人間世界の中の慈悲済世の展開...観音、普賢などの菩薩である。その代表が観世音菩薩(観音菩薩)である。證厳法師...

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─ 117 ─ 論文 人間世界の中の慈悲済世の展開 グローバル化時代における菩薩ネットワークはじめに 本稿は、2009 年 6 月 13、14 日に開催された慈済大学宗教與文化研究所主催の国際 シンポジウム「慈濟人間與宗教療癒」學習研討會(台湾花蓮市)において、私が行っ た基調講演「在人間世界中所推展的慈悲濟世行動―全球化時代中所開展的菩薩網―」 の日本語原文に加筆修正したものである。 (1) この講演において私に課されたテーマは「慈済人間」である。ここで言う慈済とは 慈済基金会(慈済会) (2) の慈済でもあるが、ただそれだけではなく、より開かれた一般 的な意味で「慈悲済世」を意味する。「慈悲」とは仏教用語で「仏が衆生を憐れみ、 慈しむ心」を指し、済世は『易経』に由来する言葉で「世人を救いたすけること」と いう意味である。「慈悲」の後に「喜捨」をつければ、四無量心の「慈悲喜捨」となる。 これはまさに、慈善・医療・教育・文化(人文)という、慈済会による「四大志業」 の理念に他ならない。 (3) 本稿では、 「慈悲済世」の担い手である「人間菩薩」とは誰なのか、 要旨 本稿は、台湾の財団法人・仏教慈済基金会(慈済会)における「慈悲済世」の担い手である人 間菩薩の実践のありよう、また彼らのネットワークの展開、グローバル化の時代におけるその 意義について報告するものである。慈済会にあっては、その菩薩道の実践であるボランティア 活動は、だれもが持っている「仏性」を顕現させることである。こうした活動は、「人間仏教 Humanized Buddhism」の実践的展開である。仏国土の建設を目指す慈済人たちの活動の力動的 な構造は、「立体琉璃同心円」としての菩薩ネットワークを形成する。このネットワークは、衆 生から菩薩が再生産される無限の循環運動である。それはまた、その実践者の「仏性」が磨か れていくという、内面的なサイクルの展開でもある。これを社会学的な用語で、 「ソーシャル・キャ ピタル(社会関係資本)」として位置付けることができる。慈済会は宗教団体であり NGO であ るという両側面を持ち、いわば宗教を超えた「超宗教」とでも言う性格を有している。その活 動理念は、今や「地球を浄化し、人類を教化救済する」というグローバルな規模で展開している。 宗教福祉に携わる者が学ぶべきことは、慈済会が台湾社会のニーズと噛み合いつつ活動を進め、 今まさにグローバルな規模で地球社会の進路をリードするように展開してきた、その開拓的な 精神と主体的な活動のあり方である。 【キーワード】慈済会、人間菩薩、ボランティア、ソーシャル・キャピタル

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論文

人間世界の中の慈悲済世の展開―グローバル化時代における菩薩ネットワーク―

              金 子  昭  

はじめに 

 本稿は、2009 年 6 月 13、14 日に開催された慈済大学宗教與文化研究所主催の国際

シンポジウム「慈濟人間與宗教療癒」學習研討會(台湾花蓮市)において、私が行っ

た基調講演「在人間世界中所推展的慈悲濟世行動―全球化時代中所開展的菩薩網―」

の日本語原文に加筆修正したものである。(1)

 この講演において私に課されたテーマは「慈済人間」である。ここで言う慈済とは

慈済基金会(慈済会)(2)

の慈済でもあるが、ただそれだけではなく、より開かれた一般

的な意味で「慈悲済世」を意味する。「慈悲」とは仏教用語で「仏が衆生を憐れみ、

慈しむ心」を指し、済世は『易経』に由来する言葉で「世人を救いたすけること」と

いう意味である。「慈悲」の後に「喜捨」をつければ、四無量心の「慈悲喜捨」となる。

これはまさに、慈善・医療・教育・文化(人文)という、慈済会による「四大志業」

の理念に他ならない。(3)

本稿では、「慈悲済世」の担い手である「人間菩薩」とは誰なのか、

要旨

本稿は、台湾の財団法人・仏教慈済基金会(慈済会)における「慈悲済世」の担い手である人

間菩薩の実践のありよう、また彼らのネットワークの展開、グローバル化の時代におけるその

意義について報告するものである。慈済会にあっては、その菩薩道の実践であるボランティア

活動は、だれもが持っている「仏性」を顕現させることである。こうした活動は、「人間仏教

Humanized Buddhism」の実践的展開である。仏国土の建設を目指す慈済人たちの活動の力動的

な構造は、「立体琉璃同心円」としての菩薩ネットワークを形成する。このネットワークは、衆

生から菩薩が再生産される無限の循環運動である。それはまた、その実践者の「仏性」が磨か

れていくという、内面的なサイクルの展開でもある。これを社会学的な用語で、「ソーシャル・キャ

ピタル(社会関係資本)」として位置付けることができる。慈済会は宗教団体であり NGO であ

るという両側面を持ち、いわば宗教を超えた「超宗教」とでも言う性格を有している。その活

動理念は、今や「地球を浄化し、人類を教化救済する」というグローバルな規模で展開している。

宗教福祉に携わる者が学ぶべきことは、慈済会が台湾社会のニーズと噛み合いつつ活動を進め、

今まさにグローバルな規模で地球社会の進路をリードするように展開してきた、その開拓的な

精神と主体的な活動のあり方である。

【キーワード】慈済会、人間菩薩、ボランティア、ソーシャル・キャピタル

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また彼ら菩薩たちのネットワークはどのように展開し再生産されるのか、そしてグロ

