cm研究の展開と発展 - kyoto seika university ·...

43
国際日本文化研究センター シンポジウム CM 研究の展開と発展 ─日文研共同研究からの 10 年─

Upload: others

Post on 27-Sep-2020

0 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

国際日本文化研究センター シンポジウム

CM研究の展開と発展─日文研共同研究からの10年─

Page 2: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

国際日本文化研究センター・シンポジウム「CM研究の展開と発展 日文研共同研究からの10年」

山田奨治 (国際日本文化研究センター)

2016年 2月 9日に国際日本文化研究センター(日文研)において、日本学術振

興会科学研究費助成事業「テレビ文化アーカイブズの構築̶テレビ番組研究・テ

レビ CM分析を統合する視点の探求」(代表者:石田佐恵子)と京都精華大学・全

学研究センターとの共催で上記のシンポジウムを開催しました。2003~ 05年度

に日文研で開催した「コマーシャル映像にみる物質文化と情報文化」共同研究会

が終了してから 10年が経つ機会に、この間にCM研究がどの地点にまで達したの

か、どこへ向かうべきなのかを確認することが、シンポジウムの目的でした。

日文研での先のCM研究会は、CM作品のアーカイビングによって研究分野を開

拓したものとして、幸いにも学界から一定の評価をいただいてきました。同研究会

に参加した、主に関西を中心とする大学・研究者によって、CM作品を発掘・アー

カイビングし共同研究をするスタイルが、その後も受け継がれています。それらの

成果については、本報告をご覧ください。

シンポジウムを通して、CM研究のこれからの課題として浮かび上がったことを

3点だけごく簡単にまとめておきます。第1は CMアーカイブをいかに多くの研究

者にとってアクセスしやすいものにしていくか、第 2は作品が元の文脈から切り離

されアクセス可能になることによって新たな問題が生じること、第 3は「テレビ経

験」を持たない次世代に研究をどう引き継ぐかです。

これらの問題がどのように浮かび上がってきたのか、詳細を本報告でお読みいた

だけたら幸いです。

78  テレビ文化研究

Page 3: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

シンポジウム名:「CM研究の展開と発展 日文研共同研究からの10年」

日時:2016 年 2月 9日(火)場所:国際日本文化研究センター セミナー室 1

プログラム

主催:国際日本文化研究センター共催: 日本学術振興会科学研究費助成事業「テレビ文化アーカイブズの構築─テレビ番組研究・

テレビCM分析を統合する視点の探求」(研究代表者:石田佐恵子) 京都精華大学全学研究センター

10:15-10:30 主宰者挨拶(日文研・山田奨治)

第1部 CM研究の10年を概観する10:30-11:30 【基調講演】CM資料の発掘とその成果(茨城大・高野光平)11:30-12:00 テレビ番組研究とCM研究をつなぐ視点

─萬年社コレクション・データベースを中心に~(大阪市大・石田佐恵子)12:00-13:00 【討論 1】

(司会:中部大・小川順子、コメンテータ:東京大・関谷直也、 京都学園大・君塚洋一)

第2部 CM情報の蓄積と利用を考える14:15-14:30 京都精華大・立命館データベースについて(京都精華大・桐山吉生)14:30-15:00 アド・ミュージアム東京のデータベース・リニューアルについて

(吉田秀雄記念事業財団・馬場栄一)15:00-15:30 テレビ CM個人コレクションのデータベースとその研究利用について

(総研大 ・大石真澄)15:30-16:00 初期テレビ CMアニメーションの教育利用の一例:

「動きをつくる」手法を、どう現代に伝えるか(京都精華大・津堅信之)

16:00-16:15 休憩

16:15-16:45 「関西 CM」とは何か(関西学院大・難波功士)16:45-17:45 【討論 2】

(司会:早稲田大・谷川建司、コメンテータ:立教大・是永論、 東京国際大・柄本三代子)

17:45-18:00 クロージング

   79

Page 4: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ
Page 5: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

▼要  旨▼1953年に日本でテレビCMが始まり、今年で 63年目になる。その歴史を問い直すことは、

戦後日本文化を対象とした様々な研究領域(社会学、文化史、メディア史、産業史、経営史、映像史など)にとって有益であるはずだが、初期(1950~ 60年代)の作品については閲覧できる一次資料がきわめて限られており、一般公開された数少ない有名作・受賞作に頼って分析するしかない状況が長く続いていた。しかし 2004年から、京都精華大学において初期テレビ業界を代表する制作会社・TCJの作品をデジタル・データベース化する作業が始まり、2007年に作業が完了、資料状況が改善された。関西在住の社会学者を中心に研究会を組織し、データベース約10,000本の映像(1954~ 1968年)の分析を行って、2010年に成果論集『テレビ・コマーシャルの考古学』(世界思想社)を出版した。その後も、TCJの他の作品や、他の制作会社の保管物、業界団体の保管物などを付け加えながら、データベース収録数は 15,000本を超え、現在も拡張を続けている。研究会も継続しており、新たな論集の刊行が予定されているほか、アド・ミュージアム東京とのデータベース接続が議論されるなど、活用のための方法を模索しているところである。このデータベース最大の特徴は、有名作や受賞作といった括りから解放され、大量の保管

物を無差別にアーカイビングしたことで、幅広い制作年、広告主、地域性(海外含む)などの多様性が実現したことである。また、先進的・前衛的な映像表現を駆使した一部の名作ではなく、何の変哲もない平凡な作品群を量として理解することで、当時のCMという映像ジャンル全体に共有されていた、ある種の文法や記号性などがより見えやすくなった。この特性を活かし『テレビ・コマーシャルの考古学』では、言葉、音楽、アニメーション技術、

ファッション、主婦イメージ、若者イメージ、日本イメージなどの多様な切り口で CMのテキスト性とコンテキスト(社会・文化・産業等との関係)を分析し、初期テレビ CM資料の効果的な活用方法を幅広く示せたと考えている。しかし、こうした研究者向けの資料価値だけが初期テレビ CMの価値ではない。一般向け

のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められるのである。母集団が大きいほうが利用者の幅広い需要に応えうるし、キュレーションの選択

基調講演

CM資料の発掘とその成果高野光平(茨木大学)

   81

Page 6: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

肢も増える。古いCMは中高年向けのノスタルジー需要はもちろん、歴史性とは無関係に「いま観て面白い」というコンテンツとしての再利用価値もあり、若い世代にも活用の可能性がある。経営学や映像論を学ぶ大学生や、若い広告人の教育にも利用できることは言うまでもない。こうした文化資源としての価値を実現していくには権利や予算など様々な問題があり、今後の課題となっている。人文系研究者としては、個々の課題の解決に努力するとともに、古いCMがなぜ、どのように面白いのかを、地道に実証していく作業を継続することが求められるだろう。

▼基調講演▼1.CM資料の発掘とアーカイブスの作成茨城大学の高野光平と申します。本日は「CM資料の発掘とその成果」というタイトルで

基調講演をおこないます。さきほど山田先生からご説明があったように、2006年に日文研の共同研究が終わって 10年の歳月が流れました。この間、テレビ CMの歴史研究において何があったかを整理するのが私の役目かと思います。本日は特に、自分のかかわったプロジェクトを中心にお話ししていこうと思います。今日のお話は大きくふたつの話題に分かれます。ひとつは劇的な資料状況の改善について

です。ひとことで言えば、今まで見られなかった古い CMが大量に見られるようになったということです。もうひとつは、その改善がメディア研究にどのような影響を与えたのかというお話です。このふたつのテーマを、CM映像を実際にお見せしながらなるべく簡潔に論じていきたいと思います。さっそくひとつめのテーマ、ここ 10年の間に何が見られるようになったのかという話か

ら始めます。古いテレビ CMを参考資料として利用したい場合、現在では企業のWebサイトを見たり、YouTubeにアップされているのを見たり、あるいはコカ・コーラや資生堂や明治製菓のようにDVD作品集を出しているのを買ったり、いろいろと方法はあります。後でご登場いただくアド・ミュージアム東京とか、横浜の放送ライブラリーのような閲覧施設でも、古い CMはまとまった量を見ることができます。現在は、古いテレビ CMをそれなりに参照できる環境が整っています。そうした環境が整ったのはそれほど古いことではなくて、21世紀に入ってからです。映

像アーカイブ自体が 21世紀に大きく発展したわけですが、CMもそのひとつでした。さきがけとなったのは、一般向けには 2002年 12月にオープンした「アド・ミュージアム東京」、研究者向けには 2003年 4月に始まった日文研の共同研究でした。ACC賞はじめ、過去の主だった受賞作や話題作はかなり幅広く参照できるようになりました。それまでもごく限られた作品は参照できたのですが、劇的に幅が広がったんですね。これでようやく、CMの歴史研究というものが本格的に成立する資料環境になったと言えると思います。それはたいへん素晴らしいことだったのですが、一方でひとつの問題を抱えてもいました。

82  テレビ文化研究

Page 7: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

それは、受賞作や話題作をベースにしているので、どうしても、いわゆる B級作品というか、何の変哲もない平凡な作品が抜け落ちざるをえないわけです。また、日本のおもな CM賞が 1960年代に始まったこともあって、1950年代の作品もすっぽり抜け落ちていました。この部分の穴を埋めることができたら、歴史資料としてのテレビ CMはさらに充実することは明らかでしたが、でもどうやって……というのが課題だったんですね。これを克服したのが、京都精華大学が保管していた TCJコレクションでした。TCJとい

うのは 1952年に設立した最古のテレビ・プロダクションのひとつで、初期のテレビ業界の最大手だったところです。この TCJの倉庫保管物を、当時、京都精華大学に TCJ出身の方がいらした関係もあって、外部資金を使って 2001年にVHSに落としたんですね。TCJは「鉄人 28号」とか「エイトマン」とかアニメでも有名でしたから、当初はアニメ研究の目的が強かったと聞いています。この VHSが 551本あって、これをデジタル・データベースに変換する作業が 2004年か

ら 2007年にかけておこなわれました。私はその作業責任者だったのですが、もともとは京都精華大学の吉村和真さんという方が日文研の共同研究会に参加されていて、ここで知り合って私に声がかかったものですから、共同研究会のある意味で延長線上にあるプロジェクトと言えますね。

2007年にデータベースが完成します。このデータベースはその後もいろいろと付け加えながら拡大していくのですが、具体的な話は午後に京都精華大の桐山さんからご説明がありますので、ここでは割愛します。結果として、2007年の段階で約 1万本、その後いろいろTCJ以外も増えて、現在 2万本くらいあります。量もさることながら大事なのは中身でして、さきほど申し上げた従来のアーカイブスの課

題である、マイナーな作品と、そして 1950年代の作品を大量に含んでいました。ここが重要でした。最初の 1万本についてはテレビ開局翌年の 1954年から 1968年のものです。もちろん、特定のプロダクションの制作物ばかりで、その点の偏りは考慮されるべきですが、それを踏まえても、最初期のマイナーな CMがこれだけの数出てきたというのは、CMの歴史研究のみならず、社会学、メディア史、文化史、産業史や経済史にとっても、使いでのあるぶ厚い新出資料だと思います。

2.新出資料の特徴と個性この新出資料について、ここからは映像を交えながら説明していきます。まず、猛烈に古

い映像が出てきたことが重要です。それまで閲覧施設等で見られる最初期の CMといえば、精工舎の時報とか、ルルの歌とか何本かあったのですが、ほんとに数本でした。それが TCJアーカイブによって 1950年代の作品が約 1,500本閲覧可能になりました。もっとも、当時は生 CMが多かったので、フィルム CMはあくまで当時の CMの一部にすぎないんですが、それでも、ほぼ闇だった最初期のテレビ CMの世界に一気に光が差し込んだ画期的なでき

基調講演:高野光平/ CM資料の発掘とその成果  83

Page 8: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

ごとだったと言えます。では、1950年代の作品を何本か見ていただきます。ま

ずは 1955年のアニメーションから。

 ─ 名糖産業「アンデシン」(1955年 /30秒)の CMを流す

TCJはアニメに強い制作会社でして、アニメの作品がいっぱいあります。そもそも初期のフィルム CMでは、画面うつりがよいとか、営業努力があったとか、いろんな理由でアニメ CMが盛んにおこなわれていましたので、TCJに限らずアニメは多かったです。もう一本アニメ CMを、こんどは 1956年のものです。

 ─ シチズン商事「シチズン時計」(1956年 /60秒)のCMを流す

これはアニメ-テッド・オブジェクトといって、いわゆるコマ撮りですね。コマ撮りは商品を動かしたりするのに部分的に使われることが多いんですが、このように人形を動かして全面的に使うこともあります。一方の実写ですが、やはり映画という巨大な産業があり

