景行記の歌と散文 -...
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101
明治大学教養論集
景行記の歌と散文
表現空間の解読と注釈I
本稿では、景行天皇条の歌と散文について考察と注釈を進めていく。景行記は天皇の登場がきわめて少なく、その子
倭建命の記述が中心となる。したがって、十五首にのぽる歌とその前後の散文もすべて倭建命に関するものである。歌
は、小碓命として熊曾建を征伐した話にないだけで、西征から東征、斃去後に白烏と化して翔天する場面までほぼ一貫
して出てくる。倭建命の名は殺した相手である熊曾建から賛辞とともに与えられた「倭建御子」によるが、それらの歌
は倭建命の名のもとに叙述される悲劇的な英雄の話において不可欠の要素になっている。そこでは歌そのものが歴史叙
述なのであって、歌と散文による劇的な物語様式が古事記特有の文体としてはじめて表れてくる。
それは、言わば倭建命の一代記である。それがなぜ歌によって語られねばならなったのかという問題については、こ
はじめに
(I)
通巻五三二号(二
0一八・三)一
01|―五四頁
居
駒
永
幸
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 102
高光る日の御子……………(記
28)
ひさかたの天の香具山……(記
27)
夜には九夜:…•(記26)
新治
筑波を過ぎて…………(記
25)
さねさし相武の小野に……(記
24)
II東征
出雲建が:……•(記23)
①出雲建の征討
やつめさす
②弟橘比売の入水
③酒折宮の問答
日々並べて
④美夜受比売との御合
1西征
になる。
歌を中心に見ると、
命の、戦いに死す英雄像は歌に負うところが大きいし、その鎮魂も歌によってしかなし得ないと考えられていたことを
それは示している。このような歌による一代記は、古事記では他に例がない。
一代記は五部から成る。西征・東征・望郷・斃去・翔天である。その構成と歌の関係は次のよう
唯一、死後の魂の行方が歌によって叙述されることである。
つまり、白鳥翔天の場面にある大御葬歌四首である。倭建
れまで論じられてきたし、筆者も所見を述べたことがある(『古代の歌と叙事文芸史』)。問題点の―つは、古事記では
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103 景行記の歌と散文 (I)
英雄の一代記と言っても、戦いに明け暮れる人生を叙述するわけではない
C
むしろ戦いを詠むのは①しかない。②④
浜つ千烏浜よは行かず…・:(記
37)
海処行けば腰なづむ:……•(記
36)
浅小竹原腰なづむ………・9.
(記
35)
なづきの田の
稲幹に……・:(記
34)
⑧白鳥翔天と大御葬歌
>翔天 嬢
子の床の辺に…………・:(記
33)
⑦美夜受比売と大刀
IV甍去 は
しけやし我家の方よ………(記
32)
命の全けむ人は…………・:(記
31)
倭は国のまほろば:………•(記
30)
⑥能褒野での望郷歌
III望郷 尾張に直に向かへる:……•(記
29)
⑤尾津前の一っ松
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 104
通して読み解いていくことが求められる。
る。 ⑦は恋愛をテーマとし、③⑤は旅の歌と言ってもよい。⑥も旅先で故郷を思癌する歌である。前に触れたように、⑧は
やや特異な歌群で、倭建命の魂である白鳥を追い行く歌となっている。
lI以下は少しも戦いの歌らしくなく、恋愛や望
郷という旅に起こる場面が歌によって叙述されるのである。
これを見ると、古事記には倭建命の生と死という明確な主題があって、歌を中心に叙述された―つの作品であること
がいよいよ明らかになってくる。日本書紀の重出歌では①が崇神紀の出雲建の歌、
(6)
が
H向で詠んだ景行天皇の歌に
なっており、②④(7)(8ズの歌は記されていない。歌による構成意図が両書に大きな差異を生み出していることは、重出歌
の関係を詳細に検討するまでもなく、
はっきりと知ることができる。
しかし、古事記の主題と構成が倭建命について詳細な叙述をもたらしたかというとそうではない。むしろ歌と散文と
の関係が明確でない場合が少なくない。歌に対して説明的でないということである。その理由は散文叙述の方法に起因
しているのだか、
それが古事記の文体とも言える。古事記の和文体は歴史叙述の文体としてまだ十分に確立されたもの
ではなかった。従って、言い換えれば、古事記の文体は歌と散文のあいだの表現空間を読み取らせる仕組みになってい
このように考えると、散文に歌がはめ込まれたとか、
その歌は本来、独立歌謡としてうたわれていたなどという詮索
は、古事記の意図や文体を明らかにすることにはならない。独立歌謡という概念さえ古事記に適用しうるか疑わしい。
別の場でうたわれていた、例えば民謡という独立歌謡が古事記の記述に転用されたのではなく、歌が叙事するものを理
解し解釈することで散文が生成されていくということなのである。すなわち、歌と散文の表現世界を注釈という作業を
なお、このような注釈作業は、神武記については「神武記の立后と謀反l
歌と散文の方法とその注釈ー一(『明治
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105 景行記の歌と散文 (I)
大学教養論集』五二九号、二
0一七年九月)
l
、出雲建の征討
で行っている。本稿では景行記を取り上げるが、訓読文•本文・校異を示
した上で、現代語訳(歌)・語釈そして解説を述べるという方針やスタイルは神武記の場合と甚本的に変わらない。
【訓読文】
す
な
は
い
づ
も
の
く
に
い
ま
そ
い
づ
も
た
け
る
こ
ろ
お
も
と
も
む
す
か
れ
ひ
そ
い
ち
ひ
も
ち
い
つ
は
即ち、出雲国に人り坐しき。其の出雲建を殺さむと欲ひて、到りて即ち友を結びき。故、窃かに赤楢を以て詐り
た
ち
つ
く
み
は
か
し
し
と
も
ひ
の
か
は
か
は
あ
み
し
か
や
ま
と
た
け
る
の
み
こ
と
ま
あ
が
と
お
た
ち
の刀を作り、御侃と為て、共に肥河に沐しき。年して、倭建命、河より先づ上りて、出雲建が解き置ける横刀
と
は
た
ち
か
の
の
ち
こ
こ
を取り侃きて、「刀易へせむ」と詔らしき。故、後に出雲建、河より上りて、倭建命の詐りの刀を侃きき。是に、倭建
あ
い
お
の
お
の
ぬ
と
き
え
命誂へて、「いざ刀を合はせむ」と云ひき。年して、各其の刀を抜きし時に、出雲建、詐りの刀を抜くこと得ず。即
う
こ
ろ
み
う
た
い
ち、倭建命、其の刀を抜きて出雲建を打ち殺しき。年して、御歌に日はく、
い
づ
も
た
け
る
は
た
ち
やつめさす出雲建が偏ける刀
つ
づ
ら
さ
は
ま
み
な
給多巻きさ身無しにあはれ
か
く
は
ら
を
さ
ま
の
ぼ
か
へ
り
こ
と
ま
を
故、如此撥ひ治めて、参ゐ上りて覆奏しき。
即、人二坐出雲国↓欲レ殺二其出雲建元皿到即、結レ友。故、窃以二赤構↓作二詐刀↓為ー一御倶↓共沐二肥河↓年、倭建命、
自レ河先上、取二偏出雲建之解置横刀一而、詔レ為レ易レ刀。故、後出雲建、自レ河上而、債二倭建命之詐刀↓於是、倭建命
【本文】
じ3)
(1111
ロ
2
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明治大学教整論集
出雲建
【語釈】
誂、云伊奢合レ刀。年、各抜其刀二之時、出雲建、不レ得レ抜詐刀↓即倭建命、抜其JJ一而打一一殺出雲建位年、御歌曰、
(6)
(
7)
都豆良佐波麻岐佐味那志年阿波礼
夜都米佐須
(1)底本、「国建」9
卜部系諸本による。
(2)底本「支」。卜部系諸本による。
(3)底本ほか諸本、一命一ナシ。鼈
頭古事記・訂正古訓古事記により補う。
(4)底本ほか諸本、「誹」。訂正古訓古事記による。
(5)底本、「力」。卜部系
諸本による。
(6)底本、「都豆都豆一。卜部系諸本による。
(7)底本ほか諸本、「祁」。鼈頭古事記・訂正古訓古事記に
(やつめさす)出雲建が腰に付けている刀は、蔓をたくさん巻き付け、鞘は立派で中身がないよ、ああおかしい。
て西方の熊曾建の征伐を命じたが、西征の後半がこの出雲建の征討になる。征伐される側の熊曾建が与えた称え名が
「倭建御子」であるが、それは各地の従わない勇者を滅ぼし、天皇統治を広げていく大和国全体の勇者、倭建命の誕生
【現代語訳】
よる。
通巻532号 (2018• 3)
【校異】
出雲の勇者の意。タケルは各地の首長を示す。景行天皇は子の小碓命(後の倭建命)の一建く荒き情一を恐れ
故、如此撥治、参上覆奏。
106
伊豆毛多祁流賀
波祁流多知
(記23)
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107 景行記の歌と散文 (I)
刀易ヘ
肥河
結友
であった。西征はタケルと呼ばれた勇者11
英雄たちの話である。滅ぼされる地方勇者の一人が出雲建であるが、そこで
は真刀と木刀を取り替えて討ち取るという知略にすぐれた一面が強調される。だまし討ちも英雄の条件であった。この
刀易えの話は、
日本書紀では崇神六十年に出雲臣の遠祖、出雲振根が弟の飯入根を殺す話として出てくる。歌を詠むの
も時人である。記・紀のあいだで、詠者が異なるという問題がある。
ト部系諸本はトモカキノママナリと訓むが、鼈頭古事記がトモカキヲムスヒタマフ、校訂古事記がトモカキノム
ツビシタマフと訓読する。『古事記博』は字のままに訓むのでは古言でないとし、ウルハシミシタマヒキの新訓を示す。
万葉歌に「死にも生きも同じ心と結びてし友や違はむ我も寄りなむ」
(16•三七九七)とあり、ここでは「結」を訓ん
で、トモヲムスビキと訓読する。友好を結ぶの意である。
赤楊を以て詐りの刀を作りイチイガシでにせの木刀を作ること。「抜くこと得ず」とあるから、鞘と刀身が一っに
い
ち
ひ
なった木刀である。赤梼は用明紀一一年の訓注「此云二伊知毘_」により、イチヒと訓む。倭名類衆抄では「榛子和名以
知比」とし、椎子の大きなものとある。イチヒはクヌギやシイと同類の落葉高木だが、他に常緑高木のイチイガシがあ
る。これも材質が堅く、木刀の用材になる。木材は褐色を帯びているので、この方が赤橘にふさわしい。
中国山地の船通山に発し、宍道湖に注ぐ斐伊川。記上巻に須佐之男命が出雲国肥の河上に降臨したとある。出雲
国風土記出雲郡によれば、源は伯者と出雲の境にある烏上山から流れ、神門の水海に注ぐ。その下流は出雲の大川とも
呼ばれ、神門の水海(現在の神西湖)に流れていたが、江戸時代に宍道湖へと流れが変わる。斐伊川下流域の出雲平野
か
は
あ
は、北西に杵築(出雲)大社があり、出雲臣の根拠地であった。崇神紀では止屋の淵で出雲振根と飯入根が「遊沐み」
をする話になっているが、止屋の淵も神門郡塩冶郷(出雲市塩冶町)を通る斐伊川にある。
交換、贈与による関係作りの一っ。刀の交換によって「結友」という関係になる。『新編全集古事記』は、刀
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 108
侃ける刀
の交換を友好のしるしとする習わしを利用して偽りの刀を作ったとする。刀の交換と沐浴は友好関係を結ぷ俊式あるい
は習俗としてあり、
それがこの話の背景になっているとみられる。
ャ
ッ
メ
サ
ス
ャ
・
ツ
メ
サ
ス
やつめさす「弥つ芽(藻)さす
l
の意で、出雲にかかる枕詞。『古事記博』は「延佳云、夜都米佐須は八芽萌にて、
藻の縁言なり」とし、万葉歌の一川の上のいつ藻の花」
(4•四九一)を引いて「いつ藻」と出雲は通じることから出
雲の枕詞とする。また「或人云、禰つ芽さすなり」の説も示す。それを受けて、『古典集成古事記』『新編全集古事記』
は「八つ芽さす出づ
(る)藻一、『思想大系古事記』は「弥つ芽さす出づ藻一、『古代歌謡全注釈・古事記編』は「弥つ藻
(または芽)さす出づる藻」とする。出雲の枕詞には、「八雲立つ一系(記ー・紀ー、紀20、出雲国風土記)と「八つ芽
(藻)さす」系(記23、続日本紀_八裳刺曲」)があり、柿本人麻呂の一やくもさす出雲の児らが(八雲刺出雲子等)」
(3•四――10)は二つをあわせた形になっている。崇神紀六十年の歌では枕詞が「八雲立つ」になっているが、『記紀歌
謡全註解』などは「やつめさす」を「八雲立つ」の音韻変化とする。しかし、二つの系が併存していたのであって、
