エストニアの民族合唱祭...2.エストニアの合唱祭の歴史と現状...

4
1.はじめに ポーランドとロシアに挟まれた,バルト海 沿岸地域に三つの小さな国がある。これがバ ルト諸国で,北から順にエストニア,ラトヴィ ア,リトアニアが存在する。私がこれらの小国 群を知ったのは,高校生で世界史を勉強して いる時だった。 当時から歴史はとても好きだったので,ぼ ろぼろになるまで世界史の教科書を読み込ん だが,あるとき不思議なことに気がついた。 「20世紀に入り世界中の各民族は自由を勝ち 取って独立を果たし,その結果として国の数 はどんどん増えた…。」と授業では習った。し かし,逆に地図上から消えた国があったので ある。それが,バルト諸国だった。現代史にお いて,必ずどの教科書にも資料集にも掲載さ れているのが,第一次世界大戦後のヴェルサ イユ条約によって,戦後ヨーロッパの国境線 がどのように変化したのかを表した地図であ る。そこには,ロシアから独立したバルト諸国 が,確かに描かれてある。 ところが,その後の章で,第二次世界大戦が 終結した後の,冷戦時代のヨーロッパを示し た地図から,バルト諸国はこつ然と消えてい るのである。一体なぜなのか。何があったの か。高校教科書には,そこまで詳しいことは何 も書かれていない。私は,大学に進み,さらに 大学院で学問を志すようになって,初めて歴 史的事実を知った。エストニア,ラトヴィア, リトアニアの三国は,大戦中にソ連邦によっ て併合され,その領土の中に組み込まれてい たのだった。 この事実は,私にとって驚きだった。「古代 や中世ならともかく,20世紀の半ばにもなっ て,戦争に敗れた訳でもないのに,ある国々が 突然地図から消えてしまうとは,どういうこ となのだろうか」と。こうして,私のバルト諸 国研究が始まった。 現在の教科書には,バルト諸国は独立国家 として掲載されている。冷戦終結後の1991年 夏,当時まだ存在していたソ連邦から,バルト 諸国の独立回復が認められ,国際社会からも 承認されたからである。今の高校生が生まれ た時にはすでにソ連邦は過去のものだったか ら,冷戦時代の約50年間,バルト諸国が地図上 に描かれていなかったことも,知らなくて当 然だろう。こうした厳しい歴史を持つバルト 諸国も今では,エストニアの首都タリン,ラト ヴィアの首都リーガ,そしてリトアニアの首 都ヴィリニュスは,それぞれ旧市街がユネス コの世界遺産に登録されており,美しい中世 ヨーロッパの街並が観光名所となっている。 日本からの観光客も年々増加している。 ※大中真「冷戦終結後のバルト諸国」永松雄彦,萬田悦生編『変容する冷戦後の世界』(春風社,2010年)参照。 エストニア ラトヴィア リトアニア ポーランド ドイツ ロシア連邦 ロシア連邦 (飛地) フィンランド スウェーデン チェコ スロバキア ハンガリー ベラルーシ ウクライナ リーガ タリン ヴィリニュス 0 1,000km ↑2011年現在のバルト三国とその位置 授業に役立つ新しい話題 2011 ② エストニアの民族合唱祭 おお   なか   まこと 桜美林大学准教授   大 中 

Upload: others

Post on 11-Aug-2020

2 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: エストニアの民族合唱祭...2.エストニアの合唱祭の歴史と現状 さて,本稿の主題は「エストニアの民族合唱 祭」となっている。これは,何だろうか。日本で

