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佛教大学大学院紀要 第28号(2000年3月) 神戸における在 日 ドイツ人の土地取得 と居住形態 〔抄録〕 本 稿 で は神 戸 外 国 人 居 留 地(以 下,居 留 地)を 中心 とす る神 戸 を対 象 地 に 設 定 し, 同 地 へ の ドイ ツ系 居 留 民 の 進 出 過 程 及 び居 住 傾 向 の解 明 を試 み た。 まず,居 留 地 設 定 時に行われた地所競売時の ドイツ系居留民の土地取得状況や土地利用状況について検 討 した。次に彼 らの就業状況,神 戸市各区内での分布傾向 とイギリス系住民 との比較 を試 み た 。 さ らに ドイ ツ人 の 社 会 形 成 を ク ラブ を中 心 に論 じた 。 これ まで具体的に論証されていなかった特定外国人の土地取得状況や居住形態の一 端 を,居 留 地 時 代 か ら現 代 まで とい う長 い ス パ ンで 捉 え,解 明 す る こ とが で きた 。 キーワード:外国人居留地,ド イツ系居留民,土 地取得,居 住形態,欧 米人の住み分 1.研 究 目的 ・方 法 神 戸 外 国 人 居 留 地(以 下,神 戸 居 留 地)が1899年の 条 約 改 正 の 実 現 に よ っ て 日本 に 返 還 され て今 年 で100年が 経 過 した。 神 戸 や 横 浜 な ど安 政 条 約 の締 結 に よ っ て 開か れ た 各 開 港 場 は現 在 で は 日本 を代 表 す る貿 易 都 市 と して 発 達 して い る 。 一 方,現 在 の 日本 の大 都 市 は近 世 の城 下 町 を 再 開 発 す る こ とに よっ て 発 展 した もの が 多 い 。 幕 末 に外 国 人 居 留 地 が 設 置 され て か ら都 市 と し て発達 した開港場起源の都市はその核 となった居留地が条約締結国民,つ まり欧米人の手によ っ て 設 定 され た とい う点 で 日本 の 近 代 都 市 の 中 で も異 彩 を は な っ て い る。 そ して現 在 で も神 戸 や横浜は東京に次いで外国人人口の多い土地であ り,100年 前 に撤 廃 され た 居 留 地 制 度 の 今 日的 影 響 を見 る こ とが で きる。 開港場起源の諸都市の居留地研究は堀田暁生氏 ・西口忠氏共編の 『大阪川口居留地の研究』 くの や菱谷武平氏の 『長 崎 外 国 人 居 留 地 の研 究 』 な どが 出 され て い る。 また,日 本 国 内 の全 て の 開 市 ・開港場 につ いて,主 に 『取極』や 『約 定書』 な ど法制面か ら分類 した大山梓氏 の 『旧条約 293

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  • 佛教大学大学院紀要 第28号(2000年3月)

