論 1代表的な機械工業企業の設立と発展の状況を中心に一 一...

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一九世紀前半におけるド 1代表的な機械工業企業の設立と発展 4・ はじめに 一九世紀前半におけるドイツ機械工業の発展 一八世紀末から一八三〇年代半ばにおけるドイツ機械工業の発展 n 一八三〇年代半ばから一八四〇年代末におけるドイツ機械工業の発展 一九世紀前半におけるドイツ機械工業の代表的な企業の設立と発展 ドイツ産業革命と機械工業 -一九世紀前半におけるドイツ機械工業の発展一

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  • 文一九世紀前半におけるドイツ機械工業の発展

    1代表的な機械工業企業の設立と発展の状況を中心に一

    4・

             目   次

           一 はじめに

           二 一九世紀前半におけるドイツ機械工業の発展

            - 一八世紀末から一八三〇年代半ばにおけるドイツ機械工業の発展

            n 一八三〇年代半ばから一八四〇年代末におけるドイツ機械工業の発展

            皿 一九世紀前半におけるドイツ機械工業の代表的な企業の設立と発展

           三 ドイツ産業革命と機械工業

    -一九世紀前半におけるドイツ機械工業の発展一

  • i論

    文一

    四 おわりに1結論に代えて

     1 一九世紀前半のドイツ機械工業の特徴

     H 地域別検討

     皿 ドイツ機械工業の市場構造ードイツ産業革命の特質との関連で

    は じ め  に

                               ハ り

     国民的消費と結びついた衣料生産部門における作業機の発明に端を発したイギリス産業革命は、紡績.織布部門作

    業工程の機械化により飛躍的に生産力を高め、さらにその機械製造に必要な素材を提供する石炭.鉄鋼業への機械の

                      (2)                  (評

    導入、新しい動力としての蒸気機関の製造へと他の諸産業部門へ連鎖的に波及していく このような変革の過程はた

    んに技術上の改革に終るだけでなく、交通、、農業も含めた社会全体を資本主義的に変革し、機械制大工業を成立させ、

    進行しつつあった中産的生産者層の両極分解を徹底的におしすすめ、資本家と賃労働者をして社会の二大階級として

                                        へ ロ

    成立させ、経済構造だけでなくそれを基盤とする全社会構成体の変革をももたらす。我々はこのように一国の資本主

    義的改造を、とくに各国におけるその独自の仕方、様式規定するものとして産業命を把握しΣそ、まさに煮

    を産業會よびうるの募.る・さて、かかる産業器農撃藩づ客溶ぼ、それが繊維工業作業機の発盟始

    まり、さらに動力としての蒸気機関製造や機械の基本原料たる石炭・鉄鋼生産の発展をひきおこし、最後に機械によ

    る機械の生産に基づく杢業の自蓼終了葛!竃量れるよた、露露降審、薄、意にあ・た.

    したがって機械工業の発展は産業革命の展開を基礎づけるものであり、それ故にまた機械工業発展φ研究は産業革命

  • 研究にとって不可欠の分野となるであろう。また一国の資本主義発展のための基本原料を生産する石炭・鉄鋼業とと

    もに、その基本技術たる工作機械を内包する機械工業は生産手段生産部門の基軸であるが故に、機械工業分析は一国

                             ハマロ

    の再生産構造研究にとっても重要視されねばならないだろう。

     さて、周知の如くイギリス産業革命がはなばなしく展開しているときに、まだ機械の導入もごくわずかで完全に農

                                        ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ

    業国たる様相を示し、本格的な産業革命はイギリスにおくれること約七〇年という時間的後進性によって規定された

    ドイツ資本主義は、局地的市場圏に基盤をもつ中産的生産者層の両極分解の進行の中に顕著に見られる資本主義発展

    の「下からの道」の萌芽を、封建社会の支配階級たる領主層と彼等を代表する絶対主義国家が抑圧、歪曲し、自己に包

                                    パ ロ      ヤ ヤ ヤ

    摂して「上からの道」を貫徹したことによって特殊な型の発展をするに至る。かかる後進性の上に立って展開したド

    イツ資本主義は、産業革命の過程でどのようにその特質を受け継ぎ、さらには「典型的」といわれた帝国主義の構造

    の中にどのようにそれを持ちこんだのであろうか。一見比較的短期間に急速な独占資本主義の発展が見られ、一九世

    紀末にはイギリス、フランスを凌駕するに至ったという帝国主義期のドイツ資本主義は、果して外見のように強固で

    ゆるぎのないものであったろうか。かかる疑問を解く鍵の一つを、我々はドイツ帝国主義の前段階を準備したドイツ

    産業革命の展開Hドイツにおける産業資本確立の過程の中に探ってみたいと思う。その際、その一作業として分析の

                           ハ ロ

    対象を、前述の如く産業革命展開を基礎づける機械工業の発展にしぼりたい。とくに、①ドイツ資本主義は顕著な地

                              ハロ

    帯差をもって発展した(それ故にそれを追求する地帯構造論はドイツ資本主義の構造的特質の分析にとって不可欠で

    ある)といわれているが、もしそうであるなら機械工業はどのような地帯差を伴ないつつ展開したのであろうか、②

    機械工業の市場構造、すなわち機械工業と他産業部門との関連、機械工業がどの産業部門を基盤に生成、発展し、ま

      一一九世紀前半におけるドイツ機械工業の発展一                         三

  •   一論    文一                                    四

    た逆にそれらにどのような発展の可能性を与えたか、という視角から機械工業をとり上げることによって、産業資本

    確立過程のドイツ資本主義再生産構造の特質の一分析を行なうこと、さしあたって以上二点に留意しつつ分析を行な

    いたい。

     (1) 客蜜貰きU器囚p。且冨どω血・HψooOρ長谷部文雄訳、角川文庫版〇九二頁。

     (2) Hげ幽α●ψω8”邦訳⇔九四頁。

     (3) Hげ置こω噛8一R}邦訳口一〇六頁以下。

     (4) 大塚久雄「産業革命と資本主義1われわれはどのように産業革命を把握するか」 (「「現代史講座V』 一九五三)二七五

       -二九五頁。

     (5) 高橋幸八郎「序文」 (同編『産業革命の研究』一九六五)、岡田与好「産業革命論の変遷」 (高橋編前掲書)。

     (6) 謬言碧きP勲O‘ψ“8階邦訳〇一〇七頁。

     (7) 大野英二「書評ωo訂窪窪穿ゆ9冨ミU言α窪駐。箒目器3言8訂三口α島民。冒α霞ぼ身馨二〇一一9閑零。言自oPωR=p’

       一8P(『日本経済政策学会年報M、地域開発の経済政策』一九六四)二〇三頁。

     (8) このようなドイツ資本主義の構造的特質についてはさしあたり、 松田智雄『ドイツ資本主義の基礎研究』一九六七、 同

       『近代の史的構造論』一九四八、大野英二・住谷一彦「ドイツ資本主義分析と『資本類型』ードイツ・ブルジョアジーの

       類型的把握によせて(上) (下)」 (『思想』第四七六、四八八号)を参照。

     (9) ドイツ機械工業史の研究は、ドイツにおいては最近の業績である》oooぼ窪窪\名■切R幕5P勲O.(なお大野英二氏の

       書評がある。注(7)参照)のほか地域別、問題別のものが数多くある(さしあたり前掲書文献目録参照)。 日本において

       は、大野英二『ドイツ資本主義論』一九六五所収の諸論文、熊谷一男「独占資本主義段階におけるドイツ機械工業の分析視

       角一『独占資本』と『非独占資本』の関連に関する準備作業」 (明治大学『経営論集』第一〇巻四号)、北条功「ドイツ

  •   産業革命と鉄道建設」 (高橋編前掲書)、 大島隆雄「トイッ機械工業の形成過程」 (河野健二、飯沼二郎編『世界資本主義

      の形成』一九六七)などである。

       なお、本稿の対象とする時期は一九世紀前半に限られている。ドイツ産業革命の終期については諸説があるが、一八七〇

      年代はじめとするのが妥当と思われるので、五、六〇年代についての検討も当然なされなければならない。その作業は次の

      機会に譲りたいが、一応、一八五〇年頃までの展開が、その後五、六〇年代に顕著になって行く諸特質を基本的には備えて

                                      ヤ  ヤ  ヤ     ヤ  ヤ  ヤ  ヤ     ヤ  ヤ  ヤ           ヤ  ヤ  ヤ

      いたと云えるだろう。またマルクスによると「すべての発達した機械は……発動機、伝力機構、道具機または作業機」(囚■

      竃貫き僧㊤■O‘ψ800一邦訳⇔九一頁)であるが、本稿の対象とする機械工業は、繊維工業、鉱山・精錬業、製粉業、製紙

                ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ                           ヤ  ヤ  ヤ  ヤ

      業、製糖業、農業などの各産業における作業機とその動力としての蒸気機関、そのほかマルクスの規定外になるがドイツ機

                 ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ     ヤ  ヤ

      械工業にとって重要である蒸気機関車、車輌なF、しの鉄道用品の製造を行なうものとする。

    (10) 地帯構造論についてはさしあたり注(8)の諸文献を参照。

    二 一九世紀前半におけるドイツ機械工業の発展

     1 一八世紀末から一八三〇年代半ばにおけるドイツ機械工業の発展

     ドイツ機械工業の端緒は一八・一九世紀の交に見られた。一八世紀におけるドイツ資本主義の発展は、当時産業革

    命の進行しつつあったイギリスにくらべるとおくれたものであったが、フリードリッヒ大王の「殖産興業(Oo妻Rσ?

