from marcus garvey to bob marley: rastafarianism and reggae

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茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)58 号(2009)87 − 107 マーカス・ガーヴェイからボブ・マーリーへ: ラスタファリアニズムとレゲエを結ぶもの 曽雌 和英 *・君塚 淳一 ** (2008 年 11 月 30 日受理) From Marcus Garvey to Bob Marley: Rastafarianism and Reggae Kazuhide SOSHI*, and Junichi KIMIZUKA** Received November 30, 2008はじめに 18 世紀,奴隷貿易によってアフリカから多くのアフリカ人たちが奴隷として北アメリカやカリブ 海諸国に強制的に連行された。彼らは,奴隷商人によって売買された後,主にプランテーションに おける労働力として重宝され,過酷な労働の日々を強いられることになった。1863 年,南北戦争の 終結と共にリンカーンにより奴隷解放宣言が出され自由の身になった彼らだったが,黒人労働力に よる農業が経済基盤であり且つ相変わらず黒人への根深い差別意識のある南部では,ジムクロウ法 Jim Crow Law)に代表される「黒人取り締まり法(Black Code)」が南部諸州で瞬く間に可決され, 彼らに対する差別は公然と続いた。 1960 年代に入り,マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King, Jr.(1929 − 68)やマルコム XMalcolm X,1925 − 65)などの黒人指導者の活躍により,アフリカ系アメリカ 黒人の民族のプライド,またアフリカ性やアフリカ帰還への意識が高揚することになった。 だが,民族意識のこのような高揚が人種差別の撤廃に必要であると認識し,提唱したのは 60 年 代に始まった訳ではない。それは 1920 年代,カリブ出身でアメリカにおいて活躍した,マーカス・ガー ヴェイ(Marcus Garvey,1887 − 1940)によって成し遂げられたのである。残念ながら彼の活動は, 過去類を見ないほどアフリカ系アメリカ黒人たちをひきつけたが実を結ぶことはなかった。しかし 彼の哲学,思想は失われることなく,アメリカでは 60 年代のマルコム X,そしてジャマイカでは 茨城大学大学院教育学研究科(〒 310-8512 水戸市文京 2-1-1Graduate School of Education, Ibaraki University, Mito 310-8512 Japan茨城大学教育学部教育学研究室(〒 310-8512 水戸市文京 2-1-1Laboratory of Education, College of Education, Ibaraki University, Mito 310-8512 Japan* **

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茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)58 号(2009)87 − 107

マーカス・ガーヴェイからボブ・マーリーへ:ラスタファリアニズムとレゲエを結ぶもの

曽雌 和英 *・君塚 淳一 **

(2008 年 11 月 30 日受理)

From Marcus Garvey to Bob Marley: Rastafarianism and Reggae

Kazuhide SOSHI*, and Junichi KIMIZUKA**

(Received November 30, 2008)

はじめに

 18 世紀,奴隷貿易によってアフリカから多くのアフリカ人たちが奴隷として北アメリカやカリブ海諸国に強制的に連行された。彼らは,奴隷商人によって売買された後,主にプランテーションにおける労働力として重宝され,過酷な労働の日々を強いられることになった。1863 年,南北戦争の終結と共にリンカーンにより奴隷解放宣言が出され自由の身になった彼らだったが,黒人労働力による農業が経済基盤であり且つ相変わらず黒人への根深い差別意識のある南部では,ジムクロウ法

(Jim Crow Law)に代表される「黒人取り締まり法(Black Code)」が南部諸州で瞬く間に可決され,彼らに対する差別は公然と続いた。 1960 年代に入り,マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King, Jr.(1929 −68)やマルコム X(Malcolm X,1925 − 65)などの黒人指導者の活躍により,アフリカ系アメリカ黒人の民族のプライド,またアフリカ性やアフリカ帰還への意識が高揚することになった。 だが,民族意識のこのような高揚が人種差別の撤廃に必要であると認識し,提唱したのは 60 年代に始まった訳ではない。それは1920年代,カリブ出身でアメリカにおいて活躍した,マーカス・ガーヴェイ(Marcus Garvey,1887 − 1940)によって成し遂げられたのである。残念ながら彼の活動は,過去類を見ないほどアフリカ系アメリカ黒人たちをひきつけたが実を結ぶことはなかった。しかし彼の哲学,思想は失われることなく,アメリカでは 60 年代のマルコム X,そしてジャマイカでは

茨城大学大学院教育学研究科(〒 310-8512 水戸市文京 2-1-1; Graduate School of Education, Ibaraki University, Mito 310-8512 Japan)茨城大学教育学部教育学研究室(〒 310-8512 水戸市文京 2-1-1; Laboratory of Education, College of Education, Ibaraki University, Mito 310-8512 Japan)

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ラスタファリ運動から 80 年代のボブ・マーレイ(Bob Marley,1945 − 1981)のレゲエ・ミュージックへと引き継がれて行くことになるのである。 小論ではガーヴェイによって政治的な要素として提唱されたアフリカ人としての民族意識が,いかにラスタファリズムと関わりレゲエという形で継承され,世界に向けて発信されるに至ったかを探るものである。またその上で Bob Marley を中心としたレゲエ,ラスタファリ運動における主張と,Marcus Garvey の運動に見る主張を比較検討したい。

第1章 「レゲエの成立」,「スラムの怒り」とラスタファリ運動への過程

 カリブ海の小国ジャマイカで生まれたレゲエ・ミュージックは,世界中の人々を魅了し,現在ではポップ・ミュージック・シーンのジャンルとして数えられるまでに発展した。だが,その軽快なリズムとは裏腹に歌詞にはジャマイカの黒人たちの,「貧困層の苦悩」,「体制に対する怒りや不満」が込められている。一方,同じくジャマイカでレゲエに先んじて誕生したのがラスタファリ運動であり,Marcus Garvey の意志を受け継ぎアフリカへの帰還を唱えるこの新興宗教は,「持たざる者」に希望の光を与えた。レゲエとラスタファリ運動の融合はレゲエを単なるゲットー・ミュージックの域から脱皮させ,ラスタファリ運動の教えを説く言わばキリスト教における聖歌のごとく性格を帯びることになった。

 歴史を振り返れば,世論を動かす社会的運動では音楽が大役を担ったことは珍しいことでは決してない。1960 年代のアメリカにおける対抗文化の時代には,既に若者に受けいれられていたフォーク・ソングやロックが彼らを 1 つにまとめる求心力として機能していたことは周知の事実である。そのひとつヴェトナム反戦運動を例に挙げるならば,当時泥沼化していたこの戦争に反対する民衆を結束させたのは Bob Dylan(1941 − ),Joan Baez(1949 − ),PPM を始めとする反戦歌を唄ったシンガーたちで,その頂点として知られるのが 1969 年にニューヨークのヤスガー農場で約 40 万人の若者を動員して行われたウッドストック・コンサートであったことは誰もが認めることだろう。また音楽の力では,アメリカ黒人教会のゴスペルもそのいち例として挙げられるだろう。奴隷制度下での過酷な労働を強いられた当時のアフリカ系アメリカ人たちの精神的支柱となっていたワーク・ソングや黒人霊歌から発展した,ゴスペルが今でも彼らを支えていることは言うまでもない。熱狂を呼び起こす音楽には民衆を動かす計り知れぬパワーがあり,時にそれは体制側に恐怖を抱かせるまでに成長するのだ。そしてその点ではレゲエも例外ではない。 1973 年に Bob Marley(1945 − 81)がアイランド・レコードから自身の 1st アルバム Catch a Fire