ーバル化の時代における慈済思想の実践的意義とは何かについて、同会の活動に深い

共感を持つ一日本人研究者の視座から報告したい。

1.菩薩道の実践美学

 慈悲済世の実践活動に関する慈済会でよく使われる形容について、私がいつも感嘆

する表現は「美しい」という言葉である。ただ単に「正しい」「立派だ」「道徳的である」

ということに留まらず、慈済の実践は「美しい」と言う。例えば、「微笑みをうかべ

た顔は最も美しいものです。微笑みは世界共通の言葉であり、愛の表現です」(静Ⅰ

218/222)、あるいは「病気の人の嬉しそうな笑顔は最も美しく、人を感動させるもの

です」(静Ⅱ 191/202)、また「最も美しいのは善良な心です」(静Ⅱ 274/290)など、

證厳法師の語録『静思語』の中にも行動や心態を「美しい」と形容する用例がたくさ

ん出てくる。この美しさは、ただ単に外面的で表層的な美しさではもちろんなく、心

の内側から輝きだす内面的で精神的な美しさである。

 心の中から発するこの内面的な輝きは、実はだれもが持っている「仏性」が顕

現した姿である。證厳法師は、《法華経》の「無量百千の諸仏を供養し、諸仏の所

においてもろもろの徳本を植える」(「序品」)を引用して、次のように語る(潘煊

2004:43)。

衆生がいるところは、即ち仏がおられるところです。人々は皆仏なのだから、救

済の仕事を行う際には、苦難のただ中にいる衆生は未来の仏と見なさなければな

りません。これらの人々は貧窮苦難の姿で現われ、まさにその姿で法を説いてい

るのです。それにより、私たちに対して満足を自覚させ、布施することを知らし

め、貪る心を取り除くように仕向けてくれていることに、感謝の念を覚えるので

す。彼らを助けることは、〔未来の仏である〕彼らを供養することと同じことな

のです。

 それゆえ、「仏性」に由来する美しさは、個人の中に留めておくのではなく、それ

を広く世界で循環させることが大切とされる。それが「美の循環」であるが、證厳法

師にはまさにその名の通りの『美的循環』(2000)という標題の著作もある。この本

の中では、他人を褒めることの大切さを習ったはずの子どもたちが、お互いを褒め合

うことができないので、法師がお互いの優れた点に気づかせ、うまく褒め合うように

させた話を述べている(證嚴法師 2000:11-15)。「褒める」という日本語に対応する

言葉として、ここでは「贊美」という動詞が用いられているが、これはまさに「相手

の美なる部分を発見して賞賛する」ことである。

 また、慈済大学の何日生助理教授による上下二巻本の『慈濟實踐美學』(2008)は、

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金子昭 人間世界の中の慈悲済世の展開

慈済思想の理論的構築を目指した内容を有するが、その標題を「倫理學」ではなく、「美

學」と銘打っているところに特徴がある。(4)

何日生は、互いに助け合う姿に「美」の発

現を見出して、次のように述べる(何日生 2008 下 :85)。

もし慈済人の美について問うとき、美とは一体どこにあるのだろうか。そう、美

とは人と人とが互いに助け合うところに、そして皆誰もがお互いに他者の誠の心

を成就させるところにあるものなのだ。

 菩薩道の実践は端的に美しい。私はこれが慈済会における菩薩道の独自な見方であ

ると思うのである。

2. 菩薩とは誰か

 では、その美しい仏性を有する菩薩とは誰だろうか。仏教の経典にはさまざまな菩

薩が説かれている。《法華経》でも多くの菩薩が登場するが、菩薩はまず声聞、縁覚

と並ぶ三乗の修行者の一人としての菩薩である。声聞は教えを聞いて修行する者、縁

覚はとくに縁起の法を聞いて悟りを得ようとする者であるが、菩薩は広く大衆を救済

することを目指す修行者である。前二者が自己の完成だけを目指すのに対して、菩薩

だけが利他を目指す大乗仏教の修行者である。ここでは菩薩とはいえ、求道者として

人々の代表として釈尊により励まされたりする役割である。

 しかし、この菩薩は単に三乗の内の一つとしてだけに留まらない。というのも、三

乗のすべてを包摂した一仏乗の立場に立つのが《法華経》本来の思想なるがゆえに、

菩薩もまた一仏乗の修行者、すなわち衆生を皆救ってしまおうという存在としても登

場するのである。そうした《法華経》独自の菩薩の代表的な存在が「従地湧出品」に

登場する地湧の菩薩である。

 さらに《法華経》では、修行者というよりも、《法華経》信者の守護者として登場

する諸菩薩も出てくる。これは「薬王菩薩本事品」以下六章で登場する薬王、妙音、

観音、普賢などの菩薩である。その代表が観世音菩薩(観音菩薩)である。證厳法師

は、ある学生から「菩薩は種類がたくさんあるのに、どうして大部分の人は観世音菩

薩を礼拝するのでしょうか」と聞かれて、「それは、観世音菩薩がこの世の衆生と比

較的縁があるからです。観世音菩薩の修められた『耳根縁通法門』は、ひたすら世間

で苦難にあえぐ衆生の声を聴き取り、衆生の苦しみを自らの苦しみとして引き受ける

ものなのです」(静Ⅱ 351/376)と述べている。

 しかし、菩薩の性格はさまざまであるにせよ、私たち人間にとって実は菩薩は特別

な存在ではなく、私たち自身だれもが「仏性」を持っているので、実は皆、菩薩な

のである。信仰は正しくなければならないと同時に、その信仰において学ぶという

要素も求められる。正しい信仰とは仏に学ぶことである(静Ⅱ 326/349)。仏道を学

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ぶとは「仏の心のごとく一心に勤め、ひたすら仏の行いに習い、人を助け世の中を

救済することを自らの使命とすること」(静Ⅰ 272/278)である。法師の仏教理解も、

「仏法は決して奥深いものではなく、日々の生活に身近で密着したものです」(静Ⅱ

333/357)とあるように、とても生活に密着したものである。 

 真に菩薩道を歩もうとする者ならば、ただひたすら衆生を益することばかりを考え

ているがゆえに、もはやどこに行こうと恐怖心は起こらないはずだ(静Ⅱ 19/19)。『琉

璃同心圓』に、新人委員二人が病院ボランティアに年配委員と同行したときの印象深

いエピソードがある(潘煊 2004:441-442)。

 ある女性が自殺を企て、血だらけの状態で病院に担ぎ込まれた。新人委員たちは、

凄惨な女性の姿に衝撃を受け、病室のドアのところで観世音菩薩に祈り始めた。その

とき、年配委員がそれを見咎めて言った。「あなたたち、何をしているの?」「私たち

菩薩にお祈りしているのです。」すると、年配の委員は「あなたたちが菩薩じゃない

の!」と叫んで、その血まみれの女性を抱きかかえ、「まあ、なんてばかな事をして

しまったの……」とやさしく慰めたというのである。

 だれもが慈悲の心を発揮すれば、ただちに「一つの眼が観ると同時に千の眼が観、

一つの手が動くと当時に千の手が動く」という「千手千眼観世音菩薩」となり、無量

の悲願を備えた衆生救済の力が備わることになる(静Ⅱ 206/218)。「千手千眼」とは

全方位に向かって無限に開いていく救済のあり方を示すものであって、これは「円満

という意味を表すもの」(静Ⅱ 338/363)である。

 これは、現実的に考えれば五百人の心あるボランティアがいれば可能になるが、し

かしその出発点はその一人ひとりが自ら菩薩であることを自覚することである。「一

つの道理が通じれば、万の道理をも貫くものとなる」(静Ⅰ 143/149)のである。菩

薩の姿は千種万態であるが、しかしその本質をしっかりつかみさえすれば、菩薩道の

展開可能性に通じることができるのだと、私は理解している。

3.無縁の者も実は有縁の存在

 「縁なき衆生は度し難し」という日本の諺があるが、これこそ衆生救済に目覚めた

菩薩にとって、“無縁”の言葉であろう。菩薩道に目覚めた者にとって、世界は全く

違って見えてくる。慈済会には「無縁大慈 ヽ 同體大悲」という表現がある。無縁大慈

とは狭い利己的愛を超えた「清浄な大愛」(静Ⅰ 30/32)のことであり、同体(同體)