           (1)

    ま包R琶㎎)政策」のもとで、蒸気機関の輸入が一七八四年タルノヴィッツ鉱山に「シュレージェン鉱山業の父」レ

               〔2)

    ーデンによって行なわれたのを皮切に、一七八○・九〇年代にベルリン王立鋳鉄所、エーデルスヴァルデ王立ハンマ

                             (3)

    1作業場、フリードリッヒ鉱山などに相次いで行なわれ、一七八五年には、ドイツ最初の蒸気機関がドイツ人労働者と

      一一九世紀前半におけるドイツ機械工業の発展-                         五

  •  一論   文-                               六

                  イロ

    ドイッの原料によって製造された。このような中で、一七六三年にシュレージェンに設立された王立マラパーネ製鉄

    所は、鋳造所も併置し、八三年最初の鉄製大砲、八五年最初のボール盤、旋盤をつくり、ドイツ最初の機械製作所と

               つと

    云われるような発展をとげた。蒸気機関製造においてもビュックリンクのほか、シュレージェンのH・ホルツハウゼ

                            ハ ロ

    ンが政府の援助のもとに本格的な製造業者として登場した。

                                               ハアご

     一方、同じころライン・ヴェストファーレン、ザクセン、ベルリンで繊維機械の導入が開始された。これらの機械

    は主にイギリス、フランス、ベルギーからの輸入に依存していたが、国内でも紡績工場主ブリュゲルマンがイギリス製

                                                       ロ

    機械にまねて自己の使用する機械をつくり、さらにそれを模倣して、ブッパータルの手工業者が紡績機を製造した例

             ヤ  ヤ  ヤ  ヤ     ヤ  ヤ  ヤ     ヤ  ヤ  ヤ     ヤ  ヤ  ヤ     う  ヤ  や

    に見られるように、紡績業者や錠前工、指物工、鍛治工、車大工などの手工業者が機械製造に着手し、ドイツ機械工

              ハ ロ

    業の端緒を開いていった。また、ザクセンでは八○年代半ばより大工のマティアス・フライがジェニーを製造し、多

                        ハリロ

    くの手工業者や指物工がフライの例にならった。このようにドイツ機械工業の端緒は、シュレージェンにおける蒸気

    機関、武器、工作機製造に見られるように、絶対主義国家の殖産興業政策と軍事的要請によって「上から」移植、創

    設されたものと、ライン・ヴェストファーレン、ザクセン、ベルリンにおいて「自生的に」発展しつつある繊維工業

    に機械を供給するために、紡績業者、手工業者が機械工業に進出していくという、ドイツ資本主義の発展と構造を規

                                            ノヒや二士ド

    定する二つの対立的な型一を初発からもちつつ、ともかく世紀の交には機械、道具の製造が「機械工」と呼ばれる人々

                                                  パじロ

    によって切り開かれていった。シュレーダーのいうように、ドイツ機械工業の萌芽の見られた時期であった。

                                                     ハむロ

     一九世紀に入ると、ナポレオン支配に一定の側圧を受けて採られた「農民解放」、 「営業の自由」の一連の政策、

    さらには経済的統一を志向した一八【八年関税法などが、ドイツ資本主義発展に一つの契機を与え、繊維工業、鉱山.

  • 精錬業の機械化が進行為ごれは機械髭いする需要宅馨し、機械工業の最初の発展の基盤を与えることにな

    った。この時期にはシュレージェンの蒸気機関製造がドイツで最も進んでおり、シュレージェン製の蒸気機関が各地

    で用いられてい熾釦代表的な製造業者は、A・F・ホルツハウゼンで、蒸気機関製造をビュックリンクから学んだ後、

    宅豊年癒立し集票成暑上げ壌ベルリン震いて墜九世紀の初めにプ・イセンの殖産興護笹より

    保護●育成さ莞纏企業が犠製造を建つ塗すなわち、天茜年に設立さ莞ベルーン王立籔所は、・六

                                    ハロロ

    年には機械製作所を設置し、政府分注菊によって多くの蒸気機関を製造し、私営ではあったが、国家の援助によって

                                        ハぱロ

    一八二一年に設立され、全ドイツ機械製造のための重要な養成所となったエゲルスのほか、ベルリン最初の紡績工場

                                         ハど             や

    を設立し世紀初めに紡績機を製造したタッペルトや醸造・製糖用機械製造のヘックマンや後述するフロイント フム

    メルやドイツ繊維工業に多くの機械を供給したコッカールのベルーン分煽ぎが主要奄のであった.そして、一

                                                     パれロ

    八二〇年にはフロイント、フムメル、エゲルスの三企業に二〇〇人、三〇年には約五〇〇人の機械製造労働者がいたと

    いわれる発展をとげた・ザクセンではマティアス・フラ蒔イルムシャふ紡績機の改良竃じめ乞て繊維磯製

                                                   ハカロ

    造呈導的穫製果し募り、天・二隻ザクセンに墜吾人の紡績機製造従事者がいを云われる.芳、

                                          へみロ

    ライン・ヴェストフアーレンでは、当地の蒸気機関製造の開拓者F・デインネンダールのほか、ハルコルト、グーテ

                                     ヤ  ヤ  ヤ  ヤ     ヤ  ヤ     ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ    ヤ  ヤ  ヤ  ヤ

    ホフヌンク製鉄所などが、局塔か嚇部の繊維工業、鉱山・精錬業を基盤に蒸気機関、鉱山.精錬用機械、繊維機械の

    製造を行なう企業を設立し、自立的な発展を開始し、ドイツ機械工業の中心地となる基礎を築いていった。シュレー

    ダーは、一七九〇年から一八二〇年までを手工業が主ではあるがすでにマニュファクチャも存在していた機械工業萌

    芽期としたのにたいし、一八二〇-三五年を手工業もしくはマニュファクチャの形態で自立的な経営が成立した機械

                                                 七

      -一九世紀前半におけるドイツ機械工業の発展-

  •   i論   文-                             八

                   (器)

    工業成立の開始期と特徴づけている。

     (1) フリードリッヒ大王の殖産興業政策の一環としてなされた鉱業政策については、川本和良「ルール石炭鉱業の展開とプロ

       イセン鉱業法eO」 (『立命館経済学』第一六巻第五・六合併号、第一七第二号)とくにe八八頁以下を参照。

     (2) ρ言辞ω90聲U帝国鼻&臭一仁日頃血巽U節目耳目器3言や国α、どごOoo(以下ρ三碧ω38潮eと略記)、ω.題辞

     (3) Hげ箆4ψ一切9=・寓93ぎ譲算ω3鉱富に窃。臣。拝oUo暮9三mp房■両目O歪p号ぢ幹ωα●戸這興(以下耳目93ぎe

       と略記yOQ’昌斜.