1.はじめに 

 ポーランドとロシアに挟まれた,バルト海

沿岸地域に三つの小さな国がある。これがバ

ルト諸国で,北から順にエストニア,ラトヴィ

ア,リトアニアが存在する。私がこれらの小国

群を知ったのは,高校生で世界史を勉強して

いる時だった。

 当時から歴史はとても好きだったので,ぼ

ろぼろになるまで世界史の教科書を読み込ん

だが,あるとき不思議なことに気がついた。

「20世紀に入り世界中の各民族は自由を勝ち

取って独立を果たし,その結果として国の数

はどんどん増えた…。」と授業では習った。し

かし,逆に地図上から消えた国があったので

ある。それが,バルト諸国だった。現代史にお

いて,必ずどの教科書にも資料集にも掲載さ

れているのが,第一次世界大戦後のヴェルサ

イユ条約によって,戦後ヨーロッパの国境線

がどのように変化したのかを表した地図であ

る。そこには,ロシアから独立したバルト諸国

が,確かに描かれてある。

 ところが,その後の章で,第二次世界大戦が

終結した後の,冷戦時代のヨーロッパを示し

た地図から,バルト諸国はこつ然と消えてい

るのである。一体なぜなのか。何があったの

か。高校教科書には,そこまで詳しいことは何

も書かれていない。私は,大学に進み,さらに

大学院で学問を志すようになって,初めて歴

史的事実を知った。エストニア,ラトヴィア,

リトアニアの三国は,大戦中にソ連邦によっ

て併合され,その領土の中に組み込まれてい

たのだった。

 この事実は,私にとって驚きだった。「古代

や中世ならともかく,20世紀の半ばにもなっ

て,戦争に敗れた訳でもないのに,ある国々が

突然地図から消えてしまうとは,どういうこ

となのだろうか」と。こうして,私のバルト諸

国研究が始まった。

 現在の教科書には,バルト諸国は独立国家

として掲載されている。冷戦終結後の1991年

夏,当時まだ存在していたソ連邦から,バルト

諸国の独立回復が認められ,国際社会からも

承認されたからである。今の高校生が生まれ

た時にはすでにソ連邦は過去のものだったか

ら,冷戦時代の約50年間,バルト諸国が地図上

に描かれていなかったことも,知らなくて当

然だろう。こうした厳しい歴史を持つバルト

諸国も今では,エストニアの首都タリン,ラト

ヴィアの首都リーガ,そしてリトアニアの首

都ヴィリニュスは,それぞれ旧市街がユネス

コの世界遺産に登録されており,美しい中世

ヨーロッパの街並が観光名所となっている。

日本からの観光客も年々増加している。

※大中真「冷戦終結後のバルト諸国」永松雄彦,萬田悦生編『変容する冷戦後の世界』(春風社,2010年)参照。

エストニアラトヴィアリトアニア

ポーランドドイツ

ロシア連邦

ロシア連邦(飛地)

フィンランド

スウェーデン

チェコスロバキアハンガリー

ベラルーシ

ウクライナ

リーガ

タリン

ヴィリニュス

0 1,000km

↑2011年現在のバルト三国とその位置

授業に役立つ新しい話題2011 ②

エストニアの民族合唱祭

おお   なか   まこと

               桜美林大学准教授   大 中  真

Page 2: エストニアの民族合唱祭...2.エストニアの合唱祭の歴史と現状 さて,本稿の主題は「エストニアの民族合唱 祭」となっている。これは,何だろうか。日本で

2.エストニアの合唱祭の歴史と現状

 さて,本稿の主題は「エストニアの民族合唱

祭」となっている。これは,何だろうか。日本で

も,学校教育のなかで合唱は盛んである。小学

生の頃から音楽の授業で,あるいはクラブ活

動などで合唱コンクールに出場した経験のあ

る生徒も多いと思う。実は,バルト諸国では昔

から合唱が非常に大切に受け継がれてきた。

日本が明治維新を成功させた翌年の1869年

には,エストニアで第一回民族合唱祭が開催

されている。これは,エストニアが国家として

独立を達成する50年も前のことである。エス

トニア人は,声を合わせて歌うことで,民族と

しての自覚と精神を発達させたといえる。こ

れは,ラトヴィア人とリトアニア人について

も同じである。

 最初に,バルト諸国は20世紀の約50年間は

ソ連邦の支配下におかれていた,と述べた。こ

の間も,三国では民族合唱祭が続けられ,歌が

彼らの独立精神を支えたといわれている。冷戦

終結時の1980年代後半,ソ連邦からの離脱と

独立回復を求める民族運動がバルト地域で盛

んになったとき,エストニアの合唱祭は強い政

治的メッセージを持つ大衆行動となった。その

結果,自由と独立を求める民衆の力に圧倒され

たエストニアの共産党政権は,民主化へと大き

く方針転換を行った。流血や暴力を伴わず,「歌

う」という人間にとって最も素朴な感情表現に

平和的に民主化を実現した,この1988年夏の

出来事は,「歌いながらの革命(S i n g i n g

Revolution)」と呼ばれている。

 

↑地図上からみたバルト三国の歴史的変遷(Diercke Weltatlas)

