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ピティナ・ピアノ曲事典・公開録音コンサート 9/16~17 資料 1 ドイツを中心として見た初期ピアノ関連年表 武久 源造 1690 年代、パンタレオン・ヘーベンシュトライトが、ジャイアント・ダルシマーを発明。彼はこの楽器の名人芸的演奏でヨ ーロッパ中に名をはせる。このダルシマー(ツィンバロム)が、ピアノの重要な源泉となる。最終的には、彼のダルシマーは、 長さ 270cm以上、186 本の羊腸弦を張った巨大な物にまで発展し、ルイ 14 世は、彼の演奏に感動し、これをパンタレオンと 名付けるよう命令した。(チャールズ・バーニーによる。) 1698 年頃、フィレンツェのバルトロメオ・クリストフォリがアルピチェンバロ(ピアノのこと)を発明したらしいことを、メディチ 家に使えるフランチェスコ・マンヌッチが日記に記す。 1700 年頃、フィレンツェのバルトロメオ・クリストフォリのアルピチェンバロ(ピアノフォルテ)が、メディチ家の楽器目録に記 載される。 1702~10 年、ゴットフリート・ジルバーマン、ストラスブールの兄アンドレアスの工房で働き、オルガン製作法を修業。 1709 年、クリストフォリ、「ピアノとフォルテを出せるグラヴィチェンバロ」を完成。(現存せず) 1710 年代前半、ヨーハン・ゼバスティアン・バッハ、ヴァイマールにて、多数のオルガン曲、チェンバロのためのイギリス 組曲など、鍵盤作品の第 1 期黄金時代。 1711 年、シピオーネ・マッフェイ公爵がイタリア文人誌に、クリストフォリ・ピアノを、彼自身へのインタビュー、および、ピア ノの構造図(やや不正確な図面ではあったが)をも交えつつ、極めて肯定的に紹介。曰く、「これは、音楽家たちにとって、 大変大きなチャレンジになるだろう」 同年、ゴットフリート・ジルバーマンは、ドレスデン近郊のフライベルクに工房を構える。オルガン建造の傍ら、パンタレオン・ ヘーベンシュトライトのためにダルシマーを製作。ダルシマーでは、革、または、毛織物のキャッピング付の撥と、裸の撥を 使い分けていたが、ジルバーマンはこれを、後のピアノに応用。さらに、ダルシマーの奏法からヒントを得て、ダンパー・リフ ト装置を考案することになる。また、ドレスデン宮廷には、多くのイタリア人演奏家が招かれたが、特に歌手たちによって、ク リストフォリ・ピアノが持ち込まれた可能性が高い。これを、ジルバーマンが知る機会は十分にあった。 1714 年 3 月 8 日、ヴァイマルにてカルル・フィリップ・エマーヌエル・バッハ誕生。~1788 年。 1716 年、フランスのクラヴサン・メーカー、ジャン・マリウスが、独自の 4 種のピアノフォルテ(ハンマー付クラヴサン)を設計 し、その図面を王立科学アカデミーに提出したが、楽器は残っていない。

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ピティナ・ピアノ曲事典・公開録音コンサート 9/16~17 資料

1

ドイツを中心として見た初期ピアノ関連年表

武久 源造

1690 年代、パンタレオン・ヘーベンシュトライトが、ジャイアント・ダルシマーを発明。彼はこの楽器の名人芸的演奏でヨ

ーロッパ中に名をはせる。このダルシマー(ツィンバロム)が、ピアノの重要な源泉となる。最終的には、彼のダルシマーは、

長さ 270cm以上、186本の羊腸弦を張った巨大な物にまで発展し、ルイ 14世は、彼の演奏に感動し、これをパンタレオンと

名付けるよう命令した。(チャールズ・バーニーによる。)

