革命初期におけるキューバ外交と冷戦 - keio...

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革命初期におけるキューバ外交と冷戦 理想主義と現実主義 伊藤 拓磨 (田所研究会 3 年) はじめに Ⅰ 革命以前のキューバ 1 キューバ経済とアメリカ 2 革命への気運 Ⅱ キューバ革命 1 キューバ革命と米ソの反応 2 農地改革以降の対米関係 3 ゲバラの外交 Ⅲ 冷戦の深刻化とキューバ 1 対米関係の崩壊と対ソ関係の構築 2 ケネディ政権の対キューバ政策 3 キューバ危機 Ⅳ 自主路線の選択 1 キューバ危機後の対外関係 2 第三世界とキューバ Ⅴ 現実主義への転換 1 対ソ関係の改善 2 1970年代前半のキューバ外交 3 キューバ共産党第一回大会 おわりに

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革命初期におけるキューバ外交と冷戦 ―理想主義と現実主義―

伊藤 拓磨 (田所研究会 3 年)

はじめにⅠ 革命以前のキューバ  1 キューバ経済とアメリカ  2 革命への気運Ⅱ キューバ革命  1 キューバ革命と米ソの反応  2 農地改革以降の対米関係  3 ゲバラの外交Ⅲ 冷戦の深刻化とキューバ  1 対米関係の崩壊と対ソ関係の構築  2 ケネディ政権の対キューバ政策  3 キューバ危機Ⅳ 自主路線の選択  1 キューバ危機後の対外関係  2 第三世界とキューバⅤ 現実主義への転換  1 対ソ関係の改善  2 1970年代前半のキューバ外交  3 キューバ共産党第一回大会おわりに

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� 政治学研究42号(2010)

はじめに

2009年 1月 1日、キューバは革命50周年の節目の日を迎えた。この革命50周年

の記念式典上でラウル・カストロ国家評議会議長は、国民の前で革命の継続を誓

い、社会主義体制がこれからも維持されていくことが確認された。キューバは、

半世紀にわたって社会主義国家であり続けているが、その過程は困難の連続で

あった。

キューバ革命は、1959年 1月 1日にそれまでキューバを支配していたバティス

タが亡命したことにより、フィデル・カストロ(以後、カストロ)率いる革命軍

が政権を握ったことで始まった。だが、革命直後は、明確に社会主義国家の確立

を目指したものではなかった1)。革命当初は、アメリカによる半植民地状態から

脱却し、真の独立を達成することが目標であったのである。それゆえ、革命は反

米的、反帝国主義的なものであった。その後、キューバ革命が次第に社会主義を

目指す革命へと変化していったのは、当時の国際情勢が大きく影響している。

キューバ革命が始まったころ、世界は冷戦真っただ中であった。アメリカを中心

とする西側諸国とソ連を中心とする東側諸国との間には大きな隔たりが存在し、

キューバは否応なく、この冷戦の構造に組み込まれてしまったのである。反帝国

主義的な観点から、ソ連側の社会主義陣営に接近して社会主義国家の確立を目指

すこととなったが、ソ連側の社会主義陣営に加わることは、キューバが理想とし

ていた革命の形ではなかった。その結果、キューバは様々な国際関係上での立場

を模索することとなる。しかし、マイアミからわずか300㎞という地理的要因や、

アメリカの経済封鎖、米ソ関係の変化などを受けて、結局はソ連側の陣営に加わ

ることとなったのである。この選択は、冷戦という構造の下でやむを得ずに選ん

だ選択であり、キューバ革命は理想と現実の乖離に苛まれることとなってしまっ

た。

このような紆余曲折があったにもかかわらず、キューバ革命が50年も続いてい

るということは特筆に値するであろう。革命前のキューバを訪れたことのある三

島由紀夫は、「キューバの革命は絶望的だと思っていた。」2)と語っており、当初

から革命がうまくいくとは考えにくかったのである。アメリカに経済や政治を掌

握され、魅惑的な歓楽地であったキューバで、革命が起こり、それが現在も続い

ていることは奇跡的なことなのかもしれない。

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そこで本稿では、キューバ革命の礎が築かれた初期段階に注目し、革命の理想

と現実との差にどのように対処していったのかについて分析したい。とりわけ、

外交に焦点を当て、反帝国主義や冷戦という構造が、キューバ革命初期の外交面

に与えた影響を重視したい。ここで、革命初期とは、革命の始まった1959年から

第一回共産党大会が行われた1975年までとする。つまり、革命の暫定政権が政治

を担っていた時期である。キューバでは革命後しばらく議会がなく、閣僚が政策

決定をしており、特に、カストロは内閣や大統領に対して多大な影響力を有して

いた3)。従って、カストロを中心とするキューバの外交政策を軸として考察する

のが適していると考えられる。

本稿の具体的な構成は以下の通りである。まず、第Ⅰ章で革命以前のキューバ

について考察する。20世紀の初頭の米西戦争でアメリカがキューバにおける覇権

を獲得して以来、どのような政策を行ってきたのかについて述べる。次に、第Ⅱ

章では、1959年のキューバ革命から 1年間ほどのキューバの政策を考察する。反

帝国主義、反米主義が政策に反映され、アメリカとキューバの関係が悪化してい

くのがこの時期である。第Ⅲ章では、1960年 2月のソ連のミコヤン副首相の来訪

から1962年10月のキューバ危機までを分析する。この期間では、アメリカとの関

係がさらに悪化した結果、ソ連とキューバが急接近を果たす。第Ⅳ章では、

キューバ危機以降、1968年までのキューバの状況や対外政策を見る。キューバ危

機以降、ソ連との関係が悪化したため、第三世界での勢力拡大を図るのがこの時

期である。最後に、第Ⅴ章では、ソ連のチェコスロヴァキア進軍から1975年の第

一回共産党大会までを分析する。ソ連の軍事介入を支持したキューバが、再びソ

連に対して接近していく。そして、第一回共産党大会ではソ連型の政治機構が導

入され、ソ連との関係は強固なものとなった期間である4)。

以上のように、期間を五つに区切ることで、キューバ外交の変遷について詳細

な分析ができると考えている。この研究を通して、キューバ革命、キューバ外交、

冷戦という大きな三つの枠組みの関連を捉えることを目標としたい。

Ⅰ 革命以前のキューバ

1 キューバ経済とアメリカ

スペインの植民地であった1880~90年ごろ、アメリカによってキューバに最初

の帝国主義型投資が行われた。その後、商業関係が樹立され、キューバはアメリ

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カ最初の国外大市場となった。米西戦争でアメリカが勝利を収めてキューバを事

実上の支配下に置いたことで、資本の進出が進み、アメリカの経済グループは拡

大した5)。この動きは、キューバの経済を変容させるに至った。1901年からの20

年間で、砂糖生産が150万トンから500万トンへ増加したのである6)。アメリカの

企業である、キューバ・アメリカ製糖会社、キューバ大西洋製糖会社、ユナイテッ

ド・フルーツ社などは、広大なサトウキビ作付け地を手にしており、砂糖生産の

半分以上をアメリカの企業が占めるようになった7)。

1930年代に世界恐慌の影響を受けて砂糖の生産は制限されたものの、第二次世

界大戦期には再び砂糖の需要が高まり、輸出の 8割を砂糖が占める8)、モノカル

チャー経済が形成された。このころのキューバ経済を見てみると、電気や電話関

係事業の90%以上、鉄道の50%、粗糖生産の40%、そしてほとんどの牧場と観光

施設はアメリカの資本であった9)。貿易面でも、キューバの全輸出の 7割近くが

アメリカ向けであり、キューバ経済は完全にアメリカの従属的地位にあったとい

える10)。

2 革命への気運

アメリカの支配下にあったキューバ社会は、政治家や大地主などを除いて、不

平等で環境も劣悪であった。砂糖の生産に携わるほとんどの労働者は、12月から

4月までの収穫期以外には仕事がなくなり、事実上の失業者となる。賃金も低く、

国民の大半は貧しい生活を強いられていた。衛生状況もすこぶる悪く、寄生虫や

マラリア、結核などの感染者は跡を絶たなかった11)。

政治の世界でも、汚職や賄賂、政治的暴力が横行しており、民衆の意向ではな

くアメリカの意向を汲む政権が成立していた。例えば、1933年にマチャド独裁政

権が民衆の反乱により崩壊したとき、後を受けたグラウ大統領は改革を実行しよ

うとした。だが、この改革は、特権階級やアメリカの資本家にとって利益に反す

るものであったので、アメリカの支援を背景にバティスタ軍曹がグラウを倒し、

政権を奪取したのである12)。バティスタは、アメリカと強い結びつきを有してお

り、電話料金を上げて、アメリカ資本の電話会社に利益をもたらすなどの政策を

行った13)。

20世紀前半を通じて、アメリカに対峙できる政権はキューバには成り立たな

かった。国内的には、不平等で政治腐敗、対外的には、前節で述べたように、経

済面でのアメリカ従属というキューバでは、反帝国主義、反米主義が根強いもの

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となり、革命への気運が生み出される温床となっていったのである14)。

