今や我々の世界は、「世界的なリスク社会 ドーピン …...305...

28
303 1

Upload: others

Post on 29-Jan-2020

1 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page303 2011/01/17 09:13

303

法律論叢 第八三巻 第二・三合併号(二〇一一・二)

【論 説】ド

ーピング規則違反と「厳格責任」原則について

森  本  陽  美

目 次

1.はじめに

2.ドーピングについて

3.ドーピング違反と民事的解決

4.ドーピング違反と刑事罰

5.おわりに

1 ・はじめに

今や我々の世界は、「世界的なリスク社会(1) 」と呼ばれるようになり、現代社会の技術的、経済的発展や政治的変化に

対応して、リスクとしての犯罪行為も複雑さを増しているのがその現実である。それに伴い、法とリスクの問題も多

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page304 2011/01/17 09:13

――法  律  論  叢―― 304

様化し(2) 、このようなリスク社会を防衛するためには、従前のような刑事罰では不十分であり、新たな制裁、若しくは

更に早期の制裁を必要とする声も聞かれる。現在は、刑事罰のあり方が改めて問われる状況にあるといえる。

例えば、昨今の情報の多様化・高度化、経済の困窮、心の喪失、家庭の形骸化等により、社会の病理現象と言うべ

き新たな不法行為が惹起され、それに対応する市民主義的治安立法が求められている。また、特に一九九〇年代に入

り、環境問題やドーピング違反等の、従来は他害性が明確ではないという根拠で犯罪とならなかった行為までも犯罪

とされる予防主義的刑法の増加や、刑罰自体の重罰化傾向が見受けられる。

このような傾向の特徴として、第一に「法益保護の早期化」、第二に「法益の一般化・抽象化」、第三に「犯罪事実の

証明の短縮化」を挙げることが出来る(3) 。このような方法は一部に法的及び政治的リスクを秘めており、とりわけ、制

裁の私有化やこれに結びついた刑事訴訟上の保障の喪失、国家による介入の法治国家的コントロール及び民主主義的

正当性喪失の危険が生じる(4) 。

そもそも、刑法は謙抑主義を根拠に、刑罰は必要やむをえない場合においてのみ適用されるべきであるとしてきた。

それは、近代人権保護思想からすると当然の帰結である。今や可罰的違法性論を否定して、刑法的違法論への移行、す

なわちu

ltimaratio

的刑法からp

rimaratio

的刑法への移行が適切であろうか。

一例として、ドーピング処罰の刑事罰化を考えてみたい。その際に大きく危惧されるのは、禁止薬物を摂取した事

実さえ存在すればドーピング違反が認められるかもしれないという点である。故意や過失の証明は不要であるし、選

手の側からの潔白の抗弁も例外的にしか認められない。この方法の中核にあるのは、「厳格責任(strict

liability

)」原

則であり、一般的には、製造物責任、環境汚染、商標等の民事的解決に用いる手法である。

この「厳格責任」原則をドーピング刑事罰に適用するならば、刑法の重要な原則である責任主義・非難原理(cu

lpability

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page305 2011/01/17 09:13

305 ――ドーピング規則違反と「厳格責任」原則について――

principle

)や無罪推定原則(in

dubioproreo

)に反するともいえる。まだ、世界的にドーピング違反として刑事罰を

科す国は少ないが、詐欺罪などの何らかの形で刑事罰を科す国は着々と増加しており、スポーツ界の流れとしては、

ドーピング違反を刑事法で処罰することを望む声が増えているのは確かである(5) 。

このような流れを受けて、ドーピング違反に刑事罰を科すことが、薬物蔓延のリスクから選手や青少年、ひいては社

会を健全に保つための最善の方法であろうか。本稿は、アンチ・ドーピング活動の現状、世界アンチ・ドーピング機

構(T

heWorldAnti-DopingAgency

)の具体的取組み、刑事罰を科す国々の現状、「厳格責任」原則の歴史的背景、適

用の際の問題点等を通して、ドーピング違反に対し刑事罰を推し進めることが最善策かどうかを検討するものである。

2 ・ドーピングについて

1 ドーピングの定義

「ドーピング(doping

)」の原語である「ドープ(d

ope

)」の語源は、アフリカ東南部の原住民カフィール族が祭礼

や戦いの際に飲む強いお酒「d

op

」とされているが、現在、スポーツ界に「ドーピング」という語の共通した定義は存

在せず、そのような包括的な法的基準もない。むしろ、ドーピングの定義は、通常、様々な国際スポーツ機構によっ

て決められており(6) 、各競技団体の国際本部基準を国内支部が踏襲するという形が一般的である。

例えば、日本オリンピック委員会(JOC)では、日本アンチ・ドーピング機構(JADA)と協力し、「禁止物質・

禁止方法の定義(禁止リストに物質・方法を掲載する基準)」を世界アンチ・ドーピング機構の規程を準用し、次のよ

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page306 2011/01/17 09:13

――法  律  論  叢―― 306

うに定めた。

(1) つぎの三要件のうち二要件を満たす場合

 ①競技能力を強化し得ること

 ②競技者の健康にとって有害になり得ること

 ③その使用がスポーツ精神に反すること

(2) その物質または方法によって他の禁止物質・禁止方法の使用が隠蔽される可能性があると科学的に証明される場合

アンチ・ドーピング違反が問われた場合に、当該物質・方法が禁止リストに掲載されている是非について異議を唱

えることはできない。

2 昨今のアンチ・ドーピング活動

1 国際的な流れ

一九八九年、ヨーロッパ評議会において「アンチ・ドーピング憲章(A

nti-DopingCharter

)(一九八四)」を基礎に

した「アンチ・ドーピング協定(A

nti-DopingConvention

)が採択され、一九九九年二月には、国際オリンピック委員

会が「ドーピングに関する世界会議」を開催し、「ローザンヌ宣言」が採択された。同年一一月には、各国のスポーツ

関係者と政府関係者の協力のもと、国際的なアンチ・ドーピング活動に関する教育・啓発活動等を行うことを目的と

する世界ドーピング防止機構が設立され、世界的なアンチ・ドーピング活動のための体制整備が始まった。

アンチ・ドーピング活動の基本である「世界ドーピング防止規程」は二〇〇三年三月五日にコペンハーゲンで採択

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page307 2011/01/17 09:13

307 ――ドーピング規則違反と「厳格責任」原則について――

され、二〇〇四年一月一日に発効した。

この禁止表国際基準は、以下のようである。

①常に禁止される物質と方法(競技会前や期間中のみならず、常時禁止)

②競技会時に禁止される物質と方法(普段は使用可能だが、競技会の前や期間中は禁止)

