時」としているように、何かの手を打っとしても、あくま

でも応急的なもので、恒久的な対策を打つ志向性は、この調査の文面からはうかがえない。

注17 大正、昭和と時代が下るに従って政府調査から非人系の部落は抜けていく。

注18 職業ごとの戸数を報告 しているのは愛宕郡その他少数の地域に限られる。他の郡は素描程度のものである。

注19 r京都の部落史J 第2巻 近現代、41貢

ー43-

3.「貧民部落」概念

3-1.貧民部落と貧民窟

ところで、これまで、呼称の変化は、「旧穣多 ・非人、新平民」- 「特種部落」- 「細民部

落」という流れで考えるのが定説であった。しかし、これには大きな見落としがあった。「貧

民部落」と表現する時期があったにもかかわらず、それがもつ重要性が見落とされてきた注20。

貧民部落の存在を大きく浮かび上がらせたのは、コレラと被差別部落との関係を明らかにした

小杯丈広、安保則夫、友常勉などの功績である。

もちろん、明治期をとりあつかう部落史研究者の間では、「貧民部落」の呼称があったこと

はよく知られていた。にもかかわらず、特段に議論の対象として取り上げられなかったのは、

従来 「部落の呼称」問題が、差別表現として議論する傾向が強かったために、特に被差別部落

だけに限定した呼称ではなかったこと、そして当事者からこの呼称に異議申し立てがなされた

事例がなかったためであろう。 しかし、問題の認識枠組の変化を考察の対象としたとき、「旧

犠多 ・非人、新平民」から 「特種部落」への移行の間に 「貧民部落」という表現をとる時期が

あったことは、極めて重要な意味をもっ。この表現が、「部落問題」が 「部落問題」 として成

立をすることの意味を考える上で、決定的な意味をもつと考える。

小島達雄によれば、「貧民部落」の初出は、明治18年の 『衛生局年報』であるという注21。 ま

た友常勉によると、「貧民部落」が公式表現になるのは、内務省の 『明治23年虎列刺病流行記

事』からだという注22。いずれにせよ、貧民部落は衛生問題を担当する官僚の間で使われ始め

た。

類似の表現は貧民窟、磯寒窟、貧窟などであった。貧民窟という言葉が使われだすのは、西

田長寿によると明治20年以降であるという注23。「貧民部落」は、「貧民窟」 という表現に比べ

るといくぶん異化の程度は弱まるが、その示すものは同じである。いうまでもなく、貧民部落

は、階層的に箕しい人々が集住している地域をさし、被差別部落に限定することばではない。

しかし、貧民窟という言葉は、単に都市下層の人々の居住する-廓という意味以上のものが

込められた。魔窟という形容詞とともに使われ、自分たちとはかけ離れた存在として異化 し、

強烈な負のイメージが、真民窟には付与されたのである。それは当時の探訪記を読めばわかる

ように、記者自身が恐怖感をもって恐る恐る入って行った姿から読者にストレートに伝えられ

た。『神戸新聞』に 「変装、貧民窟探検記」を連載した白面子こと河野信治は、「こうした魔窟

注20 例えば、1986年版 『部落問題事典Jの 「部落の呼称」という項目では、「明治末期から大正中期にかけて 「特殊部

落」「細民部落」「後進部落」などの購称で呼ばれ、その略称として 「部落」と呼称されるようになったのは1920年頃

からである」としているだけで、「貧民部落」にはまったく触れられていない。また、項目として 「貧民部落」 はな

く、索引にも見あたらない。

注21 小島達雄 「被差別部落の歴史的呼称の問題」『ひょうご部落解放』γol.39、1990年6月注22 友常勉 「明治期の衛生政策と東京の被差別部落 (下)」r解放研究J第9号、1996年3月注23 「この語 (-貧民窟)も、明治20年前には、少なくとも一般的でなかった。勿論それまでの間、貧民窟がなかった

のではない。大阪名護町の貧民窟としての存在は徳川中期に発するとのことであるが、東京でも江戸時代の初期に既

にその端緒的な存在はあったと思われる」(西田長寿 帽β市下層社会人 1947年、2貢)

