マハッラ・クブラー蜂起の諸相/some aspects of the popular uprising in al-mahalla...

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リエン ト 46-2(2003): 161-179 マハ ッラ ・クブ ラー蜂起の諸相 Some Aspects of the Popular Uprising in al-Mahalla al-Kubra during the Reign of Sultan Jaqmaq 長谷部 HASEBE Fumihiko ABSTRACT Although recent studies of metropolitan popular movements in the Mamluk Kingdom have clarified the actual conditions of such protests, we still know little about popular movements and the politi- cal culture in medieval Egyptian provincial towns. This paper focuses on the uprising of 1450 in al-Mahalla al-Kubra, provincial capital of al- Gharbiyya, and examines the economic background, changing stages of the revolt, leadership by religious elites, and countermeasures taken by the Mamluk Sultan Jaqmaq. According to Tibr al-masbuk written by al-Sakhawi, this uprising was caused by the people's indignation about the tyranny of Ahmad (brother of the well-known ustadar [major-domo] Ibn al-Ashqar) and his unfair inter- ference with the food supply. The crowd attacked Ahmad and killed him in the mosque. Al-Sakhawi portrays al-Mahalli, whose principle was "command- ing right and forbidding wrong," as a leader of this movement. This pas- sionate preacher was related by marriage to the charismatic popular saint of the city, al-Ghamri, whose Sufi order al-Ghamriyya appeared to be opposed to the regime of Jaqmaq. Suppressed by Ibn al-Ashqar, the rebels were jailed in Cairo. Many Cairenes feeling sympathy for them began immediately to throw stones and call down divine vengeance upon him. It was noteworthy that all the rebels were liberated through an intercession to the sultan made by al-Turayni, another saint living in al-Mahalla al-Kubra. This act illustrates the political function of the private relationship between ruler and Muslim saint, as well as the importance of local living saints in the structure of cultural hegemony in the kingdom. In conclusion, this furi- ous uprising was in sharp contrast with contemporary Cairene popular *慶 應義塾大学文学部助教授 Associate Professor, Faculty of Letters, Keio University

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論 文 オ リ エ ン ト 46-2(2003): 161-179

マハ ッラ ・クブ ラー蜂 起 の 諸相

Some Aspects of the Popular Uprising in al-Mahalla

al-Kubra during the Reign of Sultan Jaqmaq

長 谷 部 史 彦

HASEBE Fumihiko

ABSTRACT Although recent studies of metropolitan popular

movements in the Mamluk Kingdom have clarified the actual conditions of

such protests, we still know little about popular movements and the politi-

cal culture in medieval Egyptian provincial towns. This paper focuses on

the uprising of 1450 in al-Mahalla al-Kubra, provincial capital of al-

Gharbiyya, and examines the economic background, changing stages of the

revolt, leadership by religious elites, and countermeasures taken by the

Mamluk Sultan Jaqmaq.

According to Tibr al-masbuk written by al-Sakhawi, this uprising was

caused by the people's indignation about the tyranny of Ahmad (brother of

the well-known ustadar [major-domo] Ibn al-Ashqar) and his unfair inter-

ference with the food supply. The crowd attacked Ahmad and killed him in

the mosque. Al-Sakhawi portrays al-Mahalli, whose principle was "command-

ing right and forbidding wrong," as a leader of this movement. This pas-

sionate preacher was related by marriage to the charismatic popular saint

of the city, al-Ghamri, whose Sufi order al-Ghamriyya appeared to be

opposed to the regime of Jaqmaq. Suppressed by Ibn al-Ashqar, the rebels

were jailed in Cairo. Many Cairenes feeling sympathy for them began

immediately to throw stones and call down divine vengeance upon him. It

was noteworthy that all the rebels were liberated through an intercession to

the sultan made by al-Turayni, another saint living in al-Mahalla al-Kubra.

This act illustrates the political function of the private relationship between

ruler and Muslim saint, as well as the importance of local living saints in

the structure of cultural hegemony in the kingdom. In conclusion, this furi-

ous uprising was in sharp contrast with contemporary Cairene popular

*慶 應義塾大学文学部助教授

Associate Professor, Faculty of Letters, Keio University

movements triggered by high prices and characterized by dialogue between

the ruler and the ruled.

は じ め に

マムルーク朝期の民衆運動に関する諸研究は,民 衆('amma)に よる多様な

抗議や要求行動の実態とその社会的 ・政治文化的特徴 をある程度明らかにし,

「受動的民衆像」の払拭に成功 したかにみえる。 しかし,そ こでの考察対象は

三大都市(カ イロ,ダ マスクス,ア レッポ),な かでも首都カイロに偏 してい

る。エジプ トについて言えば,地 方の中小都市や村落における民衆の異議申し

立 てや 政 治文 化 につ いて の議 論 は深 まっ て い る とは 言 え な い。 けれ ど も,チ ェ

ル ケ ス ・マ ムル ー ク朝 期(1382~1517年)に カ イ ロで書 かれ た年代 記 の 中 に,

地 方,と りわ け地 方 都 市 の民 衆 運 動 に 関す る記 事 を見 出す こ とは さほ ど難 しい

こ とで は ない。

た とえ ば,820年 第12月/1418年1月,港 町 ダ ミエ ッタ の総 督(wali Dimyat)

サ ラ ー フー リーNasir al-Din Muhammad al-Salakhuriの 不 正(zulm)に 対 し

て,サ ムナ ー ウ ィーヤal-Samnawiyyaと 呼 ばれ る集 団(to'ifa)が 反 乱 を起 こ

した。 彼 らはダ ミエ ッタの東 方 の テ ィ ンニ ー ス湖(マ ンザ ラ湖)に あ る島 々 の

集 落('uzab)に 暮 らす漁 民 た ちで あ っ た。総 督 は 当時,住 民 か ら財 産 の み な ら

ず 女 や子 供 を奪 うな どの 悪行(qaba'ih)を 重 ね て い た。蜂 起 した サ ムナ ー ウ ィー

ヤ は戦 闘 に勝利 し,総 督 と総 督 代 理(na'ib al-wali)を 殺 害 し,総 督 の 居 館 で報

復 の 略奪 を繰 り広 げ たの で あ る。 他 方,地 方 民 が 首都 の マ ザ ー リム法 廷 を利 用

した例 も少 な くな い。 一例 を挙 げ れ ば,797年 第5月/1395年3月,上 エ ジプ ト

の 中心都 市で あ った クー ス の住 民 の 一 団(jama'a min ahl Qus)が クー ス総 督

(wali Qus)の マ ンカ リー ・ブ ガーMankali Bugha al-Zaynlに 関す る苦情 を述

べ た訴状 をカ イ ロの マザ ー リム法 廷 に提 出 し,こ れ を受 けて スル ター ンのバ ル

クークは総督の交代 を命 じる裁定を下したのである。

カイロに居住する年代記作者たちの叙述からでは,行 動主体が地方の都市民

か農民かさえ判定できないこともあるのだが,異 議申し立ての作法において多

様性を示す地方民衆の政治的行為や言動に関する貴重な記述 を集め,総 合的に

分析 してゆ く作業こそが今後必要であると思われる。そこで本稿では,マムルー

ク朝期エジプ トの地方都市における民衆運動の研究の可能性を探るひとつの試

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み と して,ナ イル ・デル タ 中部 の都 市 マハ ッラ ・ク ブ ラ ー(ア ル=マ ハ ッラ ・ア