     (4) ビュックリンクはフリードリッヒ大王によってイギリスへ派遣され、ソホ蒸気機関工場を見学し、帰国後マンスフェルド

       でドイツ最初の蒸気機関を製造した。しかしこの時点で彼はなお多くをイギリスに依存していた。

       ρ蜜国富30ωω一国置富『旨β目結旨α窪富。ぎP竃器〇三器旨碧一〇。一㎝占曽押ぢ這(以下ρ寓舞ω98μ◎と略記)”ω●P

    (5)

    (6)

    (7)

    (8)

    (9)

    (10)

    (n)  

    ρ蜜四$30ω即e杣ω・H零・

     一σ一α‘9aρ

     鍔ω言日σ震堕u一。α弩ω。『。↓。益一蔑・ω巳。首ユ。『一且巨幕=魯寄<。H呂。pH。。μωω』“占9

     =・客。#oぎe一ω9一〇〇山2・

     ρ三〇象。一身ω聾一ω自ω3。ω露&聲N日田薯一。ざ…鴨鴨。。瓢9gαRω毘ぎ霞H註岳三〇<8一刈8σδ一〇。Oρ一〇。Oo。

    ω・謡ρ

     鍔窯98ぎe一¢5ピベルリンで綿工業マニュファクチャ主ホートーがイギリス製機械を模倣して八○年代はじめにベ

    ルリン最初の紡績機製造を行ない、自己の営業に用いた。Hσこ49一8・

    》ω身α§b一。穿鼻聾目顔α。こ婁ω。ぼ・さω。喜。昌昌区・畳。ぎ量震の曇霞一ぎα窃墨冒ぼ言・島。昼

    ぎ一>●ωo年馨R\薫・切oo竃お鉾pOG9一〇S

  • (12) 一九世紀初頭の一連の諸政策1「ブルジョア的改革」については、 さしあたり諸田実「トイツにおける産業革命の展開

      (「商経論叢』第三巻第一号)二一頁以下を参照。

    (13) 諸田氏などが指摘するように、このような「ブルジョア的改革」はきわめて不徹底なものであり、 一八一八年関税法も、

      一方では関税障壁によって分断されていた国内市場を「上から」であれ統一しようとする志向を持ちつつも、他方でそれは

                                         ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ

      仲継貿易、大土地所有者の利害を反映して先進国との国際的分業にくみこまれる自由貿易的性格をもつもので国内の製造工

      業を保護する性格はもちえなかった(諸田実「国民経済の建設における関税・貿易政策一『プロイセン関税法』 (一八一

      八年)1」川島武宜・松田智雄編『国民経済の諸類型』所収)と云われる性格をもった。このような絶対王制の「工業化

                                 ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ

      政策」は、それにより社会構成を徹底的に変革して産業革命を本来の産業革命たらしめる性格を失なわ占ごせ、むしろドイツ

      産業革命に「工業化」としかよびえないような性格をうえつけた。これはドイツ資本主義の構造的特質、社会構成の特質を

      生ぜしめる一因である。

    (14) ヴェストファーレンの最初の蒸気機関はシュレージェンのホルツハウゼンが一八〇一年に製造したものである。

                                             ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ

    (15) 彼は一七九四一一八二五年に五〇台の蒸気機関(七七〇馬力)を製造した。彼の企業は王立企業と密接な関係があり、そ

      の原料はマラパーネ製鉄所とグライヴィッツ製鉄所から得ていた。一げ三こω・一㎝9

    (16) 大野英二、前掲書、二三四頁。

    (17)区.u。。oqω一9。ω。『言窪三山ω。臣・。三民仁㎝巳。仁注ぎお7。α鼻汁一。諺σ。良農目的2ω巴江耳R聖算魯琶幹一鴇。。・ψ

      旨.

    (18) 大野英二、前掲書、二三四頁。

    (19) =、寓。菖。〆e、ω‘一〇㎝.

    (⑳) =・ωビヨσ。茜も』・ρooω●謹-胡}界Uoo磯即p勲Oこω・一一・

    一一九世紀前半におけるドイツ機械工業の発展一                          九

  • 一論

    (21)

    (22)

    (23)

    (24)

    (25)

       文一

    O・薯ざ会。匡“蝉、斜

    頃●ゆ一口ヨσR甲山・蝉

    =.]≦oけ8ぎe一ψ

    Hσ一α4ω・=㎝■

    >.ωoげ州αけ。さP節・

    O‘ω‘N㎝S

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    一〇距

    Oこρ一〇刈■

    一〇

     H 一八三〇年代半ばから一八四〇年代末におけるドイツ機械工業の発展

     一八三〇、四〇年代は関税同盟結成、鉄道建設の開始によりドイツ資本主義が大きな飛躍をとげる、いわばその発展

                   、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 へ 、 、 、 、 、 、(1)、 ・ ・ 、 、 ・ 、 、 、 、 、 、 、  、 、 、   ・

    にとって一つの画期であり、この関税同盟による強力的国内市場の創出、鉄道建設をイムパクトとして「上から」ひ

    や ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ う ヤ ヤ ヤ ヤ        パ り

    きおこされた形での産業革命が展開しはじめることになる。産業革命の展開のなかで機械工業もこの時期にめざまし

    く発展し、その基礎を成立させる。とくにこの時期の機械工業の発展の基盤となった産業部門は、鉄道、鉱山・精錬

    業、繊維工業であった。ここでは、それらの産業部門が機械工業にどのような発展の可能性-基盤を与え、機械工

    業がそれによってどのように発展したかという観点から、機械工業とそれらの産業部門との関連を検討してみよう。

     (1) 関税同盟の成立過程とその意義については、さしあたり、諸田実「トイツにおける産業革命」二九頁以下を参照。

     (2) ドイツ産業革命を開始させたものとして鉄道建設を重視するものに、北条功、前掲論文、同「ドイツ産業革命の前提i

       特に鉄道建設業を中心として  」 (「歴史学研究』二八○号)、=。ヨ93F田三巴9目血目ロ。ヨ。蒔¢コ鴨⇒lNロ旨く忠ξ焦

       gβα国¢o言一〇qo目=国値06『oσHo日。ロα雪ぎαo馨ユ。=op国。<o三岳opぎUo口寄〇三〇コ皇一月一≦o#o評\ω冒ヨσ震oq\饗箕N目窪\

       ωo畠。きω言忌8N貫O窃3幽。耳。αRぎα易耳一亀9勾宰。ざユ8(以下竃93ぎ◎’と略記。なおこの論文については、

  • 大島隆雄訳『ドイツ産業革命』社会科学ゼ、くナール、

    る。

    一九六八と、諸田実氏の紹介、 『商学論集』第一一二巻第一、一号、

    があ

        第1表各国における鉄道の発展      a

    唖一iドィ2i(糊観亟璽壌!童男一路

    旨83・嘩旨:艶138-3プ1175緩

     35161-1-471176?1?と14・15491543…一1・34H9714・53417・856機lI45i2,31511,7663223・277-883?:?撃i5・16酬3・729一、1591・・653t3ρ83114・51538・398業

    」.Kuczynski,Die Geschichte der Lage der Arbeiter

    unter dem Kapitalismus,Bd.II,1962,S。23.