1698 年頃、フィレンツェのバルトロメオ・クリストフォリがアルピチェンバロ(ピアノのこと)を発明したらしいことを、メディチ

家に使えるフランチェスコ・マンヌッチが日記に記す。

1700年頃、フィレンツェのバルトロメオ・クリストフォリのアルピチェンバロ(ピアノフォルテ)が、メディチ家の楽器目録に記

載される。

1702~10年、ゴットフリート・ジルバーマン、ストラスブールの兄アンドレアスの工房で働き、オルガン製作法を修業。

1709年、クリストフォリ、「ピアノとフォルテを出せるグラヴィチェンバロ」を完成。(現存せず)

1710年代前半、ヨーハン・ゼバスティアン・バッハ、ヴァイマールにて、多数のオルガン曲、チェンバロのためのイギリス

組曲など、鍵盤作品の第 1期黄金時代。

1711 年、シピオーネ・マッフェイ公爵がイタリア文人誌に、クリストフォリ・ピアノを、彼自身へのインタビュー、および、ピア

ノの構造図(やや不正確な図面ではあったが)をも交えつつ、極めて肯定的に紹介。曰く、「これは、音楽家たちにとって、

大変大きなチャレンジになるだろう」

同年、ゴットフリート・ジルバーマンは、ドレスデン近郊のフライベルクに工房を構える。オルガン建造の傍ら、パンタレオン・

ヘーベンシュトライトのためにダルシマーを製作。ダルシマーでは、革、または、毛織物のキャッピング付の撥と、裸の撥を

使い分けていたが、ジルバーマンはこれを、後のピアノに応用。さらに、ダルシマーの奏法からヒントを得て、ダンパー・リフ

ト装置を考案することになる。また、ドレスデン宮廷には、多くのイタリア人演奏家が招かれたが、特に歌手たちによって、ク

リストフォリ・ピアノが持ち込まれた可能性が高い。これを、ジルバーマンが知る機会は十分にあった。

1714年 3月 8日、ヴァイマルにてカルル・フィリップ・エマーヌエル・バッハ誕生。~1788年。

1716年、フランスのクラヴサン・メーカー、ジャン・マリウスが、独自の 4種のピアノフォルテ(ハンマー付クラヴサン)を設計

し、その図面を王立科学アカデミーに提出したが、楽器は残っていない。

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ピティナ・ピアノ曲事典・公開録音コンサート 9/16~17 資料

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1717年 8月 5日、バッハはヴァイマール宮廷楽団コンサートマスターの地位にありながら、ケーテン・アンハルト侯爵レオ

ポルトの宮廷楽長への就任契約を結ぶ。

同年 10月、バッハ、マルシャンとの腕比べのために、ドレスデンに招かれる。

同じ頃、ヴェネツィアの作曲家、歌手、オルガニストアントーニオ・ロッティが、ドレスデン宮廷楽長として招聘され、これより 2

年間、ドレスデン宮廷およびオペラ劇場で活躍。彼は、クリストフォリのピアノを所有しており、これをジルバーマンに紹介し

たことは、まず間違いない。バッハも、このとき、ピアノに触れた可能性は大である。これ以後ジルバーマンはこれを基とし、

さらに、下記シュレーターのアイディアなども取り入れて、ピアノの試作を開始した物と思われる。

同年 11月 6日、バッハ、上層部と諍いを起こして、投獄される。~12月 2日。獄中で、平均律第 1巻の大半の曲を書く。

同年、ドレスデンのオルガニスト、クリストフ・ゴットリープ・シュレーターが、独自に鍵盤付パンタレオンを考案(彼のアクショ

ンは、部分的には、クリストフォリと共通しているが、あくまでも、独自の発明であったと、シュレーターは 30 年後に自己弁護

している。)彼の言によると、1721 年に、鍵盤パンタレオンのアクションを公開。以後、多くの追随者が現れ、その中には、

「かの有名な人物もいる。」

1720 年代前半、バッハが、ケーテンにて、インヴェンション、シンフォニア、フランス組曲、平均律第 1 巻などを、続々と

完成。(バッハの鍵盤作品の第 2期黄金時代)

