む世界が「最善」だ(本論22‐25)、というのがこの議論の核 …...あ る。「...

8
使 稿 ――宗教哲学としてのライプニッツの「神義論」 さて、「神義論(仏theodicee「独Theodizee「英theodicy)」と いう言葉は、ギリシア語の「テオス(■■■■)」(神の意味)と 「ディケー(■■■■)」(正義の意味)とを組み ツが新たに作った言葉だといわれている。ライプユニッ 7・8、cf.本論116)。神は「先行的意志」においては「善である む世界が「最善」だ(本論22‐25)、というのがこの議論の核心で

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Page 1: む世界が「最善」だ(本論22‐25)、というのがこの議論の核 …...あ る。「 悪 」 は 三 つ に 分 け ら れ て い る。① 形 而 上 学 的 な

〈研

3〉

比較思想の観点としての「神義論」

ーウ

「神

使

「神

稿

(第

)。

(第

一章

)、

(第

)。

一 

――宗教哲学としてのライプニッツの「神義論」

さて、「神義論(仏theodicee「独Theodizee「英theodicy)」と

いう言葉は、ギリシア語の「テオス(■■■■)」(神の意味)と

横 

田 

理 

「ディケー(■■■■)」(正義の意味)とを組み合わせてライプニッ

ツが新たに作った言葉だといわれている。ライプユニッツの『神の

善意・人間の自由・悪の起源について

の神義論の試み』という書

は一七一〇年

に出版され

た。ライプユ

。ツはその造語にあた

って

その新語に込

めた意味を解説するというこ

とはして

いな

いのだが

次のようなこの書の内容

からその含意は理解でき

るだろう。

ライプ

エッツ

によれば、神は完全なる知恵

によ

ってすべての可

能的世界を考慮し、完全

なる善意によって

「最善

なる世界」を選

択し、

完全な

る力

によ

って

それ

を実効

的なも

のと

した

(本論

7・8、cf.本論116)。神は「先行的意志」においては「善である

限りのあらゆ

る善

に向

かう」のだが、「帰結

的意志」

にお

いては、

悪をも容認し

た「最善」

に向かう。善だけ

の世界で

はなく悪を含

む世界が「最善」だ(本論22‐25)、というのがこの議論の核心で

Page 2: む世界が「最善」だ(本論22‐25)、というのがこの議論の核 …...あ る。「 悪 」 は 三 つ に 分 け ら れ て い る。① 形 而 上 学 的 な

ある。

「悪

」は三つ

に分けられている。①形而上学的な悪

(非叡知的な

事物の不完全性、畸形など)、②物理的な悪

(苦痛)、③道徳的な

(罪科)、

の三つである

(本論21、神の大義29‐39)。こ

こで「悪

(仏mal’羅malum)」と言われているのはいわば不完全性一般で

あり、我

々日本人の日常的な「悪

」理解

(③)よりもも

っと広い

意味で使われて

いる。それらの悪

は確か

に目立つ

のだが、量にお

いて考えれば、人は病気であるよりも健康であることの方が多く、

を犯すより

は善をおこな

っていることの方が多

いということが

忘れられがちだとライプユ

。ツは指摘する

(本論220・251・263)。

「神は諸事物の無数の可

能的な系列の中から最善のものを選んだ

のであり

、それゆえ

その最

善の系列

は現実

に存在

して

いるこ

【世

界の】系

列なの

だ」(神の大義41)、「全能者

にとって

の無限の

知がその絶大なる善意と結び付くと。どう

考えても神が作

ったも

の以

上に善なるものはあり得ないと

いうこと

になる。そしてそれ

ゆえ、すべて

は完全に調和し、最も美しく互

いに共鳴し合うよう

になる」(神の大義46)。したが

って、「神の作品

の中

に非

難すべき

だと思われるものがあ

ったとしても、それ

は、

われわれがそれ

ついて十分に知

っていないからだと判断す

べきである」(神の大義

47)、つまり、我々の疑念

は一局

面し

か見

えて

いないゆえ

であ

て、「全体」は「最善」なのだ、と説明される(cf. 緒論34、本論

9)。「最

善」において悪

を容認することによ

って善を高

めると

は、

たと

、「不

ると

いも

る」(第一

附論、第五

異論

への解

答)

こと

「光

って引

つ」(第

二附論11)

たと

る。「全

は最

「全

に我

々人

の全

地球

だけ

体と

(ラ

″ツ

は地

宇宙

に人

かも

こと

考え

いる

)。

な議

「神義

論」

こと

る。

の後

一七

一年

『神

るあ

る哲

いて

論文

ライ

「空

(doktrinal)

