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Hitotsubashi University Repository
Title アダム・スミスにおける徳の体系と人間像
Author(s) 八幡, 清文
Citation 一橋研究, 29: 75-90
Issue Date 1975-07-01
Type Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL http://doi.org/10.15057/6546
Right
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アダム・スミスにおける
徳の体系と人間像
八 幡 清 文
人間の徳がいかなる本質をもち,またそれが人問のいかなる資質に存するの
かという問題は,古代ギリシアから倫理学・道徳哲学における不変にして最も
根本的な主題をなしてきた問題である。ところでG・R・モロウ以後のアダム
・スミス研究においては,一般にスミスの道徳哲学の根本的特徴は人間の行為
・感情の道徳的判断の原理の自覚的・体系的展開に存し,したがってスミスの
『道徳感情論』の特質と性格は道徳的判断の原理として構成されたスミスに固
有の同感理論に集約的に表現されていると認識されている。
『道徳感情論』に関するこうした理解は,確かにスミス研究の進展がもたら
した貴重な成果に属する。しかしながらこのことはスミスが人間の徳の本質と
所在との問題を軽視したことを,またそれを道徳哲学の領域から駆逐したこと
を意味するものではない。それはスミス自身が道徳哲学の課題として,道徳的
判断の原理と並んで徳の本質の解明を提起していることに示されている。スミ
スの同感理論は,それを基礎的構成原理とする道徳的・社会的秩序に適合し,
それを担う主体的要素としての一定の人間的資質たる徳の原理を不可欠の契機
とすることによってはじめて,近代的な道徳哲学の基礎原理たりえている。さ
らにスミスの徳の体系とそれが提示する人間像は,『道徳感情論』と『諸国民
の富』との連関においても看過しえない意義を保持している。本稿では,スミ
スにおける徳の体系と人間像の分析を通して,スミスの道徳哲学の特色の解明
を試みる。
I.
スミスの徳の体系における第一の特色は,スミスが人間の利己的動機を基礎
75
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一橋研究第29号とする慎慮(prudence)に対して他の諸徳から独立した意義を有する一個の徳
性としての地位を付与していることに見出される。スミスは人間にとって本質
的な徳性を次のように規定している。「われわれ自身の幸福に対する配慮から
は慎慮の徳がわれわれにとって大切になり,他人の幸福に対する配慮からは正
義と恩恵との徳が大切になる。一・これら三つの徳の第一のものは本来われわ
れの利己的感情によって,また他の二つはわれわれの仁愛感情によってわれわ (1)れにとって大切になる」。
スミスはここで「われわれ自身の幸福に対する配慮」としての人問性の利已
的側面を,「他人の幸福に対する配慮」としての利他的側面に解消されること
も従属することもない人間性の独自の領域として措定し,そこから人間のr利
己的感情」を原動力とする慎慮を利他的徳としての正義(juStiCe),恩恵
(beneficence)からは独立した意義を保持する一個の徳性として認めている。
だが人間の利己的側面の徳性としての位置づけは,当時のイギリス道徳哲学の
一系譜であり,スミス自身がその流れを汲むところのいわゆる「道徳感学派」
(Mora1Sense SchOol)にあっては必ずしも一貫した傾向であったのではな
い。その典型がF・ハチスソであって,彼はr……仁愛は社会的諸徳において (2)認められるすべての卓越性の基礎である」と主張して徹底した利他主義の体系
を展開し,人問の利己心に対しては利他的に従属する消極的意義を認めるにす
ぎない。このようなハチスソ流の利他主義への一定の批判的展開として,スミ
スは利己的徳性としての慎慮に対して正義,恩恵からは独立した地位と意義と
を認知するのであり,それは例えばスミスがハチスソの学説を「この学説は,
慎慮,用心,細心,節制,堅固,不動という下級の諸徳についてのわれわれの
明確た是認がどこから生じるかを十分には説明しない……欠点をもっている」
(M.S.p.445.)と批判することに端的に表現されている。
スミスはプラトン,アリストテレスなどと同じく徳の金歯を人間の感情,行
為の適正さ(PrOPriety)に求める。スミスの同感理論は,この適正さを判断
する原理に外ならない。もちろんスミスが徳の本質と規定するものは単なる適