大悲とは「衆生と私は、たとえ親戚でも友人でもなくとも、衆生の苦しみは私の苦し

みとなり、衆生の痛みは私の痛みとなる」(静Ⅰ 31/33)と説明される。

 この二つの言葉を組み合わせることで、次のように考えることができる。

 無縁を有縁化することは、同体大悲である。愛という言葉は、仏教ではもともと「渇

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金子昭 人間世界の中の慈悲済世の展開

愛」「愛欲」という熟語からも分かるように、我執の欲望という否定的意味で語られ

るものだった。しかし、それは人間の本性(人性〔人間性〕)に根ざした感情が歪ん

だ方向に過度に現れたものに過ぎないわけで、大事なのはこの人性を潜在的な仏性に

相応しく正しく発揮させることである。そして大愛こそが、仏性に即した人性の展開

なのである。

 《法華経》には「今この三界はみなこれ我が有なり、その中の衆生はことごとくこ

れ吾が子なり」(警喩品)、また「もろもろの仏子等、我れに従って法を聞き、日夜に

思惟し精勤修習す」(信解品)などのような表現が見られる。このように、人間は皆、

仏の子として兄弟姉妹であり、そこに他人はいない。「無縁大悲」というが、仏の目

から見れば無縁の者は実は存在しない。無縁の者でも仏の大きな慈悲心で包めば、す

べてが有縁のものになる。

 この慈悲の精神は、儒教の仁愛、キリスト教の博愛ともつながる。この精神を有す

るならば、だれもがお互いに関わり合う存在であることに気がつかざるをえず、その

際に人々が持つ心は大きな広がりを持ってくる。この心が慈悲ともなり、仁愛ともな

り、博愛ともなって現われるのである。宗教の相違を超え、慈悲、仁愛、博愛すべて

に共通する愛の精神を強調するために、慈済会ではあえて一般的な「大愛」と言う語

を用いているように、私は思うのである(金子 2005:207)。(5)

 なお、日本の仏教学者である鎌田茂雄は、自分が仏の子であるという自覚が起こっ

たときに、他人もまた仏の子であることを知り、まだ自分が仏の子であると気がつか

ない人にこのことを自覚させる使命感、これこそが菩薩の道だと主張している(鎌田

1994:94)。「願わくはこの功徳をもってあまねく一切におよぼし、我らと衆生とみな

共に仏道を成ぜん」(化城喩品)とあるように、人間が共に皆救われるのが仏教の目

標である。

 《法華経》には、そうした菩薩道を歩む求道精神を人々に鼓吹する力がある。例えば、

日本の童話作家・詩人として有名な宮澤賢治(1896-1933)は、熱心な《法華経》の

信奉者でもあった。その作品の中にも、《法華経》信仰が匿名的な形で登場している。

賢治は、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(「農民芸

術概論綱要」)と述べたが、この言葉の中には、自分だけではなく衆生全体の救いを

目指す賢治の菩薩道精神の決意が込められている。(6)

慈済会の「大愛」にも通じる仏教

ヒューマニズムが、彼の詩作の中には生き生きと反映しているのである。

 證厳法師は、「自ら福田をたがやせば、自ずと福縁を得る」(静Ⅰ 101/103)と語った。

慈済会の諸活動こそ「一方大福田」(静Ⅱ 207/219)である。これが担うのがまさに「慈

悲済世の志業」である。この志業の内に良い種を蒔くことにより、人々の心の内なる

良知良能が啓発される。慈済人が一人増えれば、社会には善き人が一人増える。だか

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ら、この志業をどんどん広めていくことが求められるのである(静Ⅱ 210/222)。