ル=ク ブ ラーal-Mahalla al-Kubra,あ るい はal-Mahalla al-Kablra)で1450

年11月 に起 きた住 民 蜂起 を取 り上 げ,発 生 の 背景,住 民 の行 動 形 態 と襲 撃 対 象,

ア ー リム(学 者,ウ ラマ ー の 単数 形)の 指 導1生,政 治権 力 の対 応 な どにつ いて

考 察 す る こ とに した い。

本論 に入 る前 に,当 時 の マハ ッラ ・クブ ラ ー に関 す る諸史 料 の 情 報 を ま とめ

て お こ う。 エ ジプ トに はマ ハ ッラで 始 ま る地 名 の町 や村 が数 多 く存 在 す るが,

マ ム ル ー ク朝期 の史 料 で 「マ ハ ッラal-Mahalla」 との み 記 さ れ て い る場 合 は,

ガ ル ビーヤ 行政 区(wilayat al-Gharbiyya)の マ ハ ッ ラ ・クブ ラー を指 して い

る。 この町 は,チ ェル ケ ス ・マ ムル ー ク朝 期 に は同 行政 区 に お け る総督 府 所 在

地 で あ っ た。そ して,カ ル カ シ ャ ンデ ィー が 記 す よ うに,ガ ル ビー ヤ の ワー リー

(総 督)職 に は40人 長 ア ミー ル が 着 任 した 。 イ ブ ン ・ ド ゥ ク マ ー ク の 地 誌 に よ

れ ば,マ ハ ッ ラ ・ク ブ ラ ー は モ ス ク(jawami'),マ ドラ サ(madaris),カ イ サ ー

リー ヤ(qayasir),織 物 市 場(bazzazin),フ ン ド ゥ ク(fanadiq)な ど が あ る 大

都 市(madlna kabira)で あ った 。マ ム ル ー ク朝 期 の都 市構 造 に関 す る地 誌 的 情

報 は不足 して い るが,1326年 に こ こ を訪 れ た イブ ン ・バ ッ トゥー タ は 「特 別 に

重 要 な所 で,素 晴 ら しい建 造物 が あ り,人 口が多 く,こ の町 に住 む人 々 はす べ

て の 美 質 を備 え て い る」 と記 し て い る 。 ア リー ・ム バ ー ラ ク の 『新 エ ジ プ ト誌 』

に 描 か れ て い る19世 紀 後 半 の マ ハ ッ ラ ・ク ブ ラ ー は,43の モ ス ク(jami'),7つ

の ザ ー ウ ィヤ,数 多 くの 墓 廟(darih),24の サ ビ ー ル,そ れ に古 い コ プ トの 教 会

(kanisa)と ユ ダ ヤ 教 の シ ナ ゴ ー グ(bi'a)を ひ と つ ず つ 持 つ 人 口約5万 人 の 町

で あ る 。 そ し て,43の モ ス ク の う ち28が9世 紀/15世 紀 以 前 の 建 造 物 で あ っ た

こ とが 『新 エ ジ プ ト誌 』 の 記 事 か ら読 み 取 れ る 。 こ の28の モ ス ク に つ い て 所 在

地 区 ご と の 内 訳 を 示 せ ば,ジ ャ イ ヤ ー ラ地 区Harat al-Jayyaraと ア ブ ー ・ダ ー

ビ ス 地 区Harat Abl Da'bisに 各3,ム タ ワ ッ リー 地 区Harat al-Mutawalli,

マ ンス ー ブ 地 区Harat al-Mansub,ア ブ ー ・ア ル=ハ サ ン地 区Harat Abi al-

Hasanに 各2,マ フ ジ ュ ー ブ 地 区Harat al-Mahjub,ミ ン シ ャ ア地 区Khutt

al-Minsha'a,キ リス ト教 徒 市 場Suwayqat al-NaSara,ナ ッ ワ ー リー ン市 場 地

区Harat Suq al-Nawwalin,ヌ ー バ ・モ ス ク地 区Harat Jami'al-Nuba,マ ハ ッ

ラ 市 場SUq al-Maballa,サ ン ダ フ ァ(サ ン ダ フ ァ ー)地 区Harat Sandafa,ワ ッ

ラ ー キ ー 地 区Harat al-Warraqi,ス ワ イ カ 地 区Harat al-Suwayqa,ア ブ ド ・

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ラ ッ ビ ヒ地 区Harat 'Abd Rabbi-hi地 区,ア ブ ー ・ア ル=カ ー ス ィ ム 地 区Khutt

Abl al-Qasim,サ ー ガ 地 区Harat al-Sagha,フ ァ ッ ワ ー リー ン地 区al-Faw-

walinに 各1,所 在 地 不 明 の もの が3と な る。モ ス クの 数 に住 民 数が 比 例 す る と

仮 定 して試 算 す れ ば,15世 紀 の マ ハ ッラ ・クブ ラー は人 口3万 人程 度 の都 市 と

い う こ とに な ろ う。

Ⅰ. 蜂起 の経 済 的 背 景

蜂 起 の前 年 の1449年,ナ イル の 満水 期 で あ る8月 に水 位 が 一 時 不 安 定 な数 値

を示 す と,カ イ ロの 小麦 価 格 が 上 昇 した。 この た め,首 都 の 民 衆 はパ ン屋 に殺

到 し,一 部 で は略 奪 行為 も観 察 され た。 小 麦 価格 の上 昇 傾 向 が 続 くな か,翌 月

17日 に はカ イ ロの ム フタ ス ィブ の ア リー ・ブン ・イ ス カ ン ダル'Ali b.Iskandar

とそのパ トロ ンで あ る有 力行 政 官 ナ ッハ ースAbu al-Khayr al-Nahhasに 対 す

る市 民 の大 規 模 かつ 攻 撃 的 な抗 議 行動 が ズ ワ イ ラ門 か らカ イ ロ城 塞 に至 る場 に

お い て 展 開 さ れ た 。 ス ル タ ー ン の マ ム ル ー ク た ち の 参 加 もみ られ た こ の 騒 乱 の

衝 撃 か ら,ジ ャ ク マ ク(在 位1438~53年)は ア リー を ヒス バ 職 か ら解 任 し,ウ

ス タ ー ダ ー ル(王 室 長 官)の イ ブ ン ・ア ル=ア シ ュ カ ルZayn al-Din Yahya b.

'Abd al -Razzaq b .al-Ashqar al-Qibti al-Qahiriに 同 職 を 兼 任 させ る とい う異

例の対応をもって事態の収拾を図った。同年夏期のナイルの水位上昇は結局の

ところ充分であったにもかかわ らず,そ の後冬にかけて小麦価格はさらに上昇

し,1450年1-2月 には前年春に比べ3倍 以上の価格である1000銅貨ディルハ

ム とい う高値 に達 したの で あ る。

上 記 の 一連 の展 開 は,経 歴 不 詳 の アサ デ ィーが 『経 世 済 民論 、Al-Taysir wa-l-

i'tibar』で指 摘 す る よ うに,都 市の 穀 物供 給 者 に よ る買 占め や 退蔵 行 為,そ れ に

通貨 問題 とい っ た人 為 的 ・社 会 的 要 因 に よ る もので あ った とみ られ る。 これ に

対 して,翌1450年 の夏期 に お け る物価 高 騰 は 第一 にナ イル の増 水 不足 とい う 自

然 的要 因 に よ る もので あ っ た。 そ の深 刻 さは,種 々の祈 願 式 の 開催 に慌 てて専

念 した ジ ャ クマ ク政 権 の対 応 に も表 われ て い る。8月19日 に ジ ャク マ ク はア ッ

バ ー ス家 の カ リフ を フス タ ー ト南 方 に あ る預 言 者 聖遺 物 廟al-Athar al-Naba-

wiyyaへ と派 遣 し,そ こ で増 水祈 願 とサ ダ カ を実行 させ た。 そ れ は 「預 言者 の

聖 遺物,そ れ にカ リフの父 祖 で あ る預 言 者 の叔 父 の ア ッバ ー ス を通 じて 」神 に

祈 願 を行 ない,神 の応答 を希 求 した か らで あ っ た。 当時 の 人 々 の心 的 世 界 にお

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い て は合 理 性 を持 っ て い た この よ うな政 策 的対 応 と並 行 して,ジ ャ クマ ク政権

は ウス ター ダー ル の イ ブ ン ・アル=ア シ ュカル の穀 倉(shuna)を 開 い て の廉

売,さ らに は貢納 国 で あ っ た キプ ロス王 国 か らの輸 入 な どの 緊 急対 策 も実施 し

た 。 しか し,16ズ ィラ ー ウの 満水 に至 る こ とな く満 水 祭 の 公 式行 事 が行 な わ れ

る とい う異 例 の事 態 とな り,穀 物価 格 は上 昇 を続 け た。 そ して,同 年10月 に は

小麦 価 格 が1ア ル ダ ッブ あ た り1200銅 貨 デ ィルハ ム とい う並 外 れ た 高値 を記 録

したのであった。

このように1450年 の夏期にナイルの増水が著 しく不足 し,エ ジプ ト全土で農

地の冠水が不全に終わったことで,同 年11月 以降ついに飢饉の状態に陥ること

となった。以後1451年 の末まで続 くこのジャクマク治世末期の飢饉に関して,

同時代史料は首都における貧民や物乞いの増加,都 市や農村の荒廃,そ れにエ

ジプ トの地方か ら都市,エ ジプ トからシリアへの流民などの社会の動 きを伝え

て い る。本 稿 が 考 察対 象 とす るマ ハ ッラ ・クブ ラー の蜂 起 とは,エ ジプ ト全 域

に お い て 物 価 が 高 騰 し,1403-4年 以 来 の カ タ ス トロ フ が ま さ に 始 ま りつ つ

あ っ た時期 に み られ た デル タ住 民 の 主体 的 行 動 だ っ たの で あ る。

Ⅱ. 蜂起 の経 過

854年 第9月25日 月 曜 日/1450年11月1日 にマ ハ ッ ラ ・クブ ラ ー で起 きた騒

動 につ いて は,サ ハ ー ウ ィー(1427-97年)の 年代 記 に詳 しい記 述 が 存在 す る

が,管 見 の 限 りその 他 の 同時 代 年代 記 は言 及 して い な い。 まず 本 章 で は,同 年

代 記 の記 述 内容 に依 拠 しな が ら,こ の地 方 蜂起 の展 開 過程 を具 体 的 に確 認 し,

その特 徴 につ い て考 察 を加 え て ゆ くこ とに しよ う。

前記 の 日に発生 した,ウ ス ター ダール の イブ ン ・アル=ア シ ュカ ル の母 を同

じ くす る弟(ま た は兄)で あ る ア フマ ドが 殺 害 され た事件 の原 因 につ い て,サ

ハ ー ウ ィー は次 の よ うに記 して い る。

この干 害 の 日々 に前 述 の者(ア フマ ド)の 不 正(zulm),食 糧 や そ の他 につ

い て の干 渉(ta'arrud),そ れ に醜 い行 為 の それ ぞ れ,に彼 が現 わ れ るこ とが

多 くな る と,民 衆('amma)は 彼 の そ う した こ と を許 す こ とが で きな く

な っ た。

ア フマ ドの 役職 名 につ い て は ど こ に も明 記 され てい な いが,為 政 者 の不 正 を

指 す ズ ル ム とい う語 の使 用 か ら,彼 は総 督 や そ の配 下 の ような地 方行 政 の 担 い

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手 で あ っ た と想 定 され る。 当時 の ガ ル ビーヤ の 総 督 が 誰 で あ った の か は同 時 代

