identity of character and fictional work

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-1- 仮構作品の存在同一性 ─二次創作としての映画 Peter Pan 黒 田  誠 原作の小説 Peter and Wendy では、ウェンディのお父さんのダーリング氏の 姿は極端に戯画化されていて、典型的な銀行員らしい常識的すぎる大人というよ りはむしろ、ピーターに劣ることのない潜在的な幼児性を色濃く備えたエキセン トリックな人物として、反転的な魅力を持つキャラクター像が描かれていた。ネ ヴァランドで抗争を続ける、様々な点でピーターと対照的ではありながら、同時 にまた様々の類似点をも備えたピーターの仇敵キャプテン・フックを交えて、そ れぞれの対照軸を挟んでピーター、フック、ダーリング氏の3者が配置されてい たのである。しかし映画 Peter Pan では、3人の子供達を集めて母親であるダー リング夫人の語るお父さん像が、これに取って替わるものとなっている。お母さ んがパーティーに出かける前に子供達を集めて打ち明けて語るのは、実直な銀行 員となっておとなしく社会に帰属することを選んだダーリング氏の封印した夢 と、彼の家族を守る勇気についての話である。 Your father is a brave man. But hes going to need the special kiss to face his colleagues tonight. / Father? Brave? お父さんは勇敢な人よ。でも今晩は会社の人達を相手にするのに、とってお きのキスが必要なの。/お父さんが?勇敢だって? ダーリング夫人の語るところによれば、お父さんが立ち向かわなくてはならない 手強い相手は、凶悪な海賊や恐ろしい怪物達ではなくて、勤める会社の上司や同 僚達なのである。原作ではダーリング氏は手に入れることをさっさと諦め、ウェ ンディさえももらう事が出来なかったとされていたお母さんの口許に浮かぶ不思

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仮構作品の存在同一性 ─二次創作としての映画 Peter Pan

黒 田  誠

原作の小説 Peter and Wendyでは、ウェンディのお父さんのダーリング氏の姿は極端に戯画化されていて、典型的な銀行員らしい常識的すぎる大人というよりはむしろ、ピーターに劣ることのない潜在的な幼児性を色濃く備えたエキセントリックな人物として、反転的な魅力を持つキャラクター像が描かれていた。ネヴァランドで抗争を続ける、様々な点でピーターと対照的ではありながら、同時にまた様々の類似点をも備えたピーターの仇敵キャプテン・フックを交えて、それぞれの対照軸を挟んでピーター、フック、ダーリング氏の3者が配置されていたのである。しかし映画 Peter Panでは、3人の子供達を集めて母親であるダーリング夫人の語るお父さん像が、これに取って替わるものとなっている。お母さんがパーティーに出かける前に子供達を集めて打ち明けて語るのは、実直な銀行員となっておとなしく社会に帰属することを選んだダーリング氏の封印した夢と、彼の家族を守る勇気についての話である。

Your father is a brave man. But he’s going to need the special

kiss to face his colleagues tonight. / Father? Brave?

お父さんは勇敢な人よ。でも今晩は会社の人達を相手にするのに、とっておきのキスが必要なの。/お父さんが?勇敢だって?

ダーリング夫人の語るところによれば、お父さんが立ち向かわなくてはならない手強い相手は、凶悪な海賊や恐ろしい怪物達ではなくて、勤める会社の上司や同僚達なのである。原作ではダーリング氏は手に入れることをさっさと諦め、ウェンディさえももらう事が出来なかったとされていたお母さんの口許に浮かぶ不思

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議なキスは、お父さんの苦手なパーティーの席での援護射撃に用いられることになる。しかしお父さんの隠れた美徳を讃えるお母さんの意外な言葉に、思わず子供達はその意味を問い返す。その訳を説明するダーリング夫人の打ち明け話は、このようなものである。

There are many different kinds of bravery. There’s the bravery

of thinking of others before oneself. Now, your father has never

brandished a sword, nor fired a pistol, thank heavens. But he has

made many sacrifices for his family, and put them in a drawer. And

sometimes, late at night we take them out and admire them. But it

gets harder and harder to close the drawer. He does. And that is why

he is brave.

勇敢さにも色々あるのよ。自分のことよりもみんなのことを大事に考えるというのは、とても勇敢なことなの。お父さんは有り難いことに剣を振るったことも銃を撃ったこともないわ。でもお父さんは家族のために多くのことを我慢して、箪笥の奥にしまい込んだの。時々夜遅く、お母さんもお父さんと一緒にそれを引っ張りだして眺めたりするのよ。でもだんだんもう一度しまい込むのが辛くなってくるの。でもお父さんはしまい込むの。だからお父さんは勇敢なのよ。

ピーターだったらとても理解できないような屈折した男子の勇敢さの評価だが、このお父さんに対する賞賛がダーリング夫人の口から語られるのが、原作とは次元軸を異にする映画 Peter Panの世界なのだ。それは原型的仮構メタ“Peter and

Wendy”が顕在化させることなく秘めている、あり得たかもしれない数多くの潜伏した変化形の一つなのであろう。社会の規範を漫然と受け入れることを拒否して、体制に抗い続ける海賊業を生業にすることで美学の殉教者となったキャプテン・フック iも、家族の生活のために凡庸な銀行員の仮面を被って毎日を生きているダーリング氏も、その根底にある人格的基質においては、実は何ら変わるところのないものであるのかもしれない。フックもダーリング氏も、本性的属質においては同一である未知の何者かが一つの可能世界のパースペクティブの中で暫