正さではなく,観察者の道徳的是認の基準となる適正さに基礎づけられなが
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アダム・スミスにおける徳の体系と人間像
ら,それを越えて観察者の賞讃ないし尊敬を受ける資質である。だが徳が適正
さに基礎づけられていることは,スミスの徳の体系の根本性格を開示する。適
正さの概念は特定の感情,資質を指示する実体概念ではなく,それらを捨象し
た形式的概念である。したがって適正さの概念を基礎とするならば,徳は特定
の資質,性向のみに存するのではたく,原理的には種々多様な感情,資質にお
いて成立しうる。こうした徳の性格規定に立脚することによって,スミスにお
いては人間の利己的側面に係わる慎慮が利他的側面に係わる正義,恩恵に匹敵
するほどの独自の意義と地位とを獲得しえている。スミスの徳の体系の基本的
性格は単なる利己主義でも,また単なる利他主義でもなく,利己心,利他心の
両者にそれぞれの固有の意義と役割とを付与しつつ,同時に両者の調和をなし
た結合を意図するところにある。
スミスが人間の利己心に対して利他心に匹敵する固有の意義を認める根底に
は,それに不可分に対応する人間観および社会観が存在す孔スミスは人問の
本性に関して次のように述べている。「自然によって,あらゆる人間が最初に
そしてまた主に自分自身の世話をおこなうようにされていることは疑いない。
そして彼は他人よりも彼自身の心配をするのに適しているから,そうすること
は適当なことであり,正当なことである。それゆえあらゆる人間は他人に関係
あることよりも,.自分自身に直接関係あることにより深い関心をもつ・・・…」
(M.S.p.119.)。スミスはT・ホッブズ,B・マンデヴィルに倣って人間を本
質的には極めて利己的な存在と認識している。スミスが展開する同感理論は彼
の利己的人間観と決して背馳する原理ではなく,むしろそれを前提としつつ構
想された理論である。スミスが同感作用を人間の社会性を表示する原理として
把握しながらも,なおかつそれを単純な利他的原理としてではたく,それ自体
の道徳的価値から見れば価値申立的な原理として構成することの深奥の意味は
ここに存する。スミスの利己的人間観はかくて彼の道徳哲学の全体系を規定す
る根本前提である。けれどもまたスミスは他面において「社会の中においての
み生存しうる人間」(M.S,p.T24.)という認識を示すことによって,人間を本
来的に社会的存在,より正確には社会的たらざるを得ない存在として把握して
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一橋研究第29号いる。この意味においてスミスでは人間は基本的に莉台南七あえと尚由と垂生
的な存在として把握されている。スミスが「人間社会のすべての成員は相互の
助力を必要としているのと同様に,また相互に及ぼす侵害の危険にさらされて
いる」(M.S.p.1241)と述べる時,彼は人間が必要とするr相互の助力」と
いう表現によって人間の社会的存在としての側面を,また人間のr相互に及ぼ
す侵害の危険」という表現によってその利己的存在としての側面を語ってい
る。それではこの利己的であると同時に社会的な存在としての人間がとり結ぶ
社会はいかなる性格を有するのか。スミスは言う。
「社会は様々な商人達の間におけるのと同様に,様々た人々の間において何
ら相互の愛情あるいは情愛がなくとも,社会の効用の感覚から存続することが
できる。そして社会に住むだれ一人として何らの義務も負わず,お互いに感謝
の情で結ばれていないとしても,なお社会は合意による価値評価に基づく有益
な労務の欲得づくの交換によって維持されるのである」(M.S.p.1141)。
スミスはここで,自己の近代社会認識を凝縮された形式において開陳してい
る。スミスにおいて人間は社会においてしか存在しえないが,たおしかし彼が
必要とする「相互の助力」は必ずしも利他的行為によらずとも,利己的な「欲得づ
くの交換」によって果たされうる。すなわちスミスが把握する人間の相互的交通
は,その最も本質的形態においては利己的性格を帯びた交通である。F・テン
ニェスの社会学的範躊によって概念化すれば,スミスは社会を本質的には人間
のゲマインシャフトリッピな相互作用ではなく,ゲゼルシャフトリッピな相互
作用の体系として認識している。この社会認識はまさにヨーロッパ近代社会の
概念化であり,われわれに即座に『諸国民の富』における社会概念,すなわち (3)「あらゆる人が交換することによって生活し,ある程度商人になる」社会として
の「商業社会」の概念を想起させる。事実スミスは『諸国民の富』において,
『道徳感情論』におけるこの社会認識を再現する形式によりつつ次のように述
