『出雲国風土記』と『日本書紀』 url doi...doi 明治大学教養論集...

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Meiji University Title Author(s) �,Citation �, 515: 139-160 URL http://hdl.handle.net/10291/18134 Rights Issue Date 2016-03-30 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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  • Meiji University

     

    Title 『出雲国風土記』と『日本書紀』

    Author(s) 伊藤,剣

    Citation 明治大学教養論集, 515: 139-160

    URL http://hdl.handle.net/10291/18134

    Rights

    Issue Date 2016-03-30

    Text version publisher

    Type Departmental Bulletin Paper

    DOI

                               https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

  • 明治大学教養論集

    通巻五一五号(二

    O一六・三)一三九一六O頁

    『出雲国風土記』

    『日本書紀」

    「出雲国風土記』(以下「出雲L)

    は奈良時代の天平五年(七三一一一年)に成立した出雲国の地誌である。当時の出雲園

    に存在した九つの郡毎に、神社や産物が挙げられたり、地名の由来を説明する神話などが記されたりしている。それら

    の神話の中には、「出雲』に先行する和銅五年(七一二年)の「古事記』(以下『記』)、養老四年(七二

    O年)の『日本

    書紀L

    (

    以下『紀むに名前の見られる神が登場する場合もある。成立時期が遅れる文献は、意図的な黙殺も合め先行文

    献とどのように関係を持たせるのかが問題になる。小稿で検討したいのは、円紀』と『出雲』との関係である。

    『紀』は官修の歴史書で、天地開聞から語り起こし、持統天皇が孫の軽皇子(文武天皇)に譲位するまでを扱ってい

    る。いわゆる六国史のはじめとされる書物であり、後世へ与えた影響も非常に大きい。たとえば、平安時代はじめに成

    139

    立した『古語拾遺」は、『紀』を引用することで自らの言説の正当性を訴えた文献である。「紀』は規範として認識され

    るばかりでなく、独自の主張を生み出していく原動力にもなっている。

  • もっとも、このような『紀」の規範性は、平安時代になって初めて見られるものではない。『出雲』と同じ天平期の

    140

    成立とみられる『肥前国風土記』(以下「肥前』)や『豊後国風土記』(以下『豊後』)は、『紀』を引用する形で土地の

    通巻515号 (2016・3)

    名の由来を説明することもある。『肥前』『豊後』もまた地誌であるが、地名起源の形で現地の歴史を記すにあたり、地

    方は「紀」という中央の歴史書との向き合い方が問われるようになっていたのだろう。小稿では、『肥前』『豊後』も参

    考にし、『紀』の存在も視野に入れながら『出雲』の神話世界について検討したい。

    『肥前国風土記』と町豊後国風土記』|天皇に奉仕する在地の神

    明治大学教養論集

    まずは『肥前』『豊後』の地名起源謹の様相を確認する。先に両風土記には『紀』の引用が認められると述べたが、

    この観点とは別に、本節では神と地名との聞に関係が認められる例を考察する。左は『肥前』の高来郡総記である。

    妻、贋間同ゆ隊出臨時国山凶ルル同医凶降灰匿、時制りの園卦きやの時の家の部の術開に位して、

    此の郡の山を覚まして、のりたまひしく、「彼の山の形は別れ嶋に似たり。陸に鴎ける山か、別れ居る嶋か。朕、

    4く

    知らまく欲ふ」とのりたまひき。伺ち、神大野宿一醐に勅せて、看しめたまひしかば、此の郡に往き到りき。愛に、

    111111lili--h快ドドkhH

    すめらみこと

    人あり、迎へ来て、いひしく、「僕は此の山の神、名は高来津座とまをす。天皇のみ使の来ますことを聞きて、

    都へ却やりくのみ」とまをしき。酢りて罰則判塑といふo

    この話では、登場する神名と地名とが「高来」を共有している。土地の名の由来を在地の神の名に求めるのは、地名

  • 起源曹の一つの型である。『山山雲』から任意の二例を引用する。

    恐の手法らしし話、対即時制の傘、山間車利叫す。蹴、固と一目ふ。

    酢俳諜斗引o

    故岡島と一玄o

    むO

    -・・略・・・

    -・・略・・・

    右の例では、山代、来島なる地名が山代日子命・伎自麻都美命に求められている。守肥前』の高来郡総記も、地名と

    神名との対応関係という点で、ひとまずは山代郷・米島郷に連なる例だと認定できよう。

    つまり、元々は高来津座の存

    在だけで地名を導いていたと考えられるのだ。

    ただし高来郡の例が『出雲』と異なるのは、天皇が登場し、話の展開に大きく関与している点である。結果として、

    『出雲国風土記』と「日本書紀』

    地名を担うはずの神が天皇を迎え奉仕する存在にすぎなくなり、起源曹中に占めていた重要な立場から凋落してしまっ

    ている。これに付随して、地名も天皇の管理下に置かれることになる。

    このように高来郡の例は、天皇を主、神を従とする関係が強烈に打ち出されている。本条は天皇を中心とした話にな

    るように原語が解体、編成されたものであり、もはや本来の神話の体を成してはいない。

    門肥前』のような神話改変の例は、明豊後』にも存在する。日田郡総記を引用する。

    141

    tkちて、藤りましし時、っ慌のみ針りの

    園の生葉の行宮を護ちて、此の郡に幸でまししに、神あり、名を久津媛といふ、人と化矯りて参迎へ、圏の消息

    を純へ鞘しき。昨刊に昨りて苅和劇列到といひき。今、岡剛列哩と争点は、ょ私まれるなり。

  • 日固なる地名は久津援の名によると説明されている。引用文中に「説」とあるように、日田と久津媛とでは音の上で

    142

    距離がある。しかし、肥前国高来郡と同様に、この記事でも神が直接姿を現し、天皇に積極的な奉仕をする点は見逃せ

    通巻515号 (20日・ 3)

