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各種『サヨンの鐘』の検討 一劇本・小説二冊・シナリオ・教科書一 下村作次郎 継者は、「サ ヨンの鐙Jについてこれまで二編の総文を公にした。 一編は「『サヨ ンの錨』物語の生成と流布過程に閲する実証的研究( 1) 」(『天理台湾学会年報』 10 号、 2001 3 月)であり、も う一編は「日本から逆輸出された r サヨンの鎚』の 物語一一中央劇団の台湾上演と呉漫沙の 『サヨンの鐙』 J(『台湾の「大東亜戦争」 東京大学出版会、 2002 12 月)である。前者では、物語の主人公サヨン・ハ ヨン が、 1938 9 27 日に現在の宜蘭県南襖渓で避難してから、長谷川総督が、 1941 4 14 日に 「愛国乙女サ ヨンの鎖Jをサ ヨンの生まれ育っ た村、リヨ ヘン社に 贈るまでの史実について論じた。後者は、も ともと前者に続く実証的研究(2 )と して、構想されたものであった。そこでは、長谷川総督がサヨンの話に感動して、 「愛国乙女サヨンの鐘」をリ ヨヘン社に贈って以来、 f サヨンの鐙Jの物語は、さま ざまな芸術的手段で創作されていくが、その最初の物語は舞台用の劇本として日本 で作られ、それがいわば逆輸入されるかたちで台湾に伝わり、 皇民化運動のなかで 「サヨンの鎚Jの物語化が次第には じまっていった ことを論じたものである。 本稿では、これまで調査した各種の 『サヨンの鎚』について、その内容を詳しく 検討してみたいと思う。筆者が検討を加えたのは、以下の劇本、小説二編、映画の シナリオ、教科書である。 [劇本]村上元三作 f サヨンの鐙』(『国民演劇』1 10 号、 1941 12 月) (以下、「村上本J と称する) {映画脚本]『サヨンの鏡』(『台湾時報』5 月号、1943 5 月) (以下、 f シナリオ本J と称する) (以下、「呉本Jと称する) [小説]長尾和男著『純情物語愛国乙女 サヨンの鐙』皇道精神研究普及会、同 7 2 (以下、 「長尾本Jと称する) [国民学校教科書]「サヨンの鎖J1944 (以下、「教科樫本J と称する) ここで各種『サヨンの鎚』について検討に入るまえに、まず簡単にそれぞれの『サ ヨンの鐙』の作者について触れておこう。 ( 1 )

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各種『サヨンの鐘』の検討

一劇本・小説二冊・シナリオ・教科書一

下村作次郎

継者は、「サヨンの鐙Jについてこれまで二編の総文を公にした。 一編は「『サヨ

ンの錨』物語の生成と流布過程に閲する実証的研究 (1)」(『天理台湾学会年報』10

号、 2001年3月)であり、もう一編は「日本から逆輸出された rサヨンの鎚』の

物語一一中央劇団の台湾上演と呉漫沙の 『サヨンの鐙』J(『台湾の「大東亜戦争」』

東京大学出版会、 2002年12月)である。前者では、物語の主人公サヨン・ハヨン

が、 1938年9月27日に現在の宜蘭県南襖渓で避難してから、長谷川総督が、 1941

年4月14日に 「愛国乙女サヨンの鎖Jをサヨンの生まれ育った村、リヨヘン社に

贈るまでの史実について論じた。後者は、もともと前者に続く実証的研究(2)と

して、構想されたものであった。そこでは、長谷川総督がサヨンの話に感動して、

「愛国乙女サヨンの鐘」をリ ヨヘン社に贈って以来、 fサヨンの鐙Jの物語は、さま

ざまな芸術的手段で創作されていくが、その最初の物語は舞台用の劇本として日本

で作られ、それがいわば逆輸入されるかたちで台湾に伝わり、 皇民化運動のなかで

「サヨンの鎚Jの物語化が次第にはじまっていったことを論じたものである。

本稿では、これまで調査した各種の 『サヨンの鎚』について、その内容を詳しく

検討してみたいと思う。筆者が検討を加えたのは、以下の劇本、小説二編、映画の

シナリオ、教科書である。

[劇本]村上元三作 fサヨンの鐙』(『国民演劇』1巻 10号、 1941年12月)

(以下、「村上本Jと称する)

{映画脚本]『サヨンの鏡』(『台湾時報』5月号、1943年5月)

(以下、 fシナリオ本Jと称する)

[小説] 呉漫沙著 ・ 春光i~甘訳 『サヨンの鐙』東亜出版社、同年 7 月 l

(以下、「呉本Jと称する)

[小説]長尾和男著 『純情物語愛国乙女 サヨンの鐙』皇道精神研究普及会、同

年7月2

(以下、 「長尾本Jと称する)

[国民学校教科書]「サヨンの鎖J1944年

(以下、「教科樫本Jと称する)

ここで各種『サヨンの鎚』について検討に入るまえに、まず簡単にそれぞれの『サ

ヨンの鐙』の作者について触れておこう。

( 1 )

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村上元三は、 1910年に朝鮮元山に生れた。『佐々小次郎』『水戸黄門』『大久保彦

