スペイン内戦期のユーゴスラヴィア共産党 ―チトー...

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39 筆者は、拙稿「スペイン内戦とユーゴ人義勇兵」(川成洋、坂東省次、小林雅夫、渡部哲郎、渡辺 雅哉編『スペイン内戦とガルシア・ロルカ』南雲堂フェニックス、2007年、所収)において、スペイ ン内戦(1936年~1939年)に派遣されたユーゴ人義勇兵の活動の全体像について論述した。その際に 言及し、指摘したのは、スペイン内戦においてコミンテルン(共産主義インターナショナル1919- 1943)主導のもとに組織された国際旅団への義勇兵派遣が、ユーゴスラヴィア(以下、ユーゴと略) 現代史、ひいては冷戦初期のソ連東欧史に与えたインパクトという視点が、これまでのユーゴ史およ び冷戦史研究において十分に意識されてこなかったのではないかという点であった (1) 。そこで含意さ れていたのは、とりわけ国際旅団の活動、スターリンによる大粛清、ユーゴ指導部の交代という同時 期に生じた出来事が互いに関連しあっていかなる歴史的意義をもつことになったのかということを検 討することの必要性である。 まさにスペイン内戦期に、ユーゴ共産党指導部の交代が起こり、チトー(ヨシプ・ブロズ・チトー 1892-1980)指導部が確立した。これには、同じ時期にスターリンによって進められた大粛清が関係 してくる。すなわち、1937年7月に党書記長ゴルキッチ(ミラン・ゴルキッチ 1904-1937)がモス クワに召喚された後、粛清されたためにチトーがコミンテルンの指名により臨時書記長に就任し、そ して、1939年1月にようやくチトーはコミンテルンの承認のもと正式な党書記長となった。これによ って、続く第二次世界大戦期にチトー率いるパルチザンが、ナチス・ドイツをはじめとする占領者に 対する困難な闘いを勝ち抜き(スペイン帰りの義勇兵もそれに貢献した)、そのプロセスを通じて多 民族国家ユーゴの人々をひとつにまとめあげて、戦後、連邦制の社会主義体制をいち早く導入するこ とが可能となったのである (2) 。この点で、チトー指導部の確立がユーゴ現代史の行方に大きな影響を 与えたことはまぎれもない事実である。 はじめに スペイン内戦期のユーゴスラヴィア共産党 ―チトー指導部確立との関連で― Kazuhiko OKAMOTO 国際言語文化学科(Department of International Language and Culture

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筆者は、拙稿「スペイン内戦とユーゴ人義勇兵」(川成洋、坂東省次、小林雅夫、渡部哲郎、渡辺

雅哉編『スペイン内戦とガルシア・ロルカ』南雲堂フェニックス、2007年、所収)において、スペイ

ン内戦(1936年~1939年)に派遣されたユーゴ人義勇兵の活動の全体像について論述した。その際に

言及し、指摘したのは、スペイン内戦においてコミンテルン(共産主義インターナショナル1919-

1943)主導のもとに組織された国際旅団への義勇兵派遣が、ユーゴスラヴィア(以下、ユーゴと略)

現代史、ひいては冷戦初期のソ連東欧史に与えたインパクトという視点が、これまでのユーゴ史およ

び冷戦史研究において十分に意識されてこなかったのではないかという点であった(1)。そこで含意さ

れていたのは、とりわけ国際旅団の活動、スターリンによる大粛清、ユーゴ指導部の交代という同時

期に生じた出来事が互いに関連しあっていかなる歴史的意義をもつことになったのかということを検

討することの必要性である。

まさにスペイン内戦期に、ユーゴ共産党指導部の交代が起こり、チトー(ヨシプ・ブロズ・チトー

1892-1980)指導部が確立した。これには、同じ時期にスターリンによって進められた大粛清が関係

してくる。すなわち、1937年7月に党書記長ゴルキッチ(ミラン・ゴルキッチ 1904-1937)がモス

クワに召喚された後、粛清されたためにチトーがコミンテルンの指名により臨時書記長に就任し、そ

して、1939年1月にようやくチトーはコミンテルンの承認のもと正式な党書記長となった。これによ

って、続く第二次世界大戦期にチトー率いるパルチザンが、ナチス・ドイツをはじめとする占領者に

対する困難な闘いを勝ち抜き(スペイン帰りの義勇兵もそれに貢献した)、そのプロセスを通じて多

民族国家ユーゴの人々をひとつにまとめあげて、戦後、連邦制の社会主義体制をいち早く導入するこ

とが可能となったのである(2)。この点で、チトー指導部の確立がユーゴ現代史の行方に大きな影響を

与えたことはまぎれもない事実である。

はじめに

スペイン内戦期のユーゴスラヴィア共産党―チトー指導部確立との関連で―

岡 本 和 彦*

*Kazuhiko OKAMOTO 国際言語文化学科(Department of International Language and Culture)

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戦後のソ連東欧関係についても同様なことが言えるだろう。1947年9月にコミンフォルム(共産党

