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修士論文 ニケフォロス2世とヨハネス1世の軍制改革 10世紀ビザンツ帝国における軍事関連著作の考察から 兵庫教育大学大学院学校教育研究科 教科・領域教育学専攻社会系コース 学籍番号 MO4232F 氏名 小田昭善 平成19年(2007年)1月9目提出

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  • 修士論文

    ニケフォロス2世とヨハネス1世の軍制改革

    ~ 10世紀ビザンツ帝国における軍事関連著作の考察から ~

    兵庫教育大学大学院学校教育研究科

    教科・領域教育学専攻社会系コース

     学籍番号  MO4232F 氏名  小田昭善

    平成19年(2007年)1月9目提出

  •  節節節

     一二三

    章第第第

    はじめに一ビザンツ帝国史への視角一一……研究史の整理 …・……一……・・……一…・…一

    問題の所在  …・………’……一一……’………

    頁頁頁134第一章 10世紀のビザンツ帝国と軍事

     第一節 帝国内外の諸情勢

     (1)周辺世界の変容と帝国の対応一一……一・一……・一 5頁

     (2)属州貴族層の台頭と軍事一……………一一一・…一 7頁

     第二節 軍制とその変化

     (1)10世紀のビザンツ軍制…………一一一一・……一一10頁

     (2)後方支援システム………………一・…一一…・……12頁

    第二章 10世紀の軍事関連著作と軍制 第一節 史料の概要一一一一……一………一…一……・………一一14頁

     第二節  『De velitatione』と東方国境防衛一一一…16頁

     第三節 『Praeceptamilitari&』と戦力の強化………17頁

     第四節 『De re militari』と皇帝遠征……一一………・20頁

     第五節 小括・一…………一一一…一………一・…一…一一……・…22頁

    第三章 10世紀半ばにおけるビザンツ軍制改革の実像

     第一節 ニケフォロス2世の改革一一一一一・・………一……23頁

     第二節 ヨハネス1世の改革…一…一一……一・……一…27頁 第三節 小括層一………………・一一…一一……一一一……一…31頁

    終章 一一…一一…一一…・…一…一一…一…顧・一一一一一一一…一一一一32頁

    註一………………一……一……一一一一…一一……一噂…一一一35頁

    添付資料(1・20頁)

  • 修士論文(修正稿)

