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法律論叢第 90 巻第 1 号(2017.7【論 説】 仲裁手続における証拠保存義務 ―― 仲裁合意解釈の理論的枠組みの検討 ―― 栁  川  鋭  士 目 次 1.はじめに 2.仲裁合意解釈の理論枠組み 仲裁合意の法的性質―制度契約としての仲裁契約― 関係的契約論及び制度契約論を視点とする「制度契約としての仲裁契約」の 分析と展開 (a) 関係的契約理論 (b) 制度契約論 (c) 「制度契約としての仲裁契約」の分析及び展開 3.仲裁手続に関する合意解釈―仲裁手続における証拠保存義務の検討を通じて― 仲裁法における証拠調べ手続 仲裁法における証拠調べ手続における合意解釈及び裁量に対する規制原理 機関仲裁における仲裁合意 機関仲裁の仲裁規則における証拠収集手続 (a) JCAA 商事仲裁規則 (b) ICC 仲裁規則 (c) IBA 証拠規則 (d) 仲裁規則における電子保存情報及び証拠保存義務 証拠収集手続に関するガイドライン及びプロトコル 仲裁規則における合意解釈枠組み及びそれに基づく証拠保存義務 民事訴訟手続における証拠保存義務との理論的整合性 4.総括 1はじめに 仲裁制度において仲裁付託の意思(①第三者(仲裁人)に紛争の解決を委ね訴訟 147

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法律論叢第 90巻第 1号(2017.7)

【論 説】

仲裁手続における証拠保存義務――仲裁合意解釈の理論的枠組みの検討――

栁  川  鋭  士

目 次1.はじめに2.仲裁合意解釈の理論枠組み ⑴ 仲裁合意の法的性質―制度契約としての仲裁契約― ⑵ 関係的契約論及び制度契約論を視点とする「制度契約としての仲裁契約」の

分析と展開   (a) 関係的契約理論   (b) 制度契約論   (c) 「制度契約としての仲裁契約」の分析及び展開3.仲裁手続に関する合意解釈―仲裁手続における証拠保存義務の検討を通じて― ⑴ 仲裁法における証拠調べ手続 ⑵ 仲裁法における証拠調べ手続における合意解釈及び裁量に対する規制原理 ⑶ 機関仲裁における仲裁合意 ⑷ 機関仲裁の仲裁規則における証拠収集手続   (a)  JCAA商事仲裁規則   (b)  ICC仲裁規則   (c)  IBA証拠規則   (d) 仲裁規則における電子保存情報及び証拠保存義務 ⑸ 証拠収集手続に関するガイドライン及びプロトコル ⑹ 仲裁規則における合意解釈枠組み及びそれに基づく証拠保存義務 ⑺ 民事訴訟手続における証拠保存義務との理論的整合性4.総括

1.はじめに

仲裁制度において仲裁付託の意思(①第三者(仲裁人)に紛争の解決を委ね訴訟

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法律論叢 90巻 1号

によらない旨の意思、及び②当該第三者の判断(仲裁判断)に服する旨の意思)で

ある仲裁合意(仲裁法 2条 1項)が裁判という公的サービスに代わる紛争解決手段

を正当化する原理的、本質的基礎であるため当該合意が存在しなければ仲裁は認

められない(1)。仲裁法上、仲裁付託の意思以外にも仲裁手続の準則に関する合意

(仲裁法 26条 1項参照)も許容されており、任意的訴訟(便宜訴訟)を禁止(2)する

民事訴訟手続とは異なる特徴を有する。実際の商取引契約における仲裁条項には

仲裁付託の意思としての仲裁合意と仲裁手続の準則に関する合意(仲裁機関の定め

る仲裁規則に従う旨の合意)の双方を含むことも多い。仲裁付託の意思である仲裁

合意が仲裁制度の基盤ではあるが、仲裁手続における証拠収集手続は公正かつ適正

な仲裁制度に係る重要な問題である。特に国際仲裁の場面では、大陸法に本拠を置

く当事者とコモン・ローに本拠を置く当事者との間で証拠に係る手続へのアプロー

チが大きく異なることから、各仲裁機関が定める仲裁規則を含む合意解釈や仲裁廷

の裁量による証拠に係る手続の統一性・透明性の確保が重要となろう(3)。このよ

うな合意に係る事項は仲裁合意を含む契約締結の場面、仲裁手続の場面、抗弁事項

や仲裁判断取消事由に係る訴訟の場面において争点となり得るが、その解決に際し

ては当事者間の「合意」解釈が中心となり、その合意解釈方法の確立は評価規範的

観点からの紛争解決だけではなく行為規範的観点からの予防法務などにも資する。2006年及び 2015年の連邦民事訴訟規則の改正もあり特に米国では今もなお困難

な問題として電子保存情報(electronically stored information(“ESI”))に関す

る証拠保存義務について議論されており(4)、これに呼応するかのように国際仲裁

における電子保存情報に関する証拠調べ手続等も継続的な課題となっている(5)。

(1)小島武司=猪股孝史『仲裁法』53頁以下(日本評論社、2014)、猪俣孝史「仲裁合意の方式と成立」JCAジャーナル 53巻 3号 2頁以下(2006.3)。

(2)民事訴訟手続では、公益性の観点から、原則として民事訴訟法が定める手続と異なる手続を当事者が合意しそれによって裁判を行うことは許されない。任意訴訟(便宜訴訟)の禁止と言われる。新堂幸司『新民事訴訟法』46頁以下参照(弘文堂、第 5版、平 23)、伊藤眞『民事訴訟法』32頁参照(有斐閣、第 5版、2017)、松本博之=上野泰男『民事訴訟法』35頁参照(弘文堂、第 8版、2015)。

(3) See e.g., Michael E Schneider, Civil Law Perspective: “Forget E-Discovery”, in DavidJ Howell (ed), Electronic Disclosure in International Arbitration (2008), 13 at 5–30.

(4)拙稿「電子保存情報の証拠保存義務―2015年改正連邦民事訴訟規則 37条 (e)―」法論第88巻第 6号 199頁以下参照、拙稿「民事訴訟手続における証拠保存義務―訴え提起前の証拠保存義務を中心として―」法論第 88巻第 2・3合併号 53頁以下参照。

(5) See e.g., Shin Tada, Electronic Documents in International Arbitration: Recent

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仲裁手続における証拠保存義務(栁川)

仲裁手続は、裁判という公的サービスに代わる紛争解決手段であり憲法 32条との

関係から仲裁付託意思である仲裁合意が仲裁手続の存立基盤であることは言うま

でもないことであるが(6)、だからと言って単純に当事者自治が支配しているもの

とは考えられず、仲裁手続の準則を定める仲裁法 26条の解釈(7)においても、私法

上の意思自治の原則と例外のような単純な解釈論に集約できない要素があるもの

と考えられる(8)。この点、既に民法理論において、内田貴教授が意思自治の原則

に集約し得ない問題について関係的契約論及び制度契約論を提唱されており、仲裁

合意を基礎とする仲裁手続においても小島武司教授が「制度契約としての仲裁契

約」を提唱し仲裁合意の客観的範囲の問題を中心として一定の解釈の方向性を示さ

れている(以下「制度契約としての仲裁契約」という場合には、文脈上別段の意味

を示さない限り、小島教授の提唱する制度契約としての仲裁契約を意味する。)。本

稿では、仲裁付託意思の合意解釈の問題だけではなく、仲裁手続の準則に関する合

意に係る証拠保存義務の解釈問題を通じて、仲裁付託意思としての仲裁合意から仲

裁手続合意一般に通じ得るような合意解釈方法について理論的背景を探りながら

検討を試みるものである。そこで、まず仲裁手続における合意解釈の方向性を示す

ため、内田貴教授の関係的契約論及び制度契約論の視点から「制度契約としての仲

裁契約」を検討する(9)。次に、当該検討に基づく理論的枠組みを背景としてそこ

Developments and Challenges 35 JCAA News letter (March 2016) at page 5–10.(6)谷口安平「消費者紛争と仲裁」148頁以下参照『民事紛争処理〔民事手続論集 3巻〕』(信山社、2000)。

(7)証拠調べ手続に関して規定する仲裁法 26条は仲裁手続につき当事者自治を原則としつつ公序による制約がある旨規定する。近藤昌昭ほか『仲裁法コンメンタール』123頁以下参照(2003、商事法務)、小島ほか・前掲注 (1)311頁以下参照、山本和彦=山田文『ADR仲裁法』345頁以下参照(日本評論社、第 2版、2015)。

(8)「契約自由の原則」や「私的自治の原則(意思自律の原則)」が支配する近代契約法においては、契約の成立と内容に関する規制原理が異なるとされ、当事者の自由な意思に基づき一旦契約が成立すれば、公序良俗等の例外的規制を除き、合意どおりの効力が保証され、ここにおいては国家の介入は可能な限り避けられる。内田貴『契約の時代日本社会と契約法』150頁(岩波書店、2000)。

(9)民法学の契約法の領域においては、内田貴教授の提唱する関係的契約論のほか、山本顯治教授の交渉促進規範論、山本敬三教授の私的自治論、大村敦志教授の契約正義論等のように従来の意思自治や私的自治論とは異なる視点からアプローチする理論が展開されている。吉田克己『現代市民社会と民法学』8頁以下参照(日本評論社、1999)。このような理論は仲裁合意に基礎を置く仲裁手続だけではなく、私的自治に基礎を置く処分権主義や弁論主義(本質説を前提とした場合に限らない。コミュニケーション過程を重視

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法律論叢 90巻 1号

から導出される合意解釈方法に従って証拠保存義務について段階的な検討を行う。

2.仲裁合意解釈の理論枠組み

⑴ 仲裁合意の法的性質(10) ―制度契約としての仲裁契約―

仲裁法は、仲裁合意につき「この法律において「仲裁合意」とは、既に生じた民

事上の紛争又は将来において生ずる一定の法律関係(契約に基づくものであるかど

うかを問わない。)に関する民事上の紛争の全部又は一部の解決を 1人又は 2人以

上の仲裁人にゆだね、かつ、その判断(以下「仲裁判断」という。)に服する旨の

合意をいう。」と定める(仲裁法 2条 1項)。仲裁の本旨は、「紛争の解決を第三者

の判断にゆだねる旨の合意及びその判断に服する旨の合意に基づいて紛争を解決

することである」とされ、その本旨が仲裁合意の定義に取り込まれている(11)。

仲裁合意の法的性質をめぐって訴訟契約説、混合契約説、実体契約説等が唱えら

れていたが、法的性質を決定して演繹的に結論を出すのではなく、個別の問題状況

に応じて、当該問題における当該法的性質を踏まえ結論を導出する考え方(法的性

質としては混合契約説的考え方が前提となろう。)が通説的見解であると考えられ

る(12)。

もっとも、これまでの法的性質論とは別のアプローチから仲裁合意(仲裁契約)

について検討されているのが小島武司教授である。小島教授は、仲裁制度の「実効

化」を図るための理論として「制度契約としての仲裁契約」を提唱する(13)。この

する山本顯治教授の理論はいわゆる第三の波に属する見解に通ずるものがあるとの指摘もなされているところである。内田・前掲注 (8)150頁。)が支配する民事訴訟手続にも影響を及ぼすものと考えられるが、この点についての検討は今後の課題としたい。

(10)小島ほか・前掲注 (1)55頁以下。(11)近藤ほか・前掲注 (7)6頁。仲裁適格については仲裁法 13条 1項に和解可能性を基準と

する旨定められており、この点も含めた定義については、小島ほか・前掲注 (1)54頁以下参照。

(12)小島ほか・前掲注 (1)56頁以下参照、山本ほか・前掲注 (7)307頁以下参照。(13)小島武司「制度契約としての仲裁契約―仲裁制度合理化・実効化のための試論―」早川吉

尚=山田文=濱野亮編『ADRの基本的視座』216頁、230頁(信山社、2004)、同「試論:制度契約としての仲裁契約―仲裁判断取消訴訟および執行判決請求訴訟との関連において―」竹下守夫先生古希祝賀論文集『権利実現過程の基本構造』935頁以下(有斐

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仲裁手続における証拠保存義務(栁川)