③特定競技において禁止される物質

④検査で検出されても現段階では違反には問われないが、将来禁止される可能性がある「監視プログラム(7) 」

これらの禁止物質は毎年見直され、改定されている(8) 。

国際連合教育科学文化機関(UNESCO)でも、二〇〇五年一〇月、第三三回ユネスコ総会において、WADA

を中心とした国内レベルおよび世界レベルでの協力活動における推進・強化体制の確立を目的としたアンチ・ドーピ

ング条約とも言うべき「スポーツにおけるドーピングの防止に関する国際規約」が採択されている。

2 日本の動き

二〇〇一年九月に財団法人日本アンチ・ドーピング機構(J

apaneseAnti-DopingAgency

)が設立され、世界ドーピ

ング防止規程に基づいて、ドーピング検査やアンチ・ドーピングの普及・啓発を推進している。

二〇〇六年一二月、ユネスコの「スポーツにおけるドーピングの防止に関する国際規約」を受諾し、二〇〇七年二

月より発効している。さらに、これを受けて文部科学省は二〇〇七年五月「スポーツにおけるドーピングの防止に関

するガイドライン(9) 」を策定した。その他、それぞれの競技団体が、毎年、アンチ・ドーピングへの取り組みを強化し

ている。

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page308 2011/01/17 09:13

――法  律  論  叢―― 308

3 アンチ・ドーピングの目的

第一は、社会におけるスポーツの健全さを守ることである。すなわち、フェアプレイの精神や競技記録の健全性を

保つことである。第二は、選手の健康を守ることである。

日本アンチ・ドーピング機構によると、ドーピングを許さない理由は次の三点である。

①スポーツの基本理念とスポーツ精神に反する

②選手の健康を害する

③社会悪である

そして、検査はクリーンな選手の権利を守るために行われる(10) 。

3 ・ドーピング違反と民事的解決

1 背景

ドーピング違反を民事的に解決しようとする背景には、まず、ドーピングはスポーツ関係者だけの違反行為に過ぎ

ないとの考え方がある。すなわち、この問題は、選手とドーピング問題を扱う競技団体、あるいは私的仲裁パネルと

の問題であるとする。

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page309 2011/01/17 09:13

309 ――ドーピング規則違反と「厳格責任」原則について――

次に、ドーピングは、単にアスリートが禁止薬物の摂取により運動能力を高め、それにより収入を高めるために行う

金銭的な問題であるとする考え方もある(11) 。このような理由から、ドーピング違反を刑事罰ではなく、各国の行政、あ

るいはスポーツ機構によるメダルや記録の剥奪、出場停止処分等に委ねることで十分であるとする。

2 「厳格責任」原則の適用について

民法分野では、公害、麻薬、食品、商標等に関するいわゆる公共的な問題について故意も過失も要件としない「厳

格責任」原則が広く認められて来た。この原則に対しては、ドーピングの事実のみで処分が決まることや、選手側の

弁解を一切認めないこと等に対する異論があるにもかかわらず各競技団体の規程や規則で堅持されている(12) 。ローザン

ヌ宣言においても「健康に危険を及ぼす可能性がある方策、競技力を高める方策の行使、体内に禁止物質があったこ

と、禁じられた方法の行使が確認されたとき」をドーピングと呼んでいる。

スポーツ仲裁裁判所(C

ourtofArbitrationforSport

)は、ドーピング違反に関し厳格責任をとる理由について幾つ

かの事件で包括的に述べている。例えば、一九九五年のQ

uigleyv.UIT

事件では「厳格責任による検査が、ある意味

で個々の事件についてQ

uigley

選手の場合のようにラベル間違いや、選手の責任ではない誤ったアドバイスによりそ

の薬物を摂取した場合、特に外国での急病の場合に不公平な判断であることは事実である。しかし、選手にとって大

事な試合の前日に食中毒になることも、ある意味では不公平なことである。それでも、どちらの場合も、不公平を無

くすために競技の規則を変えることはできない。競技会を選手の回復を待って延期することが出来ないように、禁止

物質の使用禁止措置も、その偶然を認めて解除されることはない。競技を取り巻く状況は、人生と同じく波乱に満ち

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page310 2011/01/17 09:13

――法  律  論  叢―― 310

ており、偶然や責任のない者の過失によって様々な不公平が生まれるかも知れないが、それを法律は修正することが

できない。さらに、他の競技者全体と比較し、一人の選手に起きた偶発的な不公平を是正するために、他の選手全て

を意図的に不公平な状態に置かないという目的は、賞賛される方策に思える。もし不注意を理由に禁止物質が許され

た場合にこういうことが生じるだろう。加えて、意図的な違反の場合であっても、故意が十分に証明できないために

制裁を免れる場合が増加する可能性も生じる。そして、意図証明の要求は大変に費用が掛かる訴訟を招き、ドーピン

グと相対する機構(特に少ない予算で運営されている)の活動が鈍ることになる(13) 。」としている。

つまり、選手の自己責任の範囲を拡大し、ラベルの誤表記や誤った助言に従った結果として薬物を摂取した可能性

があっても、ドーピング違反を免れないと判断した。また、異なる側面であるが、少ない予算の範囲内では故意や過

失の証明を行うのは難しいので、最善ではないが「厳格責任」原則に則った方法によりドーピングの規制を行うしか

ないということであろう。

この見解について、この問題を扱う菅原弁護士も「確かに、個々の具体的事件では責任のない選手には不公平に思え

る。しかし、例えば選手が禁止薬物入りの風邪薬と知らないで服用したという無意識的な薬物摂取、コーチや医師ある

いは第三者が選手に隠して故意に筋肉増強剤を与えたとしても、結果として体内に入ればスポーツの競技力は向上し

てしまう。選手の気の毒な事情を配慮すると禁止薬物が容認され、制裁を免れる不公平が生じてしまう。したがって、

禁止薬物が自己の体内に入らないようにすることはアスリートの絶対の責務だ(14) 。」と同様の意見を述べておられる。

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page311 2011/01/17 09:13

311 ――ドーピング規則違反と「厳格責任」原則について――

3 世界アンチ・ドーピング機構のドーピング規程(15) 

世界アンチ・ドーピング機構は、ドーピング蔓延を防ぐために世界で初めて設立された私立の国際機関である。設

立の目的は、第一に、世界的スポーツに期待される運動選手の保護、第二に、このセーフガードによって、健康、公

正、平等に行き着くこと、第三に、アンチ・ドーピングの目的とレベルを世界的に一致させ効果的な保障を与えるこ

とである。この規程は、世界アンチ・ドーピング規程、国際基準、モデルルール、そしてガイドラインから成り立っ

ている。以下に「厳格責任」原則と関連する条文を紹介、検討する(16) 。

1 第2条『ドーピング防止規則違反』

競技者又はその他の人は、ドーピング防止規則違反の構成要件、禁止表に掲げられた物質及び方法を知る責任を負

わなければならない。次に掲げるものがドーピング防止規則違反を構成する。

2 ・1 (競技者の検体に、禁止物質又はその代謝物若しくはマーカーが存在すること)

