章_昭和前期の虎屋...第2 部 近代社会と虎屋 大正十五年(-九 二 六 )+ 二...
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第 2 部 近代社会と虎屋
大正十五年(
-九二六)+二月
二十五日、大正天皇が崩御され元号が昭和に変わ
った。
六十三年の
長きにわたった昭和は、国土を荒廃させた第
二次世界大戦が勃発するなど激動の時代であ
った。
虎屋では、大正時代を通じて店主の地位にあ
った十四代黒川光景が、昭和に入
っ
ても引き続き店主
にとどま
っていたが、
実質的な経営はほとんど十五代
黒川武雄に任せるようになっていた
。
1
時代の様柑と経営の動向
一、大正から昭和へ
大正天皇の大喪の礼は昭和二年(
-九―一七)二月七日新宿御苑葬場殿で営まれた
。
次いで新天皇の
即位の礼が翌二年十
一月十H
に京都御所紫痰殿で行われ、即位を祝し、東郷平八郎元帥をはじめとす
る官民代表、各国の大公使、合わせて約
ニニ00人が参列、田中義
一首相の発声で万歳を三唱した
。
京都の街には花電車が走り、東京でも提灯行列が挙行されるなど、
一般大衆の間でも祝賀ムー
ドが高
ま
った。
――第3章_昭和前期の虎屋
126
第 3 章 昭和前期の虎屋
昭和元年-20年売り上げ高の推移(東京店分)
悶70
60
50
40
30
20
_I_「菓子賣上日記」による値
「賣上帳」による値
10 昭柑元 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 年(1926) (1927) (1928) (1929) (1930) (1931) (1932) (1933) (1934) (1935) (1936) (1937) (1938) (1939) (1940) (1941) (1942) (1943) (1944) (1945)
注 :昭和9年から 11年までがダブっ ているが、 両者に数値の違いが見られる 。 両帳簿とも数値しかなく 、 どの よう な計尊方法をとったか不明。 ここでは 、 違いをそのままグラフ化 した。
出典: 「菜子質上日記」 、 「買上帳」
虎屋では大正天皇への御供物用の菓子を
宮中や多摩御陵ヘ
一年あまりにわた
っ
てお届けした
。
また、新天皇の即位の礼では、大礼使が使用するものとして鏡餅、椿餅、紅白の煉羊
羹、押物
製の山路の菊などをお納めした記録が残
っている
。
しかし、昭和五年には昭和恐慌が始まり、そして
六年の満州事変をきっ
かけに、
一気に世情
は不安定になった
。
日本国内では
軍部が台頭して戦時色が強まり、国外では八年国際連盟を脱
退するなど国際的に孤
立してい
った
。
さらに十
二年には慮溝橋事件を端緒として日中戦
争が起
こ
っ
て戦火が拡大し、十
六年にはハワイの
真珠湾を日本軍が攻撃したことから、
昭和二年i
二十年(
-九二七i
四五)の売り上げは、世相をそのまま反映していて興味深い
。
昭和四年から六年頃までにかけての停滞は、昭和恐慌の
影響によるものとみられるし、以後+
五年あたりまでの順調な伸びは、まだ戦況が
悪化する前であ
ったことを物語る。
その後、十五
年から十六年にかけての落ち込みは、統制時代に入
っ
て砂糖の供給もままならず、生産、販売
とも縮小せざるを得ない状態にな
っ
たことを反映するものであろう
。
十六年には海軍の指定エ
場となっ
ており、これが
売り上げ落ち込みの歯止めにな
っ
たのか、その後多少回復している
。
しかし、それでも十四、十五
年のレベルに達してはいない
。二十年の売り上げががくんと落ち
ているのはいうまでもなく本
土大空襲と終戦によるものである
。
二、売り上げも世相を反映
戦争が始まった
。
ついに太平洋
127
第 2 部近代社会と虎屋
昭和2年-18年の主要顧客一覧①
個人
皇 室 宮城、東宮御所
朝香宮鳩彦王、伏見宮博恭王、賀陽宮恒窓王、閑院宮載仁親王、北白川宮成久王、
宮家 ・ 王族 久遅宮朝融王、高松宮宣仁親王、 三笠宮崇仁親王、竹田宮恒徳王、秩父宮擁仁親王、
梨本宮守正王、東久逍宮稔彦王、山階宮武彦王、李王家
公爵一條阿孝、伊藤博精、岩倉具榮、大山柏、九條道質 ・ 道秀、腹司信輔、徳川家達、徳川疫光、
徳大寺打厚、二條弼基、 毛利元道、山縣有道
没野長勲 •長之、池田仲博、池田宣政、井上三郎、大久保利武、大隈信常、音我正彦、華頂博信、
侯爵久遁邦久 •質榮、黒田長成 •長祠、小松輝久、西邪従徳、嵯峨公勝、佐佐木行忠・行駕、佐竹義春、
島津忠重、尚 裕、筑波藤麿、中御門経恭、鍋島直映、蜂須賀正詔 • 正氏、細川護立、
前田利為、松平康昌 、 山内豊娯、 山階芳麿
井伊直忠、伊東請祐、上杉憲章、上野正雄、大原重明、大村純毅、小笠原長幹•忠春、奥平昌恭、
香川櫻男、勝芳孝、葛城茂麿、加藤厚太郎、樺山愛輔、紐井絃常、甘露寺受長、消棲幸保、
華伯爵
黒木三次、兒玉秀雄、後藤一蔵、酒井忠克、浜田幸治、佐野常蒻、 三條西買義、島津久範、
清水谷質英・公揖、 宗武志、園基資 •基久、伊達興宗、寺島宗従、藤堂高紹、徳川宗敬、戸田氏直、
寺内順子(寿一夫人)、南部利英、 平田榮二、痰橋惧光、伏見博英、 二荒芳徳、堀田正悟、
前田利男、松平直亮、松浦陸、溝口直亮、室町公藤、柳原義光、渡邊昭
阿部正一 • 正友、綾小路護、板倉勝朝、伊集院兼知、伊東祐淳、稲葉正弘、稲葉正凱、
井上勝純 . 勝英、今城定政、入江為常、梅小路定行、裏松友光、大岡忠綱、大島久忠、
岡部長景、織田信悟• 信正、交野政邁、 加藤隆義、酒井忠英、 宵吉純郎、七條光明、 白川資長、
子爵杉七郎、仙石久英、相馬悪胤、曾我祐邦、高木正得、高橋是賢、竹内惟斌、伊達宗定・宗起、
土屋手直、土岐章、内藤政光、長岡英子(護孝夫人)、中牟田武信、鍋島直紹、鍋島直庸、
族 鍋島直和、西尾忠方、西大路吉光、花房孝太郎· 静子、東園基文、土方雄武、北條熊八、
保科正昭、松平忠壽、松平頼和、松平保男、松平直平、松平康春、 三島通陽、水野忠泰、
三好東一、毛利元雄、山尾三郎、山口元吉
荒尾博正、飯田精太郎、伊賀氏英、岩倉道倶、岩村一木、内山小二郎、大森佳一、岡野節、
尾崎洵盛、 加藤成之、 川崎貨正、 川崎武之助、北島貨孝、九條良致、佐藤逹次郎、 三條公輝、
男爵四條隆貞、斯波正夫、島津府視、島津久原、杉浚言長・由言、園田武彦、高木喜窟、多久龍三郎、
伊達宗克、津軽承靖、辻太郎、 EEi 篤、東邪安、 中御門経民、 長典立吉、鍋島直高、鍋島陸郎、
二條豊基、野村正二郎、東久世秀雄、本田春義、械里小路元秀、 三浦英太郎、村木雅枝、
毛利元良、 山本勝
安達謙蔵、 一木喜徳郎(男)、小川平吉、木戸幸一 (侯)、清浦奎吾(伯)、倉冨勇三郎(男)、
官史・政治家倉冨鉤(男)、栗野慎一郎(子)、近衛文麿(公)、西園寺公望(公)、阪谷芳郎(男)、白根竹介、
菅原通敬、高橋是清(子)、原田熊雄(男)、平沼耕一郎(男)、牧野伸顕(伯)、松野鶴平、
湯浅倉平(男)
鮎川義介、岩崎小弥太(男)、岩崎久弥(男)、岩瀬徳三郎、大倉喜七郎(男)、大河内正敏(子)、
大栢新太郎、木村久寿弥太、倉田主税、渋沢栄一(子).敬三(子)、住友吉左衛門(男)、
実業家 団琢磨(男)・伊能(男)、中島久万吉(男)、服部金太郎、弘世助太郎、藤原銀次郎、
古河虎之助(男)、 三井高棟(男)、 三井高公(男)、 三井高精(男)、光永星郎、森村市左衛門(男)、
山本達雄(男)、横田郁
軍 人 古賀峯一、嶋田緊太郎、鈴木貰太郎(男)、米内光政
その他川島浪速、清沢冽、久米正雄、近衛秀麿(子)、杉村廣太郎、頭山満、瀬尾南海、
5代目中村歌右衛門、 5代目中村福助、 6代目中村福助、西村五雲、野間清治
注:( )内は爵位を示す。
128
第 3 章昭和前期の虎屋
昭和2年-18年の主要顧客一覧②
企業 ・団体
愛知銀行、朝日新聞社、旭石油、足利銀行、伊勢忠、飯野商事、岩井商店、上原洋服店、
宇治川電気会社、塩水港精糖、岡田紙店、小倉石油、花王石鹸、釜石製鉄所、近海郵船、
栗林商船、日本興業銀行、交詢社、国際通連、国民新聞社、櫻護誤、時事新報社、清水組、
主婦の友社、新歌舞伎座、精工舎、正路喜社、大日本雄弁会講談社、竹中工務店、中央公論社、
企 業朝鮮銀行、土畑鉱山、東亜海運会社、東京高速鉄道、東京中央放送局、東邦電力、凸版印刷、
富岡製糸場、中島飛行機会社、中山太陽堂、南洋興発会社、南興水産、南洋拓殖会社、
日ソ石油会社、日本銀行、日本勧業銀行、日本書籍、 H 本石油会社、日本製鋼所、
日本生命保険会社、 H本通連、国際通連、日本内燃機、日本放送協会、 冨山房、文藝春秋社、
平凡社、報知新聞社、松坂屋、松屋、毎日新聞社、 三越呉服店、南満州鉄道、明治製策、
明治製糖会社、横浜正金銀行、横河電気製作所、読売新聞社、和光堂
浅野財閥;浅野物産 · 浅野セメント会社 ・ 浅野カーリット ・ 浅野雨竜炭破
大倉財閥;人山採炭 • 大倉鉱業・大倉商事 ・ 大倉土木 ・ 大倉屋鉄砲店
川崎財閥;第百銀行 ・ 日本火災保険会社 ・ 紅槃館 • 南洋貿易
渋沢財閥;第一銀行· 王子製紙・日本郵船・大日本麦酒・貯蓄銀行 ・ 東京電燈 • 帝国ホテル
住友財閥;住友信託• 住友合資会社 ・ 住友合名· 住友生命保険
H産コンツェルン;日立製作所・日本鉱業 ・ 日産自動車会社・日産火災海上傷害保険• 日本油脂·
財 閥日本水産会社
古河財閥;古河合名会社 ・ 足尾銅山・古河鉱業会社
三井財閥; 三井合名会社 ・ 三井物産・ 三井鉱山・ 三井同族会 • 三井報恩会 ・ 三井銀行 ・
三井生命保険 • 台湾製糖· 熱帯産業
三菱財閥; 三菱銀行・ 三菱信託• 三袋商事・ 三菱地所 • 三菱経済研究所・ 三菱海上火災
森コンツェルン;日本電気工業· 昭和肥料会社
安田財閥;沖電気会社 ・ 安田銀行 · B 本昼夜銀行
理研コンツェルン;理化学研究所
学習院、國學院大學、京北実業学校、女子学習院、東京女子高等師範学校、成城学園、
第一高等学校、第三高等女学校、東京帝国大学、東京音楽学校、東京女子大学校、
学 校 東京農業大学、東京美術学校、東京府立第一商業学校、東京府立第一中学校、
東洋英和女学校、日本女子大学校、日本大学法文学部芸術学科、東京高等農林学校、
雙菓高等女学校、 山脇高等女学校、接正館
足立区役所、赤坂区役所、赤坂晋察署、赤坂市民会館、外務省、外務大臣官邸、神奈川県庁、
貨族院、宮内省、警視庁、麹町区役所、済世会、蚕糸試験所、渋谷町役場、司法省、下條医院、
役所 · 病院 衆議院、千薬県庁、朝鮮総督府、帝室林野局、逓信省、鉄道省、東京府庁、内大臣府、内務省、
内閣印刷局、内閣総理大臣官邸、中野区役所、南洋庁、日本赤十字社、日本総領事館、
日本栢区役所、農林省、文部省、横浜市役所
軍海軍軍令部、海軍省軍需部 ・ 報道部・経理局・海仁会 ・ 軍艦長門指令部 ・ 軍艦龍田、
陸軍参謀本部、朝鮮軍司令官· 陸軍病院・陸軍航空技術学校、軍法会議所
愛国婦人会、海防義会、華族会館、軍人会館、憲政会、皇典講究所、金戒光明寺、金光御本家、
三渓園、斯文会、純持寺、大日本蚕糸会、大日本正義団、大日本文明協会、忠勇顕彰会、
寺社 ・ 団体朝鮮神宮、筑波山神社、帝国在郷軍人会、大日本帝国水難救済会、帝国農会、天理教会、
東亜研究所、東亜同文会、東京倶楽部、東京府社会事業協会、同潤会、豊川稲荷、南禅寺、
日本海員腋済会、日本キリスト教青年同盟、日本工学会、仁和寺、民政党、武者小路千家官休庵、
明治神宮、靖國神社
天野屋旅館、岩惣旅館、梅林、海浜ホテル、金田中、杵屋、相模屋旅館、松雲閣、新金林、
飲食店 新喜楽、竹春本、丹野七兵衛旅館、竹葉亭、帝国劇場、瀾万、南間ホテル、瓢家、星岡茶寮、
松の家、八百勘、八百善、大和ホテル
順不同
129
第 2 部 近代社会と虎屋
2)黒川武雄
「母を憶ふ」私製本昭
和三十年十
一月
(1)「菓子覚書」の題名は仮称で、も
ともと名称はつけられていない
。
「御用帳」 「御得意先元帳」(昭和 1 8年)
るよう、日日を努力している」と述べている
。
三、お得意様の動向
この頃のお得意様をみると、従来の皇室御用や宮家、華族、財閥などに加え、関東大震災後の武雄
の尽力が実って、丸の内地区を中心とした
一般企業も徐々に増えていた
。
販売地域も昭和六年(
-九三一)頃から増え始めて、国内は北海道から九州、海外では時代を反映
して日本の支配地域であった樺太、台湾、朝鮮、南洋パラオ島(委任統治地)、関東州(後の満州国)、
中華民国青島にまで拡大した
。
やがて、昭和十
二年頃からは陸軍医学校や陸軍病院など軍関係の注文が目立つようになる
一方、戦
争が激化するにつれて従来のお得意様は激減していった
。
一、東京店の経営
(1)
武雄の菓子への取り組みー
「菓子覚書」I
十五代黒川武雄は店の経営に携わるようになってから、自ら熱心に菓子製造に取り組み、その様子
をこまめに記してきたが、昭和に人ってからもそれは続けられた
。
もともと武雄はこつこっと努力す
(2)
る性格だったようで、後年書いた随筆のなかでも、自らの信条として「毎日々々を真面目に勉強した
。
商売をやるようになつてからも、現在でも、昨日より今
H
、今日より明日、と
一歩
一歩前進、向上す
2
第二次世界大戦が始まるまで
130
第 3 章 昭和前期の虎屋
5)黒川武雄
「新々羊羹と人生」
製本昭和四十六年八月
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(3)昭和九年に
「ホールインワン
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と名称変更
(4)天皇誕生日のこと
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この時期に記された「菓子覚書」には、生菓子、干菓子、ゴルフ最
(3) 中や、後述する小鼓、小形羊
羹など、現在も販売されている菓子の製
(4)
法のほか、東宮御所献上、天長節御用なども記録されている
。
また原
材料に対してもこだわりをみせており、葛や和
三盆糖のそれぞれの産
地である奈良や徳島へ直接出向いた際に、生産業者から聞いた製法ま
で事細かに書きとめている
。
特に和三盆糖については後日、砂糖きび
の保存法や植え付け時期などをさらに問い合わせ、その返
事の手紙を
克明に追記するなど、その人となりが伝わってくる熱心な研究ぶりで
こうした努力が実って新しい菓子が生み出され、それがやがて虎屋
武雄考案の菓子さまざま
武雄が大正から昭和にかけて考案した菓子は多い
。
小鼓やシイハイルなどのほのぼのとした名前や、
小形羊羹のように見
事なアイディアから生まれたものなどさまざまである
。
ここではこの時期新たに
作られた菓子のいくつかを紹介する
。
小形羊羹
現在にいたるまで虎屋の主力商品の
―つ。
考案したときの様子を武雄は次のように語っている
。
大正時代のことである
。
六大学の野球をよく見に行った
。
野球が終ってゾロゾロと帰る道すがら、
よく考えた