史 料 で確 認 で きな いが,当 然 あ っ て しか るべ き総 督 に よ る事 件へ の対 応 が 一切

み られ な い こ とか ら,ア フ マ ドが 総督 で あ っ た可 能性 も高 い と考 え られ る。 い

ず れ に して も,ア フマ ドの圧 政 に民衆 が耐 え切 れ な くな っ た こ とが 蜂起 の 原 因

で あ った こ とが この 記 述 か ら読 み取 れ よ う。 そ して,物 価 高騰 期 のマ ハ ッ ラ ・

クブ ラー に お い て行 な わ れ た食 糧 供 給へ の権 力 の 介 入 とい う問題 点 が指 摘 され

て い る点 に も,わ れ わ れ は特 段 の 注意 を払 うべ きで あ ろ う。「干 渉」の具 体 的 内

容 につ い て は不 明で あ るが,こ う した サハ ー ウ ィー の解 説 は,こ の 蜂起 が対 ズ

ル ム反 乱 で あ る と同 時 に,食 糧 騒 動 と しての 性 格 も帯 び て い た こ と を示 唆 す る

もの で あ る。 また,蜂 起 の主 力が ア ー ンマ(民 衆)で あ っ た こ とが 示 され て い

る点 も重 要 で あ る。

そ して,年 代 記 の記 述 は蜂 起 の 発 端 とな っ たモ ス ク で の人 々の 動 きに移 る。

サハ ー ウ ィー は,

説 教 師(wa'iz)の シ ャ イフ で あ り,ガ ム リーal-Ghamriの 娘 婿 シャ ム ス ・

ア ッ=デ ィー ン ・ム ハ ンマ ドShams al-Din Muhammadの 父 で あ る ワ

リー ・ア ッ=デ ィー ン ・ア フマ ド ・ブ ン ・ムハ ンマ ド ・アル=マ ハ ッ リー

Wali al-Din Ahmad b.Mubammad b.Ahmad b.'Abd al-Rahman al-

Maballiは モ ス ク(jami')で ブ ハ ー リー[の ハ デ ィー ス集]を 朗 唱 した後,

ア ッラー フ に 向か い,救 い を求 め るこ と,そ れ に圧 政 者 た ち(zalama)に

対 す るア ッラ ー フ にお け る勝利 と報 復[の 祈 願]を 多 く行 な っ た。 そ こで

参 加 して い た者 た ち は騒 然 とな り(dajja),ア フマ ドに対 す る神罰 祈 願 の

声 を 上 げ,説 教 壇(manabir)に 登 っ た 。彼 ら は タ ク ビ ー ル を行 な い

(kabbaru),意 志 を明示 す る と[説 教 壇 か ら]降 りた。

と述 べ て い る。 説教 師 ア フ マ ド ・アル=マ ハ ッ リー が この時 に モス ク で説 教 活

動 を行 な って い た か につ い て は記 され て いな い。 この ア ー リムの 行 動形 態 と し

て確 認 され るの は,① ブ ハ ー リー のハ デ ィー ス集 の朗 唱,② ア ッラー フヘ の救

済 祈 願,③ 圧政 者(ザ ー リム)た ち に対 す る勝 利 と報復 につ いて の ア ッラー フ

へ の祈 願 で あ る。 こ う した説 教 師 の行 為 と語 りに呼 応 して モス ク に居 合 わせ た

人 々 は,① ア フマ ドに対 す る神罰 祈 願,② 説教 壇 上 にお け るタ ク ビール(「 ア ッ

ラー フ ・ア クバ ル」 と唱 え るこ と)と 意 志表 示 を行 な っ た こ とが確 認 され る。

この よ うに,サ ハ ー ウ ィー の記 述 に従 えば,マ ハ ッ ラ ・クブ ラー の蜂 起 は町 の

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モスク内での祈願行為を始点とした民衆運動であり,少 なくともその初動段階

