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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について 109 1 2 3 4 5

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

109

   

藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

古橋

紀宏

   

一 

はじめに

 

經學の中で、特に禮學は、文物・制度や儀式作法に關する内容を中心とし、文章のみによっては意味を傳達・

理解することが難しい分野である。そのため、古くから圖を用いて説明することが行われ、歷代の目録には多く

の禮圖の名が見られる。

初期の禮圖として、『隋書』經籍志には、後漢末の鄭玄・阮諶らの撰になる『三禮圖』が掲載されている(1)。

後漢末には、鄭玄によって三禮が體系的に解釋されるようになるが(2)、それと同時期に、三禮全體にわたる禮圖

が早くも著されるようになったことがわかり、禮學における禮圖の必要性の高さを示している(3)。

 しかし、鄭玄・阮諶らの『三禮圖』は今日では既に散佚し、現存する禮圖の中で、最も古いものは、時代の下った

北宋の聶崇義の『三禮圖』(『新定三禮圖』)である。これは、鄭玄・阮諶らの『三禮圖』など、六家の禮圖をもとに

したものであるが(4)、その影響のためか、それ以前の禮圖はすべて散佚してしまっている(5)。

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それらの散佚した禮圖については、これまで輯佚が行われてきたが、今日までに輯佚されたものは文章だけで

あり、圖は含まれていない(6)。そのため、それらの圖が實際にどのような姿をしていたかについては、明らか

になっていない點が多い。

 

一方、日本においては、『日本國見在書目録』に、鄭玄・阮諶らの禮圖のほか(7)、いくつかの禮圖が見えるが、

これらも今日には傳えられていない。しかし、久安四年(一一四八)に信西入道藤原通憲が上申した勘文とされ

る文書(「王宮正堂正寢勘文」(8))には、『周室王城明堂宗廟圖』という禮圖が引用されている。それと同名の禮

圖は『隋書』經籍志に見えることから(9)、この圖は、今日失われた禮圖を寫したものである可能性が考えられる。

そこで、本稿においては、「王宮正堂正寢勘文」とそこに引用されている禮圖について考察を加え、その圖の經

學的な意義を明らかにしたい。

   

二 

藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」

 

藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」は、『異朝明堂指圖記』の題で京都府八幡市の石清水八幡宮の別當家である田

中家に傳來し(10)、現在も石清水八幡宮に所藏されている文書で(11)、他の主要な石清水八幡宮文書とともに重要

文化財に指定されている(12)。

この『異朝明堂指圖記』と題される文書は、冒頭に「正堂正寢事」と記され、末尾には「右依仰勘申如件 

安四年閏六月廿一日 

沙弥信西」と記されており(13)、出家して圓空、後に信西と號した藤原通憲が、久安四年

閏六月二十一日に意見を具申した勘文の形式をとる文書である。但し、これは自筆原本ではなく、寫しであると

考えられる(14)。

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

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また、財團法人水府明德會には、『異朝明堂指圖説』と題する寫本一册が所藏されており(15)、その内容は、石

清水八幡宮所藏『異朝明堂指圖記』とほぼ同じである。從って、これは、藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」の別本

と位置づけられる。そして、その奥書には「異朝明堂圖説一冊、以八幡社僧田中法印所藏少納言入道藤信西眞蹟

寫焉 

延寶庚申歳菊月日」と記されている。この奥書の中の「八幡社」は石清水八幡宮と、「田中法印」は石清

水八幡宮別當家である田中家と合致する。また、石清水八幡宮藏本の表題には「信西筆」と記され(16)、信西の

眞蹟とされていることから、水府明德會藏本の奥書に記される「少納言入道藤信西眞蹟」とは、現存の石清水八

幡宮藏本を指すと考えられる。これらのことから、水府明德會藏本は、江戸時代前期の延寶八年庚申(一六八〇)

九月に現存の石清水八幡宮藏本を寫したものと考えられる。

 

この「王宮正堂正寢勘文」には、多くの文獻が引用され、『周禮』・『禮記』やその注疏などとともに、『三禮圖』

が二圖、さらに『周室王城明堂宗廟圖』・『周室王城宗(17)廟明堂宮室圖』という禮圖が一圖ずつ引用されている。

本稿では、これらの禮圖の經學的な意味について考察を加えたいが、この勘文は、自筆原本ではないと考えられ

ることから、それらの禮圖について考察する前に、勘文の内容を分析し、その史料的價値について檢證すること

が必要である。

 

この勘文については、『史料稿本』(18)・『史料綜覽』(19)において史料として取り上げられているほか、岩橋小彌

太「少納言入道信西」(20)・太田静六『寢殿造の研究』(21)において言及され、文人研究会編『藤原通憲資料集』(22)

において「藤原通憲關係作品」の一つとして解説が加えられている(23)。そして、岩橋氏・太田氏・『藤原通憲資料集』

はいずれもこの勘文を藤原通憲自身の著作として認めている。

 

しかし、これまでの研究では、この勘文の結論についての考察が中心であり、そこで説かれている論旨につい

てはほとんど檢證されていない。特に、この勘文は、原題が『異朝明堂指圖記』と言われているように、明堂の

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圖が載せられているほか、明堂に關する記述が多く見られるが、この勘文において明堂がどのような意味を持っ

ているかについては、これまでの研究においては十分に明らかにされていない。

そこで、勘文の史料的價値を檢證するため、明堂の持つ意味を含め、勘文の論旨を解明することが必要である。

本稿では、以下の三において、勘文の背景となる史實を整理し、續いて四において、勘文で主張されている論旨

を分析してその史料的價値を檢證し、その後、五において、勘文に引用されている禮圖について經學的な觀點か

ら考察を加えたい。

   

三 「王宮正堂正寢勘文」の背景

 「王宮正堂正寢勘文」の背景となっているのは、土御門内裏の再建に關する議論である。

 

近衞天皇の久安四年六月二十六日、里内裏として本内裏に代わる機能を果たしていた土御門内裏が燒亡した(24)。

このことを受け、翌々日の二十八日、殿上において臨時の公卿會議が開かれ、土御門内裏の再建が議定された(25)。

ところが、久安四年の干支は戊辰で、陰陽道では地梁の年とされ、正堂と正寢の造營は忌むべきであるとさ

れた。このことは權天文博士安倍晴道が『群忌隆集』と『新撰陰陽書』に基づいて奏上し、そのために、同年

閏六月九日、紀傳・明經・陰陽などの諸道に宣旨が下され、このことについての意見具申が命ぜられた(26)。

同年閏六月十五日には、再び殿上において公卿會議が開かれ、地梁の年に造宮を行ってもよいか、また、忌む

べき正堂と正寢とは具體的に何を指すか、という二點が議論された(27)。

 

そして、『本朝世紀』同年閏六月十八日條には、

是日、藏人木工頭平範家、依攝政仰、以書状問人々云、當梁年造宮之例、并以土御門内裏可爲正堂哉如何。

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

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文章博士永範朝臣・同茂明朝臣・助教清原眞人定安・入道少納言藤原朝臣通憲等、依仰勘申子細。

(この日、藏人・木工頭平範家が、攝政の仰せにより、書状を送って人々に當梁年における造宮の例、及び

土御門内裏を正堂とすべきかどうかを尋ねた。文章博士永範朝臣・同茂明朝臣・助教清原眞人定安・入道少

納言藤原朝臣通憲らが、その仰せによって子細を勘申した。)

とあり、閏六月十八日には攝政藤原忠通の命により平範家がこの問題について諸人に尋ね、藤原通憲らがその命

に應じて詳細を勘申したと記されている。

 

ここで、本稿で取り上げる「王宮正堂正寢勘文」の末尾を見ると、そこには、「右依仰勘申如件 

久安四年閏

六月廿一日 

沙弥信西」と記されている。これを『本朝世紀』の「藏人木工頭平範家、依攝政仰、以書状問人々」

及び「入道少納言藤原朝臣通憲等、依仰勘申子細」と對照すると、勘文中の「仰」とは「攝政仰」に當たり、こ

の勘文は、久安四年閏六月十八日の攝政藤原忠通の命により、藤原通憲が二十一日に勘申したものと考えること

ができ、歷史的な背景と符合する(28)。そこで、當時の議論とこの勘文の關係について、さらに内容面から檢證

してみたい。

   

四 

藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」の論旨

(1)久安四年の議論における「王宮正堂正寢勘文」の位置づけ

 

久安四年の正堂・正寢に關する議論において主張された意見は、この勘文以外にもいくつか殘されているが、

その中で主要な説は以下の二説である(29)。

 

一つは、正堂を大極殿(大内裏朝堂院の正殿)とし、正寢を小安殿(大極殿の北側に隣接する後殿)とする説

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である。このような解釋は、明經道中原師安の勘申のとる説である(30)。

 

もう一つの説は、同じく正堂を大極殿とするが、正寢を紫宸殿(内裏の正殿)とする説である。この説は、『中

外抄』久安四年七月一日條に記された、中原師安の弟、師元の發言中に見える(31)。

 

但し、以上二つのいずれの説においても、當時の議論の原因となった土御門内裏がどのように位置づけられる

かについては、明らかではない(32)。

 

ここで、「王宮正堂正寢勘文」の結論を見てみると、それは、これまでの研究において指摘されているように、

大極殿を正堂、紫宸殿を正寢とするものである。これは、前述の二つの説のうちの後者の立場と同じである。

しかし、「王宮正堂正寢勘文」では、さらに離宮においても正寢があり得るとし、土御門内裏の南殿がそれに

當たると結論づけている。これは、前述の二つの説よりも、当時の議論の原因となった土御門内裏についての見

解が明確に表されており、背景となる史實と合致するものである。

それでは、この結論は、どのような論理によって導かれているのだろうか。續いて、この勘文の構成と論旨を

考察してみたい。

(2)「王宮正堂正寢勘文」の構成

 「王宮正堂正寢勘文」は前半と後半の二つの部分から構成されている。

 

前半部分は、今日ではその題が缺けているが、勘文冒頭の「正堂正寢事」という表題、及び、後半部分の「正寢事」

という題との對比から、「正堂事」と題されていたと推測される(33)。

その前半部分では、大極殿が正堂であることが論じられるが、その結論を導くために重要な役割を果たしてい

るのが、明堂である。即ち、この部分では、初めに「正堂=明堂」が説かれ、續いて「明堂=大極殿」が説かれ、

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

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その結論として「正堂=大極殿」が導かれている。

 

一方、後半部分は「正寢事」と題され、紫宸殿が正寢であることが論じられる。そして、土御門内裏の南殿も

正寢であり、また、正寢の意味でも正堂の語を使うことがあるため、土御門内裏南殿は正堂正寢と言うことがで

きると結論づける。

 

以上の前半部分・後半部分それぞれの構成は同じであり、初めに根據となる諸文獻が引用され、その後、それ

らの文獻に基づいて、「今據件等文」で始まる著者の意見が述べられる(34)。後に考察を加える禮圖は、著者の意

見を述べる前に掲載されており、意見の根據として引用されたものであることがわかる。

 

以上が本勘文の構成であるが、次に、その中で論じられている論旨について分析していきたい。

(3)「王宮正堂正寢勘文」の論旨

 

この勘文の論旨は、前述のように、前半部分においては、①「正堂=明堂」、②「明堂=大極殿」、③「正堂=大極殿」

が説かれ、後半部分においては、④「正寢=紫宸殿」が説かれる。そこで、以上の順に從って論旨を考察してい

きたい。

①正堂と明堂

 

この勘文の前半部分では、『周禮』とその注疏、及び『禮記正義』に見える正堂・明堂に關する記述と、明堂

の圖が引用された後、まず初めに「正堂=明堂」が説かれる。

今據件等文、正堂之文、其義非一歟。一者宗廟有正堂。所謂鄭玄周禮注「門堂取數正堂」、是也。一者以王

正室寢即稱正堂。見于同注并賈公彦疏禮記正義等ノ(35)者。以明堂爲正堂、是又出自蔡邕明堂章句。件書、明

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堂太廟大學名異實同之義、表

(ママ)凖

以爲不然。以明堂爲正堂之文、足取凖的。明堂者天子布政之宮、尤可爲正堂

故也。

(今これらの文によれば、正堂という語は、その意味は一つとは限らないのではないでしょうか。その一つ

〔の意味〕は、宗廟に正堂があります。鄭玄の『周禮』〔考工記・匠人の〕注に「門堂はその寸法を正堂に基

づいて算出する」と言っているのは、この意味です。もう一つ〔の意味〕は王の正寢を即ち正堂と言います。

同〔鄭玄〕注及び賈公彦疏・『禮記正義』などのものに見えます。〔さらに、もう一つの意味として、〕明堂

を正堂とするのは、これもまた蔡邕『明堂章句』から出ています。この書〔『明堂章句』〕で、明堂・太廟・

大學が名は異なるが實體は同じであるとすることについては、袁準〔『正論』〕はそうではないとしています。

〔しかし、〕明堂を正堂とする文は、據り所とするのに十分なものです。明堂は天子布政の宮であり、まこと

に正堂とすることができるものだからです。)

 

ここでは、「正堂」の意味は一つに限らないとした上で、(ⅰ)宗廟の正堂(36)、(ⅱ)王の正寢(37)、(ⅲ)明堂(38)、

の三つの意味を擧げる。そして、その中で、(ⅲ)の「天子布政の宮」である明堂こそが、正堂とすべきものであ

るとする。以下、この(ⅲ)の意味に基づいて論が進められる。但し、後半の「正寢事」との關係で(ⅱ)の意

味も後に付随的に採用されるが、これについては後述したい。

②明堂と大極殿

 

續いて、「明堂=大極殿」が説かれる。その根據としては、以下の四點が論じられる。

a 

明堂宗祀と大極殿前の神祇祭祀

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

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最初の根據として擧げられているのが、中國における明堂の宗祀と、日本における大極殿前の神祇祭祀との對

比である。

我朝以大極殿可准明堂歟。故如何者、謹案、孝經曰、宗祀文王於明堂以配上帝云々。累代踐祚之始、如於大

極殿前構齋殿、被祀神祇、是宗祀之義也。

(我が朝では大極殿を明堂に擬えることができるのではないでしょうか。その理由はなぜかと申しますと、

謹んで考えますに、『孝經』〔聖治章〕に「文王を明堂に宗祀して上帝に配する」云々とあります。〔我が朝

において、〕歷代踐祚の始めに、大極殿の前に齋殿を建て、神祇を祭られるというのは、宗祀のことです。)

 

ここでは、日本の大極殿前で歷代踐祚の際に行われる神祇の祭祀が、『孝經』聖治章に記載される明堂の宗祀

に相當すると説かれる。

 

それでは、この「累代踐祚之始、如於大極殿前構齋殿、被祀神祇」とは、具體的にどのような祭祀を意味する

のであろうか。ここでは大極殿の前に齋殿を建てることが記されているので、このことを手がかりとして考えて

みたい。

 

平安時代以後、踐祚と即位とが區別されるようになったため、皇位繼承の儀禮としては、踐祚の儀、即位の禮、

踐祚大嘗祭の三種の儀禮が行われた(39)。この中で、踐祚の儀と即位の禮においては、大極殿前において齋殿を

建てる事例は見られない。一方、踐祚大嘗祭においては、大極殿の前に大嘗宮が建てられる。この大嘗宮につい

ては、『儀式』卷三「踐祚大嘗祭儀」中に「先祭七日、鎭大嘗宮齋殿地(大嘗祭の七日前、大嘗宮齋殿の地を鎭める)」

とあり、「大嘗宮齋殿」という記述が見られることから、勘文に述べられている「齋殿」とは、「大嘗宮齋殿」の

ことと考えることができる。

 

