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第 23 巻第 2号,2008 年
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青森臨産婦誌
緩和ケア概論
青森県立中央病院(医療顧問)緩和医療科
齋 藤 勝
千歳産婦人科医院
千 歳 和 哉
Introduction of Palliative Medicine
Masaru SAITO
Department of Palliative Medicine, Aomori Prefectural Central Hospital
Kazuya CHITOSE
Chitose Clinic of Obstetrics & Gynecology
総 説
は じ め に
日本のがん治療は世界一のレベルといわれ,いずれ,がんの 60%は治癒するといわれる。しかし,日本において,がんは 1981年(昭和 56 年)より死因のトップとなり,日本人の3人に1人(働き盛りでは2人に1人)が,がんで死亡する時代になった。そして今後も,高齢化社会の進展に伴ってがんは増え続けるものと予想され,日本人の 2人に 1人が一生のうちに 1度はがんに罹るようになるとも推計されている。また,非常に残念ではあるが,青森県は最近 4年間「がん死亡率全国最悪」を記録している。 がんの治療は「標準治療」「先進治療」「緩和医療」の 3 本柱で成り立っている。しかし,日本における緩和医療は長い間,立ち遅れが指摘されてきた。たとえば,1980 年代にすでに,WHO(世界保健機構)によるがん性疼痛に対する鎮痛薬の使用法のすばらしいガイドラインが出版されていたにもかかわらず,利用されないままで来たのは立ち遅れの代表であろう。
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齋藤は昨年 4月から緩和医療(以下,緩和ケアと呼ぶ)を研修することになった。また,千歳は青森在宅緩和ケア懇話会の世話人などとして長い間,緩和ケアに関わってきた。そして,2007 年に策定された「がん対策推進基本計画」では,「すべてのがん診療に携わる医師は 5年以内に緩和ケアの基本的な知識を習得すること」が目標に掲げられ,早期からの緩和ケアが重要視されてきたので,緩和ケアを概論的に紹介し,この 1年間の印象などを述べてみたい。
緩 和 ケ ア と は
日本における緩和ケアは,ホスピスや緩和ケア病棟を中心に終末期のがん患者を対象にして発展してきた(図 1)。「緩和ケアは終末期医療である」との認識は,一般の人のみならず医療者の側にもいまだに存在しており,一刻も早く改めなければならない。 前述のごとくWHOは 1986 年にがん疼痛治療のガイドラインを出版したが,2002 年には「緩和ケアとは生命に危機を及ぼす疾患に関連した患者・家族の生活の質を向上させ
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る手段。痛みを含む苦痛を早期に認識し評価することで,苦痛を予防し,緩和すること」と定義している。日本においては,2007 年に「がん対策推進基本計画」が策定され,「がんによる死亡者の減少」及び「すべてのがん患者及び其の家族の苦痛の軽減ならびに療養生活の質(QOL)の維持向上」などを提示している。
緩和ケアの目標とがん治療の目標
がん治療の目標は治療による予後の延長とQOL の向上であり,そして,緩和ケアの目標はQOLの向上によりがんの予後に良い影響を与えることであるので,両者の目標は一致しており,互いに補い合う包括的がん医療モデルである(図 2)。実際,早期からの緩和ケアによって化学療法の再開に結びつく場合や,逆にがん治療の効果によって苦痛に対する治療を軽減できる場合もあり,両者は有機的な連携にありシームレスな関係にある。
全人的苦痛(total pain)
がんと診断されたとき,多くの患者は,死を意識し,自分の将来,家族のこと,仕事のこと,今後の治療のことなどあらゆることに不安を感じ苦痛がはじまる。繰り返しになるが,緩和ケアの理念は,がん性疼痛はもちろん,身体的・精神的苦痛(病気に関する不安や苛立ち,眠れないなど)・社会的苦痛(経済的な問題など)やスピリチュアルペイン(死への恐怖,生きている価値,死後の世界は?など)をトータルペイン(図 3)として捕らえ,患者のQOLを支えることにある。当然,これらは医師一人では困難であり,多職種医療関係者がチームで協力しながら対応すべきである。なお,がん患者の家族は第 2の患者とも言われ,精神的苦痛は患者と同様に認められるので,家族への配慮も当然重要である。
緩和ケアの課題
これまでの状況を踏まえて,これから緩和
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図 1 従来のがん医療のモデル 図 2 包括的がん医療モデル
図 3 全人的苦痛(total pain) がん患者の苦痛は多面的であり,全人的に捉えなければならない.