Ⅱ キューバ革命

1 キューバ革命と米ソの反応

2年にも及ぶゲリラ戦の末、1959年 1月 1日にバティスタは亡命し、カストロ

らの反政府軍が政権を握ったことで、キューバ革命が起こった。アメリカは、

キューバ革命からわずか 6日後の 1月 7日にキューバの新政権を承認している。

これは、ベネズエラに次ぐ二番目の早さである。アメリカは、かつてバティスタ

との関係を維持していたが、キューバ国内に反バティスタの世論が高まり、革命

軍の勢力拡大が顕著になってきた1958年には方針を転換する。議会やメディアも

不人気な独裁者と政府の緊密な関係を批判したのである15)。そして、汚職や暴力

がはびこるキューバの社会を変えられるのであれば、新政権を歓迎するというス

タンスをとるようになる。当時、中南米担当の国務次官補だったリチャード・ル

ボットムは、「アメリカは、キューバに変化を生み出そうとするカストロの努力

に同情的であったと思います。」16)と語っている。よって、アメリカはカストロ

が共産主義者であるかどうか疑っていたわけではなく、むしろ、好意的な印象さ

えも持っていたことがわかる。

この時期において、アメリカの一番の関心事はソ連であった。1950年代半ばに

は「雪解け」と言われるように、米ソ関係は安定した。1957年にソ連が大陸間弾

道ミサイル(ICBM)の発射と人工衛星スプートニクの打ち上げに成功すると、

アメリカ国内では対ソ軍事脅威論が高揚したが、アイゼンハワー大統領は抑制的

な対ソ政策を進めようと画策した17)。その結果、東西の交流が始まる。1958年 1

月には文化交流協定が締結され、1959年の夏にはそれぞれ国家博覧会を開催する

ことが決まった18)。

革命から 3日後の 1月 4日に、カストロはアメリカ人記者のインタビューに答

え、アメリカ次第で友好を保つと発言している。そして、同じ 1月 4日にソ連の

ミコヤン副首相が、アメリカを訪問している。アメリカでは、ミコヤンをこれま

でにない最大の要人として迎え入れ、「平和への基本は話し合いである」という

ソ連のフルシチョフ首相の持論が重視されたため、米ソ和平への期待が大きく

なっていた19)。従って、革命直後は、アメリカはソ連との対話の機会を最重要視

する姿勢から、キューバに大きな関心を寄せることはなかったのである。

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しかし、ミコヤンの訪米が終わると、アメリカはキューバ革命の行方に注目す

ることになる。カストロによるバティスタ派の処刑について国際的な非難が起

こったからである。アメリカは、反米感情を刺激するとの理由で、キューバに対

して公式な非難はしなかったし、キューバとの良好な関係を構築することを望ん

でいた20)。一方で、カストロは共産主義者ではないかという疑念も多く存在した。

CIAのダレス長官は、国家安全保障会議でカストロの暗殺計画を提案している21)。

その後、 4月にカストロが米国新聞社編集者協会の招待を受けて訪米を果たした

とき、カストロと対談した、CIA専門家ベンダー博士とニクソン副大統領はそれ

ぞれ、カストロが共産主義者であることを否定している。カストロ自身も、自分

は共産主義者ではないという演説を行った22)。アメリカはカストロが共産主義者

であるのかどうかを判断することができなかったのである。

ソ連も、キューバへの積極的な関与はしていない。アメリカに近いキューバへ

干渉することは、アメリカを大いに刺激してしまうおそれがあり、そのような危

険な行動に出る必要性はなかったのではないだろうか。ソ連も、アメリカとの対

話を重視しており、1959年の 9月には、ソ連の最高首脳としては初めての訪米が

計画されていた。ソ連としても、この機会を失うわけにはいかなかったのだろう。

他方、ソ連もアメリカと同じようにキューバ革命の判断に迷ったという可能性も

考えられる。キューバには、革命前からソ連と連絡を取っていた共産党(人民社

会主義党)が存在していた。カストロはかねてから、共産党とは一線を画してい

たため、革命成功後もソ連にとっては古くからの共産党と新鋭のカストロのグ

ループのどちらにつくかで、判断に迷っていたとも考えられる23)。

2 農地改革以降の対米関係

アメリカから帰国した直後の 5月に、カストロは農地改革法を公布した。これ

は、カストロが革命前から最も重視していたものである。キューバの発展の妨げ

になっているのは、砂糖によるモノカルチャー経済であり、それの基盤となって

いたのが大土地所有制であった。よって、この大土地所有制を廃止するべく改革

を行うことで、モノカルチャー経済からの脱却を図ったのである。カストロは、

農地改革を国民の貧困からの解放の鍵と位置付けていた24)。この農地改革法の骨

子は、規定を超える面積の土地を保有している者から、超過分を接収して、土地

を持たない農民に分け与えるというものであった。しかし、当時のキューバにお

いて、農地の75%はユナイテッド・フルーツ社などのアメリカの企業が有してい

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た25)。そのため、農地改革の実施には、アメリカからの強い反発が予想されたの

である。

そして、当然のように、キューバの動きにアメリカは非難をし、警戒を強めて

いた。アメリカ大使館は、農地改革によって不利益を被った市民を代弁する内容

をキューバ側に伝えたりしたが26)、キューバの経済政策に変化は見られなかった。

7月に穏健派で反共のウルティア大統領が辞任し、革命急進派のドルティコスが

大統領に就任すると、さらにアメリカのキューバに対する不信は強まっていった。

10月には、亡命キューバ人の飛行機爆破事件を巡って、ハバナが空襲された。こ

れ以後、カストロはアメリカによる攻撃からキューバを守るため、防衛体制の強

化と急進的な国内の改革を推進させることになる27)。アメリカは、キューバへの

経済制裁を科す準備を進め、砂糖の輸入割当廃止などを画策した。キューバ経済

は、砂糖のモノカルチャー経済であり、アメリカに輸出の大部分を依存していた

ため、このようなアメリカの対応は経済破綻を招く危険性があった28)。

3 ゲバラの外交

キューバ革命の立役者であるエルネスト・チェ・ゲバラは、革命後キューバ国

籍を与えられ、公務を行うこととなった。入閣はせず、軍の一司令官というポス

トであったが29)、 6月に移動大使に任命されると、 9月までの 3カ月もの間、海

外を歴訪することとなったのである30)。訪れた国は、エジプト、インド、日本、

インドネシア、ユーゴスラヴィアなどであり、主な目的は経済関係の構築であっ

た。

ゲバラはエジプトで、ナセル大統領と会談した。当時、反共の闘士と呼ばれた

ナセルであったが、ソ連とも友好関係にあり、国際的にはその動向が注目されて

いた31)。ゲバラはこの会談で、エジプトの農地改革について批判的な結論を下し

ている。インドでは非公式ではあるが、ネルー首相と会談したものの、武器購入

の話を受け入れてもらえなかった。日本では、トヨタやソニーの視察、そして通

産大臣の池田勇人と対談した。ゲバラは、第二次世界大戦の敗戦から復興しつつ

ある日本を、同じ島国であるキューバの将来像のよい見本として捉えていたよう

である。インドネシアでは、スカルノ大統領と会い、お互いの軍事に関する見解

を比較した。ユーゴスラヴィアでは、チトー大統領に迎えられた。チトーは、北

大西洋条約機構にもワルシャワ条約機構にも加盟しない、非同盟諸国のリーダー

的存在であり、ゲバラはチトーとの面会を望んでいたのである。だが、インドと

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同様に武器購入の話はまとまらなかった32)。

このゲバラの歴訪は、キューバ外交の方向性を決める要因の一つになったと考

えられる。ゲバラの訪れた、エジプト、インド、インドネシア、ユーゴスラビア

は第三世界の代表的な国家であることから、キューバが冷戦下での東西勢力には

属さないことを目指していたのではないかと推測できる。また、ゲバラにとって、

ユーゴスラヴィアは、ソ連とは異なる社会主義体制をとっていて興味深い国家で

あった。そして、ユーゴスラヴィアで行われていた自発労働は、キューバでの政

策に生かされることとなる33)。その点から、ゲバラはキューバを、社会主義国家

ではあるがソ連と対峙できる、ユーゴスラヴィアのような国家にすることを目標

としたのではないかと考えられる。

Ⅲ 冷戦の深刻化とキューバ

1 対米関係の崩壊と対ソ関係の構築

農地改革の実施や急進派の台頭などによって、キューバとアメリカの関係は悪

化した。アメリカはキューバへの警戒を強め、同盟国や友好国に対してキューバ

への武器供給をやめるように圧力をかけた34)。キューバは、武器の購入相手を第

三世界に求めたが、インドやユーゴスラヴィアに断られたため、新たな供給相手

国を探すことが急務であった。

冷戦という構図の中では、第三世界を除いて、アメリカの影響を受けていない

勢力はソ連を中心とする東側陣営であったことから、キューバがソ連との接近を

図ったのは、やむを得なかったのだろう。1959年10月、カストロはタス通信特派

員のアレクサンドル・アレクセイエフと対談した。当時、キューバとソ連との間

には国交がなかったため、アレクセイエフはキューバにおける唯一の交渉相手

だった35)。その後、カストロとアレクセイエフは何度か会談を重ね、1960年初頭

のミコヤン副首相のキューバ訪問を取り付ける。これが、キューバとソ連の関係

を緊密なものにする第一歩であった。よって、革命の続行のためには、対米関係

の改善はもはや不可能であると判断したのではないだろうか。ソ連への接近は、

アメリカをさらに刺激するが、国内の改革を進めるうえでは、ソ連との関係構築

以外に道はなかったのである。1960年 2月、ミコヤンはキューバを訪問し、ソ連・

キューバ貿易援助協定の締結、武器供給への同意などが行われた。キューバに

とって、これらの取り決めは非常に満足のいくものであった。アメリカの輸入割

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当廃止によって買い手がつかなくなった砂糖を、ソ連が買ってくれるという内容