においてモスクの説教師の リーダーシップが明瞭に示 されている事例であると

言えよう。サハーウィーは 「アーリムの指導する民衆反乱」としてこの騒動を

描 出 して い るの で あ る。

続 い て,蜂 起 者 た ち の行 動形 態,お よび 運 動 の拡 大 につ い てサ ハ ー ウ ィー は

次 の よ うに記 述 して い る。

彼 らが サ ンダ フ ァー に あ るア フマ ドの 住 居 に 向 か う と,ア ッラ ー フ のみ が

数 え得 る ほ ど[多 数]の 騒 々 しい輩(ghawgha)と 群 衆 が 後 に続 い た 。彼 ら

は叙 述 を超 えた 略奪 を働 い て か ら,ア フマ ドを家(bayt)か ら引 っ張 り出

し,激 し く殴 りつ け て頭 部 か ら流 血 させ た。 そ して体 の 中心 にの み 覆 い を

つ け て裸 で 歩 くア フマ ドをマハ ッ ラの モ ス ク(jami' al-Maballa)へ と連

れ て行 っ た。 モ ス ク に到着 す る と,彼 は杖 や 金 槌 で 頭 を殴 られ,気 を失 っ

て 崩 れ落 ちた 。彼 らはモ ス ク の端 か ら彼 の両 足 と頭 を持 って 引 きず り出 し

た 。彼 の 死 は急 な こ とで あ り,哀 悼 され るこ と もなか っ た。

まず こ こで確 認 され るの は,モ ス ク を後 に した蜂 起 集 団 が 同市 の 南 部 に位 置

す るサ ン ダ フ ァ ー 地 区 に あ っ た ア フ マ ド邸 へ と向 か う途 上,多 数 の 住 民 が 加

わ って 大群 衆 が 形 成 され た とい うこ とで あ る。彼 らはア フマ ド邸 か らの激 しい

略奪 に続 い て ア フマ ドに攻 撃 を加 え,裸 にす る とモス クに連 行 した 。 この時 点

で は ア フマ ドは頭 部 か ら出血 して い た とはい え,ま だ 歩行 可 能 な 状 態 で あ っ た。

殺 害 地 点 とな っ た 「マ ハ ッラの モ ス ク」の 名 称 は不 明で あ り,運 動 の起 点 とな っ

た モ ス ク と同一 の もの か ど うか も明 らか で な い。 先 に触 れ た28の モ ス ク の いず

れ か で あ る と思 われ るが,特 定 は で きな い。 そ して,蜂 起 者 たち が何 故 ア フマ

ドを 「マ ハ ッ ラ の モ ス ク」 に 連 行 した 上 で 殺 害 し た の か に 関 し て も,サ

ハ ー ウ ィー の説 明 は ない。 モス クが住 民 に とっ て 「裁 きの場 」 と され る こ と も

あ っ たか らだ ろ うか。指 摘 し得 るの は,モ ス クへ の 連行 の段 階 で は,蜂 起 集 団

は ア フマ ドに恥 辱 を与 え るこ と,「捕 囚」を公 に示 す こ とに力 点 を置 い て いた と

み られ る点 で あ る。 しか し,結 局,1397年 の ダマ ス クス の食糧 騒 動 にお け るイ

ブ ン ・ア ン=ナ シュ ウIbn al-Nashw惨 殺 事 件 と同様 に,「 ズ ル ム を行 な った為

政 者」 ア フマ ドは殺 害 され た。 マ ムル ー ク朝 期 の カ イ ロ にお け る食 糧 騒 動 で は,

為政 者 の 殺 害 に まで至 った ケー ス は皆 無 で あ り,そ の意 味 で このマ ハ ッ ラ ・ク

ブ ラー蜂 起 にお け る住 民行 動 の激 烈 さ は際立 っ て い る と言 わ ね ば な らな い。

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Ⅲ. 蜂起 参 加 者 の 逮捕 と結 末

弟(兄)の 死 を知 っ たマ ムル ー ク朝 の ウ ス ター ダール,イ ブ ン ・ア ル=ア シ ュ

カル の対 応 につ いて,サ ハ ー ウ ィー は,

この知 らせ が[カ イ ロ に]届 くと,ア ッ=ザ イニ ー(イ ブ ン ・ア ル=ア シ ュ

カル)は 配 下 の者 た ち を遣 わ した。 彼 らはマ ハ ッラ住 民 の 一 団 を逮 捕 し,

別 の者 た ち を殴打 したが,彼 らの 多 くが 逃 れ た ので あ る。

と記 述 して お り,捕 縛 され たの は蜂起 集 団の 一 部 で あ っ た こ とが わ か る。 いつ

の 時 点 か は確 定 で きな いが,ウ ス タ ー ダ ール の イ ブ ン ・ア ル=ア シュ カル は書

記 官僚 出 身 で あ りな が ら250人 もの マ ム ル ー ク を保 持 して い た とされ て お り,派

遣 され た 「配 下 の 者 た ち」 に はそ う した子 飼 いの マ ムル ー ク が含 まれ て い たの

か も しれ な い。

逮 捕 者 た ちの カ イ ロ到着 は翌 月8日 土 曜 日/11月14日 の こ とで あ った。Tibr

に は以 下 の よ うに記 され て い る。

ウス タ ー ダ ール は彼 らに会 うた め に シ ョブ ラーShubraに 姿 を現 わ し,逮

捕 者 た ち の一 部 につ い て命 令 を下 し,彼 らは その 面 前 で鞭 打 たれ た。彼 は

逮 捕 者 た ち の う ち約10名 を駱駝 や 驢 馬 や 馬 に乗 せ た 。 そ の 中 に は,前 述 の

説 教 師,そ れ にアル=バ ドル ・ブ ン ・ム ジ ャー ヒ ドal-Badr b.Mujahid,

前 述 の者 た ちの ひ と りで あ るア ブ ドゥル ガ ニ ー ・ブ ン・ク トゥワ ー'Abd al-

Ghani b.Qutwaが い た。市民 た ち(nas)は 彼 ら を見 よ う とハ ー ジブ 橋,そ

れか らズ ワ イ ラ門外 の集 合 住 宅(rab')へ と急 いだ。市民 た ち は逮捕 者 た ち

の 事 由 に心 痛 み,ウ ス ター ダール の悪 口 を公 言 し,罵 詈 した。 この た め,

ウス ター ダ ール は 自分 の こ とが心 配 にな り,九 日 日曜 日に は登 城 しな か っ

たの で あ る。

ウ ス ター ダール の イブ ン ・アル=ア シ ュカ ル は カイ ロの北 の 郊外 にあ る シ ョ

ブ ラー村 まで 出 向 き,そ の場 で 逮捕 者 の一 部 を鞭 打 ち刑 に処 し,説 教 師 の ア フ

マ ド ・アル=マ ハ ッ リー な ど 「首謀 者 た ち」 をカ イ ロ市 内へ と連 行 し,首 都 を

南 下 した。 こ こで,説 教 師 マ ハ ッ リー以 外 にふ た りの個 人 名 が 記録 され て い る

点 に注 意 を払 って お きた い。 この 記述 で さ らに注 目 され るの は,連 行 され る蜂

起 逮捕 者 た ち にカ イ ロ市民 が 同 情 し,ウ ス タ ー ダー ル に対 して 非難 の声 を上 げ

た とい う事 実 で あ る。 こ う した首都 市 民 の批 判 や 連 帯意 識 の表 出 に直 面 し,ス

168

ル タ ー ン王 室 の運 営 者 と して 強大 な 力 を保持 して い た ウス タ ー ダ ール が 恐 れ を

な して登 城 を取 り止 め た こ と を示 す記 事 も重視 され な けれ ば な らな い。 首 都 住

民 は ズル ム と戦 う地 方 反 乱 に共 鳴 し,マ ハ ッ ラ住 民 の義憤 を共 有 して い た よ う

にみ え る。そ して,彼 らの反 感 の発 現 は,「 不 正 な為 政 者 」 と血 を分 け た兄 弟 の

関係 に あ っ たイ ブ ン ・アル=ア シ ュ カル に とっ て,身 の 危 険 さえ感 じさせ るほ

どの もの だ った の で あ る。 サ ハ ー ウ ィー は これ に加 えて,警 護 人 た ち(hara-

siyya),ズ ール(zu'r),マ ムル ー クた ちが 集 結 して い た こ と もイ ブ ン・ア ル=ア

シ ュカル の 恐怖 の理 由で あ った と し,行 く先 々 で彼 が 非難 や 神 罰 の 祈 願 か ら逃

れ られ な か った こ と も書 き留 め て い る。

その後 ようや く登 城 を果 た した イ ブ ン ・アル=ア シ ュカル がス ル ター ンに事

情 を報 告 す る と,ス ル ター ン ・ジ ャ クマ ク は怒 りを露 わ に し,自 ら民 衆('awa-

mm)に 対 して 討伐 の騎 行 を し よ う と した 。その 前 にスル ター ンは,カ ー デ ィー

た ち に対 して 自 らの 行 動 を正 当化 す るた め の法 勧 告 書(fatwa)の 作 成 を求 め

たが,こ れ は彼 ら に拒 否 され て しまっ た。 この た め,ジ ャクマ ク は逮捕 者 た ち

を 召喚 す る と,シ ャー フ ィイー 派 の カー デ ィー の裁 定 を仰 いだ 。 その 結果,彼

らの 一 部 は カ イ ロ総督(wali al-Qahira)の も とへ と送 られ,タ ー ズ ィール 刑 の

うえ投獄 とい う処分 に な っ た。 続 い て,市 内 に は,武 器 の携 行,投 石,不 法 侵

入 を禁 じる布 告 が 出 され た。

そ れ か ら約 一 ヶ月 後 の 第11月8日 日曜 日/同 年12月13日,ム ハ ン マ ド ・

ア ッ=ト ゥラ イニ ーMuharnmad b.'Umar al-Turayniと い う シャ イ フが マ

ハ ッラ ・クブ ラ ーの 町 か らカ イ ロに来 訪 し,ス ル ター ン ・ジ ャク マ ク に面 会 し

た。 この 人物 につ い て は後 で検 討 す るが,結 局 そ の 「執 り成 し(shafa'a)」 が効

を奏 し,こ の事 件 の投 獄 者 全 員 の釈 放 が 実現 す る こ と とな った の で あ る。 以上

の よ うに,有 力 ウス タ ー ダー ル の 弟(兄)の 殺 害 に まで至 った マ ハ ッラ ・ク ブ

ラー の民衆 蜂起 は,逮 捕 ・投獄 され た蜂 起 者 た ちの 全員 解 放 とい うか た ちで幕

を閉 じたの で あ る。 こ う した結 末 につ いて は,ス ル タ ー ン権 力 が ア フマ ドの ズ

ル ム を間 接 的 なが ら も認 め た こ と を意 味 す る と解 釈 す るこ ともで きるだ ろ う。

Ⅳ. イブ ン ・アル=ア シ ュ カル とア フマ ド

以上 の よ うな マハ ッ ラ ・クブ ラー蜂 起 の性 格 につ い て考 察 す る 際 に必要 とな

るの は,襲 撃対 象 とな った ア フマ ドShihab al-Din Ahmadが い か な る人物 で

169

あ り,彼 が 地 方 社会 に お い て どの よ うな位 置 に あ った のか とい う点 で あろ う。

しか し,唯 一 の 手 懸 か り と も言 うべ き年 代 記 や伝 記 集 にお け るサ ハ ー ウ ィー の

記 述 には,ウ ス ター ダ ール の イブ ン ・アル=ア シュ カル の 同 母 弟(兄)で あ り,

背 が低 く太 って いて浪 費家 で あ った との情 報 が確 認 され るの み で あ る。 他 方,