ますので、それと比べるといくぶん見劣りします。1956年から 2本見ていただきます。

 ─増田屋「ラジコン」(1956年 /30秒)のCMを流す

ラジコンは当時の価格で 7,000円ですから、今だと 10万円くらいでしょうか。スネ夫しか買えないような商品です。もう一本

 ─ キングトリス「キングトリスチウインガム」(1956年 /30秒)のCMを流す

これは現役時代の川上哲治ですね。いわゆるお宝映像で

画像1 強力アンデシン

画像2 シチズン時計

画像3 増田屋ラジコン

画像4 キングトリスチウインガム

84  テレビ文化研究

Page 9: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

す。ちなみにコマソンの作詞作曲は三木鶏郎で、とても豪華な CMなんですが、噛んでるガムをバットにはりつけたら場外ホームランという、なんともいえないチープな感じですね。というわけで、まずはまずはすごく古い作品が参照でき

るようになったという話でした。黎明期のフィルム CMについて、完全にとはいきませんが、これまでよりもはるかに具体的にイメージできるようになったし、偏りがあるとはいえある程度の量的な調査や、深い考察ができるだけの資料を得ました。これは、テレビ史、広告史、経営史などにとって大きな進展であったと思います。続いて、マイナーな作品が出てきたということ。受賞

作や話題作中心のアーカイブでも、「CMは時代を映す鏡」と言われるように、その時代を象徴する CMということで考えてもいいんですが、代表とか象徴というものは後の記憶の再構成による部分もあるわけで、当時の視聴体験を正確に反映しているかというと、それはよく分からないと思うんですね。できれば平凡な作品もあるていど抑えておくにこしたことはありません。そこで、賞とは無縁のマイナーな作品が重要になってきます。何本か見ていただきたいのですが、どれがマイナーかと

いうのも難しいですね……。とりあえず、映像表現上なんの工夫も見られないと個人的に感じるものを 3本選びました。

 ─「日本経済新聞」(1957年 /30秒)のCMを流す

 ─堺酒造「新泉」(1960年 /30秒)のCMを流す

 ─ 「レストラン赤トンボ」(1959年 /30秒)の CMを流す

ACC賞の受賞作をご覧になったことのある方は分かると思いますが、受賞作の映像ってやっぱり先進的でよくできてるんですよ。それに対して、こうした平凡な作品を考

画像5 日本経済新聞

画像6 堺酒造「新泉」

画像7 レストラン赤トンボ

基調講演:高野光平/ CM資料の発掘とその成果  85

Page 10: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

慮に入れるか入れないかで、初期のテレビ CMに対する考察の方向性がかなり変わってくるのは明らかです。寿屋や資生堂の美しい映像だけで昭和 30年代の CMを語るということが、いかに特定の見方にすぎないかを、こうした平凡作たちは教えてくれます。それからマイナーというとローカル CMも大事ですね。

TCJのような大企業に制作を頼むローカル広告主というと、たいていは百貨店、老舗のお菓子屋、酒造といったところになりますが、百貨店をひとつ見てみましょう。福島の百貨店です。

 ─「中合デパート」(1968年 /30秒)のCMを流す

ローカルといえば占領期の沖縄も重要です。当時は琉球放送と沖縄テレビがあって、本土の商品の CMをふつうに流すんですけど、値段だけドル表示です。従来のアーカイブでは公開されてこなかったので貴重だと思います。

 ─ 花王石鹸「テンダー沖縄版」(1967年 /30秒)のCMを流す

その他、特徴的なマイナー作品をざっと挙げますと、まずは現在では CMしない商品というのがいろいろありまして、たとえば猟銃とか。

 ─ 川口屋林銃砲火薬店「K.F.C.猟銃・装弾」(1964年 /15秒)のCMを流す

あとは精神安定剤とか、アスベストなんてのもあります。

 ─ 日本アスベスト「ホームマット」(1969年 /45秒)のCMを流す

これは TCJではなくて別のアーカイブですけれども、こういうのを見ると、日本アスベスト社だけに責任があると

画像8 中合デパート[福島]

画像9 花王テンダー[沖縄版]

画像10 川口屋林銃砲店

画像11 ホームマット

86  テレビ文化研究

Page 11: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

いうよりは、快適な暮らしを求めた私たち全員の問題なんだというのがよく分かりますよね。あとは海外向けの CMですね。日本企業の海外進出が進

んでいましたので、アジア向けとかアメリカ向けの CMがけっこう入っています。

 ─ 本田技研工業「90 sports 英語版」(1965年 /30秒)のCMを流す

これを見ると当時のホンダは技術とか性能とかじゃなくて、むしろそのチープさこそが権威に反抗する若者の感性にハマったんじゃないかとか、そんなことを考えたりします。それから CMじゃないもの、番組のオープニングなんか

もけっこうあります。当時は一社提供ですから、オープニングとはいえ CMっぽい雰囲気をもったものがあって、一社提供全盛期の雰囲気がよくわかります。あとは 5秒 CMですね。従来のアーカイブでは「なんであるアイデアル」とか「おもかじ一杯のりたまで三杯」とか限られた有名作だけでしたが、数百本でてきたので、5秒 CMの全貌をかなりとらえられる気がします。3本見てみましょう。

 ─ 和泉製菓「ウインナチョコレート」(1962年 /5秒)のCMを流す

 ─ 東装「カーテンレール」(1968年 /5秒)の CMを流す

 ─ 大沢商会「ベル&ハウエル 8ミリ撮影機」(1962年 /5秒)のCMを流す

というわけで、従来の公開範囲を大きく超えた、ある意味有象無象の映像群が私たちの前に現れました。この調子であと 2万本くらいありますので、それはもう大変な数なのですが、これが見られるようになって「ああよかった」

画像12 HONDA90sports

画像 13 ウインナチョコレート

画像14 東装カーテンレール

画像15 ベル&ハウエル8ミリ撮影機

基調講演:高野光平/ CM資料の発掘とその成果  87

Page 12: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

で終わりにするわけにはいかなくて、これをどう資料として活かしていくかが次の課題になるわけです。

3.これまでの研究成果そこで次のテーマ、この資料をベースにこれまでどのような研究成果が上がっているのか、

というお話をしたいと思います。まず、2007年に京都精華大学テレビ CM研究プロジェクトというのが立ち上がって、この資料を分析するグループが組織されました。私と山田先生と、後でお話しする石田佐恵子さん、難波功士さん、その他関西在住の社会学者などで構成される研究グループで、2年間研究会をおこないました。成果論集として 2010年 7月に『テレビ・コマーシャルの考古学』という本を世界思想社から出しました。この本では、テキストの分析とコンテキストの分析に分けまして、テキストパートでは

CMの言語、音楽、アニメーションに注目した分析、コンテキストパートではファッション、主婦、若者、日本イメージに注目した分析を行いました。CM表現そのものに注目する方法と、CM表現と社会・文化との関係に注目する方法と、資料としてのふたつの使い方を示したつもりです。この研究会は成功したと思うのですが、あまり注目を浴びることなく現在に至っていて、ちょっと残念です。それから私個人の活動として、放送業界の専門誌の『GALAC』という雑誌に、2009年 4月から 2013年 3月まで 4年間「CMアーカイブの旅」という連載を書きました。いまだ単行本化できてないのでもはや埋もれ気味なんですが、毎回ネタを決めて、カメラとか、結婚とか、男らしさとか、夏とか、それに合った CMをアーカイブから 3~ 4本紹介しながら解説していくコラムです。それから、この後石田さんから説明がありますが、2012年度から科研費で「テレビ文化

アーカイブス」というのをやっていて、そこで現在にいたるまでこの精華大のデータベースの分析を引き続きおこなっています。新しい映像を追加していく作業の拠点も現在はここになります。これから成果論集を作り始めるところです。この科研費もまもなく終わるので、今後のことが問題です。データベースの保守管理はも

ちろん、継続的な研究をどうしていくべきかが当面の課題で、成果論集を作る一方でその問題も考えなければいけません。アドミュージアム東京と連携しようという話はだいぶ前からあって、私もデータベースリニューアルの会合に顔を出しているんですが、具体化はもう少し先のことです。継続性という問題は、むしろみなさまのご意見をうかがいたいところで、この後の討論でぜひご意見よろしくお願いします。

4.CMアーカイブスをどう活かすか継続性を考えるひとつのきっかけとして、そもそもこの映像群にはどのような価値があっ

て、だからどう活かせるのかといった根本的なことついて、最後に私の考えを整理したいと

88  テレビ文化研究

Page 13: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

思います。私は、この初期 CMアーカイブには大きくわけて3つの価値があると考えています。「資料価値」「アーカイブ価値」「コンテンツ価値」です。それぞれ簡単に説明します。まずは「資料としての価値」ですが、広告が他の資料と

比べて重要なのは、その時代のベタな記号性とでも言うのでしょうか、その時代に流通していた意味のありようとか、解釈のパターンとか、センスと言いかえてもいいんですが、そうしたものをベタな状態で素直に使っていることが多いんですね。へんにヒネって表現しない。短い時間で視聴者に正しく届ける必要があるので、とにかく記号が分かりやすいんです。ですから、そういうノリとかセンスとかを観察するにはもってこいの資料だと思います。たとえば「男らしさ」と言えばパイプをくわえてを猟銃

をかまえるとか、躍動感といえばスポーツする若者とか、外国人といえば金髪とか、マンガ家といえばベレー帽とか、ステレオタイプのオンパレードです。お金持ちを表すベタな記号に、男の子だと「蝶ネクタイ」女の子だと「頭に花の飾り」というのがあります。いわゆるピアノの発表会的なスタイルですね。たとえばこんな CMです。

 ─ 国分商店「K& K缶詰」(1957年 /30秒)の CMを流す

いまでも通用するといえばしますが、ややパロディ的というか、当時ほどはリアルな記号性を帯びていない気もします。ついでに缶詰の高級イメージも伝わってきますね。男らしさもいろいろと表象されていて面白いです。1本

見てみましょう。

 ─ ライオン歯磨「バイタリス」(1968年 /30秒)のCMを流す

男は狩りに出て、ベッタリと整髪して、ロッキンチェアでパイプをくゆらせながら洋酒を飲みます。当時の男は舶

画像16 K&K缶詰

画像17 バイタリス

基調講演:高野光平/ CM資料の発掘とその成果  89

Page 14: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

来趣味なんですね。それが男心を実際にくすぐっていたんだと。今でも『GOETHE』とか『男の隠れ家』とか、その種の雑誌がありますけど、当時のベタなダンディズムがよく分かって面白いです。ベタな記号性が観察できる資料価値のほかにもうひと

つ、とにかくたくさんあることで時系列の推移が分かる、これも大きなメリットです。たとえば、広告では「幸福な家族」をよく描きますけれども、そのときちゃぶ台を使うかダイニングを使うかというのが、1960年代前半に入れ替わっていく様子がけっこうはっきりと観察できます。

 ─ 日清食品「チキンラーメンニュータッチ」(1962年 /30秒)のCMを流す

ダイニングは、最初のうちはインスタント食品とか調味料とか、キッチン周りの商品にしか使われないんですが、やがて薬とか保険とか食事と関係ない商品にも出てくるようになって、家庭の舞台装置としてダイニングが定着したことがよく分かります。こうした資料価値は、社会学者にとって重宝すると思いますね。さて、第二の価値は「アーカイブ価値」と名付けましたが、

単純に言えば、アーカイビングされることでたくさん見られるのはよいこと、という意味です。たとえばバージョン違いがたくさん見られることがあります。従来のアーカイブ施設では、有名 CMのひとつのバージョンしか見られないことがほとんどですが、このアーカイブではたとえば王貞治のリポビタンDが 120バージョンとか、シチズンの時報が 140バージョンとか、バージョン違いがたくさんあります。そのおかげで CMに埋め込まれたメッセージがより精密に理解できると思うんですね。それから長さの違いも大切で、60秒・30秒・15秒・

10秒がセットで納品されていることがよくあって、短くなると何が削られていくのかよく分かります。さきほどのバイタリスの短いバージョンを見てみましょう。

画像18 チキンラーメンニュータッチ

90  テレビ文化研究

Page 15: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

 ─ ライオン歯磨「バイタリス」(1968年 /30秒、15秒、10秒)のCMを流す

一般向けにはあまり意味のない価値かもしれませんが、研究者向けとしては、限られた資料を読み間違えないために大事なポイントです。そして3つ目の価値「コンテンツ価値」ですが、これ

は資料性とは逆に、当時どう見られていたかはとりあえず置いといて、いま見ると面白い、現在の感覚で見て楽しいという、そういう価値です。まさにコンテンツに宿る価値です。その面白さにはいろんなレベルがあって、現在の感覚と