であったからである36)。

一方で、対米関係は緊張状態に陥った。ミコヤンのキューバ訪問の翌月、一隻

のフランス船がハバナ港で爆発した。これに対してカストロは、確かな証拠はな

かったにもかかわらず、アメリカを非難する演説を行った。アイゼンハワー大統

領は、カストロの非難を受けて、対キューバ強硬策に踏み切り、CIAにカストロ

政権を打倒するための侵攻計画を承認した37)。

東西の文化交流やソ連首脳の相次ぐアメリカ訪問で、比較的平穏であった米ソ

関係も、 5月におこったU 2機撃墜事件によって、冷却化することとなる。アイ

ゼンハワーが偵察行為を正当化したことで、フルシチョフは激怒し、予定されて

いたパリ四大国首脳会議やアイゼンハワーのモスクワ訪問が取りやめとなったの

である38)。反米的な感情が高まったソ連は、キューバとの関係をより緊密なもの

にしていった。U 2機撃墜事件の直後、ソ連はキューバとの国交を回復したので

ある。これによって、アメリカとソ連・キューバという対立関係が浮き彫りとな

り、キューバ問題は完全に冷戦という構図の中に組み込まれてしまった。 6月に

は、キューバに輸出されたソ連の石油を、アメリカ資本の石油会社が精製を拒否

するという事件が起こり、キューバはこの事態に対処すべく、石油精製所の接収

を始めた。これに対してアメリカは、キューバ産砂糖の輸入95%削減を通告した

ため、キューバは報復としてアメリカ系企業の国有化に踏み切った39)。

ソ連とキューバの関係がより強固なものとなったのは、 9月にニューヨークで

行われた国連総会においてだった。フルシチョフとカストロが会談をし、カスト

ロが軍事援助を求めた。ここで注目すべきは、この会談はフルシチョフが切望し

ていたものであったという点である。ソ連側の真意はいかなるものであったのだ

ろうか。元国連ソ連代表部政務部長のシェフチェンコは次のように語っている。

「ソ連の指導部、とりわけ軍部は、キューバ革命はソ連がそこに基地を作ること

ができる絶好の機会かもしれない、と考えていたのです。」40)この発言から、

キューバ危機の発端はこの会談にあったのではないかと考えられる。フルシチョ

フは、カストロがマルクス主義者であると判断し、キューバは社会主義国家建設

に向かうと確信している。これ以降、ソ連のキューバ援助に拍車がかかるのもこ

の会談が影響している。そして、カストロはこの会談後、ソ連を中心とする東側

の共産主義国との関係拡大を図る。中国、チェコスロヴァキア、ブルガリア、ルー

マニア、ユーゴスラヴィア、ヴェトナム、アルバニアといった国と外交関係を築

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き、主に軍事援助に関する話し合いがもたれた41)。

東側諸国の連携を強めるのと同時に、キューバ国内では改革が推進された。外

資の国有化が進み、10月には企業の国営化が実施された。この国営化は全面的な

ものであったため、企業の大小や産業などによる区別はされず、石油精製所、製

糖工場、電力会社、銀行、商社などのアメリカ系企業や大企業が国営化された42)。

この産業の全面国営化はキューバの経済構造を根本から変化させるための最終段

階であり、アメリカ従属の経済との決別を意味した43)。当然のごとく、農地改革

から募っていたアメリカの不満は増大し、最高潮に達することとなった。アメリ

カは、一部の食料品と薬品を除いてキューバへの輸出を停止する、部分的封鎖の

措置を施した。そして、翌年1961年には、カストロがアメリカ大使館の規模縮小

を要請したことに対して、アメリカ側は全職員を引き上げるという行動に出たた

め、アメリカとキューバの外交関係は完全に断絶した44)。

ソ連・キューバ貿易援助協定の締結からアメリカとの国交断絶までの 1年間で、

キューバの政策が社会主義国家の建設に向かっていることは、明白な事実であっ

た。これは、キューバがアメリカから国を守るためにソ連との関係構築を望み、

一方で、ソ連も米ソ関係の悪化からキューバとの協力関係を望んだという、

キューバとソ連の両者の思惑が一致した結果である。

2 ケネディ政権の対キューバ政策

( 1) ピッグス湾事件

1961年 1月にアメリカでケネディ政権が誕生した。ケネディは選挙を戦うにあ

たって、キューバに共産主義勢力が及ぶのを防げなかったアイゼンハワー政権を

痛烈に批判し、自身の反共、反カストロ政策を打ち出していた。しかし、アイゼ

ンハワーが承認した、カストロ政権転覆計画を引き継いだものの、実行にはため

らいがあったようである。この計画では、アメリカの軍人は一切関与しない方針

がとられていたため、どこまで亡命キューバ人を助力するかという問題が懸案の

事項になっていたのである。結局、ケネディは CIAの説明を受け45)、侵攻計画

を実行に移す決定をした。ここで、ケネディが侵攻計画の実行を決断したのは、

CIAによる説明に納得したからではなく、もはや計画を中止にすることができな

かったからであると考えられる。第二次世界大戦の最高司令官であり、軍事的な

権威を有していたアイゼンハワーが計画し、準備に 1年間も費やされていたとい

う現状では、この計画を中止にすることで生じる不利益は大きいと判断したので

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はと思われる46)。

カストロは、このようなアメリカによる侵攻がいずれ行われることを察知して

いたため、キューバの国防力強化に努めていた。 4月に、アメリカ空軍によって

軍用飛行場が爆撃されると、カストロは緊急の集会を開いてアメリカを非難する

とともに、キューバ革命を社会主義革命であると初めて公言した47)。この社会主

義宣言は、アメリカとの関係修復が不可能と判断し、帝国主義からの真の独立を

果たすには、社会主義を目指す以外に道はないというメッセージを、国民に向け

て発したかったのだと考えられる。そして、これから攻めてくると予想されるア

メリカに対して、国民の士気を鼓舞させるのには大いに役に立ったのである。こ

の宣言の 2日後、亡命キューバ人部隊はピッグス湾に上陸し、急行したキューバ

軍との間で戦闘が始まった。戦闘は 3日間にわたって続いたが、兵力で勝る

キューバ軍が勝利を収めた。このキューバの勝利は、キューバ国民の団結力を強

める結果となり、一方で、アメリカは大きな打撃を被ったのである。

このアメリカの侵攻計画の失敗は米ソ関係にも影響を与えることとなった。ソ

連は、アメリカが自国の軍隊を投入しなかった点についての理解に苦しみ、これ

をケネディの弱さであると結論付けた48)。 6月にウィーンで行われた米ソ首脳会

談では、ベルリン問題でフルシチョフはケネディに対して強気の姿勢を崩さな

かった。ケネディが譲歩しないのを見て防衛費増額を提示すると、アメリカも軍

事予算の増額を議会に要求するという形で応えた。米ソは再び緊張関係に陥った

のである49)。

( 2) 米州機構とキューバ

1959年にキューバ革命が起こり、カストロ政権が次第に共産主義陣営との関係

を深めていくと、アメリカは米州機構を利用してキューバを非難した。米州機構

は本来、米州における紛争を解決するための機関として設立されたが、徐々にア

メリカによる反共同盟として利用されるのである50)。キューバでは、アメリカに

よるラテンアメリカへの干渉に抗議するハバナ宣言がなされ、米州機構を通じて

操られているラテンアメリカ諸国に警鐘を鳴らしたが、ラテンアメリカ諸国の首

脳はアメリカとの強いつながりの下で恩恵を得ていたため、積極的にキューバに

追随する動きは見られなかった。

ピッグス湾事件が失敗に終わったケネディ政権は、米州機構を利用してキュー

バ革命の拡散を防ぐための本格的な施策を講じることになった。そして、ケネ

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ディが提示したのが、「進歩のための同盟」であった。

「進歩のための同盟」とは、主にラテンアメリカ諸国の社会経済開発の支援を

行うものであり、いわばラテンアメリカ版のマーシャルプランであった。これに

よって、共産主義国家の出現を防ぐとともに、キューバの孤立を図ったのである。

1961年 8月に、ウルグアイのプンタ・デル・エステで開催された米州機構の会議

において、この「進歩のための同盟」は採択された。キューバからはゲバラが代

表として会議に参加し、「進歩のための同盟」を非難した。ゲバラは会議終了後

のテレビ記者会見で次のように話している。

この会議はケネディが提唱した「進歩のための同盟」を成立させ、そして当

然、ラテン・アメリカ諸国とウォール街の金融組織をより強い鎖でつなぎつ

けることによりキューバを孤立させ、その上可能であればキューバに対する

新たな武力攻撃を組織しようと試みるものでした51)。

プンタ・デル・エステ会議が行われたのは、ピッグス湾事件の 4カ月後で

キューバとアメリカとの関係は最悪であった。よって、キューバ側が「進歩のた

めの同盟」を相当な不信感をもって捉えていたことは明らかである。そして、ブ

ラジル、ボリビア、エクアドルといった国も同様に懐疑的であった。このことは、

米州機構に加盟している国家すべてが、反キューバという姿勢であったわけでは

ないことを意味している。結果的に、「進歩のための同盟」は採択されたものの、

ラテンアメリカ諸国による、キューバの封じ込めに対する認識は様々であったの

である。しかし、「進歩のための同盟」へのキューバの不参加は、米州機構と

キューバの関係を極度に悪化させる原因となり、1962年 2月の第八回米州外相会

議において、米州機構からのキューバの除名が決定した52)。

米州機構からのキューバ除名は、アメリカにとってラテンアメリカでのキュー

バの孤立化に成功したといえる。しかし、ラテンアメリカ諸国は、米州機構が反

共の同盟と化すことを積極的に望んだわけではないという点は重要である。つま

り、ラテンアメリカ諸国はアメリカの政策方針に逆らうことができなかったので

ある。従って、ラテンアメリカ諸国はアメリカの冷戦戦略を支持する代わりに、

経済援助を受け取るという選択をしたのである53)。

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3 キューバ危機