    神戸における在 日 ドイツ人の土地取得 と居住形態

    藤 田 真 人

    〔抄録〕

    本稿では神戸外国人居留地(以 下,居 留地)を 中心 とする神戸を対象地に設定 し,

    同地への ドイツ系居留民の進出過程及び居住傾向の解明を試みた。 まず,居 留地設定

    時に行われた地所競売時の ドイツ系居留民の土地取得状況や土地利用状況について検

    討 した。次に彼 らの就業状況,神 戸市各区内での分布傾向 とイギリス系住民 との比較

    を試みた。さらに ドイツ人の社会形成をクラブを中心に論 じた。

    これ まで具体的に論証されていなかった特定外国人の土地取得状況や居住形態の一

    端を,居 留地時代から現代までという長いスパンで捉え,解 明することができた。

    キーワード:外 国人居留地,ド イツ系居留民,土 地取得,居 住形態,欧 米人の住み分

    1.研 究 目的 ・方 法

    神戸外国人居留地(以 下,神 戸居留地)が1899年 の条約改正の実現によって日本に返還され

    て今年で100年 が経過 した。神戸や横浜など安政条約の締結によって開かれた各開港場は現在で

    は日本を代表する貿易都市 として発達 している。一方,現 在の 日本の大都市 は近世の城下町を

    再開発することによって発展 したものが多い。幕末に外国人居留地が設置 されてから都市とし

    て発達 した開港場起源の都市はその核 となった居留地が条約締結国民,つ まり欧米人の手によ

    って設定されたという点で日本の近代都市の中でも異彩 をはなっている。そ して現在でも神戸

    や横浜は東京に次いで外国人人口の多い土地であ り,100年 前に撤廃された居留地制度の今 日的

    影響を見ることがで きる。ほ ラ

    開港場起源の諸都市の居留地研究は堀田暁生氏 ・西口忠氏共編の 『大阪川口居留地の研究』くの

    や菱谷武平氏の 『長崎外国人居留地の研究』などが出されている。 また,日 本国内の全ての開

    市 ・開港場について,主 に 『取極』や 『約定書』など法制面か ら分類 した大山梓氏の 『旧条約

    293

  • 神戸 にお ける在 日 ドイツ人の土地取得 と居住形態(藤 田 真人)

    くの

    下に於ける開市 ・開港の研究』がある。ここで大山氏は法制面からの綿密な分析の結果,居 留

    地は巷間で言われているような 「日本の中の小外国」ではあり得なかったとまとめている。一

    方,地 理学的研究は神戸における都市形成の核 としての居留地をとらえ,旧 居留地内の土地利くの くゆ

    用や都心機能の発展経緯などを論 じた藤岡ひろ子氏(1983),尹 氏(1989)の 先行研究がある。くの

    また澤護氏の 『横浜居留地のフランス社会』(1998)で は横浜居留地内のフランス社会を新聞史

    料や文献などで網羅している。

    以上の諸先学の研究では,そ の研究対象は居留地に進出してきた商社や,そ れによる土地利

    用等が主であった。 しかし,居 留地を国際社会の縮図として居留民内の国籍別人口及び職業構

    成,住 み分けに関する研究は例がない。本稿では居留地起源型の都市である神戸を対象地 とし

    て,そ こでの欧米系住民,特 に居留地時代か ら神戸 に進出著 しく,ま た独 自のクラブや学校を

    持つなど,能 動的な集団を形成 していた ドイツ系住民に焦点をあてた。そして ドイツ系住民の

    分布形態や職業構成などを検討することによって居留地起源型都市における外国人住民の居住

    動態の一面を解明することを目的とする。 なお,職 業構成や居住分布の比較対象 として日本

    の各居留地で最大勢力であ り続けたイギ リス系住民をとりあげる。そして神戸における欧米人

    (ドイツ人 ・イギリス人)の 居住地分布や職業構成,そ の国籍別特徴や時代による変化などの解け ラ てヨラ

    明を試みた。その際,神 戸市の 『区政概要』 と兵庫県編の 『兵庫県統計書』を使用 し,欧 米人

    の人口流入 ・流出過程 と分布形態及び職業構成を明らかにする。職業構成に関 しては1905年 か

    ら1922年 までを,国 籍別各区内分布に関しては,1960年 から1997年 までを対象 とした。統計資

    料が欠落したり,書 式の不統一によって職業構成や神戸市各区内の国籍別分布等に関 しては経くの くユゆ

    年的な検討は行えなかった。 また,領 事館資料や ドイツ東アジア研究所発行の文献資料 を用

    いて神戸における ドイツ人社会の形成過程について明らかにする。

    亙.居 留地 にお ける ドイ ツ系居 留民 の活動

    (1)ド イツ系居留民の土地取得状況

    近代の日独関係史は幕府 とプロシアとの間に締結された 日普修好通商条約(文 久元 ・1861)

    を起点とする。神戸居留地は1868年 の開港に伴い設置されたもので,当 時の居留地は兵庫の中

    心地か ら東に約3.5km離 れてお り,約25町(約7万5000坪)の 土地が造成された。 この居留地

    での土地取得方法は競売方式であ り,こ の点は横浜 ・長崎 ・函館の各居留地 とは異なっていた。

    横浜では借地権は条約締結国民から各国領事へ出願 し,そ の順序により領事が分配するという

    随意貸付形式であった。横浜居留地においては山手居留地では競売方式を,そ して横浜居留地

    内で も慶応三年(1867)以 後は競売方式を採用した。 しかし長崎 ・函館では随意貸付のままでごユつ

    あった。この競売は1868年 ~1873年 の間に四回にわたって実施された。この四回にわたる競売

    における ドイツ系商社の土地取得状況を表1と 図1に まとめた。 これらから以下のことが明ら

    294一

  • 佛教大学大学院紀 要 第28号(2000年3月)