。
こんな大勢の人達にたやすく買ってもらえるお菓子を作りたい、と思った
。
夢にさ
え考えた
。
たまたまフランスのコテイの香水をもらった
。
大きさもよし、化粧箱も簡単であり、清楚である
。
CJ:
「菓子覚書」
の主力商品に育っていったのである
。
ある
。
131
第 2 部 近代社会と虎屋
漿蛮新案小
形
羊羮
戎森
二●Al翫十“"
姜g
なs“川T9,2
8
ス符費よ"
8k"*上げとで
f,'
0貫●にe鰻●g
•6賓ヤ●貨江し
i
し"●m●。・・臼●上リ`鼠2・
これだ、この大きさだと思いついて、
羊羹の小さいのがよい。
夜の梅と悌(おもか
げ)
の小さいのをこしらえて、アルミ箔で包んだ
。
化粧箱もできて来た。
ただ大きな羊羹を小さく切るのが、困難だ
。
その折、店に辻末太郎という人が居たが、
工夫して、小さく切る器具を考案した
。
夜の梅、おもかげの小形が
二個入って、
て安いとはいえなか
った。
こうして、昭和五年(
-九三O)四月
二十五日、小形羊羹は発売された。
ところで、武雄独自の発
案であるこの形状に目を付けて、たちまちまねをした菓子屋がいたらしく
、
武雄は先の文章に続けて
「私が永いこと苦労して考えた小形羊羹を売り出したら、
ニヵ月もたたぬ間にどこかで、小形羊
羹を
売り出した」と嘆いている
。
小鼓小
鼓は鼓を意匠とした懐中汁粉である
。
この菓子が生まれたのは、武雄が趣味としていた能からヒ
ントを
得てのことであった。
大正の終りのある夏のことである
。三井物産の重役福井菊一二郎さんのお嬢さんお
二方が軽井沢の
(ママ)
公会堂で小袖曽我を舞われるのに、地方は先代鋏之丞さん、青木さんがつとめられ、囃子は中井
三之助さんの奥さんの弦子さん、能見博士の菊子夫人
、
鈴木千代子さんに私が笛ということで
軽
公会堂の舞囃子も好評裡に終った。
その翌晩であったろう。
三井物産の重役の藤瀬さんの別荘に
皆は招待された
。
高台にあるお座敷に月がよかったように覚えている。
おそくまで鼓を打ったりなどして楽しい夜
であった。
その清遊の夜を楽しんだ私は、小鼓と言うお第子をこしらえようと思
った。
井沢に行った。
小形羊羹新発売のしおり (昭和5年)
(ママ)
一箱が十五銭で売り出した
。
当時としては決し
132
第 3 章 昭和前期の虎屋
く ~-シイハイル「昭和 11 年御中元御賭答用御菓子御案内」
(6)「菓子覚書」
はの新商品ばかりであった
。
る。メテ赤倉ニテスキーヲナシタル
(6)
こうして考案された小鼓は、昭和
二年六月十七日に発売された。一般に懐中汁粉というと冬の食べ
物という印象が強いが、「夏こそ熱いものを」という思いからだろう、京都の菓子屋では
夏に販売さ
れることもあり、そうした意図もあ
った。
雪の結晶をかたどった可憐な意匠のシイハイルは、利
三盆糖を使用した
干菓子である
。
この菓子は
武雄
一家が友人とスキ
ー旅行に行った先で、耳にした
言葉にちなんで作られたものである
。
昭和の始め頃であ
ったろうか、スキーをやりたいと
言うので、近所に住んでいられた
星野さん御
夫婦(末子夫人健在)、従弟、スキーのベテラン
宮川さん、私達夫婦、七人は田口駅で降りると、
人力車の輪を取りはずした車ゾリにの
っ
て、赤倉温泉まで登った。
…(中略)…
その時、宮川さんは盛んに
「スーハイル」云々と言うので聞いたら、ドイツ語の「シイハイル」
(スキー万オ)の意味であること
。
そこで私は小さな雪の花模様をあらわすまるい小さな菓子を考えて、小さな箱に入れて発売した
。
片栗製雪輪形
ちなみに武雄の製造手控え帳「菓
子覚書」にも、「シイハイル
以后工夫シテ
三十五個入
十二月
一日発賣」とあ
このように数々の菓子が生み出されたが、小鼓といい、シイハイルといい、日々の生活のなかのど
んなことでも、
菓子作りのアイディアに結びつけてしまうひらめきや
柔軟さを持っ
ていた武雄ならで
(昭和八年九月考案)
『新々羊羹と人生』
八年三月半始
「シイハイル」と名づけた。
シイハイル
そして出来たのが懐中汁粉小鼓である
。
『新々羊羹と人生』
133
第 2 部 近代社会と虎屋
9)安田銀行などを経て、現みずほ
銀行
(7)表町店は昭和三十九年の東京オ
リンピック開催に伴う道路拡張
工事
で立ち退かざるを得なくなり、現在
の本社ビルに移転した
。
(8)第二次世界大戦中は、表町店の
御用場を
「第一工場」、伝三御用場
を
「第一―工場」と呼んだ
。
表町店(昭和7年竣工)
の増加にもつながっていくことになるのである
。
新店舗完成と伝馬町御用場の竣工
虎屋は明治二十八年(
-八九五)以来、赤坂区伝馬町三丁目九番地(現東京工場所在地)で商売を
続けてきたが、昭和七年(
-九三二)に御用場(製造場)をあわせ持つ新しい店舗を建てた
。
場所は
それまでの店からさほど遠くない表町
二丁目十六番地(現在の本社ビルの斜向かい
。
青山通りの
一部
昭和六年五月十
一日の店内掲示によると、「表町新築店舗ハ本日入札ノ結果金七萬戴千八百参拾
円ニテ小林組二落札」とある
。
翌七年三月十六日に落成式を行い、四月
三日から製造
・
販売を開始し
た。
まるで城郭を思わせる外観デザインは歌舞伎座の設計で有名な岡田信
一郎によるもので、店員た
ちは「お城の建物」とも呼んでいた
。
当時の模様を武雄は息子十六代黒川光朝との対談のなかで次のように語っている
。
昭利七年に旧来の家屋を改築し、赤坂表町にビルを建てたんですが、当時は馬鹿なことをすると
言われたものです
。
…(中略)…
前から計画を持ってましたから、決心はついていたんです
。
あの建物は一生使うつもりでしたが、
(7)
壊されてしまってね
。
日本風の味があり、しかも近代的な変った建物でした
。
にあたる)だった
。
『菓子屋のざれ言』
その後表町店のボイラーが故障したのを機に、昭和十
三年四月二十七日、伝馬町三丁目の旧店舗跡
(8)
地に御用場と寄宿舎を竣工した
。
御用場は通称「伝三御用場」あるいは「伝馬町工場」と呼ばれ、製
餡と羊羹部門がここに移された
。
竣工当日の社内掲示には「偲参御用場新築落成本日を以て目出度
いた
い六ョか
引越しにつき諸君の祝賀を受け欣喜無量なり今夕粗餐を至し柳祝意を表せんとす主人」とある
。
こうして販売と製造間の分業が実現し、菓子の大
量生産が可能となった
。
これがその後、お得意様
134
第 3 章 昭和前期の虎屋
(10)一八九三ー
一九六八年
。
翻訳・
児童文学者。「赤毛のアンjの翻訳
者として有名
(11)一八九七i
一九九六年
。
小説家
(12)一八八六ー
一九五四年
。
歌舞伎
俳優
(13)一九00-
七九年
。
いけぱな作
家。草月流初代家元
(14)一八九八i
一九七六年
。
テノー
ル歌手
。
浅草オペラの歌手として知
られる。
(15)一八八八ー一九四八年
。
小説家
·
劇作家
(16)一八八七ー
一九五九年
。
政治家
。
昭和二十三年首相となる
。
(17)一八八七ー
一九七八年
。
政治家
。
昭和二十
二年首相となる
。
「お菓子たより J
帳場の仕事
前述のように当時の虎屋の業務は、帳場(事務所)と御用場(製造場)
して
一 、
二年の間、帳場の仕事をしていた村山
一によると、「そのころは十五代さん(武雄)が毎日
帳場に来られ、奥様(算子)も
一緒でした
。
毎日の売り上げなどは奥様が会計係と
一緒になってやっ
(9)
ておられてましたね
。
当時は日本昼夜銀行や第
一銀行などが(赤坂界隈に)あって、売り上げのお金
をそれらの銀行へ持っていったり、両替のお金を貰ってくるのが入りたての僕たちの仕事でした」と
いう。
行きも帰りも現金を手にしていたため、往復に違う道を通るように算子から
言い渡されていた
。
売り上げ管理に欠かせない事務機器類も、店の規模が小さいわりには充実したものがそろえられて
いた。
例えば掛け算から割り算まですべてできるアメリカ製の金銭登録機(レジスター)が導入され、
一日の売り上げは全部それに登録されるようになっていた
。
また請求書のあて名も手書きでなく、ガ
リ版刷りで封筒に直接印刷する方法をとっていた
。
帳場のもう
―つの仕事として宣伝業務があった
。
これは
、
お得意様用の菓子パンフレットや新聞雑
誌などの広告を作成するのが中心であったが、それ以外に
『お菓子たより」という名の
A4
判で四i
八頁程度の広報誌もここで作られた
。
これは昭和十三年(
-九三八)十月
一H
に創刊され、毎月
一回
お得意様あてに送られるもので、第一号では黒
川武雄が「まことの心」と題する創刊の辞を書いてい
(10)
(11)
る。
以後、十五年
二月号まで発行された
。
発行期間こそ短かったが、村岡花子、宇野千代、初代中村
吉右衛門、勅使河原蒼風らがお菓子に関する随筆を書いたり、「忘れられぬ故郷の味」のコ
ー
ナー
に
(17)
(14)
藤原義江、菊池寛、芦田均、片山哲らが文を寄せるなど、内容はなかなか充実したものであった
。
御用場の仕事
この頃作られていた菓子は生菓子、干菓子のほか、羊羹類、焼菓子の残月、懐中汁粉(小鼓)、最
中類が中心であった
。
菓子を作る御用場の勤務時間は、朝の五時から夕方の五時までで、出勤すると
の二つに大別される
。
人店
135
第 2 部 近代社会と虎屋
"""-キ'キ'
l!!!!JL. 御用場の風景(昭和4年)
菓子の販売は大正時代の終わり頃から店頭でも行うようにはなったが、この頃もまだ中心は配達で、
配達について
ある
。
まず当日販売する生菓子などを作り、それが終わって朝食となるのが七時から七時半
。
その後は休憩
や昼食をはさみ特注品や翌日の準備などを行ったが、
一番忙しかったのはやはり朝の五時から朝食ま
での時間であった
。
ただ、繁忙期など例外はあった
。
例えば端午の節旬の前日五月四日は、完全徹夜で粽製造の作業が
あった
。
その際には店員だけでなく、家族まで駆り出されて応援に来るほどであった
。
また粽を巻く
笹の葉を
一枚
一枚洗う作業では手を切ったり、かぶれたりと大変であったが、すべて終わると決まっ
て鰻丼が取り寄せられ、全員に振る舞われる習わしでそれを楽しみにしている店員も多かった
。
ちなみに、菓子を製造する場所を現在でも「御用場」と呼んでいる
。
これは本来、御所の御用を勤
める仕事場の意味からいわれるようになったものである
。
そういう姿勢もあってか、ここでの衛生対
策は大変厳しかった
。
衛生的に菓子を作るため、作業には全員白衣とマスク、帽子の着用が義務づけられ(上の写真では
撮影用にマスクをはずしている)、入り口には消毒用のアルコールが備え付けられていた
。
こうした
作業面だけでなく、店員の健康管理も怠っていない
。
梅雨など伝染病が流行するおそれのある時期に
は予防接種や、定期的な検査が行われ、さらに家庭からの食中毒を防ぐため、独身者以外も三食すべ
て店で食べなければならなかった
。
このような対策は強制的に行われただけでなく、まだ若い店員たちにも日頃から自主的に衛生を心
がけてもらうよう、全員でハエをとる日が設けられたり、ネズミを
一匹とるごとに報奨金が出される
など、さまざまな工夫が凝らされていた
。
これらを通じて衛生に対する自覚を身につけていったので
136
第 3 章 昭和前期の虎屋
(19)ズボンの裾を押さえて、足首か
ら膝まで巻く包帯状の布
(20)村山
一談
18)八頁参照
菓子のお届けでほとんど出払
っても、番頭以外に一人ぐらい店
員がいれば、来店のお客様に十分応対
できた。
東京近郊と都内の大鼠配達、および御所へは自動車、その他都内の小回り配達は自転車とオ
ートバイで行い、地方
発送は現在のような
宅配便はなかったので、郵便か鉄道便で送るという方法を
ところで、森永製菓、明治製策など大型工場を持つ菓子業者は別として、規模の小さな和菓子屋で
配達用の車を持っているのは大変珍しか
った。
虎屋では大正時代に導人した
のが最初だが、昭和三年
にはシボレー、七年にダ
ッ
ヂ、十
一年頃にはフォードに
買い換えている。
もはや自動車
(一九二八)
は虎屋にと
っ
てなくてはならない存在になっていたのであろう
。
一方、オートバイはハーレー・ダビ
ッドソンなど
二台あり、配達専門の人が運転した
。
(18)
が使うのは三角のフレームのところに銀虎のマークが入った自転車で、これが約
二十台あり、現在の
杉並区や世田谷区、遠くでは武蔵野市にある井の頭公園の付近や板橋区までお届けに行くこともあ
っ
配達へ出かけるときは、店を出る際に番号の
書かれた木札をもらい、専用の箱に入れ
た羊羹や生菓
子を風呂敷に包んで、菓子が転がらないようにハンドルのところに提げてお届けに行き、終わ
って帰
ると木札を返すという手順になっていた
。
その番号を見れば誰がどこへどのくらいの時間をかけて届
けたかがわかり、あまり時間がかかると上
司に注意をされてし
まう
。
現在のように舗装された道路が
配達へは、
少なく、ましてや道順に詳しくない経験の浅い店員が配達をするとなる
と大変なことであったが
、
若
い仲間同士で速さを競うなど、それぞれの方法で道路やお得意様の住所を覚えていった
。
みな七宝焼でできた銀虎のマークがついたおそろいの帽
子をかぶり、制服を着て出かけ
た。
この制服は紺色で背バンドつきのしゃれたデザインであった。
上着は折り襟
、
(19)
(20)
ルを巻くようになっていたという
。
たという。
とっていた。
一般の店員
ズボンにはゲート
137
第 2 部 近代社会と虎屋
まず新しく入店する店員については、年齢や経歴によって「
一般店員」と「小僧(小店員)」の二
つに分けていた
。一般店員は旧制中学以上を出て入店した者、小僧は、義務教育(当時尋常小学校)
を終えるか中退して、+代の前半で入店した者を指す
。
小僧は「丁稚」ともいい、格上の店員と区別するために、名前の下に「どん」をつけて呼ばれてい
た。
しかし昭利十四年(
-九三九)七月十六日、武雄が京都店で出した掲示では、小僧の「どん」づ
けを廃止して名前のみとし、その他の店員は姓で呼ぶようにと指示している
。
その翌年の昭和十五年七月十
一日には、「小僧ニツイテ」とする次のような掲示が出されている。
一、従来小僧トシテ入店シタルモノハ拾九歳造ヲ小店員卜稲ス苗字(姓)ヲ以テ呼稲ス主人
(並家族)二於テハ姓又ハ名ヲ以テ呼ブコト、別家ヲ始メ他店員卜同ジ
一、戴拾歳(満二非ズ)二達シタル時ハ(普通)店員トナル、以后成績如何ニョリテ番頭補、同
心得、番頭二昇任セシムルコト従来二同ジ
これによると、小僧は小店員と称し、名前の下に「どん」をつけない、としたのをさらに改めて他
の店員と同じように姓で呼ぶようにいっている
。
新入店員は、経験を積むに従って昇進の機会がめぐってくる
。
製造
・
販売系が番頭補↓番頭心得↓
番頭で、経理などの事務系は書記補↓書記心得↓書記というコースをたどり、その後番頭、あるいは
様子がかなり明らかになってくる
。
二、昇進制度と店員教育
入店時の身分と昇進