べている。「文明社会ではどのような時でも,人間はたいへんな数の人々の協力
や援助を必要としているにかかわらず,彼は自己の全生涯をかけても少数の人
々の友情をかちえることさえやっとのことである。・・・…人間はほとんどつねに
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アダム・スミスにおける徳の体系と人問像
その尚由あ出カを必垂としていながら,しかもそれを同胞の仁愛だけに期待し
ても徒労である。それよりももし彼が自己に有利になるように同胞の自愛心を
刺激することができ,しかも彼が同胞に求めていることを彼のためにするのが
同胞自身の利益になるのだ,ということを示してやることができれば,このほう
(4)がいっそううまくゆく見込みが多い」と。r道徳感情論』においては人間相互
の利己的交通の可能性が説かれているのに対し,『諸国民の富』においてはそ
れの必然性が強調されているというニュアンスの相異が見られるにせよ,両著
作は基礎的な社会観において共通した認識を備えているのである。
慎慮,正義,恩恵を構成要素とするスミスの徳の体系は,利已的=ゲゼルシ
ャフトリッピな交通を本質とする近代社会における人間の徳性を形成するので
あり,それは何よりも正義と恩恵との対照的な性格と意義とに現出してい孔
スミスは他者に対して積極的な善行をおこなう恩恵を,それの実践に関して何
らの強制を伴わない徳すなわち人間の自由意志に委ねられる徳と規定する。他
方において彼は正義を他者に対して積極的な害悪を加えないことを本質とする
「消極的な徳」(M.S.p.117)と規定しつつ,それの実践が力によって強制さ
れる法としての性格を認めている。つまり正義は他の諸徳とは異なって,徳で
ふると尚細三法七宝えという特殊な二重性格を有する。正義の特殊な性格およ
び正義と恩恵との対照的性格は,両者の対照的な社会的役割に由来する。すで
に検討したように,スミスにおいて人間が必要とする「相互の助力」は必ずし
も利他的行為によらずとも実現されるから,恩恵は社会の存立のための本質的
役割を担う徳ではない。すなわち恩恵は「社会という建築物を飾る装飾物では
あるが,それを支える土台ではない」(M.S.p.125)。これに対して正義はそ
れの実践が力によって強制される法としての性格を有することにより,人聞が
利己的存在であるがゆえに「相互に及ぼす侵害の危険」を除去して,利己的交
通に媒介された人間の「相互の助力」を実現する役割を担うから,それは本質
的にアリストテレスのいわゆる「交換の正義」(COmmutatiVe juStiCe)とし
ての性格を帯びている。このようにスミスにおいて,正義は人間の利己的=ゲ
ゼルシャフトリヅヒな交通の成立の前提条件としての法体系であり,社会の存
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一橋研究第29号立にとって恩恵よりもはるかに本質的役割を果たす。それゆえスミスは恩恵を
社会の装飾物と規定するのとは対比的に,「正義は社会の全殿堂を支える大黒
柱である」(M.S1p.1251)と性格づけている。
スミスは正義が人間の利己的=ゲゼルシャフトリッピな相互作用を規制する
近代社会の法体系であることを,次のように具体的に展開する。人間は正義の
法を遵守する限りにおいて,利己心の自由な発揮を許される。「富,名誉なら
びに高い地位をめざす競争において,彼は自分のすべての競争相手を追い抜く
ためにできるだけ一生懸命に走り,すべての神経,すべての筋力を緊張させて
よい」(M,S,p-120。)。だが正義の侵犯はただちに観察者の否認を招来するの
であり,rもし彼が競争相手のだれかを踏みつけたり,引き倒したりすれば,
観察者の寛容は完全に終ることになる。それはフェア・プレーの侵犯であり,
観察者はそれを許すことができない」(M,S.P.120一)。スミスにおいて正義の
法としての実質は,それが近代;社会における人間の利己的な競争活動に関する
フェア・プレーの原則であることに存する。こうしたフェア・プレーの原則と
しての実質を有することにおいて,正義は利己的であると同時に社会的な存在
としての人問の「消極的」であるがゆえにミニマムな利他性の条件を提示する
原理であり,そうであることによって人間の利己心が道徳性,社会性を獲得し
で眞慮の徳が成立するための基礎を提供する原理である。
1I.
それでは,スミスが徳として認知する慎慮とは一体いかなる資質であろう
か。スミスは慎慮の徳の対象を「個人の健康,財産,身分,名声に対する配
慮,すなわち現世における彼の安楽と幸福とが主として依存すると思われる対
象への配慮は,通常慎慮と呼ばれる徳の固有の任務と考えられる」(M.S.p.