また、皇位繼承に伴う神祇祭祀については、養老神祇令即位條に「凡天皇即位、惣祭天神地祇(すべて天皇が

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即位される時には、天神地祇を總祭せよ)」と見えるが、同條の『義解』は「謂即位之後、仲冬乃祭(即位の後、

仲冬になってから祭ることを言う)」と言い、その神祇總祭を即位後の十一月に行われる祭祀、即ち踐祚大嘗祭

のことであると解釋する(40)。

 

從って、「王宮正堂正寢勘文」において述べられる「累代踐祚之始、如於大極殿前構齋殿、被祀神祇」とは、

踐祚大嘗祭のことを指すと考えられる。

b 

五室十二堂

 

また、「明堂=大極殿」を導く第二の根據として、構造上の理由が擧げられている。

又案、周禮疏、明堂有五室十二堂。今大極殿既以有之、尤可准據。

(また考えますに、『周禮』の〔賈公彦〕疏では、明堂に五室・十二堂があります。今の大極殿にもこれらが

ありますので、まことに準據することができます。)

 

ここでは、『周禮』の賈公彦らの疏が、鄭玄説に基づき、明堂に五室十二堂があると述べていることを取り上

げ(41)、當時の大極殿にも五室十二堂があるとして、大極殿が明堂に相當することを論じている(42)。

c 

唐の宮城の正殿名

 

そして、「明堂=大極殿」の第三の根據として、長安と洛陽の宮城の正殿の名が擧げられている。

重考、兩京新記曰、東京宮内有乾元門、其内正曰明堂。又曰、西京宮内有承天門、其内正曰大極殿。以之謂之、

唐家兩京宮内、以明堂并大極殿各爲内正。倭漢之間、又足比擬。

(さらに考えますに、『兩京新記』に、「東京の宮城に乾元門があり、その宮城の正殿を明堂と言う」とあります。

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

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また、「西京の宮城に承天門があり、その宮城の正殿を大極殿と言う」ともあります。このことから言えば、

唐王朝の兩京の宮城では、明堂と大極殿とをそれぞれの宮城の正殿としています。和漢の間でも、また擬え

るに十分なものです。)

 

ここで引用されている『兩京新記』は、唐の韋述の撰で、中國では散佚し、日本に尊經閣文庫所藏の卷三のみ

が傳わっているが(43)、この勘文で引用されている箇所は佚文である(44)。

 

その佚文では、唐の西京(長安)の宮城の正殿が太極殿、東京(洛陽)の宮城の正殿が明堂であることを述べる。

 

洛陽の宮城の正殿は、隋の時には乾陽殿と言ったが(45)、武德四年(六二一)の李世民による洛陽占領の後に

燒かれ(46)、その後、高宗の顯慶元年(六五六)に正殿として乾元殿の修復が命ぜられ、麟德二年(六六五)に

完成した(47)。

 

則天武后が皇太后として政治を執るようになると、光宅元年(六八四)、東都は神都に改稱され(48)、垂拱四年

(六八八)、正殿の乾元殿を取り壞して明堂が造營された(49)。その後、明堂は、一度燒失して再建され、玄宗の

開元五年(七一七)に縮小されて乾元殿とされ、開元十年に再び明堂とされ、さらに開元二十五年に再び縮小さ

れて乾元殿とされ(50)、その後含元殿と改められた(51)。

 『兩京新記』では東京の宮城の正殿を明堂とするが、これは、垂拱四年から開元五年まで、及び、開元十年か

ら開元二十五年までの呼稱によったものである。『兩京新記』の成立については、『玉海』に開元十年とする記事

があることから(52)、開元五年以前(53)もしくは開元十年の改稱直後の名稱が採用されたと考えられる。

 

そして、「王宮正堂正寢勘文」では、『兩京新記』に記された則天武后による明堂の制度において、長安の太極

殿と洛陽の明堂とが對應することを根據として、「明堂=大極殿」を論じている(54)。

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d 

朝堂

 

また、「明堂=大極殿」の第四の根據として、「朝堂」の名が擧げられている。

况本朝國史及格式中、以大極殿號朝堂。是又朝諸侯於明堂之義也。

(まして本朝の國史及び格式中では、大極殿を朝堂と號しています。これもまた諸侯を明堂に朝見させるこ

と〔に擬えたもの〕です。)

 

ここでは、日本において大極殿が朝堂と言われることを取り上げ、諸侯が天子に朝見する場として見える明堂

に相當すると論ずる。これは、『禮記』明堂位などに見える、周公が明堂で諸侯を朝見させたことの記述に基づく。

③正堂と大極殿

 

以上の、①「正堂=明堂」、②「明堂=大極殿」に基づき、勘文は、前半部分の結論として、

然則以大極殿可爲正堂歟。

(そうでありますから大極殿を正堂とすることができるのではないでしょうか。)

と述べ、「正堂=大極殿」の結論を導いている。

 

續いて、前半部分の最後には、

又王寢之正堂者、是六寢中之正寢也。可准紫震殿也。子細載于状左矣。

(また〔前に述べた〕王〔の正〕寢の〔意味での〕正堂とは、〔王の〕六寢の中の正寢です。〔これは〕紫宸

殿に擬えることができます。その詳細は左に載せます。)

と述べ、最初に述べた「正堂」の三つの意味の中の(ⅱ)王の正寢の意味を再び取り上げる。そして、この意味

での正堂は正寢と同義であり、それは日本では紫宸殿に當たるが、そのことについては次の「正寢事」で論じる

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

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ことを示し、後半の議論につなげている。

④紫宸殿と正寢

 

この勘文の後半部分「正寢事」では、王と后の六寢の制度、及び路寢に關する諸文獻と禮圖が引用された後、

以下の意見が述べられる。

今據件等文、六寢之中、路寢在前、是爲正寢。其圖如右。天子於路寢聽政、於小寢釋服以燕息。皇后又有六

寢。然則以紫震殿可准正寢、以仁壽殿・清涼殿等可准小寢歟。我朝往昔之例、今上旬儀是也。謹案、日本後紀、

弘仁九年四月、有制、改殿閣及諸門之號、寢殿名仁壽殿、次南名紫震殿、云々。抑正堂正寢之義、不可限大内、

雖離宮可有之。如周禮疏文者、路寢制以聽政、人君所居皆路云々。皆字非指一處歟。然者雖何皇居皆可有正寢歟。

又鄭玄周禮注、并禮記正義等、以正寢竝爲正堂。然者土御門内裏漸爲數代之皇居、粗模大内之躰製、同以南

殿可謂正堂正寢也。自餘殿舎非此限。又以仁壽爲寢殿者、是小寢之義也。

(今これらの文によれば、六寢の中で、路寢が前〔南〕にあり、これが正寢です。その圖は右の通りです。

天子は路寢で聽政し、小寢で服を着替えて休息します。皇后にもまた〔天子とは別に〕六寢があります。そ

うでありますから紫宸殿を正寢に擬えることができ、仁壽殿・清涼殿等を小寢に擬えることができるので

はないでしょうか。〔路寢での聽政とは、〕我が朝の往昔の例では、今上の旬儀がそのことです。謹んで考え

ますに、『日本後紀』に「弘仁九年四月、制が發せられ、殿閣及び諸門の號を改め、寢殿を仁壽殿と名づけ、

次の南殿を紫震殿と名づけた」云々とあります。そもそも、正堂・正寢については、大内裏に限られるもの

ではなく、離宮であってもこれらがありえます。『周禮』〔天官・宮人〕の〔賈公彦〕疏の文では、「路寢の

制は聽政のためのものである。人君の居住する所は皆路である。」云々とあります(55)。「皆」という字は一

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箇所を指すものではないのではないでしょうか。そうでありましたら、どの皇居であっても皆正寢がありう

るのではないでしょうか。また、鄭玄の『周禮』注、及び『禮記正義』などでは、正寢をいずれも正堂とし

ています。そうでありましたら、土御門内裏は次第に數代の皇居となり、おおよそ大内裏の體裁を模してお

りますので、〔大内裏と〕同じく〔土御門内裏の〕南殿を正堂・正寢と言うことができます。それ以外の殿

舎はこの限り〔正堂・正寢〕ではありません。また、仁壽殿を寢殿としたのは、〔大寢の意味での寢殿では

なく、〕小寢の意味です。)

 

ここでは、『周禮』・『禮記』とその注疏などに見える路寢と小寢の六寢制をもとに、紫宸殿が聽政の場である

路寢即ち正寢に當たり、路寢における聽政とは、旬儀がそれに當たるとする(56)。また、その他の仁壽殿・清涼

殿等は小寢に當たると述べ、仁壽殿が弘仁九年の改稱以前に「寢殿」とされていたのも、小寢の意味であると述

べる。

 

さらに、『周禮』の賈公彦らの疏に見える「皆」の字を根據として、離宮にも路寢がありうるとし、燒亡した

土御門内裏については、その南殿を正堂・正寢と言うことができると述べる。この場合の「正堂」とは、前述の

ように、初めに考察した「正堂」の意味のうち、(ⅱ)の正寢と同義としての正堂であり、「鄭玄周禮注、并禮記

正義等、以正寢竝爲正堂」とあるのはそのことを述べたものである。

(4)「王宮正堂正寝勘文」の論旨と史實との關係

 

前述のように、『本朝世紀』には、久安四年閏六月十八日に、攝政藤原忠通の命により、平範家が、當梁年に

おける造宮の例、及び土御門内裏を正堂とすべきかどうかという問題について諸人に尋ね、それに對し、藤原通

憲らが子細を勘申したと記されている。

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

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このことを勘文の論旨と比較してみると、現在殘されている勘文には、「當梁年における造宮の例」について

の回答はない。しかし、「土御門内裏を正堂とすべきかどうか」という質問に對しては、土御門内裏の南殿を正

堂正寢と言うことができると結論づけており、質問と對應する。特に、本勘文においては、内裏の正殿である紫

宸殿が正寢に當たり、離宮の土御門内裏については、南殿が路寢即ち正寢に當たるというのが主旨であるが、勘

文前半部分で論じた正堂の語義の中に正寢の意味があることに基づき、正寢のほかに、さらに正堂の意味を付け

加えているのは、質問が「正堂とすべきかどうか」であることに合わせたものと考えることもできる(57)。

從って、この勘文は、論旨の點からも、三で考察したように、久安四年閏六月十八日の攝政藤原忠通の質問に

對する回答として藤原通憲が上申した勘文と考えることができる。

 

そこで、次に、この勘文に引用されている禮圖について考察してみたい。

   

五 「王宮正堂正寢勘文」の禮圖

(1)「王宮正堂正寢勘文」における禮圖引用の理由

 「王宮正堂正寢勘文」には、合わせて四つの禮圖が引用されている。前半部分には「周室王城明堂宗廟圖所載

之明堂圖」と「三禮圖所載之明堂圖」の二圖が、後半部分には「周室王城宗廟明堂宮室圖所載圖」と「三禮圖所

載六寢圖」の二圖が引用される。

これらの禮圖が引用された理由を、勘文の論旨の中で考えてみると、前半部分の二圖は、正堂である明堂の構

造を圖示するものである。この勘文においては、明堂によって正堂と大極殿が結び付けられているため、明堂が

重要な意味を持っており、さらに明堂の構造にも論及されていることから、明堂の構造を示す圖が掲載されたと

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考えられる。

 

また、「正寢事」の二圖は、王と后の六寢制と、その正寢・小寢の位置を圖示するものである。この勘文においては、

本内裏では紫宸殿、土御門内裏では南殿が正寢、即ち路寢に當たり、それ以外の殿舎は小寢であることが論じら

れるが、これは、路寢の周圍に五つの小寢が置かれるという六寢制を當てはめたものである。その路寢と小寢の

位置關係を示すためにこの二圖が掲載されたと考えられる。

いずれも勘文の主旨に關わるものであり、引用された理由が理解される。そこで、次に、それらの禮圖の經學

的な意味について考察したい。

(2)『三禮圖』

 「王宮正堂正寢勘文」に掲載される四つの禮圖の經學的な意味を考える上で、最初に問題となるのは、それが

何の文獻から引用されたものかということである。

 

この點について、前半部分と後半部分に一圖ずつ引用される『三禮圖』から考えてみたい。

 

この『三禮圖』については、勘文の後半部分に『三禮圖』の文章が引用されていることが手がかりとなる。そして、

その文は、現存する聶崇義『三禮圖』の文と、一部誤寫・誤認があるものの、全體としては合致する(58)。また、

勘文に載せる二つの『三禮圖』の圖も、聶崇義『三禮圖』の「明堂」(五室)の圖と、「宮室制」の圖に、若干の

違いがあるものの(59)、全體の構圖の上では合致する。このことから、いずれも聶崇義『三禮圖』からの引用で

あると判定することができる(60)。

(3)『周室王城明堂宗廟圖』

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

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次に、残る二つの禮圖、即ち、『周室王城明堂宗廟圖』と『周室王城宗廟明堂宮室圖』について考察を加えたい。

 

最初に、「明堂圖」として『三禮圖』と竝んで引用されている『周室王城明堂宗廟圖』について考えてみると、

その名の文獻は、『日本國見在書目録』や、『通憲入道藏書目録』には見えない。しかし、『隋書』經籍志に「周

室王城明堂宗廟圖一卷祁諶撰」と見えるほか、張彦遠『歷代名畫記』卷三「述古之祕畫珍圖」にも「周室王城明

堂宗廟圖」の名が擧げられている。

 

そして、「王宮正堂正寢勘文」においては、聶崇義『三禮圖』の前に、『三禮圖』と竝列される形で『周室王城

明堂宗廟圖』が引用されているが、聶崇義『三禮圖』と竝ぶその題名の禮圖としては、『隋書』と『歷代名畫記』

に見える『周室王城明堂宗廟圖』以外には確認されるものがない。

 

また、前述のように、この勘文は攝政藤原忠通の命に對して答申した文書と考えられるが、そのような重要な

文書において、『周室王城明堂宗廟圖』は、注疏とともに論旨の根據となる經學文獻の一つとして引用されている。

このことから、この禮圖は、當時、經學の文獻として信用しうる、由來の正しいものと認識されていたと考えら

れる。

 

以上のことから、この禮圖は、『隋書』・『歷代名畫記』に記載される『周室王城明堂宗廟圖』として引用され

たものと考えられる(61)。

 

そこで、以下、『隋書』・『歷代名畫記』所載の『周室王城明堂宗廟圖』についてさらに考察を加えたい。

(4)『周室王城明堂宗廟圖』と阮諶の禮圖

 『周室王城明堂宗廟圖』について、『歷代名畫記』はただ書名を擧げるのみであるが、『隋書』經籍志はその撰

者を「祁諶」と記している。

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しかし、「祁諶」という人物については他に傳えられている史料がなく、また、『周室王城明堂宗廟圖』についても、

『隋書』經籍志・『歷代名畫記』からの引用と見られるものを除いて、他に言及されている史料がない。そのため、

『周室王城明堂宗廟圖』について文獻から知られることは、その撰者が「祁諶」であるということのみである。

 

但し、この「祁諶」について、姚振宗『隋書經籍志考證』は、「祁」は「阮」の誤りであるとする(62)。これは、

「祁諶」を、『三禮圖』の撰者の阮諶と同一人物と認定したものである(63)。

 『三禮圖』の撰者の阮諶とその禮圖の特徴については、史料に殘されており、知ることができる。そこで、以下、

この姚振宗の説を踏まえ、阮諶について、その禮圖と學説の特徴を明らかにし、その特徴が勘文に引用された圖

の特徴と合致するかどうかを檢證することとしたい。

 