1725 年、ドレスデンの宮廷詩人ヨーハン・ウルリヒ・ケーニヒ、マッフェイ公爵がクリストフォリ・ピアノを詳しく紹介したイタリ

ア語論文をドイツ語訳。これを、ヨーハン・マッテゾンがハンブルクで公刊した「音楽評論」中に掲載。

同年、バッハ、ドレスデンを訪問。目的不明。これだけでなく、バッハは、歌手であった妻と共に、たびたびドレスデンを訪れ、

多くのコンサートに出演していたと思われる。

同年、ウィーンで J.Ch.レオが、「羽軸の無いチェンバロ(Cymbalum ohneKiele)」の広告を出す。(エファ・バドゥーラスコダの

調査による。)

1726年、フィレンツェでクリストフォリのピアノが最終的な完成を見る。クリストフォリ・ピアノの特徴は、全て真鍮弦、細いブ

リッジ、厚めの響板(3.5mm)、音域は4オクターヴプラス・アルファー。ウナ・コルダ装置、逆転レストプランク。アクションは、

突き上げ型。エスケープメント付鍵盤、中間レバー、ハンマー・レールという3層の構造。羊皮紙による中空ハンマー、革の

キャッピング無で打弦。特に、逆転レストプランク構造によって、弦の位置を下げ、ハンマーの動く距離を縮めて、鍵盤のレ

スポンスを良くしたこと、そして、中間レバーを挿入することで、ハンマーの動きを完全に鍵盤から自由にし、かつ、指の運

動速度の 8 倍のハンマー速度を実現したことは、特筆に値する。ジルバーマンは、クリストフォリ、または、その弟子のフェリ

ーニのピアノを実際に観察し、独自のピアノの工夫、改良を続ける。

同年 11 月、ライプツィヒでバッハがパルティータの 1 番を発表。その後、ほぼ毎年 1 曲ずつ、新たなパルティータを作曲す

るが、徐々にピアノ的イディオムを取り入れていく。

1730年、バッハがパルティータ全 6曲を完成、「クラヴィーア練習曲集」第 1部として出版。

1731年 1月 27日、クリストフォリ、フィレンツェで死去。76歳。

同年、バッハ、ドレスデン聖ソフィア教会でオルガン・コンサート。

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1732年 3月 21日、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン、ローラウにて誕生。

1733 年、ヨーハン・ハインリヒ・ツェートラーの百科事典に、ピアノの発明者としてゴットフリート・ジルバーマンが言及され

る。そこでは、ジルバーマンが、その前年に 2 台のピアノを完成し、その内の 1 台を、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト

1世のもとに届け、そのただならぬ美しい音に惜しみない賞賛を受けたことが述べられている。おそらく、この時までに、ジル

バーマンとバッハの間に、ピアノを巡る数多くのやり取りがあったことを、後に、バッハの弟子であるアグリーコラが証言して

いる。ジルバーマン・スタイルのピアノの特徴は、5オクターヴの音域、真鍮弦プラス鉄弦。多くのジャーマン・チェンバロと同

様に、太いブリッジ、薄い響板(2.5mm)。中空ハンマーに鹿革のキャッピング。ダンパー・解放装置、ウナ・コルダ装置、チェ

ンバロ・レジスター。このチェンバロ・レジスターの音は、チェンバロの音にも近いが、ツィンバルムにおける裸の撥による打

弦音にも似ている。逆転レストプランクと、3 層構造のアクションはクリストフォリと全く同じ。当時、ジルバーマン・ピアノの音

色は、「玉のようにまろやか」と形容された。

同年、6月、バッハがライプツィヒのカフェ・ツィンマーマンで、「ジルバーマン製の新型クラヴィーア」によるコンサートを行うと

の広告を出す。このころ既に、ドイツの音楽辞典に、ピアノの修理法に関する記事があり、バッハの言う新型クラヴィーアと

は、ピアノのことを指していることは疑いない。

同年、6月 22日、フリーデマン・バッハ、ドレスデン聖ソフィア教会のオルガニストに就任。

1734年 3月 16日、アンドレアス・ジルバーマン、ストラスブールで死去。56歳。その工房は長男ヨーハン・アンドレアスが

継承。

1735年 9月 5日、ヨーハン・クリスティアン・バッハ誕生。

1730 年代後半、バッハは、ライプツィヒとドレスデンで、多くのコンサートに出演しているが、そこで演奏されたクラヴィ

ーア・コンチェルトなどにジルバーマン・ピアノが用いられたことは、まず疑いを入れない。このころ、バッハ、「クラヴィーア練

習曲集」第 2~4分、クラヴィーアとオーケストラのためのコンチェルト(13曲余り)、平均律第 2巻、18のコラール集など、鍵

盤作品最後の黄金時代。このころのバッハ家は、一つのサロンであり、後に、カルル・フィリップ・エマーヌエルは書いている。

「父の社交的な態度、父が創り出していたなごやかな知的刺激を与える雰囲気を皆愛し、父は人と話す時間をできるだけ

作っていました。音楽の巨匠は皆、ここ〔ライプツィヒ]を通る時には必ず、父と知り合いになり、自分の演奏を父に聞かせて

いました。」

1740年、 エマーヌエル・バッハ、プロイセンのフリードリヒ 2世の宮廷楽団員となる。

1740 年代、プロイセン、大王フリードリヒ 2 世、ジルバーマン・ピアノを 10 数台購入。(フォルケルによれば、15 台)各宮

殿に備える。このころ、ジルバーマンは、本業であるオルガン製作よりも、ピアノ製作の方が忙しかったという報告がある。

1742年、 この年から翌年にかけて、ストラスブールのヨーハン・ハインリヒ・ジルバーマン(アンドレアスの末子)、フライベ

ルクの叔父ゴットフリートの基で、ピアノ製作を修業。

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1740年代後半、ドイツ各地で、スクェア型の鍵盤付パンタレオンが流行。これらの楽器の特徴は、通常、ダンパーが解

放状態で、膝レバー、あるいは、ハンド・レバーを操作すると、ダンパーがオンになる、つまり、消音する、ジルバーマン・ピ

アノやモダン・ピアノとは、逆のデザインだったところにある。

1745年 11月 30日、 プロイセン軍、ライプツィヒを占領。同年、12月 25日のドレスデン講和条約によって、シレジアが

プロイセンに割譲される。

1747年 5月 6日、バッハ、ポツダムのサンスーシー宮にて、ジルバーマン・ピアノを使ってフリードリヒ大王御前での即興

演奏を行う。このとき演奏されたリチェルカーレをその 2か月後、いわゆる「音楽の捧げもの」中の 1曲として、自費出版する。

1748 年、この年の 8 月から翌年の 6 月にかけて、ヨーハン・アンドレアス・シュタインが、ストラスブールのハインリヒ・ジル

バーマンの工房で修業。

1749年 5月 9日、バッハが、ポーランドのブラニツキ公爵に、ゴットフリート・ジルバーマン製のスクェア型ピアノをルイ・ド

ール金貨 212枚(115ターレル)で売却。なお、この額は、クリストフォリが、スペイン王室にピアノを納めた時の代金に、ほぼ

匹敵する。

同年、ゴットフリート・ジルバーマン、現存する 3 台のグランド型ピアノの内、最後の作を完成。(残りの 1 台は 1746 年製、も

う 1台は、製造年不肖)