ズレていてヘンだとかシュールだとか、そういうのでもいいし、あるいはこれは需要があると思いますがノスタルジーもそうです。いまのノリでもって再解釈することで生まれる価値がコンテンツ価値です。古いものだからといって、歴史資料として読まなければいけない制約はないわけです。いま見て面白いと感じることにも、じゅうぶん価値があるんだという考え方ですね。とりわけ「笑える」と「懐かしい」が大きな要素です。

笑えるというのは、チープだったり、わざとらしかったり、演技が下手だったり、そういうダメな感じがシュールさとか味わいを醸し出すパターンですね。そういう見方を不真面目だと思う人もいるかもしれませんが、私はそういうコンテンツ価値を積極的に評価してよいと思っています。少し例を見てみましょう。

 ─「イチジク浣腸」(1965年 /15秒)のCMを流す

ニッコリ笑って、女優さんも大変だなと。もうひとつ見ましょう。

 ─ 田辺製薬「ジオール」(1959年 /60秒)の CMを流す

画像20 ジオール

画像19 イチジク浣腸

基調講演:高野光平/ CM資料の発掘とその成果  91

Page 16: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

女性の苦しみを岩場で表現し、喜びをバレエで表現するって分かるんですけど、なんとなく、ジワジワ笑えてくる感じがありますよね。笑いよりおそらく需要が高いのがノスタルジーです。い

くつかのパターンがあって、CM自体が懐かしい場合、CMは知らないけど商品は懐かしい場合、CMも商品も知らないけど、全体的な映像の雰囲気が懐かしい場合があります。よくあるのがCMキャラクターに反応するケースで、当時子どもだった世代にとってテレビのヒーローとタイアップした商品はノスタルジーを喚起しやすいものです。例を見てみましょう。

 ─ 前田産業「ハニーミルトン」(1966年 /60秒)のCMを流す

エイトマンが登場しますが、アニメ「エイトマン」のスポンサーは丸美屋食品工業ですから、これは放送が終わって契約が切れた直後のものです。もうひとつ

 ─ 月星ゴム「ミスタージャイアンツシューズ」(1966年 /30秒)の CMを流す

ミスタージャイアンツは巨人の初代マスコットで、ジャビット君の大先輩ですね。笑いにせよノスタルジーにせよ、歴史資料というマジメ

な文脈に閉じ込めるのではなく、いまこれらの映像と向き合うことで生まれる価値を大事にしていくこともまた、この映像群を使いこなすコツのひとつだと思います。というわけで、こうした価値を持つ初期テレビ CMを今

後どのように活かしていくかですけれども、研究者向けには、現在は権利や契約の問題で無条件には公開できなくて、許可を得た人しか見られないという面倒な状況なので、アドミュージアムでも国会図書館でもいいんですが、より大きなナショナル・アーカイブ構想みたいなものに組み込んで、閲覧しやすい環境に持っていくこと、とにかくそれが

画像21 ハニーミルトン

画像22  ミスタージャイアンツ

92  テレビ文化研究

Page 17: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

大事です。一般向けには、教育向けと娯楽向けに分けられますが、いずれの場合もこの大量の映像を

ドンと出して「はい、どうぞ」では見てもらえませんので、ある種のキュレーションが必要になると思います。こういう目的の人にはこれ、のようなガイドラインとともに、映像を提供できれば価値が活かせるだろうと思っています。予算とか権利とか、いろいろと壁はありますが、少なくとも研究者としては、この資料の

何がどう面白いのかということを、実際に使いこなすことを通じて、愚直に示しつづけることが何より重要です。それを地道にやりつづけて、そのうえで、公開性を高めていく努力をしていきたいと思っています。本日はありがとうございました。

基調講演:高野光平/ CM資料の発掘とその成果  93

Page 18: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

テレビ番組研究とCM研究をつなぐ視点─萬年社コレクション・データベースを中心に─〈要旨〉

石田 佐恵子(大阪市立大学)

テレビ「番組研究」と「CM研究」はなぜ分断されているのか・この 10年間に飛躍的に進展したテレビ関連データベースの構築・テレビ研究(Television Studies)は、番組研究とほぼ同じ・番組研究/ CM研究全く異なる研究関心・メディア研究の3地点(制作者研究/テクスト研究/オーディエンス研究)  制作者研究の優位・番組研究のヒエラルキー(NHK>ニュース>ドキュメンタリー>その他)  こぼれ落ちるCM研究、業界的関心の絶対的優位

テレビ「文化研究」、「オーディエンス研究」のさらなる展開・集合的記憶の研究 ex. 萩原滋編『テレビという記憶』・メディア・リテラシーによるCM分析の手法・リスク社会論とリスクCM研究・異なる研究関心を結び合わせる試み

萬年社コレクション・データベースの概要紹介・萬年社コレクションの来歴と概要  1)図書類、2)引札類(大阪新美術館収蔵)  3)紙・印刷資料、4)ビデオテープ類(萬年社C調査研究プロジェクト)・4)ビデオテープ類の内訳映像類=約 4千本、音源類=約 4千本、その他= 800本・テレビ CMデータベース、ラジオCMデータベース、番組類データベースの構築・番組類データベースに含まれるもの PRビデオ、ドキュメンタリー素材

「番組研究」と「CM研究」を架橋する試みの必要性・各種データベースの横断的な利用に向けて・年代別の問題設定と研究可能性・「テレビ以後の時代(After Television)」のテレビ研究・ネット配信される映像コンテンツ/テレビ番組、ネットCM/テレビCM

94  テレビ文化研究

Page 19: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

CM研究の10年を概観する司会:小川順子(中部大学)

コメンテーター:君塚洋一(京都学園大学)関谷直也(東京大学)

君塚 私はもともと広告文化論が専門で、25年ほど前に媒体社の研究所に移り、雑誌など商業媒体のマーケティング・リサーチに携わっていました。2001年に横浜の放送ライブラリーで CMのデータベースが公開されるとき、そのお披露目のため「コマーシャルの 20世紀」という冊子を作ったご縁で、山田先生に日文研の研究会にお誘いいただいたいきさつがあります。発表者(高野、石田)の報告で、これまで生活者の日常に埋もれていたテレビ CMが広告

界からまとまった形で託され、その時代の生活者の心象や社会像も含めて理解できるそんな資料を、きわめて系統的に研究する動きが出てきていることが紹介されました。石田先生も話されましたが、同じ広告研究でも、実務の世界と今回紹介されたような研究ではかなり温度差があります。その両者がそうしたアーカイブを通じて、連携とまではいきませんが、少なくとも対話を行う基盤ができてきたのではないかという印象を受けています。私が広告文化論をやっていた 80年代は日本でもCSがさかんになっていて、私自身も記号

学などを用い、記号表現としての広告が人を動かし、消費を駆り立て、それが消費者のアイデンティティさえ与えるといったメカニズムをさかんに研究してきました。広告がプロパガンダの烙印を押され、強い批判の対象とされることがメディア研究や社会学の分野で盛んになっていた印象があります。私事ですが、その後、媒体社の研究部門に移り、そこでそんな研究界と媒体産業とのギャップを、身をもって感じました。広告は媒体を商業化することで批判されることが多々あるし、私自身もそういうことを書い

てきました。マス媒体はこの国では大半が民間事業として行われ、消費者への販売収入のみで賄うには大変リスクが高い、そのリスクをヘッジするために広告事業がある。ただそれは、たとえば国家のようなものに下支えされる媒体より遙かに健全な部分があります。私のいた媒体社は、もとは映画情報誌から始まり、今では映画やコンサートのチケットの販売を行っています。こうした情報誌がやってきたことは何かというと、映画作品を作りたいクリエーターはたくさんいる、ライブをやりたいアーティストもいる、ただし、その作品がオーディエンスに十分に知られているか、出会えているかというと、意外に出会えていないのです。会社にはチケットが取れないという苦情がかなり来ます。ただ、実際はアリーナやドームでツアーのできる人気アーティストはきわめて限られ、じつは大半の興行が売れ残っている。そういった公演と、それを楽しんでくれる人とをいかに出会わせるか、というのがその情報誌の使命でした。広告はまさに、商品とそれを必要とするかもしれない消費者を出会わせる、ある種の制度、仕

討 論1 抄録

討論 1:CM研究の 10年を概観する  95

Page 20: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

組みであり、それとそうした広告を批判する文化論的な批評とがどんな風に両立するのかが非常に大事な点だと思います。今日の研究発表を聞いて、CMという映像資料に対するいわば「批評と愛」が同居するよ

うな研究の流れになって来たのでは、という印象を強く受けています。アメリカのリチャード・ポーレイさんが 80年代に、広告に対する文化的な研究を総覧する論文を書かれました。ポーレイさんはアメリカの 20世紀の雑誌広告を系統的・実証的に研究され、理論研究もきっちりなさる方です。この方が、ダニエル・ベル、ブーアスティン、ガルブレイスをはじめ、北米で広告に対する文化的なアプローチを行っている 100人くらいの研究者の所論を学際的なものも含めて概覧しています。これを読むと、広告は世の中や生活の環境に遍在し、そこで非常に強いメディアの仕組みを使って消費を制御する、そしてある種のステレオタイプを強化したり、われわれの社会を作ってきた共同体の文化を破壊したりといった強い批判の流れを見てとることができます。この論文は、2007年に『広告・社会・消費文化をめぐる研究読本』というアンソロジーに採録され、いまだに影響力を持っている。広告の文化的研究は、このように批判的な土壌が強いものです。ところが、今日お二方の

話を聞き、こうした点について、今日来られている難波功士さんがこの 10年の成果の一つとされた『テレビ・コマーシャルの考古学』の中でたいへん印象的な「結び」を書いていらっしゃるので、読み上げさせていただきます。「試作(プロトタイプ)として、当時はまだ一般的でないライフスタイルを描きつつ、現在の広告表現に通底するような元型(アーキタイプ)を顕在させつつあった昭和 30年代のテレビ CM。本書は、そのありようをつぶさに検討していくことで、単なる時代精神の反映としてでもなく、意識産業・文化産業による虚偽操作としてでもなくCMを語ろうとしてきた」。先ほどの高野さんの話でも、批判的にCMテクスト自体を見るということと、時代像を見ること、素材自体を楽しむことも含め、いろんなものから自由になって、さまざまな検証を目的にCM素材を使っていくことが当たり前のようになされる時代になったのでは、という感慨を抱きました。

関谷 私は、もともとメディアの研究をしている大学院に在籍し、環境や災害研究をしていたのですが、日文研の 10年前の研究会をきっかけとして、環境広告について書籍をまとめることができました。またそれを契機に東洋大学で 8年間、広告論、PR論の教鞭をとることになりました。現在は広告論は教えていませんが、私が授業をしながら感じたのが、広告研究は、すごく「足の速い」研究だなという点でした。1990年代に地球環境問題が問題になり始めてから急に増えてきた環境問題をテーマとした広告に特化して研究してきましたが、東日本大震災のあとはそうした広告が全く無くなってしまって、もうそのジャンル自体が消えてしまいましたという感じです。当時、自分は現在的な研究をしたつもりだったのに、今となってはすでに過去の歴史の研究になってしまいました。先ほど高野さんが「資料的価値」とおっしゃっていましたが、当時のさまざまな商品をどうい

96  テレビ文化研究

Page 21: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

う風に人々に受け取られていたかを研究する意味では、映像を見ながらその時の受け手がどういう風に見ていたのか、その受容のあり方を考えるのが非常に重要だと思います。その部分を映像アーカイブのCMから考えることが可能かもしれないというのは、その通りだと思いました。私自身も 10年前の日文研の研究会で、過去の CMを見ながら、当時「自然」や「公害」というものがどういう風に映像で描かれていたのか、人々にどのような文脈で受け入れられてきたのだろうかという視点で広告を観てきました。私たちはどうしても今の視点で過去の社会を見てしまうところがあります。ゆえに、当時の

人がどう広告を、社会を見ていたかはなかなか研究しづらいものですがその一語を思い出せる資料が映像アーカイブなのだろうなと思っています。

2つ目に、高野さんが、さきほど学生に「面白がって」映像を見せているとおっしゃっていましたが、わたしはコンテンツの意味という点では、「面白さ」という点も映像ならではのコンテンツの特徴があると思っています。たまたま高野さんの話を聞いて思いだしたのですが、去年、フランスのリヨンのリュミエール博物館に行って、リュミエール兄弟が作っていた当時の映像フィルム群を見てきました。当時の様子を伝える「記録としてのフィルム」とともに、もう一つ印象的だったのが、短時間に見ただけで笑える「面白さを表現したフィルム」がたくさんあったことです。10秒 20秒の映像でそれに興味を持ってもらうためには、映像自体が「面白さ」を持っているというのはとても大事なことです。その系譜で言えば、いわゆる 1980年代の面白 CMであったり、最近 Facebookとか YouTubeとかホームビデオで個々人が撮ったような「面白さを表現した映像」は短い映像フィルムの技法として、その遺伝子が現在も残っている。それは映像に共通するポイントなんだろうなと思っています。これは過去の映像と今の映像を比べることで初めて意味が理解できるもので、ただ単にシュールだから面白いということではなくて、そこに何かメディアとしての普遍的な価値を見いだせるポイントがあるのではないかと、高野さんの話を聞いて感じました。