阮諶が『三禮圖』を撰したことは、『三國志』魏書杜恕傳の裴松之注に引く「阮氏譜」に、「武父諶、字士信、

徴辟無所就、造三禮圖、傳於世(〔阮〕武の父〔阮〕諶、字は士信は、官に召されたが赴かず、『三禮圖』を作り、

世に傳わっている)」と見える(64)。

この『三禮圖』を撰した阮諶の學説については、『玉海』卷三十九に引く『會要』に、北宋の張昭らの議を載せ、

その中に梁正『三禮圖』(65)を引き、

阮諶受禮學於綦毋君、取其説爲圖三卷。多不案禮文而引漢事、與鄭君之文違錯。

(阮諶は禮學を綦毋君から受け、その説を採用して圖三卷を著した。禮文を調べずに漢の事例を引くことが

多く、鄭玄の文と違っている。)

と述べている。從って、阮諶の禮圖は「綦毋君」の説に基づいたものであり(66)、鄭玄説とは異なる點が見られ

たことがわかる。

 

ところが、前述のように、『隋書』經籍志には「鄭玄及後漢侍中阮諶等撰」の『三禮圖』が著録されている。この『三

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

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禮圖』と、「阮氏譜」に述べられる阮諶の『三禮圖』との關係は明らかではないが(67)、『隋書』の「鄭玄及後漢

侍中阮諶等撰」という記述は、阮諶が鄭玄説に基づいて禮圖を著したと解釋できるため(68)、阮諶の説が鄭玄説

と異なるとする梁正『三禮圖』の記述に反することになり、鄭玄説との關係が阮諶の禮圖の問題點となる。

 

この阮諶の禮圖と鄭玄説との關係について、具體的な問題點となるものの一つが明堂圖である。阮諶の明堂圖

については、『隋書』宇文愷傳に載せる宇文愷「明堂議表」に、

自古明堂圖惟有二本。一是宗周、劉煕・阮諶・劉昌宗等作、三圖略同。一是後漢建武三十年作、禮圖有本、

不詳撰人。

(昔から明堂圖にはただ二本だけがある。一つは周〔の制度〕に基づくものであり、劉煕・阮諶・劉昌宗ら

の作ったもので、三圖はおおよそ同じである。もう一つは後漢の建武三十年に作られたもので、『禮圖』に

その本が載せられているが、撰者は明らかでない。)

とあり(69)、當時、「宗周」と「後漢建武三十年作」の二種の明堂圖が存在し、阮諶の圖はそのうちの「宗周」に

屬するものであったとされる。

 

當時の明堂圖に見られるこの二種の違いは、明堂の五室説と九室説の違いによるものと考えられる。明堂が五

室であることは『周禮』考工記に見える。一方、『大戴禮記』明堂では、明堂は九室十二堂とされ、十二堂は『呂

氏春秋』十二紀の首章や『禮記』月令の記述と合致する(70)。

 

そして、この二説の違いについて、鄭玄は、『周禮』考工記を周の制度とし、『呂氏春秋』は秦の呂不韋の編で

あることから、五室を周制、九室を秦制とする(71)。この見解は、禮圖においても、『藝文類聚』卷三十八「明堂」

に引く「三禮圖」に、「明堂者、周制五室、……。秦爲九室……。」と見え、さらに現存の聶崇義『三禮圖』にも、

周制の五室の圖と、秦制の九室の圖が併記されている。從って、「明堂議表」に見える「宗周」の明堂圖とは、

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周制とされた五室の圖を意味すると考えられる。

 

一方、「明堂議表」の「後漢建武三十年作」の明堂圖については、同じ「明堂議表」の中に、

禮圖曰、建武三十年作明堂。明堂上圓下方、上圓法天、下方法地、十二堂法日辰、九室法九州。……。

(『禮圖』に、「建武三十年明堂を作った。明堂は上が圓で下が方、上が圓であるのは天に法り、下が方であ

るのは地に法り、十二堂は日辰に法り、九室は九州に法る。……。」と言っています。)

とあり、また、『後漢書』光武帝紀下・中元元年の李賢注にも「禮圖又曰、建武三十一年作明堂、上員下方、

十二堂法日辰、九室法九州、……。」とあることから、それは九室の圖であったことがわかる(72)。

 

ここで、阮諶の明堂圖について考えてみると、「明堂議表」には、阮諶の明堂圖は「宗周」に屬するものと記

されるので、これは五室の圖であったと考えられる。從って、明堂圖については、阮諶は鄭玄と同じく五室説を

とっていたと考えられる。このことは、梁正『三禮圖』が、阮諶の禮圖について、鄭玄説とは異なると述べてい

ることに反しており、このことをどのように考えるかが問題となる。

 

そこで、この問題點について、「王宮正堂正寢勘文」に引用された『周室王城明堂宗廟圖』の「明堂圖」を取

り上げて以下に考察してみたい。この圖は、前述のように、祁諶の『周室王城明堂宗廟圖』として引用されたも

のと考えられるが、姚振宗の説によれば、祁諶は阮諶の誤りであり、もしそうであるとすれば、勘文に引用され

た『周室王城明堂宗廟圖』の「明堂圖」も、右の阮諶の禮圖の特徴を示しているはずである。

(5)『周室王城明堂宗廟圖』の「明堂圖」

 

そこで、この勘文に引用された『周室王城明堂宗廟圖』の「明堂圖」を見ると、上方を南として、東北・東南・

西南・西北にそれぞれ「青陽之室」・「明堂之室」・「惣章之室」・「玄堂之室」の四室が畫かれている。そして、中

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

129

央には「大廟大室」が東西に壁のない不完全な室として畫かれている。中央の不完全な室を除けば四室であるが、

五室説と九室説との違いから見ると、中央の「大廟大室」も一つの室として認めることができることから、これ

は鄭玄説と同じく五室説に屬するものである。

從って、これは、宇文愷「明堂議表」に述べられる阮諶の明堂圖の特徴「宗周」と合致する。

 

それでは、それ以外の點では、『周室王城明堂宗廟圖』の「明堂圖」は、鄭玄説とどのような關係にあるので

あろうか。

 

まず、この「明堂圖」の特徴として、「青陽之室」などの明堂五室の名が記されていることが擧げられる。「青陽」

などの五つの名は、『禮記』月令に見えるが、その鄭注を見ると、青陽・明堂・總章・玄堂は、大廟大室の四方

に隣接する堂と解釋され、室の名とはされていない(73)。また、鄭玄は、『周禮』考工記・匠人の注で、夏の世室

(宗廟)の五室を、東北・東南・西南・西北・中央に位置する木・火・金・水・土の五室とするが(74)、鄭玄は周

の明堂の構造は宗廟と同じとするので(75)、周の明堂の五室も、夏の世室と同じく、木・火・金・水・土の五室

となる(76)。從って、勘文の圖に見える五室の名は、『周禮』鄭玄注に見える五室の名とは異なっている(77)。

 

また、『周室王城明堂宗廟圖』の「明堂圖」には、東西に二つずつ、南北に三つずつ階が設けられている。鄭玄は、『周

禮』考工記・匠人の注で、世室に設けられる「九階」について、「南面三、三面各二」と説き、全部で九箇所の階

が設けられるとする。鄭玄説によれば、周の明堂もこれと同じ構造とされるので、周の明堂には南に三つ、他の

面に二つずつの階が設けられる。しかし、この圖では北側の三箇所に階が設けられている。從って、この圖は、

鄭玄説に比べて北側の階が一つ多い(78)。

 

さらに、この圖の東西の階の外側には「於諸侯無此階」と記されている。「此階」が東西の階を指すかどうかは

明らかではないが、諸侯の制度と比較されていることは明らかである。明堂は天子が立てるものであり、諸侯は

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立てることができないとされる。そのため、これは、明堂ではなく、諸侯の太廟もしくは路寢の構造と比較した

ものと思われるが、これがどのような經書の記述や學説によるものであるかは明らかではない。

 

以上のことから、『周室王城明堂宗廟圖』の「明堂圖」は、五室説・九室説という大きな違いの上では、鄭玄

の五室説と合致するが、それ以外の點では鄭玄説と異なる特徴が見られる。これらの特徴は、文獻に記載された

阮諶の禮圖と鄭玄説との關係についての矛盾する記述、即ち、宇文愷「明堂議表」には「宗周」とあり、鄭玄と

同一の説に立つとされながら、梁正『三禮圖』には「與鄭君之文違錯」とあり、鄭玄説と異なるとされるという、

兩方の記述と合致するものである。さらに、この圖には、「於諸侯無此階」のように、經學上明確な根據を見出

すことができない點も見られる。この特徴は、梁正『三禮圖』で阮諶の禮圖の特徴として述べられる「不案禮文」

とも合致するものである。

 

そこで、もう一つの禮圖『周室王城宗廟明堂宮室圖』についても、その經學的な特徴を明らかにしていきたい。

(6)『周室王城宗廟明堂宮室圖』

 

以上において考察した『周室王城明堂宗廟圖』は、明堂圖として勘文の前半部分に引用されたものであるが、

勘文後半の「正寢事」にも、『三禮圖』と竝んで、「周室王城宗廟明堂宮室圖所載圖」という題の圖が引用されて

いる(79)。

 

そこで、この圖が何の文獻からの引用であるかを考えてみたいが、『周室王城宗廟明堂宮室圖』という名の文

獻は、史料上確認することができない。

 

史料上確認される諸文獻の中で、この名に最も類似するものは、前述の『隋書』經籍志・『歷代名畫記』に載せる『周

室王城明堂宗廟圖』のみである。

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

131

 

また、この圖は、勘文の後半部分において、『三禮圖』とともに二つだけ引用された禮圖の一つであり、『三禮圖』

の前に引用されている。この引用のされ方は、勘文前半部分における『周室王城明堂宗廟圖』の引用のされ方と

同じである。

 

從って、この圖も、『隋書』經籍志・『歷代名畫記』に見える『周室王城明堂宗廟圖』として引用されたものと

考えられる(80)。

そのため、この圖についても、同樣に、鄭玄説との關係が問題となる。そこで、次に、『周室王城宗廟明堂宮室圖』

と鄭玄説との關係について考察を加えたい。

(7)『周室王城宗廟明堂宮室圖』の概要

 

勘文後半部分に引用されている『周室王城宗廟明堂宮室圖』は、周の王城を畫いたものである。王城は城壁に

圍まれ(81)、その四隅には「城隅」と記された櫓状の建造物が畫かれている。また、城壁には四面に三つずつ、

計十二の國門が設けられている(82)。いずれも『周禮』考工記・匠人に基づくものと考えられる(83)。南西の城壁

の上には「大社」と注記された木の生えた壇が二つ見える。

 

圖の上部、即ち南方中央の國門の下には「中道」と記されている。また、南・東・西の國門の内側には「小學」

と記される建造物が見られる(84)。

 

王城のすぐ内側には宮城が畫かれ、その四隅には「宮隅」と記された建造物が見える。宮城は五重の壁に圍ま

れているが、四方の正面には門が設けられ、特に南側の「象魏」と記された建造物が際だっている。「象魏」とは、

門の闕のことである。門には注記が加えられているものがあり、門の名は、宮城の外側から、「皐門」・「庫門」・「雉

門」・「應門」・「路門」の順と考えられる(85)。「象魏」の右側には「王社」と注記された木の生えた壇が二つ、左

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側には「璧雍」と注記された堀に圍まれた建造物群が見える。

 

宮城の中央南側には、「路寢」とその周圍に五つの「小寢」が、また、中央北側にも「小寢」の注記を伴う施

設群が見える。南側は王の六寢を、北側は后の六寢を記したものと考えられる(86)。

 

また、王の六寢の左に「明左右九室、九卿治事之處也」という注記が見える。これは、『周禮』考工記・匠人に「外

有九室、九卿朝焉(外側には九室があり、九卿がここに朝する)」と見える九卿の執務する九室のことと考えられる。

その九室に當たる建造物は、注記の上の建造物と考えられ、路門外の東側にある。また、注記に「左右」とある

ことから、路門を挾んで反對側の西側にあるやや小さい建造物もこれに當たると考えられる(87)。

 

さらに、后の六寢の左には「閨(88)門左右九室、九嬪治事之處」という注記があり、これも『周禮』考工記・

匠人の「内有九室、九嬪居之(内側には九室があり、九嬪がここに居る)」と見える九嬪の九室のことと考えられる。

その九室に當たる建造物は、后の六寢の左右に見える二つの建造物と考えられる(89)。

 

圖の下方、北側には、宮城内に「貳社」と注記された建造物が二つ見える。宮城外には「大市」と「朝市」が見える。

これは、『周禮』考工記・匠人の「面朝後市(朝廷を正面にし、市を背面にする)」という原則により、北側に市

が置かれたものである。大市・朝市とは、『周禮』地官・司市に記載され、時間と對象を別にして開かれる三つ

の市のうちの二つである(90)。

 

そして、この圖について、經學的に問題となるのは、前述のように鄭玄説との關係であるが、この點で特に顯

著な特徴を示しているのは、①璧雍、②小學、③大社・王社の三點である。そこで、以下、これらの點を順に取

り上げて考察を加え、その經學的な意義を明らかにしていきたい。

(8)『周室王城宗廟明堂宮室圖』の經學上の問題點

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

133

①璧雍

 

圖中には、左上、即ち王宮の南東部に、圓形の堀に圍まれた施設群がある。そこには注記があり、一部蟲損が

あるものの、「璧雍」と判讀することができる(91)。

 「璧雍」とは、「辟雍」・「辟廱」とも記されるもので、經學上、天子の大學(太學)とされ、その位置や明堂と

の關係などについて諸説がある(92)。

 

周の辟雍の位置についての諸説は、王城外の郊とする説と、王城内とする説に分かれる。しかし、後述のように、

鄭玄はその兩説を説いているため、その後の解釋によって折衷が圖られている。また、王城内とする説の中でも、

鄭玄の説とは異なり、辟雍を太廟と同一とする説がある(93)。そこで、以下、辟雍の位置について、a郊とする説、

b鄭玄説、c太廟と同一とする説の三つに分けて考察し、勘文に引用される圖がどの説に近い立場をとるかを檢

證したい。

a 

郊とする説

 『禮記』王制には、

小學在公宮南之左、大學在郊。天子曰辟廱、諸侯曰頖宮。

(小學は公宮の南の左にあり、大學は郊にある。〔大學を〕天子は辟廱と言い、諸侯は頖宮という。)

とあり、辟雍を天子の大學とし、大學は郊にあるとする。この文をそのまま周王の制度としても當てはめれば、

周王の大學である辟雍は郊にあることになる。

 

しかし、その鄭玄注は「此小學大學、殷之制(この小學・大學は、殷の制度である)」と述べ、これを殷の制

度とする。從って、鄭玄説によれば、この文は周の辟雍の位置としては當てはまらないことになる。このことに

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134

ついては次のbにおいて考察したい。

 

このほか、辟雍の場所を郊とするものに、韓詩説がある。それによれば、辟雍は南郊七里内にあり、明堂をそ

の中に立てるとする(94)。

b 

鄭玄説

 

鄭玄は、前述のように、『禮記』王制の「小學在公宮南之左、大學在郊」を殷制と解するが、それは、同じく『禮

記』王制に、

殷人養國老於右學、養庶老於左學。周人養國老於東膠、養庶老於虞庠。虞庠在國之西郊。

(殷人は國老を右學に養い、庶老を左學に養う。周人は國老を東膠に養い、庶老を虞庠に養う。虞庠は國の

西郊にある。)