情報局 1947-1956)が設立された際にはユーゴはソ連に次ぐ地位を与えられていたものの、翌年6

月には一転してユーゴはコミンフォルムにおいて断罪され、ソ連陣営から追放されてしまう(3)。その

後ユーゴが独自の道(自主管理社会主義、非同盟外交)を進む一方、他の東欧諸国はソ連の衛星国と

して従属的な関係の下に置かれるようになるという歴史的展開を見ても、“チトーの”ユーゴの存在

がソ連東欧関係に大きな影響を与えたこともまた明白である。

ではスペイン内戦と戦後のソ連陣営の関係についてはどうだろうか。これについては、直接的な結

びつきを論ずるのは難しいように思われるかもしれないが、すでにE.H.カーによる興味深い示唆

がある。カーの議論は、換言すれば、ソ連はコミンテルンを通じてスペイン内戦に大きな影響力を行

使したが、そこでのポイントは共産主義の諸原則よりもソ連の政策、外交的利益を優先するというこ

とであり、ソ連以外の外国人共産党員もソ連の政策目的実現のために利用するに過ぎず、そうしたや

り方こそ、戦後東欧諸国で広く応用された方法であった、というものである(4)。確かに、米ソの緊張

関係が表面化した1947年のコミンフォルム設立はソ連の安全保障上の要請に沿ったものであったし、

ユーゴのコミンフォルムからの追放後に東欧各国で生じたチトー主義者粛清は、スペイン内戦期に進

行したスターリンによる大粛清を容易に想起させてくれる(5)。スペイン内戦と国際旅団の経験の戦後

のソ連東欧関係への影響という視点は、従来コミンフォルム研究において見落とされてきたことをふ

まえるときわめて興味深い論点であると言えよう。

このように、1930年代後半に生じたスペイン内戦における国際旅団の活動、スターリンによる大粛

清、コミンテルンによる外国共産党のコントロールは、相互に密接に関連しつつ、スターリン独裁体

制の構築とソ連外交利益の達成に利用されたとみなすことができるだろう。それは、第一義的には、

ヒトラーという眼前の敵への対処という意味合いで理解するのが妥当であるものの、それが戦後の動

向に対してもインパクトをもっていたと考えることもまた可能であろう。しかし、本稿において、戦

後のユーゴ史やソ連東欧関係へのインパクトにまで考察対象を広げることは、とりあげる時期の点で

も、対象の点でも余りにも大きな課題であると言わざるを得ない。従って、本稿の目的は、まずもっ

て、ユーゴにおけるスペイン内戦への義勇兵の派遣、同時期に進行したスターリンによる大粛清、チ

トー指導部の確立の三者がいかなる関係にあったのかを明らかにすることである。具体的には、まず

第一に、1936年4月にチョピッチ(ヴラディーミル・チョピッチ1891-1939)がユーゴ共産党中央委

員会政治局から解任された事件を取り上げる。これによって、ユーゴ国外に党中央委員会を置きそこ

から党書記長として指導していたゴルキッチと、ユーゴ国内の組織活動を任され国内で活動するチト

ーという二極体制が成立するが、これがチトー指導部確立の第一段階となる。第二に、1937年7月の

ゴルキッチの逮捕・粛清を取り上げる。これによりチトーは党の臨時書記長となり、これがチトー指

導部確立の第二段階となる。第三に、スペインで国際旅団の司令官として活動後1938年9月に再びモ

スクワに戻ったチョピッチが粛清され、1939年1月にチトーが正式に党書記長に任命された出来事を

取り上げる。これによりチトー指導部が確立されたことになる。これら一連の出来事において、ソ連

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及びコミンテルンとチトーをはじめとしたユーゴ共産党の間にどのような関係があったのかに焦点を