    鬮第一回競売

    目第二回競売

    驪第三回競売

    巨]第四回競売

    國他国籍で登録 した ドイッ系商人

    仲町

    262581S7

    詳2324爵1・ ・…

    ・・卜3日S3S5{

    図 一1ド イツ 系 商 人 によ る居 留 地地 所 落 札 状 況 図

    神戸市 『神 戸市 史』 本編(神 戸市役 所1924)の デー タと 『神戸市 地籍 図』(多 田順吉編 後藤盛港 堂

    1910)を もとに作 成

    かになった。①第一回競売においては ドイツ系商社 は僅か三区画のみを落札 した。② この三区くユの

    画の内,二 区画はもっとも地価の高かった運上所付近であった。特にグッチ ョウ商会の購入 し

    た十番地は競売の最高値(2,214円,表1参 照)の 所であった。③第二回競売では七区画を落札

    し,当 時メインス トリー トであった京町筋に面した三区画を落札した。④第三回競売では十二

    区画を落札 したが,こ れは現在の市役所付近に比較的集中していることである。最後に行われくゆ

    た第四回競売では一一区画のみを落札 している。 しか し,居 留地内で作製 された資料によると第

    三回競売の翌年 には現在の市役所付近には ドイツ系商社が分布していない。 したがって,市 史

    資料でみ られる市役所周辺地所(97.98.99.113.115番 図1を 参照)を 落札 した ドイツ系

    商人はその地所 を直接利用せず,他 者に転売 したか,貸 していた と考えられる。さらに,空 地

    のままで利用していなかった とい う可能性 もある。第三回競売の翌年のJapanDirectory(以 下

    295

  • 神戸 にお ける在 日 ドイツ人の土地取得 と居住形態(藤 田 真 人)

    表一1ド イツ系商人による居留地地所の落札状況

    第一回競売 明 治元 年 七 月二 十 四 日(1868.9.10)

    地番 落札人名 坪数 競売価格(円)

    ⑥ アデ リ ア ン(蘭) 596.87 1,641

    ⑧ シ キ ュ ルー ・ラ イス(米) 596.87 1,678

    O テキス トル(蘭) 562.5 1,722

    10 ク ッ チ ョー 562.5 2,214

    12 キ ニ ッフ ェ ル 389.06 1,848

    31 ゴ ロス ー ル 380.41 784

    第二回競売 明 治二 年 四 月二 十 一 日(1869,6.1)

    28 F・ レ ウ ン ッ 318.33 760

    40 コ ン ドル マ ン商 会 325.83 688

    43 ゴル ラ ン ・ブ ル グ 308.33 709

    66 ゼ ー ヘ ル ・ル ッ ク 275 574

    69 F・ ク ロ ス ル 275 553

    79 ユ ー ・エ ル ソ ン 275 553

    82 F・ グ ロス ベ ル 300 603

    第三回競売 明治 三 年 四 月十 六 日(1870.5.16)

    51 チ ー ・ウ エ ル ス●

    270.58 578

    60 ベ ンケ ー 278.54 633

    64 トー メ ン 275 611

    72 シモ ン 230 X17

    90 セ トウ ヲ ル フ 275 962

    94 ベ ンケ ー 345 698

    97 レ ン ツ 267.5 672

    98 ボ ウ ンセ ン 267.5 668

    99 ベ ンケ ー 267.5 541

    113 ベ ンケ ー 255.61 856

    115 レ ン ツ 312.08 635

    126 キニッフル商会 168.05 693

    第四回競売 明治六年二月十七日(1873)

    125 ル ー ナ ・ブ ラ ノ1198.611893

    *⑥ ・⑧ ・⑨ は競売時,他 国籍で登録 していた ドイツ系 商人

    神戸市 『神戸市史』本編(神 戸市役所1924)の デー タを もとに作 成

    J・D)と 翌々年のJ・Dの データによると当該地は何の記載 もない。これはその地所が未だ商

    業地 ・及び住居 として利用 していない空間,つ まり空閑地であったためとも考えられる。

    このような日本側 と居留地内でほぼ同時期に作製された居留地内地所所有者リス トのデータ

    の相違は堀 田暁生氏によると 「居留地の地所は地券を所有 している外国人が自由に売買で きる

    ものであり,売 買が行われた時には当該国の領事館へのみ報告するだけで,日 本政府や自治体くユの

    への報告義務は無かった」 したがって日本側資料(市 史資料 ・統計資料)で は当時の居留地内

    地所の正確な所有者は分か らず,居 留地内で作製されたデータに信憑性があると考えられる。

    さらに,日 本側資料(市 史資料)に は落札人,つ まり土地借地人が記載されているのに対 し,

    一296一

  • 佛教大学大学院紀要 第28号(2000年3月)

