葬送儀礼に見られる米 -...

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稿

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  • はじめに

     

    日本各地で、主食として知られる米が葬送儀礼の場で様々な形で、広く用いられている。柳田國男氏は「生と死

    と食物」において、死者に食物を供する理由と起源について、疑問を投げかける者がでてきたら、それに答える新

    たな学問が必要であり、特に米を重視し、日本各地の習俗について、比較研究の必要性を述べている(1)。

     

    そこでは、「枕飯」、「枕団子」の作法、湯灌の際に用いる酒、墓を掘る者が食する握り飯、出棺に臨んでの食事

    とされる「出でた立

    ちの膳」、葬儀と密接な関係を持つ親族が米を贈る習俗、「笠かさの餅」という米を加工した餅を用いる

    習俗について言及されている。「笠の餅」と呼ばれる習俗は、葬儀の四十九日後の法要や、地域によっては葬儀の

    当日に用いられることもあるようである。具体的に、米はどのように用いられているのか、民俗誌の記述を中心に、

    葬送儀礼について、各地の事例をみてみることとしよう。

     

    なお、葬送儀礼の際に供される「米」関連のものには米それ自体からコメを原料とした餅や酒などを含む多くの

    加工品までいろいろ想定できるが、本稿で取り扱う事例は、米及びその一次的な加工物に限定し、たとえば酒のよ

    葬送儀礼に見られる米

      

    民俗誌の記述を中心に―

    横 

    井 

    教 

    二六五

  • うに、大きくその形状を変えたものなどについては別稿を期したい。

    一 

    臨終時の米

     

    まず、宮崎県では、米を入れた竹筒を振って聞かせる「フリゴメ(振り米)」という習俗があり、息をひきとっ

    たばかりの人の耳元で、米を振りその音で生き返らせようとしたとの報告がある(2)。「フリゴメ」の習俗は、米の持

    つ呪術・宗教的力によって、生命力を活性化させ、蘇生を促そうとしたものであろう。

     

    奈良県山辺郡では、「ミミフタギ」といって、訃報を聞かないうちに、餅などで、同年齢の人が三回耳をふたして「え

    えこと聞け、悪いこと聞くな」という習俗があるとの報告がある(3)。耳ふたぎの語は、葬儀の際に耳を塞ぐことと耳

    にふたをすることの合成語であるように思われる。奈良県宇陀郡では、ぼた餅をつくり二つの桝に入れて、耳を塞

    いだり、よもぎを耳につめ、「聞くな、聞くな」と唱え、近所七軒に、ぼた餅や銭を配るとされる(4)。単に手で耳を

    塞ぐのではなく、米やよもぎの持つ力で、不幸・災厄を防ごうとする呪術・宗教的意味があるように思える(5)。葬送

    儀礼に見られる、米や植物の持つ呪術・宗教的力、米の聖性を物語る事例といえよう。

     

    ではなぜ米を使うのだろうか。それを明らかにするには、臨終時の米に関する出発点について、時代を遡って、

    考えてみる必要があろう。

     

    そもそも、亡き人も食事を必要とするという観念は古代からあったらしく、『古事記』や『日本書紀』に語られ

    る黄泉戸喫(ヨモツヘグヒ)(日本書紀では、喰泉之竈)があげられる(6)。ヨモツヘグヒとは、死者の国とされる黄

    泉国で、煮炊きされた食事をとることで、これをとる以前ならば、蘇生して現世に立ち戻ることができると信じら

    れていたようである(7)。西郷信綱氏によれば、ヨモツヘグヒとは、ヨミの国のかまどで、煮炊きしたものを食べるこ

    二六六

  • とで、「へ」とはかまどのことで、ヨミの国の釜の飯を食うとヨミの国の人になってしまい、もはやこの世にもど

    れなくなるという(8)。

     

    西郷氏は、ヨモツヘグヒは生と死を分かつ、説話上の一つのしきりで、食べることを実態化して、何かを食べる

    ことと解するのはよくないとしているが、筆者には、ヨモツヘグヒの形象化が、枕飯なのではないかと思われるの

    である(9)。

     

    実際、古墳時代の土器にも、そのようなものが見られる。小林行雄氏は、古墳時代の副葬品の中には、食物を供

    えるための須恵器や土器が見られるとしている)10(

    。小林氏は、畿内の横穴式石室から発見された、小型の竈、釜、甑

    の三器を一セットにした模造土器について、死者が「黄よもつへぐひ

    泉戸喫」をするために必要な用具として、石室内に置かれ

    たものと述べている)11(

    。このことから、古墳時代には、米が葬儀の際に用いられていたことが推測されるのである。

     

    井之口章次氏は、被葬者に供えられる飯は、蘇生のために用いられる魂よびの呪法の一つとしている)12(

    。井之口氏

    は、幽顕の境にさ迷う魂を、米・飯の魅力によって引き戻そうとするのだという蘇生説を述べているのである)13(

     

    一方、五来重氏は葬列の枕飯は、鎮魂されずにさ迷い浮遊する霊すなわち餓鬼に饗して葬送を妨害させないため

    の饗供であると述べる)14(

     

    筆者は井之口氏や五来氏の仮説とは異なり、ヨモツヘグヒという視点から枕飯を考えてみたい。特に、ヨモツヘ

    グヒをすると、この世に戻って来られないという点に注目して、枕飯の事例についてみてみよう。枕飯をヨモツヘ

    グヒの代替物と考えると、枕飯は、蘇生のためというより、むしろあの世とこの世の境を明確化し、死者の霊魂が

    迷わずあの世へいくことを促進させる為の習俗ではないかと、筆者には考えられるのである。西郷氏は、生死不明

    の時を経て現に死ぬことがヨモツヘグヒしたことと同義であったと述べているが、その説は、枕飯が蘇生を促すた

    二六七

  • めではなく、生と死の境を明確化させるための葬具であるという、筆者の説とも符合する)15

     

    その根拠として、筆者が注目するのは、枕飯の形である。その具体的な事例については後述するが、枕飯に山盛

    りに盛った飯に箸をつきたてる事例が、日本の各地に見られる。その一方で、日常の食生活では、茶碗に盛った飯

    に箸をつきたてることが、禁忌とされていることも、各地に見られる特徴である。これは、茶碗にもった飯に箸を

    つきたてることが、とりもなおさず、死者のための飯=枕飯であることを意味しているためと思われる。蘇生する

    よう願い、病人のそばに飯を置くなら、箸は突き立てないだろうし、飯に箸をつきたてるのは、迷わずあの世へ行

    くように、との遺族の覚悟とも解釈できる。箸を突きたてた飯は、生者のための飯ではなく、死者のための飯であ

    り、枕飯の供えは、生と死の境を際立たせ、明確化する役割を果たしていると思われるのである。古い時代に、器

    に山盛りにした飯に箸を突き立てる習俗があったかどうかは確認できないが、日常、生者が用いる食事の道具を用

    いつつ、日常の作法と異なる作法で死者に供えていただろうことは推測されるのである。

    二 

    枕飯・枕団子の呼称と作り方

     