あてながら論じていきたい。

スペイン内戦の起点となった1936年7月17日のフランコ軍の蜂起から約2カ月たった9月18日にコ

ミンテルン執行委員会書記局会議が開かれ、「スペイン人民の闘争に対する支援キャンペーン」に関

する決議が採択され、そこですべての国の労働者の中からスペインに送る義勇兵の徴募にとりかかる

ことが決められた(6)。これを受けてユーゴでも義勇兵の徴募とスペインへの移送が開始されることに

なった。義勇兵をスペインへ送る際の拠点となったのはパリだったが、ユーゴ共産党の指導部が1936

年末にウィーンからパリに移されたこともあり、チトーをはじめとした党リーダーたちが東欧からの

義勇兵移送に大きな役割を果たしたことはよく知られている(7)。ユーゴからも多くの義勇兵が国際旅

団に参加し、スペイン内戦を戦ったが、そのなかでもよく知られたユーゴ人義勇兵は、第15国際旅団

の司令官となったチョピッチであった(8)。

ではスペイン内戦当時のユーゴ共産党内はどのような状況にあったのであろうか。本稿では、当時

の党書記長ゴルキッチ(37年7月にモスクワに呼ばれたのち粛清)と、彼と対立関係にあったチョピ

ッチ(36年4月に分派活動のゆえにいったん党政治局を解任され、その後スペイン内戦の義勇兵とな

り、38年9月にモスクワ帰還後に粛清)の二人の粛清を中心に、次の党書記長となるチトーとその二

人に関係について検討していくが、まずは、チョピッチ解任前後の時期(1935~36年)の党内情勢に

ついて検討する(9)。

ユーゴでは、周知のように、1929年に国王独裁体制が敷かれるようになり、その下で労働運動に対

しても厳しい弾圧が加えられるようになった。それまでの党の活動は、左右両派の対立に加えて、国

内に残る現場の活動家と国外にいる指導部という二重の分裂状況にあったが、そこに政府による弾圧

が加わり、当時のユーゴ共産党の主要なリーダーたちが逮捕・投獄されたり、殺されたために、党は

壊滅状態に陥っていた。ようやく1932年にゴルキッチが書記長となり再び活発な活動を行うようにな

るものの、それは依然として、官憲による弾圧の故とはいえ、ユーゴ国内ではなくウィーンに党中央

委員会を置く外国からの指導という形のものであった。一方、チトーが5年半に及ぶ獄中生活から刑

期を終えて出所するのが1934年3月であり、その後チトーは党内で台頭し、35年にはモスクワに出て

コミンテルンで働くようになる。こうして、チトー、ゴルキッチ、チョピッチが顔をそろえることに

なるのであるが、党活動家としてのチトーの経歴が他のリーダーたちと異なっている点を理解するた

めにも、チトーの経歴についてまず記しておかねばなるまい。

チトー(本名ヨシプ・ブローズ)は、1892年にクロアチアのクムロヴェツに生まれ、小学校を出る

と職人としてさまざまなところで働き、次第に労働運動に関わるようになった(10)。第一次世界大戦で

兵役につき、ロシア戦線で負傷し捕虜となり各地を転々とする過程で、ボリシェヴィキ支持者となり

1 チョピッチ解任とゴルキッチ=チトー体制

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ペテルブルクでロシア革命にも遭遇し、デモに加わり逮捕された。1920年にユーゴに戻ると機械工と

して働き始め、ユーゴ共産党に加入した。チトーはもっぱらクロアチアを中心としたユーゴ国内での

労働組合活動・党活動に地道に従事していた。1928年2月にクロアチアのザグレブ地方組織協議会に

おいて、はじめて当時の党リーダーたちを前に分派闘争を批判する演説を行ってその名前が知れわた

るようになった。そして、同年8月にデモやゼネストの首謀者として逮捕、投獄されたために、それ

から5年半ものあいだ党活動から離れざるをえなくなった(11)。1934年3月に出所すると、すぐにチト

ーは故郷クロアチアの党地方委員会で活動を始め、7月には党中央委員に選出されて、ウィーンにあ

った党中央委員会と国内の党活動をつなぐ役割を与えられた。そして、ウィーンに行きその際に初め

て「チトー」の呼称を用いるようになった(12)。さらに、チトーは党中央委員会政治局員となり、ユー

ゴ共産党全国協議会を開催できるよう国内の各地方会議を組織する任務を与えられ帰国し、実際に同

年12月にそれは開催された。そうした活躍もあり、中央委員会はチトーをモスクワに派遣しコミンテ

ルンのバルカン書記局で活動するよう指示した。こうして、1935年1月、チトーは初めてモスクワを

訪れ、コミンテルンとの関係をもつことになるのである。当時、モスクワに駐在するコミンテルンの

ユーゴ共産党代表がチョピッチであった。チトーはそこでチョピッチと仕事をするとともに、ディミ

トロフ(コミンテルン書記長)、トリアッティ、ピーク(バルカン書記局長)といった各国の著名な

活動家たちと出会い、親交を深めた(13)。チトー自身の長い経歴にもかかわらず、1935年に至るまでコ

ミンテルンとのかかわりをほとんど持たなかったという点は、他の党中央のリーダーたちときわめて

異なるものであった。こうした、いわば遅咲きの活動家であったことが、チトーが粛清を逃れる上で

幸運に作用したのかもしれない(14)。

1935年7~8月にコミンテルン第7回大会が開かれ、そこにおいて従来の方針を大転換させたいわ

ゆる人民戦線戦術が採択された。この第7回大会で、ユーゴ共産党の党内情勢に一石を投じることに

なるエピソードが生じている。大会において、コミンテルン執行委員会の新委員の一人としてユーゴ

代表団はチトーを推薦していたが、この案がコミンテルンに受け入れられなかったのである(15)。ユー

ゴ代表団長であった党書記長ゴルキッチではなくまだほとんど無名に近かったチトーを推薦したこと

は、ユーゴ党内にゴルキッチへの不信がある、すなわちそれはゴルキッチを党書記長に任命したコミ

ンテルンに対しても党内に不信があることを示す行為であるとコミンテルンに受け取られたのである。

実際、当時党内には、ゴルキッチ、チョピッチ、ホルヴァティン(古参の党リーダー)をリーダーと

する三つの派閥が形成されていたために、そのどれにも属していなかったチトーが推薦されたのだっ

た。この事態に代表団は、協議の結果、党内が一致していることを示すためにもチトーではなくゴル

キッチを推薦することにした。しかしその結果は、ユーゴ共産党からは執行委員は誰も選ばれず、ゴ

ルキッチが執行委員候補に選出されただけであった。これは大きな格下げであり、コミンテルンがユ

ーゴ共産党をまとまりのない弱小の党と軽視していることを現わしていた。

そして次の軋轢が生じた。ユーゴでは1935年5月の選挙によって成立したストヤディノヴィッチ内

閣による弾圧がその後激しさを増し、年末から36年初めにかけてユーゴ国内で各地区の指導的メンバ

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ーの多くが逮捕されために、党の活動は麻痺してしまった。この出来事のためにウィーンの党中央委

員会内部の関係が悪化し、分派闘争が再び生じたのである(16)。このときにゴルキッチに対抗するグル

ープを指導したのがチョピッチであった。党内では彼は左派を支持していた(17)。チョピッチは、1936

年4月、ゴルキッチがモスクワに出かけた不在の時を利用してコミンテルンに知らせることなく党中

央委員会総会をウィーンとプラハで開いた。これはすぐにコミンテルンの知られるところとなり、コ

ミンテルンはユーゴ共産党に対して厳しい対応で臨み、その総会の決定をすべて破棄し、中央委員会

を新たに任命した。チョピッチは、この分派活動のために政治局から解任された。この事件を受けて

チトーは、党指導部をユーゴ国内に移すことが絶対に必要であるとディミトロフに訴えたという。そ

してこの提案にゴルキッチは反対した。激論の末に出された結論が指導部を国外と国内の二つに分け

るという決定であった。こうしてコミンテルンの指示によって、党中央委員会政治局書記(書記長)