理論では、社会に実在する仲裁制度には訴訟と比べて遜色のない独自の制度的内実

(憲法の根幹にある手続保障の要請(憲法 32条及び 82条)に仲裁制度も独自の仕

方で応えるだけの実質を有し、常設仲裁機関の信頼性の確立、仲裁手続の適正の確

保、専門的知見の取り込みによる仲裁人の資質向上等により訴訟よりも相対的な優

位性があるとも指摘される(14)。)を有することを前提とする(15)。その前提の下、

仲裁契約の国家裁判権を排除する「消極的側面」を重視するのではなく、適合的な

代替的紛争解決方法の導入という「積極的側面」と「一体的に把握」し、訴訟との

イコールパートナーとして位置付け、仲裁契約の客観的範囲及び主観的範囲に関す

る裁判例の検討を通じて、当事者の合理的意思解釈に基づき、仲裁契約の制度的弱

点の一つである紛争解決力の限定性の問題を克服し、仲裁制度の「実効化」が図ら

れるとされる。また分離可能性の問題も仲裁制度を実効化させようという常識が

強く働いていると指摘される(16)。これらの検討を通じて、当事者の合理的意思解

釈を生み出すものは、公正で実効的な仲裁制度の核をなす基本的設計思想(17)であ

り、それらの連結点をなすものが制度契約の理論であるとする。

⑵ 関係的契約論及び制度契約論を視点とする「制度契約としての仲裁契約」の分析と展開

小島武司教授が提唱されている「制度契約としての仲裁契約」においては、内田

貴教授の関係的契約論が展開されている『契約の再生』が引用されておりそこから

のインプリケーションを受けているものと考えられ、当該関係的契約理論及び内田

貴教授がその後提唱されている制度契約論を踏まえて「制度契約としての仲裁契

約」を検討することにより、「制度契約としての仲裁契約」を発展・応用させられ

得るものと考えられる(18)。そこでまず内田貴教授の関係的契約論及び制度契約論

閣、平 14)。(14)小島・前掲注 (13)217頁以下、小島・前掲注 (13)〔試論〕945頁参照。(15)小島・前掲注 (13)216頁以下、小島・前掲注 (13)〔試論〕945頁参照。(16)小島・前掲注 (13)229頁、小島・前掲注 (13)〔試論〕944頁、946頁以下参照。(17)訴訟と遜色のない公正な仲裁制度の「実効化」の方向での当事者の合理的意思解釈を行

うに際し、当該意思解釈の根底には、UNCITRAL模範仲裁法のようなモデル法により、国家権力の介入を最小限とし当事者間の合意を基礎とする公正な仲裁制度に関するグローバルな普遍性及び汎用性が共有認識として存在し、それが基本的設計思想ということであろう。小島・前掲注 (13)230頁以下、小島・前掲注 (13)〔試論〕954頁以下参照。

(18)この点について、山田恵子准教授は、仲裁制度において(理念的なレベルでの)正当化機

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法律論叢 90巻 1号

を概観し、次に当該関係的契約論及び制度契約論を踏まえて「制度契約としての仲

裁契約」について検討し、仲裁手続における個別的問題に対する仲裁合意の解釈方

法あるいは解釈指針の導出を試みたい。(a) 関係的契約理論内田貴教授は、イアン・マクニール教授の契約理論(19)を分析し、日本における

関係的契約理論を展開する。すなわち、マクニール教授の社会学の理論枠組みに基

づくと、実現されるべき将来の事態を「交換」(交換概念の対象は単発的取引だけで

なく組織や家族を含む人間関係をも含む。)とし、「契約」は将来の交換に向けてな

されるある種の企画であるとする。古典的契約概念における「企画」の中核は「約

束」(意思)であり、この約束は「将来の交換に向けてのコミットメントのコミュ

ニケーション」であるとする。しかし、将来の交換に向けてなされる企画であれ

ば、何も約束(意思)による取引だけでなく、当該約束に代わって当事者の置かれ

ている社会関係が当該企画において重要な役割を演ずることに着目して、マクニー

ル教授は当該関係を「関係的契約」(ここでは、契約を約束(意思)による取引に

限定させず、社会関係の中で生まれた「期待」が「約束」と同様に未来の交換を担

保するものとし重要なものと指摘されている。)と捉えているとされる(20)。但し、

能を有する合意概念を前提に、個別具体的な仲裁手続の解釈問題における合意による正当化の視点から、小島武司教授の「制度契約としての仲裁合意」の概念の検討を行っている。山田恵子『仲裁法解釈における「合意」と制度―小島武司教授の「制度契約としての仲裁合意」の概念をめぐって』神戸 60巻 2号 352頁以下。山田准教授は基本的には仲裁手続開始前の「一回」の仲裁合意に集約して実体的・手続的規範の正当性を検討されているため手続的動態性は等閑視されるが、本稿では後述のとおり仲裁手続過程における合意(例えば仲裁手続開始後の証拠調べ方法に関する合意)をも視野に入れ検討する。また山田准教授は小島教授の論考等から理論的基盤を導き出し「制度契約としての仲裁契約」それ自体の内在的理解に努めるが、本稿では内田貴教授が提唱される、関係的契約理論(小島教授がインプリケーションを受けたと考えられる理論)及び制度契約論を基軸として分析し「制度契約としての仲裁契約」を基礎としてその発展・展開を試みている。このような解釈を試みることにより、公正な仲裁制度を前提とし特定ないし抽象的な「正義」を実現するために合理的意思解釈を行うことのみによっては等閑視されてしまうおそれのある「公正な仲裁制度」とは何かといった問題にも焦点を当てることができ、「公正な仲裁制度」とともに仲裁制度の根幹である当事者自治をも実質的に実現できるものと考える。

(19) See e.g., Ian R. Macneil, Values in Contract: Internal and External, 78 Nw. U.L. Rev.340–418 (1983–1984).

(20)内田貴『契約の再生』134頁以下参照(弘文堂、平 2)55頁以下。

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仲裁手続における証拠保存義務(栁川)

その性質から抽象化による定義は拒否され、具体例と内在的規範から関係的契約は

把握しなければならないとされる(21)。このマクニール教授の理論では、国家法に

代表される外在的規範と契約実践の中に存在する内在的規範によって契約法を捉

え、当該内在的規範の多くが関係的契約法としての性格を持つとされる(22)。関係

的契約が捉える「期待」に著しく逸脱すると取引が阻害されるが、古典的契約モデ

ルで対応しようとすると、黙示の約束や信義則(日本における対応を想定)を援用

することになり意思理論からは擬制あるいは無理が生じることになることを指摘

しつつ(23)、内田貴教授はこの関係的契約を示唆として、日本における現代契約法

を認識するための理論枠組みとして(24)、適用可能な実定法学上の理論である「関

係的契約理論」を展開する。マクニール教授の関係的契約は社会学的概念モデルで

あるが、法の世界において解釈学的に構成されたものとして関係的契約を理解し、

伝統的な契約モデルでは説明し難い新たな性質の規範を実定法規範や裁判例に見

出し、当該新たな規範の背後にある契約モデルを内田教授は関係的契約と把握す

(21)内田・前掲注 (20)155頁以下。関係的契約の対極には単発的契約(古典的契約モデル)が挙げられ、その特徴は、「現在化(presentiation)」と「単発性(discreteness)」であるとされる。契約締結時点で未来領域に属する事項への対応を全て現在時点に置き直してプランを立て(現在化)、契約の前後の事情や当事者に係わる社会環境等の当事者の意思以外の要素からいっさい切り離し、明確に定義しうる権利・義務の関係に孤立化すなわち契約の背景にある社会関係から切り離して理解(単発性)する。内田・前掲注 (20)150頁以下、内田・前掲注 (8)68頁(日本の伝統的理論から見た契約について、内田・前掲注(8)89頁以下参照)。社会関係は多様であることから関係的契約は抽象化した定義には馴染まないのであるが、内田貴教授の以下の説明は要諦を的確に捉えているため引用する。関係的契約理論がこれまでの契約法原理とは全く異質な構造であることを指摘のうえ、「契約関係は動的(ダイナミック)に把握され(その中では合意の成立時点の持つ意味は小さい。)、契約関係の進行とともに権利義務が発生するだけではなく変化する。そして、紛争が発生した場合には、それまでの全契約関係の経緯を考慮に入れて、権利義務が判断されるのである。その判断を導く原理は、当事者の意思や信頼、あるいは法律だけではなく、契約の背後にある社会関係・共同体の規範(関係の保存等)にも拠り所が求められる。むしろ、約束も信頼も、そのような規範に裏付けられて初めて拘束力の根拠たりうるのである。換言すれば、約束も信頼も、契約の拘束力の一元的な根拠たりえず、多元的な根拠の一つ、それも全体の関係の中で条件づけられた根拠にすぎない地位に置かれる」と説明され(内田・前掲注 (20)173頁以下)、民事訴訟法学における「評価規範」の発想に近いとの指摘もされている。内田・前掲注 (20)177頁、内田・前掲注 (8)137頁以下。

(22)内田・前掲注 (20)227頁以下。(23)内田・前掲注 (20)58頁以下。(24)内田・前掲注 (8)64頁、133頁以下。

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法律論叢 90巻 1号

る(25)。すなわち、日本の法解釈における「形式論」(条文の形式的なあてはめに

よって結論を導く。)と「実質論」(個々の紛争の事実関係に基づき利益考慮を行い

結論を導く。)を背景として、形式論的な外在的規範の論理では妥当な解決(日本

の衡平感覚に合致した実質論的解決)を図ることが困難な場合、内在的規範を取り

込み実質論に則した妥当な解決を図る場面が検討されている(26)。ここでは契約プ

ロセスを動態的に把握し、関係的契約原理を構成する「柔軟性原理」及び「継続性

原理」による分析枠組みによって考察し(27)、対象について内在的理解を可能とす

る解釈には当該対象に対する正当化も含むという理解を前提として、当事者間にお

いて共有されている規範(取引社会において共有する規範等であり(28)、以下「共

有規範」ともいう。)が(裁判官によって)見出され法原理として構成された規範

(25)内田・前掲注 (8)66頁。(26)内田・前掲注 (20)223頁以下。内田貴教授は、契約実践の中の契約規範を内在的規範と

し、実定契約法との関係を検討されているが、契約実践そのものを関係的契約規範と捉えると、社会規範そのものに法源性を認め正当化できなくなるため、法的スクリーニングを通して、関係的契約規範が構成されるとする。法的スクリーニングを通すため、各国の実定契約法や裁判例の現状に左右されることから、関係的契約モデルの有用性は国ごとに異なることも指摘されている。内田・前掲注 (8)61頁、67頁以下。日本における一般条項である信義則に基づく解釈(契約義務の拡大現象)によって、内在的規範が吸い上げられた裁判例として、契約交渉中の不当破棄事例、説明義務(情報開示義務や助言義務)に関する事例、再交渉義務に関する事例、拡大損害防止のための作為義務に関する事例、契約関係解消の制限に関する事例、損害賠償額減額による中間的解決事例を類型的に検証し、内在的規範としての類型毎の契約原理が導き出されている。ここでは、要件効果型の「ルール」型の規範ではなく、裁量の余地を残した「スタンダード」型の規範(信義則条項そのものより抽象度のレベルは下がる。)が示されている。内田・前掲注(8)69頁以下、134頁以下。

(27)内田・前掲注 (8)94頁以下。(28)企業間取引から消費者取引に至るまで、そこに内在的規範が含まれており、前理解を共

有する共同体を想定するが、だからと言って「個人」を共同体に埋没させる理論ではないとして、内田貴教授は次のように述べられる。すなわち、「およそ解釈共同体から切り離された個人など存在しえないからである。日本人は、広くは、日本語という言語を共有する言語共同体から、会社、学校、家族の中で形成される共同体、そして、たとえば化学繊維の取引業界・医薬品の取引業界等々の業界、日用品の消費者取引が行われる世界に至るまで、様々な共同体に重層的に帰属する。このうち、取引共同体に参加する主体を規律する法的ルールを考えるに際し、社会関係に埋め込まれた(embedded)ものとしての個人の「了解」を尊重」するものが関係的契約の理論であり、「社会的負荷」から切断された抽象的存在としての個人とは異なった意味での、個人を尊重する理論であるとする。内田・前掲注 (8)155頁以下。

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仲裁手続における証拠保存義務(栁川)

となり、「納得」の行く解決が導き出される(29)。そして裁判所による内在的規範

の構成につき社会全体を視野に収めた社会理論的正当化のためにはハーバーマス

理論(30)に依拠し「納得」の行く解決を導き出す共有規範はいわば生活世界に共有

された規範として捉え、裁判例に見られる契約義務の拡大現象等を「経済システム

との棲み分けによる生活世界の論理の回復への動き」として説明される(31)。(b) 制度契約論内田貴教授の制度契約論は、従来の取引的契約には分類し得ない社会現象を理論