たくさんの店員を組織的にまとめていくためには、きちんとした職位が必要だが、虎屋では古い商
家独特の昇進システムを持っていた
。
もちろん古くから使われたものを、少しずつ改めてきたのだろ
うが、大正時代以前は史料が少なく詳細は不明である
。
昭和に入ると武雄が出した掲示などからその
138
第 3 章 昭和前期の虎屋
(21)これを内別家制度という
。
(22)「戸市別家二付出金拍帳」
—
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ー
ム口明
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□[
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.
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家)
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別月
,
市旬
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下34
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'|
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別家制度
束を強くする役割を果たしていたのである
。
「別家」と呼
書記となっ
たなかから優秀な者が選ばれて、別家候補となり、さらに後述する別
家に上り詰めるとい
う道が与えられていた
。
その最初の
一歩である番頭補は今でいう
主任待遇だが、大抵の場合、入店し
て四、五年たっ
た頃が徴兵検査を受ける年齢で、それと同時期に任命された
。
給料は、
一般店員はいわゆる月給で昭和十年代の前半で初任給は約十五円くらい
。
これに対し小店
員の場合は月給ではなく、
一ヶ月五円の小遣いが与えられた
。
武雄は小遣いとしてただ渡すだけでな
く、使い道を常に
気にかけており、いくらかは必ず貯
金するように指
導していた
。
これは後に若い店
員が成長して、家庭を持つことにな
ってまとま
った資金が必要になったときに困らないように、との
配慮からであった。
徴兵検査が終了してしばらくすると、
今度は家庭を持つようにすすめられる
。
相手を決めるのは、
店主家の役目で、行儀見習いに来ていた女性などを紹介した
。
晴れて結婚が決まると、
黒川家の裏紋
である笹竜胆がついた着物と羽織が与えられた
。
このような決まりごとの
一っひとつが、店
員との結
さまざまな経験を
積んだ優秀な店員のなかから
選ばれた者が、最後にたどり
着くのが
ばれる待遇であった
。
別家は、古い商家ではよくみられる制度だが、
一般には別家になる際に
暖簾分
けを許されて独立をするのに対し、虎
屋では独立を認めない代わりに、店
員を黒川家の家族とみな
(21)
し、特別な待遇を与えることを約束していた
。
その特別待遇の
一例を紹介すると、時代はさかのぼるが明治
三十四年(
-九O
I)二月に市川戸
(22)
市が別家にな
っ
た際に用立てたものについて、十四代
黒川光景がつけた記録によると、羽織袴のあ
つらえ代や借家代のように高額なものから、茶碗やバケツ、マ
ッ
チとい
った安価な日用品にいたる
まで、恐らく店員自
身は何も用意するものがないくらいの品目が記されている
。
139
第 2 部 近代社会と虎屋
な掲示が出された。
これが昭和になると、別
家になった者は多額の支度金だけでなく、使用人付き
の
一軒の家を建てて
もらうという破格の扱いを受けるようになったという。
ただし別家の店員が住んでいた家は、黒川家
や店舗、工場のすぐ近くで
、
これはお得意様から急な注文が入るなど緊急に呼び出される事態に備え
てのことであ
った。
別家として破格の待遇を得るということは、よりいっそう店主家への忠誠が求め
られ、責任が重くなることを意味するが、その厚遇ぶりから当時の店員にとって別家は憧れでもあり、
店員教育
虎屋の店員と
して恥ずかしくないだけの知識を身につけさせるため
、
武雄は店員教育にも熱心に取
り組んだ。
その主な対象者は勉強の機会が十分ないまま入店してきた小僧(小店員)たちであ
った。
-Hの仕事が終わった後、寄宿舎住まいの彼らを伝馬町の御用場の食堂に集めて、算盤や商業
、
書道
などを教えた
。
(伝馬町)三丁目の古い工場の食堂で
知識、読み書きそろばんを叩き込んで下さったのは十五代さんだったんです
。
(勉強会は)開かれました
。
そこでできるだけいろいろな
…
(中略)…それは十五代さんが人様の子供をお預かりしているんだという
気持ちからだったと思
います
。
ただ使っているのではなくてお預かりしているのだから、間違いを犯さないように、と
いうようなことを僕はうかが
ったことがあります
。
…(中略)…現在僕たちが筆を持ったりできる
のは、そこで教育されたからなんです。
村山
一談
また定期の授業以外に、外部から講師を招くこともあり、特別な講座が開かれる際には、次のよう
今夜より夜間修養を始む
書間勤務のあと辛労なるべきも
仕事への励みになっていたことであろう。
各自自己将来の大成のためなるを思
140
第 3 章 昭和前期の虎屋
(24)「まこと
」虎屋十五代店主黒川武
雄追悼号昭和五十年五月
23)同様の掲示は同年二月十五H
に
も出されている
。
ながら成長していったのである
。
本当に人間味あふれた方でした
。
せている
。
出すべし
一、夜間修養係員を命ず
一、講師錦城商業
学校
掲示
このような講義や授業はやがて戦争が始まると「虎
屋青年学校」というかたちで受け継がれていく
。
ちなみに武雄はこうした勉強会に力を入れただけでなく、挨拶、礼儀にも厳しかった
。
朝出勤する
と、まず店内を見回る
。
配達員は仕事の準備をした後、
一列にずらりと並んで「おはようございます」
と武雄に挨拶するのだが、頭の下げ方が悪かったり、姿勢が悪いと注
意を受けた
。
また、店内にもく
まなく目を配り、見回る際には下駄やわざと
音が鳴るような革靴を履いて、武雄が見ていることをさ
りげなくわからせ、店
員の気が緩まないようにしていた
。
しかしその
一方で、こまやかな気配りもみ
十五代は店に出られるとあちこちを回り、「おはよう」と挨拶をされて帳場に行かれました
。
そ
の途中では「元気か?」「気をつけろ」などとまめに声をかけられていましたね
。
また風邪気味
の店員がいたりすると「熱はあるのか?」とい
っ
て額に手をあてたり、背中をさすったり、息を
かけて暖めてくださいました
。
昔の店員は頑張り屋で、少々熱が出たくらいでは仕事をしてしま
うので、
いろいろ気を使ってくださったのだと思います
。
怖そうなお顔をしておられましたが、
古川智喜談
このように、厳しさと優しさを兼ね備えた武雄を、店
員たちは親のように敬い、必死に仕事を覚え
山東先生
亮平
会員は必ず出席すべきものにして
ひ
喜び出席せんことを望む
(23)
昭和十三年(
-九三八)九月二十二日
欠席の場合は末太郎(差支の時は信八)
の証明書を係員に
呈
141
第 2 部 近代社会と虎屋
(25)古い商家によくみられる風習で、
正月と盆に、奉公人が主人から休暇
をもらい、実家に帰ること
る。
夏期休暇は別表の如く定む
別家
十日間
となかなか休めなかった
。
三、店員の日常生活と行事
自由時間と休日
一日の仕事を終えて寮に戻ると、自由時間となる
。
店員たちは部屋に残ってバイオリンを弾いたり、
読書などをして思い思いに過ごした
。
ただ外出する際には、寮の舎監のところにある外出脹に行き先
と出発時間、帰寮時間を記入しなければならなかった
。
そして、その帳面は翌朝武雄が必ず見ること
になっており、あまり外出が続くときには「少し遊びがすぎるんじゃないか」と注意されてしまうこ
ともあった
。
しかし、それでも決して息が詰まるような管理ではなかったようで、外出好きな店員は、
りや麻布十番通り、神楽坂といった当時は知られた遊び場へ、週に
一 、
二度出かけて映画を見たり、
露店を冷やかすなど、ささやかではあったが、自由時間を十分楽しんだ
。
休日は、現在のように週休
二日ではなく、
(25)
店員にとって最大の楽しみは、正月と盆の藪入りであった
。
藪入りのときには交代で
一日休みがも
らえ、店主の妻(+四代夫人光榮あるいは十五代夫人算子)から、「お仕着せ」と呼ばれる木綿の着
物と帯(別家には袴)が与えられたほか、通常の小遣いや給料とは別に賞与と、実家への土産用と
し
て羊羹(大神)
一本が渡された
。
夏期は藪入りとは別に夏休みもとれた
。
大正時代の章でも述べたが、勤務年数によって休暇日数は
異なり、毎年その時期になると、武雄が掲示で休暇期間の希望を募ったり、決定を知らせたりしてい
一ヶ月に
二日
。
しかも不定期で交代制、許可が下りない
一ツ木通
142
第 3 章 昭和前期の虎屋
お三日の風景。 黒 J 川家に集まった別家の妻たち (昭和9年4月 1 日 )
(26)掲示昭和五年七月十五日
(27)黒川家に奉公に
入り、十五代と
まだ幼かった十六代の身の回りの世
話を務めた
。
後に店員の古郡勘十郎
と結婚
事を用意しながらいろんな世間話をしたんですよ
。
月の
一日と十五日に、別家さんの家内が
するなどして
一日をともに過ごした
。
小僧藪入は休暇中の
一日をあつる
家事を手博ひつヽ心身の修養をなすべし
休暇中は特に人手不足すべし
夏期休暇では自宅に帰る者もいたが、黒
川家の別荘がある葉山で過ごす店員も多かった
。
暑さ厳し
い季節柄、現在のように衛生状態が万全とは
言いがたい時代を反映して、武雄の掲示には「ヤタラニ
氷水ヤアイスクリームナドヲ食ベテオ腹ヲコワサヌ様」などと健康に気を配るよう、注意を促す記
述も見える
。
右を除く全員
今では失われてしまった風習の
―つに、「お三日」がある
。
藪入りと同様古い商家でみられる習わ
しで、毎月数日決められた日に酒肴や赤飯などが振る舞われるというもので、これも店員の楽しみの
―つであった
。
虎屋では毎月
一日、十五日、
二十八B
に行われ、通常の食事は
一汁
一菜なのだが、こ
の日ばかりは肉や魚のフライなど西洋料理が夕食に出され、成人の店員にはお銚子が
一本付いた
。
またこの日は、店でもてなされる店
員とは別に別家の妻たちも黒
川家の屋敷に挨拶に行き、食事を
にお食事をちょっとお出しして、五目(寿司)を作って
。
大奥様(光榮)
さんじつ
お三日と店主の誕生会
六日間
七日間番頭
(黒川家へ)うかがうんです、ご機嫌うかがいに
。
夕方
書記同心得補同待遇客員
掲示
気をはり勇気を出して弱音をはかぬ様
昭和十四年(
-九三九)
女店員は休暇中はなるべく自宅に帰り
(27)
古郡つる談
七月三十日
と奥様(算子)とお食
今より心せよ
両親に孝養をつくし
143
第 2 部 近代社会と虎屋
現在の千石の様子
(28)現港区芝公園四丁目の東京タワ
ーの場所にあった高級料亭。明治十
四年(
-八八
一)開業
。
昭和二十年
空襲により焼失
しかし、お
三日はその後、太平洋戦争の激化とともに縮小を余儀なくされ、
やがて廃止されてしま
店主と店員で食事といえばこのほかに、店主の誕生日には盛大な会を開いていた
。
誕生日は光景が
(28)
二月九日、武雄が三月五日だったが、その
B
には当時芝区にあった料亭の「紅葉館」や日本橋区呉服
橋のレストラン「日光」ほか
一流どころで
一流のものを食べる楽しみを味わった
。
時には表町店の二
階に幕を張って会場にし、そこへ赤坂にあった「井うち」という中華料理屋に出張してもらい、食べ
放題としたこともあった
。
この日は無礼講とされ、H
ごろつつましい生活を送っている店員たちは、
虎屋に古くから伝わる行事に「千石」がある
。
これは十二月
二十六日に行われるもので、店主が
「千石餅」を揺き、正月に雑煮として振る舞うものである
。
千石餅の言薬の由来ははっきりしないが、
千石は昔から富を象徴的に表す数詞であり、縁起をかついで、恐らくは店の繁栄と
幸福を願って始ま
ったこの行事をそう呼んだのだろう
。
この餅の中には消毒をした硬貨(五銭玉)が混ぜられており、食べているうちにそれに当たると
「幸せをつかむ」とか「金持ちになる」などと店員の間で喜ばれていたという
。
ちなみに、千石は現在も毎年十
二月
二十六日の夕方に行われている
。
当日朝に掲いた小判形の餅に、
まず社長が店の繁栄と幸福を願いつつ毛筆で「千石」の文字を書き入れる
。
神棚に供えた後、夕方東
京工場でその餅を
翌年の幸福の方位(恵方)を正面として臼に入れる
。
そして周りに社の幹部や社員
代表が集まり、手に持った「しゃもじ」で臼の周りをたたきながら「やーれ千石だ」「やi
れ万石だ」
と囃したてる
。
その囃し言菓とともに、社長が杵を各
一度だけ揺き下ろすのが
手順である
。
その後、
参加者全員で別に棉いた福餅を食べて解散とな
る。
ただし現在は硬貨を餅に入れる風習はない
。
千石
この時とばかり心行くまで楽しんだようである
。
った。
144
第 3 章 昭和前期の虎屋
,, -:, ャヽ
” —_,. •• :'函"' ヽ
吟'~,-!,~•,.. 京都店の慰労旅行(淡路島 昭和 14年5 月 )
...... 具贔....,
店員慰労旅行(熱海お宮の松の前で 昭和 1 0年6 月 )
店員慰労旅行
店員の慰労旅行は大正七年(
-九
一八)より行われてきた記録があることはすでに述べた
。
昭和に
なると店が忙しくなってきたのに加えて、店員数が昭和四年(
-九二九)に大正末年の約三倍にあた
る四十余名、十年には五十余名にのぼり、大所帯になったことから、旅行も数班に分けて行われるよ
行き先は那須塩原や筑波山、熱海
・
箱根など近県の観光地が主で、時には日光に日帰りで行ったり、
旅行のほかに観劇の会なども催された
。
しかし、昭和六年の満州事変を機に次第に旅行に対する自粛気分が強くなり、八年以降は旅行先も
泊りがけとなる遠方をやめて、近隣の日帰りに変更している
。
武雄は泊りがけで出かけた最後の旅行
に際し、店員へ次のように述べている
。
先日話シテオイタ慰労旅行ヲ愈々明后廿七日ヨリ
三日間二分ケ行フコト
A
シタ
香取神宮追ッテ詳細ハ明日発表スル
水越、横山、市川ヲ旅行委員トスル
右ヲ以テソノ時二話シタ通リ
慰労旅行ノ最后トシ
「昭和三年より十四年まで店員慰労旅行控帳」昭和六年(
-九三一)七月二十五日
その後昭和十四年六月六、七日に
二班に分けて箱根へ日帰りで行った際には、旅行の目的を「武運
長久祈願」としている
。
すでに日中戦争に突人して戦時色が強まりつつあり、戦争の勝利を願うよう
一先ヅ中止スル
な名目でないと旅行もしにくい時代に入っていたのであろう
。
尚
うになった
。
目的地ハ
鹿島
145
第 2 部 近代社会と虎屋
正弘•光景両夫妻
る。
すか?