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定的に装った、ペルソナとしての仮面の姿であるのかもしれないからである。この事実を暗示してか、この映画では同じ一人の俳優がダーリング氏とフックの双方を演じることになっている。平凡なお父さんと思われていたダーリング氏の備えるという意外な美徳が宣言

された後で、この映画にもピーターが失った影を取り戻すために子供部屋に忍び込んでウェンディと出会う、あの有名なシーンが導かれる。ウェンディと、影を自分の体に再び装着する事が出来ないで、困り果てててベッドの脇で泣いていたピーターとの出会いの場面は、かなり原作に忠実に描かれている。ピーターのすすり泣く声を聞きつけたウェンディは、ベッドの上からこの自室に忍び込んだ、見知らぬ少年に声を掛ける。二人の会話は次のように、互いの名を尋ね合う場面から開始されている。

Boy, why are you crying? You can fly! What is your name? / What is

your name? / Wendy Moira Angela Darling. / Peter Pan.

ねえあなた、どうして泣いてるの?まあ、飛ぶ事ができるの!あなたの名前は?/君の名前はなんだい?/ウェンディ・モイラ・アンジェラ・ダーリングよ。/ピーター・パンだよ。

続けてウェンディの問いは、ピーターの住まうはずの彼の家の住所に移る。これも原作にあった通りの会話の進行だが、映像作品としてナレーションによる概念記述を省き、二人の間に交わされた台詞のみで会話が進行しているのが、原作との大きな相違である。ヴィクトリア朝以来書かれてきた様々の脚本文学の轍を踏んで、1928年刊行の脚本 Peter Panにも入念なト書きが付されており、ゲーテの『ファウスト』等と同様に読むものとしての脚本文学の形式を完成させていた。それに対して映画 Peter Panの会話は台詞のみでやりとりがなされており、舞台上に繰り広げられた演劇作品の内容により近いものとなっている。小説版 Peter

and Wendyにあった、作中人物に対して屈折した偏愛を示したりストーリーの進展に恣意的な干渉を加えたりする語り手の姿は、ここでは隠蔽されているのである。

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ピーターはウェンディの問いに答えて言う。

Second to the right and then straight on till morning. / They put that

on the letters? / Don’t get any letters. / But your mother gets letters. /

Don’t have a mother. / No wonder you were crying. / I wasn’t crying

about mothers. I was crying because I can’t get the shadow to stick.

And I wasn’t !

2番目の角を右に、それから朝まで真っすぐだよ。/手紙にもそう書いてあるの?/手紙なんか、もらわない。/でも、お母さんには手紙が来るでしょ。/お母さんは、いない。/それで泣いてたのね。/お母さんのことで泣いてたんじゃない。影をくっつけることができなかったから泣いてたんだ。それに、僕は泣いてなんかいない。

原作 Peter and Wendyにあった記述と全く同様に、ウェンディは針と糸を用いて切り離された影をピーターの体に縫い付けてやることになる。人間存在としての基質に歪みを生じて、人工的な手段を用いることによってしか自らの影を身に装うことができないピーターは、映画 Peter Panでは制御を失った暴走する影の具現する愉快な映像によって見事に擬装されている。しかしこのピーターの影自身が、自省心という桎梏を背負った現代的教養人であるキャプテン・フックから分極生成の結果生まれた影であるピーターの存在を、巧みに擬装するものでもあったのである ii。原作 Peter and Wendyにあった、19世紀末以来教養的西欧社会の関心を集めていたこの哲学的な中心主題は、二次創作作品の映画 Peter Pan

ではさらに一捻り加えた擬装工作を施されることになる。

I could sew it on for you. This may hurt a little . . . Might I borrow

your knife? . . . Thank you. / Oh, the cleverness of me! / Of course, I

did nothing. /You did a little. / A little? . . . Good night.

じゃあ、縫い付けてあげるわ。ちょっと痛いかもしれないけど。…ナイフを貸

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して頂ける?…有り難う。/やったぞ、すごいな、僕は。/そうね、私はなにもしなかったわね。/君も、すこしは手伝ったよ。/少しですって、……おやすみなさい。

ウェンディの手助けを受けてようやく難関を切り抜けたことをすっかり忘れてしまって、自分一人の力で影をくっつけることができたと勘違いしてはしゃいでいるピーターに、ウェンディは憮然としてしまう。しかし拗ねてベッドに潜り込んでしまったウェンディを、ピーターは巧みに声をかけて懐柔するのである。

Wendy? One girl is worth more than 20 boys. / You really think so? /

I live with boys, The Lost Boys. They are well-named.

ねえ、ウェンディ。女の子一人で男の子20人分以上の価値があるね。/本当にそう思う?/僕は男の子達と一緒に暮らしてるからね。ロストボーイズさ。名前の通りの奴らさ。

自らの姿を顧みることを知らない全くの無知の持ち主であるが故に、計算も工夫も必要とすることなくあらゆる状況に対する全方位的な対処能力を発揮する iiiピーターの巧みな話術に、思わずウェンディはつられて顔を出して質問をしてしまう。

Who are they? / Children who fall out of their prams when the nurse

is not looking. If they are not claimed, they’re sent to the Neverland.