↑客席から見た合唱祭ステージ この時間帯の壇上の合唱団は約2万人以上。

1914年 第一次世界大戦前

0 1,000km

1937年 第一次世界大戦後 1949年 第二次世界大戦後

0 1,000km 0 1,000km

ノルウェー ノルウェー

スウェーデン スウェーデン

ドイツ ドイツドイツ

オーストリア

東ドイツ西ドイツ

アイルランド

フランス

スペインポルトガル

スペインポルトガル

ロシア帝国

イタリア イタリア イタリア

モナコ ルーマニア ルーマニア

ブルガリア ブルガリア

ギリシャ ギリシャオスマン

アルバニア アルバニアバチカン

モナコバチカン

ルクセンブルク

フランス

ルクセンブルク

スイス

ベルギー ベルギーオランダ オランダ

イギリス アイルランドイギリス

ソビエト連邦ソビエト連邦

フィンランド フィンランド

ポーランド ポーランド

エストニアラトヴィアリトアニア

チェコスロバキア チェコスロバキアオーストリアスイス スイス

リヒテンシュタイン リヒテンシュタイン

サンマリノ サンマリノユーゴスラビア ユーゴスラビア

トルコ トルコ

デンマークデンマーク

ハンガリーハンガリー

           こう考えてみると,

          バルトの人々にとっ

          て合唱とは, 単なる

          趣味や楽しみ, ある

          いは伝統を超えた,

          民族の存立と根源に

          かかわる極めて重要

          な行為であることが

          わかる。ちなみに,バ

          ルト諸国の各合唱祭

          も, ユネスコによっ

          て無形文化遺産に登

          録されている。エスト

          ニアの民族合唱祭は,

ノルウェー

スウェーデン

デンマークアイルランドイギリス

フランス

スペインポルトガル

オーストリア =ハンガリー

モナコ ルーマニアセルビアブルガリア

ギリシャ

アルバニアモンテネグロ

ルクセンブルクベルギーオランダ

サンマリノ

Page 3: エストニアの民族合唱祭...2.エストニアの合唱祭の歴史と現状 さて,本稿の主題は「エストニアの民族合唱 祭」となっている。これは,何だろうか。日本で

5年に一度行われているが,最近では

2009年7月に開催された。私はこの時,

長年の夢であった合唱祭に参加するこ

とができた。合唱祭はいわば,国家と民

族をあげての一大行事であり,首都タリ

ンでは街全体がお祭りへの静かな興奮

と,緊張とが入り交じった雰囲気だっ

た。今回の合唱祭は第25回目であった

が,同時に第18回目となる舞踊祭(巨大

スタジアムで,華やかな民族衣装を身に

まとってフォークダンスを行う)と同時

人にとって第二の国歌と呼ばれる「我が祖国

 我が愛」で締めくくられるのが慣例となっ

ている。非常に美しい旋律を持つ,素晴らしい

合唱曲であるが,演奏者と会場の観客が一体

となって,エストニア国旗を手に振りながら

20万人の大合唱が行われる。エストニア共和

国の全人口は約130万人なので,同じ時,同じ

場所に,全国民の6人に1人が集まり,同じ体

験を共有することになる。このようにして彼

らは,自分たちの民族や国家を再確認するの

である。

 最近では日本にも,エストニアの合唱団が

公演に訪れるようになった。また日本のアマ

チュア合唱団で,エストニアの合唱曲を演奏

   する団体も出ているようである。エス

   トニア合唱祭は,もちろん芸術活動そ

   のものとしても極めて特筆すべき行事

   だが,民族とは,国家とは何かという根

   本的な疑問や,音楽を通じた平和的な

   政治変革(あるいは革命)の可能性と

   いった,多くのことを我々に考えさせ

   る。日本でも,もっとバルト諸国の合唱

   祭のことを知ってもらいたいし,また

   それを通じて彼らの歴史や文化,ひい

   ては20世紀現代史全体について興味や

    関心が広まることを,私は期待している。

開催だった。

 合唱祭の規模は,桁外れに大きい。会場は,

タリン郊外の「歌の原」と呼ばれる巨大野外広

場が当てられる。階段状の半円形ドームがそ

びえ,その壇上だけで何と2万人を収容でき

る。ドーム前には青い芝生が広がっており,約

20万人近くが集まることができる。写真(前

ページ)はその時の様子だが,これだけの人数

が野外の開放的な広場に集まり,唱和するこ

と自体が圧巻である。

 参加するのは主に国内の男声,女声,混声,

少年少女の各合唱団,ブラスバンド,管弦楽団

などで,今回の合唱祭には演奏者数だけで2

万4千人以上が登録したそうである。2日間

にわたって合唱祭は続き,最後はエストニア

 

※本稿は,大中真「エストニア歌と踊りの祭典によせて」『桜美林論考 人文研究』第2号(2011 年)に掲載された原稿をもとに,全面的に書き下ろしたものである。なお,本稿掲載写真は 2009 年 7 月著者撮影による。

↑びっしりと埋まった観客席 約17万人がステージを見つめる。

↑ステージ上で,指揮棒を振る指揮者

Page 4: エストニアの民族合唱祭...2.エストニアの合唱祭の歴史と現状 さて,本稿の主題は「エストニアの民族合唱 祭」となっている。これは,何だろうか。日本で