-44-

へ入り込んで裏面を暴露するのは非常な冒険であるいは殺されるかもしれない虞があった。そ

れを覚悟で悲壮な決心をして新川に飛込み新川通信を連載した」注24 と回顧 している. 自らの

記事の価値を高めるために、ことさらに危険なところであるかのように書き立てた自己演出の

きらいがあるが、こうした記者の姿勢はかなり一般的で、「貧天地磯寒窟探検記」 を書いた桜

田文吾も、名護町の木賃宿に宿泊することについて、「否な否な是れ等は所詮貴殿などの這人

らる 所ゝに非す、奴等所要ありて時に是等の家に到ることあるも立談の間さへその臭積に堪え

さる程なり」と助言された書いている。

そうであればこそ、読者はこれを好奇な目で受けとめ、貧民窟探検記が載っている新聞を買

い求めたのである。先の河野信治は、「変装、貧民窟探検記」によって 『神戸新聞』の販売部

数は一躍十数倍に上り、「社中感謝の的となり特別賞 3円を貰った」というように、販売促進

のメダマとなっていたのある注25。

このような貧民窟と被差別部落との間には、忌避や嫌悪の度合いに差があったのかなかった

のかについては、よくわからない。ただ、「貧天地磯寒窟探検記」で桜田文吾は、西演の部落

に足を伸ばしている。そこの描写は長 くはない。「他処には有らざる一種異様の臭気風に随ひ

紛々として寄せ来る、是れ其獣皮獣肉獣骨凡ての四足獣を取扱ふを職業とする為なるへし」と

書き、「牛の下」を食することに触れているだけにとどまり、とくに住居や生活水準について

の記載はない。また、名護町の木賃宿に泊まることを知人に相談 したところ、やめるよう注意

されるが、その時のやりとりを、「其臭積は西嶺に較へなば彼是執れか甚 Lと問へは、西溝よ

りも甚しからん、且つ両三日前にも其内の一軒よりは憶に虎列刺病患者を出したりと聞けり」

と記している。ここから推測すれば、臭いが部落を忌避する大きな原因となっていたようであ

る。

このように明治20年代からの貧民窟探訪記は、都市下層社会の存在を知らせるのに大きな役

割を果たした。その点では社会問題としてとらえる大きな下地を作ったが、同時に近寄りがた

い恐 しい場所としてのイメージを植えつけた。例えば、「貧民の巣窟なるがゆえ、常に不潔を

極めても人民頑愚執劫なる故」注26、「貧民窟は実に人生の惨劇を極めたる魔窟に相違無く候」注27

(「葺合新川貧民窟だより」『神戸新聞』1906(M.39)年 6月24日~8月24日) といったもの

になる。

3-2.貧民部落調

京都府は1902(M.35)年に調査を行うが、この時は 「貧民部落調」となっている。表題が

「旧穣多非人」から 「貧民部落」へと変化したことに注目したい。これは、単に気まぐれで変

わったものではない。この背景には認識の変化があったとみるべきだろう。

注24 神戸新聞社 『神戸新聞55年史J1953年

注25 神戸新聞社 『神戸新聞55年史』1953年

注26 『日出新聞』明治19年 5月20日

注27 「葺合新川貧民窟だより」r神戸新聞J1906(M.39)年 6月24日~8月24日

-45-

「貧民部落調」は、貧民の集住地域をリストアップしたもので、明らかに把握の対象は異な

る。例えば、愛宕郡では柳原圧、鹿ヶ谷が抜け落ている。京都の最大部落である柳原圧がはず

されたのは、どのような理由からだろうか。1886年調査時の膨大な雑業層が消滅したとは考え

られないから、この点は、大きな謎として残っている。その一方では、京都市およびその周辺

では、旧穣多非人系だけではなく、いわゆる都市下層の集住地区が加えられている。例えば、

愛宕郡の3地区がそれである。小林丈広はこの3地区の成立の経緯を詳しく報告 しているが、い

ずれも新しく建設された借家地区である注28。

では、何が貧民部落として把握されたのか。乙訓郡では 「動産不動産悉見皆積合算シ金額百

円未満ノモノ」をあげ、葛野郡では 「一日稼業ヲ休ムレバー日絶食 卜云ウガ如キニテ即チ (其

日稼)ノモノ業ニシテ何レモ借家等二集合体ヲ為シ居ル部分ヲ調査セシモノナリ」としている。

こうした一定の基準を用いている場合もあるが、農村部では機械的に旧蔵多非人系の集落を

あげた郡もある。その場合でも、すべてをあげていないから、貧民が多くない集落ははずされ

たのだろう。与謝郡、中郡は、「町村二依 り敷戸ノ貧民ナキニアラサルモ貧民部落 卜認定スベ

キモノナシ」としている。このように、1886年の 「臨時旧蔵多非人調書」の再調査がストレー

トに1902年の 「貧民部落調」になったのではなく、基本的には把握の対象が異なっていたとみ

るべきで、貧民の集住地域であるか否かという基準でフィルターがかけられた。

3-3.コレラと貧民部落

では、なぜ京都府が1902年の段階では、「貧民部落」を把握する必要を感 じたのであろうか。

この間を解 く鍵は、コレラの流行にある。コレラの大流行が、社会問題をとらえる枠組みを大

きく転換させたとみるべきであろう。従来は、都市下層の問題は、原始蓄積期にある日本資本

主義が生み出した問題としてとらえるのが通説であった注29。 しかし、 この視点だけでは貧民

部落という概念が生み出された理由を説明することはできない。すなわち、貧民部落という把

握がされるようになったのは、貧民の集住地域がコレラの発生源として標的にされ、その存在

そのものが災いの種であると見なされたからであって、単に、不況によって貧民が増大 したか

らという量的問題ではない注30.

ヲレラが流行したのは、明治に入ってからは1877(M・10)年を最初 とし、1879(M・12)

年の大流行で全国で16万3千人の死者を、1886(M.19)年の大流行では10万8千人の死者を、

1895(M.28)年の大流行では4万の死者を出した注31。京都市で清潔法が施行されたのは1886

(M.19)年である。

注28 小林丈広 「近代部落問題の成立 ・序説 一 都市貧民」r人権問題研究室紀要』第33号、1996年6月、関西大学

注29 例えば、吉田久一 r日本貧困史J1984年、第4章 「原始蓄積期の貧困」など

注30 小林丈広 「明治期、コレラの流行と被差別部落」『京都部落史研究所紀要J第7号、1987年3月、安保則夫 rミナ

ト頭コレラ・ペスト・スラムJ1989年注31 明治44年間のコレラによる総死亡数は37万余、これは日清 ・日露の大戦の死亡総数をはるかに上回った。コレラ以

外の法定伝染病による死者も含めると、実に116万5千人にも達した。立川昭二 r病気の社会史J1971年。安保則夫、

1989年、前掲書 25頁。

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1893年 (M.26)年の 『日出新聞』は、つぎのように報道 している。

「京都市内に於て、貧民の団結 して-部落を形づくり、自ら別天地を成せるもの其数実に少からず。

即ち所謂貧民部落にして、上京区に於ける松永町、白竹町、松屋町、下京区に於ける天部、一貫町、

大仏前、白糸町の如き是なり。凡そ是等の地は随犠狭溢を極はめ、古来常に乞巧 ・屠児 ・小倫 ・スリ・

悪漢 ・亡頬の徒、其他貧窮依るなき者の棲息する処にして、亦た実に伝染病の醜出するところとなす.

夫の明治十八年、明治十九年及び廿三年に於ける虎列刺病の大流行、若 くは本年に於ける天然痘の流

行の如き、是等の地、平素衣食住の不潔を極はむるを以て、病毒因て以て生々蕃殖 し、伝播蔓延の媒

介をなし、惨状を目撃したるは連年の実蹟に微して判然たるところなり。今や廿八年の盛挙あらんと

するに当たり、予め伝染病予防の一端として、貧民部落に大清潔法を施行し、以て病菌蕃殖の根を絶

たん事を計るは必要の事なり」(『日出新聞』1893年 (M.26)年7月11日)

記事は、これに続けて清潔法施行方案を5ヶ条を列挙している。翌1897(M.27)年 「下京

区役所は、清潔法執行に付き区内の貧民部落を調査中なりLが」と書いている注32。貧民調査

の目的は紛れもなくコレラ撲滅のためであった。コレラの猛威の前では、身分的関係はどうで

もよく、ただ 「病毒因て以て生々蕃殖 し、伝播蔓延の媒介」をする 「随穣狭溢を極はめ」る地

域が問題とされたのである。

新聞に掲載された貧民窟ものが、単なる読者の好奇心目当てのものであったとしても、行政

の調査は、明確な政策的意図をもっていた。コレラ予防のため大清潔法の実施、その対象地域

を確定するという観点から貧民部落調査がなされたのである。被差別者 ・貧民の救済のためと

いう目的は、1886年調査にも、1902年調査にもまったくないとみてよい。コレラ撲滅のためな

ら、家屋を焼き払ってもよかったii33.貧民部落の解体が目的であった.

行政機関の見る目は、二重のものであった。一方においては、純粋に衛生的観点から、不潔

箇所を取り出し、それを撤去ないしは消毒を徹底し、防疫体制を徹底 しようとした。その点に

おいては、旧身分がどのようなものであれ関係はなかった。差別の眼差 しを乗り越えたといっ

てよい。安保則夫は 「巡回医の監視機構の網目に覆われたところでは、そうしたむ●きだしの差

別的眼差 しは医学的眼差 しによって中和され、背後に退いている」注34と指摘する. コレラの

恐怖は身分差別を乗り越えた。より正確に表現すれば、旧身分による差別ではなく、貧民の集

住地域をまるごと忌避の対象とし、疫病 ・犯罪の巣窟として排除、絶滅すべきものと見ていた。

3-4.行政側の不徹底

このように、貧民部落が把握された。あらためて整理していうと、第-に階層関係からみて

注32 それを報道した r日出新聞」(1897(M.27)年2月24日)は、「同区の貧民部落と称するは、重に大仏前、寺蓑、

天部、蹴上、六波羅、安井前、一貫町、鞘町にして、町数百廿三町 (此坪数一万千二百九十八坪)戸数二千四百廿七

戸、人口八千百五十四人 (内男四千二十九人、女四千百二十五人)なりと云う」と書いている。これらの町名には被

差別部落以外のものが含まれている。注33 1879年、京都下京区の借家三十余戸が家主の承諾なしに焼却されている。小林丈広、1987年、前掲書。

注34 安保則夫、1989年、前掲書92頁。彼は、その前段では、差別的眼差しの問題があり、さらに次には、貧民部落の放

逐 ・解体への展開へと眼差しの変化を指摘 している。

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貧民が把握され、第二に集住している地域が把握され、第三に居住環境が劣悪である箇所が把