    息をひきとってまもない被葬者の枕元に供える「枕飯・枕団子)16

    」という習俗がある。この習俗には、様々な呼称

    があり、行われている地域も広く分布している。「イッパイ団子(一杯団子)・イッパイメシ(一杯飯)・アラネ団

    子(あられ団子か?)…以上、青森県南部)17(

    」、「マクラメシ(枕飯)・マクラ団子(枕団子)…以上、栃木県安蘇郡)18

    」、

    「クロゴメ(黒米、玄米)の団子…新潟県村上市野潟)19(

    」、「オクリゼン(送り膳)・ノ団子(野団子)…以上、愛知県

    知多郡)20(

    」、「ホトケノママ(仏の飯)・モウジャノメシ(亡者の飯)…以上、滋賀県)21

    」「イッツェンメシ(一膳飯)・

    マクラナオシノゴハン(枕直しのご飯)…以上、兵庫県加東郡)22(

    」「マクラゴメ(枕米)…岡山県勝田郡)23

    」「マクラメ

    二六八

  • シ(枕飯)、マクラ団子(枕団子)・ロンジ(路食?)・ミサキ団子(御崎団子?)(香川県)24

    )」「シトギ団子(しとぎ

    団子)…島根県吉賀)25(

    」「カタチヌメー・ヌチャーシウブン…沖縄群島一帯)26

    」などと呼ばれている例を指摘できる)27

     

    この枕飯・枕団子はどのように作られ、用いられているのか、以下では地域ごとに、また各事例は原則として北

    から南の順序でみてみよう。

     

    1 

    東北地方

     

    青森県南部では、桝の裏底を棒で三遍大きい音を立ててたたき、それから米を量る。米は洗わずについて粉にし、

    小さい団子を作る)28(

    。イッパイ団子(一杯団子)というが、一杯というのは、二合五勺ほど入る穀物を量る器に一杯

    のことで、一杯と限定するのは、何度も繰り返さないようにとの意味と考えられる。この米を粉にして、親指ほど

    の大きさに丸め、葬式の日にもこれを携えていき、墓で埋葬が終ると、茶と米とともに水に混ぜ、半紙一枚をひろ

    げて、その上に注ぎかけるとされる)29(

     

    宮城県では、息をひきとってまもなく、米の粉をひいて、団子をつくる。塩味なしの団子で、七日間は供えると

    いう所もある。また枕元に高盛のイッパイメシ(一杯飯)を供え、一本箸を立てる)30(

    。飯に立てる箸は、事例によっ

    て、一本の場合と二本の場合があるが、一本の方が非日常性を強調できるとしても、意味に違いがあるかについて

    は定かでない。

     

    山形県では被葬者の枕元に枕団子を供える。団子は白米を臼で引いた粉でつくるが、この世に思いを残している

    と黒い団子になるという)31(

    。惜しまれて亡くなった者へ供える場合、玄米を挽くのかもしれないが、伝承の上では、

    死者の、あるいは死者への思念が、色や形となって顕れるとの観念が伺える。

     

    福島県では戸外で炊き、椀に高盛にして供え、ヨウゴノメシと呼んでいる。石城ではヨウゴノメシは孫が出棺前

    二六九

  • に炊く。またツボの最年長者がとがずに戸外で仏具をつくった削りくずを使って炊くものとするところもある。こ

    の高盛飯は誕生・婚礼・葬式と、人間の一生に三度食べるものとされる)32(

    。高盛飯は葬儀だけでなく、人生儀礼に欠

    かせない大切なものとなっているようである。

     

    2 

    関東地方

     

    茨城県多賀郡では、不幸の時も餅をつくが草履と下駄を片足ずつ履いてつくとされ、団子は一つずつ丸めるとさ

    れる)33(

    。葬儀は通常とは異なる特別な時間を過ごすため、履物の履き方も通常とは異なる穿き方をすると思われる。

     

    群馬県勢多郡の枕団子は三個で、団子もお皿も米の粉でつくり、亡き人に供える。枕飯は高盛りにして、三角に

    折った紙をあてる。民俗学者の吉野裕子氏によれば、三角の額あてを含む、葬儀の三角形は蛇の頭かうろこを意味

    しているというが、枕飯の三角形も同じことを意味しているのだろうか)34(

    。ほかに水のみ団子といい、真ん中が窪ん

    だ団子をつくるところもある。調製に用いた木や竹は、三本辻に出して燃やし、灰も三本辻に捨てる)35(

     

    調整に用いた道具やその灰はなぜ三本辻に処分するのだろうか?三本辻に何か特別な意味があるのだろうか。三

    本辻とは、三叉路のことであり、それは、各地域の間をつなぐ結合点である。葬儀は生と死のあいだを秩序づける

    ために、時空の境目に行われる儀礼であり、葬儀の間に用いた、これらの道具は、三叉路のような空間の境目で処

    置をすることが好ましいという観念があるように思われる。

     

    埼玉県越谷市では、枕団子を供える。その数は二個・四個・六個とか、一三個と土地によりまちまちで、皿に

    盛って供えたり、串に刺して供えたりする。土地によって数がまちまちなのは、土地によって、数の意味づけが異

    なるためであろう。例えば、二個は「同行二人」、四個は「死」を連想させるし、六個という数は、六道や六地蔵、

    十三個は十三仏といった背景との関連を想定できるが、もっと他の意味づけもあるかもしれない。 二七

  •  

    比企郡では俵の形をした三個の枕団子と、寺に納める四九個の団子、三十六童子に供える三六個の団子をつく

    る)36(

    。三個は、仏法僧の三宝、四十九は中陰を連想する数、三十六童子は不動明王の眷属が連想される。いずれも、

    数については、仏教的意味づけとの関連を指摘できる。

     

    伊豆の神津島では、組合、隣組の男女が集まり、ヤツアシノオゼン(八足の御膳)をヒダリマワシ(左回し)で

    作り、組内各戸の女たちも手伝いに出て枕団子やイチゼンメシ(一膳飯)を作り、枕元に供えた。調布市では火を

    使わずに玄米の粉で生のマクラ団子を作ったとされる)37(

    。団子の調製は、通常、火を用いるが、火を使わずに調製す

    るということは、日常とは異なるという意味であろう。

     