マ ム ル ー ク朝 国 家 の要 職 を務 め た イ ブ ン ・アル=ア シ ュカ ル につ い て は,史 料

に多 くの記 載 を見 出 す こ とが で き る。 そ こで,蜂 起 の含 意 を少 しで も読 み解 く

ため に,前 記 の 物 価 高騰 期 にお け る活 動 を 中心 にイブ ン ・ア ル=ア シ ュ カル に

関 す る史料 の 情 報 を ま とめ てみ る こ とに しよ う。

死 亡 時 の 年 齢 か ら,イ ブ ン ・ア ル=ア シ ュ カル はバ ル クー ク の 第1期 治 世

(1382~89年)の 頃 に カ イ ロで 生 まれ た と推 定 され る。 マ ムル ー ク朝 の諸 官 庁

に勤 務 す る書 記 官 僚 と して,彼 の キ ャ リア は始 まっ た。 キ ブ テ ィー(コ プ ト教

会 信 徒)の ニス バ を持 つ彼 は,コ プ ト教 会 の キ リス ト教 か らイ ス ラ ーム へ の 改

宗者 の 家系 に生 まれ,たとみ られ る。 そ の後,彼 は1440年 か ら1467年 の 間 に10回

に わ た りウ ス タ ー ダー ル職 を務 め,ジ ャ クマ クか らカー イ トバ ー イの 治 世 初期

に か けて スル タ ー ン権 力 の 中枢 に身 を置 い た。 しか し,蓄 財 と度 重 な る財 産没

収 を繰 り返 し経 験 し,浮 き沈 み の激 しい後 半 生 を送 り,最 期 は カー イ トバ ー イ

に10万 デ ィーナ ール を没 収 され て 王城 内で 拷 問死 したの で あ る。

色 白で 青 い瞳 を持 つ イ ブ ン ・ア ル=ア シ ュカル は,大 宴 会 を主 催 す る寛大 な

人物 とされ,物 価 高 に際 して は個 人 的 な救 貧 活動 に尽 力 した とい う。 また,イ

ス ラ ー ムの 宗教 施 設 を中心 と した積 極 的 な建 設活 動 も特 筆 す べ き点 で あ る。 列

挙 す れ ば,カ ー ヒラ地 区 のバ イナ ・ア ッ=ス ー ライ ンBayna al-Suraynに あ る

彼 の邸 宅 周 辺 の モ ス ク,ク ッター ブ,ハ ンマ ー ム,ブ ー ラ ー ク地 区 の マ ドラサ

(通称 カー デ ィー ・ヤ フヤ ー ・モ ス ク),ハ ンマ ーム,カ イ ロ南 部地 区の 「象 池 」

の 北 に位 置 す るハ ッバ ー ニ ーヤal-Habbaniyyaに あ るモス ク,サ ビ ール ・ク ッ

タ ー ブ,ア ブ ー ・ター リブ とい う名 の シ ャイ フ(導 師)の ため の リバ ー ト(修

道 場),さ らに は ヒジ ャー ズ の給 水 施 設 が イブ ン・ア ル=ア シ ュカル に よる建 築

物 と して確 認 され て い る。政 府 高 官 と して も並 外 れ て盛 ん な こ う した建 設 ・慈

善 活動 の裏 には,キ ブ テ ィー(コ プ ト)と 呼 ばれ た ム ス リム行 政 官 の 宗教 的立

場 の 危 うさが あ る よう に も思 われ る。

前 述 の ように1449年9月 に カイ ロで食糧 騒 動 が 発 生 す る と,ウ ス ター ダ ール

の イ ブ ン ・アル=ア シ ュカル はム フ タス ィブ を兼 任 し,首 都 の市 場 行政 の責 任

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者 と して事 態 に対 処 す る こ ととな った。 そ の際,Tibrに よれ ば,民 衆 は官職 売

買 に よ らず に彼 が ヒスバ を担 う こ と を喜 んだ とい う。そ して,イ フ ミー ミーTaj

al-Din al-Ikhmimiと い う学 者 が ヒスバ 業 務 に つ い て 彼 を補 佐 した 。他 方,

Hawadithは,イ ブ ン・アル=ア シ ュカル が ヒスバ 職 着 任 の 前 日に 小麦 を1ア ル

ダ ッブ あ た り1デ ィーナ ール で廉 価 販 売 す る と予告 して い た こ と を民衆 が喜 ん

だ 理 由 とす る。 しか し,就 任 後,彼 が ブ ー ラー ク に あ っ た 自 らの穀 倉 を開 い て

量 的 な 制 限 な しに小 麦 を販 売 した 際 の売 値 は,当 時 の 市価 と変 わ らな い約500銅

貨 デ ィルハ ムで あ った とい う。 こ う した イブ ン ・タ グ リー ・ビル デ ィー の記 述

か ら,官 職 売 買 につ い て批 判 的 で あ っ た カ イ ロ民衆 は イブ ン ・アル=ア シ ュカ

ル の ヒスバ 職 兼 任 に期 待 を膨 らませ て い たが,予 告 の廉 売 が 実現 せ ず不 満 足 な

結 果 に終 わ っ た こ とが窺 え る。 そ して,そ の よ うな民 心 を察 知 した結 果 か,3

日後 に は,ム フ タス ィブ に よっ て新 設 されて い た違 法 課 税(mazalim)を 廃 す

る布 告 が 出 され たの で あ る。

1450年1月 に は物 価 の上 昇 が 続 くな か,彼 は ヒスバ 職 か ら退 き,代 わ って カ

イ ロ総 督 の ジャ ーニ バ クJanibak al-Yashbakiが 兼任 す るこ ととな った。 これ

は 首都 の 警 察 長官 が 市 場 行政 の責 任 者 を兼 ね る もの で あ り,ジ ャ クマ ク政権 が

民衆 の経 済 的 不満 を力 で押 さえ込 もう と して いた こ とを意 味 す る。 そ して,こ

う した体 制側 の動 きに抗 す るか の よ う に,同 年3-4月 にカ イ ロ のハ ル ク門外

に住 む スー ダー ン系 解 放 奴隷 の聖 者(mu'taqad)サ ア ダー ンSa'danを 対象 と

した ズ ィヤ ー ラ が突 如 流 行 した。 それ は,ジ ャク マ ク政権 と対 立 す る 「生 け る

聖 者 」へ の 崇敬 感 情 の 高 揚 で あ っ た。 サ ア ダー ンの下 に集 った信 者 た ち には多

くの女 性 が 含 まれ,身 体 障 害者,病 人 も少 な くな か っ た。 ジャ クマ ク政権 は こ

の聖 者 を死 刑 に処 す よ う命 じた が,民 衆 の強 い反 発 に あ って 実行 す る こ とは で

きな か っ た。 結 局,聖 者 サ ア ダ ー ンへ の処 罰 はカ イ ロか らの追 放 に弱 ま り,処

罰 を担 っ た大 ハ ー ジブ(hajib al-hujjab)が 聖 者 へ の怖 れ か ら任 務 を遂 行せ ず,

ダ ミエ ッタ に追 放 され,こ の事 件 は終 息 した。 注 目す べ きは,こ の 騒 ぎの端 緒

と して,サ ア ダー ンの主 人 で あ っ た故 カ ー ス ィムZayn al-Din Qasimの 遺 産 を

め ぐって,サ ア ダー ン とイブ ン ・アル=ア シ ュカル の間 に対 立 が あ った こ とを

Tibrが 伝 えて い る点 で あ る。つ ま り,人 気 聖 者 の 首都 追 放 に帰 結 した この事 件

の顛 末 が,カ イ ロ住民 の共 有 す るイブ ン ・アル=ア シ ュカル の イ メ ー ジに負 の

影 響 を与 えた こ とが 充分 に考 え られ るの で あ る。経 済 状 況 が一 層厳 し くな った

171

同 年11月 に起 きた マ ハ ッラ ・クブ ラー蜂 起 の鎮 圧 に対 して,カ イ ロ民 衆 の 反 イ

ブ ン ・アル=ア シ ュカ ル感 情 が 噴 出 した とい う前 述 の展 開 の前 提 と して,こ の

聖 者 サ ア ダー ン追 放 事件 を看 過 す る こ とはで きな い と言 え よ う。

以上 の よ うに,1449年 夏 の ヒス バ職 兼任 以 降,首 都 住 民 が ウ ス ター ダー ル の

イブ ン ・アル=ア シ ュカル に抱 くイメ ー ジ は,年 代 記記 述 に よる限 り明 らか に

悪 化 す る傾 向 に あ った よ うに み え る。 そ して,飢 饉 が始 まっ た時 点 で 生起 した

対 ズ ル ム反 乱 と して の マ ハ ッラ ・クブ ラ ー蜂 起 と私 怨 を込 め た その 弾圧 に よっ

て,彼 は為 政 者 と して の 首都 民 衆 の支 持 や 信 用 を損 な うこ と とな った の で あ る。

Ⅴ. 指 導 的知 識 人 た ちの 実像

続 いて,マ ハ ッラ ・クブ ラ ーの 蜂起 に 関連 して 史料 に登 場 す る指 導 的知 識 人

につ いて,伝 記 集 史 料 の 記載 内容 に よ りなが ら検 討 を加 えて ゆ くこ とに しよ う。

第一 に考 察 すべ きは,蜂 起 の始 点 にお い て重 要 な役 割 を果 た した 説教 師 マ ハ ッ

リーで あ る。 彼 につ いて は,サ ハ ー ウ ィーの伝 記 集 に比 較 的 詳 しい記 述 が 残 さ

れ て い る。 そ の 内容 を ま とめ れ ば以 下 の とお りで あ る。

ア フマ ド ・アル=マ ハ ッ リー(1477年 没)は,シ ャ ー フ ィ イー派 に属 す る説

教 師(wa'iz,khatib)で あ っ た。彼 はお そ ら くマ ハ ッ ラ・クブ ラー に お いて イ ブ

ン・ク トブal-Wali b.Qutbや カ ラキーal-Burhan al-Karaklか ら教 え を受 け,

そ の後 カイ ロに 出 て イブ ン ・ハ ジ ャル や ア ラム ・ア ッ=デ ィー ン ・アル=ブ ル

キ ー ニ ーal-'Alam al-Bulqiniとい っ た 当 代 一 流 の ア ー リ ム た ち の 下 で ブ

ハ ー リーの ハ デ ィース 集 を学 んだ 。 そ して,バ ッジ巡 礼 を複数 回完 了 した後,

マ ハ ッラ ・クブ ラ ー とカ イ ロ で活 躍 した スー フ ィーの シ ャイ フ,ガ ム リー との

間 に絆 を結 ぶ こ と(intima'li-l-Shaykh al-Ghamri)を 熱 望 し,息 子 の ムハ ンマ

ドをガ ム リー の娘 と結 婚 させ た。

マ ハ ッ リー が性 格 的 に健 全(salim)で あ っ た と記 すサ ハ ー ウ ィー は ま た,

「善 を命 じ,悪 を禁 じる こ と(al-amr bi-l-ma'ruf wa-l-nahy 'an al-munkar)」

を重視 す る性 向 が 強 か った た め に,こ の説 教 師 とカ イ ロ南部 の ス ィバ ー ウ橋 周

辺 で 生活 す る人 々 との間 に紛 争 が 起 きた こ とにつ い て も記 して い る。所 有 す る

奴 隷 に歩行 不 能 な ほ ど重 荷 を負 わせ る者 た ちが上 記 の 地 区 に い た こ と,「過 ちの

娘 た ち(banat al-khata')」,つ ま り娼婦 が多 く住 む集 合 住 宅群(rubu')が あ る

こ とに問題 を感 じたマ ハ ッ リー は,ス ィバ ー ウ橋 と上 記集 合 住 宅 の破 壊,彼 ら

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に よ る奴隷 使 用 の 禁止 な どを主 張 した の で あ っ た。 しか し,そ れ は実 現 に至 ら