握された。基本的には、そこでには身分関係が介在する余地はない。行政のこの姿勢が徹底 し

ていれば、違 った展開になったかもしれない。「特殊部落」という概念は生まれなかったか も

しれない. しかし、そうはならなかった。その理由の第-は、行政側の不徹底さであり、第二

は貧民部落排除の政策であり、第三に新聞記者の報道姿勢があった。

小林丈広は、「京都府が "貧民部落調′′の対象としたのは、客観的な貧 しさで はなか っ

た」削 5 としているが、以上の述べたことから、私はまったく逆に、客観的な貧 しさであった

と考える。根拠とする新たな資料があるのではない。解釈における相違である。「貧民部落調」

の対象は、コレラ対策といいう調査目的から客観的な貧 しさであったと一旦押さえたうえで、

それが貫徹されなかったのは、行政側の不徹底さにあるとみる。

では、行政の不徹底さとは何か。貧民部落をとらえる指標が明確に指示されず、各区郡役所

の吏員の主観が入り込む余地があったことである。京都府の明治35年の 「貧民部落調」には、

「元犠多 卜称スル部落ニシテ」とか、「新平民ニシテ」、「元小屋者 卜称スル部落ニシテ」といっ

た余計な注記がつけられている。愛宕郡田中蓉原については 「元犠多 卜称スル部落ニシテ重二

履物直シ及 ビ人力車夫又小行商二従フ」や、鞍馬口全村については 「元小屋者 卜称スル部落ニ

シテ重二下等労働業及人力車夫又小行商等二従フ」などと記 している。何故に身分関係を注釈

として加えたのであろうか。

さらに、ライフスタイルについて記述 している。例えば、上京区については 「概シテ貯蓄心

二乏シク、梢モスレバ食二耽 り、組合想外ノ収金アルモ、千田降雨、皆飲食二費消シ、忽裏目

焦頑欄額ノ苦 ヲ忘 レ、又、他日ヲ慮ラザルモノ如シ」

天田郡については 「前掲貧民部落-皆 "新平民′′ ト唱フルモノニシテ職業ハ大同小異大抵ハ

労力、日傭稼、小作、土砂等ノ運搬、或ハ草履 ・草牲作 り、下駄 ・履直シ等ノ雑業 ヲ以テ収入

ヲ得、衣食ノ資二充テリ。而シテ彼等ノ随習 トシテ甚ダ勤勉儲蓄ノ心二乏シク、往々多額ノ労

銀ヲ獲ルコトアルモ、忽手過分ノ飲食二消費シ尽セリ」と、同じような表現が繰り返 しでてく

る。 これは、事実として問題箇所を指摘 したものとも読みとれるが、たぶんに担当者がステレ

オタイプ化した見方で安易に記述 したものであろう。そのような甘さのため、理論的には峻別

すべき 「旧蔵多 ・非人」の集落と 「貧民部落」とを、混同 してしまうという誤りを犯 した。つ

まり、旧来の差別観にとらわれていたために合理的 ・客観的な基準から離れ、「貧民部落」 と

いう呼称のもとに、被差別部落をそっくり放り込む郡役人がでてきたのである。

行政側の偏見に呼応するかのように、新聞記者連も予断でもってペンを走 らせた。小林丈広

が指摘するように、事実はコレラ患者は少ないにもかかわらず、旧穣多 ・非人系の部落がコレ

ラの伝染源であるかのように報道したのである注36。 しかし、実際は、柳原圧におけるコレラ

注35 小林丈広、1996年、前掲書、103貢注36 小林丈広、1987年、前掲書

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患者の発生は、他地域よりもむしろ少なっかたのである注37。

安保則夫が指摘 しているように、 これは神戸でも同様で、コレラ患者は糸木村で も少なかっ

たにもかからず、予断と偏見による報道は、不潔でコレラの温床になっているかのようなイメー

ジを振 りまいていった 注38.

3-5.貧民部落の解体、貧民の放逐

当時、コレラに対 しては、患者を避病院に隔離 し、患者を出した家にはそれとわかるように

印をっけ、患者宅の回 りの交通を遮断 し、消毒 し、冬になり自然に収束するのを待つ他はなかっ

た注39。 コレラが発生すると民衆はしばしばパニックに陥ちいり、貴民部落への疑惑を膨 らま

せる。恐怖をもってみたことは否定できない。当然のなりゆきは、そのような不衛生な貧民部

落を市外に放逐 しようとする策動である。

当時、貧民の居住形態は、裏長屋か木賃宿である。大阪の市区改正を論 じた原田敬一 は、

「借家の基本構造たる長屋の改造が問題化 したのは、 コレラ流行の最大のピークを迎えつつあっ

た1886(M.19)であった」と指摘 している注40。長屋 (裏屋)建築規制は、大阪府 (同年 5月

15日)、神奈川県 (同年 6月26日)、兵庫県 (同年 8月21日)、長崎県 (同年 9月26日) とつ ぎ

つぎと制定された。その内容は、 1戸三坪以上、廊5戸に-カ所以上、路地の幅員、下水溝の

設置、井戸の構造など規制 したもので、既存のもので条件を満たす ものはほとんどなく家主層

からの強い反発を巻き起こした注41。 さらに、同年 6月14日内務大臣山形有朋 は、宿屋取締規

則を府県に指示 し、兵庫県では12月22日に、大阪府では12月25日に公布 した。旅人宿、下宿屋

は25坪以上、木賃宿は10坪以上 とされ、木賃宿は大阪四区以内における営業を禁止 し注42、神

戸市では7地区のみに営業を限定 注43、京都市 も二カ所のみに限定された注44。

これ ら長屋、木賃宿の住民は、都市機能に必要な職務や安い労働力により産業を支えており、

都市か らの追放は得手勝手な話であったが、「悪漢等の巣窟を一掃すると土地の不潔を除かるゝ

故」注45 という理由づけで、貧民追放の政策が、都市おいて実行されていったのである。

3-6.都市スラムの再編

長屋 (裏屋)建築規制や宿屋取締規則によって市外に放逐された都市下層の人々は、被差別

民の住む地域に追いや られた。原田敬一は、旧渡辺村の北側の難波村久保吉を予定地 とした

1,876戸の 「貧戸」全面移転計画を紹介 し、「府当局は、かって被差別民と目されていた彼 らの

注37 r中外日報.a明治19年 5月28日、r日出新聞」明治19年8月31日、r日出新聞Jl明治23年 8月31日注38 安保則夫、1989年、前掲書

注39 安保則夫、1989年、前掲書

注40 原田敬一 「治安 ・衛生 ・貧民」『待兼山論叢』第19号、1985年注41 安保則夫、1989年、前掲書

注42 原田敬一、1985年、前掲書

注43 安保則夫、1989年、前掲書

注44 小林丈広、1996年 6月、前掲書

注45 『大阪日報』1886年 8月18日、原田敬一、1985年、前掲書

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隣りに 「真民窟」住民を押し込めようと考えていた」としている注46。 この計画は実現に至 ら