    神奈川県津久井郡では、枕団子(六つ供えるもの)をひくには、内庭へ梯子を逆に掛け、臼を左に廻してひき、

    その粉で団子をつくる。もみ足して足を洗うものではないとされる。枕団子は一般の調理に使うものとは別火で作っ

    た。別火は普通三本の木を組んで鍋を吊して団子などをつくるが、城山町ではセド(背戸)の屋根に梯子をかけ、

    その段から縄で鍋を吊るして行った。別火の灰は、米俵の両端に当てる円いわらのふたに裏返しにして、その上に

    盛り、ジョウグチ(玄関)に出しておくとされる)38(

    。別火の習俗は、葬儀に用いる供物の調製を、日常用いている炉

    を用いずに、外で臨時に作った炉で調製することで、葬儀が、日常とは異なる、死の世界と密接に係わることを、

    儀式的に表現したものと思われる。後に詳しく論ずることとする。

     

    3 

    甲信越地方

     

    新潟県村上市では亡くなることをメオトス(「目落とす」の意?亡くなって目をとじることからか?)というが、

    メオトスとすぐにクロゴメ(玄米)の団子をつくる。いわゆる枕団子で、死者の枕元に供えるとされる)39(

    。日常、玄

    米の団子はつくらないから、これも葬儀の非日常性を団子で表現したものと思われる。

    二七一

  •  

    山梨県東山梨郡では玄米を石臼でひいて黒い団子を作り、椀に盛って死者の枕元に供える。これをマクラヤノ団

    子と呼ぶ。また別火で炊いた玄米の飯を茶碗に山盛りにし、それに箸を一膳垂直に立てて供え、水も供える。この

    飯と団子は、埋葬の時、棺の中に入れる場合と墓の土饅頭の上に置く場合がある)40(

    。新潟県の事例と同様であるが、

    黒い団子という、黒の色も死を連想する色であり、葬儀と密接に係わる色であるために、用いられるのではないか

    と思われる。

     

    長野県上伊那郡では、亡くなるとすぐに生団子を作り、枕もとにおく。生団子は米の粉を水でこねてつくったも

    ので、三つばかりそなえるので、これは墓地までもっていくという)41(

    。団子をゆでたり焼いたりしないで、生のまま

    用いるのは、生者のための食物ではないことを意味しているように思える。またオタカモリ(御高盛)といって、

    人生の一生に三度は、必ず供せられるとされ、諏訪では、誕生の日の産飯、婚礼の日の夫婦相愛の飯、臨終時の枕

    飯、すべてオタカモリと呼ばれているという)42(

    。オタカモリは人生の大きな節目で用いられる儀礼的供物の一種と考

    えられる。

     

    4 

    東海地方

     

    静岡県駿東郡では、息を引きとると「ホトケはいったん善光寺参りに行くので弁当をつくる」などといって、挽

    いた米の粉を用いて、枕団子をつくる。葬儀の供物を死後の食事とする観念はかなり古い時代からあるように思わ

    れるので、この伝承は、善光寺参りが盛んになった時の伝承であろう。御殿場周辺では、庭に三本の棒を組み、鍋

    をつり、松明の火で煮る。この団子はオモリ団子(御盛団子?)といい、こしらえただけ残さずに盛りきる。団子

    を盛りきるのでオモリ団子というのであろう。残さずに盛りきるというのは、単にもったいないというだけではな

    く、葬儀の影響を後まで残さないようにという意味ではないかと思われる。庵い原はら郡の一部では、刃物を用いず青竹

    二七二

  • を折り取って三股に組んで鍋をかける。昔から、屋外で別火によって調製し、そのほかの煮物もふだん使っている

    かまどは用いない)43(

    。この事例も別火の事例である。

     

    5 

    近畿地方

     

    滋賀県湖東では、人が亡くなると、門口に北向きのクドを作り、藁を焚いて飯を炊き、土器によそって生味噌と

    ともに膳にのせて供える。これをホトケノママ(仏の飯)とか、モウジャノメシ(亡者の飯)と呼んでいる。これ

    には一本箸を立てる。特別な炉を作り、土器に盛るというのは、これも非日常的意味が強くあるように思われる。

    土器は古代を連想させる食器であるが、葬儀の道具の中には、かなり古い時代(の形など)を継承したものが用い

    られることがあるようである。湖こ西さいでは、死後、すぐに玄米でマクラ団子を供える。三谷では枕元に一合の米で作っ

    たムツ団子(六団子)を供える。北生見ではミツ団子(三団子)、多羅尾ではヨツ団子(四団子)であるという)44(

    これは埼玉県越谷市や比企郡の事例と同じように、数に意味を持たせた団子であろう。

     

    京都府網野では、人が亡くなるとすぐに善光寺へ参って帰り、その後、四国廻りの長旅に出るといい、ただちに

    枕飯を弁当に持たせるために、別かまどを築いて炊くことが明治末まで続いた。これは静岡県駿東郡の事例と似た

    事例であるが、四国廻りが付加されているので、四国廻りが多く行われたときの伝承であろう。北桑田郡や亀岡市

    では、枕飯は必ず玄米団子、一本箸を立てる理由については、余計に立てると、六道の辻で迷うからとの報告があ

    る)45(

    。意味不明な理由づけであるが、一本箸は、あの世へ行く途中に立てる道標の役割をするのだろうか。

     

    大阪府枚方市では、枕飯の膳(米の粉をねって丸めた枕団子・玄米の飯・生味噌・逆さに削って削りかけをその

    ままにした箸、以上の四点を白木の膳にのせる)を枕元にそえ、餅をついて仏壇に供える。餅をついて仏壇に供え

    るのは、死者の霊のホトケ化=祖霊化を願ってのことだろうか)46(

    二七三

  •  

    兵庫県加東郡では、亡き人と血縁関係のない近所の女性が四人で、喪家の外で、コンロで米を炊くとされる)47

    。こ

    の事例は喪家の外で米を炊くので、別火の習俗の一種であると思われる。

     

    奈良県南部では、亡き人がふだん使っていた茶碗で、玄米を一杯分量って炊き、残らないようにその茶碗に全部

    もりつけ、箸二本と味噌・塩をそえて枕元に供える枕飯の習慣がある。全部盛りきるというのは、静岡県駿東郡の

    団子の事例と同じような意味があるように思われる。味噌と塩を添えるというのは、おかずの代わりなのだろうか。

    それとも、場を清めるためなのだろうか。また、炊いた飯を残して握り飯を二つつくり、針を一本ずつ刺しておく。

    これをズタブクロ(頭陀袋)に入れて棺に納める。針をさしておくというのは、あの世でも裁縫ができるようにと

    の願いなのだろうか。それとも、武器の代わりに、魔除けのお守りとして、持たせるものだろうか。針を仕込んだ

    握り飯は、あの世へいくまでの間に、魔物に出会った時、魔物に食べさせて逃げるか、或いは捕獲するために針を

    仕込んでおくものではなかろうか。十津川村では、雨だれおちの所でイチゼンメシ(一膳飯)を炊いて茶碗に山盛

    りにして箸を一本つき立てて枕もとに供えることもある。葬儀の供物を戸外で調製する伝承であるが、この事例で

    は、調製の場所は、雨だれおちの所=軒先であるが、内と外の境で、内に近い外という位置関係にある。これは生

    者が家の内であるのに対し、死者が家の外に葬られることと関係していると思われる。まだ亡くなって、まもない

    ために、家のすぐ外側の軒先で炊かれるのではないかと考えられるのである。枕飯に用いる米を炊くあいだに善光

    寺あるいは熊野権現へ参っているから、できるだけゆっくりと炊くのがよいとされる)48(

    。この事例では、枕飯は、お

    参りのための弁当ではなく、お参りの後の精進落としのような役割の供物とされている。

     