「八つ芽さす出づ藻」は多くの藻の芽が生え広がる、
その伸び出る藻という意から出雲にかかっていく枕詞とみられる。
ここに「やつめさす」が用いられる点について『古事記注釈』は、「八雲立つ」はめでたさを喚起する枕詞だから、出
雲建が殺される歌にはふさわしくなかったとする見解を示す。物語との関係という視点は評価できる。さらに言えば、
枕詞は景を喚起する言葉であるゆえ、川藻が生え広がる景と出雲建をだまし討ちにする叙事とが密接に関連するのであ
る。この川藻の景は二人が肥河で沐浴する叙事を担うのであって、散文の一肥河に沐しき」と重なることは言うまでも
ない。崇神紀六十年の歌は出雲の代表的な枕詞である「八雲立つ一系を重視したことになる。
出雲建が
出雲建が肥河から上がって腰に付けた刀で、木刀のこと。神・人名を詠みこむ歌は、認定の仕方
にもよるが、古事記に十六首ほどある。それらは叙事の歌であることを明示する。この場合も出雲建を刀易えによって
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109 景行記の歌と散文 (I)
だまし討ちにする話がうたわれており、この一首そのものが倭建命の出雲征討を伝える歴史叙述なのである。
ゥ
、
ペ
カ
ザ
リ
葛多巻きさ身無しにあはれ刀の柄や鞘に蔓性植物を巻くことe
『古事記博』に「表方の筋のみなることを云る一と
あるe
「さ身無し」は刀身がない意。『厚顔抄』は「鋤」、『日本紀歌解槻の落葉』『稜威言別』は「錆」と解するが、い
ずれも適切でない。サはサ苗・サ衣のように、最高のものを表す称辞だから、「蔓を巻いて飾った刀なのに、
その最高
の刀の中身がないことよ」と、うわべと中身の落差を示しておいて、「あはれ」というおかしさや嘲笑を引き出すので
この歌は崇神紀の重出歌とのあいだで、太刀を取り替えてだまし討ちにするという共通の話型をもちながら、登場人
物と詠者を異にする点が問題とされてきた。吉井巌『ヤマトタケル』は、崇神紀六十年の話がもとになって、倭建命の
出雲建を討つ景行記の話が作られたと推定する。崇神紀の記述には出雲国内部の勢力抗争という史実的根拠が明確に
あったというわけである。それに対して『古代歌謡全注釈・古事記編』は、崇神紀の方が景行記の倭建命の歌を出雲振
根の物語に結びつけて詠者を時人にしたと考え、まった<逆の改作説を示す。
しかし、歌から見れば、誰がどんな時にうたったかという理解が共有され、歌の表現にも叙事的な根拠か内在してい
たはずだから、仮に話型が同じだとしても同じ歌謡が複数の物語に同時に記されることは考えにくい。記・紀のあいだ
でどちらかが改作されるという状況は両書の関係からみて起こらなかったと考えられる。従って、この歌の散文に登場
する人物や詠者の違いは、どちらか一方の改作に起因するのではなく、記・紀両方の記述が根拠をもって存在したとと
らえるぺきである。その根拠は歌の表現にみていく必要がある。
【解説】
ある。
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 110
の歌と散文を構成し、歴史叙述として位置づけているのである。
くなる。
景行記の歌表現からは、「出雲建」にみるも立派な(「黒葛多巻き」)偽の刀(「さ身なし」)をつかませて(「侃ける
刀」)、奴は太刀打ちできずにだまし討ちにしてやったぞ(「さ身なしにあはれ」)という叙事が読み取れる。「出雲建」
は出雲の勇者という意の一般名称で、倭建と熊曾建の関係と同じように、倭建とは対の関係になる物語人物の名であっ
た。倭建命という詠者は、歌の中の「出雲建」と呼応することは言うまでもない。
崇神紀では詠者が第三者の時人になっているのはなぜか。この場合も歌の中の「出雲建」が関わっている。崇神紀の
場合は、出雲国の神宝奉献をめぐる内部抗争という出来事をうたった歌として、伝承的根拠をもって伝えられていたで
あろう。殺す側が詠者であるから、崇神紀では出雲振根ということになる。しかし、兄振根が弟の飯人根を出雲建と呼
ぶのはふさわしくない。出雲建は出雲の外部からの呼称だからである。そこで第三者による事件批評の声としての時人
が詠者に位置づけられたと言える。「時人」という外部からうたわれることで、歌詞の「出雲建」との関係は矛盾かな
最行記の倭建命と崇神紀の時人という詠者の相違は、歌の叙事と矛盾するものではない。歌の側に許容性があって倭
建命とも時人とも理解し得たのである。景行記から崇神紀へ、あるいは崇神紀から景行記へという単純な改作の関係で
とらえることは妥当ではなく、この歌は倭建命と出雲振根・飯入根兄弟に関わるそれぞれの叙事を背負って伝えられて
いたことになる。それを可能にしているのは、刀易えによるだまし討ちという歌の叙事は共通していたという点にあ
る。刀易えの物語のためにこの歌が創作ないしは改作されたのではなく、景行記も崇神紀もそれぞれの意図のもとにこ
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111
佐賀牟能哀怒迩
佐泥佐斯
(4)
故、七日之後、其后御櫛依レ子二海辺↓乃取ー一其櫛↓作二御陵_而治置也。
毛由流肥能
景行記の歌と散文 (I)
二、弟橘比売の入水
本那迦迩多知弓一
【訓読文】
其より入り幸して、走水海を渡りし時に、其の渡の神、浪を興し、船を廻して進み渡ること得さりき。休して、
其の司‘年は開釦転知心nPが国ししく、「知ヽ御子に翫りて海の叩にんらむ。御子は、軍マさえしまつ恥
J
とを追げ、かへり記
ま
を
す
が
た
た
み
や
へ
か
は
た
た
み
や
へ
き
ぬ
た
た
み
や
へ
も
ち
な
み
う
へ
し
奏すべし」とまをしき。海に入らむとする時に、菅畳八重、皮畳八重、純畳八重を以て、波の上に敷きて、
お
ま
こ
こ
あ
ら
な
み
お
の
づ
か
な
み
ふ
ね
う
た
に下り坐しき。是に、其の暴浪自ら伏ぎて、御船進むこと得たり。休して、其の后の歌ひて日はく、
さ
が
む
を
の
も
さねさし相武の小野に燃ゆる火の
きみ
ほ
な
か
た
火中に立ちて問ひし君はも
か
れ
な
ぬ
か
の
ち
み
く
し
故、七日の後に、其の后の御櫛、
へ
よ
す
な
は
と
海辺に依りき。乃ち其の櫛を取り、
み
は
か
お
さ
お
御陵を作りて、治め置きき。
【本文】
自レ其入幸、渡二走水海一之時、其渡神興レ浪、廻レ船不二得進渡↓年、其后、名弟橘比売命白之、妾易二御子一而入乙海
中↓御子者、所レ遣之政遂応1
一覆奏一。将レ入レ海時、以――菅畳八重、皮畳八重、維畳八重↓敷レ子二波上_而、下二坐其上↓
於レ是、其暴浪自伏、御船得進。年、其后歌日、
斗比斯岐美波母
(記24)
其の上
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 112
后、名は弟橘比売命
渡の神
走水海
【語釈】
(l)底本、「自一ナシ。卜部系諸本により補う。
(2)底本、「中」ナシ。卜部系諸本により補う。
(3)底本、「右」。
ト部系諸本による。
(4)底本、「之之」の小字二行書き。卜部系諸本による。
(さねさし)相模の小野に燃える火の炎の中に立って、呼びかけてくださったあなたよc
の港だった。天平七年の相模国封戸租交易帳に「御浦郡走水郷」とある。潮流の速いことに由来するこの地名は、散文
の「進み渡ること得ざりき」と関連する。景行紀四十年是歳では、「馳水」について日本武尊が「立跳」すなわち跳
び越えて渡れると「高言一したことによる時人の命名とする。
LI本武尊に結びつけた二次的な地名由来団である。
海峡を支配する境界神。山で言えば坂や峠の神。応神記の天の日矛の話に、「将レ到一一難波一之間、其渡之神、
ことむ
塞以不レ人」とあり、通行を遮る神でもある
C
東征の目的は海や山河の荒ぶる神を「言向け平和す」ことにあったが、
ここでは弟橘比売か海に人水することで、海神を鎮めた。
も伊須気余理比売命や矢河枝比売命のように、皇后や妃に用いる。系譜には子、若建王を記す。常陸国風土記・行方郡
に一倭武天皇之后、大橘比売命」、多珂郡に「(倭武)天皇幸レ野、遣ー一橘皇后_」とある。同風土記では一大橘」「橘」
【現代語訳】
【校異】
相模国の三浦半島束端と上総国西端のあいだの浦賀水道。走水は対岸の天羽か大前に渡って常陸国に至る要衝
「妃一ではなく、天皇に用いる「后」て表す。倭建命を天皇に準じて位置づける意識がある。「命」
じ4)
(-―
i,a 2
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113 景行記の歌と散文 (I)
となっていて、名称に小異があるか、天皇と皇后として伝える
C
景行紀では穂積氏の忍山宿禰の女で、従ってきた一妾」
とする点で相違がある。オトは妹で、タチバナが地名だとすれば、『古事記注釈』が指摘するように、武蔵国橘樹郡が
一妾」は一人称、自ら身代わりになること。海神への捧け物になるというのである。通行するために
士地神に幣や供え物を奉るという手向けの考え方に基づく。景行紀で日本武尊が「是小海耳」と高言したため海神の怒
りを買ったとするのは、暴風を合理化した解釈である。和歌童蒙抄所引の筑前国風土記に、狭手彦連が妾の那古若を薦
に乗せて海神に捧げる同型の話があるが、弟橘比売の話が流伝したものともみられる。
菅畳八重、皮畳八重、施畳八重
スガタタミは菅で編んだ畳で、神武記に「菅畳いやさや敷きて」(記
19)とある
0
力
ハタタミ・キヌタタミは記上巻の、火遠理命が海神の宮を訪問する神話に「美知皮之畳敷二八重\亦、絢畳八重敷二其
上_」とあり、豊玉毘売と結婚する場面に出てくる。これらは神聖な結婚に用いられる寝具で、弟橘比売が海神の嫁に
/
ネ
*
メ
さねさし相武の小野にサネサシは相模の枕詞だが、語義もかかり方も未詳。『稜威言別』に「富士嶺を美賞て、
ソビニタテ
真嶺と云、其嶺の登立るを、刺と云」とあるが、ネを嶺とするのはともかく、富士の嶺が聟え立つとの解釈には根拠
がない。『古代歌謡全注釈・古事記編』はサガムに「瞼し.一または「嵩し」の意を感じ取って「サ嶺さし、瞼し(嵩し)」
と続き、音が重なるサガムにかかるという。恋歌からみて、サネに「さ寝」(共寝)の意をこめ、「小野一に籠もるとい
燃ゆる火の
燎原の火に囲まれ、
その炎の中に立っての意。前に相武国に到った時、倭建命が国造に欺
かれて火攻めにあったことを指す。この表現を東国農民の野火の風習に結びつける『記紀歌謡全註解』の見方もある
火中に立ちて
う連想もあるのかもしれない。
なることを意味する。
妾、御子に易り
その名の由来になっていることも考えられる。
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 114
【解説】
いが、弟橘比売伝承の広がりを示している。
が、この整った短歌形式は単純に民謡とすることを否定する。あなた
売)を気遣ってくれたという叙事の歌の存在を、この表現は示している。
「問ひし」は比売の安否を気遣って名を呼んでくれたと回想する表現。「君」は女性から男性に用いるか
ら、倭建命を指す。相武国造による火難の話に倭建命の問いかけはないか、歌によってこの場面が語られる。「はも」
は体言に接続する文末の助詞。『時代別国語大辞典・上代編」は「極限的な状況における、愛惜のこもった詠嘆」とす
る。『記紀歌謡全註解』が若い男女をうたった東国民謡と推定し、『古典集成古事記』も「もと春野焼きの独立歌」とす
る考えを支持するが、「問ひし君はも一とその類句の万葉歌をみると、個人詠の様式的な表現である。しかし、「個人的
創作歌」(『古代歌謡全注釈・古事記編』)とも言えない。歌が、抒情の形をとりながら、叙事的、物語的であったり、
あるいは歴史叙述であったりするという側面がここにある。
后の遺品である櫛が海岸に流れ着いたという。『古事記偲』は相模国の海辺か、上総国の海辺か
不明とする。櫛を治めた御陵の地も不詳。播磨国風土記・賀古郡比礼墓に、印南別嬢の匝と摺を得て墓に葬ったとする
同型の説話がある。皇妃伝承の一類型とみられる。延喜式神名帳の上総国長柄郡橘神社(千葉県茂原市本納の橘樹神
社)は弟橘比売を祭神とし、御陵とする古墳もあるが、海岸の近くではない。この記述と直接結びつけることはできな
倭建命の東征において、相武国での火難物語に駿河国の地名「焼遺」が出てくる。この難問はなかなか解決できず、
いくつかの疑問を残しながら、古事記は相武国の「焼遺」のこととして書いていると理解するほかない。