的に把握するための視点である(32)。民法上の合意は、契約を構成し契約の基本と

(29)内田・前掲注 (8)152頁以下。(30)内田・前掲注 (8)157頁。ハーバーマス教授の理論に基づく内田教授の関係的契約論の分

析は筆者の能力を超えるものであるが、ハーバーマス理論に関しユルゲン・ハーバーマス(川上倫逸他訳)『コミュニケーション的行為の理論(上)(中)(下)』(未來社、1985–1987)が参照文献として挙げられている。内田・前掲注 (8)10頁(引用文献)。この点に関連して山本顯治教授は、交渉促進規範論の展開に際しハーバーマス教授のコミュニケイション的行為論に基づき、本来言語的コミュニケイションによる相互了解という行為調整メカニズムが働く「生活世界」(市民の自律的な生活領域)が「法制化」を通じて権力と貨幣を媒介とした国家と経済というサブシステムにより取って代わられる「貨幣化」、「官僚化」(「生活世界の植民地化」と言われる。)の問題を指摘する。山本顯治「契約交渉関係の法的構造についての一考察(一)―私的自治の再生に向けて―」民商 100巻 2号 209頁以下(1989)。もっとも、ハーバーマス教授自身が指摘されているように現代福祉国家を背景とする「法制化」が必ずしも常に否定的評価を受けるものではないという点は留意する必要がある。河上倫逸=M.フーブリヒト編『ハーバーマスシンポジウム 法制化とコミュニケイション的行為』73頁以下(未來社、1987)。また山本教授は、内田貴教授と異なり契約交渉を「戦略的行為」と捉えるのではなく(内田・前掲注 (8)150頁以下。)「コミュニケイション的行為」と捉え、言語的コミュニケイションによる相互了解の回復手段としては、継続的交渉義務を中核とする契約義務群(情報提供義務、説明義務等)を交渉促進規範として提唱する。山本・前掲注 (30)218頁以下、山本顯治「契約交渉関係の法的構造についての一考察(三・完)―私的自治の再生に向けて―」民商 100巻 5号 823頁以下(1989)。少なくとも仲裁手続に関する合意(合意に至る交渉過程を含む。)の検討に際しては、当該当事者が属する「生活世界」(または取引社会)に見出し得る共有規範として当該合意に係る交渉は「戦略的行為」というよりも「コミュニケイション的行為」として捉えられ、「コミュニケイション的行為」としての当該交渉は、「理想的発話状況」を前提とした合意に向けた「討議」であって、当該当事者が納得するような解決枠組みとしての当該合意に到達するプロセスを前提としていると考えられるのではないだろうか。仲裁手続に関する合意に関して、アプローチが異なるとしても結果としては、内田貴教授の関係的契約論と山本顯治教授の交渉促進規範論は相当程度重なり合うものと考えられる。

(31)内田・前掲注 (8)150頁以下、157頁以下参照。吉田・前掲注 (9)12頁参照。(32)内田貴『制度契約論―民営化と契約』59頁参照(羽鳥書店、2010)。

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法律論叢 90巻 1号

なるものであり、当事者が交わした約束とされる。合意が単なる約束ではなく民法

上の契約の構成要素となる場合には法的拘束力(強制履行や損害賠償請求)が生ず

る(33)。民法上の典型契約を想定した場合、その特徴は要件効果型である。取引的

契約の代表格である売買契約を例にすれば、要件としての売買契約(民法 555条)

が成立すると、その効果として代金引渡請求権や目的物引渡請求権が発生する。そ

して当該効果である代金請求権や目的物引渡請求権の不履行が生じた場合には強

制履行や損害賠償請求が認められ、法的拘束力のもと、国家機関を通じて当該権

利を実現し得る。これに対し制度契約はこのような典型的な契約関係とは異なり、

「個別当事者による交渉と契約内容の形成という、従来の取引的契約のパラダイム

が妥当しない契約」であるとされ(34)、その特質として、①個別交渉排除原則、②

(33)内田貴『民法 II債権各論』11頁以下参照(東京大学出版会、第 3版、2011)。(34)内田貴教授は具体的な制度契約について検討されている。

介護契約においては、介護契約の背後に給付決定という行政の関与が組み込まれている。市場のメカニズムに委ねると富裕者が優先的に質の高いサービスを受けることになり、正義に反し、共同体(日本社会)内部で不公正感が生ずからである(介護契約に内在する「外部性」)。契約内容が取引的契約の意思自治により決定されるのではなく、給付決定を通じて、介護を必要とする利用者の「必要性」に応じてサービス内容の形成がなされる。内田・前掲注 (32)67頁以下。保育契約においては、その契約の性質から、取引的契約の意思自治に委ねられず、保

育の名に値する内容のサービス(保育サービスの結びついた共同体的価値の社会的コンセンサスが存在することが前提)が公平かつ平等に提供されることが要請され、当該要請は司法を通して個別契約に課せられるとする。内田・前掲注 (32)70頁以下。学校教育契約においては、その制度的性質から、取引的契約の意思自治に委ねられず、

公平性・平等性が要請される。教育基本法や学校教育法等による国家の介入が存在するが、法令の存在(それに基づく国家の介入)から教育の特殊性を論証するのではく、当該契約の性質から当該特殊性が導き出される。学校教育における教育的見地から実施される懲戒等の一定のサンクションにおいては教育の性質(例えば停学処分等に合意しない自由がないのであれば合意から当該サンクションを正当化できない)から手続的正義が要請されるとする。内田・前掲注 (32)72頁以下。企業年金契約においては、その制度的性質から、取引的契約の意思自治に委ねられず、

契約内容の個別交渉を排して、公平・平等に運用されていることが期待されている。内田・前掲注 (32)82頁以下、内田貴「制度契約と関係的契約―企業年金契約を素材として―」新堂幸司=内田貴編『継続的契約と商事法務』12頁以下(商事法務、2006)。団体への加入契約については、水産業協同組合法 25条が漁業協同組合への加入申込に対し私法上の承諾義務を課した規定とする最判昭和 55年 12月 11日を題材としながら、当該義務の実質的根拠は、漁業権が漁民の生活を支える権利であること、漁業協同組合が当該権利を事実上排他的に独占管理していることにあるとして、同様な性質を有する契約(public utility契約等)にもこのような承諾義務を見出すことができ制度的契約と

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仲裁手続における証拠保存義務(栁川)

締約強制、平等原則、差別禁止、③参加原則、④透明原則、アカウンタビリティが

挙げられる(35)。これらの特質が生ずる理由は「公的」性質にあるとし、その公的

性質とは制度的契約の「外部性」であり、個別契約の締結や履行において、当該契

約の相手方当事者以外の(潜在的)当事者への配慮(同様な財・サービスを受ける

立場にある契約当事者への配慮)が要求される(36)。このような制度的契約の意義

は、紛争解決の際の判断をガイドし、現代の社会現象を法学的観点から把握するた

めの視点を提供することである(37)。取引的契約のように当事者の意思を探求する

ことでは実質的な意思の尊重にならないため、実質的な意思の尊重がなされるため

に立法・行政・司法的介入がなされる(38)。(c) 「制度契約としての仲裁契約」の分析及び展開仲裁合意の合意解釈に関して、必要的内容に関する仲裁合意(仲裁付託の意思)

の解釈問題とそれ以外の任意的内容である仲裁合意の解釈問題が存在するが、前者

が仲裁制度の理論的基礎であることから、最初に前者の問題につき、上記の関係的

契約論及び制度契約論を踏まえて改めて小島教授が提唱される「制度契約としての

仲裁契約」を再検討する。

仲裁合意の成立に係る合意解釈については、①当該合意の仲裁合意該当性の問

題と②当事者間の意思の合致の問題に理論的に区別して考えるべきであるとの指

摘がなされている(39)。まず仲裁合意該当性の問題は、仲裁付託の意思が前提とす

る、(i)公正な第三者(仲裁人)が紛争の解決を判断し、(ii)当該第三者の判断が終

局的であるという合意該当性の問題である。公正な仲裁制度に不可欠な裁定主体

の第三者性に関する判例及び裁判例では合意文言解釈を中心として仲裁合意該当

性を肯定したもの、否定したものがある(40)。また裁定の終局性に関する判例及び

しての性質を持っているとされる。内田・前掲注 (32)84頁以下。(35)内田・前掲注 (32)86頁以下。(36)内田・前掲注 (32)88頁以下、124頁以下、内田・前掲注 (34)16頁以下。(37)内田・前掲注 (32)96頁以下。(38)内田・前掲注 (32)98頁以下。(39)小山昇『仲裁法』26頁(有斐閣、新版、1983)、小島武司=高桑昭編『注解仲裁法』31

頁以下(青林書院、昭 63)〔小島武司=豊田博昭〕、小島武司『仲裁法』104頁以下(青林書院、2000)、小島ほか・前掲注 (1)89頁以下。

(40)裁定主体の第三者性につき仲裁合意該当性を肯定した裁判例・判例(例えば東京控判大正 11年 4月 29日新聞 2005号 17頁、2006号 17頁、最判昭和 59年 9月 6日判タ 542号 202頁以下(小山昇「判批」ジュリ 862号 137頁以下参照))は、各当事者が仲裁人と

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法律論叢 90巻 1号

裁判例では合意文言解釈を中心として仲裁合意該当性を肯定したもの、否定したも

のがある(41)。裁定主体の第三者性の問題に見られるように仲裁合意該当性の問題

は、「制度契約としての仲裁契約」理論が「前提」とするところの訴訟と遜色のな

い公正な仲裁制度に係る問題と考えられることから、当該理論のみによっては直ち

に何らかの帰結が導き出せるわけではない。この点、内田貴教授が提唱される制度

契約の観点から検討すると、個別交渉排除原則や平等原則等の制度契約の特質は

「公的」性質及び「外部性」にあるとされたが(42)、仲裁制度には「公的」性質及び

「外部性」を見出し得る(43)。すなわち、仲裁制度は、仲裁合意を基軸とする当事

者自治を前提とするものの、仲裁判断は確定判決と同一の効力を有する公的契機を

有し当該制度の公正性や平等原則等の基本的手続権の確保が必須であるため(基本

的手続権については後記 3(b)参照。)、立法的介入として既に仲裁法が存在し強行

規定によって当該手続権が確保され(当事者間の合意によっても排除できない。)、

司法的介入としては仲裁判断取消(仲裁法 44条)等によって仲裁制度における制

度契約の特質が一定程度確保(44)されているといい得る。また仲裁法の下における

なる者を選定すること又は公正な選定の仕組みに基づき仲裁人の選定を第三者に委ねることにより公正な仲裁廷と評価したものと考えられるのに対し、否定した裁判例・判例(例えば大阪地裁平成元年 2月 2日第 22民事部中間判決判タ 717号 222頁、判時 1349号 91頁)は(実質的に)当事者の一方のみに仲裁人選定権限を与え公正な仲裁廷と評価できないものと考えている。小島ほか・前掲注 (1)91頁以下参照。小島武司=猪股孝史「仲裁契約の成否 (1)<総合判例研究>―仲裁契約の一断面―」判タ 683号 24頁以下(1989.2.15)。

(41)裁定の終局性につき仲裁合意該当性を肯定した裁判例・判例(例えば東京地判昭和 45年7月 15日判時 614号 73頁、東京地判昭和 50年 5月 29日判時 801号 59頁、名古屋地判昭和 57年 11月 19日判時 1073号 127頁)は、請負契約における仲裁の判断に終局的に服することが契約文言上からも評価しうるものであるのに対し、否定した裁判例・判例(例えば大阪高判昭和 61年 6月 20日判タ 630号 208頁)は、同様な請負契約であっても契約文言上からも仲裁判断の終局性を認定することが困難な事案である。小島ほか・前掲注 (1)93頁以下。

(42)内田・前掲注 (32)88頁以下、124頁以下。(43)この制度契約の特質は確立された機関仲裁である程顕著となる。アドホック仲裁では仲

裁法の規制はあるものの当該事案毎の個別の交渉を経た合意によって柔軟に紛争解決が図られるため「公的」性質及び「外部性」が相対的に希薄となり、それだけ制度契約の特質も見られなくなる。