    和歌山県では、西にし牟む婁ろ郡では出棺間際に軒の外で枕飯を炊いて茶碗に盛り、柿の木の箸と竹の箸の片方ずつをつ

    くって、合わせて一膳分とした箸を、盛った飯に突き立てる)49(

    。箸の素材となる柿の木と竹は、いずれも身近に存在

    二七四

  • している庭木で、強い生命力を持つ植物なので、魔除けの意味で用いるのであろう。日高郡では、茶碗に飯を高盛

    にして、箸を十文字にさし、これをマクラヤノメシ(枕屋の飯)と呼ぶ)50(

    。十文字にするのは、魔除けの意味なのだ

    ろうか。

     

    6 

    中国地方

     

    鳥取県因幡では、枕飯と一緒に、送り団子をつくるとされ、団子の粉は、臼をふだんとは逆に左回しにして玄米

    を粉にし、生のままの団子を供える。日常とは逆さまな方法が行われるとの報告がある)51(

    。団子の材料としての玄米、

    生のままの調製、左回しという、日常とは異なる要素を多く含んだ調製であり、葬儀の非日常性を表現しているよ

    うに思われる。

     

    隠岐では、土鍋で炊き、炊き上がってとりあげたら、その土鍋はすぐ叩き割り、吉賀では、洗い米を粉にして団

    子を作るという報告がある)52(

    。土鍋を叩き割るのは、たびたび不幸があっては困るから、二度と使わないように、と

    いう意味を込めているように思われる。

     

    岡山県勝田郡では、亡くなるとすぐに、枕元に、米を一合ほど、白紙に包んで供える)53(

    。この事例では、米の調製

    をせずに、米のまま供えている。供物には違いないが、食料というより、米の力を用いる呪術的意味があるように

    思われる。

     

    広島県では、飯を盛った茶碗に、好物を添えて膳に入れ、枕もとにおき、死亡すると箸を飯に突き立てるという

    報告がある)54(

    。病人のためのお膳が死者への供物へと変化した事例である。箸は亡くなって初めて、飯に突き立てら

    れる。箸が突き立てられた飯を見た者は、もはや病人のためのお膳ではなく、死者への供物となったことを理解す

    るのである。

    二七五

  •  

    7 

    四国・瀬戸内地方

     

    徳島県では、八寸膳の中央に、亡き人が生前使用していた飯椀に白飯を高く盛り、残り全部を四等分して、塩を

    つけずにぎり、四隅へ置くという報告がある)55(

    。四隅に置くのは、被葬者以外へ供えるための飯であろう。この枕飯

    は相続人の嫁が盛ることになっている。分量は米を茶碗いっぱいすくっただけである。またこのときの飯椀は、あ

    とで墓前に供えるとされる。

     

    讃岐地方では、以下のように、地域によって、少しずつ異なるという詳細な報告がある)56(

     

    香川県高見島では、一握りの米で、マクラメシを炊くが、これをヒトカマメシ(一釜飯)とよび、サンヤブクロ

    (副葬品の一種だが、別論考にて詳しく論ずることにし、ここでは詳しく触れないこととする)に入れて、棺に納

    める)57(

     

    香川県三み豊とよ郡では、マメイリカワラケ(豆煎瓦化)(瓦でできた素焼きの器)で玄米を炊いて四つに分けて握り、

    膳のすみにおくのであるが、それをロンジ(路食か)といい、葬式のときにはロンジモチ(路食持)は先頭を行く

    との報告がある)58(

    。これは被葬者のための食物というより、野犬や鳥など、墓を荒らす獣類をロンジ(路食)にひき

    つけておき、被葬者に獣類が近づかないようにするための囮と考えられる。野犬や鳥が墓を荒らす被害は、火葬の

    場合は供物に留まるが、土葬の場合は、埋葬した遺体を荒らす心配もある。そのため、そのような生類が近づかな

    いようにする工夫をしていたと思われる。そうした土葬の習俗は、火葬の場合でも習俗だけが残る場合もあったで

    あろう。

     

    香川県小豆郡では一釜飯と生団子を三つ作り、両方を枕元に供えるとの報告がある)59(

     

    香川県塩しわく飽

    では、マクラメシが二通りあり、一つは息が途絶えたら、すぐに炊いて枕元に供えるもので善光寺へ

    二七六

  • の弁当という。もう一つは葬式の当日に家の外で飯をたくのをマクラメシとよび、握飯にして、一尺角の膳に五つ

    盛り、葬列の時に持って行くとされる)60(

    。この事例では、枕元の枕飯と葬列の枕飯を分けている。柳田氏が枕元の枕

    飯と葬列の枕飯は同じかどうかと疑問を呈しているが、この事例も、枕元と葬列のマクラメシがそれぞれ異なるも

    のであることを示している事例と思われる。

     

    香川県大川郡では、マクラ団子をロクドノ団子(六道の団子?)といい、十二個作って、六つはサンヤブクロに

    入れ、残りはインドウワタシ(引導渡し)の後、投げるという。多和では、この団子を食べるとさびしくないとい

    い、インドウワタシがすんでから、子どもにあげるとされる)61(

     

    香川県観音寺市の沖にある伊吹島や三豊郡では、よその土地でマクラ団子といっているものをロンジとよぶ。お

    むすび六つを冥土への弁当とし、葬列のときに持って行くという)62(

    。冥土への弁当という説明では、死者への供物を

    意味すると思われるが、ロンジという呼称は、路食と考えられ、先述したように路上の獣類への供物を連想させる

    ものである。おそらく、枕飯と路食が区別されず一緒になってしまった事例と思われる。

     

    高知県では、膳の中央に盛飯茶碗、その四隅に握飯を置くのが一般的であるとされ、宿すくも毛

    市あたりではこの四隅

    にヒダリマキ(左巻)といって、紙ふさをつけた棒を立てるとされる)63(

    。この棒はシカバナ(紙花・四花)の一種で

    あろうか。あるいは鎮魂の呪具とも考えられる。

     

    愛媛県越智郡では、米を洗って団子にし、お盆に六つ盛って被葬者の枕元に置く。六つという数は六道の意味だ

    ろうか。数に意味を持たせているように思われる。西宇和郡では枕飯を「オヒル(御昼)」という。宇摩郡では、

    一釜一膳だというとの報告がある)64(

    。これは枕飯のために炊いた飯を使い切ってしまうという伝承と同じ意味であろ

    う。

    二七七

  •  

    8 

    九州・沖縄地方

     