四、京都店の経営
黒川正弘経営の頃の京都店
武雄が東京店を切り回していたこの頃、京都店は大正時代に引き続き、黒
川正弘が支配人として兄
の光景より経営を任されていた
。
当時の京都店について、黒
川秀子は次のように語っている
。
店員の朝も早かったのですが、義父の正弘も午前五時には起きていました
。
神棚や毘沙門様にお
参りをしてから、御用場でその日の餡とお菓子の出来具合いを検査して、そのあと朝食となって
いました
。
店の奥には黒川家の大きな台所があり、店員の人たちも箱膳を運んできてそこで一緒
に食べていました
。
昔の大きな商家の典型的な姿でしょうね
。
(京都店に来店されるお客様は)元公家の方たちがよくお菓子を買いにいらっしゃいました
。
そ
のお使いの人が蒔絵の重箱を持参して、「旦那様はこういうお菓子がお好みであらっしゃいます
から」などと言って、生菓子を三つ五つばかり求められていました
。
ただお公家さんといっても
裕福な家は少なく、しかも当時は年末支払いの掛け売りだったので、すんなりと支払っていただ
くのは大変だったようです
。
京都店には京都ならではのお得意様がいたことがわかるが、店の様子はどうだったのだろうか
。
昭
利十
一年(
-九三六)に入店する以前、他の菓子店で勤務していた芝山富蔵は、次のように語ってい
(当時の京都店の店員は)+五i
六人ぐらいですね
。
配達の人は少なくてね、
二人か―二人しかお
らんか
ったんです
。
御用場には十人もおらんかったと思います
。
七i
八人ぐらいだったと違いま
お休みは日曜日で、宿直の人は月曜休むということになります
。
そういう組織でいくということ
ですね
。
それが他の店とは違うところで、小さいところだったら店番もしなければならない
。
朝
146
第 3 章 昭和前期の虎屋
お給料は良かったです
。
私たちの時代はボーナスというのがなかったですよね
。
けれども虎屋は
ボーナスがありましたよ
。
他の菓子屋は「お仕着せ」がありましたが、給料も安かったです
。
「仕事を覚えさせて、ご飯を食べさせている」という昔はそういう考えだったんです
。
凰
松坂屋名古屋店に出店
京都店の支配人だった黒川正弘は昭和十
一年(
-九三
六)+二月
一日、松坂屋名古屋店が塩昆布の松前屋、洋
菓子のコロンバンなど京都、大阪、東京の名店を集めて
地下
一階に東西名物街を開設した際に、名古屋店を
出店
した
。
東京店と京都店以外でははじめての店舗である
。
店の責任者には正弘の長男英雄が就いた
。
開業の本来
の目的は、後述するように東京の店が将来京都の店を経
営統合することを視野に入れて、正弘が京都店の支配人
を辞したとき、名古屋店の収入を生活の糧とするためだ
ったという。
武雄と光景は正弘に対して、出店資金の全
額援助をしている
。
これは
「一昨春、叔父正弘、名古屋
松坂屋に売店を設ける計画あり
。
望まれるままの全額を
支出しその
資となし、十
二月よりいよいよ
売店開設せら
*1
れたり。
」とあることや、菓子製造所の土地選定や工事
費用の見積りなどをやりとりした、正弘と
光景
•武雄間
の書簡が今に残されていることからもわかる
。
当時
、
手伝いとして京都店から派遣さ
れた芝山富蔵の
話によれば、菓子の原材料はすべて京都店から送られ、
*2
大須観音付近に買い求めた家で菓子を製造したという
。
けでしょう?
も早う起きなあかんでしょ?
汁粉店を設けたり、大綽羊
羹を半分に切って販売するな
ど、従来の虎屋とは全く違ったユニークな販売方法を取
り入れたこともあり、繁盛したようである
。
順調にいくかにみえた名古屋店だが、戦争が暗い影を
落とすようになった昭
和十五年、責任者だった英雄が軍
隊に召集されることになった
。
このため英雄は、このま
ま名古屋に店を残しておいては何かあった場合、東京の
店や黒川家と関係がこじれる可能性があること、また出
征して戻ってこら
れない場合もあるかもしれないこと、
などを案じて、両親には黙
っ
て閉店を決意したと、妻の
黒川秀子は語って
いる。
正弘は大変落胆したというが、
英雄の思惑以外にも松坂屋が物価統制や物資不足によっ
て営業が困難になってきており、嗜好品である菓子を販
売することもままならない時
代に突人してしま
ったとい
う事情もあった
。
こうして名古屋の店は閉じられ、時代は第二次世界大
戦へと突人していく
。
*1
「まこと
j十五代追悼号、武雄が松本与市に
与えた書状
から。
名古屋市中区
*2
「働いても
掃除をして、餡も炊かなければならない
。
虎屋だったら餡炊くだ
掃除は掃除で営業部の人が別にしますよね
。
147
第 2 部 近代社会と虎屋
29)十五代黒川武雄
" ァ—~~ , ,;
経営統合時の京都店店頭での記念撮影 (昭和 1 3年3 月 26 日 )
らう」ではなく「(菓子を)作らせている」というね
。
考えの切り替え方が違ったんやね
。
東京店に比べると規模は小さかったが、分業制をとっていた点は共通している
。
このような体制は
京都の和菓子屋としては珍しいケ
ー
スだったようである
。
長年半ば独立して経営され、のどかな雰囲
気さえ漂う京都店であったが、光景に代わって店を切り回し、東京店の経営を安定させた武雄が京都
店の経営にも乗り出す心積もりを固めたことで改革の波にさらされることになり、経営の
一本化に向
けて、まず正弘からの支配人委譲について水面下の折衝が始まった
。
五、経営の再編
正弘による経営が続き、大正から昭和へ、独自の実績を残してきた京都店であったが、こうしてい
よいよその経営の責任を武雄が持つことになった
。
京都店統合の経緯
武雄は経営の
一本化を図る第
一歩として、昭和十
三年(
-九三八)三月
一日に松本与市を支配人と
して、次いで小僧の関本
幸平をその部下として京都店に派遣した
。
突然の転勤を命ぜられた松本は、
決意を語った武雄の
書状を引用しながら、次のような思い出を述べている
。
昭和十三年、京都店に転勤を命ぜられた
。
切符を用意して「松本今晩の汽車で京都に行ってくれ」
と
言われた
。
「有難うございます
」とお礼を申し上げて引上げると、これが転勤命令だった
。
ロ
数の少ない、信条の強いお方であった
。
…
(中略)…
京都店は、十三代光正様が留守番として、
実状は光景様の弟、正弘様が営業をつづけておられた
。
これを現在のように、東京店、京都店と統
一した様式の、昔ながらの老舗虎
屋としての店舗に統
(29)
制されたのは大旦那様であり、中興祖以上の、大切なお方であると思います
。
京都店に私が転勤
148
第 3 章 昭和前期の虎屋
' ,_,, ヽ
京都店(昭和 14年竣工)
とす
。
した
当時、大旦那様よりお預かりした書状を左に記する
。
従来京都店は養父光景名儀なりしも、実際は叔父正弘の経営に委せありたり
。
東京店は、京都店
あって始めて意義ある虎屋なり
。
当然同
一人が主亭すべきものなりと思考、己に黒川家に入りて
間もなき時分より余の主張なりき
。
その主旨は、拾数年来叔父叔母にも、店員吉田にも常に語り
て、誤解なき了解をもとめ来たり、昭和十年秋、養父始めて京都店更改につき、万事を余に委せ、
可然取り計う様、託せられたり
。
それより明瞭に、京都店経営の旨を叔父叔母に明言して、着々
その準備に着手したり
。
然れども徐々に進むべきを思い、無理なき諒解を得べく、月々ほとんど
一 、
二回づつ京都に来りて、歩
一歩と進みたり
。
…(中略)…
越えて十二年七月光正、光景、正弘、武雄四名東京に会して、京都店更新案を決し、昭和十
三年
よりその折の条件として、余、
三月
一日より名実共に余が経営する
。
以上を記して将来の思い出
昭和十三年四月七日
光朝
『まこと
』虎屋十五代店主黒川武雄追悼号昭和五十年(-九七五)五月
武雄がここで
一本化に踏み切ったのは、このまま放置しておけば京都店独自の経営色がさらに強ま
り、東京店とは全く別な存在になってしまうのを恐れてのことであろう
。
松本与市が付記した書状で
もわかるように、経営の
一本化に成功したのは、武雄の鋭い経営惑覚、じっくり時間をかけた辛抱強
い根回し、養父の兄弟・家族に対する武雄ならではの深い配慮があってのことであった
。
また東京・
京都の経営統合は武雄にとっても大きな決断で、引用された書状からはその緊張惑もひしひしと伝わ
黒川武雄
算子
四十二歳
二十
一歳
時四十六歳
京都店にて改築増築の土工の音を聞きつつ
149
第 2 部 近代社会と虎屋
烏丸通沿いの黒/II家私邸とまこと寮(昭和13年3 月 ) 京の山
る。
ってくる。
なおこれを記念して新菓を発売した。
「京の山」である
。
昭和十三年四月
一日発賣
昭和十三年何月かよ
り京都店を名実共に経営する
こと、
なりたる
録商標を得たり
以て豫め名を定め考案して
登
「菓子覚書」
京の山は桜と紅薬をかたどっ
た干菓子で、現在も京都店独自の菓子として、引き
続き販売されてい
京都黒川家と店員に対する待遇
武雄は京都の店員に対しても、こ
れまでとは違う
東京風の管理を行うことを宣言したが、その
一方
で、東京の店員と変わらぬ待遇に改めることも忘れなかった。
それが店舗と
寄宿舎
「まこと寮」の改
築である。
今の烏丸のところね、あそこは空き地だったんです
。
石ころがごろごろしていて、鉄条網が張ら
れていて。
そこに烏丸の家と
「まこと
寮」を建てて。
前も寄宿舎はあったんですけれども、汚か
ったんです。
(武雄が経営するようにな
って店の雰囲気は)ずいぶん変わりました
。
最初に
「これから私が商
売をするが、勤める人は勤めてもらって、いやと思う人は即座に辞めて下さい」と
言われました。
それで辞めはった人もいます
。
別な菓子屋へ行った人もいるし
、名古屋で電車の車掌にな
った人
と、せり
愈々十三年三月
一日より
経営するに
当り陽春四月
一日より
東京店京都店にて
一斉に発賣するこ
京の山
150
第 3 章 昭和前期の虎屋
ゞ,竜王山と 16代光朝(昭和14年4月 )
たね。
かかっていって、
(竜王山は)わざと押されたりしてね。
しゃいませんか?