 「施すことは施しを受けるよりも幸せです。真の楽しみは施しをした後の清々しさ、

安らかさ、そして喜びにあります」(静Ⅰ 103/105)とあるように、人々に与え奉仕

することは純粋に喜びである。与える側は施しを受ける側に感謝するべきである。な

ぜなら「これらの貧しく困窮した人々がいなかったら、私たちはどうやって菩薩にな

ることができるだろうか」(潘煊 2004:421)という訳だからである。ボランティア活

動は人々の菩薩道の修行である。人々の困窮が克服されたなら、その場面ではとりあ

えず菩薩の出番はなくなるかもしれない。しかし、世の中に貧しさや病いや争いが続

く限り、世界的には菩薩が不要になることはあり得ないのである。

4.「以出世的心 ヽ 做入世的事」と倫理的神秘主義

 菩薩道の実践の心構えとして、證厳法師は「出世間の心で世の中で活動する(以出

世的心 ヽ 做入世的事)」を強調している。これは、菩薩道の実践である「做入世的事」

には、この世から自由な心である「以出世的心」が前提となっていなければならない

ことを示す言葉である。通常のボランティアには見られない仏教ボランティアの内面

的・精神的姿勢の独自性がここにある。

 「以出世的心」とは、別の表現でいえば、《無量義経》の「徳行品」に出てくる「静

寂清澄に、志玄虚漠なり。これを守って動ぜざること億百千劫、無量の法門ことごと

く現在前せり」いう境地でもある。「静寂清澄」とは、心が世の中の動揺のために制

せられず、一切の罪やけがれを離れていることを意味し、「志玄虚漠」とはその心に

奥深いことを考えていて、いつでも広く安らかなことを意味するものである(小林

1962:32)。

 法師はそれだけにとどまらず、この文言のとくに後半を強調して、「菩薩の心は衆

生に奉仕することを目的とします。この志は決して短期のものではなく、発心して後

は億千百劫を経ようとも不退転のものとなるのです」(證嚴法師 2001:58)と述べて

いる。したがって、その意味するところは、心は確固として動かされず、思念は清ら

か、志操は明るく闊達、かくして幾世にもわたって衆生を守護することになる。そう

した確固たる姿勢においてこそ、智慧の法門が明々白々と出現するので、衆生の心に

通じ、世の事情を了解することができる。老人が語るのも、子どもの話もみなその道

理、日常いたるところが道場である(潘煊 2004:424)。つまり、この世界のことに奉

仕しながらも、心は世界から解放され、この世を超越しているのである。

 実践においてはどこまでも現実主義的でありながら、精神においては常に理想主義

的である。しかも自ら汚濁した現実の実践の中に立ち入って活動するその姿が実践美

学を形成するのである。何日生は、そうした様態について、「美とは、静寂清澄の心

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金子昭 人間世界の中の慈悲済世の展開

を用いて汚濁にまみれた人間世界に入って行き、すべての情ある者に悟りを開かせ、

その意識を清らかで明るいものにすることである。それは天空の月が万物をこうこう

と照らすようなもので、これを実践美学という」(何日生 2008 上 :76)と表現した。

 この「以出世的心 ヽ 做入世的事」の精神は、シュヴァイツァー (Albert Schweitzer

1875-1965) の倫理的神秘主義を思い起こさせる。この思想によれば、自分自身の内

なる生きようとする意志に忠実に生きることによって、この世界から内的に自由にな

るのである。そしてこの精神的に自由な境地に立ち、全存在との関わりの中で自己実

現を果たしていく。この自己実現の中において、同じ生きようとする生命である一切

の衆生の生命をも肯定していくことこそ深められた世界人生肯定である。そこには、

自らの人生(生命)は世界肯定に奉仕するものとなり、そこに自らの人生(生命)を

世界のために捧げる倫理的契機が生まれるのである。

 完全な倫理とは自己完成の倫理と献身の倫理との総合である。献身の対象が生きと

し生けるものすべてに及ぶがゆえに、献身は宇宙的に拡大されたものとなる。自己完

成とは、生ける存在としての私を全存在との関係の中で実現させていくがゆえに、そ

もそもが宇宙的な広がりをもっている。それゆえ、自己完成と献身は「生ける存在へ

の生ける献身において合致するのである」(シュヴァイツァー 1957:307)。

 人間の心は実は宇宙大である。現実の世界の現象は私たち自身の心の世界とつなが

っている。證厳法師は、宇宙が「大乾坤」だとすれば、人間の心は「小乾坤」であ

り、天地の間の「五濁」が今「温室効果(溫室效應)」を引き起こしているとすれば、

一人ひとりの心の中の「五毒」が 「心の温室効果(心室效應)」を起こしていて、今

や両者が相まって「業力」による「悪気流」が世界に満ちていると考える(證嚴法師

2006:284-285)。このように“天理”と“心理”とが相関連しているのであれば、地

球環境における温室効果に対応して、人間の心の温室効果をも解決していかなければ

ならない、否むしろ人心を変えることが先決だというわけである。つまり一人ひとり

が心を浄化し、その心の清流でこの世の濁流を押し流していくのである。

 今、世界各国の代表が一堂に会して、温暖化問題に対する政府間交渉(気候変動枠

組条約締結国会議)を進めている。かつての東西冷戦時代の軍縮協議がそうだったよ

うに、自分たちとはイデオロギーの異なる国を敵にして結束する時代ではもはやない。

人類共通の課題である地球温暖化について、世界の人々がお互いに討論しながら共に

解決しようという構図が形成されてきているのが現代なのだ。もちろんさまざまな国

家の利害関係はあるだろう。例えば、世界最大級の二酸化炭素排出国のアメリカは、

京都議定書を離脱していた。しかし、オバマ大統領は脱温暖化に前向きで、アメリカ

もまた交渉の場に戻ってきた。地球環境の危機を前にして、世界の協力態勢は確実に

進んでいると評価できるのである。

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 このように考えると、地球温暖化をいかに食い止めるかという問題を通じて、人類

がお互いに菩薩の心になって互いにたすけ合い、その清らかな心で欲望にヒートアッ

プした世の中を今一度冷まして、地球環境と人間の心の温室効果を共に克服すべき時

が来たとも言える。慈済会ではすでに全会挙げて資源回収、環境保護活動に実践的に

取り組んできたが、今や證厳法師は理論面においても“天理”と“心理”の相関関係

から環境問題について説き起こすことで、同会の運動によりグローバルかつ内面的な

思想的意味づけを付与していこうとするように思えるのである。

5.菩薩ネットワークの構造と展開

(1)「立体琉璃同心円」としての菩薩ネットワーク

 菩薩道の実践は現場主義である。きっかけは何でもよい。自分と接点のある人や物

事に深く関わっていくのである。また、必ずしも信仰信念が先行するというわけでは

ない。まず自分の身体を動かして行動することによって、だれもが持っているたすけ

心が目覚め、発揮されるのである。そこから信仰も深められるということもある。内

面的信仰に向かう「求心力」と実践的活動に向かう「遠心力」とは、一見方向が違う

ように見えるが、一体化された力となって展開するのである。「上求菩提 ヽ 外化衆生」

こそ、菩薩道を歩む私たちの道であるし、まさにそのことによって苦しみや快楽から

自由になった境地となるのである(静Ⅱ 271/287)。

 活動内容や場面に応じて、ボランティアは日常生活レベルでの支援(救援)的営み

になるし、心やたましいの救い(救済)に関わる営みにもなる。ここが単なる社会貢

献活動と一線を画する部分である。日常的な支援はどのように救いに結びつくだろう

か。たすけられた人が自分もたすける側にまわったときに、日常的支援が宗教的救い

に質的転換する。しかも、心勇んで行えば、何よりたすけられると感じるのは、実は

たすける本人自身でもある。その心勇んだ姿が物言わずして、仏国土の建設になる。

それも単に道徳的に優れているだけでなく、文字通りに美しい世界の構築なのである。

 「立体琉璃同心円」はそのような意味で用いられている。これは、《薬師経》で仏陀

が東方に琉璃世界ありと説いたところに由来する新しい慈済用語である。この琉璃世

界には、薬師如来をはじめ多くの仏や菩薩たちが住まい、地面は琉璃(ラピスラズリ〔青

金石〕とも言う)で敷き詰められ、建物のあらゆる部分が七宝で造られているとされ

る。実は、この理想郷は、人間が心を修め、人々の善の智慧を集めれば、心念の力が

光を放って現出せしめるものでもあるとされる(潘煊 2004:2-4)。

 どんな人間であっても、その内に必ず仏性を秘めているがゆえに、本人の努力や精

進次第でこれを顕現させることは可能である。人間世界において仏性を顕現させる最

たる活動がボランティアの活動である。それゆえ、ボランティアは皆、人間菩薩(7)

である。

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Page 9: 人間世界の中の慈悲済世の展開...観音、普賢などの菩薩である。その代表が観世音菩薩(観音菩薩)である。證厳法師 は、ある学生から「菩薩は種類がたくさんあるのに、どうして大部分の人は観世音菩

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金子昭 人間世界の中の慈悲済世の展開

これが「仏教の人間化 Humanization of Buddhism」の意味するものである。人間菩薩

の思想は、自らの人間性を磨くことにより仏性を顕現させ、同時にこの世界に浄土を

建設していこうとする宗教思想である。これは法師が繰り返し説く「佛法生活化 ヽ 菩

薩人間化」の具現化に他ならないもので、慈済会の個々のボランティア活動も、また

大規模な志業も「人間仏教 Humanized Buddhism」の実践的展開なのである。

 ここには、人間に対する確固たる信頼がある。證厳法師は、慈済会のボランティア

たちに対して、彼らの団体としての活動において、「合心 ヽ 協力 ヽ 和気 ヽ 互愛」の四

理念を常に説いてきたが、これらは人間関係の中において必須なことであるとして、

次のように述べる(潘煊 2004:3-4)。

人をまろやかに、物事をまろやかに、道理をまろやかにするならば、真善美の美

しい人生を成就することができます。これを具体的に喩えて言うならば、心を合

わせて(合心)たすけ合う(協力)ことが相まって「円」を形成し、心をなごや

かにして(和気)お互いに愛する(互愛)ことがその円の「軸」となります。そ

して、琉璃をもって自らの心にすれば、私たちは皆その円の回転の中にいること

になります。

 そして、これが慈済会を構成する最新の精神としての「立体琉璃同心円」となるわ

けである。円は回転する球体であるがゆえに、慈済ボランティアには先達や後輩、上

位の者や下位の者の区別はない。同じ慈済会の清流の中にあって、その団体の円で自

らの円を修め、互いに教えあい励まし合って、濁世の中で人間による菩薩志業を達成

することが求められる。人間の輪がこの琉璃の球体の中で回っていく、その姿が現世

における仏国土の琉璃世界を作り上げていくことになるのである。

 「立体琉璃同心円」で言うところの球体の「円」は、人間世界を織りなす因縁因果

の「縁」にもつながる。たとえ悪しき因縁因果の連鎖があっても、自分のところでそ

れを断ち切って善の縁につなぎ換え、悪縁を良縁に転換することができるのである。

これを表象する言葉が「菩薩ネットワーク(菩薩網)」である。これは、衆生から菩

薩が再生産される絶えざる循環運動のことである。

(2) ソーシャル・キャピタルの観点から

 この菩薩ネットワークのサイクルを模式図にしたものが【図1】である。この図は

どこから始めても良いのであるが、自ら発心して菩薩道へと目覚めた人は慈悲喜捨の

実践を行うことになる。それにより衆生が救済を得る。そうして救済された人が、自

らまた菩薩道に目覚め、ボランティア活動で人助けして、人々を救済する。そしてそ

の救済された人が自らまた発心して……という具合に、衆生からの菩薩の再生産活動

が展開していく。しかもこれは、内面的なサイクルの展開でもある。つまり菩薩行の

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利他的実践においては、それを実践する者の「仏性」が磨かれる。そして自らの「仏