同年、10 月から翌年の 1 月にかけて、シュタインが、レーゲンスブルクのフランツ・ヤーコプ・シュペートの基で、オルガン製

作、および、たぶん、ぴあの製作をも修業。

1750年、7月 28日、バッハ、ライプツィヒにて死去。65歳。

同年、ゴットフリート・ジルバーマン、エマーヌエル・バッハのためにクラヴィコードを作る。この楽器は後々まで、エマーヌエ

ルのお気に入りであった。

同年、夏、シュタインがアウクスブルクに工房を構え、オルガン、クラヴィコード、チェンバロ、スクェア型ピアノ(鍵盤付パンタ

レオン)、そして、後には、グランド型ピアノを製作する。

1750 年代、ジルバーマン・ファミリー、また、その弟子たち(ゲラのフリーデリーチ、アウクスブルクのシュタイン他)のピア

ノが人気を博する。これらは皆、ジルバーマン・スタイルのピアノ、あるいは、鍵盤付パンタレオンであった。モーツァルトの

父レオポルトは、フリーデリーチのブローカーになっており、したがって、モーツァルトもジルバーマン系のピアノを早くから

知っていた可能性は大きい。また、このころ書かれたエマーヌエル・バッハの「クラヴィーア奏法」に、ピアノについて言及し

た箇所がある。「この楽器は独奏、または小規模の合奏に向き、巧みに作られていれば、多くの長所がある。…」

1751 年、ボンの選帝侯が、レーゲンスブルクのフランツ・ヤーコプ・シュペートのスクェア・ピアノを購入。これには五つの

レジスターが付いており、30の異なる音色を弾き分けることができた。五つのレジスターとは、1.革を裸のハンマーと弦の間

に挟むピアノツーク、2.薄い絹を挟むモデラート、3.厚い布を巻いた横板を一括して弦に触れさせて消音するダンパー、4.

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チェンバロと同じ仕掛けのバフ・ストップ、それに、5.細布のレースを弦の間に紛れさせて、半分消音するハープ・レジスタ

ーであった。この例は当時のスクェア・ピアノの一つの典型で、ダルシマー、ハープ、チェンバロが、初期ピアノの音響美学

の3大源泉であったことを物語る。モーツァルトが後に、「私のお気に入りのシュペート・ピアノ」と言った時に指していたのは、

タンゲンテン・クラヴィーアではなく、この種の鍵盤付パンタレオン、または、ジルバーマン型のピアノであったと思われる。

1752年、7年戦争勃発。ザクセンの楽器作りに影が差す。

1753年、8月 4日、ゴットフリート・ジルバーマン、フライベルクで死去。70歳。その工房は甥のヨーハン・ダニエルが継承。

1755年、 イギリスの牧師トーマス・メイソン、ハンブルクでピアノを購入。

1756年 1月 27日、ザルツブルクでヴォルフガング・アマーデウス・モーツァルト誕生。

同年、プロイセン軍ザクセンに侵攻。フライベルクのジルバーマン工房の 12弟子、退去ロンドンへ移住。

1758年、シュタインがエッカールと共に、パリを訪れ、さらに、ストラスブールのジルバーマン工房をも訪問する。

1759 年、 パリで、ピアノフォルテの広告が出される。(投稿者名不肖だが、ハインリヒ・ジルバーマンと関係があるものと

思われる。)