とあることによる(95)。この文では、殷の學校として「右學」と「左學」が、また、周の學校として「東膠」と「虞庠」

が見える。その鄭玄の注では、殷で國老を養う「右學」を大學、庶老を養う「左學」を小學とし、周で國老を養う「東

膠」を大學、庶老を養う「虞庠」を小學と解する(96)。それは、國老は大學で養い、庶老は小學で養うと解釋し

たためである。

そして、「右學」は西、「左學」は東にあることから、殷では大學が西、小學が東に置かれることになるが、『禮

記』王制の「小學在公宮南之左、大學在郊」という記述は、小學を公宮の南の東に置くとしていることから、小

學を東に置く殷の制度と合致し、鄭玄はこれを殷制を述べたものと解釋する。從って、鄭玄の解釋によれば、殷

の大學(右學)は西郊、小學(左學)は公宮南の左に置かれることになる。

 

一方、周については、同じ注で、「東膠」(大學)は國中の王宮の東に、「虞庠」(小學)は西郊に立てると述べる。

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

135

これは『禮記』の本文に基づき、殷の制度の東西と城内城外を逆にしたものである(97)。從って、鄭玄の解釋に

よれば、王の大學である辟雍は、周においては國中王宮の東(98)に置かれたことになる。

 

ところが、鄭玄は、周の文王の時に立てられた靈臺を讚えたものとされる靈臺の詩について(99)、その中に見

える「辟廱」を西郊にあるものと述べる。これは辟雍が國中王宮の東に置かれるという前述の解釋とは逆の説で

あり、後の解釋に混亂を與えている。即ち、鄭玄は、『駁五經異義』(『毛詩』靈臺『正義』所引)において、『禮記』

王制の「小學在公宮〔南〕之左、大學在郊」を引用し、「太學即辟廱也(太學とは即ち辟廱のことである)」とし

た上で、靈臺の詩に言及し、「辟廱及三靈皆同處在郊矣(辟廱と三靈〔靈臺・靈囿・靈沼〕は皆場所が同じで郊

にある)」とし、辟雍を西郊にあるものと述べる(100)。

 

ここで引用された『禮記』王制の「小學在公宮南之左、大學在郊」は、その鄭玄注では殷の制度と解された記

述であり、周の辟雍は、王制の鄭玄注によれば、國中王宮の東にあるはずである。從って、文王の時に既に周の

制度が定められていたとすれば、鄭玄は、周の制度における辟雍の場所について、『駁五經異義』では西郊、『禮記』

王制注では國中王宮の東と、矛盾したことを述べていることになる。

しかし、鄭玄自身はこのことについて説明しておらず、そのため、周において辟雍・大學がどこに置かれてい

たかについては、以後の學説において、その解釋が分かれている。

 『禮記』王制の『正義』には、鄭玄の『駁五經異義』と『禮記』王制注の矛盾に對する熊安生と劉氏(101)の見解を載せ、

鄭駁異義云「三靈一雍在郊」者、熊氏云「文王之時猶從殷禮、故辟廱・大學在郊」、劉氏以爲「周之小學爲

辟廱在郊」。

(鄭玄『駁五經異義』に「三靈と辟雍は郊にある」と言っているのは、熊氏は「文王の時にはまだ殷の禮に

從っていたので、辟雍・大學は郊にあった」と言い、劉氏は「周の小學が辟雍であり郊にあった」とする。)

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136

と述べる。

 

ここで、熊安生は、文王の時にはまだ殷の制度によっていたので、辟雍・大學はなお西郊にあったと解する。

 

一方、劉氏は、周においては小學を辟雍と言ったと解する。これは、靈臺の詩に見える「辟廱」を西郊に置か

れた周の小學のこととし、周王の大學、即ち辟雍は國中に置かれたと解するものである。この解釋は、鄭玄『駁

五經異義』の「太學即辟廱」という記述とは齟齬をきたすが、『駁五經異義』と『禮記』王制の鄭注とで辟雍の

位置が逆になるという大きな矛盾は解消される。

 

この問題は、熊安生・劉氏から、さらに『五經正義』にも引き繼がれている。『毛詩』靈臺の『正義』は、こ

の問題について、殷制では辟雍と太學は同一のもので郊にあったが、周制では、太學は國中に移されたものの、

辟雍はなお郊に置かれたままであり、西郊に置かれた小學がその辟雍であると解する。そして、その理由としては、

靈臺の詩の内容から、辟雍には「靈囿」・「靈沼」が併置されることがわかるが、それらの魚や鳥の集まる施設が

國中にあるはずがないと言う(102)。このような説明は、辟雍を周の小學と解する劉氏説と同樣の立場に立つもの

であり、それをさらに發展させたものと位置づけられる。

 

以上のように、鄭玄説では、辟雍について、國中王宮の東と、西郊との、二つの場所が説かれ、熊安生・劉氏や『毛

詩正義』は、その折衷を試み、劉氏と『毛詩正義』は、大學と辟雍を分離し、周の辟雍を西郊にある小學のこと

であると解するに至っている。

c 

太廟と同一とする説

 

一方、以上の諸説とは全く異なる説として、辟雍を太廟と同一のものと解する説がある。これは、左氏説及び

盧植・蔡邕・穎子容らの説である(103)。

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

137

 

この説によれば、太廟の場所が即ち辟雍の場所となる。周王の太廟の場所については、『禮記』祭義、『周禮』春官・

小宗伯、考工記・匠人などに、社稷は右(西)、宗廟は左(東)に設けられることが見える(104)。そして、宗廟・

社稷の王宮内での位置について、cの説をとる蔡邕は、王宮の庫門の内・雉門の外にあるとする(105)。

 

以上の三説について、「王宮正堂正寢勘文」の圖と照らし合わせて考察してみたい。

 

勘文の圖では、王宮内の南東部に「璧雍」がある。これは、aの辟雍が郊にあるとする説、及び、b鄭玄説のうち、

辟雍が郊にあるとする『駁五經異義』の説や、鄭玄説の矛盾の解消を圖り、辟雍を西郊の小學と解した劉氏・『毛

詩正義』の説とは、明らかに異なっている。また、鄭玄説のうち、國中王宮の東とする『禮記』注の説とも合致

しない(106)。

 

そして、「璧雍」から象魏を隔てて反對側の西側には、四角の壇の上に木が植えられた施設が二つあり、「王社」

と記されている。その壇は社壇(107)、木は社主もしくは田主と考えられる。そして、社稷を右(西)、宗廟を左(東)

とする諸文獻の記述から考えると、「璧雍」は、社稷の反對側に設けられる宗廟の位置に當たる。また、圖中には、

他に宗廟と見られる建造物がない。このことから、この「璧雍」が宗廟を兼ねた施設であると考えられる。

 

このような説は、辟雍を太廟と同一のものとするcの説と合致するものである(108)。そして、『毛詩正義』は、

前述のように、辟雍に伴う靈囿・靈沼が國中にあることは考えられないとするが、この圖では王宮の中に堀を伴

う「璧雍」が實際に畫かれており、『毛詩正義』の解釋とは大きく異なっている。

②小學

 「王宮正堂正寢勘文」の圖には、南・東・西の國門の内側に「小學」と注記された施設が見える。「小學」につ

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138

いても經學上諸説がある(109)。鄭玄は、前述の辟雍・大學についての二つの説に對應して、周の小學についても

二つの説をとる。即ち、『駁五經異義』では、靈臺の詩に言及し、辟雍は郊にあり、小學は公宮の左にあるとするが、

『禮記』王制の注では「周立小學於西郊(周は小學を西郊に立てる)」と述べ、周の小學は西郊にあるとする(110)。

 

しかし、周の小學については、鄭玄はさらに四郊に置かれるとする説も述べている。『禮記』祭義「天子設四學(天

子は四學を設ける)」の鄭注に、「四學、謂周四郊之虞庠(四學とは、周の四郊の虞庠を言う)」とある。「虞庠」は、

前述の『禮記』王制に「周人……養庶老於虞庠(周人は……庶老を虞庠に養う)」とあるもので、鄭注で小學と解

釋されているものである。これによれば、周王は、西郊だけでなく、四郊に虞庠、即ち小學を立てたとされる(111)。

 

そして、周王が四郊に小學を設けたとすることについては、王肅も同樣の説を取り(112)、崔靈恩・皇侃・『禮記

正義』も同じである(113)。

 

そこで、以上の小學に關する説を、勘文の圖と比較してみると、勘文の圖では、三方の國門の中に小學がある。

これは、郊に設けられる小學とは明らかに異なり、また王宮の左のみに置かれるものでもない。從って、この圖は、

鄭玄・王肅・崔靈恩・皇侃・『禮記正義』の説とは大きく異なっている(114)。

③大社・王社

 「王宮正堂正寢勘文」の圖では、「璧雍」の反對側に前述の「王社」が畫かれるほか、王城南西部の城壁に、王

社と同樣に木の植えられた四角の壇が二つ畫かれ、それぞれ「大社」と記されている。

 「王社」と「大社」は、『禮記』祭法に天子の立てる二つの社として見え、大社は天子が群姓のために立てるも

のであり、王社は天子が自らのために立てるものと記される。

 

前述のように、周王の社稷は、王宮内、宗廟の反對側の西側に設けられるとされるが、經書には、それが大社

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

139

であるか王社であるか、また、大社と王社の場所の違いについて、記載されていない(115)。また、鄭玄もこのこ

とについては明言していない。

しかし、『禮記』祭法の『正義』では、王社の位置について、大社の西に隣接するとする説と、王社は籍田に

あるとする崔靈恩の説とを擧げ、『正義』は後者の崔靈恩の説に從っている(116)。また、皇侃も、崔靈恩と同樣に、

王社は籍田にあるとする(117)。天子の籍田は南郊にあることから(118)、崔靈恩・皇侃・『禮記正義』の説では王社

は南郊にあることになる。そして、この説をとる場合には、王宮内の宗廟の反對側に設けられる社は、大社とい

うことになる。實際に『禮記』祭法の『正義』は、王宮の庫門内に設ける社は大社であるとする(119)。

 

ここで、「王宮正堂正寢勘文」の圖を見ると、王社は王宮内にあり、大社は王宮外にある。從って、その位置は、

大社を王宮内、王社を王宮外とする崔靈恩・皇侃・『禮記正義』の説とは大きく異なっている(120)。

 

また、勘文の圖では、大社・王社の壇に木が植えられている。今日の聶崇義『三禮圖』には社に木が植えられ

ている圖はない。しかし、『魏書』劉芳傳に載せる劉芳の上疏には、「又見諸家禮圖、社稷圖皆畫爲樹、唯誡社誡

稷無樹(また諸家の禮圖を見ますと、社稷の圖にはみな木が畫かれていますが、ただ誡社と誡稷には木が畫かれ

ていません)」と述べられている。また、隋の杜臺卿の『玉燭寶典』卷二にも「案三禮圖、社皆有樹(『三禮圖』

を調べると、社にはみな木がある)」とあり、當時の『三禮圖』には社に木が畫かれていたことがわかる。從って、

大社と王社にいずれも木が植えられている勘文の圖は、劉芳の述べる「諸家禮圖」や、『玉燭寶典』に述べられる『三

禮圖』と合致し、南北朝時代及び隋代に存在した禮圖の特徴と合致している。

 

なお、上記の『魏書』の文で、劉芳は、諸家の禮圖について、木の植えられる社稷に對し、木の植えられてい

ない誡社と誡稷のことを述べている。

「誡社」とは、亡んだ王朝または國の社を立てて戒めとするもので、『白虎通』社稷に見え、「戒社」とも表記

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される(121)。また、「喪國の社」・「亡國之社」とも言われ(122)、『禮記』郊特牲には、天子の大社は霜露風雨を受け

るが、喪國の社は屋根で覆うと記されている(123)。

 

一方、勘文の圖には、大社・王社のほか、王宮内北側に「貳社」、もしくは「武社」と注記される建造物が見

える(124)。「貳社」の場合には、「貳」は「副」の意味と思われるが、「貳社」「武社」という名の社はいずれも經

書には見られない。

 

この「貳社」(「武社」)と釋讀される社は、大社・王社とは異なり、木が畫かれず、屋根で覆われている。こ

のような形態は、屋根で覆うとされる喪國の社の特徴や、劉芳が諸家の禮圖では木が植えられていないと述べた

誡社の特徴と一致することから、圖中の「貳社」(「武社」)は、「誡社」・「戒社」のことであり、「貳」(「武」)は「戒」

の誤寫である可能性が考えられる。

 「戒社」の位置について、『春秋穀梁傳』には、亡國の社を廟の屏にすることが見え(125)、『白虎通』には、門の東と

する説と、宗廟の屏とする説が見える(126)。また、『禮記』郊特牲の『正義』にも、廟にあるとする説と、庫門内の

東とする説を擧げる(127)。以上のいずれの説も、王宮の南側に位置すると解する點では共通している。

 

しかし、勘文の圖では、「貳社」(「武社」)は、王宮の北側に設けられている。これは、以上の説とは全く異な

っており、「貳社」(「武社」)が「戒社」の誤りであったとしても、その位置については、經學上の明確な根據を

見出すことはできない(128)。

(9)『周室王城明堂宗廟圖』・『周室王城宗廟明堂宮室圖』の特徴

 

以上の考察の結果、勘文後半部分に引用された『周室王城宗廟明堂宮室圖』は、鄭玄説やそれに基づく諸学説

との關係について、以下のような特徴を持っていることが明らかとなった。

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

141

①璧雍は宗廟の位置に置かれており、鄭玄説とは合致せず、辟雍を西郊の小學とする劉氏の説や、特に辟雍が

王城内にあることを否定する『毛詩正義』の説とは大きく異なる。

②小學については國門内に置かれており、周王の小學は四郊にあるとする鄭玄・王肅・崔靈恩・皇侃・『禮記正義』

の説と大きく異なる。

③大社・王社については、王社が王宮内にあり、王社が籍田にあるとする崔靈恩・皇侃・『禮記正義』の説と

大きく異なっている。

 

これらのことから、『周室王城宗廟明堂宮室圖』は、鄭玄説と異なる點が見られるほか、崔靈恩・皇侃・『毛詩

正義』・『禮記正義』の説とは特に大きな相違が見られることがわかる。このほか、「貳社」(「武社」)と注記され

る建造物など、經學上の根據が明らかでない點も見られる。

 

これらの特徴は、梁正『三禮圖』に、阮諶の禮圖について、「與鄭君之文違錯」、「不案禮文」と述べられてい

ることと合致する。

 

以上の考察をもとに、『周室王城明堂宗廟圖』・『周室王城宗廟明堂宮室圖』兩圖の特徴を總括してみたい。まず、

『周室王城明堂宗廟圖』において、鄭玄説と同じく明堂五室説をとっているのは、宇文愷『明堂議表』に見える

阮諶の明堂圖の特徴と合致する。しかし、その一方で、兩圖を通じて、鄭玄説と合致しない點や、經學上の根據

が明らかでない點も多く見られる。このことは、梁正『三禮圖』に記された阮諶の禮圖の特徴と合致する。

 

また、『周室王城宗廟明堂宮室圖』の社には木が植えられており、南北朝時代に存在した禮圖の特徴を示して

いる。

これらのことから、『周室王城明堂宗廟圖』・『周室王城宗廟明堂宮室圖』の兩圖は、鄭玄説が禮學において支

配的な地位を占めるようになる以前に成立した可能性があり、鄭玄説の影響力が増加する中で失われた禮學説を

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142

傳える貴重な史料であると考えられる。

  

六 

結語

 

本稿においては、藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」について、その論旨の解明と、禮圖の檢證を行い、以下の點

が明らかになった。

 