左衛門』といった大衆文学で著名な小説家で、劇作家としても知られる。1940年、

「上総風土記Jで直木賞を受賞した。 1941年12月8日の真珠湾奇襲攻懲ではじまっ

た「大東亜戦争J(太平洋戦争)前夜に、日本人作家に対する徴用(兵隊の「赤紙J

に対して「白紙Jと言った)がはじまったことはよく知られているが3、村上元三

も、中央舞台で劇作の活動をはじめてまもなく、海軍関係で南方に徴用されている。

呉漫沙は、1912年に福建省智江県に生れた。台湾には父が尚売で台北にいた関

係で、頻繁に故郷と台北の聞を行き来していたが、 1935年以降台北に定住するよ

うになった。1937年、漢文禁止後の数少ない中国語雑誌であった 『風月報』(その

後 『南方半月刊』と改称)の編集に従事する傍ら、小説を書きはじめる。通俗的な

恋愛小説が得意で、 f韮菜:(f:.J4など多数の長編小説がある。作品はすべて中国語で

脅かれ、呉自身は日本語を解さない。翻訳者の春光淵については、本名が張j胤福で

あること以外は不明である。

長尾和男は、日本では未来派の詩人として知られる。51902年に岐阜県美濃に生

れた。1982年没。長尾と台湾との関係は、 長尾が1938年4月に新設の台南州立台

南農業学校(現、国立台南高級農業職業学校)に教師として赴任したことにはじま

る。 6長尾は、この台南滞在中に、白川恵宮7が主宰する皇道精神研究普及会から

f伝記小説呉鳳』(1943年4月)と 『サヨンの鎖』を出版した。

消水宏は、1903年に静岡県に生れた。 1966年没。1924年に松竹の監督となっ

たが、デビュー作は、「峠の彼方jである。 「子供と旅を愛し、しだいにロケーショ

ンを多用した映画や子供を主人公に裾えた作品に特異な境地を開J8いたと言われ

る。 『サヨンの鎚』でも、大勢の子供が使われているのは、この監督の得意とする

ところである。

次に、各種 『サヨンの鐙』の作品の内容について見ていきたいが、 f医者は、それ

ぞれの作品では、どのように fサヨンの鍛Jの物語が作られているか、aからlまで

12の項目に分けて比較し、「各種『サヨンの鎚』対照表」を作成した。本稿の最後

に、参考までにその表を掲げておいたが、以下、それに基づいて、各種作品の特徴

について述べてみよう。

以下項目別に述べる。

a.「時代」

村上本は、昭和13年9月のある朝からはじまる。

シナリオ本は、特に明記していないが、「ウツトフなんか、今の世の中にはもう

ゐない、それは昔のこと」として、いわゆる「蕃社Jがかなり聞けた時代にあるこ

とを印象づけている。

( 2 )

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呉本は、年代は明記されず、大晦日の日に、必竹梅を活ける夫人、愛万の手入れ

をする町北巡査の錨写からはじまり、「日本精神Jが強制されている。

長尾本は、昭和9年、サヨ ンが民業科の 2年生の年からはじまる。官頭に傷~'i巨

人の青年が登場するが、その背年の予感として、「近い将来に日本は、英米を相手

に戦争を始める時が来るJと述べ、時代は戦争前夜にあることが強調されている。

この仮決軍人はフィクションである。

教科m:本のl時代背景は、昭和 10年からサヨンが避難した昭和13年までである。

b.「サヨン像」

村上本のサヨンは、勉強も「内地誌Jも裁縫もよくでき、親孝行な 17歳の模範

少女である。

シナリオ本は、 f国語」教育に熱心で、子供たちの前では面倒見のいい餓鬼大将

であるが、次第に恋に目覚める思春期の少女として捕かれている。

呉本は、リヨヘン社女子背年団の幹部として、「社内からもっとも代表的な愛国

少女だと仰がれてゐるJサヨンである。

長尾本は、親孝行な娘、純情乙女のサヨンである。

教科舎のサヨンは、末っ子で、内では二人の兄を助けて家事にいそしみ、外では

女子育年団のために骨身を惜しまずに働く、少女として拙かれている。

C. 「サヨンの恋人」

村上本では、サヨンの許憾として、パツサイ ・ナウイが登場する。

シナリオ本では、内地留学から帰ってくるサプロがサヨンの恋人として描かれて

いる。

呉本では、村上本と同じ名前のパツサイがサヨンの恋人として登場する。パツサ

イは男子青年団の幹部で笛がうまい。

長尾本は、サヨンの恋人は登場しない。

教科書も長尾本と同様、サヨンの恋人は登場しない。

ct. rm北正記先生j

村上本では、「北田直記Jと名前を変え、既婚者となっている。妥は 「北田あき

子j。身分は巡査で、「蕃地Jでの仕事は、巡査であり、医者であり、先生であると

して捕かれている。巡査の妥はまた、裁縫を教え、時には産婆の仕事もこなす。

シナリオ本では、名前は 「武田先生Jとなっている。巡査である。巡査の仕事は、

先生であり、教官であり、土木監督でもあるとして拙かれている.未婚である。

呉本は村上本と同僚に、既婚者として設定されている。名前は「E日北Jで、彼は

駐在所の巡査であり、教育所の先生であり、 予f年団の教官であり、 「社内の人々に

( 3 )

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取っては慈父でもあり、良き兄でもある」。時には医者として往診もする。妻の名