1760年、ロンドンのバーカット・シュディの工房にいたヨーハン・クリストフ・ツンペが独立。翌年、自らの工房を構える。「シ

ンプル・アクション」のスクェア・ピアノの製作に着手。1762 年に完成。また、この時期、同じくゴットフリート・ジルバーマン弟

子のヨーハン・ポールマンも、ロンドンで盛んに活動。

1761年、パリで、ハインリヒ・ジルバーマンが、雑誌「先進者(L'avant Coureur)]にピアノの広告を出す。この時までに、少

なくとも 4 台のジルバーマン・ピアノがフランスで弾かれていたが、その内の一つはフランスの皇太孫(ルイ)の所有であった。

同年より、ロンドンのシュディの工房で、スコットランド人ジョン・ブロードウッドが修業を開始。

1762 年、クリスティアン・バッハ、イタリア各地での修業を経て、ロンドンに到着。作品 1 として、ピアノ・協奏曲集を発表し、

シャルロット王妃に捧げる。これらの協奏曲を演奏したのは、おそらく、スクェア・ピアノではなく、クリストフォリ=ジルバーマ

ン系のグランド型ピアノだった。

1763 年 5 月 17 日、ウィーンの記録に残る初めてのピアノを使ったコンサートが、宮廷劇場において、シュミットなる演奏

家によって行われた。(コンチェルトの独奏)同年、モーツァルトの父が息子の為に、シュタインに、旅行用小型クラヴィコー

ドを発注。

同年、パリで、エッカールがピアノのためのソナタ(Op.1)を出版。

1767年 5月 16日、ロンドンのコヴェントガーデンにおいて、イギリスで記録に残る初めてのピアノを使ったコンサートが行

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われる。スクェア型のピアノが、歌い手(ブリックラー嬢)の伴奏に用いられた。このころ、モーツァルト、ロンドンに滞在。クリス

ティアン・バッハのレッスンを受ける。

1768 年、 パリのコンセール・スピリテュエルで、記録に残るフランス初めてのピアノ独奏が行われる(奏者はル・シャント

ル嬢、曲は、ド・ブラシュールの作)。

同年 6月 2日、ロンドンでクリスティアン・バッハがピアノ独奏を行う(オーボエ奏者フィッシャー氏主催の慈善演奏会におい

て)。

1769 年、アウクスブルク、シュタインがポリ・トーノ・クラヴィコルディウムを製作。これは、上鍵盤がチェンバロ、下鍵盤がピ

アノというグランド型の楽器で、ダンパーは通常解放型で、アクション、ハンマーなどはジルバーマン型だったと思われる。

一方、パリで、ルイ・クロード・ダカン、ジルバーマン・ピアノを酷評。「この音をずっと聴いていると、病気になる」

1770年、ロンドンで、ジョン・ブロードウッドがシュディの工房を継承。アメリクス・バッカースとロバート・ストダートと共に、ス

クェア・ピアノの共同制作を開始。

同年、 12月 16日?、ボンでルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン生まれる。~1827年。

1771 年、ロンドンでバッカースが、イギリス式アクションによるグランド型ピアノの製作を開始。(これは、コピーではなく、

正真正銘、彼の新発明であるという広告が出された。)バッカースは 77年に死去するまでに 60台のグランド型ピアノを製作。

このころ、イギリス製のピアノ、大量にフランスへ輸出される。クリスティアン・バッハ、ツンペのエージェントとなって、販売に

協力する。フランスでのイギリス・ピアノの人気は高まったが、保守的なボルテールなどは依然として批判的だった。(1774

年の手紙)。

1772年、レーゲンスブルク、シュペートの弟子、クリストフ・フリードリヒ、シュマールがシュペートの娘婿となり、共同制作を

開始。彼らの製作したタンゲンテン・フリューゲルが人気を得る。

1776年、 ストラスブール、ハインリヒ・ジルバーマン、ジルバーマン型としては現

存する最後のグランド・ピアノを製作。

同年、パリで、パスカル・タスカンが、記録に残る限りでフランス人初のスクェア・ピアノを製作。

同年、ロンドンで、ブロードウッドがグランド・ピアノの製作を始める。(アクションは、バッカースのものと類似)これらのイギリ

ス式アクションは、ジルバーマンのそれを単純化した物と言える。

同年、モーツァルトは、6曲のミュンヘン・ソナタを書いているが、そこには、細かな強弱記号を書き込む。

1777 年、アウクスブルク、シュタインが、チェンバロとピアノのヴィザヴィ楽器を作る。これは、現存する最初のシュタイン・

ピアノ。(現在ヴェローナに保存)この楽器のピアノ部分は、通常ダンパー・オン型、逆転レストプランク、中空ハンマー、突き

上げ型 3 層構造のアクションなど、ジルバーマン・ピアノに酷似しているが、裸の木製ハンマー、プラス革のモデラートという

ところは、鍵盤付パンタレオンのアイディアを使っている。

同年秋、モーツァルトは、シュタイン工房を訪れ、その後、3 台のピアノのためのコンチェルトをシュタイン・ピアノで演奏。そ

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の時のピアノは、中空裸ハンマー、革モデラートという、ジルバーマン、ぷらすパンタレオンのデザインであったと思われる。