竜王山が来ますよ」と
。
正弘は店を明け渡した後、
いったん下鴨の蓼倉町に移ったが
‘
さらに
上賀茂へ越した。
そのため周
りからは
「賀茂の黒川さん」と呼ばれていたという
。
武雄は、経営を離れたとはいえ
、
長年功績のあ
った正弘を丁重に遇しており、松本与市支配人とともに京都へ赴任した関本幸平は、
「毎月お
手当て
を会長さん
(武雄)から袋に入れてもらって届けていました
」と
語っている。
また、店を離れて久しい十三代黒川光正についても、決して粗略に扱うことはなかった。
烏丸通
一
条角(現京都
一条店)に新築した黒川家の私邸を光正の住居とし、昭和十九年
(-九四四)八月八H
に八十
一歳(満七十九歳)で亡くなるまで面側をみたのである。
なお余談にはなるが、
京都の店の経営に乗り出す前後には、武雄は店のみならず近隣の人々に
対し
ても細やかな気配りをみせている
。
その点について、京都店のすぐそばに店を構える本田味噌本店の
社長本田茂氏は次のように述べている
。
武雄さんは竜王山という関取を贔隕にしておられました
。
それでお店の庭に今も
蔵がありますが、
もうひとつ蔵がありまして、その前に屋根つきの土俵を作っていました
。
そこへ竜王山が時々来たんです
。
来る前日になると、店の方が
そうするとみんな
一緒に
「わーい!
」と行って。
はじめは
一人ずつ
、
本物の力士にかかっ
ていくんだから、遊びだったけれども面白かったですよ
。
そのあとで
「ご苦労様」
でも今度はみんなでわ
っと
と
言っ
て、番頭さんがお菓子を持ってき
て、食べさせてく
れたりしまし
お盆とかお正月には、武雄さんが自らご挨
拶にこられていました
。
なかなか
律儀できっ
ちりとし
もいるし、田
舎へ帰ってしま
った人もいるし。
「どうです坊ちゃ
ん、明日いら
っ
芝山富蔵談
151
第 2 部 近代社会と虎屋
(30)売り上げ高
一覧によると、昭和
十三年の売り上げは
一00万円を超
していないが、その理由はわからな
‘
。
し(31)村山
一談
たご性格でしたね
。
相撲とはまたずいぶん派手な趣向ではあったが、店の経営でみせた武雄のオ覚が近所の人々とのコ
ミュニケーションの巧みなとり方にも表れているといえよう
。
3
第二次枇界大戦期の虎屋
昭和十五年(
-九四O)二月
一日に十四代黒川光景は隠居、家督を十五代黒
川武雄に譲った
。
光景、
この時七十歳(満六十八歳)
。
明治三十二年(
-八九九)に十四代店主になって以来、実に四十年以
上にわたって虎屋の発展に力を尽くした功労者だった
。
そして武雄は四十八歳(満四十六歳)で名実ともに十五代店主となった
。
東京帝国大学で学んだ深
い法律の知識と家業を
一から勉強しながら身につけた経営手腕、そしてその誰にも慕われる人柄で虎
屋を有数の和菓子屋に築き上げつつあった
。
しかし、日本はすでに戦時下にあり、昭和十六年には太
平洋戦争に突人、以後終戦まで武雄は厳しい世情のなかで店を守る責任を
一身に負うことになる
。
一、国家総動員法下の虎屋
戦局が日本有利に進んでいるうちは、まだ虎屋の業績も好景気を背景に順調に推移していた
。
昭和十二年(
-九三七)+二月十四日付での、日本軍が南京を陥落したことを祝して店員全員に祝
(30)
儀を支給するという掲示も残されている
。
また十三年には年間売り上げが
一00万円を突破したこと
(31)
から店員全員に記念のすずり箱が配られたとの証
言もある
。
しかし戦争が長期化し戦況が不利に転じ
152
第 3 章 昭和前期の虎屋
32)「虎屋青年学校に関する書類(二)」
モッテH
本主義精神ヲ発揚シ
(32)
テ主旨トナス」とある。
二努メ 虎屋青年学校
ると物資不足が始まった。
折から、昭和十三年四月に公布された国家総動員法は
、
戦時に際して政府があらゆる制
限や強制措置を勅令
一本によって行うことができる強力な法律であった
。
これによ
って政
府は国民や企業に数々の制限を行
ったり
、
大政翼賛会や産業報国会など各種の組織をつく
って人々をさまざまなかたちで動員していった
。
虎屋も例外ではなく、戦時体制下での
虎屋青年学校
昭和十四年(
-九三九)三月十五日、伝馬町の工場内に武雄が校長とな
って
「私立虎屋
青年学校」が設立された。
青年学校は、もともとは尋常小
学校しか出ていない勤労青少年に対する補習機関として
昭和十年に国が設立を定めたが、戦局が深まるにつれ市単位、区単位での
設立が困難にな
り、各事業所の経営者に対し軍
事教育を兼ねたかたちでの設立が要望された
。
虎屋の青年
学校はそれを受けたものであるが、この当時、独自で学校を編成できるだけの青少年が店
員と
していたことも確かであ
った。
そのうえ寄宿舎の小僧(小店員)を集めて読み
書き、
そろばんなどの「寺子屋教育」を行ってきた伝統もあり、設立はスムーズにいったよう
である
。
申請書によると、生徒は十四歳以上の男子二十五人が対象で、専任教員
一人、兼任教員八人。
教育
方針は
「教育勅語ノ御聖旨ヲ奉戴シ
青年學校ノ教育本旨二準拇シ
産業二従事スル現代青年二訣ク可カラザル教養
ヲ
培フヲモツ
始業式は設立の翌月四月二日に行われた
。
生徒は
一年から五年までの各
一クラス
。
毎週月、水、金
の三日で、時間は仕事を終えた夜の七時から九時までであった
。
生徒は虎屋の店員で、
「中には邪の
種々の対応を迫られることになった。
青年ノ心身ヲ鍛錬シ徳性ノ涵養
153
第 2 部 近代社会と虎屋
(33)掲示
虎屋青年学校職員
昭和十四年十一月二日職名 担当科目 学歴 職業 氏 名
校長 公民修身 東京帝国大学英法律科 黒川 武雄
教諭 国語国史 東京帝国大学在学中 黒川 光朝
公民修身 東洋大学講師 柴田甚五郎
国語漢文 巣鴨女子商業学校教諭 鈴木應普
法制経済 中央大学専門部経済科 岡 暢景
国史経済 日本大学専門部経済科 浦田直之
販売実務 中央大学専門部商科 大川正男
販売実務 京北実業学校 松村 孝一
販売実務 法政大学専門部商科 長谷川 仁
国語作文 早稲田大学第二専門部文科 棟田 博
制限される日々
具合で辛い人もあるかも知れぬが
勇気を出して勉強する内には必ず健全な林となり得ると信ず
(33) る」との武雄校長の訓示が残っている
。
授業内容は、普通学科(国語、国史、地理、数学
·
算盤、理科、音楽)、職業科(商業)、教
練科に分かれていた
。
教師の大半は虎
屋の関係者で、校長は武雄、教諭には東京帝国大
学在学
中の黒川光朝をはじめ、大
学専門部などを卒業した店
員があたり、それぞれ自分の得意分野で
ある科目を担当していた
。
べての店員とまではいかないものの、
ちなみに彼らは大
学を卒業してから入店したのではなく、虎
屋に勤めながら夜学で修学し、
卒業している
。
当時菓子屋では、一般に勤めるのに実務の妨げになる
よ
うな教養は無用という
通念があり、店員どころか、店
主でさえも高
等教育を受けているものは少なか
ったという
。
す
できる限りきちんとした教育を店員に受けさせたという
のは、武雄の教育への思い入れが、それだけ深か
っ
た証といえよう
。
虎屋関係以外の教師としては、公民修身に東洋大学講師の柴田甚五郎、国語漢文に巣鴨女子
商業学校教諭の鈴木應善、国語作文の指
導には後に戦争作家となる棟田博の名がみえる
。
また、
教練の授業は近くの氷川小学校の校庭を借りて週二回行われたが、教官は予備役陸軍伍長の棟田(国
語作文と兼任)と、武雄の友人であった陸軍工兵中尉の藤本精
一が担当した
。
しかし、この
青年学校も創立から
二年後には、出征者が増加したことなどから在籍者が九人になっ
てしまい、教育、訓練に支
障を来たすようにな
った
。
そし
てついに昭和十六年五月には休校となり、
翌年三月には廃止に追い込まれた
。
出典 : 「虎屋青年学校に関する書類 (二 ) 」
昭和十四年(
-九三九)九月、政府は国民精神総動
員運動の
一環として毎月
一日を「興亜奉公日」
とし、この日は「全国民がこぞっ
て戦場の兵士の苦労をしのび、自粛自制を示す」ことを国民に指示
154
第 3章 昭和前期の虎屋
17代光博誕生記念錬成会(昭和 18年)
(34)興亜奉公日のこと
以后神酒日ハ十五日、二十八日ノニ日トス
一、中元、歳暮ノ祝儀ハ
昭和十五年(
-九四0)七月十二日
一日のお三日が廃止されただけではなく、賞与以外に出ていた祝儀までもがカットされ、店員の楽
ス スル
一大失策ナリ
掲示
中元歳暮ノ賞典ナキ時分ノ遺風ナルニッキ
尚当日ガ日曜等休日二相当スル時ハ勿論行ハズ
京都店卜同様
以后廃止
近来主人ノ好意ニナレ、考へ違ヒヲナス者アルラシク思ハル
一、御三ヶ日タル
一日ガ
奉公日二当ルニヨリ
二日ヲ神酒日トナシタルハ
うな掲示が出ている。
二日は東京店開祖黒川光正様(祖父)
拝の后神酒を頂戴すること
昭和十四年(
-九
一二九)八月三十
一H
本来であれば戦地の兵士の苦労を思いやって毎月
一日のお
三日はこの際廃止するべきだったのだろ
う。
しかし、武雄は店員の楽しみを奪ってはかわいそうだと考えたのだろうか、この時点では翌
H
に
ずらしただけにとどめている
。
ところが、社会状況の悪化により、翌十五年にこれを撤回した次のよ
神酒H
ニツイテ
廃止す
。
掲示
の御命日につき
毎月感謝B
となし
主人トシ
テ国策二反
三階御神前御仏前参
した。
その結果、この日は
子供たちは神社へ参拝に行かねばならず、大人は禁酒禁煙、飲食店には営
業時間短縮やネオン消灯が求められた
。
虎屋でもこの趣旨に従っ
て、それまで恒例となっていた毎月
一日に御酒をいただく
「お神酒の日」
(お三日)を見直すことになり、それを知らせる次のような掲示が出された。
(34)
毎月
一日の神酒は昔より行ひ来れる佳例なれども
‘
興亜記念日となれるにつき
国策に従ひ之を
155
第 2 部 近代社会と虎屋
(35)掲示昭和十六年九月六日、十
七年十月二十四日、十八年十月十五
日ほか
ホ錬成會
ノ日ヲ利用シ
講演會
講習會
旅行會
遠足會
J ヽ 口 ィ
しみが
―つまた一っと失われていった
。
戦争の影が次第に虎屋の上にも重くのしかかってきたといえ
虎屋産業報国会
統制が強まるなか、労使
一体をうたった「産業報国運動」も次第に強化された
。
虎屋でも昭和十六
年(
-九四
一)七月に武雄が会長となって「虎屋産業報国会」が組織され、産業報国精神の昴揚、規
律確立、技能向上、能率の増進などがうたわれた
。
また、福利厚生や慰安娯楽も行うようにと会則に
虎屋産業報國會々則第五条及第十九条二基キ事業ノ範園ヲ左ノ如ク定ム
(ママ)
一、精神ノ修養人格ノ陶治身体ノ錬成等二干スル共同ノ事項
本會二左ノ部會ヲ適宜設備シ幹事會理事會ノ協議ニョリ適嘗ナル時期ヲ選ビ
ある
。
よう
。
本會ノ費用ヲ以ッテ之ヲ行フ
これは会が発足した後、事業分野の福利厚生の部分の規約が改正されたという史料である
。
しかし
実際のところ、戦時下にあってこれほどの行事が開けるわけもなく、せいぜい遠出の遠足に行く程度
であったよう忘。このほか規約によると、結婚、出産、出征などに祝儀を出すことも定めており、店
内の親睦、福利厚生のための、懇親会にあたる組織として機能したようである
。
この虎屋産業報国会
は第二次世界大戦終了とともに、その活動を終えることになる
。
公休日其ノ他
156
第 3 章 昭和前期の虎屋
(37)「榮太棲ものがたり」
(38)掲示昭和十四年九月十六日
(39)掲示昭和十四年十
二月
二十三
日(40)掲示
ヵ(41)掲示
(42)掲示
日
昭和十四年九月
二十
一日
昭和十四年十
一月
二十五
昭和十五年八月十七日ほ
(36)「三十年記念誌j東京和生菓子商
工業協同組合昭和五十
六年五月
エレベー
ターに
戦争が長期化し戦況が不利になると、前述のように総力戦に対応するための国家総動員体制が強化
され、厳しい統制経済が始まった
。
虎屋も原材料不足に悩まされ、営業時間の短縮や原材料の使用制
限、さらに生産を縮小するといった措置をとるようになっていく
。
原材料不足のなかで
経済統制のなかで、菓子業界に最も大きな影響を与えたのはやはり砂糖の配給制度であった
。
まず
一般家庭向けについて、昭和十五年(
-九四0)六月から東京
・
大阪・名古屋・京都
・
神戸
•
横浜の
六大都市で、マッチとともに回数購入券による配給切符制が開始され、次第に地方にも適用されてい
った。
同年十月には、砂糖は業務用についても切符制となり、その施行範囲は全国に拡大された
。
この制度の受け皿として昭和十五年四月、理事長に四世細田安兵衛氏(榮太棲練本鋪)が就任して
設立されたのが東京生菓子工業組合である
。
組合員数は約五
000
人、うち純粋の生菓子業者は約
(36)
三000
人と推定されているが、これらの菓子屋が諸原材料を配給として組合より受け取っていた
。
この組合は昭和十八年に統制組合に移行したが、二十年八月十五日の敗戦までの約五年間、企業整
備や公定価格の設定をはじめ、原材料難、菓子製造器具・機械の供出、戦災に対する対応など、相次
(37)
ぐ難題の処理に追われることになった
。
(38)
虎屋でも昭和十四年の九月十七日には砂糖不足のため、夜間営業を中止した
。
また、従来交代制だ
(39)
(40)
った休日を定休日制とする、営業時間を短くするなどの措置もとられた
。
また掲示には「白小豆彿底
ニッキ今日以后白餡ハ出来ル丈ケ使用セザルコト」との指示や、製品の値上がりを防ぐために「御菓
(42)
子並箱の値上をせざるため諸材料の節約を必要とする」などの呼びかけもあった
。
もちろん節約する
のは原材料だけにとどまらず、「荷物運搬以外はエレベーターの使用をなさゞる事
二、統制経済下の菓子製造
157
第 2 部 近代社会と虎屋
43)掲示
昭和十四年九月八日
(43)
限らずすべて電力を節約せよ」というものまであり、徹底していた
。
それでも、虎屋は恵まれていたほうで、皇室からの注文に必要な分だけの原材料はいただけたのと、
昭和十六年から海軍の指定工場となったため、なんとか菓子を作り続けることができた
。
それにひき
かえ、他の菓子屋の状況は厳しかった
。
原材料不足のため休業する店が続出し、
軍需用に鍋、釜など
の鉄類はもちろん、ザル、菓子型、のし板、番
重なども供出させられ、木型は燃料に使われた
。
長年
使い慣れた製菓道具がこうした非常の措
置で失われ、多くの菓子屋が休廃業に追い込まれたのである
。
しかし、やがても
っ
と状況が厳しくなると、虎屋といえどもさすがにたくさんの菓子をそろえるこ
とは不可能になった
。
あらかじめ決められ配給された分量に見合う数だけが製造、販売された
。
当時
の様子について古川智喜は次のように語っている
。
戦時中は砂糖の統制や配給があって、業務用の砂糖が若干入るだけで、それにヤミの砂糖を買っ
たりして少しずつ作って売
っていたんです
。
そして生菓子はもったいないので、今の大枠羊
羹を
月に何本という風に決めて作り、
の(原材料)はないでしょう?