ロストボーイズって?/子守りがよそ見をしている時に乳母車から落っこちた子供達さ。誰も見つけてくれない時には、ネヴァランドに連れて行かれるんだ。

こうしてあの有名な、ウェンディとピーターの間のキスの交換の場面が導かれることになる。この指貫をキスと呼んで手渡しキスを指貫と称して与えるという奇想は、同時に概念と質量、精神と現象の変換記述を許す、宇宙の深奥にある原型的基質の相互委属的位相 ivを暗示するものともなっていたのであった。

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Are there girls, too? / Girls are much too clever to fall out of their

prams. / Peter, it is perfectly lovely the way you talk about girls. I

should like to give you . . . a kiss. . . . . . . Don’t you know what a

kiss is? / I shall know when you give me one. . . . . . . I suppose I’m

going to give you one now. / If you like. . . . . . . Thank you.

女の子もいるの?/女の子は利口だから乳母車から落っこちたりはしない。/ピーター、女の子のことをとてもよく言ってくれるのね。キスをしてあげようか……あなた、キスが何か知らないの?/君がくれたら分かるさ。……じゃあ、ぼくもあげなきゃね。/いいわよ。……有り難う。

映像で大部分を語っている映画の台詞のみを抽出すると、上のようにいささか場面の把握が困難になってしまうのだが、原作 Peter and Wendyではこの印象的な場面は、特徴的なナレーションを効果的に用いて以下のように記述されていたのだった。

“I think it’s perfectly sweet of you,” she declared, “and I'll get up

again,” and she sat with him on the side of the bed. She also said she

would give him a kiss if he liked, but Peter did not know what she

meant, and he held out his hand expectantly.

“Surely you know what a kiss is?” she asked, aghast.

“I shall know when you give it to me,” he replied stiffly, and not

to hurt his feeling she gave him a thimble.

“Now,“ said he, “shall I give you a kiss?” and she replied with a

slight primness,

“If you please.” She made herself rather cheap by inclining her

face toward him, but he merely dropped an acorn button into her hand,

so she slowly returned her face to where it had been before, and said

nicely that she would wear his kiss on the chain around her neck.

It was lucky that she did put it on that chain, for it was

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afterwards to save her life.v

p.31-32

「それなら素敵だわ。」ウェンディは言いました。「じゃあ、出てくるわ。」ウェンディはピーターと並んでベッドに腰掛けました。それからウェンディは、キスしてあげてもいいわよ、と言ったのですが、ピーターにはそれが何のことか分からないようでした。そして、何か渡してもらえると思い込んで、片手を差し出したのです。「でも、キスくらい知っているでしょう。」ウェンディは、唖然として尋ねました。「君がくれたら分かるさ。」ピーターは、ちょっと顔をこわばらせて答えました。ウェンディはピーターの気持ちを傷つけないように、キスの替わりに指貫を差し出しました。「じゃあ、僕もキスをあげようか。」ピーターが言いました。「そうなさりたいのなら。」ウェンディは、幾分とりすました感じで答えました。ウェンディが顔をピーターの方に傾けてしまったのは、どうも安っぽい仕草であったかもしれません。でもピーターはドングリのボタンを一粒ウェンディの手の平に乗せただけでした。ウェンディはゆっくりと顔をもとの位置に戻すと、「このキスを鎖につけて首にかけておくわ」と言いました。ウェンディがこのドングリを鎖につけておいたことは、後になって彼女の命を救うことになりました。

ダーリング夫人の口許に見えていたというキスと、そのキスの他の概念との入れ替えが行われるという変換記述の例は、原作 Peter and Wendyに導入された従来の科学概念を転覆する形而上的なメタ論理の主張として興味深い哲学的主題となっていたが、映画 Peter Panにおいてはこの変換記述そのものに対する変換操作が、二次創作作品としての興味深いメタフィクション的主題性を形成していくことになる。ピーターに貰ったドングリをウェンディが鎖に吊るして首にかけることにより、後に命を救われる結果が導かれることが前もってここで語られているのは、物語の進行を予期した極めて技巧的な記述であった。これは物語性を自

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覚した物語の語りとして、原作 Peter and Wendyのメタフィクションの機構に関わってくる、印象的な箇所の一つなのである。そればかりでなく、作者自身の饒舌な声を用いてかなり子供達に対して辛辣な、皮肉な口調でピーターとウェンディの姿が語られて行くのが、原作の小説 Peter and Wendyの大きな特徴となっていたのであった。この後の映画 Peter Panの場面は、台詞のやりとり自体は原作にほぼ忠実に進

行していく。

How old are you, Peter? / Quite young. / Don’t you know? / I ran

away. One night, I heard my parents talking . . . of what I was to be

when I became a man. So I ran away to Kensington Gardens and I

met Tink. / But there’s no such thing as a . . . / Don’t say that. Every

time somebody says that, a fairy somewhere falls down dead. / And I’ll never find her if she’s dead. / You don’t mean to tell me there’s a fairy

in this room. / We come to listen to the stories. I like the one about the

prince who couldn’t find the lady . . .who wore glass slippers. / Cinderella.

Peter, he found her, and they . . . and they . . . . . . lived happily ever after. /

I knew it. / Peter . . . I should like to give you . . . . . . a . . . . . . thimble. /

What’s that?