ず,彼 は スル ター ン ・ジ ャ クマ ク の指 示 で病 院(bimaristan)に 一 時 「投 獄 」,

つ ま り強制 的 に入 院 させ られ たの で あ る。社 会 改 革 に意 欲 的 だ っ たマ ハ ッ リー

が,マ ハ ッラ ・クブ ラー蜂 起 以 前 にカ イ ロで ジ ャ クマ ク政 権 との 「衝 突 」 を経

験 して い た とい う事 実 は刮 目に値 す る。 こ う してみ れ ば,ジ ャク マ クの 王 室 長

官 イブ ン ・アル=ア シュ カル の 弟(兄)と の対 決 も,決 して唐 突 で はな い と言

え るの で は な いだ ろ うか。

マ ハ ッ リーが 姻 戚 関係 を結 ん だ ガ ム リーMuhammad b.'Umar al-Ghamri

は,15世 紀 前 半 の エ ジプ トにお い て最 も注 目す べ き在 野 の 宗教 指 導 者 の ひ と り

で あ る。彼 は849年 第8月/1445年11月 に マハ ッラ ・クブ ラー で死 去 した著 名 な

ス ー フ ィー の導 師(shaykh)・ 聖 者(mu'taqad)で あ り,カ イ ロ とマハ ッラ ・

クブ ラー を舞 台 に独 自の宗 教 活 動 を展 開 した。 イブ ン ・ハ ジャル に よれ ば,こ

の スー フ ィー聖 者 はカ イ ロ南 部 地 区 の ア ミール ・アル=ジ ュユ ー シ ュ ・ス ー ク

の真 中 に拠 点 とな る金曜 モ ス ク を新 設 した こ とで,学 者 た ち(ahl al-'ilm)の 非

難 を集 め た。 イブ ン ・ハ ジ ャル 自身 もそ こで の 集 団礼拝 を止 め る よう通 達 した

が,彼 は これ を拒 否 した とい う。 こ の よう に,ガ ム リー は 首都 の 有 力 な 学 者 た

ち と対 立 関係 に あ っ た よ うで あ る。そ して,ガ ム リー を開祖 とす る「ガ ム リー ヤ

教 団」 が そ の死 後 もナ イル ・デ ル タ地 域 や カ イ ロで大 きな勢 力 を保 持 して い た

こ とは,851年 第4月/1447年6-7月 に起 こ った,ア フマ ド・アル=バ ダ ウ ィー

の マ ウ リ ドを争 点 と したガ ム リー ヤ の一 団(jama'a min al-Ghamriyya)と ア

フマ デ ィー ヤ の一 団(jama'a min al-fuqara'al-Abmadiyya)の 対 立,ス ル タ ー

ン ・ジ ャ クマ ク に よ るガ ム リー ヤ側 の有 力 者 の処 罰 とい う一 連 の事 件 に も示 さ

れ て い る。 ガ ム リー と婚 姻 を通 じて密 接 な関係 を結 ん で い た同郷 人 マハ ッ リー

に よる蜂起 へ の煽 動 が,ガ ム リーヤ 対 ス ル タ ー ン権 力 とい う構 図 に お い て も何

らか の 意 味 を持 って いた 可 能 性 が あ る と い う点 に,わ れ わ れ は 充分 な 注 意 を

払 っ て おか な け れ ばな らな い。

も う ひ と り注 目す べ き人 物 は仲 裁 役 と して 最 後 に 現 わ れ た ム ハ ンマ ド ・

ア ッ=ト ゥ ライニ ー で あ る。彼 につ いて もサハ ー ウ ィーの 伝記 集 に短 い記述 が

残 され て い る。彼 は マー リク派 に属 し,父 ウ マルSiraj al-Din'Umar b.Muham-

mad(1400年 没)と 弟 アブ ー ・バ クルZayn al-Din Abu Bakr (1426年 没)は と

もにマ ハ ッ ラ ・クブ ラーの 著 名 なマ ー リク派 の 学者 で あ った。 客 人 と して もて

173

な され た経 験 を持 つ サ ハ ー ウ ィー は,彼 が ム ー タ カ ド(聖 者)で あ っ た と明 記

して い る。 彼 は1457年 に死 去 してサ ンダ フ ァー地 区 に あ る父 や 弟 の墓 の 傍 らに

埋 葬 され た。 ま た,弟 の ア ブ ー ・バ クル に つ い て は,さ らに 詳 しい伝 記 情 報 が

存 在 す る。 それ に よれ ば,有 名 なム ー タ カ ドで あ った ア ブ ー ・バ クル は,農 耕

に従 事 す る菜 食 主 義 者,徹 底 した禁欲 者 と して知 られ,ア フ マ ド ・アル=バ ダ

ウ ィー や ウマ ル ・ア ッ=サ マ ンヌ ー デ ィー'Umar b.'Isa al-Samannudiの 墓 廟

へ の徒 歩 巡礼 を度 々行 った とい う。 マ ク リー ズ ィー は,「 彼 の 執 り成 し(shafa-

'at-hu)は 拒 まれ る こ とが なか った 」と して い る。つ ま り,ム ハ ンマ ドとアブ ー ・

バ クル の 兄 弟 は揃 っ てマ ハ ッラ ・クブ ラー社 会 にお いて生 前 か ら聖 者 崇敬 の対

象 とな つた ア ー リムで あ り,い ず れ も支 配権 力へ の 執 り成 し能力 に長 けて い た

の で あ る。

この よ う に,蜂 起 の 関係 者 に注 目す る こ とで,マ ハ ッラ ・クブ ラー の地 方 都

市社 会 にお け る二 系 統 の聖 者 の存 在 が 浮上 して きた 。蜂 起 に お いて指 導 性 を発

揮 し,投 獄 され たマ ハ ッ リー は,聖 者 ガ ム リー と姻 戚 関係 に あ り,ガ ム リー ヤ

の 一員,な い しは ガ ム リー ヤ とご く近 い位 置 に あ った ア ー リム とみ られ る。 そ

して,蜂 起 敗北 の後 に は,別 の聖 者 で あ る トゥライ ニ ーが 蜂 起 者 た ち の解 放 に

尽 力 し,成 果 を収 め た。 ジ ャクマ ク政権 との関 係 につ い て言 えば,対 立 傾 向 が

顕 著 だ っ たガ ム リーヤ や マ ハ ッ リー と違 っ て,ト ゥ ライニ ー の 方 は よ り親 和 的

な関係 を構 築 して い た よ う に見 受 け られ る。また,同 郷 の宗 教指 導者 マ ハ ッ リー

の 解 放 に トゥ ライ ニ ーが 努 力 した とい う事 実 に鑑 み れ ば,こ の地 方都 市 聖 者 の

両 派 の 関係 は悪 くな か った と言 え よ う。 こ う して,マ ハ ッラ ・ク ブ ラー 蜂起 と

い うひ とつ の政 治 的 コ ン フ リク トへ の着 目か ら,当 該 時 期 の スル タ ー ン権 力 に

とって デル タ都 市 の支 配 を維 持 す る上 で 「生 け る聖 者 」 との交 流 や 協 働 が有 効

で あ った こ と,そ して,軍 人政 権 と地 方都 市 民衆 の 間 を媒 介 す る聖 者,あ る い

は軍 人支 配 へ の 抵抗 力 を示 す聖 者 が ロー カル な権 威 と して政 治 的重 要 度 を高 め

て い た とい うこ とへ と思 い至 るので あ る。

お わ り に

以 上,こ の蜂 起 に関す る年代 記 記 事 を中央 に据 え て分析 し,こ れ に 「登 場 人

物 」 の 伝 記的 情 報 に基 づ く考 察 を加 え,こ れ まで研 究 者 の視 線 が 向 け られ る こ

とが 無 か っ た1450年 のマ ハ ッラ ・クブ ラ ー蜂 起 の 諸側 面 を可能 な限 り照 射 して

174

きた。この蜂起はズルムに起因した激 しい地方都市反乱であり,物 価高騰期の

食糧騒動 としての一面 も持っていた。そして,そ こには,「善を命 じ,悪 を禁 じ

ること」に尽力する有力説教師による強い指導 も観察された。襲撃対象となっ

た人物の兄(弟)で あるウスターダールによる反乱鎮圧は,蜂 起集団に同情す

る首都住民の反抗的動 きを惹起することとなり,ス ルターンも本格的介入を余

儀なくされた。また,別 の地方都市有力者である聖者の執 り成 し行為 によって

入獄者が釈放され,事 態が収拾 したことは,首 都のスルターン権力と地方の社

会的権威が取 り結ぶ関係の意味やその社会的機能の重要性を示す ものである。

マムルーク朝期の首都カイロにおける食糧騒動においては,こ れまで指導者

の存在は確認されず,そ の個人名が把握されることもなかった。そうした点で

は,物 価暴騰期のマハッラ ・クブラー蜂起において指導的人物の存在 と活動が