なかったが、名護町は結局解体され、その住民は天王寺村、今宮村、釜ケ崎などに移り住んだ。

神戸市においても、市内から追放された箕民は、周辺の新川、番町に流入 し、これらの部落は

爆発的人口拡大をみた注47。こうした都市スラムと被差別部落との関係を考える時に、我々が

しばしば陥りやすいのは、自然発生的に都市下層の人々が部落に住むようになり、スラムが発

達 したという見方である。これについては、安保則夫の批判は見逃せない。彼は、「賀川豊彦

らによって広く流布され、通説として定着する見解、すなわち <およそ日本の都市の "貧民

窟〟において "特殊部落′′ を核として形成されないものはない> という」見解を謬見とし、

兵庫県と神戸市が実施 した差別政策を隠蔽するものであるとして鋭 く批判 している注48。都市

スラムの形成と旧被差別身分の居住地との関係は、まだ十分には明らかにはされていない。重

要な問題であやが、ここでは深入りしない。だだ、長屋 (裏屋)建築規制や宿屋取締規則によっ

て市内から葺民を放逐 し、意図的に被差別部落周辺に木賃宿の営業許可地域をもうけるという

差別政策があったという指摘は重要である。

ともあれ、都市の貧民部落が移転 ・解体にともなって、「旧税多系」の集落には、貧民が流

入し拡大していった。だからこそ、京都柳原圧の有力者たちは、1893年柳原町家持同盟規則を

つくり、「本町の体面を汚すの行為あるもの」「悪漢無頼の徒」「一定の業務なきもの」などに

家を貸すことを禁止し、翌94年には 「無届の止宿人又は身元憶かならざるものは悉 く原籍地に

追返」すことを取り決めたのであろうit49.都市部落は、地方からの零落者を一方では受け入

れ、他方では排除した。その受容過程と排除過程の解明は、都市部落の形成にとって極めて重

要な課題である。

3-7.米額動と貧民部落

箕民部落という問題を登場させたのが、コレラの流行であり、その予防 ・撲滅が貧民部落対

策の根幹をなしており、貧者の救済 ・保護は眼中になかったとみてよいだろう。こうした衛生

問題とともに、松方デフ・レを契機として初期資本主義の矛盾が一気に吹きだし、治安問題とし

て顕在化したことも忘れてはならない。1890年 (明治23)、米の高騰により米騒動の動 きがあ

る。なかでも注目されるのは、この年7月京都、伏見の貧民が、伏見稲荷山に結集 して、郡区

長や知事に米価引き下げを要求 し、聞き入れないときは貧民 3万人が一挙に米商を襲撃するこ

とを決議している脚。この時は、貧民の組織化が行われ、大仏前、-貢町、六波羅など、1カ

町より10人ずつの委員を出して京伏貧民連合委員会が組織 したという新聞報道がみられる注51。

注46 原田敬一 「都市貧民論」「部落問題研究」87、1986年注47 安保剛夫、1989年、前掲書

注48 安保則夫、1989年、前掲書、270頁注49 京都部落史研究所 r京都の部落史」第2巻 近現代、1991年、75頁注50 京都部落史研究所、1991年、前掲書、69頁注51 「日出新聞」1890年 7月17日

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町名からすれば、京伏貧民連合委員会の組織化にあたっては、旧非人系がリーダーシップをとっ

ていたように思われるが、旧穣多系との連携はあったのか、なかったのか。旧身分関係は吹っ

飛ばすような階層的連帯組織が生まれていたとしたら、まさに革命的なもので、行政官僚を震

掘させるに余りあるものであったに違いない。

ところで、政府官僚が、都市下層問題にいっごろから注目するようになったのであろうか。

吉田久一は 「源蓄過程での大量の窮乏層の発生は、16、17年を頂点とする経済的沈静期によっ

てであり、それが更に23年の第一次資本主義的恐慌の洗礼をうけて、ようやく近代性を帯びて

くる」注52とのべ、「日本では封建的スラムから近代的スラムに分化する端著 (ママ)は20年代

初頭である」としている。 しかし、この段階では、貧困問題は官僚たちの取り組みべき課題と

はなっていない。横山源之助が 『日本の下層社会』を書いた頃は、「我が政府及び国会は細民

の消息に注意せず」、彼等を保護するどころか、税制で困窮の地に陥れていると批判 してい

る注53。

内務省官僚を中心に、「貧民研究会」が作られるのは明治33(1900)年である注54。 このころ

から、官僚たちも貧困問題に関心を向けていく。そのメンバーには、窪田静太郎をはじめとし、

のちに三重県知事となり全国に先駆けて部落改善事業をリードする有松英義 (内務省警保局)、

のちの社会局嘱託留岡幸助 (警察監獄学校教授)、大阪府の嘱託となり方面委員制度を作った

小河滋次郎注55、社会政策学会の桑田熊蔵、相田良雄、久米金弥などの顔ぶれみれれる。 この

貧民研究会は、のちに中央社会事業会に発展していった。

4.「特種部落」概念

4-1.「特種部落」概念の登場

階層的概念である 「貧民部落」が使われなくなり、「特種部落」という種姓の違いを強調 し

た概念が次に登場する。この転化は極めて重要な意味が含まれている0

「特種部落」の呼称については、小島達夫の詳細な研究がある。それによると、初出は、明

治32(1899)年の奈良県の 「就学児童出席奨励方法」に関する生駒郡長答申である (『奈良県

報J)520号)ii56.また、明治38(1905)年、知事は奈良県教育会に不就学対策などを諮問 して

いるが、その中に 「特種部落二於ケル生活ノ状態ノ改進 ヲ教育上 ヨリ図ルノ方法如何」 とあ

る注57。これも早い使用例である。この呼称が生まれる背景について、小島達夫は就学督励に

注51 「日出新聞J1890年7月17日注52 吉田久一 「明治維新における貧困の変質」「日本の救貧制度」(日本社会事業大学救貧制度研究会編、1960年)

注53 「日清戟争以来、機会工業の勃興によりて、労働者問題を惹起し、物価餓貴は貧民問題を喚起 し、漸次欧米の社会

問題に接近せんとす」横山源之助 『日本の下層社会」明治32年4月刊

注54 白石正明 「部落改善運動と明治政府の部落政策」r部落解放と教育の歴史」(大阪教育研究所、1973年3月)

注55 小河滋次郎については、玉井金五 r防音の創造」1992年、参照

注56 小島達雄 「被差別部落の歴史的呼称の問題」『ひょうご部落解放J)vol.39、1990年6月。藤野豊もこの説を踏姓 し

ている (rr特殊部落J)観克服の模索」r部落問題研究J)128号、1994年.)

注57 『奈良県教育界雑誌」88号、明治38年4月、r奈良の部落史」史料編 (1986年)に収録。

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対する異常な努力の展開を指摘 している軸.