前は、平仮名と片仮名の迷いはあるが、村上本と同じ「アキ子Jである。妻も産婆

として赤ん坊を取り上げたり、裁縫を教える。

長尾本は「国北先生Jで、未婚者である。

教科書本は、先生の名前は挙げられていず、未婚者ーである。

e.「その他の人物J

村上本は、虚構の人物が多く登場する。その中で重姿なのは、総督府鉱務課嘱託

技師、白瀬繁夫とその妻宮子、および本尚人警手の策、白瀬の部下の斎藤である。

斎藤は関西弁を話す人物として登場する。

シナリオ本は、村井巡査部長夫妻とモーナ、ナミナら。村井巡査部長は、「お医

者織でもあるJとして登場する。モーナとナミナは恋人同士。モーナはサプロの競

争相手として重要な役柄を負っている。

呉本の登場人物は、村上本と類似している。訊I]詰技師自修i繁夫と妻宮子の名前は

同一である。その他、役柄は少し異なるが助手の黄同良や斎藤老人など同姓の人物

が登場する。

長尾本は、 l鐙術の人物として、1前i'-Jif事変で負傷した隻眼隻手の仮決軍人やl消原先

生とその姉としが登場する。サヨンの父母は、実名で拙かれている。その他、サヨ

ンの友達も実名である。

教科書本は、サヨンの父母が登場するだけである。

f. rリヨヘン社の描写J

村上本は、台湾台北州蘇襖君fl、f蛮地Jリヨヘン社、「戸数46戸の平和な村j と

なっている。

シナリオ本は、台湾の「蕃社J一般として悩写され、場所の説明はない。日の丸

の肢に最敬礼する子供たちゃ 「高砂族Jの大人たちが拙かれ、耕作の様子や、線足

の生活、女性の機織の様子などが点綴されているだけである。

呉本は、「戸数50戸足らずの平和な音ill等」リヨヘン社とあり、村上本と同じよう

な描写である。

長尾本は、教育所の全部の児童は40名、リヨヘン社は「近く鏑岡村と改称され

ることになってゐるJとある。

教科書本は、「臨海道路に沿うた南襖から、およそ三十五キロの山奥にリヨヘン

といふ戸数五十ばかりの村Jとあり、聞にして要を得た描写となっている。

g,「召集J

村上本は、通I襖郡役所から召集礼状が届いたとの喝話連絡が入り、「明日 611寺ま

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でに台北へ入隊Jとある。

シナリオ本は、村上本と同じようにt包括連絡が入り、明朝出発となる。 9

呉本も村上本と同級、郡役所から包括連絡が入り、明日台北に入隊となる.長尾本は、事実に基づいて昭和13年・9月24日に赤紙が届いたと描写されている.教科笹本は、長F吉本と同様、事実に基づいた記述となっている.

h. r先生を見送る時のサヨンの機子J

村上本は、先生の荷物運びはサヨン自ら名のり出ている.シナリオ本は、サヨンは熱があるにもかかわらず、先生のおともを自分から申し

出ている。

呉本は、サヨンは出発前夜、不吉な予感がして、恋人パツサイに贈る下着を徹夜で縫う術写となっている。

長尾本は、サヨンは、先生について下山することを志願する。教科{!}2ドは、サヨンは、先生の荷物運搬をまっさきに申し出る.

i.「先生の出発状況J

村上本は、召集の述絡が入ったその日の午後に出発となっている.サヨンらは先生より先に出かける.先生の荷物は、サヨンの恋人パツサイが担いで出発したとの摘写となっている。

シナリオ本は、嵐のあった翌日に出発した。サヨンと先生は一緒に出る。呉本は、村上本と同じようにパツサイら男性が回北巡査の荷物を持つ。 但し、呉

本では、サヨンも荷物を二つ背中と胸に持ち、さらに田北巡査の日本刀を抱くようにして持ち、一同一緒に出発している.

長尾本は、実際の諮に近い描写となっており、サヨンらは先生の荷物を持って先に出発する.

教科書本も長尾本と問じく実際の穏に近い描写となっており、サヨンらは先生より一足先に下山している。

j.「サヨン遭難の術写J

村上本は、事実は丸木儲から落ち、行方不明になったというに過ぎないサヨンの避難事故を、愛国乙女サヨンの壮絶な死としてフィクション化している.村上本では、サヨンは、度から落ち、 ~Jiを打って死ぬが、息絶える前に、サヨンは、先生が戦地に持参する日:t;!l!nに署名し、3午婚のパツサイには彼のために作ったシャツを手渡す。

シナリオ本は、先生の出征のために、その日丸木橋をかけたことになっている.また、サヨンは、先生らが橋を渡った後、その橋を渡っていて避難したとなってい

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る。

呉本は、国燦への署名やパツサイに贈る下着が捕かれているところは、村上本と

同じであるが、さらに村上本にはない「日本万Jが拙かれ、よりいっそう鮮烈にサ

ヨンの死が脚色され、 f日本紛争1,」が強制されている。

長尾本では、実際の話に近い描写がなされている。但し、他の 『サヨンの鐙』に

はない揃写がある。それは、この事故を目恕していた道.臼という巡査が摘かれてい

ることである。 10

教科書本も長尾本と同織に実際の話に近い描写がなされているが、避難の|時刻は

長尾本は夕刻、教科諮本は3時過ぎとなっている。

k.「II寺局の反映J

村上本では、台湾にも近い将来志願兵制度が実施され、パツサイたちも 「立派な

日本人の兵隊Jになれることが強調されている。サヨンの避難事故が発生した1938

年にはまだ、台湾では志願兵制度が実施されていなかったが、この脚本が脅かれた

時点(1941年6月)では、すでに志願兵制度の施行が発表されていたからである。

また、 f愛国行進曲jや「台湾箪の歌Jなどが待入され戦時色に彩られている。さ

らに、サヨンの死は、「わたくしたちは、サヨン、ハヨンの死の中に、烈々と脈打

つ日本女性の血の高鳴りを、聞く ことが出来ます。もはや、サヨンは蕃社のー少女

ではありません。様々しく、健気な、大和撫子のひとりとして、立派にその死を飾

ったのです。Jと 「雄々しく、他気な、大和撫子j の死として最大限に賛美されて

いる。

シナリオ本は、 l時代背景が実際のサヨン巡難当時とかなりずれ、 1942年3月の

第一回高砂義勇隊の召集実施以降に設定されている。従って、高砂義勇隊の出征の

様子が作品構成の上でかなり比重を占めており、戦時体制下のII寺局が反映されてい

る。rtfiJゆかばJなどの軍歌が押入されている。

呉本は、 5種類の fサヨンの錨Jの中で、!被時色を伝える描写が段も濃厚である。

正月元旦の国旗掲傍や宮城遥拝、皇民化以lの上演や噌産報告、さらに、パツサイの

箪夫志願や夢の中でサヨンが従軍看護財となって活臨する描写・などである。

長尾本には、回北先生のl時局についての授業風景の揃写を通じて、山地における

軍園教育と皇国史観教育の様子が儲かれている。軍歌は、「愛国婦人歌Jや f潟ゆ

かばJが歌われる。また、呉本と同じように、サヨンは看護婦として大陸の!被地へ

渡った夢を見る。

教科書本では、 1937年の「支那事変J以後、サヨンは「銃後の運転公に献身的に

はげJんだとある。台湾は、}}II杭で詳しく述べたように、この戦争がはじまってす

ぐに「戦時体制下」に編入され‘田北讐手のような台湾在住の日本人にも召集令状

が出されるようになったが、そうした時局を反映した描写.になっている。しかし、

( 6 )