311.)と規定する。この慎慮の対象規定にはすでに,スミスに固有な慎慮の徳
の把握が表出している。というのはスミスは慎慮の対象として,「健康」や「財
産」という人間の生理的・物質的欲求の対象だけでなく,「身分」や「名声」と
いう社会性を帯びた欲求の対象をも含めているが,これは人間の徳性を慎慮に
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アダム・スミスにおける徳の体系と人間像
あるとするエピクロスの学説への批判的要素を含むからである。エピクロスは
慎慮の対象となる人間の欲求の起原をすべて身体上の快楽と苦痛とに還元する
から,人間における社会的欲求の意義を認めない。だがH・メディックが強調 (5)するように,スミスにとっては社会的欲求こそが人間性において大きな位置を
占める。「われわれの同輩たちの間でこの尊敬の適切な対象となること,この信
望と身分とに値し,それを獲得することへの欲求は,おそらくわれわれのすべ
ての欲求の中で最も強い。したがって財産上の利益を獲得しようとするわれわ
れの熱意は,身体のすべての必要と便宜とを充足しようとする欲求よりも,は
るかに大きくこの欲求によってかき立てられ,刺激される・・・…」(M.S.pp.310
-311.)。エピクロスの快楽説とは異なって,スミスは社会的欲求をこそ人間の
行為の主要な原動力とみなすのであり,彼においては経済的行為の真の原動力
は単なる生理的・物質的欲求ではなく,社会的欲求に存する。つまりE・G・ (6)ウェストが指摘するように,スミスは経済的行為の動機を多元的に把握して
いる。人間の行為の動機のこうした多元的把握が示すように,スミスにおける
慎慮は決して人間の利己的情念の赤裸々で無秩序な追求に終始する資質ではな
い。それは社会性を帯びた欲求を動機とする事象を対象とすることによって,
荘杢吐壬痛え走未1」台、己あ桑鼻を可能とする資質である。人間の行為の動機の多
元的把握を基礎とする慎慮の対象規定は,スミスが慎慮を社会性を備えた利己
心の発現を任務とする徳として展開するための第一の基礎をなしている。
慎慮が社会性を備えた利己心の発現を任務とすることが示唆するように,ス
ミスにおける慎慮の本質は人間の利己心の推進作用というよりはむしろそれの
適度の抑制作用にあり,またそこに慎慮が観察者の単なる是認を越えて賞讃あ
るいは尊敬を受ける徳として成立する根拠が存する。すでに考察したように,
スミスは人間を本質的には極めて利己的な存在として把握するから,利己心の
単なる発現は人間性の自然の発露であるがゆえに適正さをもちえて観察者の是
認の対象たりえても,それだけでは決して徳としての地位を獲得しえないこと
になろう。慎慮の実践は利己心の一定の抑制作用を内包することによってはじ
めて,一個の徳性としての意義を獲得しうる。このことをスミスは「彼の勤勉
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一橋研究第29号と倹約との堅固さにおいて,彼が堅固に現在の瞬間の安楽と享楽とを,もっと
遠いがもっと継続する時期におけるさらに大きな安楽と享楽とに対する有望な
期待への犠牲とすることにおいて,慎慮ある人は公平な観察者,胸中の人の全
面的な是認によって常に支持されるとともに報いられる」(M.S.p-314.)と述
べる。この将来の「さらに大きな安楽と享楽」のための「現在の瞬間の安楽と
享楽」の「犠牲」に慎慮に内包される抑制作用の核心が存在し,公平な観察者
は「自己規制のその適切な行為を是認するだけでなく,賞讃せざるをえない」
(M,S,P.314)。スミスがここで言及しているr自己規制」(se1f-command)は
一般に人間の感情・情念の抑制作用を遂行する資質として,スミスの徳の体系 (7)において重要な役割を担う原理であるが,それは慎慮が徳として成立するため
に不可欠な資質であるから慎慮の徳の本質を構成する。事実スミスは人間の行
為の結果に関する識別・予見の能力としての「優れた理性と理解力」と,自己
規制との「これら二つの資質の結合に,すべての徳の中で個人にとって最も有
用な慎慮の徳が存する」(M.S.PP.271-272。)と慎慮の本質を規定している。
スミスにおける慎慮の徳の対象規定および本質規定の検討から,それの顕著
な特性が明らかになる。第一に,慎慮は確かに人間の利己心に係わる原理であ
るが,それ自体は決して単なる感情・情念に解消される資質ではなく,「優れた
理性と理解力」を要素とすることにより,すぐれて知性と徳性との結合した資
質である。スミスが言う慎慮ある人は,自己の行為の結果を知性によって予見
する合理的行為の主体である。慎慮ある人は合理的行為の実践主体として近代
的な「経済人」としての性格を有しており,実際スミスにおいては勤勉,精 (8)励,倹約,節約などが慎慮の徳の実質的内容をなしている。
第二に,慎慮が社会的欲求を動機とする事物を対象とし,しかも自己規制を
本質的要素とすることにより,慎慮ある人は一定度の社会性を体現する。慎慮
ある人は他者からの尊敬,名声に値し,それらを獲得しようとする欲求を発条
として自己規制を体得することにより自己の感情・情念の抑制作用を実践して
自己をより客観的に社会化し,自己の行為をより客観的・普遍的に判断するこ
とを通して社会の道徳的規範を自己の中に内面化する。それゆえ慎慮ある人は