2 ・1 ・1 「禁止物質が体内に入らないようにすることは、各競技者が自ら取り組まなければならない責務である。

自己の検体に禁止物質又はその代謝物若しくはマーカーが存在した場合には、競技者はその責任を負う。ゆえに、本

第2.1項に基づくドーピング防止規則違反を証明するためには、競技者側に使用に関しての意図、過誤、過失又は

使用を知っていたことが示される必要はない。」

2 ・1 ・1項では、ドーピング違反が成立するために、当該違反、競技者が禁止物質を使用した時点における選手

の意図(in

tent

)、過誤(fa

ult

)、過失(n

egligence

)、また、その使用を知っていたことの証明を必要としないと書かれ

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page312 2011/01/17 09:13

――法  律  論  叢―― 312

ている。(二〇〇二年までの条文には、過失という文言が含まれていなかった。)これは、禁止物質(又はその代謝物

若しくはマーカー)の存在に関するドーピング防止規則違反との関係において、オリンピック・ムーブメント・ドー

ピング防止規則(OMADC)や本規則以前の大多数のドーピング防止規則において見られる「厳格責任」原則を採

用していることを示している。

2 第9条『個人の成績の自動的失効』

「個人スポーツにおける競技会検査に関してドーピング防止規則違反があった場合には、当該競技会において得ら

れた個人の成績は、自動的に失効し、その結果として、当該競技会において獲得されたメダル、得点、及び賞の剥奪

を含む措置が課される。」

この条文も自動的に成績が失効するということで、「厳格責任」原則が適用されている。

3 第 10 条『個人に対する制裁措置』

 10  ・1 (ドーピング防止規則違反が発生した競技大会における成績の失効)

「競技大会開催期間中又は競技大会に関連してドーピング防止規則違反が発生した場合、当該競技大会の決定機関であ

る組織の決定により、当該競技大会において得られた個人の成績は自動的に失効し、当該競技大会において獲得され

たメダル、得点、及び賞の剥奪を含む措置が課される。ただし、第 10  ・1 ・1項に定める場合は、この限りではない。」

この条文も自動的に成績の失効、メダル、得点等を剥奪するということで、「厳格責任」原則が適用されている。

 10  ・5 (例外的事情を理由とする資格停止期間の取消し又は短縮)