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サヨンが先生の応召を見送る時の言葉(「各種 『サヨンの鎖』対照表」参照)などは、後述するようにー少女の言策とも思えず、サヨンの愛国乙女ぶりが強調されている.

l.「結末J

村上本は.田北先生の妻、あき子が、サヨンが縫ったシャツを治たパツサイと共に登場する。あき子が「サヨンの錨Jをlぬらし、「サヨンの歌」のコーラスが流れるところで終わる。

シナリオ本は、「務社Jの聞の上で、樹の校に吊り下がったサヨンの鐘が鳴り響き、山の糊にアヒルが静かに泳いでいる風景で終わる。

呉本は、サヨンの避難事故から 3年が経ち、「内地j に陥っていた回北夫人が台湾を再訪して、パツサイの案内で fサヨンの鐙Jに詣でる。結末は、村上本に知似している。パツサイはサヨンからもらった下着をす7ている.回北夫人は鐙をつく.その鏑の音は「今は亡きサヨンの人々を報国へ導く塊の呼び声である.Jという姉写で終わる.

長尾本は、口頭に出てきた旅の{拐疲軍人が、サヨンの基に詣で里子の花を手向ける。彼が去ったあとには、「サヨンの霊に持く j という歌が残される.~参に来た乙女たちによってこの歌が読まれる。段後は、「夕べの祈願Jを知らせる鎚が、リヨヘンの峰に谷間にこだまして終わる。

教科w本は、実際の話に即して錨写されている.話は、サヨンが激流にのまれ行方不明になったあと、サヨンの錨の由来が述べられて終わる。

以上、いささか煩維な記述になったが、 5種類の「サヨンの錨Jの特色について、それぞれの作品を対照しながら分析を加えた。

(注)

1 本部は、中国防版、呉漫沙若『をIi{央的鐙ー愛国小説』(南方雑誌社‘ 1943年3月)の翻訳である.未見.

2 2医者の鯛査では.本書は台湾および日本の主な公共図古館には収蔵されていない。この:Ctmな文献を、河原功氏よりコピーの総供を受けた.

3 事jl谷忠孝 ・木村一{言共編 『南方徴Jtl作家』(世界思想社、 1996年3月)参照.4 台北 ・前衛出版社出版の下村作次郎 ・策英哲共編「台湾大衆文学系列J第 1絹全10巻に 『韮菜花』(台湾新民報、 1939年3月上 『繁明之欧』(南方:l)ft!志社、 1942年7月)、『大地之春』(南方雑誌、社、 1942年9月)の三1111が収録されている.

5 詩集に『長尾和労金詩集』(思潮社、 1969.3)や持論に『新持論』(SA’円Aの会.1978 :!.j:)などがある.1984年8月に 『長尾和男巡務官寺集』(SA'η’Aの会)が出版さ

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れている.

6 長尾和男「懐かしの台湾日記J(1982年6月24日から同年9月30日まで f中部経

済新聞』に43回連載)、および長尾喜久男「父 ・長尾和男の思い出J(『台南高員長創校

六十迦年特干lJ』1999年3月)参照。

7 fよしとみJと読む.台湾人の改姓名である。漢名は不明である。皐道精神研究普

及会については、『伝記小説呉鳳』収録の f御挨拶」の一文の中に「誠にお恥しい

話ですが、私は昭和十年頃から始めて、われわれ本島人が一日も早く日本精神に目醒

めなければならぬことを感じ、日本精神を研究し始めました.それから昭和十二年に

台北帝国大学教授植松 安先生のご指導を得まして、皇道精神研究普及会をfillめま

して、今日迄いろいろの仕事をして来ました.即ちわれわれの生きる道をl自へ、そ

して日本人として持たねばならぬ信念を体得させる為に、いろいろの書絡を発行した

り、レコードを作ったり、又講演をして来ました。或は 『節米報国』や 『正しい国語

の用法』や礼儀作法等を普及宣伝しました.段近又 『感謝生活ーとありがたう』の運動

もやりました。Jとある。

8 小学館 r日本大百科全性』第2版(1994年)参照。近刊に『[映画続本]消水宏』

(2000年7月)がある。なお、シナリオの作者は長i綴喜伴である.

9 映画ではこの場面はその夜の出発と改編されている。

LO 長尾和男は、リヨヘン社を訪れる前目、南襖駐在所の倶楽部に宿泊し、そこでサヨ

ン遭難の頃にリヨヘン社に勤務していて、サヨン避難前後の事情に詳しい平野泰人巡

査教育担当に、いろいろな事を尋ねているが、道島巡査の自繋については、次のよう

に答えている.長尾はこの話を小説の中にI&り入れたわけである。

f道島といふ巡査は、答手をつれて、一つはこの橋を守るため、一つはこの附近の

山で木材を伐採するために来てゐました.級初一人が渡った時、(危険だ、危険だか

ら渡るな、後へかへせ !)と大声で叫んだのでしたが、風雨と、渓涜の轟音のために

サヨンにはわからなかったのでせう。ill!ぬさんはその時、サヨンの落ちたのを知る

と‘激流へ三回までも飛びこんで助けようとしました.が、流れが激しくてどうする

司王も出来ませんでした.J (長尾和男著 『サヨンの鎖』収録の「リヨヘン傑訪記J参照)

道島巡査については、「サヨンの鍛のP-Ei員会上丸木橋から激流へ変図乙女 ・サ

ヨン遭難の有綴J(1941年10月8日付け 『朝日新llfl』「台湾版J)に、次のような記

事が載っており、道島巡査の目懇は事実かと息われるが‘管見するところ、他の記事

では見かけない.