をリリースして以来,レゲエはイギリスを始め世界中で脚光を浴びることになった。多くのミュージシャンがレゲエの音楽的手法を取り入れ,中にはジャマイカのスタジオでレコーディングする者も出るようになる。The Beatles の Paul McCartney(1942 − )もその一人で,彼は Flowers in the

dirt, earthrise(1989)のレコーディングを敢行している。またブルーズの巨匠 Eric Clapton(1945 − )も同様に敢えてジャマイカのスタジオで There’s One in Every Crowd(1975)をレコーディングし,更にアルバム 461 Ocean Boulevard (1974) では,Bob Marley の名曲“I Shot the Sheriff”をカバーしたことでも知られている。この2人が奇しくも英国出身のミュージシャンであることは偶然ではない。なぜならジャマイカは 1670 年から 1962 年までの約 300 年という長きにわたってイギリスの植民地

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下にあった。そしてブルーズから音楽的影響を多大に受けたこの2人が,何のためらいもなく更に「レゲエという黒人音楽」からもその影響を取り入れたのも納得できぬことはない。レゲエの世界的な影響力の大きさを音楽評論家牧野氏は以下のように評している。

 20 世紀の後半に登場してきた様々な音楽の中で,ジャマイカのレゲエはもっとも強いインパクトを与えた音楽の一つだ。ロックを中心とする世界のポピュラー音楽に揺さぶりをかけただけでなく,その衝撃は,カリブ海,中南米,アジア,南太平洋,そしてアフリカの聴衆やミュージシャンにも確実に普及した。驚嘆すべきは,その音楽を生み出してきた場所が,豆粒ほどの大きさしかない島の貧しいスラム街だったという事実だ。1

しかし単にレゲエがスラム街で生まれたゲットー・ミュージックで,その内容は人々の嘆きだと表面的に見なすのは早急過ぎる。その歴史を掘り下げ,ラスタファリ運動との関連を捉えることなしに,レゲエの本質は見えてはこない。ここでまずレゲエに至るジャマイカ音楽の変遷を辿りながらその歴史的背景とラスタファリアニズムの関係を探ることから始めたい。 まず一般的にジャマイカの音楽はメント,スカ,ロック・ステディ,レゲエ(Mento,Ska,Rocksteady,Reggae)という音楽的変遷を辿って来たといわれている。メントとは汎カリブ海的な黒人系フォーク・ソングで,元は白人植民者たちにより持ち込こまれたヨーロッパ音楽と奴隷たちが西アフリカより伝承したアフリカ的なタイコ音楽を混ぜ合わせて生み出されたダンス曲である。1950 年代にジャマイカで初めて録音されたのもメントであった。2そして 1950 年代後半に現れるのがスカであるが,スカはリズム&ブルーズのジャマイカへの流入がなければ成立しなかったと言われている。3 「ジャマイカの音楽的な自己主張は,スカとともに始まる」4と前出の牧野氏が同掲書で解説しているとおり,レゲエの特徴として知られている裏の拍を強調する独特のリズムは,このスカの成立時に獲得されたものである。 スカの初期から終焉までジャマイカのミュージック・シーンを牽引していたのは,ジャマイカのジャズメン養成所のような存在であったアルファ・ボーイズ・スクールのブラス・バンド出身者で結成された The Skatalites というグループで,メンバーの中にはラスタファリ運動の賛同者もおり,5また彼らの音楽はスラム街のルード・ボーイたちに熱烈に支持されていた。これが何を意味するかは言うまでもない。The Skatalites は体制への不満を爆発させるルード・ボーイたちを扇動する歌詞を多くの曲に取り入れて,政府からは危険視されていたのだ。1965 年に突然ジャマイカのスカ熱は急激に冷めることになるが,秘かにささやかれる噂がある。この直接的な原因として語られているのが,The Skatalites のメンバーの一人である Don Drummond(1943 − 69)が年の初めに犯した殺人事件であると考えられている。6またアメリカ公民権運動の指導者 Martin Luther King, Jr.(1929 − 68)のジャマイカ訪問の際に,ゲットーのルード・ボーイたちが起こした暴動で多くの死者を出したことも原因の一つである。さらに前年の 1963 年,ジャマイカ西部のモンテゴ・ベイでラスタファリ運動信奉者たちと警官隊との衝突で死者が出たことも重なり,ジャマイカ政府は過激な行動をとるルード・ボーイとラスタファリアンたちを社会の敵として見なしていたのだった。そして彼らと親交のある The Skatalites のメンバーに危機感を抱き(既述した様に若者〈大衆〉への音楽への影響は大きいため),かつてアメリカ社会が「ロックは反体制・暴力の温床」と危惧したように,反スカキャ

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ンペーンをメディアを通して掲げ,スカ・ミュージックの衰退を狙ったのである。 そして 1966 年の夏,ジャマイカの音楽は突然,テンポ・ダウンしてスローになり,ロック・ステディの時代を迎えることとなる。ミュージシャンの世代交代やその夏があまりに暑すぎたからという説はあるものの , 7そのはっきりとした原因は定かではない。しかし 1966 年の夏までにジャマイカのミュージック・シーンからスカ色は一掃され,1968 年までの2年間はロック・ステディがジャマイカのダンス・ミュージックを一手に担うことになる。牧野氏は約2年間のロック・ステディ期が持つ意味を次の2点として挙げている。(1)ロック・ステディ期はリズムの実験の時代であったこと。(2)ロック・ステディ時代の約2年間に後にレゲエと呼ばれる音楽のほとんどすべてのアイディアが出揃っていること。したがってロック・ステディの動きが起きた際には,実質的にレゲエそのものも始まったと考えてよいというのである。8また,ロック・ステディの音楽的特長については以下のように説明しているが音楽的にもロック・ステディとレゲエが基本的にはほぼ同じであることが理解できるだろう。

 アクセント・リフに絡むギターが要所で見せる,前を喰ってタイミングを外すようにシンコペイトさせるカッティング・ストローク,ベース・ラインの前半に用いられる押し出すような8分音譜の細かいフレーズとその後半の頭抜きの受けのフレーズ,そして,それをひとかたまりとしたベース・パターンのシンプルな繰り返し。これらのアイディアは,ロック・ステディやレゲエ時代の常套手段で,ジャマイカの音楽を特徴づけるものである。9

 そもそもレゲエという言葉は 1968 年に Toots & Maytals が発表した Do the Reggae 以来広く使われるようになったという解釈が一般的だが,10そのほかにもレゲエの刻むリズムが規則的(regular)なため regular を語源であるとする説や,売春婦を意味するジャマイカのスラング streggae に由来するという説 , 11またバンツー語の regga という言葉に由来するという説があるがいずれの説が正しいかは定かではない。だが 1968 年,2年間のロック・ステディ期を経てレゲエの時代が始まったことは確かである。レゲエへの発展の過程でロック・ステディがあることは事実であるものの,既に述べたようにレゲエとロック・ステディは表面的にはほとんど同じといっても過言ではない。ではこの両者の違いはいったい何なのだろう。牧野氏によればそれは,「ロック・ステディ期に生じたテンポのスロー・ダウンは,アップビートの位置にあったキーボードやギターのアクセント・リフをダウンビート化し,間延びした小節の分割を促した。それとともに,ドラムスの第3拍子(サード・ビート)へのアクセント移動が起きた」12ときであるという。 確かに,音楽的特徴は牧野氏の言う通りだろう。しかし「表面的にはほとんど同じ」ならば,なぜ「ロック・ステディ」から「レゲエ」へと名称を変える必要があったのだろうか。そもそもスカのテンポがスロー・ダウンしてロック・ステディへ移行した原因も,既に述べたように夏の「暑さ」や「世代交代」と非常に曖昧である。しかしこの「曖昧さ」を装うことで敢えてその本当の要因を隠していると捉えることはできないだろうか。つまり前述した通り,ジャマイカ政府の反スカキャンペーンによってその人気は急激に衰え,ロック・ステディ期を迎える。その際スロー・ダウンしたテンポは,リズミカルなスカとは対照的にパワーダウンして柔らかい印象を与えることになったのだが,しかしそうすることこそ体制からの批判をかわし音楽的生存の道を維持するための手段で