性」が磨かれれば、ますますその人は菩薩行に励むということになるのである。そして、

この「善の循環」は人間性の美を輝かす「美の循環」でもあることは言うまでもない。

 菩薩ネットワークとは宗教的な表現であるが、これを社会学的な説明概念を用いて

「ソーシャル・キャピタル」の一形態でもあると言い表すことができる。ソーシャル・

キャピタル(Social Capital:社会関係資本)とは、人やグループ間の信頼・規範・ネ

ットワークといったソフトな社会資源を意味する(稲葉 2007:3-4, 2008:11)。(8)

この

用語は、ある社会集団が自らの内部的な結びつきを保ちつつ、外部社会にも開かれた

関係性を持っているという様態を説明するときに有効な概念であり、それは宗教団体

の公益的な性格を考える上で最近注目されているものでもある。

 ソーシャル・キャピタルには、「結束型 bonding-type」と「橋渡し型 bridging-type」

という、二種類の要素がある。まず「結束型ソーシャル・キャピタル」は、同質な者

どうしが結びつく求心力を持つ社会関係資本である。学校の同窓会、商店会、消防団

など地縁的組織がその例である。「橋渡し型ソーシャル・キャピタル」は、異質な者

どうしを結びつけ、そのために遠心力的な力で動く社会関係資本である。多様な個人

や集団を含みこむ社会的なネットワークである。各種の NGO・NPO、種々のボラン

ティア団体などがその例となろう。両者の要素が高度に優れた質を保ちながら、相関

連するタイプが「高・橋渡し/高・結束型のソーシャル・キャピタル」である。これ

は、共同体主義的な傾向が強く団結力があり、かつ外集団に対するつながりをもった

集団を指すものである(堀内 2008:114)。

 宗教をこのように位置付けた場合、どの宗教教団もそれぞれの仕方で「高・橋渡し

/高・結束型」(内部では団結力があり、かつ外へと開放的な姿勢をもつ)という形

で展開する理想型を目指している。(9)

慈済会は、内においては信仰的求心力による統合、

外に向けては実践的遠心力による社会的貢献活動を行いつつ、台湾社会における宗教

文化の発展に寄与している。その意味でまさに「高・橋渡し/高・結束型」の理想型

慈悲喜捨 を実践

衆生が救済 を得る

自ら菩薩へ の発心

図1 衆生からの菩薩の再生活動 

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金子昭 人間世界の中の慈悲済世の展開

の宗教教団であり、仏教 NGO であると位置づけることができる。

 慈済会は、その多様なボランティア活動によって、ソーシャル・キャピタルとして

の再生産の循環構造を持っている。それは地域ボランティア活動を例に取れば、【図2】

のように地域活動と会員の再生産との循環構造を形成するものとなる。

 この図もどこから始めてもよいのであるが、地域社会で慈済ボランティアが活動す

ることにより、その地域でネットワークが広がると同時に新たなニーズと人材発掘が

行われる。そしてこの活動を間近で見た人々の中から慈済会への加入者が生まれ、こ

の会員の中から熱心なボランティアが現われて、公益活動を開始して、地域ネットワ

ークを形成して……というふうに展開していくわけである。

6.社会参画型宗教としての慈済会

 このように慈済会は、積極的に社会の動向やそのつどのニーズに的確に対応しなが

ら活動を展開している。このようなタイプの宗教を社会参画型宗教(socially engaged

religion)とも言う。社会参画型宗教は、既存の枠組みを壊さず、協働関係を保ちな

がら社会を形成し、このようにして得られた社会貢献の成果のみがその宗教の評価に

なる(櫻井 2008:35-36)。

 具体的な社会貢献の内容は、それぞれの国の状況によって異なる。アジアにおける

仏教の社会的浸透度との関連でそれを見ていこう。

 タイの場合は、上座仏教が公共宗教となっており、宗教的言説がそのまま政治、経

済、文化、教育の領域で適用されている。社会参画型宗教といっても、単に社会に対

する功用価値だけでなく、仏教の有する固有の救済価値が、有形無形に国民生活のあ

図2 慈済ボランティアの地域活動と会員の再生産活動

ボランティア

が公益活動を

  展開

地域のネット

ワークが拡大

新たなニーズ

と人材発掘

慈済会への

入会希望者

が出現

会員からのボラ

ンティア出現

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らゆる場面に浸透して力を発揮している。

 これと正反対なのは、世俗国家として政教分離が確立した日本である。日本では、

宗教教団は部分社会として、宗教制度の領域内にとどまるものである。その固有の救

済価値が通用するのはその宗教教団の中だけで、それ以外の一般社会に対しては役立

つか役立たないかという効用価値だけで評価されてしまう。一般の国民は、社会的需

要である生活レベルでの“救援”は歓迎するけれども、教えに基づく“救済”という

宗教の固有価値は市民生活では不要としてしまうわけである。(10)

