人部屋で使うことも許されていた。 年)当時の熊野寮は、入寮 ......c....

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卒業は京大 岡部徹 一九八四年入学(工学部 一九八四年四月入寮 (A O 八・ C 棟) 一九八八年三月退寮 「先生は京大のご出身だそうですが、学 か?」と訊かれると、質問の相手が京大関 野寮卒業です。」と答えておどけることがあ 質問した相手は、「工学部の冶金学科卒」といっ しているので、熊野寮の腫魅姐魁について、あまり知ら はキョトンとしているが、寮の悪評について知っている入、 くに、偏見を持って見ている人からは、驚かれる場合が多い。 「今も、元寮生とは、飲んだりしますよ」というと、さらに驚 かれる。続けて、「最近も熊野寮に泊まりに行ったことがありま すよ」というと奇異な目で見られることもある。 私は、大学の学部の 4 年間は、主に熊野寮 A 208 号室に 在籍していた。 1984 年(昭和印年 )11988 年(昭和郎 年)当時の熊野寮は、入寮希望者は少なく、 4 人部屋の居室を 213 人で使っていたのが普通であり、 1 年間に限り C 棟を一 人部屋で使うことも許されていた。 私が現在、 というのが行動指 私は、熊野寮生とし 4 年間で、タフかつグ イルドに生きる術を学ん の大切さ、人脈の貴重さ、さ 出来ていることなども学んだ。 抜く、基本的な術を実は熊野寮での ことに、今ごろになってやっと気がつ 熊野寮の先輩や友人からは、紙には書けない も沢山学んだ。最近では職務柄警察や消防の方 あるが、その対応は、熊野寮生であった頃に学んだ が役に立つことが多い。 当時の寮は、中核派が執行部であった。新歓オリテ(新入 歓迎オリエンテーション)は、政治色も強く、今から思えば刺 激的であった。白いヘルメットで、焼酎をイッキ飲みしたこと も何度かあった。多量に焼酎をイッキ飲みした後、「復活してき ます!」と言って、便所に駆け込み、口に指を突っ込んで、無 理やり吐いて、再び飲み始めるという愚行を繰り返していた頃 が懐かしい。 談話室では、頻繁に、飲み会が聞かれていた。先輩から、ラ イターのガスを使って口から火を吹く芸当などを教えてもらっ た際に、誤って自らの髪の毛を焦がすこともあったが、今とな 347

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Page 1: 人部屋で使うことも許されていた。 年)当時の熊野寮は、入寮 ......C. 棟を一 人部屋で使うことも許されていた。. 私が現在、奉職する東京大学では、「タフでグローバル・・・」

卒業は京大熊野寮岡

一九八四年入学(工学部冶金工学科)

一九八四年四月入寮

(A二O八・

C棟)