にゴルキッチは留任し、かつ国外(ウィーン、その後パリ)に残り、チトーは組織局書記としてユー

ゴに戻り国内での活動の指揮を取ることになった。ここにおいて、党内におけるゴルキッチとチトー

の二極体制が形成されることになったのである。この時、両者のあいだに対立関係が明白になってい

たわけではなかったが、互いに相手を信用してはいなかったようである。チトーは回想でたびたびゴ

ルキッチの不用心さについて述べているが、ゴルキッチの手配のまずさから仲間が官憲に捕まるとい

うことが多かったために、チトーは36年末にユーゴに帰国した際、ゴルキッチが用意したユーゴへの

帰国プランに従うことなく独自の仕方で帰国している(18)。

ミラン・ゴルキッチ(本名ヨシプ・チジンスキー)は、党創立時からのメンバーで、党が非合法化

されたこともあり、まもなくユーゴを去りモスクワやウィーンで主に活動した。共産主義青年インタ

ーナショナルで活躍し頭角を表すと、1932年に党の書記長となった。1904年にサラエヴォで生まれた

ゴルキッチは、この時まだ28歳の若い活動家だった。ゴルキッチ自身は、モスクワでブハーリンと親

しく、従って党内で右派を代表していた(19)。おそらく、このブハーリンとの関係は、ゴルキッチの粛

清が1937年のブハーリンに対する弾劾と逮捕の後に起こったものであることからも、なんらかの関係

があったと見ることができるかもしれない。それでも、オーティは、ゴルキッチが粛清されるにいた

る要因として、彼がコミンテルンに対する不満を不用意にたびたび述べていたこと、長らく国外から

党を指導していたことから当時の党内外の情勢の認識が不十分であったこと、自分が粛清されるなど

夢にも思わず、きわめて楽観的すぎて不用心であったことなどを指摘している(20)。

実際、スペイン内戦へのユーゴ人義勇兵派遣に関して、ゴルキッチの不用心さが問題となった。す

でに述べたように当時パリに党中央委員会を置いていた関係でユーゴ共産党は義勇兵の徴募と移送に

大きな役割を果たしていた。チトーが鉄道での義勇兵移送で活躍する一方、ゴルキッチもまた別ルー

トでの徴募と移送を行っていたが、そこで問題となる事件が発生したのである(21)。ゴルキッチは、船

2 ゴルキッチ粛清とチトー臨時指導部

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をチャーターしてユーゴから直接スペインへ義勇兵を移送しようとした。彼の指示で党中央委員のア

ドルフ・ムクがそれを仕切ることになったが、やり方がまずく計画は公然のものとなり、海岸から小

さなボートで義勇兵を運びチャーター船に乗せる作業にとりかかったところで政府のパトロール船に

よって止められたのである。海岸に待機していた多くの義勇兵のうち数百人が逮捕され、この任務に

関わった組織も暴露されてしまった。チトーは、後に回想記でこの事件に触れ、それがゴルキッチが

党書記長を解任された理由の一つだったかもしれないと述べている(22)。筆者はこれまで、ロシアのア

ルヒーフ(文書館)で、ソ連時代には極秘であったがソ連崩壊後に公開されるようになった資料のう

ち、コミンフォルムやユーゴ共産党関係の資料を中心に調べてきたが、その際にこの事件に関する報

告書のファイルが存在するのを見つけた(23)。その資料には、チトーが主としてゴルキッチに事件の責

任があると弁明していること、ディミトロフやマヌイルスキー(コミンテルン幹部)はあえてチトー

の責任にも言及していることが記されているが、そのような議論があったことからも、この件がコミ

ンテルンでも大きな事件として認識されていたことがわかる(24)。しかし、この事件だけがゴルキッチ

粛清をもたらしたわけではあるまい。この時期、スターリンによる粛清は激しさを増していた。そこ

では誰もが、いつ粛清にあうかわからないような状況に置かれていたといっても過言ではない。特に、

コミンテルン創設時からモスクワとの関係があるような古参の党員は、その活動が用意にブハーリン

やトロツキーと結びつけられることができただろう。当時ナチスとの関係を強めていた東欧各国の出

身者というだけでもファシストの手先と疑われる要因となった。さらにはスペイン内戦帰りの共産主

義者もまたトロツキズムやファシズムと容易に結びつけられた。もちろんそうした理由付けそのもの

が後からつけたにすぎないものであったかもしれない。ゴルキッチに関しては、さらに妻がすでにス

パイ容疑で逮捕されていた(25)。家族や血縁関係も容易にその理由となりえた。そうしたあらゆること

が重なり合って粛清の犠牲者となる者もいれば、またそこから逃れた者もいたのである。ゴルキッチ

粛清を受けて、コミンテルンはチトーを党の臨時書記長に任命した。

前節でゴルキッチ粛清について述べた。しかし、それはユーゴ共産党内における新たな軋轢の火種

となった。すなわち、誰がその後を継ぐかという問題である。ゴルキッチ逮捕後チトーは、コミンテ

ルンによって党の臨時書記長に任命されていたが、あくまで臨時であり正式な決定とは見なされなか

った。チトー自身、党の解散さえあるという見方をしていた(26)。ゴルキッチと対立する分派のリーダ

ーだったチョピッチは、ゴルキッチが失脚した以上その後継者に名乗りをあげても不思議ではなかっ

た。パリの党中央委員会はまだ残っていたし、国内には後にチトーを苦しめることになるペトコ・ミ

レティッチによる分派活動があった(27)。本節では、チトー指導部の確立を中心に、それとの関連でチ

ョピッチの粛清及びミレティッチの挑戦と失敗について検討する。

ここでチョピッチの経歴について簡単に記しておこう(28)。ヴラディーミル・チョピッチは、1891年

3 チョピッチ粛清とチトー指導部の確立

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にクロアチアのセニに生まれた。青年時代に猛烈なクロアチア民族主義者となり、「青年クロアチア」