このころ、ハンブルクでエマーヌエル・バッハが、多くのソナタやロンド、ファンタジーなどに、過剰ともいえるほどに、強弱指

示を書く。いずれも、クラヴィコード、または、ピアノでの演奏を意図している。(エマーヌエル・バッハが最後まで持っていた

ピアノはフリーデリーチ製のジルバーマン型ピアノのであった。)

同年、ロンドンでストダートが「ピアノ・ハーフシコード」の特許を取る。このアクションの長所は、後に、ブロードウッド・ピアノ

に取り入れられた。

同年、パリでエラールがスクェア・ピアノの生産を開始し、これは「イギリスのピアノ」と呼ばれて、人気を得る。

1780 年、 ハイドンがソナタ集(35~39 番)をウィーンで出版。ハイドンの鍵盤曲としては、初めて、「チェンバロ、または、

ピアノのために」という注釈が付けられ、やはり初めて、楽譜中に強弱記号が見られる。

1781 年、アウクスブルク、シュタインが、クラヴィ・オルガヌムを製作。これのピアノ部分は、現存する 2 番目のシュタイン・

ピアノ。(現在、イェーテボリに保存)これは、上鍵盤がピアノで、下鍵盤がワン・ストップのオルガン。ピアノ部分は、ほぼジ

ルバーマン型の構造、ハンド・レジスターによるモデラート、木製中空ハンマーなど、ヴェローナの 1777年楽器とほとんど同

じ。この時期に、シュタインの工房で修業していたシートマイヤーは、これ以後 20 年、中空ハンマー、革モデラートのピアノ

を作り続けるが、このピアノの裸ハンマーの音は、チェンバロに似ていて、ダンパー解放で弾くと、大音響を発し、「50 人の

オーケストラを伴奏できる」と言われた。

同年、モーツァルトは、トゥーン公爵夫人の所有するシュタイン・ピアノで、何度かコンサートを行っているが、このピアノは、

モーツァルトの推薦で、公爵夫人が買った物で、その音は、まだジルバーマン型、ぷらすパンタレオンというスタイルであっ

たと思われる。

同年、3月、ガブリエル・アントン・ワルター、シュトゥットゥガルト近郊のノイハウゼンからウィーンへ移住。工房を開く。

1782年 1月 1日、ロンドンでクリスティアン・バッハ歿。46歳。

同年、ウィーンでワルターが、いわゆるモーツァルト・ピアノを製作。しかし、これは、当初、ハンド・レジスターによるダンパー

解放装置、突き上げ式アクション、バックチェック無し、ギャップ・スペイサー無しであり、響板を支える内部構造もより単純で

あった。(マイケル・ラッチャムの調査による。)これが、現在見られるような跳ね返り式アクション(ホッパー・レールを新たに

取り付け)、膝レバーによるダンパー操作、中央のレストプランクとベリー・レールの間にギャップ・スペイサーあり、バックチェ

ックあり、エスケープメント調整レールあり、という形に変えられたのは、モーツァルトの死後(1795年)のことであった。

1783年、シュタインが作った5代のピアノが現存するが、これらは、ほぼ、跳ね返り式アクション、有芯ハンマー、革モデラ

ート無、膝レバー・ダンパーが通常はオンという、いわゆる、シュタイン系ウィーン・アクションのオーソドックスなデザインに落

ち着いている。

同年、ハイドンの、マリー・エステルハージ侯爵夫人に捧げられたソナタ集(40~42 番)が作曲される。(翌年、マンハイムの

ボスラー社から出版)。この曲集の出版楽譜には、明らかに、「フォルテピアノのために」とあり、「チェンバロ」という言葉が姿

を消す。

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ピティナ・ピアノ曲事典・公開録音コンサート 9/16~17 資料

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https://www.youtube.com/watch?v=XEGrR7Oq6Ac