 10  ・5 ・1 過誤又は過失がないこと

「個別事件において、競技者が過誤又は過失がないことを証明した場合には、その証明がなければ適用された資格停

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page313 2011/01/17 09:13

313 ――ドーピング規則違反と「厳格責任」原則について――

止期間は取り消される。第2 ・1項(禁止物質が存在すること)に違反して、競技者の検体に禁止物質又はそのマー

カー若しくはその代謝物が検出された場合には、競技者は、資格停止期間を取り消すためには、自己の体内に禁止物

質がいかに入ったかを証明しなければならない。本項が適用され、当該証明がなければ適用された資格停止期間が取

り消された場合には、当該ドーピング防止規則違反は、第 10  ・7項に定められている複数回の違反に対する資格停止

期間を判定する場合に限り、違反とは判断されないものとする。」

 10  ・5 ・2 重大な過誤又は過失がないこと

「個別事件において、競技者又はその他の人が自己に重大な過誤又は過失がないことを証明した場合には、当該証

明がなければ適用された資格停止期間を短縮することができる。ただし、短縮された後の資格停止期間は、当該証明

がなければ適用された資格停止期間の半分を下回ることはできない。当該証明がなければ適用された資格停止期間が

永久である場合には、本項に基づく短縮後の期間は、八年間を下回ることはできない。第2 ・1項(

禁止物質又はそ

の代謝物若しくはマーカーが存在すること)に違反して競技者の検体に禁止物質又はその代謝物若しくはマーカーが

検出された場合には、競技者は、資格停止期間を短縮するためには、自己の体内に禁止物質がいかに入ったかを証明

しなければならない。」

両規則は、違反に関し、自己に過誤若しくは過失又は重大な過誤若しくは過失がなかった旨を競技者が証明できる

という特殊な場合に、資格停止期間の取消し又は短縮が認められる可能性について定めている。上記の方法は、人権

の基本的な原則に整合しており、また、例外を狭く解釈すべきである、あるいは一切認めるべきではないと主張する

見解と、明らかに競技者に過誤がある場合でも、その他各種の要因によっては二年間の資格停止処分を短縮するべき

であるとの見解のバランスをとったものである。これらの条項は、制裁措置の賦課に関してのみ適用され、ドーピン

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page314 2011/01/17 09:13

――法  律  論  叢―― 314

グ防止規則違反が発生したか否かを判断する際には適用されない(17) 。

本規則の説明によると、第 10  ・5 ・2項は、当該ドーピング防止規則違反にとって、競技者の故意が違反の要素と

なっており、短縮の基準に適合することが特に困難な場合であっても、適用される可能性がある。また、両条項は、真

に例外的事情が存在する事件に限って意味をもつものとすることが意図されており、大多数の事件において適用され

ることは意図されていない。第 10  ・5 ・1項の運用を説明すると、過誤又は過失がないとして制裁措置が全面的に取

り消される例としては、十分な注意を払ったにもかかわらず競争相手から妨害を受けた旨を競技者が証明できる場合

が挙げられる。

この取り決めは、競技者の検体に禁止物質が存在した場合、「厳格責任」原則を適用すると同時に、個別具体的な基

準に基づいて制裁措置の内容を調整できるようにすることにより、実効的なドーピング防止施策を実施して「クリーン

な」競技者全員の利益を確保することと、競技者の過誤若しくは過失又は重大な過誤若しくは過失によらずに体内に禁

止物質が入ったという例外的な場合の救済を示している。ドーピング防止規則違反の有無については「厳格責任」を

適用しながらも、資格停止期間を課すことを必ずしも自動的なものとしていないことは、強調すべき重要な点である。

4 ・ドーピング違反と刑事罰

『世界ドーピング防止規程二〇〇九』第一部の「ドーピングコントロール」序論は、この規程と刑事罰の関係につ

いて以下のように述べる。「ドーピング防止規則を世界的な、調和の取れた方法で実施することを目的とするこれらの

スポーツ特有の規則及び手続は、刑事手続及び雇用に関する事項に適用のある国内の要件及び法的基準とは性質上区

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page315 2011/01/17 09:13

315 ――ドーピング規則違反と「厳格責任」原則について――

別され、それゆえ、それらに従うものではなく、これらにより制約されるものでもない。全ての法廷、仲裁における

聴聞パネル及びその他の審判機関は、一定の事件に関する事実や法律の検討をするにあたり、本規則におけるドーピ

ング防止規則が特異な性質を有すること、及びこれらの規則が公正なスポーツを目指す世界中の幅広い関係者からの

賛同を得ていることに留意し、それを尊重しなければならない。」と(18) 。すなわち、ドーピング防止規則・手続と各国の

刑事手続とは性質が異なる故に、直接的にはそれらに制約を受けないが、全法廷、審判機関はドーピング防止の精神・

目的を尊重しなければならないのである。

1 保護法益と刑事罰の目的

刑法典によるドーピング規制の第一の目的は、この行為が反社会的性格を持つものであることを人々の意識に強く

認識せしめ、一般予防効果を高めることにある。一般予防は二つに分けられ、そのうち消極的一般予防は、禁止ないし

命令規範の違反結果として刑罰が与えられることを(合理的損得計算をする)潜在的犯罪者に示すことで威嚇し、犯罪

を思いとどまらせることを意図している。また、積極的一般予防は、威嚇ではなく刑法を通して長期的展望の下に彼ら

の規範意識を強化、構築することにより犯罪を思いとどまらせることを目指している。すなわち、刑罰の威嚇効果と

国民の規範意識の向上を通して義務違反を未然に防止すること、禁止薬物の使用を控えさせることを目的としている。

第二の目的は、特別予防の観点から、違反選手やその選手に禁止薬物を与えた指導者たちの違法行為に刑罰を科す

ことにより、彼らの反省を促し再発を防止することである。行為者の危険性を重視して行為者の個別化を行い、それ

に対応して改善の必要性の強弱を判定して、適切な罰を与える。

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page316 2011/01/17 09:13

――法  律  論  叢―― 316

第三の目的は、スポーツの持つ社会的文化的役割、フェアプレイ精神、競技記録の真実性を守ることである(19) 。例え

ば、ドーピング違反により競技に勝利して、金銭、財産、サービス、何らかの利益や有利な扱いを受けた場合には詐

欺罪が成立する場合がある。

第四の目的は、運動選手の健康を守ることである。既述のようにドーピング罪を単なるスポーツ犯罪だとする見解

があるが、一般的な法益である人の健康が害される故、ドーピング違反は刑法によって制御されなければならない犯

罪と考えられる。例えばステロイドの多量継続摂取は、深刻な副作用を引き起こし身体傷害を生じさせる。このよう

な場合には傷害罪が適用され、万が一、選手が死亡した場合は故殺罪を問題とすることもできよう(20) 。

2 身体傷害を受けたドイツの事例(21) 

二〇〇〇年末に旧東ドイツ体育連盟会長のマンフレッド・エヴァルドと彼の元医学管理責任者のマンフレッド・ヘッ

プナー医師は、旧東ドイツのスポーツ選手一〇〇人以上にビタミン剤と偽ってステロイド剤を服用させ、若い運動選

手に傷害を生じさせたかどでドイツ刑法二三二条(22) に基づき有罪となった。

二ヶ月間の公判の間、検察側は、一九六〇年代から七〇年代にかけて二人が選手の競技能力を高めるために薬物投

与を行ったこと、そして殆どの選手はそれに気づかず自らの健康に与える悪影響を予想する術もなかったことを糾弾

した。起訴状によると、主にアナボリックステロイドを投与されていた女性選手は、男性のような剛毛や低い声、肝

臓や腎臓の異常という副作用に悩まされ、ある女性金メダリストは、男性ホルモンの投与の結果、現在は性転換手術

を受けて男性となっている。その他、障害児を出産したり、月経や婦人科の問題を抱える元選手も多い。

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page317 2011/01/17 09:13

317 ――ドーピング規則違反と「厳格責任」原則について――

3 ドーピングに刑事罰を科す国

1 ドイツ(23) 

二〇〇七年「スポーツにおけるドーピングの防止を改善するための法律」が連邦議会で可決された。この法律は、薬

物等の不正手段により競技生活を向上させようとする行為(ドーピング)防止の実効性を高めることを目的として作

られた(24) 。法案の罰則規定は以下のようである。

・薬事法九五条一項

「僅少でない量の禁止薬物を所持した者は、三年以下の自由刑または罰金刑に処せられる」

・薬事法九五条三項

「特に重大な場合においては、一年以上一〇年以下の自由刑に処せられる」

特に重大な場合とは、

①他人を死の危険に瀕せしめ、または多数の人の健康を損なった場合

②他人の身体や健康に重い傷害を負わせた場合

③自己の利益または他人の経済的利益のために大量の薬物を入手した場合

④一八歳未満の者に薬物を譲渡し、または使用させた場合

⑤業として、または薬物の流通・処方・他人への使用を行う組織の構成員として、薬物を取引した場合

⑥偽造薬物を製造し、若しくは流通させ、または業として、もしくは偽造薬物の流通・処方・他人への使用を行う組

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page318 2011/01/17 09:13

――法  律  論  叢―― 318

織の構成員として、それを取引した場合

これまで、ドイツでは健康障害を引き起こすドーピングを同意に基づきスポーツ選手に投与することについて、こ

れが良俗に違反する場合に限り、刑法二二八条(25) により違法とされてきた。この場合の問題は、ドーピング行為が競技

会における機会均等というスポーツマンシップに違反するか否かであり、果たしてそれが良俗違反を基礎付け得るの

かどうかという点であった。しかし、この法律の九五条一項、三項において、一定のドーピングは単なる良俗違反で

はなく、違法且つ可罰的なものと見なされるようになった(26) 。

2 オーストラリア(27) 

ビクトリア州(28) 、クイーンズランド州(29) 、ニューサウスウェルズ州(30) では、ドーピング行為により何らかの利益を得た場

合、不正あるいは虚偽により金銭、財産、サービス、利益、有利さを得たとして最高一〇から一五年の詐欺罪に該当

する。

例えば、A

IS

(AustralianInstitu

teofSport

)からの奨学金を受けている運動選手は、ドーピング違反の結果、刑法

の詐欺罪(T

heSouthAustralianCriminalLawConsolidationAct1935:Sectio

n139-Deception

)で有罪となるだろう(31) 。

なぜなら、禁止物質を摂取しない故に記録が伸びず奨学金を得られない他の運動選手、禁止物質を摂取することなく

競技を行う選手の存在があり、被告人の禁止物質摂取により不当な手段で運動能力を高め奨学金を得ている行為は、

詐欺罪の構成要件に該当すると判断されるからである(32) 。

4-

3-

3 イタリア(33) 