く独立を果たすことになる。

 その後,第二次世界大戦前夜の独ソ不可侵条約付属

秘密議定書によって,バルト諸国は独立を奪われ,ソ

連邦に併合されてしまう。しかし,1980年代末期に

民主化を求める民族運動が高まり,ついに1991年夏

のソ連共産党クーデタ事件の結果,主権国家として独

立を回復した。今やバルト諸国は,三国ともEUとN

ATOに加盟し,完全にヨーロッパの一部であると認

識されている。

 人口はエストニアが約130万,ラトヴィアが約

220万,リトアニアが約330万と,小国であるのは

間違いないが,上述したような歴史的経緯から三国と

も民族意識は高く,また誇り高い国民である。

 本論では,エストニアの合唱祭のみを紹介したが,

ラトヴィアとリトアニアでも,同様に華やかな合唱祭

が実施されている。バルト諸国それぞれの個性豊かな

祭典に,ぜひ注目してほしい。

[個性豊かなバルト三国ーその歴史と横顔] バルト諸国(エストニア,ラトヴィア,リトアニア)

のことを,日本ではよくバルト三国と呼んで,類似し

た小さな国が集まっているかのような印象でとらえ

がちであるが,実際には三国それぞれに独自の言語

(エストニア語,ラトヴィア語,リトアニア語)を持っ

ている。また民族,歴史,文化も三国では異なってい

る点をまず指摘したい。

 各民族を言語的にみると,エストニア語がウラル

語族に属し,フィンランド語に非常に近いのに比べ,

ラトヴィア語とリトアニア語はインド-ヨーロッパ語

族に分類される。

 歴史的には,エストニアとラトヴィアが中世以降

ドイツの影響を受けて,比較的同じ歩みをしてきた

のに対して,リトアニアはポーランドと連合王国を

組んだことから,他の二国とは別の発展を遂げてき

た。近代に入るとバルト地域はそろって帝政ロシア

の領土に組み込まれ,1917年のロシア革命でようや

    エストニア

13C以降  

 デンマーク,ドイツの支配下におかれる

16C   

 スウェーデン,ポーランド,デンマークにより

 分割される

→スウェーデンの全面的な支配下に (1626 年 ) 

1721 年 

 大北方戦争の講和条約 ( ニスタット条約 ) で,

 ロシアに譲渡される

                 

1917 年 

 ロシア革命

1918 年 2月 24日 

 国民会議で独立宣言

→ドイツ軍によるエストニア占領

 ( ブレスト =リトフスク条約;~ 11月 )

1920 年 

 ソヴィエト =ロシアと平和条約締結(独立達成)

1939 年 8月 

 独ソ不可侵条約成立 → ソ連邦の影響下に

1990 年 3月 

 エストニア共和国最高会議が独立宣言

1991 年 9月 

 ソ連邦からの独立回復達成,国連に加盟

2004 年 3月 

 NATO加盟

    5月 

 EU加盟

2011 年 1月 

 ユーロ導入

  リトアニア

14C以降  

 ポーランド王国と同盟を組み (1386 年 ),ドイツ,

 ロシアと対立

→ポーランド・リトアニア共和国 [リトアニア

 の併合 ]が誕生 (1569 年;「ルブリン合同」)

                 

1795 年 

 第三次ポーランド分割で,ポーランド・リトアニ

 アの連合が消滅

→その後,領土の大半はロシアの支配下に。                 

1915 年 

 第一次世界大戦中,ドイツに占領される

1918 年 2月 16日 

 ドイツ軍の占領の下で,リトアニアの独立を宣言

→第一次世界大戦でドイツが敗北し,ロシアの侵入

1920 年 

 ソヴィエト =ロシアと平和条約締結(独立達成)

1939 年 8月 

 独ソ不可侵条約成立 → ソ連邦の影響下に

1990 年 3月 

 リトアニア共和国最高会議が独立を宣言

1991 年 9月 

 ソ連邦からの独立回復達成,国連に加盟

2004 年 3月 

 NATO加盟

    5月 

 EU加盟

  ラトヴィア

13C以降  

 ドイツ,リトアニア,ポーランドに支配される。

17C  

 部分的にスウェーデン領になる(周辺諸国に分割

 的支配を受ける)。

                 

1795 年 

 第三次ポーランド分割以降,ロシアの支配下に。

                 

1917 年 

 第一次世界大戦中,ドイツに占領される

1918 年 11月 18日 

 ラトヴィアの独立を会議が宣言 

→ドイツ軍の撤退

1920 年 

 ソヴィエト =ロシアと平和条約締結(独立達成)                 

1939 年 8月 

 独ソ不可侵条約成立 → ソ連邦の影響下に

1990 年5月 

 ラトヴィア共和国最高会議が独立宣言採択

1991 年 9月 

 ソ連邦からの独立回復達成,国連に加盟

2004 年 3月 

 NATO加盟

    5月 

 EU加盟

1940 年夏 ソ連邦に併合

1941-45 年 独ソ戦,ナチス=ドイツにより占領

1945 年  ソ連軍により再占領,ソヴィエト共和国に。

                 

1985 年  ソ連邦でゴルバチョフ書記長が就任,ペレストロイカの開始

1989 年 12月 米ソ首脳のマルタ会談,冷戦終結宣言