1962年10月に起こったキューバ危機は、核戦争の勃発に最も近づいたといわれ、

全世界を震撼させる出来事であった。キューバ危機に関しての分析は、アメリカ

からの視点で行われることが多い54)。例えば、アメリカがどのようにして危機に

対処していったのかという過程や、ソ連はなぜミサイル基地をキューバに建設し

たのかという推測である。本稿では、キューバと冷戦の関係性を探るべく、あま

り扱われないソ連やキューバから見たキューバ危機についての分析を試みたい。

そもそもキューバにミサイルが配備されたのはなぜなのか。これは、キューバ

とソ連の思惑が一致したからである。ピッグス湾事件以降、カストロは今度こそ

アメリカ軍がキューバに侵攻してくるだろうと考えていた。ソ連も同様に、近い

うちにアメリカはキューバに関して何らかの軍事侵攻を再び行うであろうと認識

していた。実際に、ケネディはマングース作戦と名付けられた軍事作戦計画を承

認している。このマングース作戦は、1962年10月を目標に、キューバ国内で政治

結社を組織してテロ行為を起こし、政府の転覆を図るというものであり、アメリ

カ軍の使用も検討されていた55)。キューバ、ソ連の両国は共に、マングース作戦

に関する情報を何らかの形で得ていたのだろう。キューバでは、これに対する喫

緊の対策が必要不可欠となっていた。

ここで注目すべき点は、キューバへのミサイル配備を発案したのはフルシチョ

フであるということである。カストロがアメリカに対峙するために、ソ連にミサ

イルの配備を求めたという見方は信憑性に乏しい。フルシチョフは1962年 5月中

旬のブルガリア訪問中に、キューバにミサイルを配備する戦略を考え出していた。

その戦略とは、秘密裡にキューバに核弾頭を付けたミサイルを据えつけることに

よって、アメリカは核戦争の勃発を恐れ、キューバに対して軍事的な手段をとる

ことができないというものであった。つまり、核抑止の観点から、キューバの防

衛を図ろうというものだった56)。そして、この戦略はフルシチョフが抱いていた

もう一つの懸念も払拭できるものだったのである。それは、キューバにミサイル

を置くことで、それまで広がっていた核の不均衡を一挙に挽回することが可能

だったからである。当時のアメリカは、西ドイツをはじめ、イタリアやトルコな

どにミサイルを配備しており、ソ連はアメリカの軍事基地に包囲されている状態

であった。一方のソ連は、核ミサイルの総数は勝っていたものの、自国以外には

核兵器を配備しておらず、総合的な核戦力は劣っていた。よって、このような情

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勢の下で、アメリカに対して形勢を優位にするためには、キューバにミサイルを

配備するという案は一挙両得であったといえる。

この計画を実行するには、キューバがこの計画に同意する必要があった。フル

シチョフは以前からカストロと親交のあったタス通信のアレクセイエフをキュー

バ大使に任命し、キューバにミサイルを配備するとしたらカストロはどのような

反応を示すかについて尋ねた。アレクセイエフは、カストロは同意しないだろう

という見解を述べたが、フルシチョフはカストロを説得させるよう指示した57)。

このやりとりから、この時点でフルシチョフはカストロの意向は関係なく、すで

にこの計画の実行を決めていたことがわかる。フルシチョフが計画を考え出して

からわずか 2週間後の 5月末には最高幹部会のビリューゾフ元帥などがキューバ

を訪問し、ミサイル設置の提案をしていることからも、フルシチョフの決意は固

いものであったことがうかがえる。カストロはゲバラやラウル・カストロらの同

志と話し合った結果、アレクセイエフの予想とは反してこの提案を受け入れた58)。

かくして、キューバにミサイルが搬入されることになったのである。

アメリカは 7月から 8月にかけてキューバに来航するソ連船の数が増えている

ことから、ソ連がキューバにミサイルを配備しようとしているのではないかとい

う疑念を抱いていた。真偽を確かめるためにU 2機による偵察が始まり、その結

果、24カ所ものミサイル基地が発見されたのである59)。10月16日の朝にこの情報

がケネディに伝えられ、アメリカ国内はもとより世界がこの事実を深刻に受け止

め、固唾をのんだ。対応次第では核戦争の勃発も危惧されたからである。

しかし、ソ連は核戦争の危険が高かったとは考えていなかった60)。キューバに

配備したミサイルはあくまで防衛用のものであり、攻撃用のものではなかったか

らである。また、ソ連からすればトルコにミサイルが存在する状況は、アメリカ

にとってキューバにミサイルが存在する状況と同じであり、特別視するべき状況

ではないというのが本意であったと考えられる。このソ連側の立場は、国際緊張

が高まる中で訪米中だったソ連外相グロムイコが、ラスク国務長官との話し合い

の中で述べた次の一節に表れている。

あなたはもちろん、トルコや日本における米軍基地と数多くの軍事顧問の存

在を否定なさるつもりはないでしょう。ましてや、イギリスやイタリア、そ

の他の西ヨーロッパ諸国およびアジアとアフリカの国々についても。このよ

うに、アメリカはこうした国々に軍事基地を有し、軍事協定を結べるという

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のに、ソ連には、キューバの経済発展と防衛力強化の支援をする権利がある、

とはあなた方は考えない。キューバの場合はまさに防衛力なのに61)。

一方で、カストロは10月にアメリカ軍が直接侵攻をしてくるだろうと思ってい

た。実際のところ、10月に照準を合わせて進められていたマングース作戦は、

キューバ国内で反乱が起こせる状態でなかったために、事実上の凍結状態であっ

た62)。だが、カストロはアメリカがミサイルを発見してから一層、アメリカの軍

事進攻に対する警戒心を高めていた。10月22日にケネディがテレビを通じて行っ

たキューバ情勢に関する演説の中で、キューバ国民に対して、「いまや諸君の指

導者たちは、もはやキューバの理想に燃える指導者ではない。」63)とカストロを

批判すると、カストロはより好戦的になり、アメリカに対する非難や武器保有の

正当性を訴える演説を行った。このカストロの態度はソ連との間で軋轢が生じる

原因となった。その後、アメリカが数時間以内にキューバを攻撃するという情報

を得たとき、カストロはアメリカへの先制攻撃を主張した。カストロがソ連の目

的を全く理解していないことが明らかとなったのである64)。

キューバにミサイルを配備した理由がキューバの防衛であり、キューバに対す

る攻撃を抑止するためであったことからもわかるように、ソ連は戦争を全く望ん

でおらず、アメリカがキューバの全面的封鎖を実行すると、フルシチョフは緊張

関係を高めることはせずに、緩和させる方法をとった。キューバは蚊帳の外に置

かれ、米ソで平和的解決に向けて動き出した。しかし、依然として好戦的なカス

トロがキューバ上空で偵察中だったU 2型機を撃墜すると、米ソ間の緊張状態が

再び高まったのである。この出来事の次の日に、アメリカとソ連との間の取引が

成立して全面核戦争を回避する結果に導いたことは、ソ連側が絶対に戦争を起こ

したくなかったことの表れである。フルシチョフにとって、この取引は十分に満

足のいくものであったと考えられる。キューバからのミサイル撤去と引き換えに、

アメリカがキューバに侵攻しないという約束とトルコのジュピター・ミサイル撤

去という成果を得たため、これによってソ連がキューバにミサイルを配備する理

由がなくなったのである。

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Ⅳ 自主路線の選択

1 キューバ危機後の対外関係

フルシチョフがミサイル撤去というアメリカ側の要求に応じたことは、カスト

ロを怒らせた。キューバはミサイルの撤去には反対であり、仮に撤去するとして

も、侵攻の停止、グアンタナモ基地からの撤退、経済封鎖の中止などをアメリカ

に対して要求するという立場をとっていた65)。よって、フルシチョフがキューバ

との一切の協議なしでアメリカと同意したことはカストロにとって許し難いこと

だったのである。アメリカはキューバ側の条件の一つである、キューバへの侵攻

の停止を約束したが、キューバにはそれを信じる者は少なかった。キューバ危機

以前と同じように、アメリカ海軍がキューバ沿岸で演習を繰り返していたからで

ある66)。キューバはこれ以降、不信感からソ連との距離を置き始め、新たな外交

方針の選択を迫られることとなった。

しかし、当時のキューバを経済の観点から見てみると、ソ連から完全に離反す

ることは事実上不可能であった。キューバ革命以降、砂糖モノカルチャーから脱

却するため、工業化と農業の多角化が目標に掲げられていたが、アメリカによる

経済封鎖やハリケーンによる砂糖生産量の減少などの結果、経済は著しく落ち込

んでいたのである。このような状況下では、アメリカに代わって、年間100万ト

ンもの砂糖を買い付けてくれたソ連との通商関係はキューバにとっては命綱で

あった。1961年においては総貿易量の75%を対ソ貿易が占めており、もはやソ連

の援助なしでは国家としての存続が危うかったのである67)。

一方で、ソ連にとってもキューバは重要であった。対米戦略上このうえない場

所に位置するキューバを放置することは、東側陣営の不信感を高める危険性が

あったため、何としてでもキューバを引きつけておく必要があったのである。そ

の結果、キューバ危機の翌年、1963年 4月カストロがソ連を訪れた際に、これま

で以上の軍事的援助、経済的援助をキューバに約束した68)。だが、キューバとソ

連の間には依然として緊張状態が存在し、改善されることはなかった。

他方、米ソ緊張の頂点であったキューバ危機は、米ソ関係には大きな転換をも

たらした。核戦争を回避したことによって、両国は関係改善への道を模索し始め

たのである。そして、1963年 6月にはホットライン開設の協定が、 8月には米ソ

初めての軍備管理条約である、部分的核実験禁止条約が調印された69)。このよう

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な米ソの接近が起こった要因の一つとして、中国を挙げることができる。内戦で