として知られた過激な運動に身を投じた。第一次世界大戦に従軍し、そこで捕虜となり、ロシア革命

の後、共産主義者となった。そして、ユーゴ共産党創設を支援し、1919年に党中央委員、20年に党組

織書記となった古参の党員であった。1924年からソ連に渡り、国際レーニン学校で学んだ後、コミン

テルンで働き、32年に党政治局員、35年には党のコミンテルン代表を努めた。しかし、第1節で見た

ように、党内の左派を代表し、党書記長ゴルキッチと対立関係にあった彼は、1936年4月の分派活動

のために政治局から解任された。その後、チョピッチは、1937年1月にスペインに派遣され、同年2

月末に第15国際旅団の司令官に任命された。36年4月の解任から37年1月にスペインに現れるまでの

あいだの彼の活動については不明であり、どのような経緯のもとに彼が義勇兵として国際旅団に派遣

されることになったのかについての解明は、今後の大きな課題である(29)。

チョピッチの国際旅団における活動中にも、ゴルキッチとの確執は続いた。それはむしろゴルキッ

チが、国際旅団の司令官という地位にあるチョピッチがその立場を利用して多くのユーゴ人義勇兵に

影響力を行使して分派活動を仕掛けてくるのではないかという疑心暗鬼に駆られてのものであったよ

うである(30)。しかし、ゴルキッチのほうが先に粛清の犠牲者となった。チョピッチは、1938年夏まで

国際旅団の指揮を取り、その後モスクワに呼び戻された。クラリイチは、チョピッチのモスクワへの

召集は旅団での失敗が原因だったかもしれないが、むしろユーゴ共産党指導部の変化に関連していた

と論じている(31)。チョピッチは、1938年9月、パリ経由でモスクワに戻ると、そこで全連邦共産党

(ボ)史のクロアチア語訳を作る作業をチトーとともに始めるものの、まもなく逮捕され、1939年4

月19日に死刑を宣告された(32)。

ゴルキッチ粛清後、1938年にかけてユーゴ共産党の立場はきわめて不安定なものであった。チトー

は、ユーゴ指導部の状況につきコミンテルンによる明確な指示(=チトー指導部確立のお墨付き)を

望み、たびたびコミンテルンに問い合わせていた。そして、1938年8月末、チトーはようやくモスク

ワ行きがかなうのである(33)。

チョピッチも、1938年9月スペインからモスクワに戻っていた。すでに述べたように、彼はそこで

全連邦共産党(ボ)史のクロアチア語訳を作る作業を、チトーとともに始めた。従って、チトーとチ

ョピッチとの間に大きな軋轢があったとは考えにくい。資料的裏づけの点で問題があるが、クラリイ

チは、チトーがチョピッチの指導部への復帰を求める手紙をディミトロフ宛てに書いていたと記して

いる(34)。しかし、そうした中でチョピッチは逮捕された。まだ翻訳は完成前であった。この時期はス

ターリン粛清のピークにあたる。逮捕されたユーゴ人は100人以上いたが、その多くが38年11月に逮

捕された(35)。おそらくチョピッチもそのうちの一人であったろう。チョピッチ粛清の理由は、コミン

テルンの活動に長く関わった古参党員、過去の分派活動、国際旅団指揮の失敗、そしてスペイン内戦

帰りによって倍増したトロツキズム疑惑といったことが挙げられるだろう。しかし、その明確な理由

は資料的な限界もあり依然不明である。

ここで指摘できるのは、まさに同じ時にモスクワにいたチトー自身、粛清の対象になってもおかし

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くなかったということである。実際、国内の分派活動のリーダーとしてチトー失脚を狙っていたミレ