    =、、。=cvuw

    つまり、地名起源曹としての基本的な構造は、高来郡と同じだと判断して良くなる。ここには在地の地名起源語

    が解体・再編成された痕跡が明確に認められる。

    九州諸国の風士記は、大宰府の監督下に編まれたと考えられている。このような編纂の事情が、時代に即した形で在

    地の伝承の再編成を迫ったのだろう。具体的に記せば、土地の来歴を記すにあたり、天皇が介在する形そとらねばなら

    なかったというととだ。小稿の冒頭で触れた「紀』を引用する態度の意味は、この点に関わらせて読み取るべきだろう。

    明治大学教養論集

    『紀』の規範性は、本節で確認した事例とも関係している。『記」では景行天皇が九州に赴かないのに対し、『紀』で

    は同天皇が十二年から十三年にかけて熊襲を平定、その後十九年に都に帰還するまで九州に滞在し、各地を巡幸してい

    る。風土記で景行天皇の事績として語られるのは、『肥前』で二十三例、『豊後」で十五例に及ぶ。これに次ぐのが、前

    者では神功皇后の門例(ただし天皇ではない)、後者に至っては天皇自身の事績が語られることなく、欽明・天武両天

    患の時代の出来事各一例を数えるのみである。景行天皇の数は両風土記とも明らかに群を抜いている。九州の地にあっ

    て、官修の腰史における景行天皇の存在感はかほどまでに大きかったのだ。吋紀』は、『肥前』『豊後』での地名起源謹

    の在り様を保証する思想的基盤だったと判断される。

    『出雲国風土記』

    の天皇代と神代

    一方、『出雲』における天皇関連記事はどうだろうか。『出雲』にも天皇に関連する記事は存在する。

  • 0

    霞陶酔F岡山崎同

    urル同医院時灰陣同位、両日協の間七月十三日に、か言葉酌の者、

    件の埼に迫遥びて、趨遁に和かに遇ひ、所賊はえて版らざりき。(意字郡安来郷)

    oZ動配

    EE引附劃一、創祭器戦が出、町覇軍船、対祭似へ誤りき。

    (同舎人郷)

    O先に宇夜の里と号けし所以は、字夜都弁命、其の山の峯に天降り坐しき。即ち彼の神の社、今に至るまで摘此

    Lb

    処に坐す。故、宇夜の里と云ひき。市して後、改めて健部と号けし所以は二纏向の檎代の宮に御宇しめしし

    一すめ

    bみ

    一天皇(景行天皇)一、勅りたまひしく、「朕が御子、倭健命の御名を忘れじ」とのりたまひて、健部を定め給

    ふ。即ち健部臣等、古より今に至るまで、猶此処に居り。(出雲郡健部郷)

    。配制劃町駅U倒判リ引川刻判断町一、長の彰争、輔さえ来て集りて、ま叫がし所なり。

    (神門郡

    『出雲国風土記」と『日本書紀』

    日置郷)

    何れも天皇統治下の時聞を基準にして説明されている。中でも第二例から第四例には、天患との結び付きを前面に出

    そうとする動きも認められる。「出雲園では、全国に広がる氏族名に由来するとされる郷名の説話すべてに天皇が登場

    する。出雲国にあっても、氏族の由緒は

    OO天恩への奉仕事}基礎にしている」という指摘は見逃せない事実である。ま

    た、第三例では、神の時代から天皇代へという時間の推移も見られ、それに際し天皇による地名の変更が語られる。こ

    の点に、在地に根生いの神に対する天皇の立場の優位性が認められよう。

    143

    このように、『出雲』にあっても、天皇に関わらせて地名の起源を語る話が皆無なわけではない。鳥越憲三郎は、こ

    れぞ出雲側の積極的な姿勢の現れだとする。前節で確認した『肥前』吋豊後』と同じく、『出雲』が天平期の地誌である

  • 」とを考慮すると、真相をついたものとして首肯される。

    144

    ただし、『出雲』で天農名が記される記事は、右の四例に限られる。吋肥前』『最後』と比較してのことになるが、司出

    通巻515号 (2016・3)