    ニケフォロス2世とヨハネス1世の軍制改革

    ~ 10世紀ビザンツ帝国における軍事関連著作の考察から ~

    兵庫教育大学大学院学校教育研究科

    教科・領域教育学専攻社会系コース

    MO4232F 小田昭善

    序 章

    第一節 はじめに一ビザンツ帝国史への視角一

     ローマ帝国の東西分裂によって成立した東ローマ帝国は、15世紀半ばまで約一千年の歴

    史を歩んだ。今日、rビザンツ帝国」あるいはrビザンティン帝国」と呼ばれるこの国家は、

    世界史上において特異な地位を占めていると思われる。この国家が存在した当時、この国

    の人々は、自らのことをローマイオイRomaioi(「ローマ人」)と呼び、首都コンスタンテ

    ィノープルは、しばしばネア・ローメーNea Rome(r新しいローマ」)と呼ばれた。しか

    し、7世紀以降、このrローマ人」はラテン語ではなくギリシア語を話し、ギリシア正教

    と呼ばれる独自のキリスト教信仰を育んだ。後代の歴史家は、彼らが有した独自のアイデ

    ンティティに鑑み、かつてのローマ帝国の東半部を、コンスタンティノープルの古名にち

    なみ、「ビザンツ」あるいは「ビザンティン」という呼称で呼んだのである。

     この国についての、わが国における研究の歴史は比較的新しく、専門の研究者以外を対

    象とした書物もきわめて少ないのが現状である。高校世界史教科書に登場するビザンツ帝

    国の記述に関しても、6世紀のユスティニアヌス帝の治績、8世紀の聖像破壊運動、フラ

    ンク王国のカール大帝(シャルルニマーニュ)やローマ教皇庁との「ローマ皇帝位」をめ

    ぐる対立、十字軍の契機となったとされるローマ教皇への救援依頼、第四回十字軍による

    コンスタンティノープルの占領、オスマン帝国による滅亡などがあげられるが、西欧史と

    の関連で触れられる政治的事件が多く、この国家が有した独自性については、『ローマ法大

    全』の編纂や聖ソフィア聖堂の建設、イスラム帝国との闘争から生み出された軍管区(テ

    マ)制度、ギリシア正教信仰やモザイク画などについての記述が見られる程度であり、こ

    の国の基本的な統治制度が整えられた9~11世紀の「マケドニア王朝」期に関する記述は

    わずかである。

     この国にっいての、西欧側からの世界史的評価は、従来あまり高いものではなかった。

    『オックスフォード現代英英辞典(第7版)』で「Byzantine(byzantine)」の語を調べてみ

    ると、「ビザンティウムの、東ローマ帝国の」といった意味のほかに、「(ofanidea,asystem,

    etc.)complicated,secret&nddi伍culttochangejという意味があることが記されている。

    西欧の人々は、ビザンツ人を「理解しがたく、神秘的で、変化を嫌う」というイメージで

    見てきた。これは、オスマン帝国による滅亡の危機が迫っても「ローマ人」の誇りを持ち

    難解な神学論争に明け暮れる、後期ビザン〆ツ帝国(13~15世紀)の皇帝・聖職者たちに対

    する西欧人の椰楡からくるものであると思われる。また、近代西欧の歴史家たちの思潮に

    1

  • は、この国家が時代錯誤の伝統にしがみつき、近代社会への発展を遂げることなく消滅し

    たという「停滞」的な歴史観を強調する傾向が長らく見られ、この国の歴史に対する軽侮

    の念も感じられる。

     しかし近年は、この国が諸民族の興亡著しい東地中海世界において、ともかくも一千年

    の歴史を継続しえたことに着目し、ビザンツ史の特性として、変化する対外情勢・国内事

    情に応じて統治システムを改変していった「柔軟性」が指摘されている1。対外情勢によ

    る領土の拡張・縮小や国内における社会的・経済的・宗教的変化に対して、帝国は巧みに

    対処していったのである。

     ビザンツ帝国が戦略上また商業交易上重要な地理的位置に存在したことから、この国が

    周辺世界との恒常的な緊張関係におかれたことは想像に難くない。6世紀半ばのユスティ

    ニアヌス帝は、かつてのローマ帝国の領土を回復すべく、イタリア・北アフリカやスペイ

    ン南部にも版図を拡大したが、6世紀後半以降は帝国にとって厳しい対外情勢が連続する。

    北方からは、スラヴ人がバルカン半島に侵入し、遊牧民アヴァール人が帝国西北域を荒掠

    した。東方では、ササン朝ペルシアがシリアを脅かし、西方では、ランゴバルド人がイタ

    リアを奪い取った。7世紀初めのビザンツ皇帝ヘラクレイオスは、ササン朝を討って、東

    方の領土を奪回したが、それも束の間のことであり、その後は、アラビア半島で勃興した

    イスラム勢力が、地中海世界全体を呑み込もうとするがごとく怒涛の進撃を開始する。636

    年には、ヤルムークYarmukの戦いでビザンツ軍が大敗し、シリアが失われた。さらに642

    年には、アレクサンドリアの陥落により、エジプトもアラブの掌中に落ちた。そして、首

    都コンスタンティノープルさえもが、二度にわたり(674-678年と717-718年)アラブ艦

    隊の攻囲を受けたのである。ビザンツ人は、かろうじて首都を守りきったが、その後も、

    イスラム勢力はクレタ島・シチリア島を手中に収め、地中海を「イスラムの湖」としたの

    である(→ 6世紀および8世紀におけるビザンツ帝国の支配領域については、本稿添付

    資料6頁、(地図1)(地図2)参照)。

     このような事態に対して、ビザンツ国家は、その統治システムを根本的に改変して立ち

    向かった。陸路からのイスラム軍侵入を最も受けやすい小アジアでは、テマthema(r軍

    管区」)と呼ぱれる体制が敷かれ、地域防衛部隊テマタthemataの司令官ストラテゴス

    strategosが管轄地域の民政をも担当した2。小土地保有自由農民によって構成された農村

    共同体が基本的な徴税単位となり、そうした農民の中からテマの兵士が徴集されたが、国

    家は、騎兵や歩兵など種々の兵士が保有すべき土地の最低価値を定めて登録・管理し、兵

    士は、その「兵士保有地」の経営によって各自の武装をまかなう体制が7世紀以降に順次

    整えられ、9世紀には一応の完成をみたとされている3。

     ビザンツ国家においては官僚組織の整備が進んでいた。特に7世紀以降は、軍事の基礎

    となる税務・財政部門の充実が図られた。収税を担当するロゴテテース・トゥ・ゲニクゥ

    10gothetestou genikou(「税務局長」)、兵士の徴集、資金調達、兵士の名簿登録などに携

    わるロゴテテース・トゥ・ストラティオーティクゥlogothetestoustratiotikou(「軍務局

    長」)、遠征時に必要な馬や運搬用動物を管理するロゴテテース・トーン・アゲローン

    logothetes ton agelon(「軍用動物飼養局長」)らの官吏が活動し、通信や外交にも関わる

    ロゴテテース・トゥ・ドロムゥ10gothetes tou dromou(「駅逓局長」)も重要な役割を果

    たした。また、テマでは、財務局サケリオンsakellion所属の官吏プロートノタリオス

    protonotarios(「首席書記」)が徴税のほか、軍に必要な物資を調達した4(→ 官僚組織

    2

  • の概略については、本稿添付資料13頁、(表1)参照)。

     上述のような中央における官僚制度の整備やテマ制による属州統治が完成し、さらに皇

    帝独裁が強まった時代が9~11世紀の「マケドニア王朝」期である5。この時期には、国

    家を支える小規模自由農民が納税と兵役の義務を確実に果たす体制が確立され、もっとも

    「ビザンツ的」な時代と言えよう。しかし、この「マケドニア王朝」期も、国内危機の発

    生や対外関係の緊張状態が同時に進行した時代でもあった。国内においては、属州土地貴

    族の勢力伸張が皇帝権力にとり脅威となり、対外的には、アラブ・ハムダン朝やブルガリ

    ア帝国、あるいはキエフ・ルーシなど新たな外敵に帝国は対処しなければならなくなった。

    マケドニア朝期の帝国は、これらの危機を克服し10世紀後半には東西に領土を拡大して

    いく。そして、1025年には中期ビザンツ帝国において最大規模の領土獲得を実現するので

    ある(→  「マケドニア王朝」期を含むビザンツ皇帝の座位表と系図については、本稿添

    付資料14-15頁、(表2)(系図1)を参照。また、1025年におけるビザンツ帝国の支配

    領域については、本稿添付資料8頁、(地図4)参照)。

     筆者の研究は、10世紀ビザンツ帝国における、上述のような内外諸情勢の変化に対する

    帝国の対応の諸相を探ることを目的とする。当時の帝国支配層にあっては、外交・軍事・

    内政の三領域において、バランスのとれた政治感覚が要求されたが、とりわけ、国家の存

    亡の鍵を握る軍事の果たした役割は大きい。本稿では当時のビザンツ帝国の軍制に焦点を

    当て、その変化のありようを見ていくことにしたい。

     ビザンツ支配層は、テマ制度に見られるように、対外情勢の変化に応じて軍制を改変し

    ていったが、特に、10世紀半ばの皇帝ニケフォロス2世フォーカスNikephoros HPhok&s(在位963-969年)[Ph2]の「改革」は、軍事的のみならず政治的・社会的にも