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あるとは考えられないだろうか。そしてこれはロック・ステディからレゲエへの移行の際も同様に考えられるものではないのだろうか。もしこの論が正しければ,スカ,ロック・ステディ,レゲエの歌詞には共通性が見出せるはずである。ここで三者の歌詞を比較検討し更に考察を加えたい。 まずその背景となる当時のジャマイカの状況を知ることが必要であろう。スカの絶大なる支持者としてスラム街のルード・ボーイたちがいたことは既に述べたとおりであるが,宗教学者 Leonard E.

Barrett, Sr. は The Rastafarians(1997)で当時のジャマイカの首都キングストンの富裕層と貧困層の断絶を以下のように解説している。Cross Road という道が,単なる一本の道ではないことが見て取れるだろう。

Leaving the city and going north, one comes to an abrupt divide known as Cross Road. This is

indeed the crossroads between poverty and ostentation displayed by the middle and upper-class

Jamaicans who flaunt their manicured gardens and mansion-like houses, complete with quarters for

the servants who attend the. 13

つまりクロスロード;分岐点によって分かたれたこの土地では,一方では莫大な富を手に入れた僅かな上流階級が誇らしげに居を構え,そしてもう一方ではルード・ボーイと呼ばれる若者たちをも含む多くの民衆が極貧の生活に喘いでいたのだ。Barrett は同掲書でラスタファリアンの詩人 Sam

Brown の詩“Slum Condition”を引用して,スラム街の貧困と抑圧そして差別に苦しむ人々の姿を説明している。

Tin-can houses, old and young, meangy dog, rats, inhuman stench,

Unthinkable conditions that cause the stoutest hear to wrench.

Tracks and little lanes like human veins, emaciated people,

Many giving up the ghost, their spirits broken, their gloom deepen. 14

Men, women and children stark naked, lunatics of wants, reformatory,

Milk powder, polio victims, rickity, medical infirmary.

Executives in horseless chariots sometimes pass through hold their noses,

Hapless poor look with vengeful eyes, for them no bed of rose. 15

上記の引用から分かる状況は,劣悪なスラム街の環境と,そこに住む者の“Hapless poor look with

vengeful eye”にある富裕層に対する憎悪の念である。スラム街の住人は彼らの貧困の原因が一部の上流階級にあることに気付いているのだ。そしてこの詩は抑圧に耐え切れなくなった彼らが銃を手にすることで終わりを見る。以上のような当時の状況を踏まえ,スラムに住むルード・ボーイたちの存在はスカ,ロック・ステディ,レゲエと変化を遂げるジャマイカ音楽にいかなる影響を与えてきたのだろうか。まずはスカの歌詞から考察していきたい。 以下の引用はスカ・ミュージシャン Prince Buster(1938 − )の“Too Hot”からの一節であるが,彼が以下の歌詞の中で当時の貧困,疎外,暴力という社会環境の中で鬱積している時限爆弾のごと

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きルード・ボーイたちの様子を良く捉えていることが分かる。

Rude boys never give up their guns

No one can tell them what to do

Pound for pound they say they’re ruder than you

Get out insurance and make up your will

If you want to fight

 「銃を持って闘うこと」を唄い上げるこの歌詞が,ルード・ボーイたちの中に浸透すれば過激で危険であることは間違いなく,体制側がこの音楽を危険視するのも容易に推測できる。また次に挙げるのは Desmond Dekker(1941 − 2006)の“007(Shanty Town)”からの引用であるが,この曲は Dekker をジャマイカのルード・ボーイたちの象徴的存在に押し上げ,また 1960 年代当時イギリスの反体制という意味ではルード・ボーイ的存在である,モッズたちをも惹き付けたのだった。

Dem a loot, dem a shoot, dem a wail

A Shanty Town

Dem a loot, dem a shoot, dem a wail

A Shanty Town

Dem rude boys get a probation

A Shanty Town

And rudeboy bomb up the town

A Shanty Town

Police get taller

A Shanty Town

Soldier get longer

A Shanty Town

Rudeboy a weep and a wail

A Shanty Town

この歌詞で明らかな点は,警察や兵士たちがルード・ボーイたちを追い詰め,彼らは怒りを顕わに街を破壊する“bomb up the town”,と表現される「触れたら切れる」ルード・ボーイたちの荒々しい性格であり,反社会的・反体制的なこの歌詞は Buster と同様,ルード・ボーイたちの愛唱歌にされては政府側にしてはたまらない。「出る杭は打たれる」,ジャマイカ政府により反スカキャンペーンが展開されることに至った訳である。 そして既述したように事実上スカは 1968 年の夏までに消滅し,それに代わり新たにロック・ステディの時代が到来する。ロック・ステディがスカに取って代わってその地位を確立した頃は,田舎から職を求めて出てきた若者たちが首都キングストンの郊外にある Trenchtown や Shanty Town な

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どのスラム街に大量に流入していた時代でもあった。ちなみに Trenchtown とはその名の通り,元々排水溝(trench)が通っていた土地を埋め立て人々が住み始めた土地である。当時ジャマイカ社会は,独立後の楽観的な気分に浸っていたのだが,スラム街に集まった若者たちには仕事が得られず,その不満を募らせていたのである。スカとロック・ステディの音楽的相違であるテンポはスロー・ダウンし穏やかな印象を与えるリズムたが,歌われる内容に変化はあったのだろうか。以下は Derrick

Morgan(1940 − )の“Tougher than Tough”からの引用であるが,曲名からも推測できるように歌詞はやはり過激な内容で,スカとは全く違いが見られないのは興味深い点でもある。

Rudies in court, now boys rudies in court

Order

Now, this court is in session

And I order all you rude boys to stand

You’re broughed her by a verdict for shooting and raping

Now tell me, rude boys, what have you to say for yourselves?

Your honour

Rudies don’t fear

Rudies don’t fear no boys, rudies don’t fear

Rudies don’t fear no boys, rudies don’t fear

Rougher than rough, tougher than tough

Strong like lion, we are iron

ルード・ボーイたちは歌詞の中で「立ち上がれ」,「射殺」と「レイプ」の罪をきせられ,「黙っていられるのか!」とたきつけられる。そして第2節ではルード・ボーイたちは「ルーディーは恐れを知らない。何者も恐れない」「力強く荒々しい」「我ライオンなり」(ライオンはラスタファリ運動の象徴とされている)と,体制に対し闘志をむき出しにさせられる。スカからロック・ステディへ,音楽的に軟弱になるどころか,歌詞は更にその激しさを増したともいえる。既に述べたように,リズム的なスロー・ダウンは単に時代の流れや変遷でなく体制の目をかわすカモフラージュとしか考えられない。 そう考えると更に興味深いのは更なるロック・ステディからレゲエへの変化である。次に例として挙げるのは Eric Clapton もカバーした Bob Marley の世界的に有名な曲の1つ,“I Shot the Sheriff”である。

I shot the sheriff

But I didn’t shoot no deputy oh no! Oh!