あなたはいくつなの?/年なんかとってない。/自分の年を知らないの?/僕は家から逃げ出したんだ。ある晩、お父さんとお母さんが話をしているのを聞いた。僕が大きくなったら何をさせるかって。だから僕はケンジントン公園に逃げ出して、そこでティンクと出会った。/でも妖精なんて本当は……/それを言っちゃだめだ。誰かがその言葉を口にする度に、どこかで妖精がぽっとり落ちて命を失ってしまう。ティンクが死んじゃったら、もう会えなくなっちゃうじゃないか。/まさかこの部屋に妖精がいるっていうの?/ティンクは僕と一緒にお話を聞きに来るんだ。僕はガラスの靴を履いてたお姫様を探す王子様の話が好きだな。/シンデレラね。王子様はシンデレラを見つけることができて、それから二人は、末長く幸せに暮らしました。/そうだと思った。/ピー

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ター、指貫を、あげてもいいかしら/何だい、それは?

先ほど“キス”と偽ってピーターに指貫を手渡したことに対応させて、今度はウェンディは、“指貫”と偽ってピーターにキスをしてあげることになる。このようしてキスという概念と指貫という概念が交換記述をされる新たな心霊場の座標系が、ウェンディとピーターの心の重合部分に構築されることになるのである。キスと指貫/ドングリの意味交換が完成されることにより、意識の交錯空間に集合の元の組成をわずかに入れ替えた、新規の集合である平行宇宙が誕生したことを暗示する場面である。量子存在の持つ不確定性という特質のため、潜在的可能性の網羅的な排列が無数に分岐した平行宇宙を形成することを構想する多世界解釈理論に照らし合わせることができる、『ピーター・パン』の物語を定義づける形而上的な重要特質となるのがこのエピソードだろう。実は原作 Peter and Wendyにおいては、取り分け印象的なエピソードを形成

していたウェンディとピーターの間のキスと指貫の意味交換のやりとりに見られた概念軸変換の試みは、ネヴァランドに関する記述においても同様に反復して採用されていたのである。作者のナレーションを活用した原作 Peter and Wendy

の記述を参照してみよう。

Of course the Neverlands vary a good deal. John’s, for instance, had a

lagoon with flamingoes flying over it at which John was shooting, while

Michael, who was very small, had a flamingo with lagoons flying over it.

p.11

もちろんネヴァランドにも色々なものがありました。例えばジョンのネヴァランドはラグーンの上をフラミンゴの群れが飛んでいて、ジョンはフラミンゴを銃で撃っているのでした。でもマイケルはまだ幼かったので、マイケルのネヴァランドはフラミンゴの上をラグーンの群れが飛んでいたりしました。

ここにはネヴァランドが子供達個々の主観の中の心象世界であることが暗示されていた。ネヴァランドは各々の子供達の独立した内面世界であると共に、互いの

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意識の共存を許す交わりの空間でもある。そこでは誤解に基づいた矛盾も、観念的多重世界の一つを形成する世界基軸構築要素として積極的に機能することになる。ピーターとウェンディの間に生起したキスと指貫の意味交替と同等の変換機構が、ここでも潜在していることが暗示されているのである。意味素子の組み合わせの結果生じる無数の平行世界の存立条件と等質の、事象として発現する前段階の可能態の世界が、ネヴァランドという意識空間に暗示されているのである。いつの間にか親密な雰囲気になったピーターとウェンディに、いきなりウェン

ディの髪を引っ張って邪魔をするのが妖精のティンクである。ウェンディがこれまで想像の中で憧れ続けていた妖精達は、実際には彼女に対して敵対的な行動を取る、非友好的な存在であった。これは原作 Peter and Wendyの主題であった、願望と実体化してしまった理想の間の非情な落差と、大人としての経験と客観的理解がもたらす避け難い楽園喪失感覚をそのままに反映している。全ての意識体に課せられた苛烈な宿命を暗示するために原作 Peter and Wendyが用意した、無数の残酷なエピソードの一つとなっているのである。ウェンディはピーターが決して気付くことのない、心の奥底にあった理想と実体化した自分の願望の堪え難い乖離を、痛切に味わわされることになるのである。

Tink! She’s not very polite. She says if you try to give me a thimble

again . . . . . she’ll kill you. / And I had supposed fairies to be charming.

それはティンクだ。ティンクはちょっと乱暴なんだ。君がまた指貫をくれようとしたら、今度は君を殺すと言ってる。/まあ、妖精って、可愛らしいものだと思ってたのに。

妖精も人魚も、そしてネヴァランドそのものも、成長して大人になろうとするものに対しては、決して憧れていた姿のままの友好的なものであってはくれない。これは原作 Peter and Wendyの世界の基調音を形成していた、人という意識存在に課せられたあまりにも非情な楽園喪失の宿命を語る中心主題なのであった。子供部屋を立ち去ろうとするピーターを、ウェンディは意を決して引き止める。そして次に語る彼女の言葉は、原作とは幾分異なる映画版 Peter Panの特有の主

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題を示して暗示的なものである。

Peter, don’t go. / I have to tell the others about Cinderella. / But I

know lots of stories, stories I could tell the boys.

ピーター、行かないで。/僕は仲間にシンデレラの話をしてやらなくちゃ。/私は色んなお話を知ってるのよ。あなたの仲間にお話しをしてあげられるわ。

このように映画 Peter Panでは、ウェンディは自ら進んでネヴァランドにおもむく提案を、ピーターに持ちかけているのである。そしてその後に続くピーターとダーリング家の子供達との会話も、原作にあったものとはいささか異なるものになっている。

Come with me. / I cannot fly. / I’ll teach you. I’ll teach you to ride

the wind’s back, and away we go. / Could John and Michael come

too? Michael! Michael! John! John! / I didn’t do it. / There is a boy

here who is to teach us to fly. / You offend reason, sir. . . . I should

like to offend it with you. / You just think happy thoughts. . . and

they lift you into the air. It’s easy. / I’ve got it! I’ve got it! Swords,

dragons, Napoleon! / Stand back. / John! / Wendy! Wendy! Watch me!