勝利を収めた共産党による建国以来、アメリカの外交関係は台湾の国民党政府と

築かれていた。そして、中国成立後まもなく起こった朝鮮戦争にアメリカが介入

したことで、中国とアメリカとの関係はもはや修復不可能な状態であった70)。一

方で、中国とソ連の関係は同じ共産圏であるにもかかわらず、極度に悪化してい

た。1950年代半ば以降、毛沢東によるソ連批判が顕著になってくると、ソ連は技

術提供の拒否や経済援助の中止などの策を講じた。1960年代前半において中ソ対

立が顕在化してくると、公開論争にまで発展していった。中国はキューバ危機に

おけるソ連の対応を次のように批判している。

われわれは、核兵器をもてあそんで国際紛争解決の手段にしようとするのが、

マルクス・レーニン主義的態度だとは一度も思ったことがない。しかしわれ

われは、他国の主権を犠牲にする方法で帝国主義との妥協をえようとするこ

とに、過去、現在、将来とも断固として反対する71)。

このように、米ソ両国は共に、中国を抑え込むという点では利害が一致してい

たことは明らかであり、このことがキューバ危機後に、米ソの接近を促進させた

大きな要因になったと考えられる。

この冷戦下での米ソの接近と中ソ対立はキューバの外交に変化をもたらした。

ソ連との長期貿易契約による砂糖輸出市場の確保および資金協力が保障されてい

たため、キューバは外交面において様々な取り組みが行えたのである72)。そこで

キューバが選んだのが中国との関係構築であった。中国がキューバ危機における

ソ連の対応を批判したことが、キューバと中国を接近させる原因になったのであ

る。また、ソ連とは異なり、中国はキューバと同様にゲリラ戦から社会主義国家

を建設させた歴史があることで親近感があったことも影響したのではないだろう

か。しかし、中国とキューバの関係は強固なものとはならなかった。キューバ側

が期待していたほどの経済的利益が得られなかったからである。1960年代半ばの

中国は、挫折した大躍進運動からの撤退の時期と位置付けられ、経済の立て直し

が図られてはいたが、1966年に文化大革命が発動された影響で、再び経済的なダ

メージを被っていた73)。また、キューバの主要な輸出品である砂糖は、中国国内

で需要が賄えるほどの生産があったのである74)。従って、キューバにとってはソ

連と比べるとはるかに少ない経済的効果しか得られなかったのである。

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ソ連、中国という共産圏の大国との関係が良好ではなかったキューバであった

が、アメリカとの関係は比較的安定していた。依然として国交は断絶されたまま

であり、経済封鎖も解かれていなかったが、アメリカがキューバを再び侵攻する

ような行動をとることはなかったのである。そして、驚くべきことではあるがケ

ネディはキューバとの国交正常化を模索していたのである。ケネディは国連大使

を通じてカストロとの接触を図り、1963年12月には両国間で会談が行われる予定

だった75)。しかし、この会談が行われることはなかった。ケネディが暗殺された

からである。カストロはケネディ暗殺に際して次のようなコメントを発表してい

る。

ケネディの死は、すでに悪い状況にある関係を、さらに悪化させる恐れがあ

る。平和や博愛という観点からすれば、非常に有害なものである…

暗殺者の手に倒れ大統領が流した血が、人々を無節操にし、ただちにキュー

バに対する強硬政策をとらせるだろうことは、はなからわかっていた。つま

り、強硬政策と暗殺とが、かならずしもまえもって結びつくとはかぎらない

とも考えられるのだ…76)

ここからカストロの心境を考えると次の二点について推測できる。一つは、ケ

ネディの死が平和や博愛にとって有害であるという点から、関係の回復に努めた

ケネディの死を嘆いているのではないだろうか。よって、12月に予定されていた

会談に関しては、少なからず期待をしていたのではないかと考えられる。二つ目

は、ケネディの死によって、アメリカはキューバに対して強硬政策をとるであろ

うという予測をしている点から、将来を不安視していることがうかがえる。カス

トロからすれば、ケネディ暗殺はキューバに対して歩み寄りをみせたケネディを

封じるためになされたと感じたのかもしれない。従って、ケネディの後を継ぐ大

統領がケネディの対キューバ政策をそのまま引き継ぐ可能性は低いと考えられた

のである。

実際には、アメリカはキューバに対して強硬な政策をとることはなかった。

1960年代半ば以降、アメリカは外交面ではヴェトナム戦争や中東戦争、内政面で

は公民権運動や人種差別など多くの問題を抱えていたため、キューバに対して十

分に関心を払うことができなかったのではないだろうか。また、1968年ごろには、

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キューバ政府が自国に好意的なアメリカ人に革命の様子を見せるための旅行を主

催するようになり、渡航制限や経済制裁に抜け道ができていった77)。アメリカと

キューバの関係は停滞していたものの、以前の緊張状態は少なからず和らいでい

た。

2 第三世界とキューバ

キューバ危機後、米ソ関係が改善されると、ソ連は米ソの敵対的共存を軸とし

た姿勢をとるようになった。これは第三世界においてアメリカを刺激しないこと

が意図されていたが、キューバはこれに反し、ラテンアメリカやアフリカの左翼

ゲリラに積極的な援助を行っていた。これは革命の拡大を推進させるべきである

というゲバラの理論の影響が大きい。そして、ゲバラは1964年12月に国連でソ連

に対する辛辣な発言をした。ゲバラはこのとき第三世界の国々と関係を結ぶべき

であり、キューバをソ連から自立した社会主義国家として成り立たせるのが正し

い方向であると考えていたのである78)。さらに、1965年 2月にアルジェリアで行

われた、アジア・アフリカ人民連帯機構会議にラテンアメリカ代表として出席し

たゲバラは、

開発途上国が汗と苦しみの代償として産み出した原料を国際市場価格で売り、

最新の自動化された大工場で生産された完成品を国際価格で買う現実を、ど

うして「互恵」と呼べようか?

先進国と開発途上国という二つのグループ国家の間にこのような関係を作り

上げようというのであれば、ただそれが社会主義国家であったとしても、あ

る意味では帝国主義者の搾取の共犯者だと認めねばなるまい79)。

と発言し、痛烈なソ連批判を行ったのである。ソ連は行き詰まりを見せていた経

済に対して、物質刺激論を部分的に取り入れた政策を実施していたが、これは社

会主義の理念が蔑ろにされているものであるとゲバラは感じていたのである80)。

このソ連批判演説後、ゲバラは公式の場に一切姿を現さなくなった。そして、

1965年10月に発表された共産党の中央委員会の名簿にも名前は載っていなかった

のである。中央委員の発表を行ったカストロは演説で、初めてゲバラの不在につ

いて触れ、ゲバラがカストロに贈った手紙を朗読した。その内容は、キューバか

ら離れ、別の土地で革命闘争を行うというものだった。おそらく、ゲバラはソ連

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批判をするときに、すでにキューバから離れることを決意していたのだろう。手

紙には、キューバでの義務は果たしたという記述がある81)。よって、これから

キューバに対する貢献はできない、すなわち、キューバにおける自己の限界を感

じたのではないだろうか。このいきさつについては、ソ連批判に関するカストロ

とゲバラの確執から、ゲバラが失脚したとの見解があるが、はっきりしたことは

わからない82)。ただし、カストロにとってはゲバラがキューバに残ることによっ

て、対ソ関係がさらに悪化するような事態は避けたかったのではないかと考えら

れる。

しかし、カストロはゲバラと決別した後も第三世界との関係構築を止めること

はなかった。1966年にはアジア・アフリカ・ラテンアメリカの三大陸会議が開催

され、第三世界との連携を強め、革命運動を支援する旨を発表したのである。

キューバが特に重視した地域はラテンアメリカであった。

ケネディ政権下でアメリカは、米州機構を利用することで、ラテンアメリカを

反共同盟として組み込み、「進歩のための同盟」という援助策を打ち出したりし

た。しかし、アメリカの思惑通りにはならなかったのである。ラテンアメリカ諸

国は援助と引き換えに反共政策に同意したものの、国内の共産主義運動を抑制す

るために政権が軍事化することがたびたび起こった83)。「進歩のための同盟」が

採択された 2年後の1963年に、グアテマラ、エクアドル、ドミニカ共和国そして

ホンジュラスでクーデターが発生したことからも、いかにラテンアメリカの政情

が不安定であったかということがわかる84)。アメリカは、共産主義が政権をとる

よりも、軍事独裁政権のほうがまだ許容できるという立場であったことから、ラ

テンアメリカ諸国の不安定化は続いたのである。このような状況のもとで行われ

た「進歩のための同盟」は上手くいくはずがなく、援助もなかなか浸透しなかっ

た85)。アメリカの援助は軍事政権の維持に用いられたからである。ラテンアメリ

カ諸国の成長率は、1961年に2.3%であったのが、1962年には0.7%に、1963年に

は-0.2%と推移しており、「進歩のための同盟」による支援が行われるにつれて

成長率が低下している86)。また、ラテンアメリカ諸国の経済状況はひどく疲弊し

ており、1960年代半ばにおいて、ほとんどの国の国際収支はマイナスであり、通

貨価値も大幅に下落しているのである87)。従って、「進歩のための同盟」による

経済発展の計画は失敗に終わったことは明らかである。そして、このことは、ア

メリカのラテンアメリカ諸国における影響力の低下につながった。

このような情勢下でキューバが目指したのは、アメリカの支配が及んでいたラ

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テンアメリカ諸国を第三世界に引き入れ、革命運動を支援することで左翼の政権