ティッチが、ミトロヴィッツァ監獄を出たあと密かにモスクワに到着して、チトーをトロツキストの

疑いで告発した時に、チトーは最大のピンチに直面した(36)。チトーは、コミンテルン統制委員会の査

問を受けた(37)。そこでチトーは、全連邦共産党(ボ)史の翻訳の中にトロツキズムを挿入したと非難

された。またユーゴのドイツ人少数派の一員だったとか、ドイツ人トロツキストたちと関わっていた

とも非難された。しかし、チトーは切り抜けることができた。統制委員会議長はドイツ人のヴィルヘ

ルム・フローリンで、チトーとはコミンテルンの中で親しい間柄であった。なによりコミンテルン議

長ディミトロフがチトーを信頼していた。チトーはミレティッチとの闘いに勝ち、1939年1月5日の

コミンテルン書記局会議の決定を受けて、ついに正式にユーゴ共産党書記長に任命された(38)。

本稿は、とりわけスペイン内戦期のチトー、ゴルキッチ、チョピッチという三人の有力なユーゴ共

産党指導者の活動に焦点をあて、その三人の関係、党活動における失脚と台頭のプロセスをスペイン

内戦、コミンテルン、スターリンによる大粛清と絡めて描写することで、そうした一連の出来事がユ

ーゴ現代史、ひいてはソ連東欧現代史の中でどのように位置づけられるのかを考察するための材料を

提供した。そこでは、冷戦終結、ソ連崩壊によって可能となった資料公開の成果としての1990年代以

降の文献、資料を利用しつつも、依然としてこの分野の研究が進んでいないために、既存の文献に多

くを頼らざるをえなかった。新資料を用いた更なる詳細な研究が必要であろう。とりわけそれは、ス

ペイン内戦義勇兵を含む多くの党活動家たちの粛清の詳細について、また1937年夏のチトー臨時指導

部設立後、39年1月に正式な党書記長任命に至るプロセスについてである。後者に関して、チトーは

コミンテルンといかに連絡を取りながらユーゴ国内で分派活動を抑え、自己の指導体制を確立してい

ったのか、まさにそうした業績(ある意味ユーゴ国内でのチトーによる粛清)が、チトー自身をスタ

ーリンによる粛清から逃れさせたかもしれないという見方もできよう。これとの関連で、やはり、と

りわけゴルキッチとチョピッチの粛清については新資料に基づいた真相の究明は重要な課題として残

っている。さらに言えば、これらの研究を進めることは、ソ連-コミンテルン-国際旅団という支配

従属関係が、戦後のソ連-コミンフォルム-東欧支配という構図といかなる関係があるのか、あるい

はないのかということを考察する上での視角を与えてくれるだろう。コミンフォルム研究がほとんど

進んでいない状況があるためにいっそう、この点からの研究の進展は今後のきわめて重要な課題とな

ると言えよう。

(1)前掲拙稿「スペイン内戦とユーゴ人義勇兵」、川成洋、坂東省次、小林雅夫、渡部哲郎、渡辺雅哉編

『スペイン内戦とガルシア・ロルカ』南雲堂フェニックス、2007年、146-147頁。スペイン内戦関連の文献

でユーゴ人義勇兵が扱われる数少ない場合でも、主にユーゴ人からなった「ジューロ・ジャコヴィッチ大

隊」の活躍や第15国際旅団の司令官だったチョピッチのことが断片的に記述されるのがほとんどで、あと

おわりに

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スペイン内戦期のユーゴスラヴィア共産党―チトー指導部確立との関連で―

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は義勇兵移送の中継地パリで移送を組織したチトーのことが軽く触れられる程度である(例えば次を参照。

H. Thomas, The Spanish Civil War, Penguin Books, 2003;A. Beevor, The Battle for Spain. The Spanish

Civil War 1936-1939, Penguin Books, 2006.)。ユーゴ現代史研究においても、ユーゴ人義勇兵のことは欧米

の文献でもチトーの伝記、回想録等でエピソード的に語られる程度(例えば次を参照。ウラジミール・デ

ディエ(高橋正雄訳)『チトーは語る』河出書房、1953年。P. Auty, Tito : A Biography, Pelican Books,

1974.)で、わが国におけるスペイン内戦とユーゴというテーマでの文献はほとんど見あたらない。旧ユー

ゴにおいては、スペイン内戦50周年の年に記念論集が出版されているが、スペイン内戦の概説やユーゴ各

地域からの義勇兵、その派遣の取り組みについての紹介が中心で、本稿の問題関心に必ずしも沿ったもの

ではない。 panjolska 1936-1939. Prilozi sa znanstvenog savjetovanja, Ured., L. Boban, Zagreb, 1986.

(2)パルチザン戦争については、ここでは次の邦語文献を挙げておけば十分であろう。V.ヴィンテルハル

テル(田中一生訳)『チトー伝』徳間書店、1972年。S. クリソルド編(田中一生・柴宜弘・高田敏明共訳)

『ユーゴスラヴィア史』恒文社、1980年。柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波新書、1996年。

(3)コミンフォルム設立とその後のユーゴとソ連の衝突に関しては次を参照されたい。岡本和彦「ユーゴ・

ソ連論争史序論」、『一橋論叢』第114巻第2号、1995年、232-253頁、同「コミンフォルムとユーゴ・ソ連

論争」、『一橋論叢』第117巻第2号、1997年、57-78頁。

(4)E. H. カー(富田武訳)『コミンテルンとスペイン内戦』岩波書店、1985年、152-153頁。

(5)前掲拙稿「ユーゴ・ソ連論争史序論」及び「コミンフォルムとユーゴ・ソ連論争」。

(6)Beevor, op. cit., p. 157. このよく知られた決議が採択された会議については、9月16日~19日の4日間

にわたって行われたコミンテルン執行委員会会議(幹部会会議及び書記局会議)の一コマであったことが

わかっている。そして、当時のユーゴ共産党書記長ミラン・ゴルキッチは、これらの会議に一部出席して

いた。島田顕「スペイン内戦とコミンテルン-ソ連崩壊後公開されたモスクワのコミンテルン関連文書に

おけるコミンテルンのスペイン内戦政策-」、スペイン現代史学会『スペイン現代史』第13号、2001年、

39-41頁。

(7)スペイン内戦に関する定評ある大部を書いたトマスは、義勇兵たちが偽造パスポートを得て鉄道でスペ

インへ向かう手はずを整えたことを「チトーの秘密列車」という表現でたびたび記している。Thomas, op.

cit., pp. 440, 589, 927.この具体例についてはオーティによるチトーの伝記に詳しい。Auty, op. cit., pp. 139-

141.

(8)スペイン内戦を戦ったユーゴ人義勇兵及びチョピッチの略歴については、前掲拙稿「スペイン内戦とユ

ーゴ人義勇兵」、146-158頁を参照されたい。スペイン内戦とコミンテルンに関しては、旧ソ連時代にソ連

で出版されたものとして次のものがある。International Solidarity with the Spanish Republic 1936-1939,

Progress Publishers, Moscow, 1975.ソ連崩壊によって利用可能となった資料を使った文献として次のもの

がある。С. П. Пожарская, отв. ред., Коминтерн и гражданская война в Испании. Документы,

Москва, 2001;R. Radosh, M. R. Habeck and G. Sevostianov eds., Spain Betrayed :The Soviet Union in

the Spanish Civil War, New Haven and London, Yale Univ. Press, 2001.