(配給)切符で売りました
。
その頃はもうほとんどそういうも
それでも虎屋は実績もあったし、(他の菓子屋に比べて)配給
の量も多かったので、ほうぼうから来たお客様が朝からだー
っと並んで待って買われたんですよ
。
それでも、菓子を手に入れることができればまだましで、買えない人々もたくさんいた
。
以下紹介
する植物学者牧野富太郎のエッ
セイでは、戦争が激化した昭和十八年に、
が困難であっ
たか、その体験が描かれている
。
いかに菓子を入手すること
その後君(池野成
一郎)は不幸にして老衰病にかかり、昭和十八年十月十四
H
についに東京豊島
区西巣鵬
一丁目の木村病院で歿した
。
年は七十八であった
。
これより先、君の菓子好きを知って
いる野原茂六博士が親切にもわざわざ赤坂の有名な菓子舗虎屋に行き、池野君の菓子好きで虎屋
の菓子も時々賞翫する訳など懇々と店員に話して菓子を買うことをもとめたが、戦時中のことと
てなかなかウンとい
っ
てくれず奥に行きて主人にその訳を取次いだところ、そういう訳ならと
幸
158
第 3 章 昭和前期の虎屋
に同主人の快諾を得て予約し、その結果数日後にかろうじて上
等の餅菓子
一折を買い得て、
を私と共に病院に持参し病床の池野君に進呈したところ、同君はことのほか
喜ばれ、早速その
一
個をつまんで口にし、あまりは後刻の楽しみにせんとてこれを看護婦に預けられた…
(後略)…
牧野富太郎
『牧野植物随箪』講談社平成十四年(
二00
二)四月
ここに出てくる虎屋の主人というのは、おそらく武雄のことであろう
。
りといえるが、簡単には菓子が
買えなか
っ
たという厳しい時代背景がうかがえよう
。
菓子公定価格の発令
菓子業界を圧迫する厳しい経済統制はさらに続く
。
その最たるものが公定価格の導入であ
った。
公
定価格とは、戦時経済体制下の物価抑制を目的として、国家総動員法のもと物価などを凍結するもの
鳳興亜餞
の発売
原材料不足のなか
、
京都店では支配人松本与市が、小
麦粉と黄粉と黒砂糖を混
ぜた生地で黒糖餡を包んだ代用
食「興亜餞」を考案した
。
発売は昭和十五年(
-九四O)
九月二日で、武雄はその喜びを次のような歌に託してい
る。
二日夕偶感
あな嬉し興亜の空に堂々と興亜骰の発質をする
(掲示)
この菓子は
一個五銭。三個を
一食分として発売された
が、お客様の反応もよかったようで、武雄は早速
「賣行
き上々であるが、興亜餞に限らず他のお菓子も、すべて
「よく出来てゐる」とほめられるやうに心してこしらへ
いかにも武雄らしい応対ぶ
•l
ねばならない
。
油断は大敵だ」と慢心を戒めている
。
興亜骰の売れ行きはその後も順調で、社内掲示には
(ママ)
「京都店に於て九月
一日発売以来多き日は四千近く少な
き日も千五百位の好成績をあげつ、あり、東京店に於て
も将来の発展を期しつ
、少数丈け毎日販賣する
こと、す
*2
る
」とある
。
この興亜餞の人気はカロリーが高い点にもあったらし
く、昭和十五年十二月十三日の掲示には
「衛生試験所の
査定をうけたるところ
二八九カロリーにて米飯の
二倍の
熱量あることを証明せられたり皆と共に喜ぶ」という
掲示がある
。
カロリーが少ないのをよしとする現在とは
逆で、食料不足の当時としては大いに
喜ばれたようだ。
*1
掲示昭和十五年九月四日
*2
掲示昭和十五年十
一月
二十二日
これ
159
第 2 部 近代社会と虎屋
(44)本史料は掲示としてつづり込ま
れているが、文章の書き方からみる
と、おそらくお客様あての通知と考
えられる。
示している
。
生菓子は
羊羹は
八十三錢
れてゐます」と答えること」と念を押している
。
も
「口」に気をつけること
八日には
「公定値は十六日発令の由なり
答ヘヨ
虎屋主人
菓子の公定価格が発表されたのは昭和十五年(
-九四0)八月十六日であるが、武雄はそれに先立
つ七月三十
一B
に「注意菓子公定債格ニッキテハ
一切発言スルヲ許サズ唯「コマリマス」
ト
ノミ
尚「ワカリマセンカラ主人ニオ聞キ下サイ」卜答ヘヨ」との掲示を出している
。
そして八月
先達以来度々注意をしてゐる様に此際特に店の内でも外で
きかれたら「こまります」の
一言だけ「これ以上云ってはならぬと云は
これは、従来から他店に比べ値段が高めだった虎屋の菓子が、公定価格とはいえ低い値段に押さえ
られたことにより、お客様が従来の値段設定に疑問を持ち、難しい質問を店員に投げかけることを武
雄が危惧したことによる防衛策だったのだろう
。
(44)
公定価格が発表された八月十六日、次のような通知が出された
。
菓子公定債格決定について
いよ/\公定債格がきまりま
し
た以上それによって善虐致します
一綽
[
一個
七錢でございます
当時虎屋で販売していた価格は、羊羹(夜の梅•おもかげ)が
一円五十銭、生菓子が十
ニー
十五銭
だったので、公定価格では約半分に引き下げられてしまったことになる
。
さらに、原材料が配給にな
ったことで、これまでのように高品質な材料を大量に手に入れることが無理になった
。
そのため原材
料が直接持ちこまれる皇室や軍向けなら品質を維持できたが、一般向けには良質な菓子をたくさん作
ることが困難になっていた
。
こうした事情は事情として、武雄は店員の心構えについて次のように指
で、
一般に「マル公」の名で呼ばれた
。
160
第 3 章 昭和前期の虎屋
「海軍監督工場指定書」 (昭和 19年 11 月 15 日 )
一陸海軍各省
一陸海軍各病院
一陸海軍人
である。
十二年九月十八日の掲示には、
軍関係の菓子製造の始まり
新たな取り組みが始まった。
これからはその定めに従って違反することな
く勉強せねばなら
ない
おいしい御菓子を
つくらねばならな
い。
何でもかでもたゞ
賣りさ
え
すればいA
と
云ふ考へは従来とおなしく
起してはいけない
「虎屋は高くない」と政府によって保証されるのだと思へば有り
難い
国策順応協力そこに喜びありそ
こに安心ありだ
そして、
菓子種類および詰合せ数の削減や
、
配達個所の制限など
事細かに決まりごとが定めら
れ、
それに従って第子の販売が行われるようになったのである。
三、軍関係の菓子生産
このような統制経済下で、さまざ
まな制約を受けながらも虎屋は苦心して経営を続
けてきたが、昭和十六年(
-九四
一)、海軍用の策子製造が委託されたこ
とによ
って
虎屋で軍関係の注文が目立つようにな
っ
たのは、昭和十年
(-九
一二五)以降のこと
いよいよ
発表になった
あまい御菓子でなく
掲示昭
和十五年(
-九四O)八月十六H 唯
161
第 2 部 近代社会と虎屋
(48)各軍港、要港等に設けられた海
軍下士官兵の福利厚生施設
47)掲示
45)伝馬町工場
46)掲示
右ハ勿論其他軍事関係ノ御用ハ五分引ノコト
とあり、かなりまとまった注文にな
ってきたようだ
。
昭和十五年までお得
意様の帳簿は、「皇室
(御所)関係」と「
一般顧客」の二つに分類されていたが、十六年からは新たに軍関係も加えられる
ようにな
った
。
虎屋が軍から注文をいただくようにな
っ
たことについて、古
川智喜は次のように語る
。
最初は海軍、横須賀の鎮守府で受けて、それから少しでも多く(注文をいただけるように)とい
うことで海軍本省の指定(監督)工場となったわけです
。
その後呉や佐世保の鎮守府からも注文
残念ながら、軍と虎屋の間で具体的にどのようなやりとりがなされたのかはわからない
。
ただ昭和
十六年四月には、海軍の監督工場の指定を受けることになった
。
四月
三日の掲示には、「陸海軍御用
(ママ)
内にかえ
っ
て家族の人達にも」とあり、いよいよ軍用菓子の製
の製品の数は絶対に口外せざること
造が始まるという緊張感が伝わる
。
(45)
翌四月四日には「三丁目で海軍御用の羊羹の製作が始まった
(ママ)
に宣言されている
。
その後八月四日になると「海軍省釜理局ヨリ毎月
一定量ノ御注文ヲウクルコトヲ
(47)
得タリ御用ノ基礎愈々堅固トナリタルコトヲ
喜ブ」と軌道に乗り始めたことをうかがわせている
。
(48)
そして海軍経理局以外にも、佐世保、舞鶴など各鎮守府、さらには海仁
会、各地の部隊まで注文が
広がるようにな
った。
しかし陸軍に関しては監督工場とならず、陸軍航空本部、陸
軍病院をはじめ、
それぞれ個別にうかがっていた
。
海軍監督工場として
軍の直接管理下に入って以後、工場には
軍の監督官がしばしば訪れるようにな
った
。
しかしその代わり、東京、
京都両店ともに経済統制下にもかかわらず砂糖や穀類などの原材料
の優先的支給や免税措誼も受けられるようになった
。
なお、虎屋に残されている四谷税務署長から出された昭和十七年十
一月五日付の指定
書によると、
をいただくようになりました
。
一戦地ヘノ御用命品
(46)
全員見学することを
望む」と高らか
162
第 3 章 昭和前期の虎屋
49)免税糖のこと
海の勲
50)皇太子
(明仁親王)のこと
。
今
上天皇
遊バサレタル由恭ナクモモレ承ハル
承認に当たっては次のような規定が設けられている
。
<49)
原料糖ヲ使用スル輸出菓子卜其他ノ原料ヲ使用スル菓子トハ各別二製造スルコト…(中略)…原料
糖及之ヲ原料ト
シテ製造シタル輸出第子輸出砂糖又ハ菓子卜混蔵セザルコト
このように支給された砂糖は、
軍用以外の菓
子への転用は厳しく制限されていたのである
。
こうして、虎屋は軍から本格的に注文を受けるようになったが、
主に納人されたのは、海軍用は円
筒形の「海の勲」、陸軍用は四角形の「陸の誉」であった。
これらは出征した兵士に配られるため携
帯できるよう小ぶりに作られていた
。
もともとこの
二種類は、桜(海の勲)と星(陸の誉)を配した羊羹として店頭販売していたが、昭
和十六年(
-九四
一)以降本格的に軍用菓子の製造が始まるようにな
ったのを機に、同じ菓銘で作る
武雄はこの二種類の菓子が生まれた経緯について、次のように記している
。
昭和十二年七月北支事変起リ
夜の梅小形
一個十銭
二月始陸のほまれ
「菓子覚書」
もののない時代の羊羹は貴重な甘味で、現在でもご来店のお客様が「戦
争中、
軍隊で食べた虎屋の
羊羹の味がいまだに忘れられない」としみじみと話されることも多い
。
工場での仕事は朝から晩まで忙しか
ったですね
。
「汐留(新橋)から出るからそれまでに品物を
作れ」と上司に言われ、大変でした
。
釣り仲間に昔海軍にいた人が二
、
三人いますが、虎
屋に勤
ようにな
ったようである
。
い夕おしくが
海の勲、陸の誉
八月上海二変アリテ日支
事変トナル
発賣
十二月
一日発賣陸
のほまれ(図略)
御常式被下御用トシテ大
宮御所へ上納シタルトコロ海のいさほし(50)
大宮様殊ノ外御喜ビ
(図略)十
十月始戦地御慰問用トシテ
163
第 2 部 近代社会と虎屋
(51)児島襄
「昭和16年12月8日日
米開戦
・
ハワイ大空襲に至る道」文
藝春秋平成八年(
-九九六)九月
めていたと
言うと、「虎屋の丸棒(海の勲)
ったんですね
。
石川三郎談
(51)
また海軍中佐中川肇の日記には「夜食は虎屋の羊かん
。
なんと勿体なきことよ、戦争なればなり」
という記述が残されている
。
恐らく中川中佐にとって虎屋の羊羹は、本来天皇が召し上がるもので、
このような戦時中だから自分もいただけたのだ、と光栄に思う気持ちが強かったのだろう
。
なお、京都店でも東京と異なるかたちではあるが、やはり軍用の菓子の製造をしていた
。
陸軍では
りょうまつしょう
大阪の糧株廠、海軍では呉や四日市に納めていた
。
(京都店で軍に菓子を納めていたのは)大阪の糧株廠の羊羹ですけどね
。
…(中略)…東京のとは
違うもので、別にケ
ースを作っていました
。
そのケースも最初にちょっと流して、固まってから
羊羹を流すんです
。
そうでないと羊羹が漏れてしまうんですね
。
芝山富蔵談
羊羹が漏れてしまう原因としては、原材料不足で煉り工程が十分にできなかったことや
、粗悪なパ
ッケー
ジしか人手できなかったことが考えられる
。
軍隊用に原材料が別途に分けてもらえるといって
も、やはり統制経済下、行き届かないことも多く、完全なかたちで商品を納めることはなかなか難し
戦時下の皇室御用と菓子
はうまかったなあ」と言われます
。
よほどおいしか
こうして、量としては軍からの注文が増えてきたが、もちろん皇室御用が少なくなったわけではな
い。
この時期、皇室用にかなりの量を納めたのが、「御紋菓」と呼ばれる菊の御紋をかたどった干菓
子であった
。
これは昭和天皇の名代で各宮様が戦地を慰問された際に、
ニー
三個詰めにして下賜され
たものである
。
ちなみに戦死者の家族には、五個入りの御紋菓が渡される習わしだったが、やがて戦
かったようである
。
164
第 3 章 昭和前期の虎屋
53)昭和十七年四月三十H
52)「菓銘皇国の精華由来
」
雄飛木型
争が激しくなり戦死者が増加すると、箱詰めにされる個数は次第に減っていったという
。
当時考案された菓子には、爆弾をかたどったり、