    重要な意味をもつとされている。本稿では、こうしたニケフォロス2世の改革とそれに続

    く皇帝ヨハネス1世ツィミスケスJohames I Tzimiskes(在位969-976年)[T]の軍制

    を中心に、10世紀ビザンツ軍制の変容に焦点を当てたい。この国家が一千年を生き延びた

    理由の一っが、そこには秘められていると思われるからである(→ 人名の後に付した[Ph

    2](ニケフォロス2世)や [T](ヨハネス1世)などの略号は、本稿添付資料16-17頁、

    (系図2)記載の貴族の人名に対応している)。

    第二節 研究史の整理

     10世紀のビザンツ帝国史については、特に20世紀半ば以降、東西ヨーロッパの歴史家

    たちの関心を惹いてきた。1950~60年代には、ビザンツ帝国に西欧型の「封建制」を認

    めうるか否かにっいて、土地制度史を中心に、いわゆる「封建化」論争が巻き起こった。

    この論争は概念が先行する傾向が強く、決着はつかなかったが、彼らが論拠として使用し

    た主史料であるマケドニア朝諸皇帝の「土地立法(新法)」の記述から、テマ制度を支えた

    兵士=自由農民の階層分化が進み、彼らの保有地を兼併していく属州貴族の「大領主化」

    の姿が紹介され、付随する軍役の変化の問題も議論された6。

     1960~70年代には、9~12世紀頃の帝国の行財政史に関する詳細な研究が行われ、軍

    制に関しても、軍団の構成や指揮官、兵士の地位などについての報告がなされた。アルヴ

    ェレールは、10・11世紀の帝国の行政制度を詳細に研究し、軍事にっいても兵士や指揮官

    の社会的地位、職掌の変遷を明らかにした7。ギヤンR.Guillandは、ビザンツ全時代にわ

    3

  • たる行政制度を研究し、特に官僚制の構造とその特質を明らかにした8。イコノミデス

    N.Oikonomi面sも、ビザンツ行政史を研究し、テマ制度やタクティコンねktikon(『官職・

    爵位席次一覧』)の分析を通じて、官僚組織の時代的変遷を明らかにした9。これらは、現

    在でも10世紀のビザンツ軍制の全体像を語る際には基本となる研究である。

     近年は社会史やプロソポグラフィにもとづく貴族家門の研究なども進められている。カ

    プランM.Kaplanは、テマにおける土地制度や帝国税制の研究に取り組んでおり10、シェ

    イネ」一C.Cheynetは、10世紀における属州貴族家門の総合的研究を進めている・1。

     1990年頃以降は、軍制史に関して様々な分野の個別研究が進められた。ダグロン

    G.Dagronは、レオン6世からニケフォロス2世までの10世紀の軍制の変遷を明らかにし

    12、トレッドゴールドW.Treadgoldは、ビザンツ各時代における軍団の兵員数をさまざ

    まな史料を駆使して算出しようと試みている・3。マックギアE.McGeerは、10世紀のビ

    ザンツ軍、特にニケフォロス2世の戦術を詳細に分析している14。ハルドン」.F.Haldon

    は、ビザンツ軍の対外遠征時の徴兵・物資調達・兵姑に関心をもち、多方面の研究に取り

    組んでいる15。

     彼らの研究は既存の文献史料を問い直し、分析を深めて、軍団の構成、兵員や軍需物資

    の数量、兵士の生活状況などを詳しく論じた。ただし、各研究者の観点の相違から、研究

    成果が相互に検証されておらず、ビザンツ軍制の全体像を新たに描くまでには未だ至って

    いないように思われる。また、研究分野が細分化され、当時の帝国の政治や社会とのつな

    がりは明らかではない。筆者は、イコノミデスらの行政史研究やシェイネらの貴族家門お

    よび人物研究など、軍制以外を対象とする諸研究をも参照し、軍事の問題を、当時の政治

    的・社会的変動と関連させっっ、広範な視点から見ることが必要であると考えている。ま

    た、軍制その他の制度史に関しては地域的な視点も重要であり、具体的な地域(キリキア・

    シリア、ブルガリアなど)の個別的な諸事情も考慮に入れる必要があると思われる。

    第三籔 問題の所在

     周辺世界の変化によって、10世紀のビザンツ軍は変化を遂げざるを得なかった。また、

    国内における社会変動によりテマの兵士の徴集が困難となり、この点からも新しい軍制が

    模索される。

     10世紀のビザンツ帝国における軍制の変化に関しては、先に述べたように、皇帝ニケフ

    ォロス2世フォーカス(在位963・969年)【Ph2]の果たした役割が従来から注目されてい

    る。確かにニケフォロス2世の時代は、東方での華々しい再征服事業、重装騎兵に代表さ

    れる精強な軍隊の活躍に彩られる。彼は、「兵士保有地」の保有最低限度額を大幅に引き上

    げ、属州貴族層による「重装騎兵」軍を増強したと言われる。また、教会・修道院の土地

    集積を制限し、軍事力強化のための増税を行い、国力を軍事活動へ集中させた・6。しかし、

    その軍制に関しては、前後の時期の軍制との比較が充分になされているとは言い難く、同

    時代の社会および後世への影響も明らかではない。ニケフォロス2世のr改革」の評価に

    対する問い直しが必要となろう。しかし、近年の諸研究は、この改革についての通説的評

    価を踏襲するのか、あるいは新たな問い直しを迫るのか、いまだその見通しを示していな

    いように思われる。特に、ニケフォロス2世のあと帝位を継いだヨハネス1世は、西方の

    ブルガリアヘも遠征を行い、ニケフォロスの外征事業を継承・発展させていった。このこ

    4

  • とからも、ニケフォロス2世の軍制とヨハネス1世のそれとの関連が問題とされるべきで

    あるが、従来の研究では、この点はあまり触れられてこなかった。ヨハネス1世について

    は、「先帝の成果を入手しただけ」との評価もあるが17、果たしてそうであろうか。10世

    紀のビザンツ史を語る上では、軍制の担い手となる小アジアの属州貴族層にも目を向ける

    必要があり、ニケフォロス2世やヨハネス1世もそうした貴族層の出身である。当時の属

    州貴族層は一枚岩でなく、その動向が軍制や皇帝政権そのものにも大きな影響を与えてい

    るのである。

     本稿のねらいとしては、上記のような10世紀のビザンツ属州貴族の動向をふまえつつ、

    当時の帝国が行った軍事活動を考察し、ニケフォロス2世による「改革」を検証するとと

    もに、彼からヨハネス1世への継承の実像を明らかにすることにある。ニケフォロス2世

    による「改革」の検証と、その継承者としてのヨハネス1世の軍制をどのように評価する

    かが本稿の主題となるであろう。その際、軍制を読み解く手がかりとして、10世紀後半か

    ら11世紀初頭に編纂され、皇帝の軍事活動と密接に関わると言われる三種の戦術指南書

    や皇帝コンスタンティノス7世Konstantinos皿(在位913-959年)の著作である『宮廷

    儀礼の書 デー・ケレモニイスDe ceremoniis』に含まれる行政文書(これらの史料を本

    稿では「軍事関連著作」と総称する)を使用したい。これらの史料に登場する軍隊の姿は、

    この時代のビザンツ帝国の栄光と苦悩を体現していると思われるからである。

    第一章 10世紀のビザンツ帝国と軍事

    第一節 帝国内外の諸情勢

    (1)周辺世界の変容と帝国の対応

     9世紀末から10世紀にかけて、帝国を取り巻く周辺世界の動向は多様化の方向を見せ

    た。東方では、イスラム帝国の分裂によりシリア周辺に形成された君侯国が自立的な動き

    を見せ、西方ではブルガリア帝国が勃興しつっあった。また、北方からはキエフ・ルーシ

    のほか、ペチェネグ族などの遊牧の民が帝国に新たな脅威を与えた。複雑な様相を呈しは

    じめた周辺世界に対して、ビザンツ帝国は、東欧・東地中海世界における自らの生存を賭

    けて対外関係を再構築することを迫られることになる。

     10世紀におけるビザンツ帝国の軍事活動は、その成果からみれば、世紀前半と後半で対

    照的な様相を見せた。9世紀末から10世紀前半にかけては、ビザンツは守勢に立たされ

    る立場であった。

     10世紀はじめにおけるビザンツ帝国に対する最大の脅威は、西方のブルガリア王国であ

    った。9世紀後半以降、ブルガリアはビザンツと貿易上の利害で対立し、武力衝突を引き

    起こす事態にまで至ったが、896年に帝国軍はブルガリアのシメオンSymeon王(在位

    893-927年〉に大敗を喫した。敗戦後の和平で、ビザンツ側によるブルガリアヘの貢納金

    支払いが約されたが、ビザンツ側は後にそれを拒否したため、シメオンは帝国領に深く侵

    入し、首都コンスタンティノープルの城壁前にまで姿を現した。海軍提督出身の皇帝ロマ

    ノス1世レカペノスRomanosILek即enos(在位920-944年)が即位して以降、ロマノ

    スの巧みな外交戦術とシメオンの死により、927年にブルガリアとの間で和平が成立し、

    5

  • 事態はようやく収拾されたのである・8。

     海上においては、アラブ人優位の情勢が続いていた。902年には、シチリア島における

    ビザンツ勢力最後の拠点タオルミナT&orminaが陥落し、シチリアは完全にアラブ人に掌

    握された。また、エーゲ海周辺でもアラブ艦隊が遊 する。go4年には、トリポリTripoli

    のレオンLeon率いるアラブ艦隊が、ビザンツ第二の都市テッサロニケThessalonikeを襲

    い、多くの住民が虐殺された19。

     このような事態の背景には、地中海が依然として「イスラムの湖」となっている現状が

    あった。9世紀以来、イスラム勢力によって奪われたクレタ島の再征服が、ビザンツ帝国

    にとっては焦眉の課題となる。しかし、奪回を目指して二度の大規模なクレタ遠征(911

    年と949年)が行われたものの、どちらも惨敗に終わったのである20。

     一方、小アジアの北東部では、10世紀前半にビザンツ優位の状況が生まれていた。ロマ

    ノス1世治世の920年代から、アルメニア、メソポタミア方面で将軍ヨハネス=クルクア

    スJohannes Kurkuas[K2]1こよる遠征が行われ、934年には小アジア東部の要衝メリ

    テネMeliteneを占領した2・。また、帝国の北方からは、941年にキエフ・ルーシの一団

    がコンスタンティノープルに襲来したが、ロマノス1世によって撃退されている22。

     しかし小アジア東南部では、キリキアKilikiaなどタウルス山脈沿いの国境地帯で、シ

    リアのアレッポAleppoを本拠地とする君侯国ハムダン朝Hamdanidsによるビザンツ領へ

    の侵入事件が頻発した。ハムダン朝のエミール(r太守」)、サイフ=アッダウラSayf

    ad・Dawlaによる侵入軍はタウルス山脈を越えて度々ビザンツ領を犯した23。この戦闘で

    ビザンツ側の指揮を執ったのは、小アジアのカッパドキアKappadokia地方に所領を持つ

    大貴族フォーカス家Phokasである。945年初めに、帝国軍最高司令官であるドメスティ

    コス・トーン・スコローンdomestikostonscholon(皇帝護衛部隊スコライ・タグマ長官)