(9)ユーゴ共産党は、ユーゴ社会主義労働者党として1919年に創立しコミンテルンに加盟、翌年ユーゴ共産

党に改称した。党については次の文献が詳しい。I. Avakumovic, History of the Communist Party of

Yugoslavia Vol.1, The Aberdeen University Press, 1964.なお、公式の党史としては次のものがある。R.

olakovi , D. Jankovi , P. Mora a, Pregled Istorije Saveza Komunista Jugoslavije[ユーゴ共産主義者同盟

小史], Beograd, 1963;P. Mora a, D. Biland i , S. Stojanovi , Istorija Saveza Komunista Jugoslavije

(kratak pregled)[ユーゴ共産主義者同盟史(概略)], Beograd, 1976;Историja Савеза Комуниста

Jyгославиjе[ユーゴ共産主義者同盟史]. Уредник, Л. Вуjошеви , Београд, 1985.

(10)以下、チトーについては主として次を参照。ヴィンテルハルテル、前掲書。デディエ、前掲書。Auty,

op. cit.

(11)このときの裁判(1928年11月)におけるチトーの毅然とした態度は、当時の体制側が発行していた日刊

紙にも掲載され、労働運動内におけるチトーの名声を高めることになったという。ヴィンテルハルテル、

前掲書、62-64頁。

(12)ヴィンテルハルテル、前掲書、79頁。当時の活動家が複数の偽名をもつことは普通であり、チトーはコ

ミンテルンでは主に「ワルター」の名を使用した。

(13)「ユーゴスラビア共産党のたたかいとコミンテルン(上)故チトー議長の回想」、『世界政治-論評と資料』

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632号、1982年11月上、35-36頁(以下、『世界政治』と略)。この資料は、チトー著『両大戦間期のユーゴ

共産党のたたかいと発展』(英文版)からの抜粋の日本語訳である。次も参照。ヴィンテルハルテル、前掲

書、86頁。

(14)Auty, op. cit., pp. 119-137. チトー自身は、回想記で、コミンテルンで働いていた間、ホテルと職場を往

来するだけで、ひたすら勉強、読書に時間を費やし、議論を避けたおかげで犠牲者とならずにすんだと述

べている。あらゆる会話は盗聴されていて、逮捕者のたいがいの逮捕理由は彼らがぶちまける憤慨のため

だったという。ヴィンテルハルテル、前掲書、85頁。

(15)以下、この問題に関しては次を参照。ヴィンテルハルテル、前掲書、88-89頁。デディエ、前掲書、96

頁。『世界政治』、36-37頁。

(16)以下、この問題に関しては次を参照。ヴィンテルハルテル、前掲書、93-95頁。デディエ、前掲書、

99-100頁。『世界政治』、37-38頁。Auty, op. cit., pp. 134-137; Avakumovic, op. cit., p. 118.

(17)B.ラジッチ、M.M.ドラチコヴィチ(勝部元、飛田勘弐訳)『コミンテルン人名事典』至誠堂、

1980年、63頁(以下、『コミンテルン人名事典』と略)。

(18)ヴィンテルハルテル、前掲書、97-99頁。

(19)『コミンテルン人名事典』、118-119頁。

(20)Auty, op. cit., pp. 147-149.

(21)以下、この問題に関しては次を参照。デディエ、前掲書、104頁。Auty, op. cit., pp. 141-142. オーティ

によれば、事件は37年3月初めに起こった。

(22)『世界政治』、39頁。

(23)РГАСПИ, ф. 575, оп. 1, д. 411, л. 100-101, 102. РГАСПИ(ルガスピ)は、ロシア国立社会・政治史

アルヒーフの略称。ф. 575(フォントфонд575)は、戦後の国際共産主義運動の組織となるコミンフ

ォルムの活動に関する資料を集めたコミンフォルム・コレクションであり、その中にこのファイルが含ま

れていたことは興味深い。ф. 575は、コミンフォルムの活動記録であると同時にチトーとユーゴを弾劾す

る意味で集められた。戦前のチトーも含めて非難するという目的にとって、このファイルは、コミンテル

ン期のチトーの“失点”を挙げる上で役立つのでそこに含められたのだろう。

(24)Tамже, л. 100-101, 102.なお、これらのファイルの日付は1939年1月4日であり、その日付からわかる

ように、これらのファイルはゴルキッチ粛清のためのものではなかった。実は、これはチトー自身にかけ

られたトロツキズムの嫌疑による調書の一環として作成されたものであったと思われる。これについては、

チョピッチ及び後述するミレティッチの粛清と関連するので次節で触れたい。

(25)デディエ、前掲書、105頁。

(26)デディエ、前掲書、106頁。実際、ポーランド共産党の場合は解散させられることになる。ケヴィン・

マクダーマット、ジェレミー・アグニュー(萩原直訳)『コミンテルン史 レーニンからスターリンへ』大

月書店、1998年、206頁。

(27)ヴィンテルハルテル、前掲書、103-110頁。ミレティッチは、ミトロヴィッツァ監獄において若い党員

を中心に分派を作った。ジャーナリズムにも影響力を持ち、特にアメリカで彼を支持するグループがあり、

それは国際旅団にも浸透し、彼の名を持つペトコ・ミレティッチ砲兵中隊すらできていた。ユーゴ人義勇

兵の中にも彼に従うものがいたという。同上、103-104頁。彼の名を冠した部隊は第45師団の予備部隊と

して 3 8 年1月から2月半ばまでの短い期間存在し、再編されたようである。次を参照。

http://annasebas.vexicat.org/brigadasinternacionales/bi_divisiones.htm

(28)以下、チョピッチについては次を参照。J. Kraljic, New Material on Vladimir Copic, Commander of the