    雲h

    は天皇との結び付きが弱いと言わざるをえない。『肥前』『豊後』が全ての郷の起源曹を載せているわけではない点

    安考慮すれば、これはなおさら大きな問題として認識されねばならない。

    それとは対照的に、『出雲』に目立つのは、神にまつわる形で説かれる地名起源揮の存在である。『紀』や『記』に掲

    載される神話には、出雲を舞台の中心とする、

    いわゆる出雲神話が存在する。このような状況も相倹つてなのだろうが、

    『出雲』の特徴は神話にこそあるとみなす風潮が認められる。たとえば、戦後の『出雲』研究の基礎を築き上げた加藤

    義成は、当風土記を指して「数々の神話に託された国土讃英の精神等が至るところに見られ」ると解説する。また、出

    明治大学教養論集

    雲大社の遷宮が耳目を集めた二

    O一一一一年に出雲の特集を組んだ『現代思想』には、「古事記、風土記、運富:・よみがえ

    る神話世界」の副題が付けられている。研究室聞・一般向けの書籍を問わず、『出雲』には神々の話が記されているのが

    当然視されていると言ってもよい状況にあると評せよう。

    実際に『出雲』を繕いてみると、

    そこに掲載される郡郷名のほとんどが神の事績によると説明されている。また、

    『出雲』に特有な神社列記条を見れば、神話の形では記されなかった神も存在したと推測される。しかし、数多くの神々

    h

    制限なもちのみこと

    脅さしおいて『出雲』の神話群の中心に位置しているのが大穴持命であるのは広く知られている。大穴持命は、明出

    雲』編纂の最高責任者で、現地の最有力氏族であった出雲国造の奉斎する神である。『出雲』でのこの神に言及する具

    体的な数字を示したのが、左に掲げる表である。参考のため、この表には査場回数が大穴持命に次ぐ漬佐能嚢命と神

    むすひのみこと

    魂命も併記した。

    大穴持命は秋鹿郡を除く八郡で活躍し、秋鹿郡でもその子神が登場する。出雲国にあって、大穴持命と無縁の郡はな

  • ぃ。もちろん、『出雲』の神話世界は大穴持命ぞ見れば全てを理解できると言えるほど単純ではない。しかし、この神

    の事績の検討が『出雲』の分析にあたり重要な意味を持つのは言立てるまでもないだろう。次節からは、『出雲』の中

    でこれほどまでに大きな比重を占める大穴持命の神話を考察の組上に載せる。

    『出雲国風土記』と『日本書紀J

    神魂命 漬佐能嚢命 大穴持命

    神子 身自 神孫 神子 身自 神孫 神子 身自

    君日す関 す関 関 す闘 関

    関す関

    関 関す す す す す

    る る る る る る る る る言日 事記 記事 事記 事記 百日 事記 記事 記事事 事

    o ! 0 ! 0 o ! 1 ! 1 意字o ! 2 i 4

    1 3 0 020 o 2 根島

    o ! 0 。2 0 。1 秋鹿

    o ! 1 o 0 0 o 縫楯

    3 i 0 o i 0 : 。 3 雲出

    o 2 l 3 ! 11 科門i

    o 0 0 。。l 。。3 飯石

    o ! 0 ! 0 。。 o ! 1 4 多

    o ! 0 1 2 o i 0 5 大原

    8 1 4 2 9 i 33 言十

    11 12 44 計

    145

    ※大穴持命・漬佐能実命の呼称や神名表記には揺れがあるが、不問にした。

    ※名称の起源を既出とする意宇都宍道駅、秋鹿・楯縫・神門各都の神戸豆、出雲郡神戸郷の大穴持命ゃ、楯縫郡楯縫郷の神魂命、

    神門郡多伎駅条の阿陀加夜努志多伎士口比売命〈大穴持命の子)は計よしていない。

    ※一つの記事の中で、漬佐能裳命や神魂命の子と大穴持命との結婚を記す例もある(出雲郡ニ例、神門郡二例)

    ※一つの記事の中で、親と子(や孫〉がそろって地名に関わりをみせる例もある(烏根郡美保郷・神門郡高岸郷・仁多郡御棒郷

    の大穴持命、橋縫郡神名樋山・神門郡塩冶郷の阿遅漬棋高日子命(大穴持命の子)、島根郡加賀神崎・楯縫郡総記の神魂命〉。

  • 146

    『出雲国風土記』における大穴持命の位置

    通巻515号 (2016・3)

    大穴持命は多様な活動をみせるが、とりわけ注目されてきたものに委聞記事がある。

    hl仰いいい品はい住

    O天の下所造らしし大神命、膚団同閣山凶片榊いほ伎閣は隈時愉同日い陣閣以阪同愉同置、奴奈宜波比売命に

    L

    要ひて、産ま令めし神、御穂漬々美命、是の神坐す。(島根郡美保郷)

    O苅の手法らしし均的制、岡制凶削船田、俳件以刊に吋へ併しき。恥の時、説、所はずで、逃げ駅

    りし時に、大神伺ひ求め給ひし所、此則ち是の郷なり。(出雲郡宇賀郷)

    o問問附川船出、主主部品州、監しき。併の時、苅の手法らしし話、禁雲町、??て、

    朝毎に通ひ坐しき。(神門郡朝山郷)

    o聞配嗣附阿国、小酌郡那州、監しき

    og時、対のぷ許しし謡、対即時制、動ひ船はむと恥て、

    屋を造ら令め給ひき。(同八野郷〉

    0岡

    oC時、

    彼の杜の前に盤石有り、其の上甚く滑らかなりき。即ち詔りたまひしく、「滑盤石なる哉」と詔りたまひき。(同

    明治大学教養論集

    滑狭郷)

    何れの記事も女神の親神に言及している点に目を向けたい。『出雲』には、神魂命や頂佐能嚢命の子神が複数存在す

  • る。この点をめぐり、水野祐は神魂命系・漬佐能嚢命系の女神が大穴持命と結び付くことで、大穴持命へと神統譜が収

    放する形になっていると指摘した。諸氏も喚起するところであり、稿者もこれに与する者でみる。神魂命や漬佐能哀命

    のような中央の文献にも登場する有力神を否定せず、それらの神も大穴持命に回収されていく||このような主張を大

    穴持命の妻問記事で語ろうとしたのであろう。第一例も、奴奈宜波比売命との婚姻を通し、大穴持命の世界が出雲に止

    まらず越をも含む「天下」として構築会れていることを示す大事なものである。

    もっとも、大穴持命の奏聞は、神統譜の件だけではなく、地名起源謹の在り様でも問題を抱えている。しばしば言及

    されるのが、神門郡八野郷である。在に再掲する。

    147 r出雲国風土記」と『日本書紀』

    閃岡州側一。郡家の正北三里二百一十歩。漬佐能嚢命の御子、①八野若日女命、坐しき。かの時、一天の下所造らしし

    対州Y刻刻矧到、要ひ給はむと為て、②周到割引制副制削剖。故、同国と云ふ。

    八野なる地名を導く可能性を持つ箇所に傍線を施した。①から見ると、八野若日売命と郷名の八野とが音・表記とも

    に一致している。第一節でも確認したように、鎮座する神の名をもって地名とする論理構造は、

    一般的な地名起源諦だ

    と言える。八野郷条の場合も、この女神の名によって地名の起源が考えられていた時期があったと判断される。

    ところが、本条は複雑な様相を呈している。②によれば、大穴持命が野に屋を造らせたとあり、これが八野なる名称

    の起源説になっているとも理解できるのだ。夙に加藤義成は、「屋野説は当時の俗伝」としつつも、「家を建てた野とい

    う意で八野というのである」と現代語訳をし、青木紀元も「屋」に重きを置いた理解をしている。この立場をとれば、

    八野郷では新たな神話が形作られていると一言える。

  • 吋出雲』には、八野郷と似た問題を抱えている大穴持命の奏聞の例がある。神門郡滑狭郷条を再掲する。

    148 通巻515号 (2016・3)