を樹立させることであった。キューバの指導のもとで、パラグアイ、アルゼンチ

ン、ドミニカ共和国、ベネズエラ、コロンビア、グアテマラ、エクアドル、ペルー、

ブラジルそしてボリビアの農村に革命の拠点を築き、ゲリラ活動を展開した。

キューバを離れたゲバラはボリビアに潜入して、ゲリラ部隊を指揮していた。

1967年 7月には、ラテンアメリカ連帯機構の第一回大会が開かれ、革命の戦略や

戦術に関する討議が行われて、アメリカ帝国主義の非難から革命の正当性が示さ

れた88)。ラテンアメリカ諸国において、キューバ革命が与えた影響は大きく、帝

国主義に対する闘争が活発化していたのである89)。

しかし、この農村に革命の拠点を置いて行うゲリラ闘争は、キューバ革命のよ

うには成功しなかった。ゲリラ側とキューバ人指導者の連携不足や、軍事力の不

足、そしてアメリカの支援を受けた各国政府軍の高度な技術などが要因として挙

げられる90)。そして、キューバにとって重大だったのは、1967年10月にゲバラが

ボリビアで政府軍に捕えられ射殺されたことであった。革命の戦士ゲバラの死は

カストロに大きな衝撃を与えることとなり、第三世界に革命を推進させて関係を

構築してソ連から自立した社会主義陣営となるという理想と、第三世界での革命

は容易ではなく、社会主義国家として存在していくにはソ連による支援がなけれ

ばならないという現実との乖離に苛まれることとなった。

Ⅴ 現実主義への転換

1 対ソ関係の改善

1960年代半ば、キューバとソ連は第三世界の対処をめぐって対立していたが、

その状況は両国間の外交に如実に現れている。カストロは1964年10月にフルシ

チョフが失脚した際、モスクワに出向いて新しい指導者となったブレジネフに祝

意を表すようなことはしなかった。このとき中国とユーゴスラヴィアを除く共産

主義国家の指導者たちはモスクワを訪ねているため、カストロのこの対応は、

キューバのソ連圏からの脱却を目指していることの表れである。そして、1967年

11月に行われたロシア革命50周年記念式典の際にも、カストロは招待を辞退し、

参加することはなかったのである91)。このようなカストロの態度に対してソ連は

不満を抱きつつも、キューバ側の要求にしぶしぶ応じていたが、我慢の限界が

やってくる。カストロを政治的にもイデオロギー的にも抑えるために、1968年度

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の通商協定に関するキューバの要求を拒んだのである。

1968年におけるキューバ経済は崩壊寸前であった。1963年に発表された砂糖生

産を基軸とした新しい経済政策の実施に伴い、1970年の砂糖生産量を1000万トン

にするという目標が掲げられ、その達成を目指していた。1968年からは大規模な

動員が始まり、各地でサトウキビの植え付けや刈り入れが大々的に行われたので

ある。しかし、この計画の実施は、とうもろこしや綿花、米など多くの作物の生

産の減少や、実現性の低い分野への投資による財政の損失などを招いた92)。そし

て、カストロはこの低迷する経済状況下で、個人の所有だった小売業の国有化を

行い、さらなる混乱をキューバ経済にもたらしたのである。従って、この時期に

ソ連との通商になんらかの不具合が生じることは、キューバにとって死活問題で

あったのである。しかし、キューバは急進路線をとって、理想主義的な国内政策

の遂行に固執していたため、すぐさまソ連との関係改善に動くことはなかった。

世界共産党会議への欠席やキューバ国内の親ソ派の処罰など、ソ連に対する応酬

を繰り返した。

ところが、このようなキューバとソ連の緊迫した関係が、改善される契機と

なった出来事が1968年 8月に起こった。ソ連軍によるチェコスロヴァキア侵攻で

ある。共産党書記長になったドプチェクが自由化の推進を行おうとしていたが、

自由化の波及を防ぐべくソ連はワルシャワ条約機構軍を動員して、チェコスロ

ヴァキアに侵攻したのである。国際世論はソ連に対する非難が大多数を占めてい

た。多くの左翼知識人は、対ソ関係の悪化から、カストロがソ連を非難すると

思っていた。しかし、カストロはソ連の行動を支持したのである。その理由につ

いてカストロは、チェコスロヴァキアの主権が犯されたことは正当化できないが、

反革命的な情勢に動きつつあり、帝国主義の手中に入りつつあったことは阻止せ

ざるをえない、と明らかにしている93)。これを解釈すると、ソ連の侵攻を賛成す

ることもできないが、ドプチェクの政策にも賛成できないという中で、あえて二

者択一するならソ連をとるということである94)。キューバのこの選択は二つの意

図があったのではないかと推測できる。一つは、ここでチェコスロヴァキアを支

持してしまえば、ソ連との関係が完全に断絶してしまう危険性があったから、ソ

連を選んだのではないだろうか。ソ連との協調が必要であるとする、急進路線の

見直しについて考えられていたのかもしれない。二つ目は、自国の防衛である。

ソ連の軍事介入を否定してしまえば、仮にキューバにアメリカが侵攻してきたと

き、ソ連は軍を派遣しないかもしれないからである。

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カストロが反革命的な動き、すなわち社会主義体制の維持に努めないことを帝

国主義とみなしていることから、反帝国主義の考えはキューバには依然として根

強く存在していることがわかる。そして、このソ連によるチェコスロヴァキア侵

攻で、キューバは社会主義陣営につくことを明らかにしたことは、現実主義路線

への転換点であったともいえる。国際的に非難を浴びたソ連も、自国を擁護して

くれた数少ない国家の一つであるキューバに対して態度を軟化させたため、徐々

にではあるが、キューバとソ連の関係は相互利益の観点で改善に向かっていくこ

とになったのである。

革命10周年にあたる1969年には、貿易協定が締結され、ソ連はキューバに対す

る大規模な経済援助を再開させ、15億ドルにも上る軍事援助を無償で与えた。そ

れに対してキューバはソ連の礼賛で応えた。1960年代が終わるころには、キュー

バとソ連の関係は相当に強固なものとなったのである95)。

2 1970年代前半のキューバ外交

1970年 5月、カストロは目標としていた砂糖の生産量が1000万トンに達しない

ことを認めた。最終的な総収穫高は約850万トンであり、過去最大であったが、

目標を達成できなかったことはキューバにとって精神的に大きな打撃となった。

カストロは失敗を認め、責任の重さを痛感し、民衆の前で辞任を申し出た。しか

し、民衆はカストロの辞任に反対の意を表したのである。低迷する経済の中で、

砂糖の生産のために必死に働いた民衆はなぜカストロの留任を求めたのだろうか。

最大の理由は、キューバ革命は民衆の生活面において、少なからず成果を収めて

いたからであると考えられる。人種差別の撤廃や、医療と教育の充実など、革命

以前では考えられないほどの進展を見せていたのである96)。

民衆からの支持によって辞任を撤回したカストロは、理想主義的な急進路線を

完全に改め、現実的な政策を行うようになった。おそらく、1000万トン計画の破

綻は、キューバをソ連陣営にも中国陣営にも属さない社会主義国家にするという

理想の実現が、もはや不可能であることを実感させたのではないだろうか。

キューバは改善されたソ連との関係を重視し始め、1972年にはコメコンに加盟し

て、正式な社会主義圏への仲間入りを果たした。そして、コメコン加盟国である、

ブルガリア、ポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ルーマニア、東ド

イツといった東欧諸国を訪問して関係の強化に取り組んだ。

1970年代の初頭、カストロは海外視察を多く行っている。これは、海外の社会

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主義国家の状況を見てキューバに生かすことができる政策を学ぶという意図と、