(44)「一定程度」との留保が付されているのは、仲裁法は手続も含めて当事者自治に相当程度委ねているため、当事者間の合意解釈、機関仲裁であればその仲裁規則の解釈・制度運用如何によっては制度契約としての特質(平等原則等)が確保されないおそれがあるからである。司法の役割が重要となる。

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仲裁手続における証拠保存義務(栁川)

仲裁合意該当性の合意解釈においても、単に契約文言のみに捉われるのではなく、

仲裁法には民事訴訟法とは異なる多くの任意規定が存在するように仲裁制度には

もともと柔軟性もあることから(45)、合意解釈においては関係的契約論の視点か

ら、当事者間の属する社会や業界において、訴訟と遜色のない公正な仲裁制度とい

い得る紛争解決機関であるかどうか、当該当事者が「納得」するような紛争解決機

関であるかどうかとの認定も重要となろう。

次に当事者間の意思すなわち仲裁付託の意思((i)第三者(仲裁人)に紛争の解

決を委ね訴訟によらない旨の意思、及び (ii)当該第三者の判断(仲裁判断)に服す

る旨の意思)の合致の点については、公正な仲裁制度を前提とした合理的意思解釈

の問題になるものと考えられる(46)。小島教授の「制度契約における仲裁契約」に

おいても社会に実在する公正な仲裁制度を前提としつつも、当事者の当該仲裁制度

の信頼や合理的期待に焦点を当てて仲裁制度の実効化を試みられており、内在的規

範に着目する関係的契約論との共通性を見出し得る(47)。関係的契約理論では、内

(45)特に契約適応条項(取引契約時点の契約の基礎とされた事情が変化した場合に契約の同一性を変更させることなく適応させる条項として、オープン契約条項、フレキシブル契約条項、特別危険条項、不可抗力条項等がある。飯塚重男『契約的仲裁の諸問題』62頁以下(有斐閣、平 10))が存在する取引契約の場合、解釈如何によっては、契約内容の改訂をも当該仲裁に委ねていると解し得るため当該契約関係を考慮しなければならない。内田・前掲注 (8)125頁以下参照。なお、伝統的契約法理と関係的契約理論等の近時の契約法理を踏まえた契約の改訂と仲裁の問題については、吉政知広「契約の改訂と仲裁」名法 254巻 433頁以下(2014)。

(46)小島ほか・前掲注 (1)96頁以下。(47)小島武司教授は「制度契約における仲裁契約」を検討する際、最高裁昭和 55年 6月 26

日最高裁第一小法廷判決(判タ 424号 77頁以下)の中村治朗裁判官の反対意見に注目している。小島・前掲注 (13)211頁以下、小島・前掲注 (13)〔試論〕939頁以下参照。原判決の判示によると、①いわゆる四会連合協定の工事請負契約約款によることが合意され、同約款を添付した契約書に双方署名押印して契約が締結されたこと、②当該約款 29条には、この契約について紛争を生じたときは、当事者の双方は一方から相手方の承認する第三者を選んで、これに紛争の解決を依頼するか、又は建設業法による建設工事紛争審査会のあっせん又は調停に付する旨、及びこの方法によって紛争解決の見込みがないときは当該建設工事紛争審査会の仲裁に付する旨の記載があること、③上告人代表者は、契約締結前あらかじめ当該約款を通読したこと、④上告人は当該請負約款 29条と同旨の記載のある約款を使用していたこと、⑤当該約款 29条を除外する旨の表明をしなかったことを捉えて、多数意見は仲裁契約の成立を認める。これに対し、中村治朗裁判官の少数意見(反対意見)は次のようなものである。すなわち、「問題は、本件において右約款二九条に定める仲裁契約に関する合意が当事者間に成立したとする判断の当否である。思うに、民訴法の定める仲裁契約は、それが成立しているときは、その対象とさ

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法律論叢 90巻 1号

在的規範としての当該社会における共有規範に基づき解釈を行うことにより当事

者が「納得」の行く解決を導き出せるというものである。公正な仲裁制度が社会的

に実在しているのであれば、仲裁契約当事者間の関係社会(例えば当該当事者の属

する取引社会)において仲裁を選択した場合には例えば客観的範囲に係る判例・裁

判例のような類型事例では当該類型に該当する別の事案について仲裁に委ねると

の共有規範を見出すことができ、合理的意思解釈による解決も「納得」の得られる

解決となり、関係的契約理論ないしそのアナロジーによっても正当化され得る。判

例及び裁判例の分析に基づき仲裁付託の意思解釈は各種事情を総合して判断する

とも言われるが(48)、小島教授の「制度契約における仲裁契約」理論及び内田教授

の関係的契約理論をベースに次のような解釈枠組みを導き出し得るもの考えられ

る。①公正な仲裁制度を前提として(この点の判断は上記のとおり仲裁合意該当性

れている事項について当事者の一方が他方を相手方として訴を提起しても、相手方が右契約の存在をもって抗弁すれば、前記のように訴が不適法として却下されるという極めて重大な効果を生ずるものである。しかるに、わが国においては、仲裁手続に関し多年の歴史と経験を有する欧米諸国とは異なり、右制度の導入後もこれが利用された実績に乏しく、法曹人すら、紙の上の知識としてその意義と効果を知っているだけで、実際にこれについての実務上の経験をもっていない者の方がむしろ多いのではないかと思われるし、まして一般国民の間では、仲裁手続なるものの存在やその意義と効果についての知識を全くもたず、むしろ仲裁という名称からは紛争解決のためのあつせんや調停に類したものとしてこれを受けとっているというのが実情であろうと推察されるのである。」と判示のうえ、本件における宮城県建設紛争審査会が実際上はほとんど活動していない点や小規模工事を請け負っていた零細事業者であること等を踏まえると、「仲裁手続に関して十分な認識や理解を有していたとはとうてい考えられない」として多数意見に反対する。これに付加して、中村治朗裁判官は仲裁手続について「今後この制度が大いに活用されることを期待する点においては、私も人後に落ちるものではない。しかし、それが真に効果を発揮し、当事者間における正義を実現するものとして当事者を納得させるためには、紛争をこの方法によって解決する旨の当事者間における明確な合意の基礎が存在することが必要不可欠であり、それが当事者のいずれかにとって、自己の意図し、ないしは予想しなかった結果を押しつけられるというようなものであってはならないことも、当然である。」と判示される。小島武司教授は「中村裁判官の指摘される「明確な合意の基礎」がいまや当事者間に存するものと考えるに十分な客観的変化が生じているであろう」と述べられ理論展開を図るのである。小島・前掲注 (13)213頁以下、小島・前掲注(13)〔試論〕942頁以下参照。この点については、仲裁制度を普及させるため政策的配慮も込めてこのような理論展開をされているとも考えられるが、本文のとおり、より緻密に、中村治朗裁判官が指摘される当事者が「納得」するための「明確な合意の基礎」の有無については、個別の事案に応じて、公正な仲裁制度の問題である仲裁契約該当性と当事者間の内在的規範を踏まえた意思の合致の点を検討することが不可欠であると考える。

(48)小島ほか・前掲注 (1)99頁以下。

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仲裁手続における証拠保存義務(栁川)

の問題である。)、②当該当事者の属する取引社会等の内在的規範を探索し(例えば

当該業界において問題となっている類型の紛争については仲裁に委ねるとの共有

規範を見出すことができ仲裁に委ねることに「納得」が得られているかどうかを検

討する。)(49)、③仲裁に委ねるとの内在的規範を見出し得る場合においても、なお

当該当事者を仲裁に委ねるべきではない個別事情が存在するかどうか、以上のよう

に段階的枠組みによって解釈することにより、理論的にも正当化された実効的な合

意解釈がなし得るものと考えられる(50)。ここで重要な点は、公正な仲裁制度を前

(49)当該社会や業界内において仲裁に委ねるとの共有規範を見出すことは仲裁制度の実効化のための解釈に繋がる。もっとも、「納得」が得られるような実効化でなければならないことから、一方当事者が仲裁制度についての認識について類型的に欠如している場合、医療における説明義務同様に、「相手方当事者は類型的に仲裁制度の認識を欠如した当事者に対し仲裁制度の意義について説明せよ」との規範が見出され、信義則上説明義務が課されることも考えられる。このような解釈は仲裁制度の信頼を増幅し当該制度を社会に根付かせることにあると考えられるから、実質的な実効化に繋がる解釈である。この点については、当事者間の定型的な情報力・交渉力の格差を捉えて、消費者仲裁合意及び労働仲裁合意について立法的手当がなされている。すなわち、消費者仲裁合意については消費者が一方的に解除権を有し(仲裁法附則 3条 2項本文)、労働仲裁合意については当然に無効とされる(仲裁法附則 4条)。山本ほか・前掲注 (7)314頁以下。関係的契約論の議論に関連して、内田・前掲注 (8)73頁以下参照。関連裁判例として、名古屋地判平成 17年 9月 28日判タ 1205号 273頁参照(本裁判例では、建設工事紛争審査会による仲裁につき「建設工事紛争の特殊性に配慮し、建設業法に特別規定がおかれている結果、その他の消費者仲裁合意と比較すれば、事業者と消費者の力関係等が反映されにくい、換言すれば、適正かつ公平な制度が保障されている」とし、仲裁法付則 3条 2項の趣旨から仲裁合意の効果を排除すべきであるとの主張を退けている)。小島ほか・前掲注 (1)104頁。

(50)当該合意解釈の枠組みに基づいて、裁判例を分類すると、①については前掲注 (40)及び(41)参照。②について例えば建設工事関係の請負契約約款に関して紛争解決機関である審査会名が欠如ないし不備があった場合にも、仲裁契約の成立を認めた裁判例が存在する。東京地判昭和 57年 3月 5日判タ 475号 120頁(請負契約書の「建設工事紛争審査会」名欄が空欄であった事例)、名古屋地判平成 5年 1月 26日判タ 859号 251頁参照(実在しない建設工事紛争審査会が仲裁合意書に記載されていた事例)。また建設工事紛争審査会による仲裁手続が導入されて相当の年月が経過し、また注文者からの仲裁契約の抗弁であることを踏まえ、建設業者がこれまで当該仲裁手続に関する仲裁条項を含む契約書を使用していたこと等に鑑みて、仲裁合意の成立を認めた裁判例がある。東京地判平成 8年 8月 22日判タ 933号 271頁以下。その他東京高判平成 2年 10月 9日金商 863号42頁、前掲注 (49)記載の名古屋地判平成 17年 9月 28日判タ 1205号 273頁、東京地判平成 21年 3月 25日判タ 1309号 220頁以下参照。小島ほか・前掲注 (1)101頁以下。③について例えば特定の業界内で標準的な内容の契約(仲裁条項を含む。)でかつ当該内容が合理的である場合、当該契約に関する紛争は仲裁に委ねられるとの内在的規範を見出し得るはずであるが(②に関する裁判例参照)、裁判例上、仲裁条項につき当事者間の話合いがなく、当事者の仲裁に関する認識・理解が十分でなかったこと等個別事情を考慮

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法律論叢 90巻 1号

提としていること、「納得」の得られるような共有規範を的確な事実認定等により

導き出さなければならない点である。

3.仲裁手続に関する合意解釈―仲裁手続における証拠保存義務の検討を通じて―

⑴ 仲裁法における証拠調べ手続

仲裁法における証拠調べ手続に関する規定として、仲裁法 26条第 1項本文は、

仲裁手続の準則として、「仲裁廷が従うべき仲裁手続の準則は、当事者が合意によ

り定めるところによる。」とし、同条 2項は「前項の合意がないときは、仲裁廷は、

この法律の規定に反しない限り、適当と認める方法によって仲裁手続を実施するこ

とができる。」と定め、同条 3項は「第 1項の合意がない場合における仲裁廷の権限

には、証拠に関し、証拠としての許容性、取調べの必要性及びその証明力について

の判断をする権限が含まれる。」と規定する(51)。仲裁手続の準則に関する合意は仲

裁合意の任意的内容であり、当該合意が存在しなくとも仲裁合意自体は無効ではな

いと考えられているが(52)、この場合においても、その裁量は仲裁法の強行規定の

のうえ仲裁付託の意思を認定しなかった事案がある。東京地中間昭和 55年 11月 11日判時 1019号 105頁、原茂太一「判批」判評 279号 28頁以下。その他建設工事関係の請負契約約款に関して仲裁合意の成立を否定した裁判例として、東京地判昭和 57年 10月25日判タ 490号 100頁、東京高判昭和 54年 11月 26日判時 954号 39頁、東京高判平成 25年 7月 10日判タ 1394号 200頁以下参照。