    居留地内で作成された資料には土地の利用者名が記されているという相違がある。したがって,

    市史資料で土地の借地人として登録 された人物が同時期の居留地側資料(J・D)に は記載され

    ていない場合で居留地側資料に他者がその土地を利用 していた場合は,そ の人物が競売で落札

    した地所を他者に貸していたか,譲 渡 していたと考えられる。 また,居 留地側の資料に全 く当

    該地の記載が無い場合は空閑地であったと考えられる。

    以上の競売の結果 ドイツ系商人は全126区 画中,23区 画を占有 し,イ ギリス系商人(64区 画)

    に次ぐ。一方横浜居留地での地所 占有順位は英 ・米 ・仏 ・蘭 ・独 という順位であり,神 戸では

    ドイツ系商社の進出が活発であったと言える。第一回競売で10番 を落札 したグッチ ョーと12番

    を落札したキニッフェルはそれぞれ長崎や横浜に拠点 を持つ有力商社であった。神戸市史の落

    札人表によると,後 に ドイツ人として登録 されている商社及び商人が他の国籍で登録 されてい

    ることが分かる。・ 例えば第一・回競売ではオランダ国籍で登録 しているアデリアンは6番 ・17ロらラ

    番を落札 しているが,ド イッ東アジア研究所か ら出版 された資料 を見るとドイツ入で他国の庇

    護の下で活動 していた商人 と記載されている。同じ様 な例はアメリカ国籍で登録 されていたシ

    キユルー ・ライス,オ ランダ国籍のテキス トルにも言える。当時,ド イツは未だ統一した国家

    を形成 していなかった。そのため非プロイセ ン系で海上貿易を支配 していたハ ンブルグなどの

    小国家はイギリスやオランダ等と友好協定を結んでお り,商 人達は他国の庇護の下で貿易活動くユの

    に従事していた。このように他国の庇護の下で貿易に従事 していた商人達は1869年 の北 ドイッ

    連邦と日本 との修好通商条約締結,1871年 の ドイツ帝国成立後にドイツ国籍の商社になったよ

    うである。 したがって,他 国籍の庇護の下で営業をしていた商社を ドイッ系 とすると,第 一回

    地所競売で ドイツ系商社は合計7カ 所を所有 していたことになる。 ここで特徴的なのは競売

    において最 も価格の高かった運上所付近を5区 画 も占有 していたという点である。第四回競売

    終了の翌年(1872)の データで見てもこの状況は変わらず,初 期進出の ドイツ系商社 は運上所

    付近の便利の良い場所に多数立地 していた。この事実は ドイツ系商人が神戸居留地に積極的に

    進出していたことをあらわしている。

    (2)神 戸のドイツ人社会

    次に在神 ドイッ人社会の動きと地域 との関わりについて述べ る。横浜居留地においての ドイ

    ッ系居留民の特徴は彼 ら独 自のクラブを運営 していたという点である。神戸においても同じ特

    徴がみ られ,1868年(明 治元)5月29日 に神戸で最初の ドイツ人クラブ 「ユニオンクラブ」が

    24名 の ドイツ人によって創設された。このクラブは後に79番 地に移転 し,名 称を 「クラブ ・コ

    ンコルデイア」 と改めた。 この ドイツ人クラブは ドイツ人以外(ス イス人 ・オランダ人など)

    も入会していたとの記録もあるが,会 員のほどんどは ドイツ人であったようである。 クラブ

    の運営内容 としては他のクラブ(「 インターナショナルクラブ」後の 「コウベクラブ」)と の交

    流や会員間の交流企画(ピ クニック ・演劇 ・演奏会など)が 主に行われていたようである。し

    一297一

  • 神戸 における在 日 ドイツ人の土地取得 と居住形態(藤 田 真人)