御櫛、海辺に依りき
問ひし君はも
(倭建命)は火難の中にあっても、私(弟橘比
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115
語の構成を示せば次のようになる。
景行記の歌と散文 (I)
のである。そこに「さねさし
それではなぜ、古事記は相武国の「焼遺」としたのか。その理由は、弟橘比売入水物語に記される「さねさし」の歌
によって物語が構成されたからだと考えざるを得ない。もし、この歌が『古代歌謡全注釈・古事記編』の言うように物
語歌で、個人的創作歌だったとするならば、「さねさし」の歌に「駿河の小野」の地名を詠み込むことも容易にできた
はずである。そうなっていないのは、古事記はこの歌によって散文の物語を構成したからに他ならない。
「さねさし」の歌の場合、「火中に立ちて」とあるから、倭建命が弟橘比売の名を呼び、無事かどうか気遣ってくれた
ことを、波に浮かべた畳の上で思い起こしてうたったと読み取れる。というより、
そう理解させる文脈になっている。
入水という極限状況で夫への恋情をうたうのである。弟橘比売の歌には、相武国造の征討の時、倭建命が火攻めに遭
い、その火の中から自分の安否を気遣って呼びかけてくれたという叙事が詠まれている。もちろん、この恋物語は相武
国造の征討には記されていない。弟橘比売の入水の場面で、
その歌によって恋の叙事が回想という形で明らかにされる
相武の小野に」とうたっているのであるから、火難の野は相武であり、「焼遺」も相武
の地でなければならなかった。この点について、中島悦次『古事記評釈』が「さねさし」の歌から「相模とされたので
あらう」とし、『古事記注釈』もこの歌に引かれて焼津が「いきなり相武の話になったのではないかと思う」と述べる
通りである。古事記は「さねさし」の歌によって相武国造の征討物語に「焼遺」を位置づけていると考えられる。
その入水物語の後に、弟橘比売が倭建命を回想するのと対照的に倭建命による弟橘比売の回想が記される。それが足
柄坂の神の征討物語である。そこで倭建命は坂に登って「あづまはや」と三嘆する。弟橘比売を回想し、激しく哀惜す
るのである。これも恋物語の―つであり、歌詞の「問ひし君はも」を受けて構成されている。歌を起点とする三つの物
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 116
【訓読文】
さ
か
を
り
の
み
や
い
ま
と
き
す
な
は
そ
く
に
か
ひ
こ
即ち、其の国より甲斐に越え出でて、酒折宮に坐しし時に、
に
ひ
ば
り
つ
く
は
す
、
(
s{
ね
新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる
し
か
み
ひ
た
き
お
き
な
み
う
た
っ
年して、其の御火焼の老人、御歌に続ぎて、
か
が
な
よ
こ
こ
の
よ
ひ
と
を
か
H々並べて夜には九夜日には十Hを
歌ひて日はく、
恋の二軍構造を生み出しているのである。
古事記では「さねさし」の歌を中心として東征の三物語が構成されることをこの図式で理解できよう
C
その歌によっ
て焼遺の火難に、記されていないもうひとつの恋物語が伴っていたことを知るという仕組みである。さらに歌の「問ひ
し君はも」に対応する形で「あづまはや」の恋物語が位置づけられる。「さねさし」の歌の叙事はこの三物語に征討と
三、酒折宮の問答
足柄坂の神の征討物語
弟橘比売の入水物語
相武国造の征討物語
散文「足柄の坂本」
即ひて日はく、
「あづまはや
l
(恋物語)
歌「佐賀牟の小野」「問ひし君はも」(記24)
→
→
→
散文「相武国」「焼遺」
(恋物語)
(記26)
(記25)
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117 景行記の歌と散文 (I)
其の国より甲斐に越え
【語釈】
新治、筑波の地を過ぎてきて、もう幾夜寝たのか。
【現代語訳】
記による。
(3)底本、「赤」。卜部系諸本による。
(1)
即自二其国五g-―出甲斐へ坐二酒折宮一之時、歌日、
(2)
都久波哀須疑豆
用迩波許々能用
【校異】
(l)卜部系諸本は「官云」とするが、底本による。
(2)底本ほか諸本、「赤」。鼈頭古事記・訂正古訓古事
日にちを並べ数えると、夜で九夜、昼では十日になります。
アヅマの国から甲斐国に越えること。アヅマの地名は倭建命が足柄の坂に登り、弟橘比売を哀
是以、誉_一其老人↓即給二東国造一也。
迦賀那倍弓
(3)
比迩波登哀加哀
年、其御火焼之老人、続二御歌一以歌日、
迩比婆理
伊久用加泥都流
【本文】
こ
こ
も
ち
ほ
是を以て、其の老人を誉めて、
あづまのくにのみやつこたま
即ち東国造を給ひき。
(記26)
己5)
(1111a
2
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 118
惜する言葉「あづまはや」による命名。東海道の足柄の坂以東がアヅマの国という地理観である。アヅマの国と相模国
の境である足柄の坂を経て、相模国から甲斐国に越えたということになる。景行紀では哀惜の言葉を発するのが碓
H嶺
なので、東山道の碓H坂以東を吾嬬国とする。
山梨県甲府市酒折の酒折神社周辺を遺称地とする。律令制度では甲斐国は東海道の一っ。
詳。征討の日々を送ってきて、この地でようやく酒宴の時を得たとの意がこめられているか。
筑波を過ぎて
サカヲリは名義未
「新治一は一「常陸国風土記』に新治郡とあり、現在の茨城県桜川市真壁町。_筑波」は筑波郡で、
現在の茨城県つくば市。『厚顔抄』に「新治」を「筑波」と続けるための枕詞かとするが、他に例がない。筑波山の北
西と西南の地名を並ぺたという関係である。筑波山はアヅマの国の北にある日標となる山だから、起点となる山麓の二
幾夜か寝つる
御火焼の老人
寝た夜の数で日数を表す言い方。疑問の係助詞力を完了の助動詞ツの連体形ツルで結ぶ。幾夜寝たのか
と歌で問いかけた。『古事記注釈』は夜を単位にするのが古い時の数え方とする。万葉歌の例ではすべてヨルヒルの順
になるのであって、古代的な時間観念では夜が起点になる。
夜警のために焚き火を燃やす役目の老人。『古典集成古事記.=は「当時、賎者の仕事一とするが、「御」
は天皇に関係する語につくので、賤者ではない。御火焼の老人は天皇の近き守り人であったはずである。清寧記の「焼レ
火小子」は後に顕宗・仁賢天皇として即位する流浪の少年であった。老人と少子は対照的だが、
う共通項があるし、火焼に身をやつす姿には聖と俗のアンビヴァレントな関係がみられる。景行紀には「乗燭者」とあ
り、老人に付与されたような説話的関心が認められない。
日々並ぺて
つの地名を言ったものか。
新治
酒折宮
H数を重ねての意。力はケの古形で、複数のみに用いられるのに対し、
そこに尊貴の存在とい
ヒは日中の単位を言う(『岩波古
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119 景行記の歌と散文 (I)
歌ひて曰はく、
【解説】
け
な
ら
語辞典』)。ただ、万葉歌に「日並べて(気並而)見ても我が行く」(3.―-六三)の「ケ並べて」の例はあるが、「カガ
老人を誉めて
夜では九夜、昼では十
Hと、夜と昼を別に数えて並べた言い方。類例に、「日八
B夜八夜
以、遊也」(記上巻)がある。正確には夜から始まるので、ここも+夜になるはずだが、『古事記博』は歌問答を行った
倭建命の歌による問いに、老人が機転をきかした答えで歌い継いだ、
である。老人の歌の前文に「御歌に続ぎて」とあるのは、前の歌に続けることで、
その思わぬ知恵と歌オを誉めたの
一見賤しい老人が歌によって日数を的確に答えたことは賞賛に値する出来事だったのである。
「国造」は朝廷が各地の族長に認めた統治制度の称号。「東国」は令制の国とは異なる国の概念て、孝徳紀大化
二年三月に「東方八道」、常陸国風土記・総記に「我姫之道、分ー一為八国二とあり、常陸国・武蔵国などを含む東方八
国の総称とする。制度としての「東国造」はなく、老人への説話的な称号である。新治・筑波から酒折までの日数を知
る老人は、「東国」の統治者にふさわしいとみなされた。日知りという老人の聖なる一面をかいまみせる話である。
酒折宮での片歌問答は、神武記の大久米命と伊須気余理比売のそれに継ぐものである。すでに取り上げたが(「神武
記の立后と謀反」『明治大学教養論集』二
0一七年九月)、参考にするために次に掲げてみる。
と
め
み
あ
や
お
も
みこと
大久米命、天皇の命以て、其の伊須気余理比売の詔りし時に、其の大久米命の諒ける利目を見て、奇しと思ひて
東国造
を意味する。
夜を数えなかったからだろうとする。
夜には九夜日には十日を
並ぺて」の形はみられない。疑問が残るところである。
―つの歌として完全な形になること
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 120
歌問答そのものが皇后受諾の歴史叙述になっているのである。
休して、大久米命、答へて歌ひて日はく、
を
と
め
た
だ
あ
わ
さ
と
め
媛女に直に逢はむと我が割ける利目
故、其の嬢子、仕へ奉らむとまをしき。
これは皇后選定ためのナゾ解き問答で、伊須気余理比売が神武天皇の皇后を受諾する経緯を歌によって説明している。
倭建命と御火焼きの老人の歌問答も、甲斐においてアヅマの征討が終わったことを新治筑波からの日数問答によって
語ろうとしている。酒折宮はアヅマから越えた地である。宮名には酒宴も暗示されている。
歴史叙述が歌問答によって展開されるのである。その征討の結果が東国造の任命であった。
ところが、景行紀ては、詠者を「乗燭者」とし、「聡を美めて、敦<賞す」とあるが、東国造の記述はない。「老
人」をめぐる記・紀の違いはなぜ起こったのか。問答の問の方は日数を下問する歌であるが、天皇・皇子が下問する話
かたち
には返答者が老人になる例がある。例えば、仁徳天皇が「歌を以て騰の卵を生みし状」を問うた建内宿禰は、「汝こそ
は世の長人」と称えられる長寿の人であったし、顕宗天皇に父王の骨の在り処を答えたのも「賤しき老婚」であった。
これらの例から、天皇などの下問に、人々が答えあぐねた末に「老人」か答えるという話型があったことが想定でき
る。答歌の詠者「御火焼きの老人」はそのような話型に位罹づけられる人物である。答歌には毎夜簑火を焚く老人がそ
の役目ゆえに日数を答え得たという理解を伴ったであろう。景行紀ではこうした歌の理解よりも「乗燭者」の漢語が優
先されており、
それは清寧記の「火焼きの小子」が顕宗紀でやはり「乗燭者」になることと重なる。
景行記の筑波問答は「御火焼きの老人」の出世説話のようなものがまずあつて、
っ
っ
ち
ど
り
し
と
と
あめ鶴領千烏ま鴎
さ
と
め
など諒ける利目
アヅマの征討の終了という
そこに問答歌をはめ込んだものでは
じ8)
(=
h-口
l已7)
(1111
nl
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121 景行記の歌と散文 (I)
なかろう。問答歌そのものが倭建命の東征という歴史叙述になっているのである。
四、美夜受比売との御合
【訓読文】
す
な
は
さ
か
の
か
み
こ
と
む
お
は
り
の
く
に
か
へ
き
さ
き
ひ
ち
ぎ
み
や
ず
ひ
め
も
と
しなののくに
其の国より科野国に越えて、乃ち科野の坂神を言向けて、尾張国に還り来て、先の日に期れりし美夜受比売の許に
お
ほ
み
け
た
て
ま
つ
と
き
お
ほ
み
さ
か
づ
き
さ
さ
入り坐しき。是に、大御食を献りし時に、其の美夜受比売、大御酒蓋を捧げて献りき。年して、
おすひの襴に、意須比三字、音を以ゐる。月経著きたり。故、其の月経を見て、御歌に日はく、
あ
め
か
ぐ
や
ま
ひさかたの天の香具山
と
か
ま
わ
た
く
び
鋭喧にさ渡る鵠
ひ
は
ぼ
そ
た
わ
が
ひ
な
弱
細
撓
や
腕
をあれ
枕かむとは吾はすれど
あ
れ
お
も
さ寝むとは吾は思へど
お
す
ひ
す
そ
汝が着せる襲衣の襴に
年して、
たかひか
高光る
やすみしし
あらたまの
美夜受比売、
ひ
み
こ
日の御子
わ
お
ほ
き
み
我が大君
と
し
き
ふ
年が来経れば
つきた
月立ちにけり
こた
御歌に答へて日く、
美夜受比売、
己7)
(11110
2
其の、