奈良教育界で生まれた 「特種部落」という呼称が、全国化するのは、小島達夫によれば、

『市町村雑誌』141の 「共同浴場と納税組合」(M.38.8-15)や、『斯民』1-4の中川望談

話 「特種部落改善談」(M.39.7)などで、内務省の官僚たちが使い始めたことによるという。

初出はともかく、特種部落という概念とかかわって問題認識のあり方を浮かびあがらせてい

るものとしては、竹葉寅一郎たちによる三重県での 「部落改善」がある注59。r三重県特種部落

改善の梗概』(M.40.3)の本文中には 「特種部落」という言葉はほとんどみられず、「此種

族は」、「其部落は」、「彼等は」などの表現を使っており、まだ、十分定着した表現にはなって

いないことがわかる。なお、これらに対する言葉として、「普通人」、「普通人民」を用いてい

る。

また、同じ時期の三重県の部落の状況を詳しく報告した 「特殊部落の研究 一 飯南郡鈴止村」

では軸、「特種部落」という表現とともに、人をさしては 「特種民族」、「特種民」、「此種族」

と表現 している。これに対する言葉は、「普通民」、「普通児童」である。

このように特種 (特殊)- 普通という対比がされ 「特殊部落」 と残余カテゴリーとしての

「そうでないもの」との2項対立としてとらえる枠組みがつくられる。しかもこの2項対比は、

非対称的なものであり、「特種部落」でないものは、特性のないのっべらぼうな存在 として措

定され、それだからこそ 「特種部落」の特殊性を浮き彫りにする装置がつくられた。

4-2.「特種」、「種族」

「特種」と 「特殊」が使い分けがされていたのかについて、小島達雄は、まったくの同義語

といして区別なく使用されたとしているが、私も同意見であるii61.同じ筆者の文章の中で混

在していたり、『明治の光』の同じ号に混在していたりして、特段に意識 した使い分けがなさ

れていたようには思えない。ただ、私の見た範囲では、初期のころは、「特種」の方が多 く用

いられているようであり、使い始めた初期の段階では、種姓の違いが強く意識されていたとみ

てよい。

しかし、種姓の違いを意識したからといって、異民族とみていたということではない。種姓

は、血筋、家柄、身分など生まれの違いによるカテゴリーを意味し、人間の能力や性質は、生

まれにより大きく左右されるという観念が支配的な時代の概念である。また、種族という言葉

ですら、明治期においては 「農と工は、固より貧困の種族にして」とか、「書生という人間中

一番揮悪な種族であったそうだ」という用法が示すように、同一の性質や体質をもつグループ

注58 小島達雄、1990年6月、前掲論文、77貢。

注59 r部落解放教育資料集成J第-巻、1983年に収録。

注60 r伊勢新聞』(明治42年 2月16日から3月12日)に連載。筆者は如文生。鈴止村は現在松阪市。r部落解放研究J 第

2号、1974年に復刻掲載。なお、表題は復刻版では 「特殊部落」となっているが、原物を見ていないので、なんとも

言えないが、「特種部落」の可能性もある。

注61 小島達雄、1990年、74貢

-52-

を指すものであり、民族 ・人種という意味での用法はマイナーなものであった。

生得的属性が決定的な意味を持っという観念は、racism (人種差別主義) と思想的には同

根のものであろう。ただ、明治期の頃は、民族 ・人種の存在は庶民の日常生活においては意識

されなかったから、集団の差異を、生得的属性に求める考え方からすれば、血筋、家柄、身分

の違いで十分であったのではないか。そうした 「種姓」観念を背景に 「特種部落」という言葉

が生み出されたのである。

「特種部落」の 「特種」は、種姓の違いを強調する言葉であったとした上で、なおかつ異民

族との関連を強調 した三重県 『特種部落改善の梗概』は無視できない。その 「緒言」でわざわ

ざ 「祖先」という項を立て、「西北の部分は、神功応神帝の御芋、韓土より帰化 したる秦韓王

及漢王の臣にして」、「其の南部は日本武等の東夷征討の際浮虜となりたる者にして、即ち蝦夷

なり」と祖先を断定している。「種姓」の違いだけを強調するのであれば、論理的には異民族

起源でなくてもよい。身分や家柄、血筋の違いで十分である。それにもかかわらず、『特種部

落改善の梗概』では異民族起源を強調するものとなっていた。当時の歴史研究の水準の限界と

いえばそれまでだが、与えた影響は極めて大きい。

小林丈広氏は、「特種部落」概念成立の契機として、「日韓併合をはじめとする日本人の意識

に変化をあたえるような社会変化や、それにともなうジャーナリズムの変化などに関係がある」

と慎重な表現で、日本の植民地支配との関連を示唆 している注62。

しかし、小島達雄が発掘したように 「特種部落」の用例が明治32(1899)年に遡ることや、

以上に述べたようなことから、「特種部落」概念は、もともと異民族蔑視観 とは無関係である

とみてよい。 しかし、植民地支配体制への移行とともに、自民族優位の意識が浸潤 して、この

言葉を受容 していった人々の間に、異民族起源と関連づけるような意識が生れてきたことは否

定できない。

4-3.部落改善運動と 「特種部落」概念

「特種部落」概念は、部落改善の取り組みとセットとして用いられた。「特種部落」の特殊

性は種姓での特殊性と 「改善すべき」課題を背負ったという点での特殊性とをダブらせていた。

では、後者の特殊性は、どのように認識されたのか、三重県の竹葉寅一郎の部落改善を中心に

見ておこう注63。

彼の目から見た部落は、革屑の山、鞍の臭気、蚤、湯桶に垢が浮いた共同浴場、垢のこびり

ついた蒲団、臭気を放っ土間に入れた小便桶など、逃げ出したくなるようなものであった。そ

れだからこそ、酒の杯を受けるのも 「命がけでやって居る仕事だか ら、若 しも此郡民 (ママ)

の為めに悪疫に躍って倒れたらそれまでという考えで受けました」というような決死の覚悟が

注62 小林丈広、1996年、前掲書、105頁注63 什葉寅一郎は有松美義知事に招かれ、月手当50円で嘱託吏員として巡回視察を行う。竹葉寅一郎については、工藤

英一 『キリスト教と部落問題』(1983年、新教出版社)の中の 「竹葉寅一郎と三重県下の部落改善事業」に詳 しい。

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必要だった。悪疫というのは、コレラやペストであり、部落がその発生源だったという認識が、