I shot the sheriff

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But I didn’t shoot no deputy ooh, ooh, oo-ooh

Yeah! All around in my home town

They’re tryin’ to track me down

They say they want to bring me in guilty

For the killing of a deputy

For the life of a deputy

I shot the sheriff

But I swear it was in self defense

I shot the sheriff

And they say it is a capital offence

Sheriff John Brown always hated me

For what I don’t know

Every time I plant a seed

He said kill before it grow

He said kill them before they gro 16

やはりここでもロック・ステディと同じように貧困層,ルード・ボーイたちの過激な反骨精神が歌われている。「俺は保安官を撃った。」とその事実は認めつつも,「だが法の代理人を撃ったわけじゃあないんだ。正当防衛なんだ。だが奴らはいつも俺に罪を着せようとするんだ」と,スラム街出身者である人々への不当な処遇に怒り嘆き,正義を求めている。事実,Bob Marley はあるインタヴューで以下のように答えている。

 生きていくのは簡単だったが,警察には気をつけたよ。トレンチタウン出身というだけで逮捕されて刑務所行きなんだ。警察に「トレンチタウン出身だ」なんて言うと一巻の終わりさ17

Trenchtown の状況は既述した Sam Brown の詩にある通り劣悪を極めたものであった。またそこには多くのラスタファリアンが集まり独自のコミュニティーを形成していたため,反ラスタファリ運動を掲げる政府にとってトレンチタウンはルード・ボーイとラスタが住み着く「悪の巣窟」のような存在だったのだろう。この歌詞は Marley の実体験に基づいたもとの考えることが出来る。ちなみに“I

Shot the Police”でなく“sheriff”となっていることについても Marley は以下のように述べている。

 "I want to say 'I shot the police' but the government would havmade a fuss so I said

'I shot the sheriff ' instead... but it's the same idea: justice." 18

当時レゲエ・ミュージシャンとしてその地位を確立していた Marley でさえ,自由に詞を書くこと

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ができなかったという事実は,政府がレゲエ・ミュージックに睨みをきかせていたことの証明でもある。また,アメリカの CIA からマークされていたことも事実である。第3世界出身最初の世界的スターという存在は,カリブの島々への影響が大きすぎると考えられたのだ。 これまでにスカ,ロック・ステディ,レゲエと3者の歌詞を考察してきたが,移行の過程で音楽的特徴の変化というカモフラージュを用いながら体制の監視をすり抜け,共通して体制の抑圧に怒り嘆く弱者を描いており,その思いは音楽的特徴の変化とは裏腹に徐々に強くなっていることが分かる。特にレゲエに関しては,それまでスカ,ロック・ステディに見られたルード・ボーイの立場から不満,怒りを歌うという形式から,自らの感情を自らの言葉で伝えるまでに発展してきている。ではレゲエはまた体制の目から逃れるために,その音楽を変化させ新たな音楽として生まれ変わるのだろうか。おそらくその可能性は非常に低いであろう。なぜなら,レゲエは Bob Marley の世界デビューをもってレベル・ミュージックとして地位を確立することに成功したからである。レゲエ歴史家の Roger Steffens(1942 − )は「反抗といえば,現在の若者にはボブ・マーレイかチェ・ゲバラが象徴的であろう」19 と言う。このように,スカ,ロック・ステディとルード・ボーイたち弱者を描いてきた音楽は,レゲエに至ってその存在を世界的に認められたのである。

2章 ラスタファリ運動とは何か

 1970 年代にレゲエがイギリスを始め世界中の人々を魅了し始めたとき,レゲエ・ミュージシャンの中には Bob Marley を含め Rastafarianism(ラスタファリ運動)を信仰する者が多くいた。彼らはRasta と呼ばれ,その象徴として髪をドレッド・ロックスにし,瞑想のためにマリファナを吸った。レゲエやジャマイカのイメージは,彼らのこの風貌を思い浮かばせるが,ラスタファリアニズムはジャマイカ国内ではあくまで少数派である。単位面積当たりの教会が世界で一番多い国と形容させるこの国には,イギリスの植民地政策のために 100 を超えるキリスト教の宗派が存在し,圧倒的な多数派と言えば,やはりプロテスタントのキリスト教徒なのだ。20 牧野氏はジャマイカの宗教の内訳を以下のように述べている。

多くの資料が載せているジャマイカの宗教分布のデータは,プロテスタント系が 61.3%,ローマン・カトリックが 4%,その他(スピリチュアル・カルト系など)が 34.7%となっている。クミナ,リヴァイヴァル派,ラスタファリアンなどは,最後の「その他」に含まれているようだ。ジャマイカ政府系の数値をもとにした別の資料によれば,ラスタは,ヒンドゥー,ムスリム,ユダヤなどとともに「その他」10%に含められ,実数として 2 万4020人という数字が挙げられている。21

このクミナ,リヴァイヴァル派とは,両者ともジャマイカに強制的に連行されたアフリカ人たちが,故郷の宗教的儀式・信仰を懐かしみ,キリスト教と習合させて新たに生み出したものと言われている。22 形式的にはラスタファリアニズムにもこの傾向が見られる。しかしながら Leonard E. Barrett,

Sr. は同掲書でクミナがキリスト教の要素よりもアフリカ宗教の要素が強いことを指摘している。

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But the area most dominated by Ashanti influence was the folk religion, still practiced today under

the name of Kumina The word comes from two Twi words: Akom ― “to be possessed,”and Ana ―“by an ancestor.”This ancestor ― possession cult became the medium of religious expression for all

Africans during the slave perio. 23

更に興味深い点は,イギリス統治下のジャマイカで英国国教会が奴隷たちに自分たち同様のキリスト教信仰をさせることに消極的で,それが故にアフリカからの宗教をジャマイカの土地で復活させた点である。Barrett は続ける。 

 Unlike Haiti, where the slaves were commanded if not forced to be members of the Catholic faith,

the English planters in Jamaica adamantly refused to share their religion with the slaves population. The

Church of England and its high liturgy was considered too sophisticated for people of “Lesser breed”

 …The slaves left to themselves, developed elements of the remembered religious systems form

their homelan. 24

 さてここでラスタファリ運動へ話題を戻すことにする。この運動の原点は 1920 年代にアメリカで黒人解放闘争の先頭に立ったジャマイカ人 Marcus Garvey の《思想》と《アフリカ帰還運動》である。ガーヴェイの活動が大きな反響を得るのはアメリカであったが,当然の如く彼の支持者はジャマイカにもいた 。They Had A Dream: The Civil Rights Struggle(1996)の著者 Jules Archer によれば,1914年にガーヴェイがジャマイカで立ち上げた Universal Negro Improvement Association(UNIA)の賛同者の多くは黒人下層階級であったという。Archer はガーヴェイの言葉を交えて以下のように記している。

 Marcus was not surprised to find little enthusiasm or support for his project from the island’s

leading mulattoes. “I was a black man and therefore had absolutely no right to lead,”he later reported

sardonically.“In the opinion of the‘coloured’element, leadership should have been in the hands of

a yellow or a very light man… There is more bitterness among us Negroes because of the caste of

colour than there is between any other peoples.”

