私のテーマ 悲劇の武將 兵ryoma/hitou106rg.pdf ·...

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  • 1・現代龍馬学会

    高知県立坂本龍馬記念館・現代龍馬学会

    浦戸の歴史 悲劇の武將 東

    と う

    條じ ょ う

    関せ き

    之の

    兵ひ ょ う

    衛え

    実さ ね み つ

    光 長宗我部顕彰会吉松 由宇子

    現在、坂本龍馬記念館の建つ浦

    戸城跡は、長宗我部元親、盛親親

    子最期の本城であり、織豊期の土

    佐では唯一、天守台と石垣をそな

    えた中世より近世への移行途上

    の築城様式を擁しているとされ、

    坂本龍馬の銅像の建つ桂浜も出

    丸の一つである。浦戸全域とその

    周辺は史跡であり多くの伝承が

    残されている。

    この話は郷土史家、瀬戸鉄男翁

    や実さね

    みつ光の御子孫である天あも

    う羽達郎氏

    (徳島県在住)より聞書きしたもの

    である。天羽氏は、阿波でも又土

    佐でも評判の悪い先祖の東條関之

    兵衛実光の名誉回復を望んでいる

    とその墓に手を合わせて涙ぐむ。

    元亀2年(1571)長宗我部

    元親の末弟、島弥九郎親益は有馬

    温泉に湯治に行きその帰り嵐を

    さけ阿波国海

    部奈佐に停泊

    中、海部宗寿

    に襲撃され一

    行のもの三十

    余名とともに

    殺された。元

    親は天正3年

    (1575)土

    佐を統一する

    と、弟弥九郎の

    仇討との口実

    で阿波に侵攻

    し、宍喰、海部、

    日和佐と攻め

    上がる。その一

    方では、元親は縁者であり明智

    日向守光秀の筆頭家老斎藤内蔵

    介利三みつを通じ織田信長に接近し

    嫡子弥三郎に諱いみなを賜り長宗我部

    信親と名乗る。その上、「四国は

    切り取り勝手次第」との朱印状

    を得ていた。だが阿波の桑野城

    は難攻不落であり城主の東条関

    之兵衛は甲斐の武田の血を引く

    猛將であった、攻めあぐねた元

    親は家老の久武内蔵助の娘を養

    女として関之兵衛に嫁がせ、一

    族として味方とした。

    一方信長に降伏した三好山城

    守は、茶道具に興味を示す信長

    に自慢の名物茶器を献上し、信

    長の三男信孝を養子にもらいた

    いと急接近し元の領地である阿

    波国の帰属を懇願した。

    天正9年信長は元親との約束

    を破り阿波の一部を残し切り取っ

    た土地を返

    上せよと命じ

    た。従わない

    元親に、四国

    攻めを決意

    した。

    天正10年

    に6月3日総

    攻撃と決め

    岸和田に兵

    1万5千と百

    艘の船を集結

    した。しかし

    その前日の6

    月2日に信長

    は本能寺で

    殺された。当然

    ながら四国攻め

    は中止となる。

    これは単なる

    偶然か?それと

    も元親を助ける

    ため斎藤利三が

    明智光秀をそそ

    のかしたのか?