彼の中に強く残っていたのだろう。そんなところに泊り込み寝食をともにしながら指導 したか

らこそ竹葉寅一郎の実践が世人に評価されたのであろう。

彼の認識は、上からの見下しである。「斯ういふ所を普通民に見られるか ら卑 しめられるの

だ」という彼の言葉に端的に表れているii64.彼の実践のポイントは、そのような批判を聞い

てもらえる信頼関係をいかにつくりあげるのかにあった。彼の手法は、クリスチャンとしての

信仰に裏打ちされたものであったが、その実態は義理と人情に訴え部落民の素朴な感情を利用

したものであり、あくまでも上からの善導であり、劣悪な生活状況を生み出すものに対 して同

志的に連帯 して闘うというものではなかった注65。

竹葉寅一郎の実践のスポークスマンとして、部落改善事業を全国的に普及する役割をになっ

た内務省嘱託の留岡幸助は、割れたコップと新しいコップの例えを出し、「同 じ値段で買ふて

呉れといった所で誰が買ふものがある。失礼ではあるが貴方がたの部落をみれば衛生状態が悪

し、教育の有様も悪 し、総てのことが劣って居る」といっているii66。部落が忌避 される理由

を、部落の側の 「風俗職業の野卑」なることに求め、忌避する側の態度は問わなかった注67。

こうした認識のしかたは、留岡幸助が三重県阿山郡の被差別部落を 「最悪の難村」とすると

ころに端的に表れている。「その性質凶悪にしてことの善悪を顧みず己の意志に背 く所あらば

直ちに党を結びて良民を襲撃し」、「生活状況は居常遊惰にして正業を営むことを好まず」、「其

の人口の三分の二は赤貧洗うが如く」、「被服と住宅とは甚だ不潔にして、見るだに嫌厭の情を

催す」、「無学にして迷信に満てる」、「訴訟の多きこと、賭博の行はるゝこと、風俗の悪 しきこ

と、相場に手を出すこと等であるが、更に加ふるに租税を納めないこと」などをあげ、「蛇嶋

の如 く嫌われる」存在としてとらえた。それだからこそ部落を教化の対象とし、「従来の悪弊

を矯正 し改善」せねばならない存在としてみた。

したがって、部落改善の成果として、就学率の向上 (38年65.84%、42年85.89%)、職業の

改善 (39年から42年にかけて、「農」八割増、「商」の五倍強、「工」二倍強、「下駄靴直し」十

分の五強減、「皮革細工」十分の八強減、「山稼」十分の八強減、「娼妓」十分の四減など)、受

刑者の激減 (「普通民受刑者」は増減がないが、「特殊民受刑者」は、38年の148人が、42年で

は28人に減少)をあげている。わずか3、4年での変化としては、にわかに信じがたいほどの

変化であるii68.

このような竹葉寅一郎の部落改善事業は、官制主導の代表的なものであった注69。三重県河

注64 「第2回我国の特殊救済事業、我邦に於ける特殊感化事業 留岡内務省嘱託」r留岡幸助著作集」第2巻、1979年に竹葉寅一郎の講演記録がある。

注65 r朝日新聞」1908年 1月26日。

注66 留岡幸助 「細民部落改善の概要」、r部落解放教育資料集成J)第1巻、1983年、明治図書に収録。

注67 『三重県特種部落改善の梗概』の緒言

注68 『朝日新聞J)1908年 1月26日および r伊勢新聞JI1910年3月11日、r近代部落史資料集成.b第4集、第5巻、1987年、三一書房に収録。

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芸郡一宮部落改善は、神戸警察署長の音頭取りで行っており、「家屋内外の掃除は駐在巡査を

して三日毎に検査せしむること」、「各自の希望する職業を警察署に申出て之れにより警察署は

出来得限り其希望を充たに尽力すること」など取り決めている注70。 竹葉寅一郎のパー トナー

は、警察であった。部落側の協力をとりつけるために取り締まる側の態度が変化したのかもし

れない。いずれにせよ犯罪統計上の変化は、警察がコントロール可能なものであった。

4-5.呼称 「特種部落」への反発

「特種部落」という表現には当初から反発があった。岡本弥は特殊部落について、「これら

の名称たるや、何れも其の部落は、普通の部落と状態が特に殊なりたることを標示する為め、

世人が案出したもので、畢寛一部の同胞を侮辱し、排斥したる名称である」 とし、「されば部

落を作った下手人は世人で、部落の特性を醸成したものは世人の偏見である」と明快な立場を

とっている軌。 しかるに、本のタイトルを 『特殊部落の解放』としたのは、奇妙 といわざる

を得ないが、部落の呼称については、本質的にこのような矛盾をかかえている。

「特種」という言葉には、「種姓」としての特殊性と 「改善すべき課題」を有するという特

殊性を同時に含んでいた。『土陽新聞』の無記名の論者はつぎのように述べる。

「固より特殊部落といえる字義は、唯だ一般の生活状態と異なれるを意味するに止まり、必ず しも

旧来称呼せし犠多部落を直指せりとは云うべからず。然れどもこれ単に字義上の解釈のみ。実際の意

味は一般生活と離れたる特殊の状態が、直ちに世人の脳裏に残存せる過去の慣習的観念と直結せしめ、

厭悪、軽侮の感情を喚び起すを免れず。是れ決して改良を企画する思想と併行すべきものにあらざる

なり」d:72

この論者は、「改善すべき課題」を有するという意味で 「特殊部落」を使 うべきだとして、

「宜しき生活の集団」として使うのならなぜ旧穣多のみに使うのかと問い、「由なき名称を製造

して、旧思想を挑発せんとするは、実に厭棄すべきの事なり」、「何ぞ愛に特殊と普通との城壁

を設 くべけんや」とし、「一般に貧しき生活の下に自由自立を矢へるもの」を広 く対象として

社会改良を行うべきだ主張した。 もし、この論者のいうような意味で 「特殊部落」を使うなら、

「貧民部落」とさして変わらぬものになった。

5.「細民部落」概念

官僚の作り出した用語 「特種部落」には強い反発があった。動揺 した内務省は、「特殊部落」

という表現を引っ込め、「細民部落」と表現するようになる。この変東は急なもので、大正元

注69 官制の部落改善運動と自主的な部落改善運動との性格の違いは、白石正明氏によって詳 しく分析されている。白石

正明、1973年、前掲書および白石正明 「天皇制国家成立期における被差別部落民の解放への思索」『部落解放ふ くお

かJ)第5号、1976年10月注70 r伊勢新聞J1911年 1月20日、r近代部落史資料集成Jl第5巻 (三一書房、1987年)収録.

注71 岡本弥は、『特殊部落の解放』1910年注72 『土陽新聞』1910(明治43)年 4月28日

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年11月7日の内務省主催の 「細民部落改善協議会」は、当初 「特殊部落改善協議会」という名

称であったものを変更 したため、マスコミには徹底せず、一部では 「特殊部落改善協議会開催」

と報道している。

変更の事情を中野三憲は、「内務省は種々苦心の結果特種の二字を付したる旨三重県竹棄民

より承知せし故大々的に不平を唱え其筋へ交渉方依頼せし所今回内務省も大いに悟 り細民部落

と称するに至れり」と述べている注73。

5-1.「細民」概念

「細民部落」は、階層概念への回帰であった。とするなら、なぜ 「貧民部落」という言葉に

しなかったのだろうか。「細民」と 「貧民」とは、どのように区別されたのだろうか。新渡戸

稲造は、乞食や貧民と区別して、「小さな職工だとか或は又中には五段百姓 も含んで居るだろ

うと思う、先づ僅な資産を有って、今日社会の所謂下層を作って居る者を細民といふ積もりで

ある、…….…所謂下層社会の人で、而も社会には最も数の多い者をいふのである」注74 と捉え

ている。

また、内務省地方局 『泰西の細民調査方法』(1912年)では 「細民即ち 、、プーア ・ピープ

ル′′ とは自己の所得に依りて辛 くも日々の生活を支えつつある人民の謂にして、彼のロウント

リーの所謂 『ポパテ一 ・ライン』の水平線上に浮辞する所の民衆を意味す」とし、その中には

「収入の若干部分を蓄積 し多少の余裕を有して生活しつ ゝある人民をも包含することあるを免

れず」としている注75。

要するに、「貧民」よりもう少し上のの階層も含んだ概念であり、貧しい人々を総称するも

ので、民衆の多数を占めるものであるから、一般民衆からかけ離れた存在ではない。そうした

点で、異質化の程度の強いことばになってしまった 「貧民部落」より、随分口当たりがよいも

のになっていたのだろう。

さらに、1911(明治44)年の内務省地方局による 「細民戸別調査」の定義によれば、「特殊

学校に児童を入学せしむる資格及び之に準ずべき者」とし、およそ次の各項に該当するものと

して、(1)所謂細民部落二居住スル者、(2)主 トシテ雑業又-車力其他下級労働二従事スル者、

(3)一ケ月家賃三円以内ノ家屋二居住スル者、(4)所帯主ノ職業ノ収入月額二十円以内ノ者、を

あげている注76。

このような定義に基づいて把握された細民は、1911(明治44)年の細民調査では、都市人口

の3.6%程度である。職業として主なものは 「人力車挽、荷車挽、 日雇及使歩き、建設工業、

注73 r明治の光』第 1号 (大正元年10月16日)