3つ目に、これは自分が授業をやっていて感じたことでもあるし、石田先生の話を聞いていて感じたのですが、10年前に日文研でテレビ CMの研究会をした時と今 10年経って何が変化したかというと、メディア環境が大きく変化したという点です。特に 10年前の学生は昔テレビでこういうCMを見た、という共通の視聴体験を持っていました。今の学生はそのような共通体験が無くなっているところがあって、同時代的に Facebookとか YouTubeで単発的には見ているのですが、共通体験として持っているテレビ番組や CMの視聴経験というのがだんだんなくなってきています。ということは、この 10年でもそうなので、20年、30年たっていくとテレビ CMの資料的意味が変化してくるのではないかと思います。たまたま 10年前の研究会では 30代が一番若くて、40代 50代が中心でした。今ここにいる人もその世代が中心だと思うのですが、今の 20代、30前後の人の映像の見方はまた違ってくる。これをどういう風に考えていけばいいだろうと考えさせられました。確かに、歴史研究や社会史の研究としては、その普遍的価値は変わらないと思いますが、

討論 1:CM研究の 10年を概観する  97

Page 22: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

データベースを見る人たちはどんどん変わってきます。これを含めてアーカイブの「受け手」との関係をどう見ていくか、今後どういう風にアーカイブを活かしていくかを考える上で、ポイントではないかなと思います。災害に関してもさまざまなアーカイブができています。先ほど高野さんもおっしゃったよう

に、災害だと国が出て来るので、国立国会図書館が東日本大震災のデータを全部記録するといって、「ひなぎくNDL東日本大震災アーカイブ」、東北大学では、「みちのく震録伝 震災アーカイブ」というアーカイブを作っています。とにかく集められるものは集めるという感じです。これらは、どちらかというと災害の教訓を残すためとか、防災のためという感じで研究の目的がはっきりしているもので、資料とかメディアとかこだわらずに、とにかく集められるものは集めるという感じです。それは解釈を将来に委ねて、将来どういう風に見られるか、解釈されるかわからないけど、どこかで将来に生かされる部分があるのではないかという期待もこめられています。多分この 10年程度でテレビ番組や、CMのアーカイブはだんだん進んできています。私達の場合はどちらかというと、メディアの研究という目的があって、それに沿って関係しているものを集めています。先ほど高野さんが言っていたような、どういう風にいろんな人に見てもらうかという点でいえば、私も震災ビッグデータの研究に少し関わるようになって、情報をビジュアル化、データベース化することと、そのビジュアル化、データベース化されたものを解釈することはまったく別で、それぞれの専門家が組み合わさらないと効果を発揮しない研究があると感じています。多分、アーカイブを活かした研究も同じような特徴があると思います。メディア研究者だけでは見えてこないものがあり、そういう部分は、別の「何か」、メディアと「何か」の研究者、専門家でないと見つけることは難しいのだと思います。アーカイブの「受け手」をどこまで範囲を広げていくかによって、テレビ CMなどの映像アーカイブの価値が変わってくるだろうと思います。アーカイブを将来どう使っていくかという点にもかかわると思うので、この点を最後の問題提起とさせてもらいます。

高野 最初に関谷さんの方からお答えします。受け手がどういう状況だったか、感性や感覚は映像広告だとよくわかると同意はいただいたのですが、これは難しいなと思うのは、作り手や広告主が必ずしもセンスの良い人ばかりではなくて、とても時代遅れの表現をしていたりすることがあります。視聴者からはめちゃくちゃ浮いていた可能性もあります。本当にその辺は難しい。このデータベースでも、若者たちがオシャレな服を着て、ツイストを踊りながら桃屋の花らっきょうを食べているCMがあるのですが、これがオシャレとは到底思われていなかったかもしれない。オーディエンスの感覚をつかむというのは、映像広告を用いる上では大チャンスではあるが、意外とテクニックが必要だなといつも感じています。現在の学生にはメディアの同時体験がないというのはほぼ同意するのですが、先日勤務校

の授業で 2003年の「おかあさんといっしょ」を見せたら、どよめきが起きました。みんな見てるんだと思ってびっくりしました。女子学生の 9割方がみていたようです。でも減ってはい

98  テレビ文化研究

Page 23: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

るなという感覚はあって、テレビ体験はゼロにはならなくて、最後芯の部分でどこが残るかというと、それは Eテレかもしれないといまは思っています。シュールな部分をただ楽しむのではなく、そこに映像の普遍的な価値があるのではないか

という話は非常に納得できます。広告目的とは別に、映像そのものが持っている力や価値があって、それは商品を広告する必要が無くなった後でも残存しているものだから、それにわたしたちが反応している部分は確かにあると思う。言葉の力もあります。わたしが 50年前のアリナミンの CMを見ていたら、アリナミンが飲みたくなってきて、飲みたいなと思っていたら、後ろの桐山さんが「アリナミン買ってこようか」とか言ってきて、同じこと感じてたんですね、といったことが 10年くらい前にありました。そういうものに注目したい。それから君塚さんからは、批評と愛とについて指摘がありましたが、今力を持つ広告とは

何かという話とは別に、もはや放送を終えてしまった単なる映像としての広告とは何かについて考えたときに、そこから歴史学的な知見を見出そうとする考えと、この映像で新たな価値を生み出していこうという考えが、自分の中では完全にイコールのものになっています。映像を収集することと、分析することと、それを社会に還元していくこととを一連の出来事のように考えています。文化資源学の考え方がそういうものでもあります。資料化してから分析して還元するまでが一連の行為と考えるのが文化資源学だととらえているので、批評したり分析したりするのはその中のプロセスの一つであり、それも最終的に還元する時に活かせなければいけない、言論として独立しているものではないという感覚が自分の中に確かにあります。

石田 コメントを受けての感想、という形でお返しします。君塚さんから、広告やメディアの文化を研究する枠組みが決まっている、批評と愛に分断があるということは、わたしの話とも通ずるところがあります。アカデミックな人たちは批評、業界の人たちは愛が強すぎるということだと思いますが、わたし自身は業界の人と架橋するアイディアは考えてはいませんでした。そういうやり方もあるのかなとも思いますが、やはりある時代の研究関心はその時代に枠組みづけられているので、アーカイブ研究とはそれを違う目線で見る可能性を持つものなのでしょう。自分自身が批評か愛かと聞かれると、どちらでもないような気がします。わたしのスタンスは愛が足らないってよく叱られることがありますが(笑)、かといって批評だけではないことは明らかで、どちらかだけでも足りないし両方でも違うかもしれないというのが一つの答えではないでしょうか。広告=プロパガンダという図式はご指摘の通り強固にありますが、では番組とは何なのかが

そこから抜け落ちていると思います。広告だけが何らかの目的を持って人を誘導するような働きを持っていたかというとそうではなくて、アーカイブしてみると 60年代の番組全体として伝えていた何かがあったことがみえます。それは意図してこういう風に向けようというのとは少し違うのだけど、全体的な目線で見ると社会的意識と呼んでも良いかもしれないし、新しい価値観と言っても良いのかもしれませんが、そういうものがあって、その点では番組と広告は

討論 1:CM研究の 10年を概観する  99

Page 24: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

そんなに違わないのではないでしょうか。視聴者の経験としてはそれらを一体として見ていたわけなので、そういうやり方の研究もあるのではないかと考えているところです。関谷さんのコメントに関して、広告研究の足が速いというのは、本当にそうだなと思います。

学生の卒論などで、広告を扱いたいという人がいるのですが、学生の関心の変化を見ているだけでもおもしろいと思う。自分自身がそれをやろうとなるとなかなか難しいですが、10年単位で蓄積された研究を別の視点で眺めるというのは意味のあることだと思います。若い人の共通経験がないという点も同意します。授業ではテレビの話はなるべくしないよう

にしているのですが、学生が見ていることを前提にするのではなく、無理矢理見せて、授業を一つの共通経験の場所にしてしまう(笑)。そして、大学の時にこの先生にこの番組見せられたということを覚えておいてね、と言う(笑)。アーカイブがもっと一般の人や研究者に開かれていくと、どんどんいろんな形で活用される可能性があるのでしょう。

小川 わたしは時代劇映画の研究をしています。映画は王様メディアのような言われ方をしていますが、同じような問題を含んでいます。有名な作品ばかりが取り上げられ、そうではないものが相手にされない、そういうソフト化されていないフィルムをどうすれば見られるかという問題で、すごく苦労していました。ちょうど日文研で ACCアーカイブの仕事をしていた時には、世間に注目されたものばかりを見ていたわけですが、共同研究会で TCJの作品を全員で見学に行った時に、圧倒的にそちらのほうがおもしろいと感じたことがありました。おそらくテレビも同じで、先ほど番組ヒエラルキーがあるとおっしゃっていましたが、その下のほうにある番組が圧倒的に面白いはずです。けれども、それをどうすれば人の目に触れさせることができるか、研究のきっかけを与えるものにできるかを考える上では、アーカイブの重要性は今後も高まってくるでしょう。その一方で、特に石田先生がおっしゃっている、「日常生活の経験としての焦点化」あるい

は「テレビとCMをわけずに研究すること」については、データベースにしてしまうとどうしてもブツ切りになってしまいます。別にデータベースにアクセスしなくても、今のメディアの状況ではさまざまな動画サイトもあって、著作権の問題はおいておくとしても、CMないし番組がそこにアップロードされていて、しかも勝手に編集されていたりします。それを若い人たちが自由に見て、ニコニコ動画みたいにコメントを書き込んだり、新たな形で体験したりしています。そういった様々なメディアの急変も踏まえながら、研究のあり方を今後も考えていく必要があると思います。

君塚 今日ご紹介があったような研究が行っている一次資料の発掘・分析、それが研究者の大切な姿勢であることを大前提にした上で、一つ付け加えさせてください。この 10年間の成果をより大きな研究の流れに位置づけていくことがもしできるならば、その意義や次に何をすべきかが見えてくるでしょう。例えば、私は最近、文化史、特に「新しい文化史」といわれる

100  テレビ文化研究

Page 25: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

この 2、30年の動きに関心を持っています。これまでの歴史が政治史や思想史を中心に動いていたとすると、これは、社会史や文化史といった、大きな歴史の流れからこぼれてしまう人々の心性や想像力、感覚の歴史や、御上ではなく民衆の営みを発見していくような、これまでの歴史研究に対するある種の発想の大転換があったということだととらえています。イギリスの文化史家、ピーター・バークさんは、こうした新しい文化史のキーワードとして、実践、表象、物質文化、身体といった言葉を挙げています。そこでは、神学の歴史ではなく宗教の儀礼、書物の歴史ではなく読書の歴史、表象に関しては言うまでもないでしょうし、また物質文化では砂糖やチョコレート、洋服といったきわめて具体的なことを扱っていて、そういった新しい文化史のアプローチがすごくさかんになっていると指摘されています。今日ご紹介があったような研究は、そのつもりでされているかはわかりませんが、これをそ

こに位置づけてみてはどうでしょうか。この分野では 60年代にマクルーハンが広告表現について、多様な経験の領域を小さなものに凝縮しているということを言い始め、その頃からすでにこうした広告を図像や記号表現として読み解いていくことが行われてきて、その後の記号論などの流れにつながっていくのです。そういうことがもはや半世紀ほども行われてきた上に、今やアーカイブを作ってそれを系統的にやる世の中になってきている。そのように、こうした CM研究を新しい文化史のような新たな歴史研究の動きの中におい

てみると、先ほど石田さんは業界の膨大な研究に対して研究者としてがんばっているとおっしゃいましたが、じつは非常に肥沃で膨大な研究群が活発に流れを作っているのではないか、私自身はそう受け止めています。例えば、先ほどのキーワードの「実践」でいえば、広告は文字通り「advertising」で広告を打つ、家庭でテレビ番組とともに見る、そして物を買う、そういう実践の中の一つのトリガーでもあるし、「表象」ということなら、理想的な消費生活のプロトタイプといったものやさまざまなカルチャーが組み込まれています。「物質文化」の点では CMはいうまでもなく商品についての語りであり、商品の購入や使用に関わる習俗を扱うものです。このように、例えば最近登場してきているさまざまな新しい文化史研究といったものと照らし合わせてみても、CM研究はほかに引けを取らない肥沃な研究蓄積を作ってきたことがわかるのではないでしょうか。