    に就任したバルダス=フォーカスBardas Phokas[Ph1]が、息子ニケフォロスNikephoros

    [Pれ2](後の皇帝ニケフォロス2世)、レオンLeon[Ph3]、コンスタンティノス

    Konstantinosとともにサイフ=アッダウラと戦った。しかし、戦況はサイフ=アッダウラ

    に優位であり、バルダスは、950年、952年と敗北を続け、954年にはハダートHad&tで

    大敗を喫するのである24。

     バルダスの長男ニケフォロス=フォーカス[Ph2]が、父に代わってビザンツ軍最高司

    令官ドメスティコス・トーン・スコローンの地位に着いた955年頃から、帝国の軍事活動

    は成功を収め始める。これまで東方で劣勢であったビザンツ軍は反撃に転じていくのであ

    る。958年には、ニケフォロス=フォーカスと並ぶ名将で、アルメニア出身の貴族ヨハネ

    ス=ツィミスケスJohannesTzimiskes[T]指揮下の帝国軍がサモサタSamosataを占領

    した25。ビザンツ軍は、960年代にはタウルス山脈を越えてシリアヘ侵入するようになり、

    アナザルボスAnaz&rbos、ゲルマニケイアGermanikeiaなどを陥落させた。ニケフォロ

    スニフォーカスは、962年12月には、ついにサイフ=アッダウラの居城アレッポを降伏

    させている26。長年の懸案であったクレタ島の再征服も、961年にニケフォロス自身の指

    揮により達成された27。

     ニケフォロス=フォーカスは、皇帝ロマノス2世Romanos H(在位959・963年)の死

    後、小アジアの貴族層の支持を受けて反乱を起こして帝位に就き、皇帝ニケフォロス2世

    となったが、東方への遠征は続行された。965年にはタルソスTarsos、モプスエスティア

    Mopsuestiaを陥落させ、また同年、キプロス島を奪回した28。そして969年には、ニケ

    6

  • フォロスの部将たちが北シリアの要衝アンティオキアAnt孟ochiaを占領したのである29。

    ただし、ニケフォロスはブルガリアのボリス2世Borisn(在位969-971年)と対立し、

    ブルガリア問題を再燃させた。ニケフォロス2世は、キエフ・ルーシのスビャトスラフ

    Svyatos1段v公を利用してブルガリアに圧力をかけようとしたが、逆に、ブルガリアやビザ

    ンツ領に野心を抱くスビャトスラフの軍事介入を招いた30。

     969年に、ニケフォロス2世を暗殺して帝位に登った次の皇帝ヨハネス1世ツィミスケ

    ス[T]も軍人であり、彼はまず先帝が引き起こした西方の危機に対処することを迫られ

    た。970年春には、ビザンツ領に侵入したスビャトスラフのルーシ軍を、ヨハネス1世の

    盟友バルダス・スクレロスBaraas Skleros[S]が撃退した後、971年には、ヨハネス1

    世自身がブルガリア遠征を行ってスビャトスラフに勝利し、ブルガリアはビザンツ領に併

    合された3・。その後、ヨハネス1世は東方に転じて、972~975年にはシリアからパレス

    ティナヘ軍を進める。アンティオキアから進発したヨハネス1世は、バールベクBaalbek

    を攻略し、ダマスカスも降伏させた。そして、トリポリ占領は断念せざるを得なかったも

    のの、ベイルート、シドンSidonなどの諸都市を占領した32。

     ヨハネス1世の死後、マケドニア朝の正統皇帝バシレイオス2世B&sileios H(在位

    976-1025年)が帝位に上った。幼くして登位したバシレイオス2世の統治初期には、宮廷

    宙官バシレイオスニレカペノスBasileios:Lekapenosが摂政となり権勢を振るったが、970

    ~980年代に、小アジアの大貴族バルダスニスクレロス[S]とバルダスニフォーカス

    BardasPhokas[Ph4]が大反乱を起こし、帝国の統治は大きく揺らいだ。

     これらの反乱を克服したバシレイオス2世は、成人後、前帝たちに勝るとも劣らぬ軍人

    皇帝ぶりを発揮する。最大の敵は、再び興隆したブルガリアのサムエルSamue1王(在位

    976・1014年)であった。986年には、バシレイオス2世自らが率いる帝国軍が敗北し、皇

    帝自身の生命が危険にさらされる事態が起こるなど、当初はサムエルが優位に立った33。

    しかし、1001年頃からはビザンツ側が反撃を開始し、rブルガリア人殺し」の異名どおり、

    バシレイオス2世は多くのブルガリア軍兵士を倒して、ついにブルガリア帝国を征服した

    34。バシレイオスは、東方においては、ファティマ朝のシリア侵入に対処するため、995

    年にシリアヘ遠征を行い、またアルメニアやイベリア方面へも版図を広げたが35、キリキ

    ア・シリア方面の国境は現状維持にとどめ、東方キリスト教徒やムスリムなど新たな住民

    を内包することになった征服地の統治安定に力を入れた36。さらに、バシレイオスはシチ

    リア島奪回のための遠征準備に着手したが、その実現を見ることなく世を去った。こうし

    て、1025年のバシレイオス2世死亡時において、ビザンツ帝国は、東はアルメニアやユー

    フラテス川、西はドナウ川やアドリア海にまで達する、中期ビザンツ帝国最大規模の領士

    を獲得したのである。

    (2)属州貴族層の台頭と軍事

     ビザンツ帝国内部においては、9世紀末頃から、属州における大土地所有貴族層の勢力

    伸張が皇帝権力に対する脅威となっていた。特に、イスラム勢力からの防衛のため自立的

    な権限が与えられた小アジア東部のテマ(アルメニアコンArmeni&kon、カッパドキアな

    ど)で有力な貴族が、自己の地域的支配権を拡大した。主な小アジア属州貴族としては、

    フォーカス家Phokas、マレイノス家Maleinos、アルギュロス家Argyros、アルメニア系

    貴族のクルクアス家KurkuasやスクレロスSkleros家などが知られている37。これら小

    7

  • アジアの有力貴族層は、時として中央政界や皇帝権力に接近することもあったが、さまざ

    まな利害関係により相互に結合し、また離反した(→ 小アジア貴族層の本拠地および所

    領分布については、本稿添付資料9頁、(地図5)参照。また、主な小アジア貴族家門の系

    図については、本稿添付資料16-17頁、(系図2)参照)。

     本稿において、いわば主役を演じることとなるフォーカス家はカッパドキアを本拠地と

    する属州貴族である。フォーカス家の当主たちは、9世紀後半以降、小アジアのテマの軍

    事職につき、タルソスなどキリキア諸都市の支配をめぐるイスラム勢力との闘争を主導し

    たことで、皇帝レオン6世Leon W(在位886-912年)の信任を得た。この過程で、フォ

    ーカス家はマレイノス家をはじめ、多くの家門と血縁関係をもつようになった。先述のハ

    ムダン朝がビザンツ領小アジアヘの侵入を開始すると、フォーカス家は自己の所領を守る

    ためにも、対ハムダン朝軍の先頭に立った38。

     マレイノス家は、小アジア中央部ブケラリオンBukellarionテマのマラギナMalagina

    出身とされる貴族である。マラギナは9世紀における皇帝遠征軍の集結地(アプレクトン

    Aplekton)のひとつとされる地で39、小アジアの軍事上の要衝であることから、軍事に携

    わる家系であったと推測される。その後、マレイノス家は小アジア各地に所領を形成し、

    フォーカス家とも通婚して同盟関係にあった。マレイノス家の貴族たちは属州での所領経

    営に力を注ぎ、中央政界に進出することは少なかったようであるが、10世紀には、小アジ

    アで巨富を蓄えていたエウスタティオスニマレイノスEustathios Maleinos[M2]がフ

    ォーカス家を支援した4・。

     アルギュロス家は、9世紀以降、フォーカス家と並んでカルシアノンCharsianonやセ

    バステイアSebasteia、アナトリコンAnatolikonといった小アジアの重要テマで軍の指揮

    を執った貴族である。10世紀半ばには、マリアノス=アルギュロスMarianosArgyrosが

    コンスタンティノス7世の厚遇を受け、ビザンツ西方における軍事活動を任され、イタリ

    アでの反乱鎮圧およびシチリアのアラブ人征討で活躍した。彼は、バルカン側のトラキア

    ThrakiaとマケドニアMakedoniaのテマ軍を率いて戦地に赴き、カラブリアとロンバル

    ディアのストラテゴス称号を帯びて、ナポリの反乱をも鎮圧した。コンスタンティノス7

    世の息子ロマノス2世もマリアノスを厚遇し、彼は東方の有力家門出身ながら、イタリア

    などビザンツ西方で活躍する第一の将軍であったが、963年のニケフォロスニフォーカス

    の反乱に際しては、反フォーカスの側に与し、首都の市街戦で死亡した4・。

     クルクアス家はアルメニア系の貴族で主に小アジア北東国境域で軍事活動に従事した。

    10世紀前半には、同じくアルメニア出身の皇帝ロマノス1世の信任を得たヨハネス=クル

    クアス[K2]が最高司令官ドメスティコス・トーン・スコローンとしてメリテネの占領

    などで活躍した。またフォーカス家やヨハネス=ツィミスケスとも縁戚関係を結んでいる

    420

     スクレロス家は、フォーカス家と並ぶ10世紀最大の小アジア貴族である43。この家門

    もアルメニア系と言われており、メリテネ周辺が本拠地とされる。10世紀半ばまでは、ス

    クレロス家は中央政界に姿を現すことは少なかったが、10世紀後半、バルダス=スクレロ

    ス[S]が帝国軍事におけるフォーカス家の対抗軸として重要な役割を果たした。スクレ

    ロス家はヨハネス1世の大きな後ろ盾として、ブルガリアや小アジアなど帝国の東西各地

    で活躍した44。

     これらの小アジア属州貴族は、相互に婚姻関係を結びながらも、大略において、以下の

    8

  • ような連携・対立の構図を示した。すなわち、「フォーカス、マレイノス集団」と「クルク

    アス、スクレロス集団」である45。そして、地域的・民族的には、前者の集団は、カッパ

    ドキア地方やイベリアIberia人と結びっき、後者は、カルシアノン、アルメニアコン地方

    やアルメニア人との関係が深かった。

     このような属州貴族層の動向は皇帝政治にも影響を及ばした。9世紀後半のバシレイオ

    ス1世(在位867-886年)以来、帝国ではマケドニア王朝と呼ばれる皇統が続いていたが、

    10世紀後半においては、纂奪などの手段で属州貴族が皇帝位に就くことがあり、皇帝政権

    も二重性を帯びた。すなわち、マケドニア朝の正統皇帝(レオン6世、コンスタンティノ

    ス7世、ロマノス2世、バシレイオス2世)と小アジア貴族出身の軍人皇帝(ロマノス1

    世、ニケフォ担ス2世[Ph2]、ヨハネス1世[T])である。

     ビザンツ帝国では、複数の人物が皇帝位に就く「共同統治」の制度があった。皇帝が後

    継者やライバルと目される人物を「共治帝」として政権内に取り込むことが、その目的で

    あったが、10世紀のマケドニア朝期にも、このシステムが皇帝政権の二重性を支えた。た

    とえば、正統皇帝コンスタンティノス7世は、913年に7歳で即位し、959年まで皇帝位