アメリカによって孤立させられている状況の打破という狙いがあったと思われる。

実際に、カストロは東欧諸国のほかに、第三世界のラテンアメリカやアフリカに

も視察に訪れ、友好関係の構築を図っている。第三世界へのアプローチの仕方は

1960年代とは異なっており、かつては共産党や左翼ゲリラを支援していたが、70

年代に入ると、第三世界の現政権との接触を試みているのである。その結果、ラ

テンアメリカ諸国では、ベネズエラ、コロンビア、アルゼンチンとは国交が正常

化され、ペルー、パナマ、ジャマイカなどの国家ともつながりを発展させた。特

に強固な関係が築けたのはチリであった。1970年 9月に大統領選挙で当選したア

ジェンデは社会主義者であり、カストロの友人だったのである。アフリカでは、

ギニア、シエラレオネ、アルジェリアと友好関係を結んだ97)。そして、1973年 9

月にはアルジェリアで開かれた第四回非同盟諸国会議に参加して、カストロは第

三世界のほとんどの指導者と交流を深めることとなった。

このように、第三世界でキューバが自由に行動できたのは、米ソ関係の安定化

が影響している。1968年のブレジネフ・ドクトリン98)によって、米ソ関係は一

時膠着化したが、1969年に誕生したニクソン政権はソ連との戦略兵器制限交渉を

開始させた。アメリカは対中関係の打開を図り、中国と和解したため米ソ関係は

進展して相互の交流も活発化した。1972年にニクソンはアメリカ大統領で初めて

モスクワを訪問し、翌年にはブレジネフもアメリカを訪問している99)。60年代末

から70年代初頭にかけて、アメリカはヴェトナム戦争の泥沼化や、それによって

生じた多額の経済的負担によって、単なる軍事力の強化だけではソ連をはじめと

する東側陣営と対峙することは不可能であった。このアメリカの状況が米ソ関係

の安定化に結びついたのである。従って、アメリカはキューバが第三世界と関係

を持つことを快く思っていないものの、介入する余裕はほとんどなかったという

ことと、キューバと最接近したソ連を刺激して、米ソ関係を悪化させるようなこ

とはしたくなかったということが相まった結果、キューバは米ソ両国に拘束され

なかったのではないだろうか。

70年代前半のキューバ外交をまとめると、ソ連陣営への加入を機に東欧諸国と

の接触を図り、その一方で、第三世界との交流も深めるという、積極的な対外政

策を行っていた。この背景には、キューバが理想主義的な政策を見直したこと、

キューバとソ連の関係が再構築されたこと、アメリカの国力の衰退から米ソ両国

に存在した緊張が緩和されたことなどがある。

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3 キューバ共産党第一回大会

1975年のキューバはソ連をはじめとする諸外国との関係が比較的良好であり、

かつ、砂糖の価格が国際市場で高騰したことにより、経済も回復に向かっていた。

こうした状況の下、12月にキューバ共産党第一回大会が開かれた。この大会でカ

ストロは、キューバ革命の背景から現在に至るまでの過程、そして国際社会の現

状分析について詳細な報告をした。その中で外交に関する部分を取り上げてみた

い。

基調報告によると、カストロは外交面に関して主に三つの話題について演説し

ている100)。その話題とは、帝国主義批判、ソ連の賛美、キューバの国際政策で

ある。

まず、帝国主義批判である。1970年代前半の米ソ間における核廃絶の動きの中

で、緊張緩和が起こり、世界的な平和共存に向けての期待が高まっているとカス

トロは指摘した。そして、国際的な緊張緩和の要因については、石油危機による

資本主義国の経済悪化とソ連の平和的な外交政策にあるとしている。しかし、こ

の緊張緩和が帝国主義の本質を失わせるには至っていないとカストロは警告を発

した。国際問題を戦争によって解決しようとする資本主義勢力は今もなおアメリ

カにおいて見られるからである。このような帝国主義的な姿勢は、近年の国際的

風潮である平和共存と逆行するものであると痛烈に批判している。

次に、ソ連の賛美についてである。キューバとソ連の関係が良好だったことか

ら、カストロはソ連を次のように褒めちぎっている。

…国際レベルで共産主義勢力の統一を破ろうとするすべての意図、および現

代の歴史においてソビエト共産党が果たしてきた栄光的役割を過小評価した

り中傷したりするすべての意図を批判し非難す…

…われわれはソビエト連邦の外交政策を支持し、同時に平和のための、また

世界的危機を乗り切るための最近の果敢な努力を評価する101)。

最後に、キューバの国際政策についてである。キューバの国際政策はソ連およ

びコメコン加盟国の社会主義諸国との緊密な関係が基礎にあり、それによって非

同盟運動をしている政府や、反帝国主義的・進歩的政府との関係が構築されうる

のだとカストロは主張している。対米関係に関しては、国交断絶という関係の破

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棄を決定的にしたのはアメリカの行為であると訴えた上で、国交回復に向けて交

渉する準備はあるが経済封鎖政策が改まらない限り、交渉には応じないという見

解を述べている。外交に関する演説の最後にカストロは、

封鎖はわが国にとって首につきつけられたナイフであり、このような状況で

はわれわれは、決して交渉を受け入れることはできないのである102)。

と、アメリカの経済封鎖を比喩的に表現している。

この大会のカストロの発言からキューバの外交政策について考えると、大きく

二つの点について指摘できる。一点目は、キューバは完全に理想主義的な自主路

線を見直したということである。キューバ危機以降とっていた、ソ連にも中国に

も属さない社会主義国家の建設を目指すという姿勢は影をひそめ、ソ連やほかの

社会主義国家との関係を重視するという路線に移行したことがはっきり表れてい

る。二点目は、反帝国主義、反米主義の思想は依然として根強いものとして残っ

ているということである。演説の最後に対米関係について触れていることからも

わかるように、キューバは簡単にはアメリカと和解することはないという姿勢が

うかがえる。このアメリカに対する態度はキューバ革命当初から一貫しているの

である。

キューバ共産党第一回大会では新憲法草案や共産党綱領などが採択された。こ

れによって、キューバは社会主義国家と規定され、ソ連型の政治制度が導入され

たのである。従って、ソ連型社会主義としてのキューバの国家像が明確になった。

また、憲法や党綱領ではもう一つの理念として、プロレタリア国際主義が掲げら

れた。

キューバは革命以降、冷戦という構図の中に組み込まれ、外交面において様々

な紆余曲折を経験してきたが、この党大会をもって、ソ連型社会主義とプロレタ

リア国際主義という大きな二つの外交理念が確固たるものとして定まったのであ

る103)。

おわりに

本稿では20世紀前半のキューバ事情を踏まえた上で、1959年のキューバ革命か

ら1975年のキューバ共産党第一回大会に至るまでの外交について分析した。その

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結果、キューバに一貫して存在したのは反帝国主義、反米主義の精神であったこ

とが明らかになった。

一般的に革命には自由の観念が付随する104)。キューバ革命の場合は、アメリ

カによる政治と経済の支配からの解放であり、すなわち反帝国主義である。革命

成功後もこの立場は堅持され続けた。アメリカはキューバにおける覇権の維持と、

共産主義の拡大を防ぐために、経済封鎖や侵略といった対キューバ強硬政策を

行ったからである。これによってキューバにおける反米感情は高まり続け、反帝

国主義が盛んに叫ばれ続けたのである。

この反帝国主義と相まって、キューバ外交に影響を与えたのが冷戦下でのソ連

の存在であった。ソ連はアメリカを敵対視していたため、反米主義という観点か

ら見ればキューバと利害関係は一致していた。しかし、キューバ革命は当初、社

会主義革命を標榜していたわけではなかったので、ソ連の関与はほとんどなかっ

た。農地改革以降キューバとアメリカの関係が悪化し、キューバで社会主義的な

政策が行われるにつれて、ようやくソ連は積極的な接近を試みるようになったの

である。ここで指摘したいのは、ソ連はキューバとの関係構築を強く望んでいた

ということである。ソ連はキューバを軍事的な拠点として重要視しており、冷戦

下でアメリカと対峙するにはキューバが必要だった。これは、フルシチョフがカ

ストロとの会談を切望していたことや、ミサイルの配備をソ連がキューバに提案

したことに現れている。キューバ危機以降、関係が悪化した中でもキューバに対

して経済支援や軍事支援をしたのも同じ理由である。

このようなソ連の存在は、キューバ外交の理念の形成において影響を及ぼした。

キューバは反帝国主義を軸とした理想主義的な自主路線を展開していったが、こ

れが可能となったのは、ソ連による後ろ盾があったからである。ところが、ソ連

はキューバの自主路線を快く思っていなかったため、次第に後ろ盾としての効果

は失われていった。ここで、キューバはジレンマに陥ることとなる。本来はソ連

陣営に加わることは望んでいなかったにもかかわらず、ソ連の協力がないと理想

主義を貫くことができず、さらに経済的な問題から国家としての存続も危ぶまれ

たからである。結局、キューバは理想主義を見直して現実主義に転換することで、

ソ連陣営に加わるという決断をし、それを基盤にした憲法や党綱領を定めるに

至ったのである。

以上から、1959年から1975年までの革命初期におけるキューバ外交は、反帝国

主義、反米主義という外交理念のもとで、東西どちらの陣営にも属さない社会主

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義国家を目指していたが、ソ連が冷戦の戦略上キューバとの関係を望み、また

キューバもソ連の援助なしでは国家を統治していくことが不可能だったため、理

想主義を放棄してソ連陣営に加入するという選択をしたとまとめることができる。

「革命(revolution)」という言葉には、本来、天文学上の回転といった意味があ

る。これが転じて、政府が完全に変転して別の政府に移る動きという意味になっ

た105)。革命初期段階での危機を乗り越え、反帝国主義という理念を貫いたことで、

アメリカ帝国主義と資本主義との結びつきの強い政府から、それと正反対の反帝

国主義と社会主義の政府へと完全に変転させることができたということが、現在

まで50年にもわたってキューバ革命が続いている理由の一つなのではないだろう

か。

1) 後藤政子『カストロ 革命を語る』(同文舘出版、1995年)、16頁。2) 三島由紀夫「文武両道と死の哲学」『対談集 源泉の感情』(河出書房新社、

2006年)、147頁。3) 石田英一郎、木内信蔵『世界の文化地理 第16巻』(講談社、1966年)、196頁。4) 伊高浩昭「冷徹な、時には冷酷な現実主義者」池上善彦・編『現代思想』(青土社、2008年)、32頁。