そのような中で、慈済

日本分会は日本人に馴染むような社会貢献活動を模索している。

 なお、日本での慈済会の活動で顕著なのは、在日華僑を含めた外国人労働者等への

支援、また静思文化普及啓蒙の活動のように見える(金子 2008)。とくに華人系の旅

行者や留学生にトラブル(病気やけが、事件に巻き込まれる)が起きた時の各種ケア、

オーバーステイした華人系労働者の病気入院や通訳、入国管理局などの役所との交渉、

さらには帰国の際に必要な費用の補助などの引き受けである。これは日本の社会福祉

の谷間にいる人々へのケアであり、「頼りになるのは慈済会しかない」という意見も

出ているぐらい、関係者の間では命綱のように信頼されている。ただ、オーバーステ

イの外国人は不法滞在者になるので、なかなかその点ばかりを支援活動の前面に打ち

出すわけにもいかないジレンマもある。もちろん、会員相互の悩みの相談や親睦など、

地味ではあるが地道な相互扶助活動も盛んである。

 私の見たところ、台湾はタイと日本の中間タイプである。仏教は公共宗教ではない

けれども、信仰者の層が厚く、その言説や行事も社会各層に浸透している。僧侶への

信頼も高い。そのため、仏教色を持ったボランティア団体や活動であっても、とくに

違和感はない。生活面の救援活動の中に、仏教的救済の精神をだれもが感得できるよ

うになっているのである。

 慈済会は宗教団体であるが、NGO として全世界に活動を展開している。その意味

で社会参画宗教というふうに位置付けることができるが、私はむしろ慈済会が宗教団

体であり NGO であるという両側面を持つことにより、従来の宗教概念に収まりきれ

ない性格の組織となっていると見ている。それは、いわば宗教を超えた“超宗教”と

でも言うべきものである。

 慈済会の組織の中核には出家集団が存在し、独自の仏教礼拝作法を有し、歴然たる

仏教教団であって、その行動理念もまた明確に仏教ヒューマニズムに由来する。また、

慈済会は台湾を中心として世界中の華僑を主な会員として持ち、例えばインドネシア

のようなイスラム圏の国にも支部を有したりしている。慈済会は、災害が発生した被

災地にいち早く駆けて救援を行い、そこがイスラム圏であればイスラム教のモスクま

で建ててしまう。実はこれが一つの鍵になる。当然、現地のイスラム教徒たちは慈済

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金子昭 人間世界の中の慈悲済世の展開

会の親切さに感激するものの、「このような恵みに預かったのはアラーのおかげ」と

自分自身はイスラム教でありつづける。しかし彼らの多くは、同時に慈済会の会員に

もなって、慈済会の諸活動に参加することにもなるのである。

 こうして慈済会は、その中核は仏教団体でありながら、総合的な社会貢献事業を行

う NGO としてあらゆる宗教の信仰者を取り込んだ“超宗教”となる。創立 40 年を

迎えた 2006 年 12 月になされた「慈済宗」の宣言は、単なる仏教の一宗派ということ

ではなく、まさにそのような“超宗教”としての姿勢を明瞭に打ち出したものではな

いだろうか。私は台湾ではクリスチャンの慈済人にも会ったし、天理教者の慈済人に

も会った。また、ボランティア活動をしている“菩薩たち”にインタビューをしてい

ても、実にさまざまな人々がいる。明確に仏教的信念を持って行っている人もいれば、

とくになんの宗教的意識もなくて働くのが楽しいからやっている人もいる。さらに、

夫婦や親子関係が治まらないため、眼を外に向けて世のため人のために活動すること

によって喜びと生きがいを見出し、その奉仕精神を家庭に還流させて、円満な家庭を

作ったという報告も会報でたくさん読んだ。私は、さまざまな人々をすべて受け入れ

る慈済会の懐の深さに、いつも感銘を受けている。

 「慈済宗」は、仏教のヒューマニズム的理念に基づき、あらゆる宗教や思想信条の人々

に開かれた「人間法」である。この教えは、人間世界に自ら飛び込み、お互い一人ひ

とりの人間の仏性に開眼することで、無限の智慧とさまざまな理法に通じていくこと

を目指す。これが、《無量義経》で言う「無量の法門はことごとく現在前せり、大智

慧を得て諸法を通達する」の意味するところである(證嚴法師 2008:57-58)。それこ

そが「佛法生活化 ヽ 菩薩人間化」であって、慈済宗の理念も要するに、これをより具

体的かつ平易に表明したものに他ならない。法師は慈済宗組織の構築や構成などにつ

いてはとくに語らず、次のような理念的な事柄を中心とした精神面での説法が中心で

ある(證嚴法師 2008:191)。

私たちの法門とは、心の中に仏があり、行いの中に法があり、生活の中に禅があ

り、そして人々の中に道場があるということなのです。静思法脈とは、つまり克

己、克勤、克倹、克難であり、慈済宗門とは礼を復興すること(復禮)なので

す。(11)

 慈済会はすでに巨大なボランティア組織にして社会的・文化的団体になっている。

この慈済宗組織をどう構築し構成するかについては、これまでの慈済会の歩みがそう

だったように、今後の時代情勢や社会のニーズとの関わりで柔軟に取り組まれていく

ことであろう。

 いやむしろ、すでに慈済宗は一つの個性を持った宗門として実際に出現しているよ

うに、私には思えるのである。台湾では慈済会のボランティア活動は日常風景のよう

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に生活の中に溶け込んでおり、その制服姿は一目で慈済会の委員や会員と分かる。人々

に親切かつ礼儀正しく振舞うことを常に心がけ、独自の華道や茶道、また手話劇など

の文化活動も盛んで、会として政治やデモ行進には一切関わらないなど、“慈済色”

は台湾社会の中ですでに明瞭に現われている。それが、慈済宗宣言により、いっそう

旗幟を鮮明にさせるに至ったと見ることができるのではないだろうか。“教団化”の

危うさについて懸念する声も一部にあるが、慈済会が既成教団の枠に納まらない“超

宗教”的性格を維持する限り、こうした懸念は杞憂となるはずだろう。私もそのよう

に期待したい。

7.慈悲済世の実践と福祉国家の関係

 最後に、慈悲済世の実践と福祉国家のシステムとの関係について、一つの課題を述

べておく。

 近代民主主義国家は、いずれも福祉国家であることを標榜する。このような国家統

治の下では、社会福祉、社会保障及び公衆衛生は国民が受けるべき権利であり、国家

がなすべき義務であるとされ、法律においてもそのように規定されている(例えば日

本国憲法第 25 条参照)。そこでは生活に困窮して援助を必要としても、その援助は民

間団体による「慈善」で行われるというのではなく、国家が行政的な責任でなすべき

だという認識が国民の間に定着している。

 そもそも慈善とは、一部の篤志者・篤志団体による福祉活動や事業ということであ

り、社会福祉学的には法制度に基づく近代的社会福祉の前段階のものだという位置づ

けである。近代的な意味での社会福祉・社会保障は行政の責任であり、そのあり方も

また法律に基づき、継続的、システム的、専門的なものである。そして、そのために

国民は税金を払っているわけである。民間福祉活動や事業といっても、行政の隙間を

埋めるものという認識が強いのである。

 ただし、こうした社会福祉観には大きな問題がある。それは、福祉の担い手(行政)