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ケアを推進する上での課題は次の 3点が挙げられる。1)症状緩和が不十分である。 日本は,図 4に示すごとく,痛みを和らげる麻薬の使用量が先進国の中で圧倒的に少ない。結果として,日本は痛みのあるがん患者にとって先進国の中では最悪の国となってしまった。これまで多くの医療者が,痛みを深刻な問題として受け止めてこなかったこともその大きな一因であろう。 痛みは本人以外にはわからないし,医療者への遠慮などで我慢する場合もある。がんの痛みの場合,我慢すると,結果的に痛みを何度も自覚することにより疼痛閾値が低下し,痛みに敏感になってしまう。痛みを早く知り,早く対応することが大切である。昨年度の診療報酬算定で,がん性疼痛緩和管理指導料や医療用麻薬の種類も追加された。がん疼痛治療については後述したい。
2)安心してがんの治療が受けられ,苦しくなく過ごせると考えている人は半数に満たない。 がん診療拠点病院における多施設遺族調査によると 50%の遺族は身体の苦痛の緩和に不満足との結果であった。3)患者の希望する療養場所は変化する(図
5)。 痛みを伴う末期状態(余命が半年以下)の場合,希望する療養場所は,自宅が 64%,緩和ケア病棟が 18%,今まで通った病院が9%などであった。また,希望する看取りの場所は,緩和ケア病棟が 47%,今まで通った病院が 32%,自宅が 11%などであった。 患者は住み慣れた自宅で家族に囲まれ最後を迎えたいと思っていながらも,最後まで苦しみたくない。家族に苦しむ姿を見せたくないし,迷惑も掛けたくない。そしてもしも,最後まで痛みなどの苦痛がコントロールできるなら自宅で看取られたいと希望している結果であろう。
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図 4 医療用麻薬消費量(2004-2006) 図 5 希望する療養場所
図 6 一次緩和医療と専門緩和医療
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これら 3つの課題から,「いつでも,どこでも,切れ目のない緩和ケア」が提供できる体制を整備する必要がある。
切れ目のない緩和ケアのために
すべてのがん患者に緩和医療が必要と思われる。そのためには「がん対策基本計画の目標」に述べられた医師だけでなく,がん診療に関係するすべての医療関係者が基本的な緩和ケアの知識を身に付けることが重要である。このような医療は「一次緩和ケア」と呼ばれ,この中で重要なものに基本的な鎮痛薬の知識,コミュニケーションスキルなどがある(図 6)。
がん疼痛治療法
「もうなにもできることはありません」という説明がおこなわれたとしたら,告げられた患者や家族はこの言葉をどのように受け取るだろう。がん治療ができなくなったとしても,痛みなどの症状緩和はかなりできるようになってきているのにである。 痛みは,私達が苦しむもっとも大きな苦痛のひとつである。まして,がん患者が,疼痛緩和の有効な手段があるのに,痛みの中に放置されるとしたら,まことに非人間的な話である。 がん性疼痛に対する鎮痛薬の使用法の原則は 1986 年のWHOによるガイドラインに要約されている。WHOのガイドラインに沿って治療をおこなえば,8割から 9割の患者の
疼痛管理が可能となる。WHOのガイドラインの理解と実践がまさに一次緩和医療である。 WHO方式がん疼痛治療法は,鎮痛薬の段階的な使用法を示した 3段階除痛ラダーと痛みの強さによる鎮痛薬の選択,そして治療にあたって守るべき 5原則から成り立っている(図 7,表 1)。あまり悩まずに,これに沿ってまずはじめてみることである。
コミュニケーションスキル
1.コミュニケーションの原則 医療従事者のコミュニケーションの良否に
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図 7 WHO 3 段階除痛ラダー
表 1 WHO 方式がん疼痛治療法の 5 原則
1 .経口投与が基本。患者にとって簡単で維持・管理がしやすい投与経路を優先的に選択。医師が簡単と思う方法ではない。漫然と坐薬を使用したり,嘔吐の可能性が高い患者に経口投与を選択しない。
2 .薬剤の作用時間が途切れないように投与間隔を決める。特にオピオイドでは毎食後という指示はすべきでない。均等な時間間隔で指示することが重要。
3 .患者にとって鎮痛が不十分な場合には,3段階のラダーにしたがって段階的に治療薬のレベルを上げていく。オピオイドを避けて第 1段階を引き延ばさない。
4 .オピオイドによる鎮痛では,患者ごとに必要量が大きく異なる。痛いまま何日待っても効果は変わってくれない。
5 .副作用が新たな苦痛とならないよう注意し予防に努める。治療への不安や疑問,病状の変化による投与経路の変更の必要性などに常に配慮する。
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より,患者―医療従事者関係だけでなく,患者の満足感や治療効果も変わってくることが報告されている。医療事故の大きな原因のひとつが,コミュニケーション不足であるともいわれている。 そして,緩和医療の中でもっともベースになる技術がコミュニケーションスキルである。心の痛みを和らげるためにはコミュニケーションはなくてはならないので,医療者にはこのような技術の習熟が求められる。前述のがん対策推進基本計画の取り組むべき施策にも「がん医療における告知等の際には,がん患者に対する特段の配慮が必要であることから,医師はコミュニケーション技術の向上に努めること」とある。2.覚えておきたいコミュニケーションスキ