論」

「真正

(authentisch)

提唱

る。

イプ

″ツ

ーカ

通じ

て考

は宗

学と

「神

マで

った。

なり

趣き

「神

姿

に見

いく

二 

「神

1「神義論」へのウェーバーの言及

ーも

「神

っき

りと

た定

は与

えて

い。

それ

わら

の宗

教社

とり

わけ

Page 3: む世界が「最善」だ(本論22‐25)、というのがこの議論の核 …...あ る。「 悪 」 は 三 つ に 分 け ら れ て い る。① 形 而 上 学 的 な

『古

ユダ

ヤ教

「神

かも

ツ流

「神

論」

を異

「神

いて

ーバ

の叙

って

う。従

「『経

』第

に収

草稿

るも

の中

「宗

「神

論」

まと

る。

「倫

「全

神」・「唯

(Monotheismus)」

う特

は必

いの

に現

、「普

へと

。「そ

し支

世界

の不

全性

立し

、す

「神

ち現れてくる、と言われ(WG315, 武藤ほか訳178頁)。次のように

。「こ

ジプ

トの

ヨブ

にも

アイ

スに

って

(lebendig)0

(Religiositat)

は。

って

た形

に影

る。

た、

完全性という問題にぶつかった。この問題はいたるところで、

宗教展開や救済欲求などの規定理由

のうち

になんらかの形で含

まれている。近年においても、或

るアンケートでは、神の理念

を受け入れられないことを、数千人のドイツ人勤労者に動機づ

けていたのは、自然科学的な論拠で

はなくて、社会秩序におけ

る不公正

や不完全性と神の摂理と

は両立しえな

いということで

った。」(WG315「

武藤ほか訳178頁」

ェーバ

ーのここでの叙述には、様

々な宗教の事例が挿入され

ているのだが、ベ

ースにな

って

いるのは、古代

ユダ

ヤ教の預言者

の立場

(現在の苦境は祖先の罪

の結果であり、神の掟に従

って

れば自分たちかもしくは子孫たちが此岸での幸福を神から与えら

れる、という考え方)から。彼岸

(天国)の観念の登場を経て、

定説(神の決定は変わりえ

ないが。その意志を人間が理解する

ことは不可能だと

いう考え方) へと至

るプ

ロセスである。

このユダヤ-キリスト教をベースにして考えられた諸類型のあ

とで、ウェーバーは「世界の不完全性という問題に関して体系的

に熟慮され

た解決

は、予定説以

外で

は、ただ二種類

の宗教的観念

だけがある」(WG318,武藤ほか訳185頁)として、ゾロアスター教

マニ教の善悪

二元

論と、インドの

「業

(Karman)」

の教説と

を挙げる。前者

なら悪や不完全性は善神と

は別

に存在する悪神に

帰責されるし、後者なら現在の苦難は前世で

の罪

に帰責されるわ

けである。

Page 4: む世界が「最善」だ(本論22‐25)、というのがこの議論の核 …...あ る。「 悪 」 は 三 つ に 分 け ら れ て い る。① 形 而 上 学 的 な

さて、「神義論」について

の以

上の

ような叙述

は比

較的よ

く知

られて

いるのだが、それ

と比べ

ると、「世界宗教

の経済倫

理」

収の

『儒教と道教』・『ヒンド

ゥー教と仏教』・『古代ユダヤ教』の

中に

いわぱ散りばめられた「神義論」の諸形態についてはあまり

知られていない。①中国の儒教の中で「天命」の「神義論」

が運

命論的な色彩を伴ったこと。②

ヒンド

ゥー教においてカースト秩

序と結合する形で「神義論」が成立し「伝統主義」の温

床となっ

ていく

展開。③古代

ユダ

ヤ教

にお

いてレビ人祭司

や預

たち

エレミ

ヤや

エゼキ

エルや

第ニ

ザヤ)が

それ

ぞれ

に個性

「神

義論」

を構築して

いったプ

ロセス、これ

らの具体

的な叙述

そウェーバ

ーの着眼

の真骨頂

はあると私

は考えて

いるのだが、

こで

は紙幅

の制約

により説明

は割愛す

る。それらを踏

まえ

た上

、ここで

はウェーバ

ーの

「神

義論」概念について総括

を試み

る。

2 ウェーバーの「神義論」、総括

ウェーバー本人

は定義づけ

をし

ていないこの「神義論」概

念に、

の諸形態

についての叙述をもと

にして

定義づけ

を試みて

おくな

ら次のよう

にな

る。

何ら

かの宗教的世界像が与えられ

ている状況下で、現世を支配

する超越的なるものの属性と、現実

におけ

る苦難の配分と

の矛

盾が意識されるとき、その矛盾を解消し

うるような合理的

な論

理(解釈)