    にあったが、920~944年はアルメニア出身で海軍提督上がりのロマノス1世レカペノス

    も帝位にあり、政治的実権は灘マノスが握っていた。コンスタンティノス7世が実質的な

    支配者となったのはロマノス1世失脚後の約15年間だけであった。「王朝の血統の継承者」

    と「成り上がりの実力者」が並存できるシステムをビザンツ帝国は有していたのである46。

     ひとたびコンスタンティノープルでの政権交代が発生すると、皇帝権力から貴族家門へ

    の処遇も変化した。レオン6世は、フォーカス家を重用したが47、ロマノス1世はフォー

    カス家を排除し、軍の司令官にクルクアス家、アルギュロス家、スクレロス家を置いた48。

    次のコンスタンティノス7世は、再びフォーカス家、マレイノス家に軍事を委ねた49。コ

    ンスタンティノス7世の息子ロマノス2世の死後は、小アジア軍事貴族の領袖が二人(ニ

    ケフォロスニフォーカスとヨハネス=ツィミスケス)連続して帝位につき、それぞれフォ

    ーカス家、スクレロス家と同盟したが、正統皇帝バシレイオス2世は、反乱を起こしたこ

    の両家を排除し、新興貴族層を登用して帝国統治を進めた5・。

     皇帝権力にとって属州貴族層が一際脅威と感じられたのは、彼らが、それまで国家に税

    を納め、兵役を果たしてきた小土地保有自由農民層の土地を兼併し、かれらを自己の隷属

    農民パロイコイparoikoiとし始めたからであった。ひとたび皇帝となった者は、属州貴族

    出身であろうとも、大土地所有の拡大を防ぐことを目的とした立法措置を講じたが、その

    効果は少なかったと言われる。テマ制度のもとでは、テマの軍役を果たす兵士ストラティ

    オーテースstratiotesは国家から「兵士保有地」(ストラティオーティカ・クテーマタ

    str段tiot玉ka ktemat&)を支給されており、兵士は農村共同体の中で富裕層に属していた。

    しかし、この時代においては、農民同様に兵士も階層分化が進行し、貧窮化した兵士の土

    地や兵士自身も「有力者」デュナトイdynatoiと呼ばれる大土地所有者層の犠牲となった。

    「有力者」とは、中央政府の文武の高官、教会・修道院における高位聖職者たちである場

    合が多く、属州の有力貴族層も、これに含まれる。すなわち、ビザンツ帝国の主要な支配

    層がr有力者」そのものであったことに、この問題の深刻さがあった51。

     飢饅の発生によって貧民層が「有力者」に土地を売り、隷属化していく現象が加速した

    927~928年頃以降、当時の皇帝ロマノス1世が、r有力者」の土地取得を制限し、小土地

    保有農民を保護する目的で土地立法を公布した52。その後の諸帝もこれに倣って、繰り返

    9

  • し同様の立法を行ったので、これらの諸法を「マケドニア朝の土地立法(新法)」と総称し

    ている。コンスタンティノス7世も、テマの兵士ストラティオーテースを保護するための

    新法を出したが、彼は兵士ストラティオーテースを村落内の中間層に位置づけ、兵士が所

    有すべき土地の最低価値や土地譲渡の際の規定を詳しく取り決めた53。続くロマノス2世

    も962年に新法を出しているが、新しい解決策はなく、富裕層による土地取得条件をより

    厳しくしたものの、効果は薄く、状況は悪化するばかりであった54。967年に発布された

    と思われるニケフォロス2世の法令は、属州貴族出身の皇帝らしく「有力者」に有利にな

    るような性格を含んでいたが、「兵士保有地jに関しては、その保護を試み、さらに「重装

    騎兵」部隊増強のため、土地保有の最低基準額の引き上げをはかった55。

     諸皇帝の努力にもかかわらず、現実には多くのテマ兵士ストラティオーテースが「有力

    者」の一員である属州貴族の隷属農民パロイコイになったと考えられる。有力な属州貴族

    はテマ長官ストラテゴスの地位についたが、テマにおいては、長官ストラテゴスとその配

    下の兵士との人的結合も見られた。コンスタンティノス7世の新法では、「兵士を意のまま

    にする人々」の存在が語られ56、ロマノス2世は、「良い兵が『有力者』のための義務を

    果たす」ことを嘆いている57。すでにこの時代には、「有力者」は、一種の庇護関係によ

    って形成された私兵組織を有していたことも指摘されている。976年に発生したバルダス

    =スクレロス[S]の反乱に対処しなければならなくなったバルダス=フォーカスBardas

    Phokas[Ph4]は、首都で兵士や資金が不足しているのを知り、本拠地のカッパドキア

    のカイサレイアKaisareiaに赴いて軍備を整えている58。また、バシレイオス2世が先述

    のエウスタティオス=マレイノス[M2]の邸に宿泊した際、多くの私兵がいることに皇

    帝は注意を払っていた59。

     属州貴族層は、国家の税収の基礎となる農村共同体内の土地を蚕食し、国家のために戦

    う兵士を私物化していったことから、帝国の体制基盤を掘り崩す存在であった。しかし、

    その一方で彼ら属州貴族は、東方の国境防衛を担い、対外遠征に際しては率先して指揮を

    執る、帝国軍の上級士官でもあった。軍司令官の貴族化が10世紀には大幅に進行してい

    たと考えられる6・。10世紀の小アジアでは、新旧種々の貴族層が連携・対立しつつ、帝

    国の軍事を担ったことも、また事実なのである。10世紀のビザンツ帝国における皇帝権力

    と属州貴族権力は、背反と協働の関係にあったと言えよう。

    第二節 軍制とその変化

    (1)10世紀のビザンツ軍制

     ビザンツ帝国の軍隊の基本構成は、テマタthemataとタグマタtagmataに大別される。

    序章で述べたように、テマタは一種の屯田兵(農兵)による地域防衛部隊である。「テマ」

    の語は、軍団の単位でもあるとともに行政単位をも意味し、イスラム勢力による侵攻にさ

    らされた小アジアにまず設置され、やがては、守勢の時代の統治システムとしてバルカン

    側を含めて全土に組織化されたと考えられている。これに対して、タグマタは、基本的に

    首都またはその近郊に駐屯した皇帝護衛部隊であり、対外遠征の場合は、その中核的役割

    を果たす機動軍団であった。タグマタの兵士は農兵ではなく、給与によって雇用された職

    業軍人であり、ときには異民族出身の傭兵も多数存在した。特に首都の皇帝護衛部隊であ

    る4部隊(スコライScholai、エクスクービトイExkoubitoi、アリトゥモイArithmoi、ヒ

    10

  • カナトイHikanatoi)が重要な軍団であった6ユ。

     ビザンツ支配層は、対外情勢の変化に応じて軍制を改変していったことは序章でも触れ

    た。イスラム勢力による小アジア侵入から帝国領土を防衛することが軍の第一の任務であ

    った7~9世紀においては、テマタが軍の主力であった。タグマタは、皇帝遠征の際の攻

    撃用軍団の主力であり、戦時にのみ召集される部隊もあったらしく、その実態は明らかで

    はない62。しかし、通説では、10世紀に入ると、従来の農兵によるテマタ主体の軍制は、

    次第に傭兵によるタグマタ主体へと移行していったと言われる。その背景として、ふたつ

    の事情があげられている(→ 7~9世紀における小アジアのテマ組織については、本稿

    添付資料7頁、(地図3)参照。また、8世紀後半のビザンツ帝国におけるテマタとタグマ

    タの配置については、本稿添付資料10頁、(地図6)参照)。

     ひとつは、前節で述べたように、10世紀において属州におけるテマ兵士ストラティオー

    テースの階層分化が進み、一方では、富裕な兵士は領主化・貴族化して「有力者」の仲間

    入りする傾向が現れるとともに、他方では、貧窮化し国家に軍役を果たすことが困難な兵

    士が多数出現したことである。多くのテマ兵士は「有力者」の隷属農民パロイコイになっ

    ていったことは先に触れたが、コンスタンティノス7世は法令の中で、貧困化したテマ兵

    士の軍事義務遂行を助けるため、「納税者」スンドータイsundotaiを与える制度を打ち出

    している。それでも規定の軍役を果たせない者には、r免除」アドレイアadreiaを与え、

    装備の簡素な「軽装歩兵」アペラーテスapelatesに配属するという措置も取られた63。

    また、10世紀前半頃からテマの軍役そのものが金納化されるという傾向も強まったと言わ

    れており、こうしてテマタそのものの維持も困難になってきたのである。

     今ひとつの背景は、これまでにも述べてきた、守勢から攻勢へという帝国の対外政策の

    転換である。基本的に地域防衛部隊であるテマタは、その土地の農民から選ばれ、地域に

    根付いた兵士であった。そのため、長期にわたって居住地を離れ、遠隔の地まで従軍しな

    ければならない遠征軍には不向きであるといえよう。また、兵士たちは戦時のみ徴集され、

    テマタそのものが恒常的な軍団ではなかったと考えられる64。911年と949年のクレタ遠

    征にはテマタの兵士も動員されたが、その士気は決して高くなかったと推察される。特に、

    小アジア西部のテマタは対外遠征にあまり参戦せず、トラケシオンThrakesionテマの軍

    は961年のクレタ再征服戦に参加したものの、規律に欠けていたと言われている。アナト

    リコン、カッパドキア、セレウキア、カルシアノンといった、従来最も精強とされた軍団

    を擁していた小アジア中東部のテマでも、兵士は徴集されたものの、その質は高くなかっ

    たと考えられている65。

     当然ながら、遠征軍の主力は内外の傭兵からなるタグマタであった。対外遠征を積極的

    に行ったニケフォロス2世の時代以降、軍役の金納化という現象が一段と進んだと考えら

    れていることからも、属州民への軍役は、傭兵を雇い入れるための一種の課税へ変化して

    いったことが理解されよう66。10世紀後半には、タグマタのさらなる強化がはかられる

    とともに、ニケフォロス2世は、後述する「重装騎兵」軍増強のため、「兵士保有地」の最

    低保有価値を三倍に引き上げた67。このような施策は、中小土地保有農民層に基礎を置い

    た従来の軍制とは基本的に異なるものであり、11世紀までに物納義務や労働奉仕も現金化

    されたと言われる。これまでは、テマタの領分であった地域防衛にも、次第にタグマタが

    用いられるようになり、首都のみならず属州にもタグマタが駐屯するようになった68。

     こうした、テマタからタグマタヘという軍団構成上の変化は、テマを基本とする従来の

    11

  • 行政制度や指揮官職体系にも影響を及ぼした。9世紀末、レオン6世の頃から東部国境域

    にはクレイスライkreisur&iという辺境管区が設置されていたが、こうしたクレイスライ

    がテマに昇格するとともに、旧来の比較的広大な領域を有するテマではなく、ひとつの都

    市や要塞を単位とする狭小なテマが東部国境域で多数出現し始めた。テマの「細分化」が

    進行したのである69。そして、これらの新しいテマには、当時、東部国境域への殖民が進

    められていたアルメニア人が多く居住するようになった。こうしたテマを「小テマ」また

    は「アルメニ(ア)カameni(a)kaテマ」と呼んでいる。この種のテマの初期のものは、