(51)裁判所による証拠調べ手続として、仲裁法 35条 1項は「仲裁廷又は当事者は、民事訴訟法の規定による調査の嘱託、証人尋問、鑑定、書証(当事者が文書を提出してするものを除く。)及び検証(当事者が検証の目的を提示してするものを除く。)であって仲裁廷が必要と認めるものにつき、裁判所に対し、その実施を求める申立てをすることができる。ただし、当事者間にこれらの全部又は一部についてその実施を求める申立てをしない旨の合意がある場合は、この限りでない。」と定めている。その他証拠調べ手続に係る規定として、証拠提出の時期的制限を定める仲裁法 31条 1項後段・2項、証拠提出しない不熱心当事者がいる場合の取扱いについて定める仲裁法33条 3項、主張・証拠書類等について知る機会の確保について定める仲裁法 32条 5項、仲裁人による鑑定人の選任等について定める仲裁法 34条の規定などがある。

(52)小島ほか・前掲注 (1)91頁、107頁。

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仲裁手続における証拠保存義務(栁川)

みならず任意規定(例:審理に関するデフォルト・ルール)からも制約される(53)。

仲裁法における証拠調べ手続は訴訟上の 5種類の証拠調べ手続(証人尋問、当事

者本人尋問、鑑定、書証、検証)に限定されず柔軟に手続を実施することができ

る。当事者に合意があれば、米国のようなディスカバリー手続を仲裁手続におい

て実施することも可能である(もっとも、強制はできないとされる(54)。)(55)。仲

裁廷も文書の提出等を求めることはできるが、不提出に際して法律上の制裁を課

すことができず、この場合においても仲裁廷は当該提出を強制はできないとされ

る(56)。もっとも、法律上の制裁を課すことができないという意味で強制はできな

いとしても(民事訴訟法 224条参照)、当該不提出等を仲裁廷の心証形成の際に考

慮することは許されると考えられている(57)。

⑵ 仲裁法における証拠調べ手続における合意解釈及び裁量に対する規制原理

仲裁制度は仲裁合意に基づく私設裁判であり(58)、国家の裁判権が排除されそれ

に代替する紛争解決制度であって、仲裁廷による仲裁判断も判決と同様に基本的に

は証拠に基づき事実認定を行い法律(但し、仲裁では当事者の合意に基づき衡平と

善(仲裁法 36条 3項)に基づき判断される場合がある。)を適用し仲裁判断を下す

(53)山本ほか・前掲注 (7)346頁以下。具体的には、証拠調べに関しては、違法収集証拠の利用が公序に反する場合には当該証拠の利用はできないものと考えられる。小島ほか・前掲注 (1)349頁、三木浩一=山本和彦編『Jurist 増刊 新仲裁法の理論と実務』(有斐閣、2006.6)221–222頁参照。仲裁廷の裁量の限界としての仲裁手続における証明度についても結論は帰一しない。小島ほか・前掲注 (1)349頁以下参照。

(54)小島ほか・前掲注 (1)350頁以下。(55)飛松純一「証拠の提出」谷口安平=鈴木五十三編著『国際商事仲裁の法と実務』215頁以

下参照(2016、丸善雄松堂)。(56)小島ほか・前掲注 (1)352頁以下。(57)小島ほか・前掲注 (1)351頁、352頁、古田啓昌=大河内亮「仲裁手続における証拠収集」

JCAジャーナル 53巻 5号 3頁(2006.5)。(58)仲裁の基礎は仲裁合意であり、仲裁手続の開始・進行(仲裁法 23条 4項)、有効な仲裁

判断(仲裁法 44条 1号・2号)、仲裁判断に基づく強制執行(仲裁法 46条 8項、45条 2項 1号・2号)も有効な仲裁合意を基礎とする。仲裁の本質が私設裁判所といわれる所以である。小島ほか・前掲注 (1)53頁以下(日本評論社、2014)。さらに仲裁においては、審判者、審判手続、判断基準についても当事者の合意が支配する(仲裁法 17条、26条 1項、36条)。谷口安平「仲裁手続における手続基本権」松浦馨=青山善充編『現代仲裁法の論点』237頁以下参照(有斐閣、1998)。

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法律論叢 90巻 1号

が(59)、証拠収集手続を含む仲裁手続は民事裁判手続とは異なり当事者自治の原則

に委ねられている(仲裁法 26条 1項本文)。仲裁手続は仲裁制度の適正・公正性

に直結するものであること及び仲裁制度も確定判決と同一の効力(仲裁法 45条 1

項)を有し国家裁判権の関与(仲裁法 35条、44条等)を想定するように国家法

秩序との関係性は否定できず(60)、仲裁法が「この法律の公の秩序に関する規定に

反してはならない。」と定め当事者自治に一定の制約を課している(61)。仲裁判断

に判決と同等の効力を与え国家裁判権の代替的紛争解決手段として仲裁がその正

統性を認められるためには、谷口安平教授は、「人間理性に照らして合理的でなく

てはならない。」と述べられ(62)、小島武司教授は仲裁手続の根底には自然的正義

(Natural Justice)(63)の要請が働いているとされる。仲裁が人間理性に照らして

合理的であって、自然的正義の要請を満たすためには、適正・公正な仲裁制度の

基盤を確保するため基本権的手続権が保障されていなければならない。仲裁手続

における基本権的手続権として、仲裁法は当事者の平等な取扱い(仲裁法 25条 1

項)及び主張・立証を行うための十分な機会の保障(仲裁法 25条 2項)を規定す

る(64)。この基本権的手続権の具体的内容を当事者権として構成すると、仲裁人に

関する当事者権(仲裁人を選任する権利(仲裁法 17条)、公正な仲裁人を持つ権利

(仲裁法 18条、50条乃至 55条))、仲裁手続に関する当事者権(平等な処遇を求め

る権利(仲裁法 25条 1項)、主張・立証をする権利(仲裁法 25条 2項)、適切な代

理人によって代理される権利(旧法(65) 801条 1項 3号参照)、適切な言語による

(59)高橋宏志「仲裁における証拠調べ」松浦馨=青山善充編『現代仲裁法の論点』278頁以下参照(有斐閣、1998)、小島ほか・前掲注 (1)322頁以下。

(60)仲裁手続の位置づけとして、当事者自治の側面を強調する立場と国家法を離れて仲裁法はあり得ないとし、仲裁は国家法秩序に組み込まれているとする立場がある。道垣内正人『国際契約実務のための予防法学 準拠法・裁判管轄・仲裁条項』239頁(商事法務、2012)道垣内正人「仲裁合意」谷口ほか・前掲注 (55)83頁以下。

(61)近藤ほか・前掲注 (7)125頁以下。(62)例えば当事者が神判や盟神探湯によって結論を出すことを合意したとしても、人間理性

に照らして合理的でない方法によって結論を出すことは仲裁手続上許されないことから、そのような合意は仲裁合意ではない。谷口・前掲注 (46)238頁。

(63)小島ほか・前掲注 (1)304頁、小島・前掲注 (13)224頁。(64)小島ほか・前掲注 (1)304頁以下。(65)「公示催告手続及ビ仲裁手続ニ関スル法律(明治 23年法律第 29号〔民事訴訟法〕を平

成 8年法律第 109号〔現行民事訴訟法〕の施行に伴い題名改正)」の「第 8編仲裁手続」。

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仲裁手続における証拠保存義務(栁川)

手続への権利(仲裁法 30条)、仲裁を秘密にしておく権利(66))、仲裁判断に関す

る当事者権(法律の適用による仲裁判断を受ける権利(仲裁法 36条)、仲裁判断に

理由を要求する権利(仲裁法 39条 2項))が挙げられる(67)。仲裁手続における基

本権的手続権は、仲裁制度の適正・公正性に係るものであり、当事者の合意によっ

ても排除することはできないものと考えられ(仲裁法 26条 1項ただし書)、当該権

利侵害が生じた場合、仲裁判断の取消事由(仲裁法 44条 1項)になるものと考え

られる(68)。したがって、基本権的手続権を侵害するような合意も裁量判断も許さ

れないであろう。

⑶ 機関仲裁における仲裁合意

上記のとおり基本権的手続権を侵害するような仲裁手続に関する合意も仲裁廷に

よる裁量判断も許容されないものと考えられるが、商取引においては一般社団法人

商事仲裁協会(JCAA)のような既存の機関仲裁を利用することが多く、ここでは

証拠収集手続を含む仲裁手続について規定する仲裁規則が仲裁合意に取り込まれて

いる(69)。したがって、機関仲裁を利用する場合には仲裁規則に基本権的手続権を

侵害するような規定がない限り、当該合意自体が直ちに当該手続権を侵害するよう

な事態は想定し得ない(後述のとおり仲裁制度の柔軟性の観点から合意解釈や仲裁

廷の裁量の余地が相当程度存在するため基本権的手続権について十分な配慮が必

要となる)。本稿では仲裁地が日本国内にある仲裁手続における証拠収集手続にお

いて実際の使用頻度が高いと考えられる社団法人日本商事仲裁協会商事仲裁規則

(以下「JCAA商事仲裁規則」という。)、国際商業会議所仲裁規則(以下「ICC仲

裁規則」という。)及び国際法曹協会(IBA)(70)の「IBA国際仲裁証拠調べ規則」

(“IBA Rules on the Taking of Evidence in International Arbitration”)(以下

(66)小島ほか・前掲注 (1)329頁参照。(67)谷口・前掲注 (58)240頁以下。谷口教授は、仲裁判断に関する当事者権として少数意見の

開示を求める権利を挙げられるが、この点については谷口安平「仲裁判断における少数意見について」論叢 138巻 1・2・3号 52頁以下、小島ほか・前掲注 (1)415頁以下参照。

(68)山本ほか・前掲注 (7)346頁。(69)山本ほか・前掲注 (7)320頁以下、三木ほか・前掲注 (53)220頁〔山本和彦発言〕参照。(70) International Bar Association(略称は IBA、日本語訳としては国際法曹協会。)は、各国

の弁護士会及び個人の弁護士が任意に加入する、世界最大規模の国際法曹団体である。日本弁護士連合会も IBAに加盟している。日本弁護士連合会ウェッブページ(http://www.nichibenren.or.jp/activity/international/interchange/iba.html)参照。

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法律論叢 90巻 1号

「IBA証拠規則」(71)という。)を中心に検討する(72)。各仲裁機関における仲裁規

則を取り込む仲裁合意の推薦仲裁条項は以下のとおりである。

① 一般社団法人商事仲裁協会(JCAA)の推薦仲裁条項

「この契約から又はこの契約に関連して、当事者の間に生ずることがあるすべ

ての紛争、論争又は意見の相違は、一般社団法人日本商事仲裁協会の商事仲

裁規則に従って、(都市名)において仲裁により最終的に解決されるものとす

る。」(73)

②  International Chamber of Commerce(ICC)の推薦仲裁条項“All disputes arising out of or in connection with the present

contract shall be finally settled under the Rules of Arbitration of

the International Chamber of Commerce by one or more arbitrators

appointed in accordance with the said Rules.”(74)

なお、IBA国際仲裁条項ドラフティング・ガイドライン II.11において、機関

仲裁用の仲裁条項については、当該仲裁機関のウェブサイトにアクセスし、当

(71) IBA証拠規則の概要について、手塚裕之「新 IBA国際仲裁証拠調べ規則について」JCAジャーナル 58巻 1号 6頁以下(2011.1)。IBA証拠規則については、JCAA商事仲裁規則 50条に関するコメンタールにおいて、IBA証拠規則による旨の合意がある場合にはJCAA商事仲裁規則第 3条 2項により仲裁廷がそれに同意することを条件として適用される旨記載されている。一般社団法人日本商事仲裁協会(JCAA)『コンメンタール商事仲裁規則』(2014.3)75頁。

(72)古田・前掲注 (57)2頁以下参照(2006.5)。(73) JCAAのウェッブページ(http://www.jcaa.or.jp/arbitration/clause.html)に当該英文

の記載がある。英文の推薦条項は以下のとおりである。“All disputes, controversiesor differences which may arise between the parties hereto, out of or in relationto or in connection with this Agreement shall be finally settled by arbitration in(name of city), in accordance with the Commercial Arbitration Rules of The JapanCommercial Arbitration Association.”