「TheDisciplinadellatutelasanitariadelleattivita’sportiveedellalottacontoildoping

」の九条では、禁止薬物を

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page319 2011/01/17 09:13

319 ――ドーピング規則違反と「厳格責任」原則について――

使用した選手は、三ヶ月以上三年以下の禁錮刑と二五〇〇以上五〇〇〇ユーロ以下の罰金刑、禁止薬物を提供した者

(医師、選手、監督、チームからの世話人を含む)には、二年以上六年以下の禁錮刑と五〇〇〇以上七五〇〇〇ユーロ

以下の罰金が科される。さらに、該当するスポーツ団体にも永久的な制裁が科される(34) 。

二〇〇四年一一月二六日、トリノ地裁で「ユベントス・ドーピング裁判」の一審判決が下った。この裁判は、一九

九四年から一九九八年までの四年間の医療行為がドーピングにあたる可能性があるとして、一九九八年秋からトリノ

検察が捜査に着手、二〇〇二年一月に立件・起訴して以来、ほぼ三年にわたって争われていた。

ユベントスの最高経営責任者であるアントニオ・ジラウド代表取締役は無罪となったが、保健・医療部門責任者で

あるチームドクターのリッカルド・アグリコラは、「スポーツにおける詐欺罪(ドーピング行為)」と「健康に危害を

及ぼす投薬行為(薬事法違反)」で一年一〇ヶ月の禁錮罪と二〇〇〇ユーロの罰金が科された。

しかし、二〇〇五年一二月一四日の第二審判決では、ジラウド代表取締役、保健・医療部門責任者のアグリコラ医

師の両者ともに無罪となった。その理由は投薬行為を行ったかどうか、例えそうであったとしても、その効果を合理

的に証明できないからであった。二〇〇七年三月、事件は最高裁で時効を言い渡され終結した。

元来、この「スポーツにおける詐欺罪」というのは、八百長行為を摘発するために作られた法律であるが、検察側

は、ドーピング行為、すなわち、本来の治療とは異なる目的で健康な選手に対して薬物を計画的に投与する医療行為も

「故意に試合結果を左右させる」という意味で八百長と同様に「スポーツにおける詐欺罪」にあたると主張していた(35) 。

4-

4 フランス

フランスは、一九六五年に既にドーピングを刑事罰の対象としていたが(36) 、その後、自転車競技でさらに多くのドー

ピング問題を露呈したため(37) 、二〇〇六年以降、行政罰を厳しくすることに加え、「C

odedusport

」を制定した。それ

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page320 2011/01/17 09:13

――法  律  論  叢―― 320

によると、禁止薬物を使用した者だけではなく(38) 、それを調合したり、その使用を推進した者も違反(39) とみなされる。

しかし、刑事罰に値するのは禁止薬物を選手に与える行為であり、最高五年の禁錮刑と七五〇〇〇ユーロの罰金が

科される(40) 。禁止物質を摂取した選手が罰せられるのは、ドーピング検査を拒否したり、フランスアンチドーピング機

構の判断に服さない場合に限られ、最高六ヶ月の禁錮刑と七五〇〇ユーロの罰金である(41) 。

また、選手が、ドーピングにより(競技で勝利し)何らかの利益を得た場合は、不正あるいは虚偽により金銭、財

産、サービス、利益等を得たことになり、詐欺罪に該当する。詐欺罪の場合、五年以上一〇年以下の禁錮刑と三七五

〇〇〇ユーロの罰金が科される(42) 。

5 その他の国々(43) 