    アルメニア人部将メリアスMeliasによるリュカンドスLyk&ndosテマの創設として知られ

    ているが、その後も東方で「小テマ」守備隊が設けられた70。そして960年代以降は、再

    征服戦争によって獲得された新領土が次々と「小テマ」に組織化されていったのである71。

     旧来のテマ制では、テマ長官ストラテゴスは管轄テマの軍民両権を統括する要職であり、

    特にアナトリコンを初めとする小アジアのテマのストラテゴスは、ビザンツの官職体系の

    中でも高い地位を占めていた72(→ 官職体系におけるストラテゴスの地位については、

    本稿添付資料18頁、(表3)参照)。

     しかし、新たに増加した「小テマ」は、管轄区域も狭く、従来のテマとは性格を異にす

    る。その長官は同じくストラテゴスと呼ばれたが、その職掌は要塞守備隊長程度の任務で

    あり、旧来のテマのストラテゴスに比して、その地位も低く位置づけられている73。しか

    も、「小テマ」のストラテゴス職は、アルメニア人など現地住民に与えられることもあった

    74。帝国領に編入されて日も浅い「小テマ」の統治に関して、中央政府は警戒感を抱いて

    いたようであり、「小テマ」のストラテゴスには軍事指揮権しか与えられず、民政に関して

    は、中央政府が首都から裁判官や財務官などの文官を派遣して統制を図ろうとした75。し

    かし、それは現地の軍人、住民との軋礫を招くものでもあった。このr小テマ」のシステ

    ムは東方国境が起源であるが、970年代以降は、ブルガリアなど西方へも採用されていく

    こととなる76。

     テマの細分化は、国境地域でのきめ細かな防衛や、中央政府からの自立を図りかねない

    ストラテゴスの権限拡大防止に役立つものであったが、大規模な敵の攻撃の際やビザンツ

    側からの対外遠征時には、これらの「小テマ」の軍団を統括する広域的な指揮権が必要と

    された。そのための指揮官職がドゥクスdux(カテパノk&tep&no)であり、その管轄区域

    がドゥカトンdukaton(r地方部隊総司令管区」)である。ドゥクスという称号自体は古代

    から存在し、10世紀以前のビザンツ期においてもタグマタ傭兵騎兵隊の長を意味する語で

    あったが、次第にドゥクスは、数箇所の「小テマ」のストラテゴス指揮権を統括する国境

    地域の統治者へと変貌を遂げた77(→ 1025年頃の「小テマ」とドゥカトンについては、

    本稿添付資料11頁、(地図7)参照)。

     以上のように、10世紀のビザンツ帝国の軍事においては、軍団におけるテマタからタグ

    マタヘの転換、そして、指揮官職におけるストラテゴスからドゥクスヘという転換が進行

    していったのである。

    (2)後方支援システム

     周辺世界との抗争を宿命づけられたビザンツ帝国にとって、軍事は国家存立の要であっ

    た。皇帝コンスタンティノス7世は、テマの中小農民・兵士を保護する法令の中で、「『軍

    事』が国家に対する関係は、あたかも頭が身体にたいする関係に相当する」と述べている78。

    12

  • ひとたび大規模な戦争が勃発すれば、ビザンツ軍は、テマタ・タグマタを問わず、多くの

    部隊を動員した。兵士のみならず、馬や運搬用動物、武器・武具、食糧・飼料など、さま

    ざまな動物、物資も必要とされた。

     ビザンツ国家は、民衆に対して、軍事面でどのような負担を強いてきたのであろうか。

    テマの兵士ストラティオーテースは、軍役(ストラテイアstrateia)のほかに、地租(デ

    ーモシアdemosi&)や炉税カプニコンk&pnikon、土地に賦課される現物税シュノーネー

    synoneを負担した79。

     軍役負担者以外の民衆は、上述の地租や炉税などのほか、軍事に関する種々の義務を負

    担した。属州を訪れた官吏・軍隊への現物提供義務や宿舎提供義務、動物・武器・防具・

    衣服・木材・鉄などの金属・釘・馬具・飼料などの提供、要塞・道路・橋梁などの建設・維

    持作業、造船などに関わる労働力・技術の提供などである8・。さらに、先に述べたように、

    10世紀には、軍役も金納化されていった。それは、タグマタの傭兵への俸給支払いに充て

    られたが、積極的な外征が行われたニケフォロス2世の時代には、民衆への大増税となっ

    たと考えられる81。また、テマタの衰退にともなって、傭兵は中央軍のみならず属州にも

    駐屯するようになると、その維持のための費用は恒常的に属州民の肩にかかるようになっ

    た。民衆はますます国家の収奪を嫌い、「有力者」のもとへ逃げ込んだ。そして「有力者」

    も、自らにも降りかかろうとする国家からの課税要求から逃れるため、免税特権を求める

    ようになる82。

     さて、このような負担を民衆に強いたビザンツ国家は、如何にして遠征の準備を整えた

    のであろうか。『宮廷儀礼の書Deceremoniis』の記述に基づきつつ、紹介したい。

     『宮廷儀礼の書』は、「マケドニア朝ルネサンス」と呼ばれる文芸運動を引き起こした文

    人皇帝コンスタンティノス7世の代表的著作のひとつで、959年頃までに成立したと言わ

    れており、6世紀以降の宮廷生活全般にわたる詳細な情報が記載されている史料である。

    その中には軍事に関する様々な情報も含まれている。『宮廷儀礼の書』第2巻44・45章で

    は、911年・949年のクレタ遠征および935年のイタリア遠征における、陸海軍兵員の徴

    集・兵士への給与支払い、武器・装備晶の調達、各種の兵姑の情報が詳細に列挙されてい

    る83。これらの情報は、ニケフォロスニフォーカスによる961年のクレタ遠征のための手

    引書として利用されたという説がある84(→ 兵員の徴集については、本稿添付資料2頁、

    (史料1-1)参照)。

     戦時における人員・資材調達に関わる政府の部局としては、エイディコンeidikon(必

    要な原材料の購入を行い、資金を提供する部局。武器工房にも責を負う)、コイトーン

    koiton(パラコイモメノスparakoimomenos「皇帝寝室長官」管轄下の「皇帝手許金」管

    理部局)、ヴェスティアリオンvesti&rion(首都の海軍兵器庫など兵器、原料、艦隊用武器、

    貴重品の保管部局)などがあげられる85。武器類もテマで調達されたらしく、911年・949

    年のクレタ遠征の際にも、テマの官吏は国家からの命令で一定数の武器・武具を製造させ、

    eidikonがそれを配分したことを示唆する史料も残されている86(→ 武器の製造やエイ

    ディコンの役割については、本稿添付資料2頁、(史料1-2)(史料1-3)参照)。

     『宮廷儀礼の書』には、上記以外にもニケフォロス2世時代に付加されたと思われる軍

    事に関する三種の文書が含まれているが、そこには、皇帝遠征軍の組織・装備、テマ兵へ

    の給与支払いや皇帝の首都凱旋式の手順などが記されている87。これらのテキストは、コ

    ンスタンティノス7世時代からバシレイオス2世時代にかけて、多くの遠征における輻

    13

  • 重・兵姑を担当した宮廷宙官バシレイオス=レカペノスの編集によるものと考えられてい

    る88。当時のビザンツの宙官は、国庫とは別に皇帝の「金庫番」として戦費の支出にも影

    響力を持っており、バシレイオス=レカペノスは、実際に遠征軍に同行してキリキアやブ

    ルガリアなどの戦地に赴いている。

     以上のことから、海外遠征には兵士の徴集・配置、食糧調達、兵器・武具・船具の製造・

    保管、馬匹など輸送手段の確保など、さまざまな人員・資源の国家管理が必要であり、ま

    た、多くの関係部局の協働が必要であった。ビザンツにおける戦争遂行の背景には、こう

    した後方支援システムが有効に機能していたと考えられる。

     しかしながら、911年と949年のクレタ遠征自体は二度とも失敗した。911年の遠征は、

    春から準備がなされ、艦隊司令官ヒメリオスHimeriosの指揮の下、秋に出撃した。遠征

    軍はクレタ島に上陸できたものの主邑カンダックスChand継を占領できず、帰路、アラ

    ブ艦隊にキオス島で奇襲を受け大敗した89。また、949年の遠征では、艦隊司令官ゴンギ

    ュラスGongylasの指揮によりクレタ島に上陸したが、野営時に必要な防御陣地を築かな

    かったという初歩的な過ちのため撃退されたgo。このような指揮官の無能に加えて、動員

    された兵員も帝国各地からのr寄せ集め」であり、連携の取れた作戦が取られなかったと

    思われる。『宮廷儀礼の書』に見られたように、この遠征では多くの兵員と艦船が動員され

    たが、その大半が失われる結末となった。すなわち、10世紀前半のビザンツ軍は、大規模

    な遠征軍を周到に準備する能力はあったもの、肝心の実戦能力を欠いた状況であった。

     これに対して、10世紀半ば以降のビザンツ軍は破竹の勢いで周辺世界に攻め込んでいく。

    この軍事的成功の原動力は、通説ではニケフォロス2世の行った軍制改革に求められる。

    次章以下では、ニケフォロス2世の改革前後のビザンツ軍の実像を可能な限り探ることに

    より、10世紀半ばにおけるビザンツ軍の変容の特性を明らかにしていきたい。

    第二章 10世紀の軍事関連著作と軍制

    第一節 史料の概要

     前章では、10世紀のビザンツ帝国が周辺世界の変化の影響を受けたこと、および属州に

    おける貴族層の叢生により政治的・社会的に変化が生じたこと、また、こうした国内事情

    と対外関係の変化によりビザンツ国家の存立を支えてきた軍制にも大きな変動が起きっっ

    あったことを述べた。こうした軍制上の変化を物語る史料として、当時の戦術指南書や皇

    帝遠征の際の手引書など、軍事に関する種々の文書が現代に伝わっている。本稿で筆者は、

    これらの史料をr軍事関連著作」と総称することとしたい。

     ビザンツ帝国においては、10世紀後半から11世紀初頭にかけて、多彩で実用的な軍事

    関連著作が現れる91。ブルガリア帝国の脅威、ハムダン朝の小アジア侵攻など10世紀前

    半の対外情勢を背景として、皇帝や上級士官の手によって実戦を想定した戦術指南書が相

    次いで編まれたり、皇帝編纂の百科全書的書物に軍事に関する詳細なデータが残されてい

    るのである。このこと自体、当時のビザンツ支配層の軍事に対する関心の高さを示すもの

    と言えるが、本章では、主に三編の戦術指南書の記述を通じて、そこに描かれた軍のあり

    方を考察する。小アジアでの対ハムダン朝ゲリラ戦を描いた『デー・ウェリタティオーネ

    14

  • 一Develitatione(小競り合いについて)』92、皇帝ニケフォロス2世自身が著したとさ

    れる戦術論『プラエケプタ・ミリターリアPraecepta militaria(戦闘教則)』93、ブルガ

    リアやシリアに向かう皇帝遠征時の行軍や野営の方法などを詳述した『デー・レー・ミリ

    ターリDeremilitari(遠征軍にっいて)』がそれである94。また、前章でも触れたように、

    皇帝コンスタンティノス7世の編纂になる百科全書的著作『宮廷儀礼の書Decerimoniis』

    にも、クレタ遠征などを中心とする軍事に関する詳細なデータを含んだ記述があり、また、

    ニケフォロス2世時代に付加されたと考えられている三編の文書には、皇帝遠征の組織や