関谷 番組とCMを分けずに分析すべしという石田先生の考えには同意します。もともと一社提供とか生 CMとかのように、番組とCMは渾然一体としたものであって、ある程度時間が経ってからそれらが分離されてきたものです。また最近、例えばステルスマーケティングとか、プロダクトプレイスメント的なやり方でまたそれらが混在化してきています。ある意味、研究の視点がメディア研究、マーケティング研究などの視点だったからそういう見方をしていただけであって、CMと番組が一体化していき、コンテンツとコマーシャルメッセージが融合してきた中では、多分違う研究手法が求められているのだと思います。パブリック・リレーションズ的な視点など、コンテンツを中心として渾然一体としたものを見ていく研究が新たに出

討論 1:CM研究の 10年を概観する  101

Page 26: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

てこないといけないと思うので、コンテンツの流れに合わせて研究も変えていかなくてはならないということだと感じました。もう一点、高野さんは名作に対する「B級」ということを強調されていましたが、B級なも

のの歴史というのはもちろん大事だと思うのですが、それは多分 CMの研究に限った話ではなくて、ある意味メディアすべてにおいて共通するのではないかと思います。自分は古本を集めるのが趣味なのですが、古本は重版がかかった、ベストセラーとしてたくさん売れた本ばかりが残ります。一方でマニアックな本というのは、部数が少ないのでなかなか出てこない。それを見つけるのが楽しみだったりします。研究でも、名著や古典といわれる版を重ねて、長年読まれてきた基本書、チャンピオンのものを取り上げて、学史になっていくのですから同じことが行われているのだと思います。一方で、B級のものだけを見ていくのが正しいのかというと、それはそのときどきの記録で

はあるものの、社会に対して大きな影響を与えてないという意味では、やはり B級は B級なわけで、いわば 2つの歴史があるということなのではないでしょうか。それらをどういう風に組み合わせて全体像を見ていくかが重要で、必ずしも B級だけが大事ということではないのかなと思います。ただ今の段階ではそれらをまとめていく方法論がないので、それらへの見方や考え方を示していくこともアーカイブの研究では重要だと思います。

高野 名作と B級とは後から決まっていくものなので、本当はわけてはいけないものです。便宜的に B級という言いかたをしていますが、でも B級の中にも各種あります。くだらない簡素な作りだけどおそらくみんなが見ていただろうというものと、誰も見てないだろうなというものがあったりして、難しいところがあります。一つ気になるのは、番組とCMでは保存の主体が違うことです。第三の領域とでも呼べるような両者が重なり合う部分があって、そこがすごく厄介です。例えば、番組とCMが融合したようなものの場合、それはスポンサーの宣伝とは限らなくて自分たちの宣伝なのです。自分たちの番組の宣伝とか、自分たちが協賛・主催しているイベントの宣伝とか、その辺が混じってくることがあって、それもまた番組とCMがごっちゃになっている事例です。放送のプロパガンダ性を考えるのならば、そうした事例も当然視野に入ってきます。番組とCMを融合すると第三の領域が浮かび上がってきて、また話がややこしくなります。保存主体が誰なのかもよくわかりません。そういうことには気をつけなければならない、見落としてはならないのかなと思います。

石田 B級作品と名作との違いは、特にわたしたちが作っているデータベースで問題化されてきました。例えば『The・CM』という宣伝会議が出している本があって、そこに日本のCM500選という一覧が載っています。萬年社がどんな会社なのか考える一つの手がかりとして、その 500選の中に萬年社のものがいくつ含まれているか数えてみたのですが、一つもありませんでした。そこからそういう会社なんだなってこともわかりますし、萬年社コレクショ

102  テレビ文化研究

Page 27: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

ンの作品というのはそういうものだということを、『The・CM』という本から見出すこともできます。名作と呼ばれているものは後世に残したいものなので、データベースやアーカイブに残りやすくて、10年や 20年後の人の目線で見ると、それが時代を代表するみたいなことになってしまうのですが、残りにくいものをいかに残していくかというのも、わたしたちの課題ではないのかと思います。残りにくいものをデータベースにすると、今度はそれが名作と同じように見えてしまうという問題があるのですが、それをどうやって残していくかというのが今日の話の共通点だと思います。君塚さんはバークのことをおっしゃましたが、たまたま今年の後期で『知識の社会史 2』を

読んでいます。その本の中で、業界団体の関心とか学会の関心によって知識が細分化していくという話があったと思いますが、それをいかに横断的に考えていくかがわたしたちの発想なのかなと思います。その中で、業界での研究があまりに強くてわたしたちの研究は相対的に弱いという話をしたのは、わたしの勉強不足もあるとは思いますが、自分たち自身の研究をへりくだって言う傾向があったかなと思います。でもそれだけではなくて、業界の人たちと話をしていると、彼らには制作なり現場なりの知識が豊富にあり、自分たちの言うことこそが正統性を帯びているという感覚を持っていること自体に興味があります。

会場発言者 ベンチャー企業をやっています。インターネットにあるあらゆるCMを 15万件くらい集めて、それを紹介するようなサービスです。話の中で CMが「面白い」とか「楽しむ」というようなキーワードが出てきたことが、とても面白いと思いました。CM自体が面白くないと、そもそも意味が無いんじゃないかと自分は考えています。CMは楽しいものであって、積極的に見に行かれるようなものでなければいけないんだという、転換点が来ているように個人的には思います。どうしてこのCMが面白かったのか、なぜこういうものが出てきたのかというようなところが浮き彫りになると、非常に面白い試みになるのではないでしょうか。それがビジネスになって、いろんな予算が付くようなプロジェクトになるのではないかと思います。

高野 ネットの時代になってからテレビは好感度の形成とか、印象を作っていくというような方面にまた戻ってきているという印象をわたしは抱いています。シリーズ CMなどが増えてきたのも、またその方向にテレビ CMが向かっているからかなと思います。そうなると、面白くなければ存在意義はないという風になるでしょう。90年代くらいに情報の認知や伝達などいろんなものを背負わされていた頃には、つまらないCMも結構あったと思います。しかし、ネットの時代になってからは、面白くないとテレビ CMを流す意味が無い状態になっているという点に同意します。そのことは、もはや現代と関係無い古い CMにどう新しい価値を見出して楽しむかということと、同様に考えられるのだろうなと思います。

討論 1:CM研究の 10年を概観する  103

Page 28: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

京都精華大・立命館データベースについて〈要旨〉桐山吉生(京都精華大学)

1.京都精華大学(SEIKAコレクション)概要京都精華大学が所管するテレビ CMデータベースは、2001年に株式会社テイ・シー・ジ

ェイから教育研究用に VHSテープで提供されたCM作品集をベースに、その後、同社の CM作品をはじめ、関西アニメ史研究プロジェクトの聞取調査で判明したさがスタジオ作品、立命館大学に寄贈されたハイスピリット社作品、TCJに保管されていたシバプロダクション作品、JAC定例試写会上映作品等、現在約 20,000レコードを搭載するに至っている。2.SEIKAコレクションの活用本データベースは、2003年に国際日本文化研究センターで開催された共同研究会「コマ

ーシャル映像にみる物質文化と情報文化」での報告を皮切りに、この共同研究会を継承し、2007年より京都精華大学で立ち上げた〈テレビ CM研究プロジェクト〉で研究資源として活用され、その研究成果は『テレビ・コマーシャルの考古学─昭和 30年代のメディアと文化』(2010、世界思想社)として公刊した。また、2012年から立ち上げた〈テレビ文化アーカイブズ研究プロジェクト〉(代表 /大阪

市立大学教授 石田佐恵子)においてもその研究資源の一として活用している。これと併行して、海外での研究発表や国内でのメディア関連シンポジウム、その他多様な

場面で公開上映を行い、2015年には 6月 28日~同年 8月 31日まで新国立美術館において開催された「ニッポンのマンガ*アニメ*ゲーム」(Manga* Anime*Games from Japan)において、1954~ 1961年までの 30作品を常設展示ならびに講演資料として上映、多くの在京学生や企業人の目にするところとなった。3.CMデータベース活用の困難テレビ CMの二次使用に関しては、多岐にわたる著作権・著作隣接権、肖像権等の制約の

もと、ACC((社 )全日本シーエム放送連盟)における 1992年合意に基づき、広告主・広告代理店・制作会社の許諾を要件として公開上映および著作物への掲載を実施している。一方、広告主の社名変更や当該CM商品の製造・販売権の譲渡、広告代理店・制作会社の

不詳や倒産により、三者許諾の要件が満たせないなどの困難を伴うが、わが国においては未だフェアユースの考え方も導入されない中、公開・公刊に関しては、当面は三者合意に沿って対応することを余儀なくされるであろう。4.CMデータベース=SEIKAコレクションの特長本データベースの最大の特長は、メタデータのほかCM中のナレーション、テロップ、コマ

ソン等の言語に属性を付し、テキスト化することで自由語検索を可能にした点にある。本研究は、CMの性質を実証的に明らかにすることを目的としたものであるが、その成果に期待したい。また、2015年に共同利用・共同研究拠点である立命館大学アート・リサーチ・センター(ARC)

にデータを寄託。ARCの開発した TVCM閲覧システムによって、コンテント&ユーザーマネージメント概念を切り分け、ユーザー利用権限レベルを明確にすることによって、データの付加・修正・研究者コメント等の追記を可能にし、つねに生成し続けるデータベースを実現した。

104  テレビ文化研究

Page 29: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

アド・ミュージアム東京のデータベース・リニューアルについて〈要旨〉馬場 栄一(吉田秀雄記念事業財団)

1.吉田秀雄記念事業財団と「アド・ミュージアム東京」について公益財団法人 吉田秀雄記念事業財団は1964年(株)電通によって設立された団体です。広

告・コミュニケーション及びマーケティング分野での研究振興や広告文化の発展を事業目的として活動しています。事業の一環として、2002年に東京汐留の電通本社ビル内に「アド・ミュージアム東京」を開設しその運営を行っています。2.アド・ミュージアム東京の収蔵資料についてアド・ミュージアム東京は、研究者のみならず、広く一般の方々を対象に、広告を知り、考え、

楽しんでいただくことを目的に開設された入場無料の施設です。これまで収集してきた広告関連資料は、江戸時代から現代にまで亘り、錦絵、引き札、看板からチラシ、ポスター、新聞・雑誌広告、テレビCMなどおおよそ20万点にのぼります。アド・ミュージアム東京では、この一部を展示するとともに、施設内に設けている広告図書館で資料についてのレファレンスサービスを行っています。3.データベース・リニューアル(新アーカイブ)についてアド・ミュージアム東京は開設以来13年が経過し、現在のデータベースシステムを更新する

必要が出てきています。また現在のデータベースシステムは、検索性に問題があり、手馴れた担当者でないと検索が難しく、研究者の方々に自由に利用してもらうことができにくいシステムとなっていました。そこで、2014年より3ヵ年計画で、新しいデータベース(新アーカイブ)システムの構築を進

めています。この新アーカイブシステムは、検索性を大幅に向上させ、研究者や教育者の方々が自分で操

作し、研究資料や教育資料として活用していただくことができるシステムを目指しています。また、実際に研究利用や教育利用をしていただく中で、さらにシステムを充実させていくことを考えています。平成28年度には、このシステムのパイロット版を使用して、実験的に大学で教育利用を行うプロジェクトも進めています。この実験を踏まえ、将来的には研究利用や教育利用に広く活用していただきたいと考えています。今回のシンポジウムでは、現在進行中のこの新アーカイブシステムの概要についてご紹介いたします。

   105

Page 30: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

テレビCM個人コレクションのデータベースとその研究利用について〈要旨〉大石 真澄(総合研究大学院大学)

テレビ CM研究のこの 10年を振り返ったとき、常に中心にあった大きな課題の一つはデータベースをいかに考えるか、にあるものと思われる。すなわち、その整備によって資料にアクセスしやすくなることがもたらす分析可能性の広がりを把握することと、データベースに収められるゆえに、資料が新たにまとう性質をいかに研究の上で考え合わせていくかという二つの点を含んだ課題である。日文研の共同研究会以降、さまざまな年代の制作物を含む、さまざまな性質をもったテレ

ビ CMのデータベースが研究運用に資されるようになった。これらとは別に、発表者は 2000年頃から、家庭用録画機を用いてテレビ番組を録画したテープからテレビ CMの収集を行ってきた。収集活動の中では発表者以外の個人コレクションを目にする機会も多数あり、この経験を通じて発表者はテレビ CMの保存と研究について考えてきた。本発表は、発表者が行ってきた収集・保存活動とその資料を用いた分析から、上記の課題に対して研究の視点を提供することを目的とする。いかなるデータベースに所蔵されているテレビ CMであっても、変わらずに備わっている