XVth Brigade, The Volunteer (Journal of the Veterans of the Abraham Lincoln Brigade), Vol. XXI, No.4,

New York, Fall 1999, pp. 8-9.『コミンテルン人名事典』、63頁。

(29)これについては、ソ連崩壊後に可能となった旧ソ連共産党関係資料の公開に期待がかかる。筆者は、

2007年9月にモスクワを訪問し、ルガスピを中心に資料収集を行った。ルガスピにあるコミンテルン関係

資料のうち、個人ファイルについてはこれまで一部を除いてほとんど見ることが難しかった。これは以下

の事情によるものであった。実際のファイル(ひとつひとつの資料。ロシア語でリストлистという)が

収納されているジェラ(同様にдело)と呼ばれるフォルダを指定し、請求しなければファイルの閲覧は

できない。そのジェラは番号が付けられ年度や項目ごとに整理されているのだが、そのジェラの番号と内

容がわかる目録(オーピシописьと呼ぶ)の冊子が非公開であるためにジェラ番号がわからず、従ってジ

東京成徳大学人文学部研究紀要 第 15 号(2008)

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スペイン内戦期のユーゴスラヴィア共産党―チトー指導部確立との関連で―

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ェラを請求できず、結果、ファイルを閲覧できないという状況にあった。しかし、今回の訪問で、ルガス

ピのコンピュータ化が進み、冊子としてのオーピシを見ずに、コンピュータ上でジェラの一覧を検索する

ことができるようになっていることがわかった。筆者は、ルガスピ閲覧室の担当者との交渉の際にこのこ

とを知り、チトーの個人ファイルを手がかりにチョピッチやゴルキッチの個人ファイルがあるかどうかを

コンピュータ上で調べてもらった(そのコンピュータは閲覧室担当者の机上に置かれた専用のもので、当

然コンピュータを操作できるのは担当者だけであり、閲覧者が勝手に操作することはできなかった)。する

と、ユーゴ共産党の党員に関する個人ファイルが多数あることがわかり、しかもそれらは申請して閲覧す

ることが可能であった。筆者は、資料収集の最終日にようやくチョピッチとゴルキッチの個人ファイル

(ф. 495, оп. 277, д. 191及びф. 495, оп. 277, д. 192)のごく一部を閲覧することができたが、残念ながら

そこで時間切れとなった。この点からも、コミンテルン資料の調査を深めることでこの問題の解明の糸口

がつかめる可能性はある。なお、ルガスピにおけるコミンフォルム資料及びユーゴ共産党関係資料につい

ては次を参照されたい。岡本和彦(研究ノート)「コミンフォルム史料の概要」、関東学院大学経済学部総

合学術論叢『自然・人間・社会』第32号、2002年1月、69-102頁。

(30)クラリイチによれば、ゴルキッチは、国際旅団の中でチョピッチの評判がよくないということをわざわ

ざモスクワに報告したという。Kraljic, op. cit., pp. 8-9.

(31)Kraljic, op. cit., p. 9.なお、このクラリイチの論文にはいくつかの間違いが見られるし、正確な引用・参

照注もついていないので注意が必要である。例えば、チョピッチの旅団司令官としての失敗に関して、そ

れをエブロ河の戦いでの失敗としてその日付を37年10月と記しているが、エブロ河の戦いは38年7~10月

である。従って、それ以前の戦いや作戦における失敗の責任を追求されたという可能性もなくはない。実

際、アントニー・ビーバーは、38年春の時点で、スペイン共産党のリーダーから、チョピッチら国際旅団

司令官の免職を求める要求が出されたと記している(コミンテルンから派遣されたリーダーも含めて、そ

れぞれが自分の立場を正当化し、責任をなすりつけるために他のリーダーを非難するというのがその実態

であったが)。Beevor, op. cit., p. 326.

(32)Kraljic, op. cit., p. 9. 『コミンテルン人名事典』、63頁。

(33)これについては、次を参照。ヴィンテルハルテル、前掲書、103-117頁。

(34)Kraljic, op. cit., p. 9. そこでは1937年の手紙と記述されている。従って、当然それは7月のゴルキッチ失

脚後のことと思われる。いずれにせよ、この手紙に関しては資料による裏づけが必要である。

(35)Auty, op. cit., p. 155;Avakumovic, op. cit., pp. 128-134.

(36)これについては次を参照。Avakumovic, op. cit., pp. 133-134.

(37)Auty, op. cit., pp. 158-161.「ユーゴスラビア共産党のたたかいとコミンテルン(下)故チトー議長の回想」、

『世界政治-論評と資料』633号、1982年11月下、56頁。なお、この査問がいつ行われたかについては明ら

かではないが、チョピッチ逮捕に続く38年末であると推測される。

(38)Auty, op. cit., pp. 158-161. ヴィンテルハルテル、前掲書、117頁。前述の筆者がロシアのアルヒーフで

見つけたファイル(ゴルキッチが企図した、船によるスペインへの義勇兵移送失敗事件に関連したファイ

ル)は、39年1月4日という日付であり、またその内容から考えてこの査問のための資料として用いられ、

翌日の会議用に作成されたものと思われる。

*本論文は、平成19年度文部科学省科学研究費補助金(基盤研究(B)19330031)による研究成果の一部で

ある。