一九八八年三月退寮

「先生は京大のご出身だそうですが、学部はどちらでしょう

か?」と訊かれると、質問の相手が京大関係者の場合には、「熊

野寮卒業です。」と答えておどけることがある。

質問した相手は、「工学部の冶金学科卒」といった返事を期待

しているので、熊野寮の腫魅姐魁について、あまり知らない方

はキョトンとしているが、寮の悪評について知っている入、と

くに、偏見を持って見ている人からは、驚かれる場合が多い。

「今も、元寮生とは、飲んだりしますよ」というと、さらに驚

かれる。続けて、「最近も熊野寮に泊まりに行ったことがありま

すよ」というと奇異な目で見られることもある。

私は、大学の学部の

4年間は、主に熊野寮A棟208号室に

在籍していた。

1984年(昭和印年)11988年(昭和郎

年)当時の熊野寮は、入寮希望者は少なく、

4人部屋の居室を

213人で使っていたのが普通であり、

1年間に限りC棟を一

人部屋で使うことも許されていた。

私が現在、奉職する東京大学では、「タフでグローバル・・・」

というのが行動指針としてのスローガンとなっている。まさに

私は、熊野寮生としての

4年間で、タフかつグローバルかつワ

イルドに生きる術を学んだものと思っている。また、人間関係

の大切さ、人脈の貴重さ、さらには、世の中が極めて理不尽に

出来ていることなども学んだ。社会人になる前に、世界で生き

抜く、基本的な術を実は熊野寮での生活を通じて学んだという

ことに、今ごろになってやっと気がついた。

熊野寮の先輩や友人からは、紙には書けないような悪いこと

も沢山学んだ。最近では職務柄警察や消防の方と接する機会も

あるが、その対応は、熊野寮生であった頃に学んだ貴重な経験

が役に立つことが多い。

当時の寮は、中核派が執行部であった。新歓オリテ(新入生

歓迎オリエンテーション)は、政治色も強く、今から思えば刺

激的であった。白いヘルメットで、焼酎をイッキ飲みしたこと

も何度かあった。多量に焼酎をイッキ飲みした後、「復活してき

ます!」と言って、便所に駆け込み、口に指を突っ込んで、無

理やり吐いて、再び飲み始めるという愚行を繰り返していた頃

が懐かしい。

談話室では、頻繁に、飲み会が聞かれていた。先輩から、ラ

イターのガスを使って口から火を吹く芸当などを教えてもらっ

た際に、誤って自らの髪の毛を焦がすこともあったが、今とな

347

Page 2: 人部屋で使うことも許されていた。 年)当時の熊野寮は、入寮 ......C. 棟を一 人部屋で使うことも許されていた。. 私が現在、奉職する東京大学では、「タフでグローバル・・・」