確認され,そ の思想傾向の一端にまで迫 りえたことは収穫 と言ってよかろう。

所与の史料記述から蜂起住民の不平や憤 りに関する充分に内在的な理解を獲得

するには至らなかったが,ナ イル ・デルタの地方都市社会における有力な知識

人たち,す なわち,ア ーリム,ス ーフィー ・聖者の存在様態や政治的 ・文化的

な影響力,彼 らと軍人たちとの関係の実状を解明することが,重 要課題として

浮かび上がってきた。首都カイロの食糧騒動に関しては,そ の政治文化的特徴

として 「対話性」が重視 されるべきであるが,こ のマハッラ ・クブラー蜂起,

そして冒頭に触れた1418年 のダミエッタの蜂起などには,首 都にない激化傾向

と攻撃性 も観察される。ア ドルの実現を掲げるスルターン権力が君臨する王都

とは異なり,地 方都市に住む民衆はズルムに対 し自らの実力行使によって抗す

ることを余儀なくされたのであろうか。こうした問いに答えるためにも,本 稿

で試みたような個別事例の研究を可能な限 り積み重ね,マ ムルーク朝期エジプ

トの地方都市や農村における民衆運動 と政治文化に関する動態的知見 を蓄えて

ゆかなければならない。

(1) A.N. Poliak, "Les revoltes populaires en Egypte a l'epoque des Mamelouks,"

Revue des Etudes Islamiques, 8 (1934) , 251-71; I.M. Lapidus, Muslim Cities in the Later

Middle Ages, Cambridge, 1967, 143-84; B. Shoshan, Popular Culture in Medieval

Cairo,Cambridge,1993,52-66;拙 稿 「14世紀末-15世 紀 初 頭 カ イ ロの食 糧 暴 動 」『史学

雑 誌 』97-10 (1988),1-50;三 浦 徹「 街 区 と民 衆 反乱-15-16世 紀 の ダマ ス クス 」 『社

175

会 的結 合 』岩 波 書店,1989,77-107;拙 稿 「イス ラ ーム都 市 の食 糧 騒 動-マ ムル ー ク

朝 時代 カ イ ロの場 合 」 『歴 史 学 研 究』612 (1990),22-30,53.な お,本 稿 で は 年 月 日は ヒ

ジ ュラ暦/西 暦 の 順 で 示 し,単 独 で 記 す場 合 に は西 暦 を表 わす 。

(2) 遊 牧 民 や農 民 の 反 乱 に 関す る研 究 にPoliak op.cit; J-C.Garcin,"Notes sur les

rapports entre Bedouins et fellahs a l'epoque des Mamelouks,"Annales Islarnologi-

ques,14 (1978),147-63が あ るが,地 方 民の 抗議 作 法 や権 力観,地 方 の政 治 文 化 の 解 明

は進 ん で いな い。

(3) al-Maqrizi,Kitab al-Suluk li-ma'rifat duwal al-muluk,Cairo,1956-73[以 下,

Sulukと 略記],Vol.4,429-30.サ ムナ ー ウ ィー ヤ はマ ンザ ラ湖 の 島サ ム ナ ーSamna'

の 住 民 を指 す とみ られ る。 そ れ は,フ ァー リス クー ル の 東 に あ る コー ム ・ア ッダハ ブ

島 に比 定 され る(Muhammad Ramzi,al-Qamus al-jughrafi li-l-bilad al-Misyiyya,

Cairo,1953-54,Vol.1,281)。 ま た,'uzab ('izab)は イ ズバ'izbaの 複 数 形 で あ る。

イ ズバ と言 えば,19世 紀 後 半 に大 土地 所 有 者 が 新 設 した綿 花 栽 培 拠 点 と して の 集 落

が 想 起 され るが(加 藤 博 『私 的 土 地 所 有 権 とエ ジプ ト社 会 』創 文 社,1993,522-26),

マ ム ル ー ク朝 期 に マ ンザ ラ 湖 上 の 集 落 が こ の語 で 呼 ば れ て い た こ と は注 目 に値 す

る。

(4) Ibn al-Furat,Ta'Yikh duwal wa-l-muluk,Beirut,1936-70,Vol.9,404-405.マ ム

ル ー ク朝 後 期 に お け るマ ザ ー リム法 廷 を利 用 した 民 衆 運 動 につ い て は別 に論 じた

い。

(5) H. Halm, Agypten nach den mamlukischen Lehensregistern, Wiesbaden, 1979-

1982, Vol.2, 311, 468, 519.

(6) al-Qalqashandi,Subh al-a'sha bi-sina 'at al-insha; 1913-18,Vol.4,66.そ の 重 要

性 に つ い て,カ ル カ シ ャ ン デ ィ ー は ク ー ス の 総 督 職 に 比 肩 さ れ る とす る 。

(7) Ibn Duqmaq, Kitab al-Intisar li-wasitat 'iqd al-amsar, Cairo, 1310 A.H.,Vol.5,

82.

(8) イ ブ ン ・バ ッ ト ゥ ー タ(家 島 彦 一 訳)『 大 旅 行 記 』 第1巻,平凡 社,1996,74.

(9) 'Ali Mubarak, al-Khitat al-tawfigiyya al-jadida li-Misr al-Qahira wa-mudun-

ha wa-bilad-ha al-gadima wa-l-shahira,1305A.H.,Vol.15,18-20.ア リ ー ・ム バ ー ラ

ク の 取 り上 げ た 地 区 名 は 計23に の ぼ る 。地 区 名 変 更 や 地 区 再 編 も あ っ た で あ ろ う が,

そ の う ち の18が15世 紀 ま で に 存 在 し て い た こ と に な る 。

(10) Al-Sakhawi,al-Tibr al-masbuk fidhayl al-suluk,Cairo,1897[以 下,Tibrと 略

記]259-60; Ibn Taghri Birdi,Hawddith al-duhur fi mada al-ayyam wa-l-shuhur,

Cairo,1990[以 下,Hawadithと 略 記],Vol.1,162.

(11) Tibr, 260-261; Hawadith, Vol.1, 165-68; Ibn Taghri Birdi, al-Nujum al-zahira

fi muluk Misr wa-l-Qahira,Cairo,1929-72[以 下,Nujumと 略 記],Vol.15,397-401;

Ibn Iyas, Bada'i' al-zuhur fi waqa'i' al-duhur, Cairo, 1960-75, Vol.2, 275.

(12) Tibr, 261; Hawadith, Vol.1, 168.

176

(13) Tibr, 270.

(14) Al-Asadi, al-Taysir wa-l-i'tibar wa-l-tahrir wa-l-ikhtibar, Cairo, 1967, 111-46.

(15) Tibr, 310-12; Hawadith, Vol.1, 231-42.

(16) Tibr, 312; Hawadith, Vol.1, 242.

(17) Tibr, 346-47; Hawadith, Vol.1, 248, 258-59, 264-65, 268, 270.

(18) 1403-1404年 の危 機 に関 して は,拙 稿 「14世紀 エ ジプ ト社 会 と異 常気 象 ・飢 饉 ・

疫 病 ・人 口激 減 」『歴 史 に お け る 自然 』岩 波 書 店,1987,76-78; A.Sabra,Poverty and

Charity in Medieval Islam: Marnluk Egypt,1250-1517,Cambridge,2000,150-55を 参

照 。な お,Sabra,op.cit,158-61に は1449-52年 の 経 済 危機 に 関 す る考 察 が あ り,B.