オーストリアでは、二〇一〇年より禁止薬物の使用を刑事犯とする国内虚偽行為法の詐欺罪として一〇年以下の禁

錮刑を科せられる(44) 。

また、スペインでは二〇〇九年より六ヶ月以上二年以下の禁錮刑、スウェーデンでは一九九一年より最高四年の禁

錮刑、ギリシャでは最高二年の禁錮刑が科される。

4 刑法と「厳格責任」原則について

刑法に「厳格責任」を適用するならば、故意(意図)や過失(責任)の有無を問わず犯罪が成立する。すなわち、犯

罪に当たる行為、その事実さえ存在すれば、いかなる反証も認めずに犯罪が認められる(45) 。

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page321 2011/01/17 09:13

321 ――ドーピング規則違反と「厳格責任」原則について――

1 歴史的に見る刑法と「厳格責任」原則

一般的には、C

oke

が述べるように「actu

snonfacit

reumnisimenssitrea

(悪しき意思がなければ、行為は罪とは

ならない(46) )」。また、B

lackstone

も行為が犯罪となるには「viciou

swill

(悪しき意思)」がなければならないとするよう

に、犯罪成立には悪しき意思・故意が必要とされる。しかし一方、その当時からH

olms

が「一般的命題は具体的事案

を解決しない」と述べたように、アメリカの裁判所は悪意の存在証明を求めながらも、歴史的に自由に且つ多くの分

野で「厳格責任」原則を用いてきた(47) 。現在も、「法定強姦罪(48) 」の中核でこの原則は維持されている。

一九世紀頃まで、「婦女誘拐(sed

uction

)」、暴力によらない「わいせつ目的の誘拐(a

bduction

)」、制定法が規定し

た年齢以下の女子との「性交(ca

rnalknowledge

)」などの犯罪に「厳格責任」原則は認められ(49) 、一八五九年以前には、

被害者年齢の合理的な錯誤があったとしても、それが問題とされた記録すらない。つまり、故意を深く考慮すること

なく犯罪が成立していたのである。年齢の錯誤を抗弁として認めず、「厳格責任」原則を適用した最初の記述は、アイ

オワ州のR

uhl

事件(50) に見られる。被告人は、被害者少女を一五歳以上と信じる合理的確信の立証を拒否されたことにつ

き上告したが、アイオワ州裁判所は、被害者少女の年齢には関係なく「犯罪の、または不法な(crim

inalorwrongful

意図」があったとして有罪とした。年齢の錯誤は問題とされず売春目的という一部分の意図が犯罪行為全てに及ぶと

されたのである。

「厳格責任」原則の理論をさらに明示したのは、カリフォルニア州のF

owler

事件(51) である。被告人は、売春目的で一

八歳未満を暴力によらず誘拐したとして起訴されたが、少女の年齢についての認識が取り上げられないことに異議を

唱えた。しかし、カリフォルニア州高裁は、そもそもこの訴訟の訴因は誘拐であり―例え少女が一八歳以上であった

ならば全く犯罪にならないとしても―このような行為に出る者は、子供の年齢について危険を覚悟で行動するとした。

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page322 2011/01/17 09:13

――法  律  論  叢―― 322

つまり、売春を目的として少女を誘拐するような人間は、たとえ少女の年齢が一八歳未満であると知っていたとして

も同様の行為を行ったに違いないと判断されたのである。さらに、裁判官は、法律の解釈というものは、制定法の目

的が家族を守ることであるので、それを効果的にするよう行うべきであるとも述べ、刑法の目的のために、意図の一

部が犯罪構成要件にかかっているならば、それのみで自動的に犯罪を成立させた。このように、当時の裁判官たちは、

メンズレアの要件について深く述べることなく、公の利益(publicinterest

)の視点から事件について判断していたの

である(52) 。

では、当時の学者たちはどうだったであろうか。ブラックストーンは、「公の」不法を分析するにあたり、「各々の

市民は、自然法にのみ拘束される(絶対からははるかに遠いが)相対的な権利の拡大を譲って、実体法のもとで自ら

の公共性を育てる義務を負っている(53) 」との見解を示した。そして、当時、唯一の刑罰目的は、報復ではなく予防とい

う公の目的であり、責任非難は、そのための一つの重要な事実としてのみ扱われていた。この予防重視の考え方に依

拠すれば、刑法の目的は、社会が全体として育つことであり、その結果としての人、財産または文明の保護にすぎな

かった。故に、ある者が不法な何かを行ったとすれば、その者が危害を予見または意図したか否かは問題とならず、行

為者はそこから生じたいかなる結果についても責任を負わなければならなかった(54) 。

これらは、ビクトリア刑法時代以来の「公的」観点と呼ばれる刑法理論の歴史を踏襲するものである。刑事責任は、

被告人の行為が社会秩序に対する重大な挑戦であったかどうかに依拠して決定され、決して、被告人が故意に責任に

該当するような悪事を選択したかどうかは重要なことではなかった。

一九世紀はこの「公的」観点が守り続けられ、刑法理論の真の焦点は、「公の」不法を予防することにあり、私的な

法益侵害とは一線を画す公共政策を重要視し続けることになる。しかし、二〇世紀に入り、急進主義は全く正反対の

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page323 2011/01/17 09:13

323 ――ドーピング規則違反と「厳格責任」原則について――

個人主義的な道徳、応報主義を激しく主張するようになり、刑法理論は客観主義から主観主義へと傾いた。その結果、

模範刑法典は伝統的な見解と急進派の見解の両見解を含んだものとなっている(55) 。

5 ・おわりに

ドーピング違反者の処遇に関する最大の問題は、「厳格責任」原則である。(民間の)国際的監視機関である世界ア

ンチ・ドーピング機構の規程であっても、禁止物質摂取の事実のみでドーピング違反と判断する「厳格責任」原則に

反対する意見は大変根強い(56) 。民事的解決の場合、「厳格責任」はドーピング違反の査定に適用されるのみであり、違反

者への処分はメダル、記録、賞金の剥奪や出場停止、あるいはその団体への罰金である。

しかし、ドーピング違反に刑事法を適用するとなると、違反選手に対する制裁は、軽い場合で罰金、重いものは禁

錮刑や懲役刑である。ここに「厳格責任」原則を持ち込んで良いであろうか。つまり、禁止物質の摂取事実のみで故

意の証明や無実の抗弁もなく、選手を刑務所に送る可能性を認めて良いのだろうか。

ドーピング罪の法益は、大きく分けると社会秩序の維持、そして個人の生命、身体、財産である。社会的倫理の観

点からして、有名選手が薬物を使用して競技に勝つということは、確かに青少年に与える大きな害である。卑怯な方

法によって名誉、栄光、金銭を求めようとする態度は道徳的に許されるものではない。また、個人法益の観点からも、

(本人の承諾がある場合に議論は分かれるが)指導者が選手に禁止物質を勧めた場合(当該選手が承知していない場合

は勿論、承知していた場合であっても)などは、少なくとも暴行罪や身体傷害罪に値する。さらに、別の段階として、

ドーピング違反により利益を得た場合は、詐欺罪に該当するといえる。

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page324 2011/01/17 09:13

――法  律  論  叢―― 324

歴史的に見ると、この原則は個人の責任と刑罰の均衡を図ることを脇に置き、「公の」不法を予防するために専ら用

いられてきた。一九世紀は、個人の責任と刑罰の均衡よりも国家の安全を守ることを第一に考えていたからである。

現在でもこの原則は「法定強姦罪」に適用されているが、果たしてドーピング違反は故意の証明を待たずに犯罪を成

立させる必要がある程の法益侵害なのであろうか。一般予防の観点からすると、確かに一流選手のドーピング違反は

青少年に悪影響を及ぼし、刑罰による警告は一定の効果があるかも知れない。しかし、実際問題としてドーピング違

反を侵す必要があるのは、一流スポーツ選手とその指導者に限られ、一般人には全くその必要性がない。一方、特別

予防の観点からすると、刑事罰を受けることにより、選手も指導者もドーピング違反の重みを突きつけられ社会倫理

秩序に違反したことを深く認識するかもしれない。そうであったとしても、全体的に考えてみれば、ドーピング違反

対象者が少ないこと、二一世紀の現在は「公的」観点を個人の責任以上に重視しないことから、「厳格責任」原則を刑

法に持ち込む必要性は殆どないといえる。

また、刑法を貫く謙抑主義は、近代人権保護主義のもとに国家からの不当な拘束を避けるために存在し、刑罰は社会

秩序を守る最後の手段であって、安易に発動すべきではないとする。また、「疑わしきは被告人の利益に」の原則は、

犯罪の明確な証明があったときにのみ有罪となり、それ以外は無罪となることを意味する。そして、「責任なければ刑

罰無し」の原則も、責任能力及び、故意・過失を要件として行為者を主観的に非難できる場合のみ刑罰を認める(57) 。こ

のような刑法の基本的大原則に立ち返って考慮する時、「厳格責任」原則による処罰はとうてい受け入れることが出来

ないと考える。

最後に、二〇世紀の代表的な刑法学者であるアシュワースの言葉を借りて結論としたい。「刑法は深刻な社会的脅威

をもたらすような有責性のある行為のみを予防し、また処罰するものであるべきである。そして、一般的な刑罰目的

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page325 2011/01/17 09:13

325 ――ドーピング規則違反と「厳格責任」原則について――

と「厳格責任」原則を用いての刑法乱用は、刑法とはどんな社会的な問題に対しても介入する法律だという定義に導

いてしまうのではないかと危惧している(58) 。」と。

注(1)

Ulrich

Beck,W

orld

Risk

Society

,Polity,

1999.

(2)

MarianaValverde,RonLevi,andDawnMoore,

Law

and

Risk,Univ.ofBritish

ColumbiaPr.,2005,p.86.