特性がある。それは「作品」ではない「放送された制作物」としての性質である。この特性ゆえに、テレビ CMは意図して残されなかったため、資料の量的・質的な全体像が見えないことはこれまでにもたびたび論じられてきた。こうした中で存在するテレビ CMのさまざまなデータベースは、それぞれに固有の「資料

の全体性」を有しているといえる。SEIKAコレクションであれば、TCJが制作したものの 8割、日文研データベースであれば ACC賞の受賞作品という具合である。一方で、発表者のコレクションにはそのような意味での全体性が存在しない。しかし、他のデータベースにはない「放送コンテクスト情報の付帯」ないし「1970~ 80年代の制作物」という性質がある。これらはいかにして接続させて分析することが可能になるのだろうか。発表者は、テレビ CMの研究・分析には「そこにあるデータから何がわかるか」という視

点が必要になると考えている。それは、すでにある別の研究目的から設定される仮説の構築と検証、というプロセスにおいて用いることではない。いわば、他の研究のリソースとして用いるのではなく、それ自体をトピックにすべきという視点である。これまでのテレビ CM研究もおおむねこの方針で行われ、それによって特に 1950~ 60年

代のテレビ CMの性質はかなり明らかになってきたと考えられるだろう。しかし、発表者が目指すのは、テレビ CMを見ることで気付くそのテレビ CMが含まれる文化やその実践に関する情報の記述という、より汎用性を持った研究の姿である。日常生活や文化に関しての情報をふんだんに含むテレビ CMを、妥当性を持たせつつ分析資料とすることの一つの手立てを考察したいと考えている。それは、「テレビ CMは時代の鑑」あるいは、文化を反映している、という良く言われるところの常套句に対して、単純反映論を超えて研究・分析として妥当性を持たせようという試みでもある。

106  テレビ文化研究

Page 31: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

初期テレビCMアニメーションの教育利用の一例―「動きをつくる」手法を、どう現代に伝えるか〈要旨〉

津堅 信之(京都精華大学)

1.「動きを作る」とは、どういうことか。京都精華大学アニメーション学科では、主に手描きによる伝統的な作画法を中心に、演出、C

G、絵画造形、ストップモーション(人形アニメーションなど)、そして音響まで、アニメーション制作に関わる多様な教育を実施している。その中で演者は、理論、歴史などの講義を担当している。アニメーターが絵を動かそうとするとき、動きを再現する、つまり人間など動く対象物の動き

をリアルに描くのではなく、より印象深く見えるよう「動きを作る」ことが求められる。演者は講義で、この「動きを作る」ことが日本のアニメーション史においてどのように実践されてきたのかを解説する素材として、1950~60年代初期のテレビCMアニメーションを使用している。初期テレビCMアニメーションにおける作画(アニメート)には、動きを均等に分割し描画す

る手法が少なくないが、こうした作画法では、動きのリズム感や躍動感が得られにくい。これは、アニメーターが少なかった当時、アニメーション制作経験の浅いスタッフが関わったことが、主な原因である。一方、「アンクルトリス」で知られるサントリーのCM(柳原良平)や、のどあめ「VICKS」のCM(京都・さがスタジオ)では、作画された絵の枚数(動画枚数)を少なくしつつ、作画のリズム感を重視し、印象的な動画となっている。こうした初期CMアニメーションの実例により、「絵をたくさん描けば緻密で質の高いアニメ

が仕上がる」という考え方が誤解であり、「絵の枚数よりも絵の動きの質やリズム感」を重視すべきであることを学生に理解させるための、わかりやすい教材となっている。2.時代性への着眼アニメーションの歴史を講じる際、作品や作家の経年的な事象や、過去の特定の作品に関す

る今日的な評価と制作当時の評価とを説明することになりがちだが、これでは不十分である。演者は、3・4年生向けの講義「作家研究」において、手塚治虫と宮崎駿をテーマとして扱い

つつ、彼らの作品それ自体に対する評価にはあまり言及せず、彼らが生きてきた時代、また生み出された作品の時代に着目することを重視している。ただし、京都精華大学の学生らは、現代のアニメーションや漫画には興味を持っていても、過去の作品に興味を持つ度合いには差があり、さらには映画、文学、音楽、思想、哲学などの領域に話題を広げる際には工夫が必要となる。例えば、手塚治虫がデビュー作「マアチャンの日記帳」を発表した1946~47年には、『魔法の

ペン』『ムクの木の話』といった、戦争が終わり自由で民主的な時代が到来したことを強調するGHQの意図が反映された、一種のプロパガンダとしての教育用アニメーションが制作されていた。これらの作品を上映して時代性を認識しつつ、1946年に映画監督の伊丹万作が雑誌「映画春秋」に発表した随筆「戦争責任者の問題」を取り上げ、異なる視点を提示する、といったものである。そして、初期テレビCMアニメーションは、宮崎駿がアニメーションに興味を持ち始めた1950

年代末という時代を考える中で取り上げ、同時代のテレビというメディアの位置づけ、アニメーションという映画技法がCMに応用されることの意味を考察するための素材としている。

   107

Page 32: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

「関西CM」とは何か〈要旨〉難波 功士(関西学院大学)

CMのデータベースが構築され、多くの作品がよみがえったことにより、広告研究にどのような新たな展開がもたらされうるのだろうか。本報告では、CMデータベースのもたらす可能性の一つとして、関西広告史研究の発展・深化について考えてみたい。では、まず「関西 CM」とは何か。その定義は多様にありうるだろうが、ここでは関西に

拠点をおく制作者たちが企画を立て、制作をコントロールしたCMとしておく。当然のことながら関西 CMの多くは、関西を本拠とする広告主のものであり、関西拠点の広告代理店ないしはナショナルな代理店の関西ブランチが窓口となり、かつそのオンエアの範囲は関西圏に限られることも多い。しかしここでは、広告主(とくにその宣伝部)や広告代理店の拠点、放送エリアなどではなく、あくまでも制作者たちのベースが関西にあるか否かを、「関西 CM」のメルクマールとしておく。もちろん、ACC賞は基本的にナショナルなCMのコンテストであり(地方部門はありつつ

も)、TCJは東京に拠点をおくプロダクションである。だが、それらのデータベース中には多くの「関西 CM」を含むし、さがスタジオやハイスピリットの作品は当然のことながら「関西CM」である。また、大阪出自の広告代理店である萬年社の主要なクライアントは、日清食品・シャープ・象印マホービン・京阪電鉄などであり、萬年社コレクション中の映像データの多くは、それが萬年社制作のものでなかった場合でも、「関西 CM」と呼びうるものであった。そうした「関西 CM」の歴史をたどってみたとき、まず目を引くのは、1950年代から 60

年代にかけての隆盛である。その背景としては、1950~ 60年代の関西の広告主たちの勢いがあり、また当時の関西民放局の好調がある。一方、1970年代以降の低調に関して、その要因として挙げられるのは、テレビ局のネットワ

ーク化と東京キー局への機能集中、それにともなう出演者・制作者たちの東京移住、産業構造の変化にともなう関西の広告主の失速などである。繊維メーカーが一般消費財の供給者ではなくなり、薬品・化粧品広告の中心は東京に移り(トイレタリー関連は相対的に健闘し続けたものの)、食品メーカーのうちナショナルないしグローバルな企業となったものは拠点を東京に移し、唯一 20世紀いっぱいは存在感をみせていた家電も、今世紀には業績不振にあえいでいる。そうした流れの中で必然的に、1950~60年代にはナショナルな存在であった「関西CM」は、

1970年代以降ローカルなものとなり、ローカルであるがゆえにその表現の特異性が際立っていった。その特徴は、「低予算・高インパクト・商品(名)中心・お笑い志向」とまとめられよう。そして、一度確定された「関西(らしい)CM」のトーン&マナーは、それが期待されたこともあって、自己模倣的に再生産されてきたようにも見うけられる。以上のような関西 CM史の分析・記述は、関西の広告制作会社や広告代理店にもとづくデ

ータベースが充実していくことで、今後より精緻なものとなりうるであろう。

108  テレビ文化研究

Page 33: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

CM情報の蓄積と利用を考える司会:谷川建司(早稲田大学)

コメンテーター:是永論(立教大学)柄本三代子(東京国際大学)

谷川 わたしの専門は映画研究で、その関心から 10年前に山田先生の研究会に参加させてもらい、外タレ CMの研究をしました。自分の立場は、今の難波さんもそうですが、CMそのものを研究するというよりは、CMを使ってどういう研究ができるかに関心があります。自分なりにこの発表を聞いたまとめを述べます。まずはデータベースについて、桐山先生の

ご発表は、CMのデータベースを研究利用で公開していく上での、許諾をとったりしていく手続きがいかに大変かということでしたり、学術利用とはいえまだまだフェアユースの考え方も理解されないような現状があるということが印象に残りました。馬場さんのご発表の中では、いかにユーザーフレンドリーな、研究者にとって使い勝手のいいデータベースにしていくのか、そのためには研究者自身がそこに加わる形で、ボックスという話がありましたが、そういう形でデータベース自体を改良していく努力が必要だろうということがわかりました。大石さんのご発表については、自分が一番印象に残っているのは ACC賞を受賞した CMを集めた日文研のわれわれが 10年前に使ったデータベース、それはやはり賞を取った「後世に残る」有名なCMでしかなく、それに対して例えば精華大や立命館にある TCJのデータベースでは、特定の制作会社のものをごそっとまとめているので、後世に残らないようなものもある。ただいずれにしても、それぞれのデータベースにはその属性というか、性格があると。それで、大石さんがやっているような個人で録画したものを集めたものには、そこにしかないCMもある、それを横断的に他のデータベースと統合するような串刺し検索をするのは、なかなか難しいという話だったのかなと思います。他の研究のリソースとして用いていくことは難しいという、研究者としての実感があるということだったと思います。最後のお二人、津堅さんの場合は、教育において、アニメを教える上での教材として CMを使うお話でした。この中で自分が一番印象に残ったのは、精華大学のコレクションが、社会学やメディア研究などでは利用されているけれども、肝心のアニメ研究という分野ではまだまだほとんど利用されていないという話でした。それは結局 CMそのものを分析するような研究がまだまだ足りないが、CMをある分野の研究の材料とすることは進んでいるよ、という話だと理解しました。最後の難波さんは、関西らしさというものがどう世の中で理解されているのかということに対して、CMを材料に使うという、自分の立ち位置ともわりと近いアプローチだったと思います。

是永 わたしは情報行動論やエスノメソドロジー、社会学の立場からメディアの利用を人々が

討 論2 抄録

討論 2:CM情報の蓄積と利用を考える  109

Page 34: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

社会の中でどのようにやっているのかを考えてきました。その一環として広告の研究をする機会も少しありました。今日、データベースの話をしている中でぜひご紹介したいのは、わたし自身がデータベースを使うことによって広告研究に入っていったことです。わたし自身は広告のバックグラウンドはなかったのですが、一橋大学の安川一先生が科研

費の「映像社会学に向けて」というプロジェクトの中で、CMデータベースをお作りになりました。これを学会で見て非常におもしろく思って、これを使って何かできないのかと思い……(このデータベースを見せる)。今これは適当なものを見せています。これは 1998年に 1週間の間に放映された CMを全部記録して、それがどういうCMだったのかを並べたものです。全部で数千個あるのですが、重複しているので実質の数は、おそらく数百本だったように記憶しています。これは科研費でやっているので完全な意味で個人的なものではないのですが、わたしは頼み込んでデータをいただきました。わたしはたまたま安川先生のものしか知りませんが、こういう埋もれているものをネットワーク化することが今日の話の中の重要なポイントでもあるし、その後さまざまなデータベースが隆盛してきたことの意義を、自分の研究のきっかけとともに紹介させていただきました。ここからの話は、今日の発表で強調されていた CMの「楽しさ」とか「面白さ」に対する

コメントというにはあまり楽しくない話になってしまうのですが、最近ゼミなどで学生を指導する中で思っているのは、ネットの中でかなりジェンダーセンシティブな状況が出てきていて、それを背景としたメディアの認識なり批判を学生も行いつつあります。この事例そのものはあまり良くないと思うのですが、ルミネとかブレンディとかそういうネット上の広告がシェアされてバッシングを受けることがありましたし、自治体がアニメのキャラクターを使ってこれも女性表現として問題になったことがありました。ここから単純に連想すれば、今後こういうデータベースが一般利用されることにおいて、表現批判の可能性があることに関して、わたしは昨今の風潮を思うに気がかりな点があります。手塚治虫さんなんかも、その表現が問題とされたことがありました。そういうことに関してよくいわれるのは「当時の社会通念に照らして」公開をしている、という言い方です。これは江原由美子さんというフェミニズムの社会学者の研究で、「マス・コミュニケーショ