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 122
【校異】
久年、美夜受比売、答二御歌一日、
(3)
多迦比迦流
阿礼波意母閑抒那賀祁勢流
其月経↓御歌日、
【本文】
き。
あらたまの
つ
き
き
へ
ゆ
月は来経行く
きみま
うべなうべなうべな君待ちがたに
お
す
ひ
す
そ
つ
き
た
(記
28)
我が着せる襲衣の襴に月立たなむよ
み
あ
ひ
み
は
か
し
く
さ
な
ぎ
の
つ
る
ぎ
も
ち
い
ふ
き
の
や
ま
と
い
で
ま
故年して、御合して、其の御刀の草那芸剣を以て、其の美夜受比売の許に置きて、伊服岐能山の神を取りに幸行し
自二其国越二科野国「乃言二向科野之坂神命皿、還二来尾張国へ入二坐先日所レ期美夜受比売之許『於レ是、献―一大御食一
之時、其美夜受比売、捧二大御酒盤元以献。年、美夜受比売、其、於二意須比之襴へ意須比三字以脅。著―一月経}故‘見二
比佐迦多能
佐泥牟登波
阿米能迦具夜麻
斗迦麻迩
佐和多流久毘
意須比能須蘇年
和賀意富岐美
阿良多麻能
和賀祁勢流
都紀多知迩祁理
意須比能須蘇年
比能美古夜須美斯志
宇倍那宇倍那宇倍那岐美麻知賀多年
故年、御合而、以二其御刀之草那藝鉗↓置二其美夜受比売之許_而、取二伊服岐能山之神一幸行。
(l)底本ほか諸本、「酒」。鼈頭古事記・訂正古訓古事記による。
(2)底本ほか諸本、「梯」。鼈頭古事記・
都紀多々那牟余
登斯賀岐布礼婆
比波煩曽多和夜賀比那哀
麻迦牟登波
阿良多麻能
(4)
都紀波岐閑由 (
2)
阿礼波須礼抒
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123 景行記の歌と散文 (I)
科野の坂神を言向け
所が足柄坂か碓日坂かで、記・紀の東征帰路が違ってくる。
【語釈】
ただし、鼈頭古事記・訂正古訓古事記は二回にする。
(6)底本、「御」ナシ。卜部系諸本による。
(記29)
(記28)
訂正古訓古事記による。
(3)底本ほか諸本、「流迦」。鼈頭古事記・訂正古訓古事記による。
(4)底本、「紀都」。卜部
系諸本による。ただし、曼殊院本・猪熊本・寛永版本は「都紀婆」。
(5)底本ほか諸本、「宇倍那」を三回くり返す。
(ひさかたの)天の香具山近くを、鋭い声でうるさく鳴き渡る鵠。その首のように、か弱くて細い、しなやかなあなた
の腕を枕にしようと私はするけれど、共寝をしようと私は思うけれど、あなたが着ておられる襲衣の裾に、月が立って
しまったことよ。
(高光る)日の御子よ、(やすみしし)わが大君よ。(あらたまの)年が来て去っていけば、(あらたまの)月が来て去っ
ていく。本当に、本当に、本当に、あなたを待ちかねて、私が着ている襲衣の裾に月が立ってしまったのでしょうよ。
其の国より科野国へ越え
甲斐国から科野国へ越えたということ。景行紀が甲斐から武蔵・上野を回って碓日坂に至る
のに対し、足柄坂から甲斐を経て科野国に入り、諏訪湖の近くで東山道に合流するルート。「あづまはや」の三嘆の場
「科野の坂」は信濃国伊那郡と美濃国恵那郡の境にある束山道の御坂峠。長野県伊那郡阿智村と
岐阜県中津川市のあいだの神坂峠とされる。景行紀に、
日本武葬が信濃国の山中で白き鹿と化した山の神を蒜で殺す話
【現代語訳】
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 124
「高光る日の御子
が担う祭祀権の掌握を意味した
先の日に期れる美夜受比売
がある。
それ以来、信濃坂の神の難を避けるため人馬に蒜を塗ったという。万葉集の防人歌には「ちはやぶる神のみ坂
に幣奉り」
(20•四四0二)とある。「神のみ坂」と呼ばれ、
せること。
その神威は通行者に畏怖されていたe
「言向け」は服従さ
前文、「到尾張国↓人二坐尾張国造之祖、美夜受比売之家咽乃雖伝炉将レ婚、亦、思――還
上之時、将一レ婚、期定而、幸二子東国―」を指す。伊勢から東国へ向かう途次、尾張国で美夜受比売と契り定めたが、
結婚はしていなかったのである。「尾張国造二尾張氏」は孝昭記にみえる尾張連のこと。『古事記注釈』はこの氏族は
熱田神宮をいつく職掌にあって、ミヤズヒメは宮主姫つまり巫女の意とする
C
宮主と称する女性は他に、応神記に天皇
と結婚する丸邁氏の女、宮主矢河枝比売がいる。宮主は木幡地方の祭祀者であって、天皇が比売と結婚することは神女
(居駒「蟹の歌応神記・日継物語の方法」『文学』
13|1)。同様に、倭建命にとっ
て美夜受比売との結婚は、祭祀権の掌握による尾張国の征服に他ならない。
大御食・大御酒蓋
月経著きたり
天皇の饗宴を表す儀式用語。応神記・矢河枝比売の話も「大御饗」「大御酒蓋」の後、歌があって
「御合」(結婚)に至る点で類似する。そこに「仕奉」とあるように、天皇の結婚では服従誓約の饗宴が行われた。ここ
の散文が天皇の儀式用語で叙述されるのは、倭建命を天皇に準じて扱う意識とともに、直接には美夜受比売の歌の詞旬
やすみしし
我が大君」(記29)による。天皇の称句に合わせて散文が書かれているのである。
「月経」の訓については、倭名類棗抄に「月水俗云二佐波利―」、類棗名義抄には「月水ツキノサハリ」
ケガレ
とある。『古事記博』は、鼈頭古事記のツキの訓を否定し、「障と云も、稿と云も、月水の出ることを云る称にして、
正しく其物を指て云るには非ず。されば、佐波理著たりなど云むは、いかにぞや聞ゆ」とし、サハリノモノと訓む。月
経と月水を区別するのであるが、『古代歌謡全注釈・古事記編』はツキノサハリまたはサハリと訓んで区別されていな
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125 景行記の歌と散文 (I)
鋭喧に
ひさかたの
方」「久堅」とあり、「
H射す方」や「永く堅い」の意とされる。ヒは
Hと見るべきか。ヒサカタノは「掘形の」が原義
で、ひさご形の天空の意とする井手至の説もある(「日本語の語源」『日本語講座』六)。「天の香具山」は大和三山の一
ものしろ
つで、万葉集にはこの山で国見をする舒明天皇の歌がある。その他、この山の土を「倭国の物実」とする崇神紀十年の
記述や天降ってきた山とする「伊予国風上記」逸文の伝承がある。大和国の聖なる山とみられていた。尾張での話に大
和の香具山が出てくる理由について、『古事記注釈』は「この問答歌は元来、ヤマトタケルの物語とは直接かかわらぬ
演劇歌謡」とし、「ここではミヤズヒメのミヤズが「見合はず」と連動して月水の歌が突如出てきた」と述べている。
しかし、この考え方も独立歌謡の物語への転用説と同様、歌と物語の結びつきの恣意性という問題を抱え込む。権威あ
る伝承に「突如出てきた」という事態は起こらないだろう。鵠が鳴き渡っていく天の香具山は「弱細
な語感を付与するものであって、別の場所でうたわれたとしても違和感はなかったであろう。
と
が
ま
トカマは『厚顔抄』に鋭い鎌の意の「利鎌」とし、六月晦大祓祝詞の「焼鎌乃敏鎌」を引く。もう
と
か
ま
一っ、宮嶋弘の、やかましく鳴く意の「鋭搬」説がある(『立命館文学』
65)。クビは『古事記博』が別案として示した
クグヒガクビ
「鵠之頸」の「鵠」説が妥当である。新撰字鏡に「鵠久々比又古比」とあり、クグヒの約音がクビとみてよい(『記紀歌
謡全註解』)。『記紀歌謡集全講』は垂仁記の「高往鵠之音」を引いてハクチョウのこととする。倭名類衆抄の鶴の項に
「似レ鵠長啄高脚」とあるのは、長クチバシと高アシは異なるが、長い首や大きな鳴き声など他は似ているということ
する。
さ渡る鵠
いようであるとし、与論島の月水を月という例からツキの訓の可能性をも指摘する。ここは歌詞の「月立ちにけり」に
基づく散文叙述なので、
サハリではなく、
天の香具山
撓や腕」に神聖
ツキノサハリと訓んでおく。なお、熱田太神宮縁起では「染二於月水_」と
ヒサカタノは天•月・雨.都にかかる枕詞。語義は未詳だが、万葉歌の訓字表記では「久
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 126
襲衣の襴に月立ちにけり
けの神婚という性格を帯びる。
枕かむとは
吾はすれどさ寝むとは
根白の
ヒハボソは、『古事記博』が平安時代の用例「ひはやか」「ひはず一を示し、「細くたをやかなること」
とする。上代語のヒハの例は見出せないが、弱くて細い、しなやかな腕を言う。腕は、新撰字鏡に「肱腎也肩也下也、
可比奈一とする肩から肘までのカヒナと、倭名類緊抄に「腕太々元岐俗云宇天手腕也」とする肘から手首までのタダムキ
がある。ここでは肘より上の部分を指す。問題は前句「さ渡る鵠」からの続き方である。『記紀歌謡集全講』は「白鳥
の頚は、白く長いので、女子の腕の普喩」ととらえる。それに対して『古代歌謡全注釈・古事記編』は熱田太神宮縁起
繊細」と推定し、「頸ではなくて、両翼をしなわせて飛ぶ姿」「その翼のイメージから「ひは細、
の歌詞を
5
鵠が羽の
撓や」の形容語が引き出されてくるのではないか」とする。だが、これには新しく変形した歌詞を古形とする危険性が
潜む。しかも、歌詞は少なからぬ乱れや崩れを抱えている。やはり、腕の形容としては、形状から言っても、細くしな
やかな鵠の頸からの連想とみるぺきであろう。記上巻の神語には「拷網の
白腕
l
(記61)とある゜羽(翼)と腕では近すぎて古代のダイナミズムを削ぎ落とす結果になる。
旬。御合(結婚初夜)の前に共寝に誘う詞句である。「さ寝」は共寝に限定して用いられる(岩崎良子「さ寝考」『上代
文学』
50)。『古典集成古事記』がここに神と巫女の「一夜婚」を読み取るように、サが付くことで、
汝が着せる
弱細撓や腕を
渡る鵠」はほぽ一致する。
吾は思へど
る。熱田太神宮縁起にはこの部分、「等美和多流
白き腕」(記
5)、仁徳記にも「打ち大根
なのだろう。天の香具山近くをうるさく嗚き渡る鵠、とうたいはじめてここまでを序とし、次の「腕」を起こすのであ
久毘何波久波宮」とあり、後半部が乱れて意味不明であるか、「飛み
しなやかな腕を枕にしよう、共寝をしようという、一一句ずつの対
その共寝は一夜だ
ケセルは「着る」の諄敬語「着す」に完了の助動詞「り」が付いた形。あな
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127
ほぼ限られる。
ろう。万葉集では「高光」五例の他、「高照」七例、「高輝」
一方、「八隅知々」二十例、「安見(美)知々」七例は舒明から孝謙まで広がる。ャスミシシは天皇統治
一例があり、用いられる対象が天武天皇とその皇子たちに
景行記の歌と散文 (I)
例、
H本書紀に四例である。万葉集の訓字表記に「八隅知々」「安見(美)知々」とあるのは、統治するのに八隅と安
らかにの二つの理解があったことを示す。『古事記博』は最初の称句を「天照」「日神の御末」の意とするように、天皇
を天照大御神の子孫に位置づける神話的な用語である。ャスミシシの「八隅」は倭建命の征討と結びつけられたのであ
古事記に四例、「高光る
日の宮人」が一例、
しかし日本書紀にはない。「やすみしし
我が大君」の方は古事記に四
ャスミシシは「我が(ご)大君」の枕詞。天皇に用いる称句を――つ重ねて、倭建命を称える。「高光る
日の御子」は
高光る
日の御子
我が大君
述したことになる。
たが着ておられる、
の意。オスヒは記上巻の神語に「襲衣をも
いまだ解かねば」(記
2)と出てきた。男女ともに着
あ
れ
こ
我は祈ひなむ」(万3•
三七九)
とあるように、女性の祭祀用の衣装としても用いられた。ここでは美夜受比売が饗宴の儀式衣装として着ている。足も
ヲ
ミ
ナ
ツ
キ
ノ
サ
ハ
リ
とまですっぽりと着ている襲衣の裾に、ということ。「月立ちにけり」について、『古事記偲』は「婦女の月水は、
カ
ク
ヒ
ソ
レ
ッ
キ
月々にめぐりて出る物なる故に、其が著て見えたるを、天に月の出たるに比へて、如此云なし給へる」とする。この旬
に、襲衣の裾に月水が付く意と、空に月が出る意の重なりを見るのは、『古代歌謡全注釈・古事記編』『新編全集古事
記』なども同じである。新月が現れる意と月経が始まる意とを懸けるとするのは『古典集成古事記』だが、「月立つ」
には月が出る意の用例があり、新月とは限らない。散文では、月経が始まるのはなく、月水が裾に付いたとあるから、
それが歌の理解であった。歌の方は月の出と月水の二重の意味になっているが、散文には月水の方だけを取り出して叙
やすみしし
タカヒカルは「
H」の枕詞であるが、
用する上衣。大伴坂上郎女の祭神歌に「たわやめの