と受益者(国民)とを分離させてしまい、後者の側が自らも進んで積極的に福祉社会

を形成していこうという契機が希薄になってしまう傾向があるからである。これに対

して、人間全体を視野に入れた、人間としての良きありかたを創出していく「人間福

祉 human welfare」という発想が近年になって現われてきた。それは担い手としても、

お互いに個人を尊重した「顔の見える」福祉のあり方を模索するものである。そこで

あらためて着目されるのがボランティアの存在である。

 お互いの「顔が見える」福祉社会作りのモデルとして、慈済会が注目される理由も、

実はここにある。慈済のボランティアこそ、システム化・専門化された社会福祉を、

普遍的な仏教ヒューマニズムの視座の下で「人間化 humanize」する存在である。自ら

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金子昭 人間世界の中の慈悲済世の展開

の人間性を磨くことにより仏性を顕現させ、同時にこの世界に浄土を建設していこう

とするのが「人間菩薩」の思想である。慈済会の個々のボランティア活動も大規模な

志業も「人間仏教 Humanized Buddhism」の実践的展開である。民間福祉の一翼を担

う宗教的福祉活動が盛んになればなるほど、その社会の福祉的な風土や文化も豊かに

なってくる。慈悲済世は単に社会福祉の領域だけに留まるものではない。慈済会は、

慈善志業から始まり、現在は「四大志業八大脚印」にまで展開し、慈済人の共同理念

の射程は、今や「地球を浄化し、人類を教化救済する(浄化地球 ヽ 度化人間)」とい

うグローバルな規模に伸びている。

 それゆえに、宗教福祉に携わる者が学ぶべきは、慈済会が台湾社会のニーズと噛み

合いつつ活動を進め、今まさにグローバルな規模で地球社会の進路をリードしていく

ように展開してきた、その開拓的な精神と主体的な活動のあり方である。

 その一方で国内に目を向け直した際、慈悲済世の実践は近代福祉国家に対して正し

い関係に入っていくことが必要である。この実践は、人々に奉仕すべき役割を担う国

家行政とは微妙な緊張関係にある。個人の菩薩精神の発露が、かえって行政側の依存

心と怠慢を引き起こすことも有りうる。行政機関が人手不足と予算不足だからといっ

て、ボランティアを便利な無料の労働力として期待すべきではない。ボランティアは

単なる行政の下請け役ではない。ボランティア活動を熱心に行うことが、行政の手抜

きを助長するものになっては本末転倒であろう。行政がすべきことは行政に委ねても

よいし、むしろ、それは本来どんどん委ねていくべきである。そしてボランティアは

常に、民間人である自分たちでなくてはできない高次の役割と使命を当該社会の中に

探し出し、それを粛々とこなしていくべきなのである。

 福祉社会と福祉国家は車の両輪の関係にある。福祉行政が進展し充実すればするほ

ど、慈済会のボランティア活動や志業においても、これに対して今後いっそう緊張感

をもった役割分担と協働姿勢の関わりが問われてくるであろう。

おわりに

 慈済会は 1966 年の創立以来、慈善、医療、教育、文化(人文)のそれぞれに力を

入れてきた各十年間を経て 40 年後の現在、「慈済宗宣言」をしている。(12)

台湾本土では、

創立当初の貧困者援助の比率が低下して、国内外の災害援助や復興支援に力点を置く

ようになり、また近年来の地球環境悪化に対して環境意識の啓発及びその活動強化を

図ったり、慈済独自の文化の創造と普及に力を入れたりと、活動の力点が推移してき

た。一つの活動はそれが完結するまで続け、それが終わればまた次の新たな活動に向

かい、こうして「善の循環」は拡大しつつ止むことがない。この循環は同時に、人々

の内面的な美である「仏性」を顕現させていく「美の循環」を形成している。慈済会

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はこうして世界各地で自らの経典である《慈済大蔵経》(13)