    「元親黒幕説」。

    強力な援軍を

    失った阿波の三好軍は、同年8

    月上旬、2万3千の兵を率いて

    阿波の北方に侵攻して来た長宗

    我部元親に中富川の戦で敗退し

    た。勝瑞城に籠城する敵將十河

    存保に関之兵衛は使者に立ち存

    保に開城を促し、退路を作り讃

    岐に逃した。余談であるが十河

    存保の母親は小少將と呼ばれた

    絶世の美女であり、のちに元親

    の側室になり盛親と右近太夫、

    そして女子一人を産んだとの説

    もある。

    その後関之兵衛は要害の地木

    津城を預かる事となる。天正13

    年四国統一を目前にした元親では

    あったが秀吉の四国攻めが始ま

    る。秀吉の弟秀長は淡路、鳴門方

    面より、蜂須賀正勝は讃岐方面よ

    り木津城を挟み討ちにした。

    蜂須賀軍に水源を断たれる

    も、八昼夜奮戦するが叔父東条

    紀伊之守を通し秀長は関之兵衛

    に和睦を促す、秀長は『木津城

    明け渡しを条件に長宗我部氏に

    土佐一国を安堵させる』との約

    束を結ぶ。この報告の

    為、7人の家老ととも

    に土佐に向かった関

    之兵衛でしたが、『木

    津城が落城し東条関

    之兵衛は土佐に逃げ

    帰った』との噂が立

    ち、阿波の武将は兵を

    引き上げた。東部戦線

    は一挙に崩れてしま

    う。密約を知らぬ元親

    は「なぜ木津城に踏みとどまっ

    て戦わないのか」と激怒した。

    新居浜の金子城主、金子備後守

    のように最後の一兵まで戦い全

    滅する城が相次ぐ中、他の武将

    への示しがつかず、浦戸城内の

    牢屋(旧浦戸小学校の辺り、長

    宗我部地検帳による)に入牢さ

    せた後、涙を呑んで自刃を命じ

    た。身内としての礼を尽した畳

    上での切腹であったが家老七人

    と共に無念の自刃であった。元

    親は他の戦線にいて土佐にはい

    なかった為直接命じたのは信親

    である。元親は関之兵衛が命懸

    けで伝えたかった秀長との密約

    を知っていた上での命令だった

    のか、知らなかったのか?この

    数ケ月後の7月、元親は降伏し

    関之兵衛の願った土佐一国は長

    宗我部氏に安堵され、秀長は関

    之兵衛との約束を守った事にな

    る。浦

    戸城址遺構発掘調査が来

    年度行われる予定である。

    私のテーマ

    関之兵衛は7人の家老とともに今も浦戸で静かに眠っている。

    浦戸城とその城下町(想像図)