おすひ取りかけ
ほとんどが「Hの御子」にかかる。
かくだにも
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 128
君待ちがたに
を示す政治的な称句であるのに対し、
タカヒカルの神話的称句は天武から草壁皇子、
廷儀礼歌と深くつながることを、この称句は示唆している。
そして軽皇子(文武)
への
H継を
表す王権の用語として歌語化された。倭建命に天武持統朝における天皇像の起源が求められたことになる。それは倭建
命の御葬歌が天皇の大御葬の起源になることとも重なる。同時に、古事記の歌が天武とその皇子たちの周辺にあった宮
あ
ら
た
ま
の
あ
ら
た
ま
の
月
は
来
経
行
く
た
ま
あ
ら
た
ま
ゆ
か
へ
丑の月立つまでに」
(8.一六―
10)、「荒瑛の年行き反り」
(17.三九七八)とある。倭名類衆抄に「嘆安良太万玉未レ
アラタマノは「年」「月
l
「来経」などの枕詞。万葉歌に_荒
理也」とあり、「環」は磨いていない玉を示すことから、砥石の卜あるいは卜(鋭)シを引き出して年にかかる説があ
る。月にかかるのは年の用法の転用と考えられている。しかし、砥・鋭は甲類、年の卜は乙類の仮名なので、この説は
成り立たない。『時代別国語大辞典・上代編』はアラタに接尾語マが付いた形と考えれば、新たな時が改まり来る意で
「年」「月二来経」にかかることを統一的に説明できるとするe
『古代歌謡全注釈・古事記編』はタマが年ごとに更新す
る古代的観念から「新魂の年」とする。接尾語マの説明がしにくい点や「新魂一の表記がない点など両説には難点があ
り、いまは未詳とするほかないが、万葉歌の段階では「荒玉」と理解されていた。「年が来経れば」は倭建命が「先の
Hに期れる」からまた尾張に戻ってくるまで長い時が経過し、年が新しく移り変わったことを言うe
また「月は来経行
く」は「月立ちにけり」を時が経過した意に受け取って、結句「月立たなむよ」の理由付けをする。歌と散文との関係
で言えば、倭建命が往路の尾張国で「思二還上之時、将一レ婚、期定而」とし、復路で「先の日に期れる美夜受比売の許
に人り坐しき
l
とする散文は、対旬で表現される時間の経過の叙述になっている。ここでは美夜受比売がいかに長い時
間、倭建命を待ち続けたかをうたい、結句「月立たなむよ」の伏線になっている。
うべなうべなうぺな
年が来経れば
ウベナはもっともなことと同意する副詞。建内宿禰が仁徳天皇に答えた歌に一我
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129 景行記の歌と散文 (I)
富んだ歌の応酬になっているのである。
我が着る」と二回くり返すのが通例で、鼈頭古事記以ドもその形式だが、底本以下諸本は三回のくり返しになってい
る。長い間待っていた倭建命への同意をより強調することで、
は倭建命で、一待ちがたに」は待ちかねての意。『時代別国語大辞典・上代編』はガタニに、困難さを表す形容詞的接尾
語ガタシの語幹に助詞二が付いたとする説と可能を表す動詞的接尾語カツの未然形に打消の助動詞の連用形二が接した
とする説を挙げ、形容詞の語幹に二が付いて副詞化する用例がいくつもあることから、前者が穏当とする。もう待つこ
とができないという、美夜受比売の切実な思いを表出する語である。
我が着せる
衣の裾に月が立ってしまったと答える。「月立たなむよ」の結句は「月は来経行く」を受けるので、月水が付く意に、
月が移り新しくなるという時間の経過を重ねている。問歌の結句に別の意味を付加して切り返す答歌の性格がよく出て
いる。「沼せる」のケスは「着る」の尊敬語で自称敬語になっているが、問歌の「着せる」をそのまま受けて「我が」
にしたのである。立タナムヨは『古事記博』『記紀歌謡集全講』が立チナムヨの古形とする。しかし、
詞で、「月立ちにけり」に対して未来を推量するのは、不可。坂倉篤義は立タナムヨのナを完了の助動詞リの未然形ラ
がナに変化したものと説く(『万葉』
26)。『新編全集』はナを打消ズの未然形の古形とし、「何の差し障りがあろうか」
と解する。問歌の結句が完了した事態を言うので、答歌の結旬もそれと整合させて完了ととらえておく。倭建命の問歌
で、月が出てあなたに月水が付いてしまったと、共寝がかなわないことに不満をうたうのに対して、美夜受比売の答歌
ではあなた様の訪れか遅くて月が替わり、月水が付いてしまったのでしょうよと言い返して相手をやりこめる、機知に
が大君は
襲衣の襴に
うぺなうべな
我を問はすな
l
(紀50)、熱田太神宮縁起の類歌にも「君待ちがたに
月立たなむよ
うべなうべなしもや
そこに皮肉をこめて相手をやりこめる意図がある。「君」
問歌の結句にうたう、月の出と月水が付く意を受けて、私が着ていられる襲
ムは推量の助動
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 130
伊服岐能山の神
されている。
ミアヒは結婚の意。『古代歌謡全注釈・古事記編』は「月経中の女がタブーと
、、
されることからすれば、月水に関する問答歌の後にすぐ続いてこの句があるのは不審」、また「其の御刀の草那藝剣を
……」も唐突で不明とし、「この歌問答の後に草那藝剣に関する話があったのを省いたのかもしれない」と推測してい
る。しかし、本文のままで読み解くことが大前提であって、不審・不明だからといって別の本文を想像することは避け
なければならない。折日信夫は、月のものは神の処女の目印であったとし、「まれ人を迎える場合、「おすひ」の裾に月
経がついていてもとがめられなかった」(一月および槻の文学」『折口全集』ノート編2)と述ぺている。人にはタプ)
の月経が神には許されるという古代的観念が介在しているとみられる。その神と同一視されるのが歌詞の中の「日の御
子」である。
つまり一日の御子」としての倭建命(天皇に準ずる存在)において許されるという散文叙述になってい
る。『古典集成古事記」がここに神と巫女の二夜婚」を読み取るのも同様の考え方である。「其の御刀の草那芸剣」
も、古事記の文脈において理解できるはずである。それは相武国の火難の際に、「以――其御刀一刈己翌早―」とある箇所で
ある。その御刀こそ草那芸剣の命名の由来であり、
その一文を受けて「其の御刀の草那芸剣」の散文叙述があるとみな
ければならない。草那芸剣を「美夜受比売の許に置きて」伊吹山の神を取りに行くと続くのは、後出の「嬢子の」(記
33)の歌による。「床の辺に我が置きし剣の大刀」の歌詞によってこの部分の散文が叙述されている。相武国の火難、
美夜受比売との御合、「嬢子の」の歌による美夜受比売の回想が、草那芸剣を通して互いに関連する構成なのである。
日本書紀によれば、草薙剣が天武天皇に祟ったため、尾張国の熱田社に送り置かれたという(天武紀・朱鳥元年六月)。
景行紀の、剣を宮簑媛の家に置く話は、熱田社の草薙剣の起源諏になっており、古事記の文脈とは異なる意味付けがな
近江国と美濃国の境にある伊吹山。イフキは息吹きの意で、後文に白き猪と化したこの山の神が大氷
御合して、其の御刀の草那芸剣を以て
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131 景行記の歌と散文 (I)
た日継の思想とも密接につながる語である。
雨を零らしたとあるように、山の神の息吹きが風雨の悪天候をもたらすと見なしてイフキの山と名付けたのであろう。
景行紀四十年是歳にも「山神之興恥去零レ氷」とある。
この唱和歌で注目したいのは、美夜受比売の歌に古事記では初めて「高光る日の御子」と「やすみしし我が大君」の
天皇称句が出てくることである。しかも、天皇ではない倭建命に用いられている。「高光る日の御子」は日本書紀にな
く、他に古事記の仁徳と雄略の二天皇のみに用いられ、「やすみしし我が大君」は古事記において雄略、
いては仁徳・雄略・勾大兄皇子・推古に見られる。古事記では倭建命・仁徳・雄略だけにきわめて限定的に用いられ、
そこに特別な意図があったことは明らかであろう。
その山の神を祀る神社が、近江国坂田郡に伊夫伎神社、美濃国
H本書紀にお
この称旬が用いられる倭建命は古事記中巻、仁徳・雄略は下巻であることを考えると、仁徳以下下巻の天皇たちの起
源が倭建命に求められたことがわかる。二つの称句とも理想の天皇像を描くものであるが、古事記にとって特に重い意
味をもつのは「高光る」の方である。それは日本書紀になく、古事記だけに出てくることからもわかる。
大御神につながる日の御子として皇位を継承してきたことを表すのが「高光る日の御子」であり、古事記が書こうとし
「高光る日の御子」と「やすみしし我が大君」で表す天皇像は、倭建命を起源として下巻の天皇たちに受け継がれて
いく。そのような古事記の構想が倭建命と美夜受比売の唱和歌に示されているのである。倭建命の死を「崩」で表記
し、天皇に準じて扱うのもそのことと関係する。さらに、倭建命の御葬歌が天皇の大御葬の起源になることともつな
【解説】
不破郡に伊富岐神社と、両側にある。
つまり、天照
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 132
都紀加佐祢
岐美麻知何多佑
宇倍那宇倍那志栂夜和何祁流
意須比乃宇閉年
阿佐都紀乃其止久
都紀多和年
夜須美志々
和期意富岐美
比乃美古
岐閉由久止志乎止志比佐年
其止久
岐弥牟等
和伎毛古那何祁西流
意須比乃宇閉爾
麻蘇義
多曽多曽知夜何比那乎麻
日本武尊覧レ之、即歌云、
【本文】
参考までに『神道体系神社編
これまで取り上けてきた唱和歌は、尾張国熱田太神宮縁起に記載されていることが知られている。巻末文によれば、
この縁起は貞観十六(八七四)年春に神宮別当の尾張清稲が古記の文を捜し、遺老に問うて編集したものに、寛平二
(八九())年十月に国守藤原村椙か筆削して一通は公家に進上し、
これは本文を見る限り、記・紀を参考にして書かれたことは明らかで、その成立は鎌倉時代初期と見られている。こ
れをもって倭建命と美夜受比売の唱和歌が在地伝承としてあったとすることはできない。むしろ、記・紀所載の本文が
平安時代から鎌倉時代にかけてどのように享受され、変容していったかという資料としてとらえるぺきである。
役レ駕還二着於宮酢姫宅↓干’>時献二大御食↓宮酢姫手捧二玉盤一以献上、彼姫所レ着裾衣裾、此云二意須比「染i
一於月水↓
乎皮理乃夜麻等
都紀多知年祁理
宮酢姫奉レ和云、
熱田』から倭建命と美夜受比売の唱和歌に関係する本文を示し、その訓読文を記す。
許知其知能
和例波母弊流乎
夜麻乃加比由
与利弥牟止
多加比加流
等美和多流
和例波母弊流乎
阿良多麻乃
久毘何波久波富
阿佐都紀乃
美古麻知何多年
一通は社家、
一通は国術に留め置いたとする。
がっている。
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133 景行記の歌と散文 (I)
五、尾津前の一っ松
ちがたに
駕を役して宮酢姫宅に還り着く。時に大御食を献りて、宮酢姫手づから玉盤を捧げ献上る。彼の姫の着せる裾衣裾、
此を意須比と云ふ、月↓小に粕衣む。日本武尊之を覧て、即ち歌ひて云はく、
尾張の山と
寄り寝むと
やすみしし
わご大君
こちこちの
うべなうべなしもや
【訓読文】
あ
こ
こ
ろ
つ
ね
そ
ら
か
け
ゆ
お
も
し
か
た
ぎ
の
ヘ
其処より発たして、当芸野の上に到りし時に、詔りたまひしく、「吾が心、恒に虚より翔り行かむと念ふ。然れど
あしあゆ
も、今吾が足歩むこと得ずして、たぎたぎしく成りぬ。当より下六字、音を以ゐる。」。故、其地を号けて当芸と謂ふ。其地
や
や
す
こ
い
で
ま
は
な
は
つ
か
よ
み
つ
ゑ
つ
や
く
や
つ
ゑ
つ
き
さ
か
い
お
つ
さ
き
より差少し幸行すに、甚だ疲れたるに因りて、御杖を衝きて梢く歩む。故、其地を号けて杖衝坂と謂ふ。尾津の前の
み
う
た
ひ
と
ま
つ
も
と
ま
さ
き
み
を
し
―つ松の許に到り坐すに、先に御食せし時に、其地に忘れたる御刀、失せずして猶有り。年して、御歌に日はく、
我が着る襲の上に朝月の如く月立ちにける
高光る
Hの御子
宮酢姫、和し奉りて云はく、
へるを
まそげ
【訓読文】
祁流
汝が着せる
あらたまの
来経行く年を
我は思へるを我妹子
襲の上に朝月の如く月立ちにけり
山の狭ゆ飛み渡る鵠かひくはふ
年久に御子待ちがたに月重ね君待
たそたそちや腕を
枕き寝むと
我は思