 As he expected, the black who joined UNIA were those with the blackest skin. 25

ここで述べられている“yellow”や“a very light man”とは,黒人でも肌の色が白い人を示し,当時のジャマイカでは“mulattoes”つまり白人に近い黒人たちが権力を握っており,一般的な黒人は貧しい地位に置かれていたということだ。そしてこのジャマイカの状況下でのガーヴェイが決断を下した解答は以下の引用が示すとおりである。 

I had to decide whether to please my friends and be one of the“black-whites”of Jamaica, and be

reasonably prosperous, or come out openly and defend and help improve and protect the integrity of

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97曽雌・君塚:マーカス・ガーヴェイからボブ・マーリーへ:ラスタファリアニズムとレゲエを結ぶもの

the black millions and suffer. I decided to do the latter... I was openly hated and persecuted by some

of these coloured men of the island who did not want to be classified as Negroes, but as white. They

hated me worse than poison. They opposed me at every ste. 26

結局,ジャマイカ白人からよりも白人黒人の混血から,黒人下層階級の地位向上を目指すガーヴェイの運動は目障りな存在として攻撃されることになったのである。 ガーヴェイの支持者たちは,1916 年に彼がジャマイカを去りアメリカに向かった後,混乱に陥ってしまう。ガーヴェイと UNIA については次章で詳しく触れることにして,彼らは強烈なカリスマ的指導者を失い,活動自体は続けたものの,彼に代わる指導者を得ることはできないでいた。その後,当分の間はガーヴェイ主義者と名乗る集団が現れ,1930 年まで細々と活動は継続されていく。しかしながら 1930 年,ようやく彼らを歓喜させる出来事が起きる。エチオピアで黒人皇帝ハイレ・セラシエ1世が皇帝の座に即位し,これがガーヴェイ信奉者にとって神の啓示となった。Barrett はこの出来事のジャマイカ人への影響を以下のように記している。

  His coronation in St. George’s Cathedral, Addis Ababa, in November of that year brought

representative of all the great powers as well as journalists and correspondents from every part of the

world. The crowning of a young Ethiopian king, with this Biblical title, together with the pomp and

grandeur of the fable empire, was more than a secular occasion. For the people of Marcus Garvey’s

learning, this came as a reservation from God. In Jamaica, an almost forgotten statement of Garvey

who, on the eve of his departure to the United States was supposed to have said “Look to Africa for

the crowning of a Black King;he shall be the Redeemer,”came echoing like the voice of God.

Possessed by the spirit of this new development, many Jamaicans now saw the coronation as a

fulfillment of Biblical prophesy and Haile Selassie as the Messiah of African redemptio. 27

皇帝ハイレ・セラシエは本名をラス・タファリ・マコンネンという。「ラス」は皇太子などに使われる敬称であるが,一見して分かるようにラスタファリアニズムという呼び名はこの「ラス・タファリ」に由来する。当時アフリカ大陸の王国の大半がヨーロッパ列強の殖民地となっていたなかで,エチオピアはヨーロッパ人の支配から逃れて黒人の王朝を維持しているほとんど唯一の国だった。 ハイレ・セラシエがエチオピアの皇帝であったことの意味は大きい。なぜなら 18 世紀以降,カリブ海や北アメリカの黒人奴隷たちのなかにエチオピアを「黒い神」の土地だとするエチオピアニズムという考え方が芽生えていたからだ。エチオピアニズムの担い手となったのは黒人宣教師たちである。彼らは旧約聖書を黒人の視点で読み解くことでエチオピアの持つ神聖を高め,自らの尊厳を守ろうとしたのだ。Barrett は同掲書で下のように解説している。

In the nineteenth century, when the defenders of slavery tried to divest Blacks of every dignity of

humanity and civilization, Blacks appealed to the fabled glory of Ethiopia. When confronted by

stalwarts of religion, philosophy, and science who sought to falsify history in the service of Western

slavery, Black preachers ― though for the most part unlearned ― discovered in the only book to

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98 茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)58 号(2009)

which they has access(the Bible)that Egypt and Ethiopia were in Africa, and that these countries

figured very importantly in the history of civilization. They evidently read and pondered the meaning

of Psalm 68:31 ― “Princes shall come out of Egypt; Ethiopia shall soon stretch out her hands unto

God 28 ”

奴隷という過酷な日々を強いられ,アフリカ人としてのアイデンティティが消えつつあるときに,彼らの思い描くことのできる唯一の母国像は聖書にあるエチオピアだったのである。その輝かしい過去,そしてエチオピアは再び神に向かって手を伸べるという期待感によって,抑圧された民は新しい希望をえた。黒人奴隷にとってのエチオピアは,ユダヤ人にとっての約束の地,すなわちエルサレムと同様に意味があるものなのである。 ジャマイカでラスタファリ運動が広まる契機となったエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ即位の背景には Marcus Garvey の思想と土着の黒人牧師によるエチオピアニズム信仰が存在していたのである。さらに 1930 年のジャマイカは経済的にも社会的にも貧窮していた。1929 年に起きた世界大恐慌の影響をまともに受けただけでなく,ハリケーンの損害も被っている。奴隷解放後も植民地支配の影響は多分に残り,富と政治を牛耳るのは一部の白人のみで大衆の未来に希望はなかった。このような状況でラスタファリ運動は産声をあげた。人々はよき未来が得られるならばどのような教義でも構わないという状態だったのだ。そして,初期ラスタファリ運動の指導者たちは,その多くは元のガーヴェイ主義者だったのだが,よき未来を説いて回った。 初期のラスタの歴史は,ジャマイカ政府との闘争の歴史と言っていい。当時の代表的なラスタファリ運動指導者はレナード・ハウエル(Leonard Howell, 1898 − 1981)である。彼は自らを「王の中の王」,「ユダ族の獅子王」と名乗るハイレ・セラシエのエチオピア皇帝即位を受けて,ガーヴェイの思想を元にラスタファリ運動を布教し始めた。最初のラスタファリアンの誕生である。

 ラスタファリアン・カルトはジャマイカ特有のメシア運動である。このメンバーは,エチオピアの先の皇帝ハイレ・セラシエが,白人による圧制下にあるこの世界で流浪の身とされすべての黒人を救済する黒いメシア;救世主の現し身であると信じている。そして,この運動ではエチオピアを,約束の地,黒人が流浪の身(奴隷の身分)となっている西洋のあらゆる国からエクソダス;大脱出して帰還するところとみなす。29

 ハウエルの布教はまず首都キングストンのスラム街で始まった。そこで支持者を獲得した後,資金稼ぎのためにハイレ・セラシエの写真を作ってそれをエチオピアへのパスポートとして1枚1シリングで売ったといわれている。ごく短期間のうちに 5000 枚売ったという説もある。30しかし 1933年末,野外集会を開いた際に,イギリス王国とジャマイカ政府に対する侮辱と憎悪を扇動し,国民に不満感を与えたとして逮捕されてしまう。ジャマイカ政府も事態を憂慮した国民も運動のリーダーを逮捕したことで事は収まったと考えていたが,しかしハウエルを信頼する者たちが秘密裏に活動を続け,密かにラスタファリ運動の信奉者を増やしていったのである。出所したハウエルはキングストンから約 20 マイル離れた地にピクナル・コミューンというその活動拠点を作り,ここでの生活が後のラスタファリ運動の基本的指針を確立することになる。

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99曽雌・君塚:マーカス・ガーヴェイからボブ・マーリーへ:ラスタファリアニズムとレゲエを結ぶもの

 このように「ラスタファリ運動」が,1章で述べたスカ,ロック・ステディ,レゲエという変遷を経た音楽と融合し,ジャマイカのスラムの民衆を惹きつけていったという過程は,この音楽の根幹をなすものとして重要且つ見逃してはならない点である。