(3)

生田勝義「法意識の変化と刑法の変容」『国際公共政策研究』第六巻第二号五二・五三頁。

(4)

ウルリッヒ・ズィーバー(甲斐克則監訳)「刑法の限界(2・完)―マックス・プランク外国・国際刑法研究所における新た

な刑法研究プログラムの基盤とその取り組み―」『比較法学』第四三巻二号二七六頁。

(5)

例えば、第九四回のオリンピック委員会は、各国政府にドーピングのための特別法を作り、アンチドーピング法の適用を求

めた。また、二〇〇九年一〇月には、国際オリンピック委員会(IOC)のロゲ会長が二〇一八年冬季五輪以降の招致都市に

対し、ドーピング違反を警察当局が捜査するための国内法整備を求める考えを明らかにしている。さらに、二〇〇八年には国

際刑事警察機構(インターポールIn

ternationalCriminalPoliceOrganization

)と世界アンチドーピング機構(T

heWorld

Wnti-DopingAgency

)が七条からなる協力合意書(C

o-OperationAgreem

entBetweenTheInternationalCriminalPolice

OrganizationandtheWorldAnti-DopingAgency

)を交わしている。

(6)

GeorgeEngelbrecht,

Adoptio

n,

Recogn

ition

and

Harm

oniza

tion

of

Dopin

gSanctio

nBetw

eenW

orld

Spo

rts

Orga

niza

tion,2000,p.3.

(7)

The2010Prohibited

ListInternationalStandard.

(8)

二〇一〇年版で大きく変更されたもののひとつは「プソイドエフェドリン」である。これは興奮作用のある物質であり、市

販のかぜ薬や鼻炎用内服薬に含まれる場合がある。

(9)

http://www.mext.go.jp/bmenu/houdou/19/05/07051421.htm.

(10)

http://www.joc.or.jp/antidoping/about/index.html.

(11)

GregoryIoannidis,

Lega

lRegu

latio

nofD

opin

gin

Spo

rt:T

he

Case

for

The

Pro

secutio

n,ObiterVol.1,1.2003,pp.

15–16.

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page326 2011/01/17 09:13

――法  律  論  叢―― 326

(12)

RyanConnolly,

Bala

ncin

gth

eJustice

inA

nti-D

opin

gLaw:

The

Need

toEnsu

reFair

Ath

leticC

om

petition

Thro

ugh

Effective

Anti-d

opin

gProgra

mvs.

the

Pro

tection

ofRigh

tsofAccu

sedA

thletes,

VirginiaSportsLawand

Enterta

inmentLawJournalVol.5:22006,pp.178–84.

(13)

USAShooting&Quigleyv.InternationalShootingUnion(UIT),CAS94/129Awardof23May1995,CASDigest

1,pp.187,193–94.

(14)

菅原哲朗「スポーツと法│競技会主催者と参加者の法的責任│」『学術の動向』(日本学術協力財団、二〇〇六年一〇月号)二

二頁。

(15)

JamesA.R.Nafziger,

Intern

atio

nalSpo

rtsLaw,2004,p.162.

(16)

日本語訳は、日本アンチ・ドーピング機構のものを参考にした。

(17)

逆に、次の場合においては過誤又は過失がないとして制裁措置が全面的に取り消されることはない。

_ ビタミンや栄養補助食品の誤った表記や汚染が原因となって検査結果が陽性になった場合(競技者は自らが摂取する物に関

して責任を負う(第2 ・1 ・1項)とともに、サプリメントの汚染の可能性に関しては競技者に対して既に警告が行われている)

` 競技者本人に開示することなく競技者の主治医又はトレーナーが禁止物質を投与した場合(競技者は医師の選定について

責任を負うとともに、自らに対する禁止物質の投与が禁止されている旨を医師に対して伝達しなければならない)

a 競技者が懇意とする集団の中において、配偶者、コーチその他の人が競技者の飲食物に手を加えた場合(競技者は自らが

摂取する物について責任を負うとともに、自己の飲食物への接触を許している人の行為についても責任を負う)

 しかし、個々の事件の具体的な事実によっては、上記のような事例であっても、重大な過誤又は過失が存在しないとして制

裁措置が短縮される可能性がある(例えば、上記_の場合、検査結果が陽性となった理由が、禁止物質と無関係の供給元から

購入した総合ビタミン剤に汚染されていたためであって、かつ、他の栄養補助食品を摂取しないよう自分が注意していたこと

を競技者本人が明確に証明した場合、措置が短縮される可能性もある。)。第 10  ・5 ・1項及び第 10  ・5 ・2項において、競技

者又はその他の人の過誤を評価するために考慮される証拠は、具体的なものであり、かつ、通常期待される行動からの、競技

者又はその他の人の行動の乖離の程度を説明するのに具体的かつ適切なものでなければならない。ゆえに、例えば、競技者が

資格停止期間の間に多額の収入を得る機会を失うことになるという事実や、競技者が自己のキャリアにおいて少しの時間しか

残されていない事実、又は競技日程は、本項による資格停止期間の短縮において考慮される関係する要因とはならない。

(18)

ドーピング違反処理の民事と刑事の差異については、佐藤千春「国家法と固有法におけるドーピング規制の方向」『競技者を

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page327 2011/01/17 09:13

327 ――ドーピング規則違反と「厳格責任」原則について――

めぐる法律問題』日本スポーツ法学会年報第七号七八頁以下参照。

(19)

GregoryIoannidis,ibid.,p.15.

(20)

Ibid.

(21)

Ibid.,p.16.

(22)

刑法二三二条(傷害罪)「人を身体的に虐待し又はその健康を害したときは、五年以下の有期刑又は罰金に処する」。

(23)

渡邊斉志「ドーピング防止法」『ジュリスト』第一三四三号九〇頁。

(24)

これ以前は、薬事法六a条でドーピング目的で薬物を流通させ、処方し、他人に使用することが禁じられており、三年以下

の懲役や罰金刑が科されることになっていた。佐藤・前掲論文一一〇頁。

(25)

ドイツ刑法二二八条(同意傷害罪)は、「行為が、同意にも関わらず善良な風俗に反する場合には、被害者の同意に基づく傷

害は違法である」旨を規定し、被害者の承諾のある身体傷害は、原則的に適法であるが、例外的に行為が公序良俗違反であれ

ば承諾の効力が否定され、行為は違法とされるとしている。

(26)

三上正隆『クリスティアン・キュール「刑法と道徳―分け隔てるものと結び付けるもの―」』「早稲田法学」第八二巻第三号二

七五頁。

(27)

オーストラリアのドーピング規制の歩みについては、森浩寿「オーストラリアのドーピング規制に関する法的対応」『競技者

をめぐる法律問題』日本スポーツ法学会年報第七号一四二頁以下参照。

(28)

S82oftheCrimesActofVictoria.

(29)

S408CoftheQueenslandCriminalCode.

(30)

S178BAoftheCrimesActofNewSouthWales.

