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宮古市のジオサイト・ジオポイント
今から5,200万年前頃(新生代古第三紀)に、マグマが地下に入り込み、
鏡餅のような形で、地中に固まった岩石からできていると考えられていま
す。
地殻変動によって地盤が隆起した時、周囲の地層が浸食されて、今の
形をした岬となりました。航空写真や地図を見ると、浄土ヶ浜周辺が丸い
岬のように突出していることがわかります。
浄土ヶ浜に見られる白い岩肌や石は、マグマの働きでつくられた「流紋
岩(りゅうもんがん)」という火山岩です。この流紋岩は、マグマが流れた模
様「流理構造(りゅうりこうぞう)」が見られることから付けられた名称です。
流理構造は、マグマが固結するときに流動し、晶出した結晶がほぼ平行
に配列して縞模様をなす岩石の構造で、流紋岩によくみられます。また、
浄土ヶ浜の流紋岩には流理構造とは別に、「柱状節理(ちゅうじょうせつ
り)」と呼ばれる、マグマが冷えて固まる時に急に冷やされる現象を見るこ
とができます。
このマグマの流れの模様と柱状節理を持つ流紋岩が、海の波による浸
食を受け続けてできたのが、浄土ヶ島、エボシ岩、剣の山などのとがった
岩山が連なる半島であり、白い石の浜辺や青の洞窟です。流紋岩に柱状
節理がある部分は、その割れ目から波による浸食が進んでいきます。こ
の浸食された岩のかけらが堆積して白い石の浜辺をつくります。
また、節理があまり発達していない部分は、比較的浸食されにくく、エボ
シ岩などの巨岩として残ることがあります。流紋岩のマグマの模様(流理
構造と柱状節理)の違いが、波の力で浸食されやすい部分と、浸食 され
にくい部分の差となり、浄土ヶ浜の造形美を生み出しています。
平成24年1月に国の名勝に指定されています。
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ジオサイト 浄土ヶ浜
浄土ヶ浜
潮吹穴は淡水の流下、海面下及び海面付近の割れ目に対する海水の
浸食作用等により洞穴を生じ出来たものです。
潮吹孔は長さ2.5m、最大幅65㎝の紡鍾形で、穴の深さは、海面まで
11.4m、海底までの深さが4.8mで、潮吹孔から海底までは16.2mとなり、
洞穴の奥行きは20mとなります。
地表に露出するゴツゴツした岩は、1億1千万年前頃(中生代白亜紀)に
堆積した宮古層群の礫層で、穴の下には、波の浸食でできた洞窟(海食
洞)が海から続いています。大きな波が打ち寄せると、この洞窟のなかに
入り込んだ海水が出口を求めて小さな穴から吹き出します。
波が荒い時には潮が高さ30mにも達し相当の迫力になりますが、潮の
流れや気候条件が揃わないと潮が吹き出さないことから「気まぐれ穴」ま
たは「ほら吹き穴」とも呼ばれています。
1939年(昭和14年)9月に国の天然記念物に指定されています。
日出島は、崎山地区の日出島漁港から東約600mに位置する無人島で、
周囲を30~40mの断崖に囲まれ上部は平らな島です。
1億1千万年前頃(中生代白亜紀)に海に堆積した地層(宮古層群日出
島層)からなります。
断崖以外は広葉樹林に覆われ、わずかにアカマツ、スギ、モミが点在し
ています。
日出島は市内で一番大きな島で、別名・軍艦島とも呼ばれています。
1935年(昭和10年)12月に、クロコシジロウミツバメの繁殖地として国の天
然記念物に指定されています。
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潮吹穴
日出島
浄土ヶ浜の北、大沢海岸の北部に突き出た巨大な岩がローソク岩です。
白亜紀に堆積した原地(げんち)山層で、火成岩が形成されています。
ローソク岩の周辺は、粘板岩質の岩石が海蝕により浸食し、その固い岩
脈部分だけが残ってできた大変珍しいものです。
1939年(昭和14年)9月に国の天然記念物に指定されています。
魹ヶ崎は、本州で一番東にある本州最東端の地(東経142度4分21秒・
北緯39度32 分48秒)です。車道が整備されていないため、姉吉キャンプ
場跡地に車を停めて歩くこと約1時間、真っ白な灯台(高さ33.72m)が目印
となっています。
灯台南側の岩場には、本州最東端の碑が建てられています。
魹ヶ崎のゴツゴツした岩場をつくる黒っぽい岩石は、1億3千万年前頃
(中生代白亜紀)に広く北上山地で起こった火山活動の産物となります。
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ジオサイト 重茂半島
ローソク岩
魹ヶ崎(とどがさき)
「万里の長城」と呼ばれた高さ10m、長さ2.4㎞の長大な防潮堤は、通
常の2階建て住宅よりも高く堅牢です。
田老地区では避難場所や避難経路を示す表示も多く設置され、定期的に
避難訓練が実施されるなど、ハード・ソフトの両面から津波に対する取り
組みが続けられてきました。
明治三陸大津波(明治29年)と昭和三陸大津波(昭和8年)によって、壊滅