を、その世界

像の核心

は維持したまま、思惟

によ

て導出

しよ

うとす

る試み

、「現

(近

「現

「現

輿

それは、――世界や人生の意味如何という学問以前のウェーバ

ー個人の実存的問いもあったかもしれないが、――もっと学問内

「意

(「

(Intellektualismus)」)、

「意

(Sinnlosigkeit)

し(

(こ

) ニ

。「

、「

」(

Page 5: む世界が「最善」だ(本論22‐25)、というのがこの議論の核 …...あ る。「 悪 」 は 三 つ に 分 け ら れ て い る。① 形 而 上 学 的 な

いくのかというウェーバーの「宗教社会学」

という学問

の問題設

からの内在的要請が「神義論」を映し出

した。ウェーバーが

ろうとしたのは宗教の高邁で精緻な理論ではなく、現実の人々が

いかな

る人生観

をもちそれ

に伴

って

いかなる行為

を現

に為して

のかと

いう点に影

響を及ぼし

いて

いる

かぎ

りでの

宗教

の実

った。

自己

の置

かれ

た境遇

を意味

づけ

説明して

くれて

、かつそ

から

の救済

のヴィジョンを示して

くれて

、なおかつその救済の

めの方法

・生き方

を教示してく

れるという宗教の機能によりす

って

かつて

人々は自分

の生き方

を定めたという事情、これが信

の行為

ターン確定の核

だった。その観点から言え

ば、宗教倫

の内

容いかんよりも

、それ

を遂行

する動

機の強烈さ、その強烈

を呼

び起こす救済

論のあり方

の方

にウェーバーの関心はあった

ので

ある。

3 ライプニッツの「神義論」との違い

ところで、ウェーバーの想定している「神義論」概念がライプ

ニッツの「神義論」概念とはだいぶずれて

いるということは明ら

かであ

る。そ

のズ

レの所在を確認しておこう。

①宗

教哲学

から比較思想へ

まず

、彼ら

が「神義論」を考察する際

の前提が全く異な

ってい

る。

ライプ

ニッツは信仰と理性と

の亀裂があ

るべきで

はな

いとい

う立場

から

神の善意も全知全能も疑

いえ

ない特性だと考え、神が

んだ「最

善」

の世界の成り立ちを説

くことで

信仰と理性との架

はあ

べき

「神

を提

た形

った

一方

ェー

るべ

「神

くり

たり

西

し求

たわ

い。

は形

・社

科学

った

。彼

を使

「規

(dogmatisch)

「経

(empirisch)

に身

スト

教以

の拡

ニッ

でも

ト教

世界

の弁

「神

に対

ェー

は様

な諸

「神

見出

較思

想的

であ

。と

われ

は、

ライ

ッツが

かす

論駁

・排

しよ

ニ教

ェー

「神

論」

の解

一形

て挙

って

いる

ドや

におけ

「神

に、

「神

のな

い文

の不

明す

・人

「神

いる

の存

「神義

にも

った。

ライ

は人

って

いる

罪悪

いう

全性

の説

一方

ェー

「神

Page 6: む世界が「最善」だ(本論22‐25)、というのがこの議論の核 …...あ る。「 悪 」 は 三 つ に 分 け ら れ て い る。① 形 而 上 学 的 な

使

三 

――日本の諸思想における「神義論」

)、

るように、"神が(人間を含めて)世界を創造する”という枠組

る、というユダヤ

ーキリスト教

の神への「神義論」

の訴え

は日本

の神道的世

界観において

は、そのままの形で

は成立しない。

とは

いえ、悪

や苦難の存在理由を求める問いかけ

がなか

ったわけで

ない。

本居宣長の

『直毘霊』

(一八世紀後半)で

は、「凡て

は、佛な

どいふなる物の趣とは異にして

、善神のみにはあらず、悪き

も有

て、心も所行も、然ある物なれば、悪きわざする人も福え

、善事

する人も、禍ることある、よ

のつねなり」といわれて

いる。つま

り、人間の世界はことごとく神意

に貫通されているのだが、その

神には善神も悪

神もいるので

あって、善人が幸福を得て悪人

が禍

いを被るのは善神のしわざだが、逆に、善人が禍いを被り悪人が

幸福を得るのは悪

神のしわざ

だ、と

いうことで

ある。この論理

は、

ェーバーがゾ

ロアス

ター教など

に見た善悪

二元論にあたる。

同じく神道の中でも、平田篤胤

の場合は宣長とは違い、善人が

被る苦難は、幽冥大神である大国主神が試練を課して心底を試し

いると解釈され

る(『嚮鯲跼枇』、一九世紀初頭)。

次に仏教

につ

いて考えてみ

る。

仏教では、輪廻転生のもとで

、現世での幸・不幸は、以

前の善

行・悪行

の結果

だと説明

され、現世での善行

・悪行

は、以

後の

(現世であ

ったり、来世であ

ったり

、それ以

降であったりもす

る)