「(ラハ・モヘンさん)備を渡る前にサヨンも地下足袋をぬいだユーラサヨン、オン

ガイの順に渡ったのです。サヨンは”もつ”といった。ほかのものは道島さん(巡査)

をよんだ、私とオンガイ、ノーカンは橋を渡ったj

( 8 )

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[付記]

本稿は、{也の『サヨンの錨』関係の論考と共に.2000年9月から翌年3月まで国立成功大学台湾文学研究所に客員教授として招胸された折に、榊想を練ったものである.ここに記して、台湾政府の国家科学委員会並びに成功大学の関係各位に謹んで謝意を表したい0 (2003年2月14日)

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ト品 。

且干代

サヨン像

1941 tμ 12

村上元三『サヨンの出

昭和

13年

9月のあ

る朝からはじまる

サヨン

・ハヨン、

17

(あき子)「この子、

jj'.'!範少女よ.勉強は

よく出来るし、とて

も綴孝行なの、内地

flitだって、

ペラペラ

だし、ちっとも可笑

しくないでせう

.物

党え

も良

いの

よ.

ルガンだって弥ける

各府i『サ

ヨン

の鐙

』対照

1943年

5月

1943ip

映蘭脚本

『サヨ

ンの飽』

呉漫沙『サヨンの出

校庭に日の丸の・mt

大晦日の白からはじ

高砂族の紛作

まる

(サヨン)「ウツトフ

払可寸総を活ける夫

なん

か、

今の

世の

中愛万の手入れをする

には

もう

ゐな

い、

そ回1ヒ

巡査

れは替のことJ

「国

~l}J教育に熱心

サヨ

ンハヨン、彼女

なサヨン

はリヨへン社女子育

「赤ン坊

あっ

たよJ

年団の幹部で、健康

→「赤ン坊ゐたJ.

「武な

腿し

い乙

女で

問先

生侍

って

ゐたJ

る.

…この小部落で

→f武

田先

生飽

いて

銃後の御傘公に彼女

ゐたJ

は何時も維より皐先

子供

たちの白,1で

、餓

して立ち.社内から

鬼大将

はもっとも代表的な

(次の鎗写は映画に

愛国少女だと仰がれ

はない?)

てゐる

1943年

7月

1945 £μ

長厄自l]fJ

『サヨンの飽』

教問}

『サヨンの幽

満洲司I変

で負

傷し

た昭和

10年から昭和

!le眼!,!l手

のf易決E巨人

13年、時にサヨン

14

が笠Jj;J.事ti',\:の研究で

歳から

17歳

東京

から

来た

.銃

のご

椀ト

「近

い将

来に

日本

は.英

米を

相手

に戦

4》を

始め

る時

が来

るJ

昭和

9年から.時は

サヨン股業科2年

貌孝

行な

簸.

純情

乙サヨンハヨンは、か

女うした山奥の村にそ

だち.昭和十年、十

四で村の教育所を率

業して、女子育年団

員となりました.父

母は米子のサヨンが

教育所を

Z転業して、

もう

一人前となった

のを大変喜びました

サヨンは二人の兄を

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ト」 ト~

サヨンの

!111人

その他の

人物

わ.J

(富子)

rお裁縫

も出来るのね。J

パ立立こ(

.土'L:i

:

立ヨンの置fil.

20か

2l

総督

府鉱

務怨l嘱

託技

飾・且逝窓去(30

後) 者・自塑冨王

(22、

3) (宮子は台湾での生

活を

絞っ

てい

る.

のた

め夫

婦仲

が怒

ったが、

サヨ

ンの

以後

、山

地で仲良く

;r;;らすことになる)

:m (本島人の讐丁、

のち

駐在

所巡

査に

進) 益五量(白瀬の部下、

関西人、

40前後)

トーナイ、ノーカン.

ホヤエツ、オンプJイ

ブノ

トカン

サヨ

ンは

方々

の赤

坊を

みな

あず

かる

一赤

ン以iに

泣か

れて

悲鳴

をあ

げ武

田先

に助けてもらう

サプ

ロ:

内地

留学

ら卒業して帰ってく

る。学生JI日姿

村井部長一巡査は.

お医者織でもあるー

妥 モーナ

ナミナ

ター

ナ(

赤ん

坊の

守を

して

いる

男の

子) 高砂族児女

子供

豚賀

ナナと

枯れ

木姶

いに

たす

けて

家事

にいそ

出か

けた

サヨ

ン一

一しみ、

一方、女子

意地

慈で

紫直

な少女

年団

のた

めに

骨身を

儲t

しまず働きました

4エ之立ニ(.

:男子世f年

摘写なし

摘写なし

団の幹部

立ヨ

ンのj{f:ム、

筒が

うまい

ナナ

前原

先生

とそ

のお

姉父、病気がち

ヨシ子

織的原とし

母、昭和

10年の夏、

測f量

技師白血塗玄

オンガイ

・ノーカン、

病気となり、

ll月

主ム五王:山地での

サヨ

ン・ウイ

ラン、

初め亡くなる

生活

を嫌

い東

京に

帰ラハ

・モへン

りたがっている

父、

ハヨ

ン・マ

イパ

助手意

図良

オ:F縦

断の

阿南

ナナの弟

.百岡

山二郎

母、

ハパ

ヲ・プ

ナ・

l'i"年

団団長

・飯

山和

目尚息

の持病。昭和

10子

年11

月7日に死亡

サヨ

ンの

父ー

ハヨ

ン、

マイ

カオ

は60

に近

い老人

議議老

人(村

上元三

段位

の人物とは役割j

が大

幅に

変っ

てい

る)一一容貌態度は

見る

人をしてぷつと

吹き

出すに足る

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ト」

I¥.)