    閥岡剛剛一。郡家の南西八里。潰佐能嚢命の御子、和加漬世理比売命、坐しき。かの時、一天の下所造らしし大神命一、

    要ひて通ひ坐しし時に、彼の社の前に①盤石有り、其の上甚く滑らかなりき。即ち詔りたまひしく、「②滑盤石なる

    劇」と詔りたまひき。故、周幽と云ふ。〔神亀三年、字毎滑狭と改む。〕

    八野郷と同様に傍線を付した。①のように、この記事では、彼の地の滑りやすい石の存在が地名の音ナメサと関わり

    明治大学教養論集

    を持つ。しかし、それはあくまでも②の大穴持命の発言を導く役割を果たしているにすぎない。つまり、単に滑りやす

    い石があったことに止まらず、大穴持命が滑りやすいと発言したから滑狭になったと説明するのである。この点をもう

    少し掘り下げてみる。吉松大志は、滑磐石の信仰↓ナメサの地名の誕生↓滑磐石を杷る社の成立という過種を考えた。

    神門郡の在神祇官社条には「奈売佐社」「那売佐社」がある。この二社の祭神は、大穴持命と和加漬世理比売命だと推

    測されており、大穴持命は滑狭の地とのつながりを持っている。しかし、大穴持命はあくまでもこの地に通ってくる神

    である。地名起源譜の中で本来の役割を果たした滑磐石のある空間そのものとは、元来無縁である。

    滑狭郷でも地名と直接結び付く存在に加え大穴持命の言動がとりあげられている。そのため、滑狭郷にも先の八野郷

    と同様の構造を自ずと見てとれよう。両郷とも、②は①を下敷きに改変の手が加えられたとみなせることからすると、

    『出雲』は何れの場合も新たな②の筒所を地名決定の公式見解とする立場のようだ。荻原千鶴は、ここで扱った二例の

    他にも、先に掲出した出雲郡宇賀郷、神門郡朝山郷を念頭に、「女性神は在地性を持ちながら、地名起源の主体から疎

    外され、ただ所造天下大神の妻問いを受けるだけの存在に変質させられており、地名が所造天下大神に属するものであ

  • ることが主張される結果となっている」と述べている。正鵠を射た指摘である。

    知上のように、『出雲』の妻聞記事には、神統譜の統合の面からも、地名起源神話の組み立てられ方の面からも、大

    穴持命への集中という現象が認められる。ただし、ことは大穴持命の婚姻に限った話ではない。次の例は意字郡拝志郷

    条である。

    く灰色、ゆ

    ~ ITk 喜!ぁIPJrつふII造く御|み防

    Jし、 I~I J 企II元詰装l~問主|し|空i

    高の嬰i

    zz? ':l: I--ll¥

    g をおき平5

    0 げ

    時;ゃ

    困きしとニい云ぃ TJふし。し

    稿;骨亀き'ス

    宍泣I~字じのを樹I~拝林I~直茂|しと蟻|げ

    改?やむも〕がそ

    の時詔のりたまひし

    本条では、①のように彼の地の樹林が地名の音ハヤシと関わりを持つ。しかし、この樹林は②の大穴持命の発言「吾

    『出雲国風土記』と rR木書紀』

    が御心の波夜志」を導く契機となっているだけである。ここには八野郷・滑狭郷と同じ構造を見出せる。この点をもう

    少しことばを補って磯認してみたい。拝志郷は、『出主』編纂当時に意宇都の主政を務めていた林臣の本拠地と目され

    ている。林臣がいかなる氏族なのかは判然としないか、「林」の地名や氏族名は、直接的にはこの「樹林」に関わらせ

    て説明されていたとするのが自然だろう。しかし、「出雲』は樹林の繁茂だけで話を終わらせない。大穴持命の心象に

    踏み込む形へと展開させ、越の八口の平定を予祝する内容にまとめ上げている。

    つまり、本条は元来の詩を改め、大穴

    持命へとより特化した形に再編された起源曹だと考えられるのだ。

    本節で扱った八野郷、滑狭郷、

    それに拝志郷の例は、大穴持命に重ねる形で地名起源語を仕立て上げる点こそが目的

    149

    化しているようだ。これらの例には、新たな伝承が作り出されていく動的な営みが垣間見られよう。このように『出雲』

    では、在地伝承的・氏族伝承的なものが、国造出雲開に有利な形

    lー先述の通り、大山八持命は出雲国造が奉斎する神で

  • あるーーに改変されている蓋然性が高い。言ってみれば、新たに造形された大穴持命像が現れているのだ。こうした旧

    150

    来の起源請に介入してくる大穴持命の姿は、第一節で論じた『肥前』『豊後』に見た景行天皇の立場にも通じる。

    i電巻515号 (2016・3)