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明治大学教養論集
尾張に直接向いている、尾津の前にある一本松、お前さんよ。もし一本松が人であったなら、大刀を慨かせようものを。
【現代語訳】
【校異】
岐奴岐勢麻斯哀
(l)底本、「愈」。底本の右傍書「念御本」による。
(2)底本ほか諸本、「形」。国民古典全書『古事記』に
よる。
(3)底本ほか諸本、「固」。訂正古訓古事記による。
(4)底本、「哀哀」。卜部系諸本による。
哀波理迩
自二其処一発、到二当藝野上一之時、詔者、吾心恒念二自レ虚翔行辺然、今吾足不二得歩へ成ー一当藝当藝斯玖咽自レ当下六字
似音。故、号_一其地玉匹当藝一也。自―一其地_差少幸行、因_一甚疲ー衝二御杖一梢歩。故、号二其地玉四杖衝坂一也。到_一坐尾
津前一松之許↓先御食之時、所レ亡竺其地一御刀、不レ失猶有。年、御歌日、
多陀迩牟迦弊流
比登都麻都
阿勢哀
哀都能佐岐那流
通巻532号 (2018• 3)
【本文】
―つ松
た
ち
は
大刀楓けましを
ひ
と
ま
つ
―つ松
あせを
134
を
は
り
た
だ
む
尾張に直に向かへる
お
つ
さ
き
ひ
と
ま
つ
尾津の前なる一っ松
ひと人
にありせば
き
ぬ
き
衣着せましを
あせを
比登都麻都
阿勢哀
比登都麻都比登迩阿理勢婆
(4)
多知波気麻斯哀
(記
29)
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135 景行記の歌と散文 (I)
着物を着せようものを。
岐阜県投老郡没老町にある養老の滝周辺という。倭名類漿抄に美濃国多芸郡があり、延喜式神名帳にも同郡に
多伎神社かみえる。天平
t二年、聖武天皇の美浪国巡幸時の万葉歌に、「美浪国の多芸行宮」での歌が二首あり、その
い
に
し
へ
み
や
つ
か
た
ぎ
うちの大伴家持の歌に「田跡川の滝を清みか古ゆ宮仕へけむ多芸の野の上に」
(6・10三五)と出てくる。この歌
によれば、宮廷の故地だったらしく、聖武一行は伊勢国三重郡、桑名郡を経て美濃国の多芸に至る。倭建命はその逆に
なるが、近江、美濃から伊勢へ通じる古道に多芸があったことがわかる。
うとの気持ちを表す。しかし、実際は足が疲れて歩けない。心の内の願いは悦去後の白鳥翔天の段で実現する。「虚よ
り翔り行かむ」は倭建命の魂の行方を語る散文「天に翔りて……飛び行きき」と対応し、
(記35)に后と御子たちが白烏を追い行く表現「空は行かず
たぎたぎしく
心では空を飛んで行きたいという意。故郷の大和国へ、
そして家族のもとへ早く帰ろ
それらは白烏翔天の二首目
凹凸、深浅を形容する語。常陸国風土記・行方郡に「車駕所レ経之、道狭地深浅。取ー一悪路之義_‘謂ニ
之当麻。俗王多々支々斯」とあり、
タギタギシは道のでこぽこを表す土地の言葉という。また当芸志美美命について、
緩靖即位前紀に「包二蔵禍心ことあるように、
タギシは曲がった心と理解されていた。『古事記注釈」は「足が腫れて
ひん曲がった」とするなど、足か曲かって引きずる意と解されているように、足がぐにゃりと曲がって歩けない状態て
ある。『古事記注釈』が言うように、多芸がそもそも滝に由来する地名とすれば、
地名起源となる。
吾が心、恒に虚より翔り行かむ
当芸野
【語釈】
一本松、お前さんよ。
それを説話的に読み換えた二次的な
足よ行くな」があるのと照応する関係で叙述される。 (記
29)
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 136
尾張に直に向かへる
いう歌詞の叙事を読み取ることから生成されるとみられる。
忘れたる御刀
「先に」の原則が当てはまらないことになる。
あせを人にありせば大刀楓けましを一と
三重県四日市市采女町にあり、多芸と尾津のあいだの坂とされる。『古事記博』は「此坂は、三重郡にて、采
女村の西に在て、今も杖衝坂と云り。三重と能煩野との間なり」と述べ、渡会延佳の説を引いて多芸↓尾津↓三重・ふ杖
衝坂↓能煩野とあるぺきを誤って伝えたとした。『思想大系古事記』は多芸から尾津に抜ける道にあったとしても不自
然ではないとする。しかし、この地名の順序に正確な地理的位置を求めても、あまり意味がない。この部分の地名が死
に瀕した倭建命の苦しい道行きを語っているのであり、地名起源説話のつながりによって東征の最後の場面を叙述する
のである。ここには正確な地理的関係など最初から求められてはいない。なお、景行紀四十年是歳では伊吹山から尾張
に戻った後に、伊勢国桑名郡の尾津に行くことになっており、多芸野・杖衝坂の記述はない。
東国への往路において尾津前で食事したことを指す。「先に一は前文を受けるが、往路における伊勢
から尾張のあいだの叙述はない。景行紀四十年是歳には、「尾張に」(紀27)の歌の前文に、「昔日本武尊、向レ東之歳、
停_一尾津浜盃皿進食」とあって、尾津浜に立ち寄って食事をしたことが「昔」として書かれるので問題はない。古事記
では往路における尾津前での食事を「先に」の出来事として補って読む必要がある。この場合、前文を受けるという
往路の時、尾津前の一っ松の許に忘れていった御刀のこと()刀がなくならずにまだあったとする話は、
帰路において東征の出来事を振り返る意味がある。美夜受比売のもとに置いてきた草那芸剣とは別だが、御刀の話とし
て互いに関連する。かつて忘れた刀の話を呼び起こす散文は、二つ松
尾津前が尾張に直接向いているという意。尾張が真向かいにみえるというだけでなく、『古事
記注釈』が指摘するように、文脈としては別れてきた「美夜受比売の許」を遠くに望むことを言う。「直に向へる」は、
先に御食せし時
杖衝坂
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137 景行記の歌と散文 (I)
板にもが
あせを」(紀76)と出てくる。しかし、景行紀
に、剣掛松と云て、
尾津の前なる
ーつ松あせを
と散文の枠組みになっている。
敏馬の浦を過る時の山部赤人の万葉歌に「淡路の島に直向かふ敏馬の浦」
(6・九四六)とあるように、旅で通過する
時の土地讃めの表現であるが、「背の山に直に向かへる妹の山」(7.―-九――-)とあり、妹背の向かい合う様としても
用いられる。倭建命の歌には美夜受比売への思慕と別れの意を含むが、境界の地で別れを告げる相聞歌の様式がこの歌
―つ松は境界の目印、海から見れば山当てとなる松である。「尾津の前」は海に突き
出た伊勢国の岬で、尾張国との境の地であることから、手向けの奉幣飲食が行われた。散文の「御食」はそれを示す。
い
く
ぢ
ひ
と
も
と
も
と
万葉歌「―つ松幾代か経ぬる」(6
.-0四二)の題詞に「活道の岡に登り、一株の松の下に集ひて飲む」とあるのも、
松の下での酒宴である。境界の地で、思いを寄せる美夜受比売を振り返るのである。景行紀の歌詞には「尾津の前な
る」がなく、散文に尾津浜とある。尾津は桑名市多度町にある地名とされ、『古事記博』は「今もかの八剣宮と云地
其蹟をのこせり」という。多度町小山の道の側には船着社という神社があるから、かつては揖斐
川などの河口か海岸に接していた。小山とその東の戸津に式内社の尾津神社がある。ただ、「前」は山から突き出た先
端を指すから、平坦な地ではない。『
H本書紀通証』は『勢陽雑記』を引いて「此松号日二剣掛松位又溝野村与二尾津―
相隣。(中略)村西有二八剣祠ことする。溝野村は現在の多度町御衣野で、坂の上にせり出した岡に草薙神社(尾津神
社とも)があり、「日本武尊尾津前御遺跡」の碑が立つ。境内には衣掛松の朽ちた根を保存する小祠がある。『古代歌謡
全注釈・古事記編』はこの地について東・南は山で歌詞に合わないから不適とするが、尾張方面に開けていて眺望がき
く。「尾津の前」は諸説あって確定できないものの、多度町周辺の地で熱田あたりを望む山並みの突端と見られる。「あ
メ
デ
ウ
ッ
ク
シ
シ
タ
シ
せを」は囃し詞で、『古事記博』は「吾兄よ」の意に解し、「松を賞愛み親みて詔へる」とする。雄略天皇条の歌に
わきづき
も
「
脇
机
が
下
の
あ
せ
を
」
(
記
103)、「在り丘の上の榛が枝
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 138
―つ松人にありせば
尾張に直に向かへる直に向かへる
あはれ」に変わり、末尾にこの句はない。雄略記の重出歌(記97)の
場合はこの句が省かれている。記と紀のあいだにみられるこの句の有無は、唱謡に近い歌詞を記載するか否かの違いで
ある。現在、「吾兄を」を通説とするが、『古事記注釈』は「こらさ」「よいよい」に似た詞句という別案を示す。この
句はすべて木・板に付くから、人に擬えて「お前よ」とか「あなたよ」という親しみを込めた呼びかけともとれる。
「せば
Sまし」は反実仮想、「を」は詠嘆c
景行紀の重出歌(紀27)では一衣着せましを
ている。唱謡から記載の過程で歌詞の整理が行われ、大刀よりも衣の方か先という判断が働いた結果であろう。「あせ
いはびと
を」の囃し詞も省略されている。松の木を人に見立てるのは、万葉歌に「松の木の並みたる見れば家人の我を見送ると
立たりしもころ」
(20•四三七五)があり、常陸国風土記・香島郡童子松原の条に、那賀の寒田の郎子と海上の安是の
嬢子が松の木に成る話がある。このような人間と木の同類共感は古代的な思考法に基づくものである。
この歌と景行紀の重出歌との大きな違いは第二句の「尾津の前なる」の有無と大刀・衣の順序である。その他に最後
の「一っ松
易に判断できる。そのような詞形の比較と検討を通して、『古代歌謡全注釈・古事記編』は元来次のようにうたわれた
と推定する。
【解説】
衣着せましを
あせを」のくり返し句が重出歌にないことから、景行記の歌の方がより唱謡形式を保存していることは容
衣着せましを
人にありせば大刀侃けましを
衣着せましを
―つ松
にある重出歌(紀27)の該当箇所では一―つ松
アハレ
大刀偏けましを」と逆になっ
―つ松を人に見立てて褒める表現。囃し詞「あせを」と呼応するo
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139 景行記の歌と散文 (I)
望できる最後の場所と認識されていたのであろう。
「―つ松」の歌は元来伊勢地方の民謡で、
それを倭建の物語に取り入れたものであることは、
(20•四四一一三)
(20•四四――-)
後にくり返しの第一二旬を「尾津の埼なる」に変え、第八句を「大刀侃けましを」とうたうようなったとし、景行紀の歌
ほぼ疑いない。
この見解によれば、景行紀の歌の方が原形に近く、唱謡形式をより保存している景行記の詞形が新しいことになる。
さらに「尾津の前」の地名が後の改変とする点などは、この地名句のもつ意味から言って疑問が残る。
「尾津の前」の地名は、この歌が倭建命によってなぜうたわれているかという問題と直接関わる。語釈にも指摘した
ように、尾津の前は海(河口)に突き出た岬で、尾張と伊勢の境界の地であった。この地は尾張の美夜受比売の家が眺
と述べている。
つまり、美夜受比売に別れを告げる場所である。そのような境界の
地では別れの歌が詠まれる。
い
は
み
た
か
つ
の
や
ま
こ
ま
石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか
は
み
し
の
我が行きの息づくしかば足柄の峰這ほ雲を見とと偲はね
いは
足柄のみ坂に立して袖振らば家なる妹はさやに見もかも
いずれも妻との別れを詠んだ万葉歌である。最初の歌は柿本人麻呂が高角山を越えると妻の家がみえなくなるという
場所で詠んでいる。後の二首も足柄の坂を越えると妻の家がみえなくなるので、そこで別れの歌が詠まれる。足柄は武
蔵国と相模国の境界であった。境界の地は離別の歌が詠まれる場所として認識されていたことを示している。
「尾津の前」もここを過ぎると尾張がみえなくなるという境界の地であり、別れの歌が詠まれる場所と考えられる。
この歌には万葉歌のような「見る」の語が詠まれていないが、「直に向かへる」は直接みえるという意を含む。「一っ
詞を第一変化、景行記を第一一変化の詞形とみた上で、
(2.一―-三)
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 140
【訓読文】
そ
こ
い
で
ま
み
へ
の
む
ら
い
た
と
き
ま
た
の
り
た
ま
あ
あ
し
ま
が
り
ご