(74)日本語訳としては、「本契約から発生する、又は本契約に関連する全ての紛争は国際商業会議所(the International Chamber of Commerce)の仲裁規則の下で当該規則に従って任命された一人又は複数の仲裁人によって最終的に解決される。」となる。ICCのウェッブページ(https://iccwbo.org/dispute-resolution-services/arbitration/arbitration-clause/)参照。

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仲裁手続における証拠保存義務(栁川)

該機関が提唱するモデル条項を使用することを推奨している(75)。

仲裁制度は柔軟性を特徴とし、上記のような仲裁合意に取り込まれた仲裁規則に

おいて、仲裁手続に必要な全ての事項を規定していないため仲裁手続に関する合意

解釈によって解決しなければならない問題が生じる。そこで、まず仲裁合意に取り

込まれた仲裁規則における証拠調べ手続について検討する。

⑷ 機関仲裁の仲裁規則における証拠収集手続

機関仲裁においては証拠調べ手続を含む仲裁規則が仲裁合意に取り込まれるた

め、仲裁規則を通じて仲裁手続に関する合意もなされる。仲裁規則に基づく証拠調

べ手続は当事者間の合意に基づくことになる。ICC仲裁規則、JCAA商事仲裁規

則、IBA仲裁規則が想定する証拠調べ手続について概観する。(a) JCAA商事仲裁規則

JCAA商事仲裁規則における証拠収集手段について概観すると、JCAA商

事仲裁規則 50条(76)は、当事者の立証責任(同条 1項)、職権証拠調べ(同条2項)、審問期日外の証拠調べ及び文書提出命令(同条 3項及び 4項)につい

て定める。その他証拠不提出による不利益は第 48条 2項に規定があり、仲裁

人による鑑定人の選任について第 51条に規定がある。当事者尋問、相手方当

(75) See IBA Guidelines for Drafting International Arbitration Clauses (Japanese),available athttp://www.ibanet.org/LPD/Dispute Resolution Section/Arbitration/Projects.aspx#drafting

(76) JCAA商事仲裁規則 50条は以下のとおりである。第 50条(証拠)1 当事者は、その請求または防御の根拠となる事実を立証する責任を負う。2 仲裁廷は、必要があると認めるときは、職権により、当事者から申し出がない証拠を取り調べることができる。

3 証拠調べは、審問期日外においても行うことができる。この場合においては、当事者に対し、当該証拠について口頭または書面により意見を述べる機会を与えなければならない。

4 仲裁廷は、当事者の書面による申立てまたは職権により、一方の当事者の所持する文書の取調べの必要があると認めるときは、その当事者の意見を聴いた上で、提出を拒む正当な理由があると仲裁廷が認める場合を除き、その提出を命じることができる。

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法律論叢 90巻 1号

事者支配下の証人証拠調べ及び検証について規定は存在しないが、当該仲裁

手続においてそれらを実施することは問題ないものと考えられる(77)。JCAA

商事仲裁規則には規定がないが仲裁廷として第三者からの証拠収集手続とし

て調査嘱託、文書送付嘱託、文書提出命令が考えられるが、いずれの手段にお

いても第三者に制裁が課せられないためその実効性には限界がある(78)。

証拠収集手段として重要な文書提出命令について規定は存在するが、その文

書提出義務について一般的に定めた規定はなく、JCAA商事仲裁規則 50条 3

項が文書提出命令の拒絶事由として「提出を拒む正当な理由」と規定するだけ

でその他特に具体的事由を列挙していない。不提出の効果についても規定は

ない。もっとも、JCAA商事仲裁規則 50条に関するコメンタールにおいて、

「提出を拒む正当な理由」について IBA証拠規則 9.2条で規定される正当事由

が解釈上参考になるとし、文書提出命令に従わない場合には不提出の事実から

仲裁廷において当該当事者に不利な心証を形成することがありうる旨のコメ

ントがなされている(79)。後述の IBA証拠規則 9.5条のような不利益推認の

規定はないが仲裁廷においも原則として自由心証主義(仲裁法 26条 3項)の

もと事実認定が行われることを前提とすれば(80)当該不提出による不利益推認

を許容してもよいだろう(81)。JCAA商事仲裁規則においては電子保存証拠

(electronic stored information)の取扱いや証拠保存義務の規定は存在しな

い。(b)  ICC仲裁規則

2012年 1月 1日から施行された ICC仲裁規則(82)は 2017年に改正され同

年 3月 1日より施行されている。最も重要な改正点は係争額が 200万ドルを

超えない場合にオプトアウト形式で導入される簡易手続(軽減された報酬基準

を伴う合理化された仲裁手続)である(ICC仲裁規則 30条及び付属規定VI

(77)古田ほか・前掲注 (57)4頁以下。(78)古田ほか・前掲注 (57)6頁。(79) JCAA・前掲注 (71)74頁。(80)小島ほか・前掲注 (1)348頁、三木ほか・前掲注 (53)213頁〔近藤発言〕、山田ほか・前掲

注 (7)321頁、高橋・前掲注 (59)278頁。(81)古田ほか・前掲注 (57)3頁。(82) https://cdn.iccwbo.org/content/uploads/sites/3/2017/01/ICC-2017-Arbitration-and-

2014-Mediation-Rules-English-version.pdf

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仲裁手続における証拠保存義務(栁川)

参照)。ICC仲裁規則における証拠収集手段について概観すると、仲裁手続の

柔軟性を促進するために基本的に証拠収集手続の枠組みを規定するのみで詳

細な規定は避けており、証拠調べ手続に係る重要な規定としては ICC仲裁規

則 19条、22条及び 25条程度であり仲裁廷に広い裁量が認められている(83)。ICC仲裁規則 25条 5項は「仲裁中いつでも、仲裁廷は、当事者に追加的な証

拠の提出を求めることができる。」と規定し当該規定により実務上仲裁廷の文

書開示権限が認められていると解され、仲裁廷は当事者に対し文書の提出を求

めることができる(84)。仲裁廷による鑑定は ICC仲裁規則 25条 4項に規定が

あり、JCAA商事仲裁規則と同様に、当事者尋問、相手方当事者支配下の証人

証拠調べ及び検証について規定は存在しないが、当該仲裁手続においてそれら

を実施することは問題ないものと考えられる(85)。ICC仲裁規則にも規定は

ないが仲裁廷として第三者からの証拠収集手続として調査嘱託、文書送付嘱

託、文書提出命令が考えられるが、いずれの手段においても第三者に制裁が課

せられないためその実効性には限界がある(86)。ICC仲裁規則 25条 5項の下において仲裁廷の文書開示権限は認められるが、

文書提出義務に関する規定はなく、不提出の効果についても規定が存在しな

い。JCAA商事仲裁規則同様に当該不提出による不利益推認は許容されるも

のと考えられる(87)。JCAA商事仲裁規則と同様に ICC仲裁規則においても

電子保存証拠(electronic stored information)の取扱いや証拠保存義務の規

定は存在しない。(c)  IBA証拠規則

IBA証拠規則は一般的な拘束力は有せず、当事者の合意によって規則とし

てその全部又は一部が利用されることもあれば、ガイドライン的に手続の指針

(83) See International Chamber of Commerce, ICC Commission Report Managing E-document Production (2012) at 4、小田博「ICC仲裁規則の 2012年改正」ジュリ 1435号(2011.12.15)92頁以下。

(84)古田ほか・前掲注 (57)2頁以下、栗田哲郎編『アジア国際商事仲裁の実務』312頁(Lexis Nexis、平 26)、See also W. Craig et al, International Chamber of Commerce Arbitration(Ocean Publications 3ed 2000) at 449–500.

(85)古田ほか・前掲注 (57)4頁以下。(86)古田ほか・前掲注 (57)6頁。(87)古田ほか・前掲注 (57)3頁。

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法律論叢 90巻 1号

として利用することもできる(88)。IBA証拠規則は国際商事仲裁の実務を踏

まえ大陸法的な証拠ルールとコモン・ロー的な証拠ルールとの調和を図って

作成されたものといい得る(89)。米国ディスカバリー手続のような広範な証拠

開示を要求せず、「関連性」及び「重要性」の要件を満たす「特定」の文書の

提出を認めることを基本原則(IBA証拠規則 3条 3項参照)とする(90)。IBA

証拠規則 3条 2項は、「いかなる当事者も、仲裁廷が定めた期間内に、仲裁廷

及び他の当事者の双方に対し、文書提出要求を提出(submit)することがで

きる。」(91)と規定し、異議事由は 9条 2項に限定的に列挙されており、IBA証

拠規則上、文書提出義務が認められていると解し得る(92)。仲裁廷は異議に対

する判断を求められた場合、他の当事者と協議の上「関連性」及び「重要性」、

「異議事由」の有無、3条 3項規定の要件充足の有無を判断し、要件を満たし

ているとき証拠の提出を命ずることができる(IBA仲裁規則 3条 7項)。この

ように文書提出義務の存否の判断に関する手続について規定がある。文書不

提出の効果について、IBA証拠規則 9条 5項は「当事者が、文書提出要求に関

し、適時に異議を申し立てず、かつ十分な説明をしないで求められた文書を提

出しなかったとき、又は仲裁廷が提出を命じた文書を提出しなかったときは、

仲裁廷は、当該文書が当該当事者にとって不利益なものである(adverse to

the interest of that party)と推認することができる。」と規定し文書不提出

の効果として不利益推認について定める。その他の関連証拠(証言を含む。)

の提出要求や命令に従わなかった場合についても同様に不利益推認の規定があ

る(IBA証拠規則 9条 6項)。IBA証拠規則は上記の文書提出命令の他、当事

者の証拠調べ(証人として証言)(IBA証拠規則 4条 2項)、事実証人に関する

証拠調べ手続(IBA証拠規則 4条 1項、9項及び 10項)、当事者選定又は仲裁

(88)飛松・前掲注 (55)218頁。(89)飛松・前掲注 (55)218頁以下、手塚・前掲注 (71)6頁以下。(90)手塚・前掲注 (71)8頁以下。なお、2015年改正米国連邦民事訴訟規則においても、比例(均衡)性(proportionality)を踏まえた改正がなされている(規則 26条 (b)(2)(C)等参照)。拙稿・前掲注 (4)〔電子保存情報の証拠保存義務〕205頁以下参照。

(91)社団法人日本仲裁協会による日本語訳(2010年 9月 17日)「IBA国際仲裁証拠調べ規則」。IBAウェッブページより入手可能である。See IBA Rules on the Taking Evidence inInternational Arbitration (2010), available at http://www.ibanet.org/LPD/DisputeResolution Section/Arbitration/Projects.aspx#ArbitrationRules

(92)古田ほか・前掲注 (57)2頁以下。

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仲裁手続における証拠保存義務(栁川)

廷選定専門家証人の証拠調べ手続(IBA証拠規則 5条及び 6条)、検証(IBA

証拠規則 7条)について規定する(93)。IBA証拠規則は、JCAA商事仲裁規則における仲裁手続においても、当事者

が証拠調べを IBA証拠規則による旨の合意をした場合には仲裁廷の同意を条件

として当該合意が仲裁手続に適用される(JCAA商事仲裁規則 3条 2項)(94)。

国際商事仲裁においては、その約 60パーセントが IBA証拠規則に基づくか参

照により仲裁手続を行っているとの調査結果もある(95)。(d) 仲裁規則における電子保存情報及び証拠保存義務

JCAA商事仲裁規則及び ICC仲裁規則には電子保存証拠(electronic stored

information)の取扱いや証拠保存義務の規定は存在しない。ICC仲裁規則に

関連して国際仲裁における電子文書の提出に係る仲裁及びADRタスクフォー

スに関する ICCコミッションの報告書として「ICCコミッション報告書 E-ド

キュメント提出マネイジング」(“ICC COMMISSION REPORT MANAGING

E-DOCUMENT PRODUCTION”)(以下「ICC電子文書報告書」という。)

が発行されている(96)。ICC電子文書報告書では、ICC仲裁規則では文書及

び電子文書の相手方に対する一般的開示義務はないこと、当該文書を相手方に

対し要求する自動的な権利もないこと、文書、電子文書、その他の証拠の保存

義務もないこと、これらは国際仲裁の一般的実務を反映したものである旨説

明されている(97)。これに対し IBA証拠規則の「文書」の定義には電子文書

を含むため、上記 (c)における文書に係る証拠調べ手続は電子文書にも適用さ

(93) IBA証拠規則のその他の特徴は以下のとおりである。証拠調べ手続における信義誠実原則が明記されていること(IBA証拠規則前文 3項)、証拠調べ手続における早期協議の義務付け(IBA証拠規則 2条)、秘密保持義務(IBA証拠規則 3条 13項)、秘匿特権(IBA証拠規則 9条 2項 (b)、3項)等である。手塚・前掲注 (71)6頁以下参照。

(94) JCAA・前掲注 (71)75頁。(95) See Queen Mary School of International Arbitration and White & Case LLP,

International Arbitration Survey: Current and Preferred Practices in the ArbitralProcess 2012, .available athttp://www.arbitration.qmul.ac.uk/docs/164483.pdf#search=%272012+international+arbitration+survey%27

(96) See International Chamber of Commerce (ICC), ICC Commission Report ManagingE-Document Production, available at https://iccwbo.org/publication/icc-arbitration-commission-report-on-managing-e-document-production/

(97) See ICC, supra note 96 at page 4.