勇ましい名前がついたり、と時代を反映したもの
が多か
った。
例えば日中戦争での戦果を祝し、富士山に星と桜の花をあしらった菓子を献上したとこ
ミ
ク
ニ
ヒカリ
(52)
ろ、昭和十
三年(
-九三八)六月三日、大宮御所から
「皇国の精華」の菓銘をいただいたとの記録が
残されている
。
また戦果の喜びを表した菓子をお納めしたところ、+七年四月
二十五日、同じく大宮
(53)
御所から「雄飛」の菓銘をいただいたとの掲示もある
。
皇室の御用は鼠と
し
てはそれほどでもないとはいえ、軍の注文と
重なったりすると、
軍の仕事なんて安いものですしね
。
御所は結構良か
っ
たんですが、(軍にくらべたら注文は)ご
くわずかでした
。
(当時の販売の内訳は)大半が軍からの注文ですが、それが安かったんですよ
。
手間もかかりましたしね
。
儲けようとしたら軍需関係なんか本当に良かったですよ
。
だから町
工場も非常に景気が良か
ったのね
。
うち(虎屋)はそういうわけですし、旦那さんもそ
うですから(戦争で儲けようとは思わない)、給料も上がりません
。
私のそばにいた連中も
軍需
工場に徴用にとられたんですが、私の倍ぐらいもらっていましたね
。
古川智喜談
ここでいう
軍需工場は、直接武器に関わるものを製造した工場を指す
。
その製品は戦争の遂行に必
要不可欠なものとあって、労働する人々にはかなりの労賃が支払われた
。
虎屋の店員として現に勤め
ていても、徴用があればいやおうなくそこに赴いて作
業に従事した
。
当時の店内組織
戦時体制の虎屋の組織はどうであったか
。
昭和十六年(
-九四
一)頃の組織表が残されているので
紹介する
。
さにな
ってくる
。
かなりの忙し
165
第 2 部 近代社会と虎屋
業務系統および所管分掌表
主人
炊事部
第二:場~~h:;;: 厄倉庫庫
経理部
戸購監会買査計課課課
営業部
I I I 第第
「「日 戸iii企軍 宮販納内
画品 省売
総務部
戸庶秘人務 書事課課課
54)当時はまだ文部省美術
研究所に
奉職中
(54)
主人である武雄を頂点にして、以下総務部長に光朝、営業部、経理部、製造部、炊事部には店員が
配置されていた
。
このうち、
営業部第
一課の「販売」は販売全般、「宮内省」は宮内省
•
宮家御用、
第二課「軍納品」は陸海軍、「企画」は商品、広告、宣伝および販路開拓に携わっていた
。
営業組織
からも、この頃の虎
屋が、とにかく
皇室御用と軍関係中心に動、いていたことがうかがえよう
。
なお、第
一工場は表町店、第
二工場は伝馬町の工場のことである
。
表町店は店舗と事務所とともに
御用場が設けられており、皇室関係の羊羹や生菓子
、焼物などはここで作られていた
。
伝馬町の工場
では主に製餡と軍関係の羊羹の製造が行われていた
。
このほか特徴的なことは、
全店員の食事をつく
り配膳していた炊事部があ
っ
たことで、これは現在と違って
一_一食すべてを店で用意していたことによ
るものだろう
。
四、戦時下の店員たち
出征店員の増加
戦争が始まると徴兵適齢期の若い男性が多い虎屋では、戦地へ駆り出される店員の数も増えていっ
た。
満二十歳になるとまず徴兵検査を受ける
義務があり、合格して(甲•乙.丙種)、やがて召集を
受ければ、令状に指定された部隊に入隊しなければならない
。
戦争が激化するにつれてその人員も増
え、ほとんど戦地に赴くことのなか
っ
た丙種まで次々と召集されるようにな
った
。
召集を受けたこと
は雇い主である虎屋にとっても名
誉なことと見なされ、店をあげて品川や四
ッ谷駅までの見送りをし
たり、無事帰還をすれば出迎えもしていた
。
(55)
しかし、戦況が日に日に不利にな
ってい
っ
た昭和十九年(
-九四四)頃になると、戦死を知らせた
り、郷里の葬儀に香典などを持参するとい
った悲しい掲示も出るようにな
った。
番頭山崎美男
166
第 3 章 昭和前期の虎屋
56)元別家西川武兵衛の孫
召集される店員
(55)虎屋で戦死した店員は須田三郎、
藤田覚治、清水政
一、鈴木清、丹羽
保の五名
。
うち丹羽は京都の店員で
ある
。
長崎文明堂のトラックに女の助手がのってゐるのを見た
番頭鈴木清戦死シ
よく指導して立派に
今年より女店員を多数採用したのは人員
ソノ遺骨無言ノ凱旋ヲナシ
ニ十八日郷里二於テ葬儀執行ニッキ
店員代理代表トシテ主人ノ香料、供物弔詞携帯ノ上清ノ郷里二出張ヲ命ズ
掲示
女子店員の採用
店でも男店員の増加は常につとめてゐること、同時に
不足の将来のおぎないに備ふるためであることも
主人並ニ
昭和十九年(
-九四四)五月二十三日
こうして菓子製造に必要な男子の店
員が一人抜け、
二人抜けしていった
。
たとえ戦争に行かなくて
も当時は国民徴用令、国民勤労動員令などが発せられており、
一般の民間人を国の命令で軍需工場や
軍事関係の重要産業に強制的に就労させた
。
虎屋の店員も例外ではなく、他の軍需工場に勤務させら
れる者が出始めると、人員不足はますますひどくなり、
早急に手を打つ必要が生じた
。
女性の社会進出が
一般化した現在では考えられないことだが、虎
屋では当時女子が菓子の製造に従
事することはなかった
。
だが軍からの注文が増え、召集や軍
事工場への徴用で男子店員が減ってくる
と、労働力の不足を補うために従来の慣習を破らざるを得なくなった
。
(56)
虎屋の女子店員は昭和十
一年(
-九三六)に人店した西川あさ子が第
一号であるが、その後十四年
四月には縁故を通じ、群馬県館林から五人の女子がまとめて入店し、そのための女子寮も開設された
。
同年四月
一日の店内掲示には「今般女店員多数入店セル
コ
トハ誠二喜ビニタヘザルトコロナリ
。
…
(中略)…男子店員ヨ、
言行二注意シテヨロシク女店員ヲ指導シテ店ノ向上繁栄二努カセヨ」とある
。
ところが、男
子店員からみれば、女子店員の仕事ぶりには不満があ
っ
たのかもしれない
。
約一ヶ月
後の五月十
一日には、武雄から改めて、女子店員を採用した理由について次のような掲示が出ている
。
人員のますます不足することを覚悟せよ
その目的の
―つである
167
第 2 部 近代社会と虎屋
(57)京菓子の伝統を守るため由緒あ
る菓子店が集まり、明治
二十
一年
(一八八八)に結成した会
。
現在も
各品評会への出品などを行い、技術
の研鑽に努めている
。
(58)「座談会京菓
子に見る近代の歩
み」「淡交別冊」二十五号淡交社
平成十年(
-九九八)二月
戦時中に入店した女子店員たち
多かった
。
女子店員の数はその後もさらに増え、昭和十
六年に海軍の監督工場になってからは、
隊の応援もあったという
。
その後の正確な数はつかめないが、十九年の防
空訓練の出番表を見ると、
七十人の店員のうち、女性が三十九人と半数以上を占めている
。
戦時下の京都店と京都の菓子業界事情
ここで戦時下の京都店と業界の様子を見てみよう
。
京都も統制経済下での状況は東京と同じだった
。
(57)
当時の菓子組合としては、昭和十
一年(
-九三六)に菓匠会を母体としてできた京菓子商業組合があ
(58)
っ
たが、戦争が激しくなると動きがとれず、十九年に組合を解散した
。
この頃のお得意様の状況は先
にも述べた軍関係以外に、
皇室関係として月に
二回ほど桃山御陵にお納めしたほか歴代
天皇の御位牌
のある泉涌寺や久遠宮家にも菓子をお届け
し
ていた
。
当時他の菓子屋は材料•砂糖がないため多くが店を閉めざるを得なくな
っ
ており、終戦間際まで菓
子を作り続けた虎屋は、他店からみればうらやましい存在だったという
。
またこの頃は京都のほうが仕事も少なく、人
員に余裕もあっ
て人手不足の東京へ応援に行くことも
海軍の羊羹を作るというので、京都から四
i
五人で手伝いに行きました
。
京都は暇でしたから
。
かったという
。
一にし
役に立つ店員となる様皆して心せよ
今やいたづらに声を大にして人
員不足をの、しりさわぐ時ではなく
つとむべき時である
共々に仲よく働いて御客様の御下命にそうよう
右に反して平和をみだすが如き店員あらば別家といえども厳重に慮分すべし
女子店員たちの仕事は実際には
事務、食堂係、包装などで、製造にはほとんど関わらなか
ったが、
中には器用な人もいて、羊
羹流しなど
菓子作りを手伝うこともあ
った
。
特に押物作りなどはとても早
一時女子挺身
どうにか
し
て不足でも心を
168
第 3 章 昭和前期の虎屋
(59)「京都府公報」昭和十七年十二月
十一日
(60)広瀬為吉
「近世日本菓業史」上
菓子公論社昭和
三十五年五月
五、十六代黒川光朝について
この措置がそのまま実施されると、伝統を誇ってきた京都の伝統的銘菓も姿を消す恐れがあった。
京都府は農林省に働きかけて
、
その年の暮れ
、
伝統・風格•技術などの観点から選んだ川端道喜の
「道喜ちまき」、若狭屋茂弘の「祇園ち
ご餅」、鶴居吉信の「柚餅」、虎屋の
「虎屋餞頭」など十八種を
(59)
特定品目に追加することに成功した
。
(60)
ちなみにこの農林省への働きかけには武雄の尽力もあったといわれ、『近世日本菓業史』には
「菓
子統制の結果はこれ等伝統ある美術的国粋名菓も一時滅亡かと思われたが
、
東京黒川氏等の運動によ
って当局を動かし、
国粋保存の見地から銘菓を保護される事となり」と書かれている
。
ここで十五代の長男、十六代黒川光朝の経歴を簡単に紹介しておこう
。
大正七年(
-九
一八)七月二十四日に生まれた光朝は
、
東京府立第
一中学(現在の日比谷高校)か
ら成城高等学校に進み、昭和十四年(
-九三九)四月
、
東京帝国大学文学部美学美術史学科に入った
。
給を決定するにいたった
。
冬に行ったんですが、今度は(忙しくて)四月まで帰してくれへんのです
。
冬のオーバーを着て
帰らないかんのです
。
それでも私は軍隊に行かなければならなくなったので
、
先に帰してもろた
んですよ
。
芝山富蔵談
ところで、原材料不足で次々と菓子屋が休業していくなかで、せめて京都らしいものが残
ったとす
れば
、
それは京都府が政府に働きかけて京都の
「伝統的銘菓」を守ったことだ
った。
昭和十七年、製様原材料の不足で菓子生産は減少、乳幼児用の
菓子すら不足し、乳児の成長を渦か
す恐れも
出てきた。
こ
のため政府は乳幼児菓子その他特定品目を指定し
、
この部門の原材料の重点配
169
第 2 部 近代社会と虎屋
(61)黒川光朝
「続菓子屋のざれ言」
虎屋
昭和五十九年七月
帝大時代の光朝
美術史を選んだ理由の
―つは、子供の頃から祖父の光
景に連れられてよく美術館や展覧会を見に行き、
美術が好きだったこと
。
そしてもう
―つは、光朝が家業を継ぐために大
学は経済学を
学ぼうとしてい
たところ、父の武雄が「菓
子屋は別に経済学をやらなくてもできるはずだ、それよりも教養の面から
いっても美術史がいいのじゃ
ないか」と言ってくれたことだ
った。
光朝は、戦争のため昭和十六年十
二月に大学を繰り上がりで卒業したが、ただちに虎
屋には入店せ
ず翌十七年
一月に国際文化振興会に就職した
。
その理由を店員に告げている掲示が残っ
ているので紹介する
。
本日昭利十六年十
二月
二十七日を以って、私は東京帝国大
学を卒業し、十七年の長きに
亘る
学
生々活を終り、社会人としての
一歩を踏出した
。
無事大学を卒業出来たことは、諸君の熱烈なる
支持と期待とに依るものと此虜に深く感謝の意を表する次第である
。
私が大学卒業の饒、直ちに虎
屋の副店主として、諸君と共に製菓報国の大使命に就くと考へられ
てゐた事に到して私は
一言述べねばならぬ
。
虎屋第十六代として、祖先の業を継承し、我が日本菓子の向上、発展のために全力をつくすこと
は私の幼時より抱いて居り、現在猶、確持せる畢生の
事業であり信念である
。
私に典へられた光
栄ある使命である
。
而して、優秀なる店
員諸君の上に立っ
て、今大学を出たのみで直ちに諸君を
(ママ)
指揮し、共に家業を推行せんとすることは果して可能なりや否やを自ら疑ふ
。
他日、人を用ふる
者は、先づ自ら人に用ひられねばならぬ
。
即ち、私は先づ人に使はれることによ
っ
て自己の人格
を完成し、其後自信を得てから諸君と共に働き度いと考へる
。
夫れ故、私は、来年
一月より国際
文化振興会に就職することに決心したのである
。
…(中略)…
私の就職先は、畏くも
(立力)
高松宮殿下を練裁に戴き、情報局
直轄の日本文化
一般の野外宜博機関であっ
て、戦争完遂のため
の国家的重要任務を帯びてゐるのである
。
武器を以っ
てする以外の戦争の弾薬庫の如きものであ
170
第 3 章 昭和前期の虎屋
光朝 、 堤芳子と結婚(昭和 17年5 月 14 日 )
62)当時有数の
砂糖問屋だった堤廂
店の店主
(発力)
る。
悠久二千六百年の歴史を持つ光輝ある日本文化を世界に癸揚すべき任務を有する所なのであ
る
。幸に、私の大学に於いて専攻せる日本美術史の研究は、何等かそれに野して寄典することが
出来ると考へる