    『出雲国風土記』における国造に関連する神

    あまのほひのみこと

    大穴持命を出雲国造の祖である天穂日命が奉斎するよう命じられたことは、『紀」に「汝(大穴持命。「紀』の表記

    は大己貴命)が祭配を主らむは、天穂日命、是なり」と明記されている。ところが、出雲国造は大穴待命のみを奉

    明治大学教養論集

    斎していたわけではない。たとえば、天長一

    O年(八三三年)の『令義解』神祇令第六は、出雲国造が斎く神を天神、

    出雲大汝神を地祇としており、前者は熊野神を指すと考えられている。「令集解」にも、『令義解』と同文を掲載した後

    に、古記にも異同はないと記される。古記は天平一

    O年(七三八年)頃に成ったとされ、天平五年の『出雲』と同時代

    となる。また、『文徳天皇実録」『日本三代実録』には、熊野・杵築(大穴持命のこと)両神がそろって神階を授与され

    る記事が散見され(仁寿元年九月、貞観元年正月、同年五月、同九年四月)、常に熊野神の名が先に挙げられる。中で

    も貞観元年五月の時点では、熊野神が勲七等、杵築神が勲八等だったとあり、前者が上位に置かれている。熊野・杵築

    両神の関係をどのように理解するかは議論のあるところだが、出雲国遣が伝統的に熊野大神も重視していたとみなす点

    は、諸氏の見方が一致するところである。

    右にみたような熊野大神への姿勢は、「出雲』にも現れている。左は意宇郡出雲神戸条である。

    r枠事和の中和和手にhJす-艇野hw跡酌恥

    J

    広町一と、

    五百つ姐々猶所取り取らして天の下所造らしし大穴持命と、二

  • とζろ

    所の大神等に依せ奉る。故、神戸と云ふ。

    4

    〔他郡等の神戸も、

    E之の如し。〕

    引用記事でも熊野大神を大穴持命に先行させている。さらに、島根郡朝酌郷には次のようにある。

    タ御鼠の勘養に、

    五つの費の緒の処を定め給ひき。

    「熊野大神の神戸的内容」とも評される地名起源謂である。朝酌の地は、山陰道から隠岐国へと分岐する道の沿線に

    あり、入海で隔てられる意字・島根両郡を結ぶ要衝の地である。朝酌促戸条には、ここで聞かれる市の繁栄ぶりも特記

    されている。「大神命」とされる熊野神の重要性は、このような朝酌の地を押さえている点からも窺える。

    『出雲国風土記』と『日本書紀』

    もっとも、熊野犬神をめぐる記事は、右の二条を除くと、意宇郡の在神祇官社条に「熊野大社」とある他に、意宇郡

    熊野山にその社が存在すると説明されるばかりである。

    また、出雲国造と深い関わりのある神であれば、先にも引いた『紀』の記事のように天穂日命にも住意が必要だ。

    『出雲』にあって、この神に関連する記事とされるのが次の意宇郡屋代郷条である。

    社印支等が遠つ神、天津子命、

    詔りたまひしく、「吾が静まり坐さむと志ふ

    151

    引用文中に天乃夫比命とあるのが天穂日命にあたると考えられている。この一条のみが『出雲』の天乃夫比命の関連

  • 152

    天乃夫比命自身に焦点が絞られた記事ではない。

    記事となる。右の記事では天乃夫比命が天津子命を従える存在とされ、この神を特別視する姿勢も読み取れる。しかし、

    通巻515号 (2016・3)

    出雲国造関係神のうち、『出雲』での熊野犬神や天乃夫比命のとりあげられ方からすると、大穴持命が集中的に喧伝

    されている様は際立っていると言わざるをえない。そこで、このような極端な状況が生じるに至った理由は何なのか

    ーーすなわち、何故大穴持命なのかーーを探らねばならなくなるのである。この問題を念頭に置きながら、次節では大

    穴持命の神話にについて、本節までとは異なる視点から検討してみたい。

    明治大学教養論集

    大穴持命関連の神話と『日本書紀』

    一般に、『出雲』は『肥前』『豊後』に比し『紀』との関係が希薄だとされている。しかし、「出雲』の楯縫郡総記は、

    『紀』との関係が注目されている。『紀』全三十巻の内、巻一・二は神代巻と言われる。神代巻は十一の段に分けられ、

    それぞれ本文が記された後に「一番去」という形で奥伝が載せられる。左の引用は、上段が司出雲』、下段が『紀』神

    代巻第九段の二番目に一記される一審である。文辞が問題になるので、ここのみ書き下さない形で掲げる。

    所三以号明日楯縫一者、神魂命詔、「窓口十足天日栖宵之縦横

    御量、千尋拷維持市、百八十結々下而、此天御量持而、

    所レ造-一天下一大神之宮、造奉」詔市、御子天御烏命、

    楯部為而、天下給之。ぶ時、退下来坐而、大神宮御装

    楯、造始給所、是也。の至レ今、楯枠造而、奉ニ出皇神

    等4

    故去エ楯縫ベ

    時高皐麗璽枯件、乃還ニ遺一一神「勅ニ大己責神一目、「今者闇ニ

    汝所言ブ深有-一其理↓故更俊市勅之。夫汝所治顛露之事、

    宜ニ是吾孫治一之。汝則可三以治ニ神事↓又汝謄レ住天日隅

    宮者、今嘗供造、即以J

    一千尋拷縄↓結矯-一百八十紐↓其

    造レ宮之制者、柱則高大。板則虜厚。:・略:・又供d

    百八十縫之白楯↓又営主ニ汝祭杷-者、天穂日命是也」。

  • 大穴持命が鎮座する杵築大社(現在の出雲大社)