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法律論叢 90巻 1号

れる。また IBA証拠規則には電子文書を想定した規定(例えば IBA証拠規則3条 3項 (a))も存在する。IBA証拠規則にも ICC仲裁規則同様に証拠保存義

務の規定は存在しない。

⑸ 証拠収集手続に関するガイドライン及びプロトコル(98)

IBA証拠規則には電子文書も含む文書定義規定が存在し電子文書証拠にも当該

規則が適用されるものの、同規則、JCAA商事仲裁規則、ICC仲裁規則いずれも

証拠保存義務の規定は存在しない。国際仲裁において、米国連邦民事訴訟規則の下

における訴訟手続とは異なり申立前の証拠保存義務は一般的に認められないと解

されている(99)。しかし、一般的に証拠保存義務が認められないとしても、故意に

よる証明妨害まで否定するものではなく(100)、証拠不提出による不利益推認は許

容されていることから(IBA証拠規則 9.5条)、証拠保存義務(開示対象証拠の問

題として議論されることもある。)の発生時点、要件、範囲等について一定の基準

やガイドラインの存在は当該不利益推認における重要な考慮指針となる。特に大

陸法とコモン・ロー法を起源とする国々では証拠調べ手続の取扱いが異なるため、

仲裁手続の公正性(fairness)及び透明性(transparency)の確保が不可欠であ

り、ガイドラインがその基礎となる。電子保存証拠に関して、①仲裁手続開始時

点、②証拠開示範囲決定時点、③証拠廃棄の有無及び当該証拠の重要性に関する決

定時点、④証拠破棄認定後の制裁決定時点につき考慮すべき事項に指針が必要であ

る旨の指摘がなされている(101)。

(98)電子保存証拠に関する各種ガイドラインの概要について、金子宏直「仲裁手続における電子的証拠への対応」『仲裁とADR』(仲裁ADR法学会編、2013)第 8巻 141頁。

(99) See ICC, supra note 96 at 4. 著名な実務家の論考には、一般論として仲裁が予期された又は予期すべき場合には潜在的な関連証拠を保存すること、又は少なくとも故意に潜在的な関連証拠を破棄してはならないという信義則上の努力義務については争いがないと思われる旨の記述がある。See Robert H Smit and Tyler B Robinson, E-Disclosure inInternational Arbitration, 24(1) Arbitration International 127 (2008). これに対しては多くの反論があり、故意による証拠破棄は別としても一般的な仲裁申立前の証拠保存義務については、各仲裁規則やガイドラインを踏まえれば、一般的見解と言うことは困難と思われる。See e.g., Steven A Hammond, Spoliation in international Arbitration:Is it Time to Reconsider the ‘Dirty Wars’ of the International Arbitral Process 3Disp. Resol. Int’l 12, 24 (2009).

(100) See e.g., Hammond supra note 99 at 10.(101) Id. at 20.

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仲裁手続における証拠保存義務(栁川)

例えば、①につき、英国のNPO組織CIArbの「仲裁手続におけるEディス

クロージャーに関するCIArbプロトコル」“CIArb Protocol for E-Disclosure in

Arbitration”(102)(以下「CIArbプロトコル」という。)1項において電子保存書

面の保存と開示に関する早期の会議開催、2項において仲裁廷による電子開示(E

ディスクロージャー)の有無の早期確認を求めている。このような早期会議及び確

認により、証拠破棄や不開示における不利益推認において検討すべき考量事項の明

確な指針となり手続保障を確保し得るし、何よりも証拠破棄を未然に防止する機

会を与え得る旨の指摘がなされている(103)。米国の仲裁機関CPRの「商事仲裁に

おける文書の開示と証人の出廷に関するプロトコル」(Protocol on Disclosure of

Documents and Presentation of Witness in Commercial Arbitration)(104)に

おいても、異なる国籍の当事者間の紛争を想定して予測可能性(predictability)

を確保するためにガイドラインを設けており、セクション 1. (d)(3)「電子情報の保

存」として、早期のスケジューリング会議等において証拠保存義務に関する争点を

取り扱うよう規定されている。

②につき、CIArbプロトコル 6項は電子開示(e-disclosure)命令等の際には、

合理性(reasonableness)及び比例性(proportionality)、当事者の取扱いの公正

及び公平、双方当事者に対する当該事件に関する主張立証する合理的機会の付与を

費用等とともに考慮し、当該紛争額及び性質、開示対象文書の関連性及び重要性の

(102) See CIArb Protocol for E-Disclosure in Arbitration, available athttps://www.ciarb.org/docs/default-source/practice-guidelines-protocols-and-rules/international-arbitration-protocols/e-iscolusureinarbitration.pdf?sfvrsn=8

(103) See Hammond, supra note 99 page at 20. See also Smit and Robinson, supra note99 at 130. この点につき、仲裁廷が構成されたことを知らせる短いイニシャルレターを当事者に送付する際、CIArbプロトコルとともに、UNCITRAL Notes on OrganizingArbitral Proceedings、IBA証拠規則又はその双方を参考にすることを推奨する旨を当該レターに加えることによって、後日の電子保存証拠の問題を回避し得るとの指摘もなされている。See Hammond, supra note 99 at 22. See also UNCITRAL Notes onOrganizing Arbitral Proceedings, available athttps://www.uncitral.org/pdf/english/texts/arbitration/arb-notes/arb-notes-e.pdf#search=%27UNCITRAL+NOTES+on+Organization+Arbitral+Proceedings%27.

(104) See Protocol on Disclosure of Documents and Presentation of Witness inCommercial Arbitration , available athttps://www.cpradr.org/resource-center/protocols-guidelines/protocol-on-disclosure-of-documents-presentation-of-witnesses-in-commercial-arbitration/ res/id=Attachments/index=0/CPR-Protocol-on-Disclosure-of-Documents-and-Witnesses.pdf

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法律論叢 90巻 1号

程度が考慮事項として挙げられている。3項の早期の会議において検討すべき事項

にも関連事項が挙げられており早期の会議にて対応しておくことにより開示命令

等がより容易になされ得るものと考えられる。この点について特に電子保存証拠

では考慮事項につき専門性が要求されるため透明性確保のために専門家による仲

裁廷の補助等が検討事項として指摘されている(105)。

③及び④につき、不利益推認を検討する場合の当事者への手続保障の確保が重要

となる(106)。

なお、多国籍の代理人が関与する国際仲裁では各国の弁護士の職業倫理規程の相

違及び多様性から適用されるべき規程の不明確さ及び各倫理規程の衝突が生じ得る。

そのような問題を回避し公正(fairness)かつ高潔(integrity)な仲裁制度を確立

するため、IBAは「国際仲裁における当事者の代理に関する IBAガイドライン」“IBA Guidelines on Party Presentation in International Arbitration”(107)(以

下「IBA当事者代理ガイドライン」という。)を作成している。証拠保存義務につ

いて、IBA当事者代理ガイドラインは「当該仲裁手続が文書開示に関係する、又は

関係し得る場合、当事者代理人は依頼者に対し、合理的可能な範囲において、当該

仲裁手続に関係し得るものであって、文書保存規則又は通常の業務過程に従えば

削除され得る文書(電子文書を含む。)を保存する必要があることを告げなければ

ならない。」(12条)(108)と規定する。IBA当事者代理ガイドライン 12条の注釈に

は、IBA証拠規則第 3条は当該事件(the case)及びその結果の重大性に係る文書

の提出を要求しているのに対し、当該ガイドライン 12条が潜在的な関係文書のみ

(105) See Hammond, supra note 99 at 25.(106) Id. at 26–30.(107) See IBA Guidelines on Party Presentation in International Arbitration, available

athttp://www.ibanet.org/LPD/Dispute Resolution Section/Arbitration/Default.aspx

(108) See IBA Guidelines on Party Presentation in International Arbitration art.12. 原文は以下の通りである。12 . When the arbitral proceedings involve or are likely to involve Document

production, a Party Representative should inform the Client of the needto preserve, so far as reasonably possible, Documents, including electronicDocuments that would otherwise be deleted in accordance with a Documentretention policy or in the ordinary course of business, which are potentiallyrelevant to the arbitration.

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仲裁手続における証拠保存義務(栁川)

に言及しているのは、当事者代理人がアドバイスする際には、当該文書の重大性に

ついて評価しうる段階にないのが通常であるためであるとする。このガイドライ

ンのコメントから少なくとも当該文書保存に関するアドバイスをすべき時期は、当

該証拠規則が想定する文書提出以前の段階である。IBA当事者代理ガイドライン

は、当事者が当該ガイドラインに合意することによって適用されるものであるこ

と、これまで概観した仲裁規則及び各種ガイドラインの状況に鑑みれば、当事者の

合意が存在しないにもかかわらず IBA当事者代理ガイドラインを考慮して仲裁廷

による不利益推認に繋がり得るような証拠保存義務を仲裁申立以前に認めること

は現状では難しいものと思われる(109)。

⑹ 仲裁規則における合意解釈枠組み及びそれに基づく証拠保存義務

機関仲裁を利用する場合には、仲裁手続について定める仲裁規則を受け入れるか

どうかであって(110)、仲裁制度の柔軟性により仲裁規則自体に合意による修正や

補充が予定されていることがあるものの、それ以外には基本的には利用者毎の個別

交渉によって仲裁規則の変更を予定していないものと考えられる。この場合、仲裁

手続における当事者自治とその制約の関係を理論的にどのように説明できるであ

(109) IBA当事者代理ガイドラインに対しては、自明の事柄に対する規定又は当該ガイドライン 12条のように IBA証拠規則よりも当事者の義務を拡大するような問題の規定もあり、国際仲裁における当事者代理に関する適用規定の不明確さは当該ガイドラインによって解消されるどころか混乱を招きかねず、当該ガイドラインは適用されるべきではないとの厳しい批判もある。Schneider, Michael E., Yet another opportunity to waste timeand money on procedural skirmishes: IBA Guidelines on Party Representation,31 ASA Bull.497 (2013)。弘中聡浩弁護士は文書が廃棄されることがないようにしなければならないというハード又はソフトロー上の義務は日本では存在しないと理解され、上記の Schneider弁護士の批判にも賛同されている。三木浩一ほか「シンポジウム仲裁関係者の行為規範と適正行為―裁判外紛争解決におけるソフトローの意義」仲裁ADR法学会『仲裁とADR』12巻 87頁以下〔弘中聡浩報告〕(商事法務、2017)。

(110) 仲裁合意後に仲裁規則が改正された場合に仲裁時の仲裁規則、仲裁合意時の仲裁規則いずれの仲裁規則が適用されるべきかという争点がある。当事者の意思解釈の問題として、仲裁時の仲裁規則に従うと解するのが当事者の合理的期待に適う等の指摘がなされている。三木ほか・前掲注 (53)220頁参照〔小島武司発言、中村達也発言〕、小島・前掲注 (39)221頁参照。この点については、制度契約の観点から仲裁機関によっては旧規定の条項の性質によってその全部又は一部の適用については個別交渉に馴染まないとする考察も可能と思われるが、ICC仲裁規則のように、旧規定の適用の余地(ICC仲裁規則 6条 1項)を予め認めている場合もある。三木ほか・前掲注 (53)220頁参照〔中村達也発言〕。