石清水八幡宮所藏「王宮正堂正寢勘文」(『異朝明堂指圖記』)は、久安四年閏六月十八日の攝政藤原忠通の命

により、藤原通憲が閏六月二十一日に上申した勘文の寫しと考えられる。この勘文の前半部分では、明堂によっ

て正堂と大極殿が結び付けられ、正堂は大極殿であることが論じられる。また、後半部分では、本内裏と土御門

内裏にそれぞれ六寢制が當てはめられ、紫宸殿と土御門内裏の南殿が路寢、即ち正寢であり、正寢はまた正堂と

も言い、それ以外の殿舎は小寢であることが論じられる。

勘文には四つの禮圖が載せられている。前半部分には明堂圖として『三禮圖』と『周室王城明堂宗廟圖』が、

また、後半部分には六寢制の圖として、『三禮圖』と『周室王城宗廟明堂宮室圖』が引用される。明堂と六寢制は、

勘文の前半・後半各部分において、それぞれ重要な論據となっており、明堂圖と六寢制の圖が引用されているの

は、勘文の論旨と關わっている。

そして、四つの禮圖のうち、二つの『三禮圖』は、聶崇義の『三禮圖』と考えられる。

一方、殘る『周室王城明堂宗廟圖』と『周室王城宗廟明堂宮室圖』は、『隋書』經籍志に見える祁諶撰の『周

室王城明堂宗廟圖』と考えられる。

「祁諶」については、「阮諶」の誤りとする説がある。そこで、この二つの禮圖を、阮諶の禮圖の特徴として

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

143

傳えられる點と比較してみると、勘文の『周室王城明堂宗廟圖』の「明堂圖」は、五室説をとっており、鄭玄説

と一致する。これは、宇文愷「明堂議表」に述べられた阮諶の圖の特徴と合致する。一方で、『周室王城明堂宗

廟圖』・『周室王城宗廟明堂宮室圖』には、鄭玄説と異なる點や、經學上の根據が明確でない點も多く見られ、こ

のことも梁正『三禮圖』に阮諶の圖の特徴として述べられた「與鄭君之文違錯」や「不案禮文」という記述に合

致する。

また、『周室王城宗廟明堂宮室圖』には、特に鄭玄以降の崔靈恩・皇侃・『毛詩正義』・『禮記正義』の解釋と

は大きく相違する點が見られる。さらに、南北朝時代に存在した禮圖の特徴を示している。

以上のことから、『周室王城明堂宗廟圖』・『周室王城宗廟明堂宮室圖』の兩圖は、禮學において鄭玄説が支配

的になる以前に成立した可能性が考えられる。そして、鄭玄説の影響が次第に強まっていく過程において失われ

た經學説を傳えている可能性のある史料として、重要な意味を持つものと考えられる。

この勘文に引用された『周室王城明堂宗廟圖』・『周室王城宗廟明堂宮室圖』のように、鄭玄説や『五經正義』の

解釋と異なる禮圖は、唐代においては正統的なものではなくなっていたと思われるが、そのような圖が、どのよう

な過程を經て、久安四年の時點で日本の勘文に引用されたのか、さらに檢討すべき問題である。(129)

 

注(1) 『隋書』經籍志一、「三禮圖九卷鄭玄及後漢侍中阮諶等撰」。

(2) 鄭玄説の特質については、池田秀三「鄭學の特質」、及び間嶋潤一氏のコメント、竝びに討論(渡邉義浩編『兩漢に

おける易と三禮』、汲古書院、二〇〇六年)において論じられている。

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144

(3) 鄭玄自身が禮圖を著したことについては疑問が持たれているが(『四庫全書總目提要』聶崇義『三禮圖集注』)、阮諶が『三

禮圖』を著したことは後述のように『三國志』魏書杜恕傳の裴松之注に引く「阮氏譜」に見えることから、後漢末か

ら三國時代にかけて三禮の禮圖が著されるようになったことがわかる。

(4) 『郡齋讀書志』卷二「三禮圖二十卷 

右聶崇義周世宗時被旨纂輯、以鄭康成・阮諶等六家圖刊定。皇朝建隆二年奏之。」。

聶崇義『三禮圖』の成立過程については、木島史雄「簠簋をめぐる禮の諸相」(小南一郎編『中國の禮制と禮學』、朋

友書店、二〇〇一年)において考察されている。

(5) 歷代の禮圖については、朱彝尊『經義考』において考察されているほか、周何『禮學概論』(三民書局、一九九八年)

柒「《儀禮》述要」、六「禮圖簡介」においてまとめられている。

(6) 王謨『漢魏遺書鈔』、黄奭『漢學堂經解』、馬國翰『玉函山房輯佚書』、新美寛編・鈴木隆一補『本邦殘存典籍による

輯佚資料集成』(京都大學人文科學研究所、一九六八年)。

(7) 『日本國見在書目録』「周禮圖十卷鄭玄院諶等撰」。狩谷棭齋『日本現在書目證注稿』が改めているように、「院諶」は、隋

志等に見える「阮諶」の誤りと考えられる。また、『日本國見在書目録』では書名を『周禮圖』とするが、姚振宗『隋

書經籍志考證』は「按三禮圖、首周禮、故佐世遂以爲周禮圖」と指摘する。『日本國見在書目録』には、この他に二

つの『周禮圖』を載せるが、それらが『周禮』關係の書とともに『儀禮』關係書の前に掲載されているのに對し、鄭

玄・阮諶らの『周禮圖』は、『禮記』關係書の後に、三禮總義の書とともに掲載されていることから、姚振宗が指摘

するように、その内容は『三禮圖』と同じであったと考えられる。但し、『日本國見在書目録』が「周」の字に作る

理由については、姚振宗の指摘する理由によるものであるかは明らかでない。

(8) 「王宮正堂正寢勘文」の名は、東京帝國大學文科大學史料編纂掛編纂『大日本古文書』家わけ第四、石清水文書之四(東

京帝國大學、一九一二年)田中家文書、一四六二「少納言入道信西藤原通憲王宮正堂正寢勘文」による。

(9) 『隋書』經籍志一「周室王城明堂宗廟圖一卷祁諶撰」。

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

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(10) 『大日本古文書』(前掲)。石清水八幡宮とその別當家である田中家の歷史は、田中弘清『石清水八幡宮史』首卷(第二刷、

續群書類從完成會、一九九七年)にまとめられている。

(11) 田中文清『續石清水八幡宮史料叢書』一、田中家文書目録㈠(石清水八幡宮社務所、一九八五年)。同書の口繪圖版(桐

二―九)に、その寫眞が掲載されている。また、現在、財團法人京都國際文化交流財團によって運營される京都デジ

タルアーカイブ事業においてその畫像が公開されている。同財團より、二〇〇六年九月、公開されているものよりも

詳細な畫像を閲覽させていただいた(禮圖の部分は圖版1・圖版2)。

(12) 重要文化財指定番號五七一「石清水八幡宮文書」。

(13) 「王宮正堂正寢勘文」の釋文は、東京大學史料編纂所所藏『史料稿本』久安四年閏六月十八日條「異朝明堂指圖記」(東

京大學史料編纂所「編年史料綱文データベース」において公開されており、同データベースを利用させていただいた)、

『大日本古文書』(前掲)、文人研究会編『藤原通憲資料集』(二松學舎大學二十一世紀COEプログラム「日本漢文學

研究の世界的據點の構築」中世部會事業推進資料、二〇〇五年)『異朝明堂指圖記』に收められている。

(14) 『大日本古文書』(前掲)本勘文の注記「本卷表題ニ『信西筆』トアレドモ、原本ヲ檢スルニ、當時ヲ去ルコト遠カラ

ザル時代ノ寫ニカヽリ、信西ノ自筆ニアラザルニ似タリ」。文中の誤字の状況から考えても、自筆原本ではないと考

えられる。また、これらの寫本のもとになった原本も、勘文そのものではなく、勘文案である可能性が考えられる。『續

石清水八幡宮史料叢書』一(前掲)二三頁では「勘文案」と記される。

(15) (財)水府明德會彰考館德川博物館所藏『異朝明堂指圖説』。二〇〇五年一一月における同書の畫像の閲覽に關して、

同會より格別のお取り計らいを賜った。

(16) 『大日本古文書』(前掲)。

(17) 「宗」の字は、原本では「室」に作る。『史料稿本』・『大日本古文書』は、「室」は「宗」の誤字であることを指摘し、

太田静六『寢殿造の研究』(吉川弘文館、一九八七年)・『藤原通憲資料集』は、「室」を「宗」に改めている。本稿に

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おいても、以下、「室」を「宗」に改める。

(18) 『史料稿本』(前掲)久安四年閏六月十八日條。

(19) 東京帝國大學文學部史料編纂掛編纂『史料綜覽』卷三(朝陽会、一九二六年)久安四年閏六月十八日條。

(20) 岩橋小彌太「少納言入道信西」(『國學院雜誌』六〇卷六號、一七五九年)。

(21) 太田静六『寢殿造の研究』(前掲)第一章、第一節「周の六寢および唐の長安・洛陽兩宮城と我が國の宮殿との關係」。

(22) 『藤原通憲資料集』(前掲)資料編、藤原通憲關係作品、46『異朝明堂指圖記』。

(23)

このほか、この勘文に引用されている『日本後紀』の佚文について、後述のようにこれまでの研究で言及がなされて

いる。また、「王宮正堂正寢勘文」への言及はされていないが、久安四年の正堂・正寢をめぐる議論については、山

根對助・池上洵一校注『中外抄』(新日本古典文學大系『江談抄 

中外抄 

富家語』、岩波書店、一九九七年)におい

て解説されている。

(24) 『台記』久安四年六月二十六日條「午二刻、内裡土御門燒亡」、『本朝世紀』同日條「未剋、土御門皇居燒亡」、『百錬抄』

同日條「土御門皇居炎上」。土御門内裏については、太田静六『寢殿造の研究』(前掲)第七章、第一節、二、3「第

三種里内裏の規模―土御門内裏の考察―」に考察されている。

(25) 『台記』久安四年六月二十八日條「參殿上、……、一同定申可造土御門内裏之由」、『本朝世紀』久安四年六月二十八日條「攝

政・内大臣以下諸卿參殿上、被定申明年御元服以前土御門内裏可忩造之由」。この會議は、安原功「中世王權の成立―『國

家大事』と公卿議定―」(『年報中世史研究』一八號、一九九三年)表1「『殿上』定表」に殿上定として載せられている。

(26) 『本朝世紀』久安四年閏六月十五日條「先是權天文博士安倍晴道奏曰『撿群忌隆集文云、戊辰年名地梁。又新撰陰陽書云、

凡天地梁柱及當梁年、忌正堂正寢上梁竪柱云々。』仍去九日、下宣旨諸道、令勘此事。」。また、『台記』同年閏六月

十四日條に「範家送書云、今年當地梁、可有造宮否、仰諸道令勘了」とある「仰諸道令勘了」も、九日の宣旨のこと

を指すと考えられる。なお、久安四年のこの地梁に關する議論について、新日本古典文學大系『中外抄』(前掲)では、

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

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『左經記』長元元年戊辰(一〇二八)七月十九日條に見える、戊辰・戊戌を天梁、庚辰・庚戌を地梁の歳とする記述と、「凡

當梁歳、正寢正堂上梁竪柱、不利家長、多凶少福」という「當梁年」に關する記述によって説明されている。確かに

『左經記』には、戊辰を天梁とし(「戊辰・戊戌名天梁之歳」)、長元元年を「當梁年」とする(「今年當梁年也」)記述

が見える。しかし、久安四年に安倍晴道が引用した『群忌隆集』には、「戊辰年名地梁」とあり、戊辰は天梁ではな

く、地梁とされており、『台記』・『百錬抄』にも久安四年を地梁とする記事が見える。また、安倍晴道が引用する『新

撰陰陽書』には、「天地梁柱及當梁年」とあり、「天地梁柱」と「當梁」とが區別されている。從って、久安四年にお

ける議論には、『左經記』の右の記述とは異なる認識が見られる。そこで、このことについて考察してみると、『陰陽

博士安倍孝重勘進記』上卷、一「當梁年事」(村山修一編著『陰陽道基礎史料集成』、東京美術、一九八七年、に影印

されている東京大學史料編纂所藏本)には、「戊子・己卯・戊午・己酉年名當梁上梁凶。戊辰年名地梁。己巳年名地

柱竪柱凶。戊戌年名天梁上梁凶。己亥年名天柱竪柱凶。凡天地梁柱及當梁之年、忌正堂正寢上梁竪柱凶、餘屋舎無忌、

云々。已上見新撰陰陽書。」とあり、また、鎌倉時代中期の成立と考えられる『陰陽吉凶抄』四「犯土造作條」(詫間

直樹・高田義人編著『陰陽道關係史料』、汲古書院、二〇〇一年、第三章)、及び、『吉日考秘傳』六「犯土造作凶年」

にも同樣の『新撰陰陽書』の内容を述べた記述が見える。從って、『新撰陰陽書』では、戊辰を地梁とし、また天梁・

天柱・地梁・地柱の他に當梁年があり、「天地梁柱」とは、天梁・天柱・地梁・地柱の四者を合わせた表現であるこ

とがわかる。一方、安倍晴道が引用するもう一つの文獻『群忌隆集』については、『陰陽博士安倍孝重勘進記』に「戊

辰・戊戌、名天梁之歳。庚辰・庚戌爲地梁之歳。……。已上見群忌隆集。」とあり、また、『陰陽吉凶抄』・『吉日考秘傳』

にも同樣の記述があり、いずれも戊辰は天梁の歳とされる。これは、安倍晴道の引用する『群忌隆集』の文や、前述

の『新撰陰陽書』の文が戊辰を地梁とするのとは異なっている。そして、『陰陽吉凶抄』・『吉日考秘傳』において『群

忌隆集』の内容を述べる部分には、戊辰・戊戌を天梁、庚辰・庚戌を地梁とする記述の後、「戊子・戊午・己酉・己

卯 

雖不當梁、應天中仲、一名四擧歳、築室不利禁也」と記され、戊子・戊午・己酉・己卯の四擧歳を天梁・地梁と

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對比させて「不當梁」と述べていることから、天梁と地梁を合わせたものが當梁であると認識されていることがわか

る。このことから、當時、戊辰を天梁とするか地梁とするか、また、地梁を當梁年に含めるか否かについて説が分か

れていたことが知られ、同じ安倍氏の引用する『群忌隆集』でも、晴道の引くものは戊辰を地梁とし、孝重の記すも

のは天梁とするという違いが見られる。なお、當梁年とその典據については、山下克明『平安時代の宗教文化と陰陽道』

(岩田書店、一九九六年)第一部、第二章「陰陽道の典據」表2「平安時代の諸禁忌とその典據」に載せられている。

(27) 『台記』久安四年閏六月十五日條に「於殿上、議定今年當地梁、可有造宮否、及正堂正寢指何物乎候事。」、『百錬抄』

同日條にも「諸卿於殿上、定申諸道勘申當地梁年可有造宮哉否、并正堂正寢指何物哉事。」とあり、この二點が議論

されたことがわかる。また『本朝世紀』同日條には「今日、於殿上、被定造宮事可憚否由。」とあり、さらに會議に

參加した公卿の名が記されている。この會議は、安原功「中世王權の成立」表1(前掲)に殿上定として載せられて

いるが、「閏」の字が脱している。

(28) 『藤原通憲資料集』(前掲)一七三頁においても『本朝世紀』久安四年閏六月十八日條を略引し、通憲の勘申を裏付け

ると指摘されている。なお、『藤原通憲資料集』七八頁は、『愚管抄』卷五に「偏ニ信西入道世ヲトリテアリケレバ、

年比思ヒトヂタル事ニヤアリケン、大内ハナキガ如クニテ、白河・鳥羽二代アリケルヲ、有職ノ人ドモハ、『公事ハ

大内コソ本ナレ。コノ二代ハステラレテサタナシ』ト嘆キケレバ、鳥羽院ノ御時、法性寺殿ニ、『世ノ事一向ニトリ

ザタセラレヨ』ト仰ラレケル手ハジメニ、ソノ大内造營ノ事ヲ先申ザタセント企ラレケルヲキコシメシテ、『世ノ末

ニハカナフマジ。コノ人ハ昔心ノ人ニコソ』トテ叡慮ニカナハザリケレバ、引イラレニケリ。」とあるのは、藤原忠

通が内裏造營を發案し、藤原通憲がその協議に關わった久安四年閏六月のことで、本勘文「異朝明堂指圖記」はその

時のものであるとするが、『愚管抄』のこの箇所で述べられているのは大内裏造營のことであるのに對し、本勘文は

久安四年六月二十八日に決定された土御門内裏再建に關するものであるため、兩者を結びつけて考えることはできな

いと思われる。

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

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(29) この年の正堂・正寢に關する議論については、岩橋小彌太「少納言入道信西」(前掲)、新日本古典文學大系『中外抄』