的な被害を受け、田老地区では、明治三陸大津波では1,859名、昭和三
陸大津波では911名の死者を出し、津波が引いた後の様子は「更地
同然」と言われるほど、さんたんたるものでした。
昭和三陸大津波の翌年の1934年(昭和9年)に防潮堤の建設に着手。
1958年(昭和33年)に第1防潮堤を、昭和37年から昭和40年にかけて第2
防潮堤を、昭和48年から昭和53年にかけて、第3防潮堤を整備しました。
東北地方太平洋沖地震による津波は、防潮堤の高さをはるかに凌ぎ、
再び田老地区に甚大な被害をもたらし181名の尊い命を失いました。
流失を免れた防潮堤の上を歩き、被害状況や防災まちづくりが活かさ
れた部分・活かしきれなかった部分を検証することで、津波の脅威と教
訓を今後の防災の取り組みに活用していくこととなります。
海岸線より約200mの場所に位置する「たろう観光ホテル」は、東北地方太
平洋沖地震による津波により6階建ての建物の4階まで浸水し、1・2階は
完全に破壊され、鉄骨がむき出しになり、その破壊力を感じることができ
ます。
ホテル6階から撮影した、津波が襲来する映像を公開し、災害の記録を
後世への教訓として伝えることで、防災意識を高めてもらうと共に、湾内で
の津波到達経路など、津波発生時の貴重な情報を学ぶ取り組みが「学ぶ
防災」見学コースです。たろう観光ホテルは、東日本大震災の津波遺構の
第1号として保存整備を行いました。
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ジオサイト 田老の防潮堤
田老の防潮堤
津波遺構
たろう観光ホテル
この「震災メモリアルパーク中の浜」(敷地面積約15,000㎡)は、 東北
地方太平洋沖地震による15mを超える大津波で壊滅的な被害を受けた
中の浜キャンプ場の一部施設を、「震災遺構」として保存しています。
鉄筋がむき出しになったコンクリート建造物など、被害を受けたままの
姿に、訪れる人は自然の持つ凄まじい威力を目のあたりにすることができ
ます。また、震災廃棄物由来の再生資材を活用して造成された「展望の
丘」に登れば、目線を津波と同じ高さ(海抜約15m)に置くことができると同
時に、両崖に設置された津波遡上高(最高海抜約21m)のサインが目に飛
び込んできます。
これによって、この地にどれほどの大津波が押し寄せたかをありありと
想像し、津波災害から身を守るためには迅速な避難が何よりも大切だと
いうことを学んでいただけます。
その他にも、園内には震災の歴史や復興の歩みについての資料展示、
そして避難指定場所である展望デッキ(海抜30m)に続く避難路を設置し
ています。
田老漁港の崖面には明治と昭和の津波遡上(そじょう)高を示すプレート
が設置されており、過去の津波のスケールを一目で感じ取ることができま
す。
今回の津波は過去2回の津波遡上高をはるかに超えたことが、破壊され
たプレートからわかります。
また、田老地区の守り神として建設された高さ10m、長さ2.4㎞の大防
潮堤をも乗り越えて、甚大な被害を及ぼしました。
津波の脅威と防災の教訓として活用できる重要な場所です。
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震災メモリアルパーク
中の浜
津波到達点
たびたび大きな災害をもたらした津波の襲来を記録した碑が三陸海岸各
地にあります。その形態はさまざまで、被害規模を記したもの、死者・行方
不明者を慰霊するもの、津波の最高到達位置、避難喚起などの後世への
教訓が、石碑や防潮堤の落成記念碑などの形で建てられています。ここ
田老地区でも、田老第一小学校の裏に1933年(昭和8年)の津波記念碑
が建てられており、津波に備える以下の文面が刻まれています。「大地震
の後には津浪が来る/地震があったら此処へ来て一時間我慢せ/津浪
に襲われたら何処ても此の位の高所へ逃げろ/遠くへ逃げては津浪に追
付かる/常に近くの高い所を用意して置け」過去の津波の教訓を後世に
伝えるため各所で築かれた記念碑は、今後の防災にも活用されるべき重
要なメッセージと言えます。
早池峰山(標高1,917m)は、北上山地の最高峰です。東西にのびる早池
峰連峰は、4億7千万年~4億6千万年前頃(古生代オルドビス紀)の超塩
基性のかんらん岩や蛇紋岩(じゃもんがん)(早池峰複合岩類)から構成さ
れています。この岩石は、化学的に海嶺玄武岩(かいれいげんぶがん)と
類似していることから、海洋プレートが生み出される海嶺(かいれい)で形
成されたものと考えられています。また、国指定特別天然記念物のハヤ
チネウスユキソウなどの固有種や、カトウハコベを代表とする「蛇紋岩植
物」が自生し、これらの高山植物が人気となり、多くの登山客が訪れてい
ます。南斜面は急で崩壊地が下方まで広がり、高地の植物がかなり低い
場所まで進出しています。こうした地質、地理、地形的な特異性から、植
物相も固有種、蛇紋岩植物、本州での南限種、北限種及び稀産種を多く