Puddings, mud pies, ice cream, never to take a bath again! / Michael!

/ Come away. Come away to Neverland. / What about Mother? Father?

Nana? / There are Mermaids. / Mermaids? / Indians! / Indians? /

Pirates! / Pirates? . . . John, wait for me!

じゃあ、一緒においで。/でも飛ぶことができないわ。/教えてあげるさ。風の背中に乗れば、もう大丈夫さ。/ジョンとマイケルも一緒に来ていい?/マイケル!マイケル!ジョン!ジョン!/僕じゃない。/あなた達に空の飛び方を教えてくれる子がいるのよ。/それは道理に反することですね。…僕も一緒に道理に反することにしよう。/楽しいことを思い浮かべるんだ。そうしたら

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体が宙に浮く。簡単さ。/分かった。分かったぞ!剣にドラゴンにナポレオン!/下がって。/ジョン!/ウェンディ!ウェンディ!見て!プディングに泥団子にアイスクリーム。お風呂はもう無し!/マイケル!/さあ行こう。ネヴァランドへ。/でもお母さんはどうしよう?お父さんは?ナナは?/人魚もいるよ。/人魚ですって?/インディアンも!/インディアンも?/海賊もいる!/海賊も?…ジョン、待って!

最終的にやはりピーターは、ウェンディに対して狡猾な誘惑者として振る舞うことになる。そして彼の語る子供達の願望が全て詰まった理想の世界は、この場面のジョンの台詞にあるように、正しく道理の破綻した論理矛盾の世界なのである。何故ならばそこは、妖精達とインディアンと海賊が共存する世界とされているからだ。北海の孤島に伝えられた筈の人魚伝説と、カリブ海に代表される南海を舞台として喧伝されている海賊達の行状と、北アメリカを舞台とした冒険物語の題材として子供達の心を魅了したインディアン達は、一堂に会して姿を現すことなど決してあり得ない、矛盾撞着を来すことが避けられない相互破壊的要素に他ならない。ピーターの住まうとされる子供達の願望が全て実現されたネヴァランドは、量子的相殺状態にある無数の可能性が事象として発現する前段階の原形質次元であり、決して現象世界には成立し得ない論理的不可能世界でもあるvi。映画Peter Panでは、作中人物であるジョンの台詞を用いて、原作 Peter and Wendy

の採用した不可能性記述の主題を明示的に言及しているのである。平行世界間の仮構におけるメタ自己言及行為として理解することができるのが、常識人ジョンがピーターに対して語った“You offend reason.”という台詞であった。映画 Peter Panでは、両親を残して我が家を立ち去って行くことを気にかける

ウェンディに、ピーターは原作の通りの誘惑者の役を演じて語りかけるのである。そしてためらうウェンディの姿は、ピーターとの間に交わされる以下のような会話で示されている。

Forget them, Wendy. Forget them all. Come with me where you’ll never have to worry about grownup things again . . . What is it? What’s

wrong? / Never is an awfully long time.

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親のことなんか、忘れるんだ。みんな忘れてしまえ。僕と一緒においで。そうしたらもう二度と大人たちのことなんか気にかけなくてすむ。……どうしたんだい?何が問題なの?/二度となんて、随分長い間ね。

ジョンの台詞を補完してウェンディの語る通り、“ネヴァー”と“エヴァー”、つまり不可能と永遠が正反対の一致の円環的図像を構築して、不可解な共存を可能にする多義性の意識空間が、子供達の意識の基底にある夢の国ネヴァランドなのであった。論理矛盾が相殺し合う、現象世界的意義性を決して維持し得ない曖昧模糊とした未分化の原形質的な状態が、子供達の妄想の中にのみ展開することを許される、至福の主観世界なのである。ここで映画 Peter Panは、女性のナレーションがストーリーの進行を進める役

割を引き継ぐことになる。そして異変を嗅ぎ付けて子供部屋に戻ろうと急ぐダーリング夫妻は、物語自身の進行の都合のために、目的地に到達することが間に合わなくなる結末を一方的に選ばれてしまうことになる。現象世界の事物が意識の主体による観測効果に従って具現化するように、このお話は読者の期待を反映した作者の語りによって、その発展過程が定められてしまっていたのである。物語世界創出における意識の主体の想念の干渉機構の存在を自覚するこの感覚は、映画 Peter Panにおいても観客の願望とナレーションの相互作用を擬装して踏襲されているのである。映画のナレーションの声は、原作の語り手が用いていたのと同じ台詞を用いて述べる。

It would be delightful to report that they reached the nursery in time.

But then there would be no story.

両親が子供部屋に戻るのが間に合ったということになれば、なんと素敵なことでしょう。でもそれでは、お話が先に進みません。

こうして両親と我が家を見捨て、空を飛んでネヴァランドへと向かう途上の子供達の姿は、原作と同様にジョンが身勝手なピーターにすっかり自分の存在を忘れ去られて当惑する場面ばかりでなく、常に新鮮な新しい遊びを思いつくピーター

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だけの楽しみを共有させてもらうことができる、愉快な場面を新たに付け加えられてもいる。

Who are you? / I’m John. / John. . . . Take hold of this. Both hands.