と
は
な
は
つ
か
か
れ
其地より幸して、三重村に到りし時に、亦、詔ひしく、「吾が足は三重の勾の如くして、甚だ疲れたり」。故、
な
づ
、
そ
こ
い
で
ま
の
ぽ
の
く
に
し
の
う
た
い
其地を号けて三重と謂ふ。其より幸行して、能煩野に到りし時に、国を思ひて歌ひて日はく、
や
ま
と
く
に
倭は国のまほろば
た
た
あ
を
か
き
畳なづく青垣
叫
町
れ
る
酎
し
剛
し
(記30)
六、能煩野での望郷歌
宮廷における変容である。
程で省かれたとみた方がよい。
松」は境界を示す目印であるが、
その擬人化は別れを告げる人物、すなわち倭建命みずからを重ねていることになる。
大刀は倭建命の分身と考えられることからもそれは妥当な見方である。歌の大刀の詞旬「大刀楓けましを」から散文の
「其地に忘れたる御刀、失せずして猶有り」が叙述されてくるのだが、忘れた大刀はその地に自らの分身を残し置くこ
とで無事の掃還を願う呪術的な行為という思考がその背景にあった。その思考には尾津という地の境界性が深く関わっ
ている。この歌には「尾津の前なる」の地名が最初から不可欠であったのである。景行紀では唱謡の歌詞を整理する過
このように検討してくると、伊勢民謡を倭建命物語に取り入れたとする見解は成り立たない。決して伊勢の民謡その
ものではなく、倭建命の東征という宮廷史を伝える歌として宮廷で唱謡された歌に他ならない。記・紀の歌詞の違いは
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141
此歌者、思レ国歌也°又歌日、
此者片歌也。
波斯祁夜斯
和岐幣能迦多用
景行記の歌と散文 (I)
伊能知能麻多祁牟比登波
又歌日、
夜麻登波
野一之時、思レ国以歌日、
久年能麻本呂婆
【本文】
はしけやし
かたうた
此は片歌ぞc
又、歌ひて日はく、
わ
ぎ
へ
か
た
我家の方よ
多々美許母
久毛草多知久爵
多々那豆久
雰距如ち来も
匁、歌ひて日はく、
い
の
ち
ま
た
ひ
と
命
の
全
け
む
人
は
た
た
み
こ
も
へ
ぐ
り
や
ま
畳薦平群の山の
う
づ
さ
く
ま
か
し
熊白構が葉を昏華に挿せその子
くにしのひうた
此の歌は、思国歌そ。
(l)
幣具理能夜麻能久麻迦志賀波哀
阿哀加岐
宇受年佐勢
夜麻碁母礼流夜麻登志宇流波斯
曽能古
自二其雌幸、到三一童村一之時、亦詔之、吾足如三二重勾_而甚疲。故、号――其地玉叩――一璽↓自レ其幸行而、到一_能煩
(記
32)
己l)
(1111a
3
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 142
大和は国の中に籠るすばらしい地だ。重なりあって続く青い垣、その連なる山々に籠っている大和は、満ち足りて美し
命の強く健康な人は、(畳薦)平群の山の大きな樫の木の葉をかんざしとして髪に挿せ。お前たちょ。
三重村
雄略記に「伊勢国の三重採」、天武紀六月に「三重郡家」、倭名類緊抄に「伊勢国三重郡采女郷」とある。『古
三重の勾の如く
三重にねじれ曲がるように、
の意。「勾」は折れるのではなく、ねじれること。倭名類衆抄に「楊氏
和名萬加利」とあり、藤蔓のようにねじれ回る形状をマガリという。足が三重にねじれ曲
ク
ノ
ポ
ト
コ
ロ
能煩野鈴鹿山脈の南、能登山の東麓一帯を指す。亀山市能褒野町のあたり。『古事記博』は「漸に登る地なれば、
ナ
ノ
コ
コ
ロ
ノ
ポ
ノ
Jポリ
名義登り野なるべし」と言い、「野登山」も同じ名義とする。この地は伊賀上野を経て大和国に至る入り口に当る。
ここまでの当芸野・杖衝坂・尾津前・ニ-重村・能煩野の地名は、通説では当芸野・尾津前・三重村・杖衝坂・能煩野の
順を誤ったとされる。しかし、これは実際の交通ルートではなく、死の道行きのために選ばれた物語上の地名とみた方
がって杖を突いても歩けなくなるのである。
漢語抄云榎餅形如藤葛者也
事記博』は采女村(四日市市采女町)
のあたりという。
【語釈】
なつかしい、我が家の方から雲が湧き立ってくるよ。
(記
32)
(記31)
いことよ。
(記30)
【現代語訳】
【校異】
(1)底本、「弊」。右傍書による。
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143 景行記の歌と散文 (I)
青垣
J
の場合クニはホロをとり囲む国土の意となる。
上の大和国を言うのではない。
倭は国のまほろば
がよい。地名が物語の一部になっている。当芸野・杖衝坂・三重村が倭建命の苦難を地名起源とするのはそれを示して
いる。能煩野も「大和の方へのぽって行く意をあらわす想像上の野」(西郷信綱「ヤマトタケルの物語」『古事記研究』)
とされ、また倭建命の魂が天に昇っていくことを予感させるのぽり野、
名とみられる。
るように、
畳なづく
国を思ひて
畳なづく
故郷の大和国に遠くから思いを寄せること。シノフは允恭記に「国をも偲はめ(斯怒波米)」(記89)とあ
フは清音で、心が引き寄せられる、思慕するの意。倭建命が死に臨んで大和国に思いを馳せてうたったとす
る説明の散文。直接には次の歌詞「倭は国のまほろば」(記30)に対応するものだが、三首全体の説明になっている。
「倭」は後句に「山籠れる倭」とあるので、山々に囲まれた大和盆地を指す。五畿の一っ、行政
マホロバはマが美称の接頭語、ホが「国の秀も見ゆ」(記41)の「秀」、すなわち小高く
突き出ている地の意、ラ・マは接尾語と説かれてきたが、後句とのつながりや二つの接尾語がつくという説明に難点が
ある。景行紀の重出歌では「国のまほらま」(紀22)となっており、
ホラ・ホロは同語である。この点について『稜威
言別』がホラとは「内はほらほら、外はすぷすぷ」のホラで、洞と同様、「内の空虚なるより云」とし、「聞こし食す
国のまほらぞ」(5.八
00)の万葉歌の例を挙げている。『古事記注釈』もこれを支持し、「畳なづく
青垣」との続
きからも真秀説よりも真洞説の方が妥当とする。やはりここは「真秀」の突き出た地ではなく、山々に囲まれた「真
洞」すなわち盆地状の籠りの地とすべきである。これは山の上からの視点でとらえた国見歌系の国讃め句とみられる。
山々が重なり合う青い垣根の様。タタは類衆名義抄に「畳夕、ミタ、ムカサヌ」とあるように、重な
ること。ナヅクはくっつき合う意。タタナヅクは万葉歌に「吉野の宮は
青垣隠り」
(6・九ニ――-)「畳なづ
つまり白鳥翔天の地として選ばれた物語上の地
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3)
また乞食者の詠の鹿の歌に「その皮を
平群の山に
は雄略記に「畳薦
畳薦
タタミコモは薦をたたみ盾ねる意のヘ
方とは位相が異なる。
の新たな光にみちた大和のさまをほめたもの」と、初春における予祝的景観を指摘している。豊穣を求め予祝する大和
への国讃めは、大和国に引き寄せられる倭建命の心そのものを表しえたのである。
イノチのイは息、チは勢力で息の勢いが原義という(『岩波古語辞典』)。
という意。生命の根源的な霊力が盛んな人を言い、この歌の表現としては若くて壮健な人を指す。景行紀の重出歌には
「命のまそけむ人は」(紀23)とあるが、マソシはマタシと同一語とは言えないとされる(『時代別国語大辞典・上代
ま
た
ま
た
編』)。万葉歌では「我が命の全けむ限り忘れめや」
(4•五九五)、「まこと我が命全くあらめやも」
(12・ニ八九一)、
また
「命をし全くしあらば」
(15•三七四一)のように、「命/マタシ」は相聞歌に用いられ、この歌の儀礼に関わるうたい
平群の山の
(重)から同音の平群のへにかかっていく枕詞。平群の山は
大和国平群郡の山だが、大和志は平群谷の上方とし、『古代歌謡全注釈・古事記編』は八田丘陵と推定する。この枕詞
こもたたみ
平群の山の」(記
90)とみえる。万葉歌には「薦畳
た
た
み
さ
畳
に
刺
し
八
重
畳
命の全けむ人は
きづ島
山々に籠っている大和というのは、意味的に「倭は
シは抽象的な美しいの意ではなく、地霊が活動し満ち足りた状態を表す。それは舒明天皇の国見歌に「うまし国そ
大和国は」
(1・ニ)とあるウマシに通じ、豊穣のイメージを伴う予祝的詞句である。『古事記注釈』は「初春
山籠れる倭し麗し
られる。この語、次の歌の「畳薦平群の山の」とつながりをもつ。
144
せせばたたなはる
く青垣山の隔りなば」
(12•三一八七)があり、青垣の形状・様態を表す修飾語で枕詞化している。吉野讃歌「国見を
青垣山」(1•三八)のタタナハルは孤例で、柿本人麻呂によるタタナヅクからの転用造語とみ
平群の朝臣」
(16•三八四三)と逆の語順、
四
月
と
五
月
と
の
間
に
薬
猟
仕
ふ
る
時
マタシは完全な、無事な あ
国のまほろば」をくり返している。ウルハ
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145 景行記の歌と散文 (I)
思国歌
に一(16•三八八五)とやや変化した形で出てくる。特に鹿の歌は平群の山が薬猟の儀礼を行う地であることを示す点
熊白楊が葉を
比生_」と表記される。前出の雄略記の歌に「畳薦平群の山の
し
し
た
(記90)とあり、また仁徳記の歌の類似表現「其が下に生ひ立てる
ひろ広
り坐すは
大君ろかも」(記
57)をみると、「熊」は「葉広」「広り一とあるように、葉の大きさや勢いのあるつ
ややかさを指す。熊白橘の葉に感じ取った強い生命力による名で、木の種類を表す語ではない。景行紀の重出歌で「白
橿が枝」(紀23)とするのはカシの種類名で、「白橘(橿)」はイチイの赤橘に対して白い木肌のカシを区別したもの。
熊白樽の葉がウケヒに用いられたのはそこに生命力や呪力を認めたからである。熊白樽が立ち栄えるのはよく知られた
平群山の景物であり、
クマカシは垂仁記に;竺甜白構之前嘉未広熊白構、
こ
ち
ご
ち
か
ひ
此方此方の山の峡に
は
び
ろ
ゆ
ま
つ
ば
き
葉
広
斎
つ
真
椿
令承気比枯↓亦、令手気
ざか
立ち栄ゆる
葉広熊白楢」
て
い
ま
照り坐し
その葉をカンザシにして薬猟の宮廷儀礼が行われる地でもあった。「昏華に挿せ一はクマカシの
葉の生命力を身につけよという意である。髪飾りのウズは推古紀十一年十二月条に「僣花、此云二丁襦―一の訓注があ
り、同十九年五月条の菟田野の薬猟記事に「着二昏花―」とある。この歌詞は宮廷俵礼に奉仕する人々にわか家族を重
ねてその壮健を言祝ぐ称句とみなされる。「その子」は『稜威言別』に「命の全けむ人」のことで、「陪従の人々」とす
るのが通説。しかし、『記紀歌謡評釈』は「物語に即せば、故郷(国)に残した「命の全けむ人」を思んでのもの。『書
紀』に「この子」とあるのは、目前の部下への呼びかけ」とする。景行紀の重出歌では日向国での景行天皇の歌になっ
ているから、記と紀のあいだで_子」の内容が異なってくる。記では大和国を望郷することからも、「その子」は大和
国にいる倭建命の近親者で、後文の「倭に坐しし后等と御子等」を指す。
の
記3031の二首に対する歌曲名。大和国を懐かしく思慕する歌の意。『古代歌謡全注釈・古事記編』はシノフに
髯華に挿せその子
で、この歌と共通する。
其が花の
其が葉
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 146
賞美する意もあるとし、望郷歌の意とともに大和国の国讃め歌という意を認めている。景行紀の重出歌では一はしきよ
し」一大和は」「命の」の配列になっていて記と歌の順が異なり、三首合わせて「思邦歌」とする。思国歌の範囲につい
て『古事記博』は、「此歌者」は前の一首を指す書き方で、
し、ここでは一一首を一首とみなしたのてはないかと疑っている。景行紀では三首を連続して書くように、記の場合も二
首を同じ歌曲名のもとに連続する歌として一括したと考えられる。歌曲名をもつ歌は、他の記・紀の歌とともに宮廷史
を担う歌として、後の大歌所のような宮廷機関に保存されていたことを示す。
ハシケヤシは形容詞「愛し」の連体形に、詠嘆のヤと強意のシという助詞が付いた語。なつかしい、
しいの意。景行紀の重出歌ではハシキヨシ(紀21)とする。万葉歌には記と紀の語形の他にハシキヤシの例がある。
シが古く、より新しい奈良時代の例にはハシキヨシが多くみられるという
C
紀のハシキヨシよりも記のハシケヤシの方
か語形としては古い。万葉歌の例はほとんどが「妹」「君」に用いる相聞歌であるが、「はしきやし我家の毛桃
l(7.