    筑前大島では、薪はぬきの藁を取って、焚きつけとなし葬儀使用の木片を焚く。米は三人搗き米といい、玄米を

    三人で搗き出すので、臼の中から出す時とうしで通さず、箕でやり、箕の向こうから受け取って、空釜の中へ米か

    ら先に入れ水を後から入れる。米を量る時も桝で量らずに手で握り出すとのことで、釜は小土鍋で飯は椀に高く盛

    り上げる。箸は竹と木を用い、生塩、生味噌、沢庵漬け三切れを付す。これを枕飯という)65(

    。米を量る時に手で握り

    出すというのは、日常はしないことなので、非日常性を意味していると思われる。葬儀使用の木片というのは、棺

    の木片か、或いは様々な葬具を作る際に出た木片なのかもしれない。

     

    佐賀県佐賀郡では、枕団子という、うるち米の団子を被葬者の枕元に供える。九合九勺(約一・七二リットル)

    の米で作るという。これは葬式の時、墓地まで運ばれる。東松浦郡では、喪家の門口に臼をおき、その上に甚八笠

    をさかさにして、その中に飯を盛った椀に竹箸を十文字に立て、味噌などを添え、これを棺とともに墓地まで運ん

    で埋めるとされる)66(

    。笠は一種の依り代で、死霊の鎮魂のために用いていると考えられる。

     

    長崎県北松浦郡では、一本花と線香の他に、小さい器に高盛の飯を供える。遺体からホケ(湯気)が立っている

    間に飯をあげるとされる)67(

    。湯気がたっている間ということは、あまり時がたっていないことを意味しており、亡く

    なるとただちに枕飯をつくって供える、という意味であろう。

     

    熊本県阿蘇郡では被葬者にそうめん・花菓子・オゴサン団子(御五三団子)を供えるが、この三つをオケサと呼

    ぶ。花菓子は花の形をしているが塩が入っていない。オゴサン団子は米の粉の丸い団子である)68(

    。オケサは供物のそ

    れぞれの頭文字をとってオケサと呼ぶようになったのではないか。

     

    宮崎県では二握りのお米を小釜で炊いて一粒残らず茶碗に盛り飯にして、その中心に箸を立てて亡き人の枕元に

    二七八

  • 供え、納棺のとき紙に包んで一緒に入れてあげ、使った茶碗や箸は捨てるとの報告がある)69

    。納棺のとき紙に包んで

    いれてあげるのは、おそらく冥土の旅弁当の意味であろう。使った茶碗や箸は、後で使わずに捨ててしまうのは、

    不幸に用いた道具を捨てることで、不幸の残留を防ごうとする呪術・宗教的意図があるように思われる。その行為

    の背景には、不幸に用いた道具に不幸が感染し、道具を置いたままにしておくと、死に結びつく好ましくない影響

    が生活に及ぶかもしれないという呪術・宗教的観念があると考えられるのである。

     

    鹿児島県では、三隅を吊った蚊帳に被葬者を入れ枕元に灯明・線香・枕飯を供えるという)70(

    。蚊帳は虫除けの意味

    だろう。

     

    沖縄県中頭郡宜野湾村では、仏壇にはシュンカンと称する飯椀にご飯を盛り、箸を一本立て一本横たえたものと、

    皿に豚肉などを盛ったものを載せた膳を供えた)71(

    。豚肉を皿に盛った膳を供えるというのは地理的に近い中国の影響

    だろうか。筆者は台湾へ民俗調査に行った際に、廟で、供物として豚肉が供えられているのをよく見かけたもので

    ある。

     

    枕飯の形について、共通した特徴について考えてみると、茶碗に御飯を山盛りにし、盛った御飯の中心部に箸を

    突き立てた形が多い。突きたてる箸は一本の場合もあるし、二本(一膳分)の場合もある。地域的分布の傾向につ

    いては、どちらかといえば、北の方ほど、団子のみをつくる傾向が見られる。

     

    多くの場合は、亡くなった後、ただちに作るが、広島県の事例のように、病人の枕元においておいた御飯に、亡

    くなると箸を突き立てるということもある。

    二七九

  • 三 

    枕飯の意義に関する考察

     

    井之口氏は、枕飯には、息をひきとったばかりの人を蘇生させる目的があったと述べる。亡くなると急いでつく

    るのはそのためであるという。蘇生を願ってお供えした枕飯の原意が薄くなり、霊場へお参りするための弁当と理

    解されたのだとしている。墓地がもともと死者の復活を願う殯の場所だとすれば、蘇生を願う枕飯を墓地へ運んで

    お供えするのは当然のことであり、それを棺に納めて亡骸と一緒に葬るのは、あの世へ旅立つ死者の弁当とする考

    えに影響されたと述べている)72(

     

    一方、五来氏は、枕飯は、亡くなった人の霊が宿る魂飯とし、死者の霊が枕飯を食べることで、そこに落着き、

    安らかに鎮まるのだという、鎮魂説を述べている)73(

     

    柳田氏は、湯灌がすみ死者を甕に納めてから、その前に供えるという、筑前相ノ島の一杯飯の事例をあげ、死の

    直後の枕飯と外炊き飯は違うのではないかという疑問を呈している。

     

    五来氏は、柳田氏の疑問をうけて、枕飯とよばれるものに、死者の霊に供する霊供と、餓鬼に饗して、その荒暴

    を鎮める饗供が混同されており、区別すべきであると述べる。納甕(納棺)が済んでからの霊供は、死者を奪いに

    くるかもしれない餓鬼への饗供と見るべきであるという)74(

     

    つまり、なくなって間もなく作る枕飯と葬列で持参する「野飯」は本来別なもので、飯の数や盛り方も相違があっ

    たが、相違が忘れられ、おなじものになってしまったとしている。

     

    柳田氏は、筑前大島のゲダキノママ(下炊きの飯)の事例もとりあげ、下炊の飯としているが、外竈だから、外

    炊かもしれないと推察し、この枕飯は葬具などを作ってから後のものと思われるが、葬具を作る前に枕飯を作るこ

    二八〇

  • とはなかったのだろうかと、外炊きの飯と死の直後の枕飯が異なるものではないかと疑問を呈している。

     

    五来氏は、外炊き飯は死後かなり時間が経ってから、棺や四花、花籠、七本塔婆、六道などの葬具ができてか

    ら、その木端で炊き、野辺送りの葬列の直前くらいに作られるものなので、枕飯とは本来異なるものであるとして

    いる)75(

     

    五来氏は鹿児島県肝属郡の事例で見られるジキノメシは、家の外で炊き、墓まで持って行く点から、柳田氏が述

    べる、「ただちに作る」という意味ではなく、餓鬼に饗するガキノメシ(餓鬼の飯)ではないかと推論し、仏飯に

    箸を二本立て、餓鬼に与えて人間は食べてはならないという佐渡島の事例を更にあげて、これも死の直後の枕飯で

    はないと、自説を補足している)76(

    。死の直後に炊く枕飯は霊供で、入棺や葬式当日に炊くのは野飯の饗供としてい

    る)77(

     