幸・不幸として報

いを受けると説明される。この因

果応報の原理

Page 7: む世界が「最善」だ(本論22‐25)、というのがこの議論の核 …...あ る。「 悪 」 は 三 つ に 分 け ら れ て い る。① 形 而 上 学 的 な

が具体的

にイ

メージされた姿

はたとえ

『日本霊異記』(八世紀初

頭)にう

かがえる。

『日本霊異記』は、読者が善因善果

・悪因悪果

の因果

応報の原理

をわきまえ、悪

行を慎み善行

に励む

ことを意図して編

纂されたも

のである。そのために、

いかなる善

行をした者がいかなる幸福を

かちえ

たのか、

いかなる悪行

をし

た者がいかなる不

幸を招いたの

か、と

いう因果の具体例が挙

げら

れている。説話の中身

について

は割愛す

るが、総体として見れば

、前世で

の原因

が現世で

結果と

して現れてくるという形の話よりも

、同

じ現世

のただなかで原因

が結果をひきおこすと

いう形

の話

の方が

多い。こ

れは、この

『日

本霊異記』が「日本国現報善悪霊異記」と

名づけられて

いるこ

と関

って

いるのだろ

う。その

際、現代人

のい

わゆる

倫理

行・悪

行よりも、仏教に帰依する

か冒涜す

るかと

いう論

点が

「善

因」・「悪因」の主要

な内容で

あるこ

とも

わかる。我

々は、ウェー

ーが

「合理的」な教説と見

たカルマ説

の姿(前世で

の倫理的善

・悪

は、現世

での幸

福・不

幸と

いう報

いを受

ると

いう

型)と

はかなり趣きの違う因果

の様相を見て

とることができ

る。

さらに、いわれなき苦難の帰責の仕方として、"善行には必ず

苦難がつきものなのだ、だからそれに挫けてはいけない"、とい

考え

方があ

る。『法華経』

の中

には、〃仏法

を広めよ

うとす

る菩

薩行

は悪世

において

は妨害

を被るがむしろその受

難を自己

が仏か

使わ

され

た使徒で

あること

の確証

と受けと

めて

それ

に挫

(たとえば勧持品第十三)。

んじ

た常不

話も

(常不軽

菩薩品第

二十)。

『法

の姿

ェー

ヤの

姿

る。

「天

を保

ると

こと

天命

んじ

(『語孟

字義』・『童子問』、一七

世紀末

~一八世紀

初頭)。

トが

ヨブ

「真正

(authentisch)

、す

わち

だ道

に生

立場

ので

かと

の思

想と

って

めて

であ

って

いき

れて

れら

いて

「苦

難」

うも

をど

てき

ーバ

「神

論」

長す

ると

う形

めて

た。

「神義論」に託された思いというものを考えてみると、そこには、

な願

い、

に善

こと

をな

べき

だと

う義

世界

なら

われ

世界

であ

って

ほし

いと

う願

、④

こと

を安

にす

な物

(世

を構

想し

いく

力、

れら

の思

いが

Page 8: む世界が「最善」だ(本論22‐25)、というのがこの議論の核 …...あ る。「 悪 」 は 三 つ に 分 け ら れ て い る。① 形 而 上 学 的 な

(1) ウェーバーの「神義論」については、拙稿「ウェーバーにおける

理学的継承――ウェーバー宗教社会学の基礎概念についての一考

) 

G.

 

T.

 

ibn

iz,

 

ssa

is

 de

 

theo

icee

 su

 

la

 

bon

te

 

de

 

dieu

, 

la

liber

ie

de

I h

om

I,or

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du

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17

10,

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sop

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 Sc

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VI

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C.

 

I. 

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885「 

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」,

(『

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I.

 K

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ll

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il

so

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rsu

he

in

 

er

 

heo

ic

ee';

 

Im

an

l 

ts

 

er

ke, 

an

VI(1973

「Hildesheim), S.119-138.門脇卓爾(訳)「弁神論の哲学的

)。

) 

ax

 

ber

, 

ir

tschaf

t 

 

ese

llsch

af

t,

 

5. 

fl., 

19

76

Tubingen.武藤一雄・薗田宗人・薗田坦(訳)『宗教社会学』(一九

) 

稿