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アダム・スミスにおける徳の体系と人間像
道徳的規範を主体的・内面的に担うほどの社会性を体現しうる。正義の法もな
るほど人間にとって外的強制として存在するが,慎慮ある人はそれを主体的・
内面的に遵守する主体であ乱したがってスミスにおいては,人間の道徳性,
社会性は利他的諸徳の領域においてはじめて問題とされるのではない。利己的
側面に係わる慎慮の徳においてすでに,人問の社会性がある側面において内包
されている。こうした性格を有するからこそ,慎慮は社会性を備えた利己心の
発現を可能とする原理なのである。慎慮ある人はこの社会性を備えた利己心の
発現の主体としても,単なる感情性を超越した理性的性格を帯びた人間像であ
る。スミスは自己規制を体得した人間を「堅固不動の人」ないし「賢明で公正
な人」(M.S.p.206、)と呼ぶが,慎慮ある人はこうした呼称に値する人間像で
ある。
けれどもスミスにとっても,慎慮はそれのみでは決して完全な徳ではなく,
慎慮ある人はただちに理想の人間像であるのではない。単に個人的=利己的な
対象一個人の健康,財産,身分,名声一に向けられた慎慮は,なるほど一
定度の道徳性,社会性を具現するものであっても,同時にそれは対象が利己的
事象であることの制約に起因する限界をもあわせ持つ。スミスはこの種の慎慮
を「下級の慎慮」と呼ぶが,「それはある種の冷静な尊敬に値するが,しかし
何らかの熱烈な愛情あるいは感嘆を受ける資格はないように思われる」(M.S.
p-316。)と述べる。慎慮がこの「下級の慎慮」としての限界を越えて完全な徳
とたるためには,それが他の諸徳と結合することを必要とするがゆえに,スミ
スは「他の諸徳と一体化した慎慮が,あらゆる性格のうちで最も高貴な性格を
かたちづくる」(M,S.p.318、)と明言する。そして他の諸徳との完全な一体
化によって成立する慎慮が,スミスのいわゆる「上級の慎慮」に外ならない。
この慎慮が「上級」である所以はまずそれの対象において存在し,それは単な
る利己的な配慮を越えた「より偉大でより高貴な目的」(M-S.P.316、)をめ
ざす慎慮である。さらに「上級の慎慮」はその本質において,先に分析した慎
慮の二つの側面すなわちそれの知性としての側面と徳性としての側面とが高度
に体現されつつ結合していることを特徴とする。「それは必然的に,最高の完
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一橋研究第29号
全性をもったあらゆる知的および道徳的な諸徳を前提とす乱それは最善の心
情と結合した最善の頭脳である。それは最も完全な徳と一体化した最も完全な
叡知である」(M.S,p.316.)。したがってそれは完全な知性と徳性との結合で
ある。この「上級の慎慮」の担い手がスミスにおける理想の人間像を意味する
が,その人間像の本質はそれが最高度にr賢明で公正な人」であることに存す
ると言えよう。つまり「上級の慎慮」の体現者は,「最善の頭脳」を有するこ
とによって最高度に「賢明」であり,また慎慮が他の諸徳と一体化した「最善
の心情」を備えていることにおいて最高度にr公正」でありうる。スミスにお
ける「上級の慎慮」は,自己規制の実践を起点として形成される人間の社会性
が最高度に展開した形態を表現する具体的徳性である。
しかしながら上級の慎慮を頂点とするスミスにおける人間の社会性の把握
は,決してハチスン流の利他主義の体系と同一視されてはならない。スミスの
「上級の慎慮」は「下級の慎慮」を排除するものでも,またそれと矛盾するも
のでもなく,かえってそれを前提として成立する原理であることにおいて,人
間の利己心の独自の意義を認容しないハチスンの利他主義とは決定的に異な
る。さらにスミスが「上級の慎慮」の具体的事例として偉大な将軍,政治家,
立法老などの慎慮を挙げることから看取されるように,r上級の慎慮」はなる
ほど理想の人問像の徳性ではあっても,それの現実の担い手としては人類の広
汎な部分ではなく特定の人々を想定する徳性である。逆にr下級の慎慮」はス
ミスが「徳への道と……官への道とが,幸いにもたいがいの場合にほとんど同
一である」(M.S.p.86、)とみなす「中流および下層の身分」の人々における
慎慮として社会の広汎な人々の徳性であり,スミス自身rよき社会道徳にとっ
て幸いなことに,人類の大部分がこのような状態にある」(M.S.pp.86-87。)
と述べている。スミスにおいてはどこまでもr下級の慎慮」が基礎的地位を占
め,それの特殊な発展形態として上級の慎慮が展開されていることは看過され
てはならない。
スミスにおける慎慮の徳のこうした性格は,それと他の諸徳との関連,結合
の様式においても反映している。すでに検討したように,慎慮が十全な道徳
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アダム.スミスにおける徳の体系と人間像
性,社会性を獲得するためには他の諸徳と一体化することを必要とする。具体
的には慎慮は利他的徳としての正義,恩恵と結合することによって完全な徳の
体系が成立するのであって,スミスはr完全な慎慮,厳格な正義および適切な
仁愛の諸規則に従って行為する人が,完全に有徳であると言えよう」(M,S.p.