    香川県塩飽の事例では、マクラメシ(枕飯)が二通りあるとしているが、この事例が柳田氏の疑問を物語るもの

    であると思われる。

     

    田中宣一氏は、亡くなると、ただちに枕飯が作られるのは、亡くなった人に供するのではなく、無縁の精霊や飢

    えた精霊に食べさせる「施食」が開始されていると推論し、次のように述べている。「死霊送りである葬列(野辺送り)

    にもそちこちから餓鬼どもが寄り集まってくると考えられていた。(中略)墓地での死霊の安全が確保されるため

    には、まずそれらの餓鬼・無縁に食物を施与し、供養し祀りのなされることが必要だったのである)78(

    。」

     

    五来氏の意見に従えば、元々は枕元に供えた飯と墓地へ持って行く飯は別なものなのかもしれないし、田中氏の

    説であれば、ただちに作る枕飯自体に、亡き人に供するというより、無縁の餓鬼に供するという意味があったとい

    うことになろう。高知県の事例のように、握飯をいくつも用意するのは、亡くなった人以外に供する意味があるよ

    二八一

  • うに思われる。

     

    香川県三豊郡の事例のように、亡くなって始めて、玄米から米を搗く習俗については、忌の飯との相関性を井之

    口氏が指摘しており、熊本県下しも益まし城き郡や京都府与謝郡ではこれをマクラゴメ(枕米)と呼んでおり、枕飯との関係

    を暗示するとの報告がある)79(

    四 

    会葬者がとる米

     

    次に会葬者がとる食事の習俗についてみてみよう。

     

    葬儀の間にご飯をとる習俗もある。

     

    栃木県安蘇郡では、僧が葬儀で読経中、羽織袴で座敷に人が出て、オハチ(御鉢)をまわして、二、三箸たべま

    わす習俗があり、これを「ゴクヤスミ(御供休)」或いは「ジキヤスミ(食休み)」という)80(

    。栃木県の事例は、文字

    通りに読めば、「ゴク」は御供と考えられるし、ヤスミは安らかの意味で、鎮魂を意味すると思われる。

     

    福井県大野郡では火葬の翌日、ハイヨセ(灰寄)を行う。骨を持ってかえり死者のイトコとマタイトコを全部ま

    ねいて玄米をたいて、黒い椀に山盛りにしたものをたべる。これをテンコモリ(天こ盛りあるいは天盛)という。

    このとき強い合いをする)81(

    。テンコモリは、枕飯のように高盛にしたご飯を会葬者にも食べさせる事例である。喪の

    仕事を分かち合うという意味があるように思える。

     

    愛知県知多郡では、身うちと、棺を担いだ人に出す御飯を「三日ノオトキ」という。他人は、湯灌後は手伝いし

    ても食べないとされる)82(

     

    長崎県諌早市では、オトキ(御斎)といって、会葬者に丸い握飯を出した。クドク(功徳)、ホドコシ(施し)といい、

    二八二

  • 握飯や団子を葬列の途中の子どもや大人たちに施し、被葬者や会葬者に供えたとされる。愛知県知多郡、兵庫県多

    紀郡の事例では会葬者への振る舞いをトキというが、熊本県阿蘇郡ではオトギという。法要の際に会食に供される

    料理で、六〇六年に設けられた四月八日、七月十五日の斎会や、天武期に大陸から伝わったとされる月ごとの六斎

    日には、戒律が課せられたが、食事に関する戒が重んじられたとされる。食事は正午以前にとるべきで、正午以後

    はヒジといった。トキは正時を意味し、のちに法要時の食事をすべてトキというようになったという)83(

     

    長崎県東彼杵郡では、親戚・知己など、弔問にきた者には精進料理の小盆盛に胡麻塩のついたヨコニギリメシ(横

    握り飯)を出すとされ、ウッタチ(打立)と呼んでいる)84(

    。岐阜県のオッタテ(御立)は、長崎県の事例では、ウッ

    タチといわれており、これは、出棺をデタチ(出立)といい、酒を酌み交わしたり、食事をしたりする習俗がある

    が、出棺の時とは時間がずれているものの、このなごりであろう。

     

    沖縄県中頭郡宜野湾村では、弔客にはハクヌジ(枡形で押し抜いた米飯)を出した)85(

     

    枡形で押し抜くということも、日常はしないと思われるので、非日常的な特別な意味を込めていると思われる。

    五 

    野辺送りの米

     

    次に野辺送りに持つ、米関連の食物についてみてみたい。

     

    青森県北津軽郡では、葬式の朝は草履をつくり、毛焼きして家の内より穿いて出で、墓地に到りて団子を投ぐ、

    その際に「のえ烏、ほえ、のえ烏、のえから、のえから、のほえ」と唱えつつ二人して一個の団子を箸もて投ぐる

    なり、烏、犬などこの団子を食えばよし、食わねば又葬式が重なると云いて、人々が嫌う)86(

    。団子が鳥や犬など、墓

    に来る獣類に供する意味を持っていたことが理解できる。

    二八三

  •  

    神奈川県津久井郡では、昔は葬式の時供に立った者が墓所から帰ってきた時に臼に腰を掛け、もみ足して洗って

    から縁側に上がった。現今では縁側に紙に臼の絵を描いたのを貼り、これに腰を掛ける真似をしてから上がる。新

    墓の膳や茶碗などが早く壊れるのは、後生がいいという)87(

    。米をひく臼も葬送の大切な道具として用いていたことが

    理解できる事例である。

     

    長野県上伊那郡では、枕飯として葬式の時につくる飯をささげるのも、ノガケとして紋付のような死者の大切な

    着物をきちんとたたんで膳にのせたものをささげるのも、共にその家の総領や嫁などが行う大切な役割である。枕

    飯は葬式の時に炊くので炊く人は決まっていないが、必ずその家の嫁が盛るものとされている。枕飯は遺体を埋め

    たあとの山(盛り土)へおいておくとされる)88(

    。家族が葬列で大切な役割にあたっていたことが理解できる。

     

    三重県鳥羽では飯盛りの膳、白木、死者生前の茶碗にカワラメシ(瓦飯?)を盛り、別のテショに生味噌と塩を

    入れ、木と竹の箸一本ずつを添えたもので、三十五日までそのままにしておく)89(

     

    愛知県知多郡では、ノベ(葬式)に持って行く御飯には、塩と味噌をつけるとされる)90(

     

    愛知県知多郡では、野辺送りに用意する御膳をオレクといい、喪家の嫁が持つとされる)91(

     