1980年代

つては貴重な思い出である。

在寮中の4年間は、バイトに海外旅行、寮では酒とマージャ

ンなどに忙しく、あまりにも寮生活が充実(?)していたため、

大学の教室に行く時間はほとんど無かった。バイトは、家庭教

師をはじめ、様々な仕事に精を出したが、稼ぎのよい夜間の土

方(道路舗装の手伝い)や私立探偵事務所の手伝いがメインで

あった。

, 4

当時は、全寮放送で、バイトの募集の案内が流されることも

あった。急にマンパワーが必要となった業者が結構よいギャラ

で寮生を臨時雇用することが多かった。これは、ネットがなか

った古き良き時代のメリットであった。寮生からバイト先を紹

介されることも多く、仕事にはことかかなかった。同室の先輩

は、先斗町で飲み屋のバーテンダ

lをしていたので、バイクで

夜迎えに行ったものの、そのまま一緒に飲んでしまうことも稀

ではなかった。

このため、

4回生に進学した時点では、必修の語学の単位す

らほとんど取れていなかった。幸いにも、

4回生のときに、仏

様のような教授から、ロシア語の単位を2年分まとめていただ

き、無事に卒業できた。ー回生の時に履修したはずのドイツ語

は結局、落第しつづけ、卒業単位として取得できなかった。お

そらく一般の学生から見れば、私は極めて退廃的な生活を続け

ていように見えたであろう。

4回生になった時点での取得単位があまりに少なかったため、

4年間で工学部を卒業できるとは思っていなかったが、一念奮

起して大学院に進学しようと決めてからは、猛勉強に転じ、単

位取得にも全力を尽くした。

私が4回生のときの講義の時間割りは、

3層構造になってお

り、

l層目が、全て語学(英語、ドイツ語、ロシア語)の講義、

2層目は、冶金学科の講義、

3層目は、他学科・他専攻の仏様

のような教授の講義であった。当時はカリキュラムが今のよう

に電算機化されていなかったので、講義の重複登録が容易であ

った。また、他の講義の試験を理由に、別の講義の試験を免除

してもらって、試験の代わりに先輩から譲り受けた丸写しのレ

ポートを提出して単位を戴くことも可能であった。そのお陰で、

講義に出なくてもほとんどの単位を揃えることができたのは幸

せであった。

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卒業単位を短期間に多量に取得するのは、とても大変ではあ

ったが、このプロジェクトを通じて、多様な人脈とネットワー

ク、さらには、信用できる人聞から得られる高度な情報の重要

さを学んだ。

熊野寮内では、規則を守らないアウトロ!な人間であり、か

つ、ノンポリであったため、寮の執行部からは314回、「退寮

勧告」を受けた。うち2回ほどは、「自己批判」なる反省文を書

いて、壁に貼り出すだけで退寮を回避することができた。

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寮は無法地帯のように思われていたが、基本的なルールは守

られていた。海外からの渡航者は検疫を受けなければならない

という規則や、屋上にバイクで上がってはいけないというルー

ルを作ったのは、私と親しかった先輩であり、酔って消火器を

ぶちかましてはいけないという規則を作ったのは、私の友人で

ある。四

半世紀が経った今でも熊野寮で親しかった友人とは酒を飲

み交わすことが多いが、加歳前後に熊野寮で得た経験や友人は、

一生の糧となっている。今では大学教授として社会的な信用を

得ているが、寮生であった頃の私の悪行を知っている友人から

は、「お前が大学教授になるのは、どう考えてもおかしい」と会

う度に言われ、昔話に花が咲く。

私は、大学4年生からお年以上、一貫してレアメタルの研究

に携わってきた。この研究分野は、今日のようにその重要性が

認知されておらず、研究活動の継続は苦労と困難の連続であっ

た。しかし、思い起こせば、熊野寮生として過ごした経験が、

研究の遂行に役立っていることが多い。

未知なる世界の探求。困難や障害に遭遇しても、努力や工夫

で立ち向かう不撰不屈の精神。また、人の厚意や助けに、あり

がたく感謝する気持ちを持つこと。これらの処世の基本は、研

究だけではなく、すべての仕事に当てはまるが、私は熊野寮で

の生活を通じて、これを学んだものと確信している。

鉄扉の隣で

末永高康

一九八三年入学(八五年文学部転部)

一九八四年入寮

(B四

O三)

わたしが入寮したのは、

れから大学院にあがるまでの計五年間、寮で暮らしたことにな

る。計算が合わないと思われるかも知れないが、大学は別に四

年で卒業しなくてもかまわないのである(今では立場上、学生

二回生のときの

1984年4月。

には四年で卒業するように指導している)。

最後の一年をC棟の一人部屋で過ごした以外は、ずっとB4

03に入っていた。今ではもう撤去されているそうだが、当時

は中核派がB401、402を占拠していて、一般寮生が入れ

ないように廊下に頑丈な鉄扉が設けられていた。最初に鉄一扉を

目の前にしたときには「やばいところに来てしまった」と後悔

したが、鉄扉の隣の暮らしは意外と快適であった。同室の大学

院生は研究室に閉じこもりきりでまったく帰ってこなくて、ほ

ぼ完全に一人部屋状態だったし、隣の

B404は医短(いまは

医学部看護学科か何かになっているはず)の女の子の部屋で、

廊下ですれ違うとにっこりと挨拶してくれるのがうれしかった

し、アジトに近すぎるからか中核派がオルグ(勧誘)に来るこ

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堀根中竹鈴 鈴小 勝太 石熊内津原内木木堀木田 JI(野栄朝 敬伸智蓉春祐 寮吾彦耕一尚 大子 莱貴 元五

十周年記念誌編集委員

五十:r.r. 日

JI瞭

熊野寮五十周年記念誌

上巻

発行日

発行者

代表者

連絡先

印刷所

二O一四年一一月二九日

京都大学熊野寮五十周年記念誌を発刊する会

}富田町民同C即日出

25V即応守mwFCC-の0・」百

株式会社暁光社屯馬君。問∞

著作権について

本誌の著作権は

京都大学熊野寮五十周年記念誌を発刊する会に帰属します。

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本誌は、京都大学熊野寮に関する情報が含まれているため、

寮関係者のみが閲覧することを前提に作成しています。

閲覧、転売、譲渡等、取り扱いについては、

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