(前掲)、文人研究会編『藤原通憲資料集』(前掲)において考察されている。

(30) 『本朝世紀』久安四年閏六月十五日條「師安勘申云、以大極殿可爲正堂、以小安殿可爲正寢」、『百錬抄』同日條「正

堂大極殿、正寢小安殿之由、師安勘申」。中原師安は、『本朝世紀』同日條に「明經主計頭中原朝臣師安」と見える。

(31) 『中外抄』下卷(『久安四年記』)久安四年七月一日條「申云、……、但作大極殿為正堂、以紫宸殿可為正寢⃞歟。」。中原師元、

及び、『中外抄』に見える中原師元の説については、新日本古典文學大系『中外抄』において考察されている。なお、

『藤原通憲資料集』(前掲)一七四頁では、中原師元が兄師安と同じ意見であったと解釋されているが、師安の説は正

寢を小安殿としているので、師元の發言中に見える説とは異なる。

(32) 後の安倍孝重(『陰陽博士安倍孝重勘進記』「當梁年事」、前掲)は「今案、以大極殿・小安殿、被准正堂・正寢歟」

と述べて、前者の説に近い立場をとるが、「但雖離宮、非無其憚歟」と述べ、離宮についても禁忌が及びうることを

述べる。なお、安倍孝重は久安四年の事例にも言及している。

(33) 『大日本古文書』(前掲)。

(34) この勘文の前半部分・後半部分それぞれの初めに根據として引用された諸文獻は、禮圖以外の、文章で引用されてい

るものについては、すべて現存しており、それらについては『大日本古文書』において對校されている(『大日本古

文書』本勘文の注記「今『周禮注疏』『禮記正義』『三禮圖』等ニ對照スルニ、誤脱少カラス、因ッテ此等ノ諸書ニ據

リ傍注ヲ加ヘタリ」)。なお、その後に記されている著者の意見を述べる部分には、『兩京新記』・『日本後紀』の佚文

が見られる(『藤原通憲資料集』、前掲)。『日本後紀』のこの佚文については、福山敏男「朝堂院概説」(福山敏男編『大

極殿の研究』、平安神宮、一九五五年)六八頁の註に言及されているほか、松崎宗雄「平安宮十二門の門號について」

(『建築史』二卷一號、一九四〇年)註二において、弘仁九年の門號改定について、「寢殿が仁壽殿となり南殿が紫宸

殿と改められたのもこの時である」と指摘する根據となっている「石清水文書」も、この勘文に引用されている『日

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本後紀』の佚文を指すと考えられる。

(35) この勘文で他に假名が用いられている箇所がなく、また、前に擧げられた二つの「正堂」の意味がいずれも「一者」

で始められることから、この「ノ」は「一」の誤寫で、次の「者」とともに、三つ目の意味を述べる書き出し「一者」

であった可能性が考えられる。

(36) (ⅰ)の例として擧げられている『周禮』鄭玄注は、『周禮』考工記・匠人の「夏后氏世室」についての「門堂三之二」

に對する注「門堂、門側之堂、取數於正堂」である。考工記は「夏后氏世室」の制について「堂脩二七、廣四脩一」

と記し、その門堂、即ち門の兩脇の堂(塾)の制については「門堂三之二」と記す。鄭玄は、「世室」を宗廟と解し、「三

之二」とは門堂の寸法を正堂(「堂脩二七、廣四脩一」)の三分の二にすることと解する。これが、この勘文において、

宗廟に正堂があるとした根據である。『周禮』考工記・匠人の鄭注については、田中淡『中國建築史の研究』(弘文堂、

一九八九年)第一篇、第一章「『考工記』匠人營國とその解釋」において考察されている。

(37) (ⅱ)については、その根據として、鄭注・賈公彦疏・『禮記正義』が擧げられている。勘文前半部分の冒頭で根據と

して擧げられている諸文獻のうち、この説の根據になっているものは、『周禮』考工記・匠人「殷人重屋」の鄭玄注「重

屋者、王宮正堂、若大寢也」と、それに基づく疏である。鄭玄は「重屋」を王宮の大寢(正寢・路寢)と解し、それ

を「王宮正堂」と稱している。

(38) 勘文が主として採用する(ⅲ)「正堂=明堂」の説は、ここでは蔡邕『明堂章句』に基づくと述べられている。そこで、

前半部分の冒頭に列擧された諸文獻からこの説の根據となる蔡邕の説を探すと、『禮記正義』に引く「蔡邕明堂月令

章句」に「取正堂之皃則曰大廟、……、取其堂則曰明堂、……、雖名別而實同」とある部分が、明堂と同一のものと

する大廟について、「正堂之皃」と表現しており、正堂を明堂とする根據に當たる。なお、勘文中、「正堂之皃」の「正堂」は、

『禮記』明堂位『正義』所引『明堂月令章句』・『蔡中郎集』卷十「明堂月令論」・『續漢書』祭祀志中劉昭注所引蔡邕『明

堂論』では、いずれも「正室」に作る。しかし、この箇所が「正室」である場合、勘文で蔡邕『明堂章句』に基づく

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

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とされている「正堂=明堂」説の根據が他に見出せないため、この勘文の原本においても「正堂」に作っていたと推

定され、この部分は誤寫ではないと考えられる。寫本において「室」と「堂」は字形が類似し、混用されることがあ

り(池田秀三「黄侃<

禮學略説>

詳注稿(一)」、『中國思想史研究』二八號、二〇〇六年、二八四頁)、勘文の著者は

この部分を「正堂」と認識して引用したと思われるが、引用された當時の『禮記正義』が「正堂」に作っていたかど

うかは明らかではない。なお、勘文のこの部分の「堂」も「室」に類似するが、前行の「明堂」の「堂」と同形であ

ることから、「堂」と釋讀できる。水府明德會藏本・『史料稿本』・『大日本古文書』・『藤原通憲資料集』いずれも「正

堂」と釋讀する。

(39) 帝國學士院編纂『帝室制度史』第四卷(帝國學士院、一九四〇年)第一編、第二章、第三節「皇位繼承の儀禮」。

(40) この『令義解』の解釋に關して、即位條の「惣祭天神地祇」とは、踐祚大嘗祭のことではなく、別の祭祀であるとす

る説がある(『講令備考』卷二。このことについては、田中初夫「大嘗祭と天神地祇惣祭」、『踐祚大嘗祭 

研究篇』所收、

木耳社、一九七五年、において考察されている。)。しかし、この勘文については、大極殿前に齋殿を設けることを述

べていることから、他の祭祀は當てはまらない。また、養老令で「即位」、勘文で「踐祚」とある違いについては、『令

義解』では踐祚と即位は同義であると解釋しているので(養老神祇令踐祚條『義解』「天皇即位、謂之踐祚」)、『令義解』

の解釋に從う限りにおいては、神祇令即位條をこの勘文の「踐祚之始」を解釋する際に參照することができる。なお

『延喜式』太政官にも「凡踐祚之初、有大嘗祭」とあり、「踐祚之初」に大嘗祭が行われることを述べる。

(41) 『周禮』春官・大史の疏「明堂・路寢及宗廟、皆有五室十二堂四門」、匠人の疏「如鄭意、以夏周皆有五室十二堂、明

殷亦五室十二堂」。

(42) 當時の大極殿は、延久四年(一〇七二)に再建された第三期の大極殿である。この後、保元三年(一一五八)に修造

され、安元三年(一一七七)に燒失した(福山敏男「朝堂院概説」第九章「平安宮の朝堂院(第三期)」、福山敏男編

『大極殿の研究』所收、平安神宮、一九五五年)。『年中行事繪卷』は保元三年の修造後の朝堂院を寫したものと指摘

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されているが(福山敏男「年中行事繪卷解説と付表」、福山敏男著作集五『住宅建築の研究』所收、中央公論美術出

版、一九八四年)、その大極殿の圖では室の存在は確認されない。但し、吉田歓『日中宮城の比較研究』(吉川弘文館、

二〇〇二年)第一部、第一章、第一節、一「唐代太極殿の空間構成」において、『大唐開元禮』の記述から、唐の太

極殿が東序・西序、東房・西房、室などの空間を構成要素としていたことが指摘されており、日本の大極殿において

も何らかの室もしくは室樣の空間が存在し、勘文はそのことを述べている可能性も否定できない。

(43) 『兩京新記』については、福山敏男「校注兩京新記卷第三及び解説」(福山敏男著作集六『中國建築と金石文の研究』、

中央公論美術出版、一九八三年、原載は一九五三年)、平岡武夫編集『唐代の長安と洛陽 

資料』(『唐代研究のしおり』

第六、京都大學人文科學研究所索引編集委員會、一九五六年)、辛德勇輯校『兩京新記輯校』(長安史蹟叢刊、三秦出

版社、二〇〇六年)に考察されている。

(44) 『藤原通憲資料集』(前掲)一七四頁。

(45) 『玉海』卷一百五十九「唐乾元殿 

乾陽殿」「隋曰乾陽、唐曰乾元・明堂」、『資治通鑑』唐紀一、武德元年七月、胡三省注「乾

陽殿、隋東都宮正殿」。長安・洛陽の宮殿については、徐松『唐兩京城坊攷』に、また、隋・唐の乾陽殿・乾元殿・

明堂については、張一兵『明堂制度研究』(中華書局、二〇〇五年)第五章、第三節、二、㈡「明堂與乾元殿的關係」

に考察されている。

(46) 『大唐六典』工部郎中員外郎條の注「武德五年、平充、乃詔焚乾陽殿及建國門、廢東都以爲洛州總管府。」但し、洛陽

を占領して東都を廢したのは武德四年であり(『唐會要』卷六十八)、『資治通鑑』では武德四年に「秦王世民觀隋宮殿、

……、命撤端門樓、焚乾陽殿、毀則天門及闕」と載せる。

(47) 『唐會要』卷三十「顯慶元年、勅司農少卿田汪、因舊殿餘址、修乾元殿。……。至麟德二年二月十二日、所司奏乾元殿成。」

(48) 『玉海』卷一百五十七「唐洛陽宮」「光宅元年九月甲寅曰神都宮名太初。」

(49) 『通典』卷四十四「明堂」「至〔垂拱〕四年二月、毀東都之乾元殿、就其地造明堂。」、『舊唐書』則天皇后紀「〔垂拱〕

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

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四年春二月、毀乾元殿、就其地造明堂。……。十二月……。明堂成。」

(50) 『通典』卷四十四「明堂」「證聖元年正月景申夜、佛堂災、延燒明堂、至明而盡。……。天册萬歳二年三月、造成、號

爲通天宮。……。開元五年、行幸東都、……、以武太后所造明堂有乖典制、遂拆、依舊造乾元殿。……。十年、復題

乾元殿爲明堂。……。二十五年、……、復依舊改爲乾元殿。」但し、洛陽の乾元殿と明堂の經緯については、史料に

よって記載に異同が見られ、それらについては、張一兵『明堂制度研究』第五章、第三節、二、㈡「明堂與乾元殿的

關係」(前掲)において考察されている。

(51) 『玉海』卷一百五十九「唐曰乾元・明堂、後改含元。」、王士點『禁扁』卷二、殿、唐「〔開元〕二十七年毀明堂之上層

爲新殿、明年改含元。」。

(52) 『玉海』卷一百六十「韋述兩京記、成於開元十年」。この記述については福山敏男「校注兩京新記卷第三及び解説」(前

掲)において考察され、その説を變更するだけの資料のないことが論じられている。

(53) 福山敏男「校注兩京新記卷第三及び解説」(前掲)一八〇頁は、『兩京新記』卷三の注に「今為戸部尚書尹思貞居之」

とあることについて、尹思貞は開元四年に卒していることから、『兩京新記』の第一次の稿本がその少し前に成立し

た可能性を指摘している。また、平岡武夫「唐代の長安と洛陽 

資料篇 

序説」(『唐代の長安と洛陽 

資料』、前掲)

は、その尹思貞の記述について、『兩京新記』が何時を現在として記述しているかを考える上での一つの資料となる

ことを指摘している。開元四年は明堂の呼稱が用いられていた時期であり、本勘文に引く『兩京新記』の明堂の記述

は、尹思貞の記述と時期の上で合致する。

(54) 則天武后が乾元殿の場所に明堂を建てたことの經緯について、『舊唐書』禮儀志二には「則天臨朝、儒者屢上言請創明堂。

則天以高宗遺意、乃與北面學士議其制、不聽羣言。」と記されている。從って、則天武后の制度は、北面學士の意見

によるものであると考えられる。しかし、その經學的な根據は明らかではない。學説の上では、『舊唐書』禮儀志二

に載せる貞觀十七年五月の顏師古の議が、明堂を路寢と解しており、宮中の正殿を明堂とする點で、則天武后の制度

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に近いが、顏師古は、具體的に唐のどの宮殿が路寢即ち明堂に相當するのかについては述べていない。なお、それ以