    北条功rドイツ産業革命と鉄道建設」 (高橋編前掲書)・

    190オミージ。

     第1表に見るように、ドイツにおける鉄道建設はこの時期にめざましく

    進行し導天四〇年に箪くもアメリカ、イギリスについで世界第三の

    鉄道国となり、五〇年にはその地位をますます強化している。そして五〇

    年には、南北縦断三線、東西横断三線が開通し、ドイツ鉄道網の基幹部分を

    ほぼ完成し、またこの年までに六〇線が開通または建設中であった。

     鉄道建設はドイツ資本主義発展にとってきわめて大きな意義をもった。

    第一に、鉄道は商品流通を活発にし、ドイツの資源の完全な利用を可能に

                   パ ロ

    し、国内市場の深化、拡大をもたらした。第二に、鉄道建設はそれに必要な

    原料、資材に対する需要を増大させ、石炭業、製鉄業、機械工業などの関連

    産業を発展さ岱雌。このことは機械工業にとってみれば、間接的には、機械

    工業と関連の深い石炭・鉄鋼業の発展は機械工業の市場拡大と結びつき、

    また商品の運輸が容易になることも機械工業の市場を拡大することになり

    直接的には謡肇、轟窪じめ与る鉄道黒の製造はもっぱら機械工業が担うべ雰野であったということを

                                              一一

     i一九世紀前半におけるドイツ機械工業の発展ー

  •   一論    文-

                                               一二

    意味した.事実、以下覧るように、裸女畿露蜜蕊禁ぬ量塞笹森簸発慶献8である・

     すなわち、ベルリンーポツダム鉄道の建設時(三八年)には「機関車のほかあらゆる鉄道用品を主に製造する」ボ

    ルジッヒが設立され(三七年)ており、ライプツイッヒードレスデン鉄道が建設された(三九年)のは、ドイツ最初

    の機関車を製造しこの鉄道に供給したウビガウ簾工場の設立後だったし、二・ルンペル了フユルト鉄連は三八

                    パ ロ

    年設立のクレット工場が製品を供給した。このほか、主に機関車製造を行なう重要企業としてハルトマソ、ニュルン

                      ハるレ

    ベルク機械工場などがこの時期に設立された。たんに新設立だけではなく、後述するように、ハルトマソは繊維機械製

    造を主にしていたが、多額の国家信用を得た後、一八四八年から機関車製造にも重点を移して以灘、エッゲシュトル

                    ハマレ

    フは四八年以来機関車や他の鉄道用・嬰、グーテホフヌンク製鉄所は三九年以来機関車を製造す(㌍といった例覧

    るように、既存の機械製造企業のうちで新しい鉄道用品の製造に力点を移して行き、それがこれらの企業の大発展の

    原因となったものも多かった。このように蒸気機関製造から機関車製造への発展はその技術的基礎が共通しているた

    めそれほど困難ではなかったので、既存の多くの機械製造企業が機関車製造を行なつ鞠釦

     初期のドイツ鉄道で使用した機関車は、イギリス製(スティーブンス、ロバーツ、シャープ・ブリイ、カーチス&ケ

    ネディ、。ス皇ル等)、アメリカ製(ノリス、ボルドウイン等)奨半であった囎ドイツ国内髪いても」

    八三八年にウビガウ機械工場がライプツィッヒードレスデン鉄道用の機関車「ザクセン号」を最初に製造して以惣や

    多くの機関車工場の設立によって、ドィッ機関車製造はめざましい発展をとげる。その様相の一端は第2表にも窺わ

    れる。そして四〇年代の機関車製造の発展により、ドイツ国内で必要とされた機関車の総数に対する割合が・四四

    年の里対二三九馨五・年の三九一一対六九二と臭した(第3表参照)こと覧られるように・ドィッは必要とす

  •   第2表 主要企業の機関車製作開始

    838年 ウビガウ       (ドレスデン)

    839年 ドツブス&ペンズゲン   (アーヘン)

    840年 ザクセン機械製造会社

    840年 グーテホフヌンク製鉄所

    841年 ボノレジツヒ

    842年 エムンズ&ヘレンコール  (アーヘン)

    842年 ティッシュパイン

    842年 ハムブルク・マグデブルク船舶会社

    842年 J.A.マッフアイ

    845年 ジンドハイム&ハウルトン

    846年 F.A.エゲルス

    846年 エッゲシュトルフ

    847年 エスリンガー

    848年 ヘンシェル父子工場

    848年 ハルトマソ

    ,848年 A.ヴェーバー

    C.Matschoss,①,S.183、

    第3表 ドイツ鉄道機関車の製造国(会社)

     国  名   (企業名)   1844年 1850年

    イギリス           146  218

    アメリカ            19  26

    ベルギー              5   56

    アメリカ・イギリス・ボルジッヒ  27   0

    ドイツ         42 392 〆ボノレジツヒ          (18) (259)

      エッゲシュトルフ          (21)

      ヘンシェル           (4)  ハノレトマン            (13)

      ケスラー&マルティエンゼン  (9)  (55)

      マッファイ            (12)

      その他       (15) (28〕

    合計  2396920.Froriep,a.a。0.,S。35、

                             ハロロ

    る機関車の過半を国内で自給できる体制をつくり上げた。また、たんに数量だけでなく、この間の機関車の性能(速

                       パほロ

    さ、牽引力の改善)も著しいものであった。

     (1) この時期の鉄道建設については、さしあ辷り北条功、前掲論文を参照。

     (2) ドイツの鉄道において商品の輸送量は五〇年代に七倍(五〇年代の鉄道建設は二倍)に増大した。したがって鉄道建設に

       よる国内市場の深化・拡大が本格化し仁のは五〇年代以後であって、この時期には、第二の点がより重要であった。

     (3) 鉄道建設が鉄鋼業にとっていかに促進的な役割を果しうるかについては北条功「ドイツ産業革命と鉄道建設」 (高橋編、

      一一九世紀前半におけるドイツ機械工業の発展一                         ゴニ

  • 1論    文一

      前掲書)二一六頁を参照。

    (4)>・ωoぼ驚05勲Pρ噛ω、ωH・

    (5) 五〇年以前に設立された八三企業についてみると四九

      の鉄道建設期三六一四〇年に二三(二八%)を数える。

    (6)

    (7)

    (8)

    (9)

    一四

     (10)・(n)

     (12)

     (13)

     b

     三〇年代後半以来の鉄需要の増大に応えるために、

    いた生産増大が必須となった。産業革命における製鉄業の技術的変革の指標は精錬工程におけるパドル法の導入と製

    鉄工程における高炉の建設であるが、

                            (六〇%)が鉄道建設開始以後に設立されたもので、そのうち最初

                           冒達‘Qo■ω9

     ρ孚。ユoPN貰Ooωo巳。鐸。α角家器〇三⇒o⇒σ鎧一且ロω鼠。=且αo『冨器昌『o目α=oぎ血。辞の99No牙RgP一〇一〇〇”

    ψω“’

    ρ蚕ω。す。の即9。。詰9

     卜・oooぼα8さ働■騨O‘oo・ωド

     この他に鉄道会社の所有する鉄道用品修理場が修理から鉄道用品製造に仕事を拡大し、機械製造企業として独立した例も

    多い。

        ρζ緯ω。ぎ聲9ω」o。ρ

     なお、五一年にはドイツ国内の機関車一、○八四台のうち自国製が六七九台(六三%)であった。》■ω9&言き鉾騨Oこ

    oD’Nω・

     ρ司3ユ07印■pO‘ψoo“辱

    石炭・鉄鋼業の発展と鉱山・精錬用機械、蒸気機関

                          鉄鋼業において旧来の生産方法を変革する新技術の導入に基づ

            (1)

                  まず一八三〇年代にパドル法が製鉄業にとり入れられ、小経営やある程度まで

  • 手工業的籍を残している資奎義的中経営を駆逐した.三九西○年箕ドル法乗礎釜く最初の資奎義的大

    経営ヘルマン製鉄所がドルトムントに設立さ莞.それは四九年には四二のパドル炉と三四三の舞設備竃ち、大

                                ハ ロ

    きな機械製造作業場をも併置し、八○○人の労働者を雇用していた。また、グーテホフヌンク製鉄所のパドル炉は四

                                                     パ り

    ○年代初めに一〇、四六年に四〇、六三年に六〇と増加し、その過程で一炉あたりの生産力をも増大させていった。

    ライン・ヴェストファーレンの棒鉄生産のうちパドル鉄の占める割合は、四二年には四〇%だったが、四七年には八

                イロ

    ニ%とめざましく増大した。

     銑鉄生産におけるコークス高炉の導入は、徐々に進んだとはいえまだ本格的ではなく、とくにイギリスにくらべれ

    ばそのおくれは大きかつ濯醒ザールでは四七年に塘がコークス炉だったが、他の地域ではまだコークろ目同炉の導入は

    少な婬W四八年のプロイセンの銑鉄生産のうちコークス高炉の占める割合は四%(木炭.コークス混合炉二%)、五一

                                               パアロ

    年には一五%(一%)であり、コークス高炉生産が木炭高炉生産を凌駕するのは一八五五年であった。また育同炉数で

                                           ロ

    も一八五〇年にプロイセンの総高炉二二〇のうちコークス高炉は一八%の三九であった。このような事情のため、こ

                                 ハ ロ

    の時期には尨大な鉄需要を充たし得ず、多くを輸入に依存していたが、レール生産のみは、ドイツ最初のニュルンベ

    ルクーフユルト鉄道のレールがすでにドイツで作られており、四〇年代半ば以来のドイツ鉄道のレールは大半がドイ

            ハリロ

    ツ製であったという。

     石炭業においても増大せる需要に応えるために、深い鉱床に達し得る開発力が要請され、そのために蒸気機関が利

    用された。そして蒸気機関(U揚水機)の利用により揚水力は著しく上昇し、深い堅抗開発が可能になった。従来の

    畜力や水車による揚水では二、三〇米が限度だったが蒸気力を用いた揚水機は一〇〇米以上の揚水を可能にした。ま

      上九世紀前半におけるドイツ機械工業の発展-            蓋

  • 第4表プロイセンにおける産業部門別蒸気機関の利用一論

    1849年

        332

    (13,695)

        274 文(3,691) 1

         ?

         ?

         ?