    皇帝の首都凱旋の様子などが語られている。『De cerimoniis』については、『De velitatione』、

    『Praeceptamilitaria』、『Deremilitari』と関連させながら述べていくこととしたい。

     ただし、こうした当時の軍事関連著作、特に戦術指南書には、古代の著作からの引用が

    あり、当時のありのままの軍の姿を伝えているとは言い難い箇所も存在し、また軍の理想

    的なrあるべき姿」が描かれている場合があって、理念と現実の判別は難しい。従って、

    こうした史料を使用するに当たっては、同時代の年代記や歴史書など種々の関連史料の記

    述との照合が必要となってくる。

     当時のビザンツ帝国の歴史を描いた同時代の主要な歴史家としては、以下の二人が知ら

    れている。レオンニディアコノスLeonDiakonosは宮廷付輔祭であり、ニケフォロス2世

    期からヨハネス1世期にかけての959~976年を扱った歴史書を著した95。彼は、ニケフ

    ォロス2世のキリキア遠征などにも従軍し、その記述の信愚性は高いが、フォーカスー族

    に好意的な記述が多く、その点に留意して読む必要がある。これに対し、11世紀後半の司

    法官ヨハネス=スキュリツェスJohamesSkylitzesは、811~1057年を扱った年代記『歴

    史概観』を残している96。その記述は反フォーカスの立場でなされており、レオン=ディ

    アコノスの記述との対比が興味深い。また、12世紀の修道士ヨハネス=ゾナラスJohannes

    Zonarasは、天地創造からの歴史を『歴史要覧』にまとめており、客観的な記述の年代記

    として信頼できる史料とされている97。

     また、西欧側からの視点として、軍事に関する情報は多くないものの、クレモナCremona

    の司教リウトプラントLiutoprandによる『コンスタンティノープル使節記』は、ニケフ

    ォロス2世時代のビザンツ宮廷の状況や皇帝の人となりを伝えている98。ただし、リウト

    プラントはビザンツ人にきわめて批判的であり、その点を念頭に置いて読む必要がある。

     また、10世紀頃のビザンツ行政機構をうかがい知ることのできる史料として、タクティ

    コンt&ktikon(『官職・爵位席次一覧』)が知られている。これは、皇帝が出席する宴席に

    おいて、官職・爵位保持者が宮殿の広間へ入場する際の順序を示したものであり、ビザン

    ツ帝国のほぼすべての官職・爵位とその序列が明らかになる点で、行政史研究上極めて重

    要な史料である。この史料からも軍の指揮権・指揮官職の変化などの情報が得られる。10

    世紀のタクティコンとしては、コンスタンティノス7世編纂『宮廷儀礼の書Decerimoniis』

    に収録されている『フィロテオス文書(クレトロロギオン:Kletorologion)』(899年)が最

    も詳細なものであるが99、フィロテオス文書の改訂版とされるベネシェビッチBene融vi6

    編集のタクティコン(930年代)や100、ニケフォロス2世およびヨハネス1世の軍制改

    革の成果を示すと考えられる点で重要なイコノミデスOikonomides編集のタクティコン

    (『エスコリアルのタクティコンTaktikon Scorialensis』)(970年代)も貴重な史料であ

    る101。

    15

  • 第二節  『De velitatione』と東方国境防衛

     『デー・ウェリタティオーネーDevehtatione(小競り合いについて)』は、950年代に

    東方国境で繰り広げられたビザンツ帝国とハムダン朝との攻防戦を記した戦術指南書であ

    る。これは、東方国境地帯のテマ司令官への戦術指南書として書かれたもので、当時の東

    方国境の状況をよく描いていると考えられる。その内容は、サイフニアッダウラSayf

    ad・Dawlaをエミール(太守)とするイスラム君侯国ハムダン朝が、当時の国境であった

    タウルス山脈を越えてビザンツ領に侵入してきた場合の対処法の記述が中心である。ハム

    ダン朝によるビザンツ領侵入は、領土の恒久的支配をめざしたものと言うよりは、略奪を

    目的とした季節的なものが主体であり、騎兵のみの急襲やビザンツ領内に陣営を構える比

    較的大規模な襲撃など、ハムダン朝によるいくっかの攻撃のパターンが『De velitatione』

    では紹介されている102。

     ビザンツ側では、敵の侵入を察知したテマ長官(ストラテゴス)が自領のテマ軍に迎撃

    の準備を命じたが、首都からの救援を依頼する時問的余裕がないため、自らのテマの兵士

    を率いて迎え撃つ場合が多かった。指揮官は、敵の兵力、地形などについて正確な情報を

    求めるため、次章でふれる軽騎兵(タシナリオイ/トラペジタイtasin&rioi/trapezit&i)

    を使って、偵察・諜報活動を行った1・3。テマの迎撃軍は騎兵と歩兵から構成されたが、

    騎兵部隊のうち、迅速に行動し敵の進軍を封じる精鋭騎兵(エピレクトイepilektoi)は、

    すぐ出撃できる体勢にあった。歩兵は、要塞の守備と隆路の封鎖、敵陣営の包囲などに当

    たることを主な任務とし、重装歩兵(ホプリタイhoplitai)と軽装歩兵(フィロイphiloi)

    に分けられたが、特に軽装歩兵philoiの迅速な動員は困難であり、また装備も粗悪で士気

    も低かったため、ストラテゴスは、迎撃兵の動員が間に合わない場合、敢えて敵の侵入お

    よび略奪を許し、国境地帯の山間の隆路で敵の帰路を待ち伏せて襲うというゲリラ作戦を

    とらざるを得なかった(→ テマの迎撃の様子については、本稿添付資料2~3頁、(史料

    2)(史料3)参照)。

     こうした記述からは、よい馬を持ち装備を整え、いっでも出撃可能な精鋭騎兵(二中小

    貴族層)と装備が悪く徴兵も困難な歩兵(=農兵)というテマ兵士の階層分化の進展が読

    み取れる。属州における大土地所有の制限を目指したコンスタンティノス7世の「土地立

    法」には、国家に軍役を果たすテマの兵士ストラティオーテースの間に、「富裕なストラテ

    ィオーテース」と「貧しいストラティオーテース」の区別が見られるが、これは、『De

    velitatione』にみられるテマ兵の階層分化の状況に対応する表現と考えてよいであろう

    1040

     また、10~11世紀のビザンツ帝国は、行政史の観点からは、中央からテマに派遣された

    文官の権力が、属州において増大した時代と考えられているが、『De velit&tione』の著者

    は、収税吏や司法官クリテースkritesらが兵士の権利を侵害していることへの憤りを見せ

    ており、「皇帝やキリスト教のために働く兵士が収税吏や裁判官に迫害」されていることへ

    の不満が表明されていた105。

     10世紀を通じて、小アジアのテマ兵は階層分化により衰退の傾向にあった。しかし、東

    部国境域では、新たに国家の軍役を果たす者たちが現れた。10世紀はじめ、小アジア北東

    部への領土拡大にともない、前章第一節で述べたように、大量のアルメニア人が東部国境

    16

  • 地域に移住してきたのである。かれらアルメニア移民からも兵士が徴集され、「兵士保有地」

    が付与された。東部国境域には、すでに10世紀はじめころから、「アルメニア人のテマ」

    と呼ばれる小規模なテマ(「小テマ」)が増加していたが、こうしたアルメニア兵は、東部

    国境のみならず、小アジア西部のテマにも出現するようになった106。第二節で見るよう

    に、アルメニア兵は歩兵として優れた資質をもっていたとされており、没落著しい従来の

    テマ兵士に代わって、アルメニア人歩兵はビザンツ軍にとって重要な構成要素になりつつ

    あった。

     『De velitatione』についての詳細な分析をおこなったダグロンG.Dagronによれば、

    この戦術書の著者は皇帝ニケフォロス2世フォーカスの弟レオン=フォーカスLeonPhokas[Ph3]であると考えられている。940・50年代においては、バルダス=フォーカ

    ス[Ph1]、その子ニケフォロス(2世)[Ph2]とレオンの兄弟が東方国境域でハムダ

    ン朝との死闘を繰り返したが、ニケフォロスがクレタ遠征指揮のため東部戦線を離れたと

    きも、レオンはハムダン朝との戦闘を指導していた。確かに、De velitationeに描かれた

    状況を最も理解し、記録として残す可能性のある人物はレオンであったように思われる

    107。フォーカスー門、特にレオン=フォーカスは、首都からの救援軍が期待できない中、

    困難な状況下でビザンツ東方国境の防衛最前線を担っているという自負をもって戦ってい

    た。954年のハダートの戦いではフォーカス側が大敗を喫したものの、ニケフォロスニフ

    ォーカスが最高司令官ドメスティコス・トーン・スコローンとなってからは、次第にハム

    ダン朝に対してビザンツ側が優位に立つようになった。ニケフォロスやレオンらのフォー

    カスー門は、東部国境地域の軍事・行政システムを統括するとともに、950年代からは帝

    国軍のより多くの戦力を東方に投入することも可能になったと思われる。そして、このよ

    うな東方での戦闘経験がニケフォロス2世の軍制改革の原点になっていると考えてよいで

    あろう。

    第三節 『Praeceptamilitaria』と戦力の強化

     『プラエケプタ・ミリターリアPraecepta militari&(戦闘教則)』は、正式には『皇帝

    ニケフォロスによる戦争の解説と軍の編成』というギリシア語タイトルが付され、965年

    頃に成立したと考えられている戦術指南書である。著者は、その簡潔な文体から、文学的

    素養があまりなかったと思われる皇帝ニケフォロス2世フォーカス自身とみなされている

    1080

     この戦術書の本文は六章から構成されている。すなわち、(1)歩兵について、(2)重

    装歩兵について、(3)重装騎兵カタヒュラクトイk&taphraktoiについて、(4)騎兵の

    配置について、(5)野営について、(6)密偵に関して、である。主な内容は、遠征のた

    めの軍団の編成と戦術であり、特に皇帝の対外遠征軍の陣容や戦術が細かく指示されてお

    り、地域的にはキリキア、シリアヘの遠征を想定したものとなっている。

     『Praecepta militaria』1こついては、古代のマケドニア人の戦術に関する記述が見られ

    たり109、10世紀の他の戦術書『シュロゲー・タクティコールムSyllogetacticorum』を

    部分的にコピーしていると考えられている箇所もあるが・10、多くの部分は、ニケフォロ

    ス2世自身の実戦経験から得られた、攻守にわたる種々の戦術が論じられていると考えら

    れる。彼は、従来の戦術書で述べられた伝統的方法と自身の戦闘経験・判断を結合させて、

    17

  • この戦術書を編んだといえよう。

     次に、『Pr&ecepta militaria』に現れる軍団の大略を見てみよう。軍団は歩兵と騎兵に

    分かれて記述されている。

     『Praeceptamilitaria』1こ現れる歩兵軍は12のタクシアルキアtaxiarchia(歩兵部隊)