。
私は此の仕事に出来得る限りの努力を以って、我が日本のためにつくす覚悟で
ある
。
恐らく我が虎屋の賢明なる店員諸君は、これを理解し、
一層の支持を典へてくれると確信
斯く、他に就職するとは
云へ、私はあくまで虎屋の若主人たる衿持と信念とを失ふものではない
。
他日、敷年後必ず諸君と共に製菓報国の道を歩むことは云ふ迄もない、祖父上、父上、健在にお
はす今日、私は填に虎屋の
主人たるに恥しからざる自信を得た後に於いて、家業を継ぐに遅くは
ないと思ふ
。
若し、私を是非必要とする事があれば何時でも家業に従
事する熱烈な希望と意思と
を持ってゐる
。
私を求めて止まざる事情あれば、誰でも私に直言してほしい
。
私は何時でも蹄っ
就職後は出来る限り諸君に接鰐し、諸君と共に語り合ひ度い
。
四百年の歴史を有する我が虎屋の、
店員諸君は、他日、私が虎屋の店主として、共に働く日まで
一人たりとも虎屋を去り、私を見捨
る如き人は無いものと固く信ずる
。
諸君と共に製菓報国の任務をつくすことの出来る
H
の
一日も
早からん事を望んでやまぬ次第である
。
て来る
。
する
。
掲示昭和十六年(
-九四
一)十二月
二十七日
(62)
光朝は就職後まもない昭和十七年五月十四日、堤甲子
三長女芳子と結婚、そし
て同年十
一月
三十日付で国際文化振興会を退職し、文部省
美術研究所(現東京国
立文化財研究所)の助手に任用された
。
その後光朝は
二十
一年三月
三十
一日まで
ここで勤め虎屋に戻るが、助手を辞めた後も嘱託として、
二十三年まで美術研究
所に籍を置くことになる
。
結婚の翌年、昭和十八年九月十七
B
には、待望の長男が誕生した
。
+七代黒川
171
第 2 部 近代社会と虎屋
63)昭和十八年九月
二十三日
(63)
光博である
。
誕生を知らせる武雄の掲示には「赤飯を炊いて共々に祝せんとす」とあり、黒川家の喜
びが見てとれよう
。
その後、二十年八月二十三日には次男光隆‘
二十二年十二月十九日には長女直子
一、空襲下の状況
序盤こそ優勢だった太平洋戦争も、昭和十七年(
-九四二)六月、日本海軍のミッドウェー海戦敗
北を機に米軍が反攻に転じ、十八年二月のガダルカナル島からの撤退で日本軍は完全に守勢に入った
。
そして十九年七月サイパン島が陥落し、
二十年には米軍が沖縄本島に上陸し
た。
同年八月十五日の終
戦にいたるまで日本本土は連日のように飛来する米軍機の爆撃に骨かされ、東京をはじめ全国の都市
の多くが焦士と化した
。
米軍の本土空襲が本格
化して以来、菓子屋の多くが強制疎開で廃業したり、空襲で店や工場を失っ
たりした
。
東京が最初に大被害を受けたのは昭和
二十年(
-九四五)三月十日のいわゆる「東京大空襲」だっ
た。
B29型重爆撃機二七九機が来襲、東京の下町の木造家屋密集地を大量の焼夷弾で焼き払う「じゅ
うたん爆撃」を行い、被災者約
一00万人、全焼家屋二十六万戸に達した
。
この空襲では、虎屋は直
空襲に備える虎屋
4
空襲激化、
が誕生している
。
終戦へ
172
第 3 章 昭和前期の虎屋
64)「榮太棲ものがたり
」
京都両店
その他
壱千園
別家
別家候補者
番頭補書記補生
弐千圃
参千園
五千圃
接の被害こそ受けなかったものの、店員の林やす江が自宅のあった墨田区で死亡、虎屋(黒
川家)と
(64)
親交の深い榮太棲練本鋪も日本橋本店と工場を焼失するなど、多くの被災者が出た
。
相次ぐ空襲に備え、虎屋でも十五代黒
川武雄を部隊長とする七十人の防空団を編成し、防空訓練を
重ねたが、団員の半数以上は女店員であった
。
そして東京大空襲後の四月十五日には戦災見舞に関す
る次のような掲示が出された
。
戦災見舞金
戦時死亡傷害保瞼ニツイテ
右ノ通保瞼二加入セシメタリ
万一ノ場合主人ヨリノ弔慰金二充当ス
この頃のたび重なる空襲下でも菓子の製造はそのまま続けられていた
。
しかし、人手不足は相変わ
らずで、昭和二十年五月七日には京都から五人の女子店員が応援として派遣された
。
同H
、武雄が出
した掲示には、
「空襲頻繁なる折京都店より女子店員五名の来援を得たるは近来の快事なり東京
元より同
一店なり、況や第
一、第二工場に於や第
一、第二
全燒ノ場合
家持チノ場合
然ラザル場合
死傷ノ場合保瞼金ニョル金五拾圃
金百園
協力圃結協調せよ
すべて
173
第 2 部 近代社会と虎屋
65)B29爆撃機の誤り
空襲を受けて焼失した伝馬町工場
大空襲で工場焼失
しかし、その女子店員たちも上京してすぐ、昭和
二十年(
-九四五)五月二十五日の東京大空襲に
遭うことになる
。
この空襲は米軍の焦土作戦の
一環として、主に東京の南部、西部を目標にして行わ
れたものだった
。
これによって赤坂
一帯は焼き払われ、虎屋も表町の店舗(第
一工場)は残ったもの
の、伝馬町の工場(第
二工場)と、「新坂の家」と呼ばれた黒川家の私邸が全焼する憂き目にあった
。
この時の様子について
『まこと
』に古い店員からの聞き書きとして次のように記されている
。
少し長
くなるが引用する
。
昭和二十年五月二四H
夜九時半頃、無気味に鳴りひびく空襲
警報のサイレン
。
間をおかずに米機
(65)
B25の大群が東京上空を襲って来た芝区赤坂区(当時)上空に進入してきた
一波の焼夷弾の絨既
爆撃により、各所の夜空に火の手があがっている
。
すでに警戒態勢にあった工場は、浦田工場長
(当時)指揮のもとに、羊羹煉釜に水を満たし防火用に備え、女子寮(当時
工場に附属した建物)
員は、防空頭巾とモンペ姿で大八車に取敢えずの布団や重要物品を積み込み、男子は火叩きを持
って場内各持場の警戒に当る
。
…
(中略)…
其の夜のB
公は焼夷弾と機銃掃射で征めて来た
。
機銃の曳光弾は流星の雨のように夜空を白光の
線を画いて大地に突きささってくる
。
工場にも数発着弾した
。
ブスッと音がした
。
頭上三米位の
高さの煙突の側面のコンクリー
トが、とんかちで叩きつけたように欠けている
。
…(中略)…
そのうちに工場隣にあった浦田さんのお住居に大型焼(夷)弾が命中して燃え始め、火炎が倉庫と
工場に襲いかかってくる
。
防火作業もこれまでと屋根からおりて残っていた五六名の男子と道路
に整列し、火叩きを銃のかわりに
『捧げ銃、頭を中」と私どもの工場に永遠の別れを告げ、お堀
端に向って退避したが、燃え盛る工場に別れを告げる時は涙が出た
。
に差異あるべからず共に仲よく和を以て明朗たるべし」とある
。
174
第 3 章 昭和前期の虎屋
66)樋口忠則
されたとのことである
。
っていうからお店に行
昭和四十八年(
-九七三)九月
(ママ)
浦田工場長からはすでに避難命令が出され何名かの女子は荷車をひいて紀伊国坂を喰違いの上ま
で運び、各自は喰違いのトンネル(現高速道路)の中に避難する
。
明治神宮外苑や赤坂離宮のよ
うに可燃物のない場所を通ってくる熱風でも、トンネル内では顔がひりひりする程熱い
。
女子はお堀に飛び込み弁慶橋の下で難を免れた
。
(66)
樋口総務部長の奥さん(当時工場事務員)は水に漬かり乍らも工場の重要品袋をしっかり守り通
かくして約
二時間、間断なく続いた
B25の襲来もやんだが、全部を焼夷弾の雨によって紅蓮の炎
と
化して、夜の明けはじめる頃は、燃えつきた廃墟に黒く焼け残った立木と、コンクリートの壁
面のみの建物の残骸がむなしくつっ立っている
。
... (中略)…
退避の際に申し渡された指示に果して何人集まるだろうかと思ったが、白々と明けはじめた頃か
ら、あちらこちらから目を熱風でやられて赤くし、顔や手を真黒けにした職員がぼちぼち集って
来はじめる
。
…(中略)…
幸に昨夜の職員が全員集った
。
あの激烈を極めた焼夷弾の雨をくぐり、猛火の中を逃げ廻って
よ
くぞ生き残ったものだ、奇跡である
。
っちは不通ですね
。
その時歩いて、
『まこと
』二十二号
また召集されて、内地で兵役についていた店員も、空襲の知らせを聞いて店に集まってきた
。
当時
千葉県の九十九里の連隊にいた石川三郎は、空襲後の様子を次のように語っている
。
東京に来た時に、両国から市ヶ谷まで電車が通っていたんです、東京がやられた時
。
それからこ
とにかくお店が心配で「行ってこい」
こうと思ったんですが、電車がもう止まっちゃって、市ヶ谷から上がっていって靖国神社にちょ
うど来たら、靖国神社の鳥居の大きいのが火がついて燃えているんですから
。
誰も消す人がいな
いんです
。
みんなそこにずうっと死んでいるんです
。
一部の
175
第 2 部 近代社会と虎屋
(67)「昭和十六年八月より仝二十年五
月まで偲
馬町工場分主人掲示綴」
闘を今に伝えている
。
慶堀にのがれ
それで、食違いの土手に立った時、
が残っていて
。
工場は何もないんです
。
もう情けなかったですね
。
煙突だけ
でもお店だけは見えたんですね
。
「あーっ残っ
てる!」って。
その時はうれしか
このようにして伝馬町の工場は焼け落ちてしまった
。
工場の倉庫には納めるばかりになっていた軍
用の羊羹が人っていたのだが、これがすべて溶けて流れ出てしまっていた
。
こうなると商品としては
もう使い物にはならないので、集ま
っ
てきた人に配ることにした
。
この時のことを武雄は次のように
赤坂の表町の店は残りましたが、伝馬町の工場が焼けて、海軍に納める羊
羹がみんな焼けてね
。
それが溶けて、それをたくさん人が集ま
っ
て来て、遠く上野下谷からも来て、バケツに入れて持
って行くんです
。
皆んな喜んでね
。
甘いものがない時でしたから
。
この時、女子店員たちの必死の努力によって
書類が工場から運び出され、守られた
。
「本書類は第
(ママ)
二時世界大戦中昭和
二十年五月
二十五日伝馬町工場爆撃のため全焼の折持ち出した書類である弁
(67)
水中に浸しておいたので焼失をまぬがれる」と記された史料が現存し、彼女たちの奮
もちろんなかには戦災で焼失してしまった貴重な文
書や製造道具も多かったであろう
。
した店員たちの奮闘によって残された史料は、現在虎
屋の歴史をたどるのに大いに役立っている
。
語っている。
ったですけれどね
。
『菓子屋のざれ言』
しかしこう
176
第 3 章 昭和前期の虎屋
戦災復旧中の伝馬町工場
(68)昭和十
二年九月十日公布の戦時
金融統制の基本法
。
当初は国債の消
化と軍需輸出関連産業への優先
的資
金供給を目的としたが、第
二次世界
大戦勃発以後は、重要産業の復興
・
増産とインフレ防止が目標となっ
た。
虎屋が伝馬町工場再建に取り組んでいるさなかの昭和
二十年(
-九四五)七月、連合軍は日本に対
して「ポツダム宣言」を発表し無条件降伏を勧告したが、日本政府は当初これを黙殺した。
しかし八
終戦
きく力があったと考えて差しつかえないだろう
。
二、再建への決意と終戦
工場と寄宿舎再建
こうして工場は全焼したが、武雄はすぐに立ち上がった
。幸い店は奇跡的に焼けずに残り、店員に
一人の死傷者も出なかったので、
一夜明けた昭和二十年(
-九四五)五月二十六日の午前四時、表町
店の二階に店員を集めて武雄は早くも復興を宣
言、そして
翌日から早速女子店員とともに工場と黒
川
家の焼け跡の片付けを始め、
一週間できれいに更地にした
。
「恐らく東京では
一番早かったと思う」
と武雄は自著
『続羊羹と人生』のなかで書いている
。
いかに復旧が迅速だったかは七月
二日の京都店で出された掲示に「六月
二十九日、
三十五日目を期
し第二工場ハ上棟式ヲ挙行したり
。
主人益々元気ナリ
。
乞フ安ンゼヨ」とあることからもわかる
。
武雄の強みは法科出身ということもあって、難しい法律関係
書類を丹念に読みそれを家業に存分に
(68)
利用したことだった
。
例えば、空襲が激しくなり、被災が増えると国から
「臨時資金調整法の許可免
除等特別措置に関する通知」などが出るが、武雄は昭和
二十年七月二十六日には、それに甚づいて第
二工場ならびにエ員寄宿舎復興のための「事業設備復旧申請」を出している
。
ほかにも、七月
二十三日に関東海軍監督長から「戦災工場復興命令」を得た後、八月二十
一日には
日本銀行から特殊預金期限前払戻解除の許可を得て、自己資金三十万円をその復興の費用に充ててい
る。
こうした措置をみても、武雄が法律の分野にたけていたことが、その後の虎屋の復興の歩みに大
177
第 2 部 近代社会と虎屋
って戦意を失い、
月六B
の広島、九日の長崎と
続いた原爆投下や、これとほぼ同時
にソビ
エト連邦が参戦したこと
によ
ついにポツダム宣
―――口を受諾
。
八月十五日に昭和天皇がラジオで戦争終結を国民に放
送し、ここに日本は無条件降伏を受け入れ長かった戦争はや
っと終わることにな
った。
虎屋では、これまで頻繁に出してきた掲示もこの日ばかりは発せられた形跡がなく、武雄はじめ店
いつまでも感傷にひたっている余裕はなかった。
ここからが虎屋にとって本当の意味で苦
難の始まりでもあったのである
。
しかし、
員の深い悲しみととまどいの様
子がうかがえる
。
178