第3章 Marcus Garvey, Bob Marley そして Rastafarianism を繋ぐもの

 これまで考察してきたように,ジャマイカにおける音楽と若者たちの抵抗運動の歴史を見ると,まず「メント」の時期を経てジャマイカ黒人の音楽として確立した「スカ」が,ジャマイカ白人による体制が生み出す貧困・抑圧に苦しむ若者の状況を歌い上げることでルーディたちの意識を代弁し,その圧制へのエネルギーとなっていたことは確かである。しかしながら,彼らによる音楽と反体制が合わされた暴力的かつ政治的な動きは,政府から危惧され押さえ込まれる形に一時はなったことは明らかだろう。そしてこの「スカ」が「ロック・ステディ」へと反体制的な歌詞は変えられぬままリズムを変化させ「レゲエ」への変遷を辿る過程もその社会的な意図を分析した上で既に前章までで述べた。本章では「スカ」「ロック・ステディ」とジャマイカの反体制音楽として存在していた若者の音楽が,「レゲエ」となることでいかに「ワールド・ミュージック」として認められることに成りえたかを,(1)Bob Marley とラスタが「レゲエ」に与えた影響(2)ラスタ思想とMarcus Garvey 運動の関係(3)Bob Marley と Marcus Garvey の関係,などを考察することで,分析を加えたい。 まず,Bob Marley とラスタの関係について述べることから始めたい。藤田正氏が語るように,Bob Marley は「貧しいジャマイカの,そのまた下層で,ラスタファリズムと共に,知恵と歌う才能を授かった男なのだった」31であった。それゆえ,彼がレゲエ以前のスカやロック・ステディなどの過激な音楽が,貧困層そして非抑圧層の若者から出た叫びであり,その状況や音楽もよく理解していたことは容易に想像できることである。それゆえ1章で既に検証済みであるが,例として挙げたMarley の曲“I Shot the Sheriff”の歌詞がスカやロック・ステディの歌詞の流れを踏むものであることは,Bob Marley の生い立ちや変遷を遂げたジャマイカ音楽の歴史を考えても納得いくものだろう。ロック・ステェディからレゲエにいたる名称のみの変遷において,1つ異なる点を上げるとすればレゲエにおけるラスタの思想の流入だろう。これこそ Marley の影響が大きい点であり,また現代のレゲエの地位を語る上で重要な点である。それは単に反体制を訴えるだけでなく,そこにアフリカという民族性を歌い上げ,「全ての基はアフリカにあり」という発想を込めて,アフリカ系民族の精神的統一を歌うものだ。 彼がこの「ラスタファリアンズ」としてのアイデンティティを確立したのは,1966 年エチオピア皇帝ハイレ・セラシエがジャマイカを訪問した時からであると自伝では書かれている。それ以降の彼は大量のガンジャを吸い,聖書を熱心に読み,髪と顎鬚を伸ばしたままにした。32そして世界的なヒットとなった Bob Marley & Wailers のアルバム Catch A Fire(1973)がイギリスやアメリカで話題になる頃には,彼はラスタ的な生活(まさに前述のアイタル・フードを食べ,聖書を読みふけ,大量のガンジャを吸い,セラシエのことを頻繁に語るなど)をするようになっていたのである。Marley の歌は「救済を嘆願する哀しみの歌」であり,33

  歌詞の中に見られる「ラスタファリアン」として影響は「愛」「平和」そして「アフリカ系民族の統一」を万人に対して語られるものとして

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100 茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)58 号(2009)

理解してよいだろう。ここでそれらのテーマがいかにしてMarleyの詞に表れているか考察していく。ここでは Bob Marley & the Wailers の代表的な“No Woman No Cry”をその例として挙げ,歌詞に込められたテーマ(ラスタファリズムを根底に置きつつも「愛」「平和」そして「アフリカ系民族の統一」また 「 ジャマイカの反体制の動き 」 をも歌う)との関わりを考えたい。まず以下に歌詞を理解できるよう前文を敢えて引用したい。

No woman no cry

No woman co cry (×2)

Said, said, said

I remember when we used to sit

In the government yard in Trenchtown(1)

Oba – observing the hypocrites (2)As they would mingle with the good people we meet

Good friends we have, oh, good friends we’ve lost (3)Along the way

In this great future you can’t forget your past (4)So dry your tears, I say(5)

Said, said, said

I remember when we used to sit

In the government yard in Trenchtown

And then Georgie would make the fire lights

As it was logwood burning through the nights(6)Then we would cook cornmeal porridge

Of which I’ll share with(7)

My feet is only carriage(8)

So I’ve got to push on through(9)

But while I’m gone, I mean(10)

Everything’s gonna be all right

Everything’s gonna be all right

Everything’s gonna be all right (11)Everything’s gonna be all right *

I said

*refrain

No, woman no cry (12)

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101曽雌・君塚:マーカス・ガーヴェイからボブ・マーリーへ:ラスタファリアニズムとレゲエを結ぶもの

No, no, woman no cry

Woman, little sister, don’t shed no tears 34

 この歌の着想が,Marley 自身の体験にあることは歌詞にも表れる Trenchtown の貧民街に彼自身が暮らしていたと自ら語っていることからも容易に推測できる(Marley は当時,この街のキッチンの片隅を寝ぐらとしていた。35 下線(1)の“In the government yard in Trenchtown”とは「政府の庭」ではなく,1951 年のハリケーンによる被災者が不法に占拠していた場所を政府が再開発した地域で,都市へ集まった者たちの一時しのぎのスラム街であった場所である。建物は2階建て,中庭に共同炊事場や水道が設置されていた。(2) についてはこのトレンチタウンはドラッグの売買もされる怪しく危ない地域で,まさに「気をつけないと〈善人〉の中に〈偽善者〉が混ざっているのだ」。(3)は仲間を失う体験が語られ,この3種類の歌詞からは「スカ」から継承された反体制の思いが綴られていると考えられる。 一方,下線(4)(5)には Marley の「ラスタファリズム」の影響が歌詞に表れていると思える。

“Along the way”とは,ラスタで言うところの「約束の地:ザイオン」へ辿り着くまでの「帰途に着く途中」という意味でも解釈でき,また「素晴らしき未来にあっても,過去を忘れるなかれ」は「過去(奴隷制)のそして現在の苦悩を嘆くなかれ,と明るい将来を予見させる意味」を含んでいると解釈可能だ。 (6)(7)は「ラブ・ソング」にも聞こえるところで,ジャマイカの黒人の現状を知らなければ,この箇所から歌全体をそう解釈することも可能であり,それはそれでかまわないだろう。だが,ここではスラムの貧しさ,そして(8)(9)(10)で,彼自身がどこに行ってしまうのか(ザイオンを目指して歩み出していなくなるのか,反体制として闘い死んでしまうのか)は明確には示されていない。それでも下線(11)のように「すべてうまくいくさ」と語りかける。そして下線(12)で「だから泣くな」となぐさめる。最初の NO の後にはカンマがなければいけないのだ。ここではこのように Marley の代表作の1曲である“No woman no cry”を挙げて作品に見られる歌詞の様々な側面を検討した。彼の歌詞はラスタファリアンのみならず,貧しき黒人そしてまた普遍的にも解釈可能ゆえにその音楽性は世界的に注目されるに至った。 ではスカからレゲエの時代にかけてルード・ボーイたちが抗ってきた体制とは一体何物なのかについても考えたい。それは言うまでもなく当時のジャマイカ社会を牛耳っていた白人たちである。Cross Road を隔てスラム街を見下すように聳え立つ白人の家々を睨み,ルード・ボーイたちは彼らの貧困の原因を白人たちであると理解し,激しい復讐心を持つようになったのだ。また,白人を強く意識するのはルード・ボーイたちだけではなかった。同じくスラム街に居を構え,政府からの抑圧を受けながらも Marcus Garvey の思想を引き継ぎ,白人との決別とアフリカ帰還を唱えるラスタファリアンたちがいたのである。「対白人」という共通意識が彼らを引き合わせ,やがてスラム街のルード・ボーイたちはラスタファリ運動にも傾倒していく。さらにスラム街には,かつての Bob