    愛知県知多郡では、「ソーソノボタモチ(葬送の牡丹餅)」といい、葬式の日に、臼で煎り豆をついて粉にして、

    箕の中に粉を入れて、御飯を握ったのにつける。老人の順よくおしまいになった人の時などは、「いなだかしてく

    れよ」というので、皆にやる。昔は、「今日はお別れだから箸などとって上げなされ」と膳に向かわせた。ソーソー

    の膳は、湯灌後は出さないという)92(

     

    和歌山県西牟婁郡では葬列をオクリ(送り)といい、白木の膳に枕飯・塩と味噌を盛った皿を載せたのを持つ)93(

     

    愛媛県越智郡では埋葬が済むと、その上にビヤドウという四角な板の上に竹を組み、びわの葉六枚を飾ったもの

    二八四

  • に、握飯七個を入れておく)94

     

    大分県大分市では、葬儀の翌日か三日目に近親者が炒った玄米に味噌をそえ、枕飯・水をカワラケ(素焼きの器)

    に入れて、墓地に供える)95(

     

    長崎県壱岐島では、野辺送りの際に、ノベヌ膳といい、横膳にして飯、汁、生味噌をつける。箸は木と竹を用い、

    椀も膳も周囲には紙を房のように切って立てて貼る。いちばん近い女が持つ)96(

    六 

    仏典の典拠について

     

    葬儀に見られる米についてみてきたが、ここで、米を供える仏典の典拠についてみてみよう。『大般涅槃経』巻

    一の釈尊臨終の故事に、臨終を迎えた釈尊が天女などからの供養の申し出をすべて辞退し、食事を受けない場面が

    ある。無辺身菩薩が出てきて、釈尊に香飯を供する故事がある)97(

    。結局、死期を悟った釈尊は、食事を受けなかった

    ことが記されており、死後、追慕の念により、供えるようになったとされる。仏典においても、米は臨終を迎えた

    釈尊の重要な場面で登場するのを考えると、当時の印度の社会でも米は生活に必要不可欠な食物であったと考えら

    れる。

     

    日本においても、枕飯は亡き人の弁当とされる事例があり、好物を供えるという意味づけにおいては共通点があ

    るように思われる。

    七 

    まとめ

     

    葬儀に見られる米についてみてきたが、日本の主食として知られている米は、葬儀においても、かなり広範囲な

    二八五

  • 地域において、重要な位置を占めてきたことが窺える。枕飯、枕団子の事例を中心に考察してきたが、他にも、葬

    儀の酒、米の贈り物、四十九の餅など、米は生者と死者の関係性を示す、重要な意味や役割を果たしていたと考え

    られる。

     