    かしr1896年(明 治29)の 火災によって多 くの記録 ・資料が失われた為,詳 細な活動内容は分

    からない。

    さらに 「ドイツ東アジア研究会(0.A.G)」 は1873年 に神戸支部を発足 させ,神 戸のほか長

    崎 ・京都在住の ドイツ人も会員になった。

    しか し,第 一次大戦によって ドイツ人を取 りまく環境 は大 きく変化 した。1914年(大 正3)

    8月23日 の ドイツ帝国に対する日本の宣戦布告のため領事館は閉鎖され,営 利 目的の商業活動

    は禁止された。その際,神 戸市民が ドイッ人に対しそれほど敵対感情を抱いていなかったこと

    は,青 島に向か うドイツ軍予備兵及び義勇兵のために日本人が神戸駅で壮行会を開いたことな

    どからも推定できる。

    第一次大戦後,日 独文化交流は再び盛んに行われ,日 独協会や ドイツ文化研究所などが創設

    された。第二次大戦中はオランダ植民地の ドイツ人家族達が日本に強制送還され,ド イツ総領くユの

    事館は多忙をきわめた。そ して,第 二次大戦後も1955年(昭 和30)に 神戸はゲーテ ・インステ

    ィテユー トから海外に派遣された最初の教官を迎えるなど,日 独文化交流の拠点 となっていた。

    しか し,1995年(平 成7)の 阪神 ・淡路大震災によりドイツ総領事館は大阪に移転 し,120年 余ロお

    に及ぶ神戸 とドイツの交流拠点の一つを失った。 だが,現 在では在神戸名誉領事館が置かれ,

    再び日独交流の一拠点 となっている。

    皿.ド イツ人居留民の人ロ分布及び職業構成

    まず明治 ・大正期の神戸 ドイツ人人口の増減を分析する。図によると明治初期の居留 ドイツ

    人人口に占める男性人口の割合が約80%と 非常に高いことが注 目される。この要因としては当

    時の神戸居留地内の商社は雇用契約で従業員に結婚を禁止 していた所が多 くあったことが挙げ

    (人)

    500

    450

    400

    350

    300

    250

    200

    150

    100

    50

    0

    +男

    一一 一 女

    → 一 計

    図 一2明 治 ・大正 期 の神 戸 に お け る ドイ ツ人 人 口 の変 化

    兵庫県編 『兵庫県統計書』1878~1925の デー タをもとに作成

    一298一

  • 佛教大学大 学院紀 要 第28号(2000年3月)

    ロね

    られる。 また他の居留欧米人の男女比 と比較 しても同様なのでこの現象は各国共通 といえる。

    次に1885年(明 治18)~1887年(明 治20)に かけて ドイツ人人口の増加が見 られる。これは当

    時わが国の政策として ドイツの諸制度を取 り入れていた時期であり,ド イツ人の需要が高まっくね ラ

    ていたためだと考えられる。この時期の外国新聞の記事によるとドイツ人が多 くの点で非常に

    優遇されていたことが分かる。例えば ドイツ人というだけで高給で雇ってもらえたことなどが

    書かれている。さらに ドイツ人が 日本国内で急速に影響力を強め,人 気を得ていると危機感を  ユラ

    露わにしている英国系新聞記事 もある。1888年(明 治21)か らの人口増加は貿易の好況,日 清

    戦争による中国商人の不振に乗 じて欧米系商人がこれに代わろうと移住 してきたためであると

    考えられる。1905年(明 治38)~1908年(明 治41)の 人口増加は著しいが,こ の要因としては

    日露戦争後の日本の経済成長を背景とした貿易商の増加であると考えられる。この時期は貿易

    が好調で輸出入取扱高はイギリス系商人より僅かに少ないが,ド イツからの輸入品の51%は 神ねの

    戸港 を経由していた。1912年(大 正元)か ら翌年にかけて も欧州諸国の好況による輸出拡大と

    貿易商の移住があ り,人 口増加がみ られる。この年には ドイツ系主要商社の取引高がついにイ

    ギリス主要商社 を凌駕 した。 しかし,1914年(大 正3)7月 に勃発 した第一次世界大戦の影響

    は大 きく,1920年(大 正9)の 日独外交の復活,商 業活動の再開まではドイツ人人口は減少 し

    続けた。国交復活後の1923年(大 正12)か ら翌年にかけての人口増加は同年9月 の関東大震災

    によって関東地方から多数の商人が神戸や大阪に移住 してきたか らである。ねヨラ

    これによって日本におけるドイツ人社会の中心は急速に関西へ と移行 した。

    次に明治 ・大正期の ドイツ人の職業について検討する。ここでは 『兵庫県統計書』の1905年

    ~1922年 までのデータを基にした。

    この時期の欧米人の就業状況をみると,ま ず ドイツ人住民の就業状況は貿易 ・卸小売業を筆

    1922年

    1918年

    1913年

    1911年

    1909年

    1907年

    1905年

    050100150

    単位(人)