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法律論叢 90巻 1号

ろうか。証拠調べ手続に関する仲裁手続の合意は仲裁制度の公正性に関する問題

といい得るから、内田教授の制度契約論及び関係的契約論の観点から把握し得る。

機関仲裁においては裁判に代わる仲裁制度という公的性質を有するサービスの提

供と捉えられ、他の利用者との公平や制度に対する信頼の観点から、画一性及び統

一性を有するという制度契約の性質に理論的な正当性を求めることができるので

はないかと考えられる(111)。個別交渉が一定程度排除される代わりに、不当な利

用拒絶も許されず、仲裁法によって機関仲裁の仲裁制度としての公正性や公平性が

確保される(例えば手続的基本権を侵害する仲裁規則は認められない等)。

もっとも、①仲裁規則には仲裁制度の柔軟性から予め当事者間の合意による修正

や補充が予定されている又はそのように解される場合も多く、その場合には仲裁手

続中の当事者の合意及びその解釈によって対処、②当事者間の合意が無く仲裁廷に

裁量が与えられている場合には、裁量によって対処、③訴訟と遜色のない公正な仲

裁制度といい得る紛争解決機関であるかどうか、当該当事者が「納得」するような

紛争解決機関であるかどうかという点に配慮しながら①の合意解釈及び②の裁量

において、関係的契約論の視点から、当事者間の属する取引社会等における内在的

規範を探索することによって、当該当事者が「納得」する公正な仲裁手続を構築す

る、以上のような解釈が内田教授の関係的契約論及び制度契約論を背景とした「制

度契約としての仲裁契約」理論を踏まえて導き得るものと考えられる。

以上のような解釈枠組みによって、機関仲裁における証拠調べ手続の現状を踏ま

えて、証拠保存義務について検討する。これまで検討したように、①主要な仲裁規

則には証拠保存義務を定めた規定はない(当事者間の個別の合意に基づく証拠保存

義務も排除していない。)。そのため仲裁規則を取り込んだ仲裁合意に基づいて当

該規則自体の文言解釈によって(特に申立前の)証拠保存義務を認めることは難し

いものと思われる。もっとも、上記 (e)のガイドラインのとおり、仲裁申立後に、

当事者間にて証拠保存義務の範囲等を合意すれば、当該合意に基づく証拠保存義務

は当然認められよう。②仲裁廷も自由心証主義に基づいて事実認定を行うことが

(111) 山本和彦教授は民事訴訟手続において契約的処理を導入するため審理契約論を提唱される。山本和彦『民事訴訟審理構造論』337頁以下(信山社、1995)。仲裁合意に理論的基礎を置く仲裁手続ではもともと契約的処理に馴染むため訴訟手続よりも柔軟に審理に関する合意による対応が可能であるが、機関仲裁の場合には公的性質が生ずるため柔軟性を維持しつつも、統一的・画一的処理の要請が生じることになろう。

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明治大学 法律論叢 90巻 1号:責了 book.tex page177 2017/07/24 19:04

仲裁手続における証拠保存義務(栁川)

でき(仲裁法 26条 3項参照)、文書提出命令違反等を考慮し不利益推認も許容され

る。しかし、証拠保存義務及びその違反を認めるためには、証拠保存義務の発生根

拠が認められなければならないことから、仲裁廷の裸の裁量にて証拠保存義務を認

めることはできない。そこで③仲裁申立前であっても一定の状況の下では証拠保

存義務を認める内在的規範が存在する場合には合理的意思解釈によって証拠保存

義務を認めること、あるいは証拠保存義務違反を踏まえた仲裁廷による事実認定も

可能であると考えられる。しかし、これまで概観した仲裁規則やガイドラインにお

いても仲裁申立前の証拠保存義務を想定しておらず、むしろガイドライン等におい

て証拠保存義務の範囲等につき仲裁申立後の速やかな協議に委ねている現状に鑑

みると、仲裁申立前の一般的な証拠保存義務を認めるような内在的規範を見出すこ

とは難しいと思われる。したがって、現状では、仲裁手続に関する合意の合理的意

思解釈による一般的な(仲裁申立前の)証拠保存義務を認めることも当該証拠保存

義務違反を踏まえた事実認定も困難であろう。もっとも、商取引契約間において、

実体法上も証拠保存義務が認められるような事案(112)や悪意による証明妨害に該

当する事案(113)においては、合意解釈又は信義則(114)に基づき申立前であっても

証拠保存義務を認めることは可能であるものと考えられる。

⑺ 民事訴訟手続における証拠保存義務との理論的整合性

現行民事訴訟法において証拠保存義務に関して直接規定する条文は存在しない

が、筆者は訴訟上の信義則及び真実発見協力義務に基づき当事者の関連証拠に関す

る相当程度の認識を前提として訴訟物に関連する事実を立証するため合理的に必

要とされる証拠については訴え提起前であっても当事者に証拠保存義務が課され

るとし、当該義務違反が認められる場合には証明妨害の一般法理に基づく効果と実

定法上の効果に基づく制裁が課せられるとの見解を示している(115)。一方で上記

(112) 例えば、仲裁条項のある株式譲渡契約において 1年間の期間限定の表明保証規定が存在する場合、当該期間内に発生した紛争を仲裁で解決するときには、仲裁申立前であっても関連証拠を破棄してはならないという契約上又は実体法上の義務を見出すことは可能であろう。

(113) 拙稿・前掲注 (4)〔民事訴訟手続における証拠保存義務〕82頁以下参照。(114) 当事者の合意に基づく仲裁手続においても信義則に基づく誠実手続追行責務は観念し得

るとされる。山本ほか・前掲注 (7)320頁以下。(115) 拙稿・前掲注 (4)〔民事訴訟手続における証拠保存義務〕68頁以下参照。

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法律論叢 90巻 1号

のとおり仲裁手続における証拠保存義務については、当事者間の属する取引社会等

における内在的規範として(仲裁申立前の)証拠保存義務を見出し得ない場合に

は、両当事者が当該証拠保存義務について明確な合意をしていない限り、一般的に

は同様の証拠保存義務は当事者に対し課すことは妥当ではないものと考えられる。

この結論に対し理論的整合性が問われた場合、訴訟上の証拠保存義務は真実発見

協力義務を背景とした訴訟上の信義則が根拠であり、これに対し仲裁手続は仲裁

合意を基盤とする仲裁制度であることから理論的基礎が異なり、仲裁手続におい

ては当事者の合意により証拠方法の限定、証明責任の負担の取決め、心証形成の

基準の設定等を行うこともできると解され(116)当事者間の合意によって当該限度

での真実に基づく判断がなされ得ることからしても理論的整合性は図られている。

もっとも、訴え提起前の訴訟上の証拠保存義務が社会に浸透すると内在的規範に反

映(117)されることから訴訟上の証拠保存義務と仲裁手続上の証拠保存義務は関連

性があり、裁判例上、証拠保存義務違反に基づく証明妨害として制裁が課された事

案と同種事案(少なくとも悪意の証明妨害に該当する事案)においては、証拠保存

義務が認められ事実上の推定の下に制裁が課され得る余地がある。

4.総括

本稿では仲裁手続における証拠保存義務、特に国際仲裁においてその対応が問題

となる電子保存情報(electronically stored information)の証拠保存義務という

課題を念頭に置いて仲裁手続の存立基盤であり理論的基礎である仲裁合意解釈の

理論的枠組みの検討を試みた。仲裁合意に関する先駆的業績である小島武司教授

の「制度契約としての仲裁契約」を内田貴教授の関係的契約論及び制度契約論に基

づき分析することにより、仲裁付託の意思及び証拠調べ手続を含む仲裁手続の合意

双方に跨る仲裁合意解釈の方法論を導き出し、そのような合意解釈方法が本稿の課

(116) 小島ほか・前掲注 (1)348頁、小島ほか・前掲注 (39)134頁〔上田徹一郎〕、高橋・前掲注 (59)278頁参照。

(117) 仲裁の訴訟化には留意する必要がある。小島ほか・前掲注 (1)303頁以下、小島・前掲注 (39)202頁、谷口安平「国際商事仲裁の訴訟化と国際化」論叢 140巻 5・6号 1頁以下参照。

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仲裁手続における証拠保存義務(栁川)

題だけではなく他の未知の問題に対する指針となるものと考える。

小島武司教授の「制度契約としての仲裁契約」理論は訴訟とのイコールパート

ナーとして位置づけられる公正な仲裁制度を前提として当該制度の理論的基礎で

ある仲裁合意(仲裁契約)の合理的意思解釈を通じて仲裁制度の実効化を図る。こ

れに対して内田貴教授の関係的契約理論及び制度契約論は「契約自由の原則」や

「私的自治の原則」が支配する近代契約法の伝統的契約モデルでは克服できない課

題を克服するものである。関係的契約理論では契約プロセスを動態的に把握し当

事者間において共有されている内在的規範を見出し法解釈によって法原理として

構成された規範によって「納得」行く解決が導き出される。関係的契約理論におけ

る内在的規範は当事者の意思を補充するものであることから、個別の当事者の意思

が契約内容を規定する場面を前提とする(118)。これに対し制度契約論は関係的契

約理論の場面とは異なり個別交渉による契約内容の形成に馴染まない特定の特質

を有する契約を想定し、このような契約の特質の理由を「公的」性質及び当該契約

の「外部性」にあることを見出し民法に限らない契約法への新たなアプローチを提

唱するものである。内田貴教授は関係的契約と古典契約、制度契約と取引的契約と

いう二つの座標軸によって様々な契約を理論的に位置づけ、特徴を把握することが

可能であることを指摘されており(119)、本稿は「制度契約としての仲裁契約」を

その座標軸を下に検討したものである。

上記の指針に基づく検討により導き出された合意解釈方法は、まず仲裁合意の必

要的内容である仲裁付託の意思としての仲裁合意の解釈枠組みは、①公正な仲裁制

度を前提(公正な仲裁制度如何については仲裁合意該当性の問題として事案に応じ

て検討)として、②当該当事者の属する取引社会等の内在的規範を探索し、③仲裁

に付託するとの内在的規範を見出し得る場合においても、なお当該当事者を仲裁に

付託すべきではない個別事情が存在するかどうか、以上の段階的枠踏みによるアプ

ローチである。次に仲裁合意の任意的内容である仲裁手続の準則に関する仲裁合

意の解釈枠組みは、「公的」性質を有する機関仲裁における制度契約の特質を前提

としつつも、仲裁規則は柔軟性に配慮した条項が多いことから、①仲裁時の当事者

の合意の有無、②当該当事者の合意が存在しない場合には仲裁廷の裁量の有無(仲

(118) 内田・前掲注 (34)23頁以下。(119) 内田・前掲注 (32)152頁、内田・前掲注 (34)23頁以下。

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法律論叢 90巻 1号

裁廷に裁量がある場合、公正な仲裁制度として裁量を行使)、③①の合意解釈及び

②の裁量行使において、当事者間の属する取引社会等における内在的規範を探索し

当該当事者が「納得」する公正な仲裁手続を構成する解釈及び裁量行使を行うこ

と、以上が仲裁手続に関する仲裁合意解釈に対するアプローチである。

このような解釈枠組みに基づき本稿では仲裁手続における証拠保存義務につい

て、各仲裁機関の仲裁規則、ガイドライン及びプロトコルを検討した。仲裁規則に

は(仲裁申立前)の証拠保存義務の規定はない。各ガイドライン及びプロトコルに

は証拠保存義務に関する規定はあるが、そのアプローチは仲裁時において早期に証

拠保存義務を含む証拠開示について話合いを要請するものである。以上を踏まえ

一般論として、(仲裁申立前の)証拠保存義務について仲裁合意時には当事者間の

合意はなく、内在的規範としても特に仲裁申立前の証拠保存義務を認め得るような

規範を見出すことも難しいものと思われ、仲裁廷の裁量としては悪意による証明妨

害のような事案であれば別として特に仲裁申立前の証拠保存義務及びその違反に

よる不利益推認は現状では行うことはできないと解するのが妥当であろう。

本稿の検討においては小島武司教授の「制度契約としての仲裁契約」及び内田貴

教授の関係的契約論及び制度契約論の的確な理解が不可欠であるが、筆者のその理

解の不十分さに加え、その理論の射程は広く深淵なものであることから本稿では十

分な展開も未だ図られていないと思われる。実効的かつ公正な仲裁手続を保障す

る仲裁合意解釈理論の発展・展開は継続的課題として筆者は更なる研鑽に励むこと

とし今後もこの課題に挑戦して行きたい。

(明治大学法学部専任講師)

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