Pass it on.

君はだれだっけ?/ジョンだけど。/ジョン…、この足に掴まれ。両手で。みんな一緒に。

こんな風に愉快な空の旅をつづけながら、なんとか待ち望んだ夢の国ネヴァランドの近くまでやって来て、そこで初めてキャプテン・フックの海賊船を目にしたウェンディは、即座にその舟の性能に関する具体的な知識を口にし、さらに乗組員達の一人一人の詳細情報を言い当てる。原作 Peter and Wendyでピーターの存在がそうであると語られていたように、ネヴァランドに出没する海賊達も、実はウェンディの心の奥底に最初からあった心象風景に他ならないのである。ここでもウェンディは、この映画 Peter Panの冒頭にあった弟達にお話をするシーンを踏襲して、原作のウェンディが持ち合わせていなかった凶悪な海賊の世界に関する専門的知識を披露しているのである。

Forty gunner. She must do 12 knots under full sail. Noodler, with his

hands on backwards! Bill Jukes! Every inch of him tattooed.

大砲40門搭載の海賊船ね。追い風なら12ノットは出せる。ヌードラーだわ、両手が逆向きに付いてるの。あれはビル・ジュークス、体中入れ墨だらけ。

映画 Peter Panは、ヌードラーの異様な姿を、映像記述を省いて具体的に、しかしさりげなく瞬間的なカットを用いて示している。そしてウェンディの弟のジョンとマイケルも、ネヴァランドの詳細に対する把握と理解の程は、ウェンディの有するものと全く変わりのないものである。彼等も一目で伝説の海賊フックの姿を同定している。

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Hook! / Let’s take a closer look.

フックだ!/もっと近寄ってみよう。

抗争相手の子供達の接近を感じ取ったフックは、早速臨戦態勢に突入する。フックはピーターに敵対する邪悪な仇敵であると共に、冒険と争い事を心から愛する子供達の粗野な願望を具現化してくれる、理想の姿をした悪党でもある。だからフックの対応は、容赦ない。

Fetch Long Tom. Fire! ロング・トムを出せ。発射!

映画 Peter Panでは、これに続くピーターの反撃を描く場面として、映像表現を活用して速やかなアクションの進行が図られていたが、原作 Peter and Wendy

ではネヴァランドという世界そのものを対象にして、ピーターの住まう故郷であるというこの不可思議な領域が、正しく子供達が共有する精神内部の異次元空間であることが、作者のナレーションを用いて印象的に語られていたのであった。

Strange to say, they all recognised it at once, and until fear fell upon

them they hailed it, not as something long dreamt of and seen at last, but

as a familiar friend to whom they were returning home for the holidays.

p.45

おかしなことだけど、子供達はみんな一目でそれが分かりました。そして恐怖の念が彼らを包むまでは、彼らは歓声をあげて島を受け入れたのでした。長い間夢に見続けてきてようやく目にすることが出来たものなんかではなく、お休みの間に戻って来て出会う親しい友達であるかのように。

映画 Peter Panでは、先ほどの海賊船を視認した際にウェンディの語っていた台詞が、より具体的な形をとって原作のナレーションの一部を浸食していることが分かる。フックの容赦のない攻撃を凌いでなんとか無事にネヴァランドにたどり

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着くウェンディだが、原作にあった通りの進行で、ティンカー・ベルにそそのかされたロストボーイズ達は、弓と矢でウェンディを射落としてしまう。その様を描く映画 Peter Panの記述は、原作 Peter and Wendyの主題を占めていた、子供達の決して他を思いやることのない身勝手さと、彼等の偽らざる本性である残忍さを、別の角度から見事に暴き立てる結果となっている。

I got it. / I got it. / That is no bird. / It is a lady. / And Tootles . . .

Tootles has killed her.

僕が当てたぞ。/いや、僕だね。/これは鳥なんかじゃない。/これは女の子だ。/やったのはトゥートルズだ!

人の手柄を認めようとせず闇雲に自分の権利を主張し、さらに失敗を犯した仲間を躊躇いなく見捨てて容赦なく告発する姿に、子供本来の“heartless”な心性が端的に窺われるが、そこに姿をあらわしたピーターも、人の胸の裡を顧慮することを知らずいつも自分のことしか頭にない身勝手な本質は、彼等と全く変わることがないものである。そればかりでなくピーターの喜びは、情けを知らぬ残虐と容赦のない殺戮の中にこそある。

I’m back! Great news! I know what happened to Cinderella. She

defeated the pirates. There was stabbing, slicing, torturing, bleeding . . .

and they lived happily ever after.