    の起源語である。「紀』では高皇産霊尊の言の中に「汝所治顕露之

    事、宜ニ是吾孫治一之。汝則可三以治ニ神事一」とあるのに対し、『出雲』には交換条件が記されない。また、司令神が『紀』

    では高皇産震尊、『山雲』では吋出雲』では神魂命となっている。このように両者の聞には相違点も認められるのは確

    かなのだが、天の指令の下、大山八持命のために壮大な宮殿が建てられる話の筋は一致している。しかも傍線を施した通

    り、「千尋拷粧(縄)」「百八十」という語句、祭器としての楯を共有し、文体の違いを越えて極めて近似した表現をと

    りつつ各々の話が進められる。倉塚嘩子は、双方の類似を次のように指摘する。両書の親和性の一両さに桟意を促したも

    のとして注目される。

    出雲風土記には(以下、風土記と略称)古事記の出雲系神話と同内容が一部重る説話がいくつかある(意宇郡母理

    『出雲国風土記」と「日本書紀」

    郷・大原郡木次郷等〉が、それらは極めて断片的な地名説話であって文辞の上の類似点など見出すべくもない。ま

    して古事記程度の薫りもみせず、風土記とはほとんど無縁に思われる吾紀において、これ棺までの類似は唯一の例

    であり極めて特異と言わねばならない。

    「紀』と『出歪

    rとの関係を考える材料は他にも複数存在し、旧稿でも論じたことがあるが、

    ζ

    こではもう

    列で+ノ

    lj』

    見ておきたい。これまで挙げた諸例にもあったように、『出雲』の大穴持命は「天の下所造らしし大神」と称される。

    「天下」とは皇帝の統治する領域を指す語である。極めて政治的理念が濃厚な「天下」なる語を大穴持命に冠するにあ

    153

    たっては、それなりの説明をつけねばならなかっただろう。

    この点は、『出雲』の編纂時に中央の神話の存在を念頭に置いていたと考えることで説明される場合が多い。『出雲」

  • 安除いた上代の諸文献において、天皇以外に「天下」が使われる例が皆無なわけではない。吋紀』の大己貴命に関する

    154

    記事を見てみると、『紀』神代巻第八段一書第六に「園作大己貴命」とあり、「大日貴命と、少彦名命と、カを動せ心を

    通巻515号 (2016・3)

    一にして、天下を経営る」と続けられる。この一書では、大己責命の作った「園」が「天下」とされるばかりでなく、

    大巴貴命が「天下」の経営にもあたったと記されている。また、神代巻第九段のいわゆる園譲り神話では、「天下」の

    語こそ見られないものの、出雲にあって大己貴命が地上世界の領袖として位置付けられている。

    このように吋紀』には、大己貴命が国作りに関与し、さらに皇祖神に先立ち国土を作り実効支配していた前史が記さ

    れている。この点は『記』も同じである。そして、皇祖神側が大己貴命から譲られたとされる地こそが、初代神武天皇

    明治大学教養論集

    以下歴代天患が支配する「天下」の出発点になるのだ。諸先学が説いてきた通り、吋出雲』の「天の下所造らしし大神」

    それを積極的に岨鴫したものだと認められる。このような中央の神話の受容態度からすれば、

    の称は、『紀』を承け、

    先の楯縫郡の記事も『紀』を念頭に置いていると判断するのが妥当だろう。本節で扱った大穴持命の社(杵築大社〉、

    「天の下所造らしし大神」という主張は、ともに明紀』に支えられているのである。

    さて、「天の下所造らしし大神」に関する考察の過程でも触れた通り、出雲は神代にあって無視しえない地として位

    置付けられていた。『紀』神代巻の出雲で活躍を見せる代表的な神には、大己責命の他にも素蓮鳴尊がいる。第八段で

    ヤマタノヲロチ

    は、八岐大蛇退治や素英鳴尊と奇稲田姫との婚姻が語られる。もっとも、素斐鳴尊と出雲との関わりは、この神の根

    【羽V

    国への途次のものである。左に第八段本文を引用する。

    行きつつ婚せむ慮を寛ぐ。遂に出雲の清地に到ります。乃ち言ひて日はく、「吾が心清清し」

    これ

    ζ

    とのたまふ。此今、此の地を呼びて清と日ふ。彼慮に宮を建つ。〔或に云はく、時に武索葺鳴尊、歌して臼

    然して後に、

  • はく、「や雲たつ出雲八重垣妻ごめに八重垣作るその八重垣ゑ」〕。

    lllLトIlll1

    貴神を生む。因りて勅して日はく、「①吾が児の宮の首は、即ち脚摩乳・手摩乳なり」

    ふたほLYり

    Ill111Illi--M同代いーーいIlli---

    を二の神に賜ひて、稲川宮主神と日ふ。巳にして②素斐嶋尊、遂に根園に就でましぬ。

    乃ち相奥に蓮合して、

    故児2、大器

    競な己告

    とのたまふ。

    ①によれば、素斐嶋尊と奇稲田姫との結婚にあたって建てられた宮が、二柱の聞に産まれた子の大己責命の所有物に

    されている。続いて@のように素蔓鴫尊は根国へ退去し、その後は登場しない。そして、先ほども触れた通り、第九段

    本文や諸一書、さらに直前の第八段一書第六では、出雲が大己貴命を中心とする世界として描かれている。この点、

    『記』は様相を異にし、漬佐之男命はこの宮を自らのものだと発言する。漬佐之男命が根竪州国で大穴牟遅神に指令し

    M)

    影響力を及ぼすのは、この宮の位置付けとも呼応していよう。以上のように見てくると、『紀』の神代における出雲の

    『出雲国風土記」と『日本書紀』

    代表は素葺鳴尊ではなく、大己責命だとされているのが分かる。

    .ι. J、大穴持命への特化と『日本書紀』神代巻

    さて、ここで「出…申告』における大穴持命への集中の問題に戻りたい。この点は、これまで出雲国造の編纂になるとい

    ぅ、この書の成立の特殊性に帰す形で論じられる傾向にあった。

    一例として荻原千鶴の分析を見てみよう。

    155

    行政区画単位地名の起源叙述において、『出雲国風土記』が意図的な所造天下大神を軸とした神々の系譜化を志向

    していることは明白だろう。

    出雲の空間は系譜化された神によって歴史化されるのである。出雲国造で

    -・・略・・・

  • 156

    ある出雲臣広島の監修なればこそ、『出雲国風土記』は「天下」を「造」

    統一的に構えたものと考えられる。

    った大神に地名の起源を収飲する叙述を、

    通巻515号 (2016・3)