  • 飛 騰 No.106・2

    第 10 回高知県立坂本龍馬記念館・現代龍馬学会 研究発表会

    「明治維新150年~龍馬が目指した新国家~」

    テーマ

    今年の「高知県立坂本龍馬記念館・現代龍馬学会」は5月26日(土)、

    4月のグランド・オープンに伴い新設した新館ホールを会場に行わ

    れ、第10回の記念大会開催となった。

    来賓の高知県文化生活スポーツ部の門田登志和部長様、高知市教育

    委員会の高岡幸史教育次長様から、明治維新150年にあたり、改め

    て坂本龍馬の果たした役割に関心が高まる中、今後の坂本龍馬記念館

    と10年目を迎えた本学会の活動への期待を込めた祝辞をいただいた。

    特別講演には、福井市立郷土歴史博物館館長の角鹿尚計様をお招き

    し、「福井藩と坂本龍馬~特に『越行の記』・『新国家』書簡を中心に

    ~」と題して福井藩側からの視点で書簡を解説していただいた。

    会員による研究発表は、左頁の通り、

    網屋喜行氏、岩﨑義郎氏、中村茂生氏、

    髙山嘉明氏の4氏による興味深いもの

    となった。詳細は本学会の発行する「論

    集」をお目通しいただきたいと考えてい

    るが、敢えてキーワードを「吉田東洋の

    藩政改革」、「西郷隆盛の土佐来国」、「海

    援隊快挙」、「幕末京都の土佐藩」とさせ

    ていただく。

    今年は、74名の参加であったが、それ

    ぞれの研究発表に触発され、来年の再会

    を誓い合って「宣言」の発表となった。

    特別講演

    近年発見された

    「越行の記」や「新

    国家」の書簡によって、

    改めて福井藩と龍馬

    の繋がりが注目され

    ており、今回はこの二

    つの書簡を中心に、福

    井藩と龍馬について、福井市立郷

    土歴史博物館館長の角鹿尚計氏

    にご講演いただいたので、レジメを

    引用して内容をご紹介したい。

    まず、両書簡から言えること

    は、『由利公正傳』や『子爵 

    利公正傳』等が大いに信頼できる

    という点である。これまで両書は

    「かなりの間違いや誇張、それに

    検証困難な記事がみられる」とし

    て「参考の範囲」の文献として扱

    われていたそうだ。それが、龍馬

    が書いた史料が見つかり、内容に

    相違が無い、ということで、これま

    で「参考の範囲」と考えられてい

    た史料の信頼性が証明された。

    この二書簡を書いた頃の龍馬

    が、福井藩に求めていた事は、大き

    く二件考えられるそうだ。まずそ

    の一件は、福井藩の第三極の立場を

    期待し、特に春嶽の上洛によって朝

    幕間を平和的

    に調整し、徳川

    慶喜の新国家

    政府への参画

    と軍事権の返

    上を朝幕両方

    の勢力に容認

    させること。い

    ま一件は公正を

    財政担当の閣

    僚として新国

    福井藩と坂本龍馬 ―特に「越行の記」・「新国家」書簡を中心に―福井市立郷土歴史博物館 館長 角鹿 尚計 氏

    家政府に参画させることである。

    そして、龍馬は松平春嶽はじ

    め福井藩の上洛に期待し、時局

    の進展を福井藩とともに遂行す

    るつもりであった。

    また、龍馬としては、福井藩士

    が挙藩上洛計画中止により二派

    に分化し、対立していたことは承

    知していたが、福井藩の内情を超

    えて今は新国家の建設に公正が必

    要であり、しかも急を要すること

    を中根雪江に切々と伝えている。

    さらに、龍馬と永井玄蕃の面談

    内容は、中根更に春嶽や福井藩に

    も関わる内容を含んでいた。この

    書簡が龍馬暗殺の五日前であり、

    永井は龍馬暗殺の黒幕と目され

    て来た人物の一人でもあることから

    「追曰」と付箋の朱筆との関係を

    どう見るかによってこの書簡の重

    要性が高くなるそうだ。

    まとめとして、幕末動乱期の福

    井藩が公武合体・大政奉還・王政

    復古に多大な影響を与えながら、

    倒幕・佐幕でも無い第三極の公議

    政体論の立場を貫き、その活動家

    として土佐藩の坂本龍馬を評価

    し、支援し協力・共鳴して福井藩

    論を推進したことを改め

    て提唱するものである、と

    結ばれた。

    龍馬が春嶽や三岡を高

    く評価し、期待していたこ

    とは二書簡からも読み取

    れるが、反対に福井藩か

    らも高く評価してもらっ

    ていたことを、福井に残る

    史料を用いて教えていた

    だき、大変参考になった。

  • 3・現代龍馬学会

    明治維新の研究は多く

    の蓄積があるが、その研究

    史のなかに、土佐藩政研究

    者である池田敬正氏の説

    を位置づける。

    明治維新の捉え方の変

    遷は、戦前における「王政

    復古論」、戦後を中心とす

    る「絶対主義成立論」、そ

    の後の「国民国家形成論」

    という、三つの時期に大別

    できる。なかでも注目すべ

    きは「絶対主義成立論」で

    あるが、そこでは明治維新

    に絶対主義への傾斜が認

    められるかという点が議

    論された。この観点から天

    保期以降の土佐藩の藩政

    改革を分析したのが池田

    氏で、天保改革を復古的反

    動的改革、安政改革を絶対

    主義への傾斜が認めうる

    ものと位置づけた。

    「明治維新」研究史における、池田敬正氏の「吉田東洋による藩政改革」論

    鹿児島県立短期大学名誉教授(「吉田」本家末裔) 

    網屋 喜行

    西郷隆盛は、前後2回土

    佐を訪れている。第1回目

    は慶応3年(1867)2

    月16日に到着した。薩摩藩

    の島津久光の命を受けて、

    山内容堂の上洛を促すた

    めに土佐を訪れたもので

    ある。なお、この滞在中に

    坂本龍馬の兄権平が銘刀

    吉行を携えて西郷を訪ね、

    龍馬に渡してくれるよう

    依頼した。

    第2回目として、西郷隆

    盛は明治4年(1871)