Marley のようにレゲエ・ミュージシャンを夢見る若者がひしめいていたが,彼らもこの環境でラスタファリ運動に同調していったことは言うまでもないだろう。Marley は言う,「キングストンに来てから強く(ラスタであることを)自覚したんだ。多くの人と出会えたからさ。ラスタの人たちと話して同じ気持ちだと分かったんだ。自分と同じように考え生きるラスタに,自分のラスタとして

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の生き方を見出したんだ。」36と。 彼の作品を見れば Marley がラスタと共有した気持ちが「虐げられてきた弱者の嘆きと白人に対する怒り」であることは一目瞭然である。“Them Belly Full(But We Are Hungry)”では「奴らは満腹でも俺らは腹ペコ」と貧困層が日々の食事にすら苦悩しているにもかかわらず,効果的な措置を講じず,自らの懐具合だけを気にする政府,白人を激しく糾弾し,また“Slavery Driver”は奴隷制と植民地支配を批判し「あの奴隷船は忘れられない。俺たちの魂まで獣扱いしやがって」と過激な歌詞で,聴き手である貧困層の反骨精神に火をつけている。このように,レゲエは「虐げられてきた者」の声を吸い上げ,ラスタファリ運動との融合によって成立したのであった。 次にここで考察しておくべきは,ラスタ運動の貢献者とも言うべき,ジャマイカの英雄 Marcus

Garvey についてである。とは言っても,アメリカのみならず世界の黒人に「自らの国をアフリカに建てる」夢を掲げ多くの賛同者を得た Garvey に対する評価はいまだ良いものではない。君塚淳一氏は Garvey の一般的な評価について以下のように述べている。

 「アフリカにアメリカ黒人のための国を建国する」という現実離れした夢を吹聴し,貧しき黒人たちから散々と金を巻き上げた据えに,不正を働いて逮捕され故国へ強制送還された 20 年代の「黒人イカサマ師」。残念ながら一般のマーカス・ガーヴェイへの評価は未だにこの程度にすぎないといえるだろう。37

全盛期(1920 年代)は 30 以上の支部を持ち 200 万から 600 万の支持者がいたといわれる38 Garvey

への評価が,低いことは納得がいかないが,アメリカにおける King 牧師や Malcolm X の業績があまりに偉大であり且つ,Garvey の活躍した時期が 1910 年代後半から 20 年代半ばで,その時代にアフリカを前面に出し民族意識高揚を掲げた彼が,時期尚早で評価が低いのも仕方がないのかもしれない。 Garvey の経歴を簡単に述べると,1887 年生まれの彼は 14 才で印刷工の職に就いた後,人種差別を体験し黒人の解放運動に目覚めエクアドル,ホンジュラス,ベネズエラなどの中南米や南アメリカ南部などを訪れ,その差別の過酷さをさらに実感し 1914 年に,UNIA(全黒人地位改善協会)を立ち上げた。そしてかねてから影響を受けていたアメリカの黒人指導者 Booker T. Washington を目指しアメリカへ行くが,既に彼は死去しており,自らニューヨークに協会本部を置き,機関誌『ニグロ・ワールド』を創刊し会員を急速に集めた。 既述したとおり,1919 年には既に 30 の支部を持ち,その民族主義の思想は世界中の貧しい黒人にもアピールし,アメリカ白人たちに脅威を与えたことはいうまでのない。アメリカにおいては白人世界との分離主義を唱え,1921 年には「アフリカ帰還」も展開し,三色(人種の黒,血の赤,希望の緑)の国旗を掲げパレードも行った。また「アフリカ帰還」を意識して 1919 年には「ブラックスター汽船会社」を設立し,1ドルから買える株を販売し貧困黒人からも支持された。しかしアメリカ政府当局の陰謀で倒産に追い込まれ,暗殺未遂事件で重症を負わされた後,CIA の画策により郵便物不正利用の罪で逮捕され,ジャマイカへ強制送還され,彼の壮大な夢は終わった。しかしながらジャマイカで初めて国民的英雄の名誉を与えられ(1964),さらに2章で触れたようにラスタファリ・ムーヴメントの思想的原点である Garvey は当然のことながら「イカサマ師」どころか,

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評価をされるべき人物である。以下の引用から現在のラスタファリアンにとっての Garvey の重要性が見て取れるだろう。

 現在,すべてのラスタファリアンが,彼らに啓示をあたえるものとしてマーカス・ガーヴェイを崇拝している。すべてのラスタの家庭にも,このカルトの施設にもガーヴェイの肖像が見られる。彼の演説集の熱心な読者が多く,また,彼を称える詩歌も数多くつくられている。ラスタファリアンの神殿では,マーカス・ガーヴェイはハイレ・セラシエに次ぐ重要な人物とされているのだ。39

ではここまでして Garvey がラスタファリアンから敬愛されるのはなぜであろうか。実はアメリカからの失脚後ジャマイカに戻った Garvey を待っていたのは,あからさまな無視と誹謗中傷だけであった。故国から逃げるように去った彼は失意の中ロンドンに移住することになる。40人々の記憶から忘れられていた Garvey が,再び日の目を浴びるのは 1930 年のエチオピアにおけるハイレ・セラシエの皇帝即位を受けてであった。当時 Garvey の賛同者たちは彼がアメリカへ発つ直前の「黒人の王が王位につくときのアフリカに注目せよ。彼こそ救い主となる人物である。」41という演説を思い出したのだ。これによって Garvey はラスタファリアニズムにおける預言者となり,それと同時にかねてからのエチオピアニズムも重なりエチオピアは全世界のアフリカ人が帰るべき神聖な場所と見なされることになったのだ。 では次に Bob Marley と Marcus Garvey の関係について述べていくが,彼らの共通点の多さ驚かされる。まず挙げられるのは両者とも強い民族主義を打ち出し全世界の「アフリカ系民族の統一」を訴えた点である。しかも Marley においてはレゲエというワールド・ミュージックを通して,そして Garvey は圧倒的な存在感と弁論術でと,それぞれの伝達手段は違えども共にそのカリスマ性で世界中の聴衆を虜にすることに成功したのである。彼らのカリスマ性を伝える証言は多くある。母Cedella Marley Booker によれば Marley は幼い頃から人の手相を読んでは未来を予知していたというし ,42また彼の日本公演に携わった一人である三好伸一氏は Marley のライブでの凄まじいオーラに打たれ,「もう彼に近づくことすら許されるものではない」という感想を述べるほどであった。43 そして Garvey については,彼の Harlem’s Bethel Church で行われた初めての演説の印象を James Weldon

Johnson が黒人向け新聞 New York Age で以下のように記している。

  This was Harlem’s first real sight of Garvey and his first chance at Harlem. The man spoke, and his

magnetic personality, torrential eloquence and intuitive knowledge of crowd psychology were all

bright into play. 44

身長は低くやや小太りという身体的特徴をもつ Garvey からは想像もできないような雄弁ぶりに聴衆は酔いしれたのである。 そして,彼らの最大の支持者が「黒人低所得者層」であることも共通点の一つである。Bob は “I