ン研究」に載っていたものなのですが、おやっと思ったことがあるので改めて紹介します。こういうCMをみなさんご記憶だと思います(CM流す:「わたし作る人、ぼく食べる人」のハウスシャンメンの CM)。これは非常に有名なCMで、なぜ有名になったかというと、当時盛んだった女性運動の方々が、女性が男性に料理をしてあげるのは当然だという、性別分業の固定化につながるとして批判運動を繰り広げたのです。これは 75年のことなので、もう 40年近く前になります。この時、実は大きなバックラッシュが起きたのですが、その時に出てきたこの運動に対する意見が、「冗談に対してムキになっている」というようなものが多数を占めていて、それらは「性別分業を肯定しているものではない」ということでした。なぜそういう批判に対して反発が起きていたかといえば、それは「ふさわしくない理解なのだ」というこ

110  テレビ文化研究

Page 35: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

とでした。つまりCMは商品宣伝をするものなのだから、宣伝効果としての理解ならこれはありうるだろうとか、あるいは遊びとして冗談で言っているものを本気で理解しているとか、そういう反発がありました。当時の新聞にも「差別CM」ということでやめましたとでているのですが(当時の新聞記事を見せる)、実は識者の意見では、弁護士の方なんかは人権的なことを書いているのですが、漫画家の人はこれはいい宣伝効果になったと考えればいいんじゃないかとか、あるいは評論家は茶の間の大多数の主婦はそういうことは考えていないのだからまともに取り合うと冗談ひとつ言えなくなる、といった批判をしていました。したがって、当時の通念を前提にすることは問題無いが、ただそういったときに当時の価

値観とか通念がこのようにすべて差別的なものだったと考えてしまうと、問題があるように思います。今日の大石さんの発表に、「そのようなものとして理解する」ということの中に、これは CMなんだと理解することがどのようになされてきたのかの話がありました。それに関連して、難波先生が以前アーヴィング・ゴッフマンのフレイム概念を紹介して、現実的なことを描いているのだけど、あくまで CMというフレイムの中で作っている演技なんだ、お芝居なんだということをどう考えるかという論文を書かれています。こういうことを考えないで今の視点から断罪されてしまうと、ほとんど表現などできなくなってしまうのではないかと、わたしは CM制作者ではないのですが勝手に危惧をしてしまいます。CMを収集・公開すると、何らかの現代にそぐわないことが出て来ると思いますが、そういったものに対してどういう風に考えるべきなのかを、あまり面白くない話かもしれないが、それぞれうかがわせていただきたいです。わたし自身にははっきりした答えはないのですが、ただ受け手・制作者それぞれの理解もあるし、一方では、そういう差別的な表現を批判するメディアリテラシーが大切とか言われると、広告はもう見ない方がいい、広告なんかいらないという風に、子どもなんかはすぐ思ってしまう。そうならないためにも、どういう風に「理解」を取り扱っていくかが大事であって、解釈的なアプローチの 2000年以降の展開をどう取り込んでデータベースの活用とつなげるのか、というのも一つの論点になるかなと思いました。

大石 わたしはどう対応しているかというと、当時の人の理解がどうであったかということを自分が身に付ける、そしてそれを記述するという形で対応しているというのが端的なお答えになります。

津堅 わたしはアニメーションとか映画の歴史を研究しているので、古い作品を扱うことがほとんどです。それを見せるのは大学の教室がほとんどなのですが、今だと絶対やらないような表現というのがあります。今の質問にあった現在の通念にそぐわないものは、もう本当にたくさんあるのですが、現代の時代にそぐわなくても 40年前 60年前にはあったことを学生は今見ています。昔はこうだったから我慢して見てくださいとか、こうだったんですと説明するだけではちょっと足りないというか、それではつまらない気がします。さっきわたしの発表でも

討論 2:CM情報の蓄積と利用を考える  111

Page 36: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

あったように、わたしの学生はこれから映像を作る人を目指しています。40年前 60年前に作られた CMなりアニメーションなり映画なりを今見たときに、それはある種、時代感とかそういう言葉を使うことができるかもしれないが、「どう思ったか」ということがむしろ重要です。そうなるとコメントの 3つ目にあるリテラシー、いわゆる受け取り能力というか受け手としての立場を説いていく方が大切かなと思います。今でも時々あんなけしからんアニメがあるからこういう事件が起きたとかいうことがあります。マンガやアニメの場面を真似したような事件が起きると。これに対してどう答えるかっていうのは、専門領域が何かに関わりなく、専門家とかコメンテーターと呼ばれている人たちの、世間から突きつけられているある種の役割だと思います。教育の場面で言うと、むしろこういう古いもの、現代の通念にそぐわない映像なりコンテンツを見せているときに、学生たちが感じたことをどう自分たちが作り手として大衆文化を創り出すか、不特定多数のお客さんに見せるという立場になるわけですから、そこの発想にどうつなげていくかを重視して教えるという考え方になってきます。

難波 ご存じの方はいると思いますが、2013年にブレンディというコーヒー関連商品の CMに女子高生が出て来て、それは女子高生の姿をしているんだけれど鼻輪をしている、人間としてあらわれているけど牛だという設定でした。その女の子はいいお乳を出すためにがんばっていて、卒業式の時にブレンディの工場に就職先が決まって万々歳という話でした。鼻輪をしていて牛なんだけど、女子高生の姿をしている人にいいお乳を出しなさいとはどうなのかとか、胸をアップにするような映し方はどうなのかとかで炎上した事例です。最初 60秒くらいのものがネットに置かれたときに、別にそんな反応もなくそれは終わったのですが、アジアの広告賞で金賞とか取ってしまったことによって、フェスのHPに行けば誰でも見られるような状態になったときから、あれはおかしいんじゃないかという声が広がり始めました。最初に世の中に出たときの文脈から切り離されたことによって、しかもこれはいい作品なんだよって言っている人たちの中に置かれたことによって、あれが逆に見えてきたりだとか、ツッコミどころが見えてきたとかします。炎上すべき対象なんだよって文脈に置かれると、みんなそう見えてしまう。そういう、面白いと言ってはいけないかもしれないが、同じものもジェンダーバイアスのある表現として、炎上の対象にしていいんだよと思って見たときと、アジアの広告賞で賞を取ったよくできた作品なんだと思って見るときとで、人の言い方が全然違うのか、観点が違うとそう見えるという話なのか、そこがものすごく面白い現象だと思いました。現代に残っているということは、現代の文脈で見られることを想定しながら、それは公開されねばならないということです。注釈を付ければいいのかという話もあると思うし、社会学者としてみれば、なぜ今、過去ではこうで現代ではこうとらえられるのか、それを見る面白い事例くらいにして、もちろん公開のやり方に対してはセンシティブでなければならないと思いますが、その時代の限定付きなんだけれど、こういう表現があったということをみんな知りましょうという形で公開されるべきかなあとは思っています。

112  テレビ文化研究

Page 37: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

柄本 先ほど山田先生からご紹介いただいたように、『文化としてのテレビ・コマーシャル』で執筆させていただきました。今日みなさんのお話を聞いて、たくさんの気づきや驚きがありました。馬場さんが収集基準のことをお話になっておられましたが、これもまた今日の驚きに関連しています。その収集基準によっては、排除されたものがあったかもしれないという気づきは他の方のご報告にも関連します。というのは、いろいろな CMデータベースを今まで見せていただきましたが、現在生きているわたしたちが、データベースによって過去を知ることができるというのはあたりまえだし、そんなことは CM以外のデータによっても可能なことではあります、しかし、わたしが驚きと言ったのは、高野さんが出してくださったアスベストのCMのことなのですが、幸せな家庭像のなかにアスベストが埋め込まれているという 1969年ホームマットのコマーシャルのことで、あれを見せていただいただけでも京都に来た甲斐があったというくらい驚きました。アスベストが CMになるというのは現在ではとても考えられません。アスベストが時代迎合的な、ある意味先進的なものであるということで CMになっていたのですが、それが社会的にいかに受容されていたのかという問題関心が発掘される可能性があると思いました。わたしは健康リスク、環境リスク、といったものを研究テーマにして、その関心のもとに CMを見たり、テレビ番組、ニュース、といったものを分析対象にしています。幸福な家庭像の中にアスベストが埋め込まれているというのは、CM以外の資料ではなかなか得られない視点であったということは確実に言えます。それで、津堅さんの方から学生が CMについて面白いという以上の応用可能性があるのかをおっしゃられていましたが、CMは応用可能性に富んでいる素材だということを、わたしは今日あらためて確認しました。ではそもそも、CMというのはどういう性質を有するデータなのでしょうか。これは午前中

の石田先生の報告とも関わってくるところなのですが、CM研究とテレビ番組研究との間隙についてお話をしていただいて、それが面白かったのですが、これらを混ぜて分析対象とすることの重要性については全くわたしも同意します。一方で CMというのは、ときどき笑いが起こり、面白く、楽しめる、和やかな気持ちで見られるものです。ところがテレビ番組の中にはとても笑えない、とても楽しめないものもあります。話題にしにくいものも、話題にしやすいものもあります。CMは講義でわたしも使うことがありますが、見せると学生は大体起きます。ぱっと起きて一生懸命見ています。終わった途端にまた寝るような感じなのです。関谷先生が映像の持つ魅力とコメントされていましたが、とはいえドキュメンタリーなどでどよーんとした感じのものだとまた学生が寝ちゃったりするようなものもあります。要は、CMとそうでないものの間には、なんらかの質的な相違点があるだろうということです。質的相違点を見ると、CMってそもそも何なのかということがよりクリアになります。CM

というのは、いわずもがなですが、当該時代状況下において非常にイデオロギー補完的というか、明確な目的、つまり販売や購買の促進とか、経済成長への寄与といったこととダイレクトに、結びついており、これは高野さんが見せて下さった日経新聞のコマーシャルなんかでも現れていたように、そういうところから作られている部分があります。つまり、非常に先進的

討論 2:CM情報の蓄積と利用を考える  113

Page 38: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

だったり革新的であったりするかもしれないけれど、それはあくまでも時代に迎合してできたものであるという、その枠の中での先進性であり、革新性であるということです。見せたいものでもあり、わたしたちが見たいものでもある。未来が描かれるとするならば、それは明るいし、ポップカルチャーの一部に位置づけて分析可能なものになるでしょう。しかしテレビ番組の中には、ドキュメンタリーがあり、いろんなものを暴露する機能もあり、反権力であったり、社会批判、そういった機能があるものもあります。あるいは、最近のメディアはさっぱりですが、第 4の権力であることに自覚的な番組制作者もいます。具体的に言うと、最近お会いしたNHKの社会部の記者さんだった 80歳のかたで、彼が言うにはNHKの名刺さえあればどんな権力者にも会いにいけたと。とても精力的な取材を水俣に関してされていた方です。ただ、ここで一つだけ例外を見つけたのですが、日文研のデータベースをさわらせていただいていたときに、70年代の生命保険の CMでイタイイタイ病とか光化学スモッグとか、車の排気ガスとかそういうものをネタにしたテレビ CMがありました。ただそれは、これくらいの状況だからリスクに備えましょうという、大枠においてCMの例から漏れるということでもなかったのですが、そういうものもありました。ここから、高野先生、石田先生の話から午後の話につなげていきます。まず高野さんのお

っしゃられていた「平凡作」の重要性について指摘したいと思います。分析していていろいろなテレビ番組とかニュースとかドキュメンタリーとか見ていても、面白いのはデイリーのくだらないバラエティ番組です。それはさっき言ったように、健康リスク、科学リスク、環境リスクを考えるときには、当然それは科学というものと深く関わってくるものですが、なんらかの専門家が出てきて科学的に真面目にやっているはずのものなのですが、実はよくよく視聴していると論理的に破綻していたり、めちゃくちゃでいい加減だったりします。特にバラエティ番組だと幅広いオーディエンスの記憶に残るし、日常の行動選択にかかわる知識のストックに影響を与えているし、当然行動に影響を与えもします。さっき論理的破綻と言いましたが、しかし最後にはうまくまとまっています。実際にはニュースやドキュメンタリーにも破綻はありますが、バラエティ番組はその比ではありません。いわゆる「平凡作」に対する資料的価値が一般的に軽視されていることは、CMに限らずバラエティ番組に関しても言えるでしょう。資料的価値が軽視されているという話と午後の話はつながっていきます。その前に、石田先生は番組研究のヒエラルキーについておっしゃられていました。これは