    1月再び土佐に来ている。

    この時は、鹿児島藩大参事

    としての来国で、明治新政

    府の権力強化のため薩摩・

    長州・土佐の3藩から親兵

    を献上することについて

    協議するためであった。

    これら2度の来国につ

    いて、当時の記録や滞在先

    に遺されたゆかりの資料

    などを紹介した。

    西郷隆盛、二度の土佐来国

    NPO法人土佐観光ガイド ボランティア協会顧問

    岩﨑 義郎

    昭和戦前期における坂

    本龍馬像について、特に昭

    和8年の無声映画「海援隊

    快挙」(監督脚本志波西果、

    撮影大井幸三、主演月形龍

    之介、朝日映画連盟製作)

    に注目した。

    この作品には、ラスト

    シーンに帝国海軍の実写

    映像が使用されているこ

    となど、いくつか注目すべ

    き点がある。これには、満

    洲事変、血盟団事件、五・

    一五事件、国際連盟脱退、

    映画国策樹立に関する建

    議案が衆議院を通過した

    ことなど、昭和8年に起き

    た出来事が影響を与えて

    いると考えられる。そう

    いったさまざまな要因か

    ら、「海援隊快挙」では、

    昭和八年ならではの「龍馬

    像」が提示されるにいたっ

    た。

    「海援隊」はどう描かれたか―戦前期の舞台と映画から

    高知大学非常勤講師

    中村 茂生

    幕末期は多くの藩が上

    京し、中央政局における主

    導権を争ったが、その土佐

    藩の事例を概観する。特に

    注目するのが藩主山内豊

    範と、一族山内兵之助の二

    人の上京である。それぞ

    れ、三条家との姻戚関係が

    強く影響した豊範の上京、

    藩を代表する立場を担う

    ことで長期にわたった兵

    之助の滞京、と位置づけら

    れる。また、当地での主要

    任務であった御所の警衛

    は、尊王の観点からも非

    常に重視された点が特筆

    される。これらを通じて、

    従来それほど注目されな

    かった土佐藩の京都での

    活動の一端を明らかにす

    るとともに、容堂を中心に

    論じられてきた幕末期の

    土佐藩政について新たな

    側面の提示を試みた。

    幕末期京都における土佐藩の活動

    坂本龍馬記念館学芸員

    髙山 嘉明

  • 飛 騰 No.106・4

    こぼれ話ー 犬歩棒当記(三十四)ー

    矢印の研究(補遺)

    川 禎

    何号か前に

    「矢印の研

    究」という記

    事を寄せたが、

    今回はその補

    遺である。江

    戸時代には現

    在よく使われ

    ている↑のよう

    な矢印はなかっ

    た云々という

    話を書いたの

    だが、方向を示す記号はいつの時代

    も必要だ。

    最近気付いたが、四国にお住まい

    の方なら見慣れた遍路道標(遍路

    石)にその図像があったではないか。

    四国八十八箇所を巡るお遍路さんの

    ために道路の辻の横に建って寺の方

    向を指し示す「手印」(てじるし)