後の禮圖には、王宮内の宮殿を明堂とする圖が以下のように見える。①宋の楊甲『六經圖』「周禮文物大全圖」の「朝

位寢廟社稷圖」では、明堂を王宮の應門外・雉門内の南正面に置いている。②宋の葉時『禮經會元』卷一「朝儀」の

「路寢圖」では、明堂を王宮の路門外・應門内の南正面に置いている。③元の韓信同撰・清の王遐春校『韓氏三禮圖

説』卷下の「天子三朝」の圖も、明堂を王宮の路門外・應門内の南正面に置くが、『禮經會元』の圖とは異なっている。

明の劉績『三禮圖』卷一の「天子三朝」の圖は、韓信同の圖とほぼ同じである。④明の王應電『周禮圖説』卷上の「天

子五門三朝圖」では、路寢を明堂とする。王應電の明堂についての解釋は、同卷の「明堂圖説」において詳細に述べ

られている。そこでは、明堂は天子の常居であることから、王の六寢が明堂と總稱されるとし(「路寢者、天子之常居。

即大寢也。禮記月令、春居青陽、夏居明堂、季夏居大室、秋居總章、冬居玄堂、以爲天子之常居。故知周禮六寢當有

此等之名也。……。大寢一、毎朝聽政之所、在于五寢之前。五小寢者、乃四時便居、附于大寢之後。故總謂之明堂也。」)、

明堂の五室とは五つの小寢のことであるとする(「周禮攷工記曰、周人明堂五室、謂之五室者、即五小寢也」)。明堂

の五室を五つの小寢のことと解釋するものとして、『周禮圖説』卷上には「呉氏明堂圖」を擧げ、「明堂圖説」の中で

は呉氏の説を紹介するが、その呉氏の説とは、『禮記纂言』卷六に見える呉澄の説と考えられる。以上の①から④ま

での諸圖は、いずれも明堂が王宮内に宗廟とは別に置かれると解する點で、則天武后の制度との類似性が認められる。

(55) 賈疏の原文には「路寢、制如明堂、以聽政。路、大也。人君所居皆曰路。」とある。「制如明堂」とは、鄭玄が路寢と

明堂とはその構造が同じであると解釋したことに基づく記述である。從って、勘文が「路寢制」で句切り、「如明堂」

を省略しているのは、正確な引用ではないが、その引用に即して譯す。

(56) 旬儀については、吉田歓『日中宮城の比較研究』(前掲)第二部、第二章「旬儀の成立と展開」において考察されている。

(57) この勘文の論述の中心が、攝政忠通の質問と比べて、正堂・正寢の定義に偏っているのは、閏六月十五日の公卿會議

の議題が「正堂正寢指何物乎」であり、(1)で考察したように、當時の議論が正堂・正寢の定義を中心とするもので

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

155

あったためと考えられる。

(58) 「王宮正堂正寢勘文」「三禮圖曰、舊圖以此爲王宮五門及王與后六寢之制。今亦就改而定之。孔義依周禮解王六寢、路

寢在前、是爲路寢。五在後、通名燕寢。其一在東北、王春居之。一在西南、王秋居之。一在東南、王夏居之。一在西

北、王冬居之。一在中央、王季夏居之。凡后妃已下、更次序而上、御於王之五寢。又曰、鄭玄、后正寢在前、五小寢

在後。若如此説、可與左三宮右三宮之義互相發明。如王六寢、其制自顯。」聶崇義『三禮圖』「宮寢制」「舊圖以此爲

王宮五門及王與后六寢之制。今亦就改而定之。孔義依周禮解王六寢、路寢在前、是爲正寢。五在後、通名燕寢。其一

在東北、王春居之。一在西南、王秋居之。一在東南、王夏居之。一在西北、王冬居之。一在中央、王季夏居之。凡后

妃已下、更與次序而上、御於王之五寢。……。先鄭云、后正寢在前、五小寢在後。若如此説、可與左三宮右三宮之義

互相發明。如王六寢、其制自顯。」

(59) この勘文に引く『三禮圖』の「六寢圖」には、朱筆で「路寢」・「皇后正寢」・「小寢」・「五門」という注記が付されている。

この注記の内容は正確ではなく、王と后の六寢の位置が逆になっているうえ、路寢と后の正寢は五つの小寢よりも南

(下方)にあるべきであるが、北にある點は誤りである。また、周制の圖であるにもかかわらず、「皇后」とするのも

正確ではない。これらの注記は現存する聶崇義『三禮圖』の諸本には見えないため、勘文作成時もしくはそれ以後に

説明のために記されたものと考えられるが、本勘文の「正寢事」の意見を述べる中に、周の六寢制を説明して「皇后

又有六寢」とあり、類似の誤記が見られることから、勘文作成時に、后とすべき所が皇后と誤記されたと考えられる。

(60) 藤原通憲は正倉院御物の投壺の壺を『三禮圖』の圖によって同定したとされるが(『本朝世紀』康治元年五月六日條)、

聶崇義『三禮圖』にも投壺の壺の圖が見える。なお、太田静六『寢殿造の研究』(前掲)一六頁ー一七頁において、

この勘文に引用された『周禮』や『三禮圖』について、遣唐使廢止後はこれらの超高級學術書は私貿易では輸入され

ず、これらは遣唐使により將來されたものであると指摘されているが、この勘文に引用された『三禮圖』は聶崇義の

『三禮圖』と考えられることから、遣唐使廢止後に傳來した書である。

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(61) 但し、『日本國見在書目録』や『通憲入道藏書目録』にその名が見えないことから、原本からの直接の引用ではない

可能性が考えられる。なお、姚振宗『隋書經籍志考證』は、「周室王城明堂宗廟圖」の注記において、「按、張氏名畫

記及日本書目、並載鄭阮等三禮圖十卷、似此一卷在其内」と指摘する。これは、鄭玄・阮諶ら撰の『三禮圖』が、『隋書』

經籍志には九卷と著録されるのに對し、『歷代名畫記』と『日本國見在書目録』(『周禮圖』)にはいずれも十卷と著録

され、隋志の九卷よりも一卷多いことから、これらの十卷本『三禮圖』(『周禮圖』)には、『周室王城明堂宗廟圖』一

卷が含まれていたと推測するものである。もし姚振宗の指摘するように、『日本國見在書目録』に見える「周禮圖十卷」

の中に『周室王城明堂宗廟圖』が含まれていたとすれば、「王宮正堂正寢勘文」に、『日本國見在書目録』・『通憲入道

藏書目録』には見えない『周室王城明堂宗廟圖』が引用されていることが理解されるが、卷數だけからの推測では根

據が弱く、このことの是非については明らかではない。

(62) 姚振宗『隋書經籍志考證』「周室王城明堂宗廟圖」の注記「祁當爲阮」。

(63) 姚振宗が『歷代名畫記』・『日本國見在書目録』所載の『三禮圖』(『周禮圖』)の中に『周室王城明堂宗廟圖』が含ま

れていると解したのは、「祁諶」を『三禮圖』の撰者の「阮諶」と認定したことに基づく。なお、興膳宏・川合康三

『隋書經籍志詳攷』(汲古書院、一九九五年)においても「祁諶」が「阮諶」に改められているが、その阮諶について

傳未詳とする。これは、『三禮圖』の撰者の阮諶とは別人の可能性があることによるものと思われる。

(64) 阮諶『三禮圖』と、その撰者の阮諶については、『經義考』卷一百六十三、姚振宗『隋書經籍志考證』、興膳宏・川合

康三『隋書經籍志詳攷』(前掲)において考察されている。

(65) 『玉海』のこの部分では「梁氏」の『三禮圖』として引用されるが、『宋史』聶崇義傳に載せる同じ張昭らの奏議には

「梁正」とあることから、『崇文總目』に「三禮圖九卷 

梁正撰」と載せる梁正『三禮圖』と考えられる。

(66) 阮諶が禮學を學んだという「綦毋君」については、『玉海』卷五十六に、同じ張昭らの議を載せ、「潁川綦毋君」と述

べている。『隋書』經籍志には「後漢侍中阮諶」とあることから、阮諶が禮學を學んだのは後漢時代であったと推定

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

157

される。『風俗通』卷三「愆禮」に「然潁川有識陳元方・韓元長・綦毋廣明、咸嘉是焉」とあり、潁川の綦毋廣明に

言及し、『元和姓纂』卷二には「魏有綦毋廣明、與管寧爲友」とあり、綦毋廣明を管寧の友人とする。なお、『三國志』

魏書管寧傳には、管寧が潁川の陳寔を敬したことが見え(「敬善陳仲弓」)、その裴松之注に引く『先賢行状』には荀

爽らも陳寔に學んだことが見えるが(時潁川荀慈明・賈偉節・李元禮・韓元長皆就陳君學」)、『元和姓纂』には、綦

毋廣明とは別に、荀爽とともに陳寔に師事した「綦毋誾」を載せる(「綦毋誾、與荀爽事陳太邱」)。王利器は、『風俗通』

に見える「綦毋廣明」を、劉表のもとで『五經章句』の撰定に携わった「綦毋闓」のことと推測する(『風俗通義校注』、

中華書局、一九八一年)。

(67) 『隋書』經籍志の『三禮圖』は、撰者を「等」と記すことから、諸家の禮圖を後に混成したものである可能性も考えられる。

(68) 池田秀三「黄侃<

禮學略説>詳注稿(一)」(前掲)補説22。

(69) 宇文愷「明堂議表」については、田中淡『中國建築史の研究』(前掲)第三篇、第三章「建築史家宇文愷」において

考察されている。

(70) 明堂についての諸説とその圖については、池田秀三「盧植とその『禮記解詁』(下)」(『京都大學文學部研究紀要』三〇號、

一九九一年)、張一兵『明堂制度研究』(前掲)、池田秀三「黄侃<

禮學略説>

詳注稿(一)」(前掲)において考察さ

れている。

(71) 池田秀三「黄侃<

禮學略説>

詳注稿(一)」(前掲)、二八九頁。

(72) このことから、後漢の明堂は九室であったと考えられる(池田秀三「盧植とその『禮記解詁』(下)」一七ー一八頁、

及び、池田秀三「黄侃<

禮學略説>

詳注稿(一)」二九〇ー二九一頁)。そして、この九室の明堂圖は、聶崇義『三禮

圖』の九室圖に踏襲されている可能性があるため、後漢の明堂は聶崇義『三禮圖』の九室圖のような九室であった可

能性が考えられる。また、前漢長安城南郊遺址(大土門村遺址。唐金裕「西安西郊漢代建築遺址發掘報告」、『考古學報』

一九五九年第二期)にも、聶崇義『三禮圖』の九室状の土台が確認され、それが明堂の九室である可能性が考えられる。

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(73) 『禮記』月令・鄭注「青陽左个、大寢東堂北偏」「青陽大廟、東堂當大室」「青陽右个、東堂南偏」、明堂・緫章・玄堂

についても同樣に述べられる。『周禮』大史の賈疏には、明確に「大室正東之堂、謂之青陽。正南之堂、謂之明堂。

正西之堂、謂之緫章。正北之堂、謂之玄堂。」と述べられる。

(74) 『周禮』考工記・匠人・鄭注「木室於東北、火室於東南、金室於西南、水室於西北、……。土室於中央、……。」

(75) 『周禮』考工記・匠人・鄭注「此三者、或舉宗廟、或舉王寢、或舉明堂、互言之、以明其同制。」

(76) 『藝文類聚』卷三十八に引用される『三禮圖』には「明堂者、周制五室、東爲木室、南火、西金、北水、土在其中」とあり、

周の明堂の五室の名を木・火・金・水・土の五室とする。但し、その場所については、東北・東南・西南・西北の四

隅と中央ではなく、東西南北の正面と中央と解するので、鄭玄説とは異なり(孫詒讓『周禮正義』匠人)、また、勘

文の『周室王城明堂宗廟圖』の「明堂圖」とも異なる。

(77) 但し、鄭玄は、周の明堂を太微五帝(蒼帝・赤帝・白帝・黒帝・黄帝)の廟とし(『史記』五帝本紀『集解』「鄭玄曰、

文祖者、五府之大名、猶周之明堂」)、一帝ごとに一室を配當すると解する(『禮記』玉藻の『正義』に引く『駁五經異義』「周

人明堂五室、帝一室、合於數」)。そして、青陽などの五つの名は、周における太微五帝それぞれの廟の名とされるの

で(『史記』五帝本紀『正義』に引く『尚書帝命驗』の注)、蒼帝・赤帝・白帝・黒帝・黄帝が配當される木室・火室・

金室・水室・土室を、周については「青陽之室」・「明堂之室」・「惣章之室」・「玄堂之室」・「大廟大室」と表現したと

しても、鄭玄説と明らかに矛盾すると言うことはできない。

(78) 但し、この點については、誤寫の可能性も考えられる。

(79)

この圖については、太田静六『寢殿造の研究』(前掲)一六頁、圖11「周室王城宗廟明堂宮室圖所載六寢圖」として、

『大日本古文書』所收の圖が模寫され、圖中の文字の釋文も記されている。

(80) なお、この圖を除き、勘文に引用された他の三圖の題が「……圖所載(之)……圖」となっているのに對し、この圖

は「……圖所載圖」となっており、題名の體裁が異なっている。他の三圖の題から考えると、この圖の題も本來「……

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

159

圖所載(之)……圖」であった可能性が考えられ、他の三圖の題の體例と同樣に、もとは「周室王城宗廟明堂圖所載

宮室圖」に作っていた可能性が考えられる。

(81) 城壁の北東部と西部に「風師處於此」「内師處於此處」と釋讀される注記が見える。「内師」は禮學上の語としては見

えないので、一方が「風師」であることから、「雨師」の誤りであると考えられる。風師・雨師を祭る場所・方角に

ついては諸説あるが、この圖と完全に合致するものは見られない。風師・雨師については『五禮通考』卷三十六に考

察されている。

(82) 圖の中央に「國門廣六尺」という注記が見えるが、その根據は明らかではない。

(83) 『周禮』考工記・匠人「王宮……、宮隅之制七雉、城隅之制九雉」、「匠人營國、……、傍三門」。經學上の周の王城の

構造については、賀業鉅『考工記營國制度研究』(中國建築工業出版社、一九八五年)に考察されている。

(84) また、圖中右上の王宮外の道に、「城内□道謂o廣五尺六尺」と釋讀される注記が見える。この意味についても不明

であるが、『周禮』考工記・匠人に、「環涂七軌」とあり、王城内の周圍をめぐる道の幅が七軌、即ち五丈六尺である

ことが記される。「五尺六尺」が「五丈六尺」の誤記であるとすれば、そのことを述べたものである可能性が考えられる。

(85) 圖の上方(南)の宮門には、外側から「皐」「庫門」「應」という注記が見える。これによれば、外側から皐門・庫門・

應門の順とされていることになるが、宮城右方の注記には、内側から「路門、廣丈六尺」「應門、廣二丈四尺」「雉門・

庫門・皐門、廣未聞」と記されているので、外側から皐門・庫門・雉門・應門・路門の順であることがわかる。なお、

ここに記されている路門の幅について、『周禮』考工記・匠人には「不容乘車之五个」と記される。鄭玄はその注で

「乘車廣六尺六寸、五个三丈三尺。言不容者、是兩門乃容之。兩門乃容之、則此門半之、丈六尺五寸」と言い、路門

の兩門で五臺の乘車がちょうど入るという意味で解し、路門一門の幅を一丈六尺五寸と解する。しかし、この圖では

路門の幅を「丈六尺」と記しているので、兩門でも三丈二尺となり、乘車五个の廣さである三丈三尺に一尺足りない。

これは、鄭玄の説とは異なっている。一方、應門の幅については、『周禮』考工記・匠人に「應門二徹參个」とあり、

水府本「環」

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鄭注に「二徹之内八尺、三个二丈四尺」とあるので、この圖の注記「應門、廣二丈四尺」は鄭注と合致する。また、