    で構成されている・・1。指揮官はタクシアルケースtaxiarchesと呼ばれ、これは『Praecepta milit&ria』で初出の職名である.1つのtaxi&rcLiaは1,000人からなってい

    る。すなわち、重装歩兵ホプリタイhoplitai(400人)、弓兵トクソタイtoxotai(300人)、

    軽装歩兵(投槍兵アコンティスタイakontistaiおよび投石兵スフェンドボリスタイ

    sphendobolistai)(200人)、メナウラトイmenaulatoi(100人)であり、各軍団の専門

    化が進んでいる。hoplitai(重装歩兵)の防具は盾、鎧、兜であり、武器としては、剣、

    斧、槌矛(シデロラブドスsiderorabdos)、槍などを持っていた。toxotai(弓兵)は、歩兵

    の三分の一を占め、各自100本の矢を持っていた。akontistai(投槍兵)は、北欧系のス

    カンディナビア人、スラヴ人、フィン人から採用され、三度にわたるクレタ島遠征でも登

    場している。sphendobolistai(投石兵)は最下級の歩兵である。弓兵や投槍兵と連携して

    戦い、投石のほかに重装歩兵や弓兵に予備の武器などを供給する役割を負っていた1・2。

     『Praecepta militaria』に述べられた歩兵の中で、最も重要なものが、メナウラトイ

    menaulatoiである。木製で厚くて硬い槍メナウリオンmenaulionを扱い、味方騎兵の攻

    撃を支援し、敵の重装騎兵の突撃を阻止することが任務である。重装歩兵中、最も大きく

    強い兵はmenaulatoiに採用されたと言われる。ただし、menaulatoiそのものはニケフォ

    ロス2世以前の時代からあり、men&ulionについても、『宮廷儀礼の書Decerimoniis』に

    記述されたクレタ遠征の準備品目にもあげられている・・3。また、menaulatoiは、先述の

    『Sylloge tacticorum』にも登場するが、そこでは、menaulatoiが他の歩兵と離して配

    置されているのに対し、ニケフォロス2世は、この兵を重装歩兵から離さず、槍兵と

    menaulatoiの密集で敵騎兵の攻撃を阻止しようとした。このように、ニケフォロス=フォ

    ーカスの用兵の特徴は、menaulatoiなど個別的な任務を持つ部隊を、他の歩兵・騎兵部隊

    と組み合わせて用いることにある・・4。

     このような歩兵部隊には先述のアルメニア人が多く採用されたらしい。アルメニア人は、

    ビザンツ軍において、歩兵として重要な役割を果たしてきた。『Praecepta militaria』冒

    頭部分には、「ビザンツ人とアルメニア人からの歩兵の選択において、最良で必要なことは、

    重装歩兵となりうる身長があり40歳を越えないことである。」という記述が見られる115。

    アルメニア人が歩兵としての有効な資質をもつことが述べられ、彼らの役割が期待されて

    いるのである。

     騎兵部隊としては、偵察や陽動作戦に用いられる軽騎兵プロクールサトーレース

    prokoursatores(トラペジタイtrapezitai)とテマから徴集される正規軍騎兵、そして敵

    軍を威圧・粉砕するための重装騎兵カタヒュラクトイkataphraktoiが存在したが、テマ

    の正規軍騎兵については言及が少なく、先述のテマ兵士の階層分化の問題と関連して、正

    規軍騎兵は重要性が低かった可能性があり、軽騎兵proko皿satoresと重装騎兵kataphraktoiがニケフォロス2世の戦術上、重要な役割を果たす部隊であったと考えられる。

     軽騎兵プロクールサトーレースprokoursatoresは、r先駆け」の意味とされ、偵察と急

    襲が任務であった・・6。この種の騎兵は、他の戦術指南書においても見られ、『De

    18

  • velitatione』では、trapezitai/tasinarioiとして記述され、『Deremihtari』では、trapezitai

    1コーサリオイchos&rioiと呼ばれた。もともとは、キリキア、アルメニア地方の山賊が起

    源のようであり、ギリシア人、アルメニア人あるいはアラブ人の混成であったとされる。

    前節の『De velitatione』では、敵地に侵入し偵察と略奪、拉致をおこなう小部隊として

    紹介されている117。キリキア、シリアの地理に詳しい山賊あがりの騎兵が兵籍に入れら

    れ、ビザンツ軍に軽騎兵を提供したようである・・8。この種の軽騎兵については、ヨハネ

    ス1世時代においても、年代記にもその実例と思われるものが紹介されている(→『Praecepta militaria』1こ現れる軽騎兵については、本稿添付資料3頁、(史料4)参照)。

     重装騎兵カタヒュラクトイkataphraktoiの語源は、kataphrasso(「囲む」「ふさぐ」)

    から来ており、頭から足まで鎖帷子をまとった兵士が防具を着けた馬に騎乗する119。主

    な武器は槌矛と剣である。その役割は、敵の重装騎兵または歩兵ラインを粉砕することで

    あった。彼らの装備は高価なため、一部のエリートのみの部隊であり、その数は少ない。

    『Praecept&militari&』では504騎または384騎と述べられている・20。kat&phraktoi

    は台形の隊形を組むが、この隊形もニケフォロス=フォーカスの独創ではなく、『Sylloge

    tacticorum』にも述べられている・2・。重装騎兵kataphraktoiの活躍ぶりは印象的である。

    965年におけるニケフォロス2世によるキリキア地方の都市タルソスヘの攻撃に、その実

    例が見て取れるが、重装騎兵の規律ある秩序の取れた前進がタルソス人に恐怖を与えたと

    記されている(→ ニケフォロス2世のタルソス攻撃については、本稿添付資料4頁、(史

    料5)参照)。

     この節を終えるにあたり、『Praeceptamilitari&』と『宮廷儀礼の書Decerimoniis』と

    の簡単な比較をしておきたい。

     『Decerimoniis』には、前章第二節で触れたように、ニケフォロス2世時代に付加され

    たと考えられている文書が存在する。これには、9世紀に記された戦術論を発展させた文

    書が含まれており、皇帝遠征軍の組織について述べられているが、その内容は、皇帝のた

    めの物資輸送に必要な動物の提供や遠征時の皇帝の装備、皇帝の首都凱旋の様子などが主

    であり、『Praeceptamilit&ria』とは観点が異なる・22。しかし、この文書のひとつは958

    ~959年頃に編集された可能性があり、対外遠征を扱う史料として、成立時期は『Praecepta

    militaria』(965年頃成立)と近い点が興味深い。そして、その編集者と目される人物が、

    ニケフォロス2世政権で民政部門を担当した宙官バシレイオスニレカペノスである。彼は、

    958年のサモサタ遠征にヨハネス;ツィミスケスとともに参加しており、兵姑や工兵隊の

    指揮を担当した・23。『Praeceptamilitaria』1こおいて東方に対する戦術面および兵制面で

    の工夫を記録したニケフォロス2世に対して、バシレイオス=レカペノスは、それを支え

    る兵姑面での記録としてこの文書を編み、『De cerimoniis』に編入したのかもしれない。

    戦術論を中心に説き、軍人を読み手と想定した『Praecepta militaria』と、兵鮎など行政

    的分野も含み、文官向けの手引きとして編まれた『Decerimoniis』の、この部分は併せて

    検討する価値があるように思われる。

     『Praeceptamilitaria』1こ現れる軍団は、必ずしもニケフォロス2世の独創ではないも

    のも多い。また、『Praecepta militari&』1こは、多分に理念が先行し、現実を反映してい

    ない部分もあろう。しかし、彼の軍制の核となる軽騎兵prokours&toresや重装騎兵

    kataphraktoiに関しては、その活躍が年代記で確認できるものもあり、大筋において現実

    を映しているのではなかろうか。また、『Praecepta militaria』では規律と訓練の重要性

    19

  • が説かれ、ニケフォロスは首都において数々の軍事演習を行った・24。軍の指揮は、フォ

    ーカスー門をはじめ属州の貴族層が担うようになり、歩兵・騎兵とも、兵士の専門化・職

    業化が進んだ。こうして、ニケフォロス2世時代にビザンツ軍の実戦能力