349.)と言う。けれどもかく慎慮,正義,恩恵の結合によって利己心と利他心
との調和のとれた人間像を形成するとしても,同時に三つの徳の中では慎慮が
最も基本的な徳としての位置を占める。「……各人はまず第一に,しかも主と
して自分自身の配慮をおこなうようにできている。そして各人は確かに他人よ
りも自分自身に気を配る方があらゆる点において一層適しており,またよくな
しうるのである」(M.S.p.3211)。スミスが慎慮に対して第一の優先性を付与
するのは彼の利己的人間観に由来し,それは彼の人間認識の徳の体系への反映
を示すものである。このように慎慮,正義,恩恵の三つを構成要素とする徳の
体系において,慎患あ癒余金主÷る轟垂壬祉二走嘉各・調和が成立するところ
に,スミスが描く人間像が近代的な「経済人」の原型としで性格づけられるよ
うな特色が存する。
慎慮の徳に徳の体系における最も基礎的な位置を付与するスミスの徳の体系
の性格は,利他心に基づく恩恵の徳の原理にも貫徹している。スミスは恩恵に
よる他者への配慮に,自然が規定した,噴序すなわち人間性にかなった順序を認
めるから,恩恵の無秩序で無制限の行使をそのまま人間性のあるべき発露とみ
なすわけではない。恩恵による他者への配慮は,その配慮を最も必要とする対
象あるいは人問が最も同感しうる対象から順次に拡大することを自然の順序と
する。スミスはこの順序を具体的には,まず人間が最も直接的関係を有する集
団としての家族を起点とし,それから親類,友人,民族などのより大規模な集
団へと順次拡大する構図を展開している。スミスにおいては,この自然の順序
が利他的領域における人間の社会性が発揮されるために適切な様式であ孔ス
ミスが完全に有徳な人における仁愛を「適切た仁愛」と表現することが示すよ
うに,彼においては利他的な恩恵とても自己規制の統制を免れる徳ではなく,
それが「適切な」様式すなわち自然の順序に合致した様式で発揮されるために
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一橋研究第29号は,自己規制の作用を前提とする。この自然の順序を踏み越えて一挙に全人類
あるいは広大無辺な宇宙への配慮をなすことは,決して人間性に合致した行為
ではない。スミスはこのr普遍的仁愛」について次のように述べている。
「しかしながら宇宙という偉大な組織体の運営,あらゆる理性的にして分別
を備えた存在への配慮は,神の任務であって人間の任務ではない。入間には一
層低級ではあるが彼の弱い力と狭い理解カには一層適した部門,すなわち彼自
身の幸福,彼の家族,彼の友人,彼の祖国の幸福への配慮という部門が割り当
てられている。人間がより高尚なことの思索にふけっていることは,より低級
な仕事を怠ることの弁明には決してならない」(M-S.p-348.)。
ここにはスミスの徳の体系の根本的性格が極めて直裁に表明されている。ス
ミスは神の任務をそのまま人間の徳目として適用するのではなく,神の国とは
異なる次元における人間世界の事象を人間の任務として提起している。スミス
が神的世界からは独立した人間世界とそこに実在する人間像を基盤として道徳
哲学を構想するのは彼の道徳哲学の近代的性格を端的に表示するものであり,
したがって彼の徳の体系は基調において世俗的,地上的性格を有している。ス
ミスが慎慮を人間の最も基本的な徳として位置づけることは,彼の徳の体系の
かかる性格の象徴的表現をなすものに外ならない。
同時にこの一節がストア哲学に属するマルクス・アウレリウ入の著作に触れ
つつ述べられていることからも了解しうるように,ここにおいてストア哲学と
スミスの道徳哲学との性格的相違が明らかになる。スミスはストア哲学を「宇
宙といラ偉大た組織体の運営,あらゆる理性的にして分別を備えた存在への配
慮」に人間の一大任務を見出す典型的な学説と規定している。その反面として
ストア哲学は「われわれのすべての私的で偏頗で利己的な感情を節制するだけ
でなく,除去するように努力」し,また「われわれ自身,われわれの友人達,
われわれの祖国にふりかかるものが何でありえようと,われわれがそれに対し
て公平な観察者の抑制された同感的情念さえも感じないようにする」(M.S.