一方で、特定の番組について重要だと考えられているいうことでもあります。例えば「Nスペ」などはヒエラルキーの高いところにありますが、これは実はわたしが先ほども言ったように、くだらない番組がいかに重要かというのが重々わかっていても、それを研究対象として扱うときには、個人でやっている分には、大石さんがやっていたみたいに個人コレクションに頼っていかざるを得ないところがあって、「Nスペ」は非常にうまいこと残っていたりするので、ヒエラルキーとアクセスの難易度が比例しているのではないかということがあります。それと高野さんがおっしゃっていた、楽しむためのアーカイブを作っていくということと、

114  テレビ文化研究

Page 39: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

研究者向けのそれが両立するのかということと話はつながっていきます。研究開始前の段階でアーカイブというものはすでに一部研究者を排除しているのではないかと思うのです。アーカイブのもつ公共性に対する認識というのが、今日いらしている関係者のことではないのですが、非常に低いんじゃないのかと思います。学会でもいろんなアーカイブの報告はあるのですが、「このようにこんなものを集めてます」とかそういうことでアピールして、「すごい!」でおしまい?みたいな感じです。それは資金源による制約があり、これこれからお金が出ているからとか、これを提供している人はこういう人たちだからとかということもあるでしょうし、しょうがないとは思うのですが。あと過渡期なのかなとも思うのは、一回きれいに整備してからお見せしますねということなのかな、とも理解しています。とにかく、何でもかんでも同価値のものとして残すことが非常に大事だというのは、何回言

ってもいい足りないことだと思います。この点に関して馬場さんが収集基準とおっしゃっていたのが、非常にわたしは気になっています。収集基準を用いることによって、資料の価値が低下していく可能性があるということは、自覚しておく必要があると思います。しかし、一方で何でも入る BOXということもおっしゃっていたので、本当に何でもはいるんですねみたいなことをちょっとうかがってみたいと思っていました。大石さんのコレクションは、すべてのCMを抜き出しているとおっしゃっていて、偏りを減じていくという意味で、大石さんご本人もおっしゃっていましたが、データベースを架橋していくということは、非常に重要になってくると考えます。馬場さんはまたタグ付けのこともおっしゃっていて、桐山さんもまたテキスト化する際のタ

グ凡例ということをおっしゃっていましたが、このタグ付けとかタグ凡例というのは、キーワード、着眼点と言ってもいいと思いますが、アーカイブに関する知識のストック、つまりメタアーカイブを作っていくと、そういうことになるんだろうとわたしは理解しました。その時に、これも馬場さんがおっしゃっていましたが、教育者・研究者による BOX作成のような考え方が重要になってくるだろうと思います。メタアーカイブという観点を充実させていくためには、やはりできるだけ多くの研究者や非研究者に、けちけちしないでさわらせていくことが非常に重要だと思います。

CMデータベースの活用の困難さに関しては、桐山さんもおっしゃっていました。それから馬場さんもCMの使用・利用にあたって権利の問題、法的処理・業界処理、いろんなことがあるとおっしゃっていました。アーカイブにかぎらず、自分のコレクションも含めて論文や書籍を刊行する際に、そういう目にあった方たちがたくさんいらっしゃると思います。『文化としてのテレビ・コマーシャル』を書くときも、これはダメあれはダメというのももちろんありました。それから、最近でもある本を出したときに、最初は研究プロジェクトの趣旨としてはたくさんコマ落とししたのを使いましょうねとか言っていたのに、本ができるときにはあれもダメこれもダメっていう感じになって、なかなか使えなかったことがあります。しかし、使っているか使っていないか、当然動画は紙に載せられないのですが、それがあるかないかという

討論 2:CM情報の蓄積と利用を考える  115

Page 40: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

のは、読む人の関心を引きつけるか引きつけないかという意味で重要だと思います。それだけでなく、研究の社会的貢献可能性という意味でも、クリティカルにこうして読むことができるんだということを世にうったえ、なるほど、こういう読み方もあるんだと理解をうながす意味でも、コマ落としが使えないというのは損失であると思います。しかし、今言ったようにCMを作っている人からしてみたら、文句言われるばかりできっと何のメリットもないと思われるでしょう。ただし、これは言いすぎかも知れませんが、このままでいくと、そうじゃないとおっしゃる方もいるだろうし、わたしもそうじゃないと思いたいので自戒をこめて言うのですが、研究者のおもちゃのままで下手したら終わってしまうのではないでしょうか。最後の難波先生の関西 CMに関しては、わたしはその「外側」の方が気になりました。つ

まり「非関西性」といいますか、「関西 CM」とおっしゃった場合、それは全体の、例えば量的なことでもいいのですが、そんなことはきっちりカウントできないだろうなというのはわかるのですが、どれくらいあるとお考えなのか。あるいは「特異性」ということをおっしゃっていましたが、確かに目立つのではありますが、CM全体で見たときに「関西性」と「非関西性」とはきっちり分けられると考えておられるのかどうなのか、といったところをおたずねしてみたいです。

難波 関西に拠点を置くクリエーターが作ったものを関西 CMと定義しようと自分で言っておきながら、実態としての関西 CMという話と、世間で一般に関西っぽいよねと思われていることを、ちゃんと切り分けてしゃべらなかったことを反省しているところです。関西のクリエーターが直接タッチしているCMが全体のどのくらいを占めているのかは、オンエアされる地域によって全然違うとは思いますが、関西にいる限りでは 10~ 20%くらい、関西に関係無い地域にいる人にとってみればそこまではいかないでしょうから、関西のクリエーターたちが作っていた CMを目にする機会というのは、だいたいで恐縮ですが、東京では 5%くらいかなと思います。昔はもう少し比率が違ったはずなのに、というのが言いたいことですし、キー局・準キー局という序列の中で、関西もののコンテンツがそれほど流れなくなったこととも相関しているとは思います。

谷川 いくつかでた論点では、是永さんはどういう視点で過去のCMを見るのかっていうこと、それは研究者の立場として、あるいはそれが公共に公開されて普通の人でも見られるようになったときに、そこに現代の価値観を延長してしまうことの危険性を論点としてあげていたと思います。柄本さんのお話の中では、アスベストの CMに見られるように、テレビ CMでしか得られない情報というものがあるんだと、それを応用可能性として指摘されました。また研究者と非研究者、一般の利用者が楽しみたいという理由でデータベースを使うことと、研究者の研究目的とをどう共存させていくのか、その辺を含めていろんな論点がでました。フロアの方から何かあれば。

116  テレビ文化研究

Page 41: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

会場発言者 わたしは長いあいだ文学研究をしていたので、今日の話は文学と比較して大変興味深いと思いました。夏目漱石だけ読んでいては明治の社会はわからないのと同様、CMの有名作・受賞作だけでなく「平凡作」への研究アクセスが容易になったことで、社会史や文化史の研究が深まっていくだろうという話が興味深かったです。今日お話しなさっていた、有名作・受賞作という枠組みが、CM研究を 10年なさっているご経験の中では、どういうふうに決められてきたのか、文学の場合はこれが名作だというのは、文芸評論家あるいは文芸雑誌が決める、というように比較的ヴィジブルだと思うのですが、CMは何を良い CMというのか、これは映像として、アートとして素晴らしいという評価で今まで来たのか、これはいわゆる文学でいうところの芥川賞のようなものとみていいのか、直木賞的なものとして位置づけるべきなのか、そのあたりが非常に気になりました。もちろん CMは販促のためにあるものなので、この CMによって売り上げが上がったという評価もあるかと思うですだが、そういう評価軸は今日の話の中にどのように関わってくるのかを教えてください。

谷川 馬場さんはお帰りになってしまいましたが、アド・ミュージアムの場合は、代表的なCMや電通が制作したものという制約があったと思います。最初に 10年前にこの日文研でCMの共同研究やった時のベースになったデータベースは、ACC賞というCM界の毎年優れたものが表象される制度があって、その ACC賞を受賞した CMに限っていました。ですからこれは芥川賞とかと同じで、いろんな意味で優れていると認定された、その年を代表するCMだけがもともとの研究対象のデータベースでした。それに対して、高野さんのご発表などで平凡作が大事だよといわれましたが、10年前からそういう認識はあったことです。絶対に賞は取らないけど、武富士ダンサーズって印象残ってるよねとか、そういうのも含めて視聴者の体験として残っているのではないかと。それから、柄本さんが引用されていたけど、高野さんの発表の中で、日経新聞のお父さんは母親も日経ぼくも日経というCM、あれは平凡作として出されているけれど、映画史の立場から言うと、あれは明らかにアーサー・ランクというイギリス映画のパロディなんですよ。MGMではライオンが吠えたりといった映画会社のマークがありますが、イギリスのアーサー・ランク・スタジオっていう銅鑼を鳴らすので始まる映画会社があって、あれのパロディの CMができてたんだなっていうのは、映画史からみるとわかります。だから、平凡作でも別のいろんな研究の角度からみれば、いろんな情報が得られるということです。

是永 わたしが今日コメントしたかったのは、表現として理解するということの文脈が完全に取り払われてしまうと、ありえないことをやっているとか、全く訳のわからないことをやっているというような話になるということです。CMを保存することにどういう価値が見出されるのか、わたしとしては結構危惧されるところもあって、今日関谷さんがおっしゃっていた共通体験以上に、あくまで作り話として楽しむやり方とか解読の仕方、あるいは関西らしい CM

討論 2:CM情報の蓄積と利用を考える  117

Page 42: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

という理解の仕方にしても、リテラシー教育とはまた違う意味のリテラシーがあると思うし、そういうところを研究で考えていかないと、ただデータベースだけを考えるということだと危険があるかなと思います。

関谷 CMデータベース見てないとわからないと思うので恐縮なのですが、先ほど柄本さんがおっしゃった生命保険の公害を扱ったCMはわたしも覚えていて、それに関して思うのは、多分わたしも柄本さんも環境のこととか、公害のことを今の視点で見ていて、そこに関心があるからそこに引っかかったのでしょう。わたしの解釈は別で、多分当時の公害の見方っていうのが、企業が前提になっているCMだからというのもあるのだろうが、ある意味公害に対して良い悪いという判断を留保しているようなCMの映し出し方だったと思います。あれは独特の CMならではの表現だと思っています。先ほど高野さんからは作り手の表現をそのまま見ちゃいけないよという話がありましたが、自分はそれだけではなくて、CMってそのときどきの雰囲気とか社会状況に受け入れられるような作り方をしなければならなくて、それが公害の映し方に表現されていたのが、あの生命保険の CMだったと思います。あまり公害のことを意識しない人が見ても気付かないし、多分専門的に公害とか環境のことを探していたからあの CMが引っかかったのでしょう。それは先ほど是永さんがおっしゃった、現代の通念にはそぐわないところに引っかかりを見つけたということだと思います。その見方っていうのは、CMのデータベース化をすることで、今との差異として初めて気付くことだし、例外と考えないでああいうものをきちんと見ていくことが、データベースの見方の本質なのではないでしょうか。

谷川 結論のようなものはなかなか出ませんが、CM研究にはさまざまな可能性があることをみなさん感じていただけたかと思います。山田先生には 10年後にまた企画していただきたいです。

118  テレビ文化研究

Page 43: CM研究の展開と発展 - Kyoto Seika University · のアーカイブに還元されてこそ、このデータベースの文化資源としての価値は最大に高められ

CM図版データ一覧国際日本文化研究センター シンポジウム「CM研究の展開と発展 日文研共同研究からの10年」高野光平基調講演

画像1 名糖産業 強力アンデシン 1955年画像 2 シチズン商事 シチズン時計 1956年画像3 増田屋 ラジコン 1956年画像4 キングトリス キングトリスチウインガム 1956年画像5 日本経済新聞 日本経済新聞 1957年画像6 堺酒造 新泉 1960年画像7 赤トンボ レストラン赤トンボ 1959年画像8 中合デパート 中合デパート [福島 ] 1968年画像9 花王石鹸 テンダー [沖縄版 ] 1967年画像10 川口屋林銃砲店 K.F.C. 猟銃・装弾 1964年画像11 日本アスベスト ホームマット 1965年画像12 本田技研工業 HONDA90sports 1965年画像13 和泉製菓 ウインナチョコレート 1962年画像14 東装 カーテンレール 1968年画像15 大沢商会 ベル&ハウエル8ミリ撮影機 1962年画像16 国分商店 K&K缶詰 1957年画像17 ライオン歯磨 バイタリス 1968年画像18 日清食品 チキンラーメンニュータッチ 1962年画像19 イチジク製薬 イチジク浣腸 1965年画像 20 田辺製薬 ジオール 1959年画像 21 前田産業 ハニーミルトン 1966年画像 22 月星ゴム(月華ゴム) ミスタージャイアンツ 1966年