Shot the Sheriff”のような過激な曲でスラム街に住むルード・ボーイたちの鬱憤を代弁することで,また Garvey は「立ち上がれ,汝,崇高なる人物よ」,「教育を身に付け,民族の誇りを持て」,「肌

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の色を薄めるのも,髪を直毛にするのもやめよ,神は我々を完全なものとしてお造りになったのだ。白人の〈まね〉は即刻やめよ」とハーレムの黒人たちにアフリカ民族の優秀性と誇りを説くことでその絶大なる支持を得たのだ。両者の大衆への影響力は体制側が恐れるほどのものであり,奇しく二人とも銃弾の標的にされている。 以上のように Bob Marley と Marcus Garvey の関係を見てきたが,そこには「民族の尊厳と誇りの復活」という一つの筋が通っているように思われる。Garvey の思想,運動は彼自身の手では成功することはなかったが,Bob Marley によって世界的に認められることとなったのである。

結論

 レゲエは特殊性と普遍性を兼ね備えた音楽といえる。特殊性とはつまりレゲエに至るまでの音楽的経緯とその音楽にみなぎる主張であり,普遍性とはワールド・ミュージックのひとつとしてその確固たる地位を確立し万人に受け入れられる要素を持ちえたことにある。 前者つまりレゲエに至るまで,ジャマイカ音楽として,メント,スカ,ロック・ステディと変化した。これは既述したように,汎カリブ海的音楽であったメントから,スカでは裏打ちというジャマイカ音楽独自のリズムが獲得され,その音楽的特徴の確立とともに歌詞においても独自の主張がなされることになったのである。つまり反体制・対白人の主張であり,具体的にはスラムに住む人々の貧困の苦しみと嘆き,白人からの差別への怒りである。そしてその反体制・対白人というエネルギーはテンポのスロー・ダウンというような音楽的特徴にカモフラージュされつつロック・ステディ,レゲエへと衰えるどころか,逆に激しさを増して確実に継承されてきたと考えられるのである。このようにレゲエは体制の目をかわしてまでも訴えなければならない,まさに「持たざる者」のための音楽として成立したと言えるだろう。 さらに後者としてレゲエに特殊性を与えているものがラスタファリアニズムである。ジャマイカ出身の黒人解放運動家 Marcus Garvey をその思想的原点に持つラスタファリア二ズムは彼が 1920年代アメリカにおいて展開した「アフリカ系民族の統一」と「アフリカ回帰」をその教えとして持つ。彼の断固たる決意に基づく行動は多くの黒人貧困層の支持を得るものの結果的にアメリカ政府によって妨害され失敗することとなったが,その徹底した民族主義と反差別の精神はラスタファリアニズムに継承されることとなったのも既に検証したとおりである。 そして反体制を是としてきたスカ,ロック・ステディからの発展形であるレゲエはラスタファリアニズムというジャマイカ発祥の新興宗教と出会うことにより,単なるレベル・ミュージックの域を脱し,ラスタの教えつまり「アフリカ系民族の統一」と「アフリカ回帰」を広め「持たざる者」の精神的支えとなる言わばアメリカ黒人教会におけるゴスペルのような役割を担うことになったのだ。一方でレゲエは,その音楽的特徴であるスロー・テンポから連想される柔らかでのんびりとした印象を聴き手に与え,そして“No Woman No Cry”に代表されるような「ラヴ・ソングとも聞こえる」普遍性を以って歌われることにより大衆的な人気を獲得し,世界的に認められる音楽のひとジャンルとなった。    ロック,特に同様な傾向でいうならばパンクロックのように,あからさまで攻撃的な歌詞に大音量による音楽ではなく,スロー・テンポというオブラードに包みつつ,実は反政府的且つ攻撃的な

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歌詞も隠しながら,ラスタの教えも謳う,まさにレゲエは特殊性と不変性の混在した音楽なのである。Bob Marley は音楽(レゲエ)ついて語る。

 音楽のテーマは,おれたちの境遇がどうなってるかってことなんだ。音楽はニュースのようなもので人に影響をあたえるんだ。音楽は,みんなの役に立つ。ジャマイカでどう行動したらいいかがわかるから。45

彼は自らの持つ使命を理解していたのだろうか。彼は音楽という手段を通じてジャマイカのみならず世界中に点在するアフリカ系民族の苦しみを全世界に訴えることに成功した。Marley は謳う。「こんなバビロンから脱出して父なる大地へ還るんだ。そうだアフリカに集え !!」と。 Marcus Garvey の思想は決して途絶えることなく Bob Marley という継承者を得て,ラスタファリアニズム,そしてレゲエを通して2人の亡き後も生き続けているのである。

Notes

1. 牧野直也,『レゲエ入門』(東京:音楽之友社,2005),p.11.

2. Ibid.,p.45.

3. Ibid.,p.71.

4. Ibid.,p.64.

5. Ibid.,p.77.

6. Ibid.,p.80.

7. Ibid.,p.83.

8. Ibid.,p.89.

9. Ibid.,p.88.

10.Ibid.,p.89.

11..中村直也監修,『Bob Marley File』(東京:シンコー・ミュージック,2004),p.31.

12..牧野直也,p.101.

13.Lenard E. Barrett Sr. The Rastafarians Boston Beacon Press 1988),p.9.

14.Ibid.,p.9.

15..Ibid.,p.10.

16.Bob Marley & The Wailers,Catch a Fire(London:Island Record Ltd,1973).

17.DVD 作品 Bob Marley and The Wailers Caribbean Nights 内での Gil Noble との対談にて Bob Marley により語られる。

18.中村直也,p.50. 

19.DVD 作品 The Harder They Come に収められている製作ドキュメンタリーにて Roger Steffens により語られる。

20.牧野直也,p.29.

21.Ibid.,p.30.

22.Ibid.,p.30.23.Leonard E. Barrett, Sr.,p.17.

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106 茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)58 号(2009)

24.Ibid.,p.17.25.Jules Archer,They Had a Dream The Civil Rights Struggle from Frederick Douglass to Marcus Garvey to Martin Luther

  King Jr. and Malcolm X,(New York:Puffin Books,1996),p.89.26.Ibid.,p.90.27.Leonard E. Barrett, Sr.,p.81.28.Ibid.,p.68.29.レナード・E・バレット,『ラスタファリアンズ レゲエを生んだ思想』,(東京:平凡社,1996),p.23.30.Ibid.,p.141.31.中村直也監修,p.184.32.Ibid.pp.29-30.33.レナード・E・バレット,p.331.34.Bob Marley & The Wailers,Natty Dread,(London,Island Record Ltd,1974)35.中村直也監修,p.25.36.DVD 作品 Bob Marley and The Wailers Caribbean Nights 内での Gil Noble との対談にて Bob Marley により語られる。37.君塚淳一「マーカス・ガーヴェイとハーレム・ルネッサンス」英米文化学会編,『アメリカ 1920  年代―ローリング・トウェンティーズの光と影』,(東京:金星堂,2004),p.120.38.牧野直也,p.37.39.レナード・E・バレット,p.114.40.牧野直也,p.38.41.Ibid.,,p.39.42.五味悦子訳,『ボブ・マーリー−レゲエを世界に広めた伝説のミュージシャン』,(東京:偕成社,  1999),p.26.43.中村直也監修,p.180.44.Jules Archer,p.92.45.マーシャ・ブロンソン,p.160.

Bibliography

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(DVD)

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