リヨへン

干上の焔写

召集

先生を見

送る時の

サヨンの

健JJt状

先生の1H

発状況

附す者、里江

台湾

台北

州綜

襖郡、

蛮地リヨへン社

~46E.の里担tn1

員l(~J

!11ll1量酉か皇室話

jjll範

2明日

6墜茎ヱ

に台北ヘム墜

言及なし

サヨン荷物運びを自

分から名乗り出る

召集の連絡が入った

その日の午後出発

パツ

サイ

.荷

物を

いで出発する。サヨ

ン述も絞〈

日の丸の旗I:::最敬礼

する

子供

達と

高砂

i選 山の

焔へ、高砂鉄の

却付宇

男も

女も

.み

んな

足 女が機を織ってゐる

電話

で召

集令

が応い

た知

らせ

がく

る。

朝出発

陸軍

予備

歩兵

少尉

田正樹

サヨン、熱がある

お{半を自分から中し

出る

務社

の朝

.嵐

はBr-Iれ

て一一

(村井)「君、暴風雨

の彼容は思ったより

酷い

んだ、橋

とい

~田

~!2:rの

教育

所の

全部

の児

童臨海道路に治うた南

主塑荏音盤リヨへン

40名

耳障から、およそ三十

社!サ

ヨン

の鍛lが

贈ら

五キロの山奥

にリ

れて

から

一一

リヨ

へへンといふ戸数五十

ン社は「近く錨岡村

ばかりの村がありま

と改称されることに

なってゐるJ

回1り

隼査が、m

王所

昭和

13年

9月

24

九月二十四目

、教育

で男女狩年聞に図

~tl

目、

回北

先生

の所

へ所の先生にも

、先生

を教えている時、

ll1l赤

紙が

来ま

した

.召

が心待ちにしてゐた

役所から召集室主ns

集の

大命

が下

った

の召集令カf下りました

せる笠話がム~-

であります

明日台北にム隆

言及なし。但し

、サ

言及なし

言及なし

ヨンは出発前夜、変

サヨンが下山するこ

サヨン、先生の荷物

な予感がして不安を

とを

志願

した

とい

ふ運僚をまっさきに申

:R:え、パツサイの下

ことが狭い社内に

ぱし出る

:?'1を

徹夜で縫う

っと拡がりました

パツサイと貧

a閤良が

国北

先生

は朝

七時

頃先生は、二十七日に

回北巡査の荷物を持

に教育所の生徒一同

出発

して、その日に

つに

挨修

して

から

出か

南ill!へ下られること

サヨン、荷物を二つ

けられる事になりま

になりました.人々

背中

と胸に持ち‘さ

したので、サヨン遼

が手仰って荷物の

tjll

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トa

』J

先生は、そのあと出

発機は殆んど流されて

らに国北巡査の日本

しまったし、出Iv!

れ万をだくように待つ

も相当なんだ、とて

一同‘→世に出発

も今日中には通れさ

うも

ない

、ど

うす

る?

J (武田)「倹は

行きますJ

(村jj:?)

「しかし、今日発た

なきゃ入隊日に!日lに

合ひません‘倹は行

きます、たとへ泳い

で洞

を渡

って

も…

日J

(サプロ)

「ぢ

や、先生

、僕たち

‘これから出来るだけ

修理をします、どう

しでも橋のか与らな

い処は先生を背負

てでもお渡しします

…・・固さ

、みんなJ

子供

達が

.7§.

様々々々々と叫んで

ゐる

.武田先生は高

歳の声に送られて征

荷物運びの者は一足

。簡はすっかりできま

先に六時頃出発しま

した.ところがj斤も

した.

一一プタ一社

折、二十六日の夕刻l

に9時頃若く.

から~もやうが急に

行少女

6名、少年

l縫って来て‘山は烈

名(注)

しいあらしとなって

回北先生は、

7日寺頃

しまひました.

出発

明くれば二十七日、

プタ一社で学芸会を

あれほど烈しかった

見て.雨もひどくな

昨夜のあらしはおだ

ったのでその晩一泊

やかになり、空もち

する

やうど勇士の門出を

回~t先生は、ブター

祝ふゃ

うでした.選

で一夜を過ごし、

8ばれたサヨン外、め

E寺頃出発、センダン

いめい先生の荷物を

まで下る途中でi堕幾

背負ひ、手に手に勇

を知らせる飛脚に出

ましく日の丸の綴を

会う

かざしながら、先生

より一足先に下山の

途につきました

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ト」 ,i,.

サヨン遭

簸の品1写

時局の反

サヨン、

l主からiE

る パツサイがサヨ

ンを

飽い

てくる

。下

の岩

で身

体を

打ち

碩か

血を智正している.

息盆z!.

る泊に

l;It

~ヒが

!P.!fi

llに鐙2王

いく

日傘m

にサこfン

~し、旺盛パ立立こ

Iのl;.

巨主に{笠

2な

シ主

立1主

主i1Jf.」3:,忠!f.3.

る サヨ

ンら

「翠

図fii佐

血L

の踊りの練習

「台湾軍の歌J

(パッサイ)「私たち

兵隊

になれません.

先生

私た

ちの

代りし

て来て下さい.J

(北図)「うん、

うん.今

にこ

の台

湾に

も、

願兵市IJl.lが

布か

れる

よ。

そし

たら

君た

も立

派な

日本

人の

隊さ

んに

なれ

るん

だ.J

(パツサイ)「私

たち

.早

〈兵

隊に

若者

述内f

丸木

橋を

カオt橋

で手喜ち激流に

かけ

て』

.武

田先

呑ま

れmf.

されるこ二

生の、

一行が来ると、

パ立立::(

S助fti"/2ぜ

若者

迷、

水に

浸っ

てlliffil茎

主連/0:_三

丸木

を支

へて

ゐる.

丞二二日本万だけひ

サヨ

ンは

、途

中で

目しと手

に握られてい

まひを

感じ

て足

が崩

る、パヱ芝こIの

王れ

る、

その

はづ

みで近、固墜に呈~

丸木

が帰

れて

流れ

かる。

「あ::,

! J

激務:はサヨンを呑ん

でし

まった.