    当を得た見解である。大穴持命を中心に新たな歴史を紡ぐことは、出雲国造自らの立場の強化・確認につながる。

    もっとも、熊野大神でも天乃夫比命でもなく、何故大穴持命なのかという問題も併せて考えるならば、出雲悶造側の

    意向とは別に、出雲国は大穴持命を中心にした神の固なのだと意識的に装わねばならなかった事情もあったと考えねは

    ならないのではあるまいか。

    明治大学教養論集

    荻原は右とは別の論考で、『紀』を規範視する風潮にあって、『出雲』のみがこれを無視するわけにはいかなかったの

    そのような時勢の中で、出雲国造側がしぶしぶ応じたのが、第二節に掲出した

    (お)

    『出雲』の天皇関連の四つの記事だったと論じている。稿者は、先述の通り『出雲』の『紀』との向き合い方が積極的

    ではないかと問題提起をする。そして、

    なものだったと考えており、この点は荻原と一致しない。しかし荻原の提一百は、『紀」成立後という時代におけるこの

    書物の影響力を念頭に置いた『出雲』論として注目されて然るべきだろう。

    稿者が重視したいのは、「紀』に-記されるような中央の体系神話での出畢一五の描かれ方である。内田律雄は、出雲を除

    〈幻〉

    く風土記では、『紀』や「記』との類似伝承が天皇代を中心にしており、神代での類似例は珍しいと述べている。これ

    は「出雲』の『紀」神代巻への特化の問題を考えるにあたり留意しなければならない事実だろう。『紀』における出雲

    の地に関する記事は、神代のみの専売ではない。たとえば、崇神天皇六十年七月条・垂仁天皇二十六年八月条の神宝検

    校記事など、天皇代に入ってからも出雲が舞台となる話が散見される。しかし、この地が主要な舞台として圧倒的な存

    在感を見せているのは、言、つまでもなく神代である。吋紀』に描かれる神代の出雲の姿は、前節で触れた通り、素蔓鳴

  • 尊ではなく大己責命が実効支配する世界であった。そこには熊野大神の姿がなく、天穂日命も脇役にすぎない。このよ

    うな大己責命の世界と記される「紀』神代巻の出雲と『出雲』の神話世界は矛盾しない。そればかりか、『出雲』での

    出雲の姿は、『紀』の行聞を埋める形になっている。

    以上のように見てくると、「紀』の出雲関連記事の肝を神代の大己責命と見定め、

    そこに記された神代の出雲の具体

    的な世界を提示することが、『出雲』でとられた『紀』との向き合い方だったと考えられるのだ。換言すれば、『出雲』

    の編纂にあたり、地名の起源という歴史を神話として記す試みが、『紀』神代巻に則って行われたということである。

    『出雲』において大穴持命が「天の下所造らしし犬神」と称されているのも、この営みの一環に他ならない。

    おわりに||時代に応じた風土記編纂の営み|

    157 r出雲国風土記』と「日木書紀』

    先述の通り、天皇関連記事が少なく大穴持命に収放していく『出雲』の特徴は、編纂にあたった最高責任者が国造出

    雲匝である点に帰す形で論じられてきた。との点に閲し、先には荻原千鶴の見解を紹介したが、ここでは瀧音能之の指

    摘を見ておこう。瀧音は、国造を編纂の最高責任者とする吋出雲』は、「地域レベルの視点」でまとめあげられている

    【却》

    一方、国司閣を中心に編まれた他国風土記は、「国家レベルの視点」で記されていると述べる。しかし、『出雲』

    とする。

    に見られる大穴持命を中心に据える行為自体が、『紀』の受容という、瀧音が述べる「国家レベルの視点」を意識した

    結果の産物だとするのが、述べ来ったことから導かれた稿者の立場である。

    ところで、令制下、官道は交通の実務的な役割を担っただけでなく、権力の象徴として視覚化されたものでもあった。

    その山陰道の走る意字郡・出雲郡南部・神門郡では、官道近くに神社が集中して建てられる。これは暁幣の便が図られ

  • (羽〉

    たり、動脈たる官道の景観が重視されたりした結果だと説明されている。そもそも自然崇拝など多様な祭杷の形態がみ

    158

    られただろう中にあって、律令制度の整備とともに地方に至るまで社殿が建てられ、国家的な祭把の実行が目指される

    ようになる。官道沿いとその他の地との人口の連いや、国家制度とは無縁に自然と社殿建築へ発展していった可能性も

    通巻515号 (2016・3)

    なお考えていかねばならないように思われるが、このような可視化された中央の政策は、地方の人聞にはそれなりの衝

    撃・官官もって受け止められたと推測される。

    また、『続日本紀』は、門出雲』が成立する天平五年二月までの聞に、出雲臣果安・広島一一人の神賀調関連記事を載せ

    ている。ここでも神話が聴覚化・視覚化という形で具現化されている。国家の政策の推進力の強さや、その出雲国への

    明治大学教養論集

    浸透は、官修の『紀』の存在感を弥が上にも高めることにつながる。

    このような現実を受け、『出雲』編纂の最高賞任者である出雲臣広島||彼は吋紀』成立後としては初めて「出雲閣

    造神賀詞」に関わった人物であるーーは、『紀』のような中央の神話が描いた出雲の姿を意識し、その具体化を目指し

    たーーその結果が、大穴持命を中心とした神々の国としての姿を訪梯とさせる、現在我々が目にする『出雲』として残

    -されたのである。

    なお、『出雲』と中央の神話との関係を考察する際は、『記』の存在も無視することができない。ただし小稿では、紙

    帽の都合もあり『紀』に絞って言及した。『記』をめぐる問題は後稿を期したい。

    (1)

    稿者はかつて『肥前』『豊後』を扱い、とりわけ『豊後』に『紀』を古典視する傾向が強いと論じたことがある。拙稿「『最後

    国風土記』の叙述方法||伝承形成方法の変質||」(『日本上代の神話伝承』新典社、ニ

    O一O年一

    O月)参看。

    (2)

    水野祐司豊後国風土記』」「『肥前国風土記』」(『入門・古風土記〈下〉』雄山閣出版、一九八七年一

    O月)。

  • 『出雲国風土記』と ~R 木書紀』

    (3)