P.427.)のである。こうしたr完全な無感動」(M,S.P.427.)を根本原理と
して展開されるストア哲学における自己規制は,終局的には神的世界へと人間
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アダム・スミスにおける徳の体系と人問像
を導く原理であって世俗的,地上的性格を帯びてはいない。この点においてス
ミスにおける自己規制は,ストア哲学のそれとは明白に相違する性格を有す
る。スミスは人間が自己規制を体得してその利己的本質に由来する弱さを克服
することを強調し,また自己規制を体得した人間を「堅固不動の人」と呼ぶこ
とにおいて,ストア哲学が説く人間の理想像と共通する側面を有さないわけで
はない。だがしかし,すでに考察したようにスミスにおける自己規制は人間が
「堅固に現在の瞬間の安楽と享楽とを,もっと遠いがもっと継続する時期にお
けるさらに大きな安楽と享楽とに対する有望な期待への犠牲とすること」にお
いて本領を発揮するのであるから,自己規制の徳それ自体が世俗的,地上的性
格を帯びた原理であり,ストア的な無感動ないしニル・アドミラリの境地へと
人間を導く原理ではない。スミスが「世間の喧燥と実務」を「自己規制の偉大
た学校」(M.S.p-206.)と呼ぶことが如実に表現するように,スミスが自己
規制の徳を体得すると想定する人間は,すぐれて近代社会における最も世俗的
な活動である経済活動に従事する人なのであった。スミスにおける自己規制は
ストア哲学のそれとは異なって,極めて近代的な「経済人」の禁欲的工一トス
としての本質を有している。
以上の考察によるたらば,スミスの徳の体系の特質と意義とはどこに求めら
れるべきであろうか。スミスの徳の体系の特色は,ただ単にハチスソに代表さ
れる利他主義に対立して利己心の道徳性,社会性を提起したことに存するので
はない。利己心の道徳性の認識ならば決してスミス独自のものではなく,彼以
前にすでにD・ヒュームにおいても効用理論の枠内においてにせよ展開されて (9)いたのである。スミスの徳の体系の本質的意義は,利己的であると同時に社会
的存在として人間を把握する人間観と,社会をそのような人間における利己的
=ゲゼルシャフトリヅヒな交通の体系として把える近代社会観とを基礎に,近
代人の社会性の原理を独自な構図で展開した点に存する。スミスにおいては利
己主義と利他主義との二元論は止揚され,利己心,利他心をともに徳として位
置づけつつそれらの結合・調和のうちに人間の社会性のあり方が探求された
が,スミスの独自性は何よりも莉台芯と莉抽,自とあ浩各・壷歯あ康夫の独自性
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一橋研究第29号に存する。スミスは人間性の本質としての利己心に係わる慎慮を人間にとって
最も基本的な徳として規定し,それを中心点としての人間の社会性の利他的領
域における発展をまずミニマムな利他性としての正義,ついで自然の順序に従
った恩恵の順次的拡大という構図で展開したのである。この徳の体系がスミス
における近代人の市民的徳性の実質をなしている。
III.
徳の体系に視点を置いた場合に,『道徳感情論』と『諸国民の富』はいかな
る関連に立つであろうか。スミスの体系において,固有の道徳的領域と経済的
領域はどのようた連関を保持しているのか。本稿における分析が明らかにする
ように,『道徳感情論』と『諸国民の富』は利己的人問観,近代社会を本質的
には利己的=ゲゼルシャフトリッピな交通の体系と把握する近代社会観におい
て共通の認識に依拠している。この共通の人間観,社会観を前提とすることに
よって,『道徳感情論』における徳の体系は『諸国民の富』における経済理論の
倫理学的基礎を提供している。前者における慎慮ある人は,後者における「商
業社会」の主体であり,A・L・マクフィーが指摘するようにr諸国民の富』に
(6)おけるr経済人は,経済的領域における慎慮ある人である」。だがしかしここ
における「経済人」は,決してただ単に利己心を発条として経済的効用を追求
する主体としてのみ理解されてはならない。『諸国民の富』が『道徳感情論』を
基礎として成立している以上,前者における人間概念には,次のような契機が
いわば黙示的に含意されている。すなわち本稿における慎慮の徳の考察が明ら
かにするように,r経済人」は同時に慎慮ある人であることにおいて,l1〕自己
の行為の結果を予測しつつ経済的効用を追求するという意味において,すぐれ
て合理的な経済的行為の主体であり,12〕社会の道徳的規範を主体的・内面的に
担うほどの社会性,少なくとも正義の法を遵守するほどの社会性を保持してい
る。『諸国民の富』における経済的世界は,このような契機を体現した行為主