サヨ

ンが

売られてい

正月

冗旦

:国JJlHU

く豚を見送って行く

織‘

宮減

遥拝

、問1じ

ときに

「軍歌J

を歌

巡査の訓話一一

つ.昭

和13

年の元旦

歓迎

会の

夜の

、サヨ

日支iii変の其品中、

ンと

サブ

ロの

会話

一銃

後の

勤め

.r日

一(サプロ)「僕だっ

に生れた幸福さを忘

て、

いつ

義勇

隊の

おれ

ずに

、心

と心を合

召し

があ

るか

分ら

なせ

て一生懸

命に

なっ

いか

ら.

帰っ

て来

たて働いて下さい

j

んだ

!お

召し

があ

る男女背年団による演

まで働

くぞJ

1.1t1Jιミ開一一皐民イりtl¥11

第1

回殺虫隊への召

サヨ

ンは苦

学生j.'.{災

集が

下る

一一

モー

ナ子

に扮

し、原

山和

ほか2名

は女教師の役

ユー

ラオ

・トー

ルが

一行は列しいあらし

先ず

波る

.次

はサ

ヨに

なや

まさ

れな

ンの

番一

一激

流に

呑ら、午

後三

時過

ぎ、

まれ

る一一

時は

、昭

ゃうやく南

波の

織へ

和13

年9月

27

日の

下りてきました

夕刻。

(丸木摘)

この織さ

丸木

橋はm1も

なく

涜へ渡れば‘あとは南

失し、六人の乙女は、

襖までわづか三キロ

上涜

にー

恩半

も遠

回ほどで、しかも道は

りして南i輿

へ下る

l賢く

て平です

濁流~く巻き込まれ

てしまう

「さ

あ、

先生の

質問

サヨ

ンは

二人

の兄を

に答

へな

さい

。満

州た

すけ

て家

事に

いそ

事変が起り、事変後、

しみ.一方

、女

子狩

満州図が怨!立し

まし

年団

のた

めに骨身

たね

.あ

れは

例年

でしまず働き

ました.

したか.J

ことに

‘支那事変が

「よ

ろし

い.

一昨

々起ってから

は、銃

年で

した

ね.

其れ

かの

傘公

に献

身的に

らこち

らへ

jfil絢

jfilの

げみました.

状勢は変って来た.

上海

落ち

、南

京蕗

支那

との

争ひ

は日

ーち、あけて昭和

十三

日と大

きく

なっ

て来

年も戦勝の喜びのう

たし

、相

手は

支那

だちに、早くも夏とな

けで

なく

て世

界全

体りました。村はちゃ

に及

ぶか

も知

れな

いうどその頃、支

那の

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トa

U可

りたいです.毎日、

旦耳目

に教へて貰った

軍隊教練.これから

も怠

けず

に続

けま

す。志願兵制度が布

かれたら

.私たち、

きっと立派な兵隊に

なります.J

(策>

r~ヒ

回さん。私たち本島

人も.

パツサイに負

けません.私たち

本島人だって.もう昔

の福建悠や広東族で

はありません.立派

な日本人です.J

朗読で海軍大将長谷

川清台湾総督から贈

られた「サヨンの鐙J

の由来

について説明

される.

(朗読)

「(目自)

わた

くしたちは、サヨン、

ハヨンの死の中に、

烈と々

脈打つ日本女

性の血の高鳴りを、

聞く

こと

が出

来ま

す。もはや、サヨン

は蕃社の

ー少女では

(村井)『今日ここに

吾々

が待

ちに

待つ

た、毅勇隊にお召し

がありました、

吾々

は今

日あるをどんな

に待ってゐたことか

しれない、高砂族の

武勇を遺憾なく発烈

する時は来たのであ

る、この光栄を強く

キモに命じて、お国

のため

に生命を投

出さなければ、

なら

ない、今更自分がこ

こで説明するまでも

なく、路君には日頃

から、その覚悟があ

った答である、では

お召しになった者を

-××

!」

学校から

「海行かばJ

の献が統れてきて、

サヨンそれにあわせ

て歌う.

パツサイは大学生神

回正雄に扮する.ニ

人は天長節の自に結

賊する

I旬産報告

演flJ

大会

のあ

くる

夜、サ

ヨンとパツサ

イが「霊園丘進i盤|

を歌っている

(パツサイ)「サヨ

ンさ

ん、

あり

がと

う.よく

言ってくれ

た、僕も男だ、

図を

愛する真心は決

して

他人にはおとらない

積りです、私の為に

報図の続紳を忘れや

しません、明日先生

に頼んで寧夫志願の

手続

をし

て頂

きま

す.若

し帰還

した時

に僕逮は結婚しませ

うJ

(サヨン)「それ

でこそ男であり、私

の理想の夫でもあり

ますわJ

(サヨンの夢)

野戦病院で働く宥綾

やうになって来た.

山野で行はれてゐる

我々

高砂

族も

天皇

武漢攻略の戦況にわ

陛下の御召しに応じ

きかへって、青年た

て戦地へ出て兵隊さ

ちは、できれば自分

んたちと一緒に命を

たちも戦場へ出たい

投げ出して働かなけ

と勇み立ちました

ればばならない時が

(サヨン)

いつやってくるかも

「御感になった先生

知れない.若しさう

が、陛下のお召しを

いふ時が来たら君た

受けて、名誉の応召

ちはどうするか?

Jを

され

るの

です

かーー・・・ー

ら、ぜひ見送らせて

「はい.その時には、

ください.J

「ぜひ、

はい

、其の時には、

お願ひします.この

一容に志願して、兵

くらゐのあらしは、

隊さんたちと一緒に

戦地で働いていらっ

戦地で働いて功を建

しゃる兵隊さんのこ

てます.J

とを恩へば、何で

も「ょうし.さうぢや.

あり

ませ

ん.