    島根県古代文化センター編『解説出雲国風土記』(今井出版、二

    O一四年三月)。

    (4)

    鳥越憲三郎「三輪・賀茂氏との関係」(『出雲神話の誕生』講談社、二

    OO六年一

    O月)。

    (5)

    加藤義成『修訂出雲国風土記参究(改定四版)』(今井書庖、一九九二年二一月)。

    (6)

    三浦佑之責任編集『現代思想』四一一ムハ(青土社、二

    O一三年一二月)。

    (7)

    水野祐「大穴持命と其神系の神話」(『出雲国風土記論孜』早稲田大学古代史研究会、一九六五年一一月)。

    (8〉佐藤四信「大穴持命とその神系の神々」(『出雲国風土記の神話』笠間替院、一九七四年六月)、門脇禎二「出雲に生きる神々」

    (『出雲の古代史』日本放送出版協会、一九七六年一二月)など。

    (9〉拙稿「『出掛一耳国胤土記』の出雲と越||「天下」の創出l|」

    Q国文学研究』一七七、早稲田大学国文学会、二

    O一五年一

    O月)。

    (叩〉加藤義成前掲書注(5)。

    (日)青木紀元「土地の神|地名と神名|l」(『日本神話の基礎的研究』風間書房、一九七

    O年三月)。

    (ロ)士口松大士山「古代出雲西部の神社と交通」(『古代文化研究』一二、島根県古代文化センター、一一

    O一三年三月)。

    (日)島根県古代文化センター編前掲書注(3)。

    (U)

    荻原千鶴「『出雲国風土記』の地名起源叙述の方法」(『太田善麿先生追悼論文集古事記・日本書紀論叢』続群書類従完成会、

    一九九九年七月)

    0

    (日〉内田律雄斗山一芸国風土記』所載の林臣について」令青山考古』六、青山考占学会、一九八八年四月)は、資料の制約を断つ

    た上で、林臣が出雲臣への従属的な立場にあったとみている。

    (日〉平野邦雄「出裳大神と出雲国造||古代出雲の世界を再考する||」(『古代aX化研究』三、島根県古代文化センター、一九九

    五年三月)、小村宏史「『出雲国風土記』におけるオホナムチ像」(『古代神話の研究』新興社、一一

    O一一年九月〉など。

    (げ)内田律雄「山設国造の世界観」門出雲園造の祭杷とその世界」大社文化事業凶、一九九八年.一月三

    (日)肥後和男「出雲国風土記」(『風土記抄(肥後和男著作集第二期)』教育出版センター、一九九三年三月)、佐藤田信「出雲国風

    土記神話の形態」(前掲書注(

    8

    )

    )

    など、『出雲』の記事について『紀』との関係を見出すことに否定的な論もある。

    (印)『出雲』と『紀』神代巻第九段一書第二の違いに伴う問題は、拙稿「『出雲国風土記』楯縫郡冒頭の意味||出雲国迭の意図し

    たもの||」(『国語と国文学』八八|三、ぎょうせい、一一

    O一一年三月)で言及した。

    (初〉倉塚様子「出笠宮神話圏とカミムスビの神」(『古代文学』五、武蔵野書院、一九六五年一一月)。この論では『出雲』から『紀』

    159

  • 160

    へという流れが述べられるが、稿者は『紀』を意識して『出雲』が書かれていると考えている。拙稿前掲注〈mM)参看。

    (幻)拙稿前掲注(9)〈凶〉。

    (問)高藤昇「出雲国風土記に見える所造天下大神」(『園拳院雑誌』六二|一、園皐院大祭、一九六一年-月)、松本直樹『出雲国

    風土記注釈』(新典社、一一

    OO七年…一月)など。

    (お)神野志隆光「瑞珠盟約/宝鏡開始」(『国文学解釈と教材の研究』三一ニl八、学燈社、一九八八年七月)は、神代紀第六段か

    ら第八段について素斐鳴尊が根国へ逐われることを語る段だと述べている。

    (斜)拙稿「「根堅州国」と「黄泉国」||大国主神の権力基盤||」(前掲拙著注(

    l

    )

    )

    (お)荻原千鶴前掲論文注(MH)

    (mm)

    荻原千鶴「九州風土記と『出雲国風土記』||中国南朝地方志・『水緩注』をめぐって||」(『古事記年報』五七、古事記学会、

    二O一五年一月〉。

    (幻)内田律雄「『出雲国風土記』の神々」(前掲普注(日))。

    (問的〉瀧血冒能之「『出雲国風土記』の性格|l神と天皇の表象安中心として」(『出雲古代史論孜』岩図書庖、ニ

    O一四年二月〉。

    (ぬ)吉松大志前掲論文注(ロ)。

    (叩)国家政策と社殿建設との密接な関わりをめぐり、建築史学の立場からは丸山茂「神社建築の形成過程における官社制の意義に

    ついて」

    Q神社建築史論||古代王権と祭紀』中央公論美術出版、二

    OO一年七月)など、文献史学の立場からは有富純也「神

    社社殿の成立と律令国家」(『日本古代国家と支配理念』東京大学出版会、二

    OO九年五月)などに論がある。

    通巻515号 (2016・3)明治大学教養論集

    ※小稿の引用は次に拠ったが、分注は〔〕内に入れ、ルビは省略した。また、()内の注記は稿者による

    0

    ・吋肥前国風土記』『豊後国風土記』『日本書紀』||日本古典文学大系(岩波書庖)

    -吋出雲国風土記』||学術文庫(講談社〉

    ※小稿は、平成二七年度早稲田古代研究会例会〈二

    O}五年一

    O月三目、於・早稲田大学〉における口頭発表に基づく。御意見を賜

    わった各位に深謝申し上げる。

    (いとう・けん

    法学部専任講師〉