体を人間学的基礎として成立しており,ここにはじめてスミスのいわゆる「自
然的自由の体系」が実現するに至る。スミスはこの「体系」においては「あら
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7ダム・スミスにおける徳の体系と人間像
ゆる人は正義の法を犯さない限り,各人各様の方法で自己の利益を追求し,自
己の勤労および資本の双方を他のどの人または他のどの階級の人々のそれらと (エ1)競争させることを完全に自己に任される」と述べているが,この立言は『道徳
感情論』においてフェア・プレーの原則としての正義を遵守する限り,人間の
競争活動が観察者の是認を受けて社会性を獲得するとみなす思想に直接的に接
続している。スミスにおいては,r自然的自由の体系」こそが彼が「みえざる
手」によって表現する経済メカニズムの正常た発動の場であり,近代社会の経
済法則の自動的運動によって,「経済人」が「各人各様の方法で自己の利益を
追求」する行為が全体社会の福祉の増大に帰結するのである。このように合理
的でかつ社会性ある行為を実践する慎慮ある人は,経済的世界における「みえ
ざる手」=経済メカニズムの正常な運動のための人間学的基礎を構成している。
けれどもまたスミスは,近代社会のすべての成員が「経済人」として存在す
ると認識しているわけではない。スミスが単に個人的=利己的対象に係わる
「下級の慎慮」の他に,それの上位に位置する「上級の慎慮」を展開している
ことにそれが現出している。「下級の慎慮」と「上級の慎慮」とは,異質な主
体をそれぞれの担い手としている。すでに見たように,「下級の慎慮」の担い
手はスミスがr中流および下層の身分」と呼ぶ人々であるが,r上級の慎慮」
の担い手は将軍,政治家,立法者などの人々,すなわち私的た経済活動に直接
に携わるのではなく政治,軍事だとの公共的な統治活動に従事する人々であ
る。このことはスミスにおいて公共的な政治活動が私的な経済活動とは異質な
活動であり,経済活動を越えた高度な知性と徳性とが要求される活動であると
想定されていることを語っている。したがって「上級の慎慮」と「下級の慎
慮」とは,近代社会における政治と経済という一種の分業関係の存在を基礎と
し,それぞれの活動の主体として想定される異質な人間爆に対応する徳性とし
て構成されている。利己心に係わる慎慮を起点として,それが正義,恩恵と結
合することによって人間の社会性が拡大・発展することを基本的構図とするス
ミスの徳の体系は,政治と経済との分業とそれらを担う異質な主体というスミ
スの近代社会認識に対応する近代的な道徳哲学の一環として展開されているの
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一橋研究第29号である。
(1)Adam Smith,丁加〃e〃ツ。∫〃。m’Sem4mmなed-by E-G.West.New
York,1969-P.385一以下、本書はM.S.と略記し,引用文の後に引用ぺ一ジを
記す。
(2) F.Hutchesorl,λm∫mg〃η伽io肋壱0〆8初α王。∫o〃〃m50∫3em妙m6
γ〃切44ed.London,1738.p.222.
(3) Adam Smith,λm∫mm釣棚。 me州刎meα〃Cm5e∫o∫肋e附加舳。∫
州α吻狐ed.by E.Cannan.6th ed.2vols.London,1950.Vo1.1.p.24.
以下においては,肌α舳0∫ル”θ帆と略記して引用する。
(4)Adam Smith,W勿肋。∫肋肋鮒VoI.1.p.16。たお引用文中の傍点は引
用者。以下同様。
(5)H.Medick,ル切m吻〃舳6肋imge5c〃。〃e♂〃蝪倣mc此m Ge5e’一 ’5c乃α〃.Gdttingen11973.SS.226_231.
(6)E.G.West,Introduction to T伽丁危ωηo∫〃。m’8m〃mmf5,p-XXXi.
(7)水田洋r市民社会の道徳哲学」r季刊・社会思想』第3巻第1号,1973年,149
-155ぺ一ジを見よ。
(8)r道徳感情論』における慎慮ある人を,近代的なr経済人」として把握する理
解は,とくに日本におけるスミス研究の顕著な特色をなしてい机その例とし
て,大河内一男『スミスとリスト』1943年,内田義彦r経済学の生誕』1953年,
船越経三『アダム・スミスの世界』1973年。
(9)拙稿rアダム・スミスにおける同感理論の完成」r一橋論叢』第72巻第4号,
1974年,を参照。
(10)A.L.Macfie,丁加∫m肋〃伽㍑m50c〃ツ.P妙舳m〃αm∫m舳。Lon-
don,1967.p.75.
(11) Adam Smith,Wm舳。∫N例〃m5.Vol,2.P-184.
(筆者の住所1東京都国立市中2-1O-8若葉荘内)