それ

ウイランの答はよろ

に.先生は、もう私

しい.そんな時が来

たちの先生ではあり

たら

、第一審に志願

ません.日

本の兵隊

して、天皇陛下の御

さんです.私にも、

為に命をさし上げる

兵隊さんの荷物をー背

のだな.J

負は

せて

くだ

さ突理

Eの波留

い.J

「愛国婦人欧J

サヨンの夢:肴鑓婦

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ト」 c、

ありません.雄々し

く、健気な、大和嫌

子のひと

りとして、

立派にその死を飾つ

たのです,

J

婦 軍服姿のパツサイに

会う、悶北先生も

こに来ている

一一サヨンとパツサ

イの会結

(サヨ

ン)「どうし

て?私も日本の女性

ですわ、何んで砲声

位にJi

きま

せう

(パツサイ)「

む、そうだ、

日本

だ.高砂族でも立派

な日本人だと先生も

諸中仰言ってゐた

j

サヨ

ン、パツサイの

ために作っていた千

人針を回北巡査に送

として大陸の戦地へ

渡った夢。

「愛国婦人歌

jをう

たい、段後に「海ゆ

かば

jをう

たう

国北先

生の

時局

に|鎚

する研究授業(昭和

13 l手の春の或る夜学

の晩の事.一昨年教

育所を事業したサヨ

ンも書草加

.r何

故に今

度の

日支

事変

が進

してきたかJの講義)

「東j!liの情勢は大体

こんなふうに進んで

来ている

.我

々高砂

族は立派な

日本

国民

であ

り畏

れ多く

も.

上天

皇陛

下の

御民である.

我々の

体は

我々

の所有

であ

るけれども、実は我々

の自

由にすべ

きもの

では

ない

。皆

一人残

らず

天皇

陛下

の御

前に俸げ奉った身体

であるのだ.

…一

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ト」 斗

結末

その他の

特色

粟祭りの日.白瀬夫

委登場.白瀬が、南

湖大山に受山に来た

旅行者に「サヨンの

鎚Jの説明をしてい

る 主主圭:a!,

:!i:ヨンの

鐙つなシ主之丞fill:.

パヱ芝こIAニ登51

し、

i基じ~工島た「

:!i:ヨ

ンの盤

Iε店主主一

「サヨンの

il!);J

コーラスが涜れる

.回

~t先生は、既婚

者として股定されて

いる

蕃社を望む間一一

樹の枝に、サヨンの

鎗が、吊り下がって

ゐる

鋭の音は、鳴り響く

山の前lに

は、アヒル

が怖かに泳いでゐる

・サプロが帰ってき

た歓迎の織り一一

l時の理務政策からみ

3年結晶

パツサイ登場

田北夫人.

一度内地

に帰り再度台湾を紡

れたとき、

Iサヨン

の錨に詣でる

パ‘ど立こ1、い茎主立

ヨヒが盗ぜ立王n~

盆I,2.笠主エζ室

l立

ヨンの鐘!の王主箪

ゑ広三

国兆三~A、鐙室つ三

「鎚の余音は弱々し

いが

まだ

続い

てゐ

た.否もはやそれは

鑓の声ではない、今

は亡きサヨンの人身

を報国へ導く魂の呼

ぴ声である

.J

.作者の日本理解の

絞り一一

(大阪日の日のリヨ

冒頭に出た旅の{箔1,li

話は、サヨンが激涜

軍人が.サヨンの墓

に落ちて行方不明に

に詣で野の花を手向

なってしまうところ

ける一人の背年とし

までで終わり、その

て再登場する

あと

、サヨンの鎖の

歌一首「サヨンの霊

由来カ<mかれて終わ

に鯵ぐ

Jがサヨンの

っている.

墓前に残される

.墓

「今、

リヨへン教育

参に来た乙女たちが

所の店主には、赤い笑

読む

しい花の咲くザフラ

「夕べの祈願」を知

ンモ

ドキ

に園

まれ

らせる錨ー

リヨへン

て、サヨンの碑と鎖

の峰に谷!日iに

木霊し

機が並んで立ってゐ

てゆくのでありまし

ます.錨には、

「愛

た国乙女サヨンの鑑J

と銘が

~1まれてゐま

す.この鎚は‘長谷

川総督が、サヨンの

T略行をほめて贈られ

たものです.

錨は滑らかなうる

はしい音をgg高くひ

びかせて鳴ります.

愛国乙女サヨンハヨ

ンをたたえて

.J

・本額面は、サヨンが

・サヨンが先生の荷

遭難してから教育所

物を運ぶことことを

の庭に錨4査

が安信さ

志願した動機は、l時

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ト」 αコ

.白瀬夫妻の設定

.サヨ

ンはm

から落

ちる。激流に涜され

て行方不明になって

いない

ると、矛盾した錨写

にな

っている

.こう

した伝統的な締りは

禁止している.

.当時、務mi

を活用

することはJ蕃語の

使用とともに禁止さ

れていた

.時代紋定を第

l回

義勇隊の召集期とし

ており、事実から飯

も遣い物穏にな

って

いる

ンと回北夫人の会話

の場面)

「今頃、東京はもっ

笥が降ってゐませう

ねJ 「ええ、それは台湾

と巡って、冬の怒さ

は厳しいからね、今

頃は丁度綴の咲きか

けた頃ですすコJ

.お父さんは、保甲

会穏で保正さんのと

ころへ一一山地には

保甲

府l度

はな

かっ

た?

れるまでの嫡写が詳

局に合わせて粉飾さ

しく錨かれている

れたいるが、スト

-皇軍慰

IMJ学

芸会で

リは史実

に則した展

ラハ・モへンが歌っ

Dijとなっている

た「サヨン乙女をお

.サヨンが先生の荷

億ふJ

物運織を申し出た場

-長谷川総僚が贈っ

簡の摘写は、他の作

た表彰状の文

品に比べて詳しく、

.虚精の人物、前原

特に昆点が白かれて

先生とその姉としの

いる

設定によ

ってサ

ヨン

の親孝行像、純情乙

女像を描く