5) C・フルタード『ラテン・アメリカの経済発展』(新世界社、1972年)、253頁。6) 同上。7) 伊藤千尋『反米大陸』(集英社、2007年)、167-168頁。8) 同上。9) 高坂正堯『国際政治』(中央公論新社、1966年)、95頁。10) 米国政府商務省“U.S Department of Commerce, Investment of Cuba, Washington

D.C., 1956”.加茂雄三『ドキュメント現代史11 キューバ革命』(平凡社、1973

年)、42頁。11) 宮本信生『カストロ』(中央公論新社、1996年)、12-13頁。12) 同上。13) 伊藤『反米大陸』、169頁。14) 宮本『カストロ』、14頁。15) レイセスター・コルトマン『カストロ』(大月書店、2005年)、162頁。16) リチャード・ルボットム「カストロに共産主義を選んでほしくなかった」NHK

取材班『NHKスペシャル 社会主義の20世紀 第 5巻』(日本放送出版協会、1991

年)、72頁。17) 佐々木卓也『戦後アメリカ外交史 新版』(有斐閣、2009年)、93頁。18) 同上、94頁。19)『朝日新聞』昭和34年 1月 5日夕刊、 1頁。

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20) コルトマン『カストロ』、186頁。21) 佐々木譲『冒険者 カストロ』(集英社、2005年)、236頁。22) コルトマン『カストロ』、195-197頁。23) アルカジー・N・シェフチェンコ「キューバは、我々を裏切り者と呼んだ」

NHK取材班『NHKスペシャル 社会主義の20世紀 第 5巻』、89-90頁。24) 後藤『カストロ 革命を語る』、15頁。25) 伊藤『反米大陸』、175頁。26) コルトマン『カストロ』、201頁。27) 加茂雄三「キューバと米ソ関係」細野昭雄、畑惠子・編『ラテンアメリカの国際関係』(新評論、1993年)、102頁。

28) 同上、103頁。29) ゲバラは1959年10月に全国農業改革局総裁、11月には中央銀行総裁に任命され、カストロ政権の中枢を担うことになる。

30) 後藤政子「カストロとゲバラ 二人のマルティ主義者」池上善彦・編『現代思想』(青土社、2004年)、111頁。

31)『朝日新聞』昭和34年 3月29日朝刊、 3頁。32) ジャン・コルミエ『チェ・ゲバラ―革命を生きる』(創元社、2004年)、70-74頁。33) 同上、73頁。34) コルトマン『カストロ』、212頁。35) 同上、213頁。36) 加茂「キューバと米ソ関係」、98-100頁。37) 宮本『カストロ』、43-44頁。この計画は、グアテマラで CIAによる援助を受けて訓練された亡命キューバ人の部隊を、キューバに侵攻させるものであった。

38) 佐々木『戦後アメリカ外交史 新版』、97頁。39) 後藤『カストロ 革命を語る』、18頁。40) シェフチェンコ「キューバは、我々を裏切り者と呼んだ」、91頁。41) 宮本『カストロ』、49-50頁。42) 松下冽『現代ラテンアメリカの政治と社会』(日本経済評論社、1993年)、110頁。43) フリオ・レ・リベレンド『キューバ経済史』(エルコ、2002年)、271頁。44) コルトマン『カストロ』、222頁。45) 亡命キューバ人部隊が上陸すれば、キューバ国内で内乱が起こるという見解。46) アーサー・M・シュレジンガー「キューバ侵攻は CIAの謀略」NHK取材班『NHK

スペシャル 社会主義の20世紀 第 5巻』、81-83頁。47) 伊藤『反米大陸』、177頁。48) シュレジンガー「キューバ侵攻は CIAの謀略」、86頁。49) 高坂正堯『現代の国際政治』(講談社、1989年)、102頁。50) 庄司真理子「米州における紛争解決システム」細野、畑・編『ラテンアメリカの国際関係』、80-81頁。

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�0 政治学研究42号(2010)

51) チェ・ゲバラ『ゲバラ 世界を語る』(中央公論新社、2008年)、208頁。52) 国本伊代『改訂新版 概説ラテンアメリカ史』(新評論、2001年)、235頁。53) ロバート・A・パスター『アメリカの中南米政策』(明石書店、2008年)、328頁。54) キューバ危機についての分析は、Don Munton, David A. Welch, The Cuban

Missile Crisis : A Concise History(Oxford University Press, 2006)が詳しい。対外政策の決定に関しては、グレアム・T・アリソン『決定の本質』(中央公論新社、1977年)を参照。

55) ギャレス・ジェンキンズ『フォト・バイオグラフィ ジョン・F・ケネディ』(原書房、2006年)、190頁。

56) ストロープ・タルボット『フルシチョフ回想録』(タイム ライフ インターナショナル、1972年)、500-503頁。

57) 佐々木『冒険者 カストロ』、256-257頁。58) 宮本『カストロ』、64-65頁。このミサイル配備計画はアナディール作戦と呼ばれた。

59) 同上、66-67頁。60) シェフチェンコ「キューバは、我々を裏切り者と呼んだ」、94頁。61) アンドレイ・グロムイコ『グロムイコ回想録―ソ連外交秘史』(読売新聞社、

1989年)、281-282頁。62) 佐々木『冒険者 カストロ』、259頁。63) ロバート・ケネディ『13日間』(中央公論新社、2001年)、123頁。64) ジェロルド・シェクター、ヴァチェスラフ・ルチコフ『フルシチョフ 封印されていた証言』(草思社、1991年)、281-282頁。フルシチョフは、アメリカがキューバを攻撃するという情報について、故意に流されたものであると判断している。

65) ロバート・シーア、モーリス・ツァイトリン『キューバ』(現代評論社、1968年)、332頁。

66) ジェンキンズ『フォト・バイオグラフィ ジョン・F・ケネディ』、217頁。キューバ危機当時のキューバ国連大使、カルロス・レチューガの証言による。

67) 石田、木内『世界の文化地理 第16巻』、198頁。68) コルトマン『カストロ』、257頁。69) 佐々木『戦後アメリカ外交史 新版』、110-111頁。70) 小島晋治、丸山松幸『中国近現代史』(岩波書店、1986年)、207頁。71)『人民日報』1962年11月15日、小田切利馬『ソ連外交政策の変遷』(東京官書普及株式会社、1978年)、115頁。

72) 松下『現代ラテンアメリカの政治と経済』、112頁。73) ジョン・ウォン『中国社会主義市場経済』(法律文化社、1995年)、20-21頁。74) 宮本『カストロ』、87頁。75) シュレジンガー「キューバ侵攻は CIAの謀略」、86-87頁。

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76)『ハバナ・ボヘミア誌』1963年11月29日、ジェンキンズ『フォト・バイオグラフィ ジョン・F・ケネディ』、338-339頁。

77) マーク・カーランスキー『1968 世界が揺れた年 前編』(ヴィレッジブックス、2008年)、325頁。

78) コルミエ『チェ・ゲバラ―革命を生きる』、96頁。79) ゲバラ『ゲバラ 世界を語る』、38-39頁。80) 巣山靖司『ラテンアメリカ変革の歴史』(三省堂、1981年)、242頁。81) フィデル・カストロ『チェ・ゲバラの記憶』(トランスワールドジャパン、2008

年)、27-30頁。82) ゲバラはアルジェリアから帰国直後の1965年 3月末に、 2日間にわたってカストロと話し合っているが、その内容は明らかにされていない。

83) 庄司「米州における紛争解決システム」、85頁。84) パスター『アメリカの中南米政策』、365頁。85)『読売新聞』昭和38年 1月21日夕刊、 2頁。86) 松岡完『20世紀の国際政治』(同文舘出版、1997年)、288頁。87) ラテン・アメリカ協会『ラテンアメリカ諸国の経済概観と統計』(進興社、1970

年)、67-68頁。88) 山崎カヲル、高倉亮『ラテン・アメリカの革命戦争』(三一書房、1971年)、

249-250頁。89) レジス・ドブレ『革命の中の革命』(晶文選書、1967年)、160-161頁。90) 国本『改訂新版 概説ラテンアメリカ史』、241-242頁。91) 宮本『カストロ』、82-84頁。92) フルタード『ラテン・アメリカの経済発展』、265頁。93)“Granma, resumen seminal, La Habana”1968年 8月25日、加茂『ドキュメント現代史11 キューバ革命』、288-294頁。

94) カルロス・R・ロドリゲス「アメリカが我が国の社会主義化を早めた」NHK取材班『NHKスペシャル 社会主義の20世紀 第 5巻』、107-108頁。

95) タッド・シュルツ『フィデル・カストロ カリブ海のアンチヒーロー』(文藝春秋、1998年)、344-346頁。

96) コルトマン『カストロ』、289-290頁。97) シュルツ『フィデル・カストロ カリブ海のアンチヒーロー』、350頁。98) 利益を守るためには社会主義国に対する武力行使はやむを得ないとする教義。ソ連がチェコスロヴァキア侵攻を正当化した。

99) 佐々木『戦後アメリカ外交史 新版』、133-135頁。100) キューバ共和国駐日大使館広報部『キューバ共産党第 1回大会基調報告』(1975

年)、189-209頁。101) 同上、198-201頁。102) 同上、209頁。

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�� 政治学研究42号(2010)

103) 宮本『カストロ』、116-123頁。104) ハンナ・アレント『革命について』(中央公論社、1975年)、27-28頁。アレントは自由と解放は同義ではなく、解放は自由の条件という位置づけをしている。

105) アルベール・カミュ「反抗的人間」『カミュⅡ』(新潮社、1969年)、497頁。