帰ってきたぞ!いい知らせだ!あれからシンデレラがどうなったか、分かったんだ。シンデレラは海賊達をやっつけた。突き刺したり、切り裂いたり、拷問も流血もあるぞ……そして彼等は幸せに暮らしました。

この場面で語られたピーターの凄惨な嗜好を暴露する台詞は、明らかに原作にはなかったものだが、原型的仮構“ピーター・パン”のお話の世界の中では当然あって然るべき、いかにも冒険と戦いが好きなピーターの口にするのにふさわしい台

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詞ではある。そしてまた、これに正確に対応する子供達の心の裡の残虐性と非情さを語る記述の実例は、原作 Peter and Wendyのあちこちにおいて指摘することができたのであった。映画 Peter Panにおいては、冒頭でウェンディ自身がこの傾向を積極的に推進する役割を果たしていたのである。しかしこの物語の基調となる、子供達の本性に迎合した残酷趣味を物語る最も

印象的な箇所と思われるものは、原作 Peter and Wendyに採用されたピーターの仇敵キャプテン・フックが最期を迎える際の、彼の自暴自棄の戦いぶりを描写する記述である。それはピーターあるいはフック自身の冷酷非道さを語る以上に、この物語そのものの主題的基調音として、読者に全面的に容認された残虐趣味が導入されていることを明示しているからである。原作 Peter and Wendyにおいては、手下の全てを失いたった一人になってもなお勇猛に戦いを続けるフックの姿の描写は、以下のような凄まじいものだったのである。

I think all were gone when a group of savage boys surrounded Hook,

who seemed to have a charmed life, as he kept them at bay in that

circle of fire. They had done for his dogs, but this man alone seemed

to be a match for them all. Again and again they closed upon him,

and again and again he hewed a clear space. He had lifted up one boy

with his hook, and was using him as a buckler, when another, who

had just passed his sword through Mullins, sprang into the fray.

p.132

残虐な子供達の一隊がフックを取り囲んだ時、手下達の全てが既に倒されていたと思われる。しかし、燃え盛る炎のように激しい攻撃にさらされてこれに抗うことのできるフックには、魔法の力でもかかっているようだった。子供達は、他の海賊達は片付けることができたものの、この男だけは一人で彼等全員を相手にすることができていた。幾度となく子供達はフックに攻め寄ったが、その度毎にフックは包囲を切り抜けてみせた。フックは、子供の一人を鉤爪に引っ掛けて持ち上げ、あたかも盾のように用いていた。その時、もう一人の少年がムリンズの体を剣で貫くと、この乱闘の中に飛び込んできた。

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これはとても映像を用いて忠実にその有様を語ることなどできそうにない凄惨極まりない場面だが、フックの鉤爪にかけられて振り回されているこの少年は、ひょっとして嬉々としてこの残酷な処遇を楽しんでいたのかもしれない。道理を無視した身勝手な夢想の世界が具現化したのが、現実世界の一切の束縛を解き放たれた夢想世界のネヴァランドであったからである。そこでは殺すことも殺されることも、子供達の大好きな“ごっこ遊び”(make-believe)以外の何物でもない。映画 Peter Panでこの後に続けられる子供達の会話も、“ハートレス”という

言葉を用いて作者に語られていた、ピーターに代表される子供特有の身勝手な心性を見事に示している。

Well, that’s a relief, I must say. / Great news. I have brought you she

that told of Cinderella. She is to tell us stories! / She is . . . Dead. /

Tragic. / Awful. / Good shot, though. / Whose arrow? / Mine, Peter.

Strike, Peter. Strike true.

それは本当に良かった。安心したよ。/もっといい知らせだ。シンデレラのお話をする娘を連れて来たぞ。僕らにお話をしてくれるぞ!/その娘は、死んじゃった。/残念なことだ。/悲しいね。/でも、よく当てたよ。/これは誰の矢だ?/僕のだ。ピーター、ぶっすりやってくれ。

他人事のように失態を犯した仲間を見捨て、巧みに周囲の空気を読んでそしらぬ顔で相槌を打って空とぼける少年たちと、ただ一人非を認めて白状する愚直なトゥートルズの姿が対照的である。原作者バリは執拗に、子供達の冷酷で思いやりの気持ちを持たないあるがままの本性を語り続けていたのであった。映画Peter Panでは、原作 Peter and Wendyで語られる機会を得ることがなかったその子供達の本性を示すいくつもの特徴的な記述が、活き活きとした台詞を通して具現化されているのである。ここでピーターは、まだウェンディに息があることに気づく。

The Wendy lives! It’s my kiss. My kiss saved her. / I remember kisses.

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. . . Let me see it. Aye, that is a kiss. A powerful thing.

ウェンディは生きている。これは僕のキスだ。これのおかげで助かったんだ。/キスかい、それなら知ってるよ。…どれどれ。そうだね、キスだ。強力なやつだぜ。

分かりもしないくせに知ったかぶりをしてもっともらしい口を効きたがるのは、大人の忘れた子供達特有の行動様式である。子供の精神を擬装して彼等と共にメイクビリーブの世界を楽しみながら、同時にそのあるがままの粗暴な姿を醒めた目で辛辣に批判しつつ瞥見する視点が、原作 Peter and Wendyが完成した特有の仮構記述様式であったが、映画 Peter Panは見事にこの仮構的同一性を映像作品として的確に変換させながら踏襲することになっている。その結果が、原作にもあり得たであろうが現象的事実として確定することのなかった様々の可能的台詞/動作として具現化しているのである。

She must stay here and die. / No! / How could I have thought that?

Stupid. Sorry. / We shall build a house around her. / Yeah! / Brilliant! /

With a chimney! And a door knocker! / Perfect. / With windows. /Windows!

/ Something to look out of. / Did you hear that? / He is a genius!

このまま死ぬしかないね。/それは駄目だ!/馬鹿なこと言っちゃった。ドジだね。ごめん。/この娘の周りに家を建てるんだ。/いいぞ!/すごいや。/煙突もつけて、ドアノッカーも!/完璧だ。/窓もだ。/窓って。/そこから外を見るのさ。/聞いたか?/本当にピーターは天才だ!