を編みつつあるのである。

*静Ⅰ、静Ⅱはそれぞれ『静思語』Ⅰ・Ⅱの略語(中国語頁数 / 日本語頁数)を指す。ただし『静思語』

に限らず、また邦訳の有無にかかわらず、本稿では中国語書籍の日本語訳はすべて筆者によるものである。

また《無量義経》や《法華経》の訓読は、三木随法『平成訓読法華三部経』(東方出版、1999 年)に拠った。

  註

(1)当日の講演は、その中国語訳(江文哲氏による)を私が朗読するという形で行われた。中国語訳稿お

よび改稿以前の日本語元原稿は、当日配布の予稿集『「慈濟人間與宗教療癒愈」學習研討會』(2009 年 6

月 13/14 日)の各 1-15 頁、17-37 頁に掲載。なお、このシンポジウムには、台湾をはじめとして、日本、

中国、アメリカから研究者が集まり、基調講演を除く発題数は 34 本、その予稿集も全体で 764 頁と大部

なものとなった。

(2)漢字表記の「慈済」は、通常は「慈済基金会」という団体名を表わすが(アルファベット表記では

Tzu Chi もしくは Tzuchi、日本語の場合も慈済と自称する)、これは中国語式の表記法である。ただし本

稿では、団体としての慈済を指す場合は、他の宗教団体の一般的呼称と同様に団体名であることを明確

にする意味で、慈済会という呼称を用いる。

(3) 慈済会では、「慈」とは人々に楽を与える「慈善志業」、「悲」とは病苦の衆生を救う「医療志業」、「喜」

とは自他の心を喜びに変える「文化(人文)志業」、「捨」とは利己的な執着心を捨てる「教育志業」へと、

それぞれ展開するものとされている。これら「四大志業」と並行して、環境保護・国際救援・骨髄バンク・

地域ボランティアの大規模な活動が行われており、以上すべてを合わせて「四大志業八大脚印」と称する。

(4)本書は、證厳法師の思想と実践の独自性を理論的に明らかにし、実践美学を中核とした慈済学の構築

を目指す意図を持っている。上巻は「生命美学」、下巻は「情境美学」とそれぞれ副題が付されている。

何日生は現在、慈済会のスポークスマン及び慈済人文志業発展処主任でもある。

(5)なおこれに関連して、雲菁女史が法師の伝記を書くため、「老吾老以及人之老、幼吾幼以及人之幼」

の解釈をたずねたとき、法師は次のように答えた。「この言葉もまた仏教の根本精神を述べています。そ

れは私たちの中国の仁愛精神の哲学でもあります。仏教の教える慈悲平等とは、人間の本性が平等だと

いうことです。つまり、年を取っているとか若いとかにかかわらず、私たちは他の人を自分自身のよう

に尊重し敬愛しなくてはならないということです。これが平等というものです。慈済人の間では次のよ

うに言われています、『世の中の老人たちはみな自分の父や母のように、また自分ぐらいの年齢の人々は

自分の兄弟姉妹のように、そして幼小の者たちは自分の子どものように、それぞれ見なしましょう』と」

(靜思書齋編 2000:241)。

(6)「農民芸術概論綱要」は、論文形式ではなく詩の形で表現された賢治の農民芸術思想の表明文である。

1926 年、彼が 31 歳のときに書かれた。この有名な言葉の後に、「自我の意識は個人から集団社会宇宙と

次代に進化する/この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか/新たな時代は世界が一の意識に

なり生物となる方向にある/正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くこと

である/われらは世界のまことの幸福を索ねよう/求道すでに道である」と続く(『日本詩人全集 20 宮

沢賢治』新潮社、1967 年)。

(7)日本語では「人間」は一人だけでも human being としての「人」を意味するが、中国語では「人間」

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金子昭 人間世界の中の慈悲済世の展開

は文字通り人と人との間としての「世間・社会」の意味になる。慈済会では「人間化」を humanize と英

訳しており、そこには人間性 humanity の具現という意味も込めているように思われる。そして、一人ひ

とりが顔の見える福祉がまさに「人間化された humanized 福祉」となるのである。

(8)ソーシャル・キャピタルという概念はアメリカで 20 世紀初めに登場して以来、少なからぬ論者によ

る諸定義があるが、ここではこの概念の日本での紹介者の一人であり、それらを整理した上で最も簡明

な定義を下した稲葉陽二(日本大学法学部教授)のものを紹介した。宗教学の領域でも、この概念を鍵

概念として導入した研究が近年、稲場圭信らによって進められている。その成果の一つが稲場圭信・櫻

井義秀編『社会貢献する宗教』(世界思想社、2009 年)である。

(9)堀内一史は日本の新宗教教団として天理教と立正佼成会を挙げ、両者とも信仰で結びついた人々が対

外的なボランティア活動などを積極的に行い、社会に対して開かれた姿勢を取っているという点で、高・

橋渡し/高・結束型のソーシャル・キャピタルと概括している(堀内 2008:123-125)。

(10)日本では、ことさらに宗教教団に対する偏向したメディア報道の影響もあって、一般社会には宗教不

信の雰囲気が瀰漫しているように思われる。その中で、宗教団体が“救援”活動を行おうとしても、思

わぬところで拒否されたり、たとえ行ったとしてもその宗教の宣伝になるからという理由で、一般には

報道されなかったりする。

(11)この内容については、法師自身が次のように説明している。「静思法脈とは、生活態度を『克己、克

勤、克倹、克難』に変えることです。これは要するに、生活をシンプルで清貧にして、無用な出費をせ

ず、清浄で無欲な心を回復し、勤勉につとめ倹約を心がけて暮らすことです。こうすれば自由で喜びに

満ちた境地を得ることができ、それはまた幸福な人生でもあります。慈済宗門は礼を復興すること(復

禮)ということですが、孝行したり対人的な礼儀を学ぶこともその中に入ります。それはまた、贅沢な

習慣を改めるだけでなく、慈悲の心を啓発することでもあります。慈済宗門に入るためには礼節を重視し、

人をまろやかに、物事をまろやかにすることです」(證嚴法師 2008:294-295)。

(12)2007 年に創立 41 年目を迎えた慈済会は、40 年間の四大志業が一定の成果を上げてきたことを踏まえ、

独自な教えと実践を有する宗門団体として今や新たな年輪を刻むことになったことを示すものとして、

慈済宗をも名乗るようになった。実のところ、2009 年 6 月の慈済大学でのこのたびのシンポジウムにお

いても、学術的な方面から慈済宗及び證厳法師の思想を理論的に掘り下げ、また学際的に展開していこ

うとする慈済宗学探究の意図が含まれていたのである。

(13)仏教の聖典を集大成したものを大蔵経と言うが、慈済会では自らのさまざまな活動や事業の記録・保

存・広報に力を入れており、これらの総体を近年「慈済大蔵経」と称するようになった。この表現には

明らかに同会の宗門意識が見出される。なお、中国語(繁体字・簡体字)、英語、スペイン語による同会

の公式ホームページ http://www.tzuchi.org/ の総合タイトルも「慈濟大藏經」と銘打たれている。

【参考(引用)文献】

《日本語》

證厳法師 (2003)『静思語』第一集(涂羅美麗他訳〔原著 1999 年〕)慈済文化出版社。

證厳法師 (2006)『静思語』第二集(涂羅美麗訳〔原著 1999 年〕)慈済文化出版社。

稲葉陽二 (2007)『ソーシャル・キャピタル―「信頼の絆」で解く経済・社会の諸課題』生産性出版。

稲葉陽二 (2008)「ソーシャル・キャピタルの多面性と可能性」稲葉陽二編著『ソーシャル・キャピタルの

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Page 18: 人間世界の中の慈悲済世の展開...観音、普賢などの菩薩である。その代表が観世音菩薩(観音菩薩)である。證厳法師 は、ある学生から「菩薩は種類がたくさんあるのに、どうして大部分の人は観世音菩

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潜在力』日本評論社、11-22(序章)。

金子昭 (2005)『驚異の仏教ボランティア―台湾の社会参画仏教「慈済会」』白馬社。

金子昭 (2008)「日本的風土の中における台湾生まれの宗教福祉活動―慈済基金会日本支部の活動事例を通

じて」天理台湾学会『天理台湾学報』第 17 号、57-72。

鎌田茂雄 (1994)『法華経を読む』講談社学術文庫。

小林一郎 (1962-65)『法華経大講座』全 12 巻、日新出版〔初版 1935-36、平凡社〕。

櫻井義秀 (2008)『東北タイの開発僧―宗教と社会貢献』梓出版社。

シュヴァイツァー (1957)『文化と倫理』(氷山英廣訳〔原著 1923 年〕)白水社。

堀内一史 (2008)「ソーシャル・キャピタルとボランタリズム―宗教ボランティアと宗教的ソーシャル・キ

ャピタルをめぐって」稲葉陽二編著『ソーシャル・キャピタルの潜在力』105-142(第4章)。

三木随法 (1999)『平成訓読 法華三部経』東方出版。

《中国語》

證嚴法師 (1999)『靜思語』第一集(靜思書齊編、初版 1989 高信疆主編)慈濟文化出版社。

證嚴法師 (1999)『靜思語』第二集(靜思書齊編)、慈濟文化出版社。

證嚴法師 (2000)『美的循環―談生生世世』天下遠見出版社。

證嚴法師 (2001)『無量義経』慈濟文化出版社。

證嚴法師 (2006)『與地球共生息』天下遠見出版社。

證嚴法師 (2008)『真實之路―慈濟年輪與宗門』天下遠見出版社。

靜思書齋編 (2000)『證嚴法師―有朋自遠方來』天下遠見出版社。

釈德凡〔編選〕(2008)『證厳上人思想體系探究叢書【第一輯】』慈濟文化出版社。

潘 煊 (2004)『琉璃同心圓』天下遠見出版社。

何日生 (2008)『慈濟實踐美學』上下、靜思文化志業 (立緒文化事業 )。

   

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Page 19: 人間世界の中の慈悲済世の展開...観音、普賢などの菩薩である。その代表が観世音菩薩(観音菩薩)である。證厳法師 は、ある学生から「菩薩は種類がたくさんあるのに、どうして大部分の人は観世音菩

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金子昭 人間世界の中の慈悲済世の展開

Development of Charitable Missions in Human World—Network of Bodhisattvas in the Age of Globalization—

KANEKO Akira

The purpose of this paper is to report on Tzu Chi Foundation with specific focus on

the following: a) the path of human bodhisattvas who carry out charitable missions, b)

the development of their network, and c) its significance during the time of globalization.

According to Tzu Chi Foundation, the practice of the bodhisattva's path, or volunteer work,

allows "buddhahood," possessed by everyone, to become manifest. Such work is practical

realization of "Humanized Buddhism." The dynamic structure of the Tzu Chi activities

aimed at the realization of the buddhafield forms the network of bodhisattvas as the "three-

dimensional concentric circle of lapis lazuli." This network is an infinite, circular movement

that reproduces bodhisattvas from the populace. It is also the actualization of an inner cycle

whereby the practitioner's buddhahood is polished. In sociological terms, this may be defined

as "social capital." Tzu Chi Foundation has dual aspects as a religious group and as an NGO

and possesses a characteristic of, as it were, a "supra-religion." The ideal of its activities has

grown global with the mission statement, "Purify the earth, and educate and rescue human

beings." Tzu Chi Foundation carried out its activities correspondent with Taiwan's social needs

and now is taking a leading role for the future direction of the world on a global scale. Those

engaged in religion and social work should learn from the pioneering spirit and proactive

approach of the foundation.

Keywords: Tzu Chi Foundation, human bodhisattvas, volunteer, social capital

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