注74 新渡戸稲造 「細民移植策」社会政策学会 r生計費問題』大正2年注75 吉田久一 『日本貧困史』1984年、267貢注76 内務省地方局 r細民調査統計表J「細民戸別調査」明治45年.さらに大正10年の 「細民調査統計表」 として発表さ

れた 「生計費調査」では 「標準細民」は、上の定義に変更 ・追加が加えられており、家賃が5円以下に、収入が50円内外に変更されたほか、「一世帯の人員3人以上6人以下のもの」および 「家庭に不具廃疾者等がいるが如き特殊の

事情なきもの」という要件が追加されている。内務省地方局 『細民調査統計表」』大正11年

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金属工業、木竹細工などの職工及び物品販売商等」である。この調査は旧市街地の一定地域の

一部に限って対象としてものであるから、紬民は全人口の6%、ないしは10%程度存在 して い

たと推定される注77。 2回目の1912年 7月から翌年10月に実施された 「細民調査」では、大阪

は難波、日本橋、今宮、木津、西浜の5地区が選ばれている。これらのうち、一部は被差別部

落であるが、大部分はそうではない。

上記の定義の(1)で、アプリオリに 「所謂細民部落二居住スル者」となっているのが気になる。

なにが 「細民部落」とされたのか。先の 「貧民部落」が表現を変えて出てきているのか、その

あたりの事情は、まだよくわからない。また、「細民部落」と 「細民地区」 との使い分けが行

われていた可能性も考えられるが、上記の調査結果を報告 している 『都市改良参考資料』注78

では、すべてを 「細民部落」と表現 しているから、とくに使い分けがなされていたようには思

われない。

5-2.呼称 「細民部落」についての受けとめ方

被差別部落を 「細民部落」と呼ぶことについては、どのように受けとめられたのであろうか。

一般的な階層概念であるために、先の 『土陽新聞.Dの論者の立場からすれば好ましいものであっ

た。中野三憲も概ね賛成の意志表示をしている。 しかし、部落の富裕者層からすれば、部落が

すべて貧乏人ばかりである印象を与えるために諸手を挙げて賛成できるものではなかった注79。

例えば、第41議会の部落改善に関する建議案委員会で福井三郎委員長の質問に答えて、政府側

委員は、「特殊部落」 という名称に反発があったことを述べたあと、次のようにのべてい

るii80.

「今度は細民部落という名前に変えたのであります。又此部落にも相当の金持ちも居 りますので、

吾々を細民扱いにするのは不都合であるというのであります。実は今日まで細民部落といって居 りま

すが、是は何か代名詞を考えなけらばならぬと思っております。彼等に同情する意味で実は色々なこ

とをやって居るのでありますが、近来此細民部落に対する観念も甚だ彼等が不満足である、内務省に

まいって、どうか此細民部落という名称をやめてもらいたいという希望を申し出るのであります。是

はもっともであります」

それ以上に 「細民部落」という呼称が問題なのは、差別問題として認識があり、差別の解消

を課題とする以上、一般階層概念で把握することには無理があった。上の議会審議の契機となっ

た第41議会に京都の明石民蔵他9名から出された部落改善の請願では、「官公文書、身元調査

書等に特種部落又はその他の忌むべき文字を記載せしめざること」、「軍隊内に於ける区別的待

遇を廃止すること」、「教育上に於ける区別的待遇を廃止すること」などがあげられている注81。

注77 中川清 『日本の都市下層』1985年注78 内務省地方局編纂、大正4年3月発行

注79 『明治の光』第 1号 (大正元年10月16日)

注80 第41議会 〔1918(大正7)年12月27日から翌3月26日〕の部落改善に関する建議案委員会については、渡辺徹

(rr同和対策審議会答申J)の中の史実誤認」『部落解放研究J)第2号、1974年)が、資料を紹介している.

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まさに、ここでは差別が問題となって'おり、その差別の撤廃が目的とするために 「部落改善団

体を組織すること」、「部落改善費として最低限度年額一百万円以上を支出すること」を請願 し

ているのであるから、単に貧困問題とするのは問題の隠蔽に他ならなかった。細民調査は、救

箕政策の立案のためになされたものであるが、それに加えて差別問題を抱えている地域の呼称

とするには 「細民部落」は適切ではなかった。差別問題を階層問題に還元できない以上、「細

民部落」という呼称は定着できなかった。

上記の請願でも、端的に現れているように 「区別的待遇」をするための呼称として 「特種部

落」の撤廃を要求しつつ、同時に差別撤廃のための 「部落改善団体」や 「部落改善費」の必要

性を訴えたのである。ここに差別問題の解決ために、被差別集団の存在を示す呼称が、他方で

差別のために用いられるというジレンマがある。このジレンマは、この時期から明確に認識さ

れるようになったとみてよい。どのように表現するのか、適切な名称がみつからないまま、

「特殊部落」という呼称が一部では反発を買いっつも使われ続けた。しかし、全国水平社が価

値観の転換を計るために、意図的に逆手にとって使用したこともあって、意外にこの呼称の生

命力は長かった注82。

6.「地域」概念としての連続性

呼称問題の背景は、「階級」か 「身分」かという問題が絡んでいる。それと同時に 「地域」

という集合体という要素が、対象把握の大前提とされた。それは 「貧民部落」という用語がっ

かわれて以来、今日まで続いている。「特殊部落」、「細民部落」、あるいは 「被圧迫部落」、戟

後における 「未解放部落」、そして 「被差別部落」と接頭語が何であれ、「部落」という言葉が

付けられてきた。

部落は、日本の農村における集落をいい、基本的単位としての地域的生活共同体を指す言葉

である。もともとは 「村」と呼ばれていたが、市町村制によっていくつかの集落を人為的に統

合してつくられた行政組繊体の 「村」と区別して 「部落」という言葉でよばれた。生産と生活

をともにする共同体的結合を基礎とした地縁団体であり、水利を共同で管理 し、共有財産を所

有し、精神的統合のシンボルである氏神神社をもっていた。部落は、農村の社会的統一体とし

ての基本的単位である。部落は、いくつかの組によって構成されている。組は、日常的に対面

的接触ができる規模であり、10戸から30戸ぐらいを単位とするが、生産と生活の共同の場とし

注81 「部落改善に関する請願」r社会改造公道』第5号、1919(大正8)年。請願理由のところでは 「部落出身者」とい

う表現げでてくる。これは、かなり早い時期のもので注目される。また、大正10年、第44帝国議会への広島市の筒井

鉄蔵らによる請願 「特殊部落または部落なる称号廃止の件」も同様の趣旨のものである。また大和同志会も、第 1回大会で 「官公衛の公文章および新聞に特種部落の名称を記載されぬよう申請すること」を可決 している (r明治の光』第 1号、大正元年10月16日)