    図 一3ド イ ツ人 の 職 業構 成

    兵庫県編 『兵庫県統計書』1905~1922の デー タをもとに作成

    一299

  • 神戸における在 日 ドイツ人の土地取 得 と居住形態(藤 田 真 人)

    頭に多岐にわたっている。1905年 から1907年 の統計によると商社 ・貿易に次いで,技 師 ・水先

    案内人などが続いているイギリス人は最も多数の住民が貿易 ・卸小売関係の職に従事 している。

    その他,石 油商か ら裁縫師に至 るまで種々雑多な職に就いていた。一方アメリカ人住民は貿

    易 ・卸小売業が多いのはイギリス人と同様だが,他 国に比べて宣教師が多いのが特徴的である。

    次に注 目すべ き点は1918年 の教員数が1913年 に比べて大幅に増加 している点である。この原因

    としては,第 一次大戦の勃発によりドイツ人は商業活動を禁 じられ,商 人達は財産の切 り売 り

    や,貯 蓄の切 り崩 しで生計を立てていたのに対 し,日 本の学校で教鞭をとっていたドイッ人と

    (年)

    1997

    1995

    1990

    1985

    "1

    1975

    1970

    1965

    1960

    團東灘区

    圜灘区

    團葺合区

    □生田区

    圏兵庫区

    口長田区

    圃須磨区

    Z垂 水区

    困北区

    圍西区

    0100200300400(人)

    図 一4神 戸 市 各 区 内 の ドイ ツ人 分 布

    神戸市 『区政概要』神戸市役所1960~1997の デー タをもとに作成

    (年)

    1997

    1995

    1990

    .・

    'il

    1975

    1970

    1965

    1960

    團東灘区

    圜灘区

    圜葺合区

    □生田区

    國兵庫区

    □長田区

    国須磨区

    囲垂水区

    凶北区

    團西区

    0100200300400500(人)

    図 一5神 戸 市 各 区 内 の イギ リス人分 布

    神 戸市 『区政概 要』神戸市役所1960~1997の データを もとに作成

    一300

  • 佛教 大学大 学院紀要 第28号(2000年3月)