五門の順序について、『周禮』秋官・朝士の鄭玄注に「鄭司農云、王有五門。外曰皐門、二曰雉門、三曰庫門、四曰

應門、五曰路門。路門、一曰畢門。……。玄謂、……、是庫門在雉門外必矣。如是、王五門、雉門爲中門。」とあり、

鄭玄は鄭衆説の雉門と庫門の順序を逆にし、外から皐門・庫門・雉門・應門・路門の順とするが、この圖の五門も鄭

玄説と合致する。但し、蔡邕『獨斷』卷上にも「宗廟社稷皆在庫門之内・雉門之外」とあり、外から庫門・雉門の順

とするので、鄭玄以外の説によった可能性も考えられる。また、勘文の圖の庫門外には「舊説云外朝堂庫門從横一曰

出當槐棘位」と釋讀される注記が見える。その意味は明らかではないが、外朝には三槐九棘の位が置かれることから

(『周禮』秋官・朝士)、外朝の位置について述べたものと考えられる。外朝の位置について、鄭玄は、雉門外とする

一方で(『周禮』秋官・小司寇・注)、庫門外・皐門内と推測しており(『周禮』秋官・朝士・注)、説が一定していない。

この注記はこのような外朝の位置に關わる異説を記したものと考えられる。このほか、皐門内東側に「左進左石」と

いう注記が見える。この意味も明らかではないが、「左」・「石」という字から、同じく『周禮』朝士に「左嘉石、平

罷民焉」と見える外朝の「嘉石」と關係する可能性が考えられる。

(86) 王の六寢の小寢には、「三婦人直宿於此」、「九嬪直宿於此」、「廿七世婦直宿於此」、「八十一女御直宿於此」と注記される。

これらは『禮記』昏義の「古者天子后立六宮。三夫人・九嬪・二十七世婦・八十一御妻、以聽天下之内治、以明章婦順」、

及び、『周禮』天官・九嬪の「各帥其屬、以時御敍于王所」を圖示したものと考えられる。また、后の六寢の箇所には、「皇

后朝、是□諸妾相朝之處」と記されている。これは、諸侯では『春秋左氏傳』成公十八年に見える「内宮之朝」に當

たるものと考えられ、その『正義』には「於夫人之宮、有朝羣妾之處、故云内宮之朝」とある。なお、この注記の「皇

后」という表現は、勘文に引用された『三禮圖』所載「六寢圖」の注記と同じく、適切ではない。前述のように、勘

文作成時に誤記されたものと考えられる。

(87) 九卿の九室の場所について、鄭玄は、「外、路門之表也」と述べ、路門外の正朝にあるとする。從って、路門外左右

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

161

の建造物がこれに當たるとすれば、鄭玄説と合致する。また、注記の「明」は「朝」の誤寫である可能性が考えられる。

(88) 「閨」の字は、不明確であるが、水府明德會藏本・『史料稿本』・太田静六『寢殿造の研究』いずれも「閨」と釋讀する。

「闈」の可能性も考えられる。

(89) 九嬪の九室の場所については、鄭玄注に「内、路寢之裏也」とあり、この圖の建造物も路寢の後方にある。「閨門左右」

の根據は明らかではない。

(90) 『周禮』地官・司市「大市、日昃而市。百族爲主。朝市、朝時而市。商賈爲主。夕市、夕時而市。販夫販婦爲主。」

(91) 水府明德會藏本では明確に「璧雍」に作る。

(92) 辟雍及び明堂についての諸説は、池田秀三「盧植とその『禮記解詁』(下)」(前掲)、張一兵『明堂制度研究』(前掲)、

池田秀三「黄侃<

禮學略説>詳注稿(一)」(前掲)において考察されている。

(93)

經學上太廟は宮中に置かれると解釋される場合が多いが、この説において太廟を郊に置くと解釋した場合は、辟雍

も郊に置かれることになる。

(94) 『毛詩』靈臺の『正義』に引く『異義』「韓詩説、辟廱者、天子之學。……。在南方七里之内、立明堂於中。」、『大戴禮記』

明堂の盧辯注「韓詩説、明堂在南方七里之郊」。但し、周の辟雍とは明言されていない。

(95) 『禮記』王制『正義』「云『此小學大學殷之制』者、以下文云『殷人養國老於右學、養庶老於左學』、則左學小、右學大。」

なお、王制のこの本文は、内則にも見える。

(96) 『禮記』王制、鄭玄注「上庠・右學、大學也。在西郊。下庠・左學、小學也。在國中王宮之東。東序・東膠、亦大學。

在國中王宮之東。西序・虞庠、亦小學也。西序在西郊。周立小學於西郊。」

(97)

鄭玄は、この節において、虞・殷と、夏・周の制度を對照させて解釋している。

(98) 鄭玄は、『禮記』王制の「小學在公宮南之左」という記述を殷制と解釋するが、その一方で、『禮記』王制の「左學」

について、それを殷の小學とし、「國中王宮之東」にあると解釋する。從って、鄭玄は、殷の小學の場所について、『禮

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162

記』の本文によれば「王宮南之左」と言うべきところを、「國中王宮之東」と言い換えたことになる。このことから、

鄭玄が周の大學の場所として述べる「國中王宮之東」も、「國中王宮南之左」、即ち、王宮の南東という意味である可

能性が考えられる。

(99) 靈臺の詩は、その序に「文王受命、而民樂其有靈德以及鳥獸昆蟲焉」とあり、鄭玄も「文王受命、而作邑于豐、立靈

臺」と述べる。

(100)

この『駁五經異義』の文については、皮錫瑞『駁五經異義疏證』卷八、池田秀三「盧植とその『禮記解詁』(下)」(前

掲)、池田秀三「黄侃<

禮學略説>

詳注稿(一)」(前掲)において考察されている。

(101)

馬國翰は、この劉氏の説を、『隋書』經籍志に載せる北魏劉芳の『禮記義證』の説とする(『玉函山房輯佚書』)。

(102) 『毛詩』靈臺『正義』「王制言大學在郊、乃是殷制。其周制、則太學在國。太學雖在國、而辟廱仍在郊。何則、囿・沼、

魚鳥所萃。終不可在國中也。辟廱與太學爲一。所以得太學移而辟廱不移者、以辟廱是學之名耳。王制以殷之辟廱與大

學爲一、故因而説之。不必常以太學爲辟廱。小學亦可矣。周立三代之學、虞庠在國之西郊。則周以虞庠爲辟廱矣。」

(103) 『毛詩』靈臺『正義』「異義『……。左氏説、天子靈臺在太廟之中、壅之靈沼、謂之辟廱。……。』……。盧植禮記注

云『明堂即大廟也。天子太廟、上可以望氣、故謂之靈臺。中可以序昭穆、故謂之太廟。圓之以水、似璧、故謂之辟廱。

……。』蔡邕月令論云『取其宗廟之清貌、則曰清廟、取其正室之貌、則曰太廟、取其堂、則曰明堂、取其四門之學、

則曰太學、取其周水圓如璧、則曰辟廱。異名而同事、其實一也。』穎子容春秋釋例云、『太廟有八名、其體一也。肅然

清静、謂之清廟。行禘祫、序昭穆、謂之太廟。告朔行政、謂之明堂。行饗射、養國老、謂之辟廱。占雲物、望氣祥、

謂之靈臺。其四門之學、謂之太學。其中室、謂之太室。總謂之宮。』……。此等諸儒皆以廟・學・明堂・靈臺爲一。」

(104) 『禮記』祭義「右社稷而左宗廟」、『周禮』春官・小宗伯「右社稷、左宗廟」、『周禮』考工記・匠人「左祖右社」。

(105)

蔡邕『獨斷』卷上「宗廟社稷、皆在庫門之内・雉門之外。」

(106) 『禮記』王制の鄭玄注で周の大學の場所を述べる「國中王宮之東」は、前述のように、「國中王宮南之東」の意である

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

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可能性が考えられるので、その場合には、勘文の圖と合致する。しかし、この場合においても、鄭玄は、辟雍を宗廟

とは異なる施設であるとするので(『毛詩』靈臺『正義』「鄭以靈臺・辟廱在西郊、則與明堂・宗廟皆異處矣。」)、圖

中の王社の反對側に、辟雍のほかに宗廟が置かれるはずであるが、勘文の圖においては、璧雍のほかに宗廟に當たる

施設が見られないことから、鄭玄説とは一致しないと認められる。

(107)

壇が二つあるのは、一つは稷壇である可能性が考えられる。同樣に、大社や、「貳社」(「武社」)と注記される建造物

も壇が二つずつ畫かれるが、一つは稷の壇である可能性が考えられる。

(108)

なお、この圖の五門は、前述のように、王宮外側から皐門・庫門・雉門・應門・路門の順であると考えられるが、璧

雍と王社は、外側から第二番目と第三番目の門の間、即ち、庫門と雉門の間に畫かれている。この點は鄭玄説と合致

するが、cの説をとる蔡邕『獨斷』の「宗廟社稷皆在庫門之内・雉門之外」とも合致する。

(109)

小學についての諸説は、秦n田『五禮通考』卷一百六十九に考察されている。

(110)

また、『禮記』祭義「祀先賢於西學」の鄭玄注でも、「西學、周小學也」と述べる。

(111)

このことなどから、『禮記』王制の「虞庠在國之西郊」について、「西郊」は「四郊」の誤りであるとする説がある。

このことについては、孫志祖『讀書脞録續編』卷一、段玉裁『經韵樓集』卷十一・卷十二、皮錫瑞『經訓書院自課文』

卷三において論じられている。『禮記』祭義に「天子設四學」とあることから、四郊に小學を立てるのは天子であり、

西郊のみに立てるのは諸侯であると考えることもできる。

(112) 『魏書』劉芳傳「芳表曰、『……。案王肅注云、天子四郊有學、去王都五十里。……。』」

(113) 『通典』卷五十三「大學」「崔靈恩云、『……。二云、凡立學之法、有四郊及國中。……。』」、『禮記』祭義『正義』「皇

氏云、四郊虞庠、以爲四郊皆有虞庠」及び「天子設四學、以有虞庠爲小學、設置於四郊、是天子設四學、據周言之」。

(114)

このほか、四郊の小學と同樣に、大學に對して四方に置かれる學として、門闈の學がある。これは蔡邕『明堂月令論』

において述べられるもので、蔡邕によれば、諸文獻に太學と東西南北の學が見えるが、これは、『周禮』地官の師氏

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が東門・南門の「門」を、保氏が西門・北門の「闈」を管掌して國子を教えるもので、この「門闈の學」が、即ち東

西南北の學であるという。そして、東西南北の學に對して、中央にある中學が、即ち太學であるとする。この門闈の

學を、大學に對して、小學と呼ぶ場合があり、『大戴禮記』保傅の盧辯注に「小學謂虎闈師保之學也」(『儀禮經傳通解』

卷十八の注、及び、王聘珍『大戴禮記解詁』による)とある「虎闈師保之學」は、門闈の學を指している。門闈の學は、

『周禮』師氏に「居虎門之左、司王朝」とあるので、宮中に置かれるものであり、勘文の圖の小學とは異なっている。

この『周禮』師氏・保氏の規定は、西晉において設立された國子學の根據となったものである(西晉における國子學

の設立については、渡邉義浩「西晉における國子學の設立」、『東洋研究』一五九號、二〇〇六年、において考察され

ている)。なお、北魏の太和二十年、國子學・太學とは別に、「四門小學」を立て、「四門博士」を置いたことが見え

る(『魏書』儒林傳「太和中、……。及遷都洛邑、詔立國子・太學・四門小學。」、『魏書』劉芳傳「芳表曰『……。又

去太和二十年、發敕、立四門博士、於四門置學。」)。ここで「四門小學」とあり、また、「四門博士」は「四門小學博

士」(『魏書』官氏志)とも言われているので、これは小學であることがわかり、また、門闈の學を典據とする國子學

とは別に設けられていることから、蔡邕『明堂月令論』に「取其四門之學、則曰太學」と見える四門の學や、門闈の

學とも異なるものである。從って、この四門小學は、經學上一般に四郊に置かれるとされる小學が、四門に置かれる

と解釋されたものと考えられる(『五禮通考』卷一百六十九も「先儒又謂四郊皆有小學。後世既立國子學、又立四門學、

蓋取於此。」と指摘する)。勘文に引用された圖では、小學が郊ではなく三方の國門内の近くに設けられており、北魏

において小學として設けられた四門小學と共通點が認められる。このことから、北魏の四門小學と、この禮圖に見え

る小學とは、學説上、何らかの關連がある可能性が考えられる。

(115)

社の位置についての諸説は、『五禮通考』卷四十一、孫詒讓『周禮正義』の大司徒、陳立『白虎通疏證』卷三、下斗米

晟「祭祀四考」(『大東文化大學漢學會誌』六號、一九六三年)において考察されている。

(116) 『禮記』祭法『正義』「其王社所在、書傳無文。或云、與大社同處、王社在大社之西。崔氏並云、王社在藉田、王自所

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

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祭以供粢盛。今從其説。」

(117) 『唐會要』卷二十二「禮官韋叔夏・博士張齊賢等議曰、『……。或云、兩社同處、王社在大社之西。崔氏・皇甫氏並云、

王社在藉田。……。』」

(118) 『禮記』祭統「天子親耕於南郊、以共齊盛。」

(119) 『禮記』祭法『正義』「大社在庫門内之右邊。故小宗伯云右社稷」。大社を王宮内、王社を籍田の社とする説は、他に、『玉

海』卷九十九に引く『五經通義』に「大社在中門之外邊、……。王社在藉田之中。」とある。また、『周禮』地官・大

司徒の賈疏は、大社・王社ともに王宮内とする(「於中門之外右、設大社・大稷・王社・王稷」)。なお、『續漢書』祭

祀志下の劉昭注に引く『周禮』馬融注に「或曰、王者五社、太社在中門之外、惟松」とあるが、他に東社・西社・南

社・北社が述べられ、このような五社説は、『白虎通』社稷に引く『尚書』逸篇に見えるものの、大社・王社の二社

を述べる『禮記』祭法とは異なる説である。

(120)

勘文の圖が王社を王宮内、大社を王宮外とするのは、王社は王自身のため、大社は群姓のためという祭法に見える二

社の目的の違いによるものと考えられる。下斗米晟「祭祀四考」(前掲)において指摘されているように、張載は、『禮

記』祭法の記述から、大社は國外にあり、王社は城内にあるとするが(『經學理窟』「月令統」)、その説は勘文の圖と

類似する。なお、『宋書』禮志四(及び『晉書』禮志上・『通典』卷四十五)に載せる傅咸の表に引用する王肅の論で

は、太社は王が京都に自ら立てるものではないとしているが、その考え方も、勘文の圖の立場と類似している。

(121) 『太平御覽』卷五百三十二に引く『白虎通』は「戒社」に作る。また、『春秋公羊傳』哀公四年六月の何休注も「戒社」

に作る。

(122)

そのほか、「亳社」・「勝國之社」などの呼稱がある。これらの社については、『五禮通考』卷四十一、下斗米晟「祭祀

四考」(前掲)に考察されている。

(123) 『禮記』郊特牲「天子大社、必受霜露風雨、以達天地之氣也。是故喪國之社、屋之、不受天陽也。」また、『春秋公羊傳』

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哀公四年に「亡國之社、蓋揜之、揜其上、而柴其下。」とあり、『春秋穀梁傳』哀公四年にも「其屋亡國之社、不得達

上也」とある。

(124) 水府明德會藏本・太田静六『寢殿造の研究』は「貳社」と釋讀し、『史料稿本』は「武社」と釋讀する。

(125) 『春秋穀梁傳』哀公四年「亡國之社、以爲廟屏。」

(126) 『白虎通』社稷「在門東、……。或曰、……、置宗廟之牆南。禮曰、『亡國之社稷、必以爲宗廟之屏』、示賤之也。」

(127) 『禮記』郊特牲『正義』「其亡國之社、……。或在廟、或在庫門内之東。」

(128)

このほか、勘文の圖には、王社の隣の建造物に注記があり、蟲損のため判讀が難しいが、『史料稿本』は「小社」と

釋讀する。これについては、明らかではない。

(129)

本稿は、日本學術振興會特別研究員(PD)として、日本學術振興會特別研究員研究奨勵金、竝びに、文部科學省科

學研究費補助金の交付を受けて行った研究の成果である。

                                (二〇〇六年一二月二八日、本稿を受理―編集部)

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藤原通憲「王宮正堂正寢勘文」とその禮圖について

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圖版1 :石

清水八幡宮所藏『異朝明堂指圖記』前半部分禮圖

冩眞資料提供:(財)京都國際交流文化財團

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圖版2 :石

清水八幡宮所藏『異朝明堂指圖記』後半部分禮圖

冩眞資料提供:(財)京都國際交流文化財團