ルの例1 )診察は「あいうえお」から始める あ:挨拶をする い:医療者であることを伝える(自己紹介
をする) う:訴えをきく え:援助をする お:オープンクエスチョン(開かれた質問)「ほかに心配事はありますか?」「聞き忘れたことはありませんか?」など患者の不安や疑問を,もう 1度聴くこと。
2)悪い知らせを伝える「かきくけこ」 か:環境を整える き:聞く,聴く,訊く く:詳しく説明する け:ケアする こ:今後の方針を立てる*コミュニケーションスキルについてはさらに,詳しく説明する必要があり,ほかにも大切なことがあるが,紙数の関係もあるので,巻末の参考図書を参照いただきたい。
在 宅 緩 和 ケ ア
日本においては,命に対する意識が非常に希薄となり,殺人事件や傷害事件,自殺,食品の安全性に関わる重大な事件が多発している。また,家族の絆や地域の絆も薄くなっているともいわれている。これらの状況はおそらく,地域で看取ることがなくなったことと深い関連があるものと推定され,看取りを地域社会に戻すことが重要であるとする指摘もある。 さらに,超高齢化社会を迎え,今後 15 年間でがん患者数は約 2倍に増加し,がん死亡者数は約1.6倍に増加すると推定されている。これと並行して,医療提供体制は,病院ケアから,地域ケアに移行しようとしているようである。
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図 8 地域緩和ケア支援ネットワーク
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これらを受け,診療報酬改定において,「終末期の患者が,できる限り住み慣れた家庭や地域で療養しながら最後を送れるよう,また身近な人に囲まれて在宅での最後を迎えることも選択できるよう,診療報酬上の制度として在宅療養支援診療所(支援診)」が設けられた。これからは,支援診が中心的な役割を担うことになるのであろうか(図 8)。
リ ン パ 浮 腫
リンパ浮腫は,乳がんや子宮がんなどの手術後にリンパ管の障害により,リンパ液が腕や下肢にうっ滞したもので,生活に支障をきたすことも少なくない。しかし,日本の医療機関におけるリンパ浮腫に対する治療体制は,まだまだ不十分であり,結果的に浮腫を放置している方がたくさんいるようである。そして,日常生活において,洋服を選ぶのに苦労したり,なかには他人の目が気になって,家にひきこもりがちになったりしている方もいるようである。 以前は術後の約 5%に発症すると言われてきたが,最近は,初期も含め 25 ~ 30%ともいわれている。いずれにしても,リンパ浮腫はいったん発症すると完治が難しく,一生つき合っていかなければならない厄介な病気である。しかし,日常生活に注意することで発症しにくくすることや,発症早期に発見して治療を開始することで,悪化させないようにすることも可能になってきた。 リンパ浮腫ケアに取り組んでいるのは県内では青森県立中央病院を含め 3ヶ所だけである。2008 年の診療報酬改定に伴い「リンパ浮腫指導管理料」が認められたことなどは,リンパ浮腫を抱えて苦しんでいる患者に医療の目が向けられる大きな一歩となるであろう。
お わ り に
日本の緩和ケアの現状と今後について,あわせて,今後重要となるであろう在宅緩和ケアについても紹介した。そして,これまで医療の対象とされないできた,がん手術後に稀でなく発生する厄介なリンパ浮腫についても紹介した。 私達は治療とともに,その時々の患者の苦痛を同じ人として常に理解し,信頼関係を通して対応を考えることが重要である。緩和ケアとは,すべての医療の基本であろうかと考えている。
参 考 図 書 最後に,齋藤がこの 1年間で読んで役に立ったと思われる図書を順不同で紹介しておく。
・「トワイクロス先生のがん患者の症状マネジメント」(武田文和監訳,医学書院,2003)
・「がん疼痛のレシピ」(的場元弘著,春秋社,2007)
・「緩和ケアマニュアル」(淀川キリスト教病院ホスピス編,柏木哲夫監,最新医学社,2001)
・「ホスピス医に聞く一般病棟だからこそ始める緩和ケア」(池永昌之著,メディカ出版,2004)
・「がん緩和ケアガイドブック」(日本医師会監,2008)
・「がん診療ハンドブック」(千葉県がんセンター 竜宗政監,永井書店,2008)
・「緩和ケアチームの立ち上げとマネジメント」(後明郁男編,南山堂,2008)
・「わかる身につく医療コミュニケーションスキル」(沢村敏郎,中島伸著,メヂカルビュー社,2005)
・「あらゆる「痛み」を診る力がつく緩和医療レッスン」(沢村敏郎著,羊土社,2008)
・「明日の在宅医療,1,在宅医療の展望」(佐藤智編,中央法規,2008)
・「明日の在宅医療,2,在宅での看取りと緩和ケア」(佐藤智編,中央法規,2008)
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