(31)

TheSouthAustralianCriminalLawConsolidationAct1935:Sectio

n139

―Decep

tionApersonwhodeceiv

es

anotherand,bydoingso

_ d

ishonestly

benefitshim/herself

orathirdperson;or

` d

ishonestly

causesadetrim

enttothepersonsubjected

tothedecep

tionorathirdperson,isguiltyofanoffence.

Maximumpenalty:

_ fo

rabasicoffence-im

prisonmentfor10years;

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page328 2011/01/17 09:13

――法  律  論  叢―― 328

` fo

ranaggravatedoffence-im

prisonmentfor15years.

(32)

Christp

herMckenzie,

The

use

of

crimin

alju

sticem

echanism

sto

com

bat

dopin

gin

sport,SportsLaweJournal,

epublications,2007,p.8.

(33)

イタリアの国内法はドーピング(薬物使用)違反者に刑事罰を科すが、トリノ冬季五輪期間中に他国の選手に同様に刑事罰を

適用するか否かを巡り議論が生じた。結局、以下のように禁止薬物リストなどは世界反ドーピング機関に準拠することで、イ

タリア政府と国際オリンピック委員会が合意した。

(1) 国内法は刑罰も含めて尊重する

(2) 違反となる薬物のリストや検査、競技の資格停止などはWADA規定に従う

(3) 国際オリンピック委員会と世界アンチ・ドーピング機関などでつくる検査の作業部会に、イタリアのアンチ・ドーピング

委員会代表者も入れる

(34)

Christp

herMcKenzie,ibid.,p.7.

(35)

http://www.nytimes.co

m/2004/11/27/sports/27iht-juveed3.html.

(36)

一九六五年のドーピング法は、一条でドーピング罪を規定し、「スポーツ競技会のために、又はスポーツ競技会の期間中に、

身体的な能力を人工的及び一時的に増大させることを目的として、健康を害する可能性のある、特別執行命令によって定めら

れた物質の一つを故意に使用した者は、五〇〇フラン以上五〇〇〇フラン以下の罰金に処する」と定めた。さらに、二条は共

犯について規定し、「その方法の如何を問わず、本法第一条に定める行為の遂行を故意に助けた者または、それを遂行すること

を唆した者は、一月以上一年以下の拘禁及び五〇〇フラン以上五〇〇〇フラン以下の罰金、または、その二つのうちのいずれ

か一方の刑に処する」と述べている。齋藤健司「フランスにおける一九六五年のドーピング法に関する立法過程研究」『スポー

ツをめぐる方と環境』日本スポーツ法学会年報第一二号八五頁。

(37)

一九九八年、ツール・ド・フランスで広範囲なドーピング疑惑が噴出した。ここで問題となったのはエリスロポエチンと呼

ばれる物質である。これを摂取すると赤血球の生成を促進することで赤血球が増加し、血液の酸素運搬能力の向上により持久

力を上げることが可能である。しかし、血液が濃くなり過ぎることで人体に重篤な障害を引き起こす可能性があるので、ヘマ

トクリット(血液中に占める血球の容積率)の許容値を規定することにより規制しようとの動きが活発になった。

(38)

Article

232–9Codedusport.

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page329 2011/01/17 09:13

329 ――ドーピング規則違反と「厳格責任」原則について――

(39)

Article

232–10Codedusport.

(40)

Article

232–26Codedusport.

(41)

Article

232–25Codedusport.

(42)

Article

313–1PenalCodeofFrance.

(43)

ポーランドでは刑事責任の可能性について、殺人罪(一四八条一項)、過失致死罪(一五五条)、いわゆる重度の健康侵害(一

五六条)、これにあたらない健康侵害(一五七条)等を考慮できるかもしれない。アンジェ・シュヴァルツ、西原春夫監訳『ポー

ランドの刑法とスポーツ法』(成文堂二〇〇〇年)一三四頁以下。

(44)

http://www.cyclingtime.com/modules/ctnews/view.php?p=13960.

(45)

多くの場合は、交通事犯に提供されている。例えば、検察側は、運転手がスピード違反をしていたという事実を証明するだ

けで十分なのである。

(46)

EdwardCoke,

The

Third

Part

ofth

eIn

stitutes

ofth

eLaws

ofEngla

nd107(E&RBrooke1797)1644,cited

in

GeraldLeonard,Toward

sa

Lega

lH

istory

ofA

merica

nC

rimin

alT

heo

ry:

Cultu

reand

Doctrin

efro

mBla

ckstone

to

the

Pen

alC

ode,BuffaloCriminalLawReview,2003,p.691.

(47)

Ibid.

(48)

「法定強姦」とは、性的同意年齢未満の子供に対する性行為である。明白な圧力や脅迫が存在する必要がないという点で、法

定強姦は他のタイプの強姦と明確に異なる。現実に強要によって行われたか否かを問わず、そのような性行為は問答無用で強

制的なものだとみなされ、一種の擬制である。日本では、刑法一七七条によって、一三歳未満の児童との性交が一律に禁止さ

れている。

(49)

GeraldLeonard,ibid.,

六九一頁以下を参照。これについて取り上げたものとして、門田成人・坂本学史「アメリカ刑法理

論に関する文献紹介」『神戸学院法学』第三五巻第三号一六九頁以下がある。

(50)

8Iowa.447(1859)cited

inibid.,p.700.

(51)

25P.1110(Cal.1891)cited

inibid.,p.703.

(52)

Ibid.,p.705.

(53)

Ibid.,pp.711–12.

明治大学 法律論叢 83巻 2・3号:責了 tex/morimoto-8323.tex page330 2011/01/17 09:13

――法  律  論  叢―― 330

(54)

Ibid.,p.713.

(55)

Ibid.,p.832.

(56)

個体、人種、性別等により検査結果に差が出るのではないかとする見解もある。G

enevieveF.E.Birren

andJerem

y

C.Fransen,T

he

Bod

yand

The

Law:

How

Physio

logicaland

Lega

lO

bstacles

Com

bine

toC

reate

Barriers

toAccu

rate

Dru

gTestin

g,Marquette

SportsLawReview,Vol.19:1,2008–2009,pp.257–58.

(57)

KlauseVieweg,

The

Defi

nitio

nof

Dopin

gand

the

Proo

fof

aD

opin

goffen

se(a

nA

nti-D

opin

gRule

Vio

latio

n)

under

Specia

lC

onsid

eratio

nofth

eG

erman

Lega

lPosisio

n,Marquiette

SportsLawReviewVol.15:1,2004–2005,p.

44.

(58)

Andrew

Ashworth,Is

the

Crim

inalLaw

aLost

Cause?

,116LawQ.Review,2000,p.225.

(法学部兼任講師)