一三五八)「はしけやし間近き里を雲居にや恋ひつつ居らむ」(4.六四
0)
場合もある。
我家の方よ
〔国ともいへり。〕万葉の歌なども、皆然なり」と指摘している。これは旅に死す歌であるから、ここには魂が還ってい
くべき家・国をうたう、万葉の行路死人歌と同じ構造がある。この一雲居」は「雲」と同じで、こちらへ湧き立ってく
るよ、
ているが、
雲居立ち来も
『時代別国語大辞典・上代編』によれば、
はしけやし
二首の場合は「此一一歌者」のように歌数を記すのが通例と
いと
ハシケヤシは形容詞の活用語尾にケがあった名残りで、万葉歌ではハシキャ
のように、我が家や恋人の住む里に用いる
山を隔てて遠く離れた大和の自分の家の方から、の意。ヨは景行紀の重出歌ではユになっ
ョ・ユいずれも起点を表す。『古事記博』は「古は、旅にして本郷のことをば、家、又吾家と多く云り。
の意。『古代歌謡全注釈・古事記編』は「雲」を「家人または故郷の霊魂の姿」とする。「雲居」は前文に「国を
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147 景行記の歌と散文 (I)
(記41•紀34)
思ひて」とあるその国(故郷)の人々を思い起こす表現であり、「立ち来も」は妻子たちが倭からこの地に「下り到る」
五七七の歌体を指すのではなく、長詞形の歌の蚊後に短くうたい収める歌曲の形式とするのが有力な見方であ
る。「片」は不完全の意で、「片歌」はそれだけで独立できない歌のことを言う。『古代歌謡全注釈・古事記編』は旋頭
歌の片方が独立した詞形で、記・紀に物語歌としてしか存在しないという。もう一例の仁徳記の「本岐歌の片歌,一(記
73)を見ると、長詞形の二首を片歌で結ぶ形式で、思国歌と片歌の関係に類似する。片歌は歌曲名とともに出てくる。
『古事記注釈』は特定の歌曲の一部として片歌か残ったとし、『新編全集古事記』は「長歌の歌い収め方として歌曲的に
様式化されたもの一と説く。二つの例は片歌が宮廷史を伝える歌曲的形式として歌唱されていたことを示している。
思国歌二首を独立の歌謡とするのはほぼ通説化している。『古代歌謡全注釈・古事記編』は二首とも平群山の国見歌
とし、第一歌を国讃め歌、第二歌を平群山の山遊びで老人が若者に教え訓す歌と推定する。『古事記注釈」も第一歌を
「もともと国見の歌」とする。国見には高い山から田畑を見渡して豊穣を予祝する民俗儀礼と天皇などの支配者が高所
から国土を望見して讃美する政治的な宮廷儀礼の両面が認められる。それに対応して民俗儀礼から生まれた国見の民謡
と宮廷儀礼を墓盤とする国見の歌謡がある。士橋寛『古代歌謡と儀礼の研究』によれば、応神天皇の歌、
か
づ
の
も
も
ち
だ
や
ー
1
千葉の葛野を見れば百千足る家庭も見ゆ国の秀も見ゆ
の他、仁徳歌の「おしてるや
るという。思国歌二首が平群地方の国見行事でうたわれていたとすれば、古代の民謡としての国見歌ということなる。
【解説】
片歌
という後文とつなかりをもつ。
難波の埼よ」(記
53)やこの111心国歌第^首か予祝行事の国見でうたわれた国讃め歌であ
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 148
平群地方の民間の国見歌が、景行記で言えば倭建命の、景行紀では景行天皇の望郷歌としていつの時か転用されたとい
しかし、この転用説では、平群地方の国見歌が倭建命や景行天皇の歌になる契機や理由を説明できない。「大和は
国のまほろば……倭し麗し」の「大和」や「国」という発想は大和の一地方の共同体と結びつかない。むしろ、舒明天
むらやま
群山あれど……うまし国そ
もう一点気になるのが第二歌のウズである。語釈で推古紀の用例にみたように、この語は薬猟に関わる宮廷儀礼の特
ゃ
そ
と
も
を
あ
か
た
ら
ば
な
別な用語である。万葉歌にも_八十伴の緒の島山に赤る橘うずに挿し」
(19•四二六六)一照れる橘うずに挿
つ
か
ま
つ
ま
へ
つ
き
み
仕へ奉るは卿大夫たち一
(19.四―-七六)とあり、いずれも宮廷陣宴の応詔歌に用いられる。ウズの語一っとっ
ても、第二歌は民謡レベルの歌とは言えない。古代民謡から記・紀の歌へという考え方では説明がつかないのである。
それでは記・紀の歌は何か。すべて宮廷史を伝える歌ととらえるべきである。ある出来事の中で誰かが詠んだ歌に
なっているからである。このような宮廷史に関わる歌は宮廷の歌舞機関に集積され、保存されていたにちがいない。
し‘
まみてきたように、思国歌に国見儀礼の民謡と言い切れない面かあるのは、宮廷史を伝える歌という性格に起因する。
思国歌は国見儀礼で機能する歌ではなく、厳密に言えば、国見儀礼を題材にして倭建命に関わる歴史的な出来事をう
たった歌である。
し倭建命が大和を目前にした能煩野の地で望郷の思いを抱きながら死んでいくという宮廷史は、この思国歌を中心とし
て伝えられたとみることができよう。古事記の散文叙述は簡略な場合が多く、歌から状況を読み取らせる仕組みになっ
ている。例えば『古事記博』は、「命の全けむ人」「その子」を倭建命の従者と解し、お前たちは故郷の大和国に帰って
り宮廷儀礼としての国見歌である。
皇の国見歌「大和には
う説明になる。
あきづ島
大和の国は一(万ー・ニ)
の発想と表現に近い。
つま
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149 景行記の歌と散文 (I)
【訓読文】
こ
と
き
此の時に、
を
と
め
嬢子の
ある。
みやまひいとには
御病甚急かになりぬ。
と
こ
ペ
床の辺に
しか年
して、
み
う
た
い
御歌に日はく、
楽しく遊べと読み取った。それなのに自分は大和国を前にいま死のうとしているのか悲しいと、倭建命の心情にまで推
しかし、散文には「能煩野に到りし時に、国を思ひて」としか書いていない。病が重くなった倭建命は心がひたすら
故郷に向かっているという文脈である。第一歌は大和国への思いを「倭は国のまほろば」と称え、
その思いはもはや実
現できないゆえに、第二歌で「命の全けむ人は」と大和国の平群に向かってうたう。一命の全けむ人」一その子一は大和
国の人々でなければならない。それを受けて、次の歌では「我家の方よ」と、大和国の家族に絞られていく。
思国歌と片歌は大和国・平群.我家の構造をもっている。これは万葉集の行路死人歌が「国問へど
家をも言はず」
(9.一八〇〇)とうたう構造と重なる。倭建命は行路死を遂げた人物であるから、思国歌
と片歌の三首が行路死人歌の構造によって一体的に構成されるのはむしろ自然であった。片歌を最初に置く景行紀はこ
の構造がまったく意識されていないことを示している。『古代歌謡全注釈・古事記編』は思国歌二首を第一次の本文、
片歌を増補したのが第二次の本文としているが、この一云一首は国・家構造による一体的構成として成立したと見るぺきで
七、美夜受比売と大刀
家問へど
測している。
の
国をも告らず
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 150
急かになりぬ
【語釈】
【現代語訳】
此時、御病甚急。年、御歌曰、
哀登売能
歌党即崩。年、貢元上駅使一〇
【校異】なし
嬢女の床のそばに、私が置いてきた大刀、
にはかになりぬ」
(16.三八―一)とある。病気が急変して危篤状態になることを言う。
嬢女の床の辺に美夜受比売の床のそばに、の意。トコは台状の平たい場所で、敷物を敷いた寝床や座席を言う。万
い
も
ぬ
と
こ
葉歌に「床の辺去らず夢に見えこそ」
(12.二九五七)「妹が寝る床のあたりに」
(14•三五五四)などとある。ここで
【本文】
登許能弁休
和賀於岐斯
死が迫ってきた、
都流岐能多知
曽能多知波夜
その大刀は、ああ。
キ
、
セ
マ
の意。『古事記博』は「死ぬべき際に迫れるを云る」とする。万葉歌にも「死なむ命
我が置きし剣の大刀
を
は
す
な
は
か
む
あ
が
歌ひ党りて、即ち崩りましき。
はゆまづかひたてまつ
年して、駅使を貢上りき。
た
ち
その大刀はや
(記33)
(記33)
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151 景行記の歌と散文 (I)
す。 その大刀はや
は寝床を指し、倭建命が比売との共寝を回想する詞句となっている。東国へ行く時契りをし、帰途に月立ちの唱和(記
2728)をして「御合一をする話が上文にある。倭建命は尾張での結婚初夜の場面をうたうことで、自分の帰りを待っ
我が置きし
芸剣を以て、其の美夜受比売の許に置きて、伊服岐能山の神を取りに幸行しき」とあるのを指す。この句は相武国の火
難の話と美夜受比売の御合後の話を草那芸剣によって関連づける。すなわち、歌の叙事から散文叙述が構成されること
を示している。草那芸剣は、記上巻に「草那芸之大刀」とも記す。
ツルキとタチの区別は明確でない。万葉歌にはツル
ギタチと詠まれ、身・名・磨ぎの枕詞ともなっている。ツルキノタチと重ねる言い方について、『古事記博』は「多知
ソ
ル
ギ
はなぺての名、都流岐は、其用を称たる名」と述べ、『古事記注釈』はツルギを腰につるす方、タチを切る方の言い方
とし、『古代歌謡全注釈・古事記編』は「吊侃きの大刀」と解する。大きな範囲に含まれる小さな範囲をノで結ぶ原則
から言えば、
の例がある。
ハヤは詠嘆の助詞で、
尾張に住む美夜受比売の家に骰いてきたヰ那芸剣のこと。前文に「御合して、其の御刀の草那
ツルキが刀剣の総称で、
タチは断つ意の具体的な名称とも考えられる。
ソノは「剣の大刀」の「大刀」をくり返して強く指示する。一八重垣作る
その八重垣を」(記l)など
た
(
み
ハモと同類。記・紀には「あづまはや一(景行記)「言ひしエ匠はや」(紀78)など
ナ
ゲ
,
とみえるが、万葉歌に用例はない。『古事記注釈』は『古事記博」の「波夜は、其物を思ひて、深く歎息辞なり」を引
いて、「失われたものへの愛惜の情がこめられている」とする。『稜威言別』は「神剣を、強ても身に副来ましかば、伊
プ
キ
ノ
ノ
服岐山神毒をも票ぺからず」と解する。手元に大刀がないことは身を守る呪力の喪失を意味する。美夜受比売のもとに
憤いてきた大刀をうたうことで、美夜受比必と大刀への二つの愛惜がここで激しく交錯し、死に臨む倭建命の思いを表
剣の大刀
美夜受比売の姿を浮かび上がらせる。
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明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 152
即ち崩りましき
「崩一を天皇以外に用いた例は宇遅能和紀郎子とこの箇所のみ。天皇に準ずる異例の扱いは、二人が
ひつぎのみこ
日継の御子であったことと関係する。景行記の系譜記事に若帯日子命・倭建命・五百木之入
H子命の三王が「太子」
あ
ま
つ
ひ
つ
ぎ
し
の名を負うとあり、応神記では宇遅能和紀郎子に「天津日継を知らせ」とする。この二人が日継の御子でありながら即
位することなく没した点に、天皇と同等に扱う理由があったと考えられる。
早馬の使者を送って倭建命の死を天皇に申し伝えた。
は
Q
ま
掛けぬ駅馬下れり」
(18•四―
I0)とある。中央と地方の指令伝達のため駅家に馬を罹き、緊急の連絡に備えた。駅
馬は令制の公式令や厩牧令に規定がある。駅使は令制の知識で書かれているのではなく、ここでは早馬による緊急の報
告を言う。
ハユマはガ葉歌に一鈴が音の駅家」
(14•三四三九)「鈴
この歌は危篤状態になってうたったのだから臨死歌とか辞世の歌と言ってよい。古事記には他に軽太子と軽大郎女の
自死の歌(記8889)がある。死に臨んでうたう例は万葉挽歌に有間皇子の自傷歌や大津皇子の臨死歌などいくつか見
られるから、
そこに古事記の歌との共通性や連続性があったとみるべきであろう。
み
づ
か
い
た
有間皇子自ら傷みて松が枝を結ぶ歌
い
は
し
ろ
さ
き
岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまたかへり見む
た
ま
は
い
は
れ
つ
つ
み
大津皇子、死を被りし時に、磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌
くもがく
ももづた
百伝ふ磐余の池に嗚<鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
(2•一四一)
しかし、万葉挽歌の例では現在の時点やその先をうたうのに対し、倭建命の歌では「我が置きし」と過去を回想する点
【解説】
駅使
(3•四一六)
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153 景行記の歌と散文 (I)
それては、死に臨んで嬢子の床の辺に置いてきた大刀かうたわれるのはなせか。この点について、『古代歌謡全注
釈・古事記編』は「床の辺に我が罹きし」の句か熱田太神宮縁起の「解レ剣授日、宝二持此剣へ為一我床守こと照応し、
いわゆる枕刀の習俗につながるもので、「剣の大JJLは倭建命の守護9
―皿あるいは分身・形見との見解を述べている。倭
建命か伊吹山の神に打ち惑わされてついに死に至るのは、草那芸剣の呪力に守られていなかったためとするのはその通
りである゜しかし、縁起の「床守一と関係づけるのは逆である。縁起は記・紀に照応あるいは並行してあるのではな
く、あくまでも記・紀に基づいて書かれたものて、倭建命に関する記・紀の歌と散文に熱田社の伝承が取り入れられた
命は美夜受比売(「嬢子」)と共寝(「床」)をした後、
つまり、過去の出来事をうたった叙事の歌である。倭建
そこに草那芸剣(「剣の大刀’-)を置いて伊服岐能山の神を取りに
行ったという叙事である。それは歌に内在する叙事てあり、歌そのものが歴史叙述だと―Ii¥[!
ってもよい。そこに尾張の美
夜受比売(「嬢子」)が出てくるのはおそらく思国歌と関係している。思国歌と片歌が大和にいる妻子を思慕するのと対
の関係で尾張の芙夜受比売が回想されるのである。「大刀」は自分と美夜受比売の魂を守る呪器とみた方がよかろう。
従って「その大刀はや一は美夜受比売の魂への呼びかけであり、別れの言菓にもなっている。「我が置きし」の叙事は
この別れを告げるために機能している。大和と尾張に向かう対の臨死歌によって、倭建命の死が成立するという仕組み
倭建命はなぜこのような臨死歌をうたう必要があったのか。それは有間皇子や大津皇子たちと同じ事情があったと考
えられる。皇位継承の資格を持ちながら死にゆく皇子は、死の場面で歌を詠まなければならなかった。言い換えれば、
である。
「嬢チ一と「大刀」を結ぷのは「我が罹きし」の句てある。
とするような見解があるとすれば、
それは成り立たない。
に違いがある。
![Page 54: 景行記の歌と散文 - 明治大学...独立歌謡という概念さえ古事記に適用しうるか疑わしい。なお、このような注釈作業は、神武記については「神武記の立后と謀反](https://reader031.vdocuments.mx/reader031/viewer/2022041506/5e254e5b683ab23078467c8b/html5/thumbnails/54.jpg)
明治大学教養論集 通巻532号 (2018• 3) 154
(いこま・ながゆき
歌によってその死を語るのである。「ま幸くあらばまたかへり見む」や「今日のみ見てや雲隠りなむ」はこの世への静
かな別れをうたっている。激しい怒りではない。同様に、倭建命の「昏華に挿せ
その子」「我家の方よ
雲居立ち来
も」も家族への穏やかな別れをうたう。すなわち、死に臨んで心の充足をうたうという状況を作り出している。それが
万葉臨死歌の方法であり、古事記の日継物語の方法なのである。倭建命の臨死歌は歴史叙述の歌としてある。
経営学部教授)