含み、実に際立った特徴を示しています。
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ジオサイト 早池峰山
津波記念碑
(明治・昭和)
早池峰山
薬師川は、小国川との合流点から上流側10㎞ほど続く渓流であり、深い
森林と渓谷美、渓流釣りのメッカとして知られています。ここでは、早池峰
山から続く早池峰構造体と南部北上帯の地層を連続的に観察できます。
林道沿いには「鉄胎(てったい)の岩屋:早池峰構造体の露頭(ろとう)」
があり、室町時代より早池峰山が信仰の対象であったことがわかります。
波の浸食に耐え、海にそびえるように立っている三王岩は、高さ50mの男
岩を中心に、左側に女岩、右側に太鼓の形をした太鼓岩の3つの巨岩か
らなり、県の天然記念物に指定されています。斜めの縞模様が特徴的な
三王岩は、1億1千万年前頃(中生代白亜紀)の海に堆積してできた砂岩
や礫岩(れきがん)(宮古層群)から構成されています。男岩、女岩に見え
る地層の傾斜と海岸の断崖の傾斜を見比べると、それらの傾斜が同じ方
向に続いていることがわかります。もともと陸地とつながっていた男岩、女
岩が、波浪や風化にともなう浸食により削られ、海に切り立った現在の景
観になりました。一方、太鼓岩の縞模様は男岩と全く違う向きにのびてい
ます。これは、太鼓岩だけが海岸付近の地層から落ち、現在のところに転
がってきた転石であるためです。また海岸沿いの遊歩道を歩くと、途中ま
では三王岩のような縞模様はなく、割れ目の発達したゴツゴツした岩でで
きていることに気付きます。
これは宮古層群が堆積する前の北上山地の骨格をつくった火山活動の
痕跡で、激変の時代から穏やかな海(宮古層群の時代)への変化を示し
ています。
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ジオサイト 三王岩
三王岩
薬師川渓流の
古生界
北部北上山地は、はるか遠くの海底に堆積したまさに海の藻屑が1億5千
万年以上前に地殻の大移動で運ばれてきた岩石が基盤となってできてい
ます。 ここでは、北部北上山地の主体をなしている混在岩を観察すること
ができます。泥岩、チャート、砂岩、石灰岩、玄武岩などからなる混在岩
で構造運動で形成された様子も観察できます。
周辺は夏にアユ釣り客でにぎわいます。
崎山貝塚は6,000年前から3,500年前の2,500年もの間、縄文時代の村や
貝塚が当時の環境のまま残された貝塚です。4,500年前からは、大規模な
土木工事を行い、広場を中心とした計画的な村を作りました。史跡からは
集落跡のほか、縄文人が食べた貝や動物の骨のほか、全国的に古い時
期の骨角器、釣り針や銛、クジラや鹿の骨が発見されています。漁労や
狩りによって生活していた縄文人の生活環境や三陸の海とのかかわりを
伺うことができる場所です。
崎山貝塚は、全国的にも貴重な遺跡であるとして、平成8年7月16日に国
の史跡として指定されています。
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その他の ジオサイト
崎山貝塚
腹帯の混在岩
黒森山はその名が示すように、山が巨木に覆われうっそうとして「昼なお
暗い山」だったと言われています。山頂には大きな杉があり、宮古湾を航
海する漁業者などの目印ともなったことから、陸中海岸の漁業・交易を
守護する山として広く信仰を集めてきました。黒森山麓の発掘調査により、
奈良時代(8世紀)のものとされる密教法具が出土し、黒森山が古代から
地域信仰の拠点であったことがうかがえます。また、文治4年(1188年)、
源義経が平泉高館で自害する1年前、影武者の杉目行信を残しひそかに
平泉を脱出して、この山で3年3か月にわたり「大般若経」を書写し祈願し
たとの伝説が残っています。正月になると黒森神社の神霊を移した「権現
様(獅子頭)」を携えて、陸中海岸の集落を廻り家々の庭先で権現舞を舞
い、夜は宿の座敷に幕を張り夜神楽を演じます。この巡業は、江戸時代
初期から旧盛岡藩の沿岸部を北上する「北廻り」と南下する「南廻り」を隔
年で廻村しています。長期にわたる巡業を行う神楽は全国的にも例がなく、
貴重な風習が現在も継承されていることから、平成18年3月に国の重要無
形民俗文化財に指定されました。
遠く縄文の昔から、東北の大地はブナを主とする広葉樹の原生林に覆わ
れていました。十二神自然観察教育林は、重茂半島中心部の十二神山
東麓にある「ブナ・スズタケ群落」を主体とする樹齢150年から300年の天
然広葉樹林で、ミズナラ・サワグルミのほか、直径1mを超すケヤキ・トチノ
キの巨木が混交し、最も自然度の高い森林と言われています。林内は多
くの植物や動物のすみかとなっていて、十二神山の「ブナ・スズタケ群落」
は太平洋沿岸型の冷温帯を代表する希少な原生林です。
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黒森神社
(黒森神楽)
十二神山