注82 中西郷市は 「"侮辱の意を寓さない′′という消極的な気持ちからしては使って欲しくない」といい、けれども 「従

来の差別的慣用語は、言葉自体が吾々の人格を蘇生 (奪還)さすべき横棒的意味の内容を持っ場合に於て当然に使う

べきである」と言い切っている。中西郷市 「差別的慣用の可否について - 森田草平氏に答ふ-」『同愛』第30号、1926年

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ては自立 しえない。

このように農村を強く意識 した同語である 「部落」を、都市の地域を指す言葉として用いる

のは適切ではなかった。ところが、なぜか都市においても 「部落」と表現されてきた。すでに

みたように明治30年代に 「貧民部落」、明治末の東京、大阪を対象とした紬民調査でも 「細民

部落」と表現されている。なぜだろうか。他と違う存在だとして異化する意識が強く働いて、

都市にあっても 「部落」という表現されたのであろうか。あるいは、「進んだ都市」 と 「遅れ

た農村」という対比が意識されて、後進性を暗にほのめかすために、「部落」 と表現されたの

であろうか。

被差別部落では、今日でもかなり年輩の人は、自分たちの住んでいる所を、「ムラ」といい、

隣りの地域のことを 「マチ」という。確かに、被差別部落は、農村にあっても農村ではない、

都市にあっても都市ではない存在であった。つまり、農村部落といえども農業によって生活す

るものは少なく、雑業、日雇い仕事により生活してきた。都市部落でも、都市としての特徴で

ある個人主義、匿名性、流動性などはみられず、生産や生活の共同性を強く持ち、婚姻関係、

親族関係のつながりがあり、ほとんどが顔見知りで、相互扶助のネットワークが発達している。

そうした点での農村的性格が強く意識されたためであろうか注83。 さし当たり、以上に挙げた

3つの理由が思いっくが、これについてはさらに検討が必要であろう0

7.おわりに

以上みてきたように、明治の初期は、直接的に旧身分をさす呼称が用いられた。自由民権運

動の洗礼を受けた良質の知識人は、差別の存続を旧弊にとらわれる民衆の意識にもとめた。大

衆ジャーナリズムは、「新平民」という言葉を用いて、雑事を好奇の目でとらえ、 あるいは噸

芙し、民衆のささやかな優越感をくすぐった。他方で、下層階層を地域単位で掌握する概念と

して 「貧民部落」が使われるようになった。これは、衛生問題の文脈で使用され、コレラの発

生源とみなされたため、放逐 ・解体がその解決策であり、そこに住む住民の福祉や生活の向上

が課題とされることは一切なかった。部落改善が行政課題とされるようになって 「特種部落」

概念が登場した。改善すべき課題は、明治30年代では低い就学率の向上であり、明治40年代に

なって、滞税問題が課題とされる。その他、上から見おろす眼差しは、さまざまな 「悪弊」を

あげっらっていった。「蛇嶋のごとく嫌われる」のはそのためとされ、差別は免罪 されること

になった。

「特種」という言葉には、「種姓」としての特殊性と 「改善すべき課題」を有するという特

殊性を同時に含んでいた。後者の強調は、差別は免罪に使われる危険性があると同時に、課題

の摘出という積極的側面を有 していた。前者の 「種姓」としての特殊性の強調は、さまざまな

注83 今日では、「あったかい人間関係をもった街」としての積極的イメージとして 「ムラ」と呼ぶ動 きもある。 ビデ オ

『あさか ・すとり-』浅香地区総合計画実行委員会制作、1996年

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「悪弊」をそこに求めるracism的発想につながる危険性とともに、単なる貧困問題ではなく、

差別問題であることを確認させる積極的側面を有 していた。

「特種部落」という認識は、解決すべき問題に焦点を絞ることになったが、「特種部落」の

固有の問題として孤立させられ、他の階層的地位を同じくする人々の問題とは切り放された。

「細民部落」という概念は、当時の都市下層問題を社会問題としてとらえる視点の誕生 ととも

にあらわれるが、他方、差別問題としての側面を強調する人々は、階層的な概念である 「貧民

部落」や 「細民部落」をしりぞけた。このようなジレンマの中で、呼称問題は立ち往生する。

考えてみれば、選択肢は多数あった。「部落」という表現でなく別の呼称が採用されることも

ありえた。「一部同胞」あるいは 「少数同胞」という言葉 も使う人もいた注84。 しかし、定着 し

なかった。なぜだろう。

既にみたように、水平社運動側では、差別的ニュアンスをもつ 「特殊部落」という言葉を逆

手にとって、あえて 「特殊部落民」と自らを呼んだ。引き裂かれたアイデンティティーの奪還

として積極的意味を込め、格印を投げ返 し、荊冠を祝福にかえるために 「特殊部落民」という

言葉を使った注85。こうした点からすれば、「一部同胞」や 「少数同胞」という言い方は、融和

主義的で相手に娠びるようなニュアンスを感 じとり採用するところとならなかったのだろ

うi186。

「部落」は、「特殊部落」、「細民部落」、「後進部落」、「同情部落」、「一部同胞部落」などの

省略形であるが、省略形が多用されたのは簡略にするためでもあるが、フルネームがどれなの

かを特定しなくてもよいという点では便利なものであった。

いづれにせよ 「部落」という呼称自体、「地域」の問題として対象を把握する。本来身分差

別であるにもかかわらず、「部落差別」という表現は、身分問題 注87を地域にすり替えたもの

である。これは分析者の問題というよりは、差別の実態の反映であり、三位一体的差別の時は●

違和感がなかった.「部落」に居住する七 とによって差別を受けたから、この表現には不自然

さはなかった。 しかし、三位一体的差別が分解しつつある今日、対象をどのようにとらえれば

よいのだろうか。分析者の側は、身分と地域のすり替に自覚的であるべきだ。「部落」からの

転出者、その2世や3世が受ける差別を、「部落差別」というのは不自然である。地域的概念

をはずしてとらえるとしたら、どのように表現したらよいのだろうか。これは問題の把握のし

かたそのものにかかわる問題である。どの要素をとりだすのかによって、また別の 「社会問題」

の提示がされるかもしれない。 しかし、それはまだ顕在化 していない0

注84 井上貞蔵 r貧民窟と少数同胞』大正 2年、巌松堂

注85 この使い方は、解放運動の主体たらんとするもののみができる。行政機関や官僚、僧侶、校長など部落改善への協

力者にはできない。そのため、行政側は、「特殊部落」という呼称に抗議がでると 「細民部落」にかえ、「細民部落」

の呼称に異議がとなえられるとまた別の呼称を探した。結局は、事業名で呼ぶという方法を取った。

注86 第三者的立場の人は、「所謂部落は、-」とやや距離をおき表現 した。当事者の場合は、「吾々の部落は、-」と表

現 した。一人称として使う場合は、紛れがない。

注87 身分差別と表現するのにも違和感をもつが、ここでは系譜的 ・血縁的連続性をめぐる事実あるいは幻想に基づく差

別を意味するものとして使っておく。

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