    以上の事例から、仏典の典拠はあるにせよ、日本における葬儀の米は、米に聖性を見出して、死者の供物とした

    ヨモツヘグヒの習俗を出発点とし、米作の広まりとともに、日本の各地に広まったと考えられる。本稿の文脈から

    離れるため、言及しなかったものの、葬儀に用いる米は、稲自体の信仰とも関わりがあることと思われる。米に遺

    族の亡き人へのおもいが込められ、大きな呪術・宗教的意味と役割を担ってきたことが改めて伺えるのである。今

    後も、葬送儀礼に用いられるものについて、さらに考察を深めてみたい。

    注(1)柳田國男、a「生と死と食物」『旅と伝説第六年七月号』三元社、昭和八年、一頁

    (2)田中熊雄『日本の民俗 

    宮崎』第一法規出版、昭和四八年、二一四頁

    (3)保仙純剛『日本の民俗 

    奈良』第一法規出版、昭和四七年、二〇五頁

    (4)保仙、前掲書、二〇六頁

    (5

    )よもぎの詳述は、本稿の目的と異なるので省略するが、薬草の一種で、葉を乾燥させ、煎じて飲むと、健胃、腹痛、下痢、

    貧血、冷え性などに効果があるとされる。

    (6

    )倉野憲司校注『古事記 

    上』岩波書店、一九六三、三八頁、坂本太郎他校注『日本書紀』(一)岩波書店、一九九四、五九

    (7)西郷信綱、a『古代人と死』平凡社、一九九九、二四六頁

    (8)西郷信綱、b『古事記注釈』ちくま学芸文庫、平成十七年、二三五頁

    (9)西郷、b前掲書、二三六頁

    二八六

  • (10)小林行雄「原始のこころと造形」『日本文学の歴史1』

    角川書店、昭和四二年、六四頁

    (11)小林行雄「黄泉戸喫」『考古学集刊』第二冊、東京考古学会、昭和二四年、三頁

    (12)井之口章次、a『日本の葬式』ちくま学芸文庫、平成十四年、九三頁

    (13)井之口章次、b『仏教以前』古今書院、八一頁、昭和二九年

    (14)五来重『葬と供養』東方出版、一九九二、九〇四頁

    (15)西郷、b前掲書、二三六頁

    (16

    )文献以外でも、確認できる事例がある。例えば、茨城県結城市や栃木県小山市周辺の事例では、茶碗二つと湯飲みを小

    さな木製の膳に載せて、亡くなってまもない被葬者の枕元に供える習俗がある。二つの茶碗のうちの一つには飯、もう一

    つの茶碗には、団子を載せる。この膳を墓へもって行き、供えることもあるが、飯と団子を紙に包んで、棺に入れること

    もある。棺に入れる場合は、あの世への旅の弁当と考えられているようである。茶碗は生前愛用したものを用いることも

    あるし、葬儀用に購入したものを用いることもある。

    (17)森山泰太郎『日本の民俗 

    青森』第一法規出版、昭和四七年、二一九頁

    (18)倉田一郎「栃木県安蘇郡野上村語彙」『日本民俗誌大系 

    第八巻 

    関東』角川書店、一九七五、三九六頁

    (19)山口賢俊『日本の民俗 

    新潟』第一法規出版、昭和四七年、二一六頁

    (20)瀬川清子「日間賀島民俗誌」『日本民俗誌大系 

    第五巻 

    中部Ⅰ』角川書店、一九七五、三九頁

    (21)橋本鉄男『日本の民俗 

    滋賀』第一法規出版、昭和四七年、二二二頁

    (22)和田邦平『日本の民俗 

    兵庫県』第一法規出版、昭和五〇年、二一八頁

    (23)土井卓治・佐藤米司『日本の民俗 

    岡山』第一法規出版、昭和四七年、一九八頁

    (24)武田明『日本の民俗 

    香川』第一法規出版、昭和四六年、一六五頁

    (25)石塚尊俊『日本の民俗 

    島根』第一法規出版、昭和四七年、二二六頁

    (26)源武雄『日本の民俗 

    沖縄』第一法規出版、昭和四七年、一七九頁

    (27)漢字の呼称は、筆者が想像してつけた呼称である。

    (28)森山、前掲書、二二〇頁

    (29)小出川潤次郎「青森八戸附近」『旅と伝説 

    第六年 

    第七号』 

    三元社、昭和八年、三二頁

    (30)竹内利美『日本の民俗 

    宮城』第一法規出版、昭和四九年、一五一頁

    二八七

  • (31)戸川安章『日本の民俗 

    山形』第一法規出版、昭和四八年、二一七頁

    (32)岩崎敏夫『日本の民俗 

    福島』第一法規出版、昭和四八年、二二五頁

    (33)大間知篤三「常陸高岡村民俗誌」『日本民俗誌大系 

    第八巻 

    関東』角川書店、一九七五、三三〇頁

    (34)吉野裕子『日本人の死生観』講談社、昭和五七年、八六頁

    (35)都丸十九一『日本の民俗 

    群馬』第一法規出版、昭和四七年、二〇七頁

    (36)倉林正次『日本の民俗 

    埼玉』第一法規出版、昭和四七年、二〇七頁

    (37)宮本馨太郎『日本の民俗 

    東京』第一法規出版、昭和五〇年、二二四頁

    (38)鈴木重光「相州内郷村話」『日本民俗誌大系 

    第八巻 

    関東』角川書店、一九七五、五四頁

    (39)山口賢俊『日本の民俗 

    新潟』第一法規出版、昭和四七年、二一六頁

    (40)土橋里木・大森義憲『日本の民俗 

    山梨』第一法規出版、昭和四九年、一八八頁

    (41)最上孝敬「黒河内民俗誌」『日本民俗誌大系 

    第六巻 

    中部Ⅱ』角川書店、一九七五、四二頁

    (42)柳田國男、b『葬送習俗語彙』国書刊行会、昭和五〇年、二三頁

    (43)竹折直吉『日本の民俗 

    静岡』第一法規出版、昭和四七年、一八六頁

    (44)橋本鉄男、前掲書、二二二頁

    (45)竹田聴洲『日本の民俗 

    京都』第一法規出版、昭和四八年、二〇二頁

    (46)高谷重夫『日本の民俗 

    大阪』第一法規出版、昭和四七年、一八七頁

    (47)和田邦平『日本の民俗 

    兵庫』第一法規出版、昭和五〇年、二一八頁

    (48)保仙純剛『日本の民俗 

    奈良』第一法規出版、昭和四七年、二〇五頁

    (49)野田三郎『日本の民俗 

    和歌山』第一法規出版、昭和四九年、一九〇頁

    (50)柳田、b前掲書、二二頁

    (51)四宮守正『日本の民俗 

    鳥取』第一法規出版、昭和四七年、一九一頁

    (52)石塚尊俊『日本の民俗 

    島根』第一法規出版、昭和四七年、二二六頁

    (53)土井卓治・佐藤米司『日本の民俗 

    岡山』第一法規出版、昭和四七年、一九八頁

    (54)藤井昭『日本の民俗 

    広島』第一法規出版、昭和四八年、一九九頁

    (55)金沢治『日本の民俗 

    徳島』第一法規出版、昭和四九年、二〇三頁

    二八八

  • (56)武田明『日本の民俗 

    香川』第一法規出版、昭和四六年、一六五頁

    (57)武田、前掲書、一六五頁

    (58)武田、前掲書、一六五頁

    (59)武田、前掲書、一六五頁

    (60)武田、前掲書、一六五頁

    (61)武田、前掲書、一六六頁

    (62)武田、前掲書、一六六頁

    (63)坂本正夫・高木啓夫『日本の民俗 

    高知』第一法規出版、昭和四七年、一九六頁

    (64)野口光敏『日本の民俗 

    愛媛』第一法規出版、昭和四七年、二二一頁

    (65)安川弘堂「筑前大島の民俗」『日本民俗誌大系 

    第一〇巻未刊資料Ⅰ』角川書店、一九七六、二一九頁

    (66)市場直次郎『日本の民俗 

    佐賀』第一法規出版、昭和四七年、一九五頁

    (67)山口麻太郎a『日本の民俗 

    長崎』第一法規出版、昭和四七年、二二一頁

    (68)牛島盛光『日本の民俗 

    熊本』第一法規出版、昭和四八年、二三一頁

    (69)田中熊雄『日本の民俗 

    宮崎』第一法規出版、昭和四八年、二一六頁

    (70)村田熙『日本の民俗 

    鹿児島』第一法規出版、昭和五〇年、二一〇頁

    (71)佐喜真興英「シマの話」『日本民俗誌大系 

    第一巻 

    沖縄』角川書店、一九七五、一六九頁

    (72)井之口、b前掲書、六一頁

    (73)五来、前掲書、九一四頁

    (74)五来、前掲書、九一四頁

    (75)五来、前掲書、九一六頁

    (76)五来、前掲書、九一七頁

    (77)五来、前掲書、九一八頁

    (78)田中宣一「枕飯と枕団子」『日本常民文化紀要二〇号』成城大学大学院文学研究科、平成一一年、一八頁

    (79)井之口、b前傾書、八○頁

    (80)倉田一郎「栃木県安蘇郡野上村語彙」『日本民俗誌大系 

    第八巻 

    関東』角川書店、一九七五、三八五頁

    二八九

  • (81)宮本常一「越前石徹白民俗誌」『日本民俗誌大系 

    第七巻 

    北陸』角川書店、一九七五、五九頁

    (82)瀬川清子「日間賀島民俗誌」『日本民俗誌大系 

    第五巻 

    中部Ⅰ』角川書店、一九七五、四〇頁

    (83)佐々木孝正『仏教民俗史の研究』名著出版、一九八七、一三〇頁

    (84)山口、a前掲書、二二四頁

    (85)佐喜真興英「シマの話」『日本民俗誌大系 

    第一巻 

    沖縄』角川書店、一九七五、一六九頁

    (86)内田邦彦「津軽口碑集」『日本民俗誌大系 

    第九巻 

    東北』角川書店、一九七五、四七八頁

    (87)鈴木重光「相州内郷村話」『日本民俗誌大系 

    第八巻 

    関東』角川書店、一九七五、五四頁

    (88)最上孝敬「黒河内民俗誌」『日本民俗誌大系 

    第六巻 

    中部Ⅱ』角川書店、一九七五、四一頁

    (89)堀田吉雄『日本の民俗 

    三重』第一法規出版、昭和四八年、二三一頁

    (90)瀬川、前掲書、三九頁

    (91)瀬川、前掲書、三九頁

    (92)瀬川、前掲書、三九頁

    (93)野田、前掲書、一九三頁

    (94)野口光敏『日本の民俗 

    愛媛県』第一法規出版、昭和四八年、二二三頁

    (95)染矢多喜男『日本の民俗 

    大分』第一法規出版、昭和四八年、二〇五頁

    (96)山口麻太郎、b「壱岐島民俗誌」『日本民族誌大系 

    第二巻 

    九州』角川書店、一九七五、二五五頁

    (97)『大正蔵』第一二巻、三七一中

    二九〇