    く ゆ

    牧師に限っては戦争中もその給与 と地位は保証されていたか らである。 しかし,全 体的にみる

    とドイツ人の就業状況は他の欧米系住民 と変わらない。

    先にも述べた通 り統計史料の欠落により連続的な検討は行いえなかった。そこで1960年(昭 和

    35)~1997年(平 成9)ま での神戸市各区での ドイツ入の居住分布の変化 と特徴を検討する。

    ここでは比較対照 として各区内のイギリス人分布 も併記 した。これによると,ド イッ人は灘 ・

    東灘 ・生田の各区に集中が顕著である。特に,東 灘区の ドイツ人入口の増加は,1960年(昭 和

    35)か ら1972年(昭 和47)の 問に約250%も 増加 している。この地区での増加の原因は,灘 ・

    東灘区には外国人用住宅が多 く立地してお り,ま た ドイツ人学校や教会 も灘区にあることから

    この付近に ドイッ人が集中 して居住していると考えられる。この教会は ドイツ人の自前の教会

    ではなく,ア メリカ人の創設 した ものであるが,居 留地発祥の頃より 「ドイツ信教教区信徒会」

    を結成し,ド イツ人牧師による礼拝を行ってきた。 ドイツ人居住分布の偏 りに関しては,1974

    年(昭 和49)に はドイツ商工会議所も大阪に移転 していることや,外 国系企業の事務所が大阪

    に移転したため,通 勤 しやすい灘 ・東灘区に集中 したという可能性 もある。次に1973年(昭 和

    48)か ら1980年(昭 和55)ま での居住地の変化 ・増減を見ると,ド イツ人人口は各区で均 しく

    減少している。1981年(昭 和56)か ら1988年(昭 和63)の 統計によると,ド イツ人の減少は続

    いてお り,居 住地も中央区(旧 生田区 ・葺合区が1980年 に合区)の ドイツ人人口は減少 し,教

    会 ・学校などが立地している灘 ・東灘区に人口が集中している。

    1989年(平 成元)か ら1997年(平 成9)の 分布では,ド イツ人は北区で人口増加が目立ち,

    東灘区でも1993年(平 成5)を ピークに人口が流入 している。そして,そ れ以降は緩やかに減

    少に転 じている。この統計で見る限り,先 の阪神 ・淡路大震災の影響による大幅な ドイツ人の

    居住地の変化はみ られない。

    一方,1960年(昭 和35)~1997年(平 成9)ま でのイギリス人分布は生田区 ・垂水区 ・葺合

    区に集中 している。これによって同じ欧米系外国人住民の中でもある程度の住み分けが行われ

    ていたことが分かる。この時期のイギリス人の分布で増減が著 しい区は,ま ず葺合区で1960年

    (昭和35)~1972年(昭 和47)の 問にほぼ半減し,逆 に灘区では増加が著しい。10数 年の問に

    かなりの人口流入 ・移住があったことが うかがえる。

    次に1973年(昭 和48)か ら1980年(昭 和55)ま でのイギリス人の居住地の変化 ・増減を見る

    と,イ ギリス人人口及び分布にはあまり変化は見 られない。1989年 から1997年 のイギリス人分

    布は ドイツ人と同じように北区で人口増加が目立ち,東 灘区でも入口増が読みとれる。

    N.ま と め

    神戸における ドイツ人の土地取得状況 ・居住分布と職業構成,ド イツ人社会の活動について

    論 じた。結果,本 論において以下の結論をえた。

    -301一

  • 神戸 における在 日 ドイツ人 の土地取得 と居住形態(藤 田 真人)