      1,445

    (29,483)

              11837年 一1840年 i1843年  1846年

    鉱山i120:17512531273                    ド           ド          …(3β34)…(5・402)!(7・627)i(9・508)紡績・織物 136 171: 1801 237          1(1,683)(2,365)(2,870)1(3,236)          !    1         !機械’金属工業 堰i1,2811…(2誘(2,8111!(4,8111

    穀物・油・木材・製紙工場    31   451   77i   143

              …(415)1(601)1(992)(1,699)

    そ    の   他    701  129r  218   277            (632)1(1・279)!(2・189)…(2・415)

    合計:4191615186011,138           (7,355)(n,712)i(16,495)(21,715)0,Froriep,a a O,,S。25, 工Kuczynski,a.a.0.,S.17.

     註 表中上段 台,下段 馬力

                         一六

    た鉱夫や鉱石の運搬に用いる運搬機も蒸気機関の利用によりその

    効率を高めた。さらにボーリングにも蒸気力が用いられはじめ鉱

    床の系統的調査が可能になった。このような機械や新技術の導入

    は従来にくらべ生産性を四倍にも高めたと云われる。とくに新方

    法による生産力上昇は今まで泥炭岩によって豊富な石炭の採掘が

    妨げられていたルール北部地帯において大鉱山開発が行なわれた

            ハれロ

    ため目ざましかった。

     さて、鉱山・精錬用機械としてはとくに蒸気機関が重要であ

    り、鉱山業では揚水機、運搬機、精錬業では送風機として用いられ

    ハリロた

    。蒸気機関の発展と普及は第4表に見られるとうりである。プ

    ロイセンの鉱山業において蒸気機関は三七-四六年に一二〇台(

    三、三四四馬力)1二七三台(九、五〇八馬力)と二・三倍(二

    ・八倍)増大している。すでに一八二五年にプロイセン鉱山業の

                         へおロ

    蒸気機関七七台中六八台が国内で製造されていたことを考慮する

    と、この期間の蒸気機関製造の発展はかなり目ざましかったとい

    えよう。次に第5表によって一八四六年関税同盟内における蒸気

    機関の利用状況を見ると、鉱山業が一、五三六台中三四〇台(二

  • 第5表1846年関税同盟における蒸気機関利用状況

    、期….農業:騨瑞金一属一一…機埜一i.その他鐘

    ン1(9,5111…(、,6111(3,2111…(3,9111(9311(2,4111…(21勝

    ン54…11…97182330233   (928〉〔147)1(1,053フ:8〔166)(178)(260)(2,732)       1  5i  7  1  4  32  49     -1(36)1(196)r(5) (39)(157) 〔433)              1

                 1      2・      1      71     13       24

         一 (30)i(120)、 (3) (90)1(118) (361)              l     I                I

          1  8!  41  1  5  4-  23   (16) (82)1(28)!〔1) (38);(23):(183)

        34C 1641 3611 143 139; 369 1,536(10,664)(2,050)1(4,744〕i(4,164)(1,687)(3ρ45〉(26・349)              l            I

    プロイセ

    ザクセ

    バイエルン

    ノ、一アン

    ヘッセン大公国

    関税同盟

    0.Froriep,a.a.O.,S.33.

     註 表中上段 台,下段 馬力

    一一九世紀前半におけるドイツ機械工業の発展1

    二%)、二六、三四九馬力中一〇、六六四馬力(四一%)を占め

    ていることにより蒸気機関は鉱山業で最も重要であったことがわ

    かる。繊維工業は三六三口(二四%)と台数では鉱山業より多い

         ハロロ

    が、馬力では鉱山業の%である。むしろ馬力数では金属・機械工

    業のほうが繊維工業より多かった。

     このように鉱山・精錬において揚水機、運搬機、送風機として

    用いられる蒸気機関が多数稼動するようになり、この時期の鉱山

    ・精錬用機械、蒸気機関の製造を発展させた。なお蒸気機関は繊

    維工業をはじめ多くの産業部門で動力とし用いられ、広汎な販売

    市場を見出せたため、たいていの機械製造企業がその主製品は何

                パほロ

    であっても蒸気機関製造を行なっていた。

    (1) 大野英二、前掲書、 一二三頁。

    〔2)・(3)客三agh。5国一昌匂昌3琶α。旨吾。冒幕3R蜜op・

     富pぎ匹¢ω需一9一Go旨占O一押目〇一9ω●ωO■

    (4) 甲蜜98Fe’ψ嵩。。、また四七年の燃料別棒鉄生産を見ると

     シュレージェンは全生産量三六、七五九トン中石炭によるもの一

     八、七九ミトン(五一%)、 ライン・ヴず(ストファーレンは一〇

                   一七

  • -論    文一                                        一八

                            ヤ    ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ    ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ

      六、五〇一トン中八六、九一八トン(八二%)と質・量ともにこの頃からライン・ヴェストファーレンがシュレージェンの

      ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ

      地位にとって代った。罫切9〆Ooω〇三98α田圃零露・ω阜一~UげNo罧<oロHoo2玄ω一〇〇〇ρ一〇〇〇薗ω幹謹㎝1謡9

    (5) イギリスでは一八○○年頃木炭高炉がほぼ消滅し、その年の生産量は三・二百万ツェントナーだったが、関税同盟は三四

      年に二、六九一千ツェントナー生産したのみでしかもその九六%が木炭高炉生産だった。ρ悶3ユoy騨塑O‘ψN・

    (6) 石炭の豊富なルール地方でさえ、木炭価格騰貴に強いられて四六/四七年にはじめてコークス高炉が導入された程であっ

      た。=」≦9εF㊥、ω9お60。

    (7)=■客霞。3&’ω鋤ざ再ω駐け莫α段αo暮の92田ω8一注葛鼠ρ一〇ωρoo』ピ

    (8) 鼻寓99F鐸野O‘ω■ミP一八五〇年にはオーベル・シュレージェンに三〇余のコークス高炉があったのみでライン

      ・ヴェストファーレンにはほとんどなかった(妻・ρ寓OコαO話oP↓『Oω冠けO国Pαヲ匹¢誓ユ巴閑O<o言菖OPぎ℃暑ωの芦

      ミき占oo刈ρ這㎝oo一ψ8)。即ち、ヴェストファーレンでは高炉六基中コークス高炉はわずか一基で(フリードリッヒ・ヴィ

      ルヘルム製鉄所所有)、五一年には八基中三基であった(rω8ぎ斜Pρ・ω・Oo。o。)。ライン・ヴェストファーレンでコー

      クス高炉建設が本格化するのは五〇年以後で、グーテホフヌンク製鉄所は五三年に初めてコークス高炉を建設し、六三年ま

      でに六基を所有するようになった(O一〇〇暮魯9『ロp的鴇舞80σR訂霧oP閃ゴ色三目“N弩国ユコロRロp四四口器ω50

      すぼ凝。ωo曾魯コ一〇。8山2ρ一旨ρ門鑑巴ン以下Oげ『と略記)。

    (9) すなわち四〇年国内消費二三〇千トンにたいし輸入一七三千トン、五〇年三二五千トンにたいし二二一千トンであった

      (rω9ぎPPρあoo、お一も認)。そのため四四年九月の輸入関税は、国内製鉄業の発展を保証し、しかも国内の消費を充

      たしうる高さーツエントナー当り銑鉄一マルク、レール四・五〇マルク、機械部品、車輌等九・○○マルクに設定された

      (ρ男『o急oyp鐸O‘ψNoo)。

    (10) =●蜜9冨ぎ◎”ψ贈.とくに西部の鉄道の需要は大部分ライン・ヴェストファーレン圧延場の製品が充たしていたが、バ

  •   ーデン・バイエルン・ザクセン、シュレージェンにはイギリス製レールが輸入されていた(ρ閃【。【一。罰。。・国・Oこψ脇)。

    (n)=法。け葬㊥る望まρお時塑おける牛ル石炭業の発唇ついては、川本和良、前掲論文、とく昌二〇⊥一一

      四頁を、産業革命期におけるルール石炭業の発展については、大野英二、前掲書、二七六-二八三頁を参照。

    2産業革命篶ける鉱山業の驚的変革は、運搬出水部門の機械化讐どまり、基本的雀点である採蟹術は未発達

      で、鉱夫は採掘をハンマkつるはしで行ない、火薬も使用されていなかっ仁(界名山&oロho一ρρ・o,齢Oこωω、oo“1ωO)。採

      炭の機械化が始まったのは一九世紀末以降のことである(大野英二、前掲書、二八五頁)。

    (13) 9男8ユ。ワ四’PO‘ω.H9

    (14) なおプ・イセンでは蒸気機関が鉱山業に最も多いがザクセンでは繊維工業に最も多いことにも注目したい。

    (15) >・ω93冨5鋭鋒ρ}ωω辱Oo。IOO甲第六表参照。

     c 繊維工業と繊維機械

     この時期の繊維工業の発展は綿工業が主導する。二〇年代までのザクセン、ラインの綿糸需要は主にイギリスから

    の輸入で充足していたが、国内でしだいに水力、蒸気力を利用する綿紡績大経営が多くなり、ジェニーに代って水力紡

    績機やミュルが登場するよう寒菊一一西⊥二八廷はザクセンで≡九の馨工業讐の新設立があり(うちエ

                                                        パ ロ

    場といえるものが過半を占める)、同期間にザクセンの綿、毛紡錘は一三八千増加し、毎月六九台の紡績機が増加した。

                                  ハむロ  ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ    ヤ ヤ    ヤ ヤ ヤ  ヤ や

    しかし、このような機械の導入も手工業経営を駆逐するには至らず、産業革命の過程で繊維工業n紡績.織布部門の

                           ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ

    騰蹟密どど翻応、手⊃業(bぐぼ織市部陽)が平行して発展していったことにドイツ産業革命の一特質があると思わ

    れる。こうして繊維工業における機械化の進展のテンポは、イギリスの繊維工業の目ざましい発展やドイツの重工業

      上琶紀前半におけるドイツ機工業の発早           冗

  •  一論    文-                                     二〇

    部門の発展にくらべると緩慢であったことが指摘できる。

     次に綿糸生産の増大について考察しよう。それは、一八三二・三三年(年平均、以下同じ)四二、三六七楓(ッエ

                                                    

    ントナー、以下同じ)、三四二二五年九六、二七四様、四八・四九年二八一、九三八甑と増加し、一方、綿糸のイギ

                           Z                     Z

    リスからの輸入は、天園山五年四四六、二四品、四六年六一八、・四盟、四七年三二五、≡孟、四八

    年三九五、一・盛となって琶綿紡績の発展叢維工業震杢あったが、それでもまだ国内需要を充たすには

                               るロ

    あまりにも小さく、多くをイギリス糸の輸入に依存していた。四〇年代にドイツで織られた機械糸のうちでドイツ製

                                                パ ロ

    機械糸の占める割合は%(綿糸%強)で、それは六〇年代前半になってようやく鰭(綿糸%)になった。また一八五

                     (7)                            (8)

    一年に綿糸生産がはじめて輸入を凌駕した。一方織布生産の発展は紡績生産よりなお遅かった。この時期においては

                                                 パ ロ

    繊維工業の競争力の強化は、全般的に機械化による生産力の上昇よりは低賃金と保護関税に依存していたのであり、

    こうした事情が発展の緩慢さを生ぜしめていると思われる。

     次に、この時期の繊維機械の生産について見よう。この時期には鉄道用品、鉱山・精錬用機械のほかに繊維工業機

    械が機械工業の重要な製品であった。一八五〇年以前に存在していた一二五企業についてのシュレーダーの調査によ

    ると、その生産にたづさわっている企業数を製品別に見ると第一位が蒸気機関、第二位が繊維機械、第三位が機関車

       (-o)                                     (n)

    であった。また蒸気機関を使用する諸産業部門の中でも繊維工業は重要であった。繊維機械の中では紡績機が最も重

    要であり、大経営は主にイギリス、フランス、スイス製の機械を利用していたが、小経営には構造の簡単な国内製の

                パロロ

    紡績機がかなり普及していた。綿紡績業の中心地がザクセン、 ライン・ヴェストファーレン、 ベルリンであったた

    め、繊維機械製造はそれらの地域で行なわれた。ザクセンにおいて一八二八年に設立されたハウボルト工場は主に繊

  •                                ハおロ

    維機械を製造していたが、三六年には労働者五〇〇人を数えるに至り、三七年に設立され、四八年六五〇人、五〇年

                             〔M)

    九〇〇人と労働者を増大させていったハルトマソの工場とともに繊維機械製造を代表する大経営であった。そのほか

    にザクセン機械工業には零細経営がひじょうに多いが、それらの大半は簡単な繊維機機を製造していたと思われ、ま

    た紡績工場が自己の使用する機械を製造する例もまだかなり残っていた。ドイツにおけるこのような繊維機械製造の

    緩慢なる発展は、ドイツ繊維工業がその機械化に際し機械の獲得をイギリス等からの輸入にかなり依存せざるを得な

         パめレ

    いような状態をつくりだし、それがドイツ繊維工業の機械化の展開を緩慢にした一因でもあった。

     (1) =・寓。耳。ぎe、ω. 一〇凶

     (2)騨ω言ヨげR堕P騨Oこω、ωω。

     (3) たとえば綿機械織機と手織機の割合は四六年に二、 六二八台一一一六、 八三二台、六一年にも前者の比重はずっと少な

       く、七五年になってはじめて両者の地位が逆転した。Hげ一αこω・ω僧ωψ畠ムO・

     (4)声言。箒ぎ9ω」Oド

    (5)繁の葵慧は三四年充五、七二孟、四五年五四五、二八三聖あり、原棉輸入超過は一二四年蓋五、蓋孟、

       四五年三四〇、九六九鳳であった。ω・~ゑ巴9諺富岳oPU①暮の。幕毛茸ω3駄富麗胃三〇算〇一〇〇頴占2♪一8ω幅ψoog

                Z

     (6)属国ロ旨げ。薦逼・鋭ρ}ωψ曽-ωo。喜

     (7)国‘客。藷ぎ9ω」Oド

     (8) 三四一三八年平均を一〇〇とすると綿糸生産は三九-四八年平均一七八、四九一五九年平均四二Cで、綿織生産は同じ時

       期に一六〇、二五〇だっ忙。=・切一仁ヨσ段騨鋭穿Oこω・ω8ωP

     (9)ρ<.薯・一§魯窪ω9暫P勲O‘ωψ。。060.

      1一九世紀前半におけるドイツ機械工業の発展-                         二一

  • 一論    文-                                        二二

    (10) >・ωo町905P鉾O‘ω.ωω.

    (n) 第五表参照。O浮ψ合い

    (12) O・岡『oユoyPPOこω●ooO・

    (13) Hσ三こψ器、

    (14ΨH匿‘ω●ωS

    (15) ドイツは六〇年代末に機械輸出が輸入を凌駕して自立体制を確立するが、四〇年代までは先進国からの機械輸入が工業化

      にとって重要性をもっていた。機械の輸入については統計資料の分類がせいせい素材別(鋳鉄製機械とか銑鉄製機械)にし

      かなされていないので、どの種の機械が多く輸入されたか判断するのはむずかしい。しかし、五四年の機械の輸入税率をみ

      ると、ツェントナー当り機関車一七二一六マルク、織機・紡績機四・七五一四・八四マルク、平削機三・四〇マルク、ボー

      ル盤三・一七マルクであった(一玄野98.)ことから判断すると、 機関車は先進国の技術水準に到達しえたので国内生産

      を保護するために高関税を課し、一方、最も高度な発展技術を要する工作機製造はまだ先進国にくらべて発展がおくれてい

                                        ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ

      るので輸入機械に依存せざるを得ず、輸入しやすい低関税を課しており、さらに注目すべきは、先進国で最も早く着手され

      発展した繊維機械製造は、一般的に云って機械工業の中で最も早く発展しうるものであるのにもかかわらず、後進国ドイツ

      においては先進国に依存しうる可能性が他の機械にくらべると最も大きいので、先進国との技術較差があまりなく、早くか

      ら自力で生産せぎるをえない、また生産することのできた機関車製造などにくらべると、かえって自力での生産はおくれて

      しまい、先進国からの輸入依存体制を脱却しえない逆現象となってあらわれるのであり、そのために五四年になっても繊維

          ヤ  ヤ  ヤ  ヤ ヤ  ヤ

      機械には輸入しやすい低関税率が設定されているのだと思われる。なおフロリープによれば、六〇年代にザクセンに存在し

      た全自働紡績機六〇台中イギリス製二六台(四〇%)、純粋にドイツで製造したものは三二台(四五偽)であったという

      (HσEこψ8)。

  • d その他の機械

    お時嬰は・機遜作所・精錬所、鉄道用品修理場警の大鬢茎属加工の工作機を設置し警めるようにな

    ったためま作讐造も重要なって莞.二九年に設立されたべルーンのハマン毒は、四四年には四。-五股

    の労働者を雇用してすでに工作機製造量門化す畠向を示して智、旋盤、平削盤、ボール盤等を製造していた.