原型的仮構“ピーター・パン”の中にはきっとあった筈の、しかし様々の事情で劇 Peter Panにも小説 Peter and Wendyにも現象的実体の形を取って語られる機会が得られなかった紛れも無い真正の“ピーター・パン”の世界が、二次創作作品の中に別の経路をたどって発現の機会を得ていくことができるのである。子供達は、固唾をのんでウェンディが自分たちが建てた家の中で目を醒ますの

を待ち受ける。女の子の来訪は、彼等が経験する始めての冒険なのである。しか

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し緊張するロストボーイズ達の中で、ピーターだけは思いつきで語った言葉が的を外すことなく妥当なものとして許容される特権を与えられている。

First impressions are very, very important. Here she is! Look loveable.

Wendy lady . . . for you we built this house. With a door knocker. And

a chimney. One, two, three. Please be our mother.

第一印象が大事だぞ。出て来たぞ!笑顔で迎えろ。ウェンディお嬢さん、この家はあなたのために建てました。ドアノッカーもついてます。煙突もあります。そ~れ。僕たちのお母さんになって下さい。

ピーターがここで用いた、彼にとってはちょっと難しい言葉である“第一印象”という言葉は、原作では語り手による以下のような捕捉的な記述を用いて導入されていたものである。

“All look your best,” Peter warned them; “first impressions are awfully

important.”He was glad no one asked him what first impressions are;

they were all too busy looking their best.

p.69

「全員、最高の表情をするんだぞ。」ピーターがきつく言いました。「何と言っても、第一印象が大事だからな。」ピーターは、誰も第一印象というものがどんなものなのか尋ねなかったので、安心しました。みんな、自分の最高の表情をするので手一杯だったのです。

ここにさりげなく暗示されていたように、ピーターだけに許される希有な特権とピーターだけが除外されているあまりにも平凡な一般人の享受する喜びの念の不可思議な対照は、原作 Peter and Wendyの重要な哲学的主題であったが、この神的位相と人的位相の乖離は、映画 Peter Panにおいても入念な対応関係を構築しながら変換記述がなされているのである。

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心に思い描いていた理想の家の中で目を醒まして、そこに現れたロストボーイズ達に自分たちのお母さんになって欲しいといきなり頼まれたウェンディは、「経験も無いし。」とためらいの表情を見せる。こんな時、一人だけいつも自信たっぷりなのがピーターである。原作 Peter and Wendyではその様は以下のように記述されていた。

“That doesn’t matter”, said Peter, as if he were the only present person

who knew all about it, though he was really the one who knew least.

p.70

「それは問題じゃないんだ。」ピーターは今ここにいる人の中で、なにもかもわきまえているのは自分だけだというような口ぶりで言いました。でも本当は、一番分かってないのはピーターだったのです。

ピーター・パンというキャラクターの保持する際立った特質として、このような二律背反した無知と知恵、絶大な能力と致命的な欠陥の重ね合わせを挙げることができるのであるvii。地下の家にウェンディを連れて来たピーターは、早速いつもの通りに子供達のお父さんの役を演じ始める。ピーターの頭の中にある典型的なお父さんの取るべき行動は、ウェンディを迎えた直後に彼が語り始めた次の台詞によく表れている。

Welcome, Mother. Discipline. That’s what fathers believe in. We must

spunk the children immediately . . . before they try to kill you again.

In fact, we should kill them.

いらっしゃい、お母さん。さあ躾だ。お父さんがしなくちゃいけないのは、これだ。子供達に罰を与えるんだ。こっちが殺される前にね。つまり、先に殺してやるんだ。

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これもまた、原作 Peter and Wendyにはなかったが、いかにもこの少年の口にしそうなぴったりの台詞である。ピーター・パンのお話にも、ピーター・パン自身にも、現象世界に仮構記述として具現化し得なかった様々な細目事項が潜んでいる。これらが改めて具現化の機会を与えられるのが、二次創作作品という次元軸を違えた領域なのである。

註i. 『ピーターとウェンディ』の裏の主人公キャプテン・フックと彼の選んだ海

賊という生業の意義性については、『アンチファンタシーというファンタシー』、近代文芸社(2005)に所収の「グッドフォームと内省̶̶キャプテン・フックの憂鬱」を参照されたい。

ii. この指摘が、筆者の Peter and Wendyを中心としてファンタシー文学の特質を考察した研究書である『アンチファンタシーというファンタシー』の中心主題となっている。

iii. ピーターの体現するこの二律背反的特性は、『アンチファンタシーというファンタシー』に所収の「ピーターの無知と不思議な智慧」において指摘されている。

iv. アインシュタインの発表した相対性理論の提示した従来の科学思想の規範を覆す新規の発想が与えた影響と Peter and Wendyが反映すると思われる形而上的特質については、『アンチファンタシーというファンタシー』に所収の「キスと謎々」を参照されたい。

v. 原作の引用は筆者の註釈による『Annotated Peter and Wendy』(近代文芸社)を用いる。

vi. ピーターという存在自体が論理矛盾を通して非在性を暗示する記号としてPeter and Wendyという仮構的公理系において機能していたのであった。

vii. 『アンチファンタシーというファンタシー』に所収の「ピーターの無知と不思議な知恵」において、具体的な事例の指摘と共に人格/神格解釈に関する哲学的意義性の考察がなされている。