    である。江戸時代の後期から明治

    時代を中心に四国各地に多数建立

    され、自動車時代でない徒歩のお遍

    路さん(もちろんちゃんとした地図

    やスマホナビもない時代)に役立つも

    のだ。お遍路さんをもてなす「お

    接待」にも通ずる行為だ。造立年

    号が石柱に刻まれていて、年代順に

    編年できるのも嬉しい。

    最も古い遍路石は貞享年間とさ

    れるので十七世紀の後半に建てら

    れたものだ。それは通常の人差し

    指を出した「指差し形」ではなく

    て、手のひらを広げ

    てやんわり導く形だ。

    「手のひら形」と呼

    ぼう。この形が初期に

    あってやがて江戸時代

    後期、十八世紀後半

    から十九世紀にかけて

    は人差し指でピストル

    をつくるような「指差

    し形」が隆盛を極め

    る。もうこれが普通

    だ。手と袖口(弘法

    大師の袖)を表わすものもある。

    さて我々がよく知る「↑」のよ

    うな表現の遍路石も少しだけある

    のだが、それは昭和三十年以降の

    ごく最近のものだ。近年作られた

    復古調の遍路石でも「指差し形」

    が多い(写真)。

    四国ではそうだが、筆者の住む

    京都山科では近所に「みぎうじみ

    ち」「ひだりおおつみち」など文

    字で方向を示す江戸時代の石柱が

    建っている。

    現在は自動車で道路を走ればそ

    こら中が交通標識としての矢印↑

    だらけだ。わかりやすいが味気ない。

    遍路石の手印は人にやさしい気がす

    るのである。

    龍馬の話から遠ざかっているが、こ

    のような方向を示す記号を世界史

    的に調べても面白そうだ。誰か卒論

    でやってみませんか?

    高知県立坂本龍馬記念館・現代龍馬学会〒 781-0262 高知市浦戸城山 830

    TEL(088)841- 0001 FAX(088)841- 0015mail:[email protected]

    現代の遍路石(松山市石手寺前)

    この会の

    将来のあるべき姿について

    福岡県

    柳川市 森貴光

    この国の頭脳明晰でお偉い方々が

    熟考された上で「龍馬の名を削る」

    と苦渋の決断をされたのであれば、

    削っていただいてよいのではないので

    しょうか。その時こそ現代龍馬学会

    の存在意義があるのでは?「入試」

    と「教育」。未来の子供達の為に、

    我々がその「教育」を受け持てるよ

    う、会として会員として自己研鑽す

    るべきだと思います。

    教科書から坂本龍馬が

    消えてしまうかもしれない

    ことについて

    高知県

    中土佐町 佐竹敏彦

    高大連携歴史教育研究会が提唱

    した坂本龍馬などを覚えるべき用

    語が多すぎるとして削減案だが、

    代りにありもしない「南京大虐殺」

    や「従軍慰安婦」などを追加する

    という。矛盾したもので、日本か

    ら正しい歴史を奪う行為であり、

    土佐人の誇りを蔑ろにするもので

    す。人は先人の事跡を通じて目標

    を知るもの。許されざるものです。

    奈良県

    香芝市 保田健志

    私が歴史に興味を持った入口は

    坂本龍馬でした。龍馬は平和的革

    命で近代国家を目指したり、株式

    会社創立等、多数の日本初を行い

    ました。明治維新の原動力になり、

    現代にまで多大な影響を与えてい

    ます。歴史だけでなく道徳にも通

    用する人物で、次世代にも伝え続

    けていきたい。日本史のみならず

    世界史にも通用する人物です。

    私が坂本龍馬に惚れ込んだ

    理由

    高知市 大﨑隆徳

    龍馬が他の偉人と違ったのは、自

    分が天下を取らなかった事です。多

    くの偉人は、地方を治める。国を

    治める。または世界を支配する事

    が目的であった人が多い。言ってみ

    れば、自分の私利私欲のための生き

    方です。これに対して龍馬の生き方

    は、自由な社会、平和な社会、そし

    て平等な社会を作るために奔走し

    た人生だったと思います。150年

    経った今でも多くの人に愛されるの

    はそれが大きい。自分のためなら誰

    でも頑張れるが、他人のため、世の

    中のために命を懸ける事はなかなか

    出来ません。私が龍馬に惚れ込んだ

    一番の理由です。

    大阪府

    枚方市 影井冨美雄

    龍馬を読んで、又映画も見て 

    青春時代を飛翔する気持ちを大き

    くしました。龍馬の誕生がなけれ

    ば日本は存在しない。社会科の教

    科書から消える記事が

    あり、もってのほかで

    す。現在の若者に龍馬精

    神を又、教育者に尊ばせ

    る心があり、日本人の心

    であります。是非貴学会

    の力でご努力でもっと

    もっと訴えて下さい。現

    代龍馬学会様

    現在研究を進めて

    いる

    事柄の紹介

    高知県

    四万十市

    松岡利光

    龍馬のひろば

    1 ジパング&日本

    2 近代~現在 解体親書4 「テラ」に恋して進化が語る現在過去未来

    3 西部劇で読解く U・S5 映像からの龍馬史記

    〇コンプレックスシティ子ども+女性+場