シ ョシ ャ ン の 先 行 研 究 へ の批 判 もみ られ るが,こ れ につ い て は 食糧 騒 動 研 究 の 視 座

か ら別 に 詳論 す る こ とに した い。

(19) サ ハ ー ウ ィー が こ の 事 件 に つ い て 詳 し い記 述 を 残 した の は,彼 の 祖 父 が マ

ハ ッ ラ・ク ブ ラー の近 くに あ る同 地 方 の 町 サ ハ ーSakha'の 出 身 だ っ た た め,こ の 地

域 との 間 に 結 び つ きが あ っ た か らで あ る と推 察 され る(Al-Sakhawi,al-Daw' al-

lami'fi a'yan al-qarn al-tasi', Cairo,1934-36[以 下,Daw'と 略 記],Vol.7,175-77)。

な お,最 近 校 訂本 が 出版 され た ア ブ ド・ア ル=バ ー ス ィ ト(1514年 没),そ れ に ビカ ー

イー(1480年 没)の 年 代 記 に つ い て は残 念 なが ら未 見 で あ り,今 後 の 課 題 と した い。

マ ハ ッ ラ ・ク ブ ラ ー で は,こ れ に先 立 つ821年 第3月/1418年4月 に も通 貨 騒 動

(qiyam ahl al-Mahalla)が 起 こ っ て い る。民 衆 は この 時,同 市 に あ っ た銅 貨 をフ ロ ー

リン金 貨 に 強 制 交 換 す る こ とを命 じた総 督 に対 して投 石 を行 な っ た。 さ らに鉄 の 貨

幣 の使 用 や 銅 貨 を求 め て の 首 都 へ の 移 動 な ど 興 味深 い 住 民 の 動 き も観 察 さ れ た

(Suluk,Vol.4,439)。B.シ ョシ ャ ンは,「 貧 民 の 貨 幣 」 をめ ぐる庶 民 の 「経 済 哲 学 」

を示 す 事例 と して この事 件 に言 及 して い る(B.Shoshan,"From Silver to Copper:

Monetary Changes in Fifteenth-Century Egypt," Studia Islamica, 56 (1982), 106).

(20) Tibr, 322.

(21) Ibid.

(22) マムルーク朝期 の民 間説教師の活動 とその政治的 ・社会的統制 については,特 に

J.P. Berkey, Popular Preaching and Religious Authority in the Medieval Islamic

Near East,Seattle,2001,61-69を 見 よ。

(23) Tibr,322.史 料校 訂者 は不 完 全 な 文 字 でSadafa(?)と 記 して い るが,マ ハ ッラ ・

ク ブ ラ ーの 中心 的 地 区 の ひ とつ で あ るSandafaを 指 す もの と して解 釈 した。

(24) 799年6月/1397年3月,飢 饉(qaht)が 発 生 し た ダ マ ス ク ス で は 雨 乞 い

(istisqa')が 行 な わ れ た が,郊 外 の ミ ッザ で 開催 され た 祈 願 式 に お い て,穀 物 商 人

(simsar)で あ りなが ら20人 長位 を得 た 行 政 官 の イブ ン ・ア ン=ナ シ ュ ウ が 民 衆 に

よっ て 「焚 刑 」に 処せ られ た。民 衆 の 義憤 は,都 市 の穀 物 市 場 を牛 耳 っ て きた彼 の ズ

ル ム に対 して 向 け られ て い た。 詳 し くは,W.M.Brinner,"The Murder of Ibn an-

Nasu: Social Tensions in Fourteenth-Century Damascus," Journal of the American

177

Oriental Society, 77(1957), 207-10; Ibn Sasra, al-Durra al-mudi'a fi al-dawla al-

Zdhiyiyya,Berkeley,1963,205-10を 参 照 の こ と。

(25) Tibr, 322.

(26) Al-Jawhari,Inba'al-hasr bi-anba'al-asr,Cairo,1970[以 下,Inba'al-hasrと 略

記],144.

(27) Tibr, 322.

(28) Ibid.な お,マ ハ ッ リー以 外 の 二 人 の 経 歴 等 は不 明 で あ る。

(29) Tibr, 322-23

(30) Tibr, 323

(31) Daw', Vol. 2, 260; Tibr, 328.

(32) 以 下,彼 の 経 歴 に つ い て はDaw',Vol.10,233-34; Inba al-hasr,143-44; B.

Martel-Thoumian,Les civils et l'adrninistration daps l'etat militaire mamluk (IXe/

XVe siecle),Damas,1991,112-115に よ る 。 ウ ス タ ー ダ ー ル 職 に つ い て は,と り あ え

ずB.Martel-Thoumian op.cit.,69-71;拙 稿 「ヤ ル ブ ガ ー ・ア ッ=サ ー リ ミー-後

期 マ ム ル ー ク 朝 ウ ス タ ー ダ ー ル の 生 涯(1)」 『慶 應 義 塾 大 学 言 語 文 化 研 究 所 紀 要 』33

(2001),147-59を 見 よ 。

(33) こ の 宗 教 施 設 は,オ ス マ ン 帝 国 期 に は ブ ー ラ ー ク に お け る カ ー デ ィ ー 法 廷 の 場

と な っ た(N.Hanna,An Urban History of Bulaq in the Mamluk and Ottoman

Periods, Cairo, 1983, 43-45).

(34) Tibr, 261.

(35) Hawadith, Vol.1, 168.

(36) Tibr, 261.

(37) Tibr, 262; Nujum, Vol. 15, 403.

(38) 以上,Tibr,302; Hawadith,Vol.1,200-201,203; Nujum,Vol.15,406-7.ズ ィヤ

ー ラの 語 は 「死 せ る聖 者 」の 墓 へ の 参 詣 の み な らず,「 生 け る聖 者 」へ の 訪 問 に も使

用 され る。これ ら二種 類 の ズ ィヤ ー ラ の連 続 面,共 通性 と差 異 性 につ い ての 考 察 も必

要 で あ ろ う。

(39) Tibr,302.上 エ ジプ トの カ ー シ フ(kashif al-wajh al-qibli)で あ った カ ー ス ィ

ム は,同 年1月 は じめ に死 去 した(Tibr,333)。 イ ブ ン ・アル=ア シ ュカ ル は そ の遺

産 の没 収 を図 った が,サ ア ダー ンが これ に抵 抗 し,両 者 は対 立 した。

(40) Daw', Vol.2, 74-75.

(41) Daw',Vol.2,75.こ こで のbimaristanは カ ー ヒラ 中心 部 の マ ンス ー リー病 院 を

指 す とみ られ る。当 時,管 財 人 の任 命 な ど を通 じスル タ ー ン権 力 の 監督 下 に あ っ た同

病 院が,社 会 改革 の唱 導 者 を隔 離 ・矯 正 す る装 置 と して利 用 され て い た こ とに注 意 す

べ きで あ る。 ま た,サ ハ ー ウ ィー は,イ ブ ン ・ア ル ・ア シ ュ カル が ア フ マ ドの殺 害 を

マ ハ ッ リー に よ る もの とみ て い た と も記 して い る。 中世 後 期 の シ ャ ー フ ィイ ー派 に

お け る 「善 を命 じ,悪 を禁 じるこ と」につ い て は,M.Cook,Commanding Right and

178

Forbidding Wrong in Islamic Thought,Cambridge,2000,348-56を 参 照 せ よ。

(42) Ibn Hajar,Inbd'al-ghumr bi-anba'al-'umr,Cairo,1969-98,vol.4,243.ガ ム

リーの 聖 者 性 に関 して は,Al-Sha'rani,al-Tabaqat al-kubya,Cairo,n.d.,Vol.2,80-

81を 見 よ。 なお,「 固 く信 仰 され る個 人 」 を意 味 す るム ー タ カ ドにつ い て は,「 生 け る

聖 者 」 を指 す 重 要 用語 で あ るに もか か わ らず これ まで全 く注 意が 払 わ れ て こ なか った 。

チ ェル ケ ス ・マ ム ル ー ク朝 期 の ム ー タカ ドの 実 態 に 関 して は稿 を改 め て 詳論 す る。

(43) Tibr, 176-77.

(44) Daw', Vol.8, 268.

(45) Daw', Vol.11, 64-65; al-Maqrizi, Durar al-'uqud al-farida fi tarajim al-a 'yan al-

mufida,Beirut,1992,Vol.1,192-93.サ マ ンヌ ー デ ィー は,マ ハ ッ ラ ・ク ブ ラ ー の 東

に あ る ガル ビ ーヤ 地 方 の 町,サ マ ンヌ ー ドの シ ャ ー フ ィ イー 派 法 学 者,暦 学 者 で あ っ

た。彼 は奇 跡(karamat)を 行 な っ た こ とで 知 られ,827年/1424年 の死 亡時 に は100

才 を超 え て い た とされ る(Daw',Vol.6,112-13)。

(46) 彼 らの 父 親 で あ る ウマ ル に つ い て は,優 れ たマ ー リク派法 学 者,禁 欲 者 で あ っ た

と され る が,聖 者 で あ る との 記 述 は見 当 た らな い(Daw',Vol.6,136)。

(47) オ ス マ ン帝 国 期,特 に18世 紀 に な る と民衆 運 動 に お け る有 力 知 識 人 の 指 導 性 は

カ イ ロで も しば しば確 認 され る よ う にな る。 た とえ ば,ア ズハ ル の マ ー リク派 法 学

者/ス ー フ ィー の ダル デ ィー ルAhmad al-Dardir (1715-86年)に よ る民 衆 反 乱 の 煽

動 につ い て は,拙 稿 「ミナ レ ッ トに お け る異 議 申 し立 て 前近 代 ア ラブ 都 市 の 諸 事

例 に関 す る覚 書 」 『史 学 』72-3・4 (2003),121を 見 よ。

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