    その他・機械製菓企業の多くが、皇利用のための工作機製造を夏.ており、その一種他の企業緩売されは

    じめていた。

    三・四。年袋は農業機麗造も徐々に盟さ葵.錠前親方厚Fエッケルトが四七年蒸気鋤藁造しおを

    はじめ・三酉。年代の手工業漠よ農業機械製造例三のうち三例は健毒や株式会楚発展していくだけの

    ものになり懲ごの頃の農業犠製造はまだアメリカ、イギリス製品の濃の段障あり、主に、北ドイツ、ベル

                      ハぢロ

    リン、ザクセン、バーゲンで行なわれていた。

    (、)その羅製造台警・三?三四年に三四台、三千三九簿七六台、四?四四年に二二ニムロであっ茱。.明暗.『一.℃.

       野僧Oこωω。ωO一膳O)。

     (2)>・再審σ。pu一区。重訂ピ巨§ωnぎ。葺α舅『一。・一暴ω鴛一-b。避

     (3)o』§一。p鋭㊤■oこω・ω。。・

     なおこの時期のドイツ機械工業の発展を概観するために年表を掲げておく。

    -一九世紀前半におけるドイツ機械工業の発展-

    二三

  •  1論    文ー

    ドイッ機械工業発達の年表

    1700

    ライン・ヴェストファーレン

    ザクセン・南ドイツ

    二四

    1800

    83

    宴Cン右岸にドイツ最初の紡績機輸入

    80

    N代後半手工業者紡績機製造

    一〇ーディンネンダール蒸気機関製造開始

    一一〇6

    fィンネンダール機械製作所設立

    一19

    nルコルト機械製作所設立

    …19ディンネンダール鋳鉄所設置

    一20グーテホフヌンク製鉄所機械製造開始

    一シュテルケンラーデに機械製作所設置

    一一

    一25ハルコルトの労働者九四人

    [26

    nルコルト・カムプの共同企業開始

    28

    宴Cンに蒸気機関製造7企業あり

    30

    N代パドル法普及

    32

    nルコルトの労働者一四七人に

    ベルリン・東エルベ

    肘ザクセン初の紡績機輸入

    80

    N代後半大工・手工業者がジェ

     製造

    二1を

    28

    nウボルト設立

    30

    N代ヘンシェル父子工場の機械製造本

     格化

    錫ドイツ最初の鉄道(ニュルンベルク・

     フユルト)

    光ハウボルトの労働者五〇〇人に

    脱ドイツ最初の蒸気機関シュレージェンに一

     輸入              一

    跨ビュックリンク、ドイツ最初の蒸気機関

     製造               一

                       

    85

    、立マラ.ハーネ製鉄所で、最初のボi座

     盤、旋盤を製造

    90N代ホルツハウゼン蒸気機関製造開始 一

                     ,⊥

    04

    xルリン王立鋳鉄所設立

    06

    V      機械製作所設置

    0ベルリンに16ほどの機械製造企業あり

    め開㌍劉毒}設立

    20

    xルリンに二〇〇人の機械製造者あり

    2ー

    Gゲルス設立

    24

    買Fーレルト設立

    29

    nマン軸取立

    30

    xルリンに三〇〇人の機械製造業者あり

    32

    uレスラウ機械工場

    35

    Gッゲシュトルフ設立

    36

    [ーハントルンク、モアビートに機械工

     場設立

  • 38

    fュッセルドルフ・エルクラート鉄道

    萄グーテホフヌンク製鉄所機関車製造

    50

    N代コークス高炉普及

    罫ハルトマソ設立          一

    38

    Eビガウ機械工場ドイツ最初の機関車

     製造

                     『

    38

    Nレット設立(バイエルン)    一

    弩ッフアイ設立(ミ三ン) 一

    射ハルトマソ最初の蒸気機関製造

    40

    N代ヘンシェル工作機製造

    引マッファイ、バイエルン最初の蒸気機

     関製造

    弱ハルトマソの労働者三五〇人に

    一娼ハルトマソ最初の機関車製造

    37

    {ルジッヒ設立

    38

    vロイセン最初の鉄道(ベルリン・ポッ

     ダム)

    [凛ルジッヒ最初の蒸気機関車製造 .

    舞謙難。人を雇用』工作機一

    糎醗国内機関車 二台中一八一

    一台を占める      一

    .舶エゲルス最初の蒸気機関車製造

    牽ンダ!ホッペ設立

    一棚

    」闘易脇儲片臨鍬凱

    ]一50

    V    機関車製造独占体制確立

    一 (国内産三九二台中二五九台”六五%)

    50

    {ルジッヒ、ゼーハントルンクよリモア

    ービート機械工場を譲渡される。

    皿 一九世紀前半におけるドイツ機械工業の代表的な企業の設立と発展

     われわれは、1、Hにおいてドイツ機械工業が一八世紀末から一九世紀前半に、どのような背景をもちつつ発展し

    たかを一般的に概観した。ここでは、その機械工業の発展が具体的にどのようなものであったのかを知る手がかりの

      一一九世紀前半におけるドイツ機械工業の発展-                        二五

  •  一論

    一つとして、

     文ー

    ドイッ機械工業を代表するいくつかの企業の設立と発展の様相を地域別に見ていこう。

    二六

    a ライン・ヴェストファーレン

                          (1)

    〈男声目Uぼ口曾量三〉と合Oゴ響コUぎ器口鼠巨〉

                               ヤ  ヤ  ヤ     ヤ  ヤ

     ヨハンは一七七五年粉挽工の息子として生まれ、豚飼人、指物工、大工の職を経て、一八〇一年蒸気機関製造を開始し、同年

                           フアイアド マシドン

    ヴォルゲムート炭鉱より注文を受けた。〇三年彼の火力機械(初歩的な蒸気機関)がアーヘンのディーペンリッヒ亜鉛製造所で運

    転されて好評であり、以後彼の名声は各地に広まった。彼はまたビュックリンクの製品によってはじめてワット型蒸気機関を知

    り、すぐにアーヘンでその製作に着手し、〇六年には四〇インチの揚水機をゼルツェン・ノイアック鉱山に一四千ターレルで、

                                  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ

    一五インチの運搬機を二、八00ターレルで販売した。この頃から蒸気機関製造に専念するようになり、アルテンドルフからエ

                       ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ

    ッセンに移り機械製作所を設立し、重要な鉱山用機械を数多く製造した。さらに、これまで機械の原料となる鋳鉄をグーテホフ

    ヌンク製鉄所よリ得ていたが、それから独立するために弟フランツと共同で、ミュールハイムとフットオルプに自己の鋳鉄所を

    設立した(前者は後に発展してフリードリッヒ・ヴィルヘルム製鉄所となる)。

     その最初の広告で云う。「我々は蒸気機関工場を独立してからほぼ二〇年間経営してきたが、いまやそれは完全といえる状態

                  ヤ   ヤ   ヤ   ヤ  ヤ   ヤ   や

    になった。というのは、我々は自己の鉄精錬所をミュールハイムに設立したので、今までの当地産鋳鉄に代えて、オーバーライ

    ンやジーゲンの鉱石から製造したより秀れた銑鉄を我々自身の作業場で鋳造し、鋳鉄機械部品を得ることができるようになった

    ためである。我々は鉱山・工場所有者に大なる確信をもってお勧めする。我々は以ポンドから一二~一四千ポンドまでの重量

                           ヤ   ヤ   ヤ   ヤ      ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ      ヤ   ヤ   や

    の、さまざまな型と特徴をもった、鋳鉄製の精巧な蒸気機関、シリンダー送風機、圧延機を供給する。多様な大きさ、機構、構

         ヤ   ヤ   ヤ  ヤ   ヤ  ヤ   ヤ   ヤ   ヤ  ヤ   ヤ   ヤ   ヤ  ヤ   ヤ  ヤ

    造をもったあらゆる用途に適するあらゆる機械を、ひじょうに安価にまた有利な支払期限と条件で供給する。それらの機械は、

    ヘ ヤ   ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ   ヤ ヤ ヤ   ヤ ヤ ヤ   ヤ ヤ ヤ ヤ   ヤ ヤ ヤ   ヤ ヤ ヤ   ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ

    鉱石、石炭運搬機、紡績機、圧延機、ハンマー、粉挽機、搾油機、鍛冶やその他あらゆる工業用の機械である。……一八二〇年

  • 七星吾エッセン・ミュルハイム、ディンネンダル兄弟」(傍点引用者).一、ーーー、一

    この企糞いてヨ詮、三七年ま重八台の無職関を灘.誘病目濃淡濡悪、濾湧送風-

    一、一

    E難素胎その他霧廃油用など七で脅、二容雪四台がライン・ヴェストファーレンへ販売されている)し

    ゃがてライン重ストファ↓ンへ密繕錬用機械、蒸気機関を供給する初期の最嚢の企業差っていった.そのほかヨ

    ハンは、プリンツドルフ製鉄所、イゼルブルク製鉄所でも蒸気機関製造を行なった。

                  ハ ロ

    〈即時。量畠三一匿ヨ浮蒔良〉

    モ九三年ヴェストフrレンの京門閥の生まれ.織物商人のもとで徒弟奉公をしている間に工業に興味をもっていろいろ

    学び6ら独芒て震蕩をつく-・同鷺レーベンベルクで銅圧延工饗開始した.イギリスの多くのパンフレ.トや新聞

    を熱心に読み2ギリスの進ん生蕃・技建ついて学び智、ただイギリスの経験と成果を利用することだけがドイツ工業発

    展にとって最善の導萱新しい霧の設山謄はイギリス人嚢労働者とイギース製機械をもたねばならぬとの篝篭つに

    至り』九年渡英して技術を学び衰術者と労働者姦得し機繁購入して帰国し、同年秋ヴェッターにハルコルト機械製作会

    社薯雛擁難詰跳離離羅縫鱗瀦雛勲識

    蜜潔遡源墜漫営凶奨蓮薦漆檬確、遂⑳に葦の躍藩環麟郵

    卿謬

    b講韓講無杭州雛欝癖糧.欝灘 備欝募トいい地

    蓼萱ザクセンジュYジェン地方への販売は、当地の輸送手段が未発展であったために困難であった(そのためハルコ

    ルトは工業の発展が輸送手段に依存しているこ差悪し、リストらととた鉄道護の先進的提唱者叢った).労働者数は

                                                    二七

     -一九世紀前半におけるドイツ機械工業の発展1

  • 一論

    文一

    二八

    企業設立時には事務員一人、機械工がイギリス人、ドイツ人各一人だったが、一九年のうちに技師、労働者六人、営業八人、二

    三年四五人、二五年九四人、三二年には鉄精錬所と鋳造所に三六人、鉄鉱石採掘一六人、機械製作所五〇人、。ハドル・圧延作業

    場四五人、合計茜七人とめざましい増大寛、このころま淫、錠響欝習業、鑑雰攣懲鑑象暮蒙↓

    ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ

    貫経営の姿容を整えていた。三二年}二月二三日ドルトムント上級鉱山監督局の報告によると、ハルコルト製鉄所、鋳鉄所は年

    およそ五〇千ポンドを生産しその多くは自己の機械製造用原料であったという。ハルコルトは二六年に断ハカムプと共同経営を

    営むようになり、ヴェッターにおいてカムプ商会としてヴェストファーレンでも代表的な工場に発展していった。

     一

    #Nにプ・セン最高の工業指導者ボイトが視察に来て、一二一年一〇月二四日のプロイセン新聞で、い脚継極小外0蒸餅機関

    ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ       ヤ

    製造は発展してイギリスヘの依存から脱却することが可能になったこと、蒸知機関0旋渦加秘跡茄L赫設立伽耶静悔熱全野b応

    ヤ ヤ      ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ゐ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ し ヤ ヤ ヤ   ヤ

    げたこと、この二点でイギリスの進んだ技術を積極的かつ先進的にとり入れたハかコかト0企業加弗常心知ぎ郁鼻輪熱いもh都

    ことを述べている。

              ハヨロ

    〈O口8げ。一ぎ⊆コη筈茸冨〉

     一八○八年グーテホフヌンク製鉄所は、ヤコビ、ハ二王ル兄弟、フイッセンの共同所有に移った。しかしその後十年以上はた

    だディンネンダールの蒸気機関製造部品を供給することに企業の主力がおかれていた。一九年にはじめて齢己0衛府ひだゆ0優

    ヤ  ヤ  ヤ  ヤ

    動送風機(直径一八インチ)を製造した。これは徒来のものにくらべ二倍の働きをするものであった。二〇年から本格的に販売

    用機械の製造を開始した。当時の広告に云う。「すべての鉱山、精錬所、鍛工場、ならびに紡績業、毛織物工業、搾油所、粉挽

    所の所有者にお知ら芋る.でテホフヌンク製鉄所が、今募な愈愈寒気隊、意肇、鯨幕墾・塗箸

    ヤ ヤ ヤ   ヤ ヤ ヤ ヤ   ヤ ヤ ヤ   ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ

    紡績業、毛織物業、搾油業、製粉業その他の営業用に製造しはじめる。この機械製造の監督は、プロイセン上級鉱山局の許可を

    得て王国機械検査官メルケールに委任する。我々を信頼して注文を与える人々に以下の契約条件を約束する。三週間後に機械に

  • 支障がなければ協定した価額の万を請求する。三ケ月後に残額の垣を、さらに五ケ月後に機械が支障なく運転されているときに

    残額を請求する。一八二〇年七月二二目 グーテホフヌンク製鉄所」 (傍点引用者)。

                                         ヤ ヤ ヤ ヤ ヘ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ

     グーテホフヌンク製鉄所の機械製造所の初期の経営の様相は以下のとうりである。初期の機械はイギリスの構造をとりいれイ

    ギ恥みN親方b全面的b伽浄いで鱗迩ぎかb。蚤機械伽部曲慰撫どから小ギ那みかひ輸みぎかだ。シュテルクラートの機械製作

    所の塾製赫ゆ、鋳応恥勝漁協、愚齢機(製鉄所のこの種の機械は非常に評判が高く、すでに鉄道建設以前に、運賃が非常に高か

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    ったにもかかわらずシュレージェンにまで供給されていた)、精錬用送風機、圧延機であった。また早くから、 自己の製作所で

    用いる機械は全て自己製作していた。二六一三六年にグーテホフヌンク製鉄所が製造した蒸気機関四三台について見ると、その

    使用目的別内訳農錬有繋量b謡塗蒜か量一、一、製慧鷺一、一、その他二であ軌またその販売先置碁ま

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    でがライン・ヴェストファーレンであった。こうしてグーテホフヌンク製鉄所の初期の機械製造は、ライン・ヴェストファーレ

    い地城跡0鋳師n椿鈴繁・、繍継⊃業bもみ基盤齢おいでいかことがわかる。また、三〇年代以来鉄道会社へ車輪、転車台、車軸

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    などの鉄道用品を、四二年以降レールを供給するようになり、四〇年代はじめから機関車製造に着手して鉄道を企業発展の基盤

    い争ひようになった。さらには、不況期には自己用のみならず、販売用の工作機の製造にも着手した。

    (1)

    (2)

    (3)

     ρ蜜緯ω30聲e}ooψ昂。。占Oどψ5汐ρ鼠算ω魯。聲◎”ψ㎝.ρ即〇二〇P鉾僧ρ“90.大野英二、前掲書、一

    二四、一三〇頁。

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    掲書、 一二三頁以下。

    1一九世紀前半におけるドイツ機械工業の発展一

    二九

  •  1論    文-                                        三〇

         (4)

    b  ベルリン

                               (5)

    〈08彊OOげ二ω菖き蜀密旨αと甘居舘OO日蝕孚窪Pe

     ベルリンの本格的な機械製造の開始者といわれる。一七九三年生まれ。コペンハーゲンの伯父のもとで機械工としての徒弟期

    間を終了し、 ベルリンに帰り一六年ベルリン最初の蒸気機関製造所を設立し、 コンデンサー付き中圧蒸気機関の製造を開始し

    た。彼の蒸気機関が好評だったことが同年の記録に残されている。[九年二六才の若さで死去したので弟ユリアスが一八才で企

    業をひきついだ。その製品は一-四〇馬力の、普通の製作様式のワット型低圧蒸気機関の他、彼独自の構造をもつ普通の蒸気機

    関であり、四〇馬力のものは一三一一四・五千ターレルで販売された。

        (6)

    〈頃ニヨヨ〇一〉

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     熟練した錠前工出身。フランスで金属加工の技術を習得した後、一七九九年ベルリンに機械製作所を設立した。水力により運

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    転される銃身ボール盤、フランス製のものを模倣した大砲ボール盤は好評であり、プロイセン王の注目をひいた。二四年までは

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    主に錠前工、鍛冶工の仕事をしていたが、その後工作機、とくに大砲製造用の工作機を製造するようになった。彼への主たる注

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