    (1)1868年 ~72年 の 来 神 ドイ ツ 人 の 土 地 取 得 状 況 は横 浜 居 留 地 に比 べ 進 出が 活 発 で あ り,利

    便 性 の 良 い 運上 所 近 くの 地 所 を多 数 確 保 して い た こ とが あ げ られ る。 ま た,他 国 の庇 護 の

    も とで 活 動 して い た商 人 が い た と言 う点 も特 徴 的 で あ る。

    (2)ド イ ツ人 社 会 の 交 流 拠 点 と して ク ラ ブが 存 在 し,重 要 な役 割 を果 た して い た 。

    (3)1905年 か ら1922年 ま で の ドイ ツ人 の職 業 構 成 は,他 の 欧 米 人 同 様 に貿 易 ・卸 売 が 大 多 数

    で あ り,公 務 ・技 術 職 が そ れ に続 い た 。

    (4)神 戸 に お け る ドイ ツ人 の居 住 地 は,灘 ・東 灘 区 に 集 中 して い る 。 そ の 原 因 と して ドイ ツ

    人 学 校,信 仰 の拠 点 と して の 教 会 及 び外 国 人用 住 宅 が 立 地 して い た こ と な どが 考 え られ

    る。

    神 戸 に お い て 欧 米 人 の 居 住 が 認 め られ た の は居 留 地 時 代 以 降 で あ り,こ れ らの 住 み 分 け の 原

    点 は こ の居 留 地 時 代 の 欧 米 人 居 住 分 布 を明 らか に す る こ とに よ っ て 解 明 で きる の で は な い だ ろ

    うか 。 今 後,居 留 地 時代 の 神 戸 居 留 地 及 び 雑 居 地 へ の 欧 米 系 居 留 民 の 進 出過 程 を明 らか に した

    い 。 特 に雑 居 地 へ の居 留 民 の 進 出過 程 と,居 留 地 返 還 後 の分 布 の 拡 大 につ い て,詳 細 な 検 討 を

    今 後 の研 究 課 題 と した い 。

    (1)堀 田暁生 ・西口忠共編 『大阪川口居留 地の研 究』思文閣1995

    (2)菱 谷武 平 『長崎外国人居留 地の研 究』(財)九 州大学出版 会1988

    (3)大 山梓 『旧条約下 に於ける開市 ・開港 の研 究』鳳書房1967、

    (4)藤 岡ひろ こ 『神戸の中心市街地』大明堂1983

    (5)尹 正 淑 「神戸居留地の都 心への発達 過程 」『史林』72巻4号1989

    (6)澤 護 『横浜居留地の フランス社 会』敬愛 大学経済文化研 究所1998

    (7)神 戸市 『区政概要』神戸市役所1954~1997

    (8)兵 庫県 編 『兵庫県統計書』1873~1985

    (9)大 阪 ・神戸 ドイツ連邦共和 国総領 事館編

    『神戸 ドイツ領事館開設百年祭』1972

    (lo)KurtMeissner,DeutscheninJapan1639-1960,0.A.GTokyo,1961

    0ttoRefardt,DieDeutscheninKobe,Seit1868,0.A.GTokyo,1956

    (11)註(3)のp34~35

    (lz)1868年ll月8日 付 のニュー ヨーク ・タイム ズ 「日本」(9月20日)に よると 「(競売では)ど ち らか

    とい う と,海 に面 した海岸通 りの側 の土地 に人気が あった。政府 の言 う値の坪(36平 方 フィー ト)

    2.66ド ルの値が,2倍,3倍 の値 につ り上が ったこ とが1,2度 あ った。」 とあ り,運 上所付 近,海

    岸 通 りの地所 が人気 を得 ていたこ とが伺 える。(国 際ニ ュース事典 出版委員会編 『外 国新 聞に見 る 日

    本』①1852~1873(本 編)毎 日コミュニケー シ ョンズ1990

    (13)``JapanGazette"HongListandDirectoryfor1872内 のTheHiogoDirectoryの デー タによる。

    (14)註(1)のpl1

    (15)註(io)のp11

    ⑯ 同上

    一302一

  • 佛教大 学大学 院紀 要 第28号(2000年3月)

    (1の 言主(9)

    (18)神 戸市中央区東町122-2

    (19)OttoReefardt,DieDeutscheninKobe,OAGTokyo1956,p30「 当時多 くの商社では結婚 を禁止する雇用

    契約 を結んでいた。 したがって,当 時の神戸 はある種の青年社 会 を形 成 していた。」

    (20)1887年1月2日 付 フラ ンク フルター ・ツ ァイ トゥング 「日本」,1月30日 付F・Z「 アジア」 の記 事

    「私 自身(神 戸在住 フラ ンクフル ト出身 の読 者)は ビー ル醸造 につ き全 くの素人 だが,私 が望 めばお

    そ ら く高給で ビール職人 と しての職 を求める こともで きるだろ う。 日本人 には私が ドイッ人 とい うだ

    けで十分 なの だ。」

    (国際ニ ュース事 典出版委員会編 『外 国新聞 に見 る 日本』②1874~1895(本 編)毎 日コ ミュニケー シ

    ョンズ1990)

    ⑳1887年5月14日 付 タイムズ 「イギ リス ・ドイ ツ ・日本」東京4月5日 の記事,「 ここの ところ,日 本

    における一般の関心は(中 略)ド イツが急速 に影響 を強め,人 気 を得てい ることだ。」10月14日 付 タ

    イムズ 「日本政府 に よる外 国人の雇用」

    (国際 ニュース事典 出版委員 会編 『外国新 聞に見る 日本』②1874~1895(本 編)毎 日コミュニ ケーシ

    ョンズ1990)

    (22)註(9)

    (23)言主(9)

    (24)JuergenLehmann,ZurGeschichitederDeutschenSchuleKobe,OAGTokyo,1956

    (謝辞)こ の 研 究 ノ ー トは卒 業 論 文 を加 筆 修 正 した も の で あ る 。 調 査 時 に神 戸 市役 所,神 戸 日独

    協 会,大 阪 ・神 戸 ドイ ツ連 邦 共 和 国 総 領 事 館,ド イ ツ 学術 交 流 会 東 京 事 務 所 の 皆 様 に貴 重 な 資

    料 の 閲 覧,複 写 を許 可 して い た だ い た こ と を感 謝 い た し ます 。 ま た常 に温 か く助 言 を 下 さ った

    藤 岡 ひ ろ子 先生,そ して指 導 教 官 の植 村 善 博 教 授 に深 く感 謝 い た します 。

    (ふ じた ま さ と 文 学研 究 科 日本 史 学 専 攻 